壺井栄





実枝みい年忌ねんきの手紙出しといたか」
 奥の部屋で出勤前の身支度をしながらのクニ子の声がせかせかと聞えた。茶の間の実枝は赤いはしでたくあんをはさみ、わざとゆっくりと前歯でみながら、
「ん」と、どっちつかずの返事をした。
「ん、じゃないでほんまに、まだ出しとらんじゃろ」
 紫紺色のはかまの後ろを引きずってもどかしい声で近づいてきた。いっしょに坐る朝食なのに実枝はいつでもあとになり、というよりクニ子の方が落ちついていずにかきこんで、お茶ものまずに立ち上るので実枝は自然取残されるのであった。ちゃぶ台にひじなどついてゆっくり構えている実枝に、クニ子ははがゆそうなパリパリした語調で、
「ぐずぐずしとったら間に合わんぞ、もうあと二十日じゃないか。世帯もちは今日に今日と家をあけられへんてさっさと案内しとかにゃ」
 浴せかけるようにいった。小学校の教師であるクニ子は奉職以来十年近くをずっと一年生ばかり受持たされていて、踊ったり歌ったり、とかく外光にあたる時間が多いのに、近ごろは他の組の体操まで持たされて年がら年じゅう紫外線を吸収しすぎている顔は、白い半襟はんえりの上で、実枝の言葉をかりると唐きび色に光っていた。
「出しときよっ」
「はいっ」
 両方でかけ声のような叫び合いになったので二人はげらげら笑いだした。
 今年はクニ子たちの祖母の十七年忌と、父親の三年忌に当るので、東京だとか神戸だとか広島などにちりぢりに暮している姉たちに来てもらい、先祖や亡くなった兄姉の菩提ぼだいをもとむらおうという末っ子二人の思いつきなのである。いわば、今まではお世話になりましたが、自分たちにもこんな世間並みなこともできるようになりました、という大人ぶった気持と、父親の葬式以来会わない姉たちに会いたいための甘えた計画でもあった。
 クニ子は袴の後ろ紐を前でぐっと下げて結びながら腕時計を見、きゅうにあわてだした。
「実枝、ほらほら、弁当、弁当」
 早口にそういって自分は足袋跣足たびはだしで片足つま先立って下駄を出している。実枝も立ち上っていっしょに慌て、ほれ、ほれ、と台所のあがかまちに置いてあった弁当包みを渡した。傘をおおげさにふり、朴歯ほおば日和下駄ひよりげたを踏石にかたかた鳴らして風を切るように駆けだすクニ子の後姿を見送り、実枝はふう、と声に出して息をついた。縁に腰をかけ、先刻さっきとはあべこべに、
「やれやれ、せわしないこっちゃ、ほんまに」と、母親のような口ぶりでつぶやいた。
 毎朝実枝にさんざんきたてられるまでクニ子はひと時花畑に入りこんでジキタリスの花の数をかぞえてみたり、向日葵ひまわりと背比べをしたり、薔薇ばらの匂いに小鼻をうごめかしてはえつに入ったりするのであった。家の前を真直ぐに通りの小径こみちにつながる敷石道を挾んで両側十坪ほどずつの空地にとりとめもなく草や木を植えこんだそこを、クニ子はおおげさに「花園」といった。季節季節の種をき、花を咲かせることがクニ子にとっては時には教職と同じほどに大切であるらしく、一本一本の草や木は教え子へのような周到しゅうとうさで育てられていった。今朝も実枝は何べん呼びかけても家に入ってこない姉に、
「姉さん、明日があるがいやほんまに、えい加減にしい、味噌汁がめら」
 ぼやきながら自分も「花園」へ近づいていくと、朝顔の移植をしていたクニ子は泥だらけの指先を払うようにして、手首で乱れた髪の毛を後ろへであげ、
「そういうなっちゃ実枝みい、もうこれですんだんじゃ、今年や十五センチを咲かそ思てなあ、見よってみい」
 人のよい笑顔で妹を見上げた。
「あきれた姉ちゃん、まだ顔も洗わんと!」
 実枝にそういわれてばたばたと支度にかかったのであった。
 朝顔といえば実枝は去年の夏のことが思いだされて、ふっふとひとりでに声がこぼれた。
「大変大変、実枝よ早よ早よ」と突拍子もないクニ子の大声に、まだ寝床の中でうつうつしていた実枝は何事かとはね起きて縁側にとびだすと、クニ子は隣りとの境界の朝顔の垣のそばで片手に巻尺まきじゃくを持ったまま相好をくずしてこちらへ猫まねきをし、
「実枝、まあ早よ来てみい、十三センチ五ミリあるがいや」
 朝顔が直径十三センチ五ミリの花を咲かせたというのである。
「何ぞいや姉やんほんまに。くちなわでも出てきたんか思や」
 そうはいいながら実枝は下駄をつっかけた。ぼんやりとよどんだような朝の空気の中で、しめりを含んだ垣根いっぱいに繁っている朝顔の葉のみどりの中に、瑠璃るり色の十三センチ五ミリはひだをゆるく波打たせ、赤や白の花々の群を抜いて大らかに咲いている。二人はそれに顔を近づけて眺めた。家の前の小径を朝畑に出る隣りの小母さんが目籠を背負しょって通りかかり、
「何ぞいな、早うから」と声をかけた。するとクニ子は「小母さん!」と、その方へまた手招きをしながら、普段と声をかえて、
「まあちょっと来てみてつかあされ、うちの朝顔がこんな大けな花を咲かしてなあ」
と、両手で輪をつくった。小母さんが近づいてくるとクニ子は巻尺を花の上でぴんとはり、十三センチ四ミリ半、まあ十三センチ五ミリじゃなあ、と笑顔を向ける。
「ほんになあ」と簡単にほめておいて小母さんはすぐにまた畑の方へ上っていった。その背中へクニ子は、
「来年はな小母さん、種子たねあげまっせ」
 そして、裏の共同井戸の物音を聞きつけると、今度はそっちの方へ走ってゆき、
「下の小母さん、朝顔の花見に来てつかあされ。コノエさん、朝顔が十三センチ五ミリの花が咲いたんで、来てみい」
と、井戸端の年寄りや近所の嫁さんに呼びかける。コノエさんはもう朝畑をして戻ってきたらしく、くわの束を井戸の中へつるしていた。クニ子とは小学校から同級生でお互にあけすけなものいいのできる間柄であった。
「三十とはたちをすぎたおなごが二人、起きぬけでべべも着換えんとからに、十三センチ五ミリの朝顔じゃといや、聞いてあきれら」
 冗談ながらそういわれるとクニ子ははじめて自分のなりに照れ、それでもコノエさんが妊娠の大きな腹をつきだして歩いてくるとほっとした顔つきで、
「そういいなさんなっちゃ、これ見たらなるほどと思わ」と、もう自慢で花のそばへ案内した。
 そんな工合にクニ子の草花への心の持ち方は異常なものがあった。
 今年もまた、クニ子のひとり約束でかれた朝顔は近所合壁の垣根や窓先に芽生えかけている。花にはまだ遠いがやがていっせいに咲きだすであろうし、そしたらクニ子は満足の顔つきで花に見送られてゆうゆうと出かけ、やがて夏も終りかけるころには葉鶏頭はげいとうやコスモスなどにとりかこまれた家々の間の小径を、夕陽にまぶしく照りかがやくそれらの花を生徒を眺めるようににこやかに、胸を張って帰ってくるであろう。
 そういうクニ子のことを、実枝はこのごろいろいろ考えるのであった。一昨年までは病気の父親を抱えて結婚したくもできなかったのでもあるが、それでなくてもクニ子は縁談が持ち上るたびにいやがった。
「あれはな、うちが先生しよらなんだら貰いに来やせん。うちの月給と結婚したいんで」
 またある時は、
「実枝、聞いたか、男いうもんはあんなんど。やれ財産があるの、やれ何とか議員でござるの、まま子が三人あることは忘れとったようににしなにんまい声でいうたなあ」
 そういってふっふっと笑うクニ子。そしてこのごろでは仲人なこうどに立つ人がその話にかかると、
「あ、そのことでしたら私はもう結婚はしませんから」
と、ろくに話も聞かずに鼻先をへし折ることさえある。実枝が気をもみ、
「姉やんのように考えたら嫁さんに死なれた男は皆悪人ということにならあ、もっと考えようがあろうがいの」
「いいや、誰が何といおうとも嫁にはゆかんのじゃ、うちは男に養うてもらわいでも、みんごと食うてゆけるさかいな」
「ほんなら姉ちゃん、男に養うてもらうために嫁にゆくんかいや、誰でも」
「そうじゃ」
「ふうん」
 お互にむらむらとした顔つきで黙り合う。
 姉妹二人暮しの中で職業を持つクニ子に代って一家の主婦の役目を負わされている実枝はいわゆる世間というものをクニ子よりは知っていた。それに比べると文字どおり十年一日七つ八つの子供を相手に暮しているクニ子は単純で好人物なくせに、融通のきかないような一面をもっていた。世間の人はなぜクニ子さんは嫁に行かないのかと実枝にたずねる。そのたびに実枝は辛かったり、悲しかったりする。結婚生活というものが仕合せで通せるものかどうかそれは分らない。しかしクニ子のように再婚だから不幸だとか、その不幸が皆男のせいであるような考え方は実枝にはできなかった。それは実枝自身に恭平という将来の相手があるからであろうか。恭平は少し離れた村の農会に技手として働いている青年である。実枝はその恭平の日に焼けた顔を思い浮べるだけでも自分の仕合せが胸の底から湧き上ってくる。この仕合せをクニ子は知らないにちがいない。平気で花を作っているけれど、いつまでも平気で花に心を傾けていられるであろうか。あの花への愛情と熱情を、せめて半分だけ自分自身に向けることはできないのであろうか。あの情熱はちょっと方向をかえればもっと大きな喜びの中で、もっと大きな花を咲かせるかもしれない。実枝はどうかしてクニ子の肩をつかまえ、クニ子が背を向けているものに面と立ち向かわせたいと思うのであった。


 同じ両親、つまり日向ひゅうが重吉と妻いねの間に生れ、大勢の姉たちの誰とよりも永年いっしょに暮してきている二人であるのに、クニ子と実枝は両親の血を別々に分け合ったように異った性質に生れついていた。その顔立ちまでクニ子はせ型の母親に似ている! 実枝の方は父系似で、若い時から十七貫を下ったことがなかったという祖母のかやに生写しの丸い、太ったからだをしていた。
 人間の持前の性格というものが、生れでる前後の両親の置かれた環境に多少とも左右されるということがありうべきことならば、その結果はクニ子の場合にもあてはめられるかもしれない。十人兄弟の九人目であるクニ子が生れる時、日向の一家はその二三年前から徐々に樽屋の仕事を失いかかっていて、大勢の家族はその日その日をつなぎかねるほどのどん底に落ちていた。もうあと一年で師範学校を出る長男の隼太はやたが夏休みに帰ってきているところへ債権者がつめかけ、高松の学校へ行くほどの金があるなら貸金を返してくれと若い隼太を泣かせたり、いねが実家へ相談にゆくともうその顔を見ただけで逃げ腰の兄の態度にいねを憤らせたり、時には重吉を自棄酒やけざけに浸らせたり、このままでゆけば家も屋敷も売払ってしまわねばなるまいというところまで行っていた。そういう時に望まずして生れてきたクニ子は、まるで一家の苦悩を分け合ってでもいるようにおとなしく、そしてその両親といっしょに世間を狭く感じているような顔つきで成長していった。髪の毛の逆立っているクニ子のりをしながら祖母のかやは口ぐせに、
「よい子になれよ、よい子になれよ」
と、その逆立った髪の毛をで下した。頭を撫でてやるとかんが納まるというのがかやの信条で、かやは上から下へ九人の孫の頭を撫でてきたのであったが、髪の毛が逆立っているのはクニ子だけであった。いねはいねでろくに菓子も買ってやれない時代に育つクニ子への不憫ふびんさから、我身をけずる結果を知りながらいつまでも乳を与えた。今まで八人の子供たちが一年置きに生れる妹のために自然にゆずっていたのとはちがって、クニ子は末っ子の特権のように出もせぬ乳にぶら下り、いねはまたそれで埋合せをつけるような気持で、しなびた胸をはだけていた。それでもクニ子が八歳になり、今年から学校ということになると、
「先生に笑われる」と、クニ子は自分からやめた。
 四月一日、その日、クニ子は早くから鞄を肩にかけて母親をきたてた。
「おいや、嬉しいこっちゃなあ」
 いねは自分の嬉しさもこめて、急きたてられるままに手織のかすりの着物に着かえ、中幅帯ちゅうはばおびを引上に結んだ。嫁入る時持ってきたいねの母親の自慢である着物が三十年後の今日たいして派手にもならず自分の身に合っているのが不思議であった。娘の時、あいから作って、母親と二人で染めたその藍の色がよく枯れて、大事に着たせいか、これから先もまだ何年着られるか分らないほどしっかりしている。そんなことまでが何か自分と深いかかわりでもあるようにも考えられ、クニ子と同い年の子を持つ村の若い母親たちに交って、末っ子を小学校にあげることが、何か自分にもこれから、今までと異った新しい生活がやってきそうなはずんだ気持でクニ子と手をつないででかけたのであった。長男の隼太も任地の高松で嫁を貰っているし、長女のミチは醤油会社の杜氏とうじをしている男に嫁入り、広島で世帯を持っていた。考えてみれば、いねはわき目もふらずに子育てに明け暮れた三十年に近い月日が永かったとも短かったともいいようのない思いであった。ましてここ十年の労苦はいねの頭を年よりも白くさえしている。
 ――これからはたまには金比羅詣こんぴらまいりくらいできるじゃろ、そしたら隼太の所で洗濯をしてやったり、ミチの所へも行って一月くらい手伝い、宮島さんへ案内してもらおう――。
 いねは、ありきたりの母親の持つ望みを自分もやはり持っていた。そう考えることで永い人生の峠に腰かける場所を見つけたような喜びがあった。腰かけはでこぼこの石であろうとも木の根であろうとも、疲れが休まるにちがいない。この世の女の負わねばならなかった重たい荷物、それをちょっとの間でも肩からはずすことのできるという心のゆとりが、今はじめて自分にもめぐってきたように思えた。そう思う気持の次には、これからは孫の世話も見ずばなるまいと、本能的にまだ形のない孫へのあこがれを持つのであった。
 そんないねに、一大事が持ち上ったのである。もう女としてのつとめがおしまいになったのだろうと思ったからだの異状が妊娠と判った時、いねはあまりのことに青くなり、重吉は重吉で無事に生めるだろうかと年とった妻を眺めた。やせこけて老婆のように目はくぼみ、今さらどこに母となるべき力がひそんでいるかを疑わせるほど衰えてしまっているいね。そのいねの妊娠は村じゅうどころでなく近村のうわさにも上り、中には無遠慮に、
「四十四の尻ざらい、四十五のごうざらしというがおいねさんは何ぼになりゃあ」と聞く人もいた。いねはその時四十六であり、生むのは年明けのことになるので四十七になる。が悪い、とこぼすと重吉は、
「何のが悪い、不義の子じゃあるまいし」と声をあららげるのもはげましの気持から出る言葉であった。そうした中でいねはしだいに肥立ひだっていった。重吉は遠い町までふりだし薬を買いに行ったり、子安地蔵の守り札を受けてきたりした。どうでも無事に生ませたいとねがい、どうでも無事に生まねばと心がける二人は、今までのどの子にもしなかった用心深さで薬風呂を立てたり、毎日生卵をのんだりした。それでもいねはなおやせ細って顔が長くなった。大きな腹を抱えてくる日のことを案じ、日ごと夜ごとを針を運んでこまこまと先々の片づけものをして暮した。そうしながらも母親の不安も知らずに時々下腹で動く胎児をいねは不憫さのみで、その将来を思いやるのであった。
 お産の日が近づくとミチは広島から、見習奉公をしていた妹のカヤノは大阪から、まるで母親の臨終にかけつけたような悲愴ひそうな顔つきをして戻ってきた。家にいる十六の八重を加えた三人はいちようの決意をしっかりと胸に叩きこみ、よるとさわると不安の目を交した。それでも母親の前ではわざとひょうきんなことをいって笑い合った。
 いよいよの日が来た。二月も末の真夜中のこと、祖母はクニ子や、その上のアグリたちをつれて納屋のあげの間の方へ布団ふとんを運び、早くから寝せつけた。大きい子供たちはそわそわと目を見合って、ひそかに産褥さんじょくの母親を取囲んでいたが、娘たちの力みように反して赤ん坊はあっけなく生れた。なあんだ、と拍子ぬけのていで、それでも何かと忙しく立働いていると、
「ああ、ずるずるが来そうな」
と、もう語尾は眠っているようないねの声に三人は思わず顔色を変えた。貧血から来るこのずるずるとひっぱりこむような眠気が恐いのだと聞かされているので気が気でない。ミチは年とって腰の曲った産婆に命ぜられたとおり、を入れたどんぶりをいねの鼻先へ持ってゆき、がんがんおこった炭火を挾みこんではじゅんじゅん煙を立てた。そのはげしい匂いでいねは目を開くのであったが、眠気の方はいねからすべての力を奪い去り、潮のひくような自然のかたちでいねをさらっていこうとする。
「ああ、こりゃいかん」
 それを知っていて懸命に闘っているのだが、いねの声はうつつからしだいに消えてゆき、ついに努力を忘れはてて気を失ってゆく。それをせき止めようと必死なのはカヤノと八重であった。二人は大声で母親を呼びつづけた。かやがばたばた七輪をあおぎながら、眠らすな、眠らすな、と叫ぶ。八重はやみの中を跣足はだしで医者にかけだした。冬の真夜中で大儀そうな老医に八重は泣きついて何度も頭をさげ、手をひかんばかりにして連れてきた。部屋じゅう酢のこげた匂いがこもった中へ医者が来て、いねはようやくこちらのものになった。まるで生死の綱引のようであった。
「危なかったなあ」
 老医は白いあごひげを撫で、それまで片隅に忘れられていた小さい赤ん坊をのぞきこんだりした。
 そんな騒ぎがあったとも知らず納屋で朝を迎えたアグリやクニ子は、小鼻をひろげるような顔つきで足音を忍ばせながら母家おもやへ入っていくと、祖母と姉たちも思い思いに炬燵こたつに足を入れて、自分たちを忘れたようにぐったりと眠っている。奥の間では布団を高く畳んだのにもたれかかっていた母親がわずかに薄目を開いた。そのそばに顔は見えぬが小さい寝床が並んでいる。二人はまたぬき足で近づき、しゃがみこんでのぞいた。赤ん坊は着ている紅木綿べにもめんの着物と同じような顔色をして眠っていた。始めて妹をもったクニ子は小さい姉のアグリに向って小声で、「ねねこはクニが負うんど、クニ一人が負うんど」と今日から自分のおかれた姉としての権利をでも主張するかのようにいった。いねの蒼白の顔に笑いが浮んでいた。
 そのころ、もう船乗りになっていた重吉は讃岐さぬきの志度という所へ行って留守であった。海が荒れているので六日の名つけまでには帰れるかどうか分らない。いねは子供たちに向って皆で好きな名をつけてくれといった。そういわれる前から子供たちは名つけの評定ひょうじょうでやかましかった。高等科へ行っている高子は自分の読んでいる小説の中に桂子という優しい心の少女があるからそれにしてくれと熱心に姉たちに頼んだ。カヤノはカヤノで、信子というのが好きだと主張する。八重は実枝というのがよいといい、ジツエではない、ミエだと説明した。クニ子が生れた時にも、九人目だからクニ子にせよといってそれが通った祖母は、
「今度はんまい子じゃせにコマエとでもつけいや」
といったが娘たちが承知しない。審判のミチの提議で結局それぞれの名は神棚に上げられ、あらためてくじを引くと実枝と出たのであった。誰も異議を唱えるものはなかった。
 赤坊の実枝はこうして世に出、小さいなりに達者であった。ミチもカヤノもそれぞれまた船に乗って広島や大阪へ帰っていった。百日の宮詣りが近づいていた。いねは姉たちの着古きふるした赤い布をあれこれと見積っていたが、しゅうとのかやに向って、
「孫のような子をつれて宮詣りでもあるまい、やめとこか」
 するとかやはもってのほかという顔つきで首をふり、
「何をいうぞいの、罰当りな。鶏でさえも卵生んだら、ここここと鳴くのに」
 いねはつぎはぎをして実枝の宮詣りの赤い着物を縫った。


 暦を遠い昔にさかのぼらせると、永い間母一人子一人の暮しを立てていた樽屋の重吉に、河内源氏かわちげんじの流れを汲むといわれている河内屋の一人娘であるいねが嫁入ったのが明治二十年のことであった。つり合わぬこの縁組に人々は目を見はり、やがておいねさんはふずくり嫁だという噂がもっぱら立てられた。ふずくりは不作りという意味ではなく、押しつけというような意味である。普通どこの家でもたいていの場合娘を貰いに来られるのを待っていて、仲人から話を持ちこまれても親たちは形式的に一二度は断りの言葉を述べる。たとえその相手がひどく気に入っている場合でさえもいちおうは断ってみるのであった。それを当り前のこととして仲人は何度も足を運び、嫁の方ではむりに望まれて、とはくをつけてとつがされるのである。そういうしきたりから考えればいねはたしかにふずくり嫁であった。働き者の重吉のまじめさを見こんで、いねの母親はどうでもこうでも娘を貰ってほしいと、まだるっこい形式をとらずに娘をふずくったのである。自分自身夫に見捨てられた妻であり、小姑こじゅうとに悩まされた嫁であったいねの母親は、男の子はあるが一人娘のいねにふたたび自分と同じ道を歩かせまいと永い間思いつめていた果ての手段であったにちがいない。いねは自分がふずくり嫁であるということもずっと後になって耳に入ったが、別にそれで引け目を感じねばならない思いは何もなかった。それよりもあまりてきぱきとは事を運べないたちの母親のしまに、よくもまあ、とそのことの方に何か不思議をさえ感じ、これが本当のことなら、あれほどの夫のために髪を切り、墓参で暮す母親のあの土蔵に閉じこもったような一生の中で、これはたった一つ、日の目を見た出来事なのだろうと思った。
 いねの記憶では十歳の時にめかけの家で死んだ父親が、夜半に戸板にのせられて家へ帰ってきた時のほか、自分の家で父親の姿を見たことはなかった。小さい時、いねは寺子屋の帰りみちなどで、すぐその近くにある妾の家を出入りする父親の姿を見かけた。黒い羽織を着ていた。そのころは普段、羽織を着る者は庄屋の旦那と医者どんくらいであり、娘を寺子屋へ通わせる家も少い時代であった。いねは自分が手習いに行っているということで、父親が何か言葉をでもかけてくれそうな気がして利口ぶった顔をして色の白いその顔を上げたのであったが、父親は赤の他人のように素知らぬ顔で真直ぐに歩いていった。石ころがあるほどの注意さえもしてくれなかった父親、それなのにいねはその父を嫌いではなかった。それどころか、父親が戸板にのって帰ってきても誰も悲しんではいなかったし、かえって安心したような母や兄の顔つきや言葉を、いねは成長するにつれて眉根の寄ってくるような心持で批判するようになった。
「この子はまあ、生れて一ぺんも父親に抱かれたこともないのに、顔つきも根性もお父つぁんによう似とら」
 多少とも悪意や反感をこめていう時の母親のそんな言葉に、父親の愛情をてんで知らないいねはよけい反発されて父親に肩を持ちたい気になったりした。
「茶が飲みたくても自分の家では女房のしまがじょたじょたしながら茶釜の首まで水を入れて火床の前にでんと腰を据えて炊きつける。一寸の間尺には合わない。おこうが茶を炊きゃ、ぱっと燃えたらしゅんと沸く」
 そういっていねの父親は若い後家さんのおこうにかれたわけを人に話したという。その善悪はともかくとして、いねは何か父親の気持にわかるものがあるように思えた。いねの二人の兄は皆母親贔屓びいきで、単純でことに正義派の長兄は両親が死んだあとまで露骨にそれを現した。いねに三人目の子供ができかかっている時にその母親は死んだ。普通この辺では夫婦は一つの石碑にその名を並べて刻みこむのであったが、例の単純な兄は両親の石碑を別々に作った。それは父親が死んだ時からの計画であったらしく、父親の石碑は家柄に不似合な小さいもので、石碑の真中に戒名かいみょうが刻んであった。その倍ほどもある母親の石碑は鏡のように磨かれていて、影がうつった。碑の裏には郡長の筆になるという達者な文字で故人の来歴がことごとしく刻まれ、賢夫人として夫の小さい石碑の前にはだかっている。それで母親のかたきを打ったように考えている兄のばか正直さがいねにはかえって恥さらしに思えるのであった。その思いはいねの子供たちがえ、毎年の盂蘭盆うらぼんや年忌などに墓へゆくたびにどの子供かの質問でよけいはっきりとそう思うのであった。子供たちは度はずれて大きな祖母の石碑を多少誇りをもって撫でながら、
「大けい石塔じゃのう。ここらへんで一ばんじゃが」
 するともう一人がそれにつづける。
「お祖父じいさんは道楽したせに伯父おっさんが小んまい石塔建てたんど」
と、後ろにかくれた祖父の、今はもうこけむした石碑と見比べる。道楽が何であるかまだ分らないような隼太やミチをつかまえて、いねの兄が修身の先生のような顔でいつかの年忌の時いって聞かせたのを、子供らはちゃんと覚えていて時々そんな風に語り合っているのであった。そのうちに文字の読める子供が俗名しまという祖母の名を見つけだし、その祖母の生家が志摩しまという姓であることと思い合せて大発見をでもしたようにいった。
「お祖母さんは嫁に来る前には志摩しまじゃなあ」
 わっと笑いだす。いねも子供のそんな思いつきについ笑顔になりながらも、
「おいや、志摩しまは今ごろお祖父さんに叱られよるわいや。――」
 こんな小んまい石塔で死恥しにはじかかされて――といおうとしたが、いねは黙ってしまった。するとまた子供の一人がいう。
「叱られるもんか、お祖父さんは地獄で、お祖母ばあさんは極楽にいるんじゃもん」
 いねはもう何ともいえず笑っていた。それも兄の言葉だろうと思うと、子供らは別にいねほどの複雑な気持はもちろん持っていそうなはずはないのだが、それだけにいねの胸の中でもやつくものがあった。
 そんな風ないねの係累に比べて、重吉の方はしごく簡単であった。母一人子一人の境涯は重吉が生れて間もなくのころから、いねと結婚した二十七の年まで続き、しかも若い間を働いて働きぬいて、息子が一人前の樽屋として親方を離れるまで自分で暮しを立ててきた母親のかやは同じ後家でもそうした女の持つ心のひろさが自然に備っているようなところがあった。かやは若い時夫婦養子で隣村の相当の家へ貰われていたのであった。仁左衛門というその養家は今でも立派な門倉のある家であった。後々かやのそんな昔のことが話題になったりすると、孫どもは不思議そうにたずねる。
「お祖母ばあ、どうして仁左におらなんだん? おばあが仁左におったら、うちらはあんな大けな家の子じゃのに」
 かやは大きな声で笑う。そしていう。
「おばあが気ままもんでなあ、団子だんごが腹いっぱい食いたかったり、ままを二杯で辛抱ができなんだりしたんじゃ。おばあは若い時大飯食いでなあ」
 そう聞くと、孫どもはああそうか、そんならしかたがないとでもいうように、ふうん、という顔をする。すると、そんな話を何度か聞いたことのある大きい孫が、
「甚作どんが逃げんか、逃げんかいうたんよ」と、知っていることをまた聞く。
「おお、逃げんか、逃げんかいうてな」
 かやはなおも歯を出して笑う。色の白い頬の肉が赤ん坊のようにれ下り、目尻に三四本のしわをよせる。甚作というのが重吉の父親であった。船乗りであった甚作が伊勢の的矢まとやの港でコレラにかかって死んだ時、かやは二十六であった。病気が病気であったため、乗組の連中は甚作の髪の毛さえも持って帰ってはくれなかった。まだ世は明治にもならぬ時のことで、船が戻ってくるまで誰もそれを知らなかった。世の中がだんだん開けるにつれてかやは一度は甚作の墓にまいりたいと思い暮してとうとう腰が曲ってしまった。その間に一度、伊勢講いせこうのくじが当って重吉が伊勢へ行った。講の連中はたいていひと年入れた者か、隠居役の爺さんばあさんの楽しみ事であるのであったが、かやは重吉をむりにすすめて自分は行かなかった。まだ独り身であった重吉が顔も知らない父親の墓を訪ねたことはいうまでもなく、墓石の下の土を一握り、手拭に包んで持って帰った。かやはその土をじかに両手にすくい、
「これでお父つぁんも安心したろうわい」と、もう一二年で甚作の年配になる息子の年とともに父親に似てきた顔を眺め入った。船乗りばかりはこりごりだと、重吉は職人にならせた。かやは甚作の死目に会えなかった本意なさを終生その心から離さなかった。自分は重吉一人しか生むことができなかったが、次々に生れる孫どもに、かやは我子に聞かせるような気持で、甚作どんの話を語って聞かせた。お祖父やんと呼ばずつい口ぐせのように甚作どんと呼ぶことなど、甚作どんに関する限りではかやの気持は二十六の若さでさえあった。
「甚作どんはなあ」またある時は「おじやんはなあ」と、かやが口を切ると、何十ぺん、何百ぺんとなく聞かされて、そのことではかやと同じほどの言葉を宙で覚えこんでいる孫たちは次に続くはずの言葉を引きとって、
「コロリにかかってな」という。かやがコレラのことを今だに昔風にコロリということが、小さい者たちにはおかしかった。かわるがわるに、
「イセのマトヤで死んだんじゃ」
「ヒヨリヤマというとこに墓があるせになあ」
「大けになったら皆銭をもうけてな」
「墓いまいってあげよ」
「おじやん、お前の孫が来たぞよ、いうてな」
「小んまい石塔に、小豆島しょうどしま甚作、いうて書いてあるといや」
 孫たちはその言葉の抑揚までを真似まねていい終り、きゃっきゃっと笑う。半分はかやをばかにしたような調子であるのだが、かやはそれでもやっぱり目尻にしわをよせ、丸い頬を垂れていっしょになって笑い、
「今日びは便利がえいせになあ、お前らも伊勢に詣ったらその時は忘れんと墓いまいってあげよ、お伊勢さんのすぐに近所じゃといや。おばあの代りに来たぞよ、お前の孫が来たぞよ、いうてな」
と結んだり、また時には、
「船乗りの嫁にはなるだけゆくなよ」ということもあった。炬燵こたつの中で小さい孫を膝にのせ、暑い夏の日、日陰の涼み台の上で、ある時はそら豆の皮などむきながら、またある時は孫と向い合ってひきうすを回しながら、歌でも歌うような調子でかやの甚作どんの話はくり返された。
 ある日、五番目の孫の八重は学校から帰ってくるなり納屋の前でむしろをひろげ、草履ぞうりを作っているかやのそばへ、でんと坐りこんだ。
「おばあ、あったぞ、あったぞ」
 風呂敷をひろげ、地理付図ちりふずを取りだした。八重はその日三重県の地理を習ったのである。ふと目に入った的矢まとやという地名に名状しがたいほどの感激で夢中になった。甚作どんが自分たちの祖父であるということも今日までは実感としてはぴったり胸に来なかったし、祖母の語る話も桃太郎や花咲爺はなさかじじいと同じように物語の中の人物のように感じていた八重は、「ほんまのことじゃ、あれはほんまのことじゃ」と、教室の中で何べんも自分に念を押した。的矢は伊勢湾の入口の小さい入江にあった。そこで死んだというのに墓があるはずの日和山ひよりやまはなぜか少し離れた場所にある。甚作どんの乗った船が小豆島を出て伊勢まで行くには鳴門海峡を通るか、播磨灘はりまなだから明石あかし海峡を経て紀淡海峡きたんかいきょうをぬけ、紀伊半島をぐるりと回って伊勢まで行っていたにちがいない。八重の目の前を、昔あったという千石船が帆に風をはらんで太平洋を伊勢の海まで走っている姿がちらついた。八重は学校がすむと飛ぶように帰ってきたのであった。そしてひろげた地図の一ところを指し、嬉しい声でいう。
「おばあ、ほんまに伊勢の的矢があったぞ! ここじゃ、分ったか、これが伊勢湾でのう、これが的矢湾で!」
 地図と祖母の顔をかわるがわるに見比べる。かやは作りかけの草履ぞうりを置き、目を細めて八重の指す地図の上に顔を向けた。
「何じゃごちゃごちゃしとっておばあの目にゃ分らんがいや」
「ここで、これじゃが、これが日和山、これが的矢、のう」
 八重が口早に教える。そうはいわれてもかやにとっては何十年という永の年月をついに行けなかった遠い伊勢の的矢が、今自分の膝の上で、ここじゃここじゃといわれても、八重の指先にさえかくれてしまうほどの紙の上では何か見当ちがいのものを感じるようであった。それでも嬉しげに八重の指すところを、からだをだんだん後ろへよせるようにして見つめ、
「そうかいや、そうかいや」と相づちを打ち、なおも目を細めたり、開いたりした。
「まるでこりゃ、青や赤やのしぼりのきれみたような」といいながら本を手にとり上げ、腕の長さいっぱいにさしだして眺め入った。
 それほど甚作どん思いのかやではあるが、お寺参りにはほとんど足が向かないらしく、それよりも次から次と殖える孫をいつも二三人ずつ引きつれて、ちょこちょこと麦飯の弁当を作り、山や磯へ遊びに行った。若い時から雨さえ降らねば外へ出て働いてきたかやには、空天井そらてんじょうで弁当を食べる働きのくせがいつまでもぬけきれず、腰が曲ってからでも畑のあぜに坐りこんで沖を眺めている方がお寺の畳の上より気楽なもののようであった。
 隼太をかしらにミチ、カヤノ、フサエ、八重、高子と女ばかり五人つづき、十二を頭に六人の子持である上へ、隼太が生れて間もなく、千吉におたねという七つと五つの姉弟の孤児を拾い上げて育てた。近村から流れてきて、隣りの神社の堂や浜の漁船の中に姉弟で抱き合って寝ている二人の幼児を初めは別にそんな気もなくただ可哀そうに思えて食物などを与えているうちに、いねは姉さん姉さんと慕われだし、いっそのこと、と重吉やかやとも相談してしらみだらけの着物をぬがせ、頭を坊主にして家へ入れたのであった。それを合せて子供が八人、まだその上へ入り代り立ち替り樽屋の弟子が、小さいのは小学校四年を出たばかりのから(その当時は小学校は四年制であった)大きなのは兵隊検査前まで五六人ずついた。日向の一家は雀の宿のようににぎやかで、五升炊きの大釜で飯を炊いていた。弟子たちも千吉やおたねも子供と同じように育てられ、兄妹のように喧嘩けんかをした。そういう騒々しさを見て、
「ようもまあ物好きな」と、他人の子まで育てることを呆れるようにいう人たちに、かやは、
「親の子ぶにを息子がうけたんじゃろ」といい、いねはいねで、
「五人育てりゃ五つの楽しみ、七人育てりゃ七つの楽しみ」という。聞く人々は、ふうむ、と首を左右にふって感に堪えぬように、
「ようもまあそれで引合うのう」という者さえあった。すると重吉がその言葉にきだし、
「引き合うのう、か。豚のか何ぞのように」
 だが、まったく子供たちは豚の仔のように終日がちゃがちゃ騒ぎ回った。豚の仔が同じような桃色の肌をしているように皆同じ着物を着せられることさえあった。気に入ったとなるといねは同じ柄を五反も六反も織り、一つ身から四つ身までを十枚以上も作った。喧嘩しなくてよいという建前たてまえであったが、喧嘩はそんなこととは別に起った。小さい時から荒い声も出さずに育てられたいねではあったが、これだけの世帯を切り回しているうちに気性も変り、事あるごとに板木ばんぎのように、大声で呶鳴どなりつけた。笑うのも叱るのも大声であった。一人の子が熱を出して薬をのまされ、あれこれと欲しいものを食べさされているのを見て頭の痛い子が三人も四人も出てきて、自分も晩飯はほしくないという。いねは一人一人の額に手をやり、だまって寝かした。
「さあ、ままじゃ、飯じゃ」
 大声で呼ばわると子供たちは三十分もたたぬ間にもうなおったといって起きだしてくる。
「さあ、寝た寝た!」
 まるで号令である。八畳の間いっぱいに敷いた布団の中で子供たちは喧々ごうごうをいつまでもつづける。
「無言!」
 いねは次の間からまた号令をかける。ぶちきったようにひっそりとなる。やがて、
しゃごん
と、子供の中の誰かがいって、先刻の喧々の時いい残したことをしゃべりかかる。いねはその方へ顔を向け、
「ようし、誰じゃしゃ言は」
 今にも立ってきそうに聞えるいねの言葉に子供たちはいそいで布団を引っかぶり、やがてすう、すうと寝静まってゆく。
 いねはようやく自分のからだになる。朝から始めて腰を落ちつけてランプのしんをかきたて、一寸三針にせっせと針を運ぶ。昼間は工場に働きに出る重吉も夜は家でおそくまで弟子を相手に仕事をした。とことん、とことん、とんことんとん、と拍子でもとっているように仕事場でたるを叩く音が太鼓たいこのように地続きの荒神様こうじんさまの森へひびきわたる。重吉の樽屋としての腕は近郷に知られ、海をへだたった四国の方から弟子入りをしてくる者さえあった。重吉の結ったたらいでも桶でも輪が切れん限り何年経っても水がらない。つねづねは使わないすしはんぼなどは重吉にこしらえてもらわねば狂いが来る。重吉は桶の名人である。そういうことを早く仕事をしてもらいたいために半ばへつらいながらいわれるたびに重吉は、桶ぐらいに名人もへったくれもあるかい、と笑う。そして弟子たちにいって聞かせる。
「信用をとるには、仕事を急ぐな、くれを充分に乾かせ。それが一ばんの秘伝や奥伝じゃ。しかし持って生れた器用不器用はこれ、しかたがないがな」と。
 とんことんとん、とんことん、とろろろろん、と板の上でくるくる手取りにされている樽の音、その樽の小さい口から、ふうっと大きく呼吸いきいっぱいを吹きこんで針の先ほどの空気洩をも調べる親方の口もとや手もと、足の構えなどを弟子たちのたくさんの目で見守られている重吉のねじ鉢巻の頭、何もしないでただそれを見ているだけの小さい弟子たちがもうそろそろ眠たくなるころ、いねはぜんざいを作ったり、芋ねりをこしらえて仕事場へ運ぶ。いつかのこと、そら豆のったのを一握りずつ添えたことがあった。豆はいくらもなく、いねはざるの中を目分量で計り、大きい弟子の順に配って回った。すると三番弟子の常蔵つねぞうと、そのころおくればせに小学校を出たばかりの千吉とが豆が多いとか少いとか小声で言い合っている。いねは聞きとがめて二人の前に立ち、
「数をよんでみい、少いもんにそれだけやるせに」
 二人はそら豆を一つ二つと数えた。両方とも三十七粒あった。
「それみい」とはいったがいねは声をあげて笑った。いねのそうした子供の扱い方や、やりくりの上手さは、おいねさんのような女子おなごになるようにと、できた子供に小いね、いね代などと名をつける人さえあった。そうしていね自身も七人目を生んだ。また女であった。
「もうここらでよかろ、スミエとしようや」
 六日ざりの名づけの膳に向ってそういう重吉にかやは首をふり、
「まだお前、三十三じゃすむまいて、隼太のつれに男の子ができるようにアグリとつけいや」といった。アグリでなくてもアの字をつけると次に男が生れるという言草いいぐさがある。それもそうかと赤ん坊はアグリとつけられた。
 アグリは生れながらにして今までのどの姉たちにも求められなかった一家の希望を押しつけられて世に送りだされた。ところがその次の日からいねはふるえだし、あとは高い熱に浮された病人になった。金比羅こんぴらさまへ願をかけたり、重吉が氏神様うじがみさまへ百度を踏んだりした。ようやく命は取り止めたと思った時には乳は止ってしまい、しかたなくアグリは近村の石工の家へ里子に出された。時々かやはアグリを見に行った。あまり大事にされて下へは寝ず抱いて育てられているらしいアグリの様子を見ると、かやはだんだんよその子になってゆくような不安を感じ、早く取戻さねばと思った。しかし、いねはアグリの産後いっさいの物音に頭がめ、生家の隠居所にしをしていた。眉間みけんにいつも深い立皺たてじわをよせ、あおい顔をして手拭で鉢巻をしていた。そんなありさまなのでしかたがなかった。かやはその時七十の老体をいねに代って世帯を切り回さねばならなかった。自分がいいだしてアグリなどと欲ばった名をつけたことを、かやは何度も口に出して、まるでそのことがいねの病気のもとででもあるかのようにくやんだ。
 アグリに乳をませなかったせいかいねは今までより早く次の妊娠をしていた。もしやと思ったがやはり女であった。重吉が琴平へいねの願ほどきに詣っている留守にできたので琴代とつけた。珍しく髪の毛の濃い、目のぱっちりとした子であったが、一か月たたないうちに死んでしまった。血の道という病気は次の子供が生れるとなおるといわれているとおり、いねはもとのからだに戻り、眉間の立皺はとれていた。乳がありあまるほどあったのでアグリを取戻そうという話も出たがどちらになってもアグリにはもう乳はらないはずだと、いねは自分の健康を取戻してくれるためにこの世へ生れてきでもしたような琴代のために泣きながら乳をしぼり、小さい硝子瓶ガラスびんの口までいっぱいにみたして、琴代の小さい棺の中へ入れてやった。いねは起きて浜辺の自分の家へ戻ってきた。
 そのころを頂上にして日向一家は坂道を下るように窮乏きゅうぼうの中へ落ちていった。それは重吉の持つ得意先の三軒の醤油屋のうち二軒までが関西の商人にかけ倒され、ほとんど同時に逼塞ひっそくしていったのであった。ううん、とうなりこんで煙管きせるくわえて思案をする重吉に、いねもかやもよい知恵が出てこなかった。とんこ、とんとん、夜なべのつちの音も響かず荒神様の森はいつまでもひっそりとした日がつづいた。おけを作ったり、おひつをこしらえたり、時には近くの村の醤油屋へ臨時の手伝いにやとわれていったりした。そうしながら一人一人の弟子にそれぞれ新しい親方を見つけてやり、家の方は千吉と二人になった。千吉はもうその時二十二になっていた。ゆくゆくはミチの婿むこにして家業を継がせようというのが重吉のはらであったが、いつの間にか好きな女ができ、もう子供まではらんでいるという噂さえあった。千吉もそれを素振りにあらわし、自分だけをいつまでもくくりつけておく親方への不平をその子供たちに持っていった。両親ともいないある日三番目のフサエが仕事場の隅に向ってしきりに何か削っている千吉に、
「千よ、風呂の水入れてくれ」といった。千吉は、ちぇっと舌を鳴らし、フサエをにらみつけ、
「いつまでひとを使いくさる。小んまい餓鬼がきまで千よ、千よ、ぬかしくさって――育てられた恩はもう差引してつりがらあ!」
 そういって、自分のすぐそばで鉋屑かんなくずの中からえりだした木片を持って遊んでいる小さい高子を小突こづいた。思いがけなかったので高子は別に怪我けがをしたわけでもないのにありったけのような声で泣いた。千吉の鼻いきにフサエは呆然ぼうぜんとして物もいえなかった。かやが釜床の方から回ってきて、
「仕事場い入るないうてあるのに、高が悪い」
と、高子を抱き起した。千吉は黙って外へ出ていった。そのあとに玩具がんぐのように小さい櫃が竹くぎを入れたらしく、仮輪かりわで形だけ整ったのがころがっている。かやはそれを取上げ、
「見いほら、千が世帯でも持とうとて」
と、その可愛らしい櫃に子供を見るような眼を注いだ。
 その日千吉は晩めしに戻ってこなかった。いねは夜半に仕事場の裏の若衆部屋で何かちがった気配がするのでのぞいてみると、壁に提灯ちょうちんをひっかけて千吉が自分の持ち物を行李こうりの中へまとめている。いねはその方へきつい目を据え、黙って手を振った。
「明日まで待てえ、親方がわれに大和屋さんをやるいいよったぞ。家をだまってでたりしたらきかせんぞ」
 大和屋はあと一軒残っている得意先であった。


御破算ごわさんでゆこうかいや」
 そういう重吉の顔は晴々としていた。今まで、なまじ我身についている職にばかり頼ろうとしたところからかえって道が開けなかったというのが重吉の言分であった。なみの樽屋としてなら重吉一人ぐらい実際はどこへなりとせせりこめはしたが、ひと年入れた重吉にはそれができなかったし、たとえそうしたところでその収入だけでは大勢の家族は養っていけない。考えあぐねた末の知恵が商売をしてみようと思いついた。
「御破算でゆこう、御破算御破算、何もかも御破算」
 きれいさっぱり樽屋の仕事を千吉に渡してしまった。小さい頼母子たのもしを結んでそれをもとでに始めたのが米と酒を売る店であった。仕事場を改造してだだっぴろい店ができた。米俵こめだわら酒樽さかだるが景気よく並び、皆を豊かな気持にさせた。だが、そんな気になることからしてしんの底から商人ではない重吉一家は、さむらいの商法とはまたちがう、しいていえば職人の商法的な下手さでたちまち行きつまらねばならなかった。重吉はもとより、かやもいねも貸金の催促のできるたちではない。一度催促したあとは、
「借金というものはいつも気になるものじゃで、やいやいいわいでも金のある時には持ってきてくれる」
 そろってそんな風なつもりで待っていると、借りた人は忘れた顔をしている。しびれを切らして催促すると次の節季せっきにしてくれといわれたり、そんなはずがないととぼける人さえあった。おもに酒であった。中には女房に内緒で借りたのに取りに来られたのでは、もう払えないと、あべこべにきめつける連中さえあった。そんなことでこの方は一年と少しで回転が止ってしまった。いろいろ工面してその後につづけたのが文房具などを売る店であった。それまで村では近くの町まで行かねばそういう店がなかったので、村の子供たちは学校の行き帰りを店へむらがってきた。ある日の夕方、いねは絹糸のたとうをひろげて、思わず驚きの声をあげた。ついこの間仕入れたばかりの赤糸がごっそり姿を消している。仕立屋へ通っていたミチにいたが知らないという、カヤノ、フサエ、八重を呼んでただすとフサエが目を伏せて爪をかみだした。
「怒らんせに正直にいうてみい」
 いねのやさしい声にフサエはしくしく泣きだした。
「よその子にやったんか、え?」
 それでも黙って泣いた。
「今度からやるな、店のものは皆んなまだ問屋の預りもんで家の物じゃないんじゃ、黙って持っていきよったら盗人になる」
 そういわれるとカヤノも八重もきゅうに不安な顔つきに変った。
 子供らは自分の家に何でも欲しいものがあるのが嬉しくてならなかった。ちょうど学校でひもかざりを習っていたフサエは赤いカタン糸で麻の葉やつづみなどを縫い取りながら自分の家にはカタン糸ばかりでなくいろんな色の絹糸が仰山ぎょうさんあると、つい自慢をした。すると並んでいるおすえさんという子が一かせくれという。明日持ってきてあげると答えると、それを聞いた誰も彼もがきゅうにフサエに向って、
「おくれ、おくれ、約束したで」と口々に言ってむりに指きりまでされてしまった。カタン糸は十二色並んでお菓子のようにつめられた小さい四角い箱が戸棚に並んでいる。絹糸の方は※(「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66)こかせになっていて色別に束にしたのが厚いたとう紙にくるくる包まれて抽出ひきだしに入れてある。ひろげるとさまざまの色の一かたまりずつの糸が絵巻のように並んでいる。フサエは赤糸の束をふところに入れて次の日学校へ出かけたのであった。それが昨日のことであった。
「なあ、誰にあげたんぞいや」
 重ねての問いにフサエは初めて口を開いた。自分のせいではないことを責められてでもいるように不貞ふてた顔つきで母親の肩のところを見つめ、
「チヨノさんと玉枝さんとおよねさんとおかねさんと、おますやんとかあやんとおつねさんとに一かせずつやったんじゃい」
「それだけじゃなかろう、あとはどうした?」
「みんなおすえさんに上げたい」
 まるで突っかかってくるようなフサエの言葉にいねは思わず笑顔になり、チヨノさんに玉枝さんに、と指を折ってその一かせずつの人数を数えた。フサエのいうとおりならば、おすえさんの手にはまだ四十幾かせ残っている勘定かんじょうになる。いねは、ふうむ、と首を傾け、カヤノに向って、
「カヤノ、お前太郎兵衛たろべどんまでてな、おすえさんに一※(「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66)かせだけあげるせにいうてあともろてこい。フサエがな、売るもんを知らんとあげたんじゃせにいうてな」
「ええい」
 カヤノは肩をふって反対した。
「ほんなら八重がてくれるか」
「ん」
 案外八重は素直に引受けた。しばらくすると八重はおすえさんの母親といっしょに戻ってきた。来るなりおすえさんの母親は、
「まあ子供っちゃなあ」と、大きな声を出して上りかまちに横向けに腰かけ、たもとから赤いマリをそこへ取りだして頭を前に落すような格好で両手をついてあやまりながらも笑った。やる者もやる者、貰う者も貰う者、母親たちはお互に気の毒がり合った。おすえさんの母親が帰ってゆくと、
「ほんまに!」と、いねはそのマリを取り上げた。新しい絹糸を巻いた赤いマリはランプの光りを受けてつややかな色をしていねの手にのせられている。そばで、フサエは小さくなって坐っている。先刻さっきから土間に立っていた八重は遠慮っぽく母親の顔を見守り小さい声で、
「お母さん、うち、貞子さんとトミちゃんに筆あげたん、もろてこようか」
「え! 八重もひとにやったんかいや」
 あまりいねの声が大きかったので、八重は思わず尻ごみをして、まるで打たれでもするかのように右手をこめかみの所へあげた。
「しようもない奴らじゃなあほんまに、カヤノも何ぞひとにやったんじゃろ」
 すると赤ん坊のクニをぶっていたカヤノははげしく首をふり、
「やらへん、やらへん、約束しただけでまだやらへんで」
 と、必死のような顔つきであった。
「実際まあお前らはほんまに――」
 いねはあとの言葉もなく子供たちを見た。調べてみると店の商品はほとんど不足していないものはなかった。売った覚えのない上物のすみが二本もなくなっていたり、一ダース仕入れた細筆が一本も姿を見せなかったりした。
 そのころから重吉は小さい舟でいろいろなものを近回ちかまわりへ運ぶ海の上の便利屋のような仕事をしていた。いねはせめて馴れぬ重吉の仕事の手助けにと、子供相手ならばかけ倒れもなかろうかと始めた文房具店であったが、これでは商売には見切りをつけねばなるまいと思った。からだをもとでに働いてきた者にはやっぱりそれよりほかに安心してやれる仕事はない。重吉もいねも同じ意見で店をしめてしまった。隼太が学校を出たとしても十八円の月給では家へ足してはもらえまい。借金はしだいに利を生んでどうにもならないどたん場が目前に迫ってきた。
「御破算、御破算か」
 重吉は家も畑も売ってしまって小さい借家に移った。残ったのは大勢の家族と、そして重吉の近来の希望をむりに生かして大小二本の帆柱ほばしらのある古船を買いこむことになった。今までのように、近村ばかりを行ったりきたりするのでなく、仕事次第で四国へも中国の港々へも乗りだそうというのであった。
 ある日のお昼前、船の売手と、それを仲介した船大工がいっしょにやってきた。八十円と今までの持船を添えて交換こうかんということで三人の男たちは土間に立って手打ちをした。しゃんしゃんしゃんと打つの音が何か子供のふざけ事のように楽しく響くのをかやもいねも嬉しげに眺め、いねは一升徳利どっくりを持って酒屋へ走った。船はいろいろ造作ぞうさくを加えられて、ある日の夕方、潮の満ち始めを見計って家の下の浜まで回されてきた。明日から一家のかてを得るための新しい使命をになって船は家族の一員のように迎えられた。古船とはいえ、きれいに洗いみがかれていて帆柱の先には、日向丸と藍地に白ぬきの小さい旗がはためいていた。船乗りは心配だといい暮して職人に仕込んだ重吉が、別に職人を嫌ってでもないのにまるで前世からの約束事ででもあるように父親甚作の仕事を継いでしまったことは余儀よぎない回り合せとはいえ、かやにとっては不思議な運命とより思えなかった。しかも甚作のようにほかに乗組員があるというでなく、一丁のと風まかせの帆をあやつっての一人旅であるからには、甚作の場合よりもっと大きい不安がともなうわけであるが、かやは別にそれを口に出してくやみもしなかった。むしろその運命というようなものに好意でも持っているかのような顔つきで、「何事もするようにはならんで、なるようになる」といった。そして、もうだいぶ曲った腰をのばしのばし、孫たちといっしょに浜辺に立って、額に手をかざし、孫たちと同じような笑顔で船を迎えた。日向丸はともの船底に船霊ふなだままつり、その小さい神棚の右よりに赤いおき上りの小法師がぽつりと一つ置かれてあった。


 重吉の案外に平穏へいおん無事な海の上の年月に比べて家の中には人生の波がれ騒いだ。陸の船頭役であるいねは、実枝みえがまだ二た誕生も来ぬ時にきゅうに倒れて、からだ半分が利かなくなった。半身不随ふずいという病気が、まだ年からいえば若いいねの上にのしかかってきたことは、何といっても永年の過労の上に、晩年実枝を生んだことなどが病気の時期を早めたものにちがいない。あの時に残りの力をしぼりきったのだろうと、皆そういいあって、そんなからだになっても乳呑児ちのみごが、すきを見ては胸にすがりつこうとするのをいとしがった。顔面神経まで左半分利かなくなったゆがんだ顔になり、鶏のように五本の指が内側へえこんで、ばかになってしまった左手を片方の手で抱きかかえて、いねは我身の不仕合せを嘆いた。そして、病気以来きゅうに短気になった神経をいらだたせて、その利かぬ左手をぱんぱん打ちなぐったりした。不随の片手は不貞腐ふてくさったように動かなかった。
「そう気を立てなっちゃ、もちっとのんきになれや」
 重吉にそういわれるとなおのことかんをたてて声をあげて泣いた。涙は片方の目からだけ流れた。
「よう働いた手じゃかいや、何人前働らきゃ、一生の働き分を働いてしもうたんじゃろ」
 時には重吉にそう慰められていねの胸はやわらぎ、不可抗ふかこうな力に押されて坂を走る石ころのように、ただまっしぐらに走っていたのがふいに回転が止ったと思ったら河の中へ落ちこんでいたようなものだと、自分の不運を笑ったりもした。
 そんな中で育った実枝ではあったが、肉親の思いやりを母親と二人で受けて、年寄り子とも思えないみずみずしさで人並に育っていった。くりくりした目、固く結んだ口元は負けぬ気を現しているようであり、きついほどのその目と口を補うかのように仰向いている短い、小さい鼻が顔全体を人なつっこい愛嬌あいきょうあるものに見せていた。ゆるやかな丸い顔は何となく安心と信頼のこころを抱かせるように思え、祖母のかやはこの最後の孫に特別の愛情と希望をよせて、八十をすぎ、海老えびのように曲った腰の上になお実枝をのせた。片手で南天の杖をつき、片手で馬乗りの実枝を支え、ひょこひょこ歩きながら歌う。「ほんそよ、宝よ、俵ぶるいよ、こんなかしこい児がめったとあろうか、やれ、めったとあろうか」
 そして飯時がくればいねに代って釜の下を炊きつけた。
「おばあ、ぼた餅しておくれ」
「おばあ、やき芋しておくれ」
「おばあ、まめっといておくれ」
 母親には叱られていたそんな要求も、祖母はよく聞き届けてくれた。その代りに夜になると一ときずつこのおばあの肩を叩かねばならない。八重が先立になって偉いもんは寄ってこい、と拍子をとってとんとん叩きはじめると、アグリもクニ子も小さい実枝も我がちにかやの背や肩を後から横からとんとんたたくのである。かやは喜びの悲鳴をあげ、一日の労苦を忘れた。
 ある日、かやは旗日はたびでもないのに何を思いついたのか、赤飯を炊くことを孫たちと約束した。朝から小豆あずきを洗ったり、米をといだりしてようやく昼前に釜の下を引いたかやは、やれやれといいながら茶の間へ上った。それきり静かになったのをいねは、いつものように窓にもたれて小学生のアグリやクニ子や、醤油試験場の事務所に勤めている八重たちがお昼に戻るのを待っているのだと思っていたが、何かいつもとは異った、虫の知らせとでもいうような気配を感じて、不自由な足を引きずって納戸なんどから出てきた。かやは背中を窓の敷居しきいにもたれたままがくんと首を垂れて何かぶつぶつわけの分らないことを呟いている。呼んでみたが返事をしない。ちょうどそこへ八重たちが戻ってきてかわるがわる呼びかけたが、かやはやはりただ訳の分らぬことをいいつづけている。よく聞くと、高子に赤ままいうてこい、といっているのであった。村の郵便局へ住込みで勤めているために、このごろではめったに家で食事をすることのない高子に、かやは赤飯を食べさせたいらしい。その高子がかやの急変に飛んで帰ってきて、「おばあ、赤まま食べたぞお」と声をはり上げて呼びかけてもかやはただぐうぐういびきをかいて眠り、時々「高子にあかまま」といいながらふたたび目を開けなかった。一里ばかり離れた埋立地で荷役をしていた重吉も、電話を聞いて駆けるようにして戻ってきた。かやの好きな甘酒饅頭あまざけまんじゅうを買ってきたが、そしてそれをちぎって口の中へ入れてやったが、かやはもう食べる意志を失っていた。一日眠りつづけて息を引きとった。病みづかれのない丸い顔は八十五歳とは見えぬ若さでてらてらしていた。
「あんまり本意ないじゃないかいの、せめてお前の生きとる間に小んまい家でも建てて安心さすつもりじゃったのに」
 重吉は大きな目からぽたぽたと涙をこぼした。
 かやの死をきっかけのように子供たちの上にも異変がつづいた。長男の隼太は長男であることの重石を重石以上に考え、世の中のすべては金で解決できると思いつめ、先生ではうだつが上らぬと、三年間待ってくださいといって東京の法律学校へ入った。夜間は相変らず小学校へ勤め昼間は学生である。昼夜の心身の酷使はてきめんで、三年待たぬ間に隼太は骨になって若い嫁に抱かれて戻ってきた。四つになる男の子をつれた嫁はやがて生家へ帰っていった。縁の薄かった子だと重吉もいねも淋しがった。
 三女のフサエは魚問屋の息子に望まれて半ばさらわれるような形で、姉のカヤノよりも先に嫁入ったのであったが、一年もたたぬ間に呆気あっけなく死んでしまった。
 カヤノの婚家こんかは村の網元あみもとをしている家であった。いねの兄がむりにまとめた縁であった。徳市というその婿むこにはちょっと頭をひねりたい気持が重吉にもいねにもあり、カヤノは初めからてんで受けつけようとしないのを、家もない日向の娘ではよい嫁入口はあるまいといわれればそれもそうかと親たちがまずその気になり、遠い親戚という義理もあってむりに説き伏せてゆかせたのであったが、カヤノは三日にあげず泣いて帰った。そのたびにいねは愚痴のありったけをいわせておいて慰めてもみたり、叱りつけたりもしたが、これといってたいした理由にもならないことに神経を立てているカヤノの心理を扱いかねた。間違ったことをしたのだろうかと自分の心をふり返ってもみたが、その時はいねにしろ重吉にしろ、ただ世間並みのようなことをならってしただけのように思われた。ただカヤノが世間並みに納まらず、それが誰のせいだといわれれば親としての自分たちの取った方法はよいことではなかったかと思い、それほどまでに深く考えなかった結果の味の悪さを深く心に植えつけられた。
 ある日カヤノはよそゆきの着物のままでその歩き方にまで心の中の激しいいきどおりを現しているかのように、風を切って入ってきた。毎年の網上げのしきたりで、昨年夫の徳市もいっしょに金比羅参こんぴらまいりをしての帰りを、その足で来たらしく、小さいとう手提てさげを持っていた。カヤノは茶の間の火鉢のそばに坐りこんだままぷすっとして、いつものようにしゅうとめが何とかいったとか、からだの具合が悪いだとか、そんな口実を洩さず黙って頬をふくらしていた。飯時になって食べろといわれても返事をしない。ちょうど家にいた重吉が、
「いつもかつもどう気儘いいくさって!」
 不思議なほどの大声で呶鳴どなりつけると、カヤノはきゅうに泣きだし、そこにクニ子や実枝がいることもかまわずに、ただでは聞くに堪えない言葉で訴えた。徳市が金比羅の帰りの汽車の中で酔いれて、一糸まとわずに演じた醜態を叩きつけるような早口でいって、畳に顔を伏せ、子供のように号泣ごうきゅうした。
「みんなの前でで、気色の悪い、みんなの前でで」
 それには重吉もいねも二の句が継げず、黙ってカヤノの泣きじゃくる背中を見ていた。大勢の連中といっしょに汽車をまた船に乗りかえ、村へ帰りつくまでのカヤノの身の置きどころのなかったであろう辛さがよく分り、いねは固い決意を胸の中へえた。二三日すると表面の仲人である村長の夫人が来た。元木にまさるうら木なしということわざを話して聞かせ、誰も何もいわんことにしてしばらく休んだら戻ってきてくれとやさしい声を出して帰っていったが、カヤノは二年間のその家の生活にいささかの未練もなげに広島のミチを頼って船に乗った。やがて荷物が戻ってきたので、着のみ着のままのカヤノに着類を送ろうかと手紙を出すと、皆売払ってくれという返事が来た。さっぱりと、久しぶりにのびのびしているのが読みとられた。よくよくの思いであったのだろうと、いねはあやまりたい気持で胸がふくれ上るように辛かった。八重と高子は月給を貰うとそれを出し合って新しい銘仙めいせん一反いったん買い、八重は自分のじみな着物を一枚添えて小包にした。その後ミチの夫の世話で、会社の得意先である神戸の松江作太郎に再縁したのであったが、作太郎はカヤノより十五も年上であった。

 どちらかといえば子供たちは皆てきぱきと明るい気性であったが、その中でアグリ一人はどことなく他人行儀なようなところがあった。それをいねは、自分の乳を呑ませなかったせいだろうかとよく考えたりした。二十二と二十の未婚の姉をおいて、おとなしいというのを見こまれて、東京で肥料問屋をしている村出身の家から貰われ、おとなしく高島田たかしまだに結って、つれに来たその夫についていったアグリであったが、次の年に長女を生み、一週間目にはもう死んでしまった。お産が近づくと、母親代りの世話をするつもりで上京した八重からの手紙で、アグリがけっして仕合せではなかったことをいねは初めて知った。熱に浮かされて、「おどれくそっ、人をだましくさって!」と、田舎言葉まるだしの、日ごろのアグリとも思えぬ荒々しい言葉で、自分のそばに欺した対手あいてが坐ってでもいるかのように着ている布団を叩き続けて、自分の生んだ子の顔も知らずに死んでいったというアグリを、いねは十人の中で一番可哀そうに思えた。八重にしろ高子にしろ、いやなことをいやといい通す強さがあったが、アグリはそれを手紙でいってさえ来なかった。子供の時よく里親が訪ねてきて、もう大きくなったアグリを抱いたりさすったりして話しかけても、アグリはただ困ったような、恥かしいような顔つきをするだけで一言も答えなかった。そして貰った菓子袋をやはり恥かしげな顔つきでひろげ、大勢の姉妹たちに一人一人分けてやり、結局自分の当り分が一つもなくなってしくしく泣いていたりしていた。いねはそんなことまで思いだし、あの気の弱さで夫にも仕えていたのだろうと思い至ると、臨終の床で打った対手はその極道の夫や、アグリの嫁ぐ前からあったらしいというその陰の女ではなく、うっとうしい胸の中を開いてやらなかった自分であるような気がして悔まれるのであった。もうもう後の八重や高子は好きにささにゃいかんと重吉と二人でいい合った。やがて八重はアグリの生んだ子をつれて帰ってきた。月足らずで生れた赤ん坊は額にしわをよせ、泣声も大きくは出ないほどひ弱な女の子であった。花子と形式的につけたような名前も小さくしぼんだ赤ん坊にはふさわしくなく、顔色も蒼くしずんでいた。いねはひよこを育てるように大事に扱って、まだ何も分らぬ花子に、
「やれ、おばあさんはな、なかなか子育てと縁が切れんげないがや」
と、辛さと可愛さをいっしょにしていった。
 いねは病体をむちうって、花子や実枝のためにも母としての座にどっかりと坐らねばならなかった。


 いねは一日のうちに何べんも裏口を外に出て、家の上の段々畑の石垣にもたれかかっては沖を眺めた。静かな海面を出船入船の帆影が近づいたり遠のいたりする。だが来る日も、来る日もあのへりの一布だけふちを取ったように新しい帆布ほぬのの日向丸は現れなかった。不安は日ごとにつのり、いろいろな妄想は一家を包んで実枝までがいっしょに目を見交すような毎日であった。阿波の撫養むやという土地へ醤油を積んでいった日向丸は予定の日数を五六日もすぎてもまだ帰ってこないのであった。高子が荷出主の醤油会社へ電話で聞き合せると、もう十日も前に荷受書が来たという。
「こりゃただ事っちゃないぞ」
 いねは利かぬ左手を右手でしっかりと握りしめて考えた。時化しけに会ったとは思えない。病気にちがいなかろう。そう思い到ると日ごろ酒を好きな重吉が知らぬ他国でいねと同じように突然中気ちゅうきにでもなって、助けを求めるには声は出ず、食べるものもなく餓死がしでもしているのではなかろうか。子供たちの心配もそれであった。もう小学校の二年生である実枝は、学校にいても心配でたまらず、一時間の授業が終るごとに海の見える校門のそばに立って沖を眺めた。真上から照されて海はぎらぎら光り、そんな時には見覚えの日向丸はおろか漁船のかげも見えなかった。女学校のクニ子は毎日弁当もろくに咽喉のどを通らず、一里の道を唇の色も失って駆けて帰ってきては、家の中の空気から吉凶きっきょうをさぐりだそうとでもするような目をしてだまって母親の顔を見た。高子は高子でひまさえあれば郵便局の事務室の窓硝子まどガラス越しに海を見やって、お父さんは船といっしょに鳴門なるとうずに巻きこまれたのではなかろうかと涙ぐんだ。そして電話のベルが鳴るたびに、どこから来るあてもない凶報が今に来はしないかと受話器を耳にあて、受信人の宛名あてなを聞きとるまで胸が騒いだ。ポンポン日付印を押し、手早く畳んで電報をまだ小さい配達人に渡しながら、
「御苦労じゃなあ」と、やさしい声をかけた。少しでも乱暴な言葉をいたりすると悪い知らせでも来るような気がした。
 八重がいよいよ今夜の汽船で撫養むやの方まで父をさがしに行くことになり、その道順や手だてを同じ船商売である近村の日の出丸の家へ聞きに行ったりした。そこへひょっこり重吉からの便りが来た。割れるような歓声がハガキ一枚を取囲んであげられた。ぶじ、とたった二文字だけをはがきいっぱいに書き、表には岡山にて日向丸。
「うわあい、生きとった、生きとった。お父さん戻ってきたら叩いてやる」
 実枝は大きく叫びながら上の畑へかけ上っていって、額に手をかざし、沖を向いていつまでも立っていた。次の日の夜おそく日向丸は無事に帰ってきた。重吉は別に病気ではなく、撫養から岡山へ移転する人があり、その荷物を頼まれて一働きしてきたのであった。余分の収入だというので皆に土産みやげがあった。一ばん上等が実枝の碁盤縞ごばんじまの洋服、それからクニ子には下駄、花子のころんころんと鳴る玩具がんぐなどが出た。三十本十銭の筆だの、金のかんざしと時計の鎖と羽織の紐と指輪二つとで五十銭という金ぴかがぞろりと並んだ。
「こんなもん買わないでえいのに、使えへんのに」
 八重が押えつけるような声を出すと、重吉は幾分先刻からもうすでに自分もそれを感じていたような顔つきで、
「お前ら、年ごろが来てもユビヤ一つさしとらんさかいに。――皆よその連中も大勢買いよったがいや」と、照れながらいった。
 秋の運動会には実枝はその碁盤縞の洋服を着ていった。実枝は駆けるのが得意で、部落リレーにはスタートを切るのだと張りきっていた。その自分の姿を母親に見てもらいたいらしく、どうでもいねに来てほしいという。
「こんな鬼婆のようなお母さんが行たら、が悪かろうがいや」
 実枝の気を引いてみると、
「ほたって、髪うて、去年のように奇麗きれいなべべを着てこうがいの」といった。去年の時も半ばは実枝の気持を汲み、半分はそういう実枝の姿を見たい自分の心で、いねは出かけていった。よう来られて、と会う人ごとに声をかけられ、いねは不具のような自分のからだをかくしたい気持を、「牛にひかれましてなあ」としいて笑い消したのであった。実際、人前に出られるからだではないとは思うが、実枝にそういわれれば母親としてのつとめとも思い、また運動会は見ていればおもしろくもあった。あの実枝が若い母親を持つ他の子供たちに負けずにかけ回っているのを見ると、いねは何か誰にともなく申訳の立つような安心な気持にさえなれた。
 いねは頭をさっぱりとかしてもらい、実枝が奇麗だという、去年着ていった糸織の着物を着、半幅帯を貝の口に結んでもらった。新しい手拭をかぶって、その日は試験場も休みである八重の手にからまるようにして歩いた。学校までは上り下りの坂があり、石ころの多い岩道はいねの歩行を円滑には運ばせない。歩きながらいねは、一年の間によほど自分の足が重くなっていることに気づいた。上りつめた所で校庭の万国旗が見え、子供たちの立ち騒ぐ声が聞える。道べりの畑の石垣に腰を下し、いねはいつまでもその方を見ては、立ち上ろうとせずに、不自由な左の手足をためすように振ってみたりした。さとりの早い八重はその顔つきでそれと察し、
「お母さんもうなんか。今日は天気がすぎる。のぼせるといかんせに帰なんか」
「そうじゃなあ、そうしょうか」
 いねは素直に帰る方へ向いて立ち上った。八重の肩に深く、ほとんど負ぶさるようにしてとりすがった。もう麦まきの終ったばかりの畑は、山の中腹まで青いものは何も見えない土一色であった。青い海は家々の屋根の向うに静かな湖のようにひろがっている。昨日高松へ出帆した日向丸はまだ見えるはずもないのに、いねは習慣的に浮ぶ帆影の一つ一つを見比べた。
「もうえい加減でお父さんにも船をやめてもろうて、うちで仕事になってもらわんと」
 このごろ始終洩す言葉であった。今では八重も高子も働いていて家の足しになっているし、小さいながらも我家もできたし、年寄り仕事に家でまたもとの桶でもやったら、というのがいねの意見なのであった。
「お母さん、八重が家を出たら困るか」
 あまりと突然の八重の言葉なので、いねは咄嗟とっさに返事も出ず、つばをのんで立ち上り、もぞもぞしながら八重の横顔を見た。真直ぐに遠くの方を見つめている顔が娘らしくほてっている。あれだ、あのことだ、と八重が今いいだしたことのもとをはっきり我心に感じながら、そして何とかいわねばと思うのだが、こうした場所で、しかもこうまではっきりした言葉で聞かれると、いねはまごまごとして言葉が出てこなかった。そして、その八重の短い言葉を聞いただけで、突っかい棒をはずされたような気持になり、へたへたとまた道端へ腰を下した。
 一と月ほど前のこと、灯台守の坂田さんがどこかへ転任になるのだといって八重はその日そわそわしていた。事務所の引け時がすぎても帰らず、夕食にも戻ってこなかった。実枝が迎えに行くというのを、母親の敏感さで、何かを感じていたいねは、今日は用があるんじゃと、体裁を作り引きとめたものの、夜がけるにつれて不安はつのり、八重を信じきっている心がだんだんぐらついてきた。その日は時雨しぐれ模様なのに八重は雨コートも持っていかなかった。夜に入ってから雨はやみ間もなく降っていた。十一時をすぎたころ、忍びやかな下駄の音が二人分裏口でとまった。井戸端で足を洗っているらしく、釣瓶つるべの音や水のはじける音がし、それに交って何かひそかに話し合っている。納戸に寝ていたいねはれ物のひいたように初めて大きな息をした。やがて、入口の戸が静かに開き、足音が忍びやかに近づいてきた。茶の間の襖越ふすまごしに八重は、お母さんと小声で呼んだ。安心とも、腹立ちともいいきれぬ思いでいねの唇はふるえ、涙さえ流れてきた。いねは眠ったふりをして唇をんだ。その次の日から八重は熱を出し、試験場も四五日休んで寝ていた。何といって聞いたものか、顔を見るといねは何もいえなかった。今に八重の方から何とかいいだすだろうと、それを待っていたが八重は何もいわなかった。醤油試験場と村はずれの灯台。どんなきっかけで八重が坂田と知り合ったのか、そしてどんな関係であるのか、いねはその日まで別に気にもとめてはいなかった。これまでにも、永年ながねん男の中で働いてきている八重に、いねはある警戒の目を向けたことはあったが、面と向うと八重の顔からは、恥さらしのことはせん、とでもいうような安心より読みとれなかった。小さい時からも病弱であったし、十七の時にわずらった脊椎せきついカリエスが今はかたまっているとはいえ、八重はまだコルセットをはめている。自分は結婚はできないとあきらめ、はたの者もそう決めていた、その八重なのである。たださえ夜露にぬれることは毒だとつねづね気をつけていた八重が、遠い灯台まで行っていたにちがいない。雨の中のその一里の小道をぬれてきたことは悪いにちがいないのに、その毒をやらずにいられなかった八重。そして八重はとうとう何もいわずに試験場へ通っていたのであった。
 今いねと肩を組んでいる八重は、紫っぽい大柄の着物を着、娘らしく桃色に頬を染めてはいるが八重は二十四になっている。
 運動会の花火がぽんぽんと響く。それを後ろにゆっくりと歩いて、二人とも何にもいわずに家へ辿たどりついた。そして並んで縁側に腰かけた。やがて八重はつと立ち上り、決意のまなざしをいねに向けて、
「これ、坂田さんの手紙」と、ふところから分厚な封筒を取りだした。中身をぬいていねの膝におくと、
「考えといて」
といい、くるりと向うを向いてとっとと歩いていった。派手な模様のある赤いメリンスの帯が隣家の納屋の角を曲って見えなくなると、いねは座敷へいざり上って障子のかげに坐った。手紙は重吉といねにてたもので、病身でも充分に気をつけるから八重と結婚をしたいという、坂田の若者らしい熱情でつづられたものであった。むずかしい字にふりがなを打ったのは八重のしたことであろう、インクの色がちがっていた。いねは早鐘のように動悸どうきが打った。
 絶対に嫁にはゆかんというたじゃないか。
 なじるような気持で、も一度読みかえした。咽喉のどの奥の方がかわきつくような気がした。反対したら八重はどうするであろうか、と考えてみると、いねは困った! と思わず太いため息をらした。泣きも、怒りもできないような気持がこみ上げてきた。痛いほど辛いみぞおちのへんを右手でさすり、我れとわが心をしずめてみたが、嫁にやこい行けるかい、とけとばす気持よりほか考えがまとまらない。
 ひところはうみの流れでるような八重の病状を見てはその将来を案じてのあまり、どうせなおらぬ病気であるなら自分たちの生きている間に死んでくれた方がこの子のためにはよいのではなかろうかとまで変形的な愛情を傾けたいねであったが、八重自身はそんな病気の中でいつか経済的にも一家のぬきさしならぬ一役を持つようになり、どうかすると一家の中心であることを感じさせさえした。今では結婚できないということが一つの安心となり、それで八重の健康も保たれてゆくであろうし、どうかすれば自分たちの死水を取ってくれるかもしれない。そういう依頼心をいねは無意識にではあるがいつか八重に求めるようにさえなっていたものであろうか。病身なために縁談もなく、高子の方にばかりそんな話が集ってくるのを見て、いねは八重の気持の動揺をおそれ、
「八重もこのごろぐらいに達者なら嫁にもゆけよう」と、なぐさめるようにいったこともあった。しかし八重は親が案じるほどの気持のゆらぎも見せず、高子のためにその将来をまじめに考えてやるゆとりさえ持っていた。
 そんなことに安心しきって、自分はその後も八重の娘心に迎合するようなことをいったのだろうか。
 いねは自分の奥心をかき開いてみた。そうかもしれないと思う。またいね自身も八重がいつまでも独身で通せないように思い、よい相手がないものかと考えたこともなくはない。それなら、今、この反対しようとする気持は何であろう。八重の経済力への欲ばかりなのか。そういうことはあるかもしれないが捨てなければならないことは分っている。いつか、アグリやカヤノの例があるから、お前たちは好きな所へけと、いっぱし理解のあるような新しい言葉を吐いたことが今は針になっていねの心をつく。静かなように見えた八重の青春をかきたてる相手が現れたことは、どう考えても困ったこととより思えない。せっかく平静になった日向の家にまた何かことが起りそうな予感に、いねはおののくのであった。
「八重、ばかなことをせんとくれよ」
 いねは手紙に向ってつぶやいた。膝の上で折りたたんだ手紙を左手に押えさせておいて、右手で封筒をかぶせようとした。白い封筒は紙がささくれ、ぐるりがくしゃくしゃになっていた。八重が何日も懐の中に入れて考えあぐんだ末のことであろうとさとらされ、いねは瞬間に自分の気持が不可抗ふかこうな力で決められてゆくように思えた。
 もう八重の心は誰に何といわれようとも動かすことはできまい――。
 いねは手紙を持ったまま、右を下に、そうっと横たわった。初めて涙が出てきた。しかたがない。八重には八重の決心があるにちがいない。八重が戻ってきたらいってやろう。お前の気のすむようにせえ、困ったことがあったらいつなと戻ってこい――と。
 いねはようやく気持の落ちつき所がわかって起き上った。すると今度はそういう自分の気持に何かそわそわしてきて、立ったり坐ったりした。そして口の中でつぶやいた。
「早う、お父さん戻ってこんかなあ」


 半紙半分に
おけ わがえいたします 日向
と書いたビラを重吉は村のつじ々へはりだした。もう船を下りたのであった。八重がいなくなり、高子が出てゆき、最近では孫の花子をその父親の手に渡すと、それで精根せいこんがつきはてたとでもいうようにぐったりとしてしまったいねを見て、安閑と家を外にはしていられない気になったのであった。それに重吉自身もう七十の方へ近く、頬髯は九分どおり白くなっていた。
「さあて、これでまたもとの桶屋になろうかい」
 昔の道具箱を出してきた。おもだったものは千吉にくれてやったが、まだ桶屋をやる道具はそろっていた。船に乗っている間にも時々出してきてはやぶ入りの子供のような気持で手入れをしていたそれらの諸道具は、皆びもせずに貞節な妻のように重吉を待っていた。こわれた桶や輪の切れたたらいをかかえた人たちが、家の前の細道をわっさわっさと押しかけてきた。昔のあの広い仕事場にかわる土間の隅や、時には縁先の空地にむしろを敷いて、重吉は昔のとおりねじ鉢巻で、とんことんこと桶をたたいて鼻唄を歌った。
 文明開化の分らぬ人は、横文字せんじてのめばよい――
 クニ子や実枝がおかしがって笑いこける。唄の文句は昔のままであるが、その声は語尾がふるえているのをいねは床の中で聞いた。若い時は咽喉自慢のどじまんこが立てなどにはいつも重吉は大声をはり上げて音頭をとった。何十石という大こが(醸造用の大桶)に足場をめぐらし、その日はお互いに助け合う同業の桶屋といっしょに、こがのまわりをぐるぐる回りながら、重吉の音頭に合せて大きな木槌きづちはどどん、どどんと打ち下され、またふり上げては歌う、人々はそれを取りまいて眺めたものである。――
 ある日、
「親方」
 そういって真先にやってきたのが、今は大きな醤油会社の製樽部のかしらをやっている弟子の正太郎であった。商人のように羽織など着て、でっぷりと貫禄のできている正太郎を、重吉は息子が戻ってでもきたような顔で迎えた。こうして道具箱のそばで、親方、と呼びかけられるのは何十年ぶりのことであった。正太郎は恩返しに親方を会社へ雇いに来たのだといった。船をやめて桶屋をやるくらいなら、会社へ来れば仕事はそうしなくても親方一人ぐらいは――と何べんもすすめられたが、重吉は笑って取り合わなかった。正太郎が帰ったあとで、
「あいつは何事にも目はしの利く奴じゃったが」と感慨深くいった。今でも重吉の手塩てしおにかけられた弟子たちは、毎年鏡餅をもって歳暮せいぼ挨拶あいさつに来る。その中で正太郎の鏡餅はうすいっぱいにくのだという自慢のもので、上下の区別がほとんど分らないほど大きく、それを正太郎は紋付袴もんつきはかまで持ってくるのであった。
 またある日、今度は千吉がやってきた。自分の仕事場からまっすぐに来たらしく、帆前垂ほまえだれのすその方にこまかい竹屑がくっついている。
「親方、すまんけど、助けると思うて手伝うてもらえまいか」
 手を合しかねない声でいう。千吉は今では新しい得意もでき、子育ての中で家を建てたり、畑を買ったり、やりくりのうまい女房のおかねは身上しんしょうを作るのに夢中で、近所づき合いもろくにしない暮し方をしていた。弟子は何度置いても食物をかれこれいうおかねを好かんといって続かず、千吉一人が夜の目も寝ずに窓の低い仕事場で働き通し、千吉のその小柄な体はせ細って、しなびた胡瓜きゅうりのようであった。
「おかねに内緒で歳暮を持ってくるような甲斐性なし奴が」
 そういいながらも次の日、重吉は帆布の前垂れに竹割りを持って千吉の所へ手伝いに行った。その後姿を見送り、誰もいなくなった家の中で、いねは子供の時のような心細さで部屋を眺め回した。重吉もなかなか戻ってこず、クニ子や実枝もいない留守の間に死んでしまいはせぬかという不安は、今はもうほとんど寝たきりの自分をひとり残して出ていく重吉への不満となって、いねはあのあきらめのよさを忘れて、泣き口説くどく女になっていた。泣いても笑っても一人である。淋しさをまぎらせようと布団の下にある子供たちの手紙をとりだしては泣き、八重の写真を眺めては泣いた。八重はつい近ごろにその結婚生活とともに短い一生を終えたのであった。瀬戸内海の大崎島という灯台に結婚生活の第一歩を踏みだし、わずか二年足らずで終ったその一生。坂田からは自分がったのだという写真をはがき型に引きのばして送ってきた。波止場の突端のような所で石灯籠にもたれている八重の、笑いかけたような顔は満ち足りた者の持つ表情であり、そのなごやかな目のつけどころには、妻をこれほどに美しくさせる坂田が、どのような顔をして向い合っていたのであろうか。写真の裏には亡き妻をしのぶ若者の恋情がこまごまと書きつらねられてある。今は遠く坂田の郷里である北陸の高田のざいに見知らぬ坂田の祖先たちとともに埋もれている八重、雪が深いと聞くその土地では花をまつられることもまれであろう。危篤きとくと聞いてもかけつける者もなく、肉身の誰にも会わずに死んだ八重ではあるが、いねは泣きながらも、写真を見るたびに八重は仕合せであったと大きな救いを見つけだす思いがした。
 寝てばかりいれば思いはなお子らの上にかかった。十人もの子供たち、子育てぶにが多いと人にもいわれ、自分もそう思っていた。歳月はその子らにいろいろな道を辿たどらせ、子供らは皆それぞれ持前の生き方で生き、そして半分はもう死んでしまっている。落葉のように消えてなくなって、この世のどこにもいない五人の子供、遠い土地で暮している者、今もなお同じ屋根の下で朝夕顔を見合っているクニ子や実枝、その我子たちへ自分はどれだけのことをしてやり、どんなことが自分にかえってきているか。悔いのない自分であろうかとかえりみる時、いねはたださめざめと泣くよりほかなかった。泣きだせばこの病気特有の泣かれ方で、涙は尽きることを知らないように流れ、泣きぬれてやがていねはうとうとと眠りかかる。遠い、近い、さまざまの記憶が夢現ゆめうつつの中に群がってきた。隼太と二人で観音の山を登っていた。隼太は一所懸命で自分の死んだことを否定する。
「土台、わしが死んだと誰がそんなばかげたことをいうたかしらんが、それをまた真に受けるお母さんもお母さんじゃ」
 そんなこというたって現在お前の嫁のきみ子が、お前の骨壷を抱いて戻ってきて、私の膝に泣きくずれた。といねがいうと、隼太はそんなことは皆嘘で、お母さんの夢じゃといい張る。ああ夢かと初めて合点しながらもまだ信じられないでそうっと隼太の足に目をやると、隼太は靴をはいている足をいねの前につきだした。幽霊ゆうれいじゃない、幽霊じゃない、あれは嘘かいや、そうとは知らずにきみ子は孫をつれて親元いんだのに。――いねは嬉し泣きに泣きむせんだ。いね、いねとゆすぶられてようやく目の覚めたいねは、泣きじゃくりながらもまだきょろきょろあたりを見回し、そこに重吉を見出すと、
「ああ、やっぱり夢じゃなかったんか」という。重吉がからから笑い、
「そうじゃあるかい、夢じゃろがい」
「いいやの、夢で隼太の奴が、死んだのは嘘じゃ嘘じゃいいくさってのう」
 そうしたいねの夢は昼も夜もつづいた。きゅうに起き上って何かをつかんでは懐に入れる格好をくりかえす。ゆり覚ますと、可愛らしいヒヨコがそこらいっぱいおったのだといったり、ある時は長い舌を出して口のはたをベロベロなめ回しているので実枝が驚いて声をかけると、水飴みずあめが口のはたにくっついていくらなめてもべたべたして気色が悪いと、覚めたあとまでなお口の回りを指先でこすったりした。しかし、はっきりと目の覚めている時のいねは、そんな夢とは遠い昔のままの母親であった。ある時ひょっこりと知らせもなしに帰ってきた高子に、いねは、
「東京っちゃ朝はどんなのを食べるんぞい」
とまずたずねた。見舞に来たのだとはいうが、高子は浮かぬ顔をしており、見覚えのある着物のほか何一つ新しい持物はなかった。自分の意志をむりに通しその結婚の相手である高本正昭の両親や兄弟の反対をふっとばして、半ば押しかけ的に高本のいる東京へ一人で行った高子であった。今自分の枕元に坐り、何かいい分があるのをいえずにいるのがいねにはその顔色で読みとれた。高子が東京へ行ったと知ると、高本の母親はそれがいねの後押しででもあるように、寝ているいねの枕元へ来て、静かな笑いをたたえた落ちついた顔で、
「正昭もなあ、おかげで家とは縁を切ることになりましてな」と、まるで何か喜びごとを告げるような声でいった。いねは、うっと声をつまらせ、返す言葉もなく、相手の顔を見守ったのであった。
 まだ学校を出たばかりの正昭と高子がどんな暮し方をしているか、いねには想像もつかないが、わずかの間にやせて色艶を失くしたような高子の顔は、無言でいても大きく訴えるものがある。
「汁の実は何を入れるんぞい」
 いねの問いに高子は無邪気に朝夕の食べものを並べたてた。
「正昭さんは酒は好きかい」
「んんん」
 首をふる高子にいねは、
「そんなら一人で淋しかろ、早うね、早う帰ね」
といった。布団頼母子ふとんたのもしを落して、いね自身長い間の倹約の末、ようやくの思いで買いととのえた客用の新しい麻の蚊帳かやと、一組の布団を土産みやげにもたせた。
「あらあ、嬉しいな、こんなん欲しいと思いよった」
 高子は嬉々として夫のもとへ帰っていった。

 誰かが自分の枕元に坐っていた。重吉が仕事を休んでわら布団を作ってくれた。いねは自分の逼迫ひっぱくした生命は、もう、どう努力しようもないことを覚り、クニ子や実枝にもそれとない感謝の言葉をかけたりした。人はその死にぎわにもよくその人柄が出るという。八十五までこれといって病いもせず、どんな災難もよりつけないような福々ふくぶくしい見かけであったかやの、何を求めるでもなく成行にしたがって生きていたようなまっとうな生涯、ちて倒れる古木のような自然さで最後を閉じ、一口の饅頭も食べずにしまったあの無欲さに比べて、いねはここ半年来、刺身さしみよりほか食欲が起らないのであった。それをすまながり、自分の気ままさとしてびるようにいうのを、重吉は、
「人間欲しいものを食えるほどえいことがあるかいや。いねの持って生れた食いぶにじゃ、気兼がいるかいや。母者人ははじゃびとがまんじゅが食えなんだのもぶにがなかったんじゃろ、誰も皆ぶにを果さにゃ死ねんといや」
と、三度三度生きた魚を料理して食べさせた。
「うまい」
と、腹の底からうまがって食べるいねの様子を、重吉はいいようのない淋しさで見やった。白い刺身の一切れ一切れを口をつぼめるようにして、前歯だけ残っている歯でゆっくりと、身にみるようにかんでいる。まだ六十にようやくなのに、ほとんど白髪になった老いさらばえた妻の姿。刺身など数えるほどしか食べることのなかった四十年の自分たちの生活、風雨に責めさいなまれ、枝をもがれ、地に叩き伏せられても、まだ根に残るわずかな生命力は倒れたままの姿で、春が来れば芽を出してその営みを続ける病木のようないねの姿。重吉は母親の時のあの本意ほいない悔いをふたたび妻には繰り返すまいと、魚屋に魚のない日は自分で夜釣に出かけたりした。
 その刺身さえももう咽喉のどを通らなくなって、重吉は昼夜いねの枕辺を離れなかった。たまに天気のよい日など気も晴れようかと抱き起してやると、いねは貧血のために気が遠くなり、すき透るように蒼い顔をしてしばらくは目も開けられなかったりした。手のくぼにでもるほど小さくなった体は子供のように軽く、カヤノから送ってきたメリンスの軽い真綿布団まわたぶとんは、寝ているいねの体の上で平らかであった。一家には生死の波があるという。生み重ね、育て重ねてきた人生の潮時は今干潮の底へ来ているのだろうと重吉は思った。うつらうつらとするいねの呼吸までが時々絶えることさえあった。驚いてさしのぞくと、忘れていた呼吸をとり戻すかのように、ふう! と大きく肩でいきをする。
「いねよ!」
 声をかけると窪んだ眼窩がんかの中で薄い目を開け、
「きれい花がのう」と、声といっしょにいねはまた目をつむる。花の夢を見ればいよいよ死ぬといわれる。重吉は不安に顔をさしよせてゆき、
「いね」と、もう一度呼びかけた。いねはもう目を開けず、六十年の疲れをすっかり出したような小さい顔は、もうもう何ちゃいわずに寝さしておくれ、何もかも大儀たいぎじゃ、目をあけるのも、お前の声を聞くのも――とでもいうように、静かな、途絶えがちな呼吸をしてこんこんと眠っている。それをかき消すようにクニ子や実枝の若い健康な寝息がすう、すう、と響いてくる。寒い、こおるような毎夜であった。


「お父さん」と呼びかけられて重吉は、
「おう、戻ったか」
と、はじめて実枝に気づいたらしく笑顔をむけ、急いで煙管きせるをはたいた。いねが死んだあと、
「おかしいもんじゃなあ、小便から何から赤子のように手がかかりよったのに、死なれてみると便利が悪いな」
と、重吉はクニ子や実枝といっしょにいねをなつかしみ、惜しんだ。半年以来手のかかり通しの病人であったが、いなくなられると一家の中心がなくなったようで、重吉もクニ子や実枝たちも落ちつかなかった。実枝が足音もぽそぽそと学校から帰ってくると、重吉はそれも知らずに座敷の真中に坐りこんで煙管きせるをくわえたまま、煙草たばこをつめるのも忘れたようにぽかんとして裏口の方を見ていたのであった。実枝は入口へは回らずに上の口から座敷へ上った。いねが寝ていた所だけ畳を替えたのが、冷たい感じで目に映る。
「ああ、畳やさん来たんよ」
 学校道具を抱えたまま、実枝は一畳だけ新しいその畳の上で足踏みをした。畳は固く冷たかった。重吉もその方へ眼をやり、また煙管をはたく。
「お父さん裁縫ができたんで」
 実枝は父親の前に風呂敷をほどいた。季節はずれの浴衣ゆかたが出てきた。
「ほう、実枝みいが縫うたんかいや」
 それを取り上げようともしない父親に、実枝は自分で着物をひろげてみせた。
「左のけんざきがようできとるいうて先生にほめられたんで。元禄げんろくの丸みもうまいことできたいうて、先生が皆に見せたんで」
 いつも母親にいうとおり、実枝は報告した。いねが生きている時は、寝たままでも、その要所要所を丹念たんねんに見てくれた。そして先生にほめられたところは念を入れて先生と同じようにほめてくれた。だが男親には、けんざきが何やら判らない。実枝がはじめて縫ってきた本裁ほんだちの着物もただあい地に白ぬきのあやめの花が分るだけであった。
「そうか、えい柄じゃなあ、実枝が着物縫うことなるんかいや、えらいなあ」
 縫えたことだけをほめてくれる父親の前で、実枝はだまって着物をたたんだ。その実枝の、年よりも大きなのびた体を重吉はさするように眺め、また煙管をとり上げた。
「実枝はやっぱり六年すんだらカヤノ姉さんい行くか」と聞いた。実枝はだまっていた。
「神戸の女学校いはいれてえいぞ。な、行くか」
 重ねて聞かれて実枝はようやく頭を上げ、それでもなお目は伏せたまま、
「どっちでもえい」と、気のない答えをした。
「ほんなら、広島のミチ姉さんい行くか――広島なら高等へ行くだけで女学校いは行けんぞ。やっぱり神戸がえいな」
 そのことになると実枝が暗い顔になるのを重吉は引きたたせるようにいった。
「どうして実枝がうちにおったらいかんの」
と、実枝はまたいつものようにたずねる。
「どうしていうたって、母親のない子は心配じゃせになあ。実枝をおなごにせんならんさかい」
 すると実枝は、
「うちはおなごじゃのに」という。実枝のいったことに笑っている父親に、
「実枝、高姉さんくなら行きたいけんどなあ」といってみる。今度は重吉が黙っていた。
 そんなことが何度もくりかえされ、結局説き伏せられて、実枝は小学校がすみしだいカヤノの家に引きとられることになった。母親の死後、重吉の一番心配なのは実枝の将来についてであった。ミチもカヤノもいつでも引取ろうといって帰っていったのであったが、実枝はあまりに年のかけ離れたこの二人の姉夫婦に他人行儀な気持しか持てなかった。母親の葬式の時初めて来たカヤノの夫は、べったりとしたような声で、おとなしかったらうちのこおにしてあげるで、と実枝を抱いた。それが実枝がいやだという。いつも白足袋しろたびをはいていることもどうしても好きになれないものを感じた。むしろミチ姉の方が居心地いごこちよさそうであったが、そこには五人もの男の子がいるし、それに実枝は女学校へは入りたかった。クニ子が、実枝は絵を好きで、また上手じょうずでもあるからゆくゆくは絵の学校へ入れてやったらという意見をのべると、カヤノの夫の作太郎はへらへらと笑って取合わなかった。そんなことも実枝の気持を重くしていた。実枝のその気持を汲んでクニ子も初めのうちは神戸ゆきを反対していたが、まだ二十歳をすぎたばかりの自分が小学校の先生ぐらいでこれから先、実枝をどうしてやれるという自信もなく、結局重吉と二人で実枝に因果いんがをふくめたのであった。
 いよいよたつというその日、重吉は赤飯をたき、尾頭のついた大きな魚を買ってきた。実枝の好きな蜜柑みかん目籠めかごで背負いこんできた。クニ子と実枝はつれだって母親の墓へまいった。百カ日が過ぎたばかりのまだごたごたとにぎやかな墓には、よれよれになった寒冷紗かんれいしゃ弔旗ちょうきなども風雨にさらされたまま束ねられて立っている。クニ子が花立ての花をとりかえ、水をさしている時、実枝はその弔旗の中から松江作太郎という字を見つけ、
「松江作太郎か」と大人ぽくつぶやいた。そして、
「姉やん、松江作太郎好きえ」と聞いた。クニ子は返事をしなかった。
「好きか、いいよんのに」
 それでもクニ子は知らん顔をして、ナムアミダブ、ナムアミダブウ、とわざとのように声を上げた。
「お母さん、松江作太郎好きかいの。ようお母さん」
 実枝もナムアミダブに対抗して位牌いはいに向って腰をかがめ、大きな声で訴えた。そしてクニ子をせりのけるようにして、位牌の摘花茶碗つみばなちゃわんを取上げ、茶色っぽく汚れている水垢みずあかを指先でごしごしこすった。この土地の習慣で摘花の茶碗は生前使っていたものである。朝顔型の浅い茶碗には梅の模様があった。重湯おもゆより食べられなくなっていたある時、おしまいの一口になって、ひょっとしたはずみにさじを火鉢の中へ落した実枝は、茶碗のままいねの口へ注ぎこんだ。そのわずか半匙はんさじにも足らぬ重湯にむせて、いねは息の根が止るほど苦しがったことがあった。お母さんが死ぬ、と思わず泣き叫んだ、その茶碗である。実枝は洗い終ってなみなみと水をそそぎ、しきみの花を摘み入れた。
「皆が実枝に、松江い行け行けいうせに行くんで。お母さんが安心するいうせに行くんで」
 やけくそのような声でいう実枝の袖をクニ子はぎゅっと引いた。そんなこというものでないとでもいう怒った顔なのに涙ぐんでいた。
「お母さん嘘で、実枝は勉強して、ろなって戻ってくるで」
 そういわれると実枝もその気になり、
「夏休みまで、お母さんさよなら」
と、子供らしく頭を下げ、位牌に何べんも水をかけた。供物目あてに新墓を荒すからすが、すぐ近くの墓石の上からこっちを見ている。しっ! と柄杓ひしゃくを振り上げると、烏はガワガワと羽音を立てて軍人墓のある山の方へ飛んでいった。夕やけに照らされて山も木も橙色だいだいいろに輝いてまぶしかった。村じゅうの見わたせるその丘の上から見下す静かな入海も夕陽を受けて金色に光っている。クニ子は取りかえた古い花を片づけ、バケツの残り水をぱっと勢いこんで道へいた。はあ、と息をつき、実枝と並んで沖の方へ手をかざした。
「実枝よ、よういどら、今夜は船は早鞆丸はやともまるで、幸先えいが」
「ん」
 実枝はうなずく。桜もつぼみがふくらんだとはいえ三月末の陽気は日暮の近づいた今、肌のしまる寒さであった。実枝は羽織も着ず、四股しこをふんだ。人家のある方へ急な坂を、ところどころ段々をつけた一本道が流れこんでいる。その坂道を実枝は、だあと勢いこんでかけだしていった。クニ子が、
「実枝、実枝」
と呼んだが、はずみをくってとまらぬ石ころのように、黄色いメリンスの兵子帯へこおびが背丈の真中でゆさぶられながら、実枝は谷底へ落ちこんでゆくような早さで遠ざかっていった。


 静かな明けくれであった。クニ子と二人きりになると、無駄口さえもあまりきかないほど、もそっとしたわびしいほどの毎日がつづいた。実枝がいる時は腰を踏ませたり、肩をたたかせたり、そして剽軽ひょうきんな実枝はつくづくと重吉の頭を見て、
「お父さんの頭、はげてつるつるじゃけんど額との境目はやっぱりちゃんと分るのう」などと笑わせることもあったが、クニ子には肩をもんでくれともいいかねた。クニ子が勤めを終えて戻ってくるまでに、飯だけは炊いておくならわしの重吉が時には不細工な手ぎわでワケギのぬたを作っていたり、魚を焼いたりもした。そんな日は重吉自身小さいかん徳利をもっておよねの店まで一合の酒を買いに行った。いねに死なれてからその一合の晩酌が何よりの楽しみらしく、重吉がおかずを作る日はだんだん多くなり、やがて毎日のことになってしまった。長火鉢の前に胡坐あぐらをかいて、晩飯のすんだあとまでとろりとした顔つきでいつまでもそこを離れようとしない。たった一つきりの電灯は長いコードをひきずって、他の室の隅々まで届くようになっている。その電灯をクニ子が座敷へ持っていったあとまで、重吉は暗い茶の間で煙管の音だけの一と時を過し、時には一合五しゃくにふえた酒のわざで、ろくに呂律ろれつのまわらぬ浄瑠璃じょうるりをあやつるようなこともあった。自分の食い扶持ぶちは働ける間は働かにゃと、留守番の昼間をぼつぼつとおけの輪替えなどしていた。それはまるで働ける自分を楽しみきっているかのような様子であった。仕事の合間には、一と昔前のほこりをかぶっているくれの束も出してきて小さい桶や、おひつや、ふたつきの魚舟うおぶねを作った。すしはんぼや、可愛らしい握りの手桶をこしらえた。お櫃はたがをみがき、すしはんぼは紙やすりをかけた。それらの製品はできるしだいに姿を消していく。つまり重吉は気に入るとそれを持ってあちこちへ出かけるのである。近所の老人夫婦が隠居所を建ててそこへ移ると、そこへ小さなお櫃を持ってゆく。ある若嫁が腹が大きくなったのを知るとそこへも出かけた。
「いんまこんなのがろうがいの」
 おまるであった。売りに来たと思った嫁さんが、何ぼと値段を聞く。重吉は手と頭を同時にふり、
「めっそうな、うらがひまつぶしにこしらえたんじゃ、進ぜるわいの。――今日び唐津からつびきのもあるけんど冬は冷たいせに」
 びっくりした嫁さんは、何のいわれもないのにただで貰えないという。重吉は子供のような顔になり、
「お前にやるんじゃない、腹の中のねねにやるんじゃ。また初節句はつせっくにゃ団子でも食わしておくれ。お前のお祖父やんとうらとは小んまい時朋輩ほうばいじゃったんじゃ。これでもお前昔ゃうらも子供じゃったせにな」
 そんな風で重吉はそれが道楽のように十年、二十年、遠くは五六十年の昔のよしみをさぐりだしては手桶やすしはんぼを配った。やりたい所は次々と出てきた。時にはわらを買ってきて飯櫃入めしびついれを作った。びん頬髯ほおひげも白髪になった重吉が表にむしろをひろげた上で、「文明開化」を歌いながら、不器用に見える太い指を器用に動かして作る飯櫃入れはわらつやが増したように奇麗きれいにでき上ってゆく。それでもひとたび千吉が家の細道を、昔のままの猫背をよけい丸めたような姿で息せききって現れ、親方あ、と声がかかると重吉は、よし来た、と立ち上る。このごろでは千吉が呼びに来るのが楽しみで、重吉はいそいそと竹割を持って浜へ下りていった。杖こそついてはいないが、だいぶ前こごみになっていた。そんなにまでしないでも家でじっと遊びより、とクニ子がとめても聞かなかった。
 海辺に面した道路端で、その日も重吉は竹を割っていた。白い中身をそぎ取られて、細かく割られた竹はまるで魂を入れかえられたようにしなやかに伸びて、重吉の傍にうず高く重なり合っている。砂でみがき、刃物はもので手入れをされた竹は表皮のつやを消されて落ちついた青さであった。ぱさっと地をはたくように振ると、一握ひとにぎりの竹はのたうってそろう。ふと重吉は、竹を握る手の感覚に異常を感じて掌をひろげてみた。細かくふるえた。ここ一カ月ほど前からからだの工合が悪いのを、春先の陽気のせいと思っていたのだが、今日はことにのぼせる。胡坐あぐらを組みなおし、鉢巻をはずして両手で顔をこすった。皮膚が硬ばっているようで後頭部が重苦しかった。これはいかんと向い合って仕事をしていた千吉を呼ぼうとしたがもう口が利けなかった。うううと唸りながら半ば意識の中でそこへ倒れていった。千吉に負われて家へ帰りつくまでにふたたび発作を起し、重吉はそのまま寝ついてしまった。そして、はっきり気がついた時には実枝が枕元に坐っていた。実枝はもう十七になっていた。クニ子ほどに背がのびて、紺の水兵服から手足がはみでていた。何かいおうとしたが、言語障害げんごしょうがいを伴った重吉は、ただうふ、うふと泣くとも笑うともつかぬ声を出し、もどかしそうに左手で自分の口を指しては必死のなざしをした。うん、うんと実枝がうなずいてみせると、重吉は手放しで泣きだし、泣声はやがて笑い声の交ったような苦しい嗚咽おえつになった。
「黙っとり、黙っとり、安心して寝とりよ、実枝が戻ってきたんじゃせにのう」
 重吉は、ほっ、ほっというような声を出して唇をふるわせた。泣くことも笑うことも思いどおりにならない父親に、実枝もいっしょに泣きながら、ぬれた手拭をしぼってそのはげた額の上にのせた。

一〇


「ようこの子があったらこそのう」と、見舞に来た人たちが実枝を見てはそういう。そのたびに重吉は、
「おいの」と嬉しげに、そのとおりじゃという顔をする。十人も生んで、下子したご二人の世話になるとはと、回らぬ舌で思い深げにいう父親を見ると、同じ血のつながるきょうだいでも、親子の縁の薄いものと、そうでないものがあるのを、実枝ははじめてのように覚った。深い思いやりで父親の枕もとに坐っていると、いねの発病当時を皆目かいもく知らない実枝は、母親のあの不自由さを自然のもののようにさえ思って過してきたことに今さらのように気がついた。不思議な回り合せは、今また重吉をいねと同じ病気にたおし、いねと同じ経路を辿たどらせているらしく、いねとちがって言葉の不自由なことや、年をとっていることは、いねの場合よりも病気の速度を早めるのか、その弱り方は目に見えるのであった。この病気特有の喜怒哀楽の感情が交錯こうさくして、持前もちまえの重吉らしくもない癇癪かんしゃくに青筋を立て、自分の言葉の通じないことよりも、実枝がそれを聞き分けてくれないことの方に腹を立てて、もの凄い形相ぎょうそうで立ち上ることもあった。こんなことさえ分らないのかといわぬばかりに実枝をにらみつけ、びっこを引きながら自分で用を足そうとすることが、日めくりが昨日のままになっているのをはぎとることであったり、物置からはり箱を出してくることであったり、時には庭の梅の木の枝ぶりをめることであったりした。ようやくの思いでそれが実枝に通じると、今度は子供のような顔になって笑い、満足げにうなずく。重吉の枕元にはいろんなものが並んでいた。それらは皆寝たり起きたりの布団の上から手の届く場所に、それぞれの任務をもって重吉を取り巻いていた。三つ抽出の高膳たかぜんもある。飯時が近づくとその匂いで重吉は膳の蓋をあお向け、茶碗をたたいて催促する。もうちょっと、と台所からそれに答える実枝になおも茶碗を叩き、皿を突きだしては叱られた。違い棚のついた小さい玩具がんぐのような茶箪笥ちゃだんす抽出ひきだしには、いろんな薬といっしょにべい独楽ごまやあめ玉の袋などもあった。膳の隣りにある小判型のうおぶねは手文庫に使われ、ふたをあけると子供たちの手紙や写真が雑然と入っている。それらの手紙や写真と同居しているのが釣道具であった。いかばり太刀魚たちうお鉤やべら鉤をかわるがわるに眺めては楽しむ。そんな時、ちぬを釣ってきていねにさしみを作って食べさせたことなど思いだして、きゅうに自分もさしみを食べたくなる。さしみを食べたい、といおうとして実枝の方を見ると、実枝が手紙をよんでいる。すると重吉の口はその気持におかまいなく、今夜は手紙を食いたいといってしまう。思わず心にもないことをいう自分をもどかしがりながら、顔ははあはあ声をあげて笑うのであった。実枝もいっしょに笑いだし、
「今夜のおかずは手紙じゃのう、ああもうけた、儲けた」と冗談をいう。重吉はなお笑いつづけ、左手を顔の前で振った。笑いはなかなかやまず、苦しそうに大きく肩を波うたせて、あえぎながらなお笑いつづける。見ている実枝の方ではいいようのない悲しさに変って背中をさすった。そして今考えもなく病父の笑いを刺激したことをくやんだ。そして、気を落ちつけ、何かいおうと試みては、なおもつきあげてくる笑いを押えようとして息をつめている父親に、
「饅頭か、リンゴか、サイマットか」と、その好物を一つ一つゆっくりとたずねた。どれにも重吉はかぶりを振った。サイマットとはパイナップルという重吉の言葉であった。
「手紙をいたい?」
 実枝は口の中でつぶやき、この手紙のどこが重吉の食欲をそそったのであろうかと、も一度手にとって眺めてみた。笑いつかれてよだれを流している重吉に手拭をとってやり、
「お母さんのように口が利けたらのう」と、思わずもらすのであった。
 やっとおさまった重吉は先刻のことをあらためていいだそうとしたが、そう考えただけでまた笑いがこみあげてきそうで、なかなか口が利けなかった。何度も突っかえてはやめ、ついにはうらめしそうに実枝の顔を見た。突然、怒ったような顔つきになり、重吉は手近の太刀魚鉤をつかんで縁側へ投げつけた。テグスについているおもりが大きな音を立てた。実枝はびっくりしたが、やっと読みとれた気持で、
「ああ、釣に行きたいんかお父さん」
 そういわれると重吉はきゅうにその気になり、うんうんとうなずいて、またふっふっと笑った。
 短い着物に着かえて、実枝に片腕をささえられて家を出、二人は桟橋のある方へ歩いていった。
「釣れたらさしみせんか」
 実枝は重吉の横顔をふりあおいでそういうと、重吉は立ちどまって、おう、おうとうなずき、
「さっき、それをいおうと思てな」と、今度はすらすらといいまた笑いだすのであった。
 一年たち、二年たち、三年目の春を迎えた。寒い間じゅう一足も外へ出なかった重吉は、春が来てもその年は起きだそうとはしなかった。看護にもれ、実枝は重吉の病気以来好きで始めた内職の毛糸あみものがだんだん人々に受けられて、春になっても仕事はつきなかった。重吉やいねから受けた器用さと思いつきのよさ、祖母そぼの血をついだらしい人づきあいのよさなどが人をくのか、引っきりなしの注文に実枝は夜をかして働いた。重吉は自分にも見える場所へ実枝を坐らせ、器用に動くその手許を見て暮した。そして時には回りにくい口でいっぱしの意見をのべることさえあった。クニ子はクニ子で家の回りを貰いあつめた草花で埋めるし、重吉はそんなことで退屈も感じないのであろうが、今までとちがって何一つむりをいうでなく、実枝のすることを眺め、実枝のしてくれることを受け、自分をとりまく釣道具などを手にもとらずにぼんやりとして寝て暮しているのを見ると、退屈を感じ、癇癪かんしゃくを起すほどの気持のはりがだんだん失われてゆくのかもしれないと、実枝はいとしくなるのであった。
 そんなふうなある日、村の小学校の新校舎の落成で、折詰おりづめに一合の酒が添えられて、村じゅうの家々に配られた。実枝が茶目っ気を出して、それに盃を添えてだすと、初めはためらっていた重吉もいわい酒ということに気を軽くしたらしく、床の上に起きなおって嬉しそうにそれを受けた。三年ぶりであった。盃を口にした重吉は、しばらくは口をつぐみ、口じゅうにその酒の味をゆっくりとみわたらせるかのようにじっとふくんでいて、やがてぐっとうなずくようにして飲みこんだ。その格好は達者な時の晩酌ばんしゃくにも時々やっていた、あの最初の一口と同じ念を入れた味わい方であり、よくクニ子や実枝が真似まねていたそれであった。
「ああうまい」
 それは腹の底から出たような声であった。一ぱいの盃はまさにこの世に置き忘れようとした幸福を思いださせたもののように、またのましてくれ、と重吉はその盃を実枝に返さずに枕もとの膳の中へしまった。実枝はいいことをしたように嬉しかった。クニ子にそのことを話すとひどく叱られた。
「死んでもえいなら飲みなされ」というクニ子のいい分は、ほかに重吉と同じ病気である人が、酒をのんだために悪くなって死んだではないか、というのであるが、その人のように三合も五合も飲むわけではなし、小さい盃にわずか一ぱいの酒が重吉の命をちぢめるとは実枝には思えなかった。たとえまた毒であろうとも、つれ合いもなく生き残ったこの老人が、そのために一と月二た月を生きのびたとて、あの一杯の喜びとはかけ替えられまいと思えた。そして、これはいねのさしみと同じように、重吉の生涯に残されたささやかなぶにだと考えた。次の日も実枝はだまってさしだすと、重吉はにこにこして盃を取りだし、なめんばかりにして楽しんだ。酒はクニ子に内緒であることに二人はうなずき合う気持で、毎日盃一ぱいずつうけわたし、一合の酒は十日以上もあった。
 そんなことも忘れるともなく忘れてしまっていたその年の夏の初め、臨終のせまった息の下で重吉は実枝をよびつづけ、
実枝みいか、たけや、たけや」
という。その意味をみとれず、実枝は手足をさすりながら、
「お父さん、つらいか、実枝が分るか」と、顔を近づけた。そのたびに重吉は目を開き、濁ったような視線ではあるが、はっきりと実枝を認めてうなずきながら、
「たけくれ、実枝、たけくれ」と繰りかえす。枕元に並んでいた人たちは、何だろう、たけというからにはやっぱり樽屋の竹でも夢うつつに考えとるんかな、と小声でいい合った。実枝は今は重吉の最後の望みらしいのにたけの意味が解けぬもどかしさで、手をかきむしる思いをし、解せぬままにただ実枝が分るか、実枝が分るかと重吉の意識を試すのであった。そのたびに重吉は実枝の顔に見入って、分る、とうなずいた。実枝は小首をかしげ、しかたなくまた手や足をさすりつづけた。骨ばかりのようにやせ細ったといっても、頑丈がんじょうな体格の重吉は自分で自分の体をもて扱っているらしく、寝返りを打った時にねじけたままのようになっている足を実枝は真直ぐに直し、寝衣の前を合せた。隼太の古着である紺絣を着ている姿はサンタ・クロースの面をつけた若者のようであった。そうしている間にも、重吉は白いひげうずもれた唇を動かしては、
「たけくれや、たけや」を繰りかえす。実枝は自分も口に出して、
「たけくれや、たけ」と呟いてみた。ふっと小突き上げられたように勢いこんで、
「お父さん、酒か、酒のみたいんか」と叫びかけた。
「おう、たけやがい」
 分ってくれたかというように重吉は大きくうなずいた。皆が驚いている中を実枝はおよねの店へかけだした。はかってもらうのももどかしく、店先に並べてあった一升瓶を抱えて帰ってくるなり、枕元に坐った。
「酒が来たで酒が、お父さん」
 逃げてゆく生命を引止めるようにいって、大きな盃になみなみとついだ。そして脱脂綿だっしめんに充分吸わせては重吉の唇へもっていった。ちゅうと音を立てて吸っては、ああ、と口を開けて息をつぐ。誰も止める者はなく、ただ実枝一人が涙をぽたぽた布団の上に落しつづけ、それをくりかえした。吸う力はしだいに薄れていった。その日おり悪しく遠くの村の学校へ研究会に出かけていたクニ子が唇の色を失うほどあわててかけつけ、
「お父さん」
と、その胸をゆすぶった。もうそれにこたえる力もなく、目も開けなかった。それを待ってでもいたように誰かが末期まつごの水を汲んだ茶碗をクニ子のそばへ置いた。しきみの葉が一枚浮いていた。

一一


「人も代りゃ世も代る。昔や日向ひゅうがといや派手なもんじゃったぞい。餅ついたって村一、子を生んだって村一、それがさあ、今じゃ下子二人じゃないかいや」
 重吉とは兄弟交際づきあいの友吉爺さんは自分の家でいっしょについた正月の五升の餅を届けに来て、実枝に向って、そう今昔の感をもらした。
 父親に死なれたクニ子と実枝は、よりどころを失った蔓草つるくさのようにお互いにからみあって暮しているうち、歳月はいつか二人の芽を別々の方向へのびさせていた。戸籍上こせきじょう家督かとくは長男の隼太の子供が継いでいるとはいえ、その子は再婚した母親につれられて、九州の三池に暮しているし、長じてふたたび小豆島しょうどしまに帰り、祖先をまつることになるかどうかは分らない。結局実際の世継としてのさまざまのわずらわしいしきたりは、クニ子の肩の上にのっかる結果となった。今は実枝がいておおかたの冠婚葬祭かんこんそうさいには家としての名代をつとめているとはいえ、やはり家長であるという責任観念は律儀なクニ子をますます律儀にさせ、身を守り、家を守ってゆくという風であった。それに反して実枝の方は、いわば肩の荷が下りた身軽さである。しばるものの何もない自由さで実枝はのびのびとなり、匂うような若さで身も心もまるまると太っていった。それが、恭平と親しくなるにつれてますます磨かれ、輝いてゆくのであった。
「姉やん、実枝は時が来たら嫁にゆくで」
 ある日実枝はそれとなくクニ子に宣言した。
「さあさあ、ゆきたい者はとっとと嫁になと婿になと行ってつかあされ」
 そういわれると実枝はどう答えてよいか分らずむっとした。恭平とのことはもう公然の往き来であり、クニ子自身さえ、
「恭平さん、水仙の球根に赤インキぬったら赤い花が咲くんよ」などと、どこからか聞いてきたことを、農林学校出の恭平にたずねるほどの親しさを持っていた。それなのに実枝とのことについては、姉としての気持をいってくれるでもなく、こっちからいいだすと皮肉とも嫉妬しっとともとれるようなことをいう。
 何も私の心をしばられることはなし、私は自分の信じる道をゆくんだから――。
 実枝は気負いこんで内職で貯めたありったけの貯金を下げ、大阪へ行くといってその夜の船にのった。一人でごみごみした真昼の街をあてもなく歩き回った。ふところにある百円あまりの金を皆つかってしまおうと思ったが、買いたいものは何なのか見当がつかなかった。チボというものが自分のそばへよってきて、知らぬ間にこの金をすりとるかもしれないと、それとなくあたりを見回したが誰も彼も実枝などふりむきもせずに行き交う。デパートの食堂に入り、洋食を注文した。見知らぬ人々に交ってれない手つきでナイフやフォークを動かしているうち、実枝はいいようのない侘しさに襲われた。恭平にまで黙ってでてきたことも心にとがめられ、クニ子が今ごろどんな思いをしているだろうと考えると、実枝は決然と椅子を立ち上った。その日の船で村へ帰ると、クニ子が提灯ちょうちんをもってなぎさに出迎えていた。二人はきまりの悪い笑顔を交した。
「知らしもせんのにどうして迎えに来てくれたん」
 実枝がそうたずねるとクニ子は、
「戻る思たもん」という。
 暗がりの道にさしかかるとクニ子は提灯を前にさしだして足許を照し、
「昨夜はなあ実枝、生れて初めて独り法師ぼっちになった。あんまりえいもんじゃないな」
「えいもんじゃないなあほんまに」
 実枝もおうむ返しに答えながら、提灯の火かげで濃くくまどられたクニ子の顔を見た。長らく会わなかった娘が戻ってきたとでもいうような安心の顔つきであった。道が狭い所になると二人並んでは通れない。クニ子は先に立って後ろの実枝にあかりをさしだし、横向きで歩いた。
「姉やんに時計うてきたんで」
 実枝は自分の今度のやり口を詫びるかのようにいうと、
「ほんまにか」と、クニ子は立ち止って実枝の顔を見る。にこにこ笑っている。
「ほんまじゃのうて、姉やん落したいいよったせに」
「ふうん、おおけに。――その代り実枝の嫁入りにゃ、うちが箪笥たんすおごらな」
 実枝はやみの中で顔を赤らめ、それをごまかすかのように、
「姉やんが嫁にゆく時はほんなら実枝がおごら、今から毛糸編んでな」
 するとクニ子は言下に、
「あほうよ、行くかい」と、向うを向いた。実枝はちらちらと動く蝋燭ろうそくの火かげを受けたクニ子の背を見つめ、この善良なゆえにかたくなにさえ見えるクニ子の心の扉を、むりやりにでもこじあけて、二進にっち三進さっちもならない思いをさせる男が世の中に一人くらい出てこないものかと考えた。そして、結局クニ子には自分ほどの厚かましさがないのだろうかとも思え、そうだとすればクニ子の場合は誰かが親身になって将来の相手を見つけだしてやり、クニ子の気持を説き伏せるのも一つの方法であろうと思い到った。
 重吉が死んでから足かけ三年目である。法事を営もうという計画は、二人をそれぞれの気持ではずませていた。クニ子はクニ子で無経験な自分が実枝のことをどんな風に計ってよいものか、一種の気まり悪さからまじめに相談もできないでいることを、その経験のある姉たちにすがろうと思い、実枝はまた実枝で、その姉たちが来ればクニ子のことにも当然ふれるであろうし、何か具体的な方針も与えてくれるであろうと期待した。
 三人の姉たちはそれぞれの家庭の雰囲気ふんいきを背負ってやってきた。一ばん早く来た長姉のミチはクニ子が勤めに出たあと、実枝ひとりになる家の中を眺め回し、
「げに不思議じゃのう、ようもはあ、あの日向ひゅうがの家にでものう――」
と、言葉まで広島弁になりきって、自分たちの育った昔の日向と、今のひっそりとした家の中とを比べて感慨深く首を左右にふった。そしてさも世帯に疲れはてたとでもいう風に、ひまさえあればぐうぐう眠りつづけた。そしてクニ子が帰宅するとミチはきゅうにしゃべりだし、二人を並べておいて愚痴ぐちたらだらに夜をかした。亭主の万吉が毎晩のように大酒を呑んで帰ってこず、門の外に寝ているのを朝起きて気がついただとか、五人の男の子が揃って腕白わんぱくで、四番目の清は毎日袖をち切ったり、ズボンを破らぬ日がないとか、末っ子の耕造は近所じゅうの子供を泣かせて、毎日どこかの家から口説が来るのであやまりに行かぬ日がないとか、かと思うとその一人一人の子供が自慢のたねになり、そのいたずらも利口さゆえであるようなことをいう。こまこまと、しちくどく同じようなことを繰り返し、結局は女の身をくやむ言葉に落ちてゆくのであった。返事のしかたがない困った顔つきでただ、ふうふうとうなずいているクニ子、そのそばに控えているような立場の実枝。
 実枝は何の考えもなく、ただべらべらと口を動かしているようなミチの饒舌じょうぜつに、何ということないいらだたしさを感じ、母親ほども年のちがう姉の顔に目をすえた。おいねさんにそのままじゃと近所の人のいうとおり、ミチは母親に生写しで、広い生えぎわや、とがったようにやせた顔つきなどまったく似ている。しかし見れば見るほど母親のいねとは違った女であるのを実枝ははっきりと見て取った。顔も姿もこんなに似ていて、それでこんなに心の違うのはどうしたことであろうか。きっとこれは環境かんきょうがこんな風にさせるのだろうと、実枝は恐ろしい思いでその顔を見つめた。それほどの思いを妹に与えているとも知らずにミチはしゃべりつづけた。話は枝に枝が出て、肩をこらした話、その時にたのんだ按摩あんまに町で出会ったら杖でこつこつ拍子をとりながら歌をうたって歩いていた話になり、そしてやがては按摩の家族にまで及んでいくのであった。口をつぐむことなど忘れたかのように、ゆるんだ唇をある時は笑いに大きくひろげ、ある時は泣声でふるわせ、まるで習性になってしまったように動かしつづけている。
 実枝はどうしても割りきれぬもどかしいものを感じ、ひそかな溜息ためいきをした。少し出歯でっぱなミチはあまりしゃべりつづけて、時々かわいた上唇が歯ぐきにひっかかるようになるのを指でつまんではずしている。
「クニちゃんなんぞ、そやってひとりでいれてはあ、何ぼかのんきでえいのう」
 そういうミチに実枝はだまって茶をんでだした。
 一日おくれてカヤノが来た。ミチの親しみ方はクニ子や実枝たちへとはまたちがった、喧嘩をしながら育った者同士のへだてなさで、そのおしゃべりはカヤノが船を上るとから始まった。カヤノの子供のないのんきさをミチがうらやましがると、カヤノはカヤノの夫の作太郎が酒を呑まないだけに気むずかしくて気骨きぼねの折れる話をし、
「そのことなら実枝ちゃんが一ばんよう知っとるわなあ」
と、もうハンカチを顔にあてた。
「そやせに、うちもう一と月ほどんでやらへんつもりで喧嘩してでてきたんよ」と、涙をふいた。
 実枝はわすれていたさまざまのことを思いだした。そういえば作太郎という男は、どうと取りたてて人前ではいえるほどのことでないいやなことを、毎日いっていた。食事の時にも魚を出せば肉がよいといい、肉を出せば野菜がよかったという。それなら欲しいものをたずねると、何や四十おなごがおかずの才覚もできへんのかと怒る。カヤノはそれを心得て、作太郎の好みのものを二三種こしらえ、まず一つを出す。それが魚であれば肉がほしかったというに決っていた。
「あ、そう、肉やったらちゃんとできとんやで」と、カヤノがそれを出してくると、作太郎は、しもたっ、と舌打ちをしながら食べる。そんなこともしまいにはかなくなって、へっ、うちの嫁はん景気えいことやんのやな、育ちがえいさかいようけ銭でも持ってきたんやろ、といやみをいう。実枝は四年間そこで世話になっている間に自分の本当の名を呼ばれた記憶がほとんどない。いつでもおたやんおたやんと呼ばれていた。店の者までがそれを真似まねるのを聞きかねて、カヤノがそれだけはやめてくれというと作太郎はよけい図にのって、
「お多福にちがいないやないか、分らんなら鏡見せたろか。ほんまにお前らの親はよう九人もおたやんばっかり生み揃えたな、よっぽど好きなんやな」
 そしてそれからは今までよりも大きな声でおたやんと呼んだ。実枝が重吉の看病に呼び戻された時にクニ子にその話をすると、クニ子はむっとして、
「あた気色の悪い、カヤノ姉さん、ようそんな婿さんのとこにいるわ」
と、クニ子らしい憤慨ふんがいのしかたをした。
「ほんまにカヤ姉さん苦労しよるわ」
と、実枝もその時はカヤノの二度目の結婚がまたけっして幸福には行っていないように思い、めったに嫁にとてはゆくもんじゃないというクニ子の考え方と同じ考えを持っていたのであった。
 それから四五年の月日が流れ、実枝は実枝なりにものの考え方も変ってきている。それなのに今自分たちの前で涙を流しているカヤノは今だに我家庭をこきおろし、愚痴を並べる女である。
 女がこんな風なのはいったいどこが悪く、何がそうさせるのだろうか。
 実枝はそう考え、クニ子はクニ子で、
「やっぱりうかうか嫁にはゆけん」と、我心にきつくいいきかせるのであった。そして姉たちの不幸を少しでもなぐさめようと、
「ゆっくり休んでいきよ姉さん、ぎょうさん寝てゆきよ」
と、それよりほか言葉を知らないように思いやりこめてくりかえしていった。
 三年忌の当日、もう来ないだろうと思われた高子が、その日になってやってきた。お寺様のお経もすみ、これから皆で墓へ出かけようとしているところであった。トランクを下げて黒っぽい洋服を着た高子が、息せききって家の前の道を上ってくるのを、千吉が一ばんに見つけ、
「おお、来た、来た」と歓声をあげた。
「すまん、すまん」といいながら高子は家の中へかけ上り、大急ぎで着がえをすると、顔も洗わずに一行に加わった。岡山回りで汽車から船に、船から自動車へ乗りついで、やっと間に合った長旅の疲れで眼の下にくまができていた。来るだけの者が皆集ったということの喜びで、一行の気持は何ということなくからりとしていた。花や、水桶みずおけをさげた姉妹たちのほかに正太郎が紋付袴もんつきはかまで胸をのけぞってゆくのに並んで、小さい躯の千吉も袴はつけていないがたけの長い羽織を着、供え団子のお華束けそくを両手でささげるように持って、年寄りじみた歩き方で続いた。そのほか二三の親類の中には友吉爺さんの杖をついた姿もまじっていた。友吉爺さんはあだ名をくしゃみのおっさんといわれていて、おっさんがくしゃみを始めると、とめがないほどつづき、大きなそのくしゃみは畑にいる時は谷を越えて家々にまで響いてきて村の人たちの笑いを誘い、夜朝よあさの寝床の中ででも始められようものなら近所じゅうはそのために目を覚すのであった。その友吉爺さんに向って、高子の、
「おっさん、達者でくしゃみしよるか」
という挨拶あいさつに皆が笑いだした。おっさんもいっしょに歯のない口を開け、
「わいらのお父つぁんがよういよったれ、友吉のくしゃみと医者どんの雨戸はいつやむか見当がつかんとなあ」
 それをきっかけのように話はお互いに通じ合う日向の家の昔語りに移っていった。
「わしが弟子入りした時にはミチさんがこのくらいじゃった」と、正太郎は手の平で自分の股のあたりの空気を押えつけるようにし、
「次々生れてのう、まるで小んまい学校のようじゃった」と、皆の顔を見回すと、
「我子だけじゃないもんな」と、友吉爺さんがいう。
「げにやかましゅあったのう。じゃが、十人兄妹がが悪いと思たこともあったけど、こうしてみるとちっともはあ、多すぎゃあせんのう」と、ミチが答える。
「私はまた九人というのは勘定が悪いから実枝を生んで十人にしたんじゃと思いこんどった、そういや、たしかお母さんがそういうたように思う」と、クニ子は皆をふきださせ、女学校の入学願書に日向重吉、いね八女と書く時に三女ぐらいだとどんなによかろうと恥かしかったという。
「そんなら実枝は九女で」
という実枝は少し腹を立てていた。そんなことに誰も気づくはずもなく、流れるように話ははずみ、重吉が煙草銭に困って菊煙草を吸っていたとか、いねが村の使い走りまで引受けて、夜中に隣り村まで行く時など、いつもつれだされていた高子は、首吊くびつり松の所では母親の腰にしがみついて息をつめて通っていたとか、そのいねが病気になった時、重吉はいねを船にのせて高松まできゅうをすえに行ったとか、そして、
「実際うちのお母さんほど働きすえたおなごはないのう、夜半に目がさめりゃまだ縫物、朝起きたらちゃんと御飯に湯気が出とる、いったいいつ眠りよったんじゃろと不思議に思た」
と、ミチが身ぶりで話すのについで、
「うちまたどんな貧乏しても御飯だけは何ぼ食べてもただじゃと思とった。そんな調子で十人に食べられたんじゃせになあ」とカヤノが笑う。クニ子もそういう話にちゃんと相槌あいづちを打って、生れながらの船乗りでない重吉がどうしても帆柱へ登れず、帆綱ほづなの取りかえには、子供の自分がいつでも腰をゆわかれて帆柱へ吊り上げられていたと語る。父親はともかく、達者で働いていた母親の姿をちっとも知らないのは自分だけだと思うと、実枝は人々のそれぞれの話題に耳を傾けながら、つうと涙が出てきた。それをほこりでも入ったようなふりをしてハンカチの隅で何度も目がしらを拭った。
「そんな話、実枝おおかた皆知らんけんど、姉さんらの誰っちゃ知らんことを一つ知っとら」
 実枝はにやにやした。
「どんなこと」
 クニ子が自分も知らないことか、というような目つきで見る。
「へっへえ」と、実枝はわざとふざけた声を出し、
「なかなかいえんこっちゃ」と、口をつぐんだ。
 実枝のその大事がっている話というのは重吉の死んだあと、片づけをしていた実枝が何気なくぬいた膳の深い抽出ひきだしの底から、珊瑚さんごの玉のついたいねの若い時のかんざしが出てきたことなのであった。
「お父さんのお膳の抽出になあ、お母さんのかんざしがあったこと、知るまいが」
 実枝は、高子を真中にして並んで歩いていたのを、わざわざクニ子のそばへ行って皆に聞えぬような小声でいった。
「それがどしたん」
 なぜだという顔をするクニ子に、高子は、
「鏡台じゃなく、お膳の抽出に入れてあった、いうんで。可愛らしいじゃないか」
と、こういうことには感の鈍いクニ子の顔を見て説明するようにいう。始めて分ったクニ子は、
「あほらしい」
と、心もち気まりの悪いような目つきをした。
 ひそかな三人の話題にはおかまいなく、ほかの連中は大きな声でなおも話しつづけ、笑い合っている。杖をついた友吉爺さんと歩調を合せ、皆ゆっくりと歩いた。道は墓地のある丘のすそを上りかけたところで、午後の日ざしは背中に暑いほどであった。

一二


 昨日カヤノが帰ってゆき、今日よいの上りで高子がたち、明方近くの下りでミチを送りだすと家の中はしんかんとした。
 カヤノは一と月ほど遊んでゆくと息まいていたが、誰よりも先に帰っていった。その夜、近所の人たちもよんで年忌の看経かんぎょうをつとめ、その人たちが帰りかけるとカヤノまでがそわそわと荷物を片づけだした。クニ子も実枝もどうしたのだろうと思っていると、汽船の来る間近になってから、足もとから鳥が立つようなあわて方でカヤノは帰るのだといいだした。あわてて土産みやげものを整え、息せききるようなあわただしさであった。それでも船の時間に間に合うと分るとカヤノはすまなさそうに桟橋さんばしの上で実枝に紙幣しへいを握らせ、小さい声でいった。
「礼状書かんとってな、香典こうでんの方もやで」
 実枝はうなずきながら、この姉が実家へ来るについて、作太郎がどんなことをいったかが分るような気がした。そして姉妹にまで体裁ていさいを作らねばならない境遇の中で、気ばかりつかって暮しているカヤノに、同情と反感の交錯こうさくした気持で、背中をどやしつけてやりたいようなもだもだしたものを持たされた。いったん船室へ姿を消したカヤノはすぐ身がるになって出てきた。作太郎が年とっているせいでじみ作りなカヤノは、ミチよりもずっとけた身なりをしてはいたが、子供のないせいか肉づきもよく、四十すぎた女とは思えない若さがあふれていた。ふなばたの手摺りにからだを斜めにしてよりかかったカヤノは、桟橋に並んでいる姉妹たちを丸い笑顔で見下し、
「高ちゃん、東京いにしなにまたよってか、ご馳走するわ」
と、あかるい声を出す。電灯を正面に受けた、はればれとした顔は、さっきまでの落ちつかなさとは別人のようであった。どうかすると気短かではあるが何事にも気の大きなカヤノと反対に作太郎は細かい、計算をすきな男であった。そのためにいつも起っていた争いを、実枝は四年の間にいやというほど見せつけられてきた。そしてカヤノは、
「うちが二度目やなかったらこんなとこ飛びだしてやんのやけどなあ」と、泣きながら小さい実枝に訴えたこともあった。その作太郎の所へ、カヤノは今あんなにいそいそとして帰ってゆく。実枝は、どや! と作太郎に自分の背中を叩かれているように思えて、カヤノから目を離した。
 やがて汽船は、しだいに桟橋さんばしを離れてへさきを沖に向けた。ともの方へ回って、若い者のようにハンカチをふるカヤノの姿も暗の中へ消えてしまうと、見送りの人はのろのろときびすを返した。実枝は高子と肩を並べ、先刻カヤノに貰った二枚の紙幣をだまって高子のポケットにつっこんだ。何? 何? と高子が目を丸くしているのを、実枝ははげしく首をふって制した。それと分ると、高子は小さい声で、
「な、私も今度は旅費を持って帰ったんで」
 返そうとするのを実枝はむりに押しやって、
「そんなら義兄さんに差入れて」といった。
 高子は葬式の時にも片道の旅費しか持っていなかった。世間並みな言葉でいえば、姉妹じゅうで一番学問のある男に添って、一番苦労をしているのが高子であった。夫の正昭がある事件に引っかかって留守の家庭を守り、高子はそれ以後を自分で働いて暮していた。ミチもカヤノもそういう高子の苦労を同情してはいるが、思想犯だという正昭のことについては、なるべく話をふれないようにしているのを実枝はひとりで感じとっていた。それを知っているのかいないのか、高子はいっこう平気で、
「正昭もうすぐ帰るの、もうすぐ。そしたら私らまた新婚よ」といって皆を笑わせもした。
 作太郎が爪に火をともすようにしてもうけた金を嫁さんがへそくって、それが回り回って正昭のふところへ入るとしたら、世の中はおもしろいものだと、実枝はようやく救われたような気持になり、高子の腕にからみついていった。そして、
不浄ふじょうの金も生きてくるんで」と、おおげさなことをいった。何の意味か分らず、え、何? と聞き返す高子に、実枝は何でもないというような少し甘えた笑い顔を向け、
「高姉さんはゆっくりしいのう」といった。
「おおけに、ところがそれができんの、明日の晩帰るつもりよ」という。
「姉さんこそ待っとる人もないのに、ゆっくりしていき」と、クニ子も声に力を入れた。
 口々にすすめられても高子は、昨日面会の予定なのに早く行かないと自分が病気でもしているのかと、正昭にいらぬ心配をかけるからと言訳をし、
「これでも待つ人もあるんだからね」と、胸を張ってみせた。
 ミチは持てるだけ持って帰ろうとでもいうようにいろいろなものを欲ばった。夫の万吉が酒のさかな味噌漬みそづけを好きで、しかもそれは田舎いなかの麦味噌のが一ばんよいと、来るとからあちこち頼んであったのをかめにつめ、上の方があいているからといってはまた味噌をつめ足したりした。
 三人の姉は、三様の帰り方で、家の中はまたもとの二人になった。見送りから帰ると、クニ子も実枝も自分たちが旅から帰ってでも来たようにくたびれた。クニ子はやれやれという顔つきで仰向あおむけに寝そべり、大きく伸びをした。
「疲れたろ姉やん、姉やんは昼夜のつとめじゃったせにな」
 ここ二三日、ほとんど徹夜てつやなことに思いやりをこめて、実枝はクニ子のそばへ並んで横になった。
「あないなりとうないわ、ほんまに」
 目をつぶったなりでこっちへは顔も向けず、怒ったようにいうクニ子を、実枝はまじまじと見つめた。姉たちが来れば当然クニ子や自分の将来についてもそれぞれの意見が出るだろうという実枝の期待もみごとにはずれて、ミチもカヤノも自分のことで手いっぱいであるらしかった。真正面からクニ子を説きつけたのは高子だけであったが、その前にミチやカヤノの並べたてたくり言は、クニ子を十分に滅入めいりこませるようなことばかりであったにちがいない。
「めったに嫁にはゆけんのう」というクニ子の複雑な気持を聞いてやるゆとりも持たず、ミチもカヤノもその時の自分の気持のありかただけで、亭主持つのも考えものだと、あっさり流してしまった不親切さを、実枝はぎりぎり歯をかみたく思った。そして、姉たちの家庭の不平をその言葉どおり信じこもうとしているクニ子にも、またそのクニ子に何というべき言葉を見出せない自分にも悲しいもどかしさを感じずにいられなかった。クニ子のいうには、いったい自分たちの姉妹だけを見ても誰が結婚の幸福を持っているか、隼太はあくせくして死んでしまい、ミチはヒステリーのように泣いたり笑ったりするし、フサエや八重はかげろうのように消えてしまったし、子なしのカヤノは夫に妾でも置かれるかとちりちりしているし、アグリとなれば悲劇を背負ったような死に方だし、せっかく円満だと思うと高子は赤い亭主を持ち質屋通いをするようなありさまだというのである。
 実枝はだまってそれを聞いていた。自分の気持が言葉として出ない時によくするくせで、上唇をみながらぱちぱちとまばたきをした。クニ子はいつか横なりに実枝と顔を向い合せにして、じっと目を伏せていた。実枝はその顔を仔細しさいに眺め、何かある、クニ子はこうはいっているが、百パアセント結婚を否定しきれないものがあるにちがいない。実枝は何か胸の奥がむくむくして起きあがった。勢いこんで、
「そないいうけんどなあ姉やん、皆婿むこさんのえい所は隠して話をせんので、あれ。その証拠にミチ姉さんもカヤ姉さんも、嬉しげな顔してんだがいや、なあほら、いそいそとしてから」
 冗談めかしていう実枝の言葉にクニ子も笑いだし、
「ほんまによれなあ」と、素直にそれを受け入れた。実枝は力を入れていった。
「犬も食わんもんやこい食わされなよ、姉やん」
「何ぞいや、それ」
「夫婦喧嘩よれ」
 何じゃいというのを「ちゃい」とクニ子は右手で軽く叩くようなしぐさで、また一本というように実枝と目を合わした。そして、さも感にえぬとでもいう表情で実枝の丸い顔を眺め、
「俵ぶるいは賢いというが、実枝はほんまに何でもよう知っとるなあ」という。
「ちゃい」
 今度は実枝が軽く叩いた。二人はしばらくだまっていた。むっくり起き上ったクニ子は、また肩を落したような力のない顔をして、
「ほじゃけんどなあ実枝、考えてみるとやっぱりうち、結婚はしまいと思う」
「どして」
 巻きかけたゼンマイがもどけてゆくような気持で実枝は坐りなおした。
「何せ、大変なことじゃと思うと、考えただけでくたびれるのがいや」
 実枝はまた上唇をかんだ。時とすると若い娘のようになったり、ひどく年とったりするクニ子の小さい顔に見入った。つぶらな目が悲しみを帯びているように見えた。
「しっかりせえ姉やん、六十ばあさんのように」
 実枝は本当にクニ子の背をたたき、すっと立って仏壇の前へ坐った。よいの間からずっと半分開けてある小さい仏壇の中は、おひかりの油も絶え、いぶしたような金色で光っていた。
「南無仏さんたち、姉やんは嫁にゆかんといいます。よろしいですか。しかたがない、好きにするがよいぞよ、三十は三十の縁、四十は四十の縁、ゆきたい時にゆくがよかろう。私は嫁にゆきますがよろしいですか。よろしい、よろしい。子供をぎょうさん生もうと思いますがよろしいですか。よろしい、よろしい。よろしいとおっしゃいますか、ありがとうござります。鐘でござりますチンチン。お光りでござります、ピカッ」
 実枝が近所に住んでいるおがみ屋の口調で頭を下げたり、貧乏して油が買えず口先で灯明をあげたという芸者上りの老婆の真似をして拝むのを、クニ子は腹をかかえて笑いころげた。拝みながら実枝は、ふと、本当に自分は赤ん坊ができるかもしれないと思うと、ほうと顔が赤らんできた。そして、それはしだいにはっきりとした形で目の前に現れてきた。重吉の背中にちょこなんと負ぶわれていた花子の姿、ああいう姿は自分の子には望めないのだと思うと、祖父母のない自分の子供は淋しいだろうなと、まるで本当に生れかかってでもいるように下腹をさすってみた。
 やがて夜もあけるのであろう。しらじらとした色が暗い硝子戸ガラスどをだんだんぬぐっていくように明るんできた。





底本:「日本文学全集76 壺井栄 芝木好子集」集英社
   1973(昭和48)年11月8日発行
初出:「新潮」
   1940(昭和15)年2月
※底本巻末の小田切進氏による注解は省略しました。
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード