新島先生を憶う

二十回忌に際して

大隈重信




我輩の知れる二大教育家

 この春は京都同志社の創立者たりし故新島襄にいじまじょう君の二十回忌に当るのである。我輩は君と相知ること深かりしにはあらねどまた因縁浅しということを得ない。いわんや我輩もこの三十年間学校教育の事では苦労をしているのであるから、君の如き立派な人格と一定の主義を有する教育家が早世した事をおもい出すと実に残念でたまらぬ。
 明治年間に功労ありし教育家は少なくない。しかし我輩の最も推服しているのは福沢先生と新島先生の二人である。福沢氏は大なる常識を備えてもっぱら西洋の物質的智識の教育を施し独立自尊の倫理を説きつ実行した人、また新島氏は基督キリスト教主義の精神的教育を施した人で、り方は[#「遣り方は」は底本では「遺り方は」]よほど異っていたけれども、両者共に独立不羈どくりつふきにして天下の徳望を博したる点に於ては他にならぶ者がない。

我輩と新島氏との関係

 福沢氏とは昔からの知合しりあいですこぶる懇意であったが、新島氏とは久しく会う機会もなく、初めて会ったのは明治十五年であった。この時は我輩も既に政府を退いて、学問の独立を図るという目的から東京専門学校(早稲田大学前身)を設立した頃で、新島君の初めて宅へ来られたのはあたかもこの建築中の頃であった。
 この時はただ普通の会談で君は同志社の事を話され、我輩は学問独立の必要を説き、共に民間教育のために尽力しようという位の話であった。
 我輩が人と交際を結ぶのは、いつも何か事ある時にその事に関係してそれから知合いになった場合が多い。新島君ともやはりそうで十五年学校建築中に初めて会い、後間もなく建築が終った頃再び訪ねて来られたのでまた会ったが、爾来じらい別に交際を進めるという事もなく数年を過ぎ、明治二十一年に至って初めて我輩も君の事業に対して及ばずながら一臂いっぴの力を添える様な関係になった。

我が国最初の私立大学計画者

 君が同志社を京都に創立されたのはたしか明治八年頃と聞いているが、君は非常なる苦心を以て漸次ぜんじこれを発展せしめ、ついにこれを基礎として私立大学を設立するの計画を立てて、明治二十年頃よりその準備運動に着手せられた様である。
 元来同志社の創立は新島君の非常なる決心とその決心に対する米国人の同情とによりて出来上がったのであるから、学校の資金も大部分は米国人の自由寄付並びに米国伝道会社の寄付に依るものであった。これは同校の主義が基督キリスト教の徳育を施すというのであったからである。
 かく基督キリスト教を以て徳育の基礎とせられたのであるが、その教育の理想とせられたところはいわゆる「人はパンのみにてくるものにあらず」、真に生命あり、活気あり、真理を愛し、自由を愛し、徳義を重んじ、主義を重んじ、なおその上に日本国のために身命をなげうって働くところの真の愛国者を養成したいというのであったらしい。
 我が子はなるべく自分の乳で育てるのが至当である。いつまでも米国人の同情のみに依頼しているのは新島君のいさぎよしとするところでない。日本人自ら金を出して自国に必要なる人材を作らねばならぬという考えから基金募集に着せられたらしい。

井上侯と新島氏との関係

 明治二十年頃、今の井上〔馨〕侯が外務大臣をしていた時、侯は条約改正の必要上我が社会の各方面の改良を企て、いわゆる文明的事業に対しては極力尽力せられた。依って新島君はまず井上侯に向ってその目的と計画とを話されて尽力を請われたそうである。井上侯は君の精神に感動して大いに尽力するつもりでいたが、二十年の暮に突然内閣を退くこととなり、翌二十一年の春その代りとして我輩が外務大臣となった。
 ひとたび引受けたら中途で曖昧あいまいに終る事の出来ないのが井上侯の美なる性質である。その種々なる事務引続ひきつぎと共に新島君の依頼された件を我輩に紹介し、君が非凡の人物なる事、教育に対して熱烈なる精神を有する事、私立大学設立の計画を立てた事などをことごとく我輩に話して、かくの如き人物によりて企てられたるかくの如き事業は是非ぜひとも成功せしめたいから、共に尽力してくれという話であった。

新島氏のために名士を官邸に集む

 我輩は既に十五年以来数度会ってその人物も知っている。ことに教育は我輩生来の嗜好でもあり、且つ我輩も当時は既に数年間東京専門学校経営の経験があったので深く新島君に同情し、ぐにこれを承諾して大いに尽力しようという事を約した。
 依って井上侯と相談の上、我輩の官邸にともかく当時の実業界で最も有力なる人々を集める事になった。そのおもなる面々は渋沢栄一しぶさわえいいち君、故岩崎弥之助いわさきやのすけ君、益田孝ますだたかし君、原六郎はらろくろう君その他大倉喜八郎おおくらきはちろう田中平八たなかへいはちなどの諸君十数名も見えたが、井上侯も我輩と同様主人役として列席せられた。
 そこで我輩は新島君の計画を一同に紹介し、せんずるところ教育は個人の事業にも非ず、政府の事業にも非ず、国民共同の事業であるから資力のある人は率先してこれを援助せられんことを望む旨をべ、次いで新島君はこの事業を企つるに至った精神を話されたが、その熱誠と凛烈りんれつたる精神には一座感動せざるを得なかった。

新島氏の熱誠一座を感動せしむ

 列席の人々はこれに動かされて直ぐに応分の寄付を約した。井上侯も我輩までも寄付する事になった。すこぶる少数の人であったが、それで即座に三万円近くも集った。
 今日でこそ教育事業もよほど国民的となって国民は争って学校に寄付し、早稲田大学の如きは新設文科の資金百五十万円を全部寄付にらんという計画で既に三分の一以上も集っておるという様な時勢になったが、新島君の奔走された二十余年前の時勢では、民間の教育事業に金でも出そうという事はほとんどなかった。当時の一千円は今日の数千円に当る価値がある。それがとにかく即座に三万円近くも集ったというのは新島君の至誠が人を動かしたというより外はない。

当夜新島氏の容貌風神

 当夜の光景は今なお眼の前に見える様である。新島君は当時より既によほど健康を損じておられたものと見えて、顔色蒼白そうはく体躯たいく羸痩るいそうという風が見えた。屡々しばしばせきをしておられたのが今なお耳に残っている。
 しかしその脆弱な病躯びょうく中には鉄石の如き精神が存在していた。君は終始儼然げんぜんとして少しも姿勢を崩さず、何となく冒すべからざる風があった。主客が飲み且つ食う時に煙草タバコを盛んに吹かしたので、室内は煙で濛々もうもうかすむくらいになっていた。新島君は無論むろん酒を飲まず、煙草をまず、生理的からいってもこの煙は定めて難儀であろうと思うて、給仕に命じて窓を明けさした事を記憶している。

病床にて君の訃を聞く

 しかるに二十二年の秋には我輩は爆裂弾で足を取られて動けなくなり、新島君も病を得て活動意の如くならず、ついに明治二十三年の一月二十三日、大磯で歿するという残念な事になった。
 我輩は最初大手術を行ったがそれが癒えず、かえって化膿して来たので更に第二の手術を行い、なお病床に横たわっているうちに新島君の訃報に接したのである。久しく重傷に悩んだ後であるから神経は興奮している。君の死を聞いて誠に感慨にえなかった。
 日本にまだ一の私立大学なかりし時代に於て、君が同志社を基礎として君が私立大学設立の計画を立てられたのはまことに壮挙といわねばならぬ。我輩が応分の尽力を辞さなかったのも君の志を壮なりしとしたからである。
 君は大磯に病でほとんど半死の人となっておっても、君の精神はなかなか壮なものであったらしい。歿する二十日あまり前の明治二十三年の正月には病中ながら「尚抱壮図迎此春[#「尚抱壮図迎此春」は底本では「猶懐壮図迎此春」]」という詩を作ってその志をのべ、盛んに理想をえがいて死の既に迫れるを知らなかったそうだ。

我輩の敬服する新島氏の人格

 君は青年時代に於て完全なる武士的教育を受け、維新前国禁を犯してひそかに米国に航し、同地に於て基督キリスト教の感化を受けたのであるから、日本武士の精神と基督キリスト教の信仰とを併有する一種精神上の勇者であった。
 従って炎々たる愛国の忠誠、教育に対する奪うべからざる主義と、熱心火の如き精神と、死を以て事を成さんと欲する気象とがあった。これ我輩の最も君に敬服する点である。
 君が教育上に於ける感化もこの点に在ったかと思う。即ち福沢氏の如く広くはなかったが、濃厚であった様である。我が早稲田大学教授たる浮田うきた〔和民〕博士、安部磯雄あべいそお氏なども直接新島君の感化を受けた人々であるそうだが、いずれも人格の立派な学者である。これらは二氏の天分にもる事であろうが、新島君の感化もよほどあずかって力ある事と思う。
 君死するの時年わずかに四十八、せめて六十までも生きられたらその感化は更に偉大なものがあったであろう。

今日まで継続する我輩と同志社との関係

 明治二十一年新島君のなお在世中我輩は関西に遊んで京都に立寄り、同志社にも案内せられて家内と共に行ってみた。なかなか立派な建築で地所も広く生徒も随分多かった。
 新島君の死後同志社も一時紛紜ふんうんのためにすこぶる悲況に陥ったが明治二十九年我輩が再び外務大臣になった時にまた偶然にもその処置調停に関係する事となり、爾来じらいまた種々なる相談までも受け「社友」というものになって同志社女学校の世話までも頼まれるなど、関係は今に連続している。なんだか親類の様な気持がしている。二十一年以後毎度行って演説もした。京都へ行けば必ず演説をする事になっている。またしなければ同志社の方も承知しないという様子である。
 新島君逝きてよりここに二十年、一時微にして振わざりし同志社も昨今は一千余名の校友校員一致発奮の結果、普通学校、(高等)専門学校、神学校、女学校等に分れおいおい盛んになって生徒も増加し、再興の気運に向っている。果して然らば新島君の壮図の実現される日もいつかは来るであろう。我輩は国家のためことに右に述べた様な関係からかかる日の速やかに来らんことを切望する者である。





底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「大隈伯社會觀」文成社
   1910(明治43)年10月20日発行
初出:「實業之日本 第拾參卷第參號」實業之日本社
   1910(明治43)年2月1日発行
※表題は底本では、「二十回忌に際して 新島先生をおもう」となっています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本及び「新島襄全集5■日記・紀行編」同朋舎出版、1984(昭和59)年6月15日発行の表記にそって、あらためました。
※〔 〕内の補足・注記は、編者による加筆です。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2017年12月26日作成
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