諸君、本日は大日本文明協会のために諸君に一言するの機会を得たのを喜ぶ。我輩は実にほとんど五十年、即ち半世紀間、帝国文明のために全力を委ねておるものである。現在に於ても、また将来に於てもそのために
畢生の力を尽して自己の生命の有らん限り、この運動を続けようと思う。我輩が大日本文明協会会長としてその名を表しているゆえんは全くこの我輩の志を表しているのである(拍手喝采)。
文明といえば
頗る漠然たるようである。来月には御大典が行わせられるのである。即位の大典は二つの意味を持っている。一つは国の歴史、皇宗皇祖、即ち天壌無窮の神勅に依って万世一系の帝位をここに
御践みになる所の儀式である。これは古い国体――国の歴史に導かれておる。
而して
高御座に座して
四海に君臨遊ばすことは将来の国の盛事である。
明治大帝の明治元年御即位の時は
如何なる時代であったかということを諸君は記憶する必要がある。諸君は皆なんだか若い人が多い。多分その後に生れた人であろう。しかしながら歴史的に国民として
脳裡に一日も忘れることの出来ぬところの帝国の文明的運動の始まりは、明治大帝御即位に
端を発している。即ちその当時日本の帝室を中心として国民の思想に大なる運動が起ったのであるが、これに二つの精神が現れておった。その時の言葉に王政復古というのがある。今一つは王政維新という。矛盾したように見られるが、決してそうではない。一つは後戻りして
古に復するという、一つは将来に向って帝国は旧国なりといえども世界的に活動して新たな運命を開こうという。旧邦といえどもその
命維れ
新たなり。古い国もここに大改革をして将来に新しい運命を開き、人心を新たにし、国民の思想を新たにし、国民の働きを新たにする。かく社会上からすべての人心の上に新しい空気を与えるのは、これ即ち文明的運動である。新しい思想を起さんとすれば、古い
過てるものを除かなければならぬ。これ王政復古である。復古という意味は
頗る雄大なる意味を持っているのである。日本はかつて支那、
印度の文明を採用して日本の文化がある程度まで非常に進んだ。ところがこれに
弊が起った。そこで王政復古は
神武の昔に復せしめるという大命令である。維新の国家事業が神武天皇の雄大なる帝国の
基を御開きになったその時代に復するというその時に当っては、なんら他の支那、
印度その他の文明も何も眼中にない。日本帝国の根本の思想が
其処に存在している。何でも世界の善を入れるという大なる希望がただあったのみである。神武の
古に復して、
而して人心を新にし全く新しい政治を行い、即ち精神上にも物質上にも旧物をことごとく捨てて、新たに国政を行おうとせられた。これ即ち明治大帝の大なるゆえんで、東洋諸国から日本が全く軽蔑されず、独立して
勃然と帝国の新運命を開くに至ったゆえんである。
大政維新……大政維新とはあらゆる旧物に束縛されることなく、神武天皇がこの国を御開きになった如く、雄大なる希望を以て世界万物のあらゆる善を取るというので、こういうのが王政復古と王政維新と結付いて今日に至った。その
国是を概括して、世に開国進取の国是という。開国進取の国是を行うために我が国がこの運動を為すのを、即ち文明的運動というのである。我輩一度考えが
其処に及ぶと若返って
老を知らぬ(拍手喝采)。運動そのものは競争である。文明の競争ということの意味は明らかに維新の大命令に在る。万国と対立するという……世界の最高の文明、強大なる国と対立しようという……対立するといえば文明を等しくするというのである。物
平を得ざれば鳴る。文明の程度が違うから世界の乱も起るので、文明の程度が等しければ、力が
相対するから争いが起るものでない。日本が最近五十年間の努力は最高の文明と競争し、世界最大の民族と競争し、最大智者と競争しようというのであった。
ところがこの運動は最も適当な運動であるが、その運動の方法が必要である。どうすれば
宜いか。どうしても学ばなければならぬ。これまた維新の命令に知識を万国に求めろという
御誓文の一箇条にある。世界から知識を持って来るのである。これまでは支那、
印度の知識以外に日本人の脳裡になんら知識がない。ここに万国に知識を求めろという――一度知識を求めると物の善悪邪正順逆は明らかになるのである。また旧来の
陋習を除いて天地の公道に基づけとある。真理に照らして有害なものをことごとく棄てろというのである。そうすると平たくいえば学べということで、どうしても盛んに学ぶことが必要である。ところが
今日教育は盛んである。国民学を好むことはなかなか盛んである。国民力を盛んに教育に委ねているが、それだけでは足らない。ある意味からいえば日本は学ぶ時代である。学ぶには日本と
欧羅巴と言葉が違うから、
欧羅巴の言葉を学ばなければならぬ。ところが多数の国民が皆外国の語を学ぶことは出来ないのである。ここに文明協会が現代の新しい知識を、必要なる書籍を選択して翻訳するという必要が起ったのである(拍手喝采)。なるべく知識を全国に広げるというのが文明的運動の基礎を組立てるに必要で、何としても学ばなければならぬ。知識的競争、即ち学術的競争である。
今日独逸が世界の強大なる国を敵としてなお一年有余戦っているところの力は、
独逸文化の力、学問の力である。
独逸人が腕力の強い訳ではない。
独逸人の
強は少しも
露西亜人の強に優れたものはない。「アングロ・サクソン」に優れたものはない。
羅甸を代表する
仏蘭西人は、
身体は小さいか知らぬが機敏で力が強い。ところが
独逸文化の力はすべての方面に入り満ちているのである。これが
四方に敵を受けて
今日なお防禦より攻勢を取っているゆえんである。露国に向っても
仏蘭西に向っても、この節は
巴爾幹に向っても四方に攻勢を取っているゆえんである。自己の領土にまだ一歩も敵を入れぬ。この力は何から起ったかといえば文明の力である。平易に説明すれば、学術の力である。
ここに於て、世界の最も優秀なる知識を表したところの種々の必要なる本を選択して、これを国民の多数に
別とうというのは、実に時勢に適切な文明的運動の一つであるのである。著名なる学者方が選択して、これを続々刊行してなるべく広く知識を全国に別つ――これは
迂遠なことのようであるが、これ一番近道である。無性な人は魚を気楽に取ろうとするから、魚が機敏に
遁げる。淵に臨んで魚を
羨むよりは網を作るに
如かず。
これは次第に文明的競争に向って進む近い例がある。今日は米国とはほとんど兄弟の国のような非常な友国となっている。ところが誤てる
独逸の政略のために露国は過って、十年前に日本と戦争を開いた。その時に
欧羅巴は何と言ったか。ことに
独逸は何といったかと言えば、白人を代表して東洋人の勃興を征伐すると言った。白人を代表して東洋人の
俄に勃興したのを征伐することを夢想して、かつて独帝が悪魔が東洋から現れて来たから、君主、大統領、女皇、剣を
提げて悪魔征伐に臨む画を書いた。これが
黄禍論の起った根本である。東洋の悪魔征伐の名の
下に正直なる露帝を、独帝の悪魔が誘惑して東洋に送らした。その時に白人を代表して日本を征伐すると言った。そこで日本人は敵に取って不足はない、
何時でも御相手になろうという。好んで敵にはしないが、
御出でなさるなら決して大敵を見て退くような臆病な者でない。
ところが
如何に威張っても、
正宗の剣も、
鎮西八郎、
本間孫四郎の様な
遠矢も大砲の前にはつまらぬ。親船で軍艦には向えぬ。我々は文明的学問を修めて、
欧羅巴の海軍陸軍をはじめ、大砲、小銃、無煙火薬等一切を学んだ。電信その他のすべてのものを学んだ。医術も学んだ。金はないが、金は
欧羅巴から借りて来る。兵器、弾薬、軍艦、ことごとく
欧羅巴から持って来て、
欧羅巴を代表して来る敵をことごとく
欧羅巴の物を以て征伐した。これは明らかな事実で、これを威張っておって正宗の剣や弓や甲冑でおれば、支那、
印度と同じ運命に
出遭う。これが
孫子のいわゆる
糧は敵に依る、敵の兵器を以て敵を打つというのである。これほど
旨い兵法はない(拍手笑声起る)。金は外債、兵器弾薬皆外国から持って来る。
亜米利加なり方々から密輸入をして、
欧羅巴を代表して悪魔征伐に来たものを反対に征伐した。こういうので文明的運動の妙用は
此処に在る(拍手喝采)。
その時に
露西亜は盛んな宗教国であるから、御寺では神に祈祷をし、軍隊の前には十字架を以て
和尚達が臨んで祈祷した。彼等軍隊の上には神が宿っている、悪魔には
容易く勝つ、帰ったら勲章を貰う、褒美を貰う、
神の
下に銃砲の弾丸は
中らぬと思っていた。しかし神は間違った思想に保護を与えぬ。
却って日本の銃砲が
能く
中る。向うの銃砲の弾丸は少しも
中らぬ。そこであの時は一度誤ったが、どうしてなかなかまだ今度の
独逸の如き力とはよほど違っていた。露国も
独逸に
欺かれたため、真に露国人に愛国心が起って日本を敵としなくなった。戦い半ばに於て
過てるということを悟ったのである。
ところが今度の戦争は民族的の戦争で急に恨みが
解けぬ。この戦いは長く続くのである。
而して独露だけではない。
日耳曼スラブニックの戦いばかりでない。
日耳曼とアングロサクソン、
羅甸を代表する
仏蘭西、あるいは東洋の一部及び
土耳其人も参加している。まだ範囲は広まるかも知れぬ。
印度からマホメットにも飛火しそうになった。大規模の世界の大戦争――
亜米利加がこの範囲から
免れているが、知らず、他日
如何になり行くか。
亜米利加の軍備大拡張を見ると、あるいはこの戦争の渦中に投ぜぬともいえない。
ここに於てこの文明的運動の
愈々大なるを知るのである。日本の文明的運動がもう一歩力を増せば戦争を
止めることも出来る。速やかに勝敗を決することも出来るのである。何としても学ばねばならぬ。赤ん坊でも二十五年経つと役に立つ。相当に学問した者が一巻の書を読んで得るところのものは非常な力がある。一ヵ月や二ヵ月勉強すると――それも毎日朝から晩まで勉強せぬでも、読書の趣味のある者は一時間か二時間読めば、一冊の本は一週間か二週間で読める。一ヵ月に二冊ぐらいは何でもない。この知識を消化して利用すれば、
如何なることも出来る。人間の為すべきことは何でも出来る。人の為すことは何でも出来ぬことはない。人智の力は宇宙を制する力を持っている。この力の競争である。それには学ぶことが必要である。学校を出ると、本をあまり読まぬという人があるかも知らぬ。
此処に来ている文明的運動の講演を聴きに来る諸君は全く別物であるが……学ばんければいかぬ。学ぶと何でも出来る。赤ん坊を連れて来ると、
如何なる大金持も智恵のある人も大学者も貧乏人も同じである。これに教育を与えて、更に二十五年になると皆同一に進む。人類の平等はここに起る。ここに平和も来るのである。
大にしては文明的運動は世界平和――更に不健全な社会を平等に進めることも、この運動から来るのである。病的思想の社会論などは
愚痴なので、憲法論者の憲法を論ずるにも多くは全然根本を誤っている。文明の意義を理解しておらぬ。我が日本の憲法は
如何に運用するか。君民力を合せてこの帝国をして文明的に世界の強大なる国と競争し、強大なる国と対等の地位に立ち、東洋の平和、
否、世界の平和を保たねばならぬ。かくの如き大なる責任、大なる天職を以て、ここに大正の天皇は来月
高御座に座して
四海に君臨遊ばす。こういう大典が前に在るではないか。我々臣民は明治維新の大精神を発揮し、世界的に大活動をしようという、この重大な気象を持たねばならぬ。
欧羅巴の文明も一朝一夕に来たものでない。全体に到るまでには幾多の辛苦艱難を為している。その長い努力をしたのを一冊の本で
直ぐ理解しようというのである。文明的運動は
頗る経済的、頗る速成的にやるのである。
我輩はもう既に五十年続けている。どうか早く新兵が来て
更代してくれんと困る。
如何に百二十五歳を主張しても、百二十五歳まで我輩を働かすのは老人虐待である。個人の発達も安逸にして得られるものでない。努力しなければならぬ。戦争は更代せんといかぬ。段々諸君が更代してくれんと困る。もう我輩は五十年間文明運動を続けている。
然るに世に俗弊は多い。敵は多勢、切に援兵を求める。といえば、我輩
甚だ弱音を吐くようであるが、そうではない。気運が来っている。国民自覚の時は来れり。大勢は個人の惰眠に大なる鞭を打っている。ここに於て文明的運動
愈々急なりと思う。新聞や雑誌での
一知半解はいかぬ。何でも書物を大切に学び、
徒に多く論ずるよりも、少なくして正しく論ずれば
宜い。一日に一時間か二時間を費やせば十分の知識を得られる。今は知識競争の時代である。
如何に
武蔵坊弁慶、
加藤清正のような豪傑でも、智慧がなければ子供にやられる。智慧を仕入れるのが必要である。実に経済的に
僅かの時間で、数世紀掛って苦しんで
今日の文明を
拵えたものを知ることが出来るのは、日本は後から興ったために仕合せである。仕合せなためにややもすればずるけて安逸に流れる。これではならぬ。何でも努力しなければならぬ。学んだら更に発見する。必ず我輩は疑いなく往けると思う。もはや世界の最大なる文明強国を敵としている。泥棒を
捕えて縄を
綯うようだが、なかなか油断してはいかぬ。敵国外患なきものは国常に滅ぶ。敵国が来るから、これから国民が努力して一生懸命奮発する。その意味に於て大日本文明協会の事業は決して全部とは言わぬが、文明的運動に疑いなく利益を与えるところの
一なりと我輩は断言して
憚らぬのである。
我輩のは概括した議論であるが、眼前行わせられる御大典を思い起し、それと同時に
神武の事業を思い起す。これが王政を神武の
古に復する明治維新の精神である。日本は三千年の古い帝国なりといえども、明治の気運は全く新たなり。ただ
命維れ
新たなり。世界的に活動を要する。欧州の大戦も早晩平和は来る。その時には平和会議に日本も、英国、
仏蘭西、
露西亜、
独逸、即ち交戦国相互の間に同一の地位を保って参列する権利を有することとなっている。疑いなくこのたびの戦争に依って日本が世界的強国となったことは、この一事を以て証拠立てることが出来る。これで永久の平和が来るかといえばそうでない。
喬木烈風多し。日本は段々
大木となった。小さい
中は
宜かったが、大きくなったら大きな風が吹く。この風に抗抵する力を養わなければならぬ。この力を培養するのが文明的運動である。今日は世界的に文明運動を営む必要を感ずること最も切なりと思うのである。どうか諸君も共に、この文明的運動の
新手となって我々の働きに
一臂の力を添えられんことを我輩は希望して
已まぬ(拍手大喝采)。