雑居家族

壷井栄




序章


 この家のあるじは――といっても、同じ部屋の下に住む六人のあるじのうち、この場合は女房の安江のことになるが、彼女は腹が立ったときと、うれしいときとに花を買うという妙なくせがある。
 ぷいと家を出ていって、ゆきあたりばったり、いろんな花を買いこんでくるとき、それは腹を立てている証拠であった。金があってもなくても、ないときには花屋で借金してでも、とにかく花をかかえてもどらんことにはおさまらないらしい。そんなとき、買ってきた花は湯殿のバケツに投げこんでおく。すると翌日あたり娘の音枝がにやにやしながら跡始末をする。たとえば、一番上等のバラの花は、こいつは母親の立腹がもっとも集中されているものと察して、安江から目の遠い台所の出窓におくとか、ミモザとカーネーションは組合して玄関のゲタ箱の上に、ねこやなぎと菜の花は水盤にいれて応接間の窓べりに、そして一ばん目立たぬスミレの花束だけを小さなコップにいれて、安江の部屋の机の上におく。といった具合に気を配るのである。こんな日には、ふたが割れたために用をなさなくなった味噌つぼが、チュウリップのいれものになって、茶の間のたんすの上にのっかったり、時には豪勢なアマリリスが広縁のすみに、くず籠の臨時花器と一しょにはずかしそうに顔赤らめてお互いにそっぽを向いていたりする。家中どっちを向いても花だらけ、いくら花ずきの安江でも少々てれる。
 こんな風景をみると、この家のあるじ――こん度は亭主の文吉ぶんきちの方だが――は、さわらぬ神にたたりなしと、そっとしておく。小さいむすこの夏樹や大きい息子の冬太郎とうたろうたちも、ああそうかと、口には出さずにだまっている。もひとりいる進君、これは間借人だから大して問題にせぬ。そんな中で、娘の音枝ひとりが大口あけて大活躍だった。その方が効果的であることを、経験が教えたのであろう。
「バカね、おかあさん、おとなりへもお向いへもあげたわよ。」
「…………」
「おかあさんのお道楽ですかって。――でもさ、男はこんなとき一ぱいのむのね。おかあさん、一ぱいのんだと思えばいいって。」
(おとなりの奥さんだろう)
と、安江の口をわらせたら音枝の勝利である。これで一段落だった。おかあさんとよばれる安江が一ぱいのんだとして許されるのは、彼女が普通の主婦でなく、小説書きであるからだ。そしておもに彼女が腹を立てるのは、小説書きが万能の神的扱いをされるときである。彼女に彼女の仕事だけをさせておく場合、彼女は前だれがけのまま、時々、
「散歩。」
といって出かけてゆく。あとをつければ必ず花屋の前に立つ。都会の花屋の飾窓の中は寒中でも春たけなわである。やがて彼女はつつましく桃の花など買って帰る。
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柳の糸


 ひな段は九歳になる男の子の机の上だ。内裏だいりさまは子供雑誌のふろくの、五人ばやしまでがそろっている厚紙の模型ひな段をそっくりそのまま一段高いところに置き、両側に桃と菜の花を飾ろうというのである。花は床の間にいけてあるので間にあわそうというのに、どうしても新しい花を買いにゆこうと男の子はいいはる。ほかにたくらみもありそうだった。
「花ぐらい買ってくれたっていいよ。かあちゃんなんか、いつだって買うじゃないか。」
 男の子――夏樹はほおをふくらませて、なかばふてている。きのう、となりの女の子の初節句に人形を祝ってあげたのをやいているのである。それがわかっているので、母親の安江は軽く対抗しながら、わざと、
「きみ、男の子なんだぜ。男のくせにおひなさまなんて騒いで、第一、おかしいよ。」
「おかしくないやい。喜久男くんだってやってるもん。」
 口をとがらせるのを安江もまねて、
「喜久男くんのは、ハツミちゃんのだよ。」
「ちがわい。喜久男くんのが、ちゃんとありますからね。」
「五月人形がね。」
「ちがいますよだ。おひなさまですよだ。ぼくのだよって喜久男くん、いいましたからねだ。」
「そうですかねだ。そんなら喜久男くん、どっかへオチンチンおとしたんだろうねだ。」
 これには夏樹も笑い出してしまった。しかしそれで負けたと思ったらしく、一しょにふき出した姉の音枝に突然むしゃぶりついた。
「このやろ! よくも笑ったなッ。」
 ひな段をせい一ぱいにぎわしてやろうとて、家中の郷土人形を集めて飾りつけていた音枝は、思わずよろけて夏樹の足をふんだ。
「あたアあたア。」
 大げさな声で、骨がくだけでもしたように両手で足の先をかかえこんだ夏樹は、ごめんね、と音枝にいわれると、時を得たように泣き出した。そのこけおどしの大声をきくと、安江はどなりつけた。
「なにさ! 男のくせに。」
 しかし夏樹はますます声を高くして泣き立てた。こんな時の手である。二針も縫わねばならないほどの傷をしても大して泣かなかったりするくせにと、安江は更にどなった。
「あまったれ泣き! あられもひしもちも買ってやらないから。」
「いやだア。」
 おーん、おーんと、よくもこんな声がとあきれるような泣き声である。声で刃向ってきたなと思ったとき、まるで火に水をかけるように、玄関のブザーが鳴り出した。しかもなかなか鳴りやまぬ。ボタンの押しっぱなしだ。
 さすがの夏樹も泣き声をおさめはしたが、しかし足の先はやっぱり両手でかかえこんで顔をしかめている。
「ごめんね。」
 ささやいておいて取次に出ようとする音枝をさえぎって、中廊下をばたばた走って玄関へ出たのは浜子だった。十日ほど前安江をたよって、いなかの家を半ば無断でとび出してきた、十八の娘である。音枝はもう浜子についてゆかずに、
「やっと腰をさげるようになったわ。」
と、まゆをよせて聞き耳をたてている安江にささやいた。この家の玄関は板敷きなので、人を迎えるのにすわって手をつけとはいえぬが、せめてひざをついて応対するようにと、安江はいつも若い者にいっていた。それをそのまま音枝が浜子にいったのである。すると浜子は、人のよい音枝をみくびって言いかえしたという。
 ――お客さんは立ってるのにこっちがすわるなんて、封建的ですわ。男女同権ですもの――
 そこで音枝はおかしいのをこらえて、
 ――でもね浜子さん、うちはそういうしきたりなのよ。
 ――そんなしきたり、打ち破ればいい。あんがい古いのね。
 ――だってうちの家は洋式じゃないのよ。突っ立ってると、お客様を見おろすことになるでしょう。
 ――あたり前だわ。相手は土間にいるんですもの。
 そこでとうとう音枝は母に応援を求めたのだった。
 ――おかあさん、私、浜子さんは苦手よ。つかいきれない。それにあの人、女中さんの仕事なんて、する気ないらしいわよ。
 三十にもなっていて、気の弱いことをいう音枝だった。しかしその時には安江は笑ってとりあわなかった。どうせここに落ちつく娘とは思えなかったからだ。ところが浜子の方はどんなつもりか、きのうはいなかの母親のところへ電報をうったという。――ニモツオクレ――と。
 そして今は、自分の方から玄関へとび出していったのだ。ぶっきらぼうな問答がきこえてきた。
「どなたですか。」
 どうもやはり突っ立っているらしい。
「わしだというて下され。」
「あら、ワシってお名前ですか。」
「そう。お安さん、いるかね。」
「おばさんのことですか。」
「おばさんというとこをみると、あんた、お安さんのめいかね。そんなら波子の娘かね。」
「あら、失礼ね。ちょっとまってください。」
 こちらでは安江と音枝が声を忍んで笑っていた。客がたれか、もうわかっていたからだ。夏樹だけはひとりしんこくな顔をして、足をさするのを忘れて聞き耳たてている。
「あのう、ワシっていうんですけれど。」
 浜子は突っ立ったままげらげら笑う。
「なによ、笑ったりして、失礼じゃないの。」
と、たしなめながら、安江もつい笑ってしまった。玄関へは音枝が出むかえて、
「さ、おじさんどうぞ。わしなんて珍らしいみょう字だもんで、知らないものはおかしいんですよ。」
 台所の方へかけこむ浜子に聞かせるためにもわざととりなすようにいったのに、音枝の心づかいに気づかなかったのかひなた縁にすわったまま客を迎えた安江は、
「ああ、珍らしいわね兵六ひょうろくさん。しばらくでしたね。さ、こっちのあったかい方へどうぞ。」
 夏樹が急に向きをかえて客と母とを見くらべはじめた。そして安江の耳もとに口をよせ、
「お客さん、ひょうろくって名前?」
 それをひじでおしやりながら安江は、もう六十をこしたはずの客をひなたの座ぶとんに招じた。台所では音枝と浜子がはいまわっているらしい。それを気づかせないためにも安江はしゃべらねばならない。一応のあいさつののち、
「――ふえましたね、白いのが……」
 すると客はそれに合せるように左手で頭を一なでした。小鼻のわきのホクロが、また大きくなったと思いながら安江は、
「戦争じゃあ、苦労しましたね、おたがいに。――おせいさんも娘さんもお達者で?」
 兵六さんはきゅうくつにズボンをぎんばらせてすわり直しながら、
「さ、そいつがね――」
と、また左手で頭をかく。安江はおどろいて、
「どうかしましたか?」
「いやあ、元気すぎましてな。」
 そして気になるらしく夏樹の方をあごでしゃくり、
「この子が、あの子ですかい?」
「ええ。」
「三年たちゃあ三つになるというが、そんならもう、ここのつぐらいかいな。」
「今流にいって、満七つと、何か月かな。」
「ふーん。そんならわしゃ、えらいごぶさたしたな。足かけ九年になるかいな。」
 感慨のあまり兵六さんはすっかりいなか言葉になり、一瞬暗い顔をした。なにか深刻ななやみがありそうだと思い、安江は思わず悪い想像をめぐらしていた。難題を持ってきた人のそれは暗さであった。しかしせっかくお休みのきょう、そんなことはごめんとばかりに話をそらし、
「夏樹ちゃん、鷲のおじさんにごあいさつは。」
 夏樹は素直に、
「こんちわ。」
 ぴょこんと頭を下げはしたが、そのつづきでとび出していった。手で口を押えながら。
 みんな笑いを押えているらしかった。台所でこそこそというざわめきがあるのに、なかなかお茶が出てこない。年がいもなく音枝までがと、少し腹を立てた安江は、ぽんぽん手をならし、
「音枝……音枝……」
 すると夏樹がかわって、
「おねえちゃん、お茶菓子買いにいった。」
 そしてくっくっと笑うのである。
「浜子さんは。」
「いる。」
「なにしてるの。」
「笑ってる。」
 そしてまたくっくっと笑う。
「しようがないね、ほんとに。若い者にかかっちゃあ、兵六さん、ワヤじゃ。――浜ちゃん、いいかげんにしてお茶ちょうだい。」
 しかし浜子は現れず、かわりに夏樹が茶盆をもってはいってきた。足のことはすっかり忘れはててにやにやしている。安江に盆をわたしながら、
「ね、浜子さんね、笑っておなかが痛いんだって。鷲なんてもうおかしくないってよ。今は兵六の方がおかしいんだって。」
 そして自分もげらげら笑いながら、そんなことで急に親しみを感じているらしく、
「おじさん、兵六って、ほんとの名前?」
 すると兵六さんは夏樹の意を迎えるような人のよい笑顔をむけ、
「ほんとうとも。兵左衛門という家の、六番目のむすこさ。」
 安江はとりなし顔で、
「お前が夏生れて夏樹というようなものさ。」
 しかし夏樹はそれに耳もかさず、
「ぼく、あだ名かと思ったよ。そんならおじさん、小さいとき、兵六玉ってなぶられなかった。」
「なぶられたね。今でもいわれるよ。」
「へーえ。だれに。」
「おせいさんという人や、二三子ふみこさんというお嬢さんにね。」
 安江はあらわにいやな顔をして、
「よしなさい鷲さん。――夏樹もなんですか。おとなにむかって。」
「だってぼく、聞きたかったんだもん。わかんないことは聞けって、いったくせして。」
 少しばかりてれている夏樹に、安江は、
「いやね。お前さんがおひなさまをほしがるわけの方が、よっぽど聞きたいよ。」
 そして兵六さんに、
「おかしな子でね。女の子みたいにお手玉がすきだったり、きょうはおひなさまだといって、さっき騒いでたんですよ。」
「なにごとも世はさかさまになったかな。うちの女房や娘は男のわしに出ていけという――」
 夏樹がいるところでと、安江は少し困惑した顔をしながら、冗談めかして、
「そんな話犬もくわんそうよ兵六さん。それで男のあんたが出てきたわけでは、まさかないでしょう。」
 すると兵六氏はちょっとあわてた口調で、
「まさか。わしも男ですからな。女ごときに負けやしませんがね。わしも男じゃ。そうそう馬鹿になってもおれん――」
 わしも男じゃといいながらぽろっと涙をこぼしたことで、夏樹の目がまたくるくるしだした。安江はむつかしい顔になり、
「その話、あとにしましょうよ兵六さん。夏樹はあっちへいってらっしゃい。ここはおとなの話よ。」
「はあい。」
 素直に立ちあがったと思うと、
「じゃあぼく、桃の花買ってくる。」
と、安江の鼻の先にかた手をつき出す。百円わたすと、
「それから、花あられも買う。」
「ああ、いいよ。」
「ついでにおもちゃもね。」
「なにいってんのよ。すぐつけあがる。」
 すると何を思ったのか兵六氏も急に立ちあがり、
「夏樹さん、おじさんも一しょにいくよ。」
「…………」
 夏樹ははかるようなまなざしで安江を見る。
「いいじゃありませんか兵六さん。来たばっかりなのに、少しゆっくりしたら?」
 しかし兵六さんはあわてたかっこうでオーバーに手をとおしながら夏樹と一しょに出かけるしたくをした。オーバーは左のそで裏がひどくやぶれているらしく、なかなか手が通らなかった。彼が左ききなことをふっと思いだしながら安江は、そのうすよごれた粗末なオーバーをみると、
「ちょっとまって。」と奥へ引っこみ、いそいで千円札を一枚、ちり紙にくるんできた。
「久しぶりなのに、ゆっくりすればいいのに。――失礼ですけど、これで桃の花でも買ってって仲なおりしなさいよ。」
 オーバーのポケットにつっこんだ。そして何となくほっとした気持と、また別に、このたずねてくるたびに落ちぶれてゆくようなかなしい老人の姿を、気のめいる思いでみおくった。
 ――この前きたときは、彼は戦後のどさくさの中で景気のよい方の人間だった。何と思ったのか自動車のない時代に自動車でのりつけてきて、一もうけする気はないかといった。安江に金でもあれば出資させようという魂胆こんたんだったらしい。その前はまだ戦争中で、甘いもののない時代に、ブドウ糖と称する黄色い菓子をもってきた。それは食べると口の中が黒くなった。――
 門の戸がしまるのを待ってでもいたように、音枝と浜子が台所からころがるようにして出てきた。今までも笑っていたくせに、この上まだ、思いっきり兵六さんについて笑おうというようなその様子をみると、安江は渋い顔をして、
「なんだろうほんとに。限度というものがあるわよ。音枝は、親せきなんだよ。出てきて一しょに話相手ぐらいすればいいじゃないか――」
「だって、兵六おじさんたら、おかあさんのこと、おやっさん、おやっさんていうんですもの。」
「お安さんにちがいないじゃないの。」
「かげで聞いているとおやじさんみたいにきこえて、おかしくて。ね、浜ちゃん。」
「あんたらがあんまり笑うから、帰ってしまったじゃないの。兵六さん自分ちでおもしろくないことがあったらしいのにさ。出先でまた笑われて。――失礼だよほんとに。」
「ごめんなさい。」
「粗末ななりしてるからって、軽くみるもんじゃないわよ。」
 それは浜子にもあてつけていったつもりだったが、音枝が重ねてわびた。
「すみません。そんなつもりじゃなかったわ。浜ちゃんのもらい笑いしちゃったのよ。」
 母と娘のやりとりを聞いている浜子は、いっこうに平気で、しかしさすがに馬鹿笑いはやめて、
「鷲兵六なんて、名前が悪いんですわね。でもあの人、少しコレですね。」
 左のこめかみのところで指をくるくるさせる。
「浜子さん、あのお客さんは私のまたいとこなのよ。バカにしないでちょうだい。」
 ぷんとして浜子は引きさがった。それを追っかけて安江は、
「なんですか浜ちゃん。ぷんとするのだけ一人前なの。まねでもいいからすみませんぐらいおっしゃい。」
 大きな声を出したとたんに、ガガーとブザーが鳴りひびいた。安江ははっとして、思わず居ずまいを直した。そしてふっとおかしくなった。きょうは大声を出すたびにブザーが鳴ると思ったからだ。それにしても、このブザーは心臓にこたえる。チリチリリンにとりかえねばと思いながら玄関に耳をすますと、
「ただいまア。」
という夏樹につづいて、兵六さんのさびた声で、
「上等の花がありましてな。柳も一しょにこうて来ましたわ。」
 おどろいている安江の前へ、おもちゃを買ってもらって得意顔の夏樹につづいて、桃と柳を胸にかかえた兵六さんがにこにこ顔ですわった。
「まあ、兵六さん夏樹につきあってくだすったの。すみませんでしたね。」
 仕方なくそうはいったものの、ゆっくりとオーバーをぬいでのゆうゆうとしたすわり具合から察して、安江はふと、ある不安を感じた。兵六さんが勘ちがいをしたか、それとも安江自身の思いちがいか、とにかく、さっき桃の花でも買って――といったのを、兵六さんは聞きちがえたのだろうか。
 ――あの人、少しこれですね……。
 浜子のいった無遠慮な言葉が、はっと安江の胸にきた。女房や子供に出てゆけといわれて出てきた人にしては、あまりになごやかすぎるではないか。
「桃だけ買うつもりでしたらな、柳までがあってな、すっかり小豆島しょうどしまの節句を思い出してな、夏樹さんに話したら、それならそれでいこうという相談になってな――」
 いいわけがましいところから察しると、これはお互いの勘ちがいではなく、どうやら兵六さんの方が計画的らしい。どんなつもりでいるのか、兵六さんはしきりと夏樹を相手に命令を発している。
「竹がいるんだがな、竹が。――夏樹ちゃん、竹あるかい竹。四つ目垣つくった余りのようなのでいいんだがね。細いのでいいよ、細いのでな。」
「うん、あるよ。」
「それとね、ノコがあるかい、ノコ。ノコギリだよ、ノコギリ。」
「あるよ。」
「キリもいるね、キリ。穴あけるやつだよ、穴をね。」
「わかったよ兵六さん、キリぐらいあるよ、キリぐらいは。ね、おかあちゃん。」
 兵六さんのそのくせのある妙ないい方に気づいてさっそくまねをする夏樹に、安江は笑顔ができなかった。子供の夏樹にまでもうつけこまれている兵六さんの人のよさが気の毒になったのだ。しかし兵六さんはそんな安江の思いなどいっこう気づかぬらしく、夏樹とだけむかいあっている。
「カンナもいるね、カンナ。カンナあるかいカンナ。」
 夏樹は笑い出して、
「カンナぐらいありますよ。カツブシ削るやつだろ。」
「うん、そうだそうだ。そいつらをみんなここへもってきてちょうだい。」
「オッケー。ノコギリとカンナとキリだね。」
 とび出してゆく夏樹に、兵六さんは、
「クギもいるよ、クギも。」
「オッケーのオッケーだ。」
 ふたりの問答を聞きながら、安江は桃と柳をくみ合せて机の上のひな段にかざった。やはり郷里の小豆島を思いだしていた。
 机の前はすぐに兵六さんの仕事場になった。音枝が物置から持ってきた四五本の竹を、兵六さんは一本一本吟味しては、ひと節ごとにノコギリをあて、左手で器用にきりはなしてゆく。一ふしで一つの花立ができる勘定だった。花立は上の方を削りおとしてクギ通しの穴をあける。それを出入口や窓の両側にかけ、桃と柳の一枝ずつをいれるのである。それは兵六さんや安江たちの郷里のひなまつりの風習であった。ひな段はもとよりのこと神だなも仏壇も、へっついも井戸ばたも、土蔵の二階のあかりとりの窓までも、節句は桃と柳であった。
 手つばをかってキリをつかっている兵六さんに安江は話しかけた。
「こんなこと、久しぶりじゃなあ兵六さん。ようまあ、柳までが見つかったこっちゃ。」
「そういな。わしもそう思て。」
「小豆島なら、きょうらあたり、荒神川の柳の木はみんな裸じゃったなあ。」
「そういな。」
と兵六さんは丸めた背をのばして安江の方をみ、
「ほんじゃけんど、あれだけ坊主にせられても、柳はやっぱり、来年はちゃんと柳の木で芽エふいとったのう。」
「そういな。こぶだらけの大きな柳の木が、細い細い枝をのばしてのう。……こんなの見るの三十年ぶりじゃ。」
「わしの方はもっとじゃ。」
 桃と柳はすっかりふたりを田舎言葉にしてしまった。そしてその、故郷を出た三十年昔から更に十何年も昔のある日のことを、安江はひょいと思いだした。それは遠い遠い記憶であった。安江がまだやっと小学校にあがったか、あがらないかの時だった。姉のよしのと一しょに安江は川土手を歩いていた。白と紅とが交りあった桃の花が咲いていた。それをながめてよしのの足ははがゆいほどゆっくりで、しかも同じ場所をいったりきたりなのだった。そうして何度目かの花の下道で、黒いマントを着た若い男が、ひょこっとふたりの前に立っていた。男は素早くよしのに何かを手わたすと、一言もいわずに立ち去った。同時に急に足の早くなったよしのに安江はきいたのである。
「ねえちゃん、なにもろたん?」
 するとよしのは少しこわい顔をして、
 ――なあももらわへん、ほら。
と、手をひらいてみせた。そして今度はきげんをとるように、
 ――だれっちゃにいうたらいかんで――と口どめをした。その時の黒いマントが兵六さんだったのだ。
 兵六さんも、あんなに若かったのに――とあたり前のことを安江が思うのも、今目の前にいるその人があまりに変りはてているからだ。あれから半世紀に近い歳月がすぎているのだから、しわや白髪はあたり前のことだが、そのしわや白髪にいささかの自信もなげな兵六さんの哀れさは、何かものほしげなものを押しつけているようで、安江はひそかに警戒している自分に気がついていた。何の懸念けねんもなさそうに田舎言葉でバツをあわせてはいるものの、浜子たちをしかれたものではない。姉のよしのが生きていれば、きょうだいづきあいの間柄になっていたかも知れぬ兵六さんなのだ。しかし、この人が昔、姉とかけおちまでした人かと思うとげっそりした。夏樹を相手に、立ったりすわったりしている兵六さんを安江は、一種のごうまんさで、
 ――もう姉のことなど思い出すこともないのだろうな……
と考える。安江にそんな遠い記憶が残っているとも知らずに、兵六さんは、今にも水ばなの落ちそうな鼻の先を、手の甲でこすりながら、よいとこしょ、とかけ声かけて立ちあがり、
「さ、お飾りだよ夏樹ちゃん。おじさんが花立打ちつけるからね、夏樹ちゃんは桃と柳をさしておくれ。」
 かなづちと花立をもって玄関へ出てゆこうとするのを押しとどめるように、安江は夏樹にむかっていった。
「夏樹、おじさんにあんまりめいわくかけちゃ、だめよ。早く帰らないと、おじさんち遠いのよ。」
 すると兵六さんもまた夏樹にむかって返事をする。
「なに、大丈夫だよ、なあ夏樹さん。」
 そうれみろという顔で夏樹は、
「うん。約束したんだもんね、兵六さん。」
 安江はあきれて、
「なによ夏樹、おじちゃんとおっしゃい。いやな子ね。」
「おかあちゃんだって兵六さんていうじゃないか。ぼく、気にいったんだ兵六さんて名前。だから兵六さんて呼んでもいいか、ちゃんと聞いたんだよ。そしたら兵六さん、ガッテンショウチノスケっていったんだもん。ね、兵六さん。」
「そうとも、そうとも。」
「それから、今夜泊ってゆく約束したんだよ、ね兵六さん。」
 安江は顔色をかえ、
 ――なにいってんの、夏樹!……
と叫びたかったが声にならなかった。
 家のぐるりをはしゃいだ夏樹の声がとびまわっている。それと調子をあわせてでもいるように、金づちの音がきこえる。出入口や窓に花立がうちつけられているのだ。一しょに桃と柳を楽しみたい気持をすっかり失った安江はへやにもどってむっすりと考えこんでいた。いわばひとりっ子的な夏樹の、たれにでも親しんでゆく気ままさも、いつものように可哀想がれず、それにつけいった兵六さんに気がめいった。何といってことわるべきか。しかしいずれにしろこうなれば夕食だけは共にせねばなるまいと思うと、気持はやはりおもる。
 ――兵六さん、水くさいようだけど、あんたには家があるんだから、帰って下さいよ……
 そういってことわろうか。それなら音枝にいって一ときでも早く夕食のしたくをさせた方がよいと思う。そのうち、夫が帰ってくれば、何とかしてもらう。私はすぐ玄関にとび出していってささやかねばならない。
 ――兵六さんがきてるの。泊りたいらしいの。すみませんけど、それだけは困るといってね……
 そしたら夫はいうだろう。
 ――なんでお前、はっきりことわれなかったんかね。いやなことは、みんなおれにいわせるつもりかね……
 ――ふとんがないのよ……
 ――そんならそうとはっきりいえばいいじゃないか……
 ひとり問答しながら、安江は時計をみた。三時四十分だ。ベルを押すと音枝が小走りでやってきて、部屋にはいるなりうしろをしめた。けわしい顔をしている。
「どうしたの。兵六さん?」
「ううん。浜ちゃんなのよ。」
「なんだって?」
「おひまをいただきますって。」
「おひま? どういう意味かね。」
「わたしのような馬鹿はつとまりませんからってよ。――おかあさんが大きな声出すからよ。」
「じょうだんじゃないよ。つとまらないとか、おひまをいただくなんて、私は浜ちゃんを雇ったおぼえないよ。勝手に押しかけてきたんじゃないか。」
 思わず声が高くなるのをしずめるように音枝はゆがんだ笑顔をつくり、
「とにかくね、ちょっときて。私じゃ手におえないの。」
「なんだっていうの。今更、ここを出ていってどうするつもりかね。じょうだんじゃない。」
「女ひとりぐらい、どうにでもなると思っているらしいの。」
「バカね。ここへよんでよ。」
「大きな声だけ、よしてよおかあさん。」
 内しょ声でいって音枝は出ていった。
 浜子はなかなかこなかった。そのなかなか姿を見せなかったことで安江は落ちつきをとりかえしていた。押しかけてきたとはいえ、一たん受入れた以上はやはり、年長者としてこの場をうまくおさめねばなるまいと、少々業腹ごうはらなのをがまんしていたのだが、いくらまっても姿をみせないとなると、せっかちな安江はじっとしていられなくなる。ポンポン手をたたくと、また音枝が小走りにやってきた。
「浜ちゃんどうしたのよ。」
「どうって。なだめたりすかしたりするけど、だめなのよ。」
「だめって、なんなの。」
「困っちゃうわたし。」
「しようがないね。なんだって?」
「おばさんともあろう人が、あんなことをいうとは思わなかったって――幻滅なんだって。」
「なによ、それ。」
「なんだかしらないわよ、わたし。」
「へえ、それをお前、だまって聞いてるの。」
 人のよい音枝のことだ。母のかんしゃくだからゆるしてくれとでもいったにちがいない。と思うと安江は顔をまっかにして立ちあがっていた。
「おかあさん、あんまり気をたてないで。間に立って、困っちゃうわたし。」
「わかったよ。お前のお人よしはね。――女の子ひとりがさばけないんだから……」
 あとの方はつぶやきながら安江は、浜子のいる台所わきの三畳の入口に立った。音枝もついてきていた。音枝にすれば母が気を立てているのは兵六さんのことからだと察してはいたが、浜子も浜子だと思わずにいられない。母には言えなかったが、浜子はいったのである。
――あんな親切なおばさんの出てくる小説をかくくせに、ずい分冷酷だわ。その上古くさくて、ほんとにあきれちゃう……
 まだ東京へきて半月かそこらでこんなことの言える浜子を、音枝は音枝であきれていたのだ。正直なのだろうか、それともこれがいわゆるアプレというのかと。
 それにしても女流作家などというレッテルをはられている母が、まだ小娘の浜子を相手に声荒らげることは困る――と音枝は思い、ひそかに母を見守っているのだった。その気持だけは安江にはわかっていた。だから安江はまさか自分を冷酷な女だといわれたとも知らずに、平静な声で浜子に話しかけた。
「ね浜ちゃん、落ちついて話しあいましょうよ。どっかへいくならいくで、ちゃんと相談した上で、円満にやりましょうね。」
 しかし荷物をかたづけていた浜子はだまったまま、あてつけがましくスーツケースのチャックをしめた。
 こういうのはなんだろうと、ややしばらく安江は浜子の背中を見つめているうちに、少しおもしろくなってきた。いわば、無理やり押しかけてきておきながら、そういう遠慮はちっとももっていないのだ。無邪気というのかわがままというのか。自分が悪いとはさらさら思っていないらしい。
「ねええ浜ちゃん、あんたそれで、ゆくところ、あるの?」
「…………」
「ゆくところがないというから、私んとこにいることにしたんでしょう。ま、それはともかくとして、うちにいたくなければ、いないでいいわよ。だから、二三日まちなさいよ。あなたのゆく先、さがしましょうよ。」
「…………」
「だまって出ていって、あなたはそれでいいかもしれないけど、わたしは困るのよ。とにかくあんたのおかあさんから、たのまれたんですからね。出てゆくといわれて、ああそうですかではすまないのよ。今のところわたしの責任なんですからね。」
「たくさんですわ。」
 まるで肩にかけられた手をふりきりでもするように、浜子は肩をふっていいきる。
「たくさんでも、わたしは困るのよ。」
「自分が困るからそんな親切そうなこといってるんですか……さっきはどなりつけたくせにおとななんて、ずるい。」
 あとの方はさすがに小声でいって、ぷいと立った。と思うと台所からサンダルをひっかけたまま、かたかた音を立てて表へとび出していった。それは音枝に引きとめるすきさえ与えなかった。案じ顔の音枝へ、安江はむつかしい顔をしたままいった。
「ほっときなさい。そこいらの風にふかれてきたら熱がさめるよ。」
「でも――」
「いいったら。だからなめられるんだよ。でもいっとくけどね、荷物もって出てゆくようだと、ほっとけないよ。たのむよ。」
「どうするの。」
「いやだね。お前だけはゆく先を知っとかなくちゃだめってことよ。」
「監視するの。」
「いやなこといいなさんな。――ねぐらの心配してやるんですよ。」
「ああそうか。」
「わたしには内しょの顔でさ、――そうだね、鷲さんの家へでも紹介してやるか。」
 皮肉にそういいながら安江は肩に重たい荷物を背負わされた思いだった。浜子だけでなく、鷲兵六からも。
 もう夕食がはじまろうというのに浜子はなかなかもどってこない。音枝がひとり気をもんで、まゆ根をよせながら、
「おかあさん、どうします。御飯できてるんだけど。」
 それは兵六さんへも気を配ってのいい方だった。
「じゃあ兵六おじさんに、さき食べてもらいなさい。遠いんだから。」
 そういって部屋を出てゆかなかった。音枝はすぐ広縁で一ぷくつけている兵六さんに、
「おじさん、何もありませんけどごはんが出来ましたから先き食べてくださいな。おそくなると困るでしょうから。」
「なに、一しょでいいよ。一しょでな。」
「でも、待ってるときりがありませんのよ。おとうさん、いつ帰るかわかんないんですもの。」
「そんならそれでもよろしいがな。」
 そういって、さっきからの続きの灰ざらいじりをやめようとしない。この家の客たちの吸い残しのタバコをたんねんに拾って吸っているのだ。中には口紅のついたのさえあった。音枝はたまりかねて、
「おじさん、タバコとってきますわ。」
 そして安江の部屋へゆき、腰をかがめてささやいた。
「兵六さん腰すえてるのよ。おかあさんきて、そういってよ。」
 舌うちをしながら安江は出ていった。兵六さんはよごれた灰ざらを前に並べて、吸がらの一つ一つをつまみあげては左の指先で灰のよごれをはじきおとしていた。それをまた夏樹がいい気になって協力しているらしく、いろんな灰ざらが幾つもならんでいるのだった。
「兵六さん、やめてくださいよ。そんなタバコ、ニコチンがひどいのよ。」
 すると兵六さんは卑屈な笑顔をみせて、
「なーに、ニコチンもへったくれもありませんよ。夏樹ちゃんにたのんでこれからも取っといてくれるようにいったところですよ。――これだけあれば、二日や三日不自由しませんわ。」
 そんなことからも兵六さんの現在が察しられたが、しかし安江は同情したくなかった。なにか、さもしい根性をわざと見せつけられているようでいやだったのだ。千円ぐらいの小使い銭では間尺にあわない、もっと大きなたのみごとについて、彼の胸の中で策略がめぐらされてでもいそうに思えて、安江は高飛車たかびしゃに出た。
「兵六さん、あんた、まさかうちへ泊まる気じゃないでしょうね。」
「いやあ。ただね、ここの大将に一ぺんあいさつして帰ろうかと思ってね。聞いてもらいたいこともあるし……」
 その声の調子の中に安江はいやなものを感じた。安江では手におえぬとみて文吉を口説くどこうというのであろうか。安江は意地悪く笑い出し、
「女子供にはいうてもわからんことですか。」
 自分で聞こうとしなかったことをたなにあげて、皮肉をいった。兵六さんはあわてて、
「いや、なにね、夏樹ちゃんたちの前じゃあ、いかにわしでも、いいにくくてね。遠慮しとるんですがね。」
「そう、じゃあまあ、あとで聞かしてもらいましょう。とにかく、御飯にしてくださいよ。」
「そうですか。わるいですな。」
 夏樹がすぐ、
「ぼく、兵六さんと一しょに食べよっと。」
 食卓は五目ずしだ。音枝と浜子のきのうからの計画であった。色どりよく大ざらに盛ったのをみると、兵六さんは目じりを下げて、無邪気な顔をした。刺身にほうれん草のごまよごしと、豆腐のつゆが出ると、ますます目を細めて、
「こりゃあ、ごっつぉですな。一本つけてもらいたいくらいなもんじゃ。いや、なに、じょうだんで――」
 そういわれる前に音枝は一本つけていたのではじはかかなかった。安江が酌をすると兵六さんは背をまるめて小さくなり、左手で杯をうけた。そしてぐっとあおり、しばらくはその酒を口中に含んだまま舌の根にしみ渡らせるようにして、やがておもむろにのみこんだ。そして感きわまった声で、
「びろく、びろく。」
 安江は思わず笑った。意地悪な気もちが少し解きほぐされてゆくような気がした。しかし一本の酒を小半時もかかって楽しんでいるのを見ると、安江はまた少しずついらいらしだした。兵六さんがわざと時をかせいでいるような気がしてきたからだ。それをいいわけするように、彼はしきりと文吉のことをもち出す。
「久しぶりに、一ぺんあってゆきたいと思ってね。なんしろ、文吉つぁんには、たしか戦争中にあったきりですよ、ええ、戦争中ですよ。まだゲートルまいとったもの。ゲートルをね。なつかしいよ。」
 こうなると安江はもうサジを投げるより仕方がない。一ときも早く夫に帰ってきてもらいたいと思う。それが口に出て、
「なにしてんでしょう。いつまでも……」
 すると音枝は音枝でそれを浜子のことだと思い、
「ちょっと、そのへんみてきましょうか。」
「ああ、浜ちゃんね。まったく、みんな、なんだと思ってんだろう――」
 文吉の帰りはひどくおそかった。おそいと必ずきげんがよい。ガガー ガガー と門柱のブザーが二度鳴ると酔っぱらっている証拠だった。そんなときには何かしらきげんとりを買ってきて、「はいおみやげ」と出迎えた者の顔の前へつき出す。それが一種の楽しみにもなって音枝たちはおそいのも苦にしないのだが、きょうはちがう。浜子がまだ帰らないからだ。なんとかして、文吉の帰る前に浜子にもどってもらいたいのが安江と音枝の共通の願いだったのだが、浜子はなかなか姿をあらわさない。
「どこ、うろついてんだろ、ほんとに。」
 そうはいっても十時までは映画でも見ているのかもしれないという一るのたのみがあったのだが、十一時すぎても帰ってこないとなると、安江のかんしゃくは不安の方へ移っていった。考えてみれば人にも語れないようなささいなことから招いた出来ごとなのだと思うと、安江の気持はめいった。
「あのときわたしが、あやまればよかったのかね。おとなげないことだよ、ほんとに。」
 気弱くいう安江をなぐさめるように、音枝は、
「だって、ほんとにおかあさんをなんだと思ってるの。ひどいわよ。こんな心配かける権利ないわよ。」
「権利はないかもしれないがね、しかし心配する義務は私にしょわされてるからね。」
「…………」
「その義務者をかさにきて、少しいいすぎたのかもしれない。とにかく、まだ東京へ来て半月やそこらの娘を、とび出させる気持に追いこんだのはこっちなんだから、責任は感じるよ。もどってきてくれなかったら……」
 くやしさともどかしさで、安江はのどがつまった。音枝もためいきをしながら、
「でもおかあさん、浜ちゃんて人は特別よ。しっかりものだから、あんがい心配ないかもしれない。」
「そんなことは結果を見てからいうことさ。――あーあ。まったく思うようにならないね。行ってもらいたい人はとうとうすわりこんでしまうし。――兵六さんどうしてる。」
「こたつでうたたねしてるの。おとうさん待つって。」
「寝床とってあげなさい。浜ちゃんのでいいよ。」
 そうすることで安江は浜子に帰ってもらいたい希望をもとうとした。それにしてもと時計をみたとたんに、ガガーと遠慮ぶかくブザーが鳴った。一つである。浜子だと直感して安江は玄関へ走り出そうとしたが、浜子の気持を察して音枝とかわった。
 どんな顔で迎えようかと音枝はちょっと戸迷った。笑顔ではかえっていけないと思い、少し渋い表情で構えることにした。玄関から門までは十五メートルほど離れている。その石畳の道を浜子の足音はなかなか近づこうとしない。音枝はふっと気がついて土間におり、さっと戸をあけた。とたんに柳の枝に目をはじかれ、あっと叫んでかた手で目をおおいながら、やみの中へ声をかけた。
「浜ちゃん、門しめないで、おとうさんまだなのよ。」
 すると思いがけない文吉の声で、
「おれだよ。」
「あら、おとうさん、かぎかけないで。」
 がっかりして式台に腰をおろしていると、声でわかったらしく安江も出てきた。
「なんだこれ、なんのまじないだ。」
 柳の枝を払いのけるようにしながら文吉は敷居をまたぎ、音枝のかっこうに、
「どうしたんだ。」
「柳で、目をしぶかれたの、つい忘れてて。」
「大丈夫かい?」
と、安江ものぞきこみながら、
「兵六さんがきましてね、節句だというので、小豆島流に桃と柳を飾ってくれたのよ。」
 不きげんにいう安江に、文吉は文吉で、やはり一種の不きげんさをふくめて、
「珍らしい人がきたね。何の用事で?」
「あなたにあって聞いてもらいたいことがあるんですって。」
 安江が小声になったので、くつをぬぎかけていた文吉は思わずふりかえり、やはり小声で、
「まだいるのか?」
「ええ。それがもとで、てんやわんやなの。」
 そのとき安江はふとものの気配を感じてガラス戸に目をやった。風もないのに柳の糸がゆれたと思ったのだ。おりて戸をあけると、いきなり柳の枝にほおをなでられた。それをかた手でにぎったまま外をのぞくと、浜子が立っている。
「やっぱりそうだった。よかった浜ちゃん。さ、おはいんなさい。」
 気さくにいったが、このになって浜子はてれているらしくなかなかはいろうとしない。
「さ、さ、いつまでもこだわるのよしましょ。かぜひくわよ。あら、あんたはだし。じょうだんじゃないわ。もっと大事にしてよ。おひなさまよ、きょうは――」
 ぐっとくる感情をこらえて、安江は柳の糸を力まかせに引っぱった。柔順のシンボルであるという柳の枝は桃と一しょに花立をはなれて安江の手にぶらさがっている。
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子守歌


 大たいにおいて文吉と安江は夫婦そろってお人よしと噂されていた。おもにそれは親類づきあいや同郷づきあいの中でのことだが、友人の中にだってそう思っている連中もだいぶあった。たとえば文吉たちが詐欺さぎにあってひどい目を見せられたようなとき、彼らの友人のひとりは同情しながらも、
 ――文吉夫婦は人がいいからね……
だからつけこまれるのだといわぬばかりで、人のよいのは詐欺よりも悪徳であるかのようにいう。それはまあ、ある程度そうかもしれないが、そういう好人物につけこんで難題をもちこみ、その上けいべつ的なことをいったりすると、文吉は女房に向っていばるのである。
 ――おれを馬鹿だと思ってるんだよ。ま、いいさ。人間の一生なんて、どこにどんでんがえしが仕組まれているかわからないんだからね。おれはおれひとりで、なにくそ! っていうくそをたれるよ。……
 女房の安江とても同じだった。例をあげると、昔、二つ年下の文吉のところへ押しかけ女房でやってきたとき、同郷の鷲兵六などはせせら笑ったものだ。
 ――文吉つぁんは文学をやるんだって。悪いこといわんよお安さん。そいつは末の見込みがないぞ。悪いことはいわん。一そのこと今のうちに別れた方がいいよ。……
 自分だって昔はかけ落ちまでしたくせにと、安江はそのとき腹を立てたが、そのころの兵六さんは全盛で、何かにつけてたよらねばならない立場にあった。家を借りるといっては保証人になってもらい、月賦でたんすを買ったといってはまた保証人、といった具合で、少々の失礼ぐらいはがまんをせねばならなかった。とはいえ、たかが証文の判こ一つを、彼の若い妻は精一ぱいに恩にきせ、なんだかだと渋くって二度も三度も足を運ばせた。それ以上のことは何一つ力になってもらってはいない。借金したいと思ってもいつも予防線をはってよせつけないくせに、貧しい安江がきたなくてならない顔をするのだ。そんなとき安江は文吉と同じようにくやしがって、
 ――わたしをお人よしだと思って馬鹿にしてるのよ。だまってたって、ちゃんと覚えているから……
 その限りでふたりは似たもの夫婦だった。つまり人に向っては同等にものがいえないくせに、ふたりは顔つき合すと力みあうのだ。何もかも質屋に預けてすっからかんの家の中で、若さだけのふたりはそれで満足していた。三十年前の話である。
 そんな文吉夫婦のところへ、ある日兵六さんがたずねてきた。
 ――表札がありませんが、栗本さんはこちらですかいな……
 のんきに寝っころがって歌をうたっていた若い文吉夫婦はあわててとびおき、ふたり一しょに玄関へとび出した。玄関といっても四畳半の居間の障子をあけるとすぐ土間で、客との距離は三尺がせい一ぱいだった。入口のガラス戸の外はもう往来なのだ。
「おう、さがしたぞい。表札ぐらい出しといてくれや。」
 インバネスをきたまま一とまたぎにあがってきた兵六さんを、安江は何となく警戒しながら、
「表札じゃないけど、名刺が出てるんですがね。いらっしゃるとわかってればお迎えにも出ましたのに。」
「いや、急に思いついてな――」
 ふたりがあいさつの構えでかしこまっている前へ、インバネスをぬいだ兵六さんは、いきなり手をつき、あいさつぬきで、
「おり入ってのたのみがあってね――一つ相談にのっておくれや、実はね――」
と、きり出したのが赤ん坊をもらってくれという話だった。それは兵六さんの商売上の大切な取引先の子供で、その子を産んで五日目に母親はなくなったのだという。たのまれて兵六さんは、ここ二か月というもの、赤ん坊はいらんか、赤ん坊はいらんかと、あっちこっちかけずりまわっているという。しかし女の子はだれももらい手がないというのだ。そういった口の下で、
「――話があったとき、ここのことがまっ先に頭に浮んだんだけどね、新婚のところへあんまりかと思って遠慮していたのさ。しかし、やっぱりここよりほか、もう考えられなくなってね。ここがその子のために一番かもしれん、子供はないし、人柄はよし、とにかく、たのむからには、たのむようにするつもりじゃがな。それは任してもらうとして、どうじゃろう文吉つぁん。」
「さあ。」
 そういって文吉は安江の顔をみる。
「そんなら、お安さんの方はどうじゃろう。何というてもこれは、お安さんにうんというてもらわんかぎり、たとえ文吉つぁんがうんといってくれても、成り立たん話でなあ。一つたのむわ、お安さん。」
「さあ。」
 夫のまねをしてそうはいったが、安江としてはそのとき、兵六さんへよりも夫に対しての不服がだんだん胸の中にかたまりかけていた。なぜ夫は、何のかかわりもない子供を、もらうことはできないとはっきりいえないのだろう。たとえかかわりがあったとしても、今はまだそんな気持のないことをはっきりいって断らないのだろう。彼の顔にはそれがはっきり出ているけれど、そんなことはわかろうとしない兵六さんなのも腹が立つ。
 安江は思いきっていってみた。
「そんな大事なお得意さんの子なら、何の関係もない私らより、兵六さんちで育てたら。子供のないのは、おたがいじゃありませんか。」
 すると兵六さんはちょっとうろたえた顔をし、
「いやあ、商人というものはいそがしいてな。実は今、うちのやつが見ることは見てるんだがね、手がまわらんらしい。毎日ヒステリーじゃ。」
「へえ、それでうちへもってきたんですか。」
「いや、そういうわけでもないけどさ、うちの女房とお安さんじゃあ性格がちがう。何しろ、うちのやつときたら子育てのできるおなごじゃないらしい。そこへいくと、何といってもお安さんはやさしい。気心も知れとるし。」
「おだてるのね。私だってヒステリーになりますよ。自分のうみもしない、しかも直接知りもしない人の子を育てるなんて、いやですよ。文吉つぁんはどうかしらないけど、私はいや。はっきりいっとくわ。――私、ちょっとお茶を買ってきます。茶もろくに買えん暮しで、子育てどころじゃない。」
 そういって家を出たのだが、茶を買ってもどってくると男たちの様子は大分変っていた。兵六さんにとっては事態が好転したらしい。
「どうぞ。」
 二つしかない湯飲みをふたりの前に出しながら、安江はわざと話の進展についてはふれなかった。兵六さんも何となく安江に気をおいている様子で、それをごまかすように音立てて茶をすすっていた。が、しかしその顔のどっかに勝利感のようなものがただよっているのを見のがすことはできない。安江にとって都合の悪いことをいい出せば、今度こそ手きびしくはねつけてやろうとひそかに安江は構えていたが、茶をのみ終ると兵六さんは急に立ちあがって、インバネスをきながら土間へおりてゆく。
「あら、お帰りですか。」
「あ、ちょっと急ぐのでね。文吉くんとよく相談して下さい。じゃあ文吉くん、よろしく。」
 文吉つぁんでなく、くんづけでいったのがあやしいと思いながら安江はだまって夫のそばへすわった。その妻の肩に手をおいて文吉は、
「かんべんしてくれ。」
「ええっ!」
 安江は思わず肩をはずして向きあった。
「しようがなかったんだ……」
「もらうつもり? あきれた!」
「一か月だけだよ。それもいやとはいえんじゃないか。」
「でもわたしはいや。――だからあんたはお人よしだといわれるのよ。」
 ぷいと立って安江は表へ出た。
 そんな次第でやってきたのが音枝である。
 あの日ぷいと外に出た安江は、得体の知れないくやしさでぎりぎりしていた。女の立場を無視されたというようなはっきりした意識は当時の安江にはまだなかった。ただ何となくくやしいのである。子供なんかほしくないのに、それを無理やり押しつけようとする、それへの反抗だったかもしれない。
 ――勝手にするがいい。わたしは責任ないんだから……赤ん坊も文吉が世話すればいい。夜もだいてねればいい。私は知らないから――おしめの洗たくも文吉がすればよい。赤ん坊なんて、たくさんだ。どんなに大変だか、ひとりむすこの文吉なんて知りっこないんだ。こりるといい。私は赤ん坊の世話なんかしないから……
 にぎやかな電車通りを歩きながら安江はひとり興奮していた。
 物心ついて以来、いつも背中に赤ん坊をくくりつけられていた少女、おしめの洗たくでヒビをきらしていた可哀そうな小さな手、子もり娘はかけまわる遊びを禁じられている。それを忘れてなわとびをして、背中の赤ん坊がとび出してしまったこともあった。主家の赤ん坊のおでこに大きなこぶをつくって、それでお払い箱になった子もり娘は、家へ帰ると、ひどくしかられて、よその赤ん坊にけがをさせた同じおでこに母からひどくゲンコツをくらわされた。思い知れというのであった。ゲンコツのあとは紫になってはれた。そこへ富山の即効紙をはってくれた姉。――
 その姉が兵六さんとかけおちをしたよしのである。思い出がそこへつながると、安江の興奮はいつか涙っぽくなっていった。よしのが生きていたら――とふと思う。そしたら、こんないやな思いのとき、まっさきにとんでゆけるのに私はゆくところがない。――ああそうだ。よしのが生きていたらば、よしのはその子供を育てるにちがいないから、私はとんでゆく必要はないのだった――もう帰ろう。
 こんがらかったことで安江は思わずふふっと笑う。市場のそばを通っていた。市場の建物のはずれで、大道に花屋が店をひろげていた。
「奥さん、安くしとくよ。買ってくださいよ。」
 安江はふっと立ちどまって花をながめた。名も知らぬいろんな花がたくさんならべてある。知っているのは菜の花だけだ。町では菜種の花が売られている。
 ――えい。やけくそで花でも買っちゃえ――
 いなかから出てきてはじめて安江は花を買ったのである。どれが安いのか見当がつかない。
「菜種を十銭くださいな――」
 自信のある顔でいうと、花屋は、
「えい、まけちゃえ。」
と、全部をつかね出した。一とかかえもありそうに見えた。
 こんなたくさん菜の花ばっかり買う人があるだろうか――
 安江は内心きまり悪がりながら帰っていった。家の近くまでくると、赤ん坊の泣き声がきこえた。留守の間にもう赤ん坊はきていたのである。それにしても早すぎると思いながらはいってゆくと、兵六さん夫婦が少し具合の悪そうな顔で迎えた。
「ほらほら、おかあちゃんがお帰りですよ。あんたのために、お花買って歓迎してくれてるのよ。」
 兵六さんのおかみさんは赤ん坊をゆすぶりながら、あいさつ代りにそんなことをいった。そして赤ん坊を畳の上にねかしておいてあらためてのあいさつだ。
「どうもどうも、無理なことをきいてくだすってありがとう。おふたりのお人柄に、今更感心してますの。」
 見えすいたじょうず口をいう。じょうず口と知りながら安江は太刀打ちできない不きげんにだまっていた。こんなことが有り得ることだろうかと気がついたときにはもう兵六さん夫婦は帰っていったあとだった。赤ん坊とおしめのふろ敷とミルクの大きな缶が場所をとっている。赤ん坊は眠っていた。
「どうしてこんな早くきたの。」
「近くでまたしてあったんだそうだ。」
「へえ、いよいよおしつけね。相談なんかじゃありゃしない。相見互いなんかじゃないわよ。」
「不愉快だね。実に。」
「はじめっから、わかっていたわよ。だからいわんこっちゃない。」
「あのとき、お前が逃げたからだよ。」
「あのときって、どのときさ。」
「茶を買いにいくって――」
「逃げやしないわ。ほんとに茶を買ってきたじゃないの。その間にぺろっとなめられてんだもの。」
「まあいいさ。一と月かっきりでもどしにいくよ。それまでは、とにかく責任もとう。」
「あなたがね。」
「ああおれだよ。ミルクの作り方もおそわったからな。おれが世話するよ。」
 安江が台所で夕餉ゆうげのしたくをしていると、赤ん坊が泣きだした。
「ああよしよし。ちょっとまってくれよ。」
 ひとり言にひとしい文吉の言葉に、安江は肩をすくめながら、そっとのぞいてみた。
「わあ。だれかきてくれえ、うんちだよ。」
 安江は思わずとび出していって、じょうずにおしめをとりかえた。まるで子持のようだった。
「だれかったって、ほかにいやしないわよ。ね、赤ちゃん。」
 安江は子もりの経験でうしろへぽいとなげるようにして赤ん坊を背負うと、文吉にむかって、
「どんなもんだい。」
 もうあと二三日で約束の一か月というとき、兵六さんから丁ねいな手紙がきた。目下新聞にも広告を出して里親を物色中だから、それがきまるまでよろしくたのむというのだ。ミルク代もはいっていた。手紙を真ん中にして夫婦はだまっていた。してやられたという気持と、そんな気持をおこすことの、赤ん坊に対しての申しわけなさと、もう一つ何よりも困るのは夫婦ともども寝不足をきたしていることだった。
「かわいそうに。なんの因果であんたはうちなんかへきたの。かわいそうに、かわいそうに。」
 安江はほんとに涙ぐんでそういった。赤ん坊を重荷に思っていることをわびる気持だった。事実、赤ん坊のミルク代はもらったとしても、赤ん坊が来て以来、自分たちの生活のための内職はまったくはかどらなくなっている。(文吉は辞書などを作る下うけ原稿を書いていたのだ)そのために文吉は気むつかしくなり、安江は気がおもる。もしこれが、安江も賛成の上であずかった子供であったなら、不服をなげつけあって発散することもあるだろうが、自分が賛成しなかったことで安江は逆にものがいえなかった。彼女は赤ん坊を泣かせまいとして、朝から晩までおぶっていた。文吉が仕事をしている時には夜中でもおんぶして外に出たりする。おぶえば自然にからだがゆれる。
ねんねしゃっしゃりませ
あすおきなされ
あすは音枝ちゃんの誕生にち
誕生にちにはあわに米まぜて
あいにゃササゲもトトまぜる
 郷里のそんな子もり歌も口に出てきた。昔無意識に歌っていた子もり歌がちがった気持で彼女の心をとらえる。
誕生にちにはあわに米まぜて
あいにゃササゲもトトまぜる
 乏しい百姓のそれは歌だった。あわが常食の百姓たち、それが子供の誕生日には米やささげをトトまぜて祝おうというのだ。貧しい百姓女の母ごころが、貧しい都会生活で米も買いかねる安江の心にじかにふれてくる。そのことはまた、母ごころを注いでくれる人をなくしている赤ん坊への憐憫れんびんともなって安江の心をなごめもした。
 ――もしもこの子が、わたしの産んだ子だったら……
 そしたらたとえもっと貧乏だからとて手放すことは出来ないのだ。
 安江は夫のきげんのよいときにいってみた。
「わたし、なんだかこの子、可哀そくなってきた。育ててやろうかしら。」
「いやだよ、おれは。」
「はくじょうね。品物のつもりであずかったの。」
 あれからもう半年たっていた。月末ごとに兵六さんは、何かしらいいわけを書きつらねた手紙と一しょにミルク代を送ってよこした。六円五十銭の粉ミルクを一と月に三かんあけて十九円五十銭である。それに対して二十円ずつおくってくるのだ。
「五十銭が、私たちの一か月の子もり賃かしら。」
 あまりの仕打ちに腹立てていってはみるものの、今ではもう愛情に変りつつあるものを、金にかえようとしているように思えて、あと味がわるい。しかし、いくら何でもこのままでは赤ん坊が可哀そうである。そろそろおもちゃも買ってやらねばなるまいし、着換えも必要だった。一体どんな見通しなのかといってやったら、速達で返事がきた。もうしばらくまってくれというのだ。
「どうもおれ、赤ん坊は兵六さんの子供じゃないかと思うんだがね。」
 あるとき文吉が突然そういい出した。
「まさか。」
とはいったが安江に確信はなかった。
「だって、この子の父親っていう人は、おれたち知らないんだぜ。――兵六さんがどっかの女に産ましてさ、女房の手前、いい加減なこといってごまかしているんじゃないかい。」
「まさか。それほど悪人じゃないわ。それに、兵六さんになんかちっとも似てやしない。」
「それもそうかな。しかし母親似ってこともある。」
「女の子は男親に似るものよ。」
 そうはいったが一種の不潔感で安江はまゆをよせていた。そんなことなら許せないと思ったのだ。そうしてある日、安江は文吉にだまって芝の兵六さんの家までいってみた。背中にはもちろん音枝をくくりつけてである。兵六さんは居ず、小さな小間物店をしている女房がおどろいてさぐるような目をした。赤ん坊をもどしにきたと思ったらしい。赤ん坊をあずかって以来兵六家に対する安江の態度は対等に近くなっていた。あいさつがすむとさっそく切り出した。
「ね、文吉がおこりますのよ。音枝ちゃんのおとうさんて人、一体私たちを何んだと思ってるのかって。わが子を預けてあるんだからハガキの一枚ぐらいよこしたってよかろうってね。それで私、聞きにきましたの。この子のおとうさんの所おしえてくださいな。第一あなた、きのうは戸籍調べのおまわりさんに聞かれて、私はじかいちゃいましたの。」
 兵六さんの妻はほっとした顔で、あやまった。
「そうですか。すみません。うかつでしたわ。」
 兵六さんへの文吉の想像は幸いにしてはずれたが、半分は当っていた。音枝の母親が死んだなどうそっぱちで、その父親が妻に内しょでよその女に産ました子供だというのである。
「あんたたち何もかも承知の上だと思ってたんですよ。そりゃあうちの人が悪いわ。帰ってきたらすぐ何とかしますからね。きょうのところは引とってくださいな。手紙出しても会いにいっても困るんですよきっと。奥さん知らないんですもの。」
「いやね。」
「そうなのよ。だからめんどくさくてもミルク代は私んところで受とって、おくるってことになってるんですよ。それがまた、ケチでね、申しわけないのよ。ああそうだわ。会社の方へかけあう分なら奥さんに知れないですむわね。」
 兵六夫人は養育料のことで安江たちがごねようとしているという風にだけとったらしい。分析すればそういう部分もあるにはちがいないが、安江はだんだん不愉快になってきた。この子もり歌やおしめのにおいでつながりあってゆく純粋な気もちまでが泥んこになりそうでいやだったのだ。
「まあ、とにかく父親の名前と所がきだけ教えてちょうだいな。」
 すると兵六夫人はちょっと不安がった目をし、
「長坂幸一ってんですがね。――あんたたずねてゆくつもり?」
「かもしれないわ。ことによっては。」
「じゃあちょっとまって。うちの人がもどったら相談しますわ。私が勝手に教えてあとでしかられたら困るわ。一日まってね。」
「いやね。私たち、何だかごろつきみたいね。いやだわ。」
「そんなこと安江さん。たのむわ。この通り。」
 いやったらしく手を合わせて拝むのである。
「まってまってで半年すぎたのよ。可哀そうに。ふた親ありながらなさほさ(邪魔もの扱い)にされてさ。私、育てるわよ、ね音枝ちゃん。」
 おしめをとりかえてやると、安江はさっさとおんぶして、
「さよなら、もうミルク代もいらないわ。」
 さっさと帰りかけた。せめてすしでもとるからと兵六夫人は引きとめようとしたが、それもふりきって出てゆくと、追っかけてきて小さな紙包みをおしめ袋の中へ突っ込んだ。電車をおりてからあけてみると、人絹の半えりだった。安江はふん、というように口をとがらせた。
「ねえ、文吉つぁん、きょうからこの子のこと、わたしが産んだ子だと思ってね。」
「どういう意味かね。」
「わたしが産んだ子なら、だれもミルク代はくれないってこと。」
「ふーん。そのかわり乳が出るだろう。」
「母親は栄養不良でオッパイが出ないのよ。」
「へーえ。いろいろ都合がいいね。」
「そうなの。ふところ都合は悪いけれど、わたしもかせぐ。」
 こんな次第で音枝は安江たちの家の子になった。生後一年まではだまっていても二十円ずつは送ってきたが、それを過ぎると乳離れしたと思ったのかとだえてしまった。それでもはじめのうちは盆暮ごとに兵六さんの妻がやってきて、音枝の着るものを一枚と、安江には店の品らしい帯じめだの化粧水などを添えてあいさつにきたが、それが長坂からのつけ届けなのかどうかはお互いに聞きもいいもしなかった。それも三年目ぐらいからはこなくなった。兵六さんの妻が肺炎でなくなったりしたためでもある。兵六さんはすぐに後ぞいをもらい、やがて女の子が生れた。もう人の子になどかまっていられない様子で、よりつかなくなった。さわらぬ神にたたりなしと安江たちに子供ができないのをひそかに喜んでいるのかもしれない。安江たちにしても兵六さんのことなど忘れている日々の方が多かった。安江は世の常の母らしく音枝のそい寝をしながら、話をしてやるのだ。
「――『ひょうたんよう、ひょうたんよ、あーかい顔してどこへいく』っていったらばね、ひょうたんがひょっくりことこっちをむいてね、ニッコリ笑ってね、『お花見に』っていったのよ。『花見にいってなにをする』っていったらばね、『酒をのむ』っていったの。『なんぼのむ』って聞いたらばね、さ、どういったの?」
 すると何度も聞いて知っている音枝はまちかまえていて、
「――一ちょうごごう(一升五合)のむっていったの。」
と、まわらぬ口で答える。うぐいすのいせまいりの話もあった。伊勢の的矢の日和山の話も出てきた。それらの話はみな安江が幼いときに祖母から聞かされた話であった。話というよりもそれは一種のひな歌であった。それを聞かせてやるときには安江自身も歌に酔ったようにいい気持になる。そして音枝のまぶたがうとうとしはじめると、歌ってやるのである。
誕生にちにはあわに米まぜて
あいにゃササゲもトトまぜる
 そっとぬけて出て文吉のいるとなりの部屋へゆく。内職の裁縫さいほうをやろうとすると、文吉は、やっぱり内職原稿のペンをおいて、
「お前、今の歌、書いとくといいね。お前、童話を書くといいな。おもしろいよきっと。」
 そんな自信のない安江はてれてえへえと笑う。
 貸家札がいたるところに目につくようないわゆる不景気な時代だった。安江たちは転々として居を移り、その移ることで気持を新たにしていた。そのうだつのあがらぬ暮しの中で、音枝の存在は彼ら夫婦を世間なみらしい生活ぶりに落ちつかせるに役立った。音枝もことしはいよいよ小学校である。あと三か月しかない。
「一たいどうなるの。人、バカにしてるわ。だまってればほっとくつもり?」
 音枝のいないところで、安江は当の相手が文吉ででもあるようにおこった声を、たびたびあびせる。学校にあがるとなれば、今までのようなのん気さではいられないと思うからだ。それなのに、兵六さんも、音枝の父の長坂からもそれについて何ともいってこないのだ。
「一つ、どなりこみにいくか。」
 文吉はにやにやしていう。
「うまいこといってるわ。顔みるとだまってるくせにさ。だからおっつけられたんじゃないの。」
「おっつけられてよかったといったのはだれだい。」
「そりゃあわたしよ。でもそれとこれとは別ですよ。義務教育なんて、法律問題よ。」
「よく知ってるね。」
「少くとも長坂なんてやつよりは真けんよ。こんなことなら、はじめっからもらって籍でも入れとけばよかった。」
「そうだな。いったいほんとに籍にはいっとるのかね。それだってあやしいもんだよ。」
 それを聞くと安江は青くなった。ランドセルのことまでいって楽しんでいるのに、もしもそんなことで音枝が学校へゆけなかったらどうしようと思ったからだ。
「じょうだんじゃないわ、兵六さんにかけあってよ。」
「いやだよおれ。あのへんは苦手だ。」
「気が弱いのね。手紙でいいわよ。来てくれって書いてよ。」
「お前書けばいいじゃないか。」
「男の方が威厳があって、こんなときはきくのよ。何にもほかのことかかなくていいわ。音枝の学校はどうなっているかってだけ書いて。ハガキでいいわ。三下り半でいいからさ。」
 こんな相談をしているとき、がらっと戸があいて、
「栗本さん、電報!」
 立っていった文吉は玄関で、
「お前にだよ。あれっ、小萩が!」
 安江はがたがたふるえながらとび出していった。
「落ちつけよ。おちつけ!」
といいながら電報を持った文吉の手もふるえている。
 電報は神戸で暮している安江の妹の危篤を報じたものだった。あまりのおどろきのせいか、かえって安江は変に落ちついてきて涙もすぐには出なかった。
「おかしいわね。どうしたんでしょ。男の子産んで喜びたれてたのにさ。」
 突ったったまま電報に見入っている安江を文吉はせき立てた。
「な、ゆくしたくしろよ。とにかくおれ、金つくってくるからね。」
 暮れに月賦で作ったばかりの背広を箱のままかかえて文吉は出ていった。音枝もいずひとりになるとはじめて安江は畳にふして泣いた。危篤という電報は、死の予報であるとさとったからだ。子供のように泣きじゃくっていると、音枝がもどってきた。外で遊んでいたのが、文吉に急を知らされたらしく、そして泣いている安江をみると一しょに泣き出した。
「いいの、いいの音枝ちゃん。おかあちゃんはね、汽車にのって神戸のおばちゃんとこへいってくるから、音枝ちゃんおとうちゃんとまっててね。」
 抱いてやるとおかっぱの髪のふさふさとした音枝はもうひざにあまった。一つ身の着物は肩あげをとってもつんつるてんだった。その姿から安江はふと幼い日の小萩のことを思い出した。一番年も近く、けんかもしたが、仲もよかった妹であった。大きくなってからもよく気があい、安江たちの結婚についてかげの力になってくれたのも彼女だった。小さい時からからだが弱く、そんなことから縁も遠くて、やっと一昨年結婚したばかりだった。子供などできまいと決めていたのが去年の暮れ男の子にめぐまれ、それに先だって文吉に名付けをたのんできた。文吉も喜んで考えたあげく、真冬に生れるのだからとて冬太郎とつけ、トウとよました。
 夜汽車はこんでいた。家を出たあとへ死の知らせがあったとも知らず、安江はひとり汽車ののろさをもどかしがっていた。せめて一目なりと、生きている小萩にあいたいと思ったのだ。スチームのむれるような暖さにもかかわらず、彼女はショールで顔をかくし、三宮につくまで思い出しては泣いていた。駅へはたれも迎えに出ていなかった。文吉が電報を忘れたのだろうと思いながら、すぐ人力車にのった。加納町は一走りである。三角帳場よりの電車通りに面して小萩の夫の仙造は自転車屋をしていた。もう四十に近く小萩は二度目の妻だった。車がとまるのを見つけると、彼は飛び出してきた。その顔をみただけで安江はすべてを察し、だまってそのあとについて家へはいった。土間がかたづけられ、そこにはもう一つの人生への別れの準備がととのえられていた。
 葬儀のすんだあと、親類縁者は額をよせるようにして、めいめいの気持をそれとなくぶちまけた。
 ――どないしたもんやろな。
 ――ほんまにどうしたもんやろな。東京のねえさんにつれてってもらうわけにもいかんやろし。
 ――死んだもんは焼いたったらそれでおしまいやけんど、生きとるもんに気イもまんならん。
 ――ほんまや。正直な話、こんな置きみやげが、一ばん困るわな。もらい手がないもん。
 ――銭つけて、どこぞへやったらどやろ。
 ――新聞によう広告出たぁるわ。子供やりたしいうてな。
 ――仙造はんも気の毒やな。嫁はんの葬式ばっかりで、ものいりつづきやないか。
 仙造が何かの用事でちょっとその場にいなかったときのことだ。だれもどうしようという者はいないのだった。
 ――死んだもんは焼いたったらそれでおしまいやけんど、生きとるもんに気イもまんならん……
 安江は居たたまらぬ思いがした。それで、仙造だけのときに、自分から買って出たのである。
「ね、もしもその方がよかったら、冬太郎ちゃんは私にあずからしてもらえませんか。私は産まずですけど、音枝を育てた経験もありますし、それに、冬太郎は小萩の形見でもありますし……」
 そういって安江が泣くと、仙造も一しょに男泣きに泣きながら、
「すんまへん、おたのもうしますワ。助けておくんなはれ――」
 安江が東京へ帰ったのはそれから五日目の朝だった。世田谷の奥から出迎えてもらうにはあまり早い時間では音枝も困ろうかと思い、神戸はわざとおそいのにのった。ニモツアルムカエタノムと書いた電文を、オミヤゲアルと書き直してうっておいて彼女はひとり微笑した。彼女の背には冬太郎がいたのである。
 ――どんなにびっくりするだろうか。文吉も音枝も。しかし音枝はよろこぶにちがいない。文吉だとて、おこりはしまい……。
 大きな包みを両手にぶら下げてプラットホームに下り立つと、安江は左右を見回した。三輛ほどはなれたところを文吉が音枝の手をひいて、こっちへ歩いてくる。車内をのぞいているので安江の姿に気がつかないらしい。気がついたとしても、安江だとは、すぐには思えないかもしれない。ねんねこ姿の安江はにこにこしながら背の子をゆすぶり、わざと夫や音枝の近づいてくるのをまった。しかしそばまできても気がつかず、ふたりは安江をよけて通ろうとする。
「音枝ちゃん!」
 びっくりして見上げる音枝に、
「はい、おみやげ! 冬太郎ちゃんよ。」
 文吉も一ときはあきれたようだったが、
「なんだ。こんなことだと思ったよ。」
 家へ近づくと玄関の前に兵六さんが立っていた。ははあと思ったが文吉に聞く間もなく、安江は笑顔をみせた。やすやすと笑顔なんかみせる場合でないと、心のどっかにささやく声があるのに、つい笑顔になり、しかもなつかしそうに走りよって、
「まあ珍らしい鷲さん、すぐあけますから。」
 しかし兵六さんの方もびっくりしている。音枝の大きくなったのは当り前だが、背中の子はいったいいつ生れたのだろうと思っているのだ。ねじかぎをあけている安江の背の子にあごをしゃくりながら、
「いつできた?」
と、文吉に聞いた。それを安江はうけて、
「きょうできたのよ。きょうからうちの子よ。」
 まっ正直にいったあとで、産んだといってちょっとぐらいかついでもよかったと思ったりした。が、小萩のことを思うと冗談はひっこんだ。かいつまんでことの次第を語ると、さすがの兵六さんも、
「へえ、そいつは気の毒だね。――ふーん。それにしてもあんたはまあ……」
「お人よしだとおっしゃるんでしょう。」
「いやあ、感心しとるところじゃ。偉いと思て。」
「そんなら兵六さんが偉くしてくれたのよ。――」
 冬太郎はよく眠っていた。なれた手つきでとなりの部屋の、まだ敷きっぱなしのままのふとんに寝せると、安江はあらたまって兵六さんの前に手をついた。
「どうも、ごぶさたいたしまして。」
「いやあ、そういわれると面目ありませんわ。――それにしても、神戸は、大変でしたなあ。ちっとも知らなんだもんで、どうも。」
 やっぱり彼は音枝のことで来たのであった。文吉の手紙であわてて長坂にあって相談したり、戸籍抄本をとったりしていておそくなったとわびをいい、ふところからその抄本をとり出して文吉の前におきながら、
「どうぞ、よろしゅお願いします。それと、わしはもうこれをきりに手を引かしてもらいますわ。これからは、用があれば直接長坂の方へ手紙なとなんなというてやってください。わしもこれで、結構せわしいてな。――なにしろまあ、長坂という男はケチで、胸糞の悪い男ですよ。人をただで走りまわらして何とも思わないんだからね。ここへだって、あいさつなかったんでしょう。」
 安江はむっとして、
「鷲さん、いっときますけど、私たちを長坂さんに会わさなかったのはあんたですよ。私は長坂なんていう人から音枝をたのまれたんじゃないんですもの。鷲兵六という人から、八年前に、一か月という約束で――そうだわ。私がいない間に文吉と話をつけたのよ。文吉つぁん、あんた、なんとかおっしゃいよ!」
 疲れもあって気が立ったらしく安江が泣きだしたので兵六さんはあわてて前言をとり消した。そして今度は手の裏をかえしたように、
「なんなら、音枝ちゃんを引きとってくれるように長坂に話しましょうか。わしもこうなったら乗りかかった舟じゃ、解決しましょうじゃありませんか。ちょうどいい機会ですわ。新しい赤ん坊もきたしというわけで――生れたといってもいいな。学校にゆくまでに渡そうじゃありませんか。」
「…………」
「いつまでもかくしとけるものじゃなし、長坂の奥さんだって、もうわかったからといってとび出したりする心配はありませんよ。そのあと子供もできたんですからな。」
「…………」
「さもなければ、金でもつけてもらって、ここの子にするか。」
 兵六さんが一言いうたびに安江は悲しくなって何にもいえなかった。さすがに文吉がおこりだして、
「見くびるな鷲さん。馬鹿なこといわないでくださいよ。いいからもう、帰ってください。ぐずぐずしてたら今にあんたをなぐりたくなりますからね。」
 理解しがたいという顔で兵六さんは引きさがった。彼は彼で少々立腹していたらしい。ひとりの子供の存在をまるで厄介な品物のようにいったことには気づかずに、年長に向って馬鹿なことをいうなとは何事だと思ったのかもしれない。見おくって出た安江に、笑顔も見せずに、
「どうぞおすきなように。」
 部屋へもどると安江は文吉のわきにすわり、
「あーあ、くたびれた。」
と、右手で首根っ子をつかみながら、
「音枝のときは疲れなんて知らなかったと思うけど、今度はしんどいわ。」
「自業自得さ。」
「そうよ、自業自得だわ。かんべんして。今度はわたしが、あんたにたのむ。どうかなと思いながら、そうしないでいられなかったの。だれもかれも、死ねばいいといわんばかりなんだもん。あんまりかわいそうじゃないの。――ね、も一度、私が産んだと思ってね。」
「いいよ。仕方がない。名つけ親だからな。そこへゆくと、これみろよ。」
 音枝の戸籍抄本なのだ。父長坂幸一母伊志長女と、そこにはしるされていた。
「なんでしょうね。両親ともちゃんと結婚してるじゃないの。」
「別に生母があるんだよきっと。」
「ふーん。そしてここにも育ての親がいる。」
 気がつくととなりの部屋ではさっきから音枝が子もり歌をうたっていた。
ねんねしゃっしゃりまーせ
あしたおきなさりませ……
 いつも歌っていた安江の子もり歌の少しばかり替歌なのだった。
 その夜安江は小豆飯をたこうと思った。何となくあずき飯がたきたかったのだ。音枝をつれて、冬太郎をおぶって市場へ出かけると、母のそんな姿がうれしいらしく音枝は上きげんだった。久しぶりのせいもあった。急に弟ができてもしかしたらひがむのではないかと案じたことも、思いすごしだったとほっとしながら、安江は、
「ね音枝ちゃん、冬太郎ちゃんはおかあさんが死んじゃったのよ。かわいそうでしょ。だから、みんなでかわいがってあげましょうね。きょうから音枝ちゃんは、おねえちゃんなのよ。」
 ふっと涙ぐむと、感じやすい音枝も一しょに涙ぐんで、うなずく。
「音枝ちゃん、弟ができてうれしいでしょ。」
 笑顔をすると彼女もそれにつられて、
「うれしい。」といい、急いで涙をふいて、
「さっき、あたいが歌うたったら、冬太郎ちゃんいくらでもねむったわ。」
「どうもありがとうね。」
 安江は仙造からまとめてあずかってきたミルク代の中から、思いきって音枝に一番上等の赤皮のランドセルを買ってやった。そして貧乏になれて、お金大丈夫? という顔の音枝に、
「これはね、冬太郎ちゃんのおみやげにしましょうね。」
 音枝はそれを着物の上に背負って、もう口がふさがらない。しかし安江は、この、たれからも入学のお祝いをもらいそうにない音枝がかわいそうでたまらなかった。ついでに筆入れもえんぴつもぞうり袋も買ってやろうかとはやる心をおさえて、
「洋服はねおとうちゃんに買ってもらいましょうね。靴はおかあちゃんだ。それから、鷲のおじさんもきっとなにかくれるわ。それから元村さんや、川口さんのおばさんもなにかくれるってよ。そうそう、矢田さんもくれるかもしれないわ。よかったわね。」
 そういいながら安江は夫の友人の元村や川口たちに事情をいってくれたことにしてもらおうと考えていた。十銭にことかく貧乏な詩人や失業者たちだから、本とうにもらうわけにはゆかない。小萩が生きていれば、ランドセルをくれるぐらいの親切はあったろうと思い、いいことに気がついたと思った。
 花屋の前までくると赤いカーネーションがぱっと目をひいた。店へはいると、チューリップもストックも、フリージヤもガーベラも、そのほかいろいろな花がぎっしりつまっていた。十年に近い都会生活で、花の名も大分おぼえた安江だったが、安江はふと音枝のきた日のことを思い出し、菜の花ばかりを買った。つかねただけで新聞紙にも包んでくれないのを音枝はかかえて、歩きながら、
町では ちんちん ちんちりめん
里では なたねの はながさく
と、また安江の子もり歌を無邪気にうたう。
 誕生もこないうちに、冬太郎の父親は三輪車をおくってよこした。人工栄養の子はそだちもおそくまだやっとつかまり立ちをしているのに、親はもう三輪車にのせたがっている。のれるまで大事にしておきますと手紙を出したが、いつのまにか音枝が毎日のってこぎまわった。だいぶいたんだころやっと冬太郎が乗れるようになり、写真をとっておくってやると、こんどは安全補助輪つきの四輪車をおくってきた。また音枝が先にのりまわした。そしてけんかである。
「自転車がいいんだア。自転車ア。」
 すると安江が冬太郎をしかりつける。
「自転車はおねえちゃんの。冬坊のは三輪車です。」
 やあい、と音枝がはやすと冬太郎はむしゃぶりついてゆこうとする。頭ばかりでかくてからだの小さい冬太郎はすぐころぶし、きゃしゃで身軽な音枝の逃げ足は早い。
「やあい、冬坊トがつくとん十郎。とろろんのとりぶくろで、とったかとったか。」
 なぶられると冬太郎はくやしがって安江に泣いてうったえる。
「おねえちゃんがなぶったア。」
 しかし安江は音枝がしかれない。いわば三輪車も四輪車も冬太郎のものなのだ。安江はそれがいいたくない。
「おねえちゃんはね、大きいからいまにあの自転車にのれなくなるよ。そしたら三輪車も四輪車も、冬坊のものだがね。」
 冬太郎はにこにこして言いかえしにゆく。
「おねえちゃんなんか、いまにのれなくなるよーだ。そしたら三輪車も四輪車も、冬坊のだよーだ。」
 すると音枝はいい気になっていいかえす。
「そしたら今に、神戸のおじちゃんがほんとの自転車おくってくれますよーだ。」
 冬太郎はまた泣き顔になってうったえにもどる。
「こうめ(神戸)のおじちゃんが、おねえちゃんにほんとの自転車くれるいうたア。」
「いいじゃないか。そいつもやがて冬坊がもらっちゃえ。そしたら三つになるよ。三輪車とォ 四輪車とォ ほんとの自転車とォ。」
 冬太郎の小さな指を三本折ってみせてやると、彼はにこにこしてまたかけだしてゆく。
「自転車も、やがても、ぼくが、もらうんだよーだ。」
 音枝がおもしろがって、
「そしたら、こんどはおとなの自転車、おくってくるよーだ。」
 冬太郎が泣き顔になる前に、安江は笑いながら助け舟を出した。
「冬坊なんか、自動車もらうよーだ。」
 冬太郎のゆがみかけた顔が笑顔にとけると、音枝もまけていない。
「そしたら、こっちは、飛行機ですよーだ。」
 あっはっはと文吉も安江も腹をかかえる。
 音枝の予言は冬太郎が幼稚園へはいると同時に実現した。立派な子供自転車がベルまでつけておくってきたのだ。わあっと喜んで音枝がまっ先に初乗りをする。初乗りどころか自分用にきめてしまって、時には冬太郎がいじってもしかったりする。冬太郎はそれが自分におくってきたものとは思わずにひたすら音枝にたのむのだった。
「この自転車、ぼくが大きくなったらちょうだいね。」
「うん、やるよ。そしたらこんどはおねえちゃんはおとなの自転車だよ。」
 日曜日の朝など四輪車と自転車は家のまわりをぐるぐるまわる。冬太郎が一生けんめいになって、ちょこちょこと忙しくペダルをふむあとから、音枝はゆうゆうとついてゆく。そして冬太郎を誘うように歌いだす。
あれ あれ なんでしょね
 冬太郎が幼稚園で習ってきた歌だ。冬太郎は自慢の大声で、
お顔 お顔 なでている
おかんか おかんか さすってる
ああ 風さんね
 聞きながら文吉が安江にとう。
「おかんかって何のこったろう。」
「髪ですよ。」
「いやったらしいね。わざわざ甘ったれにしてるようなもんだね。」
「そうよ。冬太郎が歌うとよけいおかしいわよ。」
 しかし夫婦はある幸福感にひたっている。
「大きくなったわね。子供なんて、だまっててもそだってくれるんだからありがたいわ。」
「へっ。つらいつらいと後悔ばっかりしてるくせに。」
「でも、あんなのみてると忘れちゃう。――子育てが苦労などとはつゆ思うまじくそうろうだわ。わたしたちってやっぱりお人よしかしらん。」
「そうだよ。だからふたりもおっつけられたんだよ。」
「でも、子供らのためにはふたりになってよかったと思わない?」
「思うさ。ひとりっ子なんてみじめなものさ。おれはときどき、あいつらがうらやましくなるよ。」
 ひとりむすこの文吉ははるかな思いを目にこめて子供たちをながめる。もっともきげんのよいときの夫婦である。文吉に金がはいって、酒屋や新聞屋や牛乳屋に払いのいいわけをしなくてよいような経済状態のときだ。大した欲も徳もなかった。
 そんな彼ら一家に一大事件が起った。ある雑誌の懸賞小説に安江が当選したのである。電報がくる。記者がやってくる。路地の向うに自動車がとまって、写真班までが押しかけてきて、そんな中で安江はうろうろした。
 小説の題名は「子守歌」というのだった。文吉に「お前童話をかけよ。」といわれた時から、安江の気持の中にはずっとそれがあたためられていたらしい。母や祖母の歌った子もり歌、音枝という子を育てながらの自分の子守歌、そこへまた冬太郎を迎えて歌う音枝の子守歌、安江の心中にあたたまっていたものは、音枝のその子守歌を聞いたことでわき出し、ふきこぼれたのである。
 ――おめでとう。おめでとう。
 友人たちが次々とやってきて喜んでくれるそのたびに安江はあかくなり、落ちつけなくなった。それが発表されるまでの一と月というものは夜の目も眠れぬほどうきうき、そわそわし、いよいよ発表されてみると、今度は思いがけない難問題にぶつかってしまった。音枝が急に無口になり、ふさぎこんでしまったのだ。彼女はもう女学校二年生になっている。この、いわば犠牲者のことを、安江は大きく考えていなかったのだ。「子守歌」は小説というよりもそれは実話に近く、書きながら安江はその子守歌に酔っていた。それを読んだという文吉の友人たちからも、そういう感想がよせられた。小説の選者の批評にも、やはり同じような意味のことが書かれており、しろうとの面白さとして好意的であった。しかし、そんな中で、酔えない娘がひとりいる。困ったと、安江は心底からそう思う。ひざをまじえて、心ゆくまで語ろうと構えているのに、音枝はいつもそれをはずすのだ。
「音枝はどうも私に敵意をもってるらしいわ。」
 音枝の留守のとき、ためいきで文吉に語ると、
「感じやすい年ごろなんだよ。そっとしといた方がいいよ。」
「そうね。でも、私の気持がわかんないなんて、いやだわ。やっぱり……」
 ほんとの親子じゃないのかしらといおうとして、心の奥にのみこんだ。しかし、それは不消化のまま、ついに吐きだす時がきた。夕食後、ぷいと立って部屋にこもろうとする音枝に、はげしくどなった。
「音枝! お前、へんだよこのごろ。なにをふくんでるのさ。かあさんの顔みるのがいやなら、それでもいいよ。何さ、日がな毎日、ぷりぷりばっかりしてさ。」
 音枝は、わあ! と泣き声をあげて、裏口からおもての方へとび出した。
「音枝、音枝ちゃん!」
 安江があわてて追っかけるあとから、文吉もかけ出そうとした。家の中では今度は冬太郎が大声で泣き出す。
「わあ! ぼくもつれてってエ。」
 やがて電車通りを安江と音枝はだまって歩いていた。うしろから見ればきげんのよい親子のように手をつないで歩いた。音枝は手ばなしで泣きじゃくっていた。しかし、手をつないで歩いていることでお互いの気持がだんだんとけ合ってゆくのを、ふたりとも感じていた。安江は、自分も何となく涙っぽくなるのをがまんして、わざと何もいわなかった。あとから追いついて手をにぎった瞬間、何もいわなくてよいことをさとったのだ。音枝が素直に手をにぎられたまま反抗しなかったからだ。
 ――かわいそうに。とび出しはしてもかけこんでゆく家が、この子にはないのだ……
 安江は、この、自分に少しも似ない娘がかわいそうでならなくなっていた。自分たち夫婦を父と呼び、母となつきながら、一歩外へ出れば長坂音枝であるふしぎについては、長い年月に彼女は彼女なりの理解でそれを自然なこととして納得していたのだろうに、「子守歌」はその音枝の平穏な魂を荒々しくゆすぶったのだ。
 ――かわいそうに。しかしいつかははっきり知らねばならなかったのよ、音枝ちゃん……
 まだおかっぱのその横顔に無言でいって、安江はほほえみかけながら、にぎった手に力を入れた。泣きじゃくりがいつかやんでいたからだ。音枝もきまり悪げな顔で同じようにえみかえす。そのことまでが、音枝としてはこうするよりほかにぬけ道がないのだと思うと、安江は泣けそうになる。もしも音枝の父親の長坂が、冬太郎の父のようなあり方だったなら、きょうあたり安江の手をふりきって一目散に父のもとへかけこんだろうにと思うと、音枝の哀れさがにぎり合った手からつたわってくるような気がした。
「帰ろうか。」
 気をひくようにいってみると、素直にうなずく音枝だった。
「ずいぶん、散歩したね。」
 うふっと音枝は肩をすくめた。いつもの音枝である。
「乗るの、よそうね。」
 安江は、うしろから高井戸ゆきの電車が走ってくるのをみてそういった。三軒茶屋で何か買ってやろうと思ったからだ。電車道の両側に夜店がならんでいた。
「花でも買おうか?」
 若い娘の心になったつもりでいうと、
「うん。」
と、音枝はもうてれてはいない。
「昔さ、音枝がうちへきた日、私は菜種の花を仰山ぎょうさん買って帰ってね。」
「冬坊の時よ、それ。」
 音枝は七年も前のことをよく覚えていた。
「ああ、冬坊の時もそうだったがね……」
 安江は、そのことを「子守歌」の中に書き忘れたことに気がつき、ひそかに残念がりながら、電柱のかげに小さく店をひろげている花屋の前に立ちどまっていた。
「いらっしゃい。いかがですかオランダしょうぶ。」
 まだ子供っぽい顔をした青年が、いかにもしろうとらしく、気弱な様子で安江にうったえる。オランダしょうぶのほかには何もない花屋だった。十銭買うとかかえるほどあった。ほんとにそれを胸にかかえて、満足そうに歩く音枝と肩をならべながら、安江はふと、兵六さんを思いだしていた。「子守歌」がもしも兵六さんの目にとまっていたならば、彼はどう思うだろうと考えいたると、いささかの気の毒さとともに顔が赤らんだ。その顔のあからみはすぐ音枝の傷心しょうしんへの思いやりに移り、後悔にも似た気持がわく。
「グラジオラスのこと、オランダしょうぶともいうのね。」
 もう花に気をとられているらしく音枝がいう。
「そうらしいね。何しろ、外国の言葉は、つかわせない政府の方針らしいから、それなんだろう。」
「花にまで?」
「そうじゃないか。お前の女学校だってフェリスがしらゆりになったし、サン女学校は日の出女学院って変ったじゃないか。」
「あ、そうか。」
「今にお前、どんな世の中になるか知れやしないよ。――うちでは女の子でよかったようなものの、よそさまには男の子が一ぱいいるものね。」
「うちだって冬坊がいるじゃない?」
「冬坊までには、間があるけどさ。」
 そこで思わず、足が早まったのも、おたがいに冬太郎の泣き声を思い出したかららしい。カリントウをみやげにして家へ帰ると、冬太郎はもう眠っていた。文吉は多少の不満を、音枝の顔をみた安心の中にとけこませながら、
「困ったよ。おれの胸の中に手を入れやがるんだからねあいつ。それでも、おれのねんねころいちで眠ったよ。たった今ねたばっかりだ。」
 安江はふっと涙ぐんだ。そして、その夜、寝床にはいってから、夫にささやいた。
「子をもって知る子の恩ていったのだれだか知ってる?」
「そんなお人よしはお前ぐらいだろう。」
「有島武郎ですよ。そしたらね、校正刷りで親の恩に誤植してたんですってね。赤インクで子に直しといたらね、出来た本にはやっぱり親の恩――」
「よく知ってんだな。」
「ゴシップみたいとこで読んだのよ。」
「しかし、本当ならそいつは大変な誤植だね。その校正係は、封建主義のかたまりだったんだろう。」
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ゆずの大馬鹿


世帯主 栗本文吉
同居人 小森安江
同   長坂音枝
同   川井冬太郎

 一枚の板にならべて書いて玄関の格子戸こうしどの上に打ちつけたのはまだ戦争の終らぬころだった。おかみの命令だったか、町会の取りきめだったか忘れたが、とにかく、心のとびらのその奥はさておいてでも、一応はみんな裸になることを要求されて、同じ部屋の下の頭数だけはさらしておかねばならなかったのだ。この四人が四人とも姓のちがった表札を、他人はどうか知らぬが、安江夫婦はおもしろがってながめたこともあった。
「まるで下宿屋だね。」
 文吉がそういうと、安江は安江で、ある感慨をこめて、
「判こ一つのせいよ。私たちルーズなのね。とにかく私たちだけは同じ姓にもなれるのにさ。」
「ま、いいさ。事実が証明する。」
「でも判こ一つだってバカにはできないわ。なにしろ二十年近くも一しょにくらす夫婦も、おしめから育てた親子も、みな同居人なんだもの。まだ私はいいわよ。内縁の妻とか何とかいえるけどさ、音枝なんかときたらあんた、まるで見向きもしない長坂なんてロクでもない男がさ、厳然たる親としてどっかに実在するのよ。――もどしてくれったらどうする?」
「大岡裁判だ、そしたら。」
「冗談じゃないわ。――でも、長坂幸一なんてどうしてるかしら。」
「兵六さんに聞きゃあわかろうがね。」
「聞く必要もないけど、もしかしたら音枝は聞きたいかもしれないと思わない。」
「思わないね。」
「そうね、思わないわ、私も。」
「それでいいよ。」
「いいわよ、ほんとに。長坂だの、鷲兵六だのって男は、私たちのつきあいの範囲の人じゃないわね。会えばこっちまでげすになる。」
 しかし安江にはある一つの不安に似た思いがあった。いつか有楽町のホームでひょっこり出会った兵六さんから、長坂のうわさを聞いたのである。さすがになつかしそうに音枝のことをたずねたあと、
「長坂の方は不幸つづきでね。むすこは少年航空兵で戦死するし、嫁は肺病になるし、家は焼かれるし、あんじょうワヤじゃ。ばちがあたったともいえないしな。」
 あわただしくゆきかう人々に肩や背中を小突きまわされながら、それだけ聞いただけで安江のからだは電車の中に押しこまれていた。兵六さんはもうみえなかった。
 終戦翌年の、それは新緑のころだった。時代の風潮でやたら胸をはり、のけぞって歩く人間がふえた中で、安江たちもまた彼女たちなりの希望にもえ、時には若やいだ気持で夫婦つれだって出かけたりした。その日も、ふたりそろって属している文学団体の集会があって、夜おそくわが家へ帰った安江は、音枝が町の青年たちの集会から戻ってくるときの、あのはりのある声をまねて、玄関をあけるなり、
「ただーいまっ。」
 大声で呼びかけると、留守番の音枝がとび出してきて、にこにこしながら、
「お帰んなさい。きょうは、いいものがあってよ。」
「何だ。食うものだろう。」
 文吉の方がすぐとびついていった。安江も笑いながら、
「当てようか。あたったらおかあさんに特配するね。」
「当りっこないわ。」
 音枝はにやにやしながらすぐ台所へゆき、ガスにやかんをのせている。
「と、おっしゃるところをみると、うどん粉やなんかではなさそうだね。もっと高級品かな。ケーキでも手に入りましたか。」
 帯をときながら安江もきげんがよい。音枝はそれをわざとじらすように、
「ま、おとなしくお茶がわくのを待った方がいいわ。当ったら特配のかわり、当らなかったら配給停止ですからね。」
「おやおや。よっぽどいいものらしいね。」
「そうよ。おとうさんがにくらしいほど。」
「え、なんだって?」
 ちゃぶ台の前にあぐらをかいている文吉がにやにやしだすのへ、音枝はわざとぴしっとした声で、
「おとうさん、いっときますがね、男女同権ですよ。平等分配よ。その上で、いろいろやりくりしましょうね。ゆびきり。」
 こいつめ! といいながら文吉は一たん出した小ゆびをまた引っこめ、
「よし、おとうさんがあてようか。タバコだろう。」
「お見当ちーがい! タバコでお茶がのめますか。さ、大急ぎで取消さないと配給停止よ。」
 ちぇっ! と再び小ゆびを突き出すのへ、音枝はきゃっきゃっと笑いながらじぶんの小ゆびをからめ、
「ああ、ああ、やっと思うつぼだわ。冬太郎とふたりで知恵をしぼったのよ。冬坊、とうとう待ちきれないで眠っちゃったけど。」
 お茶のしたくを安江に回しておいて、音枝はおもむろにきょうの獲物えものらしい紙包をもち出してきてちゃぶ台の上においた。
「ね、だれが持ってきてくれたと思う。」
 まだじらそうとする音枝に、安江は少しかんを立て、
「だれだっていいよ、もう。さっさと配給しなさい。」
「はい。」
 包みをひざの上にのせて、音枝はしかつめらしく、
「まず、これよ。あとはあとのおたのしみ。」
 出てきたのはもうすでに口を切ったかんパンの袋だった。
「なんだ、もっと高級品かと思ったら。」
 さっそくつまんで口に入れる文吉へ、
「だってこれ、ただよ。買ったんじゃないのよ。そう思うとうれしいでしょう。それに、まだあとがあるんですからね。」
「さっさと出しなさい。」
 ふきげんにいいながら、安江もそのかたい干パンを口に入れ、かりかり音を立てた。ゆっくりかみしめると奥の方からうまさがわいてくる干パンであったが、こんなものにうきうきしている音枝に妙ないらだたしさを感じて、だれにもらったかなど、金輪際こんりんざいきくまいと思ったりした。そんなこととも気づかぬらしい音枝は、
「じゃあ配給はじめます。ちょうど割りきれるのよ。ハイおとうさん、ハイおかあさん、こっちはわたしと冬太郎。ハイおとうさん、ハイおかあさん、こっちはわたしと冬太郎。」
と、自分たちのは自分のひざにおいた。配られたのは軍手と軍足のかた方ずつだ。
「なんだ、こりぁ。」
 文吉が笑いながら軍手のかた方をつまみあげるのへ、
「軍手ですよ。だって二足ずつもらったでしょ。四人じゃかたっぽずつしか当らないわよ。だから私たち相談の結果交換したの。冬太郎は軍足なの。私は軍手。おとうさんだって、おかあさんと交換すればいい。ただね、あとが問題なのよ。これ!」
と、かた手にもってさし示したのは外国タバコだった。箱の表の赤い丸が輝いてみえた。
「なんだ、やっぱりタバコじゃないか。」
 音枝は目の色かえる文吉からいち早くうしろにかくし、
「ね、私と冬太郎の当り分のタバコ、とりかえてくれないおとうさん。指一本とタバコ一本とよ。だけど私は軍足よりか、おとうさんの大事な毛のくつしたの方をにらんでるのよ。冬太郎はね、軍足でいいんだって。私が毛のくつしたをもらうことによって、おかあさんに軍手が一組当る勘定になるのよ。少し損だけど、母の名においてがまんしてもらうことにしたの。」
 音枝のおしゃべりでいつかきげんがなおっていた安江は、
「ところで、いったい、その奇特なお方はだれだい?」
「それがね。」
 音枝はにやっとして左手をふりながら、
「ギッチョのおじさんよ。」
 安江は思わずまゆ根をよせ、
「兵六さん?」
 いつか有楽町のホームで出あったときの長坂のうわさが急に思い出された。それを音枝には話さなかったのだ。しかしそのことについて音枝はなにも聞かなかったらしい。かげりのない顔つきで、
「兵六おじさんて、愉快ね。二号さんがいるんだって。大自慢なの。お金がもうかってしようがないんだってよ。」
「へえ。やっぱり、電気の方でかい。」
「んんーん。もっぱらこんなものらしいわ。」
と、音枝は干パンを一つ口にほうりこんで、
「こんなのうんと持ってるんだってよ。大きな食糧倉庫に一ぱいつまってるんだって。」
 文吉が笑いだし、もったいなそうに吸いさしの外国タバコの火を消しながら、
「兵六さん、相変らず話だけは大きいね。どこの倉庫か、はっきり聞いたかい。」
「そうよ。音枝はまたバカっつらして、木に餅がなるような話ばっかり聞かされたんだろ。」
 音枝は少しむっとして、
「ひどいわ。おとうさんたら、もうそのタバコすってるくせしてさ。みんなただでくれたのよ。今時ただでくれるなんて、相当だと思うわ。」
 そのしんけんさに安江はふとおかしくなり、
「ま、無理もないよね。かあさんだって、さっきはちょっとうれしかったものね。」
 すると音枝はたちまちいい気になり、
「ね、半値でおろしてあげるから、私にも商売しろっていうのよ。」
「え、やみ屋になれってかい? お前、いい気になって承知したんだろ。」
 安江の、こんどは許すまじい様子に、音枝はさすがにあかくなり、
「ことわったわよ。ただ、冬坊の方は乗気だったわ。『魅力』だってよ。」
「あきれたねまったく。戦争中はゆう久の大義に生きるなんて小学生のくせに悲壮がったりしてさ、中学生の今はやみ屋に魅力だって。兵六さんも兵六さんだよ。子供つかまえてさ。」
「じょうだんだよ、おかあさん。冬坊にやれるもんですか。――それよか、もっと別の話もあったけど、おかあさんおこるからやめる。」
「そこまでいってやめるヤツがあるかい。」
「ヤツなんて、失礼ね。――でもこれは、もしかしたらおかあさんも『魅力』よ。」
「…………」
「へやを貸せって。三畳でも米代ぐらいにはなるってよ。」
「大きにお世話だよ。まったく、兵六さんがくると、ろくなことが起らないんだから。」
 安江はぷりぷりした。
 そしてその翌日――。
「ごめんください――」
 安江が出てゆくと、見知らぬ少年が立っていた。十七か、よくいって八ぐらいに見える。
「ぼく、斎木です。」
 にこにことして頭をさげる。安江はけげんな顔をして、
「斎木さんて、あの、失礼ですがどなたでしたかしら。」
 すると、今度は斎木という少年の方がけげんな顔をし、
「ぼく、高松の斎木進です。」
「ああ、高松の――」
とはいったものの、安江に心当りがあったわけではない。ただ小豆島とのつながりで高松を身近に感じたまでで、目の前に立っている少年との関係をさぐりだそうと、とっさの努力をしていた。少年はかたくなって、腰の手ぬぐいをとってはしきりと額の汗をふき、また腰にはさませながら、だまって安江の言葉をまっている様子だった。
「で、何か?……」
「はい、このたびは、お世話になります。」
 ぴょこんと頭をさげて、また腰の手ぬぐいをつかんでいる。可愛らしい少年だった。
「お世話って、どういう意味なんですの。おっしゃること、よくわからないんですけど。」
 少年はびっくりした目をして、
「あの、あの、部屋のことなんですが、鷲さんという方の御紹介で――」
「ああ。――まあ、そうですか。でもね、そんなお話うかがったのはきのうのことで、承知したわけではないんですよ。――鷲さんも気の早い。とにかく、きのうわたしの留守へきて娘にそんな話をしたようですがね。でもお約束したわけじゃないんですもの。せっかくでしたけど、どっかほかでさがしてくださいな。」
 斎木少年は見る見る困った顔になり、
「ぼく、そこへもう荷物もってきたんです。」
 そういわれてみれば、ふとんをつんだリヤカーのかげが玄関の外に見える。おどろきあきれる安江の前へ、少年はむき出しのままくしゃくしゃになった便箋をさし出した。近々お目にかかってくわしく話すから、とにかくよろしくたのむというかんたんな手紙で、余白に道順と地図をかいてある。
「困りましたね。よろしくといわれても、困るんですよ。あなたには悪いけど、かえってくださいな。」
「ぼく、ゆくとこないんです。」
 くしゅんとなって泣きそうな顔をする。結局兵六さんとの話合いがつくまでということで荷物を入れさせた。完全に安江の負けである。彼女は音枝にあたりちらした。
「お前がふわふわといいかげんなこといったんだろ! 干パンぐらいに目がくれてさ!」
 兵六さんはなかなかやってこなかった。
「おっつけられるよ、また。」
 文吉が大っぴらに顔をしかめる。
「押しつけられたりしないわよ、ぜったいに。だからわたし、はじめっからあの子にいったのよ。鷲さんがくれば引あげてもらうから荷物ひろげないでくださいって。そこらへなべかまをならべられたら、権利みたいなもの与えることになりますからね。でも、夜具だけは仕方がなかったわ。おばさん、ふとんどないしましょうって聞かれると、まさかふとんなしでいすの上にねてくださいともいえないでしょ。」
 斎木少年にあてがった部屋は玄関わきの応接間の四畳半だった。そこならドアをしめれば一応の隔てが出来、こちらの声もきこえないはずだった。安江はすぐいいわたした。
「わたしのとこは鷲さんのようにやみで米が買える身分じゃないんですの。薄情なようですけど、食事は外でしてくださいね。外食券、もってらっしゃる?」
 そんなぐあいで、こうした場合としてはうまく運んだとわれながら安江は感心していた。ところが三日たっても、五日すぎても兵六さんは姿を見せない。そしてある日、音枝は斎木少年に聞いたといって報告した。
「おかあさん、鷲のおじさん、部屋の権利金とったんだってよ。」
「ええっ、うちの部屋のかい。」
「そうよ。三千円もとったんだってよ。」
 安江はまっかな顔で立ちあがった。斎木少年にただそうと思ったのだ。
「斎木さん、出かけたわ。鷲さんにかけあってくるって。」
「まったく、どういうんだろうね、兵六さんて人は。――だけど、おとうさんには権利金のこと、解決するまでだまってようね。ややこしくなるからさ。おとうさんたら、まるでわたしがひとり決めで引受けでもしたようにいうんだもの。そうだろ、あの時もしもわたしが留守でおとうさんが応対したとしても、やっぱり同じ結果になってるわよ。これというのも、音枝がこないだ甘い顔をしたからだよ。ほんとうにお前、部屋貸すなんてあの時いわなかったね。兵六さんがきたとき、とっちめるのに困るからね。本当のこといっとくれよ。」
「ほんとですよ。いやだわ、そんなに信用してもらえないの。」
「だって、あの晩、お前相当うれしがっててさ、兵六さんに好意的だったもの。」
「そりゃあ、あの日はそうだったわよ。でもそれは、わたしだけじゃなかったわ。」
「困ったね、ほんとに。あんなもので釣りにきたんだよ。いつだって、見くびってるんだから。」
 まだ花などなかった時なので、安江はぷりぷりして当り場に困った。
 不幸はくりかえすといわれるが、不幸とはいえなくても、同じひとりの人間の生涯に同じようなことは、ふしぎとくりかえすものらしい。安江の家に夏樹という赤ん坊がやってきたのは斎木少年がきて一か月目ぐらいの時である。戦時中に安江たちが仲人で結婚した若いふうふが、ふたりとも肺病で寝こんでいるのを見かねて、あずかった子供だった。ひやけなすびのようにしぼんだ、あおい顔の赤ん坊は、たれの目にも末ながくそだつとは思えなかった。安江たちにしろ、そんなことよりも、目の前の、足下の、たった今の、その問題を解決するようなつもりで、連れて帰ったのである。万一の場合、若い両親にかわって最後のみとりをしてやろうと、口には出さぬが、ひそかな思いはそこにあったのだ。やむを得ず居すわりの形になった斎木少年に留守をたのんで、その日音枝とふたりで赤ん坊をつれにいった安江が、三人になって帰宅すると、思いがけない兵六さんがきて、待っていた。思いがけないというよりも、日がな毎日、きょうはきょうはと待たされて、待ちくたびれて、憤慨しながらあきらめかけていたところへ、彼はまるで、おりを得たような顔つきをして現れたのである。鳴っていた腕っぷしもなえようというものだ。その虚をつきでもするように、兵六さんはいんぎんに両手をつき、
「どうもどうも。つい心やすだてにご無礼いたしました。」
 むっとしている安江に、兵六さんは立てつづけて、
「進君から話を聞きましてな、今、あんたの物語を一席していたとこですよ。お安さんという人は、昔から実にできた人だといってね。」
「おだてるのね、相変らず。」
「いやあ、ほんとですよ。わしは、実に何というか、ここの家との妙ないんねんにおどろいとるところですよ。音枝ちゃんはこりゃ、当り前だけどもさ、冬太郎くんでしょう、そしてきょうでしょう。ここの家へ赤ん坊が来た日には、必ずわしが、まるで立会人かなんぞのように三度が三度、ここへ来る回りあわせになる――」
「そういえば、そうだわ。あら、変ね。ふしぎね。三度が三度なんて、なんでしょう。奇縁きえんていうのかしら。」
 恨みがましさも忘れて安江はつい許す気になり、
「でも、進君のはひどいわよ鷲さん、進君には悪いけどさ、困るのよ。文吉、おこってるわよ。」
「そういわれるとどうも。しかし、これも同郷のよしみに、かんべんしてくださいよ。その代り、赤ん坊のミルクでもなんでも、これからもってきますよ。文吉さんに一つとりなしてくださいよ。」
 そしてほんとにそのあとしばらく、兵六さんはせっせとミルクを運んできてくれた。
 しかし、まもなく食糧統制違反で新聞にも出るなどやみ屋なりのはなやかさでうわさにのぼるようになって以来、兵六さんの足はだんだん遠のき、やがてぱったり来なくなってしまった。
「警察につかまったりして、はずかしいのかしら。」
 音枝がそういうと、文吉は文吉で、
「警察にあげられるったって、それほどのやみ屋じゃあるまい。おれはそう見てる。大きそうなこといっても兵六さん、せいぜいかつぎやぐらいのやみ屋だよ。だって、二千円ぐらいの金を、かしてくれっていったもんな。」
「それ、かしたの?」
 安江が顔色をかえる。
「かしたさ。お前の姉婿あねむこだった人だと思ったからさ。」
「かえしてくれた?」
「二百円だけね。利子の前払いだっていってさ、その場で差し引いてくれたよ。」
「あきれた。あんたそんなお金、どこにあったの。」
「たもとの底にあったよ。」
 にやっとする文吉に、安江はくってかかる調子で、
「いやだわ。男のくせにへそくりなんて。――そのお金、もうもどってなんかこないわよ。わたしに相談もしないでさ……」
 とはいっても安江だって斎木少年のへやの権利金のことはいまだに夫にかくしている。とはいえそれは、こうして斎木少年が居ついた以上当然払ってもらうべき性質のものをもらっていないだけのことで、直接ふところなり、たもとの底から出されたものではない。それを彼女は、文吉の手前、もらったようにいってしまったのだ。それはまた半分は、進君と呼び方もきまって一しょに住むことになった以上、夫と進君との間を円滑にしてゆきたい安江の気弱さでもあった。そういう事情をさとった兵六さんはうまくそれを利用し、文吉のいる前ではミルク代も大っぴらにうけとりながら、恩きせがましいことまでいったものだ。
 ――わたしの手にはいる元価ですからな。わたしは一文ももうけちゃあいませんよ。ええ、びた一文だって、ここの家からもうけようとは思っちゃいないんです……
 しかし兵六さんが来なくなってみての安江のむな算用では、どうやら文吉のへそくり分ぐらい引っかかったことになる。だが文吉は文吉で別のむな算用をしていた。
 ――進君の権利金とさし引すれば、とんとんさ……
 彼は安江には二千円といったが、ほんとは三千円を兵六さんに出していたのだった。
 さっぱりと思いあきらめると、あまり苦にしないのが安江のたちである。毎日の忙がしさも彼女の頭から兵六さんを追い出していることが多い。しかし、夏樹をかかえて主婦代りの音枝は、進君をとおして毎日のように兵六さんのうわさを聞いていた。それをあんばいして安江に告げるのである。
「おかあさん、進君のうちね、ずい分たくさん兵六おじさんにお金預けたんだってよ。」
「へえ、でもそんなこと、わたしの知ったこっちゃないよ。」
「そりゃそうよ。でも、かわいそうみたいよ。それ、進君の何年間かの生活費なんですって。月々わたしてもらう約束なのにさ、兵六おじさん、なかなかくれないらしいわ。」
「そんなこと、わたしが聞いてもしようがないじゃないか。」
「ごめん。」
 音枝は素直に引きさがるのだが、やがてまた安江の顔色をうかがうようにして、
「ね、おかあさん、進君が五百円かしてくれっていってんだけど。兵六おじさん、何べん行ってもあえないんですって。」
「そのしりぬぐいまでわたしがするの?」
「…………」
「あんまり、甘く見られなさんな。権利金なんてどうでもいいけどさ、部屋代だって一度ももらってないんだよ。」
 音枝にはぽんぽんいうくせに、当の進君が頭を下げると、安江は柔和な顔で五百円をわたしながら、
「あんたも困ってでしょうけどね、わたしんとこも困るのよ。お金のことより、部屋のことよ。早く鷲さんに相談して、さがしてくださいね。」
「そう思うていますけど、鷲さんになかなかあえんのです。ぼく、ここのところ、毎日のように行ってるんです。きょうもこれから出かけるところです。きょうは泊りこんででもあってくるつもりです。」
 今時の若い人に珍らしく、両手をついての切口上を聞くと、安江はつい慰めずにいられなくなり、
「ま、ここまできて日ぎりはしませんけどね、ことしうちぐらいには、さがしてくださいね。」
 しかし内心はおだやかでなかった。心と口先が一つでない自分にも気がついて腹を立てていたからだ。音枝がまたやってきて、
「おかあさん、進君の配給米、どうしましょう。」
「どうしましょうって、どうするのさ。」
「ここんとこ、ずっと立てかえなの。ちっとも払ってくれないんですもの。」
 安江はおもわずどなりつけた。
辛気しんきくさい娘だね。そんなこと聞きともないよ!」
 それなのに音枝はまたやってくる。こんどは音枝の方が辛気くさそうな顔をして、机に向っている安江に思わずペンをおかせた。
「おかあさん、兵六おじさんち、引っこしてるってよ。」
「なんだって。」
 居ずまいを直す安江に、音枝はたたみかける。
「引っこし先も、わかんないってよ。進君泣いてるのよ。」
「…………」
「かわいそうよ。うちの責任じゃないけどさ、ちょっと、なんとかいってあげてよ。」
「わたしがなんとかいったって、どうなるもんじゃないよ。」
 しかしほってもおけない気になった。応接間であった進君の部屋をのぞくと、長椅子にひっくりかえっていた彼の目は赤かった。おどろいてとび起きる彼と向いあった安江は、つとめて気やすく話しかけた。
「鷲さんち、引っこしたんですって?」
「はい。」
「あんた、あんなにせきせき行っていて、全然気がつかなかったの?」
「はい。――もうあとに別の人が移ってきていました。その人が、家、買ったんだそうです。」
「あきれたわねえ。――でも、そのうち通知がきますよ。それ、待ちましょうよ。おたがいに同郷で結ばれた間がらですもの、素知らぬ顔してるわけにはいかないんですからね。」
 だが鷲兵六からは、なかなか移転通知が来ず、七年たってしまった。七年目に、ながのごぶさたのわびとともに居どころをしらせてきたのは、ごく最近である。不思議なことに、安江の家の家族がひとりふえていた。浜子だ。安江は感きわまった声でそのハガキから目をはなさずに、
「田端だって。脇村方っていうんだから、へや借りなんだろうね。しかし、まったく妙な話だわ。あの人が現れるとうちの家族に異動があるのね。縁もゆかりもない浜ちゃんにまで、たとえハガキにしろ、ちゃんとくるじゃないの。気味が悪いね。」
「二三ちゃんなんて、どうしてるんでしょうね。」
 と、音枝は娘らしくそれも気になるらしい。
「しゃきしゃきしてたから、もう結婚でもしたろうよ。もしかしたら、その婿さんかもしれないよ、この脇村ってのは。ま、こうしてたよりがあったんだから、今に現れるよ。」
 そして、案の定現れた兵六さんは、尾羽おはうちからした姿で、しかも今度は自分自身を持ちこんできた様子だった。もう居まいと思ったらしい進君がまだいたことで、彼は頭をかかえた。
 しかし一応のいいわけをし、頭をさげたあとは、もうけろっとして、人をくったことをいう兵六さんだった。彼はまるで、多少とも引き立ててやった後輩にでもいうような口調で、
「じゃあなにかね、斎木さんはまだ卒業できないんかね。」
 それには答えず、苦笑している進君に代って安江は、
「何いってんですか兵六さん。あんたが罪なことをしたからさ。進君、泣いたんですよあのとき。安全だと思って預けた学資を全部あんたに持逃げされてさ。」
「はあ。」
 と、手ごたえのない兵六さんに安江はたてつづけて、
「はあじゃないですよ。進君の家でも、あれは、あとが続かないお金だったそうですよ。だからかわいそうに、進君アルバイトばっかりして、人が一年のところを二年がかりなのよ。」
「じゃあ、落第ってことですかい。」
「そうですとも。今更恨むのも時効にかかってるみたいで、進君だってもうあきらめてはいましょうけどさ、あんたに少しでも何とかできるなら、何とかしてあげてくださいよ。」
「そういうわけで……」
 安江はそのとぼけた様子をみるとはがゆさとおかしさで、口が軽くなるのを感じながら、
「まったくそういうわけですよ鷲さん。わたしんとこだって、あんたのおかげで、あれからずっと、部屋代無料奉仕ですからね。恩にきせるわけではありませんがね、そういうわけですよ。」
 安江は夏樹の年齢を思いうかべ、
「あれから、足かけ八年ですもの。」
と、八年に力を入れていった。だからこの上泊りこむなどとはいわないでほしいという思いをこめたのだったが、兵六さんはそうはとらないで、別の思いにつないだ。
「八年になるかいな、ほんに。八年たちゃあかきの木も実がなるというのに、あれから、わしは、することなすこと、みーんなはずれてしもてなあ。」
 ほうっと大息をつくのをみると、安江は気の毒になって、
「でも、ゆずは九年の花ざかりっていうじゃないの。元気出しなさいよ。来年は花が咲くかもしれん。」
 すると兵六さんは大きくかぶりをふり、
「いーや。柚の大馬鹿十八年ともいうじゃないか。わしゃあもう、そうは生きられんでなあ。」
 兵六さんの声はふるえ、頬を大粒の涙が走った。
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 浜子がきてもう一か月に近い。
「あなたがうちにいて、女中さんのする仕事でもいいというなら音枝を手つだって、ふたりでやってちょうだいよ。そりゃあね、東京なんて、あなたが田舎で考えていたような、生やさしいところじゃないのよ。あんたのような若い女のひとり立ちなんて、夢の夢なんだから。――もしも女中さんの仕事がいやっておっしゃるなら、これはもう、わたしの方で手をひくよりしようがないのよ。いなかへ帰ってちょうだい。それともうちにいて、玄関で手をついてお客さまをむかえるのでもいいというなら、音枝もやがて結婚しなくちゃならないんですからね、あんたのように気ごころのわかった人がいてくれるとたすかるのよ。」
 はじめに安江がそう申しわたしたことを、浜子は無言で承認したらしい。返事をしなかったのは、半分不服であったぐらいのことは安江も承知の上だったが、いずれそのうち、こっちの気持もわかるときがくるだろうとたかをくくっていたのだ。ところが音枝のいうところによると、浜子はかげで安江のことを、
「ここのおばさん、ずい分ひとりがてんなところあるわね。いくら小説家だってわたしの気ごころなんて、そうそうわかるもんですか。わたしはこれでも、自分の思ったことは貫いてみせますわ、きっと。」
 音枝にむかってそういったというのだ。
「すごいわよ。タイピストの学校にでもはいろうかな、それとも洋裁にしようかな、洋裁だと自信はあるけど、このごろはだれもかれも洋裁でしょ、いやんなっちゃったって。そしてね、どっかの事務員でも世話してくれるかと思ったのに、ここのおばさんて、ずい分不親切だってよ。幻滅をかさねるばっかりだって。」
 安江は声を立てて笑い、
「まあいいよ、いいよ。とにかく、こうなった以上は、うちに落ちつけるように仕むけてやらないと、ほんとに飛び出されたりしちゃあ、困るからね。」
 そして呼名も他人行儀なさんづけではなく、浜ちゃんと呼ぶことにしたのだった。夏樹には浜子ねえちゃんと呼ぶようにいいわたしたが、彼はなかなか聞き入れない。おとななみの呼び方で、
「浜ちゃん、水くんで。」
 食事の時、音枝にいうのと同じ調子でいう。浜子はすぐ反ぱつして、
「水ぐらい自分でくみなさいよ。」
「なんだア、水道に近いくせに。」
「あんたの女中じゃありませんよ。」
 音枝がさっと立とうとするのを安江はかた手で押えるようにしてとめ、
「夏樹、じぶんでくみなさい。」
 それは、これまでになかったふんいきだった。
 浜子はだれの許しもなしに音枝のことをおねえさんと呼んだ。それは親しさや尊敬の念からというよりも、年上だということから便宜的にそう呼んでいるだけのことで、もしかしたらおねえさんと呼ぶことで、この家における自分の地位を音枝と同じ線におこうとしているようにも見えた。それは音枝の新しいスーツができてきたときのことである。
「わたしもおばさんのこと、おかあさんて呼ぼうかしら。いけないかしら。」
 びっくりしている音枝に、
「だって、音枝さんだっておばさんとは他人でしょ。」
「血の上ではね。」
と、音枝は不きげんにいう。
「それでもおかあさんて呼んであげると、おばさんは母親の気になってスーツなんか作ってくれるんじゃない? そんならわたし、おかあさんて呼んだっていいと思うわ。スーツだけとくするもの。」
「あきれた浜ちゃん。そんなこと聞いたら、おかあさん、おこるわよ。わたしだって、そんな風にいわれるの腹が立つわ。」
「じょうだんよ。」
「じょうだんにしろ、いい気もちじゃないわ。」
 音枝が本気になっておこっているのに、浜子は相変らずのんきらしく、
「だって、うらやましいのよわたし。スーツなんて、まだもってないんですもの。何かのとき、貸してね。」
「…………」
「貸してくれるぐらい、いいでしょ。そのかわり浜子、あんたをおねえさんていうわ、きょうから。」
 それには音枝もふき出さずにおれなかった。しかし笑いながら、自分で「浜子」という甘ったれたいい方にいやなものを感じ、なんとなく警戒する気持で、
「そりゃあ、なんかの時には貸しますがね。浜ちゃんも……」
 お給金を少しずつでもためて身に合ったのを作りなさいといおうとしたのに、浜子はいきなりとびついてきて、
「うれし、うれし、わたし、おねえさんていうわ。かしてねおねえさん。約束。」
 いやおうなしにげんまんをしてしまった。そしてその翌日、
「おねえさん、浜子、おねがいなんだけど。」
 例の甘ったれ声でしなだれかかってきた。
「なによ。気持が悪い。はっきりおっしゃいよ。」
「ね、スーツ。」
 まだ音枝がそれを着て一度も出かけたことのないスーツを、浜子は貸せという。音枝はただあきれて、しばらくだまったまま浜子の顔をみていた。うんというのも業腹ごうはらだし、といってはっきりいやともいいかねる。もたもたしているそんな気もちにおかまいなく浜子は、
「ね、貸してくれるっていったじゃないの。」
 浜子はきょうの定休日を、それを着て出かけたいらしい。しきりとあまえかかる浜子に、音枝は気弱ながらもせい一ぱいの不きげんを顔にあらわして、
「いったけどさ、きょうはいやなんだけど。」
「どうして。」
「どうしてっていわれても、困るけど。あれ、わたしのいっちょうらよ。映画館なんかへきていかれるの、いやなのよ。」
 しかしそんなことぐらいで引きさがる浜子ではない。
「じゃあ映画みないわきょう。わたし、高校の時の友だちにあいにゆく。あっといわしてやりたいの。」
「じゃあ、とにかく母に相談してみる。」
 いいところへ気がついて立ちかかる音枝に、浜子はいち早くむしゃぶりついて、
「よして、音枝さん、おばさんにいわないで。ね、大事に着るからさ。ね、一時間だけ。それならいいでしょ。――三十分でもいい。十分でもいいわ。それもだめだなら、ここで着てみるだけ。身に合うかどうか見さしてよ。」
 それでもとは音枝もいいかねた。あのスーツがそんなに浜子の気に入ったのかと思うと悪い気もしなかったのだ。浜子はすぐ音枝の部屋からスーツの箱をとり出してきて、にこにこしながらスカートをはきはじめた。
「いいわね。ついでにブラウスもかりよう。」
 苦笑している音枝にはおかまいなく、勝手にブラウスを着かえてきて音枝の前に立ち、
「ほら、素敵でしょ。わたしの勘て相当ね。ぴったりよ。」
 だがそれは浜子の勘のよさではなかった。音枝の留守の間に浜子は勝手に洋だんすをあけて、目ぼしい服をみんな着てみたのである。しかも口ほどぴったりではない。音枝はそのことにほっとし、
「きゅうくつそうよ。ふとってみえるわよ。」
 いたいところをついたつもりでいったが浜子は動じない。
「うそよ。ぴったりって、こんなのをいうのよ。ひきしまって、気もちがいいわ。ね、ちょっとそこらへん歩いてきていい?」
 気どって玄関へ出ていった浜子は、今度は大声で、
「おねえさん、靴、かりるわよ。」
 音枝が返事もしないでいると更にきどった声で、
「いってまいりまーす。」
 十分がたった。それで浜子が帰ってくるとは音枝は考えていなかった。電車通りまで出かけていったとして、どうせしゃなりしゃなりとウインドに姿をうつしながら歩くとすれば三十分や五十分で帰れっこないと思い、最小限を一時間ときめてトケイをみた。十一時十分前だった。
 ――あつかましいったらないわ、ほんとに……
 つぶやきながら井戸ばたに出て、つけてあった洗たくものにかかった。どういうのか洗たくというとやたらいやがって、不きげんになる浜子のことを思いうかべながら、音枝はなんとなくやけくそな気もちで洗った。あした浜子の洗たく当番にはハンカチーフ一枚ものこすものかと、そんなことを考えていたのだ。ごしごしやっていると、台所で母のよぶ声がした。
「だれも、いないの――」
 音枝はとたんに、スーツのことはいうまいと決心しながら、
「はーい。」
 手をふきふき出てゆくと、まだねまきのままの安江はつかれた顔で、
「お客さまじゃないか。ベル、きこえないのかね。」
「そう。ごめんなさい。」
 わが家の客は大てい午後なのにと思いながら、ぬれたエプロンをはずして音枝は小走りに玄関へ出ていった。浜子である。きゃあっと笑いだす浜子に、いそがしく手をふって、
「しいっ!」
 浜子はとたんに笑顔を真顔にきりかえ、
「なあに。」
と、内しょ声になる。音枝も声をひそめ、
「おかあさん、今おきるとこよ。もうちょっと歩いてらっしゃいよ。」
「だめなのよそれが。あんたのくつ、いたくていたくて、水ぶくれになりそうよ、ほら。」
 くつずれのかかとをむき出してみせる浜子は、もう内しょ声をなかば忘れて、
「ね、わたしのくつはいていく。すまないけど、ばんそうこう切ってきて。」
 それも仕方がないと、音枝は奥へ引っかえした。安江がようじをくわえたまま洗面所から顔を出して、だあれ? という顔をするのへ、
「浜ちゃんなの。忘れものなのよ。――きょうは公休日にしてあげたの。」
 無事に浜子をおくり出してもどってくると、安江はきっとした声でいった。
「お前、浜ちゃんの召使いかね。」
「…………」
「じょうだんにしろ、ベルを押してあれとってくれ、これとってくれと、浜ちゃんも浜ちゃんなら、音枝はもっと音枝だよ。」
 その日いち日音枝は気が晴れなかった。浜子がもどってきたら、はっきりというつもりで、手ぐすねひいて待っているのに、浜子はなかなかもどってこないのだ。それにしても安江にいわれたことが、ひりひりする思いで浮んでくる。
 ――お前は三十だよ。浜ちゃんはまだはたち前なんだよ。年が上だからいばれとはいわないけどさ、ただあつかましいというだけのはたち娘に押されて、へいへいしてる手はないじゃないか。お人よしにもほどがあるよ――
 母の言葉はそっくりそのまま音枝の気持でもある。そのためによけいこたえて、音枝の気もちはひりひりする。しかし――と音枝はその母のいい分のもっとそと側で、もっとひりひりしているのだ。二三日前の夜だった。冬太郎や夏樹のくつしたつぎをしている音枝のそばで小説をよんでいた浜子が、急に本を伏せて、
「ね、音枝さんて、失恋の経験ある?」
 なんのこだわりもなさそうな問いだったので、音枝もつい気がるに、
「ないわよ。」
 すると浜子は少し小ばかにしたような笑顔で、
「へえ、いまどき珍らしいわね。」
「そうよ。わたしは箱入娘ですからね。失恋どころか、得恋もないわ。さばさばしたもんですよ。」
「へえ、わたしはまた、音枝さんて、失恋ばっかりしてる人かと思った。」
「あら失礼ね。なぜ。」
「だってさ、三十までも結婚しないんじゃあ。」
「得恋がないのに、失恋があるはずないじゃありませんか。」
「ふーん。そんなの、わたしはいやだわ。」
「そうさ。わたしだって、すきでこの年までひとりでいるわけではありませんからね。」
 そういったとたん、不意に音枝の目の先がくもり、針の手もとが見えなくなってしまった。
「あら、音枝さん、泣いてる。」
「泣かないわよ。」
 いそいで涙をふいて笑う音枝に、浜子は容赦もなく、
「さては、失恋?」
「よしてよ。」
「いいじゃないの。でも、音枝さんて、案外純情なのね。はやらないわよそんなの。」
「…………」
「やっぱり、戦前派なのね。でもそんなの、美しいなんて思わないわ。男が悪いのよ。ね、そうでしょ。」
 勝手なおくそくをする浜子の言葉を音枝はもう聞いてはいなかった。ただくやしいと思うのは、若い浜子などの前で、不覚にも涙などこぼした自分の馬鹿正直さであった。終戦という事実を一つのけじめとして、いっさいがっさいを忘れたつもりになり、父や母たちさえそれについては触れなくなっているひと昔前のことが、浜子の、一種の誘いにのって思い出されたことさえ音枝としては心外でならない。とはいえ、やはり音枝にとっては、今日となればなお更に大切な思いで心の奥にしまわれている、たった一つの青春のいろどりであった。
 それは、音枝が、学徒動員からひき続いて、女学校卒業後も勤めていた工場で出会った青年であった。軽い小児まひで左足がびっこなところから兵役を免れていたのに、その不具であることが最後にはいのちを奪われることにもなったろうと音枝は思っている。激しい戦いの日々、生きようとする熱意で音枝をささえていたものは、その小児まひの足をもった青年だった。どっちを向いても丈夫な足をもった青年などいなかった。しかしいたとしても、やはり、たくさんの男の中でやはりその青年を選んだにちがいないと音枝は今でも信じている。なぜなら、あれから十年たっているのに、その青年にまさると思う相手に音枝は出会えないではないか。
 工場の防空壕ぼうくうごうは少しはなれた裏山にあった。警報とともに、みんなは一目散にそこへ向ってかけつけた。身軽で足の早い音枝は、何人もの人を追いこして、まっ先に防空壕へとびこむのが得意だったが、ある時ふと、自分の前をつえもなく足をもつらせて歩いている青年をみて、思わず手をさしのべ、手近の壕へ引きずりこんだ。それ以来彼女は、警報が出ると彼を迎えにゆき、手を引っぱって走った。左手を肩にかけておぶって逃げたこともあった。彼の心臓の高鳴りが、汗ばんだ背中をとおして音枝の胸にひびいた。壕まで足がのびず、かや原にふしたこともあった。そしてあるとき、あらしのあとの静けさのような中で、ふたりは将来をちかい、ふたりだけで戦争を憎んだ。最後の日、音枝は彼をさがしあぐね、ひとりで逃げた。彼はついに壕へやってこなかった。逃げおくれたのであろう。直撃をうけて火災をおこした工場はあらかた燃えつくし、彼の姿は十数人の犠牲者とともに生きながら煙となったのだ。その身につけたものの片りんさえも見つからなかった。
 純情だの、失恋などと、なまやさしいことではない。浜子などに、いったところでわかるものかと音枝はひそかに力んだ。
 浜子はほんとになかなかもどってこない。それでも父や母の手前を、できる限りかばってやろうとしているのに、音枝のそんな心づかいなどおかまいなしで、そとが暗くなってもかえらないのだ。わざと三十分おくらした夕食のぜん立てをしていると、まっさきにはいってきた文吉が、
「浜ちゃん、どうした?」
 音枝はすこし不きげんに、
「公休日よ。」
 つづいて安江が座につきながら、
「おそいね、浜ちゃん。」
 すると音枝はへんに突っかかる調子で、
「いいじゃないの。たまのお休みですもの。」
 すると今度は、外で遊んでいた夏樹をよびにいった冬太郎が、夏樹と一しょにきゃあつくさわぎながらかけこんでくるなり、
「浜ちゃんは?」
 音枝はきゅっとまゆをよせ、
「みんな、かまうのね浜ちゃんを――」
「かまやしないよ。いないから聞いたんじゃないか。」
 不服に口をとがらした冬太郎は、つづけて、
「きょう学校の帰りにさ、友だちと一しょに銀座へ出たんだよ。そしたら四丁目で浜ちゃんみたいやつに出あったからさ――」
「ヤツとはなあに。」
 ぎくっとしたのをかくして少しきげんよくいう音枝の気もしらずに、
「ヤツだっていいよ。浜ちゃんじゃなかったもの。男の人と腕くんで、すまあして歩いてやんの。ぜんぜん似てたよ。」
「へえ。でもそれ……」
 人ちがいだろうといおうとしたのだが、今度は安江がそれをさえぎった。
「ごはん、ごはん。ぺこなんだよ。」
 音枝は何かを感じてだまった。
「浜ちゃんなんて、ぼくだーいきらい。いない方がいいよ。ね、おかあさん。」
 夏樹までがそんなかまいかたで一人前らしくいい、そしてしかられたあとは、もうみんな忘れたようにはしを動かした。しかしいつもとちがって何となく座がしらけているのは、女たちがそれぞれ気もちにわだかまるものをもっているからだと音枝は思った。一家が一しょに食事をするのは夕食だけなので、一日の笑い声もこの時におこる。それなのに、第一安江がだんまりでいるのは何となくこわい。あんじょう食事がすむと、安江は男たちの去るのをまっていった。
「浜ちゃんもどったら、すぐわたしの部屋へよこして。」
「はい。」
「よけいなこといわずにね。」
 そんな母に音枝は何となく反感をもった。
 十一時をすぎていた。神経がとぎすまされているらしく、表の通りを歩くくつ音で浜子を感じた音枝は、彼女が門柱のベルを押さないうちに、すり足で玄関にとび出し、さらにガラス戸をあけてまった。浜子のことだ、この夜中に、ただいまあ、とあたりかまわぬ大声をあげるかもしれない。そしたらおしまいではないか。スーツもなにもばれてしまう。一そのことばらして浜子を困らしてやろうかと思わぬでもなかったが、そんなことすれば余波はいつまでも自分にだけとび散り、はねかえってくることを思うと、お人よしといわれるのはもう沢山だった。それにしても、浜子はどんな顔をして帰り、なんといいわけするだろうと思うと、業腹ごうはらながらもある期待ももてた。とにかく音枝のつもりではせいぜい三十分ぐらいと思ったのが、十二時間も人のスーツをきて遊んできたのだ。借りる時のあのたのみ方から思うとどんなに頭を下げるかと、はじめに手ぐすねひいて待ちかまえていたことなど忘れて興味がわいた。母に内しょでスーツをぬがせることにも、スリルを感じる。それを押しかくして音枝は一足外へ出ると、近づいてくる浜子を門の方へ押しもどしながら、
「大きな声出さないで――」
 さすがに浜子もおどろいたらしく、
「どうしたの?」
「大へんよ。母が、すぐあいたいって。」
「いやだあ。」
「だからさ、大いそぎで着かえなさいよ。」
「おっかない。」
「しようがないわよ。あなたが無茶なんだもの。おこってるのよ、わたしも。」
 音枝はやっと母に、「召使いか」といわれた昼間の出来ごとを思い出していった。
「スーツのこと、いったのおねえさん。」
「いわないから、心配してるんじゃないの。さ、そっとはいっていって、三畳できかえなさい。ふだん着じゃあだめよ。あんたのよそゆきでなくちゃあ。」
「いやだなあ。」
 いつになくしりごみをしているような浜子をみると、音枝は珍らしく意地悪くなった。
「あんた、きょう銀座歩いてたでしょう。」
「あらあ。」
 しおらしく顔をあからめたらしい声だったが、くらやみではそれはわからなかった。
「みた人があるのよ。」
「おじさん?」
「ちがう。とにかく、覚悟していらっしゃい。」
 すると浜子はどんな覚悟をしたのか、音枝をふりきるようにしてさっさと家の中にはいり、そのまま安江の部屋に歩いていった。
「ただいま。」
 さすがに殊勝らしく手はついたが、おそくなりましたでもなければ、すみませんでもなく、
「なにか、ご用ですか?」
 けろりとした様子は弱味をみせまいとする勝気さである。五十女の安江も押されぎみだった。しばらくその顔をみていたが、スーツには気がつかないふりで、
「そうね、ご用とおっしゃられますと、困りますがね、実はあなたの顔をみたとたんに『ご用』がひっこんじゃった。」
「お説教だったんですか。」
「…………」
「その覚悟できたんですけど。」
「そう、お説教されるおぼえがあるの。」
「おばさんの主観でゆけば、なくもありませんわ。」
「むつかしい言葉知ってるのね。『おばさんの主観』て、なんですか。」
「皮肉をおっしゃらないでください。ほんとのことでぶつかるつもりできたんですから。」
「そう。じゃあ一つのことだけいいましょうね。ね、あなたが出かけるたびに、家中の者が心配しなくちゃあならないってことについて、浜ちゃん、考えたことある?」
「いいえ。別に。」
「そう。でもね、こんな風におそかったりすると、心配なのよ。東京ってこわいですからね。おたがいに心配かけないようにってこと、約束してもらえないかしら。」
「それよりか、おたがいに心配しないことを約束した方がよくないでしょうか。」
「ふーん。」
「そんな風に心配していただくの、いやですわ。わたし、やっと母の監視をのがれて、東京でこそ自由に暮そうと思ってとび出してきたんですもの。」
「そう。それは浜ちゃんの主観ね。でもね浜ちゃん、あんた今、だれのおかげ――っていうのもへんだけど、まあ、ざっくばらんにいえば経済力もそうね、それで暮しているの。自分だけの力だと思ってる?」
「おばさんのおかげっておっしゃりたいんですか。」
「いいえ、とんでもない。もちつもたれつ、みんなの力だと思ってますよわたしは。だから心配もそこから生れてくるのよ。そう思わない?」
「思いませんわ。それこそ人間の自由をしばる古くさい考えだと思いますわ。」
「そう、ほんとにそうだとすると、わたしは、浜ちゃんと一しょに暮せないんですがね。」
「わかりました。私、仕事さがしますわ。」
 厚い板戸でしきられている安江の部屋は静かだった。どれほどの時がたったか、とにかく心配になった音枝は、茶器をもってはいっていった。安江はいつもよくするくせの、机にかたひじついてあごをのせていた。それはくつろいだようなかっこうであり、ほおには微笑さえ浮んでいたが、音枝はすぐ事態を察した。あきらかにそれは相手に対する一種の虚勢とみた。微笑はあっても眉はくらい。浜子の方も開きなおったあとのみえをはったような作った表情で、
「どうもありがとう。」
と、中腰で茶をいれてくれる音枝に、大きな声で礼をいった。
「嵯峨沢のせんべい、あるかね。」
 安江は最近いった伊豆の宿でもらった名物の栗せんべいを思い出していった。
「ある――と思うけど……」
 さっと立ってゆく後姿へ、安江は、
「音枝もお茶わんもってらっしゃいよ。」
 その声にもやはり何かがあると音枝は思う。せんべいは三枚しかなかった。でもよかったと思いながら一つの菓子ざらにのせ、浜子と向いあった場所にすわると、安江が茶をいれた。
「これだけしかないのよ。」
 三枚のせんべいをまず浜子の方へすすめると、浜子はすぐ手を出す。そして、
「わたし、このせんべ、大すき。」
 しかし安江はだまって目を伏せている。音枝にとっては、いき苦しいふんいきだった。スーツのことを、いってみようか、そしたらみんなの気もちがほぐれるかもしれぬと思ったが、適当な言葉が見つからず、湯飲みを手にのせてぐるぐる回しながら、ざくろの絵をながめた。いつか母が旅行の途次、京都の有名な陶工にもらってきた湯飲みだった。焼き損じて口がゆがんでいるというのだが、ちょっと見には気がつかない。それを好きでもらって自分のにしたものだった。
「浜ちゃんの湯飲みも、きめなくちゃ。いつもお客さまのじゃあね。」
 ふたりの意をむかえるようにいうと、同じように湯飲みを両手ではさんでもっていた安江は、目を湯飲みにそそいだまま、
「もう、いいんだよ。」
 ぽつんという。静かだが荒い雲行だった。
「?」
 判じかねている音枝に、安江は低い声で、
「浜ちゃん、きょうからお客さまなんだよ。どっか、住込みのところで、仕事さがしてもらうことにしたからね。」
「あら!」
「その方が、いいってことが、話しあいでわかったのさ。」
 浜子が急に顔をおおって、泣きながら部屋を出ていった。
「音枝!」
 浜子のあとを追って立ちかける娘をはげしく引きとめて、
「ほっときなさい。お前じゃないんだから。」
「…………」
「大丈夫だよ、浜ちゃんて子は。音枝なんかより、よっぽどしっかりしてるよ。」
「だって、かわいそうよ。」
「その、かわいそがられるのがいやだというんだから。」
 浜子の泣声を聞きつけたらしく、二階の文吉が降りてきた。
「なんだ、一たい。夜中だよお前。」
「どうも、すみません。」
 安江はゆがんだ笑顔であやまり、声をひそめて、
「思い知らした方がいいかと思ってね。いま浜ちゃんにひま出したとこなのよ。」
「いま!」
「ええ、いま。あしたから仕事さがしするってよ。」
「かわいそうだよ、そいつは。」
「そうなのよ。でもそういう、はたの者の考えは邪魔だっていうんですもの。とにかく一ぺん、世間をみさした方がいいのよ。今もいったんだけど、十九でもね、音枝なんかより、よっぽどはっきりしてるわ。ある意味で感心してるのよわたし。うらやましいぐらい。あの子なら、なんとかやりますよ。あの神経の太さ、音枝の、まだ手をとおさないスーツをきて平気で出かけたんですからね。そして、映画館で手を握られた男と散歩したんですって。しゃあしゃあと私にそれをいうんですもの。わたしが心配すると、おばさんも昔、おぼえがあるでしょうって。しかも今は時代がかわってるって逆にお説教よ。スリルがあっておもしろかったんですってよ。わたしの心配なんて、てんでうけつけないんだもの。」
 文吉は声を立てて笑い出し、
「おいおい、相手は十九の小娘だぜ。」
 しかし静かなかたちで燃えあがっていった安江の興奮はなかなかさめそうもなかった。
「十九なことぐらいわかってますよ。でもね、五十のわたしより、とにかくはっきりしてるわ。そこへいくと音枝なんて赤ん坊よ。わたしだって赤ん坊扱いなんだから。赤ん坊はがまんができないものよ。わたしあした、あの子の母親に手紙かくわ。わたしの手にはおえませんし、わたしの目も届きかねますって。――どうしてわたしがこんな我慢をしなくちゃならないか、わからないもの。浜ちゃんだってそれをのぞんでるのよ。」
 次第に興奮をまして涙までうかべる安江に、音枝はすがりつくようにして、
「おかあさん、おちついて、血圧があがるわ。ね、浜ちゃんも泣いてるのよ。今度だけ許してあげて。ね。ね。おねがいだから……」
 眠れなかった安江は、朝方になって新聞をみだしてから眠気にさそわれ、ぐっすりねこんでしまった。目がさめるともう昼近くらしかった。出勤時間の自由な文吉までもう出かけたあとらしい。文吉の仕事はある小さな出版社が引受けている官庁の機関誌の編集だった。冬太郎も夏樹ももちろん学校である。ひっそりした家の中で、時計の音だけがする。浜子はどうしたろうとすぐそのことが頭にきた。ゆうべの言動が軽い悔いで思い出された。もう一度話しあってみようか。泣いた浜子にはやはり思い捨てられないものがあるような気がする。頭からどなってもよかったものを、大人顔して最初にかまえすぎて冷静を装ったのがいけなかったのかもしれぬ。
 ――浜ちゃんよ、おばさんゆうべ一ばん考えてね、やっぱりあんた、当分うちにいた方がよかろうって結論をひっぱり出したんだけどね……
 そんな風にきり出して、話の進行中、ことによったらどなってみよう。それで泣いたら、しめたものだ。彼女のようなはっきりものをいう女がうちにいるということは、音枝にしたって、彼女のねむりこみそうな青春を刺激されて、いいかもしれない。そうだ、そうだ。――
 安江はとびおきた。とび起きたりすることは医者からもとめられているのに、何事かあるとつい忘れてしまって、そんな風になるのが安江のくせである。きげんのよい顔で出てゆくと、ネッカチーフで頭を包んだ音枝がひとり、ほうきとはたきを前においたままけさきた郵便物の中からとり出したらしい婦人雑誌によみふけっていた。
「なんだよ、そのかっこう。」
「あら。だってさ、一分でもたくさんおかあさんをねかしとこうと思ってさ。」
 安江はじぶんの得手勝手をひそかに恥じながら、
「浜ちゃんわい?」
「職安へ、いったわ。」
「ええっ、もうかい。」
「だって、早くいかないと大変だってよ。進さんにたのんで、今日だけつれてってもらったわ。」
「ふうん。」
「神田橋ですってね。女専門の職安て。」
「ああ。音枝なんかも、少しいってみるといいよ。」
「わたしだっていきたかったわ。」
「行きゃいいのに。だれもかれも、みんないっちゃえばいい。」
 顔を洗うと安江は食事もとらずに不きげんな顔でふらりと出かけた。花屋であろう。
 白い菖蒲しょうぶをもって安江はふらりふらりと森の道をわが家の方へ歩いていた。菖蒲はみな花が開いていて、花としての魅力に乏しい。花やのおかみはそれをただでくれたのだった。
 ――今、仕入れにいってましてね、夕方にはいろいろはいりますが――
 小さな花やの店の中は、売れ残ってしぼみかけたカーネーションだの、ゆび先がちょっとふれてもくずれそうに開ききった芍薬しゃくやくだの、今安江のもっているような菖蒲だのと、もう商品にはならないものばかりが、新しい花のくるまでのつなぎの役で少しずつ残っていて、それがかえって店全体をだらしなく疲れはてて見せた。
「じゃあ、またね。」
 遠い方の花やへでもいってみようというつもりの安江の気持を見ぬきでもしたように、おかみさんは手早く三本の白菖蒲をぬき出し、
「あの、よろしかったら、これおもちくださいまし。きょう一日ぐらいはお役に立ちますよ、奥さん。」
 そういって、いわばこっちの気持におかまいなく持たされた菖蒲だった。ただだからというわけか、いつものように紙にくるんでもくれない。きょう一日ぐらいといった花やのおかみさんの言葉を思い出しながら、安江は気がめいるのをおぼえた。足の方も重たかった。ひとりで旅にでも出たいとふっと思う。それを打ち消すように文吉のことがふっと思い出され、さらに音枝をふくめての三人の子供たちのそれぞれがゆうべの浜子とのやりとりと思い合しながら浮んでくる。すきなことを好きなようにいいあい、一しょに笑い、一しょに泣く、その家の中のみんなの調子がこれまではいつも一つの基調に合っていた、――と安江は思う。ところが浜子はちがう。浜子に向ってはすきなことをすきなようにいえない。安江の調子があわないのだ。合わせる努力もしたくない。愛していないのだと、安江は思う。これはどうにも仕方がない。それにしても旅にまで出たいと思うのは、自分にひけ目があるからだろうか。調子の高い浜子の若さと太刀打ちする元気が、もうなくなってしまったのだろうか。
 いつか対浜子の思いに集中している安江のうしろに走ってくる足音がし、当の浜子の声で、
「おばさまあ。」
 びっくりして安江はくるりと向きをかえ、しらずしらず笑顔になっていた。浜子もまた何のこだわりもなく、
「ね、いま、電車の中でへんな男の人がいたのよ。わたしが降りたら一しょに降りたわ。わたし、走ったのよ。たすかった、おばさんの姿が見えて……」
 浜子はうきうきしている。安江がどんな思いをしていたかなど考えてもみない様子で、だからゆうべ泣いたことなど忘れたような明るい顔で、
「ねえ、ほんとにへんな人なの。電車がゆれてもいないのに、ぐいぐいわたしの方へもたれてくるのよ。しゃくだからわたしもぐいぐい押したのよ。そしたらね、こんどは手をにぎるのよ。心臓ね。」
 しかし、そのうわついた声はまんざらでもなさそうであり、その相手に何かまだ期待をもってでもいる様子でうしろをふりむきふりむきする浜子に、安江はうっと胸がつかえそうになる。その安江の無口を無視して浜子は更につづける。
「ねええおばさん、東京の男の人って、みんなそうなの?」
「そうなのって、どうなの。」
「だって、電車にのって、そんな目にあわない日ってないんですもの。」
 安江は仕方なく苦笑しながら、
「だから気をつけないとこわいのよ浜ちゃん。相手になっちゃあだめよ。あんたが押しかえしたりするから、一しょに降りてきたのよ。そんなときには、にらみつけてやらなくちゃあ。」
 すると浜子はふふっと笑い、
「大丈夫よおばさん、こう見えてもわたし、大丈夫なんですから。」
「なにが大丈夫なのよ。甘くみちゃあだめよ。」
「甘くなんかみてやしないわ。むこうで手をにぎるってのは、いわば一種の好意でしょう。それをにらみかえすなんて、おかしくて。――だからわたし、手をにぎられたとき、わざとにぎりかえしてやるの。損ですもの。」
 その不敵さにあきれながらも安江は、だまってしまうわけにはゆかなかった。少し茶化して、
「それも男女同権てわけ?」
 浜子はまたふふっと笑い、
「それもそうですけど、ほんとはわたし、男と女とがどんな風になっていくものか、その進行過程を知りたいんですわ。」
 それできのうも知らない男と腕をくんで銀座を歩いていたのかと、安江は暗然としながら、
「ね浜ちゃん、あなた今日の目的はなんでしたの。仕事さがしでしょ。わたし、心配なんですがね。あなたは心配しないでくれとおっしゃっても、今の話なんか聞くと、心配しないじゃいられないわ。あんた今、そんなことに気をとられててどうするの。仕事の方はどうなったの。」
 浜子はさすがにてれながら、
「でも、仕事はまだ、申込んだばかりですもの。二三日してきてみなさいって。」
 浜子は毎日、うれしそうに出かけてゆき、出かけると気が晴れるとでもいうように、明るい顔つきで帰ってきた。仕事はなかなかないらしく、「しゃくだから遊んできたわ。」などとおそく帰ることもあった。ひとり気をもむのは音枝である。
 コツ コツ と忍びやかなノックの音だった。しょっちゅう気をくばりつけている音枝のすることだと逆に胸にみる思いで安江は、
「いいよ。」
 すうっと戸があいて、ペンをおいてまつ安江に、
「おとうさん、おそいわね。お茶でもいれましょうか。」
「うん。そしてもうねなさい。十二時だろう。」
「ええ。あした、夏樹の遠足なのよ。さきねるわ。」
「なんだ、そんならほっといて早く寝ればよかったのに。気がねしいったらほんとに。」
「だって、今のさきまで浜ちゃんがおしゃべりしてて、やめないんですもの。もうぐうぐうだけど。のんきな人。――浜ちゃん、もうお友だちができたんですってよ。」
 声をひそめて音枝はいう。安江は思わずきつい目になり、
「男の?」
「女でしょう。だって職安の帰りに約束したっていうからさ。女子職安ですもの。――仕事が見つかったらその人と一しょに部屋かりるんですってよ。それまではここにいるって。そしてね……」
 ガガー とけたたましいブザーに安江も音枝もとびあがった。夜なかにはベルは鳴らさぬきめにしてあるのに、酔っぱらうと文吉はすぐそれを忘れてしまう。
「いやなおとうさん、きっと赤い顔よ。」
 すり足で玄関へ走ってゆく音枝のあとから安江も出ていった。案の定文吉は上きげんで、
「はい、おみやげ。」
と四角な包みを音枝にさし出す。
「またおとうさん、高いイチゴでしょう。」
「いいじゃないか。素直によろこべよ。」
 どすんどすんとわざとらしく足音立てて安江の部屋へ歩いてゆく文吉のうしろで、音枝は、これもわざとらしく、
「ご飯は?」
とささやく。
「いただきましょう。のり茶だ。」
 その背中をぐいぐい押して安江のへやへ押しこめてから、
「おとうさん、安眠妨害よ。少し静かにしてよ。」
「みな起きてるじゃないか。」
「夏樹も浜ちゃんもねてるわよ。」
 安江はふっとおかしくなり、
「夏樹や浜ちゃんは、ねむったら最後、おこすまで起きやしないけどさ、起きてる者の方がびっくりしますよ。あのガガーっての感じ悪いね。空襲思い出しちゃうわ。それでも浜ちゃんら起きやしないけど。」
「うん、その浜ちゃんだがね、今日会社へやってきたよ。」
「へえ。なんでまた。」
 安江の顔色が変ったのを、音枝は気づかぬふりで、
「でも、おとうさん、いなかったんでしょ。」
「よく知ってるね音枝はまた。」
 なんでそれを今までいわずにいたのかと、なじる思いをにおわせていうと、音枝はすぐそれを感じて、
「だって、さっき浜ちゃんに聞いたばかりだったのよ。おじさんにお昼ご飯でもごちそうしてもらおうと思ってたずねていったのに、おじさんたら、まだ出勤していないんだもん。少し早いには早かったけどねって。」
「へえ、なんだか、いやったらしい子ね。都会生活の、そんな面ばっかりあさりたがってるみたい。どういうんでしょ。」
「ああいうんだよ。まさに小説なんかの影響だね。お前さんにも多少の責任があるよ。」
「じょうだんじゃない。」
 ぷりぷりする安江と反対に、酔っている文吉はしごくごきげんで、
「おかげでおれ、ひやかされた上におやつをおごらされてね。会社の小さい女の子までが、おじさんすみにおけないのねなんていやがってさ。ところがおれさまの方はなかなか見当がつかなくてね。宮川、宮川って何十ぺんかくりかえしているうちに、やっと浜ちゃんを思いだしたよ。ほんとさ。宮川なんてお前、浜ちゃんとくっつかない姓だよ。まったく。あしたは一つ浜ちゃんに説教しなくちゃあ。」
「いやな子ねほんとに。末おそろしいわ。」
「そういったものであるまいさ。まっすぐいけばおもしろいよ。」
「わたしはこわい。あんたたちの知らないことも知ってるんだからこわいの。心配な娘だわ。はらはらさせられる――」
「そう気にやみなさんなよ。」
「やむわよ。でもこれは決してやきもちに類したものではありませんからね、誤解しないでください。念のため――」
「はい、うけたまわっておきましょう」
 なかばじょうだんのようなそんなやりとりにも、音枝はひとりはらはらしながら茶づけの用意をし、母と自分のためにはガラスのさらにイチゴをもった。大きな粒の立派なイチゴだった。にこにこしながら、
「はい、おまち、どうさま。」
 かよぼんのまま机の上におくと、それを合図のように文吉はかたひざ立って小窓をあけた。ひやっこい夜風と一しょに、大きな黒い影がぱたぱたと電灯をかすめた。蛾である。
「あっ!」
 三人は手当り次第の新聞や雑誌をもって追っかけた。部屋中に粉をふりまかれた上ようやくつかまえたのは、安江だった。新聞にくるんでねじもんでぽいと捨てながら安江はふいと浜子のことを思い出していた。
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巷の風


 国電田端駅の階段をゆっくりと上ってゆく兵六さんの足もとは、どうみてもさだかではない。ふらりふらりと、階段の壁につかまるようにして歩くさまは、見ようによってはまるでそこらで一ぱいひっかけた人のような悠長さにみえるが、追いこしてふりかえってみたとすれば、虚無とつながる深い悲しみのような表情に人々はおどろくにちがいない。といっても、あとからあとからと上ってくる人たちは、だれひとりふりかえりはしなかった。その限りで兵六さんは自由であり、だれに気をつかうでもなく、心の限り悲哀にひたることも出来たし、虚無に身をまかせることもできた。これがラッシュの朝夕ならば、いくら兵六さんでも虚無になど身をまかせるどころではあるまい。うかうかしていれば、あとからあとからの客にせりのけられ、追いこされざまはねとばされ、そのはずみに階段をころがり落ちてそこでまた念入りにふんづけられたり、けとばされたりさんざんな目にあわぬとも限らぬ。年よりにとってはおそろしい時刻である。だから兵六さんは、もっとも安全なこの時間をえらんで、わが家に近いこの駅に降りたったのである。とはいえ彼は、この足でまっすぐにわが家へ帰る意志はない。女房のおせいがこわいのだった。娘の二三子にも気がおけた。彼は一分一秒でもおそくわが家に帰りたいのだ。しかし、そのためだけにのろのろしているわけではなかった。その、かたつむりのような歩きぶりが、今の兵六さんの肉体的条件にもあっていたのである。
 ――うん、よいしょ――
 前後にだれもいないとみると、兵六さんの口から思わずうなるようなつぶやきがもれる。
 ――うん、よいしょ――
 立ちどまって汗をふく、その顔とおでこに、大きなかすり傷が、あかぐろいあとをのこしている。しかしそれがのろのろの原因ではない。そのかすり傷をもふくめて足にうけた打撲傷だぼくしょうが兵六さんをうならせ、のろのろさせているというわけだ。その怪我を彼はわが家の近くでしたのである。今でこそ傷あともかわいているが、怪我したすぐあとの形相ぎょうそうはよほどすさまじかったらしく、気強い彼の女房も、戸板にのせてかつぎこまれた時にはおろおろした。兵六さんの顔は血まみれだったのだ。
「おとうさん、しっかりして!」
 娘の二三子もしんけんな声ですがりついた。そんな妻や子の様子を、その時の兵六さんは身にしみる思いでかみしめながら、やっぱり親子だと涙ぐんで感激したのだったが、医者がきて、大したことでないのがわかると、おせいも二三子もすぐ態度がかわってしまった。
「人さわがせったら、ありゃしない、ほんとに。はずかしくて、近所へ顔むけもできやしない。」
 おせいがぶうぶういうのはまだよいが、二三子ときたら、戸板にとりすがった情熱を裏がえしにしたようなことをいった。
「おとうさんて、ほんとに、あきれかえって、ものもいえないわ。男のくせに、大げさったら、鼻血ぐらいで戸板にのってくるなんて、けいべつするわ。いやったらしい――」
 すると兵六さんは、母親にしかられていいわけをする子供のような気弱さでいいわけをする。
「何も、わしが戸板にのせてくれというたわけじゃあないさ。近所の衆がよってたかってのせてしまったんだよ。みんながね、よってたかってさ。」
 その日兵六さんは、夜おそく家の近くまでたどりついてから、急に思いきって、道ばたの一ぱいのみやのなわのれんをくぐったのであった。朝出がけに、女房の前で大きな口をきいた手前、素手すでで帰ってゆくわが家の敷居が高くてならず、そこをとびこえるための手段であった。出かけた目的はいうまでもなく金策である。
「お安さんとこへゆけば二万や三万いつでも出してくれるよ。あ。出してくれるとも。出してくれるわけがあるんだからね、わけがよ。ああ、大丈夫だ。まかりまちがっても五千や一万はにぎってくるからな、ああ、大丈夫だとも。」
 生来のくせで、そんな風に安うけあいをして出かけたのだったが、安江夫婦はいず、音枝に泣きついた。
「音枝ちゃん、すまないけど、あしたまで百円かしてもらえんかね。財布をおっことしちゃってね。」
 音枝はそれをまにうけて五百円札を一枚さし出した。すると夏樹までが箱根細工の貯金箱をもち出してきて、
「兵六さん、ぼくの十円貯金もあげるよ。ね、三百二十円だよ。郵便局へもってかないでよかったね。これみんなあげるよ。」
 その時にも思わず涙を浮べた兵六さんであったが、それだけの金では話にならない。ままよとくぐったなわのれんは小気の兵六さんをすっかりいい気持に酔わせ、女房が何でエー! と猫背をのばして外に出たのだが、とたんに走ってきた自転車につきとばされてしまった。ぎゃあっというような悲鳴をあげてぶったおれたあとが、大げさな戸板さわぎになってしまったのだ。兵六さんとしても思いがけないなりゆきだった。それなのに二三子は容赦なくいう。
「鼻血出して戸板だってさ。ばかばかしいったら。これがわが父親かと思うと情けないわよ。」
 おせいはおせいで翌朝になってもまだ手をゆるめずに、ねまの中から夫を責め立てた。
「よくもまあ、身のほども考えずに一ぱいのんだりするわね。男ってほんとに、働きがなくなってものみたいんだからね。一たいそんな金、どこにあったの。まさか、お安さんにかりて知らん顔してるわけじゃないでしょうね。」
「そうなら、どうだっていうんだ。」
「どうもいやしないわよ。出しなさいよ。」
「お安さんは、留守だったっていったじゃないか。お前でも、二三子でも、人を疑うことより知らん。」
「うそばっかりつかれてきたからですよ。」
 するとおせいと一つぶとんにねている二三子がすぐ母親に加勢した。
「ほんとよ、このごろのおとうさんのいうこと、一つだって信用できやしない。大きいことばっかりいってさ。何さ、きのうなんか二万や三万へっちゃらだっていったくせにさ、千円もできないでじぶんだけは一ぱいのんで、おまけに戸板でもどってくるなんて――」
 兵六さんはふっと大いきをつき、
 ――働きのないというのは、情けないこっちゃ、女房子供が馬鹿にする……
と、つぶやいた。それをきくと彼の女房はねたままいきり立って、
「馬鹿なことばっかりするから馬鹿にするのさ。働きがなければないように、えらそうなことはいわんでください。ふらふら出歩いてばっかりいないでさ、うちの飯たきでもしてくれりゃいいのよ。毎日出かける電車賃だって、月にすりゃ五百や八百いるんですからね。いつもかつも、そのたびに、やれ今日はあてにしてまってろだの、二万三万へっちゃらだのと、いいことばっかり聞かしては私の財布からくすねていくじゃないの。ばかばかしいったら。」
 兵六さんはまた大きなためいきをし、しかし妻や娘の前に小さくなったような様子で、
「ああ、ああ。死んで戻った方がよかったんかなあ――」
 それを聞くと彼の女房は、ぱっとはねおきざま、どなりつけた。
「また、ばっかなことを。あんたが死んだって、うちじゃあ葬式も出せやしないんだからね。」
 昔は言葉のていねいなのがじまんだったおせいも、こうなるとむき出しなのは言葉だけでなく、ねまきの胸まではだけたおぞましさである。若い二三子はさすがに恥じているらしく、ねたまま手をのばして母のむき出しのひざをかくしてやりながら、小声で、
「おかあさん、となりへきこえるわよほんとに、みっともないったらありゃしない。」
 自分も同罪なことは忘れて、部屋借りの身の肩をすぼめる。
 それをしおにおせいも二三子も起き出した。兵六さんは、ゆうべの怪我で足もくじいていることをいおうとしたがやめた。しかられるにきまっていると思ったからだ。ここまできちゃあ、もうめったなことにはためいきも、ぐちもいえない。女房にいろいろいわれてみれば、それはもう何もかもその通りだからである。しかし、それだからとて、ああまでいわなくてもという気は、心のどこかにあった。女房や娘が起き出すと、ひとりになったへやで、彼はじぶんひとりにつぶやいた。
 ――夫婦、親子じゃないか。もっとやさしい言葉はないもんかいな。せめて怪我の軽さを喜んでぐらいくれてもよかりそうなもんじゃないか――
 すると、じぶんのうそに何にもいわずに五百円札を出してくれた音枝のことが思い出された。
 ――あの半分のやさしさがおせいや二三子にあったらなあ――
 そうっと腹巻に手をやる。夏樹のくれた小銭のちゃらちゃらはゆうべのんでしまったが、五百円の方はそのままそこにひそんでいる。それを、女房に渡そうか――と思ったとたん、けんのある声で、
「おとうさんご飯。さっさと顔洗いなさいよ。今日はわたしも二三子も外出ですからね。」
「どこいく。」
「わかってるでしょう、二三子は職安。わたしはよその洗たく。――まったく苦労するわよ。」
「おれも、中野へいって、も一ぺんお安さんにたのんでくるよ。」
「どうでもいいわよもう。人のふところあてにしちゃあ損してるんだから。ゆうべのお医者の払いだって、どうせ三百や四百とられますよ。」
「それぐらいなら何とかなるよ。」
 ぽんと五百円をなげ出すつもりだったのに、彼の女房はそれをさえぎるように、
「へえ、なんとかできるの。甲斐性かいしょうがあるならやってよ。」
 そこで兵六さんはまいまいつぶろのように自分にこもった。ここで女房をへこますのは造作もないが、あとがこわい。一時の満足で女房に恥などかかそうものなら、当分は晩めしの苦労を覚悟せねばならないからだ。彼は気弱さを誇張して、別のことをいった。
「昼めしは、おれひとりか?」
「そういう勘定になりますね。どうぞ甲斐性次第で、すしなとうなぎなと、一ぱいのみなと。だめならそばなとうどんなととって。」
 そのくせ食卓は朝からにこみうどんだった。のびたうどんをもっそりとたべながら彼は考えていた。
 ――おせいや二三子が出ていったら、こうやくを買ってきて、くじいた足にはってやろう。ついでにうまーいうどん食ってこうかな。五百円、出さなくてよかった……
 しかしこうやくも買いにゆかずに、その日いちにち兵六さんはねてくらした。古だんす一つで、そのたんすのうしろにちゃぶ台がしまってあるほか、家具らしいものの何もない六畳の部屋はひろびろとしている。部屋がりの肩身せまさなど、とっくの昔にどっかへ忘れてきてしまって、今はただ、目の前に口のやかましい妻や娘がいないというだけで、しんしょう持ちになったような気さえする。その上、内しょの金が五百円ある。それはどれほど兵六さんを気強くさせているかしれない。彼は時々その五百円札をとり出しては、その青っぽい紙ぎれにながめいり、得意のひとり言をいう。
 ――食わにゃ米一升、使わにゃかね一両か。昔の人はうまいこというわい。まったく、食わにゃ米は一升でたくさんだ。銭じゃとて、使わにゃ、きょうび五百円一枚で結構。ただこいつがいつまでもあるもんならなあ――
 しかし翌日になると、その五百円を使うつもりで、彼はおそい朝めしをすますなり、出かけた。出がけにおせいは、
「そんな顔してどこへ。」
「医者だ。」
「医者? お金は?」
「中野へいって、お安さんにたのむんだよ、医者を。」
「そんな顔して、中野まで恥さらしにいくのオ。」
 その顔のために、今日は家にいてもらいたいらしい口ぶりだった。近所の手前もその方がよかった。しかし兵六さんにすると、そういうおせいのそばにいることがつらいのだ。それにくじいた足はやはりいたむ。思いきってこうやくだけははらねばと思う。中野へいったような顔をして五百円を薬屋でくずして、久しぶりに映画でもみて、みんなのねたころもどってくる。――そう思うとうきうきしてきた。彼はまことしやかにいうのだった。
「中野にきょうあたりこいといったからな。こいという日にいっとかんと、わるいもんなあ。」
「なにが悪いもんか。借金にくる人間をまってる人はありませんよ。それがほんとなら、一筆かいて、二三子にもたしてやればいい。」
 だが彼は、おせいや二三子に中野へゆかれるのは困る。つくろいつくろっているさまざまなうその皮が、みんなはがされそうでいやなのだ。安江たちにそれを見ぬかれているならいるでやはりいやだった。兵六さんのそんな都合のよい考えとは別に、二三子は二三子の考えで、両親の得手勝手をはねつけた。
「ごめんだわ、借金のつかいなんて。第一わたしはあの小説かきのおばさん、だーいきらい。感じが悪いったらありゃしない。えらそうな顔して、いつだって、なんかかぎ出そうとしてるみたいよ気持のわるい……」
 とはいうものの二三子は、子供の時以来、最近ではたった一度しか安江にあっていない。そのたった一度の出あいが、三日も家に帰らぬ父をさがしにゆき、しかもゆきちがいに父が帰ったあとだったために、なりゆき上いいたくない事情も打ちあける結果になってしまったのだ。
「――わたしたちの不幸はみんな父に原因があると思いますの。父だって母にがみがみいわれていやかもしれませんけど、みんな父がまいた種ですもの。つらいのは母ですわ。わたしだって同じですわ。今となってはもう父に何も求める気はありませんの。父がそのつもりになってくれて、はっきりと別れてくれればいいと思いますの。女はなにをしてでも暮せますもの。母にしろわたしにしろ、女中の口ならいくらもありますわ。わたし、いつもそれをいいますの。母もその気でいるんですよ。めいめいが自分のからだ一つに責任をもちましょうって。それには一家を解散するしかないと思うんですけど。それでね、まず身軽なわたしが出てゆくからって宣言しましたらね、父はむっつりして、出ていったんですよ。これが、おこって出ていったのなら心配しませんわ。ぺしょんとしてたもんだから、余計な心配しましてね。そしたらこちらでのうのうとしてるなんて、まったく父って、なにをしても無責任なんですもの。いやんなっちゃう。こうとしったら、今度こそはっきりしますわ。」
「一家離散?」
「ええ、だって、ひどいんですもの。」
「でもねえ二三子さん、あんたほんとに、おとうさんだけに原因があると思う?」
「…………」
「ね、世の中を見まわしてごらんなさいよ。」
 当然同調してもらえると思っていた二三子はびっくりしてしまった。小説家だなんていってるくせに、なんて古くさい、ありきたりの、そのば限りをいうのだろうとあきれた。それは安江などにいわれなくても、世の中が悪いぐらい二三子にもわかっている。しかし父のように、デフレデフレと、何もかもデフレのせいにしたってはじまらないではないか。そんな世の中だからこそ一家離散もしようというのだ。それなのに安江は、よく知りもしないで、甲斐性なしの父に同情し、
「なんといっても、あなたのおとうさんですからね。そのおとうさんをおっぽり出してどうなるの。」
 しかもそのあげく、古着を出して包んでくれたのだ。母への羽織と、音枝のらしい新しい半そでのセーターだった。それも腹が立った。下町っ子だと自認している二三子には、音枝なんぞと好みがちがうという誇りもあった。そのくせ、セーターは結構まにあって今もそれを着ている。その時のことを思い出しながら、
「おとうさん、中野なんかへいってると、ろくなことないわよ。」
 あがりがまちに腰かけて靴をはいていた兵六さんは、さすがにむっとした。
「なんだって。」
 わが子ながら不敵なことをという顔へ、二三子は負けてはいずに、
「だってさ、なにさあれ。くそおもしろくもない小説なんぞかいてさ。わたしいつかよんだけど、ちっともおもしろくなかったわ。」
「それがろくでもないことかよ。生意気いうない、生意気を。」
 すると今度はおせいが口を出した。
「おとうさんはね、お安さんのことを義理の妹だって、じまんにしてるんだよ。むかーしさ、お安さんの姉とかけおちまでして夫婦になったっていう間がらだからさ。」
 忘れていたことを思い出していうと、二三子はふき出して、
「あらいやだ。ほんとう? おとうさんにもそんな昔があったなんて、うそみたい。見直してあげたいけど、もうだめだ。」
 ひやかしとも、侮辱ともしれぬ言葉のあと、
「でもねおとうさん、いくらおもしろくない小説でもさ、小説家なんておっかないわよ。あんまり哀れなかっこうしていったらさ、小説の種にでもされるのが落ちよ。おおこわい。」
 兵六さんはもう聞かないふりで、一たんはいた靴をぬぎ、きたない板裏草履とはきかえた。くじいた足のくるぶしがはれているらしく、いたかったからだ。通りへ出て、薬屋へよった。予定の通り五百円でつりをもらい、その場でくるぶしにだけこうやくをはった。びっこひきひき駅の方へと歩いてゆくと、白い布にのばしたこうやくは熱をもった皮膚にしみて気持がよかった。彼は途中の、常磐線のガードまでくると、草土手の青さに吸いよせられるようにのぼってゆき、腰をおろすと、あたりをうかがいながら、ズボンをこきおろした。腰にもこうやくをはってやりたかったのだ。そのひそかな作業がすむと、彼はあらためて土手にあおむけになった。空も青い。そのまま大きく呼吸をした。猫背がのびそうな気がした。彼はふっと二三子の言葉を思い出した。――小説家なんて、おっかないよ――。まったくだと思う。しかしそのおっかなさは二三子のとは少しちがう。おっかないというよりも、けむたいのだ。
――だがね、音枝ちゃんはいいよ。ありゃいい娘だ――
 お得意のひとりごとである。さらにつづけて、
 ――夏樹という子はもっといいや。十円貯金、さらけ出してくれたもんな――
 彼は急に起き上った。予定を変更して、やっぱり中野へゆこうと思ったのだ。
 高田馬場で乗りかえた私鉄を野方という駅でおりるともうお昼に近かった。商店のならんだ通りを歩いていると、軒に大きなちょうちんをぶら下げた支那そばやがあった。いつもいつも飯時をねらっているような訪問を思い、せめてきょうなと腹をつくってゆこうと、のれんをくぐった。ふところにはまだ三百五六十円はあるはずだ。時刻のせいか客は一ぱいで、たった一つだけそれも若い女の先客がいる小さなテーブルがあいていた。かまわず腰かけると、
「あらっ、こんちわ。」
 思いがけなさに兵六さんはとびあがった。浜子である。
「おお、お安さんちの、女中さんよな。」
 浜子は不きげんをあらわにして、
「おじさん、顔、どうなさいました。」
「ああ、ひどいめにあってね。むちゃくちゃだまったく。町のかどで出あいがしらってやつさ。むこうも自転車、こっちも自転車。しかしむこうが違反さね。ベルも鳴らさずに右側をやってきたんだからさ。ところがこっちゃあ年よりだアね、おっぽり出されてやっとこすっとこ起き出した時にゃあ相手の若いのは雲をかすみさ。自転車は借りものときてらあ。ひん曲って目もあてられねえ。ああ、まったく貧乏くじひいたよ。――」
 いつものくせの、くりかえしもなく、すらすら流れ出す話の筋に満足した顔で、
「ところで、お安さん、今日いるかね。」
「さあ、いるでしょ。わたし、昼間はあすこにいないのよ。」
 そう気安そうにいってもらいますまいという顔だ。
「ほう、ひまとったんかね。」
「いいえ、わたしはじめっからおいてもらってるだけですわ。そのうち、部屋かりるのよ。」
「じゃあ、おつとめかね。」
「ええ、まあね。そのうちもっといいところへかわるつもりですけど。」
「ほうお。うちらの二三子もしょっちゅう職安へいってるがね。どっかないかね。」
「今はなかなかね。でもわたしはありそうよ。栗本のおじさんの会社よ。本屋さんなの。」
 だれに聞けというのか、ふたりともいい気持そうな大声だった。注文聞きにきた小女が笑いながら、
「なににいたしましょう。」
 兵六さんは急に気を大きくして、
「五目そばだ。おねえちゃん、おごるよ。」
 浜子の名前を思い出さぬらしくいう。
「わたしは冷たいのたのんだわ。――ほらきた。失礼しますね。」
 浜子はさっさとたべおわり、さっと立ち上って、
「ごちそうさま。わたしがここにいたこと、栗本さんでいわないでね。」
 腹ができるにしたがって兵六さんの顔は急に元気づいてきた。腹のせいだけではなく、浜子としゃべっているうちに、思いがけなく、安江に泣きつく筋書きができたことでも、彼に一種の自信みたいなものをもたせたらしい。
 ――ようし、一万は大丈夫だ。まかりまちがって半分としても、御の字じゃないか。一つ、あいつらにたたきつけてやらにゃあ。金でつらはるってやつさ。……いやしかし、みんな出しちゃあいけない。多少は秘密財源というやつをもっとかんとな――
 五目そばをたべながら、彼はもうその金をにぎったような気になった。だから彼はいい気になって、
 ――怪我の功名とはこのことか。へっ、おせいも二三子も、びっくりするぞ。一万円か。お見それいたしましたと一言あいつらにいわさんことにゃ、兵六さんの顔がたたんというもんじゃ。ようし、こんどこそ一つ、うまくやるぞ――
 びっこひきひき、兵六さんはにやにやした。音枝や夏樹のおっとりとしたやさしさにあこがれた彼の気持は、今ではすっかり変ぼうして、一万円のとりこになってしまっていた。妻や娘への意地なのだろうか。それが男の意気地だと思っているのだろうか。
 安江の家は駅から歩いて十分余りの所にあった。バスにのればふた丁場だ。半丁場は引っかえしになる。彼はそこをびっこひきひき歩くことにした。歩いた方が、芝居になると思ったのではない。歩きながらなおよく案をねろうと思ったまでだ。ここのところ何度かきている町はもうなじみになり、近道もおぼえていた。夏樹のおかげでもある。バスの通る大通りをさけて、それに沿った小道をとった。小石がごろついてびっこの足につらくあたる。いつも子供らの遊び場らしい神社のわきまでくると、戦争ごっこの遺留品だろうか、ちょうどつえによい棒切れが落ちていて、あたりに子供はいない。拾って身をよせると、わずかな棒切れがびっこの足をなぐさめた。彼はひょいと子供の時のことを思い出した。けんかに弱かった賢一という朋輩が、力の強い徳蔵のみけんをわったことを思い出した。きのうのような近い記憶で、半世紀も昔のそんなことを思い出したことで、彼は思わず額に手をやった。もういたみはないが、右のほお骨からおでこにかけての傷あとはまだひきつれている。
 ――この傷も、きょうは一役か――
 そう思ったとき、どっかから急に現れた子供の一団の中から、ひとりだけがかけ出してきた。
「兵六、おじちゃーん。」
 夏樹である。兵六さんはいそいでそれまでの表情をあらためて夏樹をむかえた。
「どうしたの兵六さん、顔?」
 しんけんな案じ顔に、兵六さんの気もちはへたへたとなった。
 兵六さんのわざとのろついた足どりにあわせて、夏樹はその右がわによりそって帰ってきた。ガガーと、客をしらせるベルを鳴らしておいて、出てきた音枝に興奮した声でいう。
「兵六さん、怪我したんだよ。年よりにけがさしといて逃げたんだってさ。ひきょうだね。」
「どうしたんですか。」
と、音枝もまゆをよせ、
「いつ、どこでですの。」
「おととい――の前の晩かな。」
「あら、おとといはうちへきましたよ。」
「あ、そうか、その晩だ。その帰りだ。」
「いやだわおじさん。気をつけてくださいよ。足もですか。」
「いやあ、なに。怪我の方はわしががまんすりゃあすむがね。すまない、厄介なことができてね、まったく。」
 兵六さんはるるとしてその自転車衝突事件をのべたのち、
「なにしろいたいのは足じゃなくて、自転車の弁償ですよ。自転車のね。そいつが人の借りものなんでさあ、人のね。貧すりゃ鈍するっていうが、あんたがぼやぼやしとるっておせいにゃしかられる、借りた大家さんは渋い顔する、一そのこと自動車にでもはねられて即死した方がよかったかしらんと……」
 あとの方は泣きべそをかきながら、玄関の式台にかけたまま横をむいて目をこすった。
「ま、ま、おじさん、とにかくおあがんなさいよ。」
 招じながら音枝はふと疑問を感じた。ここからの帰りに、どうして自転車にのったのだろう? しかし、れっきとした証拠の傷あとはうたがいをふっ消すのに十分だった。びっこまでひいているではないか。それで無心にきたのだと思いながら、
「自転車って、高いんでしょ。一万円以上じゃない?」
 すると夏樹がそれに答えた。
「一万円なんて、馬鹿だなあおねえちゃん。ぼくの買いたい子供自転車だって、一万円だよ。」
「あ、そうか。」
「おとなのなら二万円ぐらいだよ。ね兵六さん。」
「さあね、二万円に近いだろうね。」
 案外、けろっとしている。音枝の関心ぶりにほっとしているのかもしれない。
「それで、どうしますのおじさん。」
 心配顔の音枝に、
「実はね、それで相談にきたんだがね。おかあさん、いるかね、おかあさん……」
 彼はもうすでに浜子や夏樹に聞いて知っていることをまた聞いた。
「いますけど。困ったわ。母は今面会謝絶で急ぎの仕事をしてるのよおじさん。ですからこの話、四五日まってくださいな。わたしからよくいっときますから……」
 そういう声すら内しょでいう音枝に、兵六さんはいつになく強気に出た。
「そうかね。そいつは困ったね、そいつは。そうなると、親子三人追い出されるんだよ、親子がね。ああ、部屋の権利金と差引いてもいいなんて言やがってね。つまり、出てけってことさね。しかし、何といわれてもこっちが自転車かりたんだから、しようがないやね。必ずきょう中に都合つけますって約束したんだよ、約束をね。男の約束をね。――そんなわけだ。音枝ちゃん、一つおかあさんにたのんでくださいよ。兵六一生のたのみじゃ。一つ、助けると思って――」
 手をあわせておがまれて音枝はますます困った。
「でもねおじさん、困るのよわたし、あとでしかられるのよ。おじさんにいってもわかってもらえないかもしれないけれどね、仕事中母はとっても気むつかしいのよ。ごはんまで部屋で、ひとりたべるくらいですもの。ね夏樹。」
 夏樹に応援を求めると、気のよい夏樹は、そのときもうすでに夏樹なりの気をつかって、
「じゃあさ、おねえちゃん、銀行でお金とってきてあげれば。」
 一かどの意見のつもりらしい。音枝はあわてて、
「なにいってんのよ。そんなお金、ありゃしない。」
「うそだ、うそだ。おねえちゃんいつだって銀行へいってさ、もらってくるじゃんか。」
「だって、それは、小切手なら一たん銀行へ入れないととれないからよ。それに、おかあちゃんにだまってなんか、お金だせないのよ。」
「ほうらみろ、あるじゃないか。おねえちゃんていつもケチなんだ。でも、おかあちゃんはケチじゃないよ。もうせん、みんなにお金おくってあげたもん。そいでね――」
 いつか安江が、病気の貧しい姉と、やはり病気の友人と、結婚するという姪とに同時に現金書留を送ったときのことを夏樹は思い出していたのだった。偶然その場へとびこんで、五千円ずつ、一万五千円の金が目の前でなくなるのをみたとき、彼はおしんだのである。
「おかあちゃん、損するね、ぼくんちのお金、あるの。」
 すると安江は、
「あるさ、お金なんて日本中、どこの銀行にも一ぱいあるよ。――だからね夏樹、そんな惜しそうな顔するもんじゃないよ。お金なんてものは、ひとりでかかえこんどくものじゃないんだからね。あるものが、ないものにあげるのよ。おぼえとき――」
 正直いってそのときの栗本家の銀行預金の帳じりは六千五百何十円かであった。六千五百円が残っているというのはまだ珍らしい方で近くそれも出払う予定になっている。出し入れの係はもちろん音枝である。音枝は時々、栗本さーんときれいな声で呼ぶ銀行の窓口の女の子にはずかしくなることがあった。つまり、六千五百何十円を、たまには次の小切手預入までもちこたえたいのだ。そうでなければ、せめて五千円だけ出して千五百何十円かでも残しときたいと思う。ところが、栗本家の財政は文吉のサラリー日がまちきれなくて月中こすと五百円の半ばを残すことさえできない。四十五円などという帳じりは毎度のことだった。しかし入れたら三日目には必ず出払ってしまうそんなからくりなど、七歳の夏樹にわかろうはずがない。彼にとっては、一万五千円を人にくれてやった母の度胸を日本一の金もちと思い、自分を金持のむすこだと思っているのかもしれない。だから彼は、安江のいい分を、やすやすとうけつぎ、実行する立場に自分をおいこんでしまった。
「ね、ぼく、おかあちゃんにそういってきてあげる――」
 安江の部屋へゆこうとするのを、音枝は素早く引きとめ、
「だめ。だめよ、おかあちゃん、仕事できないとしかられるわよ。それにさ、ほんとにうち、お金なんてないのよ。うそかほんとか、いま、銀行の帳面みせたげる。」
 兵六さんにも聞いてもらいたくていうのだが、夏樹は信じないらしく、
「うそだーい。ケチ!」
「ケチがいやなら、夏樹ちゃん、じぶんの貯金を出してあげればいい。」
 おどかすつもりでそういったのだが、夏樹はにうけて、
「あげるよぼく。」
「だってあんた、八千円しかないじゃない。」
 すると、ここまできてまさかと思った兵六さんが、再び手を合しておがみ、
「たのむ、音枝ちゃん。八千円でもけっこうだ。中古車の自転車なら八千円でも買えるからね。たのみます夏樹ちゃん。この金ばかりは、きっと払うからね。このおじちゃんを助けてちょうだい、ね、夏樹ちゃん。」
 不思議なことに、こうなると兵六さんの目には涙が自然とうかんでくるらしい。夏樹は一しょに涙ぐみながら、ある感激をもって、
「うん、いいよ。あげるよ。ぼくはまた、たばこ買ってきておとうちゃんに十円玉のおつりもらうからいいんだ。」
 こうなると音枝ももう口の出しようがない。
「はい、おすきになさい。おねえちゃんには権利ないからね。」
 貯金帳と判こを、わざと力を入れて夏樹の前においた。
 八千円をわが手ににぎるまでに、二時間近い時が流れた。はじめは、つんとしている音枝に気をおいて、あきらめて帰ろうか、それとも泊りこんで文吉にでも談じてみようかと迷ったのだが、気前のよい夏樹にせき立てられて、ままよとふたりで近くの郵便局へいったのだった。出来るものなら早く金をつかんで、安江や文吉とは顔をあわしたくないのが彼の本心でもあったからだ。しかし、そうは調子よく運ばなかった。郵便局の貯金係は払戻し用紙に代筆した兵六さんをうさんくさそうにちらっちらっとみながら、顔見知りの夏樹に、
「夏樹ちゃん、これね、おねえちゃんでないと、お金あげられないのよ。おねえちゃんにきてもらってね。」
 窓口にいた兵六さんは憤然ふんぜんとして、
「本人がここにいるんだよ。どうして本人に払えないのかね。わしは伯父なんだがね。」
「でも、それでしたらあなたの印がいりますわ。委任してもらってください。」
 表情一つ動かさずにいう。
「だってきみ、本人はここにいるんだぜ。本人が子供だから、代筆したんだからね。」
 しかし女局員は無言でつっぱね、
「お次の方!」
 仕方なくふたりは引かえして音枝に代ってもらった。いやだという音枝をおがみたおして夏樹とふたりで神妙に待っていると、ご不浄に立った安江が茶の間をのぞいた。
「あ、いらっしゃい。どうしました顔。」
「いや、ころんでね。なに大したこたあありませんよ。大したこたあね。」
「そう。じゃあわたし、きょうは失礼します。」
 あっさりひっこんでくれてほっとした。彼は小声で夏樹にいったのである。
「おかあちゃんに、だまってておくれよな。すぐかえすからな。夏樹ちゃんにいいものお礼にもってくるからな。」
「大丈夫だよ。いってもおこらないよ。」
 しかしもどってきた音枝は一そうおこっていた。八千円を夏樹にわたすと、ぷいと台所に立ってもどってこない。その大金をみると、さすがの夏樹も少々こわくなったらしく、しばらく見つめていた。それをやっと促してうけると、早々にいとまをつげた兵六さんだった。
「いいんだもん、ぼくの貯金だもん。」
 おこってものいわぬ音枝にもつれつきながら、夏樹はしきりにいいわけがましく、我をはっていた。そんなことは分らぬ兵六さんだが、しかし彼とてもやっぱり釈然としない。
 そこで、駅の階段を上る今日の彼の足は、怪我自体よりももっと重いのである。
 八千円は兵六さんにとっては久しぶりの大金だった。この金をにぎりたいために、ここのところずっと彼はあれやこれやと知恵の限りをつくしていたともいえる。その知恵はどっちをむいてもうそをつくことでしかみがかれなかった。しかし、ともかくもこれでしかおせいや二三子の信用をとりかえすことはできないと思い、いちずにうそを重ねたのである。けっきょく、思いもよらぬところでその金はつかめた。もっとも力の弱いところから、だましどりをしたのだ。そう思うと彼の心は曇った。ふところがゆたかなのに、こんなにも気のおもる経験ははじめてだった。うらめしそうな音枝の顔と、無邪気な、しかし最後には不安を感じだしていたらしい夏樹のおもかげが、兵六さんの胸の奥をチクチクと刺す。久しぶりの良心のとがめだった。
 ――郵便ででも、送りかえそうか……
 ちらりと二三子やおせいの顔がうかぶ。また馬鹿なことを! とどなられそうな気がする。
 ――やっぱりあいつらを、あっといわせてやろうかな……
 そのよろこぶさまを想像して、無理にそっちへ気をむけてはみたが、だめだ。金のできた感激がまるでない。駅前の陸橋を渡りきったところで、彼は左へ曲る歩道のさくに両ひじをもたせ、はるかな町並を見わたした。風が吹きぬけた。高台のそこからは、大東京の半分が見わたせ、目路めじの限り家々の群落である。薄ぐもりの空の下に限りなくつづく小さな屋根屋根は、空のはてるまでつらなりかさなって、雲の中にぼかされていた。
 ――ああ、東京はこんなにひろいのに……
 ほろりとなって彼は手の甲で目をこすった。左の手である。そしてふと、見るともなく目の下をのぞいたとたん、ぶるんとなって思わず身をひいた。そこから見れば深い谷底のような橋の下に、ひきこまれそうな恐怖を感じたのだ。ガードの下では、せまい舗装道路が一本、よどんだどぶ川とつれだって流れている。そのどれもがいたい感覚できょうの兵六さんにせまったのだ。
 兵六さんはくじいた足のせいばかりでなく、わざとゆっくりと歩き出した。いつも通り慣れたその道へ出るには、坂道を降りてゆかねばならぬ。命がけなら一瞬でとどくその道へ、ゆっくりとおりていった。降りるにつれてどぶ川は鼻に近づき、ものなれたいつものにおいで兵六さんを迎える。坂をおりきったところのすしやの前で、兵六さんは一いき足をとめた。すしが食いたいのではない証拠に、彼はしきりとうしろをふりかえっている。そして、何を思ってかゆっくりとまた坂道を上り出した。上るにつれて風がつよくほおをなでる。

 夏樹と音枝のあらそいは夕方になってもつづいていた。音枝が終始、よせつけまいとするような態度なので、夏樹はくりかえしの一てんばりだ。
「いいんだもん、ぼくのだもん、貯金なんて、またできるもん。」
 いきづまりそうになるとそれをいう。
「いいならいいさ、うるさいね。少し外へいってらっしゃい。ご飯、まだまだなんだから。」
 しかし夏樹はどうしても音枝のそばが離れられない。いつものきょうだいげんかならたとえ自分がわるくても安江の部屋にかけこんでうったえれば、なんとなくなぐさめられるのだが、きょうはそんなわけにはいかない。だからよけい音枝の理解ある一言がほしいのだ。それをどういっていいかわからず、彼はただ、しかられた犬が主人のきげんをさぐるように音枝の顔色をみ、泣きたい気もちをこらえている。それなのに音枝は意地わるくわからぬふりをして、しかも口では、
「わかったよもう。貯金なくなってもいいんでしょ。それならそれでいいわよ。ただいっときますがね、おねえちゃんはもう、これから、ぜったい十円玉があってもあげませんからね。みんなにもそういっとく――」
「いやだあ。いっちゃあいやっ。」
 まるでその声を聞きつけでもしたように安江が顔を出し、
「どうしたい? また、聞かれちゃ都合のわるいことしたんでしょ。」
 きのうからつづく半徹夜のつかれは目の下をくろずませているが、きげんは悪くない顔つきだった。しかし音枝も夏樹もすぐには返答ができないでいる。
「兵六さんは?」
「帰ったわ。」
 やっと音枝は対抗の姿勢をととのえた。
「あっさり帰ったのね、今日は。」
「あっさりでも、なかったんだけど。」
「ふーん。また、『手元が苦しいて』かい。」
 そういってはわずかながらの金と米や野菜まで持ってゆくのがこのごろの兵六さんの習慣みたいになっているのを安江はいったのだ。音枝はその母の顔はみずに、
「夏樹に聞いてください。夏樹は気前よく貯金を全部出して、あげたんですからね。」
「なんだって?」
 安江のけんまくをみると、夏樹は急に身をひるがえし、
「おかあちゃんがおこるう。」
 泣きながらおもてへとび出していった。音枝がかいつまんで話すと、安江はちぇっ! と舌うちをして部屋へかえした。今はそれにかかわってはいられないのだ。
 夕食の時がきても夏樹はなかなかもどってこなかった。
「いいよ。こりさせた方が。」
 近所中さがしまわったあとの音枝にむかって安江はいった。しかしいったあとで、大体お前がわるいんだよっ! と音枝にむかってどなりたかった。それをわざと押えて食卓についた。文吉も今日はおそがえりのはずだし、冬太郎は友だちの誕生日に招待されている。こうなると食卓は母と娘のふたりきりだ。めったにないことだった。夜勤の臨時事務員の口が見つかったとかで、浜子の帰りもここのところずっとおそい。もっそりと向きあってはしを動かしながら、安江は食べる気がしない。気をきかして安江のすきなひらめの煮つけや、いんげんのごまあえをつくってくれたことはわかっていたが、安江はまるですねてでもいるようにかんたんにはしをおき、小さな声で、しかしがまんできないというように、
「こっちは、人が眠っているときにもねないで働いているんだからね。――おとうさんだって、わずかのサラリーをもらうためにさ、自分の机の前にすわらずに、人に使われてるんじゃないか。石っころのような十円玉とちがうんだよ。」
「だって、おじさんたら――」
「なにがだってさ。なんでわたしがねずに働いてまで、兵六さんの責任を背負ってあげなくちゃならないんかね。しっかりしなさい。ほんとに、そろいもそろって――」
 泣き出す音枝をその上にもにらまえて、
「夏樹は帰ってきても、中へ入れちゃあだめだよ。かぎかけて、夜どおし外に立たせとくといい。」
 どなりつけて部屋へもどりはしたものの、時が立つにつれ、安江は全身をアンテナにしていた。新聞でみた小学生の自殺事件などがことさらに思い出されてくる。音枝はまたさがしにいったらしい。
 ――夏樹ちゃーん……夏樹ちゃーん……
 ほそい、しかしよく通るかなしげな声が裏の森の方からきこえてくる。断続してひびいてくるその声は泣いている「母」の声であった。安江はふと、二十数年も前のある夏の夕を思い出していた。近くの氷川さまのお祭りにいったきり、一しょに出かけたつれがもどってもまだ帰ってこぬ音枝を案じてさがしまわった自分の姿。帰る途中で出あったよそのおじさんについていったと聞いて、のぼせあがった安江は、人なみをかきわけながら、ちょうど今の音枝のようにあたりかまわず叫んだのである。
 ――音枝ちゃーん……音枝ちゃーん……
 さがしあぐねて、おろおろで家へかえると、音枝はもう帰っていた。よそのおじさんというのは文吉の友人の友田で、友田に買ってもらった大きな風船をかかえて、音枝はにこにこしていた。その音枝をだきかかえて、安江は泣き笑いをしたのだった。……
 ばたばたと足音が近づいてくる。安江はさっと障子をあけて待ちうけた。いきせききった音枝とぴったり気もちがあっていた。
「いたかい。」
「おかあさんきて。ヒミツカのそば。」
 ぐったりしてぬれ縁にかけた音枝に下駄をぬがして、安江はゆっくりと歩いていった。ヒミツカのそばで強情はっているらしい夏樹への戦略を考えながら、九分九厘の安心で足は軽い。もうこっちのものだ。ヒミツカは庭のすみのススキのくさむらのことだった。幼稚園へはいったころにおぼえてきて、それ以来夏樹はそこへいろんな大せつなものをしまいこむくせがあった。虫めがねだの、ぴかぴかの油石だの、こわれたライターなど。そして時には思いがけない盗品がそこから出てきた。たとえば、友人にもらった親指の頭ほどの小さな清水焼の花びんだとか、ないないといってさがしていた文吉の、ペン・クラブのバッジだとか。しかしそれらのことはおとなにとっても覚えのあることなので、ある程度ヒミツカは秘密裏の共同管理として、冬になっても枯れたススキのまま残してあった。みんなにかくれたつもりでそこへ走ってゆく夏樹の喜びにみちた姿は、おとなたちを童心にかえらせ、ひそかな微笑で見ぬふりをしていた。近ごろはそんな姿をみることも少なくなったと思っていたら、きょうは彼自身をそこへかくそうとしている。
 彼のヒミツカのススキはもう夏に近い姿で夜目にも青々と葉をのばしている。安江はわざとくさむらをへだてて、お互に姿の見えぬまま、やさしくよびかけた。
「夏樹ちゃん!」
「…………」
「おこりっこなーしよ。」
「…………」
「五つよむまに、でーてこい。――ひとつ ふたあつ みいっつ よーっつ いつう……」
 わあっと夏樹は、予想通り虚勢をくずしてとびついてきた。そのかた手の手首をわざとぎゅうっとつかまえて、ぐいぐいひっぱりながら安江は、
「さあ、ゆびきり!」
 おごそかな声であいている方の手を彼の顔のまん前につき出すと、夏樹は無条件で、小さな、カイコのような小ゆびをからませてくる。
「なんの、ゆびきりだい?」
 安江が聞いてみると、
「しらない。」
 あっさりという。許されたつもりらしい。
「夏樹のこわがり。ばんにひとりでおしっこにもゆけないくせに、あれ、甘ったれてたんだな。だってひとりでこんなおそくまで――」
「ちがわい。ぼく、おかあちゃん、おこったかと思ったんだ。ごめんね、おかあちゃん。」
「なにが、ごめんなの。」
 安江はもう、今となっては彼の意見を聞いた上で、いろいろいって聞かせるにとどめ、しかることはよそうと決心していた。彼ももうあとひと月ほどで満八歳になるはずだ。とび出すぐらいなのだから、八歳には八歳の意見があろう。りくつっぽくそう思ったのだが、夏樹は至極あっさりと、
「ぼく、わるいことしたの。」
「わるいことって。どうしたから?」
「…………」
「ね、夏樹ちゃんが、考えた通りいってごらん。」
「心配かけたから。」
「あ、そうか。それから。」
「それからあ、ね、あのね、兵六さんに貯金あげたから。」
「そう、貯金あげたこと、なぜわるかったの。」
「おねえちゃん、おこるんだもん。」
「おねえちゃんが、おこらなかったら、いいことかしら。」
「わかんない。」
 夏樹はまたあっさり棄権する。
「ま、いいや。さ、早くかえってごはんだ。おなかすいたろ。かあちゃんも食べ直しだ。」
 すると夏樹は、はじめて真底から安心したらしく、
「おかあちゃん、だーいすき。」
「なに、いってやがんでエ。」
 つかんでいた手をつなぎ直してふると、
「だってさ、おかあちゃんはぼくがみなしごになってかわいそうだったから、助けてくれたんだね。」
「そうだよ。」
「だからあ、ぼくも、兵六さん助けたんだよ。」
 こんなことをいわれると、安江はすぐ感激してしまうくせがある。このチビがもうそんなことを考えていたのかという思いで、この自分を母とよぶ、産みもせぬ子供の成長の見事さに圧倒されるのだ。音枝にしかられて、我をはりとおし、ついには家をとび出したことさえ、個性のたくましさのように思えたりして、たのもしくなる。
「くれてやりたがりやだねお前も。でもさ、そりゃあ、お人よしのすることなんだよ。チビのくせに、相談もしないでさ。もうこれからは、だめだよ。」
 しかし夏樹の確信は相当なものだ。それは安江の、おこっていないらしく見える態度がもたせた確信かもしれぬ。彼はいうのだ。
「でも、あのおかねは、あげたっていいんだね。だって、ぼくのだもん。」
「そうだよ、ぼくのだもん。だけど、悪いことだったの?」
 一本くぎをさすように聞くと、夏樹はちょっと考えたあげく、
「うん。」
と、うなずく。家々のあかりが目立ち、もう夜露がおりてきたようだ。
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茶の間日記


――米を買う。五升、七百五十円なり。

 ゆうべのことである。夕食のあとかたづけをしていた音枝は、びっくりしてふりかえった。突然進君にささやかれたからである。
「おねがいします――」
 水道の音ではいってこられたことさえ気がつかなかった音枝は、一種のきまり悪さで赤くなり、思わず身がまえながら、
「なんです。猫のように――」
 進君は耳のうしろをかきながら、
「すみません。おねがいがあるんです。」
「わたしに?」
 わざと大きな声を出すと、彼は安江の部屋に気をおく様子で、また耳のうしろに手をやり、
「米、買ってください。」
 小ずるい顔で笑う。音枝はそれを、これまでにもよくあった、彼の配給米を、代金立替でとっておいてくれという意味にとり、たとえ四日分にしろ今日きたばかりじゃないかという顔をした。しかもつい今のさき、彼の帰ったのをみて部屋へとどけたばかりだ。ところがよく聞くと、彼はその米を買いとってくれといっているのだ。
「買うも買わないもあんた、いらなきゃうちでとりますよ。どうせやみ米買うんだから。」
 音枝にすれば、すむもすまないもない。袋も代金も立替なのだから、いらなきゃそのままもってくればよいと思う。ところが進君の考えは、大分ちがっている。彼はまた耳のうしろをかきかき、
「あのう、わるいんですけど、その、やみ値で買ってください。おねがいします。」
 困ってるんだなと察した音枝は、しかし一キロの米をやみ値にして、こっちの立替分をさしひけば彼のもうけはたばこ一つにもやっとなのに気がつき、かわいそうに思って、
「進さん、百円位なら貸してあげますよ。お米もとっときなさいよ。」
 ところが更に進君は思いがけないことをいった。買ってもらいたい米は五升だというのだ。最近彼は、週二回の家庭教師の口が二つになり、それで七日の中四日はそこで夕食をごちそうになるから、米はだんだんたまる一方だという。それにしても、みみっちいとひそかに思いながら、彼の貧しさも知っているので、米がくるならと、彼女はひとりぎめで七百五十円を渡した。やみねなりの正値だった。進君はにこにこして、
「すみません。たすかりました。じゃあ、もってきます。」
 だが米はきょうの一キロだけだった。
「あら、ひどい。これ、五升?」
 思わず大きな声を出した。
 音枝のなじる口調に、さすがの進君も赤くなり、またまた、耳のうしろをはげしくかいた。音枝は半分のおかしさに、甘く見られた腹立ちをも適度にこめて、
「どうしたの、これが五升?」
「いえ、ぼく、これからの配給でとってもらおうと思って。」
「じゃあ、はじめっからはっきりいいなさいよ。」
「いったつもりですけど。」
「聞きませんよ。」
「じゃあ、この一キロ分だけにして、百円おかりしましょうか。」
「いいわよ。苦学生のあんたから、もうとりかえせないわ。――どうも話がよすぎると思った。だって、アルバイトの口がふえたの、二三日前じゃないの。いやあね。」
 音枝のきげんがなおったとみて、進君は早々に引きあげた。そのあとを音枝はおっかけるようにして、彼の部屋をノックしながら、
「ちょっと、進さん。」
「はい、すぐあけます。」
 そういわれて気がついたことだが、まだ時刻は早いのにもうドアにはかぎがかかっていた。がちゃっと開いて、当然部屋へ招じられるつもりだったのに、進君はドアから顔だけを出し、
「なんですか。」
「ね、あんたさっき、一キロ分百円っていったわね。」
「はあ。」
「あと、六キロで、五升ね。」
「はあ。」
「それですむ勘定?」
「そうじゃ、ないですか。」
「わたしも、そう思ったのよ、だけど。」
 音枝は思わず、うふっと笑い、
「配給の方の立て替えは、どうするの。」
「あっ、いけねえ。」
 進君は本気な声を出した。音枝は思いっきり笑い出した、
「ね、そうでしょ。配給米の代金と二重払いになるでしょ。いくらなんでもね、これはだまっていられないでしょ。」
 進君はまっかな顔になり、
「すみません。ぼく、気がつかなかった。あんまり、ぼろすぎると思ったんだ。」
 そのとき、進君の部屋の中から、キュウというような女の押えた笑声がした。音枝ははっとし、
「あら、お客さま。」
「はあ。」
 なーんだ、それでやみ米やになったのかと思いながら引っかえした音枝は、日記帳の七百五十円なり――の次へ書きたした。

――ただし一キロだけ入荷。(進君はどうもおかしい)

一金百円なり(冬太郎失敗の巻)

 こう書きつけて音枝は思わずくすっと笑う。そのときの冬太郎の、何ともいえぬ複雑な表情を思い出したのである。冬太郎のいっている学校の近くには有名な福神づけやがある。音枝は時々それを買ってきてもらった。きょうもそれで、しかも近所の分まで一しょにたのみ、そのことから思いついて、カレー・ライスをつくってまっているところへ、くつ音高くかけこんできた冬太郎は、ビニールの袋入りの福神づけを出しながら、
「ね、そこでかわいそうな人にあったんだよ。母親が危篤きとくでね、田舎へ帰る途中なのに、切符ぐるみお金を落したんだって、必ずかえすから旅費をかしてくれっていうんだよ――」
 そこまでいうと、文吉はみなまで聞かずに、
「かしたのか?」
と、かみつくようにいった。
「かさないさ。そ、そんな金、ぼく、もってないもん。」
「ならいいよ。そいつは詐欺さぎなんだからね。気をつけろよ。」
「へえ、ほんとう。」
「ほんとさ。昔っからそういうのがいるんだ。」
 ちらっと安江をみると、安江は皮肉な目でにやりと笑い、しかし冬太郎や音枝にむかって、
「そんな手はもう古いんだよ。昔ね、菊池寛の小説にも出てきたよ。菊池寛なんかも、その手にのったんだね。お前もよっぽどお人よしか金もちに見られたんだよ。」
 音枝が小ばちにあけた福神づけを、サジでしゃくいながら冬太郎は浮かぬ顔をしていた。そして食事がすむと、文吉が立ってゆくのをまってでもいたように、ひとり言をいった。
 ――ぜったいに詐欺になんか見えなかったけどなあ――
 安江はすぐそれをうけて、
「みえるもんかよお前、だれが、わたしは詐欺漢でござんす――と一目でわかるような態度をするかね。疲労困ぱいしたような悲しげな様子で、うったえるのさ。そうだろう?」
「ううん。その人は、もしもし、ちょっとおたずねしますって、道聞いたんだ。世田谷へゆく道をね。だからぼく、つい、ここから歩いていくんですかっていったんだよ。大変だと思ったからさ。」
「手だよ。筋書き通りのね。そして、旅費がだめなら、世田谷までの電車賃をっていったろう。」
「いったけど、ぼくはあの人を信じるな。金もってたら旅費をかしてやったと思う。」
「やれやれ、わが家の男性は、そろいもそろってお人よしだね。夏樹をしかれやしないよ、まったく。」
「じゃあ、どうしておかあさんは、その人を見もしないで詐欺ときめるんですか。」
 憤然ふんぜんとしてつめよる冬太郎へ、
「じゃあ、どうして冬太郎は、そうでないときめるの。」
「ずるいよ。ぼくにさき答えるべきだよ。」
「じゃあ申しますがね、以前、うちのおとうさんが、そっくりそのままの手にのったからですよ。――さ、今度はそっちだ。」
 これには冬太郎も顔色をかえ何ともいえずだまりこんだ。くやしくてならぬがいいかえす自信がぐらつき出してきたのだ。それを見ぬきでもしたように安江は、
「ま、いいさ。人を信じるってことは悪いことじゃあないからね。しかし、あんまりやすやすとだまされるのもくやしいじゃないか。君はだまされなかったんだからいいようなものの、そんな目にあったものは、忘れられないからね。おとうさんのようにさ。まるでだまされた責任を、だました人だけにもってったりしてさ。でも、これでまた、人にだまされない人間なんてのもあんまり感じはよくないね。私のようにさ、そんな人、わたしは好きじゃないよ。だからさ、もしも冬太郎がだまされたとしてもだよ、そんならそれでいいさ。その上まだその人を信じるというなら、こいつはめでたいよ。がっかりなんかすんなよ。どうだい、一つ皮肉がいいたいところだけど、よしとこう。」
 それをしおに立ちあがって、安江も部屋に引揚げた。夏樹がちょこちょことついていったあと、音枝とふたりきりになると冬太郎は、
「おかあさんの、あんな押しつけ、いやだな、ぼく。」
 くやしさが倍になったような口調で音枝にいう。すると音枝は、安江と代ったような姉ぶりで、
「押しつけなんてひどいわ、あれは、思いやりですよ。」
「思いやりなもんか、ほんとは皮肉だよ。」
「そうよ。おかあさん、ちゃんと見とおしよ。わたしにだってわかったもん。」
「なにが。」
「冬坊が、ひっかかったことさ。」
 ちょろっと舌の先を出す音枝に、冬太郎は突っかかる調子で、
「ひっかかったかどうか、わかんないよまだ。」
「じゃあわからして。――さ、福神づけのおつりちょうだい。」
「ちぇっ! いじわる。」
 冬太郎はポケットをさぐり、
「これ、百円だよ。四五日したらおくってくるよ。」
 ぷいっと立った足下に、聞いたこともない人の名をかいた紙ぎれが落ちていた。

 音枝はぱらぱらと日記帳をくった。半月ほど前のところに、

千五百円なり(鳥取の詩人)

とかいてあるのを見つけてにっと笑う。安江が、「内じゃあ詐欺費がずいぶんかさむわね。」といったのを思い出したのだ。第一その鳥取の詩人にもユーモアがあった。最初にたずねてきた時、彼は、銀座で流しのあんまをしながら詩を書いていると語った。まだ三十前の若い男だった。帰ったあと、文吉はえらく感心して、
「戦争中、飛行隊にいて航空兵のあんま係をやってたんだそうだ。それであんまの術をおぼえたんだってさ。とにかく、あんましながら詩を書くというんだから、おもしろいよ。」
「いい詩、かくの。」
 安江が聞くと、文吉は、
「さあ、この次もってくるそうだ。山本春彦や藤岡新吉にもみせてほめられたんだそうだ。」
「へえ。でも、よく、田舎から出てきてすぐあんまになれたわね。あんまの縄張りなんて、ないのかしら。とにかく、若い男があんまになるってことは感心だわ。きっといい詩人になれてよ。だんだん変わった人が出てくるわね。」
 生活派の安江もすごく感心して、まだ顔をみないその詩人に好意をよせた風だった。ただひとり音枝は、その若い詩人のよごれた歯なみにひそかにまゆをよせていた。着ているものだとて、野宿でもした人のようにほこりっぽかった。そのなりで、銀座の客がとれるのだろうかと思ったのだ。はたして二度目にきたとき、彼をおくり出したあと、文吉は少しばかり憂うつな顔で、
「客がとれないんだそうだ。銀座あたりじゃあね。」
「そうでしょう。やっぱり、東京なら銀座と考えたあたりは、いなかの詩人なのね。そんなら場末でもいいじゃないの。」
「ところがそいつもだめなんだそうだ。そこにもあんまがうようよしてるんだってさ。しかし、それよりもね、第一居場所がないんだってさ。たよってきた友人にもことわられてね。――おれは田舎へ帰れっていったんだがね、背水の陣をしいて田舎の家も売り払って上京したんだっていうんだがね。」
「馬鹿ね、その金、部屋もかりずにうざうざと使っちゃったの。」
「そうだってさ。東京を甘くみてたんだな。毎日二三人の客がつけばいいってね。そいつがまだ上京以来ひとりもつかないそうだ。」
「詩どころじゃないわね。」
「そうなんだよ。そこで決心して棺おけを作るなんていってるんだよ。」
「ええっ。棺おけって、あの棺おけ?」
「ああ、あの棺おけさ。」
と、文吉は安江のおどろきを一そうあおるようなまじめな顔をする。そうなると安江はもうおどろかない。音枝の方が代って、
「棺おけ作るって、葬儀やになるの。」
 文吉はあっはっはと笑い、
「住居なんだよ、棺おけがな。彼、さとったんだそうだ。要するに人間、五尺のからだの置きどころはつまるところ棺おけじゃないかとな。そこで、生きてる内に棺おけを住居ときめてさ、それに車つけて引っぱって歩くんだそうだ。持ち物一さい入れてね。夜はその中にはいって寝る。まいまいつぶろと同じさね。まいまいつぶろをみて思いついたんだそうだ。移動住宅だよな。広い東京至るところわが家だって、うれしそうにいってたよ。その夢が実現すれば詩が書けるって。」
「詩人の夢。」
「ああ、うらやましかったねおとうさんも。死ねばそのまま火葬場へもってってもらう……」
 音枝がぷうっとふき出すと、安江はいやな顔をして、
「笑いどころじゃないよ。若い者が棺おけを思いつくなんて。まいまいつぶろをみれば、もっと別のことも思いつきそうなもんだがね、まったく――」
 それから三日ほどおいて詩人が三度目にやってきたとき、文吉は困った顔で音枝のそばへきて、小声でいった。
「金、あるかね。」
「いくら。」
「二千円ていうんだけど、千円でもいいよ。」
「あるわ。」
 がま口をさし出すと、文吉はその中から千五百円をぬき出し、
「しょうがないよ。今夜鳥取へ帰るっていうからね。」
 音枝が茶のお代りをもってゆくと、若い詩人は悲壮な表情で音枝にまで頭をさげた。家へき出してひと月ほどなのに、彼の青ざめた頬はくぼみ、乱れた頭髪は耳をかくしていた。
 千五百円は暗黙のうちに安江にはかくしていたのだが、あるとき音枝はうっかりいってしまった。
「おかあさん、鳥取の詩人ね、いなかへ帰ってなんかいないわよ。」
 はっと気づいたときにはもうかくせなかった。音枝はその日、新橋駅の近くで詩人に出あったのである。ちょんまげのはりぼてかつらを頭にいただき、とのこで顔を作った詩人は足軽のいでたちでパチンコやのプラカードをささげて歩いていたのだ。ふり返ると彼の方でも立ちどまって音枝を見おくっていた。

百円なり(おふだ)
三十円なり(ゴムヒキ)
四十円なり(清潔や)

 安江が詐欺費といったのはこういう口だった。ラジオや新聞がいくら口をすっぱくして有料清潔やはおかみと無関係だと発表しても、都の紋のついたいかめしい腕章をまいた清潔やはあとをたたない。気の弱い音枝はつい、四十円ぐらいと思ってしまう。ゴムヒモ売りも勝手口へやってきて土下座の戦術に出られると、音枝の方がおろおろして、買わねばならぬ義務感のようなものをよびさまされる。しかしこんなのはまだよい方で、お札売りときた日には堂々と玄関のベルを押してやってくる。大事なお客さまかと思って戸をあけると、ひげもくじゃらの男が四人もずらりとならんでいて、中のひとりがおごそかな声で大神宮のお札だという。音枝はだまってひっこんで、いわれた通り百円をもってゆき、無言のうちに一枚の紙ぎれと交換する。それはまるで何かにあやつられてでもいるようにふらふらと運んでしまう。それだけに割りきれなさがいつまでも残り、つい愚痴ぐちになってしまう。その音枝の愚痴を聞いた浜子は、
「おねえさんて案外小心ね。わたしなら、かんたんにおっぱらうわ。」
「そんなこといったって、そう口でいうほどかんたんにはいかないわよ。おっかない顔してにらむわよ。」
「平気さ、にらみかえしてやればいい。」
「じゃこれから、浜ちゃんがいる時は、押売りがかりになってもらうわ。まずきょうたのむわね。」
「いいわよ。お茶の子さいさい。」
 お天気のよい午後だった。お休みの浜子にすっかり玄関をまかせて、音枝は張り物にとりかかった。伸子張しんしばりである。庭のかき根の端から端へ布をわたして伸子をはっていると、
「ごめんください。」
 そらきた! と音枝は伸子の手をとめて聞き耳を立てた。学生アルバイトらしい若い声だ。いろんなものをならべ立てているらしく、品物と値段をいうたびに、浜子の声が、
 ――まにあってます。――それもまにあってますわ。――みーんなまにあってますわ――うそだと思うなら、みせましょうか。ゴムヒモなんて、売りたいぐらいよ――
 第一客はそれで成功した。浜子はいい気もちそうに、
「おねえさん、いい文句があるじゃないの。まにあってます。――なーんて便利な言葉でしょう。まにあってまあす――これで間にあわせるのよ。」
 音枝の伸子かいを手つだいながら浜子はころころと笑う。
 若い女の笑い声にさそわれでもしたように、庭の切戸を押してひとりの老婆がはいってきた。
「こんにちは、奥さん。」
「はい、なんですか。」
 浜子が奥さんになって相手をする。
「あのう、おぼしめしで、いかがでしょうね。」
 さすがの浜子もちょっと戸まどいして、
「おぼしめし? それ、なんですの。」
 老婆は歯のない口もとをかた手でかくし、ほっほっと笑い、
「ね、わたしが歌いますからね、奥さんがおぼしめしをくださるのよ。」
「あ、おぼしめしって、歌ですか。そんならまにあってますわ。」
「そうですか。ほっほっほ。」
 老婆はまたかわいらしく笑って、あっさりと引揚げた。音枝はその場にしゃがみこんで笑った。浜子はますますいい気になり、
「ほら、ね。」
 音枝がはけをもち、浜子はのりおけをもって、お互いにきげんのよい時をすごしていると、
「こんちわあ。」
 また切戸があく。老人だ。
「奥さん、きんかくしの掃除はいかがですか。安くしとくがね。」
「まにあってまあす。」
 浜子が調子づいていうと、
「え、なんだって!」
 少々気色ばんだのをみると、浜子は少し調子をさげて、
「まにあってるのよ、おじさん。第一、そんなもの、ないのよ、うち。」
 これにはさすがの老人も笑い出し、
「ほんとかねお嬢さん、あさがおのないうちはあっても、きんかくしのないうちはないよ。」
「そうお。ところがうちにはないのよ。ねええおねえさん。」
 浜子はそれをまじめくさっていう。
「じゃあ、おとなりへ借りにいくのかね。」
「ええ、近所同士ですもの、何でも貸したり借りたりよ。――おじさんさっきの歌うたうおばさんと夫婦なの。」
 音枝はもうたまりかねて、すぐそばのハギのしげみにかくれ、思いきり忍び笑った。出てくると老人はもういず、浜子がけげんな顔で、
「ね、あれ、なあに。」
 浜子はほんとに知らなかったらしい。音枝が説明するとはじめてわかって、
「いやだあ、便器っていえばいいのにさ、あさがおなんてしゃれてみたり――」
 そしてわあっと笑った。しかしとにかく浜子の無邪気さが勝利をしめて、その日一日音枝は思い出し笑いをした。そんな無邪気な浜子なのに……。

四百八十円(タクシー)

 もう終電もすみ、一時に近かった。そわそわしている音枝の気も知らず、文吉も浜子もまだ帰ってこないのだ。文吉だけなら毎度のことで平気だったが、もしも浜子が一しょだったらと音枝は気が気でない。母に知らせたくないのだ。母の気づかぬうちに帰ってさえくれば、この前のように父がひとりで帰ったような顔もできるが、こうおそくては心配でならない。父を信じている音枝は、まさか文吉と浜子の間に何かあるなどとは思わないが、疑ってみるとすれば思いあたることはいくらでも出てくる。このごろの浜子は、よく文吉に甘えかかる。
「ねえ、おじさん、おじさんの会社がだめならさ、おじさん個人の秘書にしてよ。そうしてるうちに仕事、きっとみつけるわ。」
 それを堂々と、家族の前でいうのだから、悪いとはいえない。そんなとき文吉はくすぐったそうな顔をして、
「おじさんは、秘書なんて雇える身分じゃないよ。サラリーが今の十倍ぐらいになったら、たのもう。」
「そんなこと。おじさんの秘書ならわたし、薄給に甘んじるわ。だって、ここで食べさしてもらうんだもの。ね、わたし、これで案外役に立つ自信あるのよ。」
「だからさ、その自信で別の所さがすんだな、おじさんも気をつけてたのんではいるがね。」
「いやあね、いつだってああいって逃げるんだもの。職安なんて、いくら通ったってだめなのよ。わたしが今、どんな仕事をしてるか知ってる? 宣伝ガールなのよ。はずかしくていわなかったけどさ。もう平気。」
「はずかしがるこたあないよ。労働は神聖だからね、自分で軽べつするもんじゃないよ。」
「ちぇっだ、わたしがどんなことしてるかいったら、軽べつするわよ、みんな。」
「どんなことさ。街頭でビラでもまいてるのかね。」
「そんな、子供だましじゃありませんよ。ストリップなんだから。」
「ええッ!」
「ほら、おどろいた。ね、いいましょうか。あんまこうの宣伝なの。ふたり一組でね、女湯へはいっていくのよ。肩だのおしりだの腰なんかにこうやくをべたべたはりつけてさ、はだかの女性たちの前で問答するの。『××こうって本当によくききますわね。』『まったく、これを使い出すとやめられませんわ。』『それにはったままおふろにはいれるんですもの便利ですワ。』そして湯にはつからず次のふろやへ――」
 浜子はそれをこわ色をつかっていったので、みんなふき出した。安江がひとりむつかしい顔をしていた。その複雑な表情を音枝は忘れることができない。――
 とうとう一時が鳴った。それがきこえたらしく安江の部屋のふすまがあき、
「おとうさん、おそいね。もうおやすみ。」
 浜子のことは知らぬらしくやさしい声だ。気づかれずに帰ってくればよいがと思ったとたん、はげしくブザーが鳴った。やけっぱちな鳴らし方は浜子かもしれぬと思うと、おこった表情が自然と顔に現われて、音枝はいつものようにガラス戸もあけずに、だまって玄関に立っていた。文吉が走ってきて、
「五百円、大至急だ。こまかいのがあれば四百八十円でもいい。」
 待たしてあるタクシーのほうへかけてゆく足音を聞きながら音枝はほっとし、ほとんど同時に、浜子は? と気づかうその瞬時の思いの中で、浜子が家にきて以来、家庭の空気がかき乱されがちなことについて、考えていた。すると、その不安を裏がきするように、近づいてくる足音がふたりなのに気がついた。安江も出てきて、まるでそれをまちうけてでもいるように音枝とならんで立っている。
「ただいまア。」
 やみの中から浜子の声だ。そして彼女は、文吉の腕にぶらさがるようにしてはいってきた。
「おかえりなさい。」
 素っ気ないまでに冷静な安江の声であったが、音枝ははっと胸にくるものがあった。父と母との年の差が大きくおっかぶさってきたのだ。そこに立った文吉はいやらしいまでに若い男だった。
「おばさまア、きょうはおもしろかったわ。おじさんにおごってもらったの。ねええ、はじめね、『几帳面きちょうめん』といううちで飲んだのよ。そしてね、『ずぼら』って家へはしごしたの。男の人っておもしろいとこ知ってんのね。わたし、気に入っちゃった。あんなとこで働こうかしらっていったら、おじさんにしかられちゃったあ――」
 浜子がひとり、べらべらとしゃべるのを無視して、文吉は、安江をさえもよせつけまいいきおいで部屋へひきとってしまった。安江もだまって引きさがる。浜子ひとりがいい気もちそうに音枝の肩につかまりながら、
「男の人っていいな。『几帳面』と『ずぼら』だってさ。気に入っちゃったあ。」
 そんな浜子の狂態をおぞましいものとしてながめる音枝の胸に思いがけない人の姿が浮んでいた。進君である。何のかかわりもないはずの進君に、音枝はあわて戸まどった。姉女房の母と父の年の差が、それと同じ年の差の進君に、いつ自分を結びつけて考えていたのか。音枝は赤くなり、やがてそのはじらいは一種の悲しみに変わっていた。浜子はいつのまにかねてしまい、文吉の二階の部屋も、安江の階下の部屋もしんとしている。電灯を消した音枝は、やみの中にしらがのふえた母の姿をえがき、その母が、あすはまたむっつりとして花屋にゆくであろうと思うと胸がうずいた。

 五千円――と書いて、音枝はそれをごしごしと消した。その消してしまった秘密の中に浜子の顔が浮ぶ。今、病院のベッドの上で、どんな思いですごしているだろうか浜子……
 いつかの夜以来、音枝は酔って帰る浜子を何度かむかえていた。いつもひとりだったことで、安江には知れずにすんではいたがそんな浜子に困惑を感じ、音枝はかたくいいわたした。
「ね、門のベルだけは押さないでね。」
 そして昨夜である。夏樹のねている部屋で、おそいはずの文吉や安江の帰りをまちながら、例によってくつ下のつくろいをしていた音枝のうしろで、すうっとひかれるふすまの音に、彼女はぞうっとしながらふりかえった。浜子だった。
「おどろいた。玄関あいたの、ちっとも気がつかなかったわ。」
 音枝の声はふるえていた。夏樹とふたりの夜など音枝の神経は少し異常になっているらしい。玄関番のようなかっこうの進君の存在に安心して安江たちは出かけるらしいのだが、このごろはその進君がこわかったりする音枝である。
「ほんとにびっくりした。玄関のベル、全然きこえないんだもの。」
 すると浜子はにやっとして、
「だって、しかられるんだもの。おばさんも、おねえさんも、おっかないんだ、このごろ。」
「それにしたって極端よ。まるで泥棒みたい。」
 むっとしてみせると、
「だって、おばさんにきこえると――」
「いませんよ今夜は。Kさんの出版記念会なの。どうせ気のあった連中と一しょだから、おそいわよ、帰りは。」
 やっと落ちつきをとりもどした音枝の肩に、浜子は突然すがりついて、ゆさぶりながら、
「あらあ、くやしいわ。わたし、一ぺんそんな会にいきたかったのよ。」
「なに、いってんの。」
「だって、おじさんにたのんであったのにさ。わたし、そういうふんいき、みたかったのよオ。」
「じゃあ、早く帰ればいいのに。」
 早く帰ったところでそんなわけのものではないと知っていながらそういうと、
「あらあ、くやしい。早く帰ってたのよ。きょうはあぶれてずっと進くんとこにいたんだもん。」
 わるびれもせずにいう浜子に、音枝の方があかくなった。いつかのやみ米問答のとききこえてきた押えたような女の笑い声、あれもやっぱり浜子だったのかと、いやな気がした。進君の部屋からならば、庭の方から出入りが出来るし、浜子はこれからもそうするだろうと思うと、そんな勘ぐりまでする自分に、音枝は悲しくなった。
 しかし音枝は、そんな気持をせい一ぱいに押えて、
「ごはんは? 浜ちゃん。」
 すると浜子の方は何かを感じでもしたようにわざとらしく、
「進くんとこでごちそうになったわ。――でもまずかった。うちのおかずなあに。」
 あきれている音枝に、浜子はたたみかけて、
「一ぜん食べようかしら。おこうこでお茶づけがほしいの。例の、ある?」
 それは、夜のおそい文吉や安江のかんたんな夜食のために用意しておく、かきもち入りののり茶のことだった。わざと返辞をしない音枝におかまいなく、安江たちがいないとなると浜子は急に大きくなって、さっさと台所へいった。やがてことこととまないたが鳴り出したのは、おこうこを刻んでいるらしい。それはともかくとして、どういうのか浜子は、近ごろやたらとおとなたちをまね、肉や魚をきらったりする。好きだったさしみさえ、このごろは見ただけで胸がむかつくというのだ。そんなこともあわせて思い出しながら、浜子のわがままを許しがたくなった音枝は、針箱をかたづけもせずに浜子のあとをおった。そして、流しのそばに立ったままはしを動かしている浜子に、おこった声で、
「浜ちゃん、いくらなんだって、このごろのあんた、ひどいわよ。ひと、馬鹿にして。」
 しかし浜子ははしの手をやすめもせずに、
「かんべんしてよ。だって、進くんち、お茶がないのよ。さゆ飲ますんだもの。さゆって、生ぐさくてむかむかするわね。」
 わざとらしくさらさらと茶づけの音をたてて、
「あ、うまかった。――男所帯って、だめね。わたし、進くんのお嫁さんになってあげよかっていったのよ。そしたら……」
 そのとき、いきおいよく玄関があき、一瞬堅くなったところへ、冬太郎の元気な声で、
「ただいまあ。」
 浜子はすぐ目をほそめ、
「なんだ冬坊か。」
 はしをおいたところへ、ある期待ではいってきたらしい冬太郎は、浜子とみるとまるで血相をかえて身をひいた。
「いいじゃないか、冬坊。いくら冬坊でも、そうあわてて逃亡しなくてもいいわよオ。」
「不潔だよう。」
 どなるほどでもない大声でいって、冬太郎の足音はもう二階の段ばしごに、若さをほこるような音を立てていた。
「いったな。不潔だって。――無邪気だね彼は。だから好きなんだわたしは。誘惑を試みたけど、このうちの男性中では一ばん堅固だったわよ、おねえさん――」
 くるりと背をむけて、ざあざあ水道を出しっぱなしで茶わんを洗う浜子に、音枝はきっとした声で、
「よしてよ浜ちゃん。あんた、へんよこのごろ。」
「そうよ。ワタシコノゴロヘンナノヨって歌があったんだってね。それよ。」
 くるっと顔だけふりむけてぺろっと舌を出す。
「冗談にもほどがあるわ。冬太郎はまだ子供なんですからね。おとうさんとは――」
 わけがちがうといおうとして恥じてあわてて口をつぐんだ音枝の気も察しずに浜子は、わざとらしく、
「と、おうちの方は信じてらっしゃいますがね、冬坊にはもうちゃんとガール・フレンドがいますからね。――あったり前ですよ。満で十九じゃありませんか。同い年として、わたしは彼の気持わかるわ。わたし、みたんだもの。学校の門を出るか出ないかで、ちゃんと腕くんで歩いてたわよ。」
「どうしてそれを、あんたがしってるの。」
「知ってるさ、校門のとこで待ってたんだもんわたし。冬坊に映画でもおごってやろうかなと思ってさ。そしたら彼、にらみつけて行っちゃうの。わたしにいいつけられるかと思ってさ。」
 浜子はくるりと向きなおって、
「知らぬほとけのおねえさんだ。だからわたしは、冬坊の純潔なんて信じないわよ。」
「失礼ね。」
 まっかになって背をみせた音枝のあとについて、浜子は一しょに茶の間にすわりながら、しつこくつづける。
「失礼なんて、それこそ失礼よ。音枝さんには理解がワカラナイかもしれないけどさ、でも彼は幸福なのよ。そのガール・フレンドかわいい女の子よ。女でもうっとりするわよ。こうね、髪の毛をながーくうしろにたらしてさ、前髪にマーガレットの花をつけていたわ。まるで婚礼みたいにさ。銀座でもみたんだから。――あの女の子、おねえさん知らないでしょう。」
「知ってますよ。妙ちゃんて、学校のお友だちですよ。いやらしいこといいなさんな――」
 ぷんとする音枝に、浜子はわざとひざをよせてゆき、
「そうお、知ってるなら、どうしてその妙ちゃんて女の子にはつきあいを許して、わたしには『冗談にもほどがある。』なんておっしゃるんですか。わたしが大学生でないからなの。身分不相応だというの。そんなら覚悟があってよ。わたしはおねえさんのように、品行方正を美徳なんて思っていないんだから。わたしは純潔なんて、おし気なくごみ箱ん中へすてたんですからね……」
 音枝のひざを両手でゆすぶって、手ばなしで泣き出してしまった。その顔はまっかである。泣き方も異常だった。それはどうみても酔っぱらった人であると気づくと、音枝は少し安心はしたものの、今度は別の不安で、早く安江が帰ってこないかと、ひたすらそれをねがった。しかしその前に、どうしても浜子をねかしつけねばならない。
「浜ちゃん、あんた酔っぱらってるの。いやあね。早くおやすみなさいよ。もうすぐ、おかあさんたち帰るわよ。」
 すると浜子は開き直るようないきおいで、
「なにいってんの。おばさんなんかこわくないんですからね。いっときますが、わたしはだれもこわくなんか、ないんですからね――」
 しかし実のところ、浜子にはこわくてならぬことがあったのだ。男のように酔ってそれをまぎらそうとて、音枝に無断でさか屋からビールを二本とってきて、慣れぬさかもりを進君の部屋でやったのだが、さすがに遠慮して時をすごして帰ったのに、あついお茶づけはさめたと思った酔いを呼びもどしてしまったらしい。浜子はどうにもならぬじょう舌で音枝にからんだ。
「ね、おねえさん、あんたはおばさんがこわいかもしれないけどさ、わたしはこわくなんかないわよ。なにさ、女流作家でございますってえばってたってさ、わたしにおじさんをとられるかと思ってびくびくしてるじゃないの。わたしはね、おばさんをあっといわせてやりたいの。どんな顔するかそれがみたいの。ただそれだけなんだよ。おじさんだってかわいそうじゃないか。あんな年上のさ、しわくちゃばあさんが奥さんだなんて、気の毒だよ。いつか『几帳面』でこぼしてたわよ。そんなこと、知らないだろう、おねえさん。」
 音枝は不愉快をこらえながら、こうなるとやっぱり安江たちが一刻でもおそく帰るよう心の中で祈りなおした。そして自分で浜子のねどこをのべてやりながら、がまんしきれずにいった。
「もうよして、こわいこというわねほんとに。背徳よ!」
「なにいってんのオールド・ミス。たまには恋愛ぐらいしなさいよ。年がら年中品行方正づらしてさ。おもしろいよ。男なんてちっともこわくなんかないんだからさ。こわいのはね、こわいのは女なんだからあ。――それがわかんないの、おねえさんたらあ……」
 音枝の右腕にからみついて浜子は泣く。
「いやあね浜ちゃん。どうしたっていうの。あんたらしくもない、あっさりしてよ、ほんとに。」
「あっさりだって? わたしがあっさりぶちまけたら、おねえさんなんか目エ回すからあ。それを白状しろっていうんですかあ――」
 ねつっこく肩にすがりついてくる浜子の手をもぎとりながら音枝は、
「もういいわよ浜ちゃん。おやすみなさいね。あした聞くわ。あんた酔っぱらってんだもん。酔っぱらいの白状なんてごめんよ。ね、あしたね。」
「いやだあ、酔っぱらって真実を語るってこともあるじゃないかあ。おねえさんなんて、だからわかんないんだよオ。」
「そうよ、わたしは酔ってないんだもの。真実がわかんないわよ。」
「そんならふたりでのみましょうよ。ね、きょういわなかったら、わたしは、もうだめなんですよオ。聞いてちょうだいよおねえさん、わたし妊娠してんですよオ、どうしたらいいのさア。」
 音枝はいきをのんだ。感情がりかたまってしまったようで、言葉がでない。それをつきくずすように浜子はつづける。
「――わたしが、どこのだれかわかんないやつの子をうむっていうのにさ、おねえさん、だまってるんですかア。わたしはお金がないから、始末できないのよオ。おねえさんたら、産んでもいいんですかア。」
 音枝はやっと自分をとりかえし、
「浜ちゃん、それ、ほんとなの。」
 すると浜子は大きな声で、
「なんで、うそいうのさ、おねえさんのばかア。」
「もっと小さい声でわかるわよ。進君や冬太郎にきこえるじゃないの。」
「生れつきの野声だもん。それに進君は知ってますよ。ぶちまけて、助けてもらおうと思ったのに、だめなのよ。おじさんにおっつけて、おばさんをてんてこまいさせちゃおと思ってたのに、おねえさんたら白状させてしまったじゃないかア。わたしになにもかもいわしてしまったじゃないかア。助けてくださいよ。おねえさーん――」
 その一言一言を悪魔の声と聞きながら、平和だったわが家が汚され、こわれてゆく姿をまのあたりにみる思いの音枝も、その悪魔の叫びの底に流れる純真さに気づくとほっとした。しかしその安心が浜子の救いにならないことを思うと、音枝は涙をためながら、
「わかったわ浜ちゃん、わたし、考えてみる、ね。」
 泣きふしたまま、やがて浜子は安江たちの帰る前にねむってしまった。音枝はそれを、父にも母にも当分だまっていようと思い、浜子のために朝までねむらなかった。そして夏樹を学校へおくり出すと、だまって郵便局へゆき、スーツを作って残り少なくなった貯金の大部分をおろしてきて浜子にわたしながら、小声で、
「きょうすぐ、お医者へいきなさいね。ひとりで、いける?」
 浜子は素直にうなずいて、ぽろっと涙をこぼした。
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心遠ければ


 このところ兵六さんはずっとひとりぼっちである。女房も娘も、兵六さんを残して次々と出ていってしまったのだ。その日二三子が小さなスーツ・ケースに身のまわりのものをつめているのをみて、兵六さんは気弱く聞いた。
「どこへいくんかね。」
 しかし二三子はわざときこえぬふりで立ったりすわったりして、兵六さんには目もくれない。
「どこへいくんだ二三子、遊びにでもいくのかね。」
 重ねて聞くと、二三子は物すごい剣幕で、
「遊びにだって、あきれた! おとうさんが出ていってくれないから、わたしが出ていくのよ。」
 返す言葉もなくだまってしまった兵六さんをそれきり無視して、二三子は母親のおせいにまであいさつもせず、ぷりぷりして出かけた。しかし申しあわせはできていたらしく、おせいはすぐ二三子のあとを追った。駅までおくっていったと思えるころもどってきたおせいに、兵六さんはまた問いかけた。多少の不安と、いきどおりをこめて、
「二三子はなんだね。わしがものいうてもろくな返辞もせんとからに――」
「…………」
 今度はおせいが返辞をしない。よくみると、おせいの目は赤くはれている。二三子と泣いて別れてきたのかと思うと、兵六さんはしゅんとなった。
「わしが悪いよ。なにもかもな。かんべんしてくれ。わしが悪いんだから。」
 安ちょくにあやまってみてもそれでおせいの気が晴れるわけのものではない。そして、二三子と四五日おくれて、今度はおせいがふろしき包みを作り出したのだ。さすがにおせいは、兵六さんが問いかける前に、
「おとうさん、あんたも気の毒だけどがまんしてくださいな。わたしも今度はしばらく帰りませんからね。」
 一か月の約束で住みこみの家政婦だというのだ。
「ひと月、ずっと、もどらんのかね。」
 心細い兵六さんの声に、おせいは気のとがめを見せた表情で、
「そんなこといわないでくださいよ。ひと月したら、いやでももどってくるんですから。」
「そうかい。そんなら、ゆく先はちゃんと書いといてくれよ。どんなことが起らんとも限らんもんな。」
 兵六さんは思わず目をうるませていた。こんな風にしておいてきぼりをくった兵六さんだったが、ひとりになってみると、思いがけないほど、六畳のへやはひろく、快いものだった。彼の頭をおさえるものはもうだれもいない。彼はねこ背がのびるような大きな呼吸をした。
 思うさま眠り、すきなものをたべて三日をすごすと、つかれのたまっていた兵六さんもすっかり元気をとりもどした。思うさまの眠りといったところで、六時にはもう目がさめる。すきなものを食べたといったところで、普通の飯をおかゆのようにやわらかくたくだけのこと、そのあたたかい飯にやっこ豆腐があれば、満足な兵六さんだった。このかんたんな好物を、昔は、おとうさんの世話なしといって喜んだ妻や娘も、今ではそうはいわない。
 ――貧乏性ね、おかゆに豆腐なんて、まるでおとうさんの性質そのままよ。たよりないったらありゃしない……
 母親似で人一倍こわい飯のすきな二三子は、自分の好みに歩調をあわさせて、このところずっと兵六さんはかたい飯ばかり食べさせられていた。そんなことも思い出されて、ひとりぐらしは兵六さんにとって思いがけなく楽しくなりそうな気がする。こうなると不思議にも、眠っていた彼の労働意欲までがむくむくと首をもたげてきた。おせいや二三子に負けてなるかと思うのだ。つまり、金をもうけて一あわふかせたいのだ。
 ――何をやろうか。
 まっさきに浮んだのは宝くじだった。一等があたれば一やく長者になれる。しかし彼はそれを堅く拒否するように首をふった。これまでにも何度かおせいや二三子に内しょで買った宝くじのむなしい夢が彼の心をしめつけた。
 ――では、何をやろうか。
 彼はそっと腹巻に手をやる。そこにはいつかの夏樹の貯金が、まだ半分がとこ残っている。彼の顔はみるみる曇る。
 あの日彼は、その金を手つけずに返すつもりで駅前の坂道をのぼっていったのだった。しかし黒い潮のように押しよせてくるひけ時の混雑と傷ついた足の痛みは、彼の決心をにぶらし、
 ――あしたのことにしよう――
と、ひとりごとをつぶやいてしまった。いったんこうなると彼の良心は少しずつにごり出すのがくせだ。家の近くまでくると、彼はひそかに腹巻をさぐり、三千円だけをとり出して上着のポケットにいれた。おせいや二三子との戦闘準備である。負けたらこれだけを出し、あとは内しょにしておきたい算段だった。案の定二三子は、皮肉たっぷりに、
「いかがです。景気は。」
 戦いはその一言できまった。彼は二三子の面前へだまって三千円を突き出したのである。二三子はたちまち相好そうごうをくずし、
「わたし、着物出してくるね。」
 そこそこに質屋へかけ出した。まもなくもどってきたおせいもわけを聞くと、上きげんになり、夫のために豆腐屋へ走ったものだ。
 三千円はたちまちのうちに消えてしまった。しかし兵六さんの腹巻の底にのこっている大金は日夜彼を落ちつかせなかった。
 一そのこと、全部おせいに投げ出してやろうか。――
 だがそれはうかつにできることではない。そうしたことで二三子は一時的には喜ぶにちがいないが、兵六さんの信用は地にもぐることうけあいだ。
 わけをいって、残りだけでも夏樹にかえそうか。――
 それも気が進まぬ。かえすなら、耳をそろえてかえしたい。そう思って、思いきって千円だけ宝くじを買った。二十枚あれば多少のあたりがあろうと思ったのだ。抽せん発表の日には新聞を三つも買って目をさらにしてさがした。せめて残念賞でもと一つ一つの活字に目をこらしたがだめだった。ままよ! と手をつけ、それ以来ちびちび使っているのだが、今こそそれをいかさねば、もう一生浮ばれない気がする。これまでだとて、彼は彼なりの商魂を発揮して、何かやろうと思いついては相談をもちかけていたのだが、おせいや二三子はてんからバカにしてうけつけなかっただけだ。――と彼は思う。たとえば、屋台の支那そばやをやろうといったこともある。どこかの軒先をかりて、今川焼屋をやろうともいった。そのたびに二三子は、
 ――おとうさんたら、ろくなこと思いつかないんだから……
と、突っぱねてしまうし、おせいはおせいで、嘆かわしげに、
 ――そんなみみっちい商売だってもとでがいるんですからね。それより、わたしはわが身をもとでにして働く……
 そういって通い女中をはじめたのだ。働き出すとおせいは途方もなくかさにかかったものいいをするようになり、二三子と組んで皮肉をいうようになった。
「――まったく、いいご身分だよ、男ってものはね。金も力も、なくても、亭主づらして威張ってられるんだものね。そこへいくと、女なんてかわいそうなものさ。棺おけにかた足つっこむほどの年になっても、女中になと子もりになと融通ゆうずうがきくんだからね。」
「融通がきくからいいのよかあさん。男の気のぬけたのほどやっかいじゃないもの。こっちがその気なら雇ってくれるものね。そこへいくと、じいさんの古手はだれも相手にしてくれやしないわよ。」
 その時のことを思い出した兵六さんは、憤然として立ちあがった。そして、例によってひとり言である。
 ――ようし、おれだって、やろうと思えばやるんだぞ!
 まず兵六さんの頭に浮んだのはかどの酒屋であった。時時[#「時時」はママ]いって店先でコップ酒をのみながらの相手になってくれる三河屋の隠居ならば、打ちあけて話せば親身になってくれそうな気がした。
 ――三河屋さん、何ぞ、わしにできる仕事はありませんかな。ほんの小使いとりか、さもなくば食わしてもらうだけでよろしいんですがな。どこぞお得意さんに、庭そうじでもする人間をさがしとったら、お世話してくださいよ。遊んどるのももったいないと思いましてな――
 おていさいながら第一声の用意はもうできた。すると兵六さんの空想は思いがけなくひらけて、もう目の前に三河屋と顔をつきあわせている。声まできこえる実感で、三河屋はいったのだ。
 ――あ、ちょうどいいや。そんならうちを手つだってくださいよ。小僧に暇をとられて、若い者がひとりで困っとるところでさあ――
 兵六さんはきんきんとして出かけた。まったく空想ばかりでないことに気がついたからだ。三河屋では小僧が暇をとったので、若主人がひとりで配達をし、従って隠居が店番をせねばならず、遊びにもゆけないとこぼしていたのは事実だった。そこで小僧の代りをつとめながら隠居とむだ口をたたかわすのもおもしろかろうし、たまにはきき酒の楽しみもあろうというものだ――
「いらっしゃいまし。」
 まだ敷居をまたがぬうちに声をかけられて兵六さんはとびあがった。かんかん照りの外からはいってゆくと、三河屋の奥は見とおしがつかなかったのだが、むかえたのは若いおかみさんである。
「なにをさしあげましょうか。」
 あいそのよい笑顔に出あうと、兵六さんはたじたじとなり、
「ああ、みそを、百めほどもらいましょうかな、みそをな。」
「はい。毎度ありがとうござい――」
 小僧はもういりそうもないおかみさんのかいがいしさに兵六さんは少々がっかりした。それでも勇をふるって、
「大旦那は、いますかね。」
「あ、今すぐきますよ。」
 いいも終らぬうちに隠居は見知らぬ男と一しょに裏の倉庫の方から出てきた。男はほうきの卸屋おろしやだったらしく、店の前にあったほうきを積んだ車をひいて帰っていった。
「さ、鷲さん。どうぞ、どうぞ。まあこっちへ。」
 あいそのよい隠居にさそわれてあがりがまちへ座ぶとんまで出されると、兵六さんはつい、われにもなく涙ぐんでいた。
 その翌日である。
 ――ええ、ほうきはいかがです、ほうき。お座敷ぼうきにしゅろぼうき。上等で安いほうきはいらんかね――
 この呼声をきのう三河屋の隠居は何度も自分でいってみて、伝授してくれたのだが、実地にあたってみるとそうたやすく声になって出てくるものではない。
 ――ええ、ほうきはいらんかね、ほうき。お座敷ぼうきにしゅろぼうき……
 兵六さんはそれを家並のとだえたところでいってみる。何のいんねんか、ほうき屋のあとへたずねていったために、荒物の商いもしている三河屋の隠居はさっそくの思いつきでほうき売りをすすめたのである。兵六さんの涙ぐんでのうったえに、隠居さんは隠居さんなりの感激のしかたで、単なる思いつきばかりでなく、すっかり同情をよせ、ほうき屋の伝票まで見せての身のいれ方だった。
「この仕入れのまんまであんたにわたしましょうや。二百円のものなら二百五十円から相手によっちゃ三百円位に売りつけるんだね。大体ほうき一本につき最小限度五十円から、上物なら百五十円ぐらいの利益をみるといいね。一日に三本売りゃああんた、ニコヨン以上にはなりまさあね。十本も売れた日にゃあ、すぐに長者だア。一つ、しっかりやってみるんだね。」
 もとでもなしに、売れた時払いでよいという、めったにない好条件を出されては、兵六さんもおていさいどころでなくなった。草ぼうきをとりまぜて四本と、しゅろぼうき一本を一束にしてひもで結んで肩にかついだ。左の肩である。出かけるときに三河屋はいった。
「あんまり遠いところへいきなさんなよ鷲さん。ていさいや見えは、もうこの際捨てちゃうんだね。近いとこで、同情にうったえるのも戦術だよ。」
 いつのまにかぞんざいな言葉になっていることにも気づかず、兵六さんはこの新しい商売を、三河屋から出発した。新しい地下たびに、巻きぎゃはんのいで立ちも勇しい。三河屋では一家総出で兵六さんを見おくった。町かどにその姿が消えると、三河屋の隠居はいい気もちそうに、
 ――ほうきはいかがですねほうき、おざしきぼうきにしゅろぼうき……
 しかし兵六さんの方はそれどころではない。道ゆく人々がみんな自分の落ちぶれた姿を見つめているように思えて、さっささっさとゆきすぎた。同情にうったえる戦術など、くそくらえと思った。三十分も歩いたろうか。見知らぬ人たちの町へはいっていったのだが、
 ――ええ、ほうきはいらんかねほうき……
 しかし兵六さんの口は全然動こうとしない。一時間たった。二時間たった。ほうきはやっぱり五本であった。こうして兵六さんの一日はくれかけた。
 家へ帰るなり兵六さんは、ほうきと一しょに大の字になった。足が棒である。左の肩もりかたまっているし、第一、一日中まげていたひじのせいで腕もぬけそうだ。くちびるがかわいて、あつい茶がほしい。腹もへっている。しかし起きて湯をわかす元気がない。こうなると、いかに素っ気なくともおせいが恋しい。おせいがいれば、ぶつくさはいっても茶はのめる。二三子が恋しい。二三子さえいれば、かたい飯でもありつける。
 ――おせいよう。二三子よう……
 兵六さんは心の中で大声をはりあげた。涙がこめかみをつたわって畳にぼそっと音を立てた。
 ――二三子よう、おせいよう、こらえてくれい……
 彼は母を求める子供のように泣いじゃくった。そうしてどのくらいの時が立ったろうか。いつのまにか落ちていた眠りからさめると、あたりは暗くなっている。こわれたまま満足な時計もない家の中だが、窓からのぞいた外の様子ではどうやらまだ宵の口らしい。彼は立ちあがってほうきをつえにしたまま思案した。えいっ! となげつけてみたが、どうにもならない。五本のほうきは束になったままおとなしくねている。彼はもう一度それをたたきつけておいて外に出た。いつかのくじいた足がまた痛み出したことに気がついた。そばやの方へ歩いてゆきながら彼は深い深いためいきをした。
 ――三河屋に、何といおうか。
 それが目下のためいきのもとである。それでも腹をつくると少し元気が出てきた。三河屋の方へ歩きながら、
 ――どうも、きょうのところはだめでしたわい。そのうち慣れましょうがね。まず慣れなくちゃあね。そういって笑って報告するつもりだったのに、三河屋の隠居に迎えられて、杯などさされると、すっかり気弱くなってしまった。彼は腹巻からほうき代五本分千三百円をとり出して隠居の前に耳をそろえたのだ。
「こいつぁ大したもんだ。みんなはけたんですかい。そいつぁごうせいだね。いいとこ三本とふんだんだがね。さい先いいぞ。澄子、ほうき屋へはがきであと三十本も注文しとくんだね。」
 隠居は上々のきげんでおつまみを出す嫁にいいつけた。こうなると兵六さんの性質として、今更真実を語るわけにはゆかない。酒の酔も手つだって、彼も隠居にまけぬきげんで、
「一軒一軒しらみつぶしにあたったですよ、一軒一軒ね。きょうのところは店開きだからなんていってね、みな一ように五十円ずつかけましたよ。安くすりゃあ、だれでもよく知ってまさあ。近所だけでとぶようにうれましたよ。とぶようにね。」
 その結果彼はまた五本のほうきを左肩にかついで夜の町をわが家に帰らねばならなかった。
 昨日のと合せて十本のほうきをかかえ、兵六さんの気持はますます重い。こうなると、もう一刻も早くほうきと別れたいのが彼の本心だ。ただでだれにでもくれてやれば、解決は早かろうが、まさかそんなわけにはもちろんゆかぬ。元値で売ろうかと、十本のほうきをかかえてまったく思案にくれていると、都合の悪いことは続くものらしく、突然おせいがもどってきた。あわてている兵六さんとほうきの束をみると、おせいはうさんくさそうに、
「どうしたのさ。こんなにほうきばっかり。」
「お前こそどうしたんだ。ひと月ももどらんというたくせに。」
「だってさ、おとうさん、食うものもなくて困ってるかと思ってさ。亭主ひぼしにするわけにはいかんじゃないの。世間さまに対してさ。」
「世間さまか。おれさまじゃないんだね。ま、おれさまもこれで、自分の口一つぐらいはなんとでもなるがね。」
「わるかったわね。ほうき屋にでもなって、もうけましたか。」
「そうだよ。」
「へえ! よくもとでがありましたね。これもお安さんですか。」
「ちがうよ。実をいうとな、三河屋の隠居なんだよ。売れたとき払いでいいからってね、回してくれたんだ。そいつがまた、案外売れるんだよ。きょうは五百円ほどもうけたよ。」
 ここらでちょっと仲なおりに出ると、おせいの方もさすがに顔をほころばして、
「へえ。もっと早く気がつけばよかったね。」
 ふたりはつれ立って銭湯へ出かけ、久しぶりにいさかいのない夜をすごした。こんな毎日だと、どんなによかろうと思ってはみてもそうはゆかない。朝になるとおせいは飯も食べずに出かけた。夫のためにやわらかい飯をなべにしかけて、
「おとうさん、そんならまた、ちょいちょいもどってきますからね。あんたも、もうけたら一銭でもためといてくださいよ。」
 朝食をすますと兵六さんはきのうとは少しばかりちがった気もちで家を出た。ほうきはやはり五本である。彼はゆうべの予言におどらされているかのように、一軒一軒聞いてまわった。
「ごめんください。ほうきはいかがですか。おざしきぼうきにしゅろぼうき――」
 すると十軒のうち九軒、いや三十軒のうち二十九軒までが、奥さんはつんとした顔で、同じ答えなのだ。
「まにあってますわ。」
 あとはもう、残飯をあさりにきた犬のように無視され、敵視される。
「お安くしときますがね。市価の半額でいかがですか。」
「まにあってるのよ。」
「ただでいかがですか。」
 わざとにやっとして次の家へゆく。それでも三十軒のうちの一軒ぐらいはまともに相手をしてくれる。
「半額ですって。ほんとならほしいんだけど、今お金ないのよ。だって、ほうき、高いんだもん。」
「高くありませんよ。市価の半額なんですからね。まあ見るだけ見てくださいよ。」
「だめよ。見たらほしくなるもの。それでも貸してはくれないでしょ。」
「お貸ししますよ。金がないのはお互さまだあ。三日や五日なら貸しますよ。」
「ほんと。夜逃げしたらどうする。」
「夜逃げ? 大丈夫だよ。富山の薬屋に知りあいがいるんでね、草の根分けてもさがし出してくれるから。」
 こうなったらしめたものだ。冗談でねばっていれば大てい買ってくれる。とはいえこれとてそうたやすいことではない。三河屋の見当通り三本売れたら上々で、いい加減くたびれた。それでも売れさえすれば、ほうきの重たさだけ気は軽くなる。
 こうして一日おきの五日がかりで七本まで売りさばいた時、兵六さんはほとほとほうき屋がいやになった。くたびれが商いの意欲を失わせかけたのかもしれない。同じことをいって歩くのもあきあきしたし、新しい販路を開いてゆくのも大儀だ。もう自分の力の限りをつくしたような気がする。たとえくたびれもうけになっても、今度こそ残りのほうきは半値でたたき売ってきれいさっぱりしようか――などと考えながら、小さな流れのそばの橋のたもとで一ぷくつけた。そのあたりは小公園らしく雨にさらされた幾つかのベンチがあって、子供が大ぜい遊んでいた。風船屋が店を出しており、紙芝居屋もたった今一席終えたらしく自転車の上の舞台をしまって帰っていった。日はもう傾きかけていた。一つのベンチにほうきと一しょに席をとり、ぼんやりと空をながめる兵六さんのそばを、買物かごのおかみさんたちが行き来する。話しかけてみようか、と思ったが、商いごころがにぶると相手の顔がみな貧乏に見えた。一本三百円ものほうきを買う金など持っていそうな女は見つからなかった。ますますがっかりしてもっそりとしている兵六さんの耳に、皮肉にもはずみをつけたような呼び売りの声がきこえてきた。川に沿った道のかなたから、からんころん、がたごとと、町の雑貨屋の荷車が異様な物音と共にゆっくりと近づいてくるのだ。
 ――ええ毎度ありがとうございます。おなじみの雑貨屋がやってまいりました――
 なるほど車の上は雑貨の山だ。大きなその車は横にはり出し、縁台のような二階がこしらえてある。二階のぐるりにはかなしゃくし、もの干し機、かな網、大小のやかんなど、そのほかいろんなものが一ぱいぶらさがっていて、物音はそれらの雑貨の合唱である。
 車の主は四十そこそこの男だ。兵六さんのそばに車をとめると、今やんだ合唱団の一々を紹介でもするように、口まめに呼びたてた。
 ――ええ、荒物からかなもの、おもちゃから雑貨、化粧品などいろいろとりそろえてあります。ご参考までにごらんください。えーおさかなの網からもち網、荒神ぼうきからびん洗い、かんきりつめきりから小ばさみ洋服かけ、大きな十能から小さな十能、七輪の網から渋うちわ、かみそりからひげブラシ、ホークにおさじにほうちょうにまないた、ちりとりごみとりお座敷ぼうき……
 調子のよさにうっとりとして聞きほれていた兵六さんもお座敷ぼうきと聞くと思わずぎくりとして目を見はった。ほうきは貧弱なのが二本、車の後に立てかけてある。兵六さんのよりはるかに安物らしい。草も少なく柄も細い。なぜともなく兵六さんはほっとして男の顔をみた。しかし雑貨屋はなかなかの精力家らしくその呼び声はみずみずしく、女相手の商売がらかあいきょうにみちていた。
 ――ええ、毎度ありがとうございます。荒物からかなもの、化粧品から雑貨、何から何まで市価より一割安から半値まで、本日の元値売りは十円のライオン歯みがきが二つで十五円、はたきに灰ふるい、タワシにおさいばし、つめきりせんぬき渋うちわ、お玉じゃくしに庖丁さし、どれがいくらこれがいくらといわずみんな十円均一……
「おじさん、はみがきちょうだい。それとたわし二つね。」
 娘らしい若い女が第一客だった。すると続いて三人づれの奥さんが申し合したようによってきて、
「ね、ミルクパンも十円? あら、こっちは六十円均一なの。」
「道理で、安すぎると思ったわ。六十円ならちっとも安くないわよ。」
 すると雑貨屋はもみ手をしながら、
「奥さん、市場のかな物やでみてきてくださいよ。六十五円ですよ。」
 笑うと犬歯がぬけている。
「わたし、スリッパもらうわ。安いわよこれ。げたやさんじゃあ一番安くて八十五円ですからね。」
「わたしは洋服ブラシいただくわ。あと四十円でコップ四つね。ほんとに安いわ。」
 まるでサクラのように安い安いといいながら買ってゆく奥さんに、雑貨屋は如才なく、
「はい、毎度ありがとうございます。気は心、二円おまけいたします。」
 一時間近くもそこで商ったろうか、そろそろ人足も少なくなったころ、雑貨屋ははじめて兵六さんに気がついたような様子で近よってき、
「ごめんなすって。」
と、ならんで腰かけ、ポケットから新生をとり出した。
 兵六さんは時のたつのも忘れはてて、その雑貨屋の商いぶりを始終感心してみていた。客に会釈をするとき、頭をさげないで腰をさげるくせも、笑うとみか月のように細い目になる表情もすっかりみてしまった。みていた限りでは彼はすっかり自分の商売にほれこみ、楽しみきっているようだった。彼の商売はほうきなどとちがって、手軽に買えるものばかりなのもよい。百円出して六十円の洋服ブラシを買えば、残りで一個十円のコップをもらう。コップはさっそくその日から重宝されるにちがいない。これでなくちゃあ商売になるまい。そこへゆくとコップのように割れることがないほうきなど、古いものでもまにあう。買ってくれ買ってくれとたのんでも、まにあってるといわれればそれまでではないか。
 兵六さんは三河屋がうらめしくなった。心にもないほうきなどを売らしてと、思うにつけても雑貨屋がうらやましい。何とか相談にならないものかと考えているところへ、運よく雑貨屋の方から近づいてきた。雑貨屋はさもうまそうに大きく新生の煙をはいてから、兵六さんの三本のほうきの方にちらりと目をやり、
「売れましたね。」
と、あいそがよい。きょう十本持って出て七本売れたとでも思ったらしい。
「いや、だめでさあ。それよりもさっきから見ていましたがね、あんたの商売はおもしろそうですな。わしゃあもう、つくづくほうき屋がいやんなりましたよ。きょうは二本やっとですからね。」
「そうですかね、やっぱり、ほうきだけじゃあ、無理でしょうな。わたしもほうきはあの通りもっていますがね、ほうきのはけるのはいいとこ五日か十日に一本、まあ暮れにでもなりゃあ別ですがね。――どうです。一つわしの商売やる気はありませんかね。」
 もっけの幸いである。兵六さんは思わずからだをのり出し、
「本気ですかね。」
「本気ですとも。まあ初めはいやな商売ですがね。そこをのり越すとこんな面白い商売はないですな。やる気ならわしんとこへきてみてくださいよ。三河島ですがね。わたしのほかに五人ほどいる売り子の成績をお目にかけますよ。一割貯金の通帳ですがね。一日に三千から五千の売上げで二割五分の利益でさあ。やれ就職難だ、デフレだとやかましい世間ですがね、ここまで身をおとせば生活難くそくらえでさあね。はっはっは――」
 立って川もに向った男の放尿にさえも気力を感じて、兵六さんの目はかがやいた。
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風そよぐ


 かんたんにすめばその日のうちにでも帰れることをいつか経験のあるお隣りの奥さんから聞いて知っていたので、浜子が出かける前に、音枝はささやいた。
「夜、九時すぎたら夏樹がねるわ。そしたら迎えにいくわね。」
 すると浜子は遠慮して、
「大丈夫、ひとりで帰れるわ。」
「でも、ひとりじゃあ無理だってよ。おとなりの奥さんでさえ――」
 旦那さんが迎えにいく――といいそうになったのをのみこんで、
「ひとりじゃ帰れないのよ。麻酔がさめきらないからふらふらだってよ。だから、わたしがいくまでまっててね。こんなことって、何でもなさそうでも、ほんとは大変なんだってよ。」
「いいわよ。そんなとこまでおねえさんにやってこられるのいやだ。」
 それを浜子のわがままや得手勝手とばかりにもとれず、それならばと音枝は一日入院の費用をもたせたのである。それもお隣りの奥さんの嘆きから得た知識である。七つをかしらに三人の子持であるとなりの奥さんは、ここのところ毎年、もしかしたら一年に二回も産児制限をしている。それがいつもおしゅうとめさんに内しょなのだ。時にはその費用のねん出に困って、安江のところへかりにきたこともある。そんなことで音枝までが事情を知っていた。子供が三人もあれば、主婦は一夜を病院のベッドでゆっくりと休むことさえできないし、おまけにしゅうとめに内しょとなると、苦労も一通りではない。
 ――もののわかったしゅうとめなんですけどね、それでも嫁となれば、何かしら遠慮なんですよ。バカな話ですけどね。でも、ぽかっと一度に三千円出てゆくなんて、うちの支出ではほかにありませんもの。これがあったら子供の洋服でも靴でも買ってやれるのにと思うと、わたしひとりがぜいたくしてるようで、つい三度の二度は内しょにしますの。――
 だからそんなときお隣りの奥さんは口実に苦労する。会社の連中と一しょの奥様同伴の日帰り旅行だといって出かけて、夜おそく貧血をおこしたといってごまかしたりせねばならないのだった。
 ――女って、どこまでかわいそうにできてるんだろうね、まったく……
 安江がそういってためいきをしたこともあった。その安江にさえも、浜子のこととなると、音枝はうちあけられないでいる。浜子がどんな顔をして帰ってくるだろうと思うと、そんなあとの隣りの奥さんのあおい顔色を思い出し、音枝は気が気でなかった。
 二日たった。浜子はまだもどってこない。用たしのような顔をして出かけようとする音枝に、安江はきげんよく、
「浜ちゃんは?」
「出かけたわ。」
「そう。よく仕事があるね。いいかげんでをあげるかと思ったけど、ま、あれはあれでいいよ。」
 音枝が胸をどきつかせているとも知らず、安江は、きげんのよい時のくせで、思いやり深そうにつづける。
「浜ちゃんて、考えてみりゃおもしろい子だよ。本気になっておこったりするとかえっていけないんだよ。せめてうちだけでも、だまって見ててやるんだね。あれで、案外正直なんだよ。あんな子はかえって大それた間ちがいなんておこさないよ。」
 何も知らない母に、自分までがかくしごとをしている心苦しさで、音枝は母の顔をみることができなかった。といって、今更うちあけるわけにはゆかない。今はただもう、浜子が無事に帰ってくることだけを念じている音枝に、安江はなおもつづけて、
「ね、いっとくけど、浜ちゃんを少しでも軽べつしたりなんかしちゃあいけないよ。どんな仕事をしようともさ、彼女にしちゃあ、何とかしてやっていきたいあまりのことなんだからさ、少々ぐらい目に余っても、うちの娘だったらどうすると思えばしようがないもの。ね、そうじゃないか。かわいがってやっておくれよ。たのむよ。」
 そしてやっと気がついたように音枝の出じたくをみると、
「かえりに、花買ってきておくれ。なんでもいいからさ、白いカーネーションでもいいよ。一本だけ赤いのをいれてね、十本ばかり」
 外に出ると音枝はふっと涙ぐみながら、気がめいった。それでも足は軽いかのようにそそくさと、心当りの医者の方へと彼女の小さなからだを運んだ。真っ昼間である。彼女は人目をはばかることさえ忘れて、婦人科医の門をくぐった。「ベルを押しておはいりください」のはり紙をみると、ためらうことなく押した。思いがけない近さでベルが鳴り、とびらをあけると、やつれた顔の見知らぬ女が三人、順番をまっていた。音枝ははじめてはじらいながら、自分はちがうという態度で受付に立った。
「あのう、宮川浜子が、こちらにいると思いますが――」
「宮川さん? さあ、ちょっとおまちください。」
 首をかしげながら奥に引っこんだまま、なかなか出てこない。
 代って出てきたのは、白いうわっぱりの女医さんだった。町で何度か見かけて知っている顔であったが、女医さんの方では、どこのだれかわからぬ表情で、
「どなたですって?」
 音枝はどきっとしながら、
「あの、宮川浜子って申しますけど。」
「宮川浜子って、おととい入院したんですって?」
「ええ、多分こちらだと思うんですけど。」
「おかしいわね。そんな方いませんよ。どんな方ですの。」
「どんなって、あのう、親せきの者なんですけど……」
 何と答えてよいかわからぬ音枝に、女医さんはぐっと癇性かんしょうにまゆをよせながら、
「年はいくつぐらいですの。――時々偽名をつかう人がいますからね。」
と、あとの方を小声でいう。
「あ、年は十九でございます。――もうはたちになったかもしれませんけど……」
 そこまでいうと女医さんは、「ああ。」と心当りのある声を出し、音枝をほっとさせそうになったが、急に威厳をもたせた表情で、
「たしかにいらしったわ、その人。そうそう、宮川っていいましたよ。でもね、ろくに診察もさせないで、とび出しちゃいましたよ。――ほら、あの活発な人だよ。」と、あとの方は看護婦にいって、にやっと笑い、
「あの方、奥さんですか。」
と聞く。音枝は恥でまっかになりながら、
「あの、それではこちらでお世話になったのではございませんのでしょうか。どこへいったか、ご存じないでしょうか。」
「知りませんね。」
 急に背をみせた薄情さにおどろきながら、音枝は、小さな受付の窓ごしに、看護婦の目をとらえて、一生けんめいのおろおろ声で、近くの婦人科医を聞いた。二三おそわったそこは、どこもみな遠くはないが、電車かバスに少しずつ乗ってゆく所ばかりだった。困惑と不安で顔色もあおざめながら、それでも音枝の足は、まず一ばん近い医院へ向っていた。目をすえるようにして、
「あのう、こちらに宮川浜子が入院しておりますかしら。」
 ここは男の医者だった。前と同じような問答の末、そこにも浜子がいないとわかると、音枝は次の医者へ走った。母のことを思うと、あせる胸を押えて要領よくなろうとした。
「ちょっとうかがいます。宮川浜子っていうんですけど、もしかすると別の名前で入院してるかもしれません。十九歳になる女ですの。妊娠中絶ですが入院してますかしら。」
 やっぱり浜子はそこにもいなかった。わきあがる不安で音枝の足はがくがくしだした。家へ帰ると安江はまちかまえていたらしく、
「どこまでいっていたの。花屋が引越していたのかね。」
 いきなり強い声でそういわれて、音枝ははっとした。花のことなどすっかり忘れはてていた。花どころではなかったのだ。彼女は一さいがっさい浜子のことに集中して、三時間近くをかけまわり、その日のおかずさえ何も買わずに帰ったのである。
「ごめんなさい。花、すぐ買ってくる。」
 そうはいいながらも、がったりとした様子でたたまるようにくたくたとその場へすわりこむと、さすがに安江もいつもとちがう娘に気づいて、
「どうしたの、走ってきたような顔してさ。」
 やさしくいわれると音枝は急に気がゆりて、子供のように泣きべそをかきながら、
「困ったのよ、おかあさん、困ってしまったのよ。浜ちゃんたら、どこにいるか、わかんないのよ――」
 おとといの浜子のことと、きょうの音枝の三時間にわたる動きを聞くと、今度は安江の方がだまりこんでしまった。
「おかあさん、ごめんなさい。おかあさんに相談しないで、わるかったわ。ね、ごめんなさい。」
「…………」
「でも、わたし、あとでいうつもりだったのよ。おかあさんの仕事がすんでから、いうつもりだったのよ。わたしの浅知恵だったわ。ね、ごめんなさいね。」
「…………」
「ね、おかあさん、心配しないで。わたし、きっとさがし出してくるわ。」
「…………」
 安江はぷいと立って部屋のふすまを立ててしまったが、しばらくすると肩をいからすようにして出てきて、まださっきのままの場所を動かずに思案している音枝に、
「馬鹿だよお前は。馬鹿で馬鹿でしようがないよ。いっとくがね、浜ちゃんのことなんて、ほっとけばいいんだ。自業自得なんだからねッ。勝手にさしとけばいいさ。何だね、お前までが、わたしをだます気だったのかい……」
 おしまいは泣きながら、安江はまた部屋にひきかえした。しかし音枝は、動転している母を見たことで、とにかく自分のとった処置が誤っていなかったことをさとった。母も、やっぱり父を疑っている――。そう思うと彼女は急に思いついて外に出た。自動電話のボックスにはいると、きびしい顔つきで文吉の勤め先を呼んだ。しかし文吉は外出して留守だった。なるべく早く帰るようことづけをしておいて、花屋によった。姫ゆりの可れんな姿が目を引いたが、今の母の気持を思うと、花を買う気にもなれず、引きかえした。
 家へ帰ると、安江はひとりで床をのべてねていた。音枝はほっとした。こうなれば安江が安江らしくなるのは、もう時間の問題である。起き出してくるまでには顔色もおだやかになっているはずだった。だが、夕食になっても安江はふとんから顔を出さない。
「おかあさん、ご飯だけど。」
 小さな声で呼びかけてみたが返事がなかった。眠ってはいないらしく、薄い夏ぶとんを動かす呼吸はこまかく、静かだった。
「どうしたの、おかあさん。」
 冬太郎が何かを感じたらしく音枝に問う。
「くたびれてんのよ。ねかしといてあげよう。おとうさんと一しょでいいよ。」
 何気なさそうにいうと、夏樹は、いやだアいやだアと叫びながらまくらもとへかけてゆき、
「かあちゃん、ごはんですよったら、ねえ、ごはんだよう。あっ あっ たぬきねいりだよ。おかあちゃんたら、ぼく、まってたんだよ。ごはん。ね、おかあちゃん、ご、は、ん。」
 とうとう夏樹は安江をひっぱりおこしたらしい。
「まって、まって。夏樹、顔洗うからさ。」
 しゃがれた安江の声にちゃぶ台の前の音枝たちはほっとして顔を見あわせる。夏樹は洗面所までついてゆくらしく、だんだん声を遠のかせながら、
「ね、野菜サラダもあるよ、おさしみもあるよ。お豆腐のおつゆだよ。それからね……」
 不きげんなときのくせで、茶の間へはいってきた安江は、終始無言でだれにも視線をむけなかった。夏樹がひとり、たわいなくしゃべっているほか、音枝も冬太郎も母にならってだまっている。こんなときの飯のまずさは、食べただけずつ気が重るほどだった。それを知っていていつも食事時の不きげんをたしなめる安江が、きょうは腐ったかぼちゃのように、むくれた顔をしているのだ。一ぜん食べたきりでおかわりもしないで、彼女はもっそりとみんなの終るのをまっていた。見ていないような様子で彼女はじっと冬太郎をみている。そんな母をこわがりながら、楽しくない夕食をすませた冬太郎は、はしをおくと、いたたまらないようにさっと腰をうかせ、
「ごちそうさまあ。」
 立ちあがろうとするのを押えるように、安江はきびしい声で、
「冬太郎!」
「はい。」
「ちょっとおすわり。」
「はい。」
 冬太郎は思わずすわり直し、まっすぐ母をみた。
 しかし安江は、そばにけげんな顔をした夏樹のいるのに思いをめぐらしたのか、急にきげんを少しとり直した様子で、
「ま、いいよ。どうでもいいこった。またにしよう。」
 そういって自分から先に立ち上り、食卓をはなれた。いつもなら、ちぇっ、とかなんとかいう冬太郎も、きょうはだまってそのうしろ姿をみおくった。安江の足音は自分の部屋へはゆかずに、やがて応接間のドアをノックするのがきこえた。ははあと思っている音枝に、
「どうしたの。」
と、冬太郎の声は小さい。音枝はんんーん、と首をふり、やはり夏樹を気にしている様子であとかたづけをはじめた。ことによったら、冬太郎にもある程度打ちあけて、一しょに浜子をさがしてもらおうかと思っている音枝に、彼は両手の人さしゆびでちゃんばらをしてみせ、
これでも、やったの。」
「んんーん。」
 音枝はまた鼻音で答え、そして、今度は腰をすえている冬太郎に目で合図をしながら、
「ね、夏樹のねま、しいてやってよ。鼻こすってるわよ。」
 眠くなると鼻をこすり出すのがくせの夏樹だったが、彼はその鼻をこすりながら、
「いやだあ、まだねむくないよ。」
「だめだめ、きょうはおねえちゃん忙しいんだからさ。あとで注射にいってくるんだからね。」
 注射と聞くと、夏樹はにやっとして、すかさず、
「おみやげね。」
 注射がおどし文句であることを彼はようやくこのごろわかってきたのだった。だまって従えば必ずおみやげにありつけるのだ。夏樹はうきうきとしてパジャマに着かえながら、
 ――しずかにねむるうしみつどき……
とやり出した。音枝も冬太郎も思わずふき出す。終日外で遊びほうけて帰ってくる夏樹は、このごろやたらそんな文句を覚えてきて、
 ――ね、稔ちゃんがノブタケ君に石なげたんだよ。ノブタケ君、イカリニモエテタヨ――
 そしてふろしきを持ち出しては覆面し、棒切れを四五本も腰のバンドにぶっこんでいい気になっていたりする。
 げらげら笑っているところへ、安江が顔を出し、むっつりとしたまま冬太郎を目で招いた。音枝はぎくりとした。それはいうにいえない複雑な悩みをもった顔であった。母のそんな顔を、かつてみたことがないと音枝は思った。冬太郎に、母は何をいおうとするのだろうか。音枝はあるもどかしさでくちびるをかみ、だまって夏樹にそい寝した。
 冬太郎を呼びつけはしたものの、机を中に相対していると、安江はもうなにもいいたくなくなった。今彼女が直面している問題と、冬太郎とはあまりに別のものなのをさとったからだ。それでも一応は疑ってみなければならなかった自分もいやだったのだ。
 ――冬太郎は、おかあさんを心配させるようなことは、ないかね。もしもあったら、いってもらいたいんだがね。いいにくかったら、手紙に書いてくれてもいいよ。いやなことは早く消化してしまった方がいいからね――
 こんな風にいい出して、浜子とのいきさつがもしもあるとすれば引っぱりだし、この際はれ物に一度にメスをいれようと思ったのだ。しかし考えてみれば、それは、まるで夏樹にいうような甘っちょろい言葉である。といって単刀直入に、浜子の事件をいい出すのもはばかられた。とはいえ、一言だけはいったのである。
「浜ちゃんが、どっかへいって帰らないんだがね――」
 すると冬太郎はすなおにおどろき、
「ほんとう? どこへいったんだろう。」
 まじめに心配する顔色をみて、安江はほっとした。ここにはまだけがれのない魂があると思った。それは進君とのやりとりに比べても、そう信じるよりほかなかった。さっき進君は、安江の姿をみただけでもううろたえていた。安江が、それこそ単刀直入に、
「進さん、へんなこと聞くようですけど、あんた、浜ちゃんとは何もなかったの。」
 すると進君はまっかな顔をして、へどもどしながら、
「あの、いいえ。」
 安江はつい、かさにかかったものいいをしてしまったかと気がつき、わざとやわらかく、
「ね、浜ちゃんのことで、何か気がついたことあったら、聞かしてくださいよ。わりあい、あんたには何でもいってたんじゃなかった?」
「…………」
「浜ちゃんが、うちを出たがってたのは知ってたでしょ。」
「あれは、僕が先にいい出したんじゃあないです。」
「あら、それどういう意味。」
「…………」
「浜ちゃんと相談して、あんたも一しょに出るつもりだったってこと?」
「…………」
「それでも浜ちゃんと、何でもなかったの。」
「僕、浜ちゃんに誘惑されかかったんです。」
「へえ、それで?」
 安江は自分の目がすわってくるのを感じた。
「浜ちゃんは、にんしんしています。」
 進君はそれを、苦しそうに横をむいていう。その表情から真実をさぐり出そうとでもするように、安江は目をはなさず、
「しってますよ。」
「でも、それは、ぼくの、――ぼくの……」
「責任じゃないっていうのね。」
「そうです。」
「だれの責任でしょうね。」
「しりません。ただ、ぜったいに僕ではありませんから、誤解しないでください。」
「そう。じゃあ、全然、せいれんけっぱくだったのね。」
「…………」
「進さん!」
 安江はきつい声で、
「あんた、浜ちゃんに対して、ほんとにせいれんけっぱく?」
「…………」
「わかったわ。何にもいわないことは百万言をいってることにもなるのよ。とにかくね、わたしは責任をもって浜ちゃんの将来を考えたいと思うの。この際、責任のない人はここから出ていってもらいたいのよ。ひきょうな人間はみんな出ていってもらいたいわ。」
 すると進君は、殊勝しゅしょうらしくうつむいていた顔を、前髪がゆらぐほど力をこめてふり上げ、憎しみをさえこめていい放った。
「おじさんや冬太郎君もですか。」
 安江はかあっと血の上るのをおさえながら、
「おじさん? うちのおじさんや冬太郎もひきょう者だというの? そんなこというあんたを、ひきょう者だというのよ。人の弱点につけこんで、なんですか、みっともない。出てってちょうだい。」
「居住権があります。」
 開きなおった進君にあきれながらも、そうなると安江も皮肉になった。わざと声をおとして、
「居住権ねえ。へえ、そんな重宝なものがあるの知らなかった。やっぱり、大学はゆくものね。ああそうか、あんた法科ね。弁護士になるんでしたね。弁護士さんは、家主側からたのむことだってあるんじゃない? 家主の権利なんてのは、どうなの。まる七年間、家賃をとらなかったってことは、権利放棄になるんですか。ついでにそれも考えといてね――」
 安江はそれを、わざと気軽そうにいって進君の部屋を出たのだった。ドアをしめたとたんに、さっきよりももっと重い石を、もう一つ抱かされたような気がしていた。しかし部屋にはいって、話しかける自分の目をはずさず、かっきりとあわしてくる冬太郎のひとみをみると、一つのおもしは次第に軽くなるのを覚えた。そのことはまた浜子の上にも及んで、彼女の気持はいつか、少しずつなごんでいた。
 残っているのは文吉ひとりである。
「おかあさん、みてごらんよ。いい月だよ。」
 すだれをはずしていた冬太郎は安江をふりかえり、
「散歩しないかな。月夜の散歩、素敵じゃない、おかあさん。」
 ああ、わたしの気の重さを、この子は察している――と安江は涙ぐみそうになるのをこらえながら、
「散歩か。悪くないがね――」
 しかし浜子のことを思えば散歩どころではない。といって、冬太郎の前にはっきりさらけ出すようなことはしないで浜子の問題は解決しようと考えている安江に、冬太郎はふたたび、
「ね、散歩しよう。バッケの原、いいぞ。帰りにすすきでも折ってこようよ。ただだ。」
 安江はふっと心が動き、
「いこうか。じゃあちょっとゆかた着かえよう。お月さまに失礼だからね。」
 立ちあがると、じゃあぼくもと冬太郎は二階へかけあがる。そのまに安江は音枝のそばへゆき、こしょこしょとささやいた。
「浜ちゃんのこと、冬太郎には当分いわんとおき。」
 とんとんとんとはしご段をおりてくる足音を聞くと、安江はいそいで御不浄へはいった。今度は冬太郎が、こしょこしょっと音枝にささやく。
「おふくろのごきげん、引きうけたよ。帰りに花屋へでもつれてって、タイガーでアイス・クリームぐらい買わせるよ。」
 その両方にうなずいて、音枝はひとり留守番になった。やはり浜子のことは心を去る瞬間もなかったが、思いわずらってみても、どうにもならなかった。どうせ浜子のことだ、あすあたり、けろりとして帰ってくるだろうとでも考えないとたすからなかった。ふたりをおくり出すと、かるいいびきをかいている夏樹のそばで、つづけて音枝はそい寝をした。ねながら音枝の胸を去来するのはやはり浜子のことである。たった今あきらめたばかりなのに、どうしてこう、ついて離れないのか。――しかし音枝もいつのまにかうとうとしていたらしい。
「だれも、いないのかね。」
 玄関に文吉の声を聞くと、思わずはね起きはしたものの、いつものような顔になかなかなれなかった。食卓に向いあってビールをつぎながらも、むっつりしていると、文吉は、
「どうしたんだ。不景気な顔して。いやならいいよ。飯ぐらいひとりで食うからさ。」
「そうじゃないわよ。」
「どうなんだ、そんなら。」
「心配なんですよ、浜ちゃんのこと。――」
 いろいろ話すと文吉もはじめておどろいた。そのおどろいている文吉に、冷水でもかけるように、
「おかあさんはおとうさんを疑ってるわよ。――おとうさんたら、疑われるようなことばっかりするんだもん。」
 ぱーんと音枝のほおに文吉のてのひらがとんでいた。

 ゆっくりゆっくりなのにどうしたのか安江は、足もとがひょろひょろしていた。それに気がついてかどうか、冬太郎は腕をつきつけるようにして、
「おかあさん、ぼくにつかまったら。」
 その背の高いむすこを見あげるようにして、安江はひとり感慨にふける。
 ――この子が、二十年前に、わたしの背中にくくりつけられて、東海道を三等車にゆられて上ってきたあの赤ん坊だとは……しかもその赤ん坊だった冬太郎が、時代とはいえもう女友だちをもつほどの若者になっている。
 それにつけてもならべて思い出されるのは浜子のことであり、進のことであった。ことに浜子は冬太郎とは同い年である。もしも冬太郎が女であったなら――と思うと、その延長として冬太郎の女友だちの妙子のこともまた、一応は浜子と同列にして考えてもみなければなるまい。それぞれの性質や環境によって、ひとりひとりのあり方にも考えにも相違があるとはいえ、風にそよぐ草木のように、吹きさらされてさわぎやまぬことにおいては、どれだけの相違があろう。そして、その中から浜子のような不幸も生まれるとしたら……。
「ね、妙子さん、どうしてるの?」
 何気ないもののように安江は問いかけた。草原にならんで、足をなげ出している親子のやや真上に、月は小さく丸かった。
「どうも、してないよ。」
 たった今妙子のことを考えていたのだというように、冬太郎はてれた口もとをし、
「きょうも、帰り、一しょだったけど。」
「そう。しあわせかい?」
「うん。」
 彼はますますてれて、子供のころと同じ口もとになる。
「ね、おかあさんがこれからいうことは、少々古くさくて、センチかも知れないがね、愛情なんてものを、それが友情であろうと、恋愛であろうと、お粗末にしなさんなよ。」
「わかってるさ。信じておくれよ、おかあさん。」
「信じてるさ、信じてるからいうようなものなんだ、いってみれば。――じゃあね、深刻な問題を一つ出そう。もしもだよ、ずばりというよ、ひょいとしたことで妙子さんが妊娠したとするね、お前、どうするかね。」
「いやだ、そんなこと。不潔だよ。」
「不潔? 不潔の張本人がお前だったらどうする。男女の行為の当然の結果として子供が生まれるのが不潔?」
「不潔ですよ。だって、ぼくたち、清潔なつきあいだけだもん。そんな話、いやだよ。」
 冬太郎は憤然としてくちびるをとがらせた。
「ごめん。」
 安江はすなおにあやまっておいてから、
「ね、これはお前にいうつもりではなかったんだがね、やっぱりいっとくよ。浜ちゃんのことなんだがね。」
 それだけでもうさとったらしく、冬太郎は悲壮な顔をして、
「それで、浜ちゃん家出したの。」
「いや、もう今ごろはかんたんに結末がついてるだろうよ。お医者へいったんだから。ただ、それっきり帰らないから心配なのさ。浜ちゃんのことだから、自分で自分の新しい道をきり開くつもりだろうとは思うけどね。」
「ふーん。」
「ところでね、私がいいたいのは、この現実なんだよ。」
「…………」
「そりゃあ浜ちゃんて子はああいう娘だから、自分でおとし穴へはまったかもしれないよ。でもさ、いくら浜ちゃんだって、おとし穴と知っててはまりこむはずはないだろ。しかも結末だけは女にのしかかってくるんだからね。それをお前、不潔なんてかんたんにいえるかね。だから、愛情なんてものを、大せつにしてくれっていうのよ。かわいそうじゃないか浜ちゃん。――浜ちゃんというより、女全体がよ。男と女のほんのたわむれの結果でさえ、女は大きな大きな犠牲を払わなくちゃならないんだもの――」
 月の光が安江の両の目に宿り、ころころところがっておちた。冬太郎もしんみりしていた。やがて彼は夜露にぬれる母を案じるように、
「おかあさん、そろそろ帰ろうか。」
「そうだね。」
と、安江はあたりを見まわした。さっきごろまでちらほら見えていた人かげもみえなくなり、川をへだてた原っぱをつなぐ橋の上をごうごうと渡ってゆく電車までが、夜ふけた感じであった。珍らしく客がまばらなせいだろう。月はいよいよ高く小さく、もやがかかったような光の下にひろがったバッケの原のすすきのくさむらも、しずくにぬれたように葉がたれている。冬太郎は母の両手をひっぱって立たせてやりながら、
「おみやげにすすき、折ってかえろうか。」
 安江はそれに首をふり、
「やめとき、まだ穂が出てないもの。来月まで待つんだね。」
「お粗末にしない愛情!」
 ちょろっと舌の先を出す冬太郎に苦笑しながら、それでもきげんよく、
「そうさ、今のすすきは、人間でいえばまだティーン・エイジャーというところだからね。たのむよ。」
 安江はそれでまた浜子を思い出していた。
 家の灯がみえ出すと、安江の足は思わず早くなった。もしかしたら浜子が帰っているかもしれないという期待からだった。帰っていればどんな顔で迎えようか。ともかく大きな打撃のあとなのだから、立ち入ることは禁物だと思う。そこは音枝にまかして、これまで通りの顔をしなければと考えながら、
「浜ちゃんのこと、冬太郎は聞かなかったことにしといておくれ。」
「うん。」
「大体わたしは――」
 こんなもってまわるようなお芝居はいやなんだがといおうとしてやめた。お芝居どころじゃない気がしたし、第一、こんなときに音枝だけを残して散歩になど出たことさえ気がとがめ出していた。冬太郎は冬太郎で、安江の緊張した顔に気がつくと、アイス・クリームを買うことも何となくいい出せなかった。また神経痛がおこったらしく母が少しびっこをひいていることも気になったが、それさえいい出しかねた。それほど安江は、心ここにあらずの様子だったのだ。それでも安江は、敷居をまたぐなり、
「ただいまア。」
 わざとらしいまで元気な声だった。出むかえた文吉と音枝の顔色で、浜子はまだ帰っていないことがわかった。文吉たちも、月を見ながら話しあっていたらしく、広縁にかやりの煙がゆれていて、父と娘の湯のみも出ていた。音枝に熱い茶を所望しょもうしておいて、安江は文吉と向いあってすわりながら、つとめて何気なく、
「聞いた?」
「うん、困ったね。」
 気をきかしてその場をはずそうとする冬太郎を、安江はとめて、
「家族会議だ。冬坊、お前もここにいなさい。」
「はい。」
 音枝もよってきた。四つの顔がそろってみてのめいめいの意見は、とにかく浜子に帰ってもらいたいということ以外になかった。しかし捜索願などは自尊心の強い彼女のためにとらないことにして、あと三日沙汰がなければ、新聞に三行広告を出すことに決めた。それらの事務は文吉の受持ちで、安江はもう一度、あすにでも、浜子のいったという女医をたずねることにした。ここまできて、安江はやっと文吉に対する曇り勝な目が少しずつ晴れてくるのをおぼえた。だが、その気持のとなりに進君の言葉も消えないでいる。彼を追い出してみたところで、その解決はないのだと思うと、今夜、ひとりで月を見ているであろう進君の部屋に大声で呼びかけた。
「進さん、あんたもいらっしゃいよ。ひとりでいると、くさるわよ。」
 答えはなかった。
 その翌日、指定された午後三時を、少しは待つつもりで五分前にたずねてゆくと、あらかじめ面会の申入れをしてあったためか、床次女医は自身出てきて安江をむかえた。白いうわっぱりもぬいだ普段着の姿である。診察室はひっそりとしていた。
「お忙しいところをどうも。」
 安江が頭をさげると、
「いいえ、おまちしていましたの。もうきょうはおしまいですから。どうぞごゆっくり。」
 そして先に立って安江を私室に案内した。三十五六か、もしかしたら四十を少しは出ているかもしれないと思われるのに、若い女のように均斉のとれたからだに洋服がぴったりしている。へやも洋室だった。そこの長いすに彼女はじぶんからさきに姿勢をくずしてかけ、
「失礼しますわ。あなたもおらくになすってね。――何しろ朝っからの緊張がやっとこの部屋へきて、はじめてほぐされる習慣だものですから、どうも、この部屋じゃあ私、ちゃんとしてられないんですよ。これでも診察室ではなかなか、ぴちっとしてるんですがね。」
 十年の知己ちきのように話しかけられたことで安江は初対面のあいさつもぬきに、
「そうでしょうね。人のいのちをあずかっていらっしゃるんですもの――」
 すると床次女医氏は、はっはっとかったつに笑い、
「あずかってもいますが、にぎりつぶしてもいるんですよ。毎日毎日。」
 安江は誘いこまれるような気安さを覚え、すぐきり出した。
「あのう、さっそくで、よろしゅうございましょうか。」
 床次女医は安江の目的を百も承知のような笑顔で、
「ええ、どうぞ。私の知ってることなら何でも話しますよ。小説のネタなんでしょ。」
 意表に出られて二の句に迷う安江にかまわず、すっかりそう思いこんでいるらしい様子で床次女医はつづける。
「――まったく、いろんなケースがありますよ。こういう時代ですから、産児制限も大っぴらになったのはいいんですがね、それに乗っかって、こいつめ! と思うようなのがあるんですよ。とにかくおかっぱの高校生が堂々とやってくるんですもの。中には可愛らしいのもありますがね、せっぷんされたから妊娠してるかどうかみてくれなんて。かと思うと、二三日前でしたかしら。十九だっていう女の子がきましてね、私がいろいろ聞くのをいやがって、たんかをきってとび出したのがいましたわ。」
「あ、それ、宮川浜子でしょうか。」
 思わず安江はからだをのり出していた。
「あら!」
 目を見はった床次女医は、かいつまんだ事情を聞くとますますおどろいて、
「そうですか。私はまた、早がてんしてしまって。どうも、こういうそそっかしい女でしてね――」
 ぴょこんと頭をさげながら、しかし安江の不安をうち消すように、
「あの娘さんなら、大丈夫だと思いますわ。偽名なんかしないでしょうよ。とにかく心当りを聞いてみてあげますわ。でも、とにかくはっきりした方でしたね。お宅の方とわかってればのみこんでましたのにね。お宅のこと、おっしゃらないんですもの――」
 彼女はなれた手つきでかたわらの卓の上の受話器をとり、懇意こんいらしい相手との話に、移っていった。
「――宮川浜子。十九なんですがね、もしかしたら二十歳といったかもしれないわ。いない。そう。じゃあまたね――」
 結果を目だけで安江に告げながら、別のところへかけた。
「――あ、鹿島医院でらっしゃいますか。こちら床次でございます。ちょっとうかがいますが、お宅に宮川浜子って若い患者さん入院してませんでしょうか。は、入院だと思います。三か月か四か月ですから。はい、お願いいたします――」
 調べてくれていたらしいが、そこもだめだった。また新しくダイヤルを回し出すのをみると、安江は何かいたたまらなくなり、手洗いに立った。しかし床次女医のよく通る声はそこまでおっかけてきた。そばに安江のいないことで少しぞんざいになり、
「――荒井さん? 私、床次。ね、いそがしい? うん、やんなっちゃうよ毎日。人殺しもつらいね。そうよ。ところでね、あんたんとこに宮川浜子っての、入院してない? うん、はじめうちへきたのよ。んんーん。暴行か、でもないかな。でもまあ、そんなとこらしい。それ聞いちゃったらおこってね、たんかきって帰っちゃったの。うん、ちょっと事情があってね。いいよ、いいよ。じゃあまたね。」
 安江はいいようのない恥で、ふたたびその場へ、そ知らぬ顔では出てゆけない思いだった。しかし内心では、浜子のあの性格を思い、たんかをきったという彼女にも五分の道理がありそうな気がしていた。いくら浜子がアプレ娘だとはいえ、いきなりたんかをきるはずがないではないか。一つそこのところをくわしく聞かしてもらおうと思いながら、じゃけんに手洗いのじゃ口をひねり、たいしてよごれてもいない手をごしごし洗った。大きくいきをすってからドアを押すと、床次女医はまた別の相手と話し出していた。
「もしもし、床次でございますが――」

 もちろん浜子は、床次女医氏がいうようなたんかをきるつもりなど毛頭なかった。その朝音枝に入院費として五千円わたされたときの彼女は、生まれてはじめてのようなすなおさで、気がめいってさえいたのだ。
 今でも思い出せば楽しかったとしか思えない春の一夜、ただ好奇心から出発して、われからとびこんでいった享楽にこんなむくいがあろうなど、夢にも思わなかった浜子である。闇のほかはだれも知らないと、浜子はその素姓もわからぬ男にささやいたのだ。堀ばたの草土手にならんで寝そべっているふたりの頭の上で柳が風にゆれ、深い空に星がいくつも光っていた。
 ――星がみている――
 何もいわぬ相手に浜子はまたささやいた。小説かなんかで読んだセリフだと思いながら、真実やさしい気持になっていたのだ。すると、だまっていた男は急に行動を開始し、あっと思う間に浜子は未知の世界へ引きずりこまれていた。まったくあっというまの出来ごとだったと今でも思っている。本当いえば楽しかったか苦しかったかさえ、はっきりしないほどそれは短い瞬間だったと思うのに、浜子の生命は敏感に一つの別の生命をとらえていたのだ。そしてその感覚の余波に酔ってうっとりとなり、やがて起きあがった時、浜子のかたわらに男はもういなかった。はっと思わぬでもなかったが、後悔する気は全然なかった。心の奥の方に、あいこじゃないか。とささやく声があった。浜子は勝気に笑おうとした。さすがに笑えはしなかったが、苦々しいこととは思えなかった。さっきまで楽しかった気持のきりかえが、そう急にはできなかったのかもしれぬ。時がたってもその考えは大して変わらなかった。ある日の思い出として、だれにもいわずに、心の奥にしまっておくつもりだったのに、あいこのはずのそのたわむれが、瞬間の享楽の責任を女にだけおわしたのだ。あいこではなかった。浜子ははじめてあわて出し、あらゆる手さぐりの知識を総動員して、責任の不平等をくみ伏せようとあせった。だれもいない時、二階の階段を五段ほどとんでみた。行水をつかうふりして、水のたらいに腰をつけてもみた。心を卑しくして、進君と結ぼうとした。働いていると見せかけて、終日を山手線の電車にのってもみた。みんなだめだった。
 そんないやらしい過去の一さいが、きょうはぬぐわれるのだと思って床次医院のドアを押したのだが、五六人いた先客の患者にならって、殊勝な顔つきで、診察室へはいっていったとき、もうすでに、彼女の神経は対抗的になりかかっていた。見ぬかれた――と感じたからだ。白衣の女医は職業的に浜子の手首をにぎりながら、
「いつでしたの?」
 その、複雑な質問に浜子は思わずまっかになった。
 あらがうことのできぬ権威の前に立たされたような気持で、だまっていた。神妙らしくしているほか、手も足も出ない立場なのだ。
「どうしました。」
「…………」
 どうもこうもない。わけはさっき、看護婦をとおしていっているではないかとばかりに、浜子はしばらくだまっていたが、それでは事が運ばないとさとって、
「人工中絶って、申しましたんですけど。」
 それを聞くと、女医のぬれたような口もとに微笑がわき、目に光りがましたように思えた。浜子は思わずうつむき、
「おねがい、いたします。」
 不覚にもぽろっと涙がこぼれた。
「それはわかってますよ。でも、理由は?」
「あの、困るんです。」
「生活が?」
「はい。」
 それでかたづくものならとほっとする浜子に、
「だんなさまは、ご承知?」
「…………」
「失礼だけど、あなた、結婚しないで子供作ったんじゃないの?」
「…………」
「そうなのね。どこで、どうして?」
 やさしい口調ながらそれは、いちいち浜子の心を針でつき、かつてないはじを感じさせた。
「そんなことまでいわないと、手術していただけないんですか。」
 浜子はもう顔をあげて、かっきりと相手の目を見ていった。しかし床次女医は、ねこがねずみをなぶるようなゆとりで、
「そうですよ。だって、あなたはまだ未成年でしょ。おかあさんにでもきていただかないと、だめなんですがね。おかあさん、知らないの。」
「いませんわ、母なんて。」
「じゃあ親類の方でもいいのよ。とにかく今日は診察だけいたしましょうね。あした、どなたかと一しょにいらっしゃいね。」
 浜子は急に目の前がくらくなったようにがっかりしながら、それでもなおとりすがる思いで、
「先生、おねがいです。お金はもっています。今日、していただかないと、困るんです。」
「お金の問題じゃあありませんよ。未成年――」
「それはわかっていますわ。でも、未成年が妊娠してるんです。もうこんなことしませんから、わたしを助けてください。お願いです。お願いです。」
 泣いてたのみながらも、その自分の一言一言がかえって望みを消してゆくのを浜子は感じた。
「さ、あとのかたがまってるのよ。」
 寝台の方へ押すようにされるのを浜子はふりきってさけんだ。
「もういいです。うちの人にいうくらいならわたし、生みますわ。もうどうなってもいいです。」
 そういって床次医院をとび出したのである。
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日ぐれの宿


 ――ええ、まいどありがとうございます。おなじみの雑貨屋がやってまいりました。――
 都心を少しはなれた焼けあとの、粗末な都営住宅街の入口である。そこの奥さんたちが、これから朝の洗たくをはじめようという時刻を目あてに、雑貨屋の車がとまったのだ。
 ――ええ、あらものからかなもの、たわしから石けん、お座敷ぼうきもございます。――
 なれぬ呼びかけは兵六さんであった。彼がこの商売にかわってからもう十日位になるのに、例のお座敷ぼうきはまだついてまわっている。この三本残っているほうきが、彼にとっては、邪魔でならないらしい。そのうち売れるさと、雑貨屋の親方は、兵六さんの五日間の見習い期間中も自分の車につんでくれたが、その車のあと押しをしながら、おざしきぼうきにしゅろぼうき――の呼び声のところになると、兵六さんは思わずどきっとしたものだ。そして、親方の車にいてさえさばけなかったほうきは、そのまま兵六さんの車につまれている。それが売れるまでは親方からほうきを仕入れることはできないのだ。それが兵六さんにとっては気になってならない。それは、雑貨屋の百五十円売りのほうきにくらべれば、このほうきは値段だけでなく品物もとびきりだ。しかしいくら品がよくても、売れなきゃ商売にならない。といって、元値をきってたたき売るような愚は、雑貨屋になって以来の兵六さんにはもうなくなっている。もち網一つ、歯ブラシ一本と、ささやかな商売で、二円か三円ずつの利益を積みかさね、一日の決算が何百円かになっていることを思えば、短気にはなれなかった。そうとわかっていながら、なおほうきを邪魔に思うのは、わずかに残っている兵六さんのりちぎさである。彼は一日も早く、恩義ある親方から安くほうきをおろしてもらいたいのだ。それほど兵六さんは、今のところこの商売がおもしろくてならなかった。ほうきだけの時のように、一軒一軒の台所口に立って、奥さんのごきげんをうかがうのとちがって、
 ――ええおなじみの雑貨屋でございます。荒物からかなもの、おもちゃに化粧品、ポマードからくつブラシまで、ご家庭用品の何から何までそろっている移動デパートがやってまいりました。――
 そして何でもよい、車の上の雑貨の名を調子よく歌っていれば、人はよってきてくれる。
「おじさん、せんたくばさみちょうだい。」
「わたしには七輪の網ください。」
 こうした人たちとの接触は、兵六さんの失いかけていた生活への意欲を、ふるい立たせた。ふるい立ったもう一つの原因は、親方がみせてくれた五人の売り子たちの貯金通帳のことだった。石けん一つや割ばし十円の利益が集まって、通帳面には万の単位の金額が合計されていたのだ。それをみた兵六さんの頭には、夏樹と音枝の顔がさっと浮んだのである。
 それ以来、貯金のことはねてもさめても兵六さんの頭を去らなかった。
 ――つめに火をとぼしてでも、あの金だけは払わなくちゃあ、兵六の男がすたる――
 おとくいのひとり言を、つぶやかぬ日とてはない毎日だった。兵六さんの商売区域は、親方と談合の上、遠くて千葉、茨城あたりまでとなっていた。とはいえ、どこでやろうとそれは自由である。その日その日の申し合せで、市中をまわったり、いなかへいったりするのだ。仲間の中には遠く九州や東北、北海道あたりまで行商してまわっている者もあるということだったが、そこまではまだ思いきれない兵六さんだ。千葉や茨城でさえも、一度いって木賃宿へ泊らねばならなかったことを思うと、少々のもうけ位では、そう遠くへはゆきたくなかった。それにこの商売ばかりは、途中で大儀になるようなことが起ったとしても、ほうきのように商品を肩にかついで電車にのるわけにもゆかない。いかに遠かろうとも、二本の足でてくてくと、しかも重たい車を引っぱってこなければならないのだ。年のせいもあって、時には自分のからだに危険を感じたりすることもある兵六さんは、都内へ出かけるときでも、兵六さんなりの用意だけはしていた。戦時中を思い出してポケットの中に、所番地をかいた紙ぎれをいれておくことだ。それと、いつかもらった文吉の古い名刺とを、大事にもっていた。
 どういうわけか兵六さんは、音枝や夏樹が、おせいや二三子以上に思えてならなかった。文吉の名刺からくる妄想は、いつかのけがの時のように戸板にのせられて、安江の家へ運ばれる自分の姿であった。あれ以来冷たい二三子の態度の物足りなさを音枝や夏樹に求めているのかもしれない。いつ帰っても女房子のいない家の中で、彼は夏樹や音枝のことを思いながらねむった。そして、うみもしないくせに子運のよい安江をうらやみ、その羨望せんぼうの自分勝手さに悔いとあきらめのほろ苦さを感じたりもした。しかしそれでぺしゃんこになることはもうなかった。親方に預けてある貯金通帳が、夏樹の名前になっている。たったそれだけの内しょごとが、時には彼をささえ、時にはいつまでも帰らぬおせいや二三子への腹いせともなって彼をなぐさめた。
 とはいえ、兵六さんだとて、やはりおせいは長年つれそった女房であり、二三子はふたりの血をわけた娘である。わが家が近くなるたびに、まっさきに思うのは今日こそは、おせいか二三子が帰ってきてはいまいかということだった。だが、いつも部屋はまっくらで、待ってくれるのはしめきって動かなかったなまぬるい空気だけだった。
 その変化のない兵六さんの部屋に、ある日、珍らしく灯がとぼっていた。障子もあいていて人かげがみえる。
「おせいか?」
 軒下に車をかたづけながらの兵六さんの声は疲れを忘れていた。くすっと笑う声がする。若い。
「なんだ、二三子か。」
 またくすっときた。喜びを押えながらわざとゆっくりとゲートルをとっている兵六さんの背に、思いがけない声がとんできた。
「おじさん。」
 浜子であった。兵六さんはすっかり動転して、急にどもり出した。
「お、お、お前か。お安さんとこのさ、な、なんてったかな、ほれ、お、お安さんとこのさ。」
「浜子ですよおじさん。いいかげんで、名前ぐらいおぼえてちょうだいよ。」
「あ、そうだったね。浜ちゃんっていったな。これはこれは、ようお越し。いろいろ気にしながら、ごぶさたしてね。どうもすまんこってす。えらい、待たしたんじゃなかったかいな。」
 兵六さんはてっきり、例の夏樹の貯金のことで安江が浜子を使いによこしたのだと早がてんした。だから彼は浜子の前に手をつき、安江にあやまる丁重さで、
「何とも申しわけのないことをして、いいわけの言葉もありません。近いうちにはきっとお返しにゆける目鼻がつきましたからして、もうちょっと待ってくだされと、お安さんに、よろしくいってください。」
 浜子はにやにやしながら、
「おじさん、わたしはそんな用事できたんじゃないのよ。おねがいがあってきたのよ。」
「そうかね。」
 きょとんとしている兵六さんに、浜子はまじめな顔で、
「もう栗本さんへは、帰れないのよ。だまって出てきたんだもん。」
「何でまた。」
 変転きわまりない事態に、まだ心の安定をとりもどしていない兵六さんに、浜子は更におっかけて、
「ゆっくりわけは話すけどさ、わたしをかくまってくれない。」
「?」
「わたし、栗本さんちのだれにも、あいたくないのよ。」
「何でまた。具合の悪いことでもあったのかね。」
 その、身につまされたような顔をみると、浜子はいきなり、
「おじさん、わたしね、妊娠してんのよ。」
「ええっ。」
「おろしたいのよ。」
「何だって?」
「わたしがまだ、未成年だもんで、ひとりじゃあお医者が引きうけてくれないのよ。おじさん、わたしの父親になって、お医者さまへついてってくれない。よろしくたのむっていってくれればいいのよ。」
 いともかんたんに浜子はいう。
 兵六さんは、事の重大さに、ふーむ、としばらくは思案がつづいた。浜子はしごくかんたんにいっているが、第一医者や費用についてはどうなるのか、六十の兵六さんにとってはすべて見当のつかぬことばかりだ。もしかして、夏樹の貯金をそれにあてたいとでもいうのだったら、兵六さんのせっかくの計画も成就しないうちになしくずしになってしまうではないか。それは困ると彼は思う。ちゃんと耳をそろえて、夏樹にかえしたいのだ。それだけが今の彼の生活目標ででもあるかのように思って、兵六さんは、いかにも年長者らしく構えていった。
「そいつぁうまくないよ浜ちゃん。これは、やっぱり一おうお安さんに相談するのが道じゃないかね。いいにくかったら、わしがいってやるがね。」
「いやだ、あのおばさん、めんどくさいんだもん。」
 投げすてるように浜子はいう。
「めんどくさい! そんなことあるもんか。あれは出来た人だよ。」
「いやだ。そのものわかりのいいような顔されるのが、しゃくなのよ。」
「えらい鼻いきだね。じゃあ、お安さんは全然知らんのかね。」
「もう知ってるかもしれないわ。おねえさんにだけはいっといたからさ。」
「ほう。じゃあ、その、なにかね。めんどくさいというわけは、あれかね。」
「あれって、何よ。」
「文吉さんの、あれかね。」
「いやだア どうだっていいじゃないのそんなこと。」
 さすがの浜子も赤くなった。その赤くなったことで、兵六さんは、これはてっきり文吉が相手だと察した。そうだとすればなおのこと、浜子ひとりのいい分をとおさせるわけにはいかぬと思う。音枝をはじまりに、冬太郎、夏樹と、よい子持ちらしい形はとっているが、栗本夫婦には直接自分の血を分けた子供というものがないのだ。それは人生にとってどれほどさびしいことかと六十の兵六さんは思う。自分にしても、おせいとの間に二三子がなかったならば、今ごろはおせいにもあいそをつかされ、こじき同様になっているかも知れぬと、おせいや二三子にささえられた毎日であるかのように思い、男としての感情で、文吉の気持を推量してみた。さか立ちしてみたところで、もう安江は子供をうむことはできまい。そうすると、安江だって文句はいうまい。兵六さんの考えはきまった。
 よし、一つ、恩を売ろう!
 しかし浜子はてんでうけつけなかった。
「いやだなおじさん。そんなわけあいとはちがうのよ。もしもおじさんがそんなことでもいったら、栗本の連中、びっくりするわよ。第一おこるわよ。そうじゃないんだもん。」
「ほんとかね。」
「ほんとさ。まあ、いってみりゃあ、わたしが馬鹿だったのよ。どこのだれだかわからんやつの子をはらんだんだもん。でも、今度は生まれかわるつもりよ。おねえさんのようなまねはできないと思うけどさ、今よりはもっとりこうになるからね。それには、どうしてもおなかの子供が邪魔なのよ。ひとりでさえもやっとなのに、私生児かかえたりしちゃあ、どうにもこうにもならないでしょ。」
「そういうわけだ。」
 浜子がさばさばとした調子なので、兵六さんまで気軽な返事が出てくる。
「それなのにさ、未成年だからって、お金みせてもやってくれないんだもん。」
「そういうもんかね。」
「いくらなんだって、うちの人にいうなんてはずかしいじゃないの。そのぐらいのはじ、知ってるのよわたしだって。」
「なるほど。」
「ねおじさん、おじさんにだってはずかしくないわけじゃないけどさ、栗本さんとこで恥さらすよりは、ましだと思ったの。なぜって、夏樹ちゃんがいるんだもん。おとなは平気だけどさ、やっぱりね。」
「そりゃあそうだ。」
「そこんところなのよ。助けてねおじさん。ほんとにわたし、生まれかわるつもりよ。きっと恩がえしするからさ、助けてね。」
 たよられていることがいつのまにか兵六さんをいい気持にさせ、ぽんと左手で胸をたたきながら、
「夏樹ちゃんじゃないが、ガッテンショウチノスケだ。よし、引きうけたよ、親になりゃあいいんだろ。娘が夜道で暴行されたとかなんとかいって泣きつきゃあいいんだろ――」
「あらいやだ。暴行なんかうけないわよ。わたしその人、すきだったんだもん。」
「だれだね一たい。嫁さんにしてもらえん人かね。」
「そうなのよ。――もう聞かないでおじさん。あんまり聞かれると、死にたくなったりするからさ。」
「そうかね。じゃあ聞くまい。とにかく、安心してここにいな。そのうちにおせいか二三子がもどってくるよ。一そこんなことはおなご衆の方がいいかもしれんよ。」
「そうね、わたし、ここのおばさんにたのもうかな。」
 浜子の目は希望にかがやいた。
 だが、栗本一家にとっては不安な日が続いていた。浜子がいなくなってから一か月がたっていた。五日目ぐらいのとき、音枝あてにはがきをよこし、少し遠くの医者にかかること、四五日中に帰るから心配しないで、などと書いてあったのに、それきり浜子は姿をみせない。身軽になったついでに、浜子らしい勝気さで住込みの仕事でもさがしたとしても、ねまき一枚と着のみ着のままなのだから、着物だけはとりにくるはずと、音枝は出来る限り心を配って、留守にしないようにしていた。恥をかかせるのも悪いと思って、着かえていった下着類もそのまま新聞紙にくるみ、彼女のにきめてある古だんすのひき出しへそっと入れておくなど、こまかく気をつかっているのに、浜子は一こう現われないのだ。
「どうしたんでしょうね。」
 つい口に出ると、浜子という名をいわなくても安江にはすぐぴんとひびいて、
「しようがないよ、打つだけの手はうったんだもの。勝手にさしとくしか、ないじゃないか。もうこれ以上の心配は、たくさんだよ。」
 おこったようにいう安江だったが、その安江がまっさきにいろいろと手を打ったのだ。捜索願については田舎にいる浜子の母に手紙で意見を聞いたが、どういうのか、ほっといてくれというつれない返事だった。娘を案じてとんでくるかと思っていたのに、手紙の様子ではどうやら手を焼いているらしかった。そういえば、浜子がはじめて上京した時もその母に無断であったことを思い、
「しかし、かわいそうだね。親にまであいそつかされるなんて――」
 安江は浜子のために思案し、捜索願の代りに、新聞の三行広告を十日ごとに出してみた。最近の浜子がいつも新聞のその欄をまっ先にみていたのを音枝がいったからだった。
 ――浜ちゃん会いたし、わたしが出かけてもよし、音枝――
 ――浜子、相談あり、至急れんらくまつ。音枝――
 浜子が今も新聞のその欄をみていれば、せめて一枚のはがきはよこすだろうというのぞみだった。そして何の反響もなくひと月がすぎた。そんなある日、新聞の三面のかたすみに現われた小さな記事は、音枝を仰天させてしまった。彼女は安江の部屋へとびこんでゆき、ふるえる手でそこをさし示した。
「ええーっ。」
 安江もおどろいて見入っているそこには、「失恋娘自殺未遂」の見出しで、目黒区上目黒に住む宮川はま子がアドルムをのんで重態だと報じてあった。安江は大きく、ふーんとうなるようなためいきをした。
 しかし、ものの五分もたつと、安江はもうどっかとすわっているような落ちつきをみせ、その新聞から目黒の番地を手帳にかきこみ、
「さてと、じゃあおかあさん、出かけるからね。したくしてるうちに、家中のあり金全部かき集めておくれ。貯金も出してきて。」
「はい。」
「いくらぐらい、ある?」
「さあ、冬坊のもいれて、いいとこ五千円ね。」
「貧乏だね。」
 音枝は自分と夏樹のからっぽの貯金通帳をつらく思いうかべながら、
「わたし、都合つけてくるわ。」
 こんな場合にいつも助けあう仲間が四五軒あった。自転車でまわれば五千円位はできると思ったが、安江はそれをとめた。
「めんどうだよ。それより、わたしの原稿料をとってきておくれよ。出がけに電話かけとく。」
 文吉にも電話をして、目黒の駅で落ち合って、都合によっては浜子をどこかの病院へ入れてくると安江はてきぱきといった。出かけるのを門のそとまで見おくった音枝は、母の小びんのしらががふえたのを今更のようにながめながら、人の子のためばかりに苦労をかけられていることを思って涙ぐんだ。そして、ふうと、四五日前の夜のことを思い出していた。ことの起りは進君だった。あれ以来進君は家のたれにも口をきかず、今は夏休みで郷里の高松へ帰っているが、十日もたつのにはがき一枚よこさないのだ。それについて文吉が、浜子のこともからめて、
「まったく、この節は忘恩人種がふえたよ。人の世話もいいかげんにしとかんとな。」
 その口にふたをするような調子で、安江は子供らを意識しながら、
「よしなさいおとうさん、何も、恩にきてもらうためにしたことじゃないんですもの。」
 すると文吉は急に声を荒らげ、
「おれは恩にきてもらいたいんだ。五年も七年もただで置いてやって、はがき一枚の恩も求めちゃあいけないのか。てめえひとりいい顔しやがって。」
「そうよ、わたしはいい顔したいの。」
「ああ、お立派だよ。一そ小説なんかやめて、孤児院でもやればいい。」
 どんと食卓をたたき、食器がなった。音枝がかなしい顔をし、夏樹がおびえて泣き出すと、文吉ははっとしたらしく、
「ごめんごめん。夏樹のことじゃないよ。かんべんしてくれな。おとうちゃんついこの暑さに疲れて、かんしゃくおこしたんだ。ごめん!」――
 きょうもまたその暑さの中を、年とった父や母が、若い者のためにひきずり回されている。――
 音枝はくしゅんとなり、それを夏樹に気どられまいと、つま先をみつめた。
 ふらっと出かけたままなかなかもどってこない冬太郎を待ちあぐねて、音枝は、
「夏樹ちゃん、おねえちゃん御用で出かけるからさ、あんた、ひとりで留守番しててね。おにいちゃんが帰るまで、どこへもいかないでさ。」
「いやだあ。」
「そうお。じゃあ、いいわ。おみやげ、もうかったと。」
 すると夏樹は急に音枝の腕にからみついて、
「する、する。留守番してるよ。その代り、ピストルだよ。」
 彼はこのところ、ピストルのおもちゃがほしくてならないのだが、母も姉も、夏樹に甘い父までが、ピストルだけはぜったいに買ってくれない。何とかして買ってもらいたいと思いつづけているところへ、おみやげつきの留守番とあってはもっけのさいわいだ。戦争ごっこにしろ、どろぼうごっこにしろ、ピストルのない彼はいつだって殺され役にばかりなっているのだ。一ぺんぐらい買ってくれたってよさそうなものと、その限りではいつも母や姉を恨んでいたのだ。今日こそと思ってもち出したのに、音枝はやっぱり首をふり、
「それはごめんだね。アイス・クリームがいいでしょ。」
 彼はアイス・クリームにも魅力がある。しかし、アイス・クリームはだまってたって、買ってきてくれるおみやげの種類である。そう思うと彼のくちびるは自然にとがり出し、
「いらない。アイス・クリームなんか。」
 むくれてみたが、音枝はいつものように別の条件も出さず、
「そうお。じゃあ仕方がない。たのまないわ。うちへ泥坊がはいってもいいなら、遊びにいってもいいわよ。」
 そういってさっさと出ていってしまったのだ。夏樹はむしゃくしゃする気持のあたりどころがなく、風どおしのよい縁側でねているねこのシロをけとばしておいて、そのはずみのようにどたんとその場にたおれた。ピストルのたまにあたった時の身ぶりである。泣きたいような気持だった。しかし泣いてみても、だれもいないと思うと本気で泣くこともできない。彼はじっと天井をみていた。だれが帰ってきたって、ものなんかいってやるものかと考えた。どのくらいかそうしているうちに、だれもいない家の中が急にさびしくなって、すっくと起きあがった。二階へかけ上ってみた。もちろん冬太郎はいなかった。彼はゆっくりと階段をおりながら、しくしくと泣き出し、口の中で、「おかあちゃーん」とよんでいた。すると、そのつぶやきにも似た泣き声にこたえるかのように、
「どうしたい、夏樹ちゃん。」
 兵六さんである。
 兵六さんは庭の木戸からはいってきたらしく、地下たびで縁先に立っていた。左手にビニールのふろ敷包みをもち、ごたごたと中のものがすけて見えていた。
「ね、どうしたい、夏樹ちゃん。」
 だれもいないとみてとったらしく、のびのびしたもののいい方であった。そんな兵六さんを、みたことがなかったと、夏樹は子供心に思った。いつだってぺこぺこしていた兵六さんなのに、今日はそのいでたちまで元気がよい。なきべそを見つけられててれかくしにむくれている夏樹に、
「おかあちゃんは?」
「いない。」
「おねえちゃんもかい。」
「…………」
「進君も、おにいちゃんも、だれもいないのかい。」
「…………」
 返事なんかするもんかと思っている夏樹の目の前で、兵六さんはビニールの包みをほどきながら、
「夏樹ちゃんに、おみやげがあるんだよ。」
 もち網やおたまじゃくしや穴あきしゃもじなどをがちゃがちゃいわせながら、その中から、ほれ! ととり出したのはアルミニュームの針金をまげて作ったピストルだった。
「ああっ。」
 夏樹は思わず親愛の情を表わし、
「それ、ハマムラで買ったんだろ。」
 それと同じものが駅前のおもちゃ屋ハマムラに十円で売っているのを、夏樹は知っていたのだ。
「ちがうよ。」
「ふーん、じゃあ、あててみようか。おねえちゃんに、聞いたんだね。」
「何をさ。」
「ぼくがピストルほしいことをさ。」
「聞かないね。」
「じゃあ、どうしてわかったの。」
「そんなにおいがしたんだよ。ピストルくさーいにおいがな。」
「うそだあ。メイシンだよあれ。でも、ほんとにこれどこで買ったの。」
 夏樹はかた目をつむり、わざと兵六さんにねらいをさだめながら、しつこく聞く。
「うちで、売ってんだよ。」
「へえ、兵六さんち、おもちゃ屋?」
「ま、そうだね。ゴムマリだの、ガムだの吹き矢だのあるからね。」
「すてきだね。お店どこ。」
「お店かあ、日本国中、いたるところだよ。――ところで夏樹ちゃん、浜ちゃんの荷物あるとこ、わかるかね。」
「うん。――ね兵六さん、パパン パンて鳴るピストルないの。」
 夏樹にとっては浜子よりもピストルの方が重大な関心事だった。
 お玉じゃくしやもち網などをまたビニールのふろ敷に包み直して、兵六さんは、
「さ、これはおねえちゃんへおみやげだ。わかったかい。兵六さんがね、お金もってきたけんど、お留守だからまたくるってね。そういってちょうだい。忘れずにね。そして浜ちゃんの荷物だ。どこにあるか、夏樹ちゃんにわかるかい。」
「知ってるさ。三畳だよ。――ね、おじちゃん、おもちゃ屋になったの、ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとさ。うそだと思ったら門のところへきてごらん。おじちゃんの店があるよ。」
「へえ、じゃあぼくいく。パンパパンと鳴るピストルある。」
「あるよ。そいつもあげるからさ、さき、浜ちゃんの荷物出しておくれよ。」
「よしきた。」
 夏樹は三畳の古だんすの上から、時代おくれの黒いかわのトランクを引きずりおろして、重たそうにさげてきた。たしかにそれは浜子がはじめてきた時チッキでおくってきたものだった。中にはなにがはいっているかはわからなかったが、それをさげてゆく兵六さんのあとについて、夏樹もそとに出た。門の前に例の車がおいてある。
「さ、これがおじさんのお店だ。一つ、やってみようか。」
 さすがに門前をはばかってか、兵六さんは車を引っぱりながら、得意の声をはりあげた。
 ――ええ、まいど有りがとうございます。おなじみの雑貨屋がやってまいりました。荒物にかなもの、化粧品に雑貨、子供のおもちゃからだんなさまのひげそり道具、何でもとりそろえてございます。――
 夏樹はびっくりしたようすで、兵六さんの顔をみながらついてゆく。ちょうど商売によい時間だった。四辻の日かげに車をとめて、兵六さんは道ゆく人や家々の中へ呼びかける。
 ――かな網にもちあみ、コップにせんぬき、しゃもじにさいばし、タワシに渋うちわ、何でも十円均一の大特売でございます……
「兵六さん、おもちゃのこと、いわないの。」
「あ、そうか、パパン パンと鳴るピストルだったな。ほい、これが火薬。」
 金属製のピストルに、豆しぼりのような火薬の紙をそえてわたすと、夏樹は心から恩義を感じたらしく、ピストルを両手ではさむようにして、
「おじちゃん、たばこのすいがら、ぼくとっといたんだよ。もうせん、おじちゃんとっといてくれって、いったろう。」
 すいがらのことなどいい出されて兵六さんの胸をほろ苦い思いが走る。そのころの哀れな自分の姿を思い出しながら、
「もう、すいがらなんぞいいんだよ夏樹ちゃん。この通りおじちゃんも、新しいたばこが買えるようになったからね。ほれ。」
 くしゃくしゃのしんせいを胸ポケットから出してみせ、ついでに一本すいつけて、道ばたにしゃがみ、気持よさそうに煙をはいた。その煙のむこうから買物がえりらしいワンピースにげたばきの若い女が近づいてきて、車の上の品物を一つ一つていねいに見ていた。その顔をまた夏樹が穴のあくほど見つめている。右へいったり、左へまわったりしてみているのだ。気づかれてじろっと一べつされたぐらいではひるまない。女は包丁さしと急須きゅうすと、はたきと、小さな鏡とを買っていった。そのうしろ姿のまだ消えぬ間に夏樹は、
「兵六さん、おしえてあげよか。ね、あのおばさん、耳に丸いものぶらさげてたろう、あれね、耳たぶに穴なんかあけていないんだよ。はさんでるだけなんだよ。」
 大発見だったらしい。しかし兵六さんにとっては女の耳かざりなどに興味はなかった。人の姿さえみると、――ええかなものに雑貨、とやり出すのだ。そのこともまた夏樹にとっては耳かざり以上の興味だった。
「兵六さん、ずい分お金もうけるね。」
 売上げの全部が利益だとでも思っているらしい。そして夏樹はやがて自分も一しょになって、兵六さんの口まねで呼びかけたりした。
 ――荒物にかなもの、化粧品に雑貨、子供のおもちゃからおねえさんのクリーム、おとうさんのひげそりも、おかあさんのちり紙もあります。買ってください、買って下さい――
 なかなか当意即妙だった。孫をつれた哀れなじいさんとでも思ってか、それらしく話しかけて申しわけのように何かを買ってゆく客もあったりした。
「さあ、夏樹ちゃん、もう帰ったり、帰ったり。」
 きりもなくついてこようとする夏樹を半ば追い払うようにして帰らせた時には、もう大分家を離れたところまできていた。
「じゃあ、またこんど、一しょに売り屋さんになるね。」
 夏樹はそういって二ちょうけん銃でかけ出した。夏の日はまだ高いとはいえ、かた側のかげった道を一さんに走りながらふと、忘れていたおねえちゃんの言葉が浮んできた。ああ、どろぼうがはいっていたらどうしようか。――夏樹の足はもつれたが、玄関に立つと、中から冬太郎と音枝の声がきこえてきて、ほっとした。と同時に彼ははっとして、持っているピストルをシャツのふところにかくし、裏のヒミツカへ走った。
 ヒミツカのくさむらは季節のすすきが穂を出し、終日熱気にさらされた葉はとげとげしくひろがっていた。根元をかき分けて大事の品をひそませ、いそいで手をひいたはずみに夏樹は小指をしごかれて、あっと思ったとたんに、血がにじんでいた。痛い。いつもなら泣き出すところだが、うんとがまんして、傷をなめなめ悲壮な顔つきでうちへはいってゆくと、むつかしい顔をした音枝が、だまってにらみつけた。そばに冬太郎も立っている。おそろしくまじめな顔つきだった。ふたりのそのにらむような顔つきにおされて、夏樹は泣き出した。口もとから手をはなしたとたん、たらたらと血が流れ落ちた。
「あら、どうしたの。」
 それで泣いたのだと思ったらしく、音枝はその手を引っぱっていって水道で洗ってやった。冬太郎がオキシフルをもってきた。
「何で切ったの? 悪いことしたんでしょ。」
「うえーん。悪いことなんかしないやい。」
「夏樹ちゃん、だまって遊びにいったりするから、どろぼうがはいったじゃないの。」
 夏樹ははっとして泣くのをやめ、あたりを見回した。音枝は繃帯ほうたいをしてやりながら怒った声で、
「浜ちゃんのトランク、とられたのよ。」
 夏樹は、ああ、それかと思い、それなら――といいそうになったのをのみこんだ。いえばヒミツカのピストルもばれると思い、ばれれば、せっかく手に入れたピストルもたちまち没収のうき目を見なければならない。夏樹はついいいそびれてしまった。そのことはまた夏樹の小さい心をヒミツカと離れさせず、彼の目は窓ごしにヒミツカのくさむらばかりみていた。もしもだれかがそこを通りはしまいか。そしてみつけ出しはしまいか。それはまた何よりもはっきりと、夏樹の気持をさらけ出していた。音枝はもうそれに気がついていた。例によってあとでそれとなく聞かずばなるまいとは思ったが、どろぼう事件はいつものように事を運ばせなかった。あんまり遊びすぎるといって冬太郎をせめたり、もうすぐ八つになるくせに、留守番もしてくれなかったと夏樹にくどくどと文句をいってはみても、はじまらないことだった。ほかのものがなくならなかったことは不幸中の幸いだが、しかし浜子がいつ帰らぬともしれない。そうなればやっぱり荷物をあずかっているものの責任として、弁償もしなくてはなるまいと思うと、また安江の肩の荷が重くなることを思って、暗たんとなった。それにしても浜子はどうなっているだろう。新聞には、命はとりとめると出ていたが、それと同じ日に浜子の荷物が消えてなくなったことはいんねん話めいていて、むなさわぎさえした。かなあみやしゃもじなど、奇妙な置きみやげをしていったのも不思議などろぼうだと音枝は思う。
 ベルが二つに区切って鳴った。安江たちらしい。
「早かったのね。」
 どうだった? という目つきで、暑さに顔をしかめながら帯をといている安江に、音枝はうちわの風をおくりながら、
「ほら、男の子はおとうさんをあおぐんだよ。」
と、夏樹に命令した。そして小さな声で、
「大丈夫だったの。」
「うん、それがね、おかしな話さ。人ちがいなんだよ。」
「ええっ。」
「同姓同名なんだよ。そういえば、新聞にははま子と出てたろう。まあよかったというようなものの――」
 心配はまた元通りになったというのだろう。だまってしまった安江を、今度はおどろかさねばならない。
「うちは、大変なのよ。どろぼうがはいったの。」
「何だって。なにやられた。」
と、文吉が大声を出した。安江はぬぎかけた着物にまた手をとおし、前でたくしあげながら、
「いやなの。どうしたっていうのさ。」
 音枝は仕方なく苦笑しながらビニールの包みをつまむようにしてもってきて、
「それがね、おかしなどろぼうよ。」
 置きみやげをしていったことを話すと、安江は冬太郎のもってきた冷たい番茶を一いきにのんでから、
「おかしいね、そりゃあ。浜ちゃんじゃないのかね。だれもいないんで、しかし自分のものだから持ってったんだろ。」
「それなら一筆書きおいてゆくでしょう。おとなりへことづけだってできるわ。」
「それも、そうかね。」
「おとなりで聞いてこいよ。」
と、文吉は気ぜわしい。
「聞いたのよ、もう。――交番へ届けましょうか。もちあみだの、さいばしだの、気味がわるいわ。」
 何かこわいものででもあるように、ビニールの包みをみながらいう音枝に、安江は落ちついて、
「まあおまちよ。どうもおかしいよ。やっぱりこりゃあ、浜ちゃんだよ。浜ちゃん、身軽になって、仕事がみつかって、部屋でも借りたんじゃないかね。その所帯道具を途中で買って、忘れていったんだよきっと。そう思わない。」
 文吉に意見を求めると、
「そうだ、ろうな。今日のところはそういうことで安心さしてもらおうや。この上おまわりさんまできて、ひきずり回されるなんて、もうごめんだよ。」
 ふと気がつくと、夏樹がしくしく泣いている。
 夏樹は動てんしたのだ。ヒミツカにピストルをかくしたことだけでも相当気がとがめていたのに、話はだんだんこぐらかってどろぼう問題となり、はてはおまわりさんのことまでがとび出してみると、こわくなったのだ。といって、どこから話をほぐしていっていいのか、見当もつかない。
「どうしたの。ね、いってごらん。」
 安江になだめられると、彼の泣声は大きくなり、
「だって、おこるんだもん。」
「おこらないわよ。おこらないからいってごらん。」
「おこるウ おこるウ こわい顔してるんだもん。」
 彼はちらりと音枝をみた。音枝はそれで思い出し、
「あ、ヒミツカでしょう。なにかかくしたな。泣くとこみると、よっぽどわるいことね。みてくるから。」
「いやだア ぼくがとってくるウ。」
 夏樹は地だんだをふんで泣いた。
「じゃあ、おかあちゃんがついてってあげるね。おこらないからさ。」
 それでおさまった。外はもう宵やみがせまっていた。安江はふと、いつかもやはりこの時刻だったことを思い出し、あの日以来よりつかぬ兵六さんのことを思いうかべていると、ピストルを一ちょうとり出した夏樹は、それを彼女にさし出しながら、
「も一つあるんだよ。兵六さんが、くれたんだよ。」
「ほんと?」
 驚く安江を夏樹は更におどろかした。
「浜ちゃんのね、トランクね、兵六さんがもってったよ。」
「ええっ ほんとかね。」
「ほんとさ。ぼくもううそいわないよ。おかあちゃん、おこらないからさ。」
 くさむらはこの前のときの何倍かのかさでおい茂っていた。夏樹は更にもう一つのピストルをもさぐり出し、
「これ、パパン パンて鳴るやつだよ。でも、川へ捨てるんだね。」
 以前二度ばかり川へ捨てにいかされたのにならうのかという。捨てたピストルは、氷川さまのお祭に、もらった小づかいで買ったものだった。
「いいよ。きょうはもってらっしゃい。せっかく兵六さんがくれたんだもん。」
 夏樹に笑顔を返しながら、安江は自分のささやかな抵抗などではとうていふせぎきれないものに、押しながされそうな気がした。しかしそんな中で、浜子が無事らしいのはもうけものだと思った。
 月が上るらしく、空のはずれの方からあかるんできた。
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ともしび


 がちゃりん ごとんと独特な車のひびきを聞きつけると、浜子は部屋をとび出していって、兵六さんをむかえる。
「お帰りなさい、おじさん。暑かったでしょう。お豆腐、ひやしてあるわよ。」
 こんな風だから、浜子がきて以来、兵六さんは一そう商売にはげみが出ていた。どんなにおそく帰ってきても、家にあかりがついていて、自分を待っている者があるということは、それだけで疲れの半分が洗い落される思いだった。大衆食堂のよごれた壁にむかって、ひとりどんぶり飯を食うわびしさも今はなくなり、いそいそとして帰ってくる兵六さんだ。出がけに浜子が、かんかんでりの空をながめて、
「おじさん、きょうも暑くなりそうよ。あんまり遠くへいきなさんな。木のかげかなんかへ車おいてさ、すずみすずみ、売れるだけ売ればいいじゃないの。からだこわしちゃあ、元も子もないわよ。」
 まるで母親が子供にでもいって聞かすような調子だ。こんなことは兵六さんにとっては近ごろ珍らしい。だから兵六さんは、いたわられるといい気持になり、やっぱり出かける。そして、そのいい気持は時々何かを錯覚するらしく、きゃはんなど巻きながら、
「二三子、きょうも豆腐一ちょう買っといてくれ。」
 気もつかずに娘の名で呼び、夕食の注文をして出かけたりするのだった。それでも浜子は、これまでの浜子らしくもなく、
「はい はい。」
と、気のよい返事をし、ひとり肩をすくめてにやりとした。そして、兵六さんをおくり出してから、今度は自分も出かけるのだ。スラックスの足どりも軽く、ブルーのギンガムで作った手製のうわっぱりを着、つばのひろい大きな帽子をかぶると、どこのしゃれ者かと思うほどだ。がらがらとゴム輪のつぶれかけた手押車が出てきて、何と、その上に積んであるものは、鍋やしゃもじやはたきやぞうきんではないか。
 彼女はその乳母車ほどの手押車を近所の古道具屋でみつけたのだった。百円だった。骨ばかりで組立てたようなその車は、おそらく昔、どこかの隣組で共同のいもや大根の配給などに使われていたものだったかもしれぬ。浜子はそれを、空色の塗料でぬった。すると季節向きの涼しそうな車になった。ゴム輪のつけかえも考えたが、それは少しあとのことにして、
 ――毎度ありがとうございます。おなじみの雑貨屋がやってまいりました……
 それがいえるまでに十日かかった。はじめの三日は兵六さんについてまわったのだ。じめじめしたところのないハイカラ雑貨屋さんは案外にうけて、浜子は大じまんだった。
「おじさん、私ひとりでもうれるわよ。おもしろいわね――」
 一日か二日おきにかせぎに出るはじめの計画を、いつのまにか破って浜子は毎日出てゆくらしかった。そうなると兵六さんの方が案じてやらねばならない。
「気いつけんと、暑さにやられるぞ。」
 すると浜子はかぶりをふり、
「大丈夫よ。身のほどを知ってますからね。」
「そうかね。」
「だって、遊んでいられる身分じゃないでしょう。お休みは雨の日だけときめたの。ニコヨンなみにね。」
「えらい、いきおいだね。」
「そうよ。身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれだわ。だって、お金がいることが、山のようにまってるんだもん。」
 そんなことをいいながら、彼女はせっせと車に荷を積みこんだ。車は小さくても、だから人なみにほうきなどの大物は持てなかったが、大ていのものなら積みこんでいた。もってゆかないのはおもちゃの類だけだ。ぬいぐるみの人形やゴムマリならよいが、物騒な音を立てるピストルは好きでなかった。吹矢の先に針があるのもあぶなくて感心しない。風船ガムときては、これはぜったいに好意がもてない。いつか夏樹がくちびるを土人のようにはれあがらせたのはそのガムだった。そんなものの一さいに浜子は身ぶるいを感じる。そんなことが彼女におもちゃを売らなくさせたのだろうか。とすると、僅かの間ながらも、安江の家にいて、「子供を守る会」などの話をいつとなく聞いていたのかもしれぬ。そうかもしれないが、そうばかりでもなかった。彼女としては、そうしたおもちゃを拒否する気持が、腹の底からわき出していたのである。浜子は今、母親になろうとしているのだった。母になるからには出来るだけいい子を産みたかった。その決心をした日の浜子は立派であった。兵六さんの家へきて三日目のことだ。医師の診察をうけてもどってきた浜子は、きっぱりといいきったのだ。
「おじさん、わたし、子供おろすの、やめたわ。」
 雨で家にいた兵六さんはおどろいて、
「そんなこといったってお前、それじゃあうだつがあがらんことになるぞ。」
「だって、死んじゃっちゃ、うだつもへったくれもないでしょ。四か月にもなると、あぶないんだってさ。それが本当かどうかしらないけどさ、本当いうとね、わたし、医者と話してたら、いつでもむなくそが悪くなるの。くやしくて、おろしたりしてやるもんかと決心したのよ。」
 こともなげにいう浜子の目に涙がきらきらしていた。それをかくしもせずに浜子は、
「今わたし、こやって涙こぼしてるけど、泣いてなんかいないつもりよ。ほんというとね、死んじゃおかと思ったの。でもやめた。考えてみたら、みんなわたしの責任なんだもん。」
 それで浜子は一つの脱皮をとげたらしい。しかし兵六さんとしては、若い娘のそんな気持など皆目かいもくわからず、ただただ浜子の将来を案じた。
「だがね浜ちゃん、やっぱりそいつは、いかんよ。第一、子供づれじゃあ嫁にもらい手だってないぞ。」
「平気よ。もらってなんかもらわない。」
「そんなわけにもいくまい。そんなわけにいったところで、足手まといがあっちゃあ、働きに出ることもできんぞ。」
「平気。わたし、考えたの。おじさんの商売なら、わたしにだってできるって。ね、弟子入りさしてよ。」
「大きい腹、かかえてかい。」
「まだ大きくないわよ。大きくなるまで働いてさ、産む費用作るのよ。産んでからはおんぶして歩くわ。重くなったら車にのっけて、――子供はいらんかねえ子供。お安くまけときます――」
 浜子は突然畳にふして泣いた。しかしすぐ顔をあげて、
「――わたしがねおじさん、駅の陸橋のとこで、死んじゃおかと思って立ってた時さ、橋の下をヨイトマケのおばさんたちが通っていったのよ。その中にひとり、大きなおなかした女の人がいたわ。わたし、だんぜん死ぬのよしたの。わたしって、これで案外強いとこあるのよ。こうと思うと、必ずやりとげるの。だから、産んじゃおうと決心したのよ。何とかしてみせますからねおじさん。しばらくここへおいてね。」
 こんなわけで浜子の雑貨屋ははじまったのである。なるほど口ばかりでなく、やることがすっきりしているように、兵六さんには思えた。青いペンキで車をぬったりするのもそうだが、そこへ積みこむと同じ鍋でも光り出すような気さえする。ある日浜子は、大じまんで、
「おじさん、わたし、今日の売上げレコードよ。三千円よ。二割五分として七百五十円のもうけ、わあすごい。これが毎日だといいんだけどな。そしたら音枝さんの借金、案外早く払えるわ。――あっ!」
 浜子はとび上って腹を押えた。びっくりするほどの元気さで、突然母性のとびらをたたかれたのだ。
「うごいたのよ。ああおどろいた。――おふくろしっかりしなって、いってるみたいね。」
 そんな浜子の近況も知らせがてら安江の意見も聞こうとて、浜子の荷物をうけとりにいったのだったが、いろんな騒ぎがあったともしらず、家へ帰って浜子の顔をみるなり、兵六さんは、
「中野は、だあれもいやしないんだよ。」
と、がっかりした声でいった。
 ある期待をもって兵六さんの帰りをまっていた浜子もがっかりして、
「あら。音枝さんまで?」
「ああ、夏樹ひとりさ。昔っからのん気な家だったからな。しかし、夏樹ちゃんでもいたからよかったよ。荷物だけはもらえたもの。」
 車の底の物入れからトランクをとり出すと、浜子はそれをうけとりながら、
「これは急がなかったけど、まあいいわ。」
「まだあるんかね。」
「あら。」
「それだけしか、もらってこないよ。」
「いやだ。これ、冬のオーバーや毛糸のセーターばっかりよ。」
「困ったね。じゃあ、あしたでも、またとりにいくか。」
「しようがないわ。わたし、手紙かく。何だかめんどくさくて書かなかったけどさ、ここにおちつくとなると、だまっているわけにはいかないわよ。それに、やっぱり栗本一家には、恩があるわ。」
「そうさ。めんどくさくても、そういう人だよなあ、あすこの連中はさ。」
「好きじゃないけど、恩があるなんて、へんね。そろいもそろってんだもん。」
「きらいなのかね。」
「きらいじゃないけど、何となく野暮ったいのよ。みんな別々の親をもった人間が、よくもああ似てるわね。同じかまの飯たべると、似るのかしらん。」
「そういう浜ちゃんも、ちっとばっかり似たとこあるよ。ちっとばかりね。」
「あら、そうお。」
「そうだよ。さきの苦労がわかっとって子を産むなんていうところはなあ。ここへ子供が生まれたりしたら、どうするね。」
 話しながらまるで親子か夫婦のように向きあって食事をしていると、突然足音も立てずに二三子がもどってきた。いきなゆかた姿で、浜子をみると兵六さんをさしおいて会釈えしゃくはしたが、けげんな面もちだった。ある憎しみさえもっているようだ。浜子はすぐさとって、
「二三子さんでしょ。わたし、栗本さんとこにいた浜子です。おじさんのお世話になっています。」
「ああ。」
 そうだったのかというようにかんたんなあいさつをした二三子は、そのあとを小意地悪く表情をかえて、兵六さんの方へ、
「女房子供のいないのをいいことにして、年がいもなくおとうさんが、女でもつれこんだのかと思ったのよ。わるかったけど、聞いたわ。」
「何をね、あた気色のわるい。聞かれて悪いこたあ一つもないよ。」
「ならいいわよ。」
 二三子はぷいと出ていった。
「――なんだ二三子め。ながい間ウンでもなけりゃ、スンでもなかったくせに、たまたまもどってくりゃ、ああだ――」
 わが子ながらあきれたというように兵六さんはつぶやく。浜子はそれが、自分へのいたわりでもあるとは思ったが、相づちはうてなかった。ただ、せっかく落ちつこうとした自分の計画が、ここまできておじゃんになりそうな予感だけが大きく胸の中にひろがり、それをどういう風にして解決をしたものかと、その方が問題だった。もしかしたら二三子と、一もんちゃくおきるのではないかと、そんなことまで考えの中にとりいれながら、食事のあとの茶わんやはしを洗いおけに入れていると、二三子がもどってきた。今度は足音も荒々しくはいってきて、窓べりにぺたりとすわり、
「おとうさん、おかあさん帰ってくるってよ。」
と、兵六さんだけをみていう。おせいに電話をかけてきたらしい。
「へえ、そうかね。」
 兵六さんはひょうひょうとして、
「また、どんな風の吹き回しかね。」
「六十になっても、男なんてだらしがないってことなのよ。」
「そうかね。一体、なにが、だらしないのかね。」
「自分の胸にきけば、いいじゃないの。」
「胸にきくか。胸が何ともいわなんだらどうする。」
 浜子は突然笑い出し、
「二三子さん、それ、わたしのことでしょう。そうなら心配御無用ですわ。」
 二三子の背中に笑顔をむけていったが、二三子はふりかえりもせず、
「厚かましいのね。」
「すみません。厚かましいのは持前で、ついやどかりみたいに人の巣にもぐりこんじゃいましたの。でも、許しをこうにも宿主の奥さんやお嬢さん、家をすててったままゆくえがしれなかったんですもの。」
 われながらあくどいなと思いながら、これまでに何度となく聞き知っていた兵六さんの問わず語りをうまくつかんで皮肉っている浜子だった。予感的中である。気をもむ立場の兵六さんは、問題のこじれを防ぐつもりで、つい持前の方便をつかった。
「二三子よオ、よくも話聞かずに勘ぐりはやめろよ。浜ちゃんはお前、いろいろ事情があって、わしが中野のお安さんからたのまれて、あずかったんじゃないか。」
 女たちはそれぞれの思いでだまった。しかしそれでおさまるとはお互に思っていない様子だった。
 おせいがもどってきたのは翌朝だった。半日を一しょにすごしていると、ひだにかくれて見えなかった部分もわかってきて、ことにおせいはきげんがよい。ほうき屋だとばかり思っていた兵六さんの商売が更に発展していたのも気をよくした一つで、お昼にはわざわざ夫のためにやわらかな飯をたいたりした。二三子だとててれかくしにむくれてはいたが、いつのまにか兵六さんのたばこにマッチをすってやり、ついでに一本とったりしていた。はからずも浜子の果した役割だとはだれも気づいていない。ただ浜子ひとりが、ひとりだった。しかしそんなとき、思いがけず、例のとびらがたたかれ、ひとりでないことを知らした。浜子は涙が出るほどうれしく、自分を大切に思おうとした。
「わたし、産婆さんへ、いってきます。」
 大っぴらにいって出かけたすぐあとへ、安江がやってきた。音枝も一しょだった。浜子の夏のきものをもってきたのだった。兵六さんの六畳の部屋は満員になった。商品のコップをとり出して、サイダーがつがれた。それをのみながら、浜子の事情を聞かされたとき、安江はコップをとり落さんばかりに驚いた。しかし次の瞬間には、赤ん坊の泣いているわが家の茶の間を想像していた。むっちりとくびれた小さな両足をかた手でもって、おしめをとりかえているのは浜子ではなく自分なのだ。音枝――冬太郎――夏樹――そして浜子の赤ん坊。なんとそれは、いつも兵六さんと縁の深いこと。……
「ああいう気の勝った子ですから、今すぐといってもだめだと思うんですよ。その気になったとき、また兵六さん、つれてきてくださいよ。」
 そして今日のところは浜子には会わずに帰るからよろしくといっているところへ浜子は帰ってきた。音枝をみると、いきなりすがりついて、
「おねえさん、ごめんなさい。」
と泣き出したが、浜子らしくすぐ涙をおさめ、少し自嘲的に、安江にむかって、
「どんなことがあっても、もう泣かない覚悟でしたの。」
 安江はある感動をおさえて、
「苦労したね、浜ちゃん。」
 自分を迎えにきてくれたと思っているらしく浜子は、すなおさをさらけ出して、ふふっと笑う。安江はとたんにそこをとらえて、
「一しょに、かえる?」
「すみません。」
 すなおに浜子は頭を下げた。だが話がそうきまっても浜子は商売だけは続けるといい、兵六さんとその打ち合せもした。
 日がかげるのをまって二三子はながしタクシーを拾ってきてくれた。車にのってから安江は、
「浜ちゃん当分、ツンボになることよ。」
 いやなことを聞く覚悟をしろという意味だったが、浜子はそれをかるくうけ、
「いやだア、なにもかも、ようく聞く。」
 やがて雑居家族の栗本家のあかりが見え出した。玄関には今日はくちなしの花がにおっているはずである。





底本:「雑居家族」毎日新聞社
   1999(平成11)年10月10日
初出:「毎日新聞」
   1955(昭和30)年3月25日〜8月15日
入力:芝裕久
校正:koharubiyori
2023年7月10日作成
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