夫婦共稼ぎと女子の学問

大隈重信




 近来夫婦共稼ぎという声を盛んに聞くようになった。これは勿論もちろん生活の圧迫から来たのであろう。文明の進歩につれて、生活問題が益々ますますむずかしくなって来て、夫婦共稼ぎということもまた避け難き数とはなったのである。しかるに中には妻を働かせるのをなんだか夫自身に意久地いくじがないかに思ったり、思われたりするのを非常に恥辱として反対するものもあり、また実際妻が何処どこへか勤めつつあるを秘して人に語らぬという様な傾きが大方の男子を支配している。また女子の側に於てもそうであって、木に※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)まつわ蔦葛つたかずらで、女子は決して独立することの出来ぬものとの思想から、嫁して夫に養うてもらうのが当然である如くに考えている。はなはだしきに至っては、花嫁は人形然と床の間に座らしておくのが男の腕であると信じている。ことに近頃は寄席芝居物見遊山の行楽から、身には流行の粋を着飾って、贅沢三昧ぜいたくざんまいに日を送りたいという考えで、人の妻になるものもすくなくないとの事であるが、誠に不心得極まる現象と言わねばならぬ。
 これは「人生婦人の身となかれ、百年の苦楽他人にる」とか、女はうじなくして玉の輿こしとかいう如き、東洋流の運命観から出た、弱竹なよたけの弱々しい頼他的根性から来たのである。昔はそれで善かったろうが、今日の女子はこんな薄弱な精神ではいかぬ。いな夫婦共稼ぎは、昔から今日に至るまで我が国の大部分で盛んにっているのである。即ち田舎の百姓がそれである。我が国は農を以て国をなし来ったのであって、商工業勃興の今日といえども、なおつ全国戸数の六割は農業である。我々月々の生命をつなぐ米穀野菜の類は、百姓の粒々辛苦りゅうりゅうしんくの産出物であるは言わでもの事であるが、これが夫婦共稼ぎのたまものであることを思わねばならぬ。夫は田畑を打つ、妻は雑草を抜くという有様で、小農組織の我が国に於ては、過半は女子の労力にたねばならぬのである。
 春の茶摘ちゃつみ歌、五月雨さみだれ頃の田植歌、夏の日盛りの田草取の歌から、秋の哀れも身にきぬたの音、さては機織はたおり歌の如き、いやしくも農事に関する俗歌俗謡の如きものは、その文句の女性に依って唄わるべく作られてあることを思わば、田舎の女子の農事に対する功労は我々が大いに感謝すべきであると思う。しかるに同じ女子である都会の者のみが、夫婦共稼ぎが出来ぬ道理はなかろう。勿論もちろん都会生活が田園のそれと同一でなく、夫婦共稼ぎの事情をことにしているから、我輩はすべてに対してこれを可なりとするのではない。個々の場合についてその可否を決すべきであって、ただ夫婦共稼ぎが決して恥ずべき事でなくして、かえって人形の様な不生産的な花嫁や、栄耀栄華を目的とする様な虚栄心の強い女子をめようと思うのである。
 しからば個々の場合とは如何いかなる場合を指すかと言えば、その妻たる人が特種の技芸があるとか、高等の教育を受けているとかにて、即ちその学問技芸を以て立派に世に働き得る事、そうしてまた家庭の事情がこれを許す事である。家庭の事情がこれを許すとは、例えば子供が無いとか、有っても乳不足のために乳母を要するとか、やや長ぜしものはしゅうとめなどがあって見守みまもりしてくれるとか、家政上の事は別に面倒を見る人などがある事等である。勿論生活上から夫婦共稼ぎの必要が起るのであるが、その妻にして特種の学問技芸を有しながら、家庭の事にのみ齷齪あくせくとして、その長所を発揮する機会なからしむるが如きは、一面国家の人物経済の上から見てもまた惜しむべきことである。かくの如き婦人を妻としていることは夫の名誉と言うべきで、妻を働かしむることはあえて恥辱とならぬ。しかしそれを善い事にして、くわ楊枝ようじで暮さんとする夫ありとせば、言語道断沙汰さたの限りである。
 つまり夫は外で働き、妻は内にあって家政を整理するということは正経せいけいであって、働くに内外の別こそあれ、一家のために働くという趣旨に至っては同一であるから、人により家庭の事情により夫婦とも外で働くということも、また一家のためである以上は、夫婦共稼ぎは権道けんどうであって、一般には推奨すべきでないが、決してけなすべき事ではない。いわんや現今生活の困難は、刻一刻とこの傾向を余儀なくせしめているのであるから、学問技能で立派に世に立ち得る妻、あるいはそれほどでなくとも家庭の事情がこれを許すならば、夫婦共稼ぎで以て自家の収入の増加を計ることは、けだし必要な事である。
 なお一つ注意したいのは、女子に学問があると生意気になって仕方がない、且つ女子は男子の如く、その学修せしことを用うる機会も少ないから、大した学問は必要でないということをく聞くが、今時こんな愚論がと驚かれる。ついでながらそのもうひらいておくが、女子が学問して生意気になるのは、まだまだ教育が足りないのか、しからずんば誤っているのであって、即ち教育の罪で学問の罪ではない。教育が行き届いていれば生意気になるはずもなく、学問が進めば進むほど人間の値打ちが上がるのであるから、これまた生意気になるはずもない。また学問を用いる機会も無いとは一概に言えぬ。独身の婦人は独立自営の道を立てねばならぬから、教育の必要なるは言うまでもない事であるのみならず、すべて女子は妻たり母たると同時に、人としての人格を保って行かねばならぬ。人としての人格を保って行くには学問の必要なること論をたない。
 妻として母として学問の必要なることは、これを生活問題から見ても益々ますますその必要を感ずるのである。栄枯盛衰えいこせいすい生者必滅しょうじゃひつめつとは古い文句であるが、常に新しい意味を持っている。夫にして一朝事業に失敗するとか、あるいは長い病蓐びょうじょくに臥すとかいうことの起った場合には、今まで家庭にくすぶっていた妻が奮然立って外に働かねばならぬかも知れぬ。夫に先立たれて、子供はある、老父母はある、「弱き者よ、汝の名は女なり」と基督キリストは言ったが、弱くてはこの重荷は負い切れぬ。教育ある女子にして、初めて期待し得べきことである。学問は二六時中役立てることを必要とせぬ。必要とせぬとは言え、子女の教育、召使の感化、学問の効能は十分証拠立て得らるるが、此処ここではそれは論じない。一朝事あるの時、拭き掃除のたすきを外し、決然として一家の運命を背負って立つ、自信あり力量ある婦人は、なんと頼母たのもしいものではあるまいか。かくの如き婦人にして、始めて夫の奴隷たらざることも出来るのであって、この自信と意気とは学問に依って得らるるのである。
 この自信なくして女子の自覚を叫び、男女同権などを唱うるのは間違った話であるが、これもまた教育の至らぬか誤っている罪に帰する。また学問が田舎の百姓の娘達に普及さるれば、農事を嫌忌するに至るとうれうるものもあるが、これもらぬ心配である。学問が進めば自覚が起り、従って自分の分際ぶんさいも分り、職業上の解釈も付いて来るから、彼等は喜んで祖先伝来の田畑を耕すに至るのみならず、風儀も改善され、農事上の改良も行われて来る。即ち日本国一般が、意義ある生活を営む様になる。また一方から解釈すれば、女子が学問をすれば生意気になるということは、学問の無い女子が多数であるから、少しばかり学問があると威張り得らるるからであるとも言える。さればすべての女子に学問ありとすれば、自然生意気の者も無くなる道理である。要は人として、妻として、母として、はた独身者として、女子の学問は益々必要である。これ即ち時勢の要求であり、国家の希望であることを深く玩味がんみしてもらいたい。





底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「大和なでしこ 第十二卷第四號」大日本女學會
   1912(明治45)年2月15日発行
初出:「大和なでしこ 第十二卷第四號」大日本女學會
   1912(明治45)年2月15日発行
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2020年8月28日作成
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