大根の葉

壺井栄





 健のお母さんは、今夜また赤ん坊の克子をつれて神戸の病院へ行くことになっている。健はどうにかしてお母さんについて神戸へ行きたいと思うのだったが、お母さんはどうしても、よい返事をしてくれない。部屋いっぱいに並べられた着類きるいや、手まわりのものなどを大きな柳行李やなぎごうりに入れたり、またそれを取り出してつめかえたりしているお母さんのそばにつっ立って、健はふくれかえっていた。いつだって、どこへ行くときだって、お母さんは克子をおんぶして、健の手を引いて出かけた。お祭りに行ったときも、学校の運動会のときも、いっしょにつれて行ってくれた。それなのに神戸へはどうしてもつれて行ってくれない。この前のときにも、そしてまた、こんども克子だけをつれて行って、健は隣り村のおばあさんの家で留守番をしておれというのだ。健は不平でならなかった。自分はまだ一ぺんも汽船に乗ったことがないのに、克ちゃんは赤ん坊のくせに、もうこれで二へんも乗るのだ。健はどうしても汽船に乗ってお母さんに手をひかれて神戸へ行きたかった。
「なあ健、お土産買うてきてやるせに、おもちゃや、バナナや、な。かしこいせに健、おばあさんで待っちょれよ、え。」
 お母さんは何べんめかの言葉をくりかえし、荷づくりの手をやめて健の顔を見つめた。
「ええい。健も神戸行くんじゃい。」
 健も何べんめかの口ごたえをした。こんりんざい、おばあさんへは行くまいとするかのように、肩をゆすって一歩すさった。
「ふむ、ほんな、健はもう馬鹿になってもえいなあ。」
 お母さんは向きなおって、健に膝をよせた。
「ん、馬鹿になってもえい。」
「そうか、ほんな健は馬鹿じゃ、いん半べのような馬鹿になる。それでも、えいなあ。」
「ん、えい。」
 健はつねづね馬鹿になるのが、ひじょうにいやだった。半べという馬鹿の大男がのっしのっし終日いちにち、村中をほっつきまわっているのが世の中で一ばん恐ろしかった。半べのようにならないためにでも、健はお母さんのいうことをきき、お使いをしたり、いたずらをやめたりした。だが、今日はちがう。お母さんといっしょに神戸へ行けるなら、あとで半べになってもいいと思った。お母さんは、きまじめな顔をしている健を見、そして笑いだした。
「健、そんなに神戸い行きたいか。」
「ん、行きたい。健、行きたい行きたいんで。船にのってな。」
 健はじぶくれた顔をゆるめ、お母さんを見て笑った。
「困ったなあ、健は馬鹿になってもえいというし。」
 お母さんは、またもとへ向いて荷づくりをはじめた。健は目をぱちぱちしながら、いそがしく動くお母さんの手もとを見ていた。だが、やっぱり行李の中へは克ちゃんの洋服と着物と、それからお母さんの着物や羽織や、新しい毛糸の束などを、たくさんつめこんでふたをしてしまった。そして、健の着がえの洋服やエプロンは別の風呂敷に包んだ。それを見ると、健はまたもとのすねた顔にもどり、くるりと背をむけて、うつむいてしまった。お母さんは白いエプロンの袖をまくりあげて、できた荷物を部屋の隅に押しよせ、サッ、サッと荒々しくほうきをつかった。
「おっ、大けなゴミがあるな、ここに。あら、このゴミ足があるがい、おもしろい、おりゃ、洋服着とる……。なんじゃ、ゴミか思たら健か。」
 お母さんは健の前にまわり、目を足からだんだん上の方へ移していった。健は、いつものように笑って逃げだそうとはせず、また、くるりと背をむけた。そこだけよけて掃いてしまうと、お母さんは隣りの部屋に寝かせている克子のそばへ行って着物を着せかえ、こんどは健のそばへ来てだまって洋服をぬがせ、でくのぼうのようにしている健をなれた手つきで手っとり早くパンツまでとりかえた。健の好きなラクダ色の毛糸の洋服であった。タオルに薬罐やかんの湯をそそぎ、健の頭を手荒く、ひっ抱えて顔をふいた。そして、自分も縞メリンスのちょいちょい着に着かえて、よそいきの紫矢絣やがすりぶい半纏ばんてんで克子を背負い、どんどん戸締りをした。健は、けっきょく追い出されるように、仕方なく縁側に出た。靴がちゃんとそろえてある。東京にいるお父さんから送ってきたお正月の革靴である。それでも健の気持はほぐれない。
「さ、早よ靴はいて。」
 お母さんはしゃがんで片っ方の靴を持ってまっている。健はやっぱし黙って縁の上につっ立って、だらりと両手をたれ、ぽかんとしたような、不貞ふてくされたような、それでいて今にも泣きだしそうな、複雑な表情であった。お母さんは困った顔をして靴をまたそこへ置き、縁側に腰をおろした。そして、腰かけたままのところから、ひとりでに目にはいってくる観音山の方を見るともなく眺めた。観音の山からは、ごーん、うおんうおん――と、たえまなく鐘の音がひびいてきた。雑木林の山肌のところどころが彼岸桜にいろどられて、そこだけ一足さきに春が来たように鮮やかな薄紅色に浮きだしている。山の中腹から人家のある山裾まで段々畑がつづいて、その青い麦畑や、みかん畑をぬって曲りくねった遍路道に、山からおりてくる巡礼の白い姿が見えかくれ、御詠歌が手にとるように聞こえた。
 やがてお母さんは健のそばによって来て、その顔をのぞきこんだ。
「健、お正月が来て何になったんぞいな。」
 やさしい声である。もうおばあさん家へ行くのをやめたような顔に見えた。健は思わず引き入れられた。
「五つ。」
「克ちゃんは何になったんぞいな。」
「二つ。」
「健と克ちゃんと、どっちが大けい。」
「けん。」
「ほんな、健と克ちゃんとどっちがかしこい。」
「けん!」
 健は得意になった。大きい鼻がひろがって、頬をゆるめて笑うと頬っぺたの垂れさがった、丸い顔が大きくなった。お母さんは、なおもにこにこして顔をさしよせ、健の肩を両手ではさんだ。
「健と克ちゃんと、どっちがお母さんのいうこと聞くぞいなあ。」
「けん!」
「よし! そんなら健はおばあさん家、行くなあ。」
 お母さんは理づめでせめてきた。思わず不覚をとった健は、あわてて地だんだをふみ、
「ええい、ええい、健、神戸行くんじゃい。おばあさん家やこい行かんわい、行かんわい、克ちゃん行けくされ、健、行かんわい。」
 縁側をどんどん踏みならした。お母さんは急にこわい顔になり、健の肩から手をはなした。立ちあがって、くるりと向こうをむいた。
「ほんな、健ひとりでおり。なあ克ちゃん、おばあさん家行て、太郎さんや秀子ちゃんと遊ぼ、なあ克ちゃん。」
 お母さんは背の克子に首をねじむけて話しかけながら歩きだしたが、ちょっと引っ返してきて健の着類のはいった風呂敷包みを抱えた。
「そんなら健ちゃんさよなら。――克ちゃんほん好き。健ちゃん馬鹿なあ。」
 お母さんは丸い背中を見せて、こんどはふりかえりもせずに歩いていった。飛石を敷いたところを通りすぎ、隣りの家の鶏小屋の前を通りすぎた。右に曲って、とうとうそのうしろ姿が見えなくなった。
「お母さあん! お母さんが行てしもたあ!」
 健は力いっぱいの大声で泣きだし、縁からころげ落ちそうにしてすべりおり、はだしでかけだした。ふと見ると鶏小屋のそばからお母さんの顔がのぞいている。笑いながらお出でお出でをしている。健は立ちどまり、泣くのをやめて、くるりとむこうを向いた。うつむいて親指をかんでいる、ああ、ああ、といいながら、お母さんの下駄の音が近づいてきた。こんどこそあきらめたような顔をしてお母さんは戻ってきた。克子を背からおろしておしっこをさせ、縁側に腰かけておっぱいを出した。克子は手さぐりで乳房を押さえ、そこへ顔をこすりつけていった。眉間の肉がもりあがるほど眉をしかめ、目を伏せたまま、ごっくりごっくりのどを鳴らして飲んでいる。
「克ちゃん、目々あけて見いの。え、目々あけてくれ。」
 もののわかる子にいうようにいって、お母さんは近々と克子に顔を寄せていった。
 もう誕生がこようというのに、克子はおもちゃを見せても素知らぬ顔だし、指をちらちらさせながら目のそばへ近づけていっても目ばたきもしない。そのくせ目玉はひっきりなしにくるくると動かしている。よく見ると瞳孔が魚の目のように、ぎらりと白く光る。それでいて明かるいところではいつでも眉をひそめ、目をつぶったままうなだれこんで顔も上げなかった。同じころに生まれあわせたよその赤ん坊たちがみな愛嬌よく育ち、だんだん知恵づいてくるのに、克子は、いつまでたっても笑わない、きまじめな顔をしていた。赤いガラガラを見せても手は出さず、握らせてふって見せると、その音を聞いて、はじめて笑う。視点の定まらぬ瞳をくるくる動かしながら、力まかせにガラガラをふりまくっては、にこにこした。だが、何かのはずみでそれをとり落しても、ふたたび握らされるまで手を出そうとはしない。とり落したガラガラがまた手に帰ることなどは念頭にないのだ。泣きもせず、しずかな表情でただ、眼球を動かしてだけいた。物を見て喜ぶことも、騒ぐことも、何か欲しくて泣いて訴えることも知らない。まるまるとふとって風邪かぜひとつ引かない体でありながら、克子の感情の世界はただ食欲にともなうものよりほか、その成長をはばまれているようであった。それさえもお乳のほかはすべて受け身であった。あてがわれて唇にふれてきてはじめて口を開いた。おとなしい子だと村の人たちにほめられるたびに、お母さんはひとり、つらい思いをした。克子は母親の顔を覚えず、声を聞いて喜んだり、泣いたりするようになった。ちょうど二、三か月前、正月休みにあちこちの目医者をまわって診てもらった。四、五年待ったうえで、とみないいあわしでもしたようにさじを投げた見立てであったが、ただひとり神戸の医者が、見えないけれども光りと闇を知っているという診断をくだした。くるくる眼球を動かしているのは、どうにかしてものを見ようとする視神経のけんめいな努力の現われ方だと説明され、だから視神経のそのけんめいな活動が中止しないうちに、一日も早く手術をするようにといわれた。
「一生けんめいにものを見ようとしているのに、それをほっておくと、視神経は、もうあきらめてしまって、見ようとする努力をしなくなるのです。」
 そう聞いて、お母さんは声をあげて泣いた。うれしかったのであった。しかし、その場で手術がうけられるほど裕福でないお母さんは、一たんは思いあきらめて帰らねばならなかった。ちょうど寒いさかりで、毛糸編物屋のお母さんには仕事がたくさんつかえているし、それをほっぽり出すわけにはいかない。健たちのお父さんがずっと長いあいだ思わしい仕事がなくて、そのためお母さんは母子三人の暮しを自分で働いて立てていかねばならなかった。四、五年前、器用からはじめた毛糸編物の内職が、時をえて今では本職になり、かたわら小さい毛糸屋をかねて、お母さんの商売はちょうど忙しいさかりであった。昼も夜も編棒を動かしていた。お父さんは、ときどき帰ったがすぐまたいなくなって、健たちはいつも三人暮しである。そんな暮しの中でどうして手術を受けたり、三週間も入院したりすることができよう。しかし、どうしてもしなければならない。お母さんは、視神経の努力という言葉が忘れられず、毎日手をむしるような思いで春を待ったのであった。病名が先天性白内障、いわゆるそこひと聞いてお父さんの家の人たちはみな、もう克子は一生めくらだと思いあきらめていたが、お母さんだけは望みをすてなかった。たとえ少しでも見えるようにしてやりたいとねがった。そして、とうとう今日はその神戸の病院へ行く日なのであった。
「克ちゃんよ、どうしてそない目々あけんのぞいの。」
 お母さんは克子の顔ばかり見ている。
「克ちゃん、目々あけて見いの。え、目々あけて見せてくれ。」
 健はそろりそろりとお母さんに近づいていった。お母さんの膝にそっと両手をふれてその顔を見あげた。いつものようにお乳をさすることができない。克子はお母さんの右腕にもたれるようにして、乳を吸うたびに白いあごを動かしている。健はゴクリとつばをのんだ。お母さんはやっぱり健には目もくれず、じっと克子の顔ばかり見ている。
 目白が、チ、チ、と鳴きながら、つぼみの赤らんだあんずの枝を渡り歩いている。とつぜん、お母さんは克子を乳房からはなし、抱きかえて日向の方へその顔をさしむけた。克子はおどろいて眉をしかめ、まぶしそうにうなだれこんで、上体をねじまげながらお母さんの胸にしがみついていった。
 ――ほんまに光りは感じとるがなあ――
 つぶやきながら克子の頭を胸から離すようにして二、三歩あるきだした。そして敷石の上に立ち、かげのない午後の陽ざしにむけて、もう一度克子の顔をさらした。克子は一生けんめいの力でお母さんにしがみつき、その胸の中へ顔を押しつけていった。
「おうよし、よし、わかる、わかる。かわいそうになあ、こらえてくれよ克ちゃん、いんま見えるようにならんかいなあ。」
 縁側にもどると、やっと安心したように克子はしがみついていた手の力をゆるめ、心もちお母さんの胸から顔を離した。目の悪いせいなのか肉のやせたまぶたをして、くまどったように黒く長いまつ毛を伏せ、全神経を額に集めたかのように、しかめた眉の上にくぼまりをつくり、あごを胸につけて、じっとうなだれている。
 ――めくらの相をしとるな――
 お母さんは大きいため息をつき、また乳をふくませたが、克子はすぐにぷっつりと離した。うつむいて眉にしわをよせたまま両手で乳房を押さえた。満足したときの克子のしぐさの一つであった。お母さんは、はだかった胸をかき合わせ、負ぶい半纏にくるんで縁の片隅に寝かせた。身動きもせず、寝かされるまま寝ころんでいる克子を、上からおっかぶさるような恰好で見つめていたが、やっと腰をのばして健の方をむいた。そして、さっきからおとなしい健をうしろ向けに抱きあげて膝にのせながら縁に腰をおろした。健はほっとして、うしろのお母さんをふり向こうとしたが、お母さんの手は健の頭を押さえてむりやりに観音山の方へ向けたまま動かせなかった。
「健、じっとしとりよ、ほら、見えるか?」
「見えん。」
 健は両方のまぶたをつままれていた。
「健ちゃん、それ、キャラメルあげよ、さあここにあるで。」
 お母さんはよそいきのような声を出した。健は両手をさしのべて、えへらえへら笑った。
「それ、健ちゃん、キャラメルで。キャラメルいらんのか。」
「いる。――キャマレル、早よおくれいの。」
「さあ、キャラメル、早よ取りいの。」
 健はもどかしがって、お母さんの手をかなぐり捨てた。キャラメルはどこにも見えない。お母さんの手にも、ふところにもない。健はお母さんの袖の中へ手を入れたり、うしろをのぞいたりした。どこにもない。
キャマレルは、キャマレルはないが。」
 どこかにかくしてでもいるのか、それとも嘘をついているのか、さぐるように目を見はった。お母さんは笑いながら手提袋を引きよせ、こんどはほんとうにキャラメルを取りだして見せた。
「これ、キャラメル、これ健に上げるんで、なあ。これ健のキャラメル、ほら、ここへ置くせに健ひとりで取るんで。」
 キャラメルは縁の板の上にコトンと音を立てて置かれた。健がにこにこしながら手をのばそうとすると、お母さんはすばやくそれをさえぎって、また目かくしをした。今度は手のひらで押さえた。
「さあ、健ちゃん、キャラメル取り、ひとりで取り。ひとりで取ったらみな健ので。」
 健は、お母さんがいつになくふざけているのだと思ってきゃっきゃっと笑った。膝をすべりおり、両手を前に出して、目かくしのまま動くと、お母さんも腰をかがめてついて動く。めくら鬼のように右によったり左によったり、健は笑いながら手の届くかぎりさぐりまわしたが、左の方には克ちゃんの着物が手にさわるだけで、キャラメルはどこへ行ったかどうしてもわからない。
「手々はなして、よう、お母さんの手々はなしていの。」
 お母さんの手はへばりついてなかなか離れない。健はやっきになって、それをもぎ取ろうとした。歯を食いしばって、うんうん言いながら指を一本ずつ離そうと試みた。一本離れるとまた一本が蓋をする。健はいまにも泣き出しそうになった。もうちょっとで泣き声がもれそうになった。肩で息をした。ふと、お母さんの指がだんだんひろがってきた。息をつめると、見える、見える、指と指とのあいだからキャラメルが見える。縁の真中に赤い箱がポツンと見える。あんなところだ。急いで近づこうとすると、またもお母さんは指をとじ、前よりかたく蓋をしてしまった。手のひらでこめかみをきつく押さえられて痛い。こんどは指も離れない。泣き声を出して、やっとお母さんの手は離れた。あまり強く押しつけられて健はちょっとのあいだ、なにも見えなかった。目をパチパチやったり、こすったりしているとだんだん見えてきた。お母さんがのぞきこんで笑っている。お母さんはキャラメルを健の手に握らせ、こんどは、こっち向けで抱きあげた。そして、じっと健の目を見ている。健も笑いながらお母さんの目を見あげた。しばらく二人は笑っていた。やがてお母さんは健を強く抱きしめた。
「健、かしこいせにな、ほんまに健はかしこいせにな、お母さんのいうことよう聞けよ。な、健はいま目々が見えなんだなあ。お母さんが目かくししたせに。目かくしせいでも見えなんだら、健どうする。」
「ほんなん、好かん。」
 健は目をはげしくまたたいて、しみじみとしたようにお母さんの顔を見あげていた。
「健、キャラメルあげる、いうても見えんの、ほら健よ、おもちゃあげる、いうても見えんの。どんなおもちゃかわからんの。健よ、ごはん食べんか、いうてもお茶碗見えんの。たあちゃんみっちゃんが、健ちゃん遊ばんかあ、いうて遊びにきても顔が見えんの。あの山も見えんの。」
 お母さんは観音の山をさした。健もそれにつれてふりかえった。山の頂き近く、白い雲がゆっくりと流れていた。
「――それから、ほら、棧橋汽船が来ても見に行けんので。大な大な軍艦がいつかしらん来たなあ、ほら、沖で晩に電気いっぱいつけて、仰山ぎょうさん仰山、ならんどったなあ、あんなんが来ても健は見えんの。――健が道歩きよって、おとろしい恐ろしい、角の生えたこって牛が駆けつけてきても健は目々が見えんせに角で突かれる。血が出るぞ。恐ろしいなあ。健がめくらじゃったらどうする。健めくらいか、悪いか?」
「悪い! 牛が突いたら痛いなあ!」
 健は右の人さし指で自分のおでこを突き、まるで牛に突かれたように痛い顔をした。お母さんもいっしょに痛い顔をした。そして、
「痛いとも、牛に突かれたら痛いど!――ほんな健はめくら好きか、好かんか。」
「好かん!」
 眉をよせ、顔をしかめて、きっぱりと答えた。
「好かんなあ、めくらかわいそうなあ。」
 お母さんは健にうなずきながら、袂からハンカチを取りだして、かわるがわる目を押さえた。
「なあ健、健は目々が見えてよかったなあ。克ちゃんは目々が見えんので、お母さんの顔も、健のも見えんの。克ちゃん、かわいそうなあ。」
「ん、ほんな克ちゃん牛に突かれるん?」
「そう、ほじゃせに神戸行くん、神戸のお医者さんが痛い痛い目薬さしたら目々が見えるようになるんで、健は目々が見えるせに目薬さしに行かいでもえいん。克ちゃんは早よて目薬さして来にゃかわいそう、なあ。」
 お母さんはまた目を押さえ、そしてむせぶような咳をし、鼻をかんだ。その常ならぬ顔を、健はうたてそうに眺めた。
「お母さん、健、ほんなおばあさんで待っちょろか。――おばあさんの太郎さんと、秀子ちゃんと遊んで待っちょろか。――浜で遊んで待っちょろか、よう。」
「…………」
「お母さん、健泣かんと待っちょる。ようお母さん、またこんど、健がめくらになったら神戸行くんのう。ほじゃせに健おばあさん家で待っちょろ。――克ちゃんにキャマレルやろうや。」
 健は顔からハンケチをはなさないお母さんの膝をそっとすべりおり、寝かされて泣きもせず、いつのまにか眠っている克子に近々と顔をよせて行った。
「克ちゃんよ、兄やんがキャマレルやるぞ。二つやるぞ、ほら、ほら、紙とってやろうか、克ちゃんかしこいなあ。」


 南をうけた小さい入江にそって、村道が海と陸とのへだてとなって東西へのび、段々畑の連なった広い丘を背負って四、五十軒の家が海にむかって並んでいる。健のおばあさん家はこの村の真中どころにあり、切手やはがきなどを売っていた。門のそばの板壁には赤い四角な郵便箱がかかっている。毎日お昼すぎごろになると郵便屋がその箱をあけにきた。健がおばあさんの家へ来てから、もうかれこれひと月になる。健はときどきお母さんの手紙を持ってきてくれる郵便屋さんが大好きで、今日もその姿を見ると、一人で縁に寝ころんで絵本を見ていたのが急に起きあがって、かけだして行った。郵便屋さんは大きな鍵をガチャガチャさせて箱の横腹をあけた。口がちょうど健の目の上の高さなので、背のびをすると箱の中がよく見える。いつも手紙やはがきが重なりあっていた。
「郵便さん、健に手紙てまぎ来とるか。」
 健はきまって、そうきくのであった。
「来とらんがいの。」
「ほうよ、そんな仰山、みなよその手紙か。」
「はあ、よそのてまぎじゃ。」
 郵便さんは健の口まねで答え、箱の中からつかみ出した手紙やはがきを手のひらの上でそろえて黒い鞄の中にしまい、箱の中に細い紐で結えてぶら下がっている判こを帳面に押して、ぱたんと蓋をしめた。
「さよなら健ちゃん。」
 郵便さんは自転車に乗って走っていった。だんだん遠ざかっていく黒いうしろ姿が村はずれのやぶのかげにかくれて見えなくなると、健はくるりと左をむいた。道路にむかって開けはなしの門までのあいだを、つま先に踵をつけて小きざみに足をかわした。今朝おろし立ての鼻緒に赤い紙をないこんである藁草履わらぞうりがうれしかった。
鬼ごとするもんようって来い!
鬼ごとするもんようって来い!
 裏の荒神様の森で、つれをよび集める子供の声がする。珍しく家で遊んでいた太郎と秀子が、そろいの藁草履をつっかけて土間から裏口へかけだして行った。健も急いであとを追っかけた。よくふとって顔は一つ年上の太郎より大きいのに、背は一つ年下の秀子と同じくらいよりなかった。大きい頭をふりながら走ると、よたよたしていつでも秀子にさえまけた。健はゆっくりと荒神様の石段を上がっていった。そこは秀吉の朝鮮征伐のときに、人夫としてこの村からかり立てられて行った人たちが朝鮮から持って帰って植えたものだといい伝えられている、三本のバベの木でこんもりとした森をつくり、空をおおって大きくひろがった枝の下に荒神様の社があった。三本の親木は、そのどれもみな健たちが五人手をつないでやっと抱えられるほどの大木であった。社の前の空地で、五、六人の子供がじゃんけんをしていた。つかまえ鬼である。健ははじめてなので、じゃんけんなしで仲間入りをしたが、すぐ鬼になった。おもしろくて、はあはあ笑いながら追いまわした。つかまえようとすると、くるりとはずされた。こんどこそやっとつかまえたと思うと、取ってがえしにやられて、また鬼である。松の根方や、大小のバベの木を縫って、石の鳥居や燈籠をぐるぐるめぐって追っかけた。くりくりした丸い胴体に、ちょこんとのっかった、並はずれの大きな頭をふりふり駆けた。健より足のおそいものは誰もない。健はいつまでたっても鬼よりほかになれなかった。胸がどきどきしてきた。顔をしかめ、立ちどまってフウフウ肩で息をした。鬼が立ちどまると、みんなも立ちどまった。
鬼が来んまに豆煎って噛あまそ
鬼が来んまに豆煎って噛あまそ
 みんな健の間近へよって来て、思い思いに鬼をとりまいてしゃがみ、てんでに地べたをかきまぜて豆を煎った。鬼が身をかまえると、さっと腰を浮かしてわあっと逃げだす。健は真顔になって追っかけた。真赤に上気して、ころびころび駆けた。紺の毛糸のズボンがずれて足にからまった。とうとう泣きそうな顔でバベの木に胸をつけてもたれこんでしまった。
鬼が来んまに豆煎って噛あまそ
 もう健は見むきもしなかった。バベの木の小枝にもぶれついている青黒い葉っぱや、黒いざらざらした木肌のところどころに、もやしのようにひょろひょろと伸びた薄赤い新芽を手あたりしだいにむしっては捨てた。山茶花さざんかのような艶のある小さい葉が足下に落ちて、たまっていった。やがて、健はしょぼしょぼと鳥居の方へ歩きだした。
「健ちゃん、もうせんのか、え。」
「健ちゃん、鬼んなってやるせに来い。」
 口々に呼びかける。それでも健はとうとう敵に背をむけて荒神様の石段をおりかけた。ずっこけたズボンを胸までこきあげて、一段一段を念入りにおりて行った。
おーにんなってつらかってえ
大根だいこの葉あがからかってえ
 みんなのなぶる声が追っかけてきた。石段をおり、細い小路を横切るとすぐ家の空地であった。右の納屋の前の大きな柿の木の下でおばあさんが豚の飯米をつくっていた。健はそのそばへよって行って、だまってしゃがみこんだ。
大根の葉あがからかってえ
 からかう声がまだ聞こえる。おばあさんは菜っ葉をきざむ手を休めずに、一人で帰ってきた健に笑いかけた。
「健、どうしたん。」
 健は眉をよせ、上唇をせりあげるようにしてかたく口をつぐんでいた。
「なあ、荒神様で遊んでこい。仰山つれがおろがいや、太郎もおろがいや。」
 おばあさんは荒神様の方をふりむいていった。
「ほたって、みんなが大根の葉あがからかって、いうんじゃもん。」
「そうか、そりゃ困ったなあ。大根の葉あがからかったんかいや。」
 笑いながらおばあさんは菜っ葉をきざんでしまい、大きな板を柿の木に立てかけておいて流し場の方へ行った。米のとぎ汁や残飯の入っている桶を持ってきてそれを豚桶に移したり、醤油工場しょうゆぐらからもらってきた大豆の煮汁あめをそれにまぜ合わせたりした。健はつきまわっておばあさんが立つたびに立ち、しゃがむたびにしゃがんだ。
「おばあさん、豚ん健も行こうか。」
「そうよなあ、大根の葉あがからかったんなら仕方がない。豚ん家でも行きましょうかいな。」
「みんなに黙って行こうか。」
 健はうれしくて、声をひそめた。おばあさんはしゃがんで、豚桶にわたした担い棒を肩にのせ、右手で柿の木につかまって、よいこらしょ、と立ちあがった。二つの豚桶が前とうしろでドボドボと音を立てて少しずつ中のものがこぼれた。
 豚小屋は裏の段々畑の丘の中ほどにあった。荒神様の横を通りすぎて上をむくと、藁葺わらぶきの小屋がこちらをむいて立っているのが見える。畑と畑とにはさまれたなだらかな坂道を、おばあさんは健の首までもある大きな豚桶をになって、えっちらおっちら上がって行く。その後から健もえっちら、おっちらとついて行った。道は、真中の人の踏むところだけ残して、枯れた芝草の中からよもぎや嫁菜の青い葉が雑草といっしょに萌えだしていた。坂が急なところへくると、おばあさんはかにのように横むけになって足をかわした。よいこら、よいこら、とかけ声をかけた。
「おばあさん、豚桶、重たい重たいか。」
「重たい、重たい、と。」
 おばあさんの返事はかけ声であった。
にしなには軽い軽いか?」
「かるい、かるい、と。」
「ほんなら帰にしなに健の手々ひいておくれよ。」
「よし、よし、と。」
 おばあさんの鼻の上にも健の鼻の上にも、ブツブツ汗が浮いていた。だいぶ傾いた日が豚桶をかついだおばあさんと健の影法師を、細長くななめに地に映して、その影法師もえっちら、おっちらと動いた。
「おばあさん、影がおもしろい、おもしろいな。」
 石垣があったり、道が曲ったりするたびに影法師はかがんだり伸びたりした。おばあさんといってもまだ白髪もなく、腰もしゃんとした大柄なからだのおばあさんにくっついていると、健は赤ん坊のように小さく見えた。だいぶくたびれて、健は両手を膝の上にあてて腰をかがめ、力いっぱいの大またに足をかわした。
 上の方からくわをかついだよそのおっさんがおりて来た。
「ほう、あっちの孫さんかいな、お父さんによう似とらや。」
 おっさんは片足を畑に入れておばあさんに道をゆずりながら、挨拶がわりに健の顔をのぞきこんで行った。
「おばあさん、あれだれぞいの?」
「あれかいや、あれはのう、太郎んどんのおっさんじゃ。」
たどんろんおっさんか――孫さんかいのう、よう似とらあ、いうたのう、おばあさん。」
 健はおっさんの口調をまねた。
「おばあさん、孫さんいうたら何?」
「孫さんいうたら健のことじゃがい。」
 おばあさんはふり向かずに答えた。
「ええい、健、孫さんちがうがい、健やがい。」
 もうだいぶたけがのびて、穂をふくんだ麦畑の中から、とつぜん大きな笑い声がおこった。健はびっくりしてその方をむくと、石垣で道よりも一段高くなっている畑の青い麦の中から、背戸のばあやんの手拭をかぶった頭が出てきた。ばあやんは草取り籠をかかえ、麦をかき分けて近づいてきた。腰のぐるりにたくさんはせている鬼穂が麦とすれ合ってサラサラと音を立てて、青い麦が波のようにゆらいだ。ばあやんは石垣のはなに立ち、健たちが通りすぎるのを待って、雑草のいっぱいつまっている籠を道にぶちまけた。腰の鬼穂もとり捨て、かぶっている手拭をはずして額をふきふき話した。
「孫さんじゃない健さんかいの、健さんは今日もおばあさんのお供かいの。」
「へえ、もういつまでたっても連れとよう遊ばいでなあ、何じゃろと、こうやっておばあのあとにばっかりつきまとうんじゃぞな。」
 おばあさんが黙っている健にかわって答えた。背戸のばあやんはまた手拭をかぶって、麦の中にその姿をかくした。こんどはうしろから上がってきた人が、健に追いついて並んだ。豚小屋と隣りあっている、みかん畑のうちのばあやんであった。からっぽの目籠を背負っていた。
「ご精が出ますなあ。」
 おばあさんの背中へ挨拶をしておいて、ばあやんは健の頭を軽く押さえた。
「健ちゃん、お父さんは。」
「東京にいる。」
「ふーん、東京にいるん。東京で何しよん?」
手紙てまぎ書きよん。」
 健はばあやんを見あげた。ばあやんは白い歯を見せて、はっはと笑った。
てまぎ書きよんか。てまぎどういうてくる?」
「イシダケンサマ、いうてくる。」
 ばあやんはまた笑った。そして健の頭をなでた。
「ほんなお母さんは?」
 健は急に親しみをこめた目つきをしてばあやんに向かい、だいぶよごれの目立つ毛糸の上着やパンツを引っぱって、
「これのう、健のお母さんがいたんで。ジバンも、パンツも、洋服も、みなお母さんがいたんで。」
 得意になって説明した。ばあやんも調子をあわせて腰をかがめ、健の青っぽい上着にさわったり、袖口を引っぱって見たりした。
「ほんにい、きれいに編んどら。健ちゃんのお母さんは器用もんじゃなあ。」
 おばあさんが気をもんで、「さきに行てつかあされ。」といっても、ばあやんは「急ぎゃしません。」と答えて健の手をひいた。健はうれしかった。
「あのの、お母さんはいま克ちゃんと病院行たんで。遠い遠い病院で。克ちゃんに目薬さしたら戻ってくるん。健、泣かんと待っちょるせにバナナも買うてくるんで。バナナ美味んまいんで。んまい、んまいんで。おもちゃも買うて、えいもんも買うていんま戻ってくるんで。」
 手をひろげたり、指を折ってみやげものを数えたりして、急にしゃべりだした健につりこまれて、ばあやんもにこにこした。
えいもん買うてきたら、ばあやんにもくれるか。」
「ん、あげる。バナナあげる。んまいんで。」
 健は唾をのみ、へえ、と下唇をひろげ、甘ったれた口をして笑った。
 ばあやんは、おばあさんに話しかけた。
「何かな、おばさん、ねんねさんは目がうなって戻りますんかな。」
「どんなことやらなあ。」
 おばあさんはゆっくりと立ちどまって息を入れ、担い棒の肩をかえた。
「まだ誕生やそこらのこおを、手術しじつじゃとやら何とやらいうて、生きためえをつつき回すんじゃそうなが、そんなことしてえいことかなあ。たいがい、いまどきの若いもんは気が強いぞなあ、一ぺんでげんが見えにゃ二へんでも三べんでも仕直しするんじゃいいますがいな。ほんまにおとろしやの、目の子の玉に針さしたりして、えい目もつぶれろぞ思いますけんど、何せ日本でも名高い医者のいうことじゃというし。――昔からそこひは直らんといわれとるせに、何かしらん直るいうのが嘘のような気がして、あれが町の医者にだまされとんじゃないかと気がもめますがいな。」
「ほんになあ、そんな生まれ子にまでそこひじゃこというたりして、かわいそうに、嫁さんも苦労しましょし、えらいもの入りでござんしょうぞなあ。」
「へいな、銭のあるはよろしいけんど、うちらのような貧乏人にゃ、たまらんぞな。」
「ま、何をおっしゃる、おばさんのような。」
 ばあやんが急に笑うと、おばあさんはよけいまじめな声になった。そして押さえつけるような声で、
「いいええ、ほんまのとこたまりゃしませんぞな。貧乏人のするこっちゃないぞな――ちっとは信心でもすりゃよろしいけんどな。第一あれに信心ごころが一つもないんじゃせに、しょうがない。信心にゃ金はかからんせにいうても、ただに医者医者いうてな。きも玉が大けいいうたら、今日びは金さえかけりゃめくらでも直る世の中じゃ、借金してでも手術してやるというてな、あんじょうもう気負いこんで行とりますじゃが……」
 除虫菊のきつい匂いがただよってきた。ばあやんの家のみかん畑が近くなり、青黒く繁った葉っぱに見えかくれて黄色い夏みかんがなっている。からたちの垣根をすかして、ところどころ真白に除虫菊の花が咲いている。ごめんなれ、といいながらばあやんは畑の中へはいって行った。
 豚小屋へ来た。おばあさんは待ちかねたように畑のとっつきで荷をおろした。そして桶から担い棒をはずしてそれを立て、両手ですがりつくようにして腰をのばした。そして、やれ、やれ、と太息をついた。健もならんで同じように、やれ、やれ、と肩で息をした。すうっとかすかな風が通って、汗ばんだ肌に気持よくしみた。二人とも赤い顔をしていた。健はさっと両手をひろげ、くるくると舞いながら空にむかって大きな声で叫んだ。
鳶、とんび、舞い舞いせえ
ほうらく割ったら買うてやろ
 だが鳶も舞わず空は薄藍色にひろがっていた。豚が見つけて騒ぎだした。小屋の板がこいにとびついて前足をかけ、よごれた顔を出してぐうぐう呼びかけている。狭い板敷の小屋の中をどさどさ駆けまわって喜んでいるのもある。健は一ばん端っこの子豚のいるところへ走った。かこい板は健の頭より高いのでしゃがみこんで下からのぞいた。豚どもは健には見向きもせずに、おばあさんの方へしきりに鼻を鳴らした。
「おばあさん、早よ豚にままやりいの、豚がぐうぐういいよるがい。早よままくれ、早よ飯くれ、いいよるがい。」
 健はおばあさんのそばへ来て、前かけを引っぱり、背の高いおばあさんを見あげた。
「そうあわてなっちゃ、まだ日は高いんじゃ。」
 やっぱり担い棒にすがりついたまま、おばあさんは豚小屋に背を向けて海の方を眺めながら落ちつきはらっている。目の下には同じような構えで家々の黒い屋根瓦がむらがっている。そのところどころをかき分けてすももの白い花や、杏の大きく枝を張った赤い花が咲いている。これらの一かたまりの人家を抱えこむようにして、左右にのびている岬のかげには小さい漁舟が浮かんで、いだ海面は湖のように静かであった。遠い四国地の方はふんわりとしたもやに包まれて陸も空もぼかされたようにかすんで見える。
 健はまたおばあさんの前かけを引っぱった。
「おばあさん、何見よんどいの、早よ豚に飯やらんかいの。」
「よし、よし、せわしのういうなっちゃ。」
 おばあさんはやっと動きだした。にない棒を豚小屋の軒に立てかけ、豚桶を一つ一つさげてきた。細長い小屋は四つにくぎられて、その一つ一つの入口に、外側から与えられるようにこしらえてある長方形の食物桶の中へ、おばあさんは汚れた柄杓をもって、順々にかいこんでやった。豚は先をあらそって悲鳴をあげながら気狂いのように食べた。顔中を桶の中へつっこんで、泥芋のようによごし、夢中であった。子を産んでいる親豚には醤油粕や残飯ではなく、とくべつに麦飯を炊いてやるのであった。親豚は、子牛ほどもあった。子豚が乳房にぶら下がって離れないのを、がむしゃらにふりほどいても、ふりほどいても子豚はキュウキュウ鼻を鳴らして、また、乳房に吸いついて行った。桃色にすきとおった、ころころしたからだを銀色の産毛うぶげに包まれた子豚は、親豚に似つかぬきれいな、まるでびろうどのおもちゃが生きて動いているようであった。親豚は五つの子豚を乳房にぶら下げたまま、麦飯をうまそうに食べている。健はしゃがんで板と板とのすきまから眺め入った。天井向きになって乳房に吸いついている子豚が、かわいくてたまらなかった。健は目を細くして、声をかわいくした。
「おばあさん、ねんねの豚ははあがないせに乳のむんのう。」
「そうとも、そうとも。健じゃって歯がないときは乳のみよったんじゃ。」
 豚からは目離さず、健は自分の口に指を入れ、試すように歯にさわって見た。前歯で指をかんでみた。
「おばあさん、豚大けになってもはあはえなんだら?」
 健はおばあさんをふり向き、大発見のように大鼻をひろげてきいた。
「大けになったら歯ははえる。」
 おばあさんの答えは簡単であった。食物を分けてしまって、おばあさんも健のそばへ来て小屋板に片手をかけ、板がこいの上からのぞいた。
「おばあさん、ねんねの豚、大けになったらどうするん。」
 健はまた小鼻をひろげ、おばあさんの顔を下から見あげた。
「大けになったらまた銭もうけてくれるん。――健も大けになったら偉ろなってな、銭もうけてくれよ。」
「ん、健大けになったら兄やんになって学校行くんで。――おばあさん、豚大けになっても、どして学校行かんの。」
 健は立ちあがっておばあさんの答えをまった。
「ええ、豚がかいや、学校いかいや、やれまあきょうとやの、きょうとやのう。――健のお父さんはな、んまいとき学校が偉ろてな、大学校まで行たんじゃけんど、今じゃ職がのうて、職がのうて、銭もうけがでけんがいや、え、健よ、お前もお父さん見たよになるなえ。豚はな、学校に行かいでもちゃんと銭もうけてくれるわいや。」
 おばあさんは豚を見い見いしゃがんだ。健はおばあさんの肩に手をかけて、ん、ん、とうなずいていた。
「おばあさん、犬も大けになったら銭もうけるんよ。」
「いいや、犬はくそにもならんわいや、とりごろねんがけたりしてな。」
「ふーん、ほんな犬は馬鹿やのう。――ほんな猫は、銭もうけるんよ。」
「猫かいや、猫はもうけんけんど、ネズミ取ってくれる。」
「ほんなかしこいのう。――ほんならあ、うさぎは?」
 健はうさぎのように両肘を小脇にあてて、手首をちょんと前に出し、もう豚に横を向けておばあさんと向かいあっていた。しゃがんでいるおばあさんと、立っている健の顔は並んで一尺と離れていない。健は真剣な顔つきで偉いものと、馬鹿なものの区別をした。おばあさんは、むずかしそうに首をかしげて考え考え答えた。
「うさぎか――ええと、そうじゃなあ。うさぎと。うさぎやどうやらもうけてくれるげな。」
「ほんなかしこい。ほんなあ、亀は。」
「こんどは亀か。ええと、亀はあ、――ん。亀はぐずまじゃ、健のようにぐずまじゃ。」
 健はびっくりした。口をとがらせた。
「ええい、健ぐずまちがう、ほんな駆けってみようか。」
 くるりと向きなおって、走りだした。ちんちくりんの丸い体をふり立てて、とっとと走った。茄子なす胡瓜きゅうりや唐きびの苗床が麦藁をかぶせてある、その上をかまわずどんどん走りまわった。おばあさんは豚が小屋を破ってとび出したときのようにあわてた。追っかけたが、苗床を踏みつけまいと、よけて走るのでなかなかつかまらない。
「こら、健よ、こらえてくれっちゃ、健はぐずまじゃない。こらえてくれ、こらえてくれ。」
 おばあさんは地べたを見い見い、着物をはしょって追っかけた。健は鬼ごとをしているようにいい気持で走った。おもしろくてたまらない。おばあさんの鬼は健よりも弱い。
鬼が来んまに豆煎ってかーまそ
 健はしゃがんで土をかきまぜ、きゃっきゃっ笑いながらそこらじゅうをとびまわった。そのうち、一段高く土をもり上げた苗床につまずいて、とうとうころんでしまった。しめった土に顔をしたたかぶっつけて急に起きられなかった。やっとおばあさんが来て抱き起した。顔じゅう土だらけになって目も鼻もない。ペッ、ペッ、と唾を吐いた。
「ほら見い、ほら見い。走りよったら危ないんじゃ。泣くなよ、泣くなよ、目々あけなよ。」
 おばあさんは片手で健を引っかかえて頭を支え、もうたけて花のついたしゅん菊をむしりとっては口や鼻をぬぐった。しゅん菊の高い香りが健の鼻の奥へつき通るようにしみこんできた。健は土だらけの手を払いのけようとした。
「くさいがい、くさいなな好かんがい。健、くさいななほん好かんがい。」
「おおそうかそうか、ちょっと待てえよ。」
 おばあさんは健を抱いたまま歩き、今度はほうれん草をちぎってふいてやった。
 ぶううん――と、尾を切ったような汽笛がひびいてきた。汽船が健の村の港を出たのであった。
「ほら、ほら、蒸汽が来るぞ、いんま見えるぞ。」
 おばあさんはパタパタと健の上着をはらい、パンツをはらった。健も手のひらの土をパチパチはらった。そしておばあさんと同じように額に手をかざして沖を眺めた。岬の鼻から汽船はしずかに姿を現わした。
 夕日が映えて海は金色に輝いてまぶしかった。きらきら光る波の上を船はだんだん速力をまして、潮を切ってまっすぐに西へ西へと進んでいった。
「おばあさん、あの船でお母さんは戻らんかいなあ。」
「さあ、戻らんかいなあ。何しよんじゃあろになあ。」
 おばあさんはそれをしおに豚小屋をしまいはじめた。低い軒にたくし上げてあるむしろごもをおろして小屋をかこっていた。
「お母さあん、早よ戻りい、――健がここにいるぞお――。」
 だんだん小さくなっていく船にむかって、健はとんきょうな声をはりあげた。おばあさんも驚き、豚もびっくりして、ガサガサと敷藁をけとばして小屋の中をとびまわった。
「お母さあん、早よ戻ってこーい。」
 腰を曲げ、ほんとうに腹の底からしぼり出すような恰好で、顔をしかめて、声をかぎり大きく呼びかけた。声は近くの山にこだましてかえってきた。おばあさんは手早く小屋をかこい終ると、健のそばに来て頭をでた。
「健よ、あの蒸汽はなあ、高松行く船じゃせにお母さんは乗っとらんので。お母さんが乗っとったら、もう今ごろは船から降りて健を迎えに来よるやらしれん。そうじゃ、さあ早よなんか、早よなんか。」
 おばあさんは健の肩を引っぱってかけだすような恰好をした。
 二人は手をつないで歩いた。
「早よ帰なんかあ、早よ帰なんか。」
 おばあさんが歩きながらいうと、健もそれについで、
「早よ帰なんかあ、早よ帰なんか。」
 一ぺんがわりに、歌うように調子をとって、それに合わせて道をおりて行った。おばあさんのかついだからっぽの桶がふらりふらりと動いた。
「おしまいなさったかな。」
「へい、お帰り。」
 畑帰りの人たちが声をかけながら二人を追いこしてだんだん帰っていった。
早よ帰なんかあ、早よ帰なんか
早よ帰なんかあ、早よ帰なんか
 健もおばあさんもやっぱり歌いながら、ゆっくりと石ころ道をおりていった。


 浜は学校帰りの子供たちをまじえてだんだん活気づいてきた。健は、その群に近づいていったが、はいりそびれて、うらやましそうに見ていた。健の洋服はよごれ、暖かくなって下着は一枚ぬがされた。それでも健はまだ村になじめず、毎日のようにお母さんの帰りが待たれた。
 汽船が通る。欧州航路の大きい汽船、近海まわりの小さい汽船、もっと小さい上方通いの発動機船がポンポン音を立てて行き来する。子供たちにとってはそれらの船はみな軍艦になった。沖へ向いて声援した。大きな軍艦が小さい軍艦を追いこした。蒸汽波が沖からうねりながら押しよせてくる。小さい漁舟が木の葉のようにゆられている。子供たちは、喊声かんせいをあげて陸の方へかけだした。ザザア! と大波が打ちよせ、打ちかえし、時化のようにはげしかった。波は一寄せごとに小さくなり、あとは嘘のように静かなもとの海辺になった。今度は陸戦隊であった。子供たちは手に手に棒切れを持って敵も味方もなくかけまわった。健は棒切れが頭にあたりそうでうろうろした。やっとそれをのがれると、こんどは誰かの頭にあたりそうで、ひやひやして目をしばたたいたりした。
 郵便飛行機が飛んできた。東の方からうなりがだんだん近づいてくると子供たちは遊びをやめて空を仰いだ。両手をあげてばんざいで迎えるもの、片手を額にかざしてその姿に見入るもの。
「見える、見える、わいら、乗っとる人が見えたがいや。」
「あっ、羽に日の丸がついとるど。」
「英語書いとんも見えたど。」
 頭の真上をとび去る飛行機から、めいめい誰もが気づかないものを見つけだそうと顔を空に向けて夢中になっているうちに、いつかその姿を見送っていた。
「飛行機のおっさん、のせておくれえ!」
 とつぜん大声で叫んだ。健である。みな笑いだしたが、しかしすぐそれに和して子供たちはみな四股をふんだ。
「飛行機のおっさん、のせておくれえ!」
「一、二の、三! 飛行機のおっさん、のせておくれえ!」
 飛行機はだんだん小さくなり、やがて見えなくなってしまった。いつか、日が落ちかかっていた。家へ帰ると太郎のお父さんも醤油工場しょうゆぐらから帰ったばかりでまだ仕事着のまま縁に腰かけていた。太郎も秀子もお父さんにもぶれついて甘ったれていた。太郎たちのお父さんは健のお父さんの兄で、双児のようによく似た顔をしている。健は小きざみに草履を引きずりながらそばへ寄っていって、おじさんの顔を見あげ、ふ、ふ、と笑った。おじさんは立ちあがって健の方へ近づいて手をひろげた。醤油工場のにおいがした。
「どら、どら、健、おお、重たいぞ、重たいぞ、なかなか持ちあがらんぞ。こりゃ重たい、健は克ちゃんの兄やんだけあって石のように重たいわい。」
 おじさんは健の両脇を抱え、重たくて重たくてたまらない顔をしてだんだん持ちあげていって、とうとう頭の上まで差し上げをしてふりまわした。健はうれしくてたまらなかった。大きく口を開けて、わは、は、はと笑った。台所の方でおばあさんのもらい笑いが聞こえた。
「太郎も重たいか見て、ようお父さん。」
「秀ちゃんも。」
 縁の上にいる二人がだんごになってお父さんに飛びついてきた。
「こら、危ない、危ない。」
 二人を腰で支えながら、おじさんはしずかに健を草履の上におろした。茶の間でおばあさんの声がした。
「さあさ、みんなご飯じゃぞえ、太郎も、健も、早よおいで。」
「わあい、ごはんじゃ、ごはんじゃ。」
 太郎も秀子もそのまま茶の間へとんでいった。
「太郎一等賞っと!」
「秀子も一等賞っと。」
 二人が大きな声で叫んでいる。ちゃぶ台の上の食器ががちゃがちゃ音を立てているのが聞こえる。健はおじさんといっしょに縁の右手の入口へまわり、暗い土間へ入っていった。太郎のお母さんが大きな鍋をさげてかまとこから出てきた。
「太郎さんのお母さん、今日は味噌汁炊いたんよ、うまげなかざがするがい。」
「ま、この子のいうこと。」
 太郎のお母さんは、茶の間のあががまちの鍋すけに鍋を置き、土間の小縁で着物を着かえているおじさんと顔を見あわせて笑った。
「じっさい健は変ったとこがあるぞな、やれ鶏が笑いよったとやら、蟻が走れと言わいでも走ったとやら、たいがいこまかいとこがあるっちゃ。どだい太郎らとちごとる。」
 おじさんは呆れたようにいいながら、帯を結び、かまとこをぬけて流し場の方へ手を洗いにいった。健は草履をていねいにぬぎそろえ、小縁を這いあがると上の間をかけぬけて、太郎の横にすわり、
「健、一等賞!」
 天井にむかってどなった。太郎が承知しない。肘をよせてせまってきた。
「あ、あ、健一等ちがわい、太郎が一等じゃがい。こら、健のぐずま、健のびりっこ、びりかす、びり等賞よ、馬鹿くそよ!」
「健、ほたって草履ぬぎよったんで。」
 健は申しわけなさそうに額に皺をよせていった。ただ、そこへ坐れば一等賞だと思ったのが、ビリ等賞で馬鹿くそなのは、自分がぐずまであったことだと思って、一生けんめいにいいわけをしようとするのだが、言葉までがぐずまになってもどってくるのであった。そうなると太郎はよけいに承知しない。向きなおって健を小突きまわした。
「ええい、健のぐずま、健はいつでもぐずまじゃがい。健の馬鹿くそよ、健はケがつくケン十郎、ケレレンのケレブクロをケッタカ、ケッタカ。蹴ってやる。おどれや。もう健にくされ、健はうちのこおとちがうがい、健い帰にくされ。」
 健は泣きそうになった。助けを求めてぐるりを見たが、おばあさんは仏壇におひかりをあげに立っていていなかった。太郎はますます開きなおった。
「こら健、帰にくされいいよんのに帰なんかい! もうままくわさんぞ!」
「ほたって健、帰んでもお母さんがおらんので、ほたらどうすん?」
 健は太郎と膝をつき合わせ、一生けんめいであった。
「ええい、帰にくされ、ここは太郎ん家じゃがい、帰にくされ、一人で帰にくされ。」
「ほたら健、誰と寝るん?」
 健の声はだんだんふるえてきた。
「一人で寝くされ、一人で寝よったら、化けもんが出てきてとって食うぞ、ほら、早よう帰にくされ。」
 太郎がしつこく小突いていると、秀子が尻馬に乗ってきて健のうしろにまわった。
「健一人で帰にくされ、健ほん好かん。」
 二人にはさまれて健はかたくなっていた。やっと奥の間からおばあさんが出てきた。おじさんも上がってきた。
「こら、みんな喧嘩するんじゃないが。三人仲よく、じゃないか。」
「誰が一ばんおとなしいぞな。」
 おじさんもおばあさんも三人の顔を見くらべた。みなおとなしく膝に手を置いた。健だけが大きな溜息をした。太郎のお母さんが、おひつにご飯をうつして上がってきた。もやもやと湯気が立ちのぼっている。おじさんが窓を背にして、引出しのついた高いお膳にすわった。その前の大きなちゃぶ台をかこんで、右側に太郎と健がならび、左側に秀子とおばあさん、おじさんの真向かいのいちばんあががまちに近い場所にお母さんがすわった。おばあさんとお母さんとのあいだには鍋とおひつがすわった。
「ほら、小んまい順々に。」
 おばあさんがごはんをついでくれた。
「ほら、今度は大きい順々。」
 お母さんが味噌汁をよそってくれた。今日は珍しく小さい煮魚がついている。秀子はおばあさんにそれをむしってもらった。太郎はお母さんにむしってもらった。健は家にいるとき、東隣ひがしの漁師のおっさんと仲よしで、毎日のように魚をたべつけているので一人でむしった。左の指でおさえては、握り箸をあやつってじょうずにはさんだ。ときどき左の手でつまんで箸にはさませて口に入れたりした。頭の上でぱっと十燭の電燈がともって、薄暗くなりかけた部屋が、急に明かるくなった。それを見上げながら健はごはんをかきこみ、ふと聞き耳を立てた。門の戸がしまる音がする。足音が近づいてくる。入口の障子戸が開いて誰かがはいって来た。
「今晩は。」
 健は箸を持ったままみなの顔を見た。みな健の顔を見て笑っている。
「ほりゃ、ほりゃ、誰かしらん来たぞ。健のほん好かん人げなぞ!」
 おじさんが真顔でいった。健は恐ろしいほど緊張して茶碗を下に置いた。
「健ちゃん!」
 お母さんの声である。お母さんが笑い顔をしたときの声である。健はもじもじした。太郎のお母さんがふりかえって、「さあ、おあがり。」といった。
「今日ので戻ったんかいな、一人かいな?」
 おばあさんが土間へむかって声をかけた。
「へえ、克子を近所へ頼んでとんで来ましたんじゃ。健が待っちょろぞ思てな。」
 お母さんはあががまち簀戸すどをあけて話しながら敷居のそばにすわり、どうも長いことお世話でござんした、と手をついた。みんなお母さんの方を見ているのに健だけは横顔を見せてうつむいている。お土産の帽子を持ってそばへ来てすわっても、その帽子を顔のそばへつきつけても横を向いてだまっている。鳥の毛のついた兵隊さんの帽子は太郎とおそろいで、太郎はもうそれをかぶって手を振って歩いている。秀子も小鳥の車を引っぱって座敷をかけまわっている。
「健、えらかったなあ。」
 お母さんが頭を撫でた。
「健、どうしたんぞいや、船見ておらんだりしといて、お母さん忘れたんかいや。」
 おばあさんが顔をのぞきこんだ。健は歯を食いしばって息をつめているらしく、くっ、くっ、という声がれた。何かの拍子で泣きだしそうなものを我慢しているのだ。おばあさんがまた何かいおうとするのをお母さんは手をふってとめた。みな、わざと知らん顔をしていた。
「で、克子はどうぞいの。」
 おじさんが一ばんにきいた。
「へえ、それがなあ――」
 お母さんはいいにくそうにちょっと言葉を切った。みんながその顔を見つめた。
「――だいぶ見えるらしいんですけど、片一方がまた失敗してなあ。……もう一ぺん手術せんならんのですけど、まあ一ぺん戻らにゃ節季もあるし、持っていった私の仕事も編んでしもたし、それに費用の相談もあってなあ――」
 みんながっかりした顔になり、言葉もなく吐息をもらした。お母さんは、それを引き立てるように頭を上げた。
「克らの目はまだえい方でな。緑内障じゃとか、また、なかにゃ黒玉のない人や、黒玉があってもほとけさんのないもんがあるそうな、そんな人はもう手の下しようがないけんど、それに比べたら直る見込があるだけでも喜ばんならん思てな。世の中にゃ目で苦労する人も仰山ぎょうさんありますぞいな。」
「克のはどういうんぞいの。」
 おじさんが箸箱をしまいながらきいた。
「克のは白内障いうてな、水晶体のにごりをとりのけたら見えるようになるんじゃけんど、なかなかその手術がうまいこと行かいでなあ。」
「ふむ、それで、も一ぺん手術したらかならず見えるんかいの。もし直らなんだらやっぱり銭の入れ損かいの。」
 おばあさんが不安げにきいた。
「そりゃ手術して見ん先にはっきりいい切れませんけど――」
 お母さんはみんなの顔をかわるがわる見た。
「どのていどに見えるんぞいの。」
 おじさんが言葉すくなくきいた。お母さんはその顔を見、しばらく考えていた。
「――まあ相手がまだんまいせに話が聞けるわけでもなし、十分わかりませんけど、だいたい二メートルぐらい見えるげなようです。ものをよけて歩いたり、おもちゃをつかみに来たりするようになってなあ。先生も意気ごんでくれるし、看護婦さんまで喜んでくれてなあ。――それがもう片方がそうとう良うなれば、ずいぶん見えるはずじゃけんど、まだ白いのが取れいでな。も一ぺんどうしても手術せんならんのですけど――」
 どういって説明すればわかってもらえるかと、お母さんは考え考えいうのであったが、誰ものみこめた顔をしなかった。
 おじさんが首を傾けて、ぽんと煙管きせるをはたいた。
「むつかしい病気じゃな、どうもわしらにゃ合点がいかん。まさか医者がインチキとも思えんし、お前も馬鹿でなけりゃそれがわからんはずもなかろうし……しかし、何じゃなあ、水晶体をとりのけたりして見えるもんじゃろか? ふしぎじゃなあ。」
 おじさんは腕を組んで考えこんだ。おばあさんが待ちかまえたように膝を向け、
「お前、どうなるかわからんもんにそやって銭入れて、死に銭じゃがいの。それより信心でもしてみい。信心で直ったためしもあるんじゃし、そりゃ克もかわいそうじゃけれど、わが持って生まれた不仕合わせじゃ。今いうようにちっとでも見えりゃ、またあんまになってでもずぶのめくらよりえいがの。あきらめるわいの。……なあほれ、どこやらの人じゃなあ、お大師さんに信心して、お水をいただいて来て目を洗ろたら、お大師さんのお姿が現われ……」
「おばあさん!」
 おじさんが顔をあげておばあさんをさえぎった。
「そう、今どき信心信心いうたって、そんなわけにゃいかん。しかし、医者にかかっても直らん者もあるんじゃせに、よう考えて馬鹿見んようにせんならんわい。」
 お母さんは、急にポロポロ涙を流した。そしてみんなの前に手をついた。
「どうぞ克のことだけは私にまかしてつかあされ。私はもう、たとえ見えるようにならいでも、するだけのことはしてやらんとあきらめがつかいで……わたしは死に身になって働きます。どうぞもう一ぺん手術さしてつかあされ。」
 みんなだまっていた。お母さんは袖口で目を押さえた。煙管をとり上げ、煙草をつめたまま吸いつけもせず考えこんでいたおじさんが、顔をあげた。
「わしもな、どうせ弟にはたとえちっとのものでも分けんならんのじゃけんど、何せあれは、何ちゃくれいでもえいせに学校へ行きたいいうて、あやって兄弟中で一人だけ大学までやった。それだけ他のものより金もつこうとる。うちらの身分としちゃ、大学どころか中学も行ける身分じゃないとこをやったんでなあ。……そこいもってきて、醤油会社かいしゃがつぶれたりして、うちもだいぶ辛いんじゃ。……しかし、十のもんが一つになったって、半分ずつは分けるんが、これ、兄の責任じゃと思うとる。ゆくゆくは畑の一枚なり、またたとえ二た間の家でも建ててやるつもりじゃった。しかし、今はそれよりもまず克のことを考えた方が、よさそうに思う。そうなるとしかし……まあ、どうせあとでやるのも、今やるのも同じこっちゃ。そのつもりで、家を建てようと、克の目にいれようと、ということにして、わしもこのさいできるだけのことをしようわいの。」
 おじさんは煙管を持ちなおして、また考えこんだ。
「すみません。すみません。」
 お母さんは二度も三度も頭を下げた。おばあさんが肩で息をしながらにじり寄って、
「お前、それあ死に銭じゃないかえ。いつまで借家住まいもでけんで、さきのことも考えにゃどもならんで、克ひとりが子じゃないんじゃせに――」
 お母さんは、やはり、すみません、すみませんと、頭を下げた。
 やがて、話は麦刈りまでにも一度手術をするということになり、お母さんはまたあらためて手をついて、みんなに挨拶をした。お茶碗を片づけていた太郎のお母さんも、健のことを頼まれて、すわっておじぎをした。
「さ、そんならぼつぼつのうか健、克ちゃんが待っちょるせにな。」
 いつのまにかあたりまえの顔になっていた健は、お母さんの言葉が終るか終らぬうちに、急に立ちあがって中の間をぬけて、納戸から風呂敷包みを持って出てきたので、みんな、声をあげて笑った。
「ほんな健ちゃん、また来いな。」
「ん。」
「夜道じゃ、気いつけて帰になされよ。」
 口々に別れの言葉をかわした。鳥の毛の帽子の太郎が、鳥の毛の帽子の健にしみじみした顔つきで、
「健ちゃんよ、また浜で遊ばんかなあ。」
「ん。」
 健は大きくうなずいておいて、急に「失敬!」と直立不動の姿勢をとったので、また皆が笑った。外はもう薄ねずみに暮れていた。門を出ると、何かいい忘れたことがあるような気がしてお母さんは、いったんしめた戸に手をかけたまま、しばらく考えていたが、また思いなおしたように、何か口の中でつぶやきながら歩きだした。海沿いの道を、健はお母さんの手を引っぱって歩いた。
「お母さんの手々、ぬくいぬくいなあ。」
 声はお母さんの腰の下から聞こえた。お母さんはだまって健の前にしゃがみ、背中を向けてうしろへ手をひろげた。健はとびついて行ってお母さんの首をかかえた。そして、へえ、へえ、と笑った。ほのかな灯の漏れてくる家々の尽きたあたりで、お母さんは背中の健に首をねじらせて顔を近づけた。
「健、克ちゃんがなあ、赤いべべ着せてやったら喜ぶんで。……べべを見てなあ。」
「ふーん。」
「ほて、お菓子見せたら、手々出してとりにくるんで。」
「ふーん。」
 ペタン、ペタン、と渚を洗うしずかな波の音が聞こえる。夕闇はだんだん村を包んでいった。
「健、克ちゃんがな、お母さんの顔見たら笑うんで。」
「ほうよ。」
「それからな、克ちゃん早よおいで、いうたら、手々出してとんでくるんで。」
 いつか遠く村を出はずれて、あたりはひっそりと静まりかえり、お母さんの下駄の音がかたかたと闇にひびいた。むせるような若葉の匂いがあたりにみち、暗い畑のところどころに大根の白い花がほんのりと浮かんでいる。
「ほてな健、お母さんがこぼしたご飯つぶを克ちゃんが見つけてなあ、つまんで拾いよんで。おもしろいな。」
「ん。」
「目々のとこいお母さんが手々もって行たらなあ、恐ろしげにして、目々つぶるん。おもしろいな。」
「ん。」
「今度もう一ぺん行てきたら、克ちゃんはもっと何でも見えるようになるんで。」
 暗い海の上には、ゆっくりと流している漁舟の篝火かがりびが右に左に動いて、しばらくぶりに見る空は秋の夜のように星がかがやいている。
「まあ、きれいな星、見い健!」
 お母さんは立ちどまって背の健をゆすりあげた。





底本:「大根の葉・暦」新日本文庫、新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版
   1981(昭和56)年3月20日第2刷
初出:「文芸」改造社
   1938(昭和13)年9月
入力:諸富千英子
校正:芝裕久
2020年5月27日作成
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