始業式訓示

大隈重信




〔すべて時代に従って発達する〕

 学生諸君、もはや諸君に向って学校内部に於ける細かな訓示を致す必要はないと思うのである。ただ英発の気を以て満たされたところの諸君に向って時代の精神を述べることは決して無用に非ずと思うのである。早稲田大学がかつて東京専門学校ととなえた以来ここに三十有七年、初めこの学校を起したところの学問の独立という主義は今日に至るも少しも変化はない。しかしながら学問は時代に従って漸次ぜんじに発達する性質をもっている。学問のみならず人世社会の事すべて時代に従って進化する。時代に順応して発達する。学生もまた大いに発達したようである。諸君の顔色を見ると顔の色がすこぶよろしいようである。初めは顔色蒼白な学生が多かったがこのたびはそういう学生は少ない。見渡す限り血気盛んなる顔色を表している。同時に体力も幾らか発達したようである。これは最も喜ばしいことである。
 ここに学問が発達して専門学校が大学となり、時代要求の結果は相当の程度に達したところの大学には公私を区別せずしてひとしく大学の待遇を与えるということになったのである。我が早稲田大学も早晩……早晩というよりは当年中に全然大学令に依って大学となるに相違ないと信ずるのである。これは形であるが、しかし形もまた軽蔑することを得ない。形が一層学校の競争心を励ますのである。帝国大学その他の大学と競争するのである。競争は大切なものであって、学問のみならず人生の事は皆競争に依って発達する。すべて文化の進歩も競争に依って発達するのである。しからば競争は文化の母なり。今まで早稲田大学は帝都の僻隅へきぐうにあって天下を睥睨へいげいして威張っておったけれども、社会からあれは私立大学だと言われて、価値のないものの如く俗人から誤解されておった。ところが形の上で公私の大学の区別が無くなってしまうのである。ある条件を備えて、ある程度までの設備をなすに於ては更に区別無しというのである。そうすると専門学校が大学になり、今度は帝国大学の仲間入りをするということになって来る。
 しからばこの後はケンブリッジ、オックスフォード、その他仏蘭西フランスの大学、独逸ドイツの大学、世界文化の進んでおるところの大学と競争する、こういうことになる。今まさにその準備をなしつつあるのである。諸君の今の境遇と早稲田大学の境遇とは同じである。諸君はまだ卒業していない。今まさに努力して競争しつつある。世界の優等の大学と競争するその初歩に在るのである。早稲田大学の境遇は諸君の境遇にく似ているというべきである。

〔世界改造と自由独立の権利〕

 這般しゃはん世界に於ける大乱の結果、世界改造という事が起った。果してこの理想が実現されて将来の世界は全く改造されて、戦いをめて平和の下に平和的競争に依って人生の幸福をはかどらすことが出来るや否やということは疑問である。しかしながら疑いもなく世界はすこぶる小さくなって、しかして平和に一歩足を投じたに相違ない。ここに於て愈々いよいよ競争は何処どこへ向うかというと理智の競争、学術の競争である。そればかりではいかぬ。学術を応用する。即ち人間の実生活の上にこれを応用することについて各国が相競うのである。ここに於て政治経済、法律、商科、理工科、学科が如何いかに違うとも、自己の境遇が如何に異るとも、日本国民として世界人類中優れたところの日本人として、世界的観察の眼を放ってみると、ここに吾人ごじんの常に為すべき根本の務めがある。この務めを名付けて権利という。
 早稲田大学は学問を独立させようという主義の下に成立ったのである。即ち独立の権利、自己生存のためには侵すべからざる権利、奪うべからざる権利を得ようというのである。自己が怠けてはこの権利を得ることが出来ない。これを棄ててはならぬというので、大なる義務を自覚して、そうしてこの早稲田大学の独立が成立ったのである。この権利が中心である。しかしてこの侵すべからざる権利を十分に保って、而して自己自ら国内に於ても世界に於てもその義務を果すということが最も必要である。これを行うために次いで起るものは正義の観念、東洋の古代の思想でいえば仁義の観念である。これは如何いかに平和が成立とうとも、如何に思想が変化しようとも人類が世界に存在しておる以上は常に基礎となるものである。これを自由独立の権利という。而してこれを行うところには必ず義の観念がある。ひらたく言えば即ち正義の観念を基礎にしなくてはならぬ。これが社会の実生活の上に行われて、ここに初めて国民の幸福安全というものが起る。これは各方面に存するものである。産業にもあれば商工業にもある。

〔欧米の文明は誤れり〕

 従来欧羅巴ヨーロッパの文明は誤った。英国も亜米利加アメリカ仏蘭西フランスも皆誤った。誤ったために今回の如き禍いが来ったのである。恐るべき教訓が来たのである。欧米の文明は誤れりという論文を我輩は大観に書いておいた。極端なる国家主義は独逸ドイツほろぼした。極端なる個人主義自由主義の仏蘭西フランスなり英国なり亜米利加アメリカなり、その狼狽ろうばいした有様は如何いかにも気の毒である。多分英国も仏蘭西フランスもはた亜米利加アメリカも多少自覚したろうと思う。すべて物は極端になるといかぬ。中庸の徳というものは大切である。儒教に中庸の徳を説いておるが、プラトン、アリストートル〔アリストテレス〕もまた人間の道徳の中で中庸ということに特に重きを置いた。どうしても物が極端に走るといけない。自由独立、自由博愛あるいは自由平等、これが極端に行くと必ず誤る。このたびの露西亜ロシアに起ったところの過激派などは最も極端なものである。社会主義が極端に陥ると、どうなるかというと共産主義となる。共産主義の極端は無政府主義となる。そうなるとその社会は破壊されてその国は滅亡してしまう。今日欧米の文明はある境遇のために極端に走った。
 今度これがどういうように調和されるか。およそ人類は社会的のものである。社会共同の生存のためにはあるいは独立も自由もまたは国家主義もある度合までは犠牲としなければならぬ。そういう訳でこれから吾人が努力するについては常に共同という精神を忘れてはならぬ。どうしても単独ではいかぬ、国際間に於ても国際連盟といって世界を束ねて平和を保とうという。如何なる強大な国も単独では平和を保つことは出来ない。これと同じく吾人も単独ではいかぬ。これが即ち社会共同の生存となる。これは別に新しい理窟ではないが、これが一つ誤ると極端な社会主義となって大なる不幸に陥る。どうしても共同ということを忘れてはいかぬ。この力が一国の繁栄をはかどらすのみならず、社会に向って、世界に向って大いなる力を現すのである。これが国家の力となって世界に現れると、国民の膨張思想の発展となる。今度の正義人道に基づける平和会議でもリーグ・オブ・ネーションといって相共同して平和を保とうというのだが、人間の欲望は実に無限である。また各国の欲望はその国家の利害に依って違うから、正義人道というのもあるいは空念仏からねんぶつになりはしないかと恐れるのである。しかしながら既に端を開いたのである。ここに於てこれから学ぶところの諸君は何処どこまでも共同の精神をもってやらなければならぬ。
 無論むろん帝国臣民たる以上は万世一系の帝室を中心としなければならぬ。三千年来今日に至ったところの国家は如何に世が変化しようとも動かぬものである。しかしこの主義が極端に行くと、大いなる過ちに陥る。それで何処までも共同だ。しかしてこの共同の力が盛んになると国家は繁昌する。この力が欠けると利己主義に陥り国家をあやうくする。国家の安危盛衰のわかれるところはこの道徳的に精神的にいわゆる人類の共同ということを忘れるや否やにある。
 競争も武力に依らずして経済的に競争する、学術的の競争をする。そうすれば必ずこの競争の間に幸福も安全もはかどらされるのである。一度共同の心が欠けると利己主義となる。世界の勢いはそういう有様になっている。この過ちを改めることはあるいは出来ぬかも知らん。もし欧羅巴ヨーロッパ人がその過ちを改むることが出来なければ、欧羅巴ヨーロッパの文明はここに終りを告げて、欧羅巴ヨーロッパは亡びる。こういうことを私は当月の大観の雑誌の末文に友誼的ゆうぎてきに宣言しておいた。これは決して悪口ではない。全く友誼的なる親切なる忠言である。如何いかんとなれば日本人が民族的差別を撤廃しようというと、利己的にこれを排斥する。これは共同の精神を失っているのである。しかしながらかくの如き誤れる僻見へきけんは一朝にして改めることは出来ない。そこで国民共同して努力して世界最高の文明と称し、世界最大の強国と唱えるところに向って競争する。競争といっても武力の競争ではない。精神的に道徳的に競争する。
 此所ここには商科の人もいる。理工科の人もいる。この中から大発見家、大なる天才が起るかも知らぬ。起るかも知らぬではない。起らなければならぬ。必ず起るに相違ない。そうして平和的に文明的に競争をやる。そうすればこれまで宗教的民族的また歴史的に東洋人を軽蔑している心も一掃される。またそれが一掃されなければ調和は出来ない。調和が出来なければ衝突だ。衝突の次には争い。これほど恐るべきものはない。ここに於て吾人が世界的に努力せんとすればまず身を修める。それには何処どこまでも人格が基礎をなす。道徳が基礎をなすのである。こうして諸君の顔色を見ると大変顔色が宜い。体力も強いようだ。まだ少し身体が小さい、盛んに運動をすれば我輩位までは大きくなる。そうして精神を鍛えると決して老人にはならぬ。決して死なぬ。そうして精神的に道徳的に世界と競争して、傲慢ごうまんにも日本人を軽蔑する人をしてついに日本を畏敬させるようにしよう。これが吾人の大なる使命、これが吾人の権利である。しかしてこれはこれ棄てんとしても棄てることの出来ない最大の義務である。
 何処までも吾人は身を修めて努力しなければならぬ。富貴も淫するあたわず、威武も屈する能わず、貧賤も移す能わず、これが真の大丈夫だ。これでなくてはいかぬ。陽明の良知説もこれから来ている。カントが絶対善を説いて而して自己を修めるというのと全く似ているようである。似るはずだ。人間というものは同じものだ。然るに欧羅巴ヨーロッパ人は一時この主義を棄てたのである。第十八世紀までは欧羅巴ヨーロッパは盛んであったが、第十九世紀にこれを棄ててしまった。全く棄てもしなかったが、とにかくこれを軽んじたことが欧羅巴ヨーロッパの過ちに陥ったゆえんである。我輩の論法を以ていえば、諸君が努力すれば世界の平和は手にある。日本が世界最大の強国となって世界に畏敬される国になることも決してかたきに非ずと思う。そこまで行かなければ我輩は死なぬ。そこに行くまで生きておる。これが百二十五歳説の起るゆえんである。

〔大なる希望をもって目的を達したい〕

 今日は諸君の英発の気に触れて、先刻学長のいわれた如く我輩老人も若くなったようで非常に愉快に思う。どうか諸君と共に大なる希望をもってこの目的を達したい。大いに学んでその学理を人間の実生活に応用して、そうして大いに働けば国は富む。欧米の富も恐れるに足らぬ。欧米の堅甲利兵けんこうりへいも恐れるに足らぬ。働けば富も取って来る。力も養うことが出来る。それは諸君の努力に依って出来る事だ。しかし一人では出来ない。共同してやる。ここに於て我輩老いたりといえども諸君と共に共同して働く。
 早稲田大学も大分発達しそうになって来たのである。発達する時には困難が来るもので、随分教師その他の御方も御困りになったろうと思う。如何いかんとなれば金がない。もっとも貧乏で学問が出来ぬということはない。昔から貧乏で働けぬということはない。貧乏者が成上がる。ぐずぐずすると金持が成下がる。将来に希望をもっておるものは、そんな気の弱いことではいけない。学長その他の御方が立派にこの大学の設備をなすに相違ない。予科は窮屈だけれども今大急ぎで家を造る。そうすると教場などもゆったりして今日のような窮屈ではないようになる。
 諸君は実にい時に此所ここにおって学ぶ。世界の有様の最も宜い時に学ぶ。然らば諸君の将来は大なる希望を以て充たされて、必ず自己及び国家社会に大いなる力を現すことは信じて疑わぬ。どうか十分に努力され、今少し身体を大きくし強くするように願いたい。そうすると自然に宜い知識も起るのである。





底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「早稻田學報 第貮百九拾壹號」早稻田大學校友會
   1919(大正8)年5月10日発行
初出:始業式に際しての演説
   1919(大正8)年4月14日
※中見出しの〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
※〔 〕内の補足・注記は、編者による加筆です。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2018年3月26日作成
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