一切の文明が、すべて調和である。政治、法律、科学、経済、哲学、宗教、文学、芸術、すべてが調和を図るところに進歩の光明が有り、調和を図らざるところに衰亡の陰影が伴う。万般の事、謙虚自ら
処り、勉めて他の長を取り自己の短を補えば、
其処に高き文明と低き文明との調和が成り、それが日常の実生活の上に現れて、富裕を致し、国運も隆昌になる。即ち、調和には謙虚が必要であるので、もし
然らずして、
倨傲自ら処り、唯我独尊、他を視る事
卑く、従って自己の短を補うに他の長を以てするの工夫を怠らんか、ただに限り無く実生活を向上する
能わざるのみならず、異なる文明と文明との間には調和を得ずして衝突が起り、ついに戦禍を招いてその国はあるいは衰えあるいは亡ぶるに至るのである。
今度の
欧羅巴戦争が大なる教訓である。独り独人が倨傲なりとは言わぬ。英人もまた倨傲である。いわば、倨傲と倨傲との衝突である。独人は、
僭越にも
日耳曼文明が他に卓越しており、従って、これを所有する独人は一種の超人であると自負して、汎
日耳曼主義を唱うれば、英人もまた英国文明が他に卓越して自己の民族が偉大であると自信し、あえて大英国主義を奉じている。この自負心と自負心とが衝突して、両々
相下らざるの結果、ついに今日の如き、漠々三
閲年、なお結んで解けざるの戦雲を捲き起したでないか。
否、独り独と英とのみではない。
露西亜人はスラヴ民族を以て優秀なりと認むれば、
仏蘭西人は
拉典民族を以て優秀なりと認める。
而して、皆相持して下らぬ。即ち、
其処に
禍機が潜伏するのである。否、独り英、独、露、仏のみとは言わぬ。
茫々たる三千年の歴史が、一々これを実証している。一時、
猶太王国に全盛を誇りしイスラエル文明は
如何になったか。一時、
羅馬帝国に全盛を誇りしラテン文明は
如何であったか。皆自ら高しとして、他を学ぶを知らざるの結果は極めて保守的に傾き、従って時勢の進歩に後れて、ことごとく衰亡し去るの
已む無きに至ったではないか。
吾人は、幸いにかかる
固陋なる迷路を走ることを為さず、東西文明の調和に勉めて来た結果、
能く覆没の難より
免れて今日の地位にまで国運を導いたのである。そして、その
基を為すものは、実に先帝のご聡明と大御英断に
因るのである。しかしながら、百里を行く者は九十里を以て
半ばとなすとの戒めもある如く、吾人の前程はなお遼遠で、精神、物質、いずれの方面を見ても、その文明は未だ大いに誇るに足るものあるなく、その素質を論ずれば、将来、大いにその泰西文明と
角逐してその右に出ずるを得べき力を有するとは確信しているけれども、今日のままでは、未だ雁行だもするを得ぬ状態にいる。いわば、百里の道の十里か二十里くらいのものである。九十里を半ばとするというに、十里二十里にしても、早くも
懈怠の念を起しては
如何になるか。吾人は、前程のあくまで遼遠なるを思うて、自ら発奮し、自ら策励せなければならぬ。
近来は、英、仏人等が真剣になって日本を研究せんと欲し、色々の雑誌を発行しているが、更にまたニューイーストなる週刊雑誌の発行を計画しつつあるということである。これは
甚だ喜ばしき傾向と思う。従来、欧州人は日本を誤解し、あるいはその勃興を喜ばぬという傾きもあったのだが、
畢竟、相互の理解が欠けていたからである。もとより山河遠く隔り、人種を異にし風俗を異にし、
而して相交わるの日浅きがために、理解し合うの
難きは当然であるけれども、それならば、なおさら、吾人は互いに相接近して相研究し、
而して互いに相調和するを勉むるが当然である。欧州人と日本人と、果して
如何なる
度にまで、思想、感情の相違があるか。政治的能力、道徳的能力の上に相違があるか。その他、万般に
亙って
能く研究したならば、彼等は必ずや翻然として、従来抱持せる幾多の誤謬を発見し、これを除去すると同時に、調和の可能にして、なんらの危険無きを自覚するに相違ない。
もし調和にして不可能ならんか、その結果はまたまた一大戦争である。このたびの戦争が、吾人人類に
普く一大教訓を
齎すべきであるが、しかし我輩の考うる一大教訓とは全く
背馳して、このたびの戦争に基づき将来を予想して、再び一大戦争の起ると見るものもある。即ち、
沢柳政太郎博士によって紹介されたるある無名氏の著「次の世界戦」がそれである。多分、独人の成ったものと思うが、それには、将来日本が大いに勃興し、汎蒙古主義を奉じて、同一宗教の
下に一大帝国を建設し、支那を包括するのみか、その手は
印度に伸び、南洋に伸び、英、米の勢力をも駆逐する。
而して、ついに欧州の強国
独逸と一大衝突を招来して、
其処に従来類例無き凄壮なる争覇戦が起り、その極、敗れて地獄に投ずるものは独人か日人かというが如き意見を述べているが、これは誤れるの甚しきもので、かくの如きは、ただ日本を解釈しおらざるばかりでない。自己の心を標準として他人の心を
忖度するためであって、
畢竟、自己がかの誤れるトライチュケ一派の戦争哲学に捉われているからである。戦争は人生に必至のものなり、
而して人類の進歩は戦争によりて促進せらるるものなりというが如き、誤れる思想に捉われているからである。
彼等の考えによると、戦争は怨みを植え
仇を構える。そこで、各国共に今後は一層武を練り、軍艦製造所を設くれば兵器製造所をも増す。そして、国民は軍事教育を施し、軍隊精神の養成に勉め、その極、
何時かはまた衝突するの機会を生じて、暗澹たる戦雲が再び天地を
掩うに至ると見るのである。思想の浅薄なる者は、常にかくの如き事をいう。独り、独人のみでは無い。米人の如きですらも、また同様である。米人は平和主義の国民であるというが、その平和論からが
頗る不徹底である。米人にして既に
然らば、その他は推して知るべしであろう。由来、経済戦争というが、経済は言うまでも無く吾人の欲望に
根蔕し、その無限の欲望の衝突が、ついに流血を見る戦争となるのではないか。されば、その根本的精神の
如何によりて、経済戦争というその語の中には、既に
干戈相見ゆる戦争なるものの意義が潜在しているのである。
然らば、その根本的精神が真に文明の調和に在るか、思想、感情の調和に在るか、はたまた人類共通の幸福平和に在るか。これ吾人の聴かん事を欲するところで、それならば天下は泰平で、吾人はこの世の生活を楽しむ事が出来るが、
然らずんばこの世は生き
甲斐なき永久の修羅場であって、ついには人類の滅絶が来るであろう。何となれば、戦争の結果、一方でその目的を達し得れば宜しい様であるけれども、それが更に仇を結ぶの
媒を為し、更に将来の大戦の種子を蒔くものであるとして、その次の大戦争がまたかくの如く更に新たなる仇を結んで、またその次の大々戦争の種子を蒔くものとすれば、人類はある周期を画して不断に相屠殺し合う事となる。かくの如くんば、
如何にしてその繁栄を望む事が出来よう。これ相率いて絶滅の谷に急ぐものに非ずして何ぞ。彼等の抱く如き思想は、もはや眼前の一大惨禍を
喫着して、実は甚だ行詰っているのである。
隧道の前には山勢
蹙まりて
窮谷をなし、前に進むべき一条の路だに存せぬ。目下の状態はまさにかくの如くである。これから先に、果して隧道を開いて前方に進む事が出来るか
如何か。もし隧道を開いて前方に進み得たならば、また広闊なる平野が眼前に展開されるであろう。
世界の各国民が、等しく
迷謬に陥りつつあるとはいえ、
独逸国民ほどに最も露骨に、
且つ大胆に汎
日耳曼主義を提唱し、政治、経済、哲学、科学の一切を軍国主義の
下に統一して、その世界的野心を遂ぐるに
汲々たる者は無い。
而して、これを率いるものは、
彼の倨傲自ら
処るカイゼル、ウィルヘルム二世である。欧州大戦は
如何様に終結すべきか。その結果に依って彼の運命もまた決せらるべきであるが、彼は果して
大拿翁〔ナポレオン一世〕の如く、
敗衄のあまり、敵国に
生擒され、空しく
遠謫の最後を見るか、あるいは
然らずして、かかる不幸より
免るるを得るか。
縦しやこれを免れ得るとするも、国内に
瀰漫する社会民主的思想の高潮は
如何なる結果を生ずるか、あるいはその勢力に依って国外に放逐さるること無きか。生擒か放逐か、彼の運命は二者その一におるやも知るべからずである。倨傲、
畢竟事を誤る。倨傲にして遂に世界の
嫉視を受け、
如何に絶世の勇を奮っても多数の拳固のために袋叩きにされてしまったとすれば、ここに目覚めたる
独逸国民は、必ずや、かくの如く国運を危険に導きしカイゼルを奉じて、将来なおも同一軌道を走る事は出来ぬであろうと思う。米国の哲学博士モルトン・プリンス氏の著に成る「カイゼルの心理解剖」の中には、ちょうど、カイゼルに当て
篏るとて、マクドーガル教授の著書「社会心理学」中に在る仮設的の一貴公子の例を引いて下の如く紹介しているが、甚だ面白い。
天賦の大なる才力を有し、而して自己衒揚と積極的自己感情の情緒とを、多分に有する権力ありて馬鹿なる一貴公子を想像しみよ。而して、この貴公子が、かつて誰よりも抑制されず、矯正されず、また批評もされず、他の人間をことごとく意のままに支配する様な境遇に在ると想像しみよ。この様な貴公子の自己本位的情操は、必然、傍からは手の付かぬ高慢の形になって現れるであろう。即ち、絶えず、彼の身辺の者の柔順、感謝、称讃という様な態度に依って甘やかされたる高慢の形になって現れるであろう。この高慢の情操の中に組織さるべき唯一の性向は、積極的自己感情、即ち驕慢心、及び忿怒(彼に対して、ある者が、服従もしくは柔順の態度を誤って粧わなかった時に、彼の忿怒は必ず惹起されるから)というが如きものであろう。
彼の自己意識は、強く且つ優れたものかも知れぬけれども、その内容は何時までも貧弱であろう。何となれば、ほとんど自覚の進歩を謀る事が出来ぬからである。彼は自分に対する他人の批評を聞く機会も、またそれに興味を持つ様になる機会も、共にほとんど無いであろう。そして、彼自ら自己の品性や行為に対して反省する事も滅多に無いであろう。生れながらにしてかくの如き境遇におり、かくの如く養育された人間を道徳化し得る唯一の力は、彼がその前に召されて説明せなければならぬところの、彼自身よりも一層大なる権力者、即ち神なるもののあるという感じを起させる宗教の教えか、さも無ければ、優しい感情と愛他的衝動を天性の上に甚だ強く持っているもの、もしくは以上の二つの力を共に併有したものであるかも知れぬ。自己本位的情操がこの様な形を取っている人間は、自ら抑損するという事は到底出来ぬ。彼の傲慢は、ただ内心に苦痛を感ぜしむるだけで、我を折る事が出来ぬ。即ち、彼自身の弱点を暴露するか、もしくは彼よりも他人の優っている事でも挙証する事が、彼の積極性の自我的感情に痛く感ぜしめ、ついには忿怒するに至らしむるが、さればとて、羞恥とか屈従とか、もしくは消極的自己感情の働きの加わりおる感嘆とか感謝、あるいは尊敬というが如き、愛情ある状態を示す事は出来ぬであろう。消極的自己感情は、吾人に対する他人の態度に注意せしめ、その人々の意見に耳を傾けしむるものであって、これが世の褒貶の吾人に対して力を有する根本条件の一つである。
と。
勿論、これは仮設的の一貴公子の話で、直ちにカイゼルその人をいったものではないけれども、プリンス博士がこれはカイゼルに
当篏っているというが如く、我輩もまたカイゼルのかくの如き人物なるべきを想っている。このカイゼルによって舵を取られた
独逸の国策であるから、その道を誤ってついに今日の如き窮境に立ち至った事も
已むを得ぬのであるが、しかし、彼等国民は今度の大戦に依て必ずや一大教訓を得たるべく、これよりその国策を改めなければならぬ事と信ずる。我輩は永久の平和を以て理想とするが故に、かくの如き傲慢不遜、他を卑しくする独逸の心的態度を
厭う。我が日本民族は平和を愛し、人道を尊ぶ国民である。それ故に、決して自ら好んで他国を侵略し、いわゆる汎蒙古主義の
下に一大帝国を建設せんと欲するが如きものでない。独人と想わるる無名の著者は、
畢竟、自己の心を以て他を忖度したのである。しかしながら、邦人自ら知らずして他よりかくの如く
猜視され、かくの如き色眼鏡を以て注目されおる事は、吾人にとりて甚だ危険である。これ吾人の大いに戒心を要する点であると信ずる。これを要するに、国民は、我が日本が今や列強環視の中心に在るということを忘れてはならぬのである。