おるすばん

壺井栄





 生まれた時から和子はおじいさん子でした。そんな小さい時のことなど、知ろうはずはないのですが、おじいさんの話を聞いていると、まるでおじいさんに育てられたような気がするほど、おじいさんは、和子の小さい時のことを知っていました。和子のことをカ子と呼び、
「カ子が小さい時にのう。」
と語りだすと、きょうだいのない和子は、ひとりっ子のさびしさを忘れて、おじいさんの語るカ子という子供が和子自身ではなく、どこか遠い国のお話の中の子供のようにめずらしかったり、また妹のようになつかしかったりするのでした。和子はさびしい時など、よくおじいさんにおねだりをしました。
「おじいさん、カ子の話、聞かしてよ。」
 するとおじいさんは、かならず二つ返事で語りだします。
「おじいさんがカ子をおんぶしてのう、お母さんのところへ乳をのませにゆきよった。権兵衛ごんべいのわきを通って伝右衛門でんえもんの前の橋までゆくと、カ子はちゃんと泣きやむのじゃ。学校が見えるからのう。橋を渡って学校の方へ行くとカ子はおとなしくしとるが、はんたいに、川下の方へ歩くとカ子はじゃんじゃん泣きよった。急いで学校の方へ向き直ると、ちゃんと泣きやむ。泣きやんだと思うて川下へ向くと、又じゃんじゃん泣きだす、それがお前、まだたんじょうもこん赤ん坊の時じゃった。」
 和子の目の前に赤坊をおんぶしたお祖父さんの姿が、はっきりと浮かんできます。紅木綿の着物を着た赤ん坊を黄色いおぶい紐でおぶったおじいさんが、橋の上を行ったりきたりする姿は昨日和子が自分の眼で見たかのように思い出されるのでした。それは、今でも赤坊の時着ていた着物が、たんすの中にしまってあり、和子はそれを時々だしてながめているからでしょう。
「なにせ、おじいさんは、あの橋の上で、カ子になんぼか泣かれたか知れんて、すると、伝右衛門のおばさんが出てきて、カキモチなどくれたもんじゃ。そのうちおじいさんもちえがでてきてのう、いったん橋を渡っておいてそれから、一足進んでは二足戻り、二足歩いては三足戻りして、カ子をごまかしよった。」
「どうしてさっさと歩かないの。」
「そんなこというたって、授業の途中で乳をやるわけにゃいかんもん。」
「ああそうか。」
 和子は初めて気づくのでした。和子のお母さんは小学校の先生だったのです。だからおじいさんはお昼と三時に学校までお乳をのませに、毎日通っていたのです。
「なにせ、カ子は元気山で、泣声じゃとて村中ひびくほど大きかったからのう、そこへもってきて、腹をへらす子で、何でも時間より三十分も一時間も前から泣きよった。そして、泣き出すと、もう学校の方へ向いて行かんとやまなんだ、そんなふうじゃから、学校が遠足の時にはおじいさんはカ子をおんぶして弁当持ってついて行きよった。そんな日に限って、カ子はおぢいさんの背中でぐうぐう眠って、乳のむのも忘れとった。お母さんのお乳がはって、着物の上からしずくがたれだすので、お母さんはお前をゆすぶり起してのましよった。」
 和子はおじいさんの話の中から遠い日のお母さんの姿をまざまざと心にえがきました。



 おじいさんのお話は、何度聞いてもあきませんでした。そのように、何度もおなじ話をくりかえしたり、又時にはびっくりする程新しい話だったりしました。何度も聞いた話でも、おじいさんが語ると、それは新しい話のように和子の心にしみこみますし、初めて聞く話はまたそれで、どこかで聞いたことのあるような、なつかしさをおぼえました。それは、和子自身の幼い記憶と、多かれ少かれつながるものであるからでしょう。
「おじいさん、ほら、いつかしらん、おじいさんといっしょにたんぼの中を雨にぬれて走ったでしょう、カ子、あれおぼえとるわ。」
 和子が遠い遠い記憶の中からたぐり出して語ると、おじいさんはびっくりして、
「ありゃお前、四つ位の時じゃったぞ、それにたんぼじゃない、山じゃったよ、お前をつれてドングリの苗を植えに行った帰りじゃった。おじいさんが苗を植えよる間に、カ子はヒメユリやトラノオや、いろんな草花をそこらじゅうで一抱えほどもつんできて、持って帰りよったのう。雨がひどく降り出してきておじいさんがカルコにのせてカ子をおぶってやっても、カ子はその花を抱えていて、なんぼ捨ていというても離さんもんで、おじいさんの首筋から花のしずくが流れこんできて、おじいさんはかぜをひいてしもうた。それもおぼえとるかい。」
「そんなことおぼえとらんけんど、おじいさんの手拭で頬かぶりしたの、知っとるわ。」
「ふむそうかいな、それはおじいさんは忘れとったのう。そんなら、泳ぎに行って、おぼれかけたのはおぼえとるかい、ありゃカ子が五つか六つの夏じゃったで。」
「えっ、私がおぼれかけたの、どこで。」
 和子はびっくりしてとんきょうな声をあげました。おじいさんは白髪の頭を後になでながら、はっはっはと笑い、
「それじゃいうでなかった、あの時、お前のお母さんにひどく叱られてのう、あとにも先にも、お前のお母さんが怒ったのは、あの時だけじゃった。もしものことがあったら、どうしてくれますか、いうてのう。そのはずじゃ、かけがえのないひとり子じゃもの、それからはカ子も海を恐がって、その年の夏は泳ぎにゆかないんだよ。」
 和子はその時のようすを想像してみましたがおじいさんのきょうしゅくした顔は考えられても、お母さんが怒った顔は思い浮かびませんでした。それほどやさしいお母さんでした。和子のお父さんが船乗りであるために、年中和子の家はおじいさんともに三人であり、しかもお母さんは学校へ出ていましたので、昼間は二人だけでお留守番をすることに、和子は小さい時からならされていました。おじいさんは、和子のために竹トンボを作ったり、新聞紙でかぶとをこしらえたり、木ぎれで小舟をつくったりいろんなおもちゃをじょうずにこしらえてくれました。
「これではまるで男の子を育ててるようね、今に竹馬でもお作りになるのでしょう。」
と、お母さんはおかしがりました。そして学校のお土産にお手玉や、小さい人形などをつくって持ってかえるようになりました。



 夏休みか、春のお休みには、和子はお母さんといっしょに旅に出るのがならわしでした。東京の芝浦しばうらだとか、大阪だとか、時には北海道の小樽おたるまで出かけたり、また時によっては九州の港であったり、瀬戸内海の島のさびしい村であったり、とにかく、お父さんの乗っている船のつく港へ出かけるのでした。そこにはお父さんが待っていて、和子たちは航海を続ける船に乗りこんで暮したり、また時には五日七日くらいの碇泊ていはく期間を親子三人凾館はこだてに泊ったり、半月もの滞在となれば部屋を借りたりなどして暮しました。そんな時、お父さんは和子に思いきったお土産を買ってくれました。和子がほしいといえば、そしてそのほしい物がその土地にあれば、和子の希望はみたされました。電気蓄音機を買ったのも、ミシン機械を買ったのもこういう時だったのです。和子が六年生になったばかりの春休みの時、お父さんの船は九州の若松へ着くという電報が入りました。年度末のお仕事のつかれで気分が重いから、夏まで延ばそうというお母さんの意見を、和子ははね返すように反対して、どうでも若松港へ行こうといいはりました。
「年に一度だもの無理もないわねカ子ちゃん、それじゃゆくときめましょう。」
 そういって仕度にとりかかったお母さんでした。この時に和子がわがままを通したことが、のちのちとり返しのつかぬ不幸を招くきっかけとなろうなど、十三才の和子が、どうしてよそうすることができたでしょう。和子は先に立って旅行カバンを持ち々として家を出ました。若松で出迎えてくれたお父さんが、お母さんを見るなり、顔色がかわるほどのおどろきで、
「どうした、病人のようじゃないか。」
といわれるまで、和子はお父さんにあえる喜びばかりを先にたててお母さんのことを考えなかった自分に気づきました。そういえばお母さんは、来る途中でも、ろくにお弁当も食べなかったのです。それをさえも和子は、船よいくらいに考えていたのです。急に心配になって、
「お母さん、大丈夫?」
と、幾度も幾度も聞きました。そのたびにお母さんは笑顔になって、
「大丈夫とも、大丈夫よ。心配しないで、お父さんと歩いていらっしゃい。めずらしいものや、ためになるものを、ようく見て、おじいさんにお話しできるように、よくおぼえこんでいらっしゃい。」
 そして、お母さん自身は宿屋の一室に、終日床をとってやすんでいました。そのあおざめた顔色は、子供の和子にとっても、いいようのない心配の種でした。お父さんと二人では外を歩いていてもあまり面白くありませんし、お父さんも心配なのか、すぐに宿へ引き返して、三人はほとんど部屋の中ばかりですごしました。村へ帰ると、そのままお母さんは床についてしまい、そしてふたたび学校へ出られるほどの元気をとり返すことができないままに二年間をすごしました。その間に三度ばかり、お父さんが帰宅しましたが、二三日たつと、お父さんは又船へ帰らねばなりませんでした。
 ある朝井戸ばたで顔を洗っているおじいさんに向って、お父さんが、
「私も、もう船をおりて家で百姓をしたりようけいをしたりしようと思うんですが、どうでしょう。」
と小さな声で相談をかけますと、おじいさんも小さな声で、
「それがよかろう。もも子(お母さんの名)も気丈夫じゃろうしわしも心丈夫じゃ。あれにもしものことがあると心細いでな。」
 かまどの前で朝の仕度をしていた和子は、それを聞くとただごとでないのが分り胸がどきどきしてきました。お父さんは和子のそばへよってきて、
「和子、お母さんを大事にしてあげておくれよ。今にお父さんも帰ってくるからね。船をやめてだよ。」
「…………」和子はだまってうなずきましたが、それと同時に、涙があふれでてきました。
「学校など、一度位落第してもよいから、お母さんを大事に看病してあげてくれな。」
 お父さんはかさねていって、お母さんの部屋へゆきました。お父さんはその夜の便船で帰ってゆきました。お母さんの病気以来、ずっと炊事を引受けている和子は、いっそう気をつけて料理などの上手につくれる人のところへ聞きに行ったりしました。
「お母さんが病気したらばこそ、カ子ちゃんずい分うまくなったわ。このおかゆなど、お母さんより上手よ。ふんわりしてねばり気があって。だけど、ホウレンソウは少しうですぎね。」
 和子はお母さんのひひょうを聞きながら、心の中で、無理やりに若松へ行くことを主張したあの時を思い出し、
「お母さんごめんなさい。今度こそいい子になりますから早くよくなってください。私のお料理などへたになる方がよいのです。」と祈っていました。



 お父さんがいよいよ船をおりて、家へ帰られてから間もなく、和子のお母さんは、この世の命を終りました。泣いて泣いて、病気になるほどなげく和子を、おじいさんとお父さんは、少しづつ立ち直らせて、もとの和子に戻らせようとしました。その心もちは、和子の胸にひびいて、和子はおじいさんやお父さんの気持にそってゆきました。ことにおじいさんの語ってくれる小さい時の話は、和子の心をひとりでに母のそばへつれてゆくのでした。母の姿を、残らずわが心に留めておくために、和子は自分の幼い日のことを聞くのが楽しみでした。
「カ子の小さい時は元気山でな、五つの時に金比羅こんぴらさまの石段をひとりで登りよったもの。手をひいてやるというても、ふりきって登りよった。おかげでくたびれてしまうて、戻りはずっと眠りぼうけてのう、お母さんがえらいなんぎしよった。お前は石俵のように重たい子供じゃったからのう。」
 和子のそうぞうの世界には、眠りぼうけた子をおぶって幾百千の石段をおりてくる母の姿が浮かびでてきました。和子がまた、おじいさんと二人で、留守をするようになったのは、お母さんの一年忌を前にした、初夏のことでありました。海員をやめて村へ帰ってきたお父さんではありましたが、太平洋戦争になってから身についたしょくのために、ふたたび海へかえらねばならない時がきたのです。
「また船で一はたらきしてくるからね。和子はおじいさんと仲よくお留守番をたのむよ。」
 和子はひとり、胸をどきどきと高鳴らせていましたが、それとて、涙が出ることではありませんでした。お母さんと別れた悲しみにきたえられた和子の心は、お父さんとの別れをむやみと悲しんではならないと教えるものがありました。
「お父さん、心配などしないでね。」
 和子の短い別れの言葉に対して、お父さんはもっと短く、
「ああ。」といって笑いながらうなずきました。



「お父さんの留守の間に、何ぞやって、あっといわそうじゃないか。」
 和子が学校から戻ると、おじいさんは待ちかまえて相談を持ちかけました。おじいさんのこの仕事はお父さんの始めかけていたようけいでした。まだひなは百羽ばかりより入っていないのですが、おじいさんはもうすっかり元気で、気持も若くなったようです。昔はおじいさんもやはり海員で、内海航路の小さい船ながら船長まで務めたのでした。和子が生まれる前年、おばあさんに亡くなられたのをきっかけに陸へ上って、隠居気分で孫の和子の子守をしたり、船乗り時代の地面とのつながりの少かったことを、取り返すかのように山や畑を歩き廻ったり、そして今ではようけいに熱中しているのです。おじいさんのいでたちは、船乗り時代の黒いラシャの洋服でした。これを着て和子の子守りもしたのです。
「おじいさん、ハイカラぶって洋服着ていても、もう腰が曲りかけとるのに、そんな破けた洋服きて、あっといわせるもないわ。」
 和子が笑いだすと、おじいさんはしんけんになり、
「何をいう。これでもまだおじいさんは七十四じゃないか。人生は八十からというてな、カ子がそんなこというてひやかすなら、一つあっといわせてやるからな。それができたらカ子じゃって喜ぶぞ。あの丸尾の畑にミカンを植えるのじゃ。」
 そういっておじいさんは丸尾の畑を杖でさし、
「あすこは日当りがよいでな、ミカンはええぞ。肥料にはトリのフンが出るし、お父さんが戻ってくるまでにはものにしとかにゃならんわい。何ぞ一つ、お父さんの喜ぶものもやっとかんとな。そしてあっといわせようや。」
 おじいさんの抱負を聞いているうちに、和子はふっと、あることに思いつきました。それは、モモ畑を作ることでした。お母さんが亡くなって以来、和子は何かにつけて母を記念するものを持ちたかったのです。一ばん心に浮んだのは、モモの木を植えることでした。それはもも子といふ[#「いふ」はママ]お母さんの名からきた思いつきでしたが、まだ実現しないでいたのです。おじいさんがミカン畑を作って、あっといわせるなら、和子もモモを植えて、お父さんをあっといわせたいと考えました。
「おじいさん、ミカン畑賛成じゃ、そのかはり[#「そのかはり」はママ]モモの木も植えてよ。」
「ほほう、桃の木か、そりゃ面白かろうな。」
 おじいさんが一度に賛成してくれたので、和子は涙がでるほど嬉しくなりました。モモの花とミカンの青い葉の色が、くっきりとした配色で丸尾の畑をつつんでいるさまが和子の眼の前に現れました。モモの花はお母さんのやさしさであり、ミカンの青さはお父さんの強さのような気がするのでした。すると船の甲板から、望遠鏡をのぞいているお父さんの姿がありありとそうぞうされました。その望遠鏡は、丸尾の畑に向って、向けられているのでした。





底本:「日本児童文学大系 第二二巻 北川千代 壺井栄集」ほるぷ出版
   1977(昭和52)年11月20日初刷発行
   1983(昭和58)年12月20日5刷発行
底本の親本:「あんずの花の咲くころ」小峰出版
   1948(昭和23)年4月15日発行
初出:「少女の友」実業之日本社
   1943(昭和18)年6月
※「おじいさん」と「おぢいさん」の混在は、底本通りです。
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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