東西両文明の調和を論じて帝国の将来に及ぶ

大隈重信




 およそ他の物に触れて初めて競争なるものが生ずる。競争なければ進歩はない。即ち人間は安逸にして自己の生存を妨ぐるものに接せざれば、その働き、その活動力やすんで進歩することが出来ない。古代民族の勃興を見るに、いつとしてこの原理原則に従わざるものはなかった。遊牧の民族は子孫の益々ますます多きを加うるに従って、従来の狭小なる土地に生活し十分に食をたすことを得ずして、草原に走って行った。しかして此処ここに他の民族と生存競争をなして、生活の基礎を定め、続いて生存上の進歩発達を促すに至った。

〔旧日本の文明〕

 しかるに古代日本の状態は如何いかん。これを地理的寰境かんきょうより見る時には、生存競争の機会は極めて僅少であった。古代史には韓、即ち今日の朝鮮半島及び支那の一部との競争はあったが、それとても決して大きな競争ではなかった。元来、日本は島国にして外よりの競争を受くることすくなく、四海泰平の夢を結んで、ついには鎖国に惰眠をむさぼったほどに安んじて生存し得る楽土であった。まず地理的寰境を見るに、大陸と適宜の距離を存したる一連島にして、近海には暖流ありて気候の自然的調節を計り、ために春夏秋冬暑からず、寒からず、極めて温和を保っている。また当時に於ては人口も稀薄であったから、生存の安堵たりしことは想像するに困難でない。また生存競争の根本原因たる食物の点より考うるも、山川、島嶼、内海の布置ふち極めて自然の妙を得、食するに足る獣魚、穀物、貝類を供給しておったため、人間が応揚おうようで、落着きがあった。故に日本人の間に開けた文明は幼稚単純をその特徴としていた。人は皆簡易生活に満足し、欲望とても極めて淡泊ならざるを得なかった。かかる状態のところへ大陸文明、即ち支那、印度インドの文明が初めて輸入されて、在来の日本固有の文明に融和されることとなった。しかしてこの輸入文明は主として精神文明、即ち宗教(仏教、儒教等)、哲学、文芸及びその他種々の学芸であった。温和な風土、温和な人心にこの精神文明が働きかけたので、其処そこでその後日本の文明はどう開けたか。勿論もちろん、宗教、建築、絵画彫刻の進歩発達を促すことになり、一部は政治乃至ないし一般の社会にも影響を及ぼし、生存に必要なる工業方面にも多少の変化を促したが、とにかく物質上にこうむった影響は比較的尠少せんしょうであった。
 以上述べたことは極めて概括的ではあるが、旧日本文明観の一般である。されば日本固有の文明に日本化された支那、印度インドの文明を加味したのが即ち旧日本の文明であって、希臘ギリシャ羅馬ローマの文明とははなはだ異っている。つまり欧州の文明にはまだ触れていなかった。

〔欧州文明の輸入〕

 しかるに今よりおよそ三百七十年前、初めて葡萄牙ポルトガル及び西班牙スペインと交通するに至って、欧州文明が多少輸入されることとなったのである。当時の日本の内状は如何いかんというに、室町むろまち将軍の末路で、諸将兵を相率いて交戦に暇なく、人民寧日ねいじつなしといういわゆる群雄割拠の時代であった。かかる時代に於て直接必要を感ぜらるるものは、第一に精巧な武器である。あたかもよし、この時葡萄牙ポルトガル人我が種子島たねがしまに来て小銃及び火薬を伝えた(小銃の事を当時は種子ヶ島たねがしまと言ったものである)。弓矢を第一の武器としていたところに、この極めて具合のよい小銃が這入はいって来たのだから、すこぶる歓迎されたのはもっとものことである。第二には船舶の製造法である。在来の日本船はその構造極めて単純であった。これに比較すると、遠い外国から喜望岬を迂廻して来た葡萄牙ポルトガル船は、当時なおはなはだ構造の粗末なものではあったが、日本船の到底とうてい及ぶところではなかった。其処そこで一本マストを二本三本にするとか、その他種々の工夫をして大きな船舶を造って戦艦とするような変化もあった。第三には築城法である。前にも述べた通り、日本は当時戦乱のちまたで、戦争が絶えなかったので、どうかして勝利を得たいという欲望は、上下を問わず一般の武士の精神に宿っていた。勝利を得るにはまず根拠地を堅めること、つまり城を堅固にすることが必要である。その工夫に応ずるために西洋の築城法が輸入されることになった。築城法は当時の欧州には相当に発達していたものと見える。
 さて、人々が最も不安に感ずるものは死と疾病とである。かも戦乱に依る死負傷者の数極めて多き時代に於ては、これに対する防禦手段を講ずることは、人間自然の要求である。この防禦作用とは医術にほかならない。しかしてこの医術がまた頗る歓迎されることになった。
 単に以上に止まらず、熱烈な天主教、ことにジェスイット教の宣教師が船で日本へ来るようになった。随分勝れた宣教師も来たようである。日本在来の宗教は主として支那、印度インドから来た仏教乃至ないし儒教で多神教であるが、天主教はそれとは違って一神教である。その教義も日本在来のものとは異って甚だ単純で、宣教師等の説くところは極めて無邪気であった。それに仏教の僧侶は傲慢であったに引換え、天主教の宣教師は謙遜であったから、案外当時の人心を歓ばすものがあった。一言にして尽せば、仏教の教義は理解に苦しむが、基督キリスト教のは平易簡明であった。そのために織田信長おだのぶながをはじめ、幾多の将卒にさえ歓迎されることになったのである。
 かくの如く軍事上の目的から兵器、船艦及び築城法、軍事上乃至軍事上以外の目的から医術が輸入され、つ精神上には天主教の影響を受けることとなって、ここに於てか、旧日本の文明は一大変化を来たすに至った。
 また種々の貨物、例えば砂糖、種々の野菜果物の如きもの、また例えば綿の如き日用品が輸入されるようになったのも、直接欧州との接触があってからのことである。今日我々の知っているカボチャの如きも、当時カンボジャから来た故そういう名をつけたのである。また時計の這入って来たのもその当時である。昔は時の早い遅いを定めるには種々の工夫をして、鶏が鳴けば朝であるとか、星の位置を見て宵や夜明を知り、また砂時計に依って何時であるかを決めたり、あるいは線香をたいて、それが一すん燃えれば一時間というように定めていたが、時計が這入って来たので非常に便利になった。またこの時代には鶏の数なども大変増したようである。

〔徳川幕府の鎖国〕

 以上の如く、欧州文明の這入はいって来た径路を考えてみると、葡、西及び英等の諸国の商業目的と布教目的とに依って開けたものであることが知れる。これより以後、彼我ひがの交通は益々ますます頻繁となった。然るに、不幸にも徳川とくがわ三代将軍家光いえみつの時に至って、鎖国令が発布されて外国との交通は全然杜絶するに至った。鎖国令を出すに至った理由は様々あるが、その中でも主要なものは葡萄牙ポルトガル西班牙スペインは宗教、即ち基督キリスト教の布教に依って海外発展、つまり外国移民を遂行せんとして(現に南北亜米利加アメリカ阿弗利加アフリカ及び印度インドに布教してその実を挙げた)、日本にもその野心があると幕府に密告する者があったからであるという。其処そこで幕府は基督キリスト教撲滅を断行せんとし、ここに天草あまくさの一揆となり、抑圧に対する信仰の争いを生じ、ついに基督キリスト教禁令ということになって、全然外国との交通を断絶するようになった。
 当時幕府に味方してその応援に参加したものは、新教国たる和蘭オランダであった。ことに天草の乱に和蘭オランダ人は船舶を天草の海岸に浮べて幕府側に応援した。この報償として和蘭オランダ人だけは鎖国の令をまぬかかれて[#「まぬかかれて」はママ]、長崎の一部を与えられ、この地に商業を営んで盛んに利益を獲得しつつあった。日本人はこれに依ってわずかに欧州の文明をうかがっていたような次第である。しかるに欧州の文明はその後、蒸気、電気、その他種々の発見に依って長足の進歩を示した。この偉大なる文明の力は、日々の如く東洋の孤島に押寄せ来るのであった。外国船などが屡々しばしば日本の近海に来ておびやかすが如きこともあった。幕府は須臾しゅゆもこれが警戒を怠らなかった。英国の船が長崎へ来て不穏の挙にでたこともある。あたかもその時幕府、即ち当時の日本は海外の形勢に暗かった。もっともこれよりさき有名な八代〔徳川〕吉宗よしむね将軍の時からして、すでに蘭学の禁も開放され、田沼たぬま意次おきつぐ〕執政の時代には西洋の事物がかなり日本の識者にも知れ渡っていた。しかして寛政かんせい白川楽翁しらかわらくおう松平定信まつだいらさだのぶ〕の施政は多少の反動的風潮を帯びていたので、かえって蘭学を抑えたような傾向もあるが、すでに日本に植付けられし洋学は年一年に成長に向い、海外の学を研究する者簇出ぞくしゅつし、有名な医者、天文学者、博物学者等の出現となった。
 蘭書を読むことは単に欧州の医術を知るのみならず、同時に欧州の一般事情に通ずるということであった。時あたかも欧州の天地はナポレオン戦争のために震天動地の大騒擾そうじょうを極めている時であって、この間の消息が初めて知れ、日本人は鎖国の夢からめて、容易ならざる時局に際していることを自覚し、此処ここに愛国心生じ、国防論起り、泰平の遊堕なる風を一掃し、外国に対抗するの覚悟なかるべからざることに思い至り、振起することとなった。ここに於てか、蘭学の研究は益々ますます盛んになり、兵書といわず、解剖学といわず、病理学といわず、更に博物学、地理書を問わず、あらゆる方面のものが翻訳され、これらの知識に依って、日本は唯我独尊ゆいがどくそんではならぬこと、日本以外に勢力強大にして、かも野蛮ならざる文明開化の国々のあることが知れた。
 かくの如く新文明の知識に依って自覚したいわゆる積極的なる人々のある一方には、旧来の事物に心酔し、国威を冒されんことをのみ懸念する消極的人物があった。かくの如き事はいずれの時代にも免れない。ところでその当時もまたこの例に洩れず、新文明の知識を謳歌する者のある一方には、在来の儒教、仏教の精神に執着する者があった。これいわゆる新文明と旧文明の衝突で、進歩上の大蹉跌さてつというべきである。一般国民をして外国の事情に通ぜしめねばならぬのに、これを知らしめなかったのは当局者の大失態であった。彼を知り己を知ることは学術に於ても、また商工業に於ても極めて緊要なことである。他を知らぬところから進歩が停滞する。いわゆる盲目蛇で、政治家が文明の活動を一般国民に知らせずにおいた、即ち目醒めざめかかった者に麻酔剤を飲ませておいた状態――これが我が日本の鎖国状態であった。たまたま我が嘉永かえい六年、即ち西紀一八五三年米国使節ペルリ来って、時の将軍〔徳川〕家慶いえよしの耳元に一大砲声を放った。ここに長い間の昏睡状態は破れた。目醒めてみると、三百年前の文明とは全然趣を異にせるものが存在していた。将軍もほとんど為すところを知らなかった(この驚きのために将軍は死んだのだと世間では悪口をいうが、まさかそうでもあるまい)。其処そこで一般諸侯に、国を開くか防ぐか、平和か戦争か、開国か鎖国かの是非ぜひを訴えた。しかるに議論百出してその帰趨を知らず、且つ内は将軍〔徳川〕家定いえさだ襲職のために繁忙を極めて、確たる外交方針を定める暇がなかった。しかし外の力は偉大であって、時局は益々急を告げ、ついに安政あんせい元年(西紀一八五四年)ペルリに対し神奈川条約を以て国を開くこととなった。これ日本が再度欧州文明に接することの出来るようになった新紀元である。これに続いて露国、英国、仏国も来って通商を求めたので、安政条約が締結され、安政五年日本を外国に開放することになった。日本今日の文明は実にこの時に始まったものである。

〔開国と欧州文明の受容〕

 さて、しからば外来の文明は如何いかにして受け入れられて来たかというに、初めは排斥運動、即ち排他運動をなすのが一般国民の心理状態である。すべて外から来たものは敵である、悪いものであると考えるのが通例となっている。これに続く心理状態は他のものに接してその善きところを取り、しきところを捨て、長所を摂して、短所を排するということである。三百七十年前、日本が初めて欧州の文明に接してその長所として取入れたものは兵器、船舶、医術等であった。近時に於てもまた同様であった。なかんずく新知識の根源となった医学の研究が、日本文明に及ぼした効果は最も大なるものであった。それ故に日本の文明は医術から開けたともいわれている。医者が科学として医術を研究するには生理学、病理学、解剖学、いては物理学、博物学等にも及ばなければならぬのであるから、物質的文明を開いたものは医者であったというも決して過言ではない。緒方洪庵おがたこうあんの如き、佐藤泰然さとうたいぜんの如き、伊東玄朴いとうげんぼくの如きは皆医学の泰斗たいとであると同時に、また新文明の先駆者であった。またくだって日本の思想界に一大変動を与えたる福沢諭吉ふくざわゆきち先生なども緒方の門人で、医者を師としていたのである。その他維新当時の政治家、兵家、外交家には医者に学んだものが少なくない。封建思想のあやまれることを科学的に説破したのは、実に医者の知識であった。従って当時の人傑は皆相当に科学的知識を有していたのである。
 文明を促進せしめるには知識を要する。この思想の結晶は、かの「広く世界に知識を求む」の一句に見える。即ち欠乏している知識を広く世界に求める――これが御誓文ごせいもんの趣意である。まず欧州文明に関する知識を十分豊富にし、しかる後東西両文明の比較が出来、かれの長を取り短を捨てることが出来るのである。明治の初年に於ては此処ここに着眼して、学問の研究、ことに西欧の学問を研究することの急務を自覚して、国民教育、中学、大学などがさかんに起ることとなった。在来の教育で経典とされていた四書五経は主として精神教育であって、知識的には二千年以前同様なんら創造するところがなかった。しかるに学ぶことは同時に創造力を発達させることである。かも学問の種類は文明の進歩発達と共に益々ますますその数が増加して行く。宗教の研究をするにしても、その種類多きところより比較宗教学というが如き新研究が起り、また広く社会問題を学ぶにも社会学、社会心理学に依らねばならぬし、生存競争の原理を徹底させるには人種学乃至ないし経済学を究めなければならないのである。それにはどうしても欧州の現代文明に接触してこれを学ぶよりほかに道はない。学んで然る後、前にもいった如くかれの長を取ってわれの短を補い、以て日本今日の文明を促進せしめることが我々国民の使命である。我儕わなみが八十歳の今日までほとんど五十年間東西両文明の調和運動に努力を傾注して来たのも、また今日なお努力しつつあるのも以上の意味にほかならぬ次第である。
 かも文明は常に変化する。従って常に学んで足るを知らぬ有様である。しかして学問の研究は益々ますます専門的となって、専門教育の必要が生じる。維新の大業は実にこの専門的知識の御蔭であるといってよい。この知識が応用されて国家組織も変更され、法典も研究され、警察制度、監獄制度、その他諸般の制度が規定され、政治上にも改革が起ったのである。即ち物の占有はよろしくない、すべからく世事を解放しなくてはならぬという考えから、少数政治を非認し、幕府を倒し、廃藩置県となり、階級制度をめ、市民平等という事になった。商工業の如きも解放された。解放されてみると、自己の機能を発揮して、一個人で大工業、大商業を起すものが簇々ぞくぞくと出て来るようになった。
 文明を利用しないからして支那は大国でありながら貧乏である。しかるに日本はそれと反対に、文明の利器を随所に利用して、ついには富の点に於ても欧米の列強と対抗し得るようになったのである。独立の気象をあくまでも発揮し、他の物を取入れると同時に、一層自己の独立的存在を堅固に築き上げねばならぬ。町村の自治、国家の自治、即ち立憲政治を完全にしなければならぬこととなった。これ皆欧州文明の長を取って日本在来の短を補うに努めて来た結果である。努力さえすれば英米の富にも対抗し得るのである。しかして勢力をなすためには文明を取入れてこれを調和せねばならぬ。されば一層多く学び、多く努力する必要がある。即ち夜を以て昼に継ぐという努力をしなければならぬ。ある意味からいえば、即ち人間が生れながらの点から考えれば、文明国の小児も野蛮国の小児も皆同一である。生れた所を出発点とすれば人は皆同一である。しかし遺伝と境遇との力は大である。故に学び且つ努力すべし。日本には由来創造乃至ないし発見なるもの少なし。また日本人には大著述なし。故に今日はなお欧米の文明を学ぶ時代で、夜を以て昼に継ぐ努力がなければならない。
 ここに於てか、学術の研究は目下の急務である。しかして学術の研究には何よりもまず語学に通じ、即ち英仏独等、その他各国の国語に通ぜねばならぬ。しかるに一個人にして各国語に通ずるということはなかなか望み得られないことである。其処そこで日本は更に各国の著書の翻訳、ことに現代に最も必要なる書物の翻訳をなして、広く一般国民に欧米の新文明新知識を伝えることは最も意義ある事業の一であると信ずる。これ我儕わなみが大日本文明協会の翻訳事業の必要を感ずる最も切なるゆえんである。





底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「學術講演録第三輯」大日本文明協會事務所
   1917(大正6)年3月15日発行
初出:東京神田共立女子職業学校で開催された講演会における講演
   1916(大正5)年11月
※中見出しの〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
※〔 〕内の補足・注記は、編者による加筆です。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2020年4月28日作成
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