政治趣味の涵養

大隈重信




〔政治ほど面倒なものはない〕

 人生百般の事のうち、およそ政治ほど面倒なものはない。恐らく人間の仕事のあらゆる仕事の中にて、政治は最も困難なる事業の一つであろうと思う。全体、政治の術……は学問とは言わぬ、術というが、政治の術はすべて国民の政治的心理の上に、人の心の上に働く術である。術にはいろいろあるが、この術の中で最も困難なる術の一つであると思う。これを平易に説明すると、たまたま何か功を為すことがあると、人の嫉妬心を招く。人間には嫉妬心の多いもので、ことに政治上に現れる嫉妬というものは最もはなはだしい。この嫉妬があるために政治の進歩になるのか知れぬが、なかなか嫉妬が多い。手柄をするときっと嫉妬が起る。それから少し※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)ちちゅうしていると、あれは意久地いくじがないといい、たまたま少しやり損なうとぐにこれを責める。なかなかむずかしいものである。

〔政治は国民の反響なり〕

 術には天才もあるが、これには何でも稽古しなければいかぬ。学ばなければいかぬものである。この政治も実をいうと、よほど経済的に少なく労して多く収めることを主にしなければいかぬ。政治はある意味から言えば、専門に相違ない。専門には相違ないが、例えば芝居を見ても団十郎だんじゅうろうとか菊五郎きくごろうとかいう名人がおっても、これを批評するものがないとその真の技倆ぎりょうは分らない。見物の目がこれを見るだけのめいがなくては仕方がないわけである。それをめないで、かえって壮士芝居の方が面白いというようなことになる。これはつまり批評家がないからである。有ってもその批評が悪いからである。何でも人の上に働く術はそういうもので、批評家が悪いと如何いかに巧妙なる術を行っても一向それが分らぬ。これを嫉妬心よりして言うとつたないと言うて笑う。
 予は今日日本のすべての政治的国民の心理が甚だ幼稚であると思わざるを得ないのである。こう言うと自分がえらそうに聞えるが、見物人が甚だ度が低い。その度の低いところには如何いかなる天才も術を施すところがないと思う。ここに於て平凡な話であるが、政治は国民の反響なりといわなければならぬ。かの支那で民主国をこしらえた。しかしながら、事実支那人はなんらそういうことの考えはない。それで直ぐ革命も失敗してしまった。かくの如く国民の心理が発達せずして批評家が幼稚なるは何にもといするかというと、教育が悪いからである。教育が悪いに依って高尚なる意味に於ける政治が出来よう訳がない。政治家が起らぬ。芸術家が起らぬ。しかしてすべての事が段々卑近ひきんになって来る。思想界に一度病が起ると、文学でも画でも甚だ卑猥なるものが流行して来る。政治もまた同様で、政治家が段々堕落する。これは政治家も悪いに相違ないが、批評家が悪いのである。この批評家が盛んに起って来て、初めて政治という術を行う人の技倆が現れて来るのである。
 さて今日の教育は段々進んでは来た。それに従ってよほど学問は進んだが、しかしながらこの政治団体たる国家、政治の舞台、政治の芝居に於て役者がその術を行うに当って、なんら批評をしない。即ち高い意味に於て批評することをしない。これではとても善い政治の出来よう道理がない。今日、日本の状態はどうもそういう有様ではないかと思う。我輩は果して技倆があるかどうか知らんが、自己自らの自信はある。大いなる自信力をもっている。しかして一般の批評眼はどうかというと、甚だ浅薄な卑近なものの外にはない。その証拠には去る一週間の臨時議会に現れたところの種々の質問を見ると、実に驚くべき批評である。これではとても善い政治を望むことは出来ないのである。
 かつて昔西班牙スペインを造る時分に、西班牙人は神に祈って、どうか西班牙スペインという国は景色の好い、気候の好い国にこしらえてもらいたいと言うと、神がよろしいと言ってその通りにした。次にはどうか美人を拵えてくれ、これも宜しいと承知した。次には善い政治を望みたいと言ったという。そういうような風で、今日のすべての社会は卑近なことが発達して来たのである。そういうことが発達すると、政治は段々悪くなるばかりだ。
 この有様を見て、その批評をする新聞はどういう風であるかというと、新聞の批評も心をむなしくして見れば、果して正確なる批評であるや否や。公論とかなんとか言うが、これは何に依って現れるかというと、新聞で現れるのが最も有効なものである。ところでそれで果して今日の輿論が成り立っているかというと、どうも成り立ってはいないように思う。社会の制裁があるかというと、なんら制裁はない。議会の質問を聞くと、盛んな議論である。道徳論も起った。しかし道徳論が起ると、よほど方角の違った論が起る。こういう次第で、今日紀綱がみだれて少しも振わない。しかしてこれに対する新聞の批評はどういう工合に現れているかというと、これもなんだか要領を得ないようである。これではどうも善い政治を望むことは出来ない。

〔人の心に変化を惹起したい〕

 ここに於て我輩不肖なりといえども、老いたりといえども、どうかこの人の心に心理的変化を惹起ひきおこしたいと考えた。これはもとより困難な事業である。大胆な事業である。しかしながら、また更に顧みると、全体、この七十七の老人を捕まえて、かくの如き境遇に当らせるということは、如何いかにも青年の意久地のないことを私は嘆息するのである。何故に青年が意久地がないかというと、これは青年を教えた学校が悪くないかということを予は疑うのである。何故なにゆえ国民を善く教育しなかったか。自ら政治の技倆を帯びさせずとも、これを批評するだけの人間は作るようにしなければならぬ。今の内閣には予の次におる人が十年以上予より年が少ない人で、その次が二十二年、更に下ると二十八年下だ。ちょうど親子のようだ。どうもよほど可笑おかしい。親子一緒に内閣に列するというは、ビスマルクはそうであったが、あまり青年に意久地がないのではないかと思う。青年とは言わぬ。壮年が意久地がないではないかと思う。わずか五十年前には俊傑しゅんけつの士が雲の如く起って、かの大変動を起して積年の封建を破って王権のもとに統一し、世界の文明を採用して今日の日本の文明を造った。人才は時勢の必要に依って現れて来るものである。
 今日といえども人才の上に、私は大政維新前後に譲らぬ必要を生じていると思うのである。しかるに何故に俊傑の士が起らぬか。老人が出たらこれを退けるという青年が起って来なければならぬのに、それが起らぬ。その証拠は帝国議会に於て多数を占めている党派が……我輩は直接に党派を率いてはいない、我輩の有する味方は少数であるが……老人が出てもこれを退けるという力もない。青年の血気盛んな人が老人に向ってどうすることも出来ないという。これはなんとしても病的状態である。この国民を病的状態から健康体に復して、しかして大活動を喚起よびおこすことが必要であると思う。即ち教育の方針を一変しなければならぬと思う。単科大学とか官立私立とか、それも結構である。しかしそんなことはどっちになろうとも構わぬ。この政治を利用するだけの人間を造ることが出来ぬものであろうか。法律は勿論もちろん、文学でも理化学でも、如何いかなる学問をしようとも、政治的団体の国民である以上は、この芝居を見て芝居の善悪くらいは評するということがなければ、真の国民とはなれぬ。その真の国民が集合して、初めて強い国家は成り立つのである。ところが段々専門的になって、自己の専門は学者だ、自己は医者だ、自己は弁護士だ、自己は商人だ、政治などは知らぬと言う。それでは誰が政治をやるか。かかる結果として、国民の批評がなくなってしまうから、到頭とうとう政治家というものは堕落して来て、政治屋となってしまうのである。政治が商売になる。そういう国は盛んになるか衰えるかというと、多く語らずして明らかである。決してそういう国は盛んにならない。一つ間違えば段々衰えて来るばかりである。どうしても現代の教育は国家の必要なる教育に欠けてはいないであろうか。我々は公正の批評が望ましい。学者もそれをやるがい。書生も宜しい。書生は政治を談ずるのはいけないとなっているが、これは法律命令の範囲でなるべくそのさまたげを除いてみたいと思う。

〔思想の自由と政治の趣味〕

 ここに於て予は第一に自由ということを根本にする。自由といっても、乱暴なことを言うのが自由ではない。帝国議会に現れる如きは決して自由ではない。むしろ自由を害するものと言ってもかろう。根本の自由は思想の自由である。この思想の自由を現すところの形式は言葉である。言葉は相当の礼儀を備えなければならぬ。いわゆる礼は道徳の体なりというはこれである。ところが神聖なる議場に於て如何いかなる言論を用いているか。私は甚だその礼なきやを疑うのである。過ぐる日、教育大会に私は案内を受けて出るはずであったが出ることが出来ずして、秘書官に祝辞を持たせてやった。それから討論が開けると、帝国議会の討論のような随分粗末な言葉であったという。礼を失したようなことを少しも恥じずにやる。かくの如き者がなんと口の先に礼を説こうとも、秩序を説こうとも、道徳を説こうとも、その野卑な言葉、その言葉の暗示の力というものは国民の思想を攪乱かくらんしないでは済まぬ。この暗示の力というものは実に驚くべきものである。ある意味に於て非常な悪影響を及ぼすものであるということを忘れてはならぬ。これを教育家その人もなんだか忘れてしまっているような有様である。それではけない。思想の自由から初めて批評の自由となり、公正なる批評に依ってここに輿論というものも現れて来る。しかしてこれが現れて社会政策に大なる力をもつに至り、これを以て紀綱も治まって行くのである。紀綱がみだれてはもはや救うことは出来ない。そういう訳であるから、なんとかしてもう少し国民に元気を付けて、そうして政治の趣味を付けることが急務である。
 うたいうたうとか、角力すもうを見るとか、芝居を見に行くというくらいに、政治の趣味がないといかぬ。今度の内閣はうまいことをやるとかなんとか始終批評をする。正直に批評をする。かくして始終批評をしていると、政治もそれに連れて段々善くなって来るのである。それでなければ善い政治は望めない。どうしても好い批評というものが必要だ。ところが今の社会はそういう訳にいかぬ。事実いかない。一般にそうである。これは何から起るかというと、すべて批評がそういうように向いて来ないからである。ただ一時の好悪に動かされてはならぬ。好悪とは好き嫌いということである。始終好きにならなければいかぬのである。自己が五、六十年の間政治的生活をしているから、自分の好きを諸君に強いる訳ではないが、なんとかしてみたらどうであろうか。それには外から刺激を与える事が必要である。刺激を与えなければ人間は衰える。二百五十年、太平の夢を見ている時に、亜米利加アメリカ艦隊の大砲一発の刺激に奮然立って七百年来の将軍をたたつぶし、大名を叩き潰し、武士を叩き潰して今日の新日本を建設した。大砲で長き惰眠を破るように、大きな声でやれば出来そうなものだと思う。

〔政治の根本は人の心を知ること〕

 全体、政治家の根本は人の心を知るということにある。国民の心理状態を知るということにある。これを知らなければ政治は出来ない。我輩は一生懸命今日まで人の心を見るに努めている。人の気を見るというと、甚だたちが悪いように聞えるが、それでなければ政治は出来るものでない。人の心の上に働く技術である。始終刺激を与えることである。我輩の様なこんな独断的な男は、刺激がなければどうかするとあやまちに陥る。大いなる声を以て刺激をされると、段々術が上達する。こう思うのである。私は実に国民一般が正しい政治的見解をもつということを深く希望している。自己の名誉、自己の健康、自己の幸福などというものは少しも眼中にないのである。どうかして今日の困難を救いたい。こういう一念あるのみだ。それも自己自ら進んだ訳ではないが、ついにここに至ったのである。これを名付けて運命という。選んで取らんとして取ることが出来ない。自然にこの運命に出遇であったのである。この運命に出遇った以上は、何としても自己の道徳的信念を以て為し得られるだけの事をなし、やれるだけやってみようと思う。ところが過ちに陥るかも知れぬ。どうか盛んに批評をやって御貰おもらい申したいと思うのである。それがなければとても善い政治は出ない。団十郎でも菊五郎でも、贔負ひいきがあってやあやあ言うと力は百倍する。少しまずいなどと言われると、この次は褒められようという気になって芸を磨く。我輩も盛んにこれから芸を磨こうと思うが、批評が壺にはまらぬ。篏らぬではやり様がない。演説も拍手をされると調子が付く。どうか十分に批評を願いたいと思う。しか何処どこか壺に篏るように願いたいものである。我輩はまずこの過渡期に痩我慢やせがまんでもなんでも我慢をして先鋒をやるが、長い間には時に新手の顔が現れて来なければ困る。将来の国民をもう少し品よく、もう少し正直に、しかして政治ということに一つの趣味を与えて、公正なる批評をするようにしたい。そうすればここに初めて真の公論が成立って来るのである。これはよほど迂遠うえんのようであるが、学校の教育よりほかにこれは望むところはない。学校から出て新聞に行き、学校から出て役人になり、学校から出て商売人になり、その他弁護士、医者、技師、そういう人が皆同一の考えで公正なる政治的見解をもたなければならぬと思う。





底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「早稻田講演 第四卷第八號」早稻田大學出版部
   1914(大正3)年8月1日発行
初出:「早稻田學報 第貳百參拾參號」早稻田大學校友會
   1914(大正3)年7月10日発行
※中見出しの〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード