現今多数の青年の各自に志すところは十人十色、種々多様であろう。あるいは行政官を志望する者、あるいは外交官、あるいは判検事あるいは技術家、商業家、農業家、工業家、医師、芸術家、あるいは文学、あるいは教育、あるいは宗教、各自の性質と境遇とに
由りて千差万別であろう。
而してまたその志望するところに
遵って、各自になんらの
障碍なく着々と進み得らるるかというに、多くの人の進み行く道程を調べてみるに、また色々の境遇に由って色々に変っている。例えば中学を
出でて高等商業学校に入るつもりであったのが入学試験に落第したために、全く毛色の変った学校に入ってそれで進んで行く者もあり、あるいは外交官試験や高等文官試験などに落第したがために実業界に転ずるという如き例は
甚だ多い。かくの如く人の一生の行路は、多くはやむを得ざる境遇に由りて種々に変って行くものであれば、これを理論的にその成業の道程、成業の方法を規定することは出来ないのである。
然るにもしこれを通則的に概言するならば、青年の成業の第一要件はまず的確なる目的を定むることである。もし真に的確なる目的を定むることが出来たならば、もはやその人はその事業の過半は成し得たも同じだといわれているが、実にその人の特性、人物に的確なる目的を定むることは決して容易の事ではない。
然らば
如何にしてその目的は定むべきやといえば、まず自己の境遇と
嗜好と、特性即ち技能とを十分に計らねばならぬ。これが十分に判然した後に於ては自己の向うべき進路はほぼ定むることが出来る。かくして目的が定まった後に於ては、いうまでもなく出来得るだけ忠実に、熱心にその目的に向って努力するのである。近来青年の
通弊ともいうべきは、自己の境遇と嗜好と特性とを十分に計らず、
徒に理想のみ高尚となり、ただ一時的栄華を
羨み社会の生存競争
場裡に進み入る結果は、
忽ち失敗に終るの例は甚だ
尠なくない。
甚だしきはこれに留まらず、一度失敗したがために元気
沮喪し、ついに再び起つの勇気をなくするに至る者もある。これらは
本よりその人の
薄志弱行に基づくとはいえ、
畢竟自己を自覚していなかった故である。
故に現代青年の最も確実なる成業の方法は、自己の的確なる目的に向って急がず、焦らず着々と一歩一歩に努力して進み行くことである。
而して進み行く方法、即ち目的に達する手段として取るべき仕事は、車を引くも
宜し、牛乳配達も宜し、普通に
卑賤と称している労働、その種類が何であるとも少しも遠慮するの必要はない。ただ自己の運命に安んじて力の限り努力せよ。
而してその間に精力と財とを蓄積して一歩一歩に目的に近寄ることを励むべきである。この意味に於て労働は神聖である。この労働が出来得る男ならば各自にその目的に達し得べきことを疑わぬ。天下を平定して朝鮮までをも斬り
靡かした太閤ですら、その初めは
草履取りより昇ったではないか。天授の英才を抱いて欧州を
蹂躙せし
那破翁も、その初めは一士官ではなかったか。もし彼等の最初の希望を叩いたならば、あるいはただ一国の大名になりたいとか、一連隊長まで昇りたいというに過ぎなかったであろう。それが一歩一歩に進むに従ってその希望は段々と大きくなり、ついに彼ほどの大成業に到達したものである。人は何人も向上的精神に依りて生活している者であれば、
隴を得て
蜀を望むということがすべての成業者の成業の道程である。もし初めより大を望む者あらば、
畢竟するにその人は大を成し得ざることを告白しているのである。
愚なる歴史家がおって、史上の人物を偉くせんがために「生れながらにして大志あり」などと書いている。あるいは「
祥瑞」などの事柄を並べて生れぬ前より豪傑であったという意味を顕わしている。これらは人を
強い世を
過るの甚だしきものと
謂わねばならぬ。
余輩はここに繰返していう。各自己の職分に安んじて力の限り努力せよ。
賤しといわるる労働をも
厭わざるの精神と元気とがなくば、
到底その人は自己の目的に進み行く資格はない。
且つまた人生の運命は決して単純なものではない。
如何なる材器のある人も、時に於てか不遇のために失敗に出会うことは
免れぬ。
斯様な場合に於て、もし努力的元気のなき者は
忽ちにして失望し、
意気銷沈して再び起つことが出来ないであろう。故に境遇によりては如何なる仕事をも甘んじてなるだけの気力何人にも最も必要であると
謂わねばならぬ。