妻の座

壺井榮





 広いアスファルトの道路をへだてて、戦災をのがれた向う方には大きな建物が並び、街路樹も青々としげっている。もとは兵営だったその建物も今は占領軍の宿舎になっているとかで、ぬり替えられた白い壁にくっきりと窓々のブルーのおおいが、晴れた夏空に、いかにも暑さを静めるかのように並んでいる。目のさめるような色どりだった。繁った街路樹の下かげに幾台ものジープなどのとまっているその風景は、焼けあとの瓦礫がれきさえもまだ片づかぬ終戦後一年のこちら側と、わずか道路一つのへだたりとは受けとれぬほど対照的で、遠い外国をながめるようであった。一本であって二本に区別されている道は、ブルーの窓かけともろこし畑を向い合せにして行く手の電車通りへ続いている。よほど気をつけないとつまずきそうなでこぼこの歩道を、ミネを交えた四五人の一団が歩いていた。ある小さな集りの帰りである。思いがけなく酒が出たりなどしたので、男たちは真っ赤に顔を染め、ひどく機嫌きげんがよかった。赤くないのは女のミネひとり、しかもミネは一しょにかたまって歩いている野村へのこだわりから変に気が滅入めいり、みんなの機嫌のよさが普段のようにすらりと受けとれないような、妙な気持の状態で男たちをながめていた。ゆるい上り坂の道が、暑さに弱いたちのミネにずっくりと汗をかかせる。あえぎながら顔の夕日を白扇でさえぎっているミネの手に、思いがけない痛さで道端のもろこしの葉がふれた。
「あっ。」
 小さく声をあげ、切れた手の甲をなでている間にミネの足はたちまちおくれた。それなりミネは自分だけの足の早さになり、ゆっくりと歩いた。歩きながら自分に無関心の格好で、だんだん間隔をのばしてゆく二人の男の後姿を、感慨ぶかく眺めずにいられなかった。二人の男、その一人はミネの夫の悠吉ゆうきちであり、も一人の野村は近ごろ結婚したばかりのミネの妹の夫である。紺の背広の上衣うわぎを腕にひっかけて歩く悠吉の白いワイシャツと、やはり紺っぽい無地の着物を尻端しりはしょって歩く野村の白いチヂミのステテコが、夕日にまぶしい。二人とも無帽の頭は、一人は禿げ、一人はもじゃもじゃの多い髪の毛なのだが、禿げた悠吉に劣らず、もじゃもじゃの野村の白髪しらがの多さは、共々に五十に手の届いた年齢を語っていた。野村は作家であり、悠吉は詩人である。そして、その二人の後姿を眺めて感慨にふけるミネ自身もまた同じように小説などを書いている。三人は共々に戦後の新しい文学運動の流れの中に歩調を合せようとして、今日の集りにも加わったのであった。かつて、ある時代の激しい風雨をそれぞれの姿でくぐってきた三人である。四人といえぬところに妻に死なれた野村の大きな不幸があり、その不幸を埋めるようなめぐり合せで、ミネの妹の閑子しずこは、つい最近野村と結婚したのであった。野村の元の妻は終戦の少し前、永い病気のあとなくなったのであったが、葬式に集ることさえできないほど空襲のはげしい時のことで、知らせのはがきをうけとった時はもう半月もたっていた。庭に咲いたひめ日まわりの花をもって、防空服装でミネたちは野村の家を訪れた。仏をまつる花さえも不自由な時で、床の間の小机にのせられた白い包みを飾る花も申しわけのようにさびしく、その前にしょんぼり坐って伏目がちの野村の姿も哀れを催させた。帰る途々みちみち、ミネは悠吉にいった。
「野村さんて、ひどく、へたへたね。」
 野村が危篤の妻の枕辺で手をとり合って泣いていたといううわさなどを聞いていたミネは、今いよいよ妻に死なれて、まともな声も出せないほどしおれている野村の姿を見て、驚いたのである。それを夫婦の情愛とみるにはあまりにも異様に感じられるほど、がっかりした様子だった。何故なぜそんなにもがっかりしているのか十分理解出来ないほど、それまでの野村との交際は薄かったともいえる。まして野村の妻となれば、普段は思い出すことさえも少い没交渉で終った。死んではじめてはっきりとミネたちの心に割りこんできた野村の妻は、ミネの感じでは、ただ平凡な世の常の妻としての印象しか残ってはいない。結婚して二十年、二十歳を頭に四人の子供を夫に残して、戦争のさ中に世を去る妻のかなしさは、手をとって泣いても泣き切れぬものがあったにちがいない。しかし残った夫の落胆が野村のようだとすると、何となくさっぱりしないとミネは思った。思いやりの足りなさなのだろうか。
「私が死んでも、あなたもやっぱりあんな風になるのかしら。」
 野村たちと同じ位の年月の長さを悠吉との家庭生活で経てきたミネは、一種の思いをこめて夫をみた。
「そりゃそうかもしれん。夫婦も二十年もたったら一つのからだみたいだろうからな。しかし、野村のは、ありゃ特別だね。気の小っちゃい男だから。」
「でしょう。何だかもう、みてると旦那だんなさんに死なれた奥さんみたいに、野村さん、しょんぼりしてるんですもの。きっとしっかりした奥さんだったのね。死なれると旦那さんをうろうろさせるほど、手綱をにぎってたのね。」
 今野村の家を出てきたばかりで、そんなこころないことを口にするほど、それまでの野村との交友は深くはなかった。いわば同業者の近所づき合いの程度だったのだ。その野村と妹とが結ばれようなど、その時のミネは夢にも考えなかった。ところが、それから僅か一年の後、妙ないきさつで、閑子は野村のところへゆくことになってしまった。終戦直後のはげしい社会の移りゆきは、野村や、悠吉たちを含めての一部の作家の作家活動の上に加えられていた重圧をも払いのけ、ひそめていた心をひろげて見せ合うような方向へと進んで行った。その新しい流れの中へ飛びこんで行ったことで、新鮮な友情がおたがいの心に流れ合うような気持にされたのであろうか。野村はミネに手紙をよこし、妻のあっせんをたのんできた。その手紙を、ミネは旅行の汽車の中で読んだ。
先日はおじゃましました。悠吉君は立候補しましたか?
とつぜんでへんですが、ぼくは女房をさがしてるんですが(といってもまだだれにもいったことはないんですが)てきとうな人はありませんでしょうか。何しろ現在のところでは身うごき出来ないで困ってしまいます。元来私のような場合、ごく事情のわかったきょうだい親せきで、まあなべにはとじぶたという釣りあいでさがしてくれる例を知っていますけれど、何しろ二人の妹は満州と広東カントンに嫁にいっていて消息なく、二人の弟はどちらも戦死してしまい、昔の友人もありますけれど、二十年も生活がちがっていると、ちょっと見当がつきかねる感じで、そびれております。――
 こんな書き出しで、四人の子供をかかえたやもめ暮しの大変さをかきつらね、野村としては今度の結婚をただ便宜的にだけ考えているわけではないが実は困りぬいていること、だしぬけにこんなことをいって猫の子をもらうようなわけにはゆかぬし、やぶから棒でびっくりしたかと思うが、自分のようなところへでもきてくれそうな人に心あたりがあれば、世話をたのみたいこと、自分としては、今かいている小説を仕上げて、死んだ女房の思い出にケリをつけてからと考えているのだが、子供たちがせがむので、一周忌の六月が過ぎたら結婚したいと考えていること、こういう便宜的動機をたぶんにふくんで妻をさがすなど、これもこの時代と、自分のような中年者の特徴かもしれないと思うが、私自身は軽率な気持はないつもりだから、よろしくたのむとかき、最後に「文学がわからなくてもけっこうです。お針のできるやさしい人なら理想的です。どこかこの手紙を気らくによんで下さって、かっこうなのがあればくらいで、なければ忘れておいて下さい。今夜子供といろいろ話した末、フッとあなたに手紙でならかきよいので書きましたが、まだだれにもいったことはありません。おやすみなさい」と結んであった。
 ミネはある感動をもって、この手紙をくりかえし三度ほど読んだ。こんな重大なことを、誰よりも先に相談されたことへの喜びにも似た気持、妻のない家庭のごったかえした押入の中を、そっくりふすまをはずして見せられたような、率直な野村の手紙はミネの心を打ち、ミネはこれまで持っていた彼への他人行儀をこの一通の手紙で捨ててしまったほど、親しい気持で野村を考えた。旅行は、終戦後初めての総選挙に立候補をすすめられて郷里へ帰っている悠吉のために、ミネも一役を買わねばなるまいという、ミネにとっては最も苦手な種類の旅行目的であった。そのほかにも、もう一つ目的はあった。それは郷里にいる妹の閑子を東京へ引っぱってくることだった。終戦直後に、遠縁の孤児の赤ん坊を引きとって育てねばならない回り合せになっていたミネは、子育ての忙しさまでが加わり悲鳴をあげていた。それを、閑子に助けてもらう魂胆なのであった。閑子は丙午ひのえうま年生れの女であった。そのために受ける不当な迫害と取っ組んで、ミネにいわせれば必要以上にまで青春を葬り、身一つをただ潔白に守り通すことで年をとってしまったような女だった。今では永年の裁縫教師をやめて、ミネの実家にひとり暮しの淋しさを続けているのだったが、その閑子を、ミネは急に野村の手紙と結びつけて考えた。裁縫の出来るやさしい女、裁縫の出来るやさしい女。ああ実に彼女こそは裁縫の出来るやさしい女ではないか。ミネは四十の閑子がこれまで独りでいたことが、まるで野村のために待ってでもいたかのような気がしてき、閑子のことを誰かに聞いて野村はこの手紙をよこしたのではあるまいかとまで考えたりした。しかし野村との浅い交際の中で、野村が閑子の存在を知っているはずはなかった。ただ閑子の方は、書かれたものを通して野村を知っていた。ミネが野村の手紙を見せると、
「私なんか、とても。」
 赤い顔をしてひどくあとじさりをした。だが二度三度話すうちにそれではミネに任せようといった。
「でもね、私がこういっても、これはまだ一方的な話だけで、向うで何というか分らないのだから、ダメだったらかんべんしてね。」
「もちろんよ、そんなこと。ただ私もこの頃いろいろ考えるようになったのよ。一生独りで暮すつもりでいたんだけれど、この年になるとあとあとが思いやられて、やっぱり適当な相手さえあればと思うようになってね、戦争中に、もう一人でいることにうんざりしたの。かといって人のお世話にならない限り、自分ではどうとも出来ないんですもの。」
 これまでに起った度々の縁談を、ぴしぴし投げすてていたことを悔いるような口調で、閑子はいった。始めて聞く閑子の弱音だった。ミネは、閑子の気持のほぐれをしみじみと感じ、野村の方がダメであっても何とかしてほかに身の置き所を考えてやりたいと思って東京へ帰った。だが、こうなると、ミネの口からは何となく野村に告げにくくなった。ミネは親しくしている、同じグループの川島貞子に事情を話した。野村の考えを聞いて貰いたかったのだ。
「あら、いいじゃないの。とてもいいじゃないの。」
 貞子はにこにこしながら野村の手紙をよみ、ミネの申入れを承諾したのだった。貞子にしろ、いわば昔からの仲間である野村が、そんな手紙をミネによこしたことについては、ミネと同じように喜び、野村のために計りたい気持を、そのはずんだ言葉に現していた。しかしそこには、閑子が妹であるという、余分の弾みをもつミネの気持の照りかえしが多少とも含まれていたかも知れない。ミネが平凡な女の気持にまで堕しているのに比べて、一しょに喜んでくれてはいても貞子には、第三者の冷静さと、作家らしい複雑さで野村を思いやっていることが、ふとミネに感じられた。貞子がふうっと笑顔を消した瞬間のことである。ミネは少してれながら、
「裁縫のできる女なんて条件を第一にしているからなのよ。私の妹なんて、平々凡々の女だけれど、そういう平凡さが野村さんにもあるでしょ。そんな気がして。」
「そうよ。だからその点では、閑子さんは打ってつけなんだけれどね。」
 ミネはまた、貞子の言葉にかすかなこだわりを感じてだまった。その点ではうってつけというのは? ミネのそんな心のゆらめきを知ってかどうか、貞子は、
「野村さんの奥さんは、美人だったわね。わたし、いつだったかお年始に行ったのよ。野村さんはお留守で、奥さんと三人の娘さんがぞろぞろ出てきてね、きれいな着物をきてずらっと玄関に並んだの。みんなべっぴんさんでしょ。派手なの。ほんとにきれいだった。」
 その美しさとのつり合いをも貞子は考えているのだろうか。当然それは思い出されることにちがいないのだが、野村の妻や子供たちとは相逢あいあおりもなく過ごしてその美しさを知らぬミネも、閑子の姿の上に現れた器量の悪さだけは大きく心に浮んだ。そのゆえにも閑子は婚期を逸していたのである。いつか貞子と一緒の旅行の途次、ミネの郷里によって、閑子を知っている貞子が、野村の妻と閑子とをくらべ合せる自然さをミネは十分のみこみながら、何となくひけ目を感じてらかった。みめ美しく生れない女の、口に出せぬ悲しみというものを、美しく生れた人たちは知っているであろうか。形の上での美しさを得られぬ不幸を、目に見えぬものの上で築こうとする、美しからぬ女の努力、しかもその努力は常に買われること少く、美しいものを好む人間の自然な心の前に、へり下る。そのへり下る心をさえも、受けとってもらえぬ悲しみ。それを貞子はその怜悧れいりさで分ってくれるだろう。だが分っている貞子自身もその美しさが文名と共に聞えている作家なのであった。その美しい貞子が感嘆するほどの妻を失った野村の気持を、貞子は又別の気持で思いやらずにいられないのではないだろうか。だがミネの平凡な常識は、野村の置かれた不幸を一つの条件として、女の器量の悪さと差引こうとするようなところがあった。それは野村の妻や子供を見たことのないミネの向うみずだったかも知れない。田舎者いなかもののように気のかぬ感じの野村、口ではいえず、手紙にかいてよこした野村の小気さ、それがミネの心をひいた。
「私から話してもいいけれど、それでは断る場合に野村さんが辛いと思うの。だから、あなたから話してよ。」
 そこまで考えてミネは貞子にたのんだのであった。作家である貞子が世の常の仲人なこうど的な強引さでは、野村にそれを伝えることが出来ないでいるらしい中に、ミネは野村と会う機会ができてしまった。ちょうど悠吉も一しょだった。野村のやもめ暮しが、あわれをとどめているような、敷きっぱなしの布団ふとんをそのまま二つに折って部屋のすみに押しやっているのなどを見ると、ミネは貰った手紙に返事をしていないことも気になり、思いきって閑子のことをしゃべった。不器量な女であることも強調した。一瞬明るい顔になった野村は急に坐り直して、ひざに手を置いて聞いていたが、ぴょこんと頭を下げながら「いやもう、来て下さるということだけでありがたいことです。」といった。ミネは、貞子とよく相談してくれるようにといって辞した。その道々、貞子をだしぬいたような結果になったことを、軽く悔いながら、並んで歩く悠吉を見上げた。
「私、押っつけがましくなんか、なかったわね。貞子さんに伝えてあるからっていったんですもの。断るなら断るで、貞子さんとらくに相談できるでしょ。」
「いいよそんなこと。いやにお前は卑下してるがね、閑ちゃんはあれで立派なものさ。けんそんはいいが、卑下するこたないよ。」
「だって。四十までも独りでいたってことは、考えようではひけめよ。でも野村さんて、自分で奥さんのさがせないたちの人でしょ。だから、再婚となればよけい人に頼ることになるのね。その気の小っちゃさが、今度の場合、安心なのよ。閑ちゃんだってかけ引のない小気な女だから。」
 ひめ日まわりの花をもって野村の家を訪れてから一年目の同じ道を、その時ミネたちは歩いていた。
 貞子を通して野村から閑子の写真を求められたのはそれから二三日のあとであった。容貌ようぼうに自信をもたぬものの一種の無関心から、閑子も写真の少ない女だった。学生時代から、女教師生活にわたっての間にとったのははかまをつけたものばかりで、突然には人に見せる写真もなかった。たった一枚だけ近所の子供を抱いて笑っているのがある、それをミネは渡した。しかし四五日たって写真は戻ってき、貞子の口を通して、一応話は打ち切られることになったのである。理由は、写真だけではよく分らないが、自分の考えているタイプと遠いというのだった。ミネはその言分をよく理解しながらも、がっかりした。野村や貞子に対しても何となく恥しかった。それにもまして、野村の意向も聞かずにせっかちに閑子の気持をほじくり出したことを悔い、正直に手紙で閑子にわびた。しかし一方でミネは、今度の機会に閑子がこれまでの独身主義をかたくなに固持するものでないことを知り、別の安心もしていた。ところがまもなく、貞子を通してもう一度話を戻したいと野村はいってきたのだ。その時閑子はしばらくミネの家を手伝うだけの目的でいよいよ上京の日取りまで知らせてきていた。もう今日にも田舎をたつばかりの時だった。
「私はもう、妹にはっきりことわったのですよ。だから、身軽に来ようとしているのよ。どうしたらいいか知ら。それならまたそれで、持ってくる荷物も変ってくるでしょうからね。」
 まゆをよせる心に、また半分の希望を与えられそうなのを、ミネは迷ったままの気持でうけた。
「それでいいじゃないの。決まれば新婚旅行に二人で荷物をとりに行ってもらうことにして……だから、とにかく妹さんが来た時、も一度話してよ。」
 早口の貞子はそれをどもり吃りいった。野村との間にどんな語りあいがあったかは知らぬが、交りけなく話す貞子の態度は、ミネの心のかげりを吹きとばしさえした。そして、話はまたよりを戻した。閑子は始めちょっと気色けしきばんで反対したが、しかし結局は承諾した。世間の縁談などというものがそんなものだという風に。そしてそうなってみると急に驚くほどの女らしさを見せ、けんきょな気持でいろんな面での自分の無知を恥じながら、
「私のような、文学のことも政治のことも何にも知らない者でも、それをやっている人を助けることでみんなの仲間入りが出来るというなら、私決心するわ。私は私の身についたもので暮すより知恵のない人間ですもの。」
 結婚は秋までのばしたいという閑子のたった一つの希望条件も、男の側のせっかちな申出にまけて、八月の暑熱の中を式はげられることになった。どうせゆくなら一日でも早くいって助けてあげる方がいいという貞子の助言もあったからである。その時、野村の心にどんな打算があったとしても、とにかく閑子は望まれて、一応は人にもすすめられてとついだのである。その道筋に多少のつまずきがあったとしても、閑子の気持はいたわってやらねばならない。四十となれば世間的な見栄みえや、かけ引などもあったかも知れぬが、ミネはそれをそっと包んで平凡な女の誇りを持たせようとした。大きな四人の子のある野村の条件が、裁縫のできる女であることは、閑子にとってどんな喜びであったろう。こんな条件を出す男をミネは自分の回りには見出せなかった。野村が何故それほど裁縫に大きな期待をもたねばならなかったかというよりも、そこでこそ自分を生かすことの出来る閑子をミネは押出すことに心を奪われてさえいた。作家の野村がただ妻をと求めていたのなら、ミネはそこへ閑子を結びつけようとはおそらく思わなかったにちがいない。式があげられる前に野村は閑子に一度家の中をみてもらいたいといってきたことがある。そしてその日野村の三人の娘たちは閑子を迎えにきた。十七から下へ二つちがいという年で、きゃっきゃっと笑いさざめきながら、始めて訪れたミネの家の玄関を、出たり入ったりして恥かしがる。その子供っぽい態度は、いかにも母を得る喜びにみたされていて、ミネは閑子のために喜び、涙ぐみさえした。少し腺病質らしいが、貞子のいう通り全く顔立ちのやさしくととのったきれいな子供たちだった。野村の田舎者らしい素朴そぼくさに似ぬほど、色の白い、都会の子らしい顔つきをしていた。この子供たちの母として、閑子はやはり似合ってはいない。いかにもそれはとってつけた母と子の感じだった。だが当の閑子はいささかもそれに不自然を感じないらしく、みんなに話しかけていた。そしてミネも一しょに出かけたのだった。その日閑子は、上の男の子には半ズボンを、女の子にはそれぞれスリップを、お手のもののミシンで仕立てて土産みやげにもっていった。男の子は早速ズボンをはいてにこにこしていた。それがひどくみんなの心をなごませ、野村までがもう布団の修繕などについて閑子に相談している。いかにもそれは、永い間野村の一家に主婦の座が空席であったかを語るようだった。閑子はもう、その日からこの家における自分の座に、はっきりとした自信と自覚をもったように、ミネは感じた。そんなことがあとで、いかに閑子の妻の座を邪魔することになろうなど、その時どうして気がつこう。いわばお人好しの閑子であったのだ。ここまでくるまでに、見合のあと野村がまた迷ったことを閑子は知らされてはいなかったのである。その小さな野村の不安を閑子に知らせずに押し切ったことは、野村を含めた周囲の者に責任があると同時に、小さな問題として決断に欠けた野村の責任は最も大きいとミネは思う。そのことを始めから誰よりも大きく懸念けねんしていたのは貞子であったかもしれぬが貞子は遠慮で、十分のことを言葉に出せなかったのだろう。その危惧きぐをミネはまたミネとして何となく感じていながら、それを貞子の、こまやかな心づかいであり、女としての閑子への思いやりとも理解していた。しかもお互いの遠慮心はその感情の外を流れる奔流にさらわれてしまったのである。その時も野村は相当に迷ったらしく、貞子に手紙をよこしていた。閑子の容貌が野村の妹にあたるひどくケチンボの女に似ているというのである。そこで、閑子がその心までケチンボに似ていたらはなはだ困るのだが、その点どうだろうと聞いてきたのだ。その時にも貞子はいった。
「きれいな奥さんだったからね。」
 もうだめだとミネは、直感した。
「この話、一応打ち切りましょう。その方がいいと思うわ。」
 誘い出されて貞子の家の方へ歩いてゆきながら、ミネがはっきりそういうのへ、
「でも、ほんとはどうなの。」
と、貞子自身甚だいやな回り合せを意識した笑いを浮べて聞きかえした。
「聞かれてからいうの、何だか私いやよ。わかるでしょ。」
「わかるわよ。私だって仕方がないから聞くのよ。」
「わかるわ、それも。でもね、本当はあの妹はケチンボではないのよ。どうかするとなさすぎて、困るくらいなこともある。」
 ミネは閑子が女教師時代に依怙贔屓えこひいきのなさで同僚と気が合わなかったこと、幾つかあった縁談の相手が、いつも経済力のある女としての彼女を求めることへの反発から、あと半年で恩給がつくところで、思いきりよく教員生活の足を洗った女であること、これまでの縁談がどうして主婦としての自分を迎えてくれないかと嘆くような女であることを語り、
「ただね、変人に見えることがあると思うの。あの時だってぷすっと黙ってるでしょ。いくら見合といっても四十にもなってさ、何か話の糸口位と思ってもそれが出来ないの。ひどく気まり悪るがりやなのよ。私の田舎ではそんなのを『ネコニカマレ』なんていうわ。へんくつね。そのくせれるととても明るいのよ。大きな声で歌も歌うし、素人しろうとピアノ位ひけるのよ。学芸会などあるでしょ。大勢の先生の中で二部がひけるのは裁縫教師の閑子なんですって。だからプログラムの終りにする先生の合唱は閑子の伴奏という風なの。そんな風に見えないでしょ。妹は取っつきは悪いけれど、だんだん味の出てくる、そんなたちの女だと、私は思うの。でも、これ肉親のひいき目もあるでしょう。だけど私、今になってこんなことをいうの、ほんとにいやなんですがね。」
「じゃ、そういってたっていいましょうよ。」
「でも取消してもいいのよ。決めなきゃならんわけではないんですもの、それもいってね。でも、そういうのもいやね。何だかかけひきみたいで。おおいやだ。」
「その通りいうわ私。」
 仕方なく二人は笑った。笑いながらミネはやっぱりいやだった。何となくあと味がよくない。野村のいやだというケチンボの妹のことなどミネは知ろう筈がない。しかし、もしも閑子がその人に似ずに、美しい人に似ていれば、たとえ閑子がケチンボであっても何の懸念もなく気持も共に美しい女として話は決るのだろうか。そんなものなのだろうか。そういう男の側の気持を、貞子のもっている危惧とない合せて、ミネはもうとても素直な気持になれなかった。そうと聞けば閑子もそれは絶対にうけつけないだろうし、どうでもこうでもというほど気持が傾いているわけでもなかったのだ。
「やっぱり一応打切った方がいいと思うけど。」
 ミネが決然というのを貞子は物分りよく押えて、
「だってさ、そういうものじゃないわよ。閑子さんもその気になってるんだし、ケチンボでなければそれでいいじゃないの。だからこのこと、まだ妹さんにはいわないでおいた方がよくはない。ね、ちょっとまちなさいよ。あなたのいった通り、も一度野村さんに話してみるわ。」
 おそらくこの一ぶしじゅうが、野村に伝わったのだろう。話はついにまとまってしまった。このいきさつを知らずに閑子は、つつましくそれをうけたのであった。ミネはそのことにこだわりを感じた。うそをいったわけではない。だが素知らぬ顔もできなかった。おりをみてミネはこまこまとその日のための仕事に忙しい閑子に、
「野村さんて、ケチケチするの、きらいなんだってよ。あんたのことだから大丈夫と思うけれど、普通の家庭のように倹約するのが妻の美徳なんて考えなくてもいいらしいから、まあよかったわね。とにかく閑ちゃんのもっているものを十分生かしてみんなを喜ばすことだわね。」
 ケチンボの女に似ているといわれたことも知らずに、閑子は無邪気に喜んでいるようだった。足許あしもとから鳥が立つようなあわただしさの中にも、八という末広がりの日を選んで、世間なみの式を挙げることになった。その日家を出るときミネは、彼女の唇にうすく口紅をつけてやった。色の悪い唇の生地の色を、紅でいろどることもなかったろう閑子の半生を哀れに思い、ミネは舶来のその口紅を彼女にやった。素直にそれを受けとったことも、子供のように唇をつき出して口紅をつけさせたことも、二人にとっては思いがけないことにちがいなかった。これまでの閑子は、口紅をつけぬ女であったのだ。ミネはふと、誰に見しょとて紅かねつける……そんなうたを思い出しながら、これからの閑子が野村との生活にどのような彩りを加えてゆくかと、不安な思いにとらわれたりもした。花嫁はミネの黒っぽいの着物に、貞子の帯を借りてしめた。自分の手で無造作にゆった頭も、それと分らぬほどの化粧も、婚礼にゆく女とは思えぬほどの色彩の乏しさであった。それは地のままの閑子の姿であり、昨日からそのまま続いている姿でもあった。それを野村にふさわしいものと閑子は考えていたらしかった。そのようにじみな姿の花嫁ではあったが、披露ひろうの宴に連った人々は、二十年の野村の作家生活に心をつなぎ合った、社会的にも知名の作家や画家たちが顔を並べていた。それはまたミネたちの共通の知人や友人でもあった。その席で花嫁の前途におくった貞子の言葉は、ミネの家でみた閑子はいつも何か仕事をしているのに気がついた、しかしこれからの閑子さんは、どうかあまり仕事に熱中しないで、子供さんと一しょに遊ぶお母さんになってほしい、というようなことを、貞子自身少女時代に継母と暮した経験とくらべ合せて語った。それは貞子の閑子に対して始めから感じていた気持を、親切な思いやりにくるんで希望した言葉で、ミネの心にもぴんとこたえたのであったが、閑子自身はそれをどのように感じとったものであったろうか。そのごに二度三度ミネの家へきた閑子は、いつも忙しがってばかりいた。
「ほんとに大変なのよ。いきをつく間もない位なの。だって、五人の家族が、その日着る下着にも不自由してる位なんですもの。四時半に起きて四つのお弁当で送り出すことだけでも大変なの。からだがもち切れるかと思うほどよ。これまでが独りの呑気暮のんきぐらしだったから、なかなか馴れないのね。何しろハガキ一枚かくひまがないのよ。」
「そんなこといわずに、少し遊びなさいよ。貞子さんがいってたじゃないの。」
「わかってるわ。だけどね姉さん、家の中へ入ってごらんなさい。子供と遊ぶには一そう忙しくしなくちゃならないのよ。家政婦ね。」
「そうだろうね。永い間の不自由のあとだもの。そのかわり喜んでくれるでしょう。」
「子供たちだけは、私のすることが何もかも珍らしかったり、うれしかったりするらしいわ。」
「野村さんは?」
「さあ。」
 はにかみでなく閑子は目をそらす。二度目の時も、三度目の時も、野村のことを聞くといつも閑子は目を伏せて、多くを語らなかった。ミネはもう、決定的な不安を感じて、じっとしていられず、ある時閑子のあとを追うようにして不意に野村の家をたずねたりした。その時の野村の慌てた瞬間の表情をミネは忘れることが出来ない。落ちつきを取戻してからも野村は、何かいい出されはしまいかと警戒するような態度で、平凡な世間話をする。その取りつくしまのないような、よそよそしい態度にたまりかねて、閑子のとめるのを聞かずに、ミネは辞した。門を出れば忽ちまた不安はき出してくる。何かあるのだ。何かいい分があるにちがいない。それをどうしても知らねばならない。何かをかくしているらしい野村の心を知るには、とにかく野村に会わねば話にならない。ミネはここ一か月間案じつづけ、考えつづけていたのである。
 そんな気持から、無理に出なくてもすんだ、ただの親睦会しんぼくかいのような今日の集りにもミネは出てきたのであった。野村も悠吉も酒の加減でか、機嫌よく話してはいるが、やっぱり御座なりの文学談くらいで、男同士の悠吉にさえ、何かを警戒しているように、ミネには思えた。
 会場で顔を合した時にも、野村は素気そっけない目つきで、何にも語らなかった。もっと親しくしてよい筈ではないか。一言ぐらい閑子について語ってもよいではないか。語らぬことで悟れというわけでもあるまいに、気に入らないなら入らないように、それとなくらしてくれてもよい筈だと思った。結婚以来何にもいわない野村、その野村は、今悠吉と何を話しているのか、百歩を離れたミネにはもう聞えないのだが、後ろから見ていると、それは全く他人の姿であった。電車通りに出ると、二人は足をとめてミネを待っていた。ほかの連中の姿はもう見えなかった。ミネは足を早め、まるでここで始めて野村を見かけでもしたように近づいていって、肩をならべた。そして思いきっていった。
「閑ちゃん、どうですか。」
「ああ。」と野村はうなずいて「今肩をこらして困ってるんですがね。頭が痛いとかで、今日は寝てましたが。」
「あら、そうですか。近くにあんまさんないんですか。」
「いや、あるにはありますがね、女だもんでこたえないというんですがね。子供たちが大分もんだりしていましたが。」
 まっすぐに夕焼の空に向って話す野村の顔は、油絵にかいた老人のように赤く、疲れた額のしわが目立った。
「ひどくこらしたんですね。もしよかったら一日うちへ寄こしてみたらどうでしょう。近所にいいあんまがありますから。」
 すると、野村は急に笑顔になり、気弱くそれを消しながら、
「そうですか、じゃあ早そくそうしましょう。」
 ひどくほっとした様子だった。野村を真中にして、めったにくることのないその通りを一つ先の停留所まで本屋などをのぞいたりしながら、三人は肩をならべて歩いた。それきり閑子の噂は出なかった。そして翌日、お昼前閑子はやってきた。結婚以来、はじめてみる明るい顔だった。
「二晩泊りできたのよ。」
 子供のようにうれしそうだった。前日申込んであったので、あんまは約束通り一時にやってきた。あんまが終っても閑子は起き上ろうとはせず、夜についで眠りつづけた。大きないびきをかいて眠っている。その枕元へミネが立っても知らずに寝ていた。髪を枕の外へ波打たせて、軽く口を開けて眠りほうけている姿、色の白くない、大きな顔、早や白髪の交った赤茶気た髪、そして、いびきをかいて眠っている。みていてミネは辛くなった。
叔母おばちゃん、ひどく疲れてんのね。いびきかいてる。」
 ミネの娘の正子までが、思いやりをこめた目で眺めた。翌日のお昼前、ようやく眼を覚した閑子は、はばかりをすますとまた寝床にもぐりこんだ。そして、今度は静かな寝息で眠りつづけた。
「ずい分疲れてんのね。お昼御飯どうしようかしら。」
 正子が相談するのへ、ミネはいった。
「さめるまで寝かしときなさい。藪入やぶいりなんだから。」
 その声が聞えたらしく、やっと起き出した閑子は、ミネの浴衣ゆかたをきたまま髪をふり乱しただらしない格好で、
「ああよくねたわ。ひと月分の寝不足をとりかえしたわ。」
 敷居際しきいぎわの柱にもたれて坐るのへ、ミネは、
「毎日二十分でも、昼寝しなさいよ。この頃のあんたの目、疲れてきたないよ。」
「それが出来るくらいなら……」
「昼寝しないの、野村さんちは?」
「するわよみんな。しないの私だけよ。していられないのよ、その日雇いの家政婦だもん。」
「冗談じゃない。」
「でもそうなのよ。ほんとにそうなのよ。」
 あたり前のようにいうのだがミネははっとした。いやだった。そばに正子がいなければ、立ち入って聞きたいのを押えた。夜でもおりをみて、聞かねばなるまいとひとり考えるミネの気持を知ってか知らずにか、閑子は立ち上り、
「さあ、髪でもゆって、そろそろ帰るわ。御飯だけ御馳走ごちそうになってから。」
「あら、二晩泊りじゃないの。」
「でも、もう元気になったんですもの。その代りまた来させてもらう。」
 急にそわそわと帰り支度をする閑子へ、ミネは買っておいてくれと頼まれていた布団地の布を取出してやり、正子のいないのをみて聞いてみた。
「閑ちゃんたちの寝室は、書斎なの。」
 閑子はちょっと暗い顔になり、
「ちがうのよ。私は子供と一しょ。」
 ミネはあきれた顔で、
「ほんと。」と聞きかえした。
「そうよ。だって子供たちが一しょに寝ようって聞かないんですもの。」
「野村さんそれをだまってるの。」
「何にもいわないわ。」
 ミネはすぐには返答も出来なかったが、小さい声で、
「それは間ちがいよ閑ちゃん。そういいなさいよ。」
「そんなこと。」
 閑子は赤くなり、
「私は子供のお母さんであるつもりなの。だから家政婦よ。」
 閑子が帰ったあと、ミネはそのことが心を離れなかった。何となく感じていた得体の知れぬものが、はっきりしたことで、不可解な野村の態度が心に戻ってきて、一そう胸の中が重たくなった。どうしたらよいだろう。考えれば考える程閑子の不幸の大きさが頭一ぱいにかぶさって、その夜は眠ることさえ出来ず、あぐんだ。はっきり理由も聞かない今、それは不当なことかも知れないと思いながら、野村を恨みたい気持が、どうしても納まらない。もういけないとは思うが、性急に閑子を引きとるというのも、二晩の休暇を一晩で帰ってゆく閑子の気持を思うと、考えなしには出来ないし、出来たとしてもそうなったら、閑子はどうするだろう。あの体裁屋ていさいやともいえるほど自尊心の強い閑子にとって、それは致命的なことにちがいない。もう半分はあきらめて、子供たちの母だといったあの気持は、容易にくだけそうにもないことを思うと、これは野村に、今一度頼むしかないと思えた。それが、どんなに野村にとって困ることであろうとも、閑子をこの境遇においた責任の一半は野村にもあるはずだ。それに訴えるしか外に道がない。そう考えてミネはとび起きた。
――今日閑子にたのまれていました布団地を渡すとき、布団の話から、閑子が子供さんたちと一しょに寝ているという話を聞きました。これは大変なことではないかと、考えるのですが、どうか子供の母としての役目は昼だけにして、夜は妻の座に置いてやって下さい。こんなおせっかいを申上げますこと、きっと気をわるくなさるかも知れませんが、申上げずにいられない私の気持、おくみとり下さい。――
 きわめて明るく書こうとして、書いてしまったミネは、さめざめとないた。仕事をする机の上で、仕事と同じ原稿紙に、誰にも告げずこんなことを書かねばならない辛さのために、泣かずにいられなかったのだ。悠吉にさえも、貞子にさえも話すことも出来ずに、これを野村に訴えねばならない悲しさ。こわれてしまったものを継ぎ合わそうとするむなしい努力であるかもしれないが、閑子を思えば捨てては置けない。そして、これを閑子には知られたくない気持から、手紙は固く飯粒で封じ、翌日自分で出しに行った。人を喜ばせるためにのみ努力した結果がこんなことになるなど、しかもそれは、全然予期しなかったことではなかった筈なのに。貞子のあの含みのある言葉の数々が、むちとなってこたえる。何故もっと大きくそれを考えなかったろうか。
 ミネはその足で貞子の家へ行こうとした。貞子ならばまたちがった知恵を出してくれるかも知れない。目たたきしてもまぶたが熱っぽいほどのぼせた頭を、ミネは農婦のように手拭で包み、日かげをよってうつむいて歩いた。通りに向って同じように並んだコンクリートのへいを、貞子の家の方へ曲ると、思いがけなくぱったりと貞子に出会った。
「あら、行くところだったのよ。」
 笑って引き返す貞子の、その笑顔の中に、ミネは何とないかげを見つけて、はっとしたが、それを貞子の、自分への思いやりと察してだまって肩をならべた。昨夜ほとんど眠っていないミネの顔は、あらわな疲れが出ているにちがいない。
「閑子がきていてね、昨日かえったんですけど。」
「そう。」
 それきりだまって歩いた。庭を回って貞子の部屋のぬれ縁から上った二人は、しばらくは互いに黙って向いあっていたが、やがて貞子はふところから白い封筒の手紙をとり出し、
「困ってしまってね。」
と、ミネの前に置いた。ミネはまた胸をつかれた。
「野村さんは、あなたに見せないでくれってかいてあるけれど、見てもらうしかないと思うの。困ってしまった。」
 息苦しいほどの興奮のまま、ミネは野村の手紙を、ふるえながらとり出した。やっぱりいけないんだ。やっぱりだめなんだ。慌てた気持で目を通す手紙が、ミネの心にすらりと入る筈がない。一枚の便箋びんせんをミネは何度もよみかえした。「閑子さんに欠かんがあるわけではありません。私の方でなじめないのです。二十一年間のせんの女房がそまりついていて、それが邪魔して閑子さんになじめないのです。――閑子さんの手、足、腰の線、声、目、髪、そのどっかからもぐりこもうと思っても、私はいつかせんの女房の共通点をさがしているのです。閑子さんはまるでちがいます。せんの女房は九文の足袋たびをはく女でした。私の腕の中にはいってしまう女でした。子供はもう猫の子のようになついています。しかし、裁縫ができて、家計が上手じょうずだということだけで、男はなかなか惚れはしない。――」
 堪えられなくなって、それをたたむミネの手はふるえていた。貞子が押えつけるような、少し癇高かんだかな声で、
「今更こんなこといったって、もう前へ進めるしか道がないじゃありませんか。ねえ。」
 そして少し声を落し、
「やっぱりいけないのねえ。……きれいな奥さんだったもの。」
 ほうっとためいきをしていった。ミネは、まだ空事そらごとを聞いているような、へんに実感の伴わぬ気持で、畳んだ手紙を封筒に戻すと、笑顔を作り低い声でいった。
「さあ、困った。」
 不思議に気持が落ちついてきたような格好で貞子を見た。そしてもう一度手紙を手にとって眺めた。重ねてよむ勇気はなかったが、野村が閑子の留守にこれを書いたことが察しられ、遂に終局がきたということは考えられた。疲れ果てた閑子が食事も忘れていびきをかいて眠っている時、野村はこの手紙を書いているのだ。せんの女房は九文の足袋をはく女でした。私の腕の中にはいってしまう女でした。……閑子は九文七分の足をもつ大きな女であることをかくしていたとでもいうのか。野村はそれを知らずに結婚したとでもいうのか。やっぱりきれいな奥さんがほしかったのだと、貞子はいう。野村は結婚して始めてそれが分ったとでもいうのか。それとも不器量な閑子を押しつけられたとでも考えているのか。それとも知らず、寝室を共にしてくれと愚かな手紙を書いたことがミネの心をかきむしる。これほどのいきさつとも知らずに、閑子はまた野村のところへ帰っていったのだ。土産の数々をととのえて、二晩を一晩にちぢめて帰っていった閑子、野村はそれを、どんな態度で迎えたろうか。今にして晴れた野村の不可解な態度が一つ一つ思い出されてきて、ミネの唇はふるえ、恥と怒りと悔恨が次第に全身にみなぎってくるのを一生けんめいで押えていた。貞子もだまってうつむいていた。


 一九四六年十月末の三日間を、ミネたちのよっている文学団体の第二回全国大会が渋谷公会堂でもたれていた。この日のために地方から上京してきてミネの家に泊っている支部の若い詩人や、夫の悠吉たちは朝早く家を出た。みんなの弁当の支度したくに手間どって、ミネはひとりおくれて出かけた。するとなんとなく気らくに歩けた。出がけに娘の正子が一種の同情をもっていった言葉を思い出す。
「お父さんたら悠吉なんて名前のくせに、ほんとにせっかちね。もうあと五分ぐらいなのに待ってくれたっていいじゃないの、わがままね。」
 弁当の支度が少しおくれたからといって男はその理由など考えずにどなりつけることができる。女はそうはゆかない。日頃ならどなり返しも出来るのだが、泊っている人に気がねでおとなしく、あとから持ってゆくからといっておくり出したのである。一しょに目がさめても、男は寝床で新聞をよみ、女は起きて台所に立たねばならぬ。男たちが起きて顔を洗っている間に女は掃除をすまし、朝食と弁当の支度をする。それが五分おくれたといって文句をいえるのは男だけで、女は結局三人分の弁当をかかえてあとから出かけることになる。それを夫も妻も不思議と思わず、娘の正子だけが男のわがままと考えている。それだとて女同士のかげ口としてなのだ。
「おべんとだって三人分となると肩がこるわよ、わたしが持っていこうか。」
 近ごろ急に弱くなったミネの身を案じて正子はそんなこともいった。
「まさか、戦争中は買出しにもいったんだからね。それを思えばお茶の子さ。」
 しかし、混んだ乗ものにゆられていると三人分の弁当は相当に重く、ミネは何度も手をかえた。だがそれで腹が立つというのでもない。それどころか、今日のミネはそれが楽しくさえあった。久しぶりに自分で作った弁当、いり玉子にハムのきざんだの、配給のアミの佃煮つくだにを煮なおし、とろろこんぶと小蕪こかぶ漬物つけもの、紅しょうがもそえた。黄と桃色と茶色と白と、蕪の葉がもえたつ若葉のように美しい。とりどりの色を楽しんで念入りに並べていて、そんなことで弁当はおくれたのであった。正子にまかせた昨日の弁当は、梅干入りのむすびだった。それがあまりにわびしく、私たちのお祭りなんだからふんぱつしようと、いうことになったのだ。それを悠吉が知ろう筈がない。弁当を開いて悠吉は驚くだろうか。梅干入りのむすびに不平もいわぬ悠吉は今日の弁当にも特別の感興はもたないかもしれない。こんなことは女の甘い考えでしかないのかもしれない。しかしミネはうれしいのだ。そのうれしさの中には、自分は弁当を届けるだけの妻ではなく、この弁当を、同じ目的で集った大ぜいの人たちと一しょにたべられる女であることのよろこびも含まれていたろう。無学な、貧しい労働者の娘であるミネを、こういう集りに参加させる女にまで引っぱってきたのは、何といっても悠吉の力が一番大きい。どなる悠吉、妻や娘をあごで使うことに不自然を感じない悠吉の中に、妻を引っぱって肩を並べてゆこうとするものも隣りあっているのだ。なれあって、それをなれあっているとも感じないほど古さを引きずっている夫婦であるかもしれないけれど、同じ弁当をもって集ってゆく夫婦というものは、そう多くはいない。ミネの先輩である高木千恵子の夫婦があり、かつて川島貞子の夫婦があった。だが高木千恵子の夫は今日はこないだろうし、川島貞子の方はもう今では夫婦ではない。三組の夫婦は永いつきあいの中でさまざまな風雪をかぶり、戦争をくぐってきた。そうして、今日晴れがましく壇上に立つのは高木千恵子である。戦争中の年月を泥までかぶってしまった恥多いミネたちの処世にくらべて、風に向って胸をそらしていた高木千恵子の堂々さは、終戦と共に大きな力とかげをもってあふれる泉のようにみんなの心にしみこんでいた。永い獄中生活から解放された夫を迎えて、夫婦ともどもに急激な生活の異変の中で、活気にみちた日々を暮しているのを、今のミネは、個人的な近さでは見ることができなくさえなっている。刑務所の夫に面会にいった帰りを千恵子はよくミネの家へきて泊った。防空頭巾ぼうくうずきんにモンペをつけ、一合の米の袋に一切れの牛肉、一個のリンゴの土産をもったいぶって差出せたような辛い時代、はげしさをうちに沈めているような千恵子は、ミネにさえも甘えたような気安さで接してきた。
「ああ、あ、どう? ミネさん。」
 千恵子はミネの肩に両手をかけ、疲れをそのまま疲れとしてさらけ出していた。ミネの家へくるのを藪入りだといって、くるなり帯をとき、足袋をぬぎ、紺サージの前掛をしめて、度の強い近眼のめがねまではずしてしまう姿を、ミネは単純に喜んで、彼女のために力一ぱいのもてなしをした。ここでは気を許しているのではないかと思い、嘘やかくしのない心を見せあった。
「高木ったら、もう一年もしないうちに出てくる算段ばかりしてるのよ。帰ってきたら私、あわてちゃうわ。」
 彼女は若妻のように無邪気に、輝く目をしていった。戦争のさ中に、これが治安維持法違反で無期を言い渡され、近く網走あばしりへおくられる夫と、その妻の確信をもっていう言葉だったのである。そしてその通りになった。たくさんの人が思い及ばなかったことが、刑務所の中の人にはちゃんとわかっていたのだ。そして高木が帰ってきてからは、もうミネの肩にもたれて、ああ、あ、と疲れた顔をみせる必要はなくなった。もうずい分久しく会わないとミネは思う。その千恵子にも今日は会える。少しからだを悪くしていると聞く千恵子が、今日の大会に報告者として出るために、自動車を回してくれと要求したとかで、それをとやかくいう声もミネの耳に入っていた。自動車はなかなかの時だったし、そのためにとやかくの声も出たのだろうが、千恵子が自動車を要求したということは、ミネにしては非常に千恵子らしく思えて微笑さえわいてきた。千恵子はひとまわり大きいのだ。何もかも人より寸法がはずれているのだ。というのがあたらぬならば、少くも今のミネのように三人分の弁当をひとりでもって、それを気楽だなどとは思わない女ではあるだろう。しかしその千恵子でさえも一つだけミネに些細ささいな不審をもたせることがある。それは獄中にいたときの高木との手紙の往復に、千恵子の方だけが呼び捨てにされていることである。このごろ雑誌などに発表される高木との往復書簡には、一つとして宛名あてなの千恵子に様がついていない。それはしきたりを無視した現れかもしれないが、みていて自然ではなく、男の方だけが嵩張かさばっている感じだった。それだけではなく、自伝的な作品を通して感じられる千恵子には、古い日本の女のようにかしずいているような感じを時々もたせることがある。それを思い出してミネは、弁当をかかえている自分と千恵子のどこかしらを比べてみて、おかしかった。この二人の女は生れも、育ちも両極端であるように、身につけたものすべてがちがっている。いつか二人は信州の山の中に十日ばかりの旅をしたことがあった。千恵子が刑務所から出てきてまもなくのことである。東京の暑さをさけて出かけたのに、信州はもう秋の気配がこく、日本アルプスの山々は白く雪をきていた。朝夕の散歩に千恵子はいつもその日本アルプスの山々を眺め胸をはっているのに、ミネの方は足下の高山植物や、小さな雨蛙あまがえるが八ツ手の葉の上で昼寝している姿のおかしさばかりが目についた。この相違が二人の相違なのだと、ミネはよくそのことを思い出す。たく山の書物をもっていった千恵子と、編物の毛糸を荷物の中に入れていったミネと、草原に腰をおろすと、千恵子は岩波文庫をひろげ、ミネは毛糸の編棒をとり出す。この相違は教養のちがいであり気質のちがいであるだけでなく、おかれてきた境遇のちがいでもあった。その頃のミネはまだ小説を書こうなどというあてはなかった。信州の温泉などへきてはいても、経済的な負担は千恵子の方でもっていて、ミネは千恵子のために毛糸をあんでいたのだ。毛糸は高木の足袋であったり、セーターであったり、千恵子の防寒用の下ばきであったりした。それから十何年もたっている。原っぱに立つ喬木きょうぼくのような千恵子も、路地の片隅の雑草のようなミネも、同じ会合へと集っている。壇上に立てば男も及ばぬ雄弁家の千恵子だが、それでもやはり、女として妻として何かの思いはあるのだろう。あるにちがいない――。
 女の立場からミネは千恵子の創作に現れる女について考えながら渋谷の駅を出た。そして出口のそとでうろうろしている婦人作家の三谷ひろ子をみつけて、呼びかけた。三谷ひろ子は細いやせた顔をこちらに向け、
「あーらよかった。こないだは失礼。」
 戦争中郷里の広島へ疎開し、そこで原子爆弾をくぐってきた彼女も今日のこの集りに間に合うように上京してきたのである。四十をすぎて結婚生活に入ろうとしている彼女は、相手が共産党員であるということのつながりからでもあろうか、上京するなりミネのところへやってきた。以前結婚生活の経験を持っている彼女は、破婚の苦々しさも知っているわけ。仕事をもつ女の、妻としての複雑な思いから解放されて、永い間独り暮しをしていた彼女が、今また新しい結婚をしようとしているのだ。原子爆弾をうけて、一瞬に消えてゆく人間の命を目のあたりにみてきた彼女の人生観が、ここまできたのだろうかと、ミネはある好意で彼女をみたのであった。
「結婚なんぞもうこりこりの筈なんですがね、やっぱり女はそんなわけにもゆかんのじゃね。でも共産党の人なら普通の男のように分らんことはいいなさるまいって、母もそういうんですよ。どうでしょう。」
 淡々と、田舎なまりをまぜてひとごとのようにいうのだが、頬紅ほおべにをこくぬったひろ子の化粧からさえ、彼女の心がもう決っているのをミネはさとった。結婚が一種の流行のようになっている中で、野村と閑子の結婚は新聞消息にも出されていた。そんなことからもひろ子は、らくな気持でミネを訪ねてきたのだろう。年も閑子と同じだった。しかし、閑子の方は今それどころではない。結婚してまる二か月の今、野村はもう大きな荷物として閑子をもて扱っている。しかも、互いにそれをまだ表面の問題とするところまできていないだけにミネの気持はもたもたしていた。三谷ひろ子をみてミネは急に閑子を思い出したのだ。貞子への手紙でミネにはいわずにいてくれという野村の気持が、どうにか納まるものと思ってはいないのだが、さりとて、ミネの方からどんなことがいえよう。今日の大会ではその野村とも顔を合さねばならないと思うと、ミネの心はさわぎ立った。渋谷という地名からも野村や閑子を思い出さずにはいられない。電車にのれば二十分ほどでゆける野村の家で、閑子は今どうしているだろう。今ゆけば野村も子供たちも留守なのだ。いってよく様子を見てこようか。心は迷いながら、おもては楽しそうにミネは三谷ひろ子と肩をならべて会場の方へ歩いてゆく。秋晴れの快い風を全身にうけ強い日ざしに目を細めながら二人は歩いた。ふとって大きなからだのミネと、きゃしゃなひろ子と、その二人のあとから一目でそれと分る足どりの男たちが近づき、そして追いこしてゆく。
「あれは会の人じゃね、一目で分る。その先の人もそうじゃろ。」
 ひろ子が広島なまり丸出しでいう。
「あ、あれはKさんですよ、詩人の。そのさきのはSという人じゃないかしら。『農民ごよみ』なんていう小説をかいた。」
 道路に向って開け放した建物の広い石段を上りながら、ひろ子は、今気がついたという風に、
「貞子さんは?」と、一しょでないのを不思議そうに聞く。
「お仕事でね。午後にはくる筈よ。」
 いいながらミネは、くっくっ笑い、ひろ子の手を引っぱって段を下りながら、
「区役所よ、ここ。あなたが自信ありげに上ってゆくもんだから。」
「だって大会なんだから立派な石段の方だと思ったのよ。」
 公会堂の入口はそのとなりの狭い段々であった。会場のはり札がつつましく人目をひいた。会はもう始っていた。外からくるとまるで映画館の中に入ってきたように薄ぐらく、後ろの方の人の顔はすぐには分らなかった。一番とっつきの椅子にひろ子と並んでかけると、まるでミネのくるのを待ってでもいたように前の方の席にいたらしい野村が近づいてきた。壁際の通路を少し猫背になって、ミネを見てひょいと頭をさげた。いかにもそれは、ミネをよんでいることが分ったので、ミネはすぐ立っていった。野村は目立たぬ出口の方の隅へミネをさそい、これ、といいながらいんぎんというような態度でミネに白い封筒を差出した。そしてすうっと後ろへひくようにして長くいきをすいこみ、あごをあげたような姿勢で目をぱちぱちさせてから、ひょこんと頭を下げた。口の中で何かいったけれど、ミネには聞きとれなかった。
 いよいよ、やってきた!
 胸の動悸どうきが音を立てるほどはげしくなった。便所へいってミネは手紙を開いた。

 この手紙があなたにどんな悲しみをあたえるかと思うと容易にかけません――

 ミネはあわててまた手紙をもとに納めた。
 ――ひどい。こんな場所で、いきなりこれを渡すなんて。
 気持を乱されたことに憤りに似たものを感じながら、ミネは席にもどった。壇上では貞子の夫であった評論家の田沢が量のある声でさっきからのつづきを話している。そのわきの議長席には悠吉がむずかしい顔で控えていた。ミネの頭に何にも入ってこないうちに田沢の報告は終り、悠吉が立って何か小さな声でいった。すると議長、と呼びながら右手よりの前の方の席から野村が立ち上った。底沈みのしたあおい横顔をみせて質問をはじめたが、野村の声が低いのかミネの席が離れているのか、少しも言葉が分らない。老人のように耳に手をやったが、やはり聞えない。悠吉の声も分らなかったのだ。ミネは、のぼせあがって自分の耳が変になっていると思った。野村の顔をみていると、夫婦の間の面白くなさが顔色にまでよどんでいるように思えて、せまるものがあった。ミネはだまって立ち上り、受付へ悠吉たちの弁当を預けておいて外にでた。羽織がぬぎ捨てたいほどのまぶしい日ざしが、白い道路にあふれている。ゆっくりと歩きながら、ハンカチーフを頭にかぶると、急に涙があふれてきた。野村から貞子への手紙以来、ミネの涙腺は異状をきたしたように、だらしなくなっていた。閑子のために泣いて泣いて、本当に夜を泣き明したこともある。枕がぐっしょりぬれて、とりかえねばならぬほど涙をすった。
「いい加げんにしろよ、お前のからだがまいっちゃうぜ。」
 ミネの嘆きのつきあいをさせられる悠吉が、もてあましていうのへ、ミネは泣きはらした顔を、それでもそのときは笑いながら、
「涙で枕をぬらすなんて、通俗小説の悲劇かと思ったら、ほんとにあるのね。湯のような涙ってほんとよ。こぼれてくるのが本当に湯のようにあついんだもの。それがわき出してくるの。私、生れてはじめてよ。いや、これで二度目だわ。あのときと、ほら。」
 あのとき、それは悠吉に、女の問題であるつまずきがあったことをさしていた。それをミネがいうと悠吉はいつもだまって苦笑する。もう十年も前の悠吉たちにとってはよりどころの見失われそうなけわしい時代のことだった。とはいえ、世間なみの女房でしかなかったミネにとってはそれは大きな打撃にちがいなかった。ミネはよく泣いた。目をつり上げて相手をはりとばし身をひかすことでその問題をのりこえた。本当に勝ったのか負けたのかミネはしらない。永年夫婦であったというつながりが表面ではミネを勝たしたような状態においただけだ。しかしミネはそこから、新しい出発をしたような気がする。ミネが小説をかき出したのもそのすぐあとだった。そのことで自分の身についた古さの多少を捨てさることができたと考えている。胸倉をとって小づき回せるような狂態も永い夫婦生活の間には生れるということ、極言すればそんなところからも夫婦の情愛などというものが湧いてくるという不思議、それをミネはしらなかったのだ。そういう人間の奇妙な心理を経て、今はもうちょっとやそっとでは動かぬ、おそるべき、めでたい夫婦になってしまっている。そして十年ぶりに流す湯のような涙は妹の閑子に代って流している。その女の涙を閑子が今はまだ知らずにいるというあわれさとはがゆさ、しかしいつかは流さねばならぬだろうことの辛さ、そのときの閑子のとり乱し方も考えられて泣けるのだ。事態がはっきりすれば閑子は、やっぱり小説家なんてものはという古くさい考え方でしか理解できない女であることも悲しかった。いわゆる品行方正を金鵄勲章きんしくんしょうのように大事がって四十までいた女、恋愛を不浄のようにきめていた女、自分の結婚が恋愛から出発したのではなく、古い形式の貰われ嫁であることを誇りに思っているような女、だから閑子は野村の心がつかめないでいるのだ。そんな女を、いくら野村に子供があるとはいえ、さしむけたことがミネはもう、身の置きどころもないまでに悔まれた。野村の貞子への手紙は、その後悔の上に恥かしさ辛さをまで加えられた。ミネは涙をこぼしながら、悠吉にでも口説くどかねばおさまらなかった。
「ね、野村さんは、この問題が閑子の不器量などということではないといってるけれど、そして、まさかそれだけではないと私も思うけれどさ、やっぱりそれが大きな原因だと思う。だって、はじめに野村さんは、閑子をケチンボの妹に似ているっていったでしょ。本当はあのとき、私が突っぱね通せばよかったのよ。だけど、そのときはもう、閑子の気持はすっかり野村さんへ行ってるんだもの、仕方がなかった。そして今度は、九文の足袋をはき、腕の中へ入ってしまうせんの奥さんと比べられている。きっと野村さんは気がつかずに比べているのよ。気がついてたって、それを悪いとはいえないわ。きたないよりきれいな方が誰だって好きさ。だけどさ、そんなことってある? 九文の足袋をはく人はもう骨になってるのよ。閑子は生きてるのよ。手足も腰も、目も声もまるでちがうなんて、今さら、侮辱だわ。知ったら閑ちゃんどんなに思うでしょう。」
 器量の悪さを気にせずに貰ってくれたといって喜んでいた閑子のことを思い出し、ミネは当の相手が悠吉ででもあるように恨みがましくいった。
「かんべんしてくれよもう。しょうがないじゃないか。あとは二人で片づけるよ。」
 悠吉にそういわれるとミネは、自分ひとりで取越苦労をしているような気にもなり、やっと心をしずめた。
「ほんとだわ。私にはだまってろっていうんだから、この問題閑子から相談されるまではだまってるわ。閑子の気持だってあるんだもの。ああ、あ、男なんてほんとに、私たちの間でも、やっぱり、男ね。女だって女かもしれない。女だわ。顔のきれいさを大きく考えてる。美しくないものほど、そうかもしれないわ。きれいな人にはこれは分らない。きれいでないものの肩身狭い思いなんて分らないわよ。分っていても、それはひとのことなんだもの。閑子って女はね、とくにそんなことをけいべつしながらとても気にしていた女よ。素知らぬ顔をして気にしてる。そのくせほかのことは鈍感なの。まだ分らないのかしら。ぴりぴりしてる神経ももってるくせにさ、どっかに足りないとこがあるのね。独りでいたせいだと思う。わかったら、だから、どんなに口惜くやしがるでしょう。」
 ミネは毎日、閑子への触覚をぴんと張らして、かまえていた。しかし閑子からは何にもなくて、遂に野村から手紙を渡されてしまった。ぶ厚い手紙はミネのふところでこわばっている。ミネは額にかぶさっているハンカチーフで流れる涙を押えながら駅の方へ歩いた。焼あとのまだ夏草のむらがっている中へはいってゆき、乱雑に一つ所に集めてある大谷石おおやいしの一つに腰を下した。野村の手紙をみることで、度胸ができたのか涙はもう納った。この上現状をつづけることはお互いの不幸を重ねるだけだと書いてある。二十一年間つれ添ったせんの女房が私のからだに染っていてそれがじゃまをするとかいてある。浮気をしない男なのでいくつもの女のタイプをしらぬから、閑子を征服することができず、外国に行ったようにウロウロし、まだ一度も満足な夫婦状態にならぬと書かれている。ここまできてミネはがく然とした。閑子は不具なのではないかと思ったのだ。しかし、その次の行には、閑子さんが不具なわけではなく、せんの女房がじゃまをして、閑子さんになじめないのだとまたかき加えている。要するに彼の妻は閑子ではなく、二十一年つれ添った女房であるというわけだ。貞子への手紙と同じように、閑子のどこにも、そのくなった妻のおもかげを見出せないとかいてある。だが、ミネはなぜか腹も立たず、新しい涙も出ない。ただ大きな困惑が心一ぱいにひろがるような思いがした。困った。野村はミネに、よい知恵があればかしてくれという。どう処置しようというのだろう。自分であたってくだければよいではないか。しかし、くり返してよんでいると野村の小心さが、それもできないで悩みつづけているのがわかってきて、ミネは大きなためいきをした。道は一つしかありはしない。かわいそうな閑子、そして野村も。私にかわいそがられるなんて。無分別なことさえ考えたとかいてある。無分別とは何だろう? 死のうとでもいうのか。馬鹿な。しかしこの手紙は嘘ではない。――閑子さんはよくしてくれます。よくしてくれればくれるほど私はくるしい。悪い結果によって起る私一家の打撃(子供たちはようやくおちつきをとり戻したところですから)を考えると私が何とかなればいいのだと思いまた勇気を出してみますが、またはね返されてしまいます。――
 ミネは恥かしめをうけているような気がして、思わず立ち上った。そしてのしかかってくるものをふり払うように足早に歩いた。歩きながら、心は手紙の一句一句をくりかえしている。全責任を野村は負うという。それはどういうことなのだろう。全責任をおう。それならだまってがまんするとでもいうのか。ちがう。野村は一刻も早く、閑子からのがれたいのだ。責任をひとりで負うなんて。責任というなら、それは何も野村一人にあるわけではない。ただミネが残念でたまらないのは、一度話がつまずいたとき、何故それをまた思いきり悪く後戻りさせたかということだった。あの時野村にしろミネにしろ、今日の予感が全然なかったとはいえない。まちがっていたのだ。子供のためにといい、裁縫のできる女をという、当の野村の気持を全く棚上げにした彼の条件を、仲人を商売にする女のようにあてはめてしまったミネにも責任はないとはいえぬ。子供のために母を。しかしそうはいっても、誰も閑子を子供のための母としてよりは、野村の妻として考えていたのだ。子供たちはすぐ大きくなり、それぞれ自分の生活を築くだろうと野村もいいミネもそれをいって閑子に納得なっとくさせたのである。みんなしてあまりにも事態を甘く見すぎたと思うほかない。甘くみた責任を問われるなら、一番甘く見られた野村、甘く見られるようなところを見せた野村に一ばん大きな責任があるとはいえないだろうか。結婚して二か月たって、その野村の心のかたが見ぬけぬ閑子は責任など持つ資格すらない、馬鹿女の見本なのだ。閑子が馬鹿だからみんなが困るのではないか。私だとて恥かしい思いをしなければならないのだ。そう思うとミネは閑子がはがゆく、又哀れでならなかった。閑子に教えてやらなくちゃ。閑子はきっと、こんな工作がなされていることをちっとも知らないのだ。野村は二三日中に伊豆へ仕事にゆくから、そこへミネの返事をもらいたいと書いてある。ミネから返事があるまでは、閑子には従前どおり気どられぬふりをしているからと、はっきり書いてある。ああ閑子よ、お前はそんな女なのか、可哀かわいそうに。直接に相談もうけられない馬鹿な女なのか。負けだよ、負けだよ。なんにも男の心をひくものがなかったというのは。四十までも独りでいて、何のまちがいもなかったことを、お前は自慢にしていたかもしれない。しかしそれは、女として大きな不足があったのだということを、お前はしらないのだろう。何にもしらずに、夫婦とはこんなものだと思っているなら、とんでもない、それをくだらないと気がつかないのか頓痴気とんちきめ!
 いつかミネは野村の家へゆく電車にのっていた。野村の家に近づくにつれ、今、大なたをふるって、たち切ろうとしているものへ身ぶるいを感じた。ことによれば、見せなければならない手紙、閑子はどんな顔をするだろう。少しは感づいているかも知れない。ふところに手をやると、手紙は帯の下でかさばっている。それは野村から渡された苦悩のバトンなのだ。私はこれをできるだけの知恵をしぼって、小さな川に流してしまおう。私が利口にならなくちゃ、だから私はもう、決して涙など流しちゃならない。ミネはひとりで自分の心に力んでみせた。だが、野村の家の垣根のきわにうずくまっている閑子の手拭てぬぐいをかぶった姿をみつけると、急にやさしい声をかけずにいられなかった。
「閑ちゃん。」
「あら、どうしたの、今日大会でしょう。」
 閑子はいかにも嬉しそうに立ち上り、土だらけの手を払った。
「種まき?」
「そう。あの、絹さやなの。」
 それは田舎にいるときの閑子が自分の手で収穫したさやえんどうなのだった。今まけば寒さをくぐって来年の春には花を咲かせる筈である。ミネはもう何ともいえずだまって縁ばなに腰を下した。土のついた手のままで閑子もきて並んで腰かけた。
「肩、もうこらないの。明日あたり、うちへこられない? 野村さんにそういって。」
 試すようにミネはいってみた。
「でも、二三日中に野村旅行なの。仕事にゆくんだって。だから、そのあいだはだめよ。」
 全然、しらない。ミネは目をそらし、珍らしいものをみるように家の中をながめた。きれいに掃除がゆき届き、床の間には茶の花と黄菊が小さな花びんにさされていた。閑子の好みなのだ。縁側を光らせ、部屋に花をかざりそんなことを人生の美しさだと閑子は勘ちがいをしているのではないか。いつだったか、病気だという野村を見舞ったミネを駅まで送ってきながら閑子は、急に立ちどまって両手で顔をおおい、泣き声でいったことがある。
「姉さん、私、方針を変えようかと思うの。」
 野村が、わけの分らぬ癇を立てたり、子供たちも馴れるにつれてなかなか手綱がとれぬというのである。
「そりゃ閑ちゃん、教壇から生徒に教えるのとは大分ちがうわよ。悠吉だってみてごらんよ。私たち毎日いい争わん日ないでしょうがね。もっと馴れて、閑ちゃんがどなったり、口答えができるようになったら、平気になるよ。誰がそんな、大きな声も立てん人があるもんですか。それこそ、くそ面白くもない。」
 ミネがわざと軽く扱っていうと、閑子はくびをふり、
「ちがう。うちの人たちは、どっかちがうわよ。やっぱり、くるんじゃなかったわ。」
「じゃあ出なさいよ、いつでも。――そんなものではないと、私は思うけど。」
 それきり閑子はもうそんなことはいわなかった。ミネの家へくることがあっても、帰りはやはり、いそいそとしていた。しかし今思えば、それが野村の気持をうけとるせい一ぱいの閑子の感じ方だったのだ。今それをいってくれたらとミネは思う。だが閑子は、垣根のそとに豌豆えんどうをまいているのだ。ミネをみても手を洗おうとはしないのだ。ミネがきたことについて、何の気も回らないのだろうか。
「じゃあ、さよなら。これから大会へゆくのよ。それじゃ、都合がついたときいらっしゃい。私がきたこと野村さんにそういってね。」
 嘘をついているようで、ミネは辛かった。しかし、自分がここへきたことを聞けば、野村は明日にも閑子を寄こすかもしれぬし、あるいは打明けて話し合うようなことにもなろうかと、ひそかな思いを残してミネは別れた。見送れぬことを残念がって、ミネが道角を曲るまで、閑子は垣根のそとに立っていて、ふり返る度に手をふった。こんなことも今日で終りなのだ。ミネは走るような早さで歩いた。そしてまっすぐに家へ帰るなり、驚いている娘の正子にいいつけた。
「おすしを作ってね、大福を百円も買っといでよ。」
「あら、お肉だといったじゃないの。」
「それ中止よ。伯母ちゃんが[#「伯母ちゃんが」はママ]くるだろうから。」
「あっ、そうか。」
 すしと甘いものが閑子の好物だった。しかし、閑子はその日はこなかった。次の日も待っていたが現れなかった。野村が伊豆へ出かけたのかもしれない。やきもきしても始まらぬと思いながら、ミネは落ちつけなかった。仕事も手につかぬまま、貞子の家へゆき、落ちつきを装って野村の手紙をみせた。
「閑子さんが、あとから伊豆へおっかけてゆくぐらいだと、いいんだけどね。」
 そこにだけのぞみをおくように貞子はいって、ふといためいきをした。
「だめでしょう。そんなところがだめだから、だめなのよ。それにもう……」
 ひと事のように平気な声でいったのに、貞子の前だという油断からか、ミネは急にかなしさがこみ上げてきて、だまって顔をかくした。しばらくしてから、
「わたし、野村さんの気もちも分っているつもりなんです。気の毒だと思いますわ。でも、閑子もかわいそうだと思うの。働いてさえいれば、いつかは認められると思ってるような馬鹿な女です。そしてむくいられるものが、これですもの。しかもそれを敏感にうけとれないでいる……」
 ひと前で泣くのを口惜しいと思いながら、やはり泣けた。泣くまいと決心し、閑子の前でも、また悠吉との話しあいの中でも今度は泣かなかったのに、貞子の前ではいつでも泣けた。貞子だけは分ってくれると思ったからだ。
「私、ミネさんは泣いていますって、手紙出したのよ。」
 貞子はそういった。だが、ミネがどれほど泣いたとてどうなるものでない。ミネが泣いていると聞いて、野村は手紙をよこしたに相違ない。泣かない野村はもっと真剣であり、それがミネにとって納得出来がたいことであろうとも、もっと切実な苦悩をあじわっているにちがいなかった。
「野村さんの気持の中には、まだ前の奥さんは生きているんですもの。そこへ閑子が坐れる筈がない。」
「困ったわね。」
 もう手だてはないのだという声で、貞子はまたためいきをした。しばらく二人ともだまっていた。ミネはふと、公平な立場にいる貞子の気持の複雑な動きを、ひが目で感じたりした自分を恥かしく思い、目をそらしてほかごとをいった。
「今年の秋、何だか早いわね。」
「そうね。」
 貞子の部屋から見える広い庭の隅の木犀もくせいの繁みにい上っている自然薯じねんじょの葉が黄色く紅葉し、かえでのもみじと共にときわ木を背景にして美しい友ぜん模様を染め出しているのだった。
 貞子に引きとめられ、ミネは夕飯をごちそうになってから、いそいで帰った。長尻に眉をひそめている悠吉の顔がミネの胸に重たかった。女なんて、どうしてこんな思いをしなければならないのかしら。男の帰りが少々おそくても、たとえ夜中になったとて女は眉をしかめはしないのに。しかも、われわれの間でなんだからおかしな話さ――。ミネはひそかな反発を感じながら家への路地を曲った。反対の方から、旅人のようにリュック・サックを背負い、カバンを下げた女が近づいてくる。閑子だ。ミネは門のそばで待ちうけた。
「姉さん。」
 閑子の声はしわがれていた。
「帰ってきたわ。だまって出てきたの。もうとめないでね。私、証拠をにぎってきたのだから誰が何といっても帰らないつもり。」
 いっている中に閑子の声はふるえてきた。
「さあ、家へ入ろうよ。分った、分った。」
 子供でもあやすようにいって、ミネはカバンを受けとり自分の仕事部屋に閑子をさそった。うしろからリュックをかかえて下してやると、閑子はしゃんと胸をはるようにしてこちらへ向き直り、立ったまま、
「前の奥さんは貴族のように美しくけだかかったんだってよ。そして私に、何にもいわずに引き下ってくれないかって、書いてあるの。日記よ。だから私、だまって帰ってきたわ。野村、明日伊豆へゆくんだって、私がいないと忽ち困るじゃないの。でも私、帰らないわよ。誰がひと、あんなところに。」
 なげつけるようにいう。世間なみにもとへ帰れといわれ、帰ってきてくれとたのまれるもののように決めている閑子の単純さを辛く思いながら、ミネは言葉少く、うなずいていた。帰らなくていいんだよ。もう帰れないんだよ、といわねばならないのが残酷に思えるほど、閑子は単純なのだ。大きな二つの荷物、そこには持てる限りの閑子の身の回りのものが入っているのだろう。それをもって、閑子は戻ってきた。しかし、閑子の心が、もう野村の家の一員であることを、ミネは感じないでいられなかった。閑子は腹立ちまぎれに、困らしてやるために、単純な嫉妬しっとのためにとび出してきたのではないのだろうか。
「まあ、すわりましょうよ。」
 自分も坐りながらミネは、閑子の手をとってひっぱった。つるしあげたような目をして、閑子は強情に立っている。部屋の中はもう暗くなりかけていた。


 気もちの重たさが自然に足を表通りから遠ざけたのか、気がつくとひどい霜どけの裏道に出ていた。しまったと思ったときはもう後へひけない泥たんぼのまん中で、表通りがついそこに見えているのに、動けないかなしばりだ。畑道へもつづく十字路に立つと、春さきとは思えない冷たい風が頬をしびれさせながらからだのしんまでしみこんでくる。
「おおさぶい。」
 つぶやきと一しょにミネはショールを頭からかぶり直し、つまからげをした。思案しながら一足一足をかわさねばならぬ。しかも思案の一足は決して安全ではない。ミネの足袋はぐるりから泥色に染ってきている。ゴム長でもはいて、堂々と歩きたい思いがする。二度や三度のことではないのにこのぬかるみを忘れていたのが第一におかしい。四月の初めごろまで、少くも一年の三分の一はねったこったのこの道を、誰も何とも出来ない知恵のなさも不思議だ。夏は夏で煙のような土ぼこりの立つ道なのに。つい十年ほど前には畑地の方が多かったといわれるこのあたりの、下水の設備もない、畑つづきのこの道をはさんで、ゆとりのある間隔をおいて人の住居に手ごろな家が並んでいる。建てた当時の制限建坪を正直に守ったような家々は、粒々と倹約を重ねた末のたった一つの財産として大切に考えてきたような階級の人たちを思わせるとりすまし方で、生垣いけがきなども几帳面きちょうめんに刈りこまれている。だが、垣根のそとはこの通りなのだ。我身大事と檜葉垣ひばがきに身をすりよせて、まるでがけぶちを歩くようにして人々はこの道をゆくのだが、ほっとしたときの足もとはいつも泥だらけだった。みんなそれを知っていて噂をしあう。ミネもその一人である。そして今日もまた泥足袋になってためいきをした。ためいきのでるあたりから道は少しよくなる。せまい草原の畑道になるからだった。靴下や下駄をはいて歩く住宅街よりも、地下足袋で歩く畑の道の方がよくて、やがて又住宅地へ入ってゆくと再び泥田圃どろたんぼの道になるのはどういうわけだろう。
 川島貞子の家はこの畑道でつながった向うの丘にあった。ミネの足はその丘にむかって進んでゆく。ミネのショールのかげにかくれている小さな包みは、近く婚礼の式をあげることになっている貞子の長女におくる、閑子からの祝いの品だった。かわいい下駄げたが入っている。下駄は朱ぬりの中歯の日和ひよりだった。それに若葉色の鼻緒がすがり、同じ緑のつま皮に赤い折鶴が一羽、あざやかに浮き出ていた。いかにもそれは若い花嫁のはきそうな下駄である。そのかわいらしいおくりものを胸にだきながら、ミネの心はちっともはずまない。破婚してまだ間のない閑子からのおくりものは、受ける方もまた何かの心づかいがあろうと思うと、なかなか軽い気持になれないのだ。閑子がそれを気にしているとき、ミネは彼女の内心をおしはかって、
「あんたはいいよ。うちの者と同じなんだもの。私たちがすればそれでいいじゃないの。」
 すると閑子は急に目を光らせ、
「出戻りからお祝いをもらうの、ゲンが悪いというならやめるわ。」
「そんなこと、へんなふうにひがむのよしなさいよ。閑ちゃんが祝ってあげたい気持なら、そりゃあ喜ぶわよ。お祝いなんて羽織のひも一つだってうれしいものなんだから。」
「祝ってあげたいから祝うっていうのじゃないわ。わたしが姉さんたちの交際の仲間入りをしようって野心はないのよ。私ももらったんだから、お返しはしなくちゃならんでしょう。それだけよ。作家なんて偉い人たちとのおつき合いはもうこりこりよ。」
 ミネはだまっていた。だまるよりほか仕方がない。そんな言葉のやりとりの結果、閑子は下駄を買ってきたのである。永年の田舎暮しの中では冠婚葬祭を義理と形式でしか考えない几帳面さなのだ。かつて自分も祝ってもらった義理は、どうでもこうでも果さねば気がすまないのだろう。そんな義理で買ってきた下駄なのだが、その時閑子は大自慢でそれをミネや正子に見せた。
「いいでしょう。これを朝子さんがはいて、じゃかさをさしている姿が目に浮んできてね、こんな下駄がはける人は仕合せだと思ったわ。きれいな人は、とくね。」
 素直によろこぶ閑子だった。ミネはこの素直さを貞子にしってもらいたい気さえした。貞子の前に出る閑子が、あまりにも暗く、重くるしいのを知っていたからだ。あれなら野村がいやに思うのも無理はないと、貞子は考えているだろう。ミネでさえもこのごろの閑子をみて、野村の気持に同感を持つことが多くなってきている。そして、そのことを閑子のために可哀そうに思う。姉にまで重たがられる女で、閑子はあったのだろうか。閑子のそうした一面がどこに根ざしているかをミネは考える。四十歳までひとりで暮してきた女、二十年もの間教壇に立って若い娘たちを教えてきた女、男女のいきさつにうとく、恋の手紙などおそらく一度もかかずに青春をやりすごした女、それを立派だと自信をもって暮してきた女、そこに問題の根本があるのかもしれない。単純なひとり暮しの中ではボロを出さずにいられた閑子が、急に四人の子の母となり、五十の男の妻となったのだ。教壇の上から二つの目で幾十人の顔をみおろして暮してきた閑子は、せまい家庭で十の目に見すえられることになった。無邪気な夫婦から出発して適度な間隔をおいて一人ずつ子供がえてゆき、その過程で夫も妻もだんだん複雑な父となり母となってゆく、その道筋を通らずに閑子は四人のしかも大きな子供の母となり、相手の職業もよく考えずに作家の妻になったのだ。女としての心の発展をへずに閑子は、教壇の上でつかったものさしを、家庭にもちこんだのだ。どうしてそれが通用しよう。野村の生れや育ちにだけたよって、作家である現在の野村をきわめなかったことは、誰も彼もうかつであったというしかない。その限りでは閑子をせめることは出来ない。にもかかわらず、誰よりも大きな打撃をうけたのは女の閑子なのだ。しかも閑子は投げ出された自分の羽目に、今もって納得できないでいる。納得できる女であったなら、投げ出されずにもすんだろうに。野村が前の妻との間に二十年間積み重ねた愛情をすら、自然なものとして理解することが出来ないほど、閑子は人間の心の世界にうといのだ。野村の日記をみて腹を立てて帰ってきた日、彼女はなりふり構わず歯ぎしりをしながら野村をののしった。
「立派な人だの、信用出来る人だのと姉さんはいったけどさ、野村のどこが立派なの。あんなにうまいこといってから、一日も早くきてくれっていったんじゃないの。それなのに何でしょう。前の嫁が忘れられないで、やれ貴族のように気高いだの、死ぬまできれいな目をしてたの、あのりこうさは文学にも政治にも通じるだの、あんな気高さはどこから生れていたのだろうのって書いてある。私がバカで、きりょうが悪いってことじゃないの。器量の悪いのを承知でもらったんじゃないの。わがが美男子かなんぞのように、貴族だって。プロレタリア作家だの何だのいってるくせに貴族が気高いなんて、ずうずうしいじゃないの。子供だって女の子はみな我ままよ、でも私はそれでいいと思っていろいろしてきたのによ、お母さんは持物に手をふれさせんだって、じょうだんじゃない。鏡台も針箱も私のが珍らしくて私のばっかり使っていたのよ。タオルだって、はきものだって一しょよ。刺しゅう糸なんぞ今売ってないもんだからほしがってさ、少しずつ自分の糸まきにまいてゆくのよ。そんなこと知らん顔で、お母さんは甘えられないだって。若い者のように、やれ恋がしたいだの、死んだ奥さんの笑顔が魂をとろかしたのと、日記はそんなことばっかりかいてあるのよ。」
 閑子はそれが野村の決定的な欠点であるかのように威丈高いたけだかな口をいた。野村の手紙で閑子より先にあらましを知っていたのだが、聞いていてミネは、ますます絶望せずにいられなかった。何という心の貧しさなのか。五十二になって恋がしたい夫の気持の若さをよろこびとすることのできぬ女、そんな女に対してまた、野村の期待は大きすぎたのだ。はずれるのが当り前だ。
「ね、閑ちゃん、野村さんに肩をもつわけではないけどね、日記をかくのは野村さんの自由なのよ。まして作家じゃないの。書くことはお茶の子さ。考えることだって、普通の人よりは細かいさ。普通の人ならどんなことを考えても、それを日記にかく人はめったにないわね。それを正直にかくところが作家じゃないの。私だってかくわ。私のノートには悠吉の悪口がうんとかいてあってよ。口でいえなかったことがかいてあるわよ。あいそをつかして逃げ出したいとかいたこともあるし、おのろけをかいてもあるわ。日記はごまかせない心の記録なのよ。だからさ、悠吉がもし、恋がしたいと日記にかいてあっても、私はそれをどうこうはいえない。それがいやならとび出すしかないし、とび出せないなら恋のしたい男のその精神も一しょに自分の方へかかえこまなくちゃ。私ならそうする。」
 こんなことまでいわねばならない閑子の幼稚さをぎりぎりと感じながら、いった言葉はミネを笑いださせてしまった。白髪頭の自分たち夫婦のありさまを、鏡をみるように思い浮べたからである。しかし、笑いながら走馬灯のように走り去ったのは、二十幾年の夫婦の歴史の中での女としての苦しかった思い出である。あのときはミネもまだ若かった。短気に離婚などしていたなら、どうなっていたろうと思うと閑子にもまして愚かな姿で泣き悲しんだ自分を、閑子の今の姿と見比べずにいられない。しかし、比べるには問題はあまりにちがう。閑子にだまって出ていってほしいという、つまり夫婦としての結びつきの殆どない野村に比べて、ミネたちは単純極まる夫婦であった。悠吉に問題の起った直後のことだ。二階の段梯子だんばしごの上からあっという間に足をすべらせた悠吉が、下まで落ちたことがある。だだだだっと、ひどい音を立てて、尻もちをついたなり、身うごきもしないで痛さをこらえている悠吉が、やっといきをつきながら最初にいった言葉は、
「お前でなくてよかったなあ!」
 板の間の隅に巻いて立てかけてあったしきのし茣蓙ござが、思うさまの足の力でされて、まんなかを煎餅せんべいにへこまして曲っていた。ミネはその時のことをよく思い出す。
「あんたがね、もしも私より先に死んだら、思い出の文章の中へ、このことだけは忘れずに書くわね。彼はそのように愛妻家であったって。」そんな冗談をいったことも度々ある。しかし二人は今もって角つきあいのたえない夫婦である。癇癪かんしゃくもちの悠吉にあいそをつかして、ミネは心の冷える思いをどれほど味ったことか。そしてミネ自身が又、ひどい短気を起すこともしばしばだ。「決定的」な言葉のやりとりに疲れ果てながら、しかし二人はやっぱり夫婦であるのだ。野村と閑子はおそらく一言のけんかもなかったのだろうが、たったふた月で割れてしまった。野村はミネたちの前でただ手をついて頭を下げているのだが、手をつけばつくほど閑子は自分の立場に欠点がなかったと思いこむようだった。野村の子供たちに手拭をかしたといい、洋服を作ってやったと考えるところに、母としての価値のなさがあり、野村の不満もあったのではなかろうか。しかし、閑子の身になれば、急にはそこまで気持の幅がひろがらなかったのが当然だろう。土台無理があったのだ。
「やっぱりね、まちがっていたと思うの。あんたに無条件で野村さんを抱えこめといっても、それは無理だわ。私にすれば野村さんの日記は問題じゃないのよ。だけど、あんたにはそれは大問題さ。日記のことは別にしてもよ。毎日が夫婦のくらし方でないとしたら、そんな馬鹿なことってないじゃないの。それを野村さんはいってるのよ。」
「姉さんは、わたしの方が悪いと思うの。」
 くちびるをふるわせて問題からはずれたことを閑子はいう。
「どっちが悪いとかいいとかじゃないさ。そりゃあ、うわっつらを考えたら野村さんて人は歯がゆいさ。いつまでも死んだ人にかかずらっているなんて、人生を後ろむけに歩いてることになるもの。新しい生活をもり立てようとしないでさ。それではいつがきても前に進まない――」
「だから死にたい、死んで奥さんのところへゆきたいってかいてある。」
「まさか、いくらなんだって、それじゃあもとも子もない。」
「だってほんとだもの。私がうそをついてると思う?」
 またいきり立ちそうなのをあわてておししずめるように、ミネは小さな声になり、きげんをとるようにいった。
「そんな男ならよけいあきらめいいじゃないか。閑ちゃんには悪いけどもさ、もどってよかったってことになるわよきっと。だから、あきらめなさいよ。」
「もちろんよ。だから戻ってるじゃないの。今ごろは奥さんの位牌いはいを抱いてねてるわよ。」
 閑子の言分はミネにがっかりぐせをつけて、そうなるともう言葉がつづかなかった。しかし、これが血をわけた自分の妹なのだ。ミネが何とかしなければ誰ができよう。こんな一面を知らずに、野村の表面的な条件に合せて裁縫のできるやさしい女ですといったのだ。裁縫のできるやさしい女は、わずか二か月で夜叉やしゃのような女になり、白痴のような女になっている。それを相手に、まるで小娘に聞かすように何度も何度も一つことを、根気よく繰り返して絶望を重ねてゆく。お前がバカなんだよ! そういって閑子にどなりつけたい心を押ししずめかんべんしてくれとあやまったことも、もちろん閑子には通じていまい。だから閑子はあんなに激しい言葉で野村をののしったことをさえ忘れたように、その翌朝、まだ寝ているミネの枕もとへきて坐った。出支度をしている。
「ゆうべ考えたんだけどね、だまって出てきたことは私が悪かったと思うの。だから私、あやまって帰ってこようと思うの。ああはいったけど、世の中に文句のない人はないと思うの。」
 まるでそれが、自分ひとりの言分で出てきたようにいう。
「ま、まちなさい。」
 ミネはとび起きた。
「野村さんが、今日あたりくると思うの。話をつけにね。」
「ふうん。」
 閑子は寝不足で充血した目をぱちぱちさせた。濁った小さな目は片びっこにつるし上っている。このきたない目に、野村は身ぶるいしたのだ。それは気になる目だった。ねむらずに泣いたあげくの目と分っていてさえ、いやな目なのだ。
「でも、ほんとにくるかしら。」
 閑子はやや考えたあげく、不安そうにいった。
「くるさ、昨日、電報打っといたから。」
 すると閑子は急に活気づき、そわそわしだした。そして朝食の間も玄関の戸があく度に腰を浮かせ、耳をすませ、郵便配達にさえとび出してゆくのだった。そんな閑子をかわいそうに思い、あとの打撃に少しでも備えるつもりでミネはいった。
「野村さんは、今日解決つけにくるのよ。貞子さんとこへも手紙がきてるし、だからあんたもそのつもりになった方がいいと思うの。見込みないわよあの人は。みんなそういってるのよ。」
 閑子の夫としてのその点での見込みのなさについてのことを、みんなの意見のようにミネはぼやかしていった。せめてもの敗者への思いやりなのだった。しかし閑子は強く、まるで別人のように熱をもって、
「でも、そうでもないと思うことだってあるわ。私さえがまんすればいいんだもの。だから私、今日きたらそのこというわ。分ってくれると思うの。あすこの家は私がいなければみんな困るんだもの。第一子供たちが可哀そうよ。気ままといえば気ままな子ばかりだけど誰がお母さんお母さんといってくれようかと思うと、私、悪いことしたと思ってね。子供のためにも、かえろうと思うの。」
「そんななまやさしいところに問題はないのよ。もっと決定的なのよ。」
「決定的――」
「好きになれないっていうのよ。夫婦の感情がわかないっていうのよ。」
 閑子は目を伏せた。ミネはまた、一年生を相手のくだき方で、
「はじめ子供のためといったけど、あれはお体裁だったと思うの。何といったって、結婚が子供のためなんてうそよ。閑ちゃんだってそうでしょう。どこの世界に、男のいない家へ母親になりにゆく女があるの。そんなわかりきったことをよく考えず、いちかばちかのくじ引みたいな結婚をよ、いやしくも進歩的だなどと自認する作家がよ、そんな世俗的な言葉にあやつられて押しすすめたのが失敗だったのよ。野村さんもその点反省しているし、私も馬鹿だったと思うの。あんたは世間なみに、も一度辛ぼうしてみようと思うのだろうけどね、私たちの仲間はそんないつわりにはたえられないのよ。だれがあんた、友だちを大ぜいよんで披露までした嫁さんとちっとやそっとのことで別れようなんて考えるもんか。野村さんにしたってよくよくだろうじゃないか。そんな中へ閑ちゃんをおとしこんだことでは、私は手をついてあやまる。」
 一生けんめいのミネの言葉もどの程度に受け入れられているのか、閑子はうわの空で、相変らず玄関にばかり気をとられている。
「あ、きたわ。」
 みたこともない身軽さで立ち上り、小きざみの急ぎ足で閑子は出てゆく。ミネの部屋の入口からまっすぐに通った長い中廊下を玄関の方へ猫背の胴をまげて、頭の毛をなでながらひどいそと足でうきうきと走ってゆく後姿をミネは限りない悲しさで見おくった。みめ美しい小柄な妻のなくなったあとへその妻の遺言によって子供のために裁縫のできる母として迎えられた女、それは大きなからだの、ちぢれた髪の唇の厚い女だった。そのみにくい外観が女の価値の大部分を決定したというのだろうか。それとよく似たところの多いミネは、共々に恥かしめをうけたような思いで自分をふりかえった。きれいでない。決してきれいではない自分たち。だけど――
 閑子ががっかりした様子で戻ってくる。野村でなかったのだ。ややきまり悪げの微笑を浮べた色の黒い大きな顔。その後姿や前姿を、せまい廊下に行きつ戻りつ幾度もくり返しながら午後になった。そして野村からは「今日ゆけぬ」むねの電報がきた。
 ともかくも妻が家出をしたというのに……
 大きな不満が胸一ぱいにひろがってゆくミネのその心を、敏感にさとったのか閑子は、申しわけなさそうに野村のために弁護する。
「きっと忙しいのよ。そうそう、今日はたしか座談会があった筈よ。それでだわ。じゃあ、私ちょっといってこよう。」
 さっさと立ち上り、帯をしめ直した。ミネのいったことなど頭に入ってはいなかったのだ。夕食も近い今、おひるもぬきで、閑子は持って帰ったリュックを又背負って出かけた。これが単なる夫婦げんかでないのがミネは口惜しかった。しかし閑子のその気軽さは、ミネにかすかながら希望をもたせもした。出がけにミネは通りまで送ってやり、別れぎわに、
「戻る気なら、馬鹿にもなるのよ。負けて勝つってこともあるんだからね。りこうになっちゃだめよ。馬鹿にならなくちゃ女は勝てないのよ。」
 何という、かなしい忠言であることか。しかし閑子は素直にうなずき、さよなら、とあかるく笑いながらからだをのり出すようにして道を急いだ。夫にだまって家を出てきた妻の申しわけなさをからだ中にみなぎらせたような歩き方だった。ミネはうつむいて家にかえった。部屋に入ると、悠吉が待ち構えていた。
「どうした。」
「どうもこうもないわよ。」
 つんけんと答える。そして当のかたきが悠吉であるかのように、ミネはその前にでんと坐って、
「ずるいわ野村さん、私にだけ因果をふくませようとしてる。閑子は日記をみたきりで、野村さんの口からは何も聞いていないのよ。」
 いいながらふとミネは、今日の自分の態度が、閑子をかえって野村へ近づけたのではないかと思った。一しょになって、くそみそにやっつけるべきだったのだろうか。しかしどうであろうと結果はもう見えすいていた。そしてその翌日である。野村はそそくさとやってきた。何かに恐怖しているような落ちつかなさで、ミネや悠吉の前に手をつきかんべんしてくれと頭を下げ、それで押し切ろうとする態度だった。それは殿様に土下座する賤民せんみんのようにまで卑屈に見えたが、その芯にはもう決して動かされないねばっこさをさとらせた。たった二日閑子が家を開けたことで、ミネに手紙で知恵を求めた必要もなくなり、野村の決意はますます固まったのだろう。必要以上に何度も頭を下げながら彼は、閑子を引きとりにきてくれという。家出をした妻のためには出かけてこない野村が、戻って行った妻のことではあわててやってきて引きとってくれというのだ。そこに野村の気持の正直さが現れているとは言え、これではあまりにも無責任だ。
「つれてきて下さるなり、よこして下さるなりすればよかったのに。」
 腹立ちをかくしてミネはいった。
「ところが僕は、閑子さんに気の毒でね、いえないんです。いや、何ともまったく、わがままないい分ですが、ミネさんにつれてきてもらって、よく話してもらうのが一番いいと思って。」
 おびえたような目をはげしく目たたきながらいう。
「閑子にいわずにですか。今あなたがここへいらしたことも閑子はしらないんですか。」
「そうです。ぼくの日記をよんだとかいってゆうべは大分興奮していましたからね。」
 自信のない、ふぬけたような、低いしゃあがれ声である。ここまできて、まだ真実を伝えられないとは。それとも、無責任といわれようとも、かかずらってはいられないほど、反吐へどの出そうな存在で閑子はあるのだろうか。重たさに堪えかねて投げ出した荷物に、再び手を出しかねるような、いやなことに対するどうにもしようのない気持、何でもかでものがれたい気持、それはミネも分らなくはない。顔をみるのもいやということがある。それで野村は、閑子をのがれてここへ出かけてきたのか。ミネは自分を相手の立場におくことで、いて野村を理解しようとした。と同時に、閑子の立場にも立たねばならない。しかし自分が閑子だったら……。はげしい思いが胸にたぎる。あのときミネは、思うさま悠吉の頬桁ほおげたをひっぱたいた。ぱんぱんとはげしく頬が鳴った。思うさまミネは、相手の女の肩をつかまえて、力の限りゆさぶった。女の頭がぐらぐらとゆれ、髪が解けて肩に散った。それが解決のいと口になった。ああしかし、閑子にはそれはできまい。野村は閑子の前にも土下座的であったにちがいない。土下座を誰がたたくことができよう。
「ああ!」
 急に野村が畳の上にあお向けにたおれた。涙があふれている。それを見られまいとあお向けになったのだろうに、涙は目がしらをあふれて耳をぬらしている。ミネも両手で顔をおおい、机に伏せて泣いた。閑子よ、あきらめておくれよ。野村さんは泣いているのだよ、男が泣いているのだ――。
 幾時間をそうしていたろうか。とにかくお互いの友人である詩人の川原にも相談してみようということになって三人は出かけた。悠吉は終始だまっていたが、電車にのるとほっとしたような顔で自分たちの文学団体について話し出した。野村が見つけ出した若い職場出身の作家の最近評判になった小説について、若い評論家たちの近ごろの鼻いきの荒さについて、創作コンクールに集ってきた小説や詩について。その言葉を風のように聞きながら、ミネの心の目はじっと閑子たちの上に注がれていた。何てかわいそうな二人だろう。甲斐性かいしょうがなさすぎるではないか。二人とも小気な人間なのだ。しかも結局は女の側にだけ最後の重石おもしがかかってくるのだ。こんな場合、解き放たれて息をつけるのは男だけで、女の方は予想もしない負目をおわされるのだ。その重石に圧されて自分を小さくして生きてきたのが日本の女の歴史である。そういうものをも払いのけて道を開くために同じ思想で手をにぎり合っている野村やミネたちでありながら、うかつにも一人の女をやはりそこへおいこんでしまうことになりそうだ。せめて傷つけあうことでもさけたいが、そんなわけにゆくだろうか。野村は泣いている。閑子はたかぶっている。そしてミネたちはただ困惑の形を次第に大きくしている。貞子はためいきをつき、じっと等分に見守っている。川原にどんな知恵があるだろう。川原の家は野村のすぐ近くだった。野村が伝えてあったらしく兵隊服をきて若く見える川原は「ああ。」とうなずきながら三人を迎えた。野村は一ことも語らず、ミネだけがしゃべるようなことになった。ミネは川原に気を許したのか、涙をこぼしながら感情を交えててん末を告げた。
「器量がどうのってことは、そんなことは問題じゃないがね、とにかく野村はこのさい、はっきりした態度がいるね。そうだ、鴎外にこんな場合の男の態度をかいたのがあったな。」
 川原は書斎からぶ厚い鴎外の著書を二三冊持ち出してきて、ゆうゆうとページをくった。上質の紙はぱさっぱさっと歯ぎれのよい音を立てて色の黒い川原の指にあやつられている。かなり長い時間がたっても目ざす文章がみつからぬらしく、頁をあとさきにくりながら、
「つまりね、こんな場合にいさぎよく非難の矢面に立つ覚悟で、責任をもってことを処理するか、それが出来ないときは、一生を棒にふってでも妻とともにその中に埋没してしまうか、二つに一つだというんだね。しかし、これは参考だよ。われわれの場合は一生を棒にふるというより、何とかして局面を打開することを考えなくちゃならんと思うんだがね。」
 川原はだれの顔も見ずに、相変らず鴎外をばらばらとくりながら、さしずめ野村は閑子にも事態をはっきりと告げねばならぬこと、少しでも肩をはずしているような感じをミネたちにも持たせないようにすること、たとえば、どうしてもだめとならば閑子の荷物も自分で届けるとか、区役所へいって異動の手続も野村自身の手でやるとかという風に、閑子の心配を一つでも少くするべきで、それをしなくちゃだめだという意見をのべた。事態はそれで決ったような形をとってしまった。野村はもう毛の先ほども閑子に希望をもってはいないのだ。しかし、そう決りながらなお野村の顔にどことなく不満のかげのあるのをミネは感じた。ミネたちの前では、すべて自分に責任があるのだと、ひたすらに頭を下げてばかりいる野村だが、川原から全責任を云々されるのは不服に思うのではないのかと、ふとミネは思った。だが野村は積極的にそれをいうことをさけているようでもあった。
 そとはもう暗くなっていた。野村の家では夕食を終えたあとだったらしく、茶の間の掘ごたつの上に作りつけになっている食卓をかこんで閑子と子供たちが、たがいに風をはらんだ空気を胸に抱いた面持ちで三人を迎えた。ミネが閑子をよび、玄関わきの部屋で話していると茶の間から、わあっ! と泣き声がもつれあって聞えてきた。三人の娘が一しょの声である。野村から結果を聞いて、娘心の単純さで泣き出したのであろう。
「いや、いやあ。帰っちゃいやあ。」
「お父さんのばかア。」
「お母さーん。」
 まるで芝居のような騒ぎだ。閑子も泣きながら、荷物をまとめている。ミネはそれを、よそごとのようなうつろな気持でながめていた。野村が入ってきて、ある感動をうかべた顔で、
「どうも、弱ってね。子供があの通りで、迷うんだね。今更またこんなこというのはへんだけど、もうしばらく考えさしてください。三日間。そして返事をすることにしますから。」
 野村はあとの方をていねいな言葉でいった。その三日間を閑子は荷物を持たずに帰っていてほしいというのだ。また戻ってもらうかもしれぬという含みがあることはいうまでもない。閑子は急に明るい顔になり、子供たちの泣き声もそれでんだ。だがそのままいてくれとはいわない。だから閑子は出かけねばならない。
「さよなら。」
 玄関に立った閑子がいうと、子供たちは泣きはらした顔に微笑を浮べ、口々に、
「さよなら。」
「いってらっしゃい。」
「迎えにゆくわね、お母さん。」
 まるで旅行に出る母をおくるような別れ方だった。野村ひとりは暗い顔で、ていねいに腰を折ったおじぎをした。そとはまっくらで、方向が分らなかった。突っ立ったまま、やみの中に目をすえていると、野村の長女が提灯ちょうちんをもって出てきた。笑ってそれを差出す顔が、かげにくまどられてこわく見えた。
「お母さん、心配しないでね。私たちでよくお父さんにたのむわ。」
 小さな声でいって、返事も聞かずに中に入った。小さな提灯に足もとを照しながら、三人は無言で細い道を歩いた。
 閑子はこうして帰ってきたのである。そして三日たち、五日がすぎた。野村からは何の沙汰さたもない。
「三日間考えて、郵便が、どうかすると三日位かかるわね。」
 閑子は待ちあぐんでいるのだ。七日たち十日もすぎた。閑子の顔はいんうつに、いつも眉がひそめられていた。
「私、いってくる。」
「よしなさい。帰ってほしければ迎えにきますよ。」
「でも、私ゆく。いって返事を聞いてくる。約束だもの。こんな筈ないわ。」
「分らないの。きれいに引き下った方がいいのよ。」
「いや。野村はどんなつもりでいるかしらないけど、私が帰れば子供たちは喜んでくれるわ。結婚式の日、母子のさかずきも交したんだもの。」
「よしなさいったら。まだ子供のところへかえるなんて。野村さんのところへゆくというならわかるけどもさ、あんたが野村さんにれてさ、どうでもこうでも誰が何といおうともというならいらっしゃい。いって自分で道をひらいてらっしゃい。あんたにはそのぐらいなことはあっていいんだわ。理屈はどうでも男と女の間にはこんなこともあるんだと納得できるならよ。ただし、私は反対なのよ。そのことはっきり野村さんにもいってちょうだい。その反対を押しきって出てきたとね。男に惚れた女は、そんなこと相談なしでやるんだから。そうなら私はひきとめたりしないわ。子供のためなんて、うそっぱちはやめとくれ。」
 ミネは激しい声でいった。惚れるなどという言葉が、反吐のでるほど閑子の自尊心をゆさぶることをしってわざとつかったのだ。閑子は内心を見つめるように目を伏せ、くちびるをかんでいたが、思いきったように、すっと立ち上ると、
「姉さんは、馬鹿になれっていったじゃないの。負けて勝てっていったじゃないの。私馬鹿になりにゆくわ。それに、私の悪かったこともずい分あるんだもの。私さえ努力すればうまくゆくことだと気がついたの。私、野村にたのんでみる。」
 この前より事態は、全く変ってきていることさえ閑子は分らないのだろうか。しかしミネは、こんな積極的な閑子をみたことがなかった。一生懸命なのだ。野村から返事がないとなれば、子供にすがるしかよりどころない閑子なのだ。いくら平凡な閑子だとて、このくらいのさわぎはせずにいられないのだろう。残っていた荷物を全部そろえて出かける閑子を、ミネは駅まで見おくってやさしい声でいった。
「あたってくだけろっていうから、やってみるのね。やるだけのことをやってみなくちゃ、閑ちゃんも納得できまいから。大たい、あんまりはたで膳立てしすぎたようだものね。あんたにすりゃ、そう思うでしょう。それでだめなら、あんたもあきらめがつくでしょう。そのときは元気を出してさっさと帰ってらっしゃい。世間は広いんだから。」
 ミネは、不体裁な閑子の戻りぶりを幾分かでもおぎなおうと、駅前の八百屋でリンゴとみかんを買って子供たちにもたせた。
「私、ちっとやそっとのことでは戻ってこないつもり。出てゆけといわれてもそうなったらがんばるつもりよ。私の方だけが何でもかでもはいはいと、いいなりになる法はないでしょ。私さえその気なら、泥棒犬をたたき出すようなわけにはゆかないもの。」
 閑子は捨身になったのだ。その悲壮な決意にもえる女をのせて、すいた昼間の電車は身軽に走り出した。後部の運転台のところに立って閑子は子供のようにひろげた手のひらを硝子戸ガラスどに押しあててうなずいた。さびしい女の顔である。ミネは、つうんとする鼻の奥を、音たててすすり上げながら、大通りをふらふらと歩いた。本屋による気もない。貞子の家へゆく気にもなれない。花屋をのぞいたが、花を買う気持さえ失っている。花屋の向いに古道具屋があった。ほこりのたまったウインドの中に、ナイフが一つ、煙草たばこケースや小さなつぼ花鋏はなばさみなどのがらくたに交って並んでいた。ミネはそれを見せてもらった。道具のいろいろついたものだった。大小のナイフが二つ、きり鑵切かんきり、耳かきまでがある。日常生活の中でのあの手この手が、一口にナイフと呼ばれるものの中にかくされているのだ。便利といえば便利なのだろうが、すらりと気持に合うものではなかった。なぜこんなものに心をひかれたのかを怪しみながら、今別れた閑子にそれを結びつけているのに我ながらおどろいた。閑子はどんな小道具を出して解決しようというのだろう。歩いても、家に帰って机の前に坐っても、閑子のことが心を離れなかった。ちっとやそっとのことでは戻らないといった閑子の言葉が、女の執念のこりかたまりのように思えて、野村の困惑した顔が気の毒な思いで浮んだ。閑子は私の恥も一しょにさらすのだろう。しかたがない。
 夕方、ミネは庭に立っていた。目は空をながめていたが、別に空の色が脳裏に映っているのではなかった。ぼんやりとした中で、閑子のことだけが心を占めていた。閑子がどんな言葉や態度で自分の意志を伝えているか、想像もつかない。芝居のできる閑子ではないからだ。どんな気まずさの中で、閑子は今を過しているだろうか。しょんぼりとかりてきた猫の子のようでもいられまいし、ちゃべこべと場つなぎの言葉をしゃべることもできまい。考えられるのは野村の前でぶざまに泣いている姿だが、野村はそれをのがれて外へ出ていったかもしれない。――その遠い閑子の姿をおっているミネの前へ、そのとき、本当の閑子が現れた。下駄の音を立てて、ボストンバッグをさげて、全身のなやみをその顔に集めて、閑子は帰ってきた。そこにミネがいることもしらぬように、閑子は縁側から上っていった。そして人との交渉の一ばん少い三畳へ入って行って、ぴしゃりと障子しょうじをしめた。だめだったのだ。あとからミネも入っていった。閑子は壁に向って坐っている。ふりむきもしない。
「閑ちゃん。」
 呼びかけると閑子はかすかに首をふった。並んで坐って肩に手をやると、つぶやくような小声で、
「わたしの坐れるすきまを、誰も見せてくれなんだ。おそろしい、うちだったわ。」
 やはり壁をみつめたままでいった。ミネは涙がたらたらとこぼれた。しかし閑子は泣いていない。
「どうしてどうして、やっぱり他人だった。」
 こうして閑子は本当に戻ってきたのである。早耳の新聞社は早そくやってきて、野村とミネにそれぞれの立場からのいい分を書かせようとした。ミネは取り合わなかった。ミネの親しくしている婦人記者はぜひともミネに女の立場からの抗議をかかせ雑誌にのせたいといった。こんな場合女はいつも損な立場におかれるのが通常だが新しい態勢の中で男女はどんな要求をし、進歩的といわれている作家の野村はどんな慰謝方法で解決したのか模範的にそれを示して欲しいというのだ。
「そんなこといわないでよ、かわいそうに。」
 ミネは半分笑いながら怒った。こんなまわりの風をさけて、閑子はかくれ猫のようにこもって暮した。ミネがさそってもなかなか表へ出ようとしない。しかも、何をするでもなく、ぐずぐずとした毎日なのだ。そのこもった毎日の中で、わけもなくミネや正子にあたりちらす狂態を演じたり、野村のことをいい出しては泣きの涙で終日ふとんをかぶって寝たりする。時がたてば、自然にまた芽をふくこともあるだろうか。閑子にとっては今が生涯の冬の時期なのだ。ミネたちはできる限りの思いやりで、その傷手いたでにふれぬよう心をつかった。しかし、閑子のくらいかげは、みんなに映って、のんきで明るかった家の中は何ともいえぬ重い空気がただよった。親しい貞子たちでさえこれまでのような気軽さではよりつけぬらしいのを、ミネはさびしく思った。貞子の長女の縁談がいよいよ決ったとなると、その忙しさもあってかこのところ貞子の足はなおのこと遠のいている。わが家の空気の重さにたえかねるとミネはふらふらと貞子の家へゆきたくなる。今日もそれだった。
「ちょっと散歩。」
 衣桁いこうのショールをとりながら、そばの箪笥たんす抽出ひきだしをがたぴしさせている閑子にいうと、閑子はふりむきもせずに、
「貞子さんとこ。」
 意地わるなひびきだった。何かしらこつんとしたものを感じさせられるのを胸にしずめて、ミネは閑子のそばへよってゆき、それには答えずにいたわる調子で、
「疲れた顔ね、あんまでもいってあげようか。ついでに。」
 それでも閑子はこちらを向かずに、
「けっこうよ、あんま買う身分とちがう。」
 卑下した言葉でつっぱねた。むっとしたが、言葉をかえせばその結果は泣かれて、くどかれて、恨まれて、嘆かれるのがおちなのをしっているミネは、その手をくうまいとだまっていたのだ。
「ね、貞子さんとこなら、たのみたいのよ。朝子さんのお祝もってってくれない。」
 むくれた顔でいった。ミネは今その下駄の包みを胸にだくようにして、閑子の言葉を心にくりかえした。こんなかわいらしい下駄を買ってきた閑子が、そしてこの下駄をはいた朝子の蛇の目の傘をさした姿を美しく心に描いてよろこぶこともできる閑子が、なぜ結婚に破れねばならなかったろうか。祝う閑子はそれを持ってゆくことをさえひけめに感じている醜い破婚の女であり、祝われる朝子は思われ妻の誇りに匂うばかりの若い美しい女であるのだ。その対照の極端を一足の下駄でつなごうとしている自分の役割を不思議に思いながら、ミネはふと、今通っているこの同じ道をつい四五日前、高木千恵子といっしょに歩いたときのことを思い出した。貞子の家で持たれた小説の研究会の帰りだった。千恵子はかん高な調子で、「どうしてみな結婚をさせないで、お嫁にやるの。」といった。貞子にしろミネにしろ、娘や妹に自分で相手を選ばせずにあてがい婿なのが変だというのだ。その時ミネは軽い反発を感じながら、
「だってさ、自分では選べない女はたくさんあるのよ。そういうたちの女には、やっぱりはたでお嫁の世話をしなくちゃならないじゃありませんか。甲斐性がないといえばそれまでだけど、そんな女に、はたが心を配らなかったら、いつまででもひとりなんてことになってよ。私の妹なんか、その口なんだけど。」
「それもそうね。でも、似合いってことがあるでしょう。閑子さんの場合、まるでそれが、似合っていないんだもの。妙てけれんだったわよ。ずい分へんだと思った。」
 そういえば千恵子は閑子の結婚式にも、いかに野村と閑子の組合せが意外だったかというようなテーブルスピーチをのべたのを、ミネは思い出した。二人を似合いだと思ったミネの目は、たしかに狂っていたのだ。それを似合いとみたのは肉親のひいき目だったのだろうか。それほど閑子はどこかに足らぬところがあったというのだろうか。
 そんなことを考えながら歩いていたミネは、閑子が結婚の土産として野村の長女におくった草履のことを不意と思い出して、がく然とした。畳表のその草履は赤えんじの鼻緒がすがり、フェルト裏の上等のものだった。ずっと前、そんな草履が買えた時代に、それはミネからお年玉におくったものだった。田舎にいた閑子は、きれいな草履を愛し、惜しみ、幾度か下におろそうとしては思いあきらめ、箱の中に入れて眺めることで終った。もう派手になってしまった草履を、閑子は持って上京した。そして草履はついに一度も閑子の足にはかれず、そのままひとにくれてやることになったのだ。閑子はきれいなはきものを惜しんで、ようはかない女だったのだ。閑子よ、そこにお前の不幸もあったのではないのか。今からでよい、閑子よ、きれいな下駄もはこうでないか。はいて泥田圃を突っきろうでないか。お前は美しい下駄をはく権利を捨ててはならないのだ。美しい下駄は美しい人だけのものではないのだもの。閑子よ、私はお前にもう一度きれいな下駄をやりたい。それをはかしたい。


 久しぶりにゆっくりと、誰に気がねもなく寝坊を楽しんだミネは、寝床の中からきげんがよかった。お天気も上等らしく雨戸のすきまから障子にさしたかげもあかるい。
「マーマ、今日はごはん、縁側にしてね。」
 娘の正子にまあまと甘えてよびかける、それも実に久しぶりだった。忘れていたまあまがこんなに自然に出たことが、たっぷりねむれたためではなく閑子がいないからだと気づいて、ミネはおどろいた。こんな些細なことにまでしらずしらず気をつかっていたのだろうか。
「雨戸、あけましょうか。」
 いたわるような正子の言葉が、心にしみる。閑子とくらべてなんという相違だろう。閑子ならがたぴしとあてつけがましくやるところだ。そして彼女はよくいった。
「野村のね、一ばんよかったところは早おきだわ。よくいってた、作家なんていい合したように夜ふかしで朝寝坊だって。その点あの人は几帳面だったから。」
 まるで死なれた夫を追憶するかのように閑子は野村をほめる。しかしそれは野村をほめるのが目的ではなく、ミネたちに早くおきて食事もみんなと一しょにしてほしい閑子の要求なのをミネは知っていた。悠吉もそれを聞くと眉をよせる。閑子の微妙な心のうごきをそんな言葉のはしにも感じ、ミネはひそかなためいきをする。
「そりゃあね、野村さんちは四人の子供がみんな学校なんだもの、自然早おきにもなるさ。うちは時間にしばられるものは一人もないんだから、閑ちゃんたちも、もっと朝寝すればいいのに。」
 そういうと閑子はふんというような表情で、居候いそうろうにそんなことはできぬとつぶやいたりした。それならそれでよいではないかといいたくなるのをがまんして、なるべく早くおきて閑子の気持を刺激しまいと考えるのだが、永年の習慣で朝になるとついゆっくりになってしまう。脊椎せきついカリエスの持病のせいもあった。
「わたしは、ずい分閑子に気がねしてる。」
 悠吉にうったえると、彼は彼の不満を現して「ほんとだよ。」と唇をとがらす。
 一つの部屋に夫婦が布団をならべて寝る、その当り前なことに気がねをしなければならないのだ。といって、それをのぞくどんな方法があるだろう。住宅改善や経済問題にまで問題を飛躍させてみたところで、現実はやはり厳然として動かない。動かないところへみんながおちこんでいるのだ。それにしても閑子はどんな気でいるのだろう。あの仕事好きの片づけ好きの閑子がこの頃は何一つ根気を入れてすることがない。そのくせ朝ばかり早くおきてとげとげするのである。ミネたちの朝寝が十時近くなると、閑子のつかうハタキの音はちがってきた。ミネたちが寝床の中で新聞をよむのは二十年来の習慣だったが、その新聞紙の音がしだすと、ふすまのあちらで聞き耳たてて待ち構えていたかのようにハタキの活動がはじまる。力まかせにたたきつけているようなすさまじいその音、感情をこめて責め立てているようなそのはげしさは、気のよい正子などにはとうてい出せるわざではなかった。
「気が、立ってるね。」
 悠吉が舌打ちするのを聞くと、ミネはだまっていられなくなり、
「ね、正子、もっとしずかにしてよ。」
 平静な声でいう。ハタキははたと止り、
「はいはい、私でした。すみません。」
 これも平静をよそおった声だ。そして閑子はつづける。
「あの、ねむってたんならごめんなさい。ごはんはとっくにできております。おみおつけはもう三度ほどさめましたけど、まだおきませんか。」
 切口上だ。
「すみません。みなまってたの。」
 あやまるのだがミネの内心は歯がみをしている。それを閑子は知ってか知らずにかいどんできた。
「まってればよかったの。すみませんでした。」
 ミネはいつも黙りこむしかなかった。そんなミネたちにある時はまた、一たん起きて食事をすましてから寝るなら寝たらどうか、と提議したこともある。ここまでくるともうまともな相手ではなくなる。ミネはただふん、ふんと聞き流す態度に出た。それがまた閑子の気に入らぬらしかった。火花をちらせば話は野村のことになってゆく、それをのぞんで閑子はいどむような態度を、何事にもとるようでさえあった。閑子を案じて埼玉の田舎から様子を見にきた妹の千枝は、見るに見かねたらしく一役を買って出たことがある。
「私んとこへ、閑ちゃんを誘ってみようかしら。あれじゃあ姉さん何にもできんでしょう。」
「たのむ、三日でもいいわ。」
 ミネは思わず手を合した。閑子のいないちょっとの間の相談であったが、千枝はさっそく実行に移った。
「閑ちゃん、わたしんとこへ行かない?」
 すると閑子は、例のつるし上った目になって千枝の方へ開き直り、
「だれの意見、それ?」
「千枝の意見よ。気晴しに田舎もいいわよ。」
 自分のことを千枝がと、娘時代の言葉になって千枝は、三人の子持とも思えぬあどけなさでいった。その、いかにもわざとらしい無邪気さを、そんな甘えのきらいな閑子はつっぱねるような声で、
「気晴しだって。私の気が晴れると思うの。」
「晴れるわよ。まあ一ぺんきてよ。」
「いやっ。あた恥かしい。姉のとこさえ気がねの山なのに、妹のうちへ恥さらしにゆくなんて。」
 閑子はおいおい声をあげて泣き出した。言い出した千枝もぽろぽろ涙を流しながら、
「そんなに思うことないわよ。だれが閑ちゃんの詮議立せんぎだてなんぞするものですか。だれも知りゃしないもの。それにさ、わたしは実のところ、閑ちゃんに手伝ってもらおうと欲を出してるの。気がねどころかたのみたいのよ。」
 千枝が一生けんめいになったが、閑子はしくしく泣きながら結局応じなかった。
「まあまあいいじゃないの。閑ちゃんのいたいところにいるさ。ゆきたくなったらゆくさ。」
 仕方なくミネはそういった。ミネがたのんで千枝の家へやろうとしたように勘ぐっているらしい閑子の気のまわりを、自分のものとしてミネはかみしめてみた。全くかわいそうに思うばかりだった。たのみはしないがそれをのぞんでいたことはたしかだ。閑子はそれを感じたのだろう。それは千枝のいうように、閑子のためにミネ一人がたまらぬ思いをしているとは思わぬが、お互いに気を沈める必要はどうしてもあった。顔を合さぬことで気がなごみ、却って気持の通じあえそうな気がして、閑子の気持を郷里へ向けようと、このところミネは考えつづけていたのだ。それがたまたまやってきた千枝にうまく見ぬかれたわけなのだが、しかし閑子にはてんでそんなつもりはなく、何とかして東京にとどまりたい意志だけを燃やしているようだった。その火は新しい道を開くためにかかげられたものではなく、ただもう、婚家からはみ出された女の姿を洗いざらい照し出すために燃やしつづけられているようだ。そのためにミネは、思いがけない人間のかくされた面を、閑子だけでなく野村や悠吉や、ミネ自身の中にも見つけ出した。皮肉や、絶望や、意地悪や、それに立向う希望のちっぽけさや。しかし立ち上らねばならぬ。まけてはならぬ。さまざまな憎悪ぞうおもつまずきも新しい希望への道筋の石ころになれ。
 千枝がきてから十日とたたぬときだった。閑子は急に千枝のところへゆくといい出した。片意地になっているときのくせで、閑子は片方の口じりを前の方へぎゅっとよせ、下くちびるをひどく片びっこにゆがめる。その口になったときには、ミネは気を落ちつけねばならなかった。ははあ、あれだなと思いあたりながらミネはさりげなくいった。
「いいでしょう。いって千枝を助けてやってきてよ。」
 千枝はひどいリュウマチで不自由な手足をしていた。閑子が最初に上京した目的は、ミネの家の手伝いをかねて、リュウマチの妹への不憫ふびんも含まれていたし、東京へ転入できぬ配給の籍は千枝のうちへ移してあった。その限りでは気がねもない筈だが、そんなことは忘れている時の方が多いような閑子だった。
「千枝んとこもいいよ。もう寒さも峠をこしたからね。関東平野の空気を吸って、あんたもゆっくりのびていらっしゃい。」
 すると閑子は皮肉な笑いを浮べ、
「その方が、姉さんも、くつろぐでしょう。」
「おたがいにね。」
 冗談にうけると、閑子は急に両手で顔をおおい、泣き声でいった。
「わが家がありながら、わが家へ帰れんようになってしもてからに……」
 郷里の家を生涯しょうがいの住家ときめて、ひとりぼっちはひとりぼっちなりの楽しみもあったというのである。上京してミネや千枝の家をいったりきたりすることも、独り者の気軽さ故の楽しみだった閑子である。それが野村との結婚によって、彼女の四十年の住家は、もう人に貸してしまったのだ。離婚したからもう貸さぬとはいえぬ。同居のかたちで暮せぬこともないであろうが、千枝の家へゆくことをさえ恥さらしだと考える閑子は、他人のいる家へ帰ってゆくみじめさを、実際の惨めさの幾倍にも考えて泣くのだった。そしてその惨めさの中へおとし入れたのが野村だというのだ。野村は私をたたき出せばそれでせいせいしているだろうが、たたき出された私は帰る家もないといって泣くのだ。
「もうそれは、いわないことに約束したじゃないの。いってもはじまらんことはよそうよ。手離して惜しい宝ものじゃないんだからね。いわば、くされ縁じゃないか。」
 くされ縁はこの反対の場合なのにふっと気づきながら、そのくされ縁にでもすがりつきたいほどの閑子を哀れに思わずにいられなかった。千枝の家へゆくといい出したことの起りは、昨日野村の中の娘から手紙がきた、それであった。別れて荷物まで引きとったかりそめの母に、野村閑子様とその表にはかかれていた。バラの花の浮き出た桃色の小さな角封筒に、中身はおかっぱの少女の顔の絵のついた便箋びんせんである。少女らしい感傷で、最初の一行目からもう涙の文章だ。――お母さんお母さんお母さんお母さん、いくらよんでもお母さんはもういません――半分が「お母さん」でうずまったその手紙は母を失った少女が母に呼びかける声にみちていた。それはくなった実母への呼びかけであるかもしれぬ。ただ母をよぶ声だけで終っている手紙のどこにも、帰ってほしい言葉はない。死んだ母と同じく、もうそばに呼び戻すことのできぬ母として閑子によびかけているだけなのだ。ミネが悠吉と二人で閑子の身のまわりのものをとりにいったとき、閑子との別れに泣いて騒いで野村の気持を一時にしろにぶらした娘たちは、ミネたちのいる隣りの部屋でくっくっと笑いながら何かに興じていた。それはおどろくほどの無邪気さであった。一まつのわびしさを感じながら、これでよい、これでなくてはと、ミネはその時感心した。持ちかえる品物をこまごまと閑子らしく個条書にした手紙を、父親の野村から渡された娘たちは急に顔をよせ、ミネの目の前でその一つ一つをまとめ出した。
「ハサミよ。」
 小さな声で突っつかれて、そのハサミをつかっている中の娘はいそいで畳の上にハサミをおいた。
「電気ゴテ。あ、あすこよ、昨日つかったじゃないの。」
 それで小さい娘が茶の間へかけてゆく。
「毛の半コート……あら。」
 長女は顔をあからめながら着ていた紺のコートをいそいでぬいだ。長いまつ毛をふせ恥らいが顔に上ってくるのが分るようだった。
「ごめんなさい。」
 ミネはなぐさめるように微笑をおくった。そして、いつか閑子が、そのコートをもしかしたら長女にやらねばならぬといいながらミネの家においてある荷物の中から取り出して持っていったのを思い出した。閑子はやるといったのではなかろうか。しかしこうなった今、それは残さぬ方がお互いのためだと思い、ミネはだまってコートをたたむ娘をみていた。くっくっと若さのせり上るような笑いを交していた娘たちは、もうけわしい顔になっていた。まだまだ母親の必要な娘たちなのに。ミネは亡くなった野村の妻のことを考えながらまとめた小物を荷物にしていると、自分の部屋から出てきた野村が、これ、といいながら小さなものを差出した。口紅だった。それは結婚のとき、ミネが閑子に与えたものなのだ。野村の部屋のどこにそれがおかれてあったのだろう。帰る道々ミネはへんにそれが気になったのを思い出す。閑子はおそらく、二か月の野村の家の生活で口紅に用がなかったのではなかろうか。それなのにこのごろの閑子が時々、口紅をつかっているのをミネは発見した。
「わたしも、すこし、やつそと思って。」
 いいわけしながら、思い出したように粉白粉こなおしろいをはたくこともあった。以前は見せたことのない態度だった。それと結びつけて、野村の子供から手紙がくるように誘いかけたのも閑子であろうと、ミネは思う。三畳にかくれるようにして閑子の編む手袋や、閑子の作るお手玉が、野村以外のどこの娘におくられると考えられよう。閑子はそこに一縷いちるの希望をつなごうとしているのだ。バラの花の手紙を手にした閑子はうれしそうな、しかし皮肉も交えた顔で、これをみよとばかりにミネの手へそれを渡したのである。よんでしまって何ともいわぬミネに、
「ね、子供に文句はないんだもの。手紙ぐらいやりとりすることは許してくれたっていいでしょう。私だって子供は可愛かわいいと思うのよ。親が何といったって、子供はこうして手紙をくれる――」
 それで野村の気持をとり返そうと思っているのだろうか。そのことではもう、野村からはっきりことわられているのを閑子は無視しようというのだろうか。忘れてしまったというのだろうか。これまでにも閑子は、二度も三度も野村の家へ出かけてゆき、そのつど絶望して帰ってきた。その度にミネは背をさするようにしてなぐさめた。しかしそれは閑子の絶望を上ぬりするような言葉ばかりだった。思う存分貞子に愚痴を聞いてもらいたいとて、高ぶった口調で貞子にうったえたこともある。貞子だとてただ聞いてなぐさめるほかに、その言分をもっともだとは思っても、だからどうなる問題ではない。貞子やミネが、閑子を再び野村とつなぐ意志のないことをしると、閑子は捨身な言葉をはいて出てゆき、川原のところへよって妻の竹子に、自分はミネや貞子たちの意見にそむいて、こんどは自分だけの意志で野村の家へゆくのだといったという。閑子のつもりでは、結婚のとき近所まわりの案内役をつとめてくれた竹子に一肌ひとはだぬいでもらいたかったのかもしれぬが、そのときの結果は閑子の決意をくだくことになった。閑子は、いつもより元気な顔で戻ってきてミネにつげた。
「姉さん、もうもう私もきっぱりあきらめがついたわ。一生を犠牲にするほどのねうちはあるまいと、竹子さん、はっきりいった。」
 そして野村があるとき、竹子の噂をしたあと、竹子がいわゆる「ひのえうま」の女であることをいおうとして、閑子も同じひのえうまなのに気がつき、「竹子さんはヒノ」までいってむにゃむにゃと言葉をにごしたと、腹をかかえて笑ったりした。ミネも一しょに笑いながら、まさか野村がそんなふうにひのえうまを気にする人間とも思わなかったのだが、その前にきた野村の手紙には、別れるについて閑子さんがひのえうまだからなどということは決してありませんといいわけしてあった。野村ともあろう人間がたとえそんなかたちでにしろ一応はひのえうまを問題にするのかとそのときミネは軽い気持でひっかかったのを思い出した。ミネだとてひのえうまだからどうだなどとは考えないが、しかし実際問題として閑子の上にひのえうまは大いに影響していたのは事実である。彼女が四十までもひとりで暮してきたその原因の一部にはひのえうまが厳然と作用していたのをミネは知っている。閑子に限らず、ミネの郷里などではひのえうまについてはやはり平気の平ざではなかった。それに向って肩肘かたひじをはっていたような閑子を、昔からいろんな形でどれほどミネは啓蒙けいもうしたことか。そういう意味でならミネもまたひのえうまを問題にはしていた。野村のはしかし、どうなのだろうか。だがともかくとしてひのえうまを笑って語れるのは閑子の発展だと思った。そして、閑子もこれで落ちつけるだろうと安心したのだが、いつのまにか閑子は、また野村の子供と交渉をもとうとし、手紙位出してもよかろうというのだ。
「反対だね、馬鹿らしい。」
 かんたんにあしらわれて、閑子はむっとしたらしく、ものもいわずに暗い顔をした。泣いてもいたがミネはわざとしらぬ顔をしていた。泣いたあげく、千枝のところへゆこうと思いついたなら、なるべくおだやかにゆかせようとしたのだが、やっぱりぶっつけねばおさまらぬらしい。
「千枝んとこへゆくのは、関東平野の風に吹かれるなんてそんなのんきでゆくんじゃないのよ。着物を売りにゆくんだから、とうとうここまで落ちぶれてしまったのよ。」
 野村とのことさえなければ落ちついて働くこともできるのに、毎日を仕事も手につかずにいるのは野村のせいだといいたいのだろう。だが野村だとて面白くない毎日であろうことはどこからともなくミネの耳にもきこえてきている。野村が着物の尻端しょりをして七輪をばたばたやっていたとか、配給ものの行列にならんでいたとか、また悠吉への手紙には、あれ以来何となく肩身せまい思いがして人中へ出るのがおっくうだとかいてあったりした。その不体裁や不自由の中でも野村は閑子に戻ってほしい思いはなく、そこから生活の建直しをやっている。それなのに閑子はまだ自分への見極みきわめをつけようとせず、うろうろしている。うろうろすることで何かのはずみには誰かが又野村の方へ押しやってくれるような空想をしているのかもしれぬ。女が哀れになることで同情を引こうとし、そのすきに乗じようとでもいうのか。情ないではないか閑子よ。それこそ落ちぶれた根性なのだ。――かなしく思いながらミネは、がま口から幾枚かの紙幣をとり出し、
「着物は売らないでお置きよ。どうせさきで売るにしてもそれを落ちぶれたとはいえないわ。千枝みなさい。知らん間に片っぱしから売っ払って、きれいな顔しとるじゃないの。落ちぶれてなんぞいないわ。」
「そりゃ千枝には実さんというむこもあれば、三人の子もあるもの。どっちむいてもひとりぼっちは私だけじゃないの。」
 閑子は子供のようにしゃくりあげて泣きながらボストンバッグに身の回りのものをつめミネの方には目もくれずに、肩をふるようにして出ていった。とめたとてとどまる閑子ではないのを知っているミネは、だまってなすにまかせたのだが、心なぐさまるものもあるまい旅へ、泣きながら出ていった閑子を思うと、不安がしだいにひろがってきた。だれ一人話相手もなく、たった一人寒いホームに立って汽車を待っている女、そのうつろな心にどんな誘惑がしのびこまぬとも限らぬと思うと、肌があわだってきて、ミネは慌て出した。正子にいってミネは着物も着かえず家を出た。郊外電車を省線にのりかえての一時間をやせる思いで赤羽についた。汽車のホームへのブリッジを、ミネはかつてない敏捷びんしょうさで走った。階段の上り下りは太ったミネの心臓をしめつける。かける足が次第ににぶり、それでも走りやめずにあえいだ。汽車の時間がせまっているらしく、前も後も走る人ばかりだった。ミネは腰や肩にトランクや包みをぶっつけられながら、そのたびに追いこされた。閑子よ、閑子よと無言で叫びながら、ようやく階段を下りきって、そこでうずくまってしまった。咽喉のどが引っつりそうなのをしずめようとしたのだ。それでもミネの目は前方の人ごみの中に閑子を求めていた。
「姉さん。」
 閑子がみつけてかけてきた。
「どうしたの。」
 さすがに驚いていた。ミネはほっとして、へたへたと閑子にもたれかかった。閑子が普通の女の顔をしていたのがうれしかったのである。泣いてもいなければ怒ってもいない。ミネの方が涙をあふれさせていた。それに誘われて閑子もうるませながら、ミネの背をさすった。水がのみたいと思ったが、水道はこわれていた。肩のいきがようやくしずまってからミネはいった。
「今日は、ゆくのよさない。」
 閑子はモンペのポケットから切符をとり出してゆっくりとながめ、ミネに見せながら、
「でも通用二日よ。今日やめて、明日だめにでもなったら、もったいないから――」
 そこへ汽車が入ってきた。もう否応いやおうなしに決ったかたちで、ミネは見おくることになった。
「心配しないでね。大丈夫だから。お土産もってくる。」
 悲しみをもつ女のようにも見えず、閑子はおちついた声でいって、せまい入口のあたりにひしめく群衆の中へとけこんでしまった。車室の中をすかし見たが、わからぬままに汽車は走り出した。
 家に帰りつくともう夕方だった。部屋に入るなりミネはえりまきもとらずに、こたつに顔を伏せて泣いた。外でみた閑子があんなに世間なみな顔であったことがうれしかったのだ。しかもその平静な表情の中にかくしている閑子の悲しみが、今のさき別れてきたことでよけいはっきりと、ミネの心に素直にとけこんできて泣けてくるのだった。夕餉ゆうげの食卓は閑子の座の空白が目立つ思いだった。いなくなって淋しいからではない。ほっとしたいのだが、何となくそれが気にかかる重々しい空白だった。だが、みんなほっとしたく思っているのはたしかだった。心配であとをおっかけ、そのあわれさに泣いたミネの目はまだ赤くはれているのに。
「閑ちゃんも変ったわね。ちょっとしたつまずきから意地悪になったり、いやったらしくなったりするのね。根は正直な、お人よしなのに。」
「しかし、ああなると困るね。女も四十になると何しろ嵩ばる。」
「邪魔になどしないつもりなのに、ずい分かさ高に感じるのね。わたし、薄情なのかしら。」
「くたびれるよ、何しろ。」
 こんな会話をミネたちはした。そしてほんとにくたびれてミネはよいのはてから寝床に入った。すると悠吉も正子も同じように今日は宵寝をするといい出した。みんな疲れてしまったのだ。
「閑子って、一たいなあに、あれ。何だと思ってるの。寝ることまで気がねさせるなんて、気色の悪い女ね。」
 ミネはだんだん腹が立ってきた。いつか貞子がきたとき茶をいれるのにミネは正子を呼びたてた。正子はいなかったらしく閑子が出てきて障子のかげから声をかけ、貞子の前もかまわずに、
「お茶でしょう。正ちゃんでなくちゃいけないの。」
 例の切口上だった。貞子が「はああ」というような顔をして、ミネにおもいやりの目くばせをしたのを思いだす。そっとかばって、立ち直らせたいと気をつかうミネの心も知らぬかのように、閑子は感情の毒素のようなものを、他人の前にまでまき散らそうとしているようにさえ思えた。そんなことも思い出されて、むかむかしてきた。
「まるでさ、こんどのことが私のせいのようにあたりちらすのよ。頭が悪いったらほんとに、腹の立つ。」
 閑子にはいえぬもやもやを、今はき出そうとするようにいい出すのを聞くと、きげんのよい悠吉は笑い出し、
「よせよ、お前までがヒステリーになっちゃかなわんよ。せっかく閑ちゃんのいない中こそのんきにしようよ。」
 いいながらふとんの中にもぐった。
「ごめん、ほんとだわ。」
 すぐ思い直したが、悠吉からそんな風にいわれるとまた閑子が可哀そうになった。こんな時間が閑子にはないのだ。どこへいってもないのだと思うと、閑子の感情が片輪になるのがわかるように思えた。しかし悠吉までがしばられていたのを思ってもう閑子のことは口にしまいと思った。
「ああ、あ、みろくの世じゃ。仕合せと思うこともなかったけれど、私なんぞたしかに不仕合せとはいえない方かな。」
 ミネは両手を仰向けにのばし、うーんとのびをした。いくらのばしてものびきれぬように、そっくりかえってうんうんうなりつづけた。そしていつのまにかねむり、目がさめるともう日は高くなっていた。正子が、これも正子ひとりの宰領で卵を目玉にやいたり、トロロ芋の味噌汁をつくったりして、食卓は日当りの広縁にもち出されていた。食事がすんでもミネたちはそこを動かなかった。お昼がすぎても動きたくなかった。久しぶりに我家へかえったような心地がした。悠吉はちゃぶ台の上で手紙をかき出し、ミネはよみかけの本をもってきて日なたに背をむけた。いつもなら食事がすむとすぐ部屋に引きとりたくなるのに、まるで忘れていた幸福をとりかえしてでもいるようだ。それなら閑子が、この平和をうばっていたとでもいうのか、かわいそうな閑子。だが、今にまた閑子はあの重い空気をかかえて帰ってくるだろう。
 考えるともなく考えているミネの耳に、片びっこの下駄の音が聞えてきた。千枝だ! ミネは本を伏せて待ちかまえた。リュウマチの千枝の姿が庭石をこちらへ渡ってくる。
「どうした。」
 硝子をあけて迎え入れた。
「姉さん、ほんとに大変だったでしょ。」
 あいさつもせずに、いきなり千枝はいった。涙をこぼしている。
「こん度はそっちが大変?」
「うん。」
 千枝は大きくいきを入れ、正子のいれた茶におかわりを求めてそれをのみおわり、
「私が行って話しても、野村さんだめかしら。」
 千枝の話では、閑子はどうしても野村が思い切れず、昨夜は手紙をかいて、千枝に相談したというのだ。
「それがまあ、恥かしいったら、あんな手紙みたら、反吐がでるわ。出さないようにいって、代りに私が話しにゆくからということにしたの。」
 千枝は顔を赤らめながらその手紙について話すのだった。聞いていてミネも赤くなった。手紙には野村との夫婦生活の感激をむき出しの言葉で書いてあったという。閑子の上にようやく自然な気持のわき上ってきたとき、野村の熱情はさめてしまっていたというのだ。ミネは返事ができなかった。おそまきな生理のめざめ、それをなぜ育て花咲かすことが出来なかったろう。もうおそいのだ。問題は肉体を離れ、精神を見限っているのだ。新しく湧くものがあるとすれば、憎悪や軽蔑けいべつや困惑や反感やばかりだろう。だれの責任だといえよう。野村はもとの妻を失うべきでなかった。しかし戦争は彼の愛妻をうばった。閑子はひのえうまの迷信や家族制度のかなしばりなどをけとばして、人間の愛情の尊さを知るべきであったのだ。恋の手紙の書き方を知らぬことを品行方正と定めた古い日本の習わしの中からぬけきれなかった閑子、野村はそれを何とも出来なかったのだ。裁縫の出来る女をと、日本の古さと結びつく条件を条件としながら、その古さをも生かせなかったのだ。しかも、誰が悪いといえるのだろう。その中でしかし、男に比べて女の側の打撃は比べられぬほどの大きさである。女に辛い日本の結婚の歴史は、「出戻り」と呼ぶ破婚者への軽侮の言葉が、その理由のいかんをさえ問わずに女にだけ与えられてきている。女自身もまた自分の責任のように、その「出戻り」にめんと立ちむかえないでいる。その女に対して、だれがどんな責任ある態度を示し得たろう。ミネの胸を妻の座を追われた女たちの姿がゆききする。ミネたちの生れた村のお秋さんという女はのりを煮た鍋の洗い方が気に入らぬというしゅうとめのいいがかりから一人の子供を残して婚家をとび出した。乏しい生活をする百姓の嫁は、最後の糊鍋はなめたように糊袋で拭って使わねば姑の気に入られないのだ。小麦の二粒三粒分の糊がくっついているとその姑はやかましくいったという。ミネと同じ年の小梅さんという女は夫にめかけが出来たのが不満で離婚した。ミネの仲よしのツルエという女は許婚いいなずけだった従兄いとこの夫がいやでたまらず、とび出した。嫁のおきてにそむいた三人の女。お秋さんはあてつけのように再婚したがそこでは三人の子の母であった。そして自分の生んだ子は別の女を母とよぶようになった。小梅さんもやはり二人の子のある男に再縁したが、ここでも夫には別の女がいてそこに入りびたっていた。小梅さんは子供の母として、家の妻として迎えられたのである。いやでとび出したツルエさんでさえも二度目の結婚は仲人まかせで、しかも父子ほど年がちがっていた。小梅さんの元の夫は妾だった女を妻に迎え、ツルエさんの捨てた夫は妻に逃げられたことの同情からか初婚の娘をあてがわれて仕合せそうに暮していた。自分の子を他人の手にまかせ、他人の子を育てるお秋さんはどんな思いを抱いているだろうか。小梅さんはまたどんな気持で二度目の夫の妾を見ているのだろうか。ツルエさんときたら父親のような夫をすきになれたのだろうか。あきらめたのだろうか。夫にきらわれながら我慢を重ねている女房にまけて男の方で家を出ていったおつじさんというあわれな女もある。みんな、もう再び家や夫を離れようとは考えぬらしく、表面おだやかに暮してはいるが、果してどうなのだろう。僅か三四人の例でさえ、女の場合の条件の下落に気がつくのだ。女の立場のかなしさは日本の女の大昔からうけついできている不幸である。閑子はそれを考えて、千枝をまで動かそうとしているのだろうか。それとも野村と離別してみて、何かが心に生れてきたのだろうか。しかし、しかし、もうおそいのだ。別れぬ先に問題は粉みじんに割れてしまっていたのだ。それが分らず、ミネが何ともしてくれないと思って千枝のところに行ったのだろう。千枝はあきらめて帰っていった。不自由な足を引きずるようにして、千枝は帰った。一晩泊って休んでゆけとすすめたが、終列車に間に合うように出かけた。夫が駅まで迎えにでているからといって。千枝のびっこはきたときよりもひどくなっているのにミネは気がついた。しかしたってとめることはしなかった。
「閑子って、行ったさきで人騒がせをしてるみたいね。何でしょうあれ。」
 ミネの眉はなかなか開かなかった。目に見えぬ毒素のようなものを体臭のように閑子はもっているのだろうか。
 千枝がきた翌日、閑子はせかせかと足音もせわしなく戻ってきた。そして何を思いついたのかミネから視線をさけるようにして、せっせと働き出した。洗いはりをして着物の縫い直しをやっている。足袋や肌着の手入れをしている。持ちものをせっせと片づけている。あれ以来血圧の高くなっている閑子はのぼせたような顔をいつもしていた。
「あんまり根をつめなさんな。ぼつぼつしなさいよ。」
 ミネがいたわると、さすがにやさしい顔になり、しかし多少の思いをこめた口ぶりで、
「神戸へゆこうと思って。」
 ミネはおどろいて膝をよせていった。
「あそびに?」
「いいえ、下女奉公。」
 わざとのようにそういって針箱の抽出しから手紙をとり出してみせた。神戸にいる姉からの手紙で、それは閑子の手紙への返事だった。――家政婦といっても本とうに家庭的に、一さい合さい任せるそうです。何しろ男主人がいなくて、奥さんが神戸で商売をやっているのです。学校へ行ってる娘さんが二人に御飯たきの女中さんが一人います。店は別なので、奥さんは毎日そこへ出勤というわけです。生活が派手なので、閑ちゃんがびっくりするかもしれないが、却ってそれも面白かろうと考えます。とにかく女中さんでは出来ないことを主婦に代ってしてもらいたいとのこと、――読んでゆく中に、ミネは何となく気持が軽くなってゆくのを覚えた。主婦代りといっても女中さんがいるから大して仕事はないこと、四畳半の部屋をくれること、ミシンがあるから、時間をくり出して内職するならしてもよいことなど、今の閑子の心をひきそうな条件が並んでいた。閑子はミシン仕事が非常に好きらしかった。
「返事出したの。」
「まだだけど、もう明日あたり立とうかと思って。」
「そう、そいじゃ、今日は送別会をやろうよ。」
 さっそく正子にいって、五目ずしをつくらせたり、闇の砂糖を買ってきて汁粉の小豆あずきをかけさせたりした。それで閑子はすっかりきげんがよくなり、ミネや正子と二部合唱で女学生のような歌をうたったりした。出発のとき、ミネは正子と二人で東京駅の出札口まで見おくった。モンペにリュック・サックを背おって閑子は出かけた。
「姉さんにはほんとにわがままばかりいって、ごめんね。何とかして御恩返しするつもりだけど、とにかくしばらくまってね。正ちゃんも気をつけてね。もうこんどはいつ会えるかわかんないわ。」
 ミネは、ふん、ふんと一言ごとにうなずいた。三人とも涙ぐんでいた。東海道線のホームへの広い階段を上りながら閑子は何度もふり返って別れをおしんだ。別れるまぎわにいつもやさしくなる閑子だと思いながらミネも手をふった。リュック・サックが見えなくなっても、ミネはしばらく立っていた。もしや閑子が思い出しものでもしはしまいかと思ったからだ。しかし閑子はもどってこなかった。ミネは正子と手をつなぎ、だまって引きかえした。リュック・サックの閑子の姿がちらつく。あっちこっちと、よくしょわれて、閑子と一しょに旅をつづけているリュック・サックだ。嫁入りにも、女中奉公にもついてゆくリュック・サック、いつそれは中身を出されて畳まれて、平べったくなって用がなくなるだろう。いつそんなときが彼女の上にくるのだろうか。
 こうして別れた閑子であったが、四日の後にはもうミネの前に現れた。夜汽車の煤煙ばいえんですすけた顔を洗いもせずに、閑子は腹立たしそうにいう。
「だれがひと、あんな連中の手助けなんぞするもんか。」
 神戸のその家では閑子がゆくなり待ちかまえていて歓迎のダンス・パーティーをやったというのだ。美しく化粧した母子は、姉妹のように見え、まるで映画に出てくる女優のようだというのだ。みんなきれいな洋服をきて、たがいに甘えたりふざけたり、それは見ていても気色がわるいと閑子は憎さげにいうのだ。
「あんなひとに使われるぐらいなら、死んだ方がましだと思って。」
 だが閑子は、ミネたちの主義や希望につながった仕事をさせようとしても、くびを横にふったのである。一つの輪の中で働くことで、自分を高めてゆくことも出来ようとミネは望んだのだが、閑子は、とにかくミネの関係ではいやだといったのだ。その気もちもわかるのでいてとはミネはいわなかったのだが、さりとて田舎へも帰れぬ閑子なのだ。そんなことを合せて考えながら、閑子の言葉にただだまってうなずいてばかりいるミネを、閑子は、閑子一流の勘でさとり、いきなり泣き出した。
「どうしたらいいんだろう――どこにも私のいるところがないんだもの――」
 大きなからだを畳の上にどっさりと横たえて、はげしくむせびなくのだった。


 ぬれたような黒土の上に点々とみどりが散らばっている。秋まきのえんどうが冬をしのいできた姿をそのまま、ちぢこまって、みどりの色もまだ沈んでいるその姿だった。霜柱ものこっている春寒むのおもてはすずめでさえも首をすくめているように見える。胸をまるくふくらませて、二羽だった。夫婦だか親子だか一羽が先に立ってちょんちょんととんで歩くあとから、同じようにちょんちょんと、も一羽がついてゆく。思い思いに背を向けあった形で土の上をあさっているかと思うと、急に並んで向きあって何かささやき交すような格好をしたり、かと思うとぱっととび立って庭木の繁みにかくれたりする。動いているのは雀だけというような、しずかな朝だった。雀はいつのまにか五羽になって、えんどうのある家庭菜園の上をとび回っている。みんな赤ん坊のように思える無邪気な雀たちのむつみあう姿を、日向縁ひなたえんの硝子戸ごしに眺めているミネの顔はしかし、朝とも思えぬ疲れをあらわにしていた。昨夜おそかったのだ。
「顔、洗っておいでよ。」
 自分は今すましたばかりのすがすがしい顔で悠吉が近づいてきた。夜をろくにねむらずに仕事をしたあとの妻をいたわる調子である。
「うん。」
 ミネはまだ雀をみていた。毎朝こんなに雀がいたかしらとミネは考えていた。くちばしで土をちらすようにしているのは、そこにエサのあてがあるのだろうかと考えていた。何にもなさそうに見える黒土の上、あるのはえんどうの青い芽ばかりに思えるが、雀はえんどうには見むきもしなかった。ミネはふと、ずっと昔、新劇女優の山本安英がふんした「唐人お吉」を思い出したりした。山本安英のお吉が雀に残飯をまいてやるところだった。ああいう道をたどった女もいたのだ。幕末外交の犠牲となった女、美貌びぼうを商品のように扱われて、貢物みつぎものにされたお吉が権力に対しての無意識の反発は自分を独りにするしかなかった。晩年のお吉が心を許していたのは朝々軒端を訪れる雀ばかりであったというのだ。極言すれば美貌が招いた女の不幸ともいえる。それでもお吉は雀にだけは気を許していたのだ。何というささやかなそれは慰めであったろう。それと似て、ひとりぼっちの世界へ自分をとじこめようとしている閑子にも、お吉の雀のように草や木へ心を許すようなところがあると、ミネはそんなことを考えた。身をもむような精神の苦しみの中でさえ季節を忘れずにいた閑子のえんどうは、閑子の性格をそのまま、きちんとした間隔でみどりの葉を出している。雀やさやえんどうが女の生活の中で果すそのあり方が、妙なことにお吉と閑子を比べさせていることにミネはある感慨をおぼえた。雀がえんどうを見向きもしないように、閑子とお吉は縁の遠い人間である。しかも不幸を背負った女であることは同じなのだ。
「よう、顔洗って、めしにしないか。」
 再び催促をしながら悠吉は朝の郵便物を一つ一つ裏返してみている。こんなことは珍らしかった。いつもなら朝食前の悠吉は不機嫌を男の権利のように押し出すのだ。それをまたミネの神経がぴんとうけて負けず劣らず対抗するのだが、仕事で疲れているときはお互いにおだやかになった。
「疲れたろう。」
「そうでもない。」
「ひどい顔だよ。すごいイビキだった。」
「あら、そう。」
 鼻白んだミネは小さな声になり、
「ごめんね。」
といった。昔はしなかったイビキのくせがついたのはミネが小説などを書くようになってからのことである。まさかそれが仕事と関係があろう筈はないのだが、作家としては年齢的にはおそい出発のミネにとって、ペンをにぎるのは相当の労働であった。そのつかれが四十近くなってのイビキのくせのもとであることはミネの場合間違いのない事だった。しかしミネがイビキを気にしだしたのは、閑子にそのくせがあるという野村からの手紙をうけとってからのことだ。その手紙をみてミネは水をかぶったときのようにぞくっとした。心臓にこたえるようなそれは寒気だった。閑子がイビキをかく――。野村の手紙には「私も今までは好きになれぬという以上の言葉はつつしみましたが、本当は閑子さんがこわいのです。閑子さんのイビキをききながら布団をうちから押えつけてまんじりともしなかった夜も一と晩二た晩ではありません。たぶん私との性格の相違でしょうが、ご姉妹きょうだいではあっても異性でなければわからぬところがあるかもしれません――」そんな風にかかれていた。そのときミネはいつも一つの部屋で並んでねる正子にそっと聞いた。
「叔母ちゃん、イビキかくかい。」
「うん、ときどきね、でもこの頃はめったにかかないわ。」
「ほんと?」
「ほんとよ、うそなんかいわない。」
「ふーん。」
 ミネは考えこんだ。そういえばまだ野村の家にいるとき、肩をはらしてはその度にあんまを買いにきていた閑子は、昼間でもイビキをかいてねむった。「叔母ちゃんつかれたのね。」と、正子でさえそれを疲れのせいのようにいったのを思い出す。一たいいつから閑子はイビキのくせがついたのだろう。野村との結婚が契機になったのだろうか。それとも前からそうだったのか。ともあれミネの家庭のイビキ観は愛情にくるまれた思いやりにすぎるのだろうか。ミネがイビキをかくとそのイビキは正子や悠吉の心配のいいがかりとなり、
「いびきかいてたわよ、いよいよ中気かと思った。」
 正子は心配で、めるまでミネの枕もとでイビキに聞き入るのだという。そしてそんなとき親子はすごく仲よくなった。その同じイビキが閑子の場合となると性格の相違という言葉までとび出してきて、あり来りの離婚の原因の一つにもなるのだ。その手紙を野村にかかせたのは、もとをいえばミネの側に原因があった。閑子の表むきの仲人だった野村の友人の井川がミネの家へ様子をききにきたとき、閑子がちょうどいなかったのでミネは、そのごの閑子の愚かなまでの言動を井川に話した。そして最後にいったのである。
「わたくしも困りましてね、どんなにしてもこれは納まらないと分りきっていながら、閑子をみると通俗的になったりするんですよ。それに子供さんから手紙がきたりするものですから。」
 それで井川が一肌ぬごうとしたのに対しての野村の、それは返事だった。その手紙で野村は更に「井川と二人で終日坐りこんでとつおいつしましたが、私は閑子さんを幸福にしてあげる見込がたたないので井川にもありていをのべてことわりました。子供がしたっているというようなお話も井川から聞きましたが、これも少しちがうので、閑子さんのお苦しみを永びかせないためには誇張しないがよいと考えます。」とつづけていた。ぴしっと頬桁をはりとばした言葉とミネはとった。ミネが誇張して井川に話したと野村は思っているようだ。裏の裏や奥の奥底をみないミネにしては表面に現れた事実でしかものはいえない。肉親のひいき目で閑子をみるミネの目に曇りがあるというならば、野村自身も子供たちが閑子によこす手紙の内容については知らないのではなかろうか。更に二伸としてご本人はあれからも二度ほど見え、私あて、子供あていろいろ手紙がきたりします。二度見えたときのてんまつはのべません。しかし子供たちもいまはふるえあがっていますから、どうぞこのへんでゆるしていただきたいのです。
 ミネはどこかへ走り去りたいような思いがした。異常の決心でのりこんでいった閑子が悄気しょげかえって帰ってきたいつかの日、閑子はうつろな声で入りこむすきまがなかったとうめいたのを思い出す。その日その場で女の醜態をさらけ出して閑子はたたかったのだろう。そのてんまつはのべません、と野村にかかせねばならぬほどそれはいやらしさの極点であったろう。野村の心をますます冷えさせる程閑子は馬鹿になったろう。子供をふるえ上らせる程閑子は夜叉になったろう。そして結局は水をぶっかけられた野良犬のようににげてこねばならなかったのだろう。野村の以前の家庭を評して彼の知人の一人はいった。野村の家族は外に向って囲いをすることにかけては実に一致団結天才的だというのだ。それがほんとうならば閑子はあの日、そのはりめぐらされた鉄条網を破ることが出来ず、狂犬のようにほえ立てたのかもしれぬ。ここまでくれば、いつかの夜、別れを悲しんで泣いて嘆いた子供たちも、もう閑子を父親との共同の敵としてしかながめず、閑子と一しょに暮した二か月の間にうけとめた閑子の欠点は欠点だけが特別に心の中で次第に大きく育っていったかもしれぬ。その欠点の中に閑子のいびきはことに大きく大きくひびいたにちがいない。不幸な閑子である。しかしそのごの閑子がイビキをかかないという正子の言を信じるなら、そしてそのイビキをミネの場合と比べて考えるなら、野村の家での生活は閑子にとって疲労だけがプラスになっていたとはいえないだろうか。それはこじつけかもしれぬ。しかし根も葉もないこじつけではあるまい。一人居ひとりいの静かすぎる暮しから忙しい主婦への激変はイビキのもとの一部であり得ぬとは思えぬからだ。女にとってそれは身も細る恥かしさである。できることならイビキなどかきたくない。へんとう腺の手術のようにイビキが手術で解決できるなら、自分もそれをうけたいとミネは思う。ミネのように夫や娘からいたわられるイビキでさえもそう思う。ねむっているまのイビキの責任まで女は無意識に負おうとするのだ。しかしねむった間のいびきのことまで書き立てられる女の立場には何か割り切れないものがある。夫のイビキがこわくて戻ってきたという女があるだろうか。あるかもしれぬがないように思う。妻がイビキをかくので離縁したという男があるだろうか。わからぬ。しかしイビキをかく女だと始めからわかったら、縁談はおそらく破れるだろう。男はどうか。そんなことはあるまい。イビキは男の特権なのだろうか。男だとてイビキはかかない方がよい。野村はきっとイビキの出ないたちの男なのだろう。だがもしも、閑子ではなく前の妻がイビキをかいていたとしたらどうだろう。女のくせに、といいながらも彼は妻をいたわる気持がわいたろう。イビキをカバアするものがあったにちがいないからだ。閑子にはそれがなかったのだ。それは雇い女がイビキをかくよりももっともっとおぞましいことだったろう。イビキをかく女、ああイビキをかく女、どんな原因でイビキは存在するのか。不幸なる女のイビキ。そういえば高木千恵子も疲れると男のように濶達かったつなイビキをかいていた。千恵子の夫はそれをどう思っているだろう。貞子のはずっとしずかないかにも女らしいイビキだった。千恵子やミネや閑子のように肉づきのよすぎる女にイビキは大きく作用するのだろうか。野村と井川が膝つき合せて終日とつおいつ考えあぐんだという閑子のイビキは野村をねむれなくしたというのだから、とてつもないものだったのだろう。ミネは何ともいえずうとましい気がした。そのうとましさが野村への感情だけではなく、閑子やミネ自身へのものなのはかなしかった。
「イビキをかく女って小説かこうかな。」
 自嘲じちょう的な口調でいってその手紙を悠吉の方にすべらせた。悠吉がよむ間に机の上の辞苑をぱらぱらとめくった。
いびき〔鼾〕(名)寝ている間に出る鼻息の音。
 小さな字でイビキの説明がしてある。ミネは急に笑い出し、茶化すようにいった。
「何だ、鼻息の荒さなのね。女の鼻息におどろいたの、気のちっちゃい。」
 二三日おくれて井川からも手紙がきた。当事者でない井川は野村のようにむき出しの言葉はなく、閑子は子供たちともうまくいっていたのだし、主婦としても気に入らぬというわけではないが、何としてもウマが合わないこと、そこで井川が、半年か一年家政婦をたのんだ気もちで気らくに暮してみたら何かひらける道がないかとまでいったが、彼はまるで恐怖しているようだし、思うに彼は以前の結婚生活のワクの中でとじこもっているとしか考えられぬこと、そのからの中でしっかとちぢこまって新しいものの入りこむ余地がないという気がしたこと、それについて野村は意識してはいないだろうが、意識の外でたえず前の結婚と比較しているように思うこと。これは自分の片よった考えかもしれぬが、そんなわけだから、往来で木が倒れかかって災難をうけたとでも考えて、新しく立ち上ってくれとかいてあった。ミネは野村の手紙と一しょに、だまって閑子の針箱の上へおいた。とどめをさすような気もちだった。それについて閑子は何にもいわなかった。ただ暗くいんうつに内へこもってゆくようだった。

 霜がとけて土が白っぽくかわいた色になってきたと思うと、えんどうの芽はすくすくとのび出した。新しい葉はみずみずと大きく、浅みどりの春の色である。せんさいな茎はそよ風にゆられながらもぴんと空に向ってのびてゆく。閑子の自慢の大きな絹莢きぬさやえんどうなのだ。その種は閑子が郷里の畑でとったものだった。野村の家とわけて蒔いたそのえんどうに、閑子は竹を立てて棚をつくってやっていた。なにごとか起らなければよいがと気になるミネは、わざと閑子のそんな姿を普通に見ようとした。
「えんどうが、ずい分のびたわ。」
 閑子がいう。頸の動きがまるでかたい。
「そうね。楽しみだわ。」
 ミネが答える。
「せめて半々にすればよかったと思って。三分の二はむこうへ蒔いたのよ。惜しいわ。」
「いいよ。むこうは大ぜいだもの。」
 ミネはすっと肩をはずして自分の部屋にはいった。しばらくしてのぞくと、閑子は黙々として、ささえの竹をゆわえていた。そして、それが終ったころミネの部屋の障子の外から声をかけた。小さなぬれ縁に腰かけ、モンペの膝を軽くはたきながら、
「ね、私がまいた豆、ひっこぬいてこようかしら。」
 案外な気軽さでいうのだが、ミネにはどきんとするものがあった。
「じょうだんじゃない。」
「いけない?」
「いけないもいけなくないもないわよ。笑われるよ。」
「だって、私のまいたえんどうなんて気色がわるいだろうと思ってさ。」
「そんなら勝手にぬくわよ。」
「そうか。」
 閑子はぺろっと舌を出した。その仕草がミネは非常にうれしかった。それは傷手いたでに肉がもり上ってきているような感じだった。そしてひそかにほっとしたのだが、二三日たつと閑子はまたミネの部屋に入ってきた。
「ね、花の球根ならもらいにいっていいでしょう。」
 彼女はもう身支度さえしていた。
「よしなさい。せめて花位残しといても悪くないよ。」
「だって、大事にして育ててきた花なんだもの。すてられたらいやなのよ。」
「そんなら竹子さんにたのんで、戻してもらおう。それがいいよ。」
 仕方なさそうに閑子はあきらめた。冬ごもりの芍薬しゃくやく牡丹ぼたん百合ゆりや水仙の芽がそれぞれもち前のみどりや赤のあざやかな色で土を割ってのぞいているのをみて閑子は思い出しているのだろう。花を好きな閑子を野村がその日記の中でけいべつして書いていたといって閑子は怒っていたのである。気に入らぬ女となれば花を愛することまでもいやなのだと閑子はいうのである。その花々は閑子がわざわざ郷里からもってきて、野村との新しい生活の中へ移し植えたのだ。そうして閑子は去り、花だけが野村の家の庭に根を下したのだ。閑子に感慨がわかぬ筈はないが、とりにゆくというのはミネは反対だった。そして竹子にも告げずに過ぎたある日、野村から手紙がきた。――庭のあちこちから見知らぬ草が芽を出していると思っていたら、それに花が咲き出しました。閑子さんが植えていったのだと気がついて、毎日花におじぎをしています――。野村の人のよさがしみじみと伝ってくるような手紙であった。ミネはそこをくりかえしてよんだ。あれ以来肩身のせまい思いがして人にあうのも気がひけて、集りにも出てゆかないでいると今日もつけ加えている。そういえばここ暫く、研究会の集りなどに野村の姿を見かけたことがない。閑子との問題が後味わるくて出渋っているのだろうが、そこにも野村の小心さが感じられた。彼には彼の理由があって別れたのだから、堂々と人前に出てきてくれた方がよいのに、野村には「とつおいつ」の面があまりにも多すぎはしないだろうか。野村のそんな性質をはがゆがって、何だかのとき高木千恵子がいったことがある。
「あの人はね、作家同盟の委員になることにも女房と相談しなくちゃ決らなかったのよ。」
 まだ元の妻が在世のときのことである。誰にもきびしい千恵子の批判はそのままのみこめはしないが、しかしそうした消極的な一面を野村はたしかにもっているとは思う。その手紙はもう閑子には見せなかった。花におじぎをして、別れた女に未練でもありそうにとってはたまらない。そのご閑子も花についてはもういわなかった。あきらめたのだろう。だが閑子は次第に意地の悪い女になってゆくようだった。それにミネはじりじりした。そして、あるとき急にミネは便所で気を失い、それきり床についてしまった。表面の病名は脳貧血なのだが、ここのところときどきのぼせて金時のような顔によくなった。血圧の昂進こうしんと低下が極端におそってくるような不均衡な状態は気持の上にも作用してちょっとしたことに興奮して赤くなったり、腹立てて青くなったりすることが度重なっていた。閑子への不満がもとで悠吉や正子にあたりちらすのである。ねているミネの枕もとで悠吉と正子が話しあっている。
「お母さんもよく気が立つようになったね。」
「こわいわね。脳貧血でまだよかったけれど、溢血いっけつの方だったら今ごろ中風よ。おおこわい。」
「できるだけ気を立てさせんようにしてあげようね。そしてなるべく正子がそばにいるんだね。」
 それはあきらかに閑子を邪魔がっている言葉だった。ミネはふとんの中で眠ったふりをしていた。こんなに案じてくれる人が閑子にはいないのだと思うと、閑子が哀れでならなかった。閑子はひとり台所にいて、食欲のないミネのために料理をつくっているのだろうに。ミネがうまがるとほっとした顔になり、食べぬとあらわな不安をみなぎらせる閑子、ところが閑子はそれを言葉にはしない。口をついて出るのはミネの心をゆすぶる皮肉や自己卑下ばかりだった。
「どうも私は姉さんの病気のもとのような気がするの。申しわけないからどこかへゆくつもりだけれど、今は困るでしょう。病気がよくなるまで下女代りに置いてもらうことにするわ。」
 くちびるをふるわせながらいったりする。どんなにかそれは悲しく、口惜しい思いだろうと、ミネもまた切なくなる。
 暑さに弱いたちのミネは夏中をわずらって、ようやく起き出したのは涼風がそろそろ身にしみはじめる頃だった。定期的な集りの場所になっていたミネの家が、ミネの病気のために貞子の家やその他に移されてから、ずっと人に会うこともなく過していたミネは、十一月の例会にはじめて貞子の家まで出かけた。手も足も青白く、すきとおったような色をしていた。坐った場所が座敷の次の室の鏡台の前だったので、みるともなく鏡かけをめくってみて、白髪の殖え方に目をみはった。白髪は母ゆずりだったが、それにしてもひどすぎる。ここ一年に七つも年をとったように思えた。苦労をしたねといたわりたいほどのけ方だ。玄関があいたと思うと野村がはいってきて、座敷の方の車座の中に坐りこんだ。ミネと正面に顔を合せる場所だった。一年ぶりである。ちょうど一年になる。野村も老けた顔の色だった。親しそうにミネにうなずきかけた。ミネもにこにことこたえた。心のどこかに残っている不自然さをおい払ってミネは野村に話しかけたりした。野村も病気のことをたずねたりした。互いにいたわりあっているようでもあり、そばにいる人たちを意識しての何気なさそうなよそおいでもあった。ここから出発して、もとにもどらねばならないのだ。ミネはそう思った。そんな気持を貞子はまた貞子で感じていたらしく、彼女の細かい気づかいを、それとなく織りこんで、こわれた友情の橋をつなごうとした。そのはじめての現れが、正月にミネたち夫婦と三人で野村の家へゆこうということになった。野村が招待するという形でその訪問は行われた。悠吉は先約があったため、ミネは貞子と二人だけで出かけた。閑子にはどこへともいわず、年始回りのような顔をした。野村は牛肉を山のように買って待っていた。それは全く山のように竹の皮に盛り上っていた。豆腐や野菜やその他のものも豊富だった。まるでそれは十人の客を呼ぶほどの仰山さであった。ミネはある意地悪さでその牛肉の山をみている自分に気がついた。しかしその思いはさっとは消えなかった。ミネは閑子のいった言葉を思い出す。
「二泊の予定だったのに、一泊で帰ったでしょう。そのときね、牛肉を五十目買ってすきやきをしてたのよ。ちょうど私がお土産に百目買って帰ったのでそれも一しょにしたけれど、はっとしたの。いつだって私は百目以下買ったことなかったの。牛肉百目買って、ぜいたく? そんなことも気に入らなかったのじゃないかしら。」
 そんなことをまでいい出して、閑子は自分を責めたのであった。牛肉を好きでない閑子の留守にどうして五十目しか買わなかったのか。それは留守の台所を預った娘の計らいなのか、それとも野村の采配さいはいだったのか、それは分らぬ。ただ閑子の胸にきたのは、けちんぼがきらいだと聞かされて、安心して三日にあげず百目の肉を買っていた野放図さだったのだ。百目の牛肉は普通の場合の主婦ががま口の中を考えずには買えるものではないすさまじい日常ではあるが、野村の経済はそういうサラリーマンや小市民とは異ったものがある筈だった。しかし現実の野村はそれをどのように考えていたろうか。閑子が経済のくり回しは非常に上手だと貞子に語ったこともある野村、上手だというのは倹約の意味なのだろうか。そうなら五十目の肉はどういう意味だったのか。そして今日、この牛肉の山はそんなこととは何の関係もないことだろうか。野村は閑子との結びつきに先だって、けちんぼはいやだといった。けちんぼということをミネは倹約と並べて考えていた。野村もミネもその育ちは貧しい労働者の子供である。働かねば食えぬ苦労を重ねて今日もなお働き続けている互いの生活は派手でなどあろう筈はない。けちんぼはいやだとダメを押されても閑子はびくびくしていたかもしれない。それがどのようにひびいていたか。そして野村にとってそれはほんとうに「経済が上手」だったのか、濫費らんぴの反語だったのか。山盛りの肉と五十目の肉は相反する感想をミネの胸にわき上らせさえする。野村は自分のしみったれに反発して無意識に閑子にその反対を求めたのではなかろうか、と考えるのはミネの意地悪であるだろうか。若い千枝が日々のたつきの苦しさに腹を立てて、着物をぬいでは目の覚めるようなぜいたくをして夫や子供を時々あっといわせるあの冒険は、同じ姉妹でも閑子にはないとミネは思っている。しかし閑子にもあればあるだけを手一ぱいにひろげて暮す思いきりはあった。その思いきりのよさが野村の経済とどう結びついていたか、それは全然わからなかった。ただそれが閑子には一抹いちまつのひっかかりを覚えさえさせてはいるものの、離婚の大きな理由ではなかったとミネは思うからだ。
 野村は機嫌のよい様子でしきりに立ったり坐ったりした。娘たちが手伝わぬのをミネは、野村やミネへのとけきれぬ思いからではなかろうかとふと思ったりした。正月だというのに娘たちは家にこもっている風だった。そして立居の度に細く開けた襖のすきまからのぞいていた。食事は野村の仕事部屋ではじめられた。カストリの透明な液が、らんの模様の白地の盃にそそがれたが、貞子もミネものめなかった。悠吉がいないことを野村のために気の毒に思いながら、ミネはだまってすきやきをたべた。貞子がつぎつぎと鍋の中を補充してゆく。あまりはずまぬので、肉や野菜が鍋の中に煮えくたびれていた。銀杏いちょうの葉型の底の開いた燗徳利かんどくりで、野村は馴れた手つきで独酌どくしゃくしていた。うれしそうだった。酒呑さけのみを十把じっぱ一とからげにいやがっていた閑子をミネは思い出し、野村がそんな点でも窮屈だったのではないかと思ったりした。こんな思いをするためにきたのではないと、そんな自分を切なく思いながらミネの観察は手をゆるめない。牛肉は大かた竹の皮に残っている。いかにもそれは主婦のいない家庭のさまをむき出しにしていた。これがもしも貞子の家だったら貞子はこれを見た目も美しく盛り合せて食欲をそそり立てるであろうに、男世帯の蕪雑ぶざつさはただ量的に豊富なばかりである。やもめ暮しのみじめさのようなものが、部屋一ぱいにみなぎっているようだった。これでは助かるまいとミネはひそかに思った。しかしそこへ閑子を結びつける気は不思議とでてこなかった。閑子のかげはもうどんな隅にも見出せはしないし、強いていえば娘たちのゆううつな顔にあと味の悪さが残っていた。
 帰るとき、娘たちは野村に促され、揃って玄関に出て来た。何という美しさであろう。ことに十九になった筈の長女はいかにも年頃らしく、におうような顔つきだった。色の白い、うぶ毛に包まれたようなその顔は、山茶花さざんかの花のようにやわらかな皮膚の色をみせていたが、あのはじめて閑子を迎えにきたときの無邪気さはなく、長いまつ毛はいんうつに伏せられていた。下の子だけは無邪気に笑っている。
 この娘たちの母に、閑子はなれなかったのだ。みんな可愛い娘たちなのに――
 ミネはいいようもなく惜しい気がした。
「お母さん、一しょに寝ましょうよ。」
 そういって勝手に閑子の布団を自分たちのそばにしいたという無邪気な小さな娘、閑子を父親の妻ではなく自分たちの母として迎えたらしい子供たちは、あのいやな日をどんな思いでしのいだことだろう。
 外はもう暗くなっていた。貞子もミネもだまって歩いたが、路地を出ると貞子は、
「野村さん、ふけたわねえ。」
 ぐうっと顔を斜めにして押さえるようにいった。
「そうね、ずい分、白髪ねえ。」
 ついでに川原の家へよると、川原の田舎の妹の澄子がひとりで留守番をしていた。入れ代って夫婦が田舎へいったということだった。澄子もやはり詩人で、戦争前までは東京にいて互いに往ききしていた。久しぶりだった。ここまできてはじめて大声で笑うことができるようなゆとりをもち、ミネも貞子もほっとして帯をといた。実際にまた澄子は二人を上手に笑わせながら帯をとかせたのだった。すっかり田舎風に染り、田舎弁で田舎のオンサンや娘たちの話をした。澄子の話ぶりは時間を忘れさせ、ミネたちはとうとう終電をはずしてしまった。二人は川原たちのねる部屋へ川原たちの布団をしいてもらって並んでねることになった。
「わたし、イビキかくかもしれないわ。そしたらごめんなさい。」
 ミネはずわびを入れて床に入った。気が重かった。どうせもう明日の朝まで帰るあてはないのに、泊ったことで悠吉に気兼ねをしているのもいやだった。明日帰ったら、疲れをかくしてつべこべするだろう、自分の態度も目に見えた。こんな思いの一切から貞子は解放されている――。ミネは貞子に話しかけた。
「あなたがうらやましいと、いま思っているところよ。」
「そう。」
 あっさりと貞子はうなずく。
「でも、これからずっとあなたが独りでいるとなると、さびしいな。」
 すると貞子は、また軽い調子で、
「ほんとね。」といい、はっはっと声をあげて笑った。
 妻の座を自分の手で投げすてた貞子はのびのびとして見える。しかも貞子の場合、独身者にみられる中性的なものはみじんもなく、やっぱり人の妻であり、人の子の母であるなごやかさゆたかさにみちていた。今は妻ではなくても、子をうみ、育てている女の人間的自信が彼女にこの安定感を与えているにしろ、夫と別れたことで女がのびのびとするのは何だろうか。経済力もその最も大きな原因であるだろうし、彼女の強い性格も、女としての彼女に輝きを増させているのだろう。表に現れて感じさせるものは堂々さや強引さではなく、女のゆたかさだけである。そんな貞子をミネはつくづくと羨ましく思う。かといって自分に貞子の真似まねが出来ようとも、またしようとも思いはしないが、妻の座にあいそをつかしてとび出した貞子の勇気には感心する。
「ね、だれでもあなたを羨ましがるわね。」
「ええ。」
「すべての女にあなたのような謀反気むほんぎがあったら、男はぎゃふんだけれど、そして面白いんだけれど、そうはゆかないわね。」
「へえへえ。」
 いいたいことを聞こうというように貞子はにこにこする。
「経済力や強気だけでもだめでしょ。とび出してくれてやれやれと思う男だってたく山あるだろうし、それもしゃくだし、男だって悪いのばかりではないし。」
「ははあ。」
 その返事にミネもふき出してしまった。襖をへだてて澄子が声をかける。
「たのしそうね。」
「そうよ、とにかく屋の下に女ばかり三人だからね。」
 はしゃいだ声でミネはいい、
「澄子さん、あんたもこっちへいらっしゃいよ。」
 しかし澄子は遠慮してこなかった。ミネはふと、澄子が閑子と同い年なのを思い出した。澄子もまた若いころ心にそまぬ結婚をして、というよりさせられて、結局婚家をとび出した女であった。話によると澄子にはその時恋愛の相手があった。それ故にとび出しもした澄子だったろうに、とび出してみると相手はもう新しい女と結婚していたというのである。それから二十年、ずっと澄子はひとりでいる。ミネは以前、その澄子の恋物語を幾度か澄子自身の口から聞かされたことがあった。北陸のある都市で澄子の恋愛は芽生めばえたという。川原の友人だったというその相手の高校生と二人で、ある日曜日に近くの小山に登り、人目をさけて終日を過したあげく、ようやく腰をあげて帰途につくと、夕日が二人の影を長く長く丘の向うまで倒していて、二人が歩くと細長い影法師も二人づれでとぼとぼと山を下りてゆくという言葉の描写は、忘れがたい印象をミネの心に刻みつけていた。婚家にいても落ちつかぬ彼女が、思いあまってふらふらと実家に戻ると、彼女の姿をみた母親は、彼女がまだ敷居をまたがぬうちにもう婚家への土産の支度にかかるのだという。狐の傘のようにある時は黒芋の葉でをさけながら、実家への道をひた走りに走る彼女の狂おしい姿を、彼女は映画の中の女を語るような調子で、七分のユーモアと三分の自嘲で面白おかしく話したが、語りおえた時の表情はいつも悲しみにみちていた。せっかくとび出すところまで反逆しながら、結局は地団駄じだんだをふむような思いをさせられている日本の女、それにしても澄子は何という古風な恋愛に生き通す女だろう。そしてそれが今ではもう澄子の独得さにまでなって身についてしまっている純情とかたくなさだった。なにがこの型をつくり上げたのであろうか。そして、ちがった形で閑子もまた、ぬけ出せぬような一つの型をつくり上げようとしているのではなかろうか。家庭生活に破れた同じ女であっても、貞子との相違は何というひらきのあることだろう。
 ミネはいつまでもねむれなかった。

 牛肉の招待を契機としたように、野村もミネもよく顔を合せるようになっていた。ミネの家へも野村は平気な顔でくるし、ミネもまた野村の所の集りだと、尚更出かけるような努力を払った。出来るだけ多く野村と顔を合せることでお互いのうけたいやな思いから解放されるような、そんな期待があったのである。そして本当にそれはミネの心にかえってきた。
「野村さん、とてもうれしそうだったわね。恋愛でもしてるみたいな顔してたわ。」
 何のこだわりもなくそれが、ミネの口から出たのである。貞子の家での集りで、珍らしく覇気はきにみちた野村の声をきき、珍らしく湧き上るような笑顔をみたからである。そしてあとに残ったミネは貞子にそれをいった。
「そうだった? そういえばそうね。」
 貞子はふりかえってたしかめてみるような返事をした。
「そうよ、きっといいことがあるのよ。」
 そうはいったがミネは、自分だけが特別に野村を観察していたような気がして、ちょっとてれた。しかし、たしかに野村はうきうきしていたのだ。それは閑子との縁談が決った当時の野村を思い出させさえした。それにしても勘のよい貞子がそれを感じないところをみると、やはり思いすごしだろうかとミネはまだそんなことにこだわる自分を変だと思ったりしたが、やはりその予感に近いニュースが、それからまもなく貞子から伝わってきた。老作家の山中啓二が野村のために結婚の相手を心配しているということだった。それをきいたときミネは、半分自慢で、
「ほらね、いったでしょ、いつか。」
と、にこにこした。何のかげりもない気持だったのだが、貞子と別れてしまうと、やはり閑子のことが気になった。もしも閑子の耳に入ったなら、やはり彼女は心を波うたせずにはおけぬのではないだろうか。そんなことを考えながら家に帰ると、閑子は例のモンペ姿で畑の中にしゃがんで、春まきの野菜の種をしらべていた。野村と別れて二度目の春なのに、それはまるで変化のない去年のままの姿だった。彼女の丹精した草花たちも、去年と同じように春の陽気をうかがうように赤い芽や青い芽をのぞかせている。それらの野菜や草花を黙々として眺めている閑子は、もう去年の狂態はくり返さず、ようやく気持を郷里の田舎へ向けはじめているのだった。男の立ち上りに比べて、それは何という悲しい、哀れな女の姿であろうか。田舎の家は閑子の持家でありながら、野村との結婚で人に貸したために、帰れば同居の間借人として肩身せまく暮さねばならないのだ。運の悪さはそれだけにとどまらず、転換する時代の風は、働いて暮さねばならぬ女の、猫のひたいにも比べたいほどのたった一枚の小さな畑まで僅かの間に不在地主の理由でもち去られてしまっていた。その改革に不満があったわけではないが、生活に破れて帰ってゆく女のために、あまりに悲しいそれは結果であった。土を耕すことの好きな彼女に今はもう一坪の土地も待ってはいない。それを用意して迎えてくれる兄弟も親もない郷里へ、閑子はかえってゆくのだ。田舎とはいえ大阪神戸に近いために、都会なみの物価高の中で、一坪の土地もたくわえもない女はその日から働かねばならぬ。そして働く前に食糧や燃料のことを考えねばならぬ。季節も考えずにうかつに帰れば、泣かねばならぬと閑子はいう。生れて育った土地である。笑いかけてゆけば笑ってかえってくるだろうと人の心を信じるミネの楽天的な考えを、そんなことはできぬと閑子はてんからはねつけるのだ。さざえのようにふたをして、よろいで固めてしまえば誰がよりつけよう。さざえのふたをこじあけるのは自分の役目だとミネは思う。こじあけずに、閑子自身、なみなみとたたえた海の中でふたをあけたくならせねばならぬ。ミネは閑子に、ミシンを持って帰らせようと思い、それをいった。喜ぶだろうと思った閑子は、腹立たしい顔ではねつけた。
「いいえ、こんな大切なもの、気がはる。」
 ミネは驚いた。妹ながら呆れた。自分をいじめているとしか思えぬ。こんなことで自分のうけた打げきは棒引にはならぬといっているようでもある。
「だって、ミシンがあれば、その日からでも働けるでしょう。」
「なくたってやってゆけるわ。」
「あったら困るの。」
 ミネがにやにやすると、閑子はますますむつかしい顔をし、
「困らないけど、人のもの借りるのがいやなのよ。」
「あげるっていわなくちゃならんの。」
 さすがにミネは腹立たしくいった。ミシンは太平洋戦争の起る直前、アメリカにいる悠吉の兄からおくってくれたもので、七つ抽出ひきだしの優秀品だった。くれてやるとはいえない義理があったのだ。しかし、もって帰ってつかっていれば、まさか返せとはいわぬことは考えられぬだろうか。ミネにすれば、せめてものそれが、彼女のために物質的につくしてやれる最大のものと思っていた。ミネの家の中のすべての物の中でミシンはその最高の部類のものである。野村にならたたきつけられもしよう言葉を、ミネに向って閑子は投げつけているのだ。離婚と決って、野村から貞子を通して何か要求はないかと聞かれたとき、閑子は、百万円もらっても償われるものではないといって、はねつけた。その手をミネにもつかっているのだ。しかしミネは野村のようにそれきりかかわりなしにはいられぬ。その翌日ミネは近所の運送屋をたのんで、さっさと荷造りをさせ、帰ればミシンが待っているようにとまだ主のいない田舎の閑子の家にあてておくらせた。閑子はそれで単純に喜び、急に帰り支度にはりを見せた。押入の中をかたづけ、洗たく、はりもの、仕立直しとミネたちのためにも精を出した。夜具も座ぶとんもノリがついてさらりと気持がよい。新しい雑巾ぞうきんが幾つもできた。よごれ物は何一つなくなった。それがすむと今度は埼玉の千枝の家の押入を目ざして出かけた。
「実用的な女ね。実用一点ばり。身を粉にして働くことだけが人間の本分だと思ってるのよ。切ないわね。」
「いないとほっとするなんて、不幸な女だね。野村のとこでもこれだったんだよ。分るね。」
「働いて、よく思われないなんて。」
 閑子の留守をミネたちは、わびしく話しあった。その翌日貞子をたずねると、ミネの声を聞くなり、ちょうどよかったといいながら貞子は出てきた。そしていよいよ野村の結婚が決ったことをつげ、野村がその披露にミネたちを招待したものかどうかと相談してきているというのだった。
「どう?」
 考えぶかく貞子はきく、ミネは微笑して、
「どうったって、案内されたら行かないわけにはゆかないわ。それほど気がちっちゃくないつもりですがね。それとも、出るのが変かしら、出ないと尚変じゃない? それはそれ、これはこれ。」
「そうだわね。」
 貞子は安心した顔で、
「そういってやるわ。野村さん喜ぶわよ。」
「でも、ちょっとまって、案内状下さるんだったら、あなたを通してにしてもらいたいの。見つかるとやっぱりね。」
 話はさらっと片づいた。その日は閑子にだまって出かけようと思った。裾模様すそもようや紋つきをきるわけでないから、かんたんだ。そんな風に平気だったのに、貞子の家を出たとたんにミネの胸はゆれた。沈丁花じんちょうげの匂う家々の前をすぎ、小さな流れの橋を渡って田圃道にさしかかるとミネはううっと声をあげて泣いた。夕暮のせまった人通りのない畑道を、ミネは胸をかかえるようにしてうつむいて歩いた。おしまいだ、これでおしまいだと心の中でくりかえしていた。何がおしまいなのか。別に閑子への希望をもっていたわけでもないのに、まるで望みの綱が切れでもしたように涙がでた。野村のためにそれは喜ぶべき首途かどでなのに、そして又、閑子だとてそれで一そうはっきりしたわけなのに、何のための涙だろうか。やはり閑子をあわれんでいるからなのだろうか。
 田圃を突っきると、道はこちらの丘の家々の間に分れる。ここにもまた沈丁花は夕靄ゆうもやのようにただよっていた。その生垣にそって歩きながら、ミネは涙をおさめた。そして帰るなり悠吉の部屋にゆき、かかとを立てて火鉢のそばに膝をついた。
「ニュース。野村さん、結婚するんだってよ。」
「ふーん。」
「こんどは恋愛だってよ。」
「へえっ。」
 悠吉がほんとにしてこちらを向いたので、思わずミネは笑った。そしてふと考えたのは、あの年になればたやすく恋愛もできず、やはり他人にさがし出してもらうしかなかったことだった。イビキの問題がミネの頭の中を走った。
「女の側も、こんな風に運ぶといいんだけどね。」
 ミネは野村のあのうきうきさに比べて、いんうつをすっかり性格の中へ沈めてしまった閑子に、女の立場の不利のようなものを感じないでいられなかった。ほんとにあの当時閑子が腹立てていったように、男の方は別れればその場から身軽になれるのに、女はいつまでもそれを引きずってゆかねばならぬ。着物を着かえたようなさっぱりとした気持に女がなるまでには、さまざまな苦悩の関所をゆきつ戻りつしなければならないのだ。くよくよしたり、じりじりしたり、泣いたりおこったり、そしてようやくゆきつき先が見通せたとはいえ、そこへさえも、うなだれ勝ちにしか足が運べない有様だった。こんなにも重荷になろうとは考えられもしなかった。しかし、目を一たびそとへ向ければ、現実の社会の動きはとうとうと流れる大河のように、ちりあくたものみこんだままゆきつく方向へと流れている。その流れの行き方を伝えて、日々の新聞はミネの心をゆすぶりつづけた。働く者たちの目ざめてゆくさまがとびこんでくる。電産のスト、全逓の二十四時間スト指令、私鉄の動きなど若木のようにぐんぐんのびてゆくその勢いのようなものが、じっとしているミネにさえ感じられた。ことに心ひかれるのが東宝映画の争議だった。同じ文化のになである親近感は、生きて動いている人たちの息吹いぶきが熱く頬にかかってくるような思いがした。野村の結婚披露の当日は、それまでなかなか動かなかった「東急」「小田急」の私鉄がいよいよサボに入ったため、その二つのどちらかを利用せねば東京へ出られぬ筈の野村の困惑のさまが思いやられた。しかしそれは、ただの困惑ではない筈だった。何となくしてやられたことを喜ぶものがあって、新郎新婦のいない披露宴のことが妙にたのしく気が軽かった。
「だめね。」
「だめよ。」
 そんなふうに決定的な言葉を貞子と交したりしたが、貞子もやはり、してやられたことの方へ大きな関心をもっていた。昼頃、野村から中止のむねの電報がきた。ミネは却ってほっとするもののあるのに気づいた。心に残る一抹のかげりが、こんなことで消しとられたことは有りがたかった。そして何となく野村夫婦とうまくゆきそうに思えて、この自然のなり行きに感謝する心が大きかった。何にもしらぬ閑子は千枝の家から帰ってきて、もういつでも帰国のできる用意をした。四月の終りだった。
 第十九回メーデーは文化の面の著しい進出を前ぶれにして、労働者と文化人の固い結びつきのもとで行われようとしていた。東宝争議なども幅ひろく訴えかけられるものがあったにちがいない。ミネもじっとしていられなかった。そして悠吉や貞子たちと一しょに弁当をもって出かけた。まだ十分に健康をとり戻していない皮膚の色は、一まつの不安を感じさせもしたが近くに住んでいる評論家の原口が病身ながら身軽な格好で誘いにきたのをみると、ミネの不安はけしとんでしまった。遠足にゆく小学生のようにみんなうきうきして出かけた。ミネたちのよる文学者会の集合場所は日劇前だった。そこで待合せて隊伍たいごを組んで人民広場へという順序だった。ゆくともう四五人の顔見知りが小さな赤旗とプラカードを中心に集っていた。戸を下した日劇のぐるりは、そのほかにもこの日のための待合せ場所になっているらしく、少しずつのかたまりが幾組も出来ていた。どこかでみたことのあるような気がするのは、目的が揃っているためであろうか。みんな輝くような目で後から集ってくる者を待ちうけていた。
「あらあ?」と叫びながら顔一ぱいで笑いながらかけてくる女があった。ミネも貞子も同じように「あらあ。」といいながら迎えた。絵をかく小川レイ子だった。粗末な手縫いの洋服に下駄ばきの小川レイ子はすっかり年をとっていたが、昔のままの笑顔で、昔のままの声だ。互いに笑顔を交しあってそれで昔にかえれる仲間だった。一と昔前、貞子やミネたちと一しょに雑誌「働く婦人」の編集をしていた。彼女は絵の方の係りだったのである。やはり貞子やミネたちと同じように、彼女の夫は治安維持法違反で刑務所に入れられていた。その当時のレイ子は二人目の子供をおなかにもって、四つ位の男の子をつれて刑務所や裁判所の門をくぐっていた。産み月の近くなったころ、特別製の大きなオーバーをきて、そっくりかえるような堂々さで歩いていた姿は実に立派だった。男の子の洋服の袖や胸のあたりにさまざまなぼたんが、勲章のように幾つもくっついていたのをミネは思い出した。釦の場所でないのに子供がつけてくれというとその通りにしてやり、その姿で彼女は歩き回っていたのだ。いつも子供をつれて歩かねばならない母親は、おもちゃの代りのようなつもりで、釦をつけてやったのだろうか。若かった女画家の小川レイ子の昔のままのかざらぬ表情の中には、今たくさんのしわが刻みこまれている。
「ね、あの坊や、大きくなったでしょうね。」
 ミネが聞くと、レイ子はいかにもそれが自慢らしく相好そうごうをくずして、
「大きくなんて通りこしちゃってね、こんなですよ。」
と、顔を横にしゃくるようにして見上げる格好をした。そしてもう来年は大学だというのだった。いいながら彼女はしきりにあたりをきょろきょろと見回した。画かきの同志の姿を求めているのだろうが、見当らなかった。そのうちに時間がきたので、ミネたちのグループはいよいよ出発することになった。
「ここへ、いれてねえ。」
 レイ子は子供のように甘ったれていって、一しょに歩き出した。が、途中で画かきの仲間の姿を見つけ出すと、「あー、いたいた。」と手をふりながら下駄音も高くその方へ走った。まるで十一の少女のようだった。ミネたちのコースは日劇を毎日新聞社の方に折れ、三菱街を堀端の方へぬけていった。大きなビルディングの間の狭い小路のあっちからもこっちからも、幾組もの小集団が、赤旗を先頭に広場へ広場へと、歌声と共に進んでゆく。あとからあとから押しよせてくる群集、ビルディングの窓は人の顔が重り合っている。近づくにつれ、四方八方のあらゆる通りは大海にそそぐ川のように、足音の流れで埋められた。歌声は空にも地にもみちあふれている。ミネたちのうしろから、エスペラントの団体のみどりの大旗が、幅一ぱいにひろげられて、小さな集団を抱えこむいきおいで押してきた。ミネたちは夢中で、広い空の下に集る無数の人群れの中へととけこんでいった。森を背に第十九回メーデーと斜め横書きの字が赤地に白くぬかれている。それを中心に幾千幾万の旗やプラカードや、数知れぬ群集が立ったり坐ったりひしめいている。定められた文化団体の場所へ近づくためには、人と人との間を、一足交す毎に片足ずつの踏場をつま先で拾い出すようにして、ごめんなさい、ごめんなさい、と足数だけわびながらゆかねばならなかった。みんな悪い顔はしなかった。そうしてようやく割りこんだところは、でこぼこの地面で、松の木につかまってからだをまげて、次に通る人をよけねばならぬ場所だった。足もとのクローバーがふみにじられて、うでた菜っぱのようになっている。その上に新聞紙をひろげて、みんなは時のくるのを待っていた。みわたすと、いる、いる。婦人団体も、ジャーナリストの組合も、映画演劇も、教育関係者も、画家も作家も、そして白線の帽子や角帽の集団もいる。ミネのように夫婦できている幾組かの顔が見える。貞子のように母子できている幾組かの顔も見える。小さな子供づれの詩人の一家もいる。夫婦、親子がそれぞれ別々の団体に分れて加わっている組もあった。悠吉に肩をつっつかれてふりかえるとうしろに野村が立っている。
「奥さんだよ。」
と、悠吉がいう。ミネは不意をつかれてどぎまぎしたが、すぐ立ち直っておじぎをした。悠吉や貞子たちはもう挨拶あいさつをしたあとだった。野村の妻は微笑を含んで、しずかに頭を下げた。注視をあびているのを意識したつつましさだった。黒いズボンの上に白い毛糸のセーターをきた小柄な女だった。野村と幾つもちがわない年格好に見えた。ミネは閑子の姿を大きく思い出した。閑子! 彼女は昨夜の終列車で東京を立ったのであった。役目をすましてほっとしたように、ぱちぱちと例のせわしげな目たたきをしながら野村は、悠吉に向って、
「おれんとこは君、今日は一家総出でここなんだよ。」
 いわれて気がつくと野村の妻のうしろに野村の長女が膝をだくようにしてしゃがんでいた。気づかれたと感じてか微笑をして軽く頭を下げたが、その表情のいんうつさにミネははっと、胸をつかれた。何というそれは、かなしそうな顔だろう。何というそれは、思いをうちにひそめた表情であることか。閑子に新しくできたのと似たゆううつな顔である。人にぶちまけてしまえない不幸を包んだ顔である。自分で解決しない限りとり去ることのできぬいやな顔である。幾十万人かあつまったこの広場の中を一人一人さがしてもこの顔はほかに見つからぬ顔であるかもしれぬ。
 仕合せでないのだ。
 ミネの胸にまっ先にきたのはそれだった。野村の妻が、玄関から入ってきた新聞の集金人に勝手口に回れと一種の権高さでいったという噂、新しい母のそうした態度に野村の子供たちが反発して、うまくいっていないという話が嘘かほんとかは別として、ミネの心を迎えようとするかのように伝わってきたことを、ミネは思い出した。そのときのミネは、聞かされたことが不快だった。それがミネと何ほどのかかわりがあるというのか。しかし、今はちがった気持でミネはそれを思い出し、野村の複雑な気づかいが察しられるのだった。正月に野村の家であったときより一そう深いうれいを含んだ長女のその顔色から、野村の生活がまだ軌道にのっていないような気がした。野村はそれをどのようにさばいているだろうか。この広場に集って日ごろのうれいを忘れ、楽しそうに語りあっている大ぜいの人たちの中で野村の妻と娘とだけがだまっている。妻はつつましさから、娘はゆううつさからという顔つきである。
 となりのグループは婦人の団体だった。みんな赤い花を胸につけている。ミネもそこの会員である関係から、ミネの手にも造花の赤いダリアが回ってきた。和服のミネはそれを手にもっていたのだが、思いついてそれを野村の長女におくった。ふっと小さく笑ってうけとった彼女は、しばらく両手の指でその茎をくるくると回していたが、やがて胸につけた。うれしそうだった。ミネはほっとした。そして、今のさき考えたことをごしごしと消しゴムで消すように自分の心から消し去ろうとした。野村はやっぱりいいことをしていると思ったのだ。ややこしいあれこれはあるにしても、とにかく妻や娘と一しょにここまできているということ、そのことに野村の考えの焦点があると思った。さまざまな妻たち、さまざまな娘たちのさまざまなうれいを解決するもの、その遠い道への第一歩をここから始めようとしている野村の気持は、集金人をわざわざ台所へ回らせる妻をもここへつれ出してきている。だが、閑子はここにいないのだ。ミネは押えても押えてもいぶり出す煙を消し去ることに苦労した。里帰りにさえも夫婦一しょでなかった閑子、僅か二か月に女一生の欠点をさらけ出さねばならなかった閑子の不幸さが渋柿にかぶりついたような思いで思い出された。そのことについて野村は半分の責任をどのような形で負ったろうか。ここにつれだってきた野村夫婦のここまでの過程に、閑子の不幸は投げすてられ忘れ去られた形でしかないのだ。野村にばかり罪があるわけでもないし、まして新しい妻にほどのかかわりがあろう筈もない。しかも閑子にばかりきびしい負目であることは、何としてもつらい。渋柿の渋は早くぬきたい。いぶる煙は燃え上らせねばならぬ。
 そのときミネの前の若い男が上半身をとび上らせるような身ぶりで、
「うへえ!」
と奇声をあげた。するとそのまわりの二三人の男たちが、わっは、わっはと笑い出した。何ごとかとのぞいてみると、男は竹の皮包みの弁当をひろげながら、てれ笑いをしている。弁当包みはぺちゃんこにひしゃげていた。くすくす笑う人たちにかこまれて男は、もう覚悟をきめたというように竹の皮をはがした。一せいに笑い声がばく発した。幾つかのむすびが中の梅干を花模様にして一枚のせんべいになっているのだ。男は弁当のことを忘れて、その上に腰かけていたのだという。彼は悪びれもせずそのせんべいをちぎって食べはじめた。すると又一しきりみんながおかしがった。ミネも一しょに忍び笑いをしていると、ミネと顔を合せたつれの男が、
「これでもね、新婚の女房がつくった弁当なんですよ。彼は女房を尻の下にしいている証拠ですね。」
 聞いているうちにミネはもうこらえ性もなくおかしくなり、腰を曲げて声をあげて笑った。おかしさはなかなかとまらなかった。悠吉にも教えると、悠吉もへらへら笑った。人々の笑声の中で男はゆうゆうと食べ終り、ミネの顔をみて笑いながらいった。
「あなたはぼくを知らないでしょうがね、ぼくはあなたを知ってますよ。こないだ僕たちの地区の読書会でね、あなたの小説が問題になりましてね。」
 ゆっくりとした調子でいう。
「あら、そうですか。」
 ミネはようやく笑いから自分をとり戻していった。
「あなたは、奥さんをつれてこなかったのですか。」
 すると彼は少しばかりきまり悪るそうな顔で、
「これなんでね。」
と、片手で腹部を大きくしてみせた。コーラスが聞えてくる。若々しい声だった。それを聞くと貞子はつま先立って舞台の方をみた。貞子の息子もコーラス隊に加っている筈だった。遠く離れた舞台には二十人程の男女が、腕を組み、からだを左右にふりながら歌っている。歌声はスピーカーで耳のそばまできているが、顔の見さかいはつかなかった。一番背の高いのがうちの息子だろうと、貞子はしきりにのび上ってみていた。そこへ、争議に入っている日本タイプの若い女たちが基金箱をもってあらわれた。赤い鉢巻はちまきをして、元気な顔をしていた。鳩の巣箱のような基金箱を胸にかかえて人々の間を回ると、めいめいがま口をあけて待っていた。近づくと我も我もと箱の中へ手がのびた。そんな中で労働組合や政党代表のあいさつが次々と拡声機を通して流れてくる。まもなく行進がはじまった。幾組もに分れて、文化関係は芝公園へのコースについた。先頭がどこの団体なのか、しんがりはどういう組合なのかも分らぬままに、ただ順位をまって続いた。どうしたゆきちがいなのか、ミネたちのそばに土建組合の一団が陣どっていた。二十人程の日にやけた顔の女たちが交っている。手拭をかぶった女もいた。ヨイトマケの女たちだった。子もあり夫もあるだろうヨイトマケの女たち、それがここへきている。小説をかく貞子やミネと並んでいる。ミネはある感慨で、じっと見ていた。今年はじめて参加したらしく、この空気に浸りきれぬ顔をした年とった女もいた。女ざかりの女もいた。みんなそれぞれに、この時代の空気を胸一ぱいに吸いこもうとしているのだ。
 会場を出ると、プークの人たちが道ばたに小さな舞台を設け指人形をあやつっている。もう少しゆくと赤いプラトークの合唱団が歌いながら行進を見おくっている。それに合せてミネたちも歌った。沿道は人の山で、ビルディングの窓から手をふる女たちもあった。手をふることで心を一つに通わせている。放送局に近い電車通りを列は走り出した。幾万の足音、その足音の中にみんながいる。夫がいる妻がいる。夫であった男も妻であった女もいる。これから夫になり妻になる若い者が大ぜいいる。大きな女も小さな女もいる。やさしい女もきつい女もいる。さまざまの悩み、さまざまのもだえ、さまざまの嘆き、そしてさまざまの喜びをない合せて、あらゆる性格のもつれあった人間が集っている。しかもそれが一つの流れの中で歩調を合せているのだ。だが、この大きな流れからのがれるようにしてひとり汽車にのった女がある。閑子は今どんな思いでこの「今」を感じているだろうか。沿道にも歌声はひびいているだろうに。
(昭和二十二年八月、二十四年二―四月、七月)





底本:「現代日本文學大系 59 前田河廣一郎 伊藤永之介 徳永直 壺井榮集」筑摩書房
   1973(昭和48)年5月21日初版第1刷発行
   1980(昭和55)年3月15日初版第9刷発行
初出:「新日本文学」
   1947(昭和22)年8月、1949(昭和24)年2月〜4月、7月
※「加わって」と「加って」、「玉子」と「卵」、「婿」と「聟」、「群衆」と「群集」の混在は、底本通りです。
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2022年1月28日作成
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