諸君、私はただいま報告された通り、この壮厳なる儀式の
下に、会長に推薦せられたのであるが、私はこれに対して、何という言葉を以て
御請けして宜いか、
甚だ私は当惑した。全体、年内に
江原〔
素六〕先生、
寺尾〔
亨〕先生、その他の諸君が
御出で下すって、今日の会のこと、同時にこの会に於て会長に推薦するから承諾しろ、ということのご相談に
与って、その時に私は
切りにご辞退をしたのである。自分はかくの如き大なる事業に、会長たる徳望もないのである。しかしながら、この会のために諸君の
後えに従って及ばずながら微力は尽すが、会長はご免を蒙りたいということで再三ご辞退をした。今の御言葉は少し間違っているだろうと思う。
悦んで御請けをしたという話であるが、決して悦んでではない。衷心恐縮したのである。再三ご辞退をしたが、なかなかご承諾がない。ご承諾がなくとも、拒む権利があるのだから拒んで
宜いのであるが、あまり
無碍に、我々が尊敬する数人の御方がご勧誘になるのを、
直ちに拒絶するのは礼に非ずと存じまして、なお考えてみよう、ともかく今日は出席いたす、出席をして
然る後に多数の御方がご勧誘になったならば、またその時のことに致そうというだけで、未だ確定しないのである。
然るに、少しく外交的の、形式の変った、ほとんど悦びの
下に会長に推薦されたというようなことであったのは、甚だ恐縮千万である。しかしながら、事ここに至って私がこれを避けるのは、私も男である以上勢いが無いようである。衷心恐縮に
堪えぬ次第である。私が果して責任に堪えるや否やということは疑問である。しかしながら、私はほとんど二十二年前と記憶いたしているが、万国平和協会の会員の一人として署名している。その当時には、世界に名高い大政治家が
沢山署名されておったのであるが、かくの如き名高い大政治家は、もはや今日は世界に存在していない。その当時おった人は、
露西亜の大宰相であるゴルチァコフ、
日耳曼大宰相であるビスマーク、英国の大宰相である所のヴィーコンスフィールド、グラットストン、あるいは
亜米利加合衆国では、かつて日本にも御出でになったところのゼネラルグランド、数回大統領になられたが、この御方も署名されておった。その他世界に名高い政治家が、
夥しく署名されておったのである。我々は世界に名も知れない、ことに世界の文明に触れて
僅か半世紀しか経たぬところの、未だなんら世界的の大いなる事業を為したこともない者であったが、その当時帝国の外交官としておったために、その
後えに署名するの名誉を得たのである。それ以来、衷心平和という事には注意しているが、全体、日本という国の地位が、世界の強大なる国の地位に大いなる隔たりが有り、
且つ世界の国際団体に充分なる地位を占めない時に当っては、
如何に志があっても、なんら世界の平和の上に働く機会が無かったのである。ところが、このたびの如き会が出来た。
無論、先年から両三度ご案内を受けて悦んで出席いたすところであったが、
已むを得ぬ事情のために、今日まで出席いたさなかったのは、甚だ遺憾な訳でありましたが、今日初めてこの会に臨んで、そうして初めて会長という名誉を与えられた。甚だ恐縮千万である。しかしながら、世界の平和ということに付いては、単に名のみであっても、二十二年の間関係があるのに、何か為したかというと、一も無しと諸君に白状するの已むを得ぬのは、甚だ遺憾であるが、ただこれから先、諸君と共に何か為してみたいと信ずるのである(拍手)。
全体、平和ということは、人間の上に大にして崇高なる事業であるが、議論そのものは単純なものである。多く説くの必要がないほどのものである。
然るに、私は平和という上に付いて、大なる疑問を持っている。その疑問を今ここに提出する事は、決して無用に非ずと思うのである。全体、私は平和を疑っているのである。まず、平和会議の提議者は、平和の
攪乱者であるという事を記憶しているのである(拍手)。千八百六十八年に、
那破列翁三世が平和会議を主唱した。
而して、三年の後には平和が破れたのである。平和を破ったものは果して誰であるか。
独逸の
維廉帝であるか、
仏蘭西の
那破列翁であるか。これには
各々議論があるようであるが、まず公平なる歴史家は、どうも
那破列翁らしいというている。そうすると、平和の主唱者は、平和の攪乱者であったということになる。その次に、第一回の
海牙の平和議会は、誰が主唱者であったかというと、諸君もご承知の通り、露国皇帝であった。
而して、その第一回の
海牙の平和議会を
距る
僅かに九年の後には、日露の戦争が起ったのである。これも日本から言えば、平和を破ったということの責任は決してない。平和を破ったのは露国であるというが、露国から言えば日本なりと言う。これは水掛論で、果して
何方が破ったかということは、よほど疑問である。これは第三者の判決を
竢たなければならぬが、歴史家が筆を
執ったならば、露帝が破ったのであると見はしないかと思う(拍手)。これは日本人たる我輩の議論では、あまり証拠にならぬかも知れぬが、自らはそう考えている。そうしてみると、平和の主唱者は平和の攪乱者である。そうすると、平和協会の会長は、平和の攪乱者になるかも知れないのである(拍手)。
それから、全体、今日の世界は、何故にかくの如く武装を為しているか。驚くべき武装を為しているのである。千八百七十年以来、
仏蘭西と
独逸の戦争以来、世界の強国の武装の盛んなこと、前古無比である。また近世にて、日露の戦後、世界の海軍の拡張の盛んなること、前古無比である。今日軍備の拡張のために、世界に冠たる富をもっている英国もなお且つ財政の困難に遭遇して、この財政のために英国は大いに混雑を惹起しているのである。多分、昨今の英国の情態はほとんど戦場の如き有様を呈しているであろうと思う。かくの如き混雑を何から惹起したかというに、大部分は軍備である。昨年独逸に於ては財政、即ち増税案のために高名なる大政治家――ほとんど十年間、
独逸の大宰相としてビスマーク公に譲らぬところのピュロー公は、議会の反対に苦しんで、
到頭自分の地位を
抛つの
已むなきに至ったのであります。
而してその案は全然破れたのである。
亜米利加合衆国に於ても、これはもっとも新たに興ったところの国であるが、今日合衆国の富の勢いはほとんど世界を圧するくらいであるに
拘わらず、海軍の拡張のために財政に不足を告げ、税を増さなければならぬということになった。
而して、今増しつつあるのである。全体、合衆国は世界に敵のない国である。世界に於いて、合衆国ほど平和の国はないのである。ところが、世界の軍備大拡張に対しては、合衆国そのものも武装を解く訳にいかないのである。余儀なく武装せねばならぬので、ついにこのたびの海軍拡張となったのである。驚くべき大拡張となって、巨額の金を投じたのである。
日本また
然り。日本の如き幼稚なる国に於て、富の最も発達しない国に於て、突然軍備を整えなければならぬということは、よほど困難である。ところが、日本は増税はさておいて、この頃議会には税を減じてくれろという声が起っている。しかしながら、税を減ずるために日本の艦隊を
潰す訳にはいかぬだろうと思う。何というても、武装を解くことが出来ないという、今日の情態であるのである。
それからもう一つ、ここに不幸なることがある。これは私はあまり細かく言うことを好まぬが、事実を事実として述ぶることは最も必要である。これを述べなければ、真の平和は来らぬのである。まず日本人、東洋人というものの世界に於ける地位は、どうであるかということが最も必要である。全体、平和を破るのは
何処であるかというと、文明の程度の低い国が、平和を破るのである。
欧羅巴の一世紀間の平和をして、不安の念を抱かしめたのはバルカンである。東洋に不安の念を
懐かしめたのは満韓である。即ち支那である(拍手)。
日本は国としては、世界に於ける列強の
伍伴となったのである、少なくとも世界に於いて、指を屈する強大国となったのである。英国、
独逸、
仏蘭西、
露西亜、
墺地利、
伊太利、大西洋を隔てて
亜米利加合衆国、太平洋に於ける日本帝国、指を屈するとこの八つの強大国がある。この間は国際間の礼儀として、慣習として、世界のグレートパワーの間にはアンバセエドルを交換するのである。これは全権公使と違って、その国の主権者を代表するもので、この強大国の会議に於て決すれば世界を左右するほどの力のあるものである。しかしながら、国としてはその通りであるが、日本人個人としてどういう状態であるかというと、日本国民はなんと威張っても、大国民、大和民族などと威張っても、一歩足を踏出して外国へ行ったならば、東洋人――東洋人といって日本人と区別しないのである。あるいは
欧羅巴人から見れば有色人、なるほど色の上から言えば、日本人も支那人も大なる違いはないようであるが、色を以て人間を区別するということは、これは根本を誤っているのである(拍手)。
一と
皮剥けば、
欧羅巴人の骨も、日本人の骨も同様である。一と皮剥けば、骨どころでない、肉も血も同じことであるのである。しかし、旧来の慣習はそういう工合になっているのである。これが世界の平和ということに付いて、大なる疑問をもっている一つである。
これも今日起ったんではない。日本が未だ世界に知られぬ
中は、その有様がよほど盛んであった。一番盛んであったのは
何処であるかというと、
阿弗利加のナタール殖民法案というものを諸君は知っているであろう。これが一番古いものである。前世紀の初めに
拵えたものである。それからケープコロニーの殖民、濠州の殖民、それから太平洋を渡って、
亜米利加合衆国、太平洋沿岸の殖民、もっともその中に
新西蘭というものもあるが、これは手厳しい方である。それから
加奈陀、こういう訳である。
其処に行くと、支那人も、朝鮮人も、
馬来人も、
印度人も、ニーグローも、日本人――傲慢なる大和民族、大国民という先生方とを、少しも区別せぬ。なかなか
酷い目に遭わせる。第一諸君がナタールへ
御出でになると、立派な学問をして充分なる金を持っている人が、商売のために行くと、まず第一に試験をする。学術の試験をする。体力の試験をする。そうしてなんでも五
磅か六磅の税を取られて証書を貰う。その証書は二つ拵えて、ちょうど昔日本で大罪人に手の判を捺させたように、手の判を捺して取っておく。また写真を撮っておく。写真は今では日本の監獄でもやっている。その写真を証書に貼りつけ、それに拇印を捺させて、一枚は先方に置いて、一枚は本人に渡す。それを以て自分の商売の目的地に旅行しなければ、動くことが出来ぬのである。第一英語が出来ないと、
如何なる大金持でも追っ払われてしまうのである。
然るに、白人であれば、日本は世界の一等国というが、二等国、三等国、ほとんど名もないような国の人、そういう所にも、色の黒いものもいる。
葡萄牙などは日本人より黒いが、それでも白人と同一の待遇を受けて、労働者でも金持でも、傲然と税関を通る。ところが、日本人は通さぬ。写真を撮られて、手の判を取られて、大変な税を取られて、
僅かの商売品を以て営業をするの
外は仕方がないというので、これが世界中で一番ひどいようである。
而して、ナタールはどういう国であるかというと、
吾人の最も尊敬する、ことに同盟国たる英国政府の支配の
下にある国である。こういう訳である。ところが、ご承知の通り、英国は殖民地に対して、ことに経済上に於ては自由を与えている国であるから、英国政府が
如何に日本に対して気の毒であるといっても、政府の権力が
其処まで届かぬのである。ちょうど
亜米利加合衆国の如きも、各ステートが立法権をもって、ほとんど独立している。太平洋沿岸に於て日本人を苦しめるから、
華盛頓政府があまり手厳しいというので軟らかにしようと思っても、なかなかむつかしい。合衆国の政府は、ステートをそういうところまで、圧迫する力がない。憲法が、そういう工合に出来ていないのである。もっとも一世紀前には、合衆国が今日のように膨脹し、五十州にもなろうとは、
如何に聡明な人でも予期しなかったとみえて、今日に於ては憲法をなんとか改正しなければ、中央政府の力で各ステートを充分に支配することが出来ぬという有様である。それがために、他の支那人とか
印度人とかいう他の
亜細亜人を
措いて、日本人だけでも、
欧羅巴人と同一の仲間に入れてもらいたいと思うたけれども、なかなか入れてくれない。
勿論、聡明なる人、今日の政府などに於ては、必ずもっともなりと言うのであるが、州の組織がどうしても許さぬ。
却って地方に行くと、なかなか個人の権利が発達しておって、経済上日本人と競争するために、自分の生存の上から余儀なく拒むと言う権利がある。
此方の不足を言うのも理窟があるが、向うにもやはり理窟があって、五分五分の理窟であるから、
何方が良いかということは、第三者でなければ判決が出来ぬという訳である。
ここに於て単に理論から言えば、世界の人類は同胞なり、世界の人類には
欧羅巴人、東洋人という区別はないのである。感情も、
友誼も、充分に成り立つ訳だ。同じ人間である。人間である以上は、成り立つに相違ない。個人としてはその通りいけるのであるが、一団体を成して、社会を成立している所に変った者が入って来ると、どうもいけない。日本人は文明の程度は高く、世界の強大国であるといっても、日本人はやはり東洋人という、一の法律の
下に、あるいは蒙古人という法律の中に加えられて、
如何ともする
能わぬ。かくの如き世界の情態で、
如何にも無慈悲な情態である。人類の統一でなく、人類を区別して、白人以外の人類は一段劣等の人類である、劣等の人類である、劣等の人類は優等の人類に支配されなくてはならぬ、優等の国は劣等の国を支配する権利があるという様な、一種の人種的の間違った思想というものは、聡明なる人、学者、宗教家の上には、段々去っているが、経済上の競争の上には、未だなかなか大なる威力を振いつつあるのである。ここに於て、平和の事業は甚だ困難である。ある意味から言えば、かくの如き間違っているものに対しては、最後の力に依るの外はないのである(拍手)。ここに於て強国間に武装が起れば、一段劣等なりと
卑しめられたるところの民族は、優等なりと傲慢なる態度を持っている者に反抗する、力を以て反抗する。こういうことになるのは、
已むを得ぬ人情である。
ご覧なさい。全体、人間はひどい目に遭っても、その権力のある者に向って、あるいは政府が一つ成立てば、その法律に向って柔順に服従する性質をもっているのである。
妄りに反抗するものではないのである。
然るに何故に反抗するかというと、忍び得るだけは忍んで、忍ぶべからざるに至って、初めて
窮鼠猫を噛むの勇を起して、反抗を始めるのである(拍手)。何故に
亜米利加合衆国は十八世紀の末に母国に背いたか。同じ同胞の国である。同じアングロサクソンである。それが何故に英国に背いたか。乱を好み、戦いを好み、血を見て満足するという野蛮的行為であるか。決してそうではない。母国が合衆国に向って加えたところの種々の税、種々の法律、これに不満である。そこで、不満を訴えるのである。訴えると、母国は殖民地が反抗すると誤解して、
愈々厳重な取締りをする。その時に当って、合衆国民はよほど忍んだのである。よほど忍んで、決して離るるの意はないのである。ここに於て、パァリアメントに嘆願をする。あまり惨酷であるからもう少し寛大にしてもらいたいと嘆願をしたのである。またキングに対してもどうか寛大にしてもらいたいと嘆願をしたのであるが、ここに於てはキングもパァリアメントも
聾で耳が聞えない。合衆国の困難を耳に入れてくれない。もはや
已むを得ぬというところに至って、反抗が起ったのである。その反抗する時に何と言ったか。諸君がデクレレーションを読めば
直ぐ分るが、ライト、権利である。侵すべからざる権利、この権利に依て母国に向って剣を抜いた。こういう理窟のものである。
これは日本には無いことであるが、世界には
沢山ある。ここに於て革命もまた権利である。君主があまり暴虐をやると、革命が起る。革命は初めは反乱であるが、反乱ではない権利である。支那に於てもその通り、革命は正義なりというて、三千年前に支那の聖人達は革命というものを是認したのである。
湯武の暴伐、支那の議論は大分手厳しい。民の意を失えば、これを君主と言わぬ。悪逆無道の人は君主でない。君主は民意を得なくてはならぬ。人心を失えば
匹夫である。匹夫
紂王を誅するを聞く、未だ君を
弑するを聞かずというものである。ちょうど
華盛頓が兵を挙げたのもこれと同様で、
謀叛ではない。人間には独立すべき自然の権利がある。一つのライトがある。独立の宣言書を見ると、韻を踏んで書いてある。よほど文章家である。イットイズライト、イットイズライトとあって、これを以て母国に向ったのである。人間というものは、ある度合までは、順良なるものである。ある度合までは忍ぶのである。忍ぶべからざるに至って、これが反抗する時には、あたかも噴火山の破裂するが如き、猛烈なる力を以て臨むのである。
そこでだ、全体、
欧羅巴人が東洋人を苦しめたという事が、東洋人の頭にはあるが、
欧羅巴人には、昔東洋人が
欧羅巴を荒らしたという頭がある。ある意味から言えば、御互いである。蒙古人などが行って、
欧羅巴をよほど荒らした。未だ
欧羅巴に騎兵のない時代で、蒙古の鉄騎を以て、ダニューブの平原などを
蹂躙した。あたかも疾風の枯葉を駆る如く、
欧羅巴を蹂躙した。
而して、その時は野蛮だから至る所
掠奪をやった。また騎兵だから、牧草のある所に行かねばならぬから、都会に永く陣営を張っていることが出来ぬ。そこで、都会に人がいると面倒だから、宝を
掠めてあとは火を放って焼く。よほどえらいことをやった。
成吉汗の子孫が随分えらい事をやって、
欧羅巴人をして戦慄させたのである。最後には
土耳其人などもやった。そこで、
欧羅巴人は、東洋人は非常に戦いを好み、
而して残忍無道なるものの如く思い、今までの歴史を見れば戦慄する如き恐怖心が起るのである。これがかつて
黄禍論となったのであるが、今度は白禍論だ(拍手)。
欧羅巴人が来て、東洋人をいじめるのを、不平を言うけれども、よく考えてみると、かつて東洋人が
欧羅巴人をいじめた、その報いである。しかしながら、それはいじめられて決算は着いたのである(拍手)。決算が着いたから、もはや争いを止めて
宜しかろうと思うが、なかなか止まぬのである。それ故、平和ということには、甚だ疑いがあるのである。今御話ししたような訳のものであれば、始終復讐ということが、起って来るのである。いわゆる圧力を加えれば反動が起る。アクションに対するリアクションは物理的の原則である。白人の圧力に対する黄色人の反動、黄色人の与えたるアクションに対する白人の反動。これを
何時までも繰返しておったならば、世界の人類は消滅してしまう、こういうことになって来る。これでは困るから、どうかこの争いを止めることを企てようという説が、この一世紀間に大分現われて来た。初めて現われた時は
欧羅巴だけであったのである。これはなかなか人間一世や二世の事業ではない。我輩が幾ら長生きをするというても、なかなか我輩の一世ではつきそうもないのである(拍手)。
そこで我輩の考えるのに、戦いの人類に惨毒を流すことは、ほとんど我輩の口を
藉って述ぶるの必要がないのである。しかしながら、一たび戦いに負けて亡国の民なんというものほど、
憫むべき者はない。我が国は三千年以来、亡国の民となったことはないから、先祖以来亡国の民ということは知らぬが、他の国には歴史がある。亡国民ほど憫むべきものはないのである。ここに於て、強い者は弱い者を憫み救うという、要するに文明の程度の高い者が、低い者を導くということになれば、初めて平和に近づくのである(拍手)。ところが、戦いに勝つと、直ぐ弱い者をいじめる。第一、日本人の了簡違いが一つあるのである。従来、
欧羅巴人を非常に怖がっておった。ところが、兵器を執って見ると、思ったほどえらくない。
露西亜に勝った。日本が強くて勝ったか、
露西亜が弱くて負けたか、
露西亜が日本を
侮り過ぎて負けたか、日本は死物狂いであるから勝ったか、それは
措いて、ともかく勝ってから、
俄に傲慢になって、
欧羅巴人と
与し易い。ここに於て、大国民と威張り出した。決して威張るのを無理とは言わぬ。我輩も威張ることは好きだ(笑声起る)。好きだから時々威張ってみるが、時々反省もする。威張るのも
宜いが、威張ると同時に、日本は長い間
欧羅巴の文明に触れて、
欧羅巴人に苦しめられて、よほど苦しかった。ところが、その苦しみを
免るると、直ちに
欧羅巴人が日本人を苦しめた筆鋒で、満韓に向って復讐をする。満韓に何の罪がある。これに向って、非常に圧迫を加えるというのは、どうもおかしい訳である。自分が苦しめられたならば、人も苦しいという思い
遣りがなければならぬ。これを名づけて同情という。その同情が全く無くなって、傲慢にも一等国になった、大国民であると、支那人、朝鮮人を軽蔑し出していじめるという仕方をやったのが、第一気にくわぬのである。
この平和協会の御方には、そんな人は無いに相違ない。弱い者を憫れむ、弱い者に向って同情を表する、という御方に相違ないが、勿論、微弱なる国民をいじめるというのは、悪意ではない。我輩が維新前後に於て、外交上臨んだのは、英国の全権公使、
仏蘭西の全権公使。その時分
仏蘭西は
拿破烈翁三世の時代の、なかなか東洋に威力を揮った時である。ほとんど英仏の同盟軍が北支那を占領して、東洋に於て威望
赫々たる両大国の代表者は、我々を非常にいじめたのである。それは
無論悪意ではない。日本人を早く文明に進めたいという、
悪戯子供を親が叱ると同様であって、悪意ではなかったのであるが、我々からは
如何にも悪意のように見えたのである。ここに於て、
攘夷論なども起る。これは偶然ではない。無理はないのである。我々はそういう苦しみを見ているから、支那、韓国に向っては、よほど同情の念が厚いのである。
ところが、そういう事を知らぬ先生方は、俄に日本はえらくなったというて、支那人は天然に弱いものかのようにいじめるというのは何事ぞ。日本人もその通りに
欧羅巴人にやられたから、自分もやるというのは甚だ気に入らぬ。全体、
亜米利加などという国は、
何処までも平和の国である。日本にも最も友誼をもっている国である。そういう国が、このたび満州問題に付いて提議をした。甚だ合衆国は宜しくない(拍手)。しかしながら、静かに考えてみると、決して合衆国の国務卿が日本をいじめる意思でもなんでもない。悪意でもなんでもない、善意である。なんだか合衆国が頭を出して、せっかく血を流して取ったものをただでも取らるるかの如く思うのは大間違い。ただ取らるるというのでも、なんでもない。他の国は措いて、日本人自らの平和的事業、全体の人が向う上に付いて、第一に考うべきところのものは、弱い者をいじめぬということであって、これが平和の一番始まりである。
それから第二に道義の力。道義の力は非常に偉大なるもので、ドレッドノート、十二
吋の大砲、百万の軍隊より、道義の力は強いのである(拍手)。道義の力を取除けては、平和は成り立たぬ。生存競争に於て、ことに国際的の競争の上に於て、個人主義が盛んになって互いに争う上に於ては、先刻御話しの通り、人間も動物で、動物は人間を主とするのであるが、動物的の欲望から生存競争の
巷に立つと、人も殺す。かつてそれを食ったこともある。人間は動物であるから、道徳生命を取除けると、直ちに食い合いをする。国際間もなおかくの如し。個人間の道義はよほど進んだが、国際間の道義はよほど幼稚である。
ここに於て、何とかして日本国民は弱い者をいじめぬで、支那というものを、真の友誼を以て文明に導かなければならぬ。支那の文明が興れば、その威力はよほど偉大なもので、日本と支那の力で、東洋の平和を保つには充分である。世界将来の平和を破るものは、東洋であるかも知れないと思うようであれば、即ち世界の上に偉大なるものである。そこで、平和の事業に最も必要なるものは、なるたけ支那を文明に導き、支那帝国そのものが完全に独立して国を守り、日本と同一に世界の平和事業に手を取って行くということになれば、ことに偉大なるものである。ここに於て、東西の文明、東西の力が平衡して来るのである。ところが、今日の如き、支那の情態では、
何時平和が破れるか知れぬのである。
如何に平和を欲するも、むずかしいと思うのである。
畢竟、
亜米利加などに多少の誤解の起るのは、皆支那からである。支那自らの力が足らぬから、日露戦争も起ったのである。全く支那には国を守るの力がないのであるから、世界の平和事業のためには、支那をして自ら国を守るに足るべき地位に達せしむるということが、今日の急務なりと信ずるのである。もしこれを為さむとすれば、
吾人が半世紀間苦しんだことを忘れずに、一等国になったとはいうものの、先進国に比較すれば、文明の程度も低い、富の上にも、道徳の上にも、ことに学術の上にも、よほど幼稚であるのであるから、今後吾人は大いに努力しなくてはならぬのである。それならば、吾人の困難して来たところを以て、文明の程度の低い国に向って、充分に同情を表するということが最も必要である。これが平和事業の初歩である。
国民の意思が、そういう工合に働いて来れば、日本は侵略的国民でない。戦いを好む国ではないという事が分って、世界の誤解も自ずから解けるのである。かくの如く誤解を解く上に於ても、日本国民が一段文明の程度の低い国に向って、いわゆる人道的の働きを為すということが、最も有効なることであって、これが即ち道義の力はドレッドノート以上であるというゆえんである。それで、欧米の人と、直接に会って心を
虚しうして言ってみれば、その誤解は釈然として解けるのである。また支那に向っては、
亜米利加合衆国、
独逸、英国、その他列国の種々なる競争が起っているのである。競争もある程度に於ては、避くべからざることである。平和の
下に競争をするのは
宜いが、それがために、
猜疑心、嫉妬心を導いて間違った方面に行くと、次第次第に平和に遠ざかるという、
怖るべき不幸を
醸すのである。
そこで、平和協会の事業が、そういう方面にまで進むことが出来るや否やという事は疑問である。なるべくこの会には、日本に在るところの欧米の人士を会員にすることが、最も必要であると同時に、日本を疑っている支那人を会員にする事が更に急務なりと信ずるのである(拍手)。願わくは、
印度人も宜しい。南洋諸島の
馬来人も宜しい。あらゆる人種、あらゆる国の地盤の数が増すに従って、この協会は大なるものとなるのである。ことに日本と支那には、
亜米利加合衆国の伝道師が沢山来ている。全世界から来ている伝道師の
半ば以上は
亜米利加合衆国から送られて、神の道を伝えている。神の道は平和であるから、かくの如き高尚なる事業に力を尽す御方をなるべく多数にこの会に網羅するということは、この会の事業を大いに進むる訳であって、
而して伝道師そのものの目的もまたこれに依って達せらるると信ずるのであります(拍手喝采)。