女子教育の目的

大隈重信




〔日本婦人の地位〕

 日本は亜細亜アジア諸国中婦人の地位が一番進んでおる。総じて亜細亜アジア諸国では婦人が全く一家の内に閉塞せられて、あわれむべき境遇に陥っておるにもかかわらず、日本だけは常に婦人が相当の地位をもっておるのである。ところが亜細亜アジアの他の国に於ては、宗教の上、あるいは儒教の主意の上から、婦人が相当の地位をもっておらぬ。ことに儒教の上からは女子と小人とは養い難しという如き教義が社会の上にあった。それ故に女子がその中に打罩うちこめられて、社会と縁を切ってしまった。これが主に亜細亜アジア諸国の堕落して国勢の振わないゆえんである。日本に於ても支那の教義は古くから伝わって、次いで千三百年以来仏教が入り儒教が入って来たに拘わらず、日本の婦人が支那の婦人と同一の運命に陥らなかったというのは、大陸の文明が日本に入って来ても、その文明の利益だけを収めて、そうして文明から起るところの弊害の大部分を、日本が幸いにこれを防いだからである。ごくひらたい言葉でいえば、いわゆるかれの長を採ってわれの短を補うたという訳で、文学なり美術なり、あるいは種々のものの長を採ったが、仏教の教義から起り、もしくは儒教の意味から起るところの女を苦しめるというへいを盛んに防いだ。これがために日本が一朝世界の文明に触れて、ただちに彼の長を採るというあかつきに至っても、日本の風俗・慣習・道徳の上にはなはだしい衝突が起らずして、世界の文明と日本の文明とうまく調和することが出来たのである。これをごくつづめて断言すれば、婦人を苦しめた国は衰え、婦人に相当の地位を与えた国は進む。畢竟ひっきょう女を苦しめた国はいわゆる因果応報で、そういう国の衰えるのは決して偶然でないということになる。これが我輩の持論である。
 斯様かように世界の文明が日本へ来たが、日本の文明もまた外国へ行く。今日の有様は水の平準に拡がるが如き勢いで物が調和する。日本に於ける一種の美術、あるいは美術を応用した工芸などが、東洋の美術といって独逸ドイツにも行き、仏蘭西フランスにも行き、亜米利加アメリカにも行く。その美術を応用したものは陶器、漆器、あるいは種々の模様、あるいは染物の色合、室内の装飾などに於て日本の美術が幾らも外へ出て行く。この五十年来彼の長を採った上について、最も主なるものはあらゆるサイエンスである。日本の一番の欠点はサイエンスであった。それに次いでは政治の上に大いなる弊があった。あるいは軍隊の上にも種々足らないところがあった。しかるにたちまちその巧妙なる兵器軍艦、それから軍隊の組織というようなものを、彼の長を採ってことごとくこれを良いものにしたのである。
 ところで婦人が相当の地位を占めておるに拘わらず、婦人の教育というものは、ちゅう以上の婦人こそ相当の教育を受けたけれども、もう中以下になると教育を受けない者もある。けれども小学教育は男子と女子とが同一の教育を受ける。すべて貧富貴賤を論ぜず同一の学校に於て同一に教育する。富める者も貧しい者も皆国民である。等しく人間であり日本国民である以上は、人類として国民として学ぶということは同一にすべきである。それ故に小学は皆同一に教育し、中学以上が区別せられておる。今日に比ぶれば不十分ではあったが、昔からそういうやり方であった。それが支那の如く男女七歳にして席を同じうせずとかいう教義から行っては、とても成立たぬことであるが、日本では法律を以て男女同一に国民教育を定めてある。これが日本の一つの特色で、支那の儒教的とか、印度インドの宗教的とか、いろいろ頑冥がんめいなものが日本に少なかったために、日本は古来女子を苦しめていなかったという事がわかるのである。ただ昔は女子の教育は不十分であった。しかし日本の婦人で教育を受けた者は、決して大名とか貴族とかいう者ばかりではない。その以外の人にも自ら学んだ者がある。ことに日本の一つの特長たる和歌などは、平民の者も随分やった。更に一等下がって俳諧などもやったものである。百人首なり女大学などは大抵の者は読んだものである。それから婦人のたしなみとして、裁縫をやりはたを織るとかいう、一つの独立自営の道、あるいは一家の主婦たる務めを十分に満たすことが出来るように、銘々にその素養を修めておって、そうして女が社会上に相当の地位をもっておったのである。少数の貴族を除くのほかは、決して一室に閉じ籠っていなかった。中以下になると男女等しく盛んに労働しておる。どうかするとある種類の労働は婦人の方が男子よりも巧みであって、かえって男子よりも多く報酬を得るということがあり、女子が男子をしのぐというようなことがある。
 支那の文明を輸入して以来、日本は仏教とか儒教とかが日本の社会組織の根本を成しておる。成しておるにも拘わらず、種々の弊が起らない。ここに於て日本は彼の長を採って我の短を補うたことがく分る。総じて物事は一利一害で、仏教なり儒教なり多少の害を伴っておる。ところがその害を巧みに避けたというのが日本の特色で、文明史の上に切れ切れではあるが、日本の歴史を研究してみると、十分にこれは証拠立てることが出来ると思う。日本が比較的に利益の大部分を収めて、利益に伴うところの害を巧みに避けたということになるのである。

〔来訪アメリカ人との会話〕

 そこで現在及び将来に於て、日本が西洋の文明を採用して行くについて、女子の教育の上に、また女子が社会に於ける地位の上にも、これを適用することが出来るのである。先日女子大学の卒業式の時に亜米利加アメリカで相当の地位をもっておる人の一行が、その前日に私のところへ来た。その人は八十歳以上の老人で、それからその人の細君と娘達も一緒に来た。これは大層日本贔屓びいきな人で、十七、八年以前に日本へ旅行して、更に今度また旅行をして来たのである。先年日本へ来られた時に、私も一、二度会ったのであるから、今度も私の処へ訪問せられて、いろいろの話から学校の話が始まって、どうか学校を見たいという。それでは御連おつれに婦人が多いから、女子の学校がかろう。ちょうど女子大学の卒業式があるから、明日の午後他に約束が無ければ女子大学を見たらどうか。亜米利加は女子教育が盛んで、その大学の盛んなるを観られた所の眼から見たら、日本のは小さなものであろう。女子大学といえば名こそ同じであるが、甚だ幼稚なものである。けれどもまず日本では初めてである。これを見ることは、日本に旅行した人にとって決して無用なことでないと思うから、一つ見たらどうか、というと、よろしいそれは甚だ面白いが、その教員はどういう人で、どういう事をやっておるかと聞くから、それは成瀬という人が校長で、亜米利加アメリカにも七、八年おった。ほとんど二十余年間女子教育を専門にやっておる男で、それ一方に力を尽しておる。この人を中心として亜米利加アメリカの婦人もおり、あるいは独逸ドイツの婦人もおる。また日本の学者もやっておる。こう話をすると、それは大変だ。亜米利加アメリカへ行って教育を受けて、それを日本でやっておるとは以ての外のことである。実に亜米利加アメリカは女子の教育を誤ったと思う。この節では学者も政治家も、宗教家も教育家も、しきりにその救済方法を研究中である。しかるに亜米利加アメリカで研究したというような人を教員にして亜米利加の婦人のような者をこしらえたら大変である。亜米利加アメリカでは女が男になりかかって来た。中には男以上の女が出来て来た。さきにマッギーなどという赤十字社の婦人が日本へ来たが、実に戦争ほど悲惨不幸なものはないから、この不幸に向って大いに力を尽すということは、表面から見れば誠に尊敬すべき実に善き事業である。その表面を見ればその通りであるが、ところがこの婦人に対しては、それは間違っておる。彼は人の妻たる者である。そのために彼の夫は非常な不幸である。また彼の子供も大変不幸である。一家の主婦が一家を治めなければ、自分の夫にも子供にも不幸を与えるということはまぬかれない。それで事業そのものが善であって、そのためにただ自分一身を犠牲にするという話ならばよろしいが、しかしながらそのために自分の一家族の幸福を犠牲とすることは全体これは第一道理にもとったことである。道徳の根本に悖ったことである。主婦の務めは一家の幸福を保ちつつあるいはその余裕を以て人を救うということでなければならぬ。その人が行って救わなければ、多数の人が真に苦痛を免れることが出来ぬという場合とは違う。他に幾らでも働くべき人はおる。してや他の国の事である。亜米利加アメリカ国内に起った事であっても、まだそういう事に力を尽す人は他に幾らもある。即ちその場合が違っておる。これ教育の弊がついにそういう工合にしたのである。これは国家の将来に恐るべき不幸をかもすのであると、こういう大体の話であった。
 そこで私が言うのに、それは大きにごもっともである。けれども物は常に比較的に研究しなければならぬ。人の善を見て己れの過ちを知り、人の過ちを見て、己れもあれだけの過ちをやったということを知る。これまで儒教や仏教が日本へ入ったりして、あなたの言う意味とは違うが、大いなる弊があると思った。ところがその弊は日本には今日無い。そこで日本の教育はどうかというと、あなたの国、即ち米国は小学校から大学まで男女一緒に教えておる。ところが日本は一緒に教えておるのは小学だけで、小学以上の程度にのぼると男子と女子と各々おのおの教育を違えておる。それで明日れて行って見せる学校は亜米利加アメリカのものをそのまま写したという意味ではない。あるいはその弊があればそれは多分避けておるに相違ない。しかしながらまだこれで満足する訳ではない。全体教育そのものが、男子の教育についてもよほど疑問があって、今日まで教育家が常に研究しつつある。いわんや女子の教育については最も近来のことである。女子教育の経験は、欧羅巴ヨーロッパでも日本と一世紀とは違っていないので、女子にはこういう教育を与えるのが必要であるという女子の天性本能から確定した教育があるか、真理があるかということは、政治家にも教育家にも大疑問である。女子の教育は男子の教育よりは幼稚なるがために、世界の教育家も哲学家もその他の者も、皆女子の教育については大いに疑問を懐いておる。疑問の中に乗出して、女子に教育を与えようというのは大胆な事であるが、日本に於ては巧みにその弊を避けて行くのである。こういう話をしたところが、その人は大いに賛成したのである。

〔教育の目的と方法〕

 要するに教育は時代の精神にりて、その国情に適合する方法を採らなければならぬ。その時代の要求をれなければ、非常な不幸に陥るものである。学校と社会と、また学校と家庭とは、いずれの時代に於ても結び付かねばならぬ。時には偉大なる人物が出て、時代の精神を一変することがあるが、普通の人間以上の人間をこしらえるということは教育の目的ではない。かくの如き偉大なる人物は、天才として待たなければならぬ。一般の教育はすべての人間、普通の人間を造る。人間以上の人間を造るというのは別である。合衆国でさえも少しくその時代の要求に応じないというためにその弊害が出来て来た。そうして学者も大いに困っておるという。もとより理想は高尚でなければならぬが、高尚なる理想は漸次ぜんじに実現して来る。あるいは二世三世の後に実現するものである。しかしながら善良なる風俗、善良なる教育の目的は、日本に古来無い事であっても、日本に移し得られぬことはない。日本の畑は、持って来て種子たねを蒔くと、何でも発生する。そういうように何でも他の勝れたものを日本に移すならば、必ず発生する。古来の儒教の教義、宗教の慣習がこれを妨げるという如き性質はもたぬのである。今日まで他の国の勝れた善を日本に植えて、その結果がいつもその本元ほんもとよりも日本の方が良くなっておる。儒教の如きも、かえって支那ではその教義と常に衝突しておる。また宗教の如きも、わずかにその弊害の一部分、即ち野鄙やひな迷信的の弊害が残っておるばかりである。されば儒教も宗教も、今日日本に於てそれを一変したのである。そういう訳で、今日の世界の文明も、利益の大いなるものに非ざれば決して入って来ない。儒教も一部人道の大本たいほんを教え真理を教えた。仏教に於てもかくの如きものである。今日の文明は完全無欠なものであるかといえば決してそうではない。次第に変更する。道徳の有様はどうかというと、これも完全無欠ではない。しかしながら今日の文明というものには、実に東洋の文明以外に日本の文明が成立っておるのである。その一部のものをつかまえて、すべて善いというものはない。その文明に伴うて随分大いなる弊害が成立っておるのであるが、ただ巧みにその弊を避け、巧みにその善を用いるということが肝要である。しかしこれは人間一世の事業ではない。一戦にして勝敗を決するというような急速なる事ではないのである。どうしても二世三世の事業である。かかる二世三世の大事業を、どうかすると直ちにこれを実行しようとか、またはその善悪をのみ研究し、その善に伴う弊を研究せずして、直ちにこれを行うとかいうことはよくないとこう考えるのである。





底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「をんな 第五卷第五號」大日本女學會
   1905(明治38)年5月15日発行
初出:「をんな 第五卷第五號」大日本女學會
   1905(明治38)年5月15日発行
※中見出しの〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2020年1月24日作成
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