我輩は運動が大好きである。好きなばかりでは無い。人間には必要欠くべからざるものであると信ずる。であるから、この
間遣って来た米国野球商売人の始球式には、我輩も大いに進んで球を
投って遣った次第である、
華盛頓の学生といい、リーチ・オール・アメリカンといい、その
技倆はとにかく、実に立派な体格を有しておった。それと並んでみると日本人は実に小さい。身体は小さくとも仕方は無いが、その弱々しい有様は
如何にも残念である。これを発達せしむるには
是非運動を盛んにせなければならぬ。我輩は真面目に百二十五歳生きるといっているが、その養生法としてはあらゆる欲情の節制もあろうが、運動をするという事はその中の重なる一つである。我輩は毎朝時を定めて庭内を散歩する。この散歩は他人にありては必ずしも運動では無いかも知れぬが、我輩には唯一の運動である。なにも運動だからといって、ベースボールやテニスを遣る必要は無い。その人の身体及び趣好に適した運動を遣れば好いのである。
我輩はもう既に
天保時代の老人である。老人であるが運動は大好きだ。老人が好きなくらいだから、現今の青年は
益々これを好むべきはずである。
然るに何事ぞ、現今の青年は実に意気地が無い。少し失敗すれば
直ぐに
浅間だ、
華厳だという。これは
畢竟身体が弱く、神経ばかり鋭敏になるからである。
見給え、維新以来我輩等の友人にて大事を成したものは、皆その当時乱暴者と称せらるる手合で、一室に閉じ
籠って学問ばかりしておった者は、実際何の役にも立たなかった。これはあるいは時代の異なったためでもあろうが、また一方身体に注意を払わなかったために、失敗をしたものと見て
差支えは無い。
現今優勝劣敗の明らかなる世に処して勝を占めんとするものは、まず第一に身体に充分の注意を払って事に臨まなければ、残念ながら事は失敗に
了る。しかし文部省などでは学校が運動を奨励するために、学生がそれにばかり熱中して学問を忘れると悪いとて、大変心配しているそうであるが、決してそんな心配は無用さ。運動を為し過ぎるよりは学問を為し過ぎる方がいけない。運動の
弊害よりは学問の中毒の方が恐ろしい。
如何に運動を
遣っても、これがために未だ死んだ者あるを聞かない。
然るに学問を
仕過ぎて神経を悪くしたり、脳病を起したりして死ぬ者が
沢山ある。これ即ち運動の弊害の少ない証拠で、学問の中毒の恐ろしい好証である。
青年の元気を充分に発揮せしむるには活動的のものに限る。運動はこの意味に於ても、青年間に最も歓迎せらるるところのものでなければならぬ。であるから、年々盛大となるこの運動は近来は青年では無く、紳士間にも持て
囃さるる様になった。これは実に喜ばしい事であって、運動ももう少し社会的にならなければならぬ。
運動の種類については、別にかれこれという必要は認めぬ。ベースボールでも、テニスでも、ボートでも、なんでも
差支えは無い。山に登るのも大賛成である。ルーズヴェルト大統領は、険山を登って冒険的旅行をすることが大好きである。我輩も山に登って、その雄大なる自然と接触することを好む。要するに運動はなんでも
宜いから、その精神趣意を間違わぬようにして、大いに
遣らなければならぬ。世の中に立って大事を為し得るものは、身体の強健なるものに限る。身体の強健を得るには、是非運動でなければならぬ。学校におるものが運動をしたために、学問の進歩にはあるいは多少の遅速を来たすかも知れぬが、それは単に一時の問題であって、最後の月桂冠は、身体の強健にして精力の優越なるものに帰する。これがいわゆる大器晩成である。