三月二十日 月曜日
むかし、あるところに、ひとりの少年がいました。年は十四ぐらいで、からだは大きくアマ色の
髪の毛をしていました。この子は、たいして役にもたちませんでした。
眠っては、たべるのがいちばんの
楽しみで、おまけに、いたずらをするのが大すきという子だったのです。
ある
日曜日の朝のこと、おとうさんとおかあさんは、
教会へいくしたくをしていました。少年はシャツ一
枚になって、テーブルのふちに
腰をかけ、こいつはしめた、おとうさんとおかあさんがいってしまえば、二時間ばかりはすきなことがしていられるぞ、と思いました。そこで、「よし、おとうさんの
鉄砲をおろして、打ってやれ。だれにもおこられやしないからな。」と、ひとりごとを言いました。
けれども、おとうさんは、まるで子どもの考えていることを見ぬきでもしたようでした。だって、そうでしょう。おとうさんは出かけようとして、しきいをまたごうとしたとき、急に立ちどまったかとおもうと、子どものほうを
振りかえって、こう言ったのです。
「おまえがおかあさんやおとうさんといっしょに教会へいきたくないのなら、
家にいてもいいが、せめてお
説教だけは読んでおきなさい。おまえにその約束ができるかね?」
「はい、できます。」と、少年は答えました。でも、もちろん、おなかの中では、読みたいだけしか読んでやるもんか、と思っていました。
少年は、おかあさんがこんなにすばしこく何かするのを、いままでに一ども見たことがありません。おかあさんはたちまち
本棚のところへいって、ルーテルの
説教集をおろし、その日のお説教のところを
開いて、
窓ぎわのテーブルの上におきました。それから、
聖書を開いて、これも説教集のそばにおきました。さいごに、おかあさんは大きなひじかけイスをテーブルのそばに引きよせました。このイスは、去年、ヴェンメンヘーイの
牧師館であった
競売のときに買ってきたものでした。そして、いつもは、おとうさんのほかは、だれも
腰かけてはいけないことになっていました。
おかあさんは、よけいな
世話をやきすぎる、と少年は心の中で思っていました。なぜって、少年としては、一ページか二ページぐらいしか読むつもりはなかったのですから。けれども、またしても、おとうさんは少年の心の中を見すかしたようでした。おとうさんは少年のそばへやってきて、きびしい
調子でこう言いました。
「よく気をつけて、ちゃんと読むんだぞ。おれたちが帰ってきたら、一ページ
残らずきくからな。もしちょっとでも
飛ばしていたら
承知しないぞ。」
「お説教は十四ページ半あるのよ。」おかあさんは、まるで、はっきりさせておこうとでもいうように、こう言いました。「読んでしまおうと思うんなら、すぐにはじめなくちゃだめよ。」
こう言いのこして、おとうさんとおかあさんは出ていきました。少年は戸口に立って、あとを見送りながら、きょうは、とうとうつかまっちまった、と、あきらめました。
「おとうさんとおかあさんは、
るすの間じゅう、ぼくがお説教を読んでいなければならないようにうまくしむけて、うれしがっているんだ。」
ところが、おとうさんとおかあさんにしてみれば、うれしがっているどころではありません。心から
悲しんでいるのでした。ふたりは
貧しい
百姓でした。持っている土地といえば、わずかに庭ぐらいの大きさのものでした。ふたりがここへ
移ってきたときには、ブタを一
頭とニワトリを二
羽飼っているだけでした。しかし、ふたりともふつうの人以上によく
働く
勤勉な人たちでしたから、いまでは牛やガチョウも飼えるようになりました。
暮らしむきもたいへんよくなっていました。ですから、子どものことさえ気にかからなかったら、こんなすばらしい朝には、はればれとした、みちたりた気もちで、教会へもいけたことでしょう。おとうさんは、少年が、ぶしょうで、なまけもので、学校へいっても何一つ
勉強しようともしないし、ガチョウの
番がどうにかこうにかつとまるといったあんばいの、のらくら者であることを、しょっちゅうこぼしていました。おかあさんは、そのことにたいしては、べつに反対はしませんでした。けれども、少年がらんぼうで、
意地が
悪く、生き物にたいしては
ざんこくで、人びとにたいしてはよくないことばかりするので、それを何よりも心配していました。
「ああ、どうか
神さまがあの子のいじわるなところをなくして、心を入れかえてくださいますように!」と、おかあさんはため
息をついて言うのでした。「さもないと、いつかは、あの子もあたしたちも、ふしあわせになってしまいます。」
少年は、お説教を読んだものかどうかと、長い間じっと考えこんでいました。でも、けっきょく、いまは言いつけに
従うのがいちばんだと思いました。そこで、
牧師館のひじかけイスに
腰をおろして、読みはじめました。けれども、低い声でしばらくブツブツ言っているうちに、
眠たくなってきて、まもなくコックリコックリしはじめました。
外はすばらしいお天気でした。まだ三月二十日になったばかりですが、少年の住んでいる村は、
南部スコーネのずっと南の、西ヴェンメンヘーイにありました。そこにはもう春の
香りがみちみちていたのです。木々はまだ
緑になってはいませんが、いたるところに新しい
芽がもえでています。
堀という堀には水がいっぱいで、堀ばたにはフキの花がひらき、
石壁の上に
生えている草の
茂みは、つやつやとして
褐色になっています。はるかかなたのブナの森は、みるみるうちに大きくふくらんでいくように見えます。空は高く、青くすんで、頭の上にひろがっています。家の戸がすこし
開いているので、部屋の中でもヒバリのさえずる声が聞こえます。ニワトリとガチョウたちは庭をあるきまわっていました。牛は、春のけはいが牛小屋の中にまではいってきたのを感じて、ときどきモウ、モウと
鳴きました。
少年は読んだり、コックリコックリしたり、
眠るまいとがんばったりしました。「眠っちゃだめだ。」と、少年は思いました。「眠ったら、午前中にお
説教は読みきれっこないぞ。」
けれども、とうとう、ねこんでしまいました。
どのくらい眠ったのか、じぶんでもわかりませんでしたが、うしろのほうで、なにか
低い物音がするので、少年は、はっと目をさましました。少年のまん前の
窓台の上には、小さな鏡が一つおいてあります。その
鏡には、
部屋じゅうのものが、ほとんどぜんぶ
映って見えました。少年は頭をあげたとき、なにげなくこの鏡をながめました。すると、おかあさんの
長持のふたが
開けっぱなしになっているではありませんか。
おかあさんは、
鉄の
金具のついた、カシワの木でできている、大きな
重たい長持を持っていたのですが、これはおかあさんのほかは、だれも開けてはいけないことになっていました。おかあさんは、その中に、じぶんのおかあさんからゆずられたものや、とくべつたいせつなものを一つのこらずしまっていたのです。そこには、赤い
布地でつくった
古風な
百姓の着物――
短い
胴着、ひだのあるスカート、
真珠の
飾りのついた
胸着――がいくつか入れてありました。それから、
のりをつけて洗ったまっ白な
頭巾や、
重たい
銀の
装身具や、くさりなどもはいっていました。いまでは、こんなものを身につけようとする人はありません。おかあさんは、売ってしまおうかと思ったこともたびたびありましたが、思いきってそうする気にもなれませんでした。
ところで、少年は、長持のふたが
開いているのを、いま
鏡の中にはっきりと見ました。どうしたというのでしょう。さっぱりわけがわかりません。だって、おかあさんは出かけるまえに、ふたをちゃんと
閉めていったのです。だいいち、少年がひとりっきりで
るすをしているときに、長持を開けっぱなしにしておくようなことをするはずはありません。
少年はまったくきみが
悪くなってきました。どろぼうが
忍びこんできたのかもしれない……そう思うと、こわくなって、
身動きすることもできず、じっと
腰かけたまま、
鏡の中を見つめていました。
こうして、そこに腰かけて、どろぼうが
姿をあらわすのを、いまかいまかと待っていました。そのうちに、長持のふちに
黒い
影がさしているのを見つけました。おや、あれはなんだろう? よくよくながめてみましたが、どうしてもじぶんの目のせいとしか思えません。けれども、さいしょは影のように見えたものが、だんだんはっきりしてきますと、それは影ではなく、ほんとうの
生き物であることがわかりました。しかもまあ、なんということでしょう、それは、
小人ではありませんか。その小人がいま、長持のふちにまたがっているのです。
少年はいままで小人のことを話には聞いていましたが、こんなにちっぽけなものだとは
夢にも思ったことがありませんでした。いまそこの長持のふちに腰かけている小人は、
せいはやっと十センチかそこらです。そいつは年とった、しわだらけの
顔をしていて、ひげはありません。すその長い黒の
上着をきこんで、半ズボンをはき、つばの広い黒い
帽子をかぶっています。なかなか
いきで、スマートです。
えりや、そで口には白いレースをつけ、
締金でとめた
靴をはき、靴下どめにはチョウ型リボンがむすんであります。ちょうどいま、小人は長持の中から
縫取のしてある
胸着を取りだして、感心した顔つきでその
古風なつくりかたを
眺めています。それで、少年が目をさましているのには、すこしも気がついていません。
少年は、小人を見たときには、すっかりびっくりしてしまいましたが、べつにこわくはありませんでした。そうでしょう。こんなちっぽけなものを、こわがるわけはありませんもの。それに、小人は
珍らしい胸着を見るのに
夢中になっていて、ほかのことは耳にも目にもはいらないようすです。そこで、さっそく、少年は、よし、あいつを長持の中におしこめて、ふたをするとかなんとか、ひとつからかってやれ、という気になりました。
でも、さすがに、小人にさわる気にはなれません。それで、何か小人をたたくものがないかと、
部屋の中を見まわしました。まず、長イスからテーブルへ、テーブルから
だんろへと目を走らせました。そして、
だんろのそばの
棚の上にのっている
鍋やコーヒーわかしや、戸口にある
水桶や、はんぶん
開いている戸棚の中に見えるさじやナイフやフォークや
鉢やお
皿まで眺めわたしました。つづいて、おとうさんの
鉄砲を見あげました。これは、
壁にかかっているデンマークの国王と
皇后の
肖像画のそばにかけてありました。それから、
窓台のところに
咲いているテンジクアオイやフクシャを
眺めました。こうして、いちばんおしまいに、窓の
横木にかけてある古い虫とり
網に目をとめました。
この虫とり網を見るが早いか、少年は
跳ねおきて、それをひっつかむと、長持のふたをさっとすくいました。と、どうでしょう。まったく、うまいものです。じぶんでもびっくりしてしまったくらいです。どうしてこんなにうまくいったのか、いっこうにわかりません。でも、ともかく、小人はこうして、
生けどってしまったのです。かわいそうに、小人は長い
網の底のほうに、さかさまになってころがっています。これでは、とうてい
逃げられっこありません。
さて、少年は、つかまえてはみましたが、さいしょのうちは、この小人をどうしたらいいのか、
見当がつきませんでした。ただ、小人が
這いあがってくることができないように、ひっきりなしに網をゆり動かしていました。
そのうちに、小人が口をきいて、どうか
許してください、といくたびもいくたびも
頼みました。そして、じぶんはこの
家のために、長い間ずいぶんいいことをしてきたのだから、もうすこし、よくしてくれたっていいはずだ、もし、少年がじぶんを許してくれるなら、古いお
金を一
枚と、
銀のさじを一本と、それに
金貨も一枚あげよう、その金貨といったら、少年の父親の
銀時計の
側っくらいもある大きなものだと、言いました。
小人の申し出たお
金は、それほどたいしたものとは思いませんでしたが、少年は小人をつかまえてからというもの、なんとなくこわくなっていました。つまり、この世のものではない、きみのわるい、何かふしぎなものとかかりあいになったのを感じていたのです。ですから、小人を逃がしてやることは、じつをいえば、うれしくてたまらなかったのです。
こういうわけで、少年はすぐさまその
申し
出を
承知しました。そして、小人が
這いだせるように、網をゆり動かすのをやめました。けれど、小人が網から出かかったとき、少年は、ふと、逃がしてやるかわりに、もっといろんなものがもらえるように、きめておけばよかった、と、思いつきました。まあ、せいぜい、小人が
魔法でもって、あのお
説教をおぼえさせてくれることくらいは、取りきめておくべきでした。
「ただ
逃がしてやるなんて、なんてぼくはバカなんだ。」と、少年は思いました。そこで、
小人がもう一ど
網の
底へころがり落ちるように、またまた網をゆすりはじめました。
ところが、少年が網をゆすりはじめたとたん、ほっぺたをいやっというほどなぐりつけられました。まるで、頭がメチャメチャになってしまったのではないかと思われました。そして、一ぽうの
壁にたたきつけられたかと思うと、こんどはもう一ぽうの壁にぶっつかり、しまいには
床の上にぶったおれて、そのまま気を
失ってしまいました。
気がついたときには、
家の中にひとりっきりでした。もう小人の
姿はどこにも見えません。
長持のふたはちゃんとしまっています。虫とり
網も
窓ぎわのいつものところにかかっています。ですから、さっきなぐられた右のほっぺたがヒリヒリしなかったら、少年はたぶん、みんな
夢だったんだと、思ったことでしょう。
「こんなことを話したって、おとうさんやおかあさんは、そりゃ夢さ、と言うだろうな。」と、少年は思いました。「小人が来たからって、お説教をかんべんなんかしてくれっこない。いそいで読むよりほかないや。」
ところが、テーブルのほうへいこうとしますと、なんだかいつもとようすがちがっています。でも、
部屋が大きくなるなんてはずはありません。それなら、テーブルのところへいくのに、いつもよりずっとよけいに歩かなければならないというのは、いったいどうしたわけでしょう? それに、イスだってまた、どうしたというのでしょう? まえよりも大きくなったはずなどありませんが、少年が
腰かけようとするには、いったんイスの足のあいだの
横木にのぼって、それからすわるところによじのぼらなければなりません。テーブルにしたって、すっかり同じことです。テーブルの上を見ようとすれば、イスのひじかけの上にのぼらなければならないのです。
「いったい、どうしたっていうんだ?」と、少年は言いました。「そうだ、きっと小人が、ひじかけイスにも、テーブルにも、そればかりか、
部屋じゅうに
魔法をかけたんだな。」
説教集はテーブルの上にありました。見たところ、
変わったようすはありません。でもやっぱり、ちょっと
へんなところがあるようです。なぜって、少年は本の上にのぼらなければ、一字も読むことができないのです。
少年は二、三行読むと、なにげなく
顔をあげました。すると、ちょうど
鏡に目がとまり、とたんに、大声でさけびました。
「やあ、あそこにまた、べつのやつがいるぞ!」
そのとおりです。少年は鏡の中に、とんがり
帽子をかぶり、
革ズボンをはいたちっぽけな小人をはっきりと見たのです。
「あいつは、ぼくとまるっきり、おんなじかっこうをしているな。」少年はこう言いながら、びっくりして手をたたきました。と、どうでしょう、鏡の中の小人も同じように手をたたくではありませんか。
そこで少年は、
髪の毛をひっぱったり、
腕をつねったり、ぐるっとまわったりして見ました。すると、鏡の中の小人も、すぐそのとおりにするのです。
それから少年は、鏡のまわりを二、三どかけまわりました。ひょっとしたら、鏡のうしろにちっぽけな者でもかくれていやしないかと思ったのです。けれども、鏡のうしろにはだれもいません。こうなると、少年はこわくなって、からだじゅうがブルブルふるえてきました。そのはずです。じぶんは小人に
魔法をかけられたということが、いまはじめてわかったのですもの。鏡の中に見えたちっぽけな小人は、まちがいようもなく、少年じしんの姿だったのです。
少年は、自分が
小人になってしまったとは、どうしても信じることができませんでした。
「こいつはきっと
夢なんだ、気の
迷いなんだ。ちょっと待ってりゃ、すぐまたもとの人間になれるだろうさ。」こう思いながら、
鏡の前に立って、目をつぶりました。そして、こんなバカバカしいことが
消えてなくなってしまえばいいと
願いながら、二、三分して目をあけました。ところが、なんの
変わりもありません。やっぱりまえと同じようにちっぽけなままの姿です。白っぽいアマ色の
髪の毛、
鼻の上の
そばかす、
革ズボンにあてた
つぎ、
靴下の
穴、なにもかもが、もとのとおりです。そしてただ、からだだけが、ひどくちっぽけになっているのです。
いや、こうやって立って待っていたところで、どうにもなりゃしない。なんとかしなくちゃだめだ。そうだ、いちばんいいのは、小人をさがしだして、
仲なおりをすることだろう。
こう思うと、少年は
床にとびおりて、さっそく、さがしはじめました。イスや
戸棚のうしろから、長イスの下や
だんろのうしろまでさがしました。そのうえ、ネズミの
穴にまで
這いこんでみましたが、小人の姿はどこにも見あたりません。
少年はさがしながらも、泣いたり、
祈ったり、思いつくはしからさまざまのことを
誓ったりしました。これからは、けっして約束をやぶったりしません。いじわるもしません。お
説教のときにいねむりもしません。もう一ど人間の姿になれさえしたら、きっと、おとなしい、りっぱな、いい子になります……けれども、いくら誓ってみたところで、なんの役にもたちませんでした。
小人はよく牛小屋に
住んでいると、いつだったか、おかあさんが言っていたのを、少年はふっと思いだしました。そこで、さっそく牛小屋へいって、小人がいるかどうか、さがしてみることにしました。ありがたいことに、戸口がすこし
開いていました。だって、もしそうでなかったら、
錠まで手がとどかないのですから、戸を開けることができなかったでしょう。ともかくこうして、らくに
抜けでることができました。
玄関に出たとき、じぶんの
木靴はどこにあるかと見まわしました。いままで部屋の中では、
靴下しかはいていなかったのですからね。少年は心のうちに思いました。あんなに大きな、
重たい木靴を、いったいどうしてはいたもんだろう。
でもそのとき、よく見ますと、入口のところにちっぽけな木靴が一
足そろえてあります。おや、おや、小人は木靴まで小さくするほど気をつかっているのです。それがわかりますと、少年はひどく心配になってきて、「あいつめ、ぼくにこんなみじめな思いを長いことさせておくつもりなんだな。」と、思いました。
戸口の前においてある古いカシワの板の上を、スズメが一
羽ピョイピョイととびはねていました。スズメは少年の姿を見たとたんに、さけびたてました。
「チュン、チュン、ごらんよ、ガチョウ
番のニールスを! あのチビ
小僧を見てごらん! チビ小僧のニールス・ホルゲルッソンを見てごらん!」
すると、たちまち、ガチョウもニワトリも、ニールスのほうを
振りむきました。そうして、みんなは、ものすごい
勢いで
鳴きたてました。
「コケッコッコ。」と、オンドリはがなりたてました。「ばちがあたったんだ! コケッコッコ、おれのトサカをひっぱったのはあいつさ!」
「コ、コ、コ、コ、ばちがあたったのよ!」と、メンドリたちは、鳴きたてました。そして、いつまでもいつまでもさけびつづけました。
ガチョウたちはかたまって、たがいにささやきあいました。
「だれがあんなにしたんだい? だれがあんなにしたんだい?」
しかし、何よりもふしぎなのは、鳥のしゃべっていることがニールスによくわかることでした。ニールスはあんまりびっくりしてしまって、入口のところにつっ立ったまま、ぼんやりとただ聞いていました。
「こりゃあ、きっと、ぼくが小人になったからなんだろう。それで、鳥のことばがわかるんだ。」と、ニールスは言いました。
ニワトリたちはいつまでも、ばちがあたった、ばちがあたった、とさけびつづけています。ニールスはがまんができなくなりました。そこで、石をぶっつけて、どなりました。
「だまれ! こんちくしょう!」
ところが、つい、だいじなことを
忘れていました。それはほかでもありません、ニールスは、いまではニワトリたちからこわがられるほど大きくはないのです。ニワトリたちはニールスめがけて走ってきて、そのまわりをとりかこむと、またまた、さけびました。
「コ、コ、コ、コ、ばちがあたった! コ、コ、コ、コ、ばちがあたった!」
ニールスは
逃げようとしました。けれど、ニワトリたちがあとからとびかかってきては、大声にどなるので、耳がツンボになりそうです。もしもそのとき、ネコがそこへ来てくれなかったら、きっと逃げだすことができなかったでしょう。ニワトリたちはネコの姿を見ますと、たちまちだまりこんで、
地面をつつきまわしては、一生けんめい虫をさがしているようなふりをしはじめました。
ニールスはさっそく、ネコのところへかけていきました。
「ミーや、おまえはこの庭なら、すみのすみから
隠れ
穴まで、すっかり知ってるだろう? いい子だから、小人がどこにいるか教えておくれよ。」
ネコはなかなか返事をしませんでした。そこへすわって、しっぽをかわいらしく前足のまわりにまきつけてから、少年を
眺めました。大きな黒いネコで、
胸にぽっつり白いところがあります。毛なみはつやつやしていて、お日さまの光をうけると、きれいに
輝きました。
爪はおさめていました。目は
灰色で、まんなかに小さな黒い
点が見えました。見るからにおとなしそうな黒ネコです。
「小人がどこに
住んでいるかぐらい、もちろん知ってるよ。」と、ネコはやさしい声で言いました。「といったって、きみに教えてやろうとは思っちゃいないよ。」
「かわいいミーや、ぼくを
助けておくれよ。」と、ニールスは言いました。「ぼくが
魔法にかけられているのがわからないの?」
ネコが目をすこしあけますと、いじわるそうなようすがあらわれてきました。それから、満足そうにのどをゴロゴロならして、とうとうこう答えました。
「このぼくが、きみを助けるんだって? きみはあんなにしょっちゅう、ぼくのしっぽをひっぱったじゃないか。」
ニールスは、しゃくにさわってしかたがありません。それで、いまはじぶんがちっぽけな
弱い者になっていることを、またまた
忘れてしまったのです。
「よし、そんなら、もう一ど、しっぽをひっぱってやるぞ、いいか。」こう言って、ネコにとびかかりました。
その
瞬間、ネコはいままでのネコとは思えないほど、すっかり
変わってしまいました。毛をさかだて、せなかをまるめ、足をのばしました。
爪は地面をひっかきしっぽは
短かく
太くなり、耳はつったち、口からは
あわをふき、目は大きくひらいて、
ほのおのように
輝きました。
ニールスは、ネコなんかにおどかされてたまるものかと、なおも前にでていきました。しかし、ネコはおどりあがって、ニールスにとびかかり、そこにたおしてしまいました。そして、口を大きく
開けて、ニールスの
のどをねらいながら、前足で
胸をおさえつけました。
ニールスは、ネコの
爪がチョッキやシャツをとおして
肌までくいこみ、
鋭いキバがのどをくすぐったのを感じました。ああ、たいへん! ニールスは声をかぎりに
助けをもとめました。
けれども、だれも来てはくれません。ニールスは、いよいよおしまいかと思いました。ところが、どうしたわけか、そのとき、ネコは爪をひっこめて、のどもはなしてくれました。
「そら、」と、ネコは言いました。「このくらいで、もういいだろう。きょうのところはかんべんしといてやる。きみのおかあさんにめんじてだ。なあに、きみとおれとではどっちが強いか、知らせてやったまでのことさ。」
こう言いすてて、ネコは帰っていきました。そのようすは、来たときと同じように、すなおで、いかにもおとなしそうです。ニールスはがっかりして、ものを言う元気もありません。これでは、いよいよ
小人を見つけるよりほかはないのです。そこで、おおいそぎで牛小屋へ、かけていきました。
牛小屋には、牛は三
頭しかいませんでした。ところが、ニールスが、はいっていったとたんに、三頭ともほえはじめました。まあ、そのさわがしいことといったら、どうみても三十頭は、いるのではないかと思われるほどでした。
「モウ、モウ、モウ、」と、マイルースがほえました。「この世の中にまだ
正義ってものがあるのは、けっこうなことだ。」
「モウ、モウ、モウ、」と、こんどは三頭がいっせいに
鳴きたてました。何を言っているのやら、とてもわからないほど、メチャメチャに、がなりたてました。
ニールスは小人のことをきいてみたかったのですが、牛たちがすっかりのぼせあがっているので、じぶんの言いたいことを牛たちに聞かせることができませんでした。牛たちは、まるで見なれない犬をけしかけられたときのように、あばれるのです。
後足でける、
首輪をゆすぶる、頭をぐっと上へむけて
角をふりたてる、といったありさまです。
「オイッ、ちょっとここへ来な!」と、マイルースが言いました。「
ぐんとこたえるように、
一けり、けってやろうじゃないか。」
「ここへおいで!」と、グルリリアが言いました。「あたしの
角の上でちょいと
踊らせてあげるよ。」
「ここへおいでよ、おいで。おまえに
木靴をぶっつけられると、どんな思いをしたものか、ひとつおまえにも知らせてあげるから!」と、シェルナは言いました。
「さあ、おいでったら。おまえがあたしの耳にハチを入れてくれたお
礼を、いましてあげるよ!」と、グルリリアはさけびました。
マイルースはいちばん年とっていて、いちばんりこうな牛でした。そして、中でもいちばん
怒っていました。
「ここへこい。おまえはおかあさんから、
牛乳のしぼり
台を、なんどもなんどもひったくったな。それから、おかあさんが
牛乳桶を
運んでいるときに、いろんないたずらをしたっけな。おかあさんはおまえのために、ずいぶん
涙を流したものだ。いまそのお礼をみんなしてやるぜ。」
ニールスは、いままでのひどい
しうちをどんなに
後悔しているか話したり、小人がどこにいるかを教えてくれさえすれば、これからはきっと、いい子になる、と言いたかったのです。けれど牛たちは、ニールスの言うことなどに、てんで耳をかしてはくれません。たけりたってほえていますので、もしかして、つないである
綱が切れはしないかと心配になってきました。そこで、ニールスは、牛小屋からそっと
抜けだすよりほかはないと思いました。
ニールスは、やっとの思いで
逃げてはきましたが、すっかりがっかりしてしまいました。むりもありません。家じゅうどこへいっても、小人をさがす
手助けをしてくれる者はないのですもの。それに、こんなぐあいでは、小人を見つけだしたところで、たいして役にはたたないでしょう。
ニールスは
幅の広い
石垣によじのぼりました。石垣は
農場をとりまいていて、その上にはイバラやイチゴのつるが、いちめんにからまっていました。ニールスはそこに
腰をおろして、つくづく考えました。もしも人間の姿にもどれなかったら、いったいどうなるんだろう。おとうさんとおかあさんが
教会から帰ってきたら、どんなにびっくりするだろう。それどころか、国じゅうの人たちがみんなびっくりするだろう。そして、じぶんを
見物しようとして、東ヴェンメンヘーイからもトルプからもスクーループからも、たくさんやってくるだろう。いや、ヴェンメンヘーイじゅうの人たちが集まってくるだろう。そして、おとうさんとおかあさんは、じぶんを
市につれていって、見せ物にするかもしれない。
ああ、そんなことは思ってみただけでも、じつにこわいことです! こうなったうえは、もうだれにも姿を見られたくありません。
ああ、それにしても、なんという、ふしあわせな少年でしょう。これほど、ふしあわせな者は、世界じゅう、どこをさがしたってありません。この子はもう人間ではないのです。いまではちっぽけな
化物です。
ニールスは、もう人間ではないということが、いったいどんなことなのか、だんだんわかってきました。いまでは、すべてのものから切りはなされてしまったのです。もうほかの子どもたちと
遊ぶこともできません。おとうさんおかあさんのあとつぎをすることもできません。それに、こんなじぶんのところへは、お
嫁にきてくれるひともないでしょう。
少年は、わが
家をながめました。それは、白くぬってある小さな
百姓家でした。とんがった、高いわらぶき
屋根をいただいていて、まるで地面の中にめりこんでいるようなかっこうです。
納屋も小さく、そのうえ、
畑の小さいことといったら、それこそ、馬でさえふりむいても見ないくらいです。だけど、どんなにちっぽけで、
貧弱でも、いまのニールスにとっては、よすぎるほどでした。なぜって、いまのこの身の上では、牛小屋の
床下の
穴よりも
ましな
家に住むことなど、とても望めないことですからね。
びっくりするほどすばらしいお天気でした。少年をとりまくすべてのものが、何かヒソヒソとささやいていました。
新芽は、いきいきともえでて、鳥は
楽しそうにさえずっていました。けれども、ニールスの心は
沈んでいました。これからはもう、どんなものを見ても、いままでのように、うれしいと思うことは二どとないでしょう。ニールスは、きょうのように空が青くすんでいるのを見たことがありません。見れば、
渡り鳥が
飛んでいます。その鳥たちは遠い外国から飛んできて、バルト海をこえ、スミューエ
岬に
上陸して、いましも北をさして飛んでいくところだったのです。いろんな種類の鳥がいましたが、ニールスの知っているのはガンだけでした。ガンのむれは、クサビ
型に長い
列をつくって、飛んでいました。
ガンのむれは、もういく
組もいく組も飛んでいきました。みんな空を高く飛んでいきましたが、それでも、「さあ、
丘へいくんだ! さあ、丘へいくんだ!」とさけんでいるのが聞こえました。
ガンは、庭をぶらぶらしているガチョウを見つけると、さっと
舞いおりてきて、「いっしょにこいよ! いっしょにこいよ! さあ、丘へいくんだ!」と、大きな声で
呼びかけました。
ガチョウたちは、思わずしらず頭をあげて、耳をすましました。けれども、すぐにふんべつのある返事をしました。
「ここで、たくさん! ここで、たくさん!」
まえにも言ったとおり、たとえようもないほどすばらしいお天気でした。こんなにさわやかで気もちのいい日に、あの大空を飛びまわったら、さぞ
楽しいことでしょう。じっさい、新しいガンのむれが、頭の上を飛びすぎるたびに、ガチョウたちもじっとしてはいられなくなってきました。なんだか、いっしょに飛んでいきたいような気もちにさそわれて、ガチョウたちは、二、三ど、
はねをバタバタやってみました。でも、そのたびに、年とったおかあさんガチョウが言いました。
「バカなまねをするんじゃないよ。あの
連中は、いまにおなかがすいたり、
寒くてこごえたりするにきまってるんだから。」
まっ白な一
羽の若いオスのガチョウは、ガンのさけび声を聞いているうちに、どうしても
旅に出かけたくなってしまいました。そして、
「このつぎ、ガンのむれがきたら、いっしょにいこうっと。」と、さけびました。
やがて、新しい
一むれが飛んできました。そして、まえと同じように呼びかけました。すると、若いガチョウは、「待って、待って! ぼくもいくよ!」と、さけびました。そうして、
はねをひろげて、空に
飛びあがりました。けれども、飛ぶのには
慣れていないものですから、バタッと地面の上に落っこちてしまいました。
でも、とにかく、若いガチョウのさけび声は、ガンのむれまで聞こえたのにちがいありません。ガンたちは向きをかえて、ゆっくりと
舞いもどってきました。ほんとうにいっしょにくるのかどうか、たしかめようというのでしょう。
「待って! 待って!」と、若いガチョウはさけびながら、もう一ど、飛ぼうとしました。
ニールスは
石垣の上から、これをのこらず聞いていました。「あの大きいガチョウに
逃げられたら、
大損害だぞ。」と、少年は思いました。「教会から帰ってきて、あいつがいなかったら、おとうさんとおかあさんは、どんなにがっかりするだろう。」
こう考えたときニールスは、またもや、じぶんがちっぽけで
弱い者になっていることをすっかり忘れていました。すぐさま石垣からとびおりると、ガチョウのむれのまんなかに
駆けこんで、その若いガチョウの
首っ
玉にかじりついて、さけびました。
「
飛んでっちゃだめだよ、いいかい!」
ところが、ちょうどその
瞬間に、ガチョウは地面から飛びあがる
こつをのみこんでしまったのでした。そして、ニールスを
振り
落すひまもなく、この子をつれたまま空に
舞いあがってしまいました。
ニールスは、上へ上へとつれていかれました。それこそ目まいがするほどものすごい早さです。ああ、これはいけない、ガチョウの首をはなさなければ、と気がついたときには、もう空高くのぼっていました。こんな高いところから落っこちれば、あっというまに死んでしまうでしょう。
せめて、もうすこしらくな
姿勢にでもならなければたまりませんが、そのためには、ガチョウのせなかによじのぼるよりほかありません。それで、ニールスは、さんざん
骨をおって、やっとのことでガチョウのせなかにのっかりました。けれど、
羽ばたいている二つの
はねのあいだの、ツルツルしたせなかにしっかりとのっかっているのは、なかなかたいへんなことでした。ですから、ころがり落ちないように、両手を
はね毛の中までつっこんで、一生けんめいしがみついていました。
少年はひどく
めまいがして、長いこと何がなんだかわかりませんでした。風はピュウピュウうなりをたてて、吹きつけてきます。すぐそばでは、つばさがバタバタと
羽ばたき、その音は、ものすごい
嵐のようです。十三
羽のガンはニールスのまわりを
飛んで、
勢いよく羽ばたきながら、ガアガア
鳴きたてています。ニールスは目さきがチラチラし、耳がガンガン鳴っています。いったい、高いところを飛んでいるのか、低いところを飛んでいるのか、そしてまた、どこへ向かって飛んでいるのか、さっぱりわかりません。
でも、そのうちに、頭がだんだんはっきりしてきて、いったい、どこへつれていかれるのか、それを見きわめなければいけないぞ、と、ニールスは気がつきました。けれども、それは、なまやさしいことではありません。下を見る
勇気なんて、とてもわいてきそうもないのです。ちょっとでも下を見ようとすれば、きっと目がまわってしまうでしょう。
ガンたちは、それほど高いところを飛んではいませんでした。というのは、新しく
仲間になったあのガチョウが、空気のすくない高いところで
息をするのになれていなかったからです。それでみんなは、いつもよりも、いくらかゆっくり飛んでいるのでした。
とうとう思いきってニールスは、下を見おろしました。目の下には、まるで、とても大きな
布がひろげられているようです。そして、その布は、大小さまざまの、かぞえきれない四角い形にわかれています。
「いったい、どこへ来たんだろう?」と、ニールスはふしぎに思いました。
見わたすかぎり、目に
映るものは、
市松もようばかりです。ななめになっているものもあれば、細長いものもありますが、どれもこれも、まっすぐの
線にかこまれた四角い形ばかりです。円いのや、まがったのは一つもありません。
「下に見えるのは、なんて大きな
市松もようなんだろう?」だれも答えてはくれないだろうとは思いながらも、ニールスはこうひとりごとを言いました。
ところが、ニールスのまわりを
飛んでいるガンたちがすぐにさけびました。
「
畑と
牧場だよ! 畑と牧場だよ!」
そう言われてみますと、なるほど、下に見える大きな市松もようは、スコーネの
平野です。そして、それがどうしてこんな市松もように見え、いろんな色に見えるかも、だんだん、のみこめてきました。あかるい
緑色の四角が、まっさきに目につきました。それは、
去年の秋に
種をまいたライ
麦畑です。冬じゅう雪の下でも、ずっと緑の色をしていたのでした。黄色っぽい
灰色の四角は、去年の夏みのったカラス麦の畑で、いまは
刈り
株がのこっているのです。
褐色がかったのは
枯れたクローヴァの野原で、黒いのは
牧場のあとや、いまは
耕されていない
休閑地です。褐色で、はしの黄色い四角は、たしかブナの森にちがいありません。なぜって、そこには、森のまんなかにあって、冬には葉の落ちてしまう大きな木々も見えますし、森のへりに
生えている若いブナの木が、黄色くなった葉を春までつけているのも見えています。それから、まんなかがいくらか灰色の黒ずんだ四角もありました。それは黒くなった
わらぶき屋根のある大きな
百姓家で、
前庭には石がしいてあるのです。それからまた、まんなかが緑で、ふちが褐色の四角も見えました。そこは
庭園でした。そこでは、
芝生はもう緑に色づいていたのですが、まわりのやぶや木々は、まだ、はだかで、
褐色の木の
肌を見せているのでした。
ニールスは、あんまりなにもかもが市松もように見えるので、思わずおかしくなって、ふきだしてしまいました。
けれども、ガンたちはニールスがふきだしたのを聞きつけますと、とがめるようにどなりました。
「
肥えたよい
土地だ! 肥えたよい土地だ!」
ニールスはすぐ、まじめになりました。そして、「こんなこわい目にあってるというのに、ぼく、ふきだしたりして。」と、思いました。
しばらくのあいだは、まじめくさっていましたが、ニールスはすぐまた笑いだしてしまいました。
こうして、ガチョウのせなかに乗っているのにも、早く
飛ぶのにも、なれてきますと、ニールスはしっかりしがみついているだけでなく、ようやくほかのことも考えることができるようになりました。気がついてみますと、たくさんの鳥のむれが空を飛んでいます。みんな北をめざしています。そして、たくさんの鳥のむれは、おたがいにさけびあい、話しあっています。
「おや、あんたがたは、きょう来たんですな!」と、さけぶものがあります。
すると、ガンたちは、「そうですよ。で、どうでしょう、春らしくなってますかね?」と、ききました。
「木にはまだ一枚も
葉っぱはないし、
湖の水もつめたいですよ!」という
返事です。
ガンたちはニワトリが
遊んでいるところへ来ますと、大声にさけびました。
「ここはなんていうとこだい? ここはなんていうとこだい?」
すると、ニワトリが頭をぐっとあげて、答えました。
「ここは『
小畑』っていうんだよ。ことしも
去年とおんなじだよ。ことしも去年とおんなじだよ!」
このへんの
家は、たいてい、その持ち
主の名まえで、ペール・マッソンの家だとか、ウーラ・ボッソンの家だとか呼ばれています。それがスコーネ地方の
習慣なのです。けれどもニワトリたちは、そうは言わないで、ニワトリ
流に、いちばんふさわしいと思われる名まえをつけて呼んでいるのです。そこで、ガンたちが呼びかけると、
貧乏な
百姓家に住んでいるニワトリたちは、「ここは『
穀物なし』っていうんだ。」と、さけびますし、もっともっと貧乏な百姓家のニワトリは、「ここは『
食物なし、食物なし』さ。」と、どなります。
大きな、お金もちの
農家は、ニワトリたちからも『
幸い
畑』とか、『
卵山』とか、『
宝荘』といったように、すばらしい名まえをつけてもらっています。
ところで、
貴族のお
屋敷にいるニワトリともなれば、こうまんちきで、ひとから、からかわれでもすると、たいへんです。そんなニワトリの一
羽が、天までとどけとばかり、声をかぎりにさけびました。
「ここはデュベックさまのお屋敷だぞ! ことしも
去年とおんなじだ。ことしも去年とおんなじだ。」
もうすこしさきへいきますと、一
羽のニワトリが、もったいぶって呼ばわりました。
「ここぞスヴァーネホルム、その名も高きスヴァーネホルム!」
ニールスが気がついてみますと、どうやら、ガンのむれは一
直線に
進んではいないのです。みんなはスウェーデンの南部の地方を、あちこちと
飛びまわっているのです。まるで、このスコーネ地方にまた来ているのがうれしくてたまらず、一つ一つの場所にいちいちあいさつしていきたいとでも思っているようです。
そのうちに、高いエントツの立っている大きな広い
建物がたくさんあって、そのまわりに小さい
家がいくつも
並んでいるところへ来ました。
「ここはヨルドベリヤの
精糖工場! ここはヨルドベリヤの精糖工場!」と、そこのニワトリたちが大きな声で言いました。
ニールスは、ガチョウのせなかで、思わずはっとしました。それなら、じぶんも知っているはずです。ここはおとうさんとおかあさんの家からそんなに遠くはありません。それに、去年、ここでガチョウ
番にやとわれていたことがあるのです。けれども、いま高い空から見おろしますと、なにもかも、すっかりようすがちがっています。
うん、そうだ! ガチョウ番の女の子のオーサと小さいマッツは、あのときぼくの
仲間だったっけ。あそこにまだいるだろうか。ぼくがいま、ふたりの頭の上を
飛んでいるのを知ったら、ふたりはなんて言うだろうなあ!
まもなく、ヨルドベリヤは見えなくなってしまいました。こんどはスヴェーダーラとスカーベル
湖のほうへ飛んでゆき、それからまたベリンゲクローステルとヘッケベリヤの上に
舞いもどってきました。ニールスは、たった一日でも、いままでの長い年月のあいだに見たよりも、スコーネ地方のずっといろんなところを見ることができました。
ガンのむれが地上にガチョウたちを見つけたときは、ほんとにゆかいです。そんなときには、みんなはゆっくりと飛んで、地上にむかってさけぶのでした。
「これから
丘へゆくんだぜ! いっしょにこないかい! いっしょにこないかい!」
けれど、ガチョウたちは答えました。
「まだこの国は冬なんですよ! ちょっと早すぎますね! まあ、お帰り、まあ、お帰り!」
ガンたちは、もっとよく聞こえるように、ぐっと
舞いおりて、大声で言いかえしました。
「いっしょにこないか。飛びかたも
泳ぎかたも教えてやるぜ!」
そう言われると、ガチョウたちはプンプン
腹をたてて、もうひとことも返事をしませんでした。
ガンたちはいまにも、地面にさわりそうになるまで下へ下へと
舞いおりて、つぎの
瞬間、さもびっくりしたように、さっと
舞いあがり、「オヤ、オヤ、オヤ!」と、さけびました。「なあんだ、ガチョウじゃないや!
羊じゃないか! 羊じゃないか!」
それを聞いた地上のガチョウたちは、カンカンにおこって、どなりたてました。
「おまえたちなんか
殺されちまえ! 一
羽のこらず、一羽のこらず!」
ニールスはこの口げんかを聞いているうちに、思わず笑いだしてしまいました。けれど、いまのじぶんの
身のふしあわせを思いだしますと、
涙がこみあげてきました。でも、しばらくたつと、またもや笑いだしてしまうのでした。
ニールスはふだんから馬をらんぼうに走らせるのがすきでした。でも、これほど早く
駆けさせたことはありませんでした。そして、空の上はこんなにも気もちよく、しかも、下からは、土や木の
芽のヤニのにおいが、こんなにも、かんばしくにおってこようなどとは、
夢にも思ったことがありませんでした。そしてまた、こんなにも空高く飛ぼうなどとは、思ってみたこともありませんでした。こうしていると、まるで、ありとあらゆる
苦しみや
悲しみや
わずらわしさをのがれて、飛んでいるような気がするのでした。
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ガンのむれといっしょに
飛んでいる大きなガチョウは、ガンの
仲間にはいってスウェーデンの南の地方を飛びまわり、地上の
飼い鳥たちとふざけられるので、
大得意になっていました。でも、おもしろくはありましたが、お
昼すぎになると、だんだん、くたびれてきました。そこで、
深く
息を
吸って、もっと早く
はねを動かそうとしてみるのですが、どうしても、みんなからおくれてしまいます。
ずっとしまいのほうを
飛んでいるガンたちは、ガチョウがもうこれ
以上ついていけそうもないのを見てとりますと、クサビ
型の
先頭になって、みんなを
導いているガンにむかって呼びかけました。
「ケブネカイセのアッカさん! ケブネカイセのアッカさん!」
「なんの用だね?」と、ガンの
隊長はたずねました。
「白がおくれてます! 白がおくれてます!」
「
教えてやんなさい、早く
飛ぶほうが、ゆっくり飛ぶより
楽だって!」と、隊長はさけびかえして、まえとおなじようにグングン早く飛んでいきます。
ガチョウはその
忠告どおりに、早く飛ぼうと一生けんめいにやってみました。でも、そのうちに
疲れきって、とうとう、
畑と
牧場をとりかこんでいる、枝を
刈られたヤナギの
木立のほうへおりていきました。
「アッカさん! アッカさん! ケブネカイセのアッカさん!」しまいのほうのガンたちは、ガチョウが
弱ってきたのを見ますと、またもやこうさけびました。
「なんだね、こんどは?」と、隊長のガンはたずねましたが、ひどく
腹をたてたようすです。
「白がおりていきます! 白がおりていきます!」
「教えてやんなさい、高く飛ぶほうが、
低く飛ぶより
楽だって!」と、隊長は大声で答えました。
ガチョウはこんどもこの忠告に
従おうとしました。けれども高くのぼろうとしますと、息ぎれがして、まるで
胸がはりさけそうです。
「アッカさん! アッカさん!」と、またまたうしろのガンたちが呼びかけました。
「すこしはおちつかせてもらえないのかねえ。」と、
隊長はどなって、まえよりもいっそうきげんが
悪くなったようです。
「白がまいりそうです! 白がまいりそうです!」
「みんなといっしょに飛べないものは、
家へ帰るがいい、と、言ってやんなさい!」と、隊長はさけびました。ガチョウのために、すこしゆっくり飛んでやろうなんて気は、まるっきりありません。あいもかわらず、ぐんぐん早く飛んでいきます。
「ああ、ガンなんてものは、みんなこんなんだろうか?」と、ガチョウは思いました。そして、ガンたちはじぶんをラプランド(
ラプ人の住む北の地方)までつれていってくれるつもりはなかったことが、急にはっきりとわかってきました。ガンたちは、ただからかって、ガチョウを家からさそいだしただけなのでしょう。
ガチョウは、いま、じぶんの力がつきてしまったために、ガチョウだって、ものの役にたつことを、この
宿なしどもに見せてやれないのが、くやしくてくやしくてたまりません。そして、なによりも
残念に思われるのは、ケブネカイセのアッカになんか
出会ったことでした。このガチョウは
飼い鳥ではありましたが、アッカという、百
歳にもなるガンの隊長のことは、いままでにも
うわさに聞いていました。アッカはみんなからたいへん
尊敬されている鳥で、どんなに、りっぱなガンでも、アッカの言いつけには
従うほどだったのです。けれども、アッカとその
仲間ぐらい、ガチョウをバカにしているものもありません。それで、ガチョウは、じぶんだっておまえたちに
負けやしないということを、このガンたちに見せてやりたかったのです。
ガチョウは、いっそのこと引きかえそうかと思ったり、それとも、ついていったものかと思ったりしながら、みんなのあとからのろのろと
飛んでいきました。と、だしぬけに、せなかに
乗っかっているチビさんが言いだしました。
「ねえ、ガチョウのモルテンや! いままで飛んだこともないおまえが、ラプランドなんて遠くまで飛んでいけっこないじゃないか。おまえにだってわかってるだろう。
命のあるうちに、引きかえしたほうがよくはないかい?」
ところが、せなかの上のこのチビさんぐらい、このガチョウにとっていやなやつはありませんでした。しかもそいつまでが、じぶんにはもう
旅をつづける力がないと思っているのです。そう思うと、しゃくにさわって、なんとかしてついていこうと決心しました。
「もう一ど言ってみろ。
みぞの上を通ったら、
振り
落してやるぜ。」と、ガチョウは言いました。
怒ったために力がわいてきたのでしょうか、こんどは、ほかのガンたちにも
負けないくらい、よく飛ぶことができるようになりました。
もちろん、こんなぐあいにして、いつまでも飛びつづけることはできないでしょう。でも、その心配はありませんでした。というのは、そのとき、ガンのむれが、グングンおりはじめたからです。そして、ちょうどお日さまが
沈んだとき、ガンたちは地上に
舞いおりたのでした。こうして、ニールスもガチョウも、何がなんだかわからないうちに、ヴォンブ
湖の
岸べに
着いていました。
「ここで
一晩すごす気らしいな。」と、ニールスは思いながら、ガチョウのせなかからとびおりました。
ニールスは、せまい
砂浜に立ちました。目の前にはかなり大きい
湖がひろがっています。でも、あまり気もちのいい
景色ではありません。なにしろ、湖の上には氷がほとんどいちめんに
張りつめていて、それがどす黒く、しかも、でこぼこしていて、いたるところに
裂け目や
穴があるのですからね。もっとも、こういったありさまは、春さきにはよく見られるのですけど。しかし、氷はもうそう長くはもちそうもありません。
岸のあたりは、もう、とけはじめていて、そこは
幅のひろい、黒くかがやく水の
帯のように見えているのです。でも、なんといってもまだ氷がのこっているために、あたりいちめんには
寒さと冬らしい
荒れはてたようすが見えています。
湖の
向こうがわには、ひろびろとした気もちのいい
土地があるように見えますが、ガンたちのおりたところには、大きなマツの
木立があって、そのマツ林は、まるで、冬を自分のとこにひきとめておく力をもってでもいるようです。どこを見まわしても、
地面の上にはもう雪はないのに、大きなマツの枝の下だけには、まだ雪がずいぶんつもっています。そして、それがとけては
凍り、とけては凍って、いまでは氷のようにかたくなっているのです。
これでは、まるで冬にとざされた
荒れはてた国に来ているようです。ニールスはたまらなくなって、大声で泣きだしたくなりました。
おなかも、ペコペコです。むりもありません。一日じゅう、なんにもたべていないのですからね。だけど、たべる物はどこにあるでしょう? いまはまだ三月です。木にも地面にも、たべられるようなものは、一つも
生えてはいませんでした。
まったく、どこへいったら、たべるものが見つかるでしょう? だれが
宿をかしてくれるでしょう? だれがお
床をのべてくれるでしょう? そして、だれが火にあたらせてくれるでしょう? だれがケモノをふせいでくれるでしょう?
もうお日さまは
沈んでしまったではありませんか。しかも
湖の上からは、つめたい風が吹きつけてきます。いよいよ、
暗やみが空からおりてきました。
恐ろしいものが、うすあかりのうしろから、そっとしのびよってきました。森の中では、ガサガサという物音がしはじめました。
こうなりますと、空を
飛んでいたときのような
楽しい気もちはすっかり
消えてしまいました。ニールスはとても心ぼそくなってきて、
旅の道づれのほうを、ふりむいてみました。いまでは、この鳥のほかには、たよりになる者はありません。
ところが、そのガチョウは、じぶんよりも、もっとまいっているではありませんか。おりたところに、じっとたおれたままです。そして、いまにも死にそうなようすです。
首はぐったり地べたにつけたまま、目はつぶって、息はかすかにハアハアといっているだけです。
「ガチョウのモルテンや。」と、ニールスはやさしく言いました。「水を
一くち
飲んでごらん。
湖まで
二あしとはないんだよ。」
けれど、ガチョウは身うごきひとつしませんでした。
ニールスは、いままで
生き物という生き物をいじめてばかりいたのでした。このガチョウのモルテンのことだってそうでした。ところがいまでは、このガチョウだけがただ一つのたのみなのです。ああ、このガチョウが死んでしまったら! ニールスは心配で心配でたまりません。
そこで、すぐさま、ガチョウを水のところまでつれていってやろうと、
押すやらひっぱるやらしはじめました。けれど、ちっぽけなニールスにとっては、ガチョウでさえも大きく
重くてずいぶん
骨がおれたのです。それでも、どうにか、うまくいきました。
ガチョウは、まず頭を水の中につっこみました。そうしてしばらく、やわらかい土の上にじっと横になっていましたが、やがて頭をあげると、目から水をはらい
落して、
鼻の
穴から大きく息を
吸いました。それから、
勢いよくアシとガマのあいだを泳いでいきました。
いっぽう、ガンたちは
湖の中にいました。みんなは地べたにおりるが早いか、ガチョウやニールスのほうは見むきもせずに、水の中にとびこんで、水をあびては、からだをきれいにしていました。それからこんどは、くさりかけたヒルムシロや水クローヴァをムシャムシャやりはじめました。
白ガチョウは、
運よく、小さいスズキを見つけました。すばやくそれをつかまえますと、
岸へもどってきて、ニールスの前におきました。そして、「さっき水を
飲むとき助けてくれたお
礼にあげよう。」と、言いました。
こんな
親切なことばを聞くのは、けさからはじめてです。ニールスはすっかりうれしくなって、ガチョウの
首にとびつきたいくらいでした。でも、やっと思いとどまって、
贈り
物を
喜んでもらいました。さいしょは、
魚をなまのままたべるなんて、とてもできやしないと思いましたが、そのうちに、まあともかく、たべてみようという気になりました。
ナイフがまだあるかしらんと思いながら、さがしてみますと、うれしいことに、ズボンのうしろのボタンにさがっていました。もちろん、これも小さくなって、マッチ
棒ぐらいの大きさになってはいましたが、これでも魚のウロコを
落して、きれいにすることぐらいはできます。こうして、まもなくスズキがたべられるようになりました。
ニールスはおなかがいっぱいになりますと、ちょっと
恥ずかしくなりました。とうとう、なまの魚をたべてしまったのです。
「ぼくはもう人間じゃない。ほんものの
小人になってしまった。」と、心の中で思いました。
ニールスが魚をたべている間じゅう、ガチョウはすぐそのそばにじっとしていましたが、ニールスがすっかりたべおわりますと、そっと小さい声で言いました。
「ぼくたちはね、
飼い鳥をバカにする、こうまんちきなガンの一
族に出会ったんだよ。」
「うん、ぼくもそう思っていたよ。」と、ニールスは答えました。
「もしぼくが、あいつらといっしょにラプランドまで飛んでいけて、ガチョウだって、りっぱにやれるんだってことを、あいつらに見せてやれたら、すごいんだけどねえ。」
「うん、そ、そ、そうとも。」と、ニールスはためらいながら答えました。だって、そうでしょう。このガチョウにそんなことができようとは思えませんもの。でも、べつに
反対する気にもなれませんでした。
「だけど、こんな長い
旅をひとりでやりとおせるとは思えないんだよ。」と、ガチョウはつづけて言いました。「どうだろう、いっしょにいって、ぼくを助けてくれないかい?」
ニールスとしては、もちろん、
一時も早く
家へ帰りたいと、ただそればかりを
願っていたのです。だから、こう言われますと、びっくりして、なんて言ったらいいのか、こまってしまいました。
「でも、ぼくときみとは
仲よしじゃないもの。」と、とにかく言ってみました。ところが、ガチョウのほうでは、そんなことはまるっきり
忘れているようです。さっきニールスに
命を
助けてもらったことだけが、頭にこびりついているのです。
「やっぱし、おとうさんとおかあさんのところへ帰らなくちゃ。」と、ニールスはもう一ど、とめてみました。
「うん、秋になったら、かならずおとうさんとおかあさんのところへつれて帰ってあげるよ!」と、ガチョウははっきり答えました。「それにぼくは、きみの
家の入口のところにきみをおろすまでは、どんなことがあっても、きみを
捨てはしないよ。」
ニールスは、そのとき、ふと、こんなじぶんの
姿をもうしばらくおとうさんやおかあさんに見せないほうがいいだろう、と、思いつきました。それで、ガチョウの申し出に
賛成して、じゃ、そうしよう、と、言おうとしました。と、そのとき、うしろのほうでバタバタという大きな音がしました。ふりかえって見ますと、ガンがみんないっせいに
湖からあがってきて、からだから水をふるい
落しているのです。それから、ガンのむれは、
隊長を先頭にして、長く一
列になって、ふたりのほうへやってきました。
白ガチョウは、そのガンの姿を見ますと、いやな気もちがしました。ガンはもっとじぶんたちガチョウによく
似ていて、もっと近い
親類だとばかり思っていたのです。ところが、どうでしょう。目の前のガンたちは、じぶんよりもずっと小さくて、おまけに、
はねの白いものは一
羽もいないのです。みんながみんな
灰色で、あちこちに
褐色がまじっています。それに、目を見れば、
恐ろしくなるばかりです。それは
黄色くて、そのうしろに火がもえてでもいるように、キラキラと
輝いています。ガチョウは、いままでいつも、ゆっくり、ヨタヨタ歩くのがいいと言われてきました。それなのに、この
連中ときたら、歩くどころではありません。まるで走っているようです。けれど、いちばん
驚いたのは、その足です。じつに大きくて、おまけに足のうらは
裂けて、ゴソゴソしています。これを見れば、ガンという鳥は、何があっても、まわり道をしないで、平気でその上を歩いていくということが、よくわかります。といっても、ほかのことにかけては、たいへんきれいずきで、きちんとしているのです。でもその足は、この
連中が野原をほっつき歩くあわれな鳥であることを、はっきりと
物語っています。
ガチョウがニールスに、「きみもえんりょなく話しなさい。だけど、きみが人間だってことは言わないほうがいいね。」とささやいたときには、もうガンたちはすぐそばまで来ていました。
ガンたちはふたりの前に立ちどまって、いくどもおじぎをしました。そこで、ガチョウも同じように、もっとたくさんおじぎをしました。こうして、あいさつがすみますと、ガンの
隊長がきりだしました。
「あんたがたは、どういう
方か、聞かせてください。」
「わたしのことは、とりたてて言うほどのこともありませんが、」と、ガチョウは言いはじめました。「
去年の春スカーネルで生まれました。そして秋には西ヴェンメンヘーイのホルゲル・ニールスッソンという人に買われて、それからずっとそこに
住んでいます。」
「それなら、あまり
自慢のできるような家がらじゃありませんね。」と、
隊長は言いました。
「ところで、あんたが、われわれガンの
仲間に思いきってはいって来たのは、どういうわけです?」
「わたしたち
飼い鳥だって、なにか
とりえはあるってことを、あなたがたに知らせたいからですよ。」
「へーえ、そいつはけっこう。ひとつ
拝見したいものです。」と、
隊長は言いました。「
飛ぶお手なみはさっき拝見しましたが、ほかのことなら、きっと、もっとおじょうずでしょう。
泳ぎなんかは、さぞおとくいなんでしょうね?」
「いえ、いえ、ぜんぜんだめです。」と、ガチョウは答えました。ガチョウは、ガンの隊長が自分を
家へ帰すつもりでいるんだろうと思っていましたので、どう返事したってかまやしない、と考えていたのでした。そこで、「
堀を泳いでわたったことしかありません。」と、つづけて言いました。
「じゃあ、かけっこは早いんでしょう?」
「ガチョウがかけるのなんて、わたしはまだ見たこともありませんし、わたしもやったことがありません。」ガチョウはこう答えて、じっさいよりも
悪く見えるようにしました。
大きな白ガチョウは、こうなったからには、どうしたって、隊長がじぶんをつれていってくれるようなことはあるまい、と思いました。それだけに、隊長から、「あんたはまったく
どきょうよく答えるんですねえ。
どきょうのいいものは、さいしょは、からっきしだめでも、そのうちにはいい道づれになれますよ。どうです、あんたが
ものになるかどうかわかるまで、二、三日いっしょにいてみたら?」と言われたときには、すっかりびっくりしてしまいました。
「そいつは、まったくありがたいですね。」と、ガチョウは心から
満足そうに答えました。
と、こんどは、隊長はくちばしでニールスをさしながら、言いました。
「あんたがそこにつれているのは、だれなんです? そんなのは、これまで一ども見かけたことはないが。」
「わたしの友だちなんです。」と、ガチョウは言いました。「ずうっとガチョウ
番をしていたんですが、いっしょに
旅につれていけば、きっと役にたちますよ。」
「そうさね、
飼い鳥には役にたつかもしれない。」と、ガンは答えました。「ところで、なんて名ですね?」
「いろんな名まえがあるんで、」と、ガチョウは、とっさになんて言ったらいいのかわからないものですから、まごまごして、言いました。なぜって、人間の名まえを持っていることは、かくしておきたかったからです。「ああ、そう、オヤユビ太郎っていうんです。」ガチョウはふっと思いついて、こう言いました。
「そうすると、
小人の
親類ですかね?」と、
隊長はききました。
「ところで、あなたがたガンは、いつごろおやすみになるんですか?」と、ガチョウはすばやくたずねました。こうして、話をかえようというわけです。
「いまごろになれば、ひとりでに目がとじてしまうんですよ。」隊長のガンは言いました。
いまガチョウと話をしているこのガンが、たいへん年とっていることは、
一目でわかります。
はねはすっかり白っぽい
灰色で、黒いすじ一つ見えません。頭はいくぶん大きく、足はあらっぽく、足のうらは、ほかのどのガンのよりもガサガサしています。
はね毛はこわく、
肩は骨ばっていて、
首はやせています。これは、みんな、年のせいです。ただ目だけは若いものとすこしも変わらず、かえって、ほかのガンのよりも若々しいくらいに、キラキラしています。
そのとき、
隊長はいかにももったいぶって、ガチョウのほうに向いて、言いました。
「ところで、ガチョウさん、わたしはケブネカイセのアッカというものです。どうかお見知りおきください。そして、わたしのすぐ右がわを飛ぶガンは、ユクシ、すぐ左がわを飛ぶのは、カクシといいます。右がわの二ばんめのはコルメ、左がわの二ばんめのはネリエーといい、そのうしろはヴィシと、クウシです。それから、そのあとを六
羽の若いガンが、右に三
羽、左に三羽飛ぶのです。どれもこれも、りっぱな
血すじの高山ガンです。だから、そこらでちょいちょい出会う
宿なしどもとまちがってもらっちゃこまりますよ。それに、われわれは、じぶんがどんな血すじのものか名のらないようなものとは、いっしょに
暮らしはしないんですからね。」
隊長のアッカがこうしゃべっていますと、ニールスはすっとまえに
進みでました。いまガチョウが、じぶんのことはスラスラ答えたのに、ニールスのこととなると、
逃げるような返事しかしなかったのが、
不満でならなかったのです。
「ぼくの
素姓をあかしましょう。」と、ニールスは言いました。「ぼくはニールス・ホルゲルッソンといって
百姓の子どもです。つい、けさまでは人間だったんだけど、けさ――――」
けれど、このさきを言いつづけることはできませんでした。ニールスが人間と言ったかと思うと、たちまちガンの隊長は三歩あとへさがりました。ほかのガンたちはもっとあとへとびのきました。そして、みんな首をのばしながら、
腹をたててシー、シー、と言いました。
「わたしはこの
岸でおまえを見たときから、あやしいやつだと思っていた。さあ、さっさといっておしまい。人間なんかを
仲間に入れておくことはできないよ。」と、アッカはどなりつけました。
「あなたがたガンが、こんなちっぽけなやつをこわがるなんて、おかしいじゃありませんか。」と、ガチョウはなだめるように言いました。「あしたになれば、きっと
家へ帰るでしょうよ。だけど
今夜だけは、いっしょにいさせてやってください。こんなあわれなチビスケを、夜ひとりっきりで、イタチやキツネのいっぱいいる中へ
追っぱらうこともないじゃありませんか。」
ガンの
隊長は前に
進みでました。しかし、こわいのをおさえるのは、なかなかむずかしいようです。
「わたしは、人間だったら、大きかろうと小さかろうと、気をつけるように
教えこまれてきたんでね。」と、隊長は言いました。「だけど、ガチョウさん、このチビさんがわれわれになんにも
害を
加えないと、おまえさんが受けあってくれるんなら、
今夜はいっしょにいてもいいということにしましょう。もっとも、今夜の
宿は、おまえさんにもこのチビさんにも向いてはいないでしょうよ。なにしろ、われわれは、
岸から
離れた
氷の上にいって、ねるつもりなんだからね。」
こう言われれば、いくらなんでもガチョウも決心がつかなくなるだろうと、ガンの隊長は思っていたのでした。ところが、ガチョウは平気なものです。
「そういう安全な
寝場所をえらぶとは、さすがにえらいものですね。」
「だがおまえさんは、そのチビさんがあした家に帰ると、受けあってくれるでしょうね。」と、隊長は
念をおして言いました。
「そのときは、わたしもあなたがたとお
別れしますよ。」と、ガチョウは言いました。「わたしはこのチビさんを、けっして
捨てないと、約束してあるんですからね。」
「どこへ
飛んでいこうと、おすきなように。」と、隊長のガンが答えました。それから
はねをあげて、
氷の上に飛んでいきました。そのあとから、ほかのガンたちも一
羽ずつ、つづいていきました。
ニールスは、ラプランドへの
旅はとてもできそうもないと思うと、
悲しくなってきました。それに、今夜の
寒い
野宿のことも、心配でたまりません。
「こいつは、ますますひどくなるね、ガチョウくん。」と、ニールスは言いました。「だいいち、もうここの氷の上でこごえ死にするかもしれないぜ。」
ところが、ガチョウときたら、じつにほがらかです。
「あぶなくなんかありゃしないよ。さあ、おおいそぎで
わらや草を、持てるだけ集めてきてくれたまえ。」
ニールスが
両腕にいっぱい
枯れ草をかかえてきますと、ガチョウは、くちばしでニールスのシャツの
えりをくわえて持ちあげ、
氷の上に飛んでいきました。そこでは、ガンたちがくちばしを
はねの中につっこんで、グウグウ
眠っていました。
「さあ、氷の上に草をひろげなさい。そうすれば、その上に
寝られるし、こごえることもないからね。きみはぼくを助けてくれた、そしてぼくも、きみを助けるってわけさ。」と、ガチョウは言いました。
ニールスは言われたとおりにしました。それがすみますと、ガチョウはまたもシャツのえりをつかんで、
はねの下に入れました。
「ここにいれば、あたたかくて気もちがいいよ。」ガチョウはこう言いながら、ニールスをすっぽりと
はねの中にくるみこみました。
ニールスは
はね毛の中に
埋まっているので、返事をすることができません。でも、これは、あたたかくて、すてきな
寝床です。そして、くたびれていたので、ニールスはすぐに眠りこんでしまいました。
ほんとうに、氷というものは、あぶなっかしくて、あてにならないものです。ヴォンブ
湖のゆるんだ氷も、
夜中に動きはじめて、とうとう、その一つのすみが
岸にとどいてしまいました。ちょうどそのころ、
湖の東がわのエーヴェードスクローステル
公園に住んでいるキツネのズルスケというのが、夜の
えものをさがして歩きまわっていました。そしてまもなく、この氷の上にガンたちが
寝ているのを見つけました。ズルスケはこの日の夕方に、ガンたちの姿を見かけていたのですが、そのときには、まだ、どれか一
羽をつかまえてやろうなんて気はすこしもありませんでした。けれどいまは、いっさんに氷の上を走っていきました。
しかし、ズルスケがガンたちのすぐそばまで来たとき、ふいに足がすべって、
爪で氷をガリッとやってしまいました。その音に、ガンたちはハッと目をさまし、
はねをばたばたやって、
飛びたとうとしました。けれども、ズルスケはそれより早く、矢のように
突進して、一
羽のガンの
はねをくわえるが早いか、ふたたび
岸のほうへかけもどりました。
けれど、この
晩、氷の上にいたのはガンたちだけではありません。からだはちっぽけでも、人間にちがいないニールスもいたのです。ニールスは、ガンが
羽ばたいたとき、目をさましました。そして、氷の上にころげ落ちたものですから、
寝ぼけまなこでぼんやりすわりこんでいました。さいしょのうちは、いったい、なんのさわぎが
起こったのやら、わけがわかりませんでした。と、とつぜん、氷の上を足の
短い小犬が、ガンをくわえて走っていくのが、目にはいりました。
それを見るなりニールスは、犬からガンを取りもどそうと、すぐさま、かけだしました。うしろからガチョウが、「オヤユビくん、気をつけたまえ! 気をつけたまえ!」とさけんでいるのが聞こえました。しかし、なあに、あんな小犬ぐらい、こわがることなんかないと思って、かまわず、あとを追いかけました。
キツネのズルスケにひきずられていくガンは、ニールスの
木靴が氷にコツコツとぶっつかる音を聞きつけました。でも、どうしてもじぶんの耳を
信じることができません。そして、「あのチビさんは、ぼくをキツネから取りかえせると思っているんだろうか?」と、心の中で思いました。すると、こんなふしあわせな目にあっていながらも、うれしそうにのどの
奥のほうでクックッと鳴きはじめました。まるで笑っているようでした。「だけど、あの子はすぐに氷の
割れ目にでも
落っこちるぐらいのとこだろうな。」と、ガンは心ぼそくなってきました。
まっくらな夜でした。でも、ニールスには氷の上の割れ目も穴もはっきりと見えるものですから、うまくその上をとびこえていきました。つまり、ニールスはいまでは、夜の
暗やみでもよく見える
小人の目を持っていたのでした。なにもかもが
灰色で黒ぐろとしていましたが、ニールスの目には
湖も
岸も、まひると同じようにはっきりと見えました。
ズルスケは、氷が岸にくっついているところから、
陸にとびうつりました。そして、
土手をかけあがろうとしたとたんに、ニールスが大声で呼びかけました。
「そのガンを
放せ! やい、こそどろめ!」
キツネにはだれがどなっているのかわかりませんが、グズグズ見まわしているようなひまはありません。もっともっと早く走りだしました。
キツネは美しい大きなブナの森をめがけて、いっさんに、かけていきました。ニールスもそのあとを追いかけました。いまは、あぶないことも忘れているのです。それどころか、ニールスの頭には、この日の夕方にガンたちからバカにされたことだけが、こびりついていて
離れないのです。そこで、たとえ、からだはちっぽけでも、人間というものがどんな生き物よりもすぐれているということを、ガンたちに見せてやりたいと思っていたのです。
ニールスは、その
えものを
放せと、なんどもなんどもさけびました。
「きさまは、なんて犬だ! ガンをぬすんだりして
恥ずかしくないのか? すぐ放せ。放さなきゃ、
痛い目にあわすぞ! 放せったら。放さなきゃ、きさまのやったことを主人に言いつけるぞ!」
ズルスケは、じぶんがおくびょうな犬とまちがえられたかと思うと、おかしくてたまりません。つい、そのひょうしに、ガンを
落しそうになりました。もともと、このズルスケは、野原や山でネズミや川ネズミをつかまえているだけでは
満足できず、人の家まで出かけていっては、ニワトリやガチョウをぬすんでくる、大どろぼうだったのです。そして、このあたりの人間たちからこわがられていることは、じぶんでもよく知っていました。そのじぶんにむかって、なんというおどし
文句でしょう。こんなばかげたことは、
生まれてこのかた聞いたことがありません。
ニールスは力のかぎり走りました。まるで大きなブナの木々が、うしろへ
飛んでいくようです。ニールスとズルスケの
距離はだんだんちぢまってきました。と、ついに追いつきました。ニールスはズルスケのしっぽにとびつきました。
「さあ、どんなことがあっても、ガンは取りかえしてみせるぞ!」と、ニールスはさけびながら、力いっぱいしっぽをひっぱりました。けれども、ニールスにはズルスケを引きとめるだけの力がありません。そのまま、このキツネにズルズルとひきずられていきました。そうしているうちに、からだのまわりには、
枯れ
葉がいっぱいまつわりつきました。
ところでズルスケのほうでは、追いかけてきたやつが、たいしたものではないと見てとると、走るのをやめました。そして、ガンを地べたにおいて、
逃げられないように、前足でおさえつけ、いまにもその首をかみきろうとしました。ところがそのとき、ちょいとこのちっぽけなやつをからかってやれという気まぐれを
起こしました。
「さっさと主人に言いつけるがいい。いまこのガンをかみ
殺すところだからな。」と、ズルスケは、ニールスに言いました。
ニールスは、自分の追いかけている犬が、
鼻がとがっていて、しゃがれた、いじわるい声をしているのに気がつくと、びっくりしました。でも、こんなどろぼうにからかわれたのが、しゃくにさわってたまりません。それで、こわいなんて気もちは、ちっとも起こりませんでした。ニールスは、ブナの
幹にからだをささえながら、ズルスケのしっぽをしっかりとにぎっていました。キツネはパクッと口をあけて、ガンののどもとにあてました。そのとたん、ニールスはあらんかぎりの力で、そのしっぽをひっぱったのです。さすがのキツネもこれにはたまらず、思わず二、三歩あとへさがりました。そのすきに、ガンはすばやく
逃げました。けれども、
弱々しく、ヨタヨタと
舞いあがりました。かたほうの
はねが
傷ついていたので、ほとんどその
はねを使うことができなかったのです。それに、まっくらな森の中では何一つ見えません。めくらと同じことで、どうすることもできないのです。ですから、ニールスを助けるなんてことは、思いもよりません。
茂った
木立のあいだを、あっちにぶっつかり、こっちにぶっつかりしながら、そのガンは、やっとのことで
湖まで帰ってきました。
いっぽう、ズルスケは、こんどはニールスめがけてとびかかりました。そして、「あいつは
捕りそこなったが、ほかのやつをきっと
捕えてみせるぞ。」と、うなって言いました。その声のようすでは、
腹の
底から
怒っています。
「ふん、そんなことができるもんか!」と、ニールスは言いました。もののみごとに、ガンを助けてやることができたので、
大得意だったのです。そして、まだキツネのしっぽをしっかりとにぎり、キツネがつかみかかろうとすると、そのたびに、反対がわへグルグルとまわってしまいます。
さあ、森の中でぐるぐる
踊りがはじまりました。まわりのブナの葉はさかんに
飛びちります。ズルスケは、グルグル、グルグルまわりますが、それにつれて、しっぽもグルグル、グルグルまわります。ニールスはしっぽにしっかりとつかまっているものですから、キツネには、どうしても
捕えることができません。
ニールスは、うまくガンを助けてやったので、うれしくてうれしくてたまりません。はじめのうちは笑いながら、キツネをからかっていました。でも、キツネ先生は、いつまでも
根気よくやっています。まったく、これはどこからみても、りっぱな
狩人です。そこで、ニールスは、この
調子では、いつかはつかまえられるかもしれないぞ、と、だんだん心ぼそくなってきました。
そのとき、ふと、そばを見ますと、
竿のようにすらりとした、小さな若いブナの木が一本
生えています。この木の上には、
年老いたブナの木々の枝がおおいかぶさっているので、その上に出れば、すぐに
逃げだすこともできるでしょう。
ニールスはキツネのしっぽをさっと
放して、ブナの木によじのぼりました。しかし、キツネのほうは
むがむちゅうなので、なおもじぶんのしっぽをめがけて、ぐるぐるまわりをつづけています。と、だしぬけに、「もう
踊りなんかやめたらどうだい。」と、ニールスが声をかけました。
キツネはプンプン怒っていました。こんなチビスケが
捕らない
面目なさに、むしゃくしゃしていました。そこで、ブナの木の下にじっと
腰をおろして、ニールスを見はることにしました。
ところで、ニールスはいまにも折れそうな枝にのっかっているので、のんきにかまえているわけにはいきません。ところが、このブナの木は、ほかの木の枝に
乗りうつることができるほど高くはなかったのです。といって、もちろん、下へおりる気にはなれません。
寒さはひどくなり、手足はしびれきって、枝につかまっているのもやっとになりました。おまけに、ひどく
眠たくなってきました。でも眠ったがさいご、地べたに
落っこちてしまいます。それで、一生けんめいがまんしていました。
ああ、森のまんなかで、
一晩じゅうこんなふうにしていなければならないなんて、なんという
恐ろしいことでしょう! ニールスは、いまのいままで、夜ってものがどんなものであるか知りませんでした。見れば、すべてのものが石になってしまい、もう二どと生きかえってはこないように思われます。
そのうちに、夜があけはじめました。ニールスは、なにもかもがまたもとの
姿にかえったのを見て、うれしくなりました。けれど、
寒さは
夜中よりも、かえっていまのほうが、きびしく感じられます。
とうとう、お日さまがのぼってきました。でも、いまは
金色ではなくて、まっかです。気のせいか、お日さまは
怒っているように見えます。だけど、なにを怒っているのだろう、とニールスはふしぎに思いました。きっと、お日さまのいないあいだに、夜が地上をこんなにつめたく、
陰気にしてしまったからなんだろうか。
お日さまの光は、夜が地上で何をしていたかを見るために、ふりそそいできました。すると、空を流れる
雲、
絹のようにつややかなブナの
幹、
細かく入りくんだ枝、ブナの落ち葉をおおっているシモ、こうしたすべてのものがさっと赤くなりました。
お日さまの光が、ますますあかるく
射してきました。やがて、夜の
恐ろしさも
消えました。手足のかじかみも、いまでは感じなくなったようです。すると、びっくりするほどたくさんの生き物の姿が見えてきました。赤い
首をした黒いキツツキは、くちばしで木の
幹をつつきはじめました。リスは、クルミをかかえて
巣からチョコチョコ出てくると、木の枝にすわって、クルミをかじりはじめました。ムクドリは細い根をくわえて飛んできました。アトリは木のこずえでさえずりはじめました。
そのときニールスは、お日さまがこういう小さい生き物たちにむかって、
「さあ、目をさまして、
巣から出ておいで! わたしはここにいるんだよ! もうなんにもこわがることはないよ。」と言っているのを聞きました。
ガンたちが
旅立とうとして
鳴きたてている声が、
湖のほうから聞こえてきました。それからまもなく、みんなで十四
羽のガンが、森の上を
飛んできました。ニールスは大声で呼んでみましたが、ガンのむれはずっと上のほうを飛んでいて、そこまでは声がとどきません。みんなは、きっと、ニールスはもうキツネにたべられてしまったと思っているのでしょう。そこで、もうじぶんをさがしてみようとはしないのだな、とニールスは思いました。
ニールスはすっかり心ぼそくなってきて、いまにも泣きだしそうになりました。けれども、空を見あげれば、そこにはお日さまがニコニコと
金色に
輝いていて、世界じゅうに元気をあたえています。
「ニールス・ホルゲルッソンや、わたしがここにいるかぎり、ちっともこわがることはないよ。」と、お日さまはそう言っていました。
三月二十一日、火曜日
ガンが、朝ごはんをたべていると思われるあいだは、森の中ではべつに
変わったこともありませんでした。ところが、それからまもなくです。一
羽のガンが
茂った枝の下に
飛んできました。そのガンは
幹や枝のあいだを
縫って、ゆっくりとあちこちを飛びまわりました。キツネはガンの姿を見つけますと、すぐさま小さいブナの木の下を
離れて、そっとガンのほうへ
忍んでいきました。ところが、
驚いたことには、ガンはキツネをよけようともしないで、かえって、すぐ近くまで飛んでくるではありませんか。そのとたんに、ズルスケはさっと高く
跳ねあがりました。けれども、
失敗です。ガンは
湖のほうへ飛んでいってしまいました。
やがて、もう一羽のガンが飛んできました。このガンもさっきのガンと同じようにやってきます。けれども、まえのよりももっと
低く、もっとゆっくりと飛んでいます。そのうちに、ズルスケの頭の上まできました。こんどこそは、とズルスケがとびあがります。耳がガンの足にさわりました。けれど、またまたこのガンも、
傷ひとつ受けずに
逃げてしまいました。そして、ひとことも言わないで、
湖のほうへ飛んでいきました。
しばらくすると、また一
羽のガンがやってきました。さっきのよりも、もっと低く、もっともっとゆっくり飛んでいます。ブナの枝のあいだをすりぬけていくのが、だいぶむずかしそうに見えます。ズルスケは
勢いよくおどりあがりました。と、このガンは、もうすこしのところで
捕りそうになりましたが、それでもとうとう逃げてしまいました。
このガンが見えなくなりますと、すぐに四ばんめのガンが姿を見せました。これはまた、いやにゆっくりと飛んでいます。ズルスケは、こんどこそわけなく
捕えられるだろうと思いました。けれど、ゆだんをして、またしくじってはたいへんです。それで、こんどはなんにもしないで、しばらく飛ばせておいてやろうと思いました。けれども、このガンも、さっきまでの
仲間と同じように、ズルスケの
ま上までくると、ぐっと
低く
舞いおりました。ズルスケは思わずつりこまれて、またまた力いっぱいおどりあがりました。すると、
爪のさきが、ちょっとさわりはしましたが、ガンはすばやく身をかわして、逃げていってしまいました。
ズルスケが
息をつくひまもないうちに、三
羽のガンが、一列にならんでやってきました。こんども、さっきの仲間たちと同じように飛んできます。ズルスケは、またしても高くとびあがりましたが、一
羽も
捕えることができませんでした。
そのあとから、また五
羽のガンがあらわれました。このガンたちは、いままでの仲間たちよりも、もっとじょうずに飛んできました。そして、いかにもズルスケがとびつきたくなるようにしむけましたが、ズルスケはやっとのことで思いとどまりました。
かなりたって、また一羽のガンが姿を見せました。これで十三ばんめです。このガンはたいそう年とっていて、からだじゅうが
灰色で、黒いすじ一つ見えません。かたほうの
はねがうまく使えないらしく、ひどくへたくそに、かたむいて飛んでいます。そのため、いまにも
地面にさわりそうです。ズルスケはこのガンめがけて、思いきり高く
跳ねあがりました。が、またまた
失敗です。それで、走ったりとびあがったりしながら、
湖まで追いかけていきました。けれど、こんども
骨おっただけで、なんのたしにもなりませんでした。
十四ばんめのガンが飛んできました。この鳥は、からだじゅうがまっ白で、じつに美しく見えました。大きな
はねが動くたびに、
暗い森の中がキラキラとあかるくなるようでした。ズルスケはこの鳥の姿を見ますと、からだじゅうの力をこめて、木の半分ほどの高さまでおどりあがりました。しかし、この白い鳥も、まえのと同じように、
傷ひとつ受けないで逃げていってしまいました。
こうして、ブナの木の下はしばらく
静かになりました。もうガンのむれは、すっかり飛んでいってしまったようです。
そのときズルスケは、ふと、さっきの
ほりょのことを思いだしました。さいしょのガンを見たときから、あのチビさんのことは
忘れてしまっていたのです。そして、もちろんニールスの姿は、もうそこには見えませんでした。
しかし、ズルスケがチビさんのことを考えているひまは、あまりありませんでした。というのは、さいしょ飛んできたガンが、またも
湖のほうからもどってきて、木の下をゆっくりと飛びはじめたからです。ズルスケはあんなにしくじったあとで、ガンがもどってきたのを見ますと、大よろこびでした。そこでさっそく、そのガンめがけて、力のかぎりとびあがりました。けれども、あせりすぎて、よく
狙いをつけるひまがありませんでしたから、
的がはずれてしまいました。そのあとから、また一
羽飛んできました。それから、また一羽、そうして、第三、第四、第五のガンがあらわれたと思うと、とうとうしまいには、白っぽい
灰色の年とったガンと、まっ白い大きなガチョウまで飛んできました。みんなはゆっくりと
低く飛んでいます。そして、キツネの
ま上までくると、キツネがつかまえたくなるように、わざわざ、もっと低く
舞いおりるのです。それを見ると、ズルスケはそのあとを追いかけて、なんどもなんども高くとびあがりました。けれど、一羽だって
捕えることはできませんでした。
キツネのズルスケは、この日ぐらいひどい目にあったことはありません。ガンたちは、あいもかわらずズルスケの頭の上を、あちこちと
飛びつづけているのです。ドイツの
畑や野原でたくさんたべて
肥ってきた、この大きなすばらしいガンたちは、一日じゅう森の中でズルスケのそばをすれすれに飛びまわるのでした。ズルスケは、いくどもいくども、ガンにさわるくらい高くとびあがりましたが、すいたおなかの
たしになってくれるようなガンは、一羽だってありませんでした。
冬はもう終わろうとしていました。いまズルスケは、いく日もいく
晩も、
えもの一ぴきつかまらずに、ブラブラほっつき歩かなければならなかった時のことを思い出しました。むりもありません。そのころは、
渡り鳥たちはよその国へいってしまい、ネズミたちは
凍った地面の下にかくれ、ニワトリたちは小屋の中にとじこめられていたのですから。けれど、冬じゅうおなかのへっていたことも、きょう一日の
失敗にくらべれば、なんでもありません。
ズルスケはもう
若僧ではありませんでした。犬に追いかけられたこともたびたびありますし、鉄砲のたまが耳のそばをヒュウヒュウかすめていったこともあります。また、
穴の
奥にかくれているとき、はいこんできた犬に、もうすこしで見つかりそうになったこともあります。けれども、そういうはげしい
狩りの間じゅうビクビクしていた不安な気もちも、きょう、このガンたちを
捕りそこなうたびに味わった、あのにがい気もちとは、くらべものになりません。
けさ、
狩りがはじまったときは、ズルスケはガンたちが目を見はるほど、すばらしい
なりをしていました。なにしろ、このズルスケときたら、
はでなことが大すきなのです。
上着はキラキラ
輝くほど赤く、
胸は白く、前足は
黒、そして、しっぽがまた、鳥の
はね毛のようにふさふさしていました。けれども、それよりももっとすばらしいのは、ズルスケが動くときに見せる力づよさ、目のらんらんとした光りかたでした。ところが、夕方になると、上着は
しわがよってクシャクシャになるし、からだは
汗びっしょり、目の光はどんよりとして、
舌はハアハアあえいでいる口からだらりとたれ、おまけに口からは
あわを吹いているというありさまでした。
午後になると、ズルスケはすっかりくたびれて、もう何がなんだかわからなくなりました。とにかく、目の前をガンたちが飛んでいるということのほかは、なんにもわかりません。とうとうしまいにズルスケは、枝の間から地面の上に
射しているお日さまの光や、サナギからかえったばかりのあわれなチョウにまで、とびかかるのでした。
ガンのむれはひっきりなしに飛びつづけて、一日じゅう、ズルスケを苦しめました。ズルスケが
疲れはてて、目がまわり、気もくるうばかりになったのを見ても、ちっともかわいそうだと思うようすはありません。しかも、そのズルスケはもう、ガンの姿を見ることができず、ただその影にむかってとびかかっているだけなのです。ガンのむれは、そのことをちゃんと知っていながらも、あいかわらず、キツネのまわりを飛びつづけるのでした。
こうして、キツネのズルスケが、からだじゅうの力もぬけ、いまにも気が遠くなりそうになって、つもった
枯れ葉の上にぶったおれたとき、ガンのむれはやっと、キツネをからかうのをやめにしました。
「さあ、どうだい、キツネくん。ケブネカイセのアッカさまを相手にしようとする者は、どんな目にあうか、おわかりだろう!」と、ガンのむれはズルスケの耳もとでこうさけぶと、ようやく、キツネを
許してやりました。
[#改ページ]
三月二十四日 金曜日
ちょうどそのころ、スコーネ地方にある
事件が起こりました。それは
大評判になって、新聞にまでのりました。けれども、なんとも
説明のつかないふしぎなできごとでしたので、たいていの人たちは、そんなものは作り話だろうと思いました。
つまり、その事件というのは、こうなのです。
ヴォンブ
湖の岸べに
生えているハシバミのやぶの中で、メスのリスが一ぴき
捕えられて、近所の
農家につれていかれました。農家の人たちは、年よりも子どもも、みんな、このリスの愛くるしい大きなしっぽと、もの
珍らしそうに
眺めまわすりこうそうな目と、かわいらしい小さな足とを見て、大よろこびでした。みんなは、リスのすばしこい動きかたや、
器用にクルミの
からをかじるところや、たのしそうに
遊ぶのを見ていれば、夏じゅうおもしろくすごせるだろうと思いました。さっそく、みんなは古いリスのかごを持ってきてやりました。このかごには、かわいい
緑の家と、
針金でこしらえた車がはいっていました。家には戸と
窓もちゃんとついていて、これがリスの
食堂と
寝室というわけです。そこで、みんなは木の葉っぱの
寝床と、ミルク入れと、それからクルミを二つ三つ入れてやりました。車のほうはリスの遊び場です。リスがこれにのっかって、かけのぼれば、グルグルまわる
しかけになっているのです。
人々は、リスのためにずいぶん気もちよくしてやったつもりでいました。ところが、リスはと見れば、ちっとも
満足していないようすです。みんなはびっくりしてしまいました。リスは
部屋のすみっこにすわりこんで、
悲しそうに、しょげきって、ときどき
訴えるような、
鋭い
悲しみの声をはりあげているではありませんか。もちろん、たべものにはさわりもしませんし、車だって一どもまわそうとはしません。「おっかながっているんだ。」と、農家の人たちは言いました。「あしたになれば、なれて、遊んだり、たべたりするさ。」
ところで、
農家の女たちは、お
祭りのしたくで、てんてこまいをしていました。ちょうどリスが
捕えられた日は、パンを
焼くことになっていたのです。ところが、ぐあいの
悪いことに、ねり
粉がうまくふくれあがらなかったせいでしょうか、それとも、ぐずぐずしていたせいでしょうか、ともかく、暗くなっても仕事がかたづきませんでした。
こうして、台所ではみんなが、いそがしく立ち働いていました。ですから、だれも、リスはどうしているだろうなどと考えてみるひまはなかったのでした。この
家には、おばあさんがいましたが、あんまり年をとっているので、パン
焼きの手つだいをすることができません。おばあさんは、じぶんでもそのことはよく知っていたのですが、それでもやっぱり、みんなから
のけ者にされているのが、おもしろくありませんでした。こういうわけで、おばあさんはまだ
寝にもいかず、
居間の
窓ぎわにすわって、外をながめていました。
台所の中は熱くてむっとするものですから、戸は開けはなしになっていました。そこからあかるい光が中庭に流れでて、中庭のまわりの建物をあかるく
照らしだしていました。それで、おばあさんには、
向こうがわの
壁の
割れ目や穴がはっきりと見えました。それから、その光がちょうどいちばん強くあたっているところにかかっている、リスのかごも見えました。見れば、リスはひっきりなしに
部屋から車へ走っていったり、車から部屋へかけもどったりして、ちょっとの間もおちついてはいません。おばあさんは、きっとあのリスは
妙に気が立っているにちがいない、光が強いために眠れないんだろう、と、思いました。
牛小屋と馬小屋のあいだに、大きな広い門があって、これも台所からのあかりに
照らしだされていました。おばあさんがしばらく見ていますと、やがて、ちっぽけな
小僧が足音をそっとしのばせて、この門からはいってきました。せの高さはほんの十センチぐらいのものでしょう。
革ズボンに
木靴といった、
労働者のようなかっこうです。おばあさんは、すぐに
小人だなと気がつきましたので、すこしもこわくはありませんでした。なぜかといえば、その姿はまだ見たことがありませんが、小人というものはどこか家のそばに
住んでいるということを、まえから聞いていましたし、それに、小人が姿を見せるときには、きっと
幸運がやってくるということも、よく話に聞いていたからです。
その小人は、石のしいてある中庭にはいってきますと、まっすぐにリスのかごのほうへ走っていきました。けれども、そのかごは高いところにかかっているので、手がとどきません。そこで、小人はすぐさま
物置のほうへかけていって、
棒を持ってくると、かごにかけ、ちょうど
水夫が
帆綱をよじのぼるようなぐあいに、スルスルとよじのぼっていきました。そして、かごのところまでのぼりますと、小さな
緑の家の戸をさかんにゆすぶって、戸をあけようとしています。それを見ても、おばあさんはおちつきはらっていました。なぜなら、近所の男の子たちにリスを
盗まれないように、
家の子どもたちが戸に
錠をかけておいたのを、ちゃんと知っていたからです。リスは、戸が
開かないことがわかりますと、車から出てきました。それから、ふたりは長いあいだヒソヒソと相談をしていました。小人は、リスの言いたいことをすっかり聞いてしまいますと、また
棒をすべりおりて、いそいで門からかけだしていきました。
おばあさんは、この
晩もう一ど小人の姿が見られるとは思いませんでしたが、それでも
窓ぎわにすわっていました。しばらくすると、またさっきの小人がもどってきました。ひどくいそいでいるので、まるで足が地についていないようです。こんども、リスのかごを目がけて、いちもくさんにかけていきます。
遠目のきくおばあさんには、それがはっきりと見えました。なおもよく見ますと、小人は手になにか持っています。もっとも、それがなんであるかはわかりません。小人は左手に持っていたものを
敷石の上におきましたが、右手のものはそのまま持って、かごのほうへよじのぼりました。そして、
木靴で小さい
窓をはげしくけとばしたので、ガラスがこわれて、あたりに
飛びちりました。小人は、そこから、手に持っているものをリスのほうにさしだしました。それから、また
棒をすべりおりて、さっき下に置いておいたものを取りあげると、もう一ど、かごをめがけてよじのぼりました。そして、あっというまに、またもやすべりおりて、まっしぐらにかけていってしまいました。あんまり早いので、おばあさんには小人の姿がよく見えなかったほどでした。
けれども、おばあさんはもう
部屋の中にじっとしていることができなくなりました。そこでイスからゆっくりと立ちあがって、庭へ出ていきました。そして、
井戸のかげにかくれて、小人がもどってくるのを待っていました。ところが、そこにはもうひとり、さっきから小人のすることをじっと見つめて、ふしぎに思っているものがいました。それはこの
家のネコでした。ネコはそっと
忍んでいって、あかりのさしているところから
二あしばかり
離れた
壁のそばに立ちどまりました。
ふたりは、この
寒い三月の
夜空に、しんぼう強く、長いあいだ待っていました。そのうちに、おばあさんは、ぼつぼつ家の中へもどろうかと考えはじめました。と、ちょうどそのときです。
敷石の上にコツコツという足音が聞こえました。見れば、チビの小人が、またまたもどってきたのです。こんども両方の手に何かを持っています。その持っているものは、キイキイ
鳴きながら、モソモソ動いています。これで、おばあさんにも、いまはじめてよくわかりました。つまり、小人はハシバミのやぶへかけていっては、そこからリスの赤ちゃんをつれてきて、うえ
死にしないようにしてやっているのです。
おばあさんは、小人のじゃまをしないように、じっとしていました。小人はおばあさんに気がつかないようです。かたほうの赤んぼうをつれてかごによじのぼろうとして、もうかたほうの赤んぼうを下におこうとしました。そのとたんに、小人はネコの青い目がそばで光っているのを見つけますと、
両手に赤んぼうを持ったまま、こまりきって、つっ立ってしまいました。
小人はあたりを見まわしました。と、おばあさんがいるのに気がつきました。そこですぐさま、おばあさんのところへ歩いていって、この子を受けとってくれというように、
両腕を高くさしあげました。
おばあさんは、小人にこうたのまれたからには、いやというわけにはいきません。そこで、からだをかがめて、リスの赤んぼうを受けとりました。そして、小人が、もうひとりの赤んぼうをつれてかごのところによじのぼり、それからまたもどってきて、あずけておいた赤んぼうをつれていくまで、しっかりと
抱いて立っていました。
つぎの朝、農家の人たちが朝ごはんに集まってきたとき、おばあさんはゆうべ見たことを話さずにはいられませんでした。それを聞くと、みんなは笑いだして、
夢でもみたんでしょう、と言いました。こんな早い
季節には、まだリスの赤んぼうなんているはずがありませんもの。
けれども、おばあさんは
信じきっていました。それで、みんなにかごの中を見てくるように言いました。みんなは言われたとおりにしました。見れば、たしかに、小さな
部屋の中の葉っぱの
寝床の上に、生まれてからやっと二日めぐらいで、毛もろくに
生えていず、目もまだよく見えないリスの赤んぼうが、四ひきいました。
この
農家の主人は赤んぼうリスを見て、こう言いました。
「まあ、いずれにしても、たしかにわしらは、この家で、ケモノにきかれても、人にきかれても
恥ずかしいことをしていたんだ。」それから、親リスと四ひきの赤んぼうリスを、かごの中から取りだして、おばあさんの前かけに入れました。そうして、「このリスたちをハシバミのやぶへつれていって、
放してやってください。」と、言いました。
これが
大評判になったという
事件です。しかも、これは新聞にまでのりました。けれども、なんとも説明しようのないできごとなので、たいていの人たちは、信じようとはしませんでした。
それから二日たって、またふしぎな事が起こりました。その朝、
一むれのガンが飛んできて、ヴィットシェーヴレ
荘園からあまり遠くない東スコーネの
畑に
舞いおりました。そのむれの中には、あたりまえの
灰色のガンが十三
羽と、まっ白なガチョウが一
羽いました。ガチョウのせなかには、黄色い
革ズボンをはき、
緑のチョッキを着て、白い
毛織りの
帽子をかぶったチビさんがのっていました。
ここはバルト海のすぐ近くなので、ガンたちがおりた畑にも、ふつうの海岸と同じように、
砂がいっぱいありました。でも、このあたりの砂は、ほうっておくと、風に吹きとばされてしまうのでしょう。で、それをふせぐために、あちこちにマツの木がたくさん
植えてありました。
ガンたちが、しばらくの間ごはんをたべていますと、畑の向こうのほうを、子どもがふたり歩いてきました。それを見ると、見はりをしていたガンが、たちまちバタバタと
羽ばたきをして、空に
舞いあがりました。ほかのガンたちも、
危険とさとって、いっせいに飛びあがりました。ところが、白いガチョウだけは、そんなことは気にもかけずに、ノソノソと地べたを歩いています。みんなが舞いあがったのを見ますと、頭をあげて、大声で言いました。
「
逃げることはないよ! 子どもがふたりっきりじゃないか!」
ところで、チビさんは、森のはずれの小山の上にすわりこんで、マツボックリを拾っては、
割っていました。けれども、子どもたちがすぐそばにいるものですから、畑を横ぎって、白いガチョウのところまでかけてゆく
勇気がありません。それで、大きな
枯れたアザミの葉の下にかくれて、大声で、あぶないっ、と言いました。ところがガチョウのほうは、びくともしないで、あいもかわらず、ノソノソと歩きまわっています。そして、子どもたちがどっちへいこうとしているか、そんなことには見むきもしませんでした。
そのうちに、子どもたちは小道からそれて、畑を横ぎり、だんだんガチョウに近づいてきました。ガチョウが見あげたときには、もうすぐ目の前まで来ていました。ガチョウはびっくりしてしまい、すっかりあわててしまったので、飛べるのを忘れて、ただ、つかまらないように、かけようかけようとしていました。けれども、子どもたちに追いかけられているうちに、
みぞの中に追いつめられて、とうとうつかまってしまいました。そうして、大きい子にかかえられて、つれていかれました。
アザミの葉の下にしゃがんでいたチビさんは、これを見ますと、ハッと、とびあがりました。ガチョウをとり返そうというのです。しかし、そのとたんに、いまのじぶんは、ちっぽけで、力のないことを思いだしました。ああ、くやしい! チビさんは小山の上に身を投げだして、こぶしをかためて地べたをなぐりつけました。
ガチョウは
助けをもとめて、ひっしになってさけびました。
「オヤユビくん、助けてくれ! オーイ、オヤユビくん、助けてくれ!」すると、ニールスはこんなに
悲しんでいながらも、思わずにっこりして、さけびました。「よしきた! ぼくはもう、だれでも助けてやるいい人間なんだぞ!」
ニールスは起きあがって、ガチョウのあとをつけていきました。「待てよ、ぼくにはとても助けられやしないだろう。でもまあ、どこへつれていかれるか、それだけでも見とどけてやろう。」と、言いながら。
子どもたちは、だいぶさきのほうを歩いていましたが、ニールスはその姿を見失わずについていきました。やがて、小川の流れているくぼんだところへやってきました。ここでニールスは、とびこせるぐらいの
幅のせまいところを見つけるために、しばらくまわり道をしなければならなくなりました。
小川をとびこえて道に出たときには、子どもたちの姿はもう見えなくなっていました。でも、森のほうへいくせまい道に
足跡がついています。それで、ニールスはそのあとをたどっていきました。
まもなく四つ
辻に来ました。ここで子どもたちは
別れたにちがいありません。だって、両方の道に足跡がついていますもの。これでいよいよ、望みはなくなってしまったようです。
けれど、ふと、わきを見ますと、ヒースの
生えている小高いところに、小さな白い
はねが一枚落ちているではありませんか。これは、ガチョウがどっちへつれていかれるかを知らせるために、道ばたに
落しておいたものです。そこで、ニールスはなおもさがしつづけて、森の中を通っていきました。しかし、ガチョウの姿はまだ見えません。それでも、道に
迷いそうなところへ来ますと、きまって白い小さな
はねが一枚落ちていて、道を知らせてくれるのです。
ニールスがその
はねをたよりにあとをつけていきますと、やがて森をぬけ、
畑を二つばかり横ぎって、
道路にでました。それからは、広い
並木道です。見れば、並木道のはずれには、赤
れんがの
破風と
塔がそびえていて、それについている
飾りがキラキラと
輝いています。それは大きなお
城です。ニールスは、いまこそガチョウがどうなったか、わかったような気がしました。
「きっと、子どもたちがあのお城へ持っていって、売ってしまったんだろう。いまごろは、もう
殺されているかな。」と、ニールスはひとりごとを言いました。でも、はっきりたしかめないうちは、
満足できません。またも
勇気をふるいおこして、走っていきました。さいわいにも、
並木道ではだれにも出会いませんでした。こんな姿を人に見られたらたいへんだと、ニールスはビクビクしていたのです。
お城のそばまでいってみますと、それは
古風なつくりの、すばらしい
建物でした。その建物のわきにも大きな建物が四つあって、中庭に通じる高いアーチがありました。ここまでは、ニールスはズンズンかけてきましたが、思わずここで立ちどまりました。思いきってはいっていくだけの
勇気がないのです。じっとそこに立ちつくして、どうしたものだろうかと考えこみました。
そのとき、うしろのほうから、足音が聞こえてきました。ふりむいてみますと、どうでしょう。大ぜいの人たちが
並木道をこっちへやってくるではありませんか。ニールスは、あわてて、アーチのそばにあった
水桶のうしろにかくれました。
そこへ来たのは、二十人ばかりの中学校の生徒たちでした。みんなは、ひとりの先生につれられて、
遠足にきたのでした。アーチのところまで来ますと、先生はしばらく待っているようにみんなに言っておいて、じぶんだけ中へはいっていきました。このヴィットシェーヴレの古いお
城を見物させてもらえるかどうか、ききにいったのです。
生徒たちは長いあいだ歩いてきたと見えて、つかれていました。ひとりの生徒はひどく
のどがかわいていたので、
水桶のところへいって、身をかがめて
飲もうとしました。この生徒は、
植物採集のドウランを
肩にかけていましたが、じゃまになるので、地べたに投げだしました。そのはずみに、ふたが
開いて、中にはいっている春の花が見えました。
ドウランはニールスのすぐ前に落ちました。これこそ、お
城の中へはいって、ガチョウがどうなったかを見さだめる
絶好の
機会です。そう思ったニールスは、すぐさまドウランの中にとびこみました。そして、アネモネやフキの下にそっと身をかくしました。
ニールスがかくれるといっしょに、生徒はドウランをひろいあげて、肩にかけ、ふたをしてしまいました。
そこへ先生がもどってきて、お城の見物がゆるされたと言いました。先生は生徒たちを、まず中庭へつれていきました。そこでみんなをとめて、この古い建物についての話をはじめました。
先生は、この国にいちばんはじめに住んでいた人びとは、
洞窟や
洞穴の中に
暮らしていたこと、その人たちが木の
幹で小屋をつくることをおぼえるまでには、長い長い時代がたったこと、そして、
一部屋しかない
丸太小屋から
進歩して、ヴィットシェーヴレのような
部屋の百もあるお
城をきずくようになるまでには、長い間ずいぶん苦心もし、
努力もしたものだということなどを話してきかせました。
先生は、なおもいろいろと
細かに説明しました。それで、ドウランの中にはいっているニールスはいらいらしてきました。けれど、もちろんじっとしていなければなりません。でないと、ドウランの
持ち
主に気づかれてしまいます。
それから、やっと、みんなはお城の中にはいりました。けれども、ニールスが、
すきをみてドウランから
這いだすなんてことは、とうていできそうもありません。なにしろ、ドウランをかけている生徒が、しょっちゅう持って歩いているのですからね。ですからニールスは、お城の中の
部屋という部屋を、
持ち
主の生徒についてまわらなければなりませんでした。じつにじれったい
旅ではありませんか。それに先生ときたら、ひっきりなしに立ちどまって、説明するのです。
先生は、ちっともいそいでいませんでした。ちっぽけな生き物が、かわいそうにドウランの中にかくれていて、自分の話が早く終わるようにと
願っていようなどとは、
夢にも知らないのです。
その間じゅう、ニールスはじっとしていました。いままではよくいたずらをして、
穀物倉の戸をしめては、中にはいっているおとうさんやおかあさんをこまらせたものですが、そんなとき、おとうさんやおかあさんがどんな気もちだったかが、いまはじめてよくわかりました。そうでしょう、先生が話しおわるまでは、なん時間もなん時間もこの中にじっとしていなければならないのですからね。
ようやくのことで、先生はもう一ど中庭にきました。そして、またここで、人間が
器具や
武器や
衣服や家や
家具などを考えだしてつくるのには、長いあいだ、たゆまず
努力したものだということを説明しはじめました。
けれども、ニールスは、この話を聞きのがしてしまいました。というのは、ドウランをかけている生徒はまた
のどがかわいたので、台所へ水を飲みにいったからです。ニールスは、台所へいけば、ガチョウがどうなったかわかるぞ、と思いました。それで、からだを動かしてみますと、ぐうぜんにも、ふたにガタンとぶっつかりました――そのひょうしに、ふたがパタンと
開きました。でも、ドウランのふたが開くことはよくありますから、生徒は気にもかけずに、またふたを
閉めてしまいました。すると、それを見ていた男が、その中にはヘビでもはいっているのかい、とたずねました。
「いいえ、植物がすこしはいっているきりです。」と、生徒は答えました。けれども男は、「いや、たしかに、なんだか動いたものがあったよ。」と、言いはりました。そこで生徒は、男の言ったことがまちがいであることを見せようとして、ふたをあけて言いました。「さあ、ごらんなさい――どうです――」
と、そのことばの
終わらないうちに、もうここにはいられないぞ、とさとったニールスは、ポンと
床の上にとびおりるが早いか、いちもくさんにかけだしました。見ていた男は、走っていくものがなんだか、よくはわかりませんでしたが、すぐさまあとを
追いかけました。
先生はまだ話をつづけていましたが、大きなさけび声に話をじゃまされてしまいました。
「そいつを
捕えろ! そいつを捕えろ!」とさけびながら、台所のほうから人びとが走ってきます。それを見ると、生徒たちもいっしょになって追いかけました。ニールスはネズミよりもすばしこくチョコチョコと
逃げまわります。みんなは門のところで捕えようとしましたが、こんなちっぽけな生き物を捕えるのは、どうしてどうして、たいへんなことです。こうして、ニールスは、うまく
逃げだしました。
ニールスは、思いきって、ひろびろとした
並木道を走っていく
勇気はありませんでした。それで、
別の道をいくことにきめました。庭を通って、
裏庭に出ました。けれど、みんなは、大声をたてたり笑ったりしながら、なおもあとから追いかけてきます。かわいそうに、ニールスは一生けんめい逃げました。
ある
農家の前までかけてきたとき、ガチョウの鳴く声が聞こえました。見ると、入口の段々のところに、白い
はねが二、三枚落ちているではありませんか。ああ、ガチョウはここにいるのです! あまりのうれしさに、あとを追いかけてくる人たちのことはもうすっかり忘れて、ニールスは、段々をかけあがると、
玄関へいきました。でも、戸がしまっていて、それからさきへはいけません。中からは、ガチョウの鳴きたてている声が聞こえてきます。でも、どうしても戸は
開きません。うしろからは、自分を追っかけてくる人たちが、ますます近づいてきます。しかも、部屋の中では、ガチョウがいよいよ
悲しそうに鳴きさけんでいるではありませんか。せっぱつまったニールスは、
勇気をふるい起こして、力まかせに戸をたたきました。
と、どうでしょう。ふしぎにも、戸が開きました。中を見れば、土間のまんなかで女の人がガチョウをおさえつけ、いましも大きな
はねをはさみ切ろうとしています。ガチョウを見つけて、つかまえたのは、この女の人の子どもたちだったのです。しかし、この人はガチョウを
殺そうというのではありません。自分のところで
飼っているガチョウたちのなかまに入れるつもりで、ただ
飛べないように、
はねを切ろうとしていたのでした。けれども、ガチョウにとってはこんな
恐ろしいことはありません。それで、声をかぎりに鳴き悲しんでいたのです。
でも、
はねを二枚切りおとされたときです。ありがたいことに、戸が
開いて、チビさんがしきいの上に姿を見せました。と、女の人はいままでにこんなちっぽけな生き物を見たことがないものですから、びっくりして思わず、はさみを
落し、手を打ちあわせました。そのひょうしに、ガチョウをおさえつけるのを忘れてしまったのです。
ガチョウは、はなされたと気がつくと、すぐ戸口のほうへ走りました。そしてニールスのシャツの
えりをつかんで、かかえていきました。入口の段々のところまで来ますと、
はねをひろげて、さっと空に
舞いあがりました。そのときには、もう、ニールスは、スベスベしたガチョウのせなかにのっかっていました。
こうして、ふたりは飛んでいきました。ヴィットシェーヴレの人びとは、あっけにとられて、そのあとを見送っていました。
ガンたちがキツネをからかっていた日、ニールスはずっとリスの
空巣にねころんで、ねむっていました。夕方になって目をさましますと、ひどく
悲しくなってきました。「きっと、もうじき
家へ帰されるんだろう。そうなりゃ、どうしたって、おとうさんとおかあさんにこのみじめな姿を見られるんだ。」と、思ったのです。
ところが、ヴォンブ
湖で
水浴びをしたり泳ぎまわったりしているガンたちのそばへいっても、だれからも帰れとは言われませんでした。それで、「ガチョウの白があんまりくたびれているもんだから、ぼくをのっけて帰れとは言わないんだな。」と、ニールスは思いました。
あくる朝、ガンたちは、お日さまののぼるずっとまえに目をさましました。いよいよきょうは、家に帰されるにちがいありません。ところが
驚ろいたことに、ガンたちは、ふたりとも朝の
旅にいっしょについていってもいいというのです。ニールスは帰されるのがどうしてのびたのか、そのわけはよくわかりませんでしたが、長い
旅なんだから、ガチョウがおなかいっぱいたべてから、きっと帰すつもりなんだろう、と思いました。まあ、そんなことはどっちでもかまいません。これから、おとうさんとおかあさんに会うまでのあいだは、ゆかいにすごしてやろう、と心にきめました。
ガンのむれは、エーヴェードスクローステル
荘園(
貴族などの地方の領地)の上に飛んできました。それは
湖の東がわにある美しい公園の中にあって、見るからにすばらしいところでした。大きなお
城がそびえ立ち、
低い
壁と
離れ
屋にかこまれた中庭には、美しく石がしきつめてあって、
古風な
庭園はいかにも
優雅です。庭園には、きれいに
刈りこまれた
生垣や、あずまやや、池や、
噴水や、
珍らしい大木や、短く刈りこんだ
芝生が見えます。その芝生には
花壇があって、色とりどりの春の花が、
咲きみだれています。
ガンたちが
荘園の上に飛んできたのは朝早くでしたので、まだ人の姿は見えませんでした。みんなは、だれもいないことをはっきりたしかめてから、犬小屋の近くへおりていって、さけびました。
「これはなんてちっぽけな小屋なんだろう! これはなんてちっぽけな小屋なんだろう!」
その声を聞きつけるが早いか、犬は
怒って小屋からとびだしてきて、
吠えたてました。
「これを小屋だっていうのか? この
宿なしどもめ! 大きな石づくりのお
城のあるのが目にはいらないのか? あのりっぱな
壁や、たくさんの
窓や、大きなとびらや、美しいテラスが見えないのか? ワン、ワン、ワン。これでも小屋だってのか?
中庭や、
庭園や、
温室や、
大理石の
像が見えないのか? これでも小屋だってのか? 犬小屋ってもののまわりには、ブナの
木立や、ハシバミのやぶや、こんもりとした
茂みや、カシワの木や、モミの木や、おまけに、
えもののいっぱいいる
猟場まで持った公園があるのか? ワン、ワン、ワン。これでも小屋だってのか、きさまらは? 村ぐらいもあるたくさんの
離れ屋を持った小屋ってものを見たことがあるのか? 自分の教会と自分の
牧師館を持っていて、おまけに、お
屋敷や農家や小作地や、お役所までも支配している小屋ってものを知ってるとでもいうのか? ワン、ワン、ワン。きさまらは、これでも小屋だってのか? いいか、この小屋にはな、スコーネじゅうでいちばんすばらしいものがあるんだぞ、このこじきどもめ! そんな高いところにぶらさがっているきさまらには、地面なんかはこれっぱかしも見えやしないんだ! ワン、ワン、ワン。」
犬はこれだけのことを、いっきにまくしたてました。そのあいだ、ガンたちは
荘園の上をいったりきたりして、犬の言うことを聞いていましたが、犬が
一息つきますと、こうさけびました。「きみは、どうしてそんなに
怒ってんだい? ぼくたちはお城のことなんかききゃしないよ。きみのお
宅のことをおたずねしたまでさ。」
ニールスは、ガンたちがこんなふうにからかっているのを聞いて、思わずふきだしてしまいました。と、そのとき、ふと、ある考えが浮かんできて、すぐにまじめになりました。そして、
「ああ、もしガンたちといっしょに、スウェーデンじゅうを通ってラプランドまでいけたら、ずいぶんおもしろいことが聞けるだろうなあ!」と、ため息をつきながらひとりごとを言いました。「こんなあわれな
姿になってしまったいまでは、そういう旅でもするのが、いちばんの
楽しみなんだ。」
ガンたちは
荘園の東がわにある広い
畑の一つに飛んでいって、そこで二時間ばかり草の根をたべていました。そのあいだ、ニールスは畑につづいている大きな公園の中にはいっていって、ぶらぶらしていました。そうして、ハシバミの
木立の枝を見あげては、
去年の秋の
実がまだ残っていはしないかと、一生けんめいさがしていました。
こうして、公園の中をぶらついているあいだも、もうすぐ家に帰されるだろうということが、気になってしかたがありません。そして、ガンたちといっしょにいけたら、すてきだろうなあ。もちろん、おなかがすいたり、こごえそうになったりすることも、たびたびあるだろう。でも、そのかわり、
働いたり
勉強したりしなくてもいいんだから、などと、なんどもなんども
想像してみるのでした。
こんなことを考えながらさがしているところへ、とつぜん、年とった
灰色の
隊長のガンがやってきました。そして、なにかたべるものが見つかったかね、とききました。ニールスが、いいえ、なんにも見つかりません、と答えますと、隊長はいっしょになってさがしてくれました。でも、やっぱりハシバミの
実は見つかりません。けれど、野バラの
茂みにのこっている実を二つばかり見つけてくれました。ニールスはおいしそうにそれをたべました。でも、心の中では、自分が
なまの
魚やこおっていた野バラの
実をたべて生きていたと、おかあさんが知ったら、なんて言うだろう、と思っていました。
やがて、ガンたちは、おなかいっぱいたべてしまいますと、また
湖へ飛んでいって、お
昼ごろまで、いろんなことをして遊びました。ガンたちは白のガチョウにも
試合を申しこんで、泳ぎっこや、かけっこや、飛びっこなどをしました。大きなガチョウは一生けんめいがんばりました。でも、すばしっこいガンたちにはいつも
負けてしまいました。その間じゅう、ニールスはガチョウのせなかにのっかって、はげましていました。そして、みんなと同じように、うれしがっていました。ガアガアないたり、笑ったり、いや、そのすさまじいこと、
荘園の人たちが気がつかなかったのはふしぎなくらいです。
ガンたちは遊びつかれますと、
氷の上に飛んでいって、二時間ばかり休みました。その日の午後も、午前とほとんど同じようにしてすごしました。さいしょに二時間ばかりごはんをたべて、それからお日さまが
沈むまで、水
浴びをしたり、氷のふちで遊んだりしました。お日さまが沈むと、みんなはすぐに氷の上に
並んで、眠りました。
「こんな生活なら、ぼくはすきなんだがなあ。」夕方、ガチョウの
はねの下にはいりこみながら、ニールスはこう思いました。「だけど、あしたは家へ帰されるんだろう。」
眠るまえに、ニールスは、ガンたちといっしょにいくとすれば、どんな
得があるだろうかと、もう一ど考えてみました。そうなれば、なまけものだといって
叱られることもないでしょうし、だいいち、すきなように、ぶらぶら
暮らすこともできるでしょう。たったひとつ心配なのは、たべるものをどうやって手に入れるかということです。でも、いまではそれもほんのわずかでたりるのですから、なんとか手に入れることもできるでしょう。
そしてまた、これからどんなものを見るだろうか、どんなにたくさんの
冒険をするだろうかなどと、さまざまに
想像をめぐらしてみました。たしかに、家にいて
骨をおって働くのとは、ずいぶんちがうことでしょう。「ああ、もしガンたちといっしょに
旅にいけさえしたら、こんな姿になったのもうらめしくは思わないんだけどなあ!」と、ニールスは思うのでした。
こうなれば、気にかかるのは家に帰されるということだけです。ところが水曜日になっても、ガンたちは帰れというようなことは、ひとことも言いません。この日も、まえの日と同じようにすぎました。そしてニールスは、のびのびとした野の生活が、ますます、すきになってきました。
ニールスは、森のように大きな、このさびしい公園を、すっかり自分ひとりのものにしたような気になりました。そして、じぶんの家のせまい
部屋や、ちっぽけな
畑に帰りたいなんて気もちは、ちっとも起こってきませんでした。
水曜日には、ガンたちは、じぶんをいっしょにいかしてくれるつもりなんだろうと、ニールスはそう思っていました。ところが木曜日になると、この
希望は
消えてしまいました。木曜日も、まえの日と同じようにはじまったのです。ガンたちは広い
畑でごはんをたべ、ニールスはたべものをさがしに公園へいきました。しばらくすると、アッカがそばへやってきて、なにかたべるものが見つかったかい、とたずねました。けれども、いいえ、見つかりません、というニールスの答えに、アッカは
枯れたイブキゼリ草を見つけてくれました。それには、まだ、小さな
たねがいっぱいついていました。
ニールスがたべおわりますと、アッカは、おまえさんは、ずいぶん向こうみずに公園の中をかけまわるようだけれど、おまえさんみたいなちっぽけなものが気をつけなければならない
敵が、たくさんいることは知っているのかい、と、ききました。いいえ、すこしも知りません、と、ニールスは答えました。そこで、アッカはその敵についていちいち説明しはじめました。
森へいくときには、とアッカは言います。キツネとテンに気をつけなくちゃいけないよ。
湖の
岸べにいるときには、カワウソがいることを忘れるんじゃないよ。
石垣の上にすわるときには、どんな小さな
穴にもはいこめるようなイタチがいることを、しょっちゅう気をつけていなけりゃいけない。それから落ち葉の上にねころんで眠ろうとするときには、まずそのまえに、落ち葉の下にマムシが
冬眠していないかどうか、しらべるようにするんだね。広い野原に出たら、空を
舞っているタカやハヤブサやワシなどに気をつけるんだよ。イバラのやぶでは、ハイタカにつかまらないように注意しなさい。カササギやカラスはどこにでもいるから、けっしてゆだんするんじゃないよ。暗くなってきたら、耳をすまして、大きなフクロウに気をつけなくちゃだめだよ。なにしろ、フクロウときたら、音もたてずに飛んでくるからね。すぐそばまでこなければ、気がつかないくらいなんだから。
ニールスは、自分の
命をねらっている
敵がそんなにもたくさんいることを聞かされますと、これでは、とても生きてはいられまいと思いました。死ぬことはそんなに
恐ろしいとは思いませんが、くわれてはたまりません。それでアッカに、そういう動物をふせぐのには、どうしたらいいのですか、とたずねました。
すると、アッカはすぐに答えました。リスやウサギやウソやヤマガラやキツツキやヒバリのような、森や野にいる小さな動物たちと
仲よしになるようにしなさい。こういう動物たちと友だちになっていれば、
危険のときには知らせてくれるだろうし、
隠れ場所も教えてくれるだろう。それに、こまりきったときには、力を合わせてかばってもくれるだろう。
そのあとで、ニールスは教えられたとおりにやってみようと思って、まずリスのハヤキチに
助けてくれるように
頼んでみました。けれども、ハヤキチは、どうみても助けてくれそうもありません。
「ぼくや小さい動物たちから助けてもらおうと思ったって、とてもだめだよ。」と、リスのハヤキチは言うのでした。「きみがガチョウ
番のニールスって
小僧で、去年、ツバメの
巣をぶちこわしたり、ムクドリの卵を
押しつぶしたり、カラスの赤んぼうを
みぞの中にほうりこんだり、ツグミを
わなにかけてつかまえたり、リスをかごの中にとじこめたりしたってことを、ぼくたちが知らないとでも思っているのかい? まあ、せいぜい、じぶんのことはじぶんでするさ。それよりも、ぼくたちがみんなで、きみを人間どものところへ
追い返さないことだけでも、ありがたく思うんだね。」
こんな返事をされれば、もとのニールスなら、ただではおかないところです。けれどもこのとき、ニールスは、じぶんの
悪いことが、ガンたちに知れたらたいへんだぞと思っていました。そんなことにでもなれば、いっしょにいては、いけないと言われるかもしれません。それだけが、ただ、心配でした。このガンの
仲間にはいってからというもの、ニールスは、ちょっとしたいたずらさえもしたことがありません。もちろん、しようとしたところで、こんな小さなからだではたいしたこともできないでしょうが。それにしても、小鳥の
巣をこわしたり、卵を
押しつぶしたりすることぐらいはできるでしょう。しかし、いまではニールスは、すっかりよい子どもになっていたのです。ガチョウの
はねをひきぬくようなこともしませんし、
乱暴な返事ひとつしたことがありません。朝、アッカにおはようのあいさつをするときには、ちゃんと
帽子をとって、ていねいにおじぎをするのでした。
ニールスは、ガンたちがじぶんをラプランドへいっしょにつれていってくれそうもないのは、きっといままでじぶんが
悪いことばかりしたからなんだろう、と、木曜日には一日じゅう考えこんでいました。それで、その夕方に、リスのハヤキチのおくさんが人間にさらわれて、生まれたばかりの赤んぼうがおなかをへらして、いまにも死にそうになっていることを聞きますと、よし、ひとつ助けてやろう、と決心しました。そして、それをうまくやってのけたことは、さっきお話ししたとおりでした。
ニールスは金曜日にもまた公園へはいっていきました。すると、どのやぶからも、ウソたちが、歌っているのが聞こえてきました。リスのハヤキチのおくさんが、赤んぼうだけをのこして人間にさらわれていったけれど、ガチョウ
番のニールスが
勇敢にも、赤んぼうをおかあさんのところへつれていってやったと、ウソたちは、口々に歌っているのでした。
「いまこのエーヴェードスクローステル公園じゅうで、オヤユビさんほど、みんなから
敬われているひとはない!」と、ウソは歌いました。「ガチョウ番のニールスだったころは、あんなにこわがられていたんだけど! いまじゃ、リスのハヤキチは、オヤユビさんにクルミをあげるし、
貧乏なウサギも、きっとピョンピョン
跳ねていっしょに遊ぶよ。キツネのズルスケが近づけば、シカはオヤユビさんを、せなかにのせて
逃げてくれるだろうし、ヤマガラは、タカがくるのをきっと知らせてくれるよ。それから、アトリやヒバリは、オヤユビさんの
勇ましい
おこないを歌にうたうだろうよ。」
アッカやほかのガンたちも、この歌を聞いたことはたしかです。それなのに、金曜日がすぎてしまっても、あいかわらず、ニールスがいつまでもいっしょにいていいとは言ってくれません。
土曜日までずっと、ガンたちはエーヴェードのまわりの
畑でごはんをたべましたが、一どもズルスケにおそわれたことはありませんでした。ところが、土曜日の朝早く、ガンたちが畑へ出ていきますと、ズルスケが待ち
伏せしていました。そして、
畑から畑へと追いかけてきます。これでは、おちついてたべてもいられません。そこでアッカは、すぐに決心をして、空高く
舞いあがりました。そして、ほかのガンたちといっしょに、フェールスの平原やリンデレードの山の
背をこえて、なんマイルも
飛んでいきました。こうして、ヴィットシェーヴレ地方に着きました。
ところが、そのヴィットシェーヴレでは、ガチョウがさらわれてしまったのでした。そして、それからどうなったかは、まえにお話ししましたね。もしもあのとき、ニールスが力のかぎり、ひっしになって助けようとしなかったら、ガチョウの姿はもう二どと見られなかったことでしょう。
土曜日の夕方、ニールスがガチョウといっしょに、ヴォンブ
湖へもどってきたときには、きょうはすばらしいことをやってのけたと思いました。そして、アッカやほかのガンたちがなんて言うだろうかと、
楽しみにしていました。ガンたちは、ずいぶんほめてはくれましたが、でもニールスが聞きたいと思っていることは、ひとことも言ってはくれませんでした。
日曜日になりました。ニールスが
魔法で小人にされてから、ちょうど一週間になります。しかし、あいもかわらず、ニールスはちっぽけな
姿のままなのです。
ところが、そのニールスは、こんな姿になったことをそれほど
悲しんではいないようすでした。
湖のほとりの大きなヤナギの
茂みにすわりこんで、ニールスはアシ
笛を吹いていました。まわりにいるヤマガラやウソやムクドリたちの歌を、一生けんめい吹こうとしていたのです。でも、ニールスは笛を吹くのにあまりなれていないので、ちっともうまく吹けません。そうすると、小さな音楽の先生たちは、
はね毛をさかだて、この生徒の
不器用さかげんにがっかりして、大声を立てたり
羽ばたいたりしています。ニールスはみんながあんまり
夢中になっているので、おかしくてたまらず、笑ったひょうしに笛を
落してしまいました。
ニールスはまた吹きはじめました。やっぱり、うまくいきません。すると、小鳥たちは、口をそろえて悲しそうに言いました。
「きょうは、いつもよりへたじゃないか、オヤユビくん!
調子がちっとも合ってないよ。きみの心はどこへいっちゃったの?」
「どこかほかにね。」と、ニールスは答えました。まったくそのとおりです。笛を吹いているあいだも、あとどのくらいガンたちといっしょにいられるだろうか、もう、きょうにも帰されるのではないだろうか、という心配が、しょっちゅう心に浮かんでくるのです。
けれども、ニールスは急に笛をすてて、
茂みからとびおりました。見れば、アッカやほかのガンたちが、向こうから長く一列にならんでやってきます。しかも、みんなはいつもとちがって、しずしずと、おごそかな
顔つきをして歩いてくるではありませんか。ニールスは、いよいよじぶんの
運命がどうきまるのか聞かされるにちがいない、と思いました。
とうとう、ガンたちはニールスの前に立ちどまりました。そこで、アッカが口をひらいて言いました。
「オヤユビさん、わたしはあなたのおかげで、キツネのズルスケから
救っていただいたのに、いままでお礼も言わないでいて、さぞ
へんなやつだとお思いでしょう。むりもありません。しかしわたしは、ことばでお
礼を言うよりも、
おこないでお礼をしたいほうなのです。それで、オヤユビさん、いまそのご
恩がえしができると思います。というのは、わたしは、あなたに
魔法をかけた小人に使いをやったのです。さいしょ小人は、あなたをもとの人間の姿にかえすことを、なかなか
承知しませんでした。けれども、わたしはなんどもなんども使いをやって、あなたがわたしたちのあいだで、たいへんりっぱな
おこないをしていると知らせてやりました。すると、小人もとうとう
承知して、あなたが家に帰れば、すぐにもとの人間にしてあげるとつたえてくれということです。」
ところが、どうしたというのでしょう! アッカが話しはじめたときには、ニールスはあんなに
楽しそうでしたのに、話しおわったいまは、いかにも
悲しそうに見えました。そしてひとことも言わずに、横をむいて、わっと泣きだしてしまいました。
「いったいぜんたい、どうしたというのです?」と、アッカはあっけにとられて、たずねました。「わたしがいまお話したことだけでは、ご
不満のようですね。」
けれどもニールスは、まいにち心配のいらないことや、おもしろおかしくすごせることや、
冒険や、自由や、空高く
旅をすることなどが、これからはできなくなることを思って、その
悲しみのために、泣いたのです。
「ぼくはもう人間なんかになりたくない!」と、ニールスは泣きじゃくりながら言いました。「きみたちといっしょに、ラプランドへいきたいんだ!」
「いいですか、あの小人はとっても
怒りっぽいんですよ。」と、アッカは答えました。「だから、いまあの小人の言うとおりにしないと、こんどまたうまく言いくるめることは、なかなかできないでしょうよ。」
もともと、ニールスは変わっていました。いままで、ひとりとして人間をすきになったことはありません。おとうさんもおかあさんも、学校の先生も、学校の友だちも、
近所の子どもも、だれもすきにはなれませんでした。みんながニールスにさせようと思うことは、仕事でも
遊びでも、なにもかもうんざりするばかりでした。ですから、ニールスが心からしたったり、なつかしく思ったりするような人は、ひとりもなかったのです。
いくらか
仲よくしていたものといえば、ガチョウ
番のオーサという女の子と、その弟のマッツという子だけでした。このふたりは、ニールスと同じように、ガチョウの番をする
役目でした。けれど、このふたりも心からすきだったわけではありません。
「ぼくはもう、人間になんかなりたくない!」と、ニールスは泣き泣き言いました。「きみたちについてラプランドへいきたいんだよ! だから、ぼく、一週間もおとなしくしていたのさ。」
「あなたが、わたしたちといっしょにいきたいんなら、いっちゃいけないとは言いませんよ。」と、アッカは言いました。「だけど、それよりさきに、ほんとうに
家へ帰りたくないのかどうか、よく考えてごらんなさい。あとで、
後悔するかもしれませんよ。」
「いや、後悔するなんてことは、ぜったいにないよ。」と、ニールスはきっぱりと言いました。「きみたちのところにいるくらい
楽しいことはなかったもの。」
「じゃ、おすきなようになさい。」と、アッカは言いました。
「ありがとう、ありがとう!」と、ニールスは大声で言いました。そして、しみじみ、しあわせを感じて、うれしさのあまり泣いてしまいました。――ついさっき、
悲しみのあまり泣いたように。
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スコーネ地方の
東南部で、海からあまり遠くないところに、グリンミンゲという古いお
城があります。しっかりとした石づくりの大きなお城で、ぐるりの平野の、四、五マイルさきからでもよく見えます。高さといえば四階までしかありませんが、たいへん大きなものなので、同じ
荘園の中にあるふつうの
農家は、このお城にくらべれば、まるで子どものおもちゃの家のようです。
この大きな石の
建物は、
壁と
天井がたいへん
厚いので、内がわには、ただ厚い壁だけがあるようなありさまです。
階段も
廊下もせまくて、
部屋はほんのわずかしかありません。しかも、壁は、できるだけ
頑丈にというので、
窓も上のほうにごくすこししかついていないのです。下のほうには、小さなあかりとりのほか、窓は一つもありません。むかし、
戦争のあった時代には、人びとはこういう大きな
頑丈なお
城に、喜んで
閉じこもっていたものでした。ちょうど、いまのわたしたちが
寒さのきびしい冬に、喜んで毛皮にくるまっているのと同じようなものですね。けれども、やがて
楽しい平和な時代がやってきますと、こんな古いお
城の、うすぐらい、ひえびえとした石の
部屋なんかに、とても住んでいられるものではありません。それで人びとは、もうずっとまえに、この大きなグリンミンゲ
城を見すてて、空気と光のさしこむ、気もちのいい
住居に
越していってしまったのです。
ですから、ニールス・ホルゲルッソンがガンのむれといっしょにやってきたときにも、グリンミンゲ
城には人間はひとりもいませんでした。といっても、住んでいるものがまるっきりなかったわけではありません。夏になれば、コウノトリの
夫婦がきまってやってきては、屋根の上に大きな
巣をつくって住みました。また、
屋根裏部屋には二
羽のフクロウが住んでいましたし、
廊下にはコウモリがぶらさがっていました。台所のかまどには、年とったネコが一ぴき住んでいました。それから地下室には、いく百となく黒ネズミのむれが住みついていました。
ネズミというものは、いったいに、ほかの動物たちのあいだでも、あまり
評判のいいものではありません。しかし、このグリンミンゲ城の黒ネズミだけはべつで、いつもみんなから
敬われておりました。なぜかといえば、
敵と
戦うときにはとても
勇敢でしたし、またこの
種族の上にふりかかってきた
わざわいにもかかわらず、よくがんばりとおしたからです。つまり、この黒ネズミたちは、むかしはたいへん
数も多くて力もあったネズミ族だったのですが、いまではほろびかかっているのでした。じっさい、長い年月のあいだ、黒ネズミたちはスコーネばかりか、国じゅうをじぶんたちのものにしていたのでした。まったく、どこの
地下室にも、
天井裏にも、教会にも、お
城にも、
酒造り
場にも、
製粉所にも、そのほか人間の住んでいるところなら、ありとあらゆるところに住んでいたものです。それがいまではすっかり
追いはらわれて、もう
全滅するばかりです。人里離れた二、三の場所に、その姿を見かけることがあるだけです。その中でも、このグリンミンゲ城ぐらいたくさんいるところは、ほかにはどこにもなかったのです。
ある動物の一
族が死にたえるのは、たいてい人間にやっつけられるためです。しかし、黒ネズミの場合はそうではありません。もちろん、人間も黒ネズミと
戦いましたが、それほどひどくやっつけることはできませんでした。つまり、黒ネズミを
征服したのは、同じネズミ
族の
灰色ネズミだったのです。
灰色ネズミというのは、黒ネズミのように、ずっとむかしからこの国に住みついていたものではありません。百年ばかりまえに、リビア人の
帆船からマルメーに
上陸した、あわれな
移住ネズミの
夫婦がその
先祖になっているのです。この
港にたどりついた二ひきの
宿なしネズミは、橋の下の
くいのあいだを
泳ぎまわっては、水の中にすてられた
くずをたべて、すき
腹をふさいでいました。そのときには、もちろん、黒ネズミの
領分である町の中へはいっていく
勇気はありませんでした。
でも、灰色ネズミたちの数がふえてきますと、だんだん
大胆になって、町なかまではいってくるようになりました。さいしょは、黒ネズミたちのすてた古い
空家に、ひっこしました。そして、
どぶや
ごみためからたべものを見つけてきては、黒ネズミたちの見むきもしなかった、きたない
こぼれ物でがまんしていたものでした。いったい、灰色ネズミというのは、どんな苦しみでもがまんするし、どんなつまらないものにも
満足する、こわいものしらずのネズミだったのです。ですから、二、三年してひじょうに力が強くなりますと、早くも黒ネズミたちをマルメーから追いだしはじめました。まず、
屋根裏部屋や地下室や
貯蔵部屋をうばい取って、黒ネズミたちをうえ死にさせたり、かみ
殺したりしました。なにしろ、灰色ネズミたちは
戦いをちっとも
恐れなかったのですから。
マルメーをうばってからは、大小さまざまの
隊にわかれて
進軍し、いよいよこの地方じゅうを
征服していったのです。それにしても、灰色ネズミたちがまだあんまりふえないうちに、黒ネズミたちがどうして大きな
連合軍をととのえて、灰色ネズミをほろぼしてしまわなかったのか、そのわけはよくわかりません。ともかく、黒ネズミたちは自分の力を信じきっていましたので、自分の
領土を失うなんてことは、
夢にも考えなかったのです。そして、黒ネズミたちは、のんびりと日をおくっていたのでした。そのあいだに、灰色ネズミたちは
農場から農場へ、村から村へ、町から町へと、ぐんぐん
押しすすんでいったのです。そのため、黒ネズミたちはうえ死にするか、追いだされるかして、すっかりほろびてしまいました。こうして、いまでは、スコーネ地方でもグリンミンゲ
城のほかには、どこにも住むところがなくなってしまったようなわけです。
この古い石のお
城は
城壁が
堅固なうえに、ネズミの通れるような道がほんのわずかしかありません。そのため、黒ネズミたちはここにがんばって、灰色ネズミたちが
攻めこんでくるのをふせぐことができました。
毎晩毎晩、毎年毎年、攻めるものと守るものとのあいだには、くりかえしくりかえし、
戦いがつづけられました。けれども、黒ネズミたちはよく見はって、しかも、死ぬことをすこしも
恐れずに戦いました。ですから、この古いりっぱなお城のおかげで、これまでのところは、いつも
勝利をおさめることができました。
さて、ちょっと言っておきますが、黒ネズミたちも、
勢いのさかんだったころは、いまの灰色ネズミと同じように、どの動物からもきらわれていたものでした。それもそのはずです。黒ネズミたちは、つながれているかわいそうな
囚人たちにむかっていって、苦しめたり、死人の
肉をたべたり、
貧乏人の地下室からカブラをぬすんできたり、眠っているガチョウの足をかみきったり、メンドリから、
卵や生まれたばかりのヒヨコをさらってきたり、そのほかさまざまの
悪いことをやってのけたのですからね。ところが、不幸にみまわれてからは、そうしたことは、忘れたように、ふっつりとしなくなってしまったのです。あれほど長いこと
敵を苦しめぬいてきたこの黒ネズミ
族の最後のかわりかたに、
驚かないものはありませんでした。
グリンミンゲ城の近くに住んでいる灰色ネズミたちは、しょっちゅう
戦いをしむけては、このお城をのっとる
機会を、いまかいまかと待っていました。ところで、灰色ネズミたちはこの国のほとんど全部をじぶんたちのものにしているのですから、せめてグリンミンゲ城ぐらいは、わずかな黒ネズミたちのものにしておいてやってもいいように思われます。でも、灰色ネズミたちはそんなことはこれっぱかしも考えてはいませんでした。それどころか、黒ネズミをいつかはほろぼしてしまわなければ、じぶんたちの
名誉にかかわるんだ、と口ぐせのように言っていました。けれども、灰色ネズミのことをよく知っている者は、そんなことはうそで、ほんとうは、グリンミンゲ城を人間が
穀物倉に使っているものだから、灰色ネズミたちは、ここを手に入れないうちは
承知できないんだ、ということをちゃんと知っていたのでした。
ヴォンブ
湖の
氷の上で眠っていたガンたちは、ある朝早く、空から呼ぶ声に目をさましました。
「コロッ、コロッ、ツルのトリアヌートが、ガンのアッカさまほか、みなみなさまにごあいさつを申しあげます!
明日、クッラベルイで、ツルの
大舞踏会がございます!」
アッカはすぐに頭をあげて、答えました。
「それはどうもありがとう! それはどうもありがとう!」
それから、ツルのむれは、むこうへ飛んでいきましたが、ツルが野原や
木立の多い丘の上を飛びながら、「トリアヌートがごあいさつ申しあげます!
明日、クッラベルイでツルの
大舞踏会がございます!」とさけんでいるのが、ガンたちには、まだしばらくのあいだ聞こえていました。
ガンたちは、この
招待を心から喜びました。そして、白いガチョウにむかって、「きみはしあわせだぜ、ツルの大舞踏会にいけるなんて!」と、言いました。
「ツルの
踊りって、そんなにすばらしいのかい?」と、ガチョウはききました。
「きみなんか、とても
夢にだってみたことのないようなものさ!」と、ガンたちは答えました。
「さてと、あした、わしたちがクッラベルイにいっているあいだ、オヤユビくんの身になにもまちがいが起こらないようにするには、どうしたらいいだろう。」と、アッカが言いました。
「オヤユビくんひとり残していくわけにはいかない!」と、ガチョウが大声で言いました。「ツルがオヤユビくんに
踊りを見せないというんなら、ぼくはオヤユビくんといっしょにここに残る。」
「いままで人間がクッラベルイの動物大会にいくのをゆるされたことがないんだよ。」とアッカは言いました。「そんなわけで、オヤユビくんをいっしょにつれていくことができないのさ。だけど、このことはまたあとでよく相談しよう。それよりも、まず第一に、なにかたべるものを手に入れるようにしなけりゃならない。」
こう言って、アッカは出発の
合図をしました。この日も、キツネのズルスケのおかげで、ずいぶん遠くまで、たべもののあるところをさがして歩かなければなりませんでした。こうして、みんなは、グリンミンゲ
城のいくらか南にあたる、じめじめした
草地まで飛んでいきました。
この日一日じゅう、ニールスは小さな池のほとりにすわりこんで、アシ
笛を吹いていました。ツルの
踊りを見にいけないと言われたので、すっかりふさぎこんでいたのです。それで、ガチョウやガンたちと口をきく気にはとてもなれなかったのです。
アッカがまだニールスを
信頼しきっていないなんて、まったくひどい話ではありませんか。ニールスが人間にもどるのをやめたのも、ガンのむれといっしょに
旅をして歩きたいからではありませんか。だから、ガンたちを
裏切るようなことはないだろうということぐらい、とうぜんわかってくれなければこまります。それに、ガンたちといっしょにいたいからこそ、いろんな
犠牲までもはらったのではありませんか。それなら、せめて
珍らしいものでも見せてやるのが、じぶんたちの
つとめだということぐらい、わかってくれてもいいはずです。
「ぼくの気もちをすっかり話さなければいけないぞ。」と、ニールスは思いました。そのうちに、だんだん時がたっていきましたが、とうとう思いきって言いだすことができませんでした。ちょっと
へんに思われるかもしれませんが、じつをいうと、ニールスはこの年とったアッカにたいしては、
尊敬に
似た気もちを持っていました。ですから、アッカの考えに反対することは、なまやさしいことではなかったのです。それは、じぶんでもよく知っていました。
ガンたちがごはんをたべている、このじめじめした草地の一ぽうには、広い
石垣がありました。夕方になって、ニールスがアッカと話そうと思って、頭をあげたとき、ふと、この石垣に目がとまりました。と、そのとたん、びっくりして、思わず小さなさけび声をあげました。すると、その声に、ほかのガンたちもみんないっせいに頭をあげて、
驚いて
石垣のほうを見つめました。さいしょ、みんなは、石垣のまるい灰色の石に足がはえて、それが走りだしたのかと思いました。でも、よくよく見ますと、石垣の上をたくさんのネズミが走っているのです。ネズミのむれはかたまって、ものすごい早さで前進しています。しかも、その
数があんまりたくさんなので、しばらくのあいだは石垣をすっかりおおいかくしていたほどでした。
ニールスは、もとの、大きな力の強い人間だったときでさえ、ネズミがこわくてしかたがありませんでした。それがいまはこんなちっぽけな姿で、二ひきか三びきのネズミにも打ち負かされそうなのです。このときのニールスの気もちは、どんなだったでしょう! ネズミの進軍をながめている間じゅう、ニールスはブルブルふるえていました。
ところが、ふしぎなことに、ガンたちもニールスと同じように、ネズミがだいきらいなようです。だれひとり、ひとことも話しかけませんでした。そして、ネズミたちがいってしまうと、
はねから
泥水をはらい
落そうとでもするように、からだをゆすぶりました。
「灰色ネズミがあんなにたくさん
進軍しているのは、」と、ガンのユクシが言いました。「なにかよくないことの
前兆だぞ。」
こんどこそ、ニールスはまたとない
機会だと思って、クッラベルイにいっしょにつれていってくれなければこまる、と、アッカに言おうとしたのでした。ところが、またもやじゃまがはいりました。こんどは、大きな一
羽の鳥がみんなのあいだにさっと
舞いおりてきたのです。
見たところ、この鳥は
胴とくびと
頭とを、小さな白いガチョウからでも借りてきたようです。けれども、ほかに、大きな黒い
はねと、長い赤い足と、太くて長いくちばしを持っています。そのくちばしは頭のわりには大きすぎて、その
重みのために頭がさがっているので、いかにも
悲しそうな、心配そうなようすに見えます。
アッカはいそいで
はねをなおして、コウノトリのほうに近づきながら、なんどもおじぎをしました。まだ春になったばかりなのに、このスコーネでコウノトリに会ったことを、アッカはそれほど
驚いてもいませんでした。それはこういうわけです。つまり、コウノトリのオスは、メスがはるばるバルト海をこえてくるまえに、ひとりでさきに
飛んできて、冬のあいだに自分たちの
巣がいたまなかったかどうかをしらべる
習慣になっているということを、アッカはちゃんと知っていたからです。それにしても、コウノトリがじぶんたちをたずねてきたのは、いったいどうしたわけなんだろうと、ふしぎに思わずにはいられませんでした。だって、コウノトリというものは、同じ
種族のものとだけつきあうのがすきなのですから。
「エルメンさん、お
宅がどうかしたわけじゃないんでしょう?」と、アッカが言いました。
コウノトリはくちばしを
開ければ、たいてい
不平をこぼす、とよく言われていますね。たしかに、これはほんとうのことです。このコウノトリも、ものを言うのがおっくうそうで、おまけに、ひどく
悲しそうにしゃべります。はじめのうちしばらくは、くちばしをカチカチやっていましたが、それから、しゃがれた
弱々しい声で話しだしました。すると、たちまち不平ばかりならべたてます。グリンミンゲ
城の屋根の
頂きにあった
巣が、冬の
嵐のためにすっかりメチャメチャになってしまった、もうこのあたりではたべものが見つからない、スコーネの人間どもが、だんだんじぶんのものを取ってしまう、
沼地を
掘りかえしたり、たがやしたりしてしまう、だから、自分はスコーネから出ていって、もう二どと帰ってこようとは思わない、などと、
文句ばかり言っています。
コウノトリがこうしてブツブツ言っているあいだ、
家もなければ
保護してくれる者もないガンのアッカは、思わずこう考えるのでした。〈エルメンさん、もしもわたしがあんたのように、めぐまれた身の上だったとしたら、不平なんかこぼしませんよ。あんたは自由な野の鳥でありながら、人間どもに
評判がよくて、
鉄砲で打たれたり、
巣から卵をぬすまれたりするような心配はちっともないんですからね。〉けれど、こうは思いましたが、口にだしては言いませんでした。そしてコウノトリには、ただ、「あの家が
建ってから長いあいだ、ずっとコウノトリの住んでいた家を
捨ててしまうつもりだなんて、とても信じられませんね。」と、言いました。
コウノトリは、こんどは急にガンたちにむかって、
灰色ネズミのむれがグリンミンゲ
城へ
進軍しているのを見ませんでしたか、とききました。アッカが、たしかに、あのぞっとするようなネズミの進軍を見ましたよ、と答えますと、コウノトリは、長年のあいだグリンミンゲ城を守っている、
勇敢な黒ネズミのことをのこらず話してきかせました。
「でも
今夜、グリンミンゲ城は
灰色ネズミの手におちてしまうでしょう。」と、コウノトリはため息をつきながら言いました。
「どうしてまた今夜なんです? コウノトリさん。」と、アッカがききました。
「だって、黒ネズミたちはほとんどみんな、ゆうべのうちにクッラベルイへ出かけてしまったんですからね。ほかの動物たちも、みんないそいでいくだろうと思ったわけなんですよ。」と、コウノトリが答えました。「だけど、ごらんのとおり、灰色ネズミは
家にいたんです。そして、いま
全員集合して、
今夜グリンミンゲ城に
攻めこもうというつもりなんです。つまり、今夜だと、お
城を守っているのは、クッラベルイにいかれないような
老いぼれの弱いネズミだけですからね。だから、きっと灰色ネズミたちは、目的をはたすでしょうよ。だけどわたしは、長いあいだ黒ネズミたちと
仲よく
暮らしていたものですから、黒ネズミの
敵が
占領しているようなところには住みたくありません。」
これでアッカには、コウノトリがなんのためにやってきたのかが、やっとわかりました。つまり、
腹をたてて、そのことを言いにきたのです。たしかに、コウノトリのやりかたでは、この
災難をふせぐことはとてもできないでしょう。
「エルメンさん、あなたはこのことを黒ネズミたちに知らせてやりましたか?」と、アッカがたずねました。
「いいえ、」と、コウノトリは答えました。「知らせたって、どうせむだですよ。みんなが帰ってくるまでに、お
城はとられてしまいますからね。」
「そうとはかぎりませんよ、エルメンさん。」と、アッカは言いました。「わたしはある年よりのガンを知っていますがね、そのひとなら、きっと、こういうひどい
悪事を喜んでふせいでくれるでしょうよ。」
アッカがこう言いますと、コウノトリは頭をあげて、じいっとアッカを見つめました。むりもありません。この年とったアッカには、
武器になるような
爪もなければ、くちばしもないではありませんか。それに、ひるまの鳥ですから、夜になれば、いやでも眠ってしまいます。ところが、ネズミたちときたら、夜の
暗やみで
戦う動物なのです。
しかしアッカは、もう、黒ネズミを助けようと決心してしまったようです。ユクシを呼んで、ガンたちをヴォンブ
湖につれていくように言いました。けれども、ガンたちが
承知をしませんので、きびしく言いわたしました。
「おまえたちがわたしの言うことをきけば、それが、いちばんみんなのためにいいんだ。わたしはこれからあの大きな石のお
城に
飛んでいかなければならない。おまえたちがいっしょについていけば、きっとあのへんの人間に見つかって、打たれてしまうだろう。だから、わたしがいっしょにつれていきたいのは、オヤユビくんだけなんだ。オヤユビくんは目がいいし、夜も起きていられるから、このうえもなく役にたってくれるだろう。」
ニールスは、この日はむしゃくしゃしているので、おとなしく言うことを聞く気にはなれません。アッカが言ったことを耳にしますと、すぐに身を起こして、両手をせなかにまわし、
鼻をつんと上にむけて、前に出ました。さてそこで、ネズミとの
戦いに力をかすのはごめんだ、だれかほかのものにでも助けてもらうがいい、とアッカに言ってやろうというわけです。
ところが、ニールスがあらわれでた
瞬間に、コウノトリは動きだしました。そして、コウノトリがよくやるように、頭をさげ、くちばしを首に
押しつけて立ちました。そして、まるで笑うように、
のどの
奥をゴロゴロやりはじめました。そして、あっというまに、くちばしをさげて、ニールスをつかんだかと思うと、やにわに、二メートルも空高くほうりあげました。しかも、この
芸当を七回もくりかえすのです。ニールスは
悲鳴をあげ、ガンたちはさけびました。
「何をしようっていうんです? エルメンさん。カエルじゃありませんよ! 人間ですよ! エルメンさん。」
コウノトリは、やっとニールスをおろしてくれました。べつに、
けがはさせませんでした。それから、コウノトリはアッカにむかって言いました。
「さて、わたしはグリンミンゲ
城へ帰るとします、アッカおばさん。わたしが出てくるときは、お
城に住んでるものはみんな心配しきっていました。だけど、ガンのアッカさんとチビ人間のオヤユビくんが助けにきてくれると聞かせてやったら、みんなはさぞかし喜ぶでしょう。」
こう言うと、コウノトリはくびをのばして、
はねをひろげました。そうして、
弦をはなれた
矢のように、
飛んでいきました。アッカは、コウノトリがじぶんをバカにしているとはよく知っていましたが、そんなことはちっとも気にかけませんでした。アッカは、ニールスがコウノトリに
振りおとされた
木靴をさがしているあいだ、待っていました。それから、ニールスをじぶんのせなかにのせて、コウノトリのあとを追っていきました。ニールスはこんどはさからいませんでした。いっしょにいきたくないなどとは、ひとことも言いませんでした。いまはコウノトリにすっかり
腹をたてているので、おとなしくせなかにのっかって、ほっとため息をついただけでした。それにしても、あの長い赤い足のコウノトリのやつは、こんなちっぽけな
小僧はまるっきり役にはたたないだろうと、思いこんでいるのです。ニールスは、西ヴェンメンヘーイのニールス・ホルゲルッソンというのがどんな人間であるかを、はっきりと見せてやろうと思いました。
コウノトリに二、三
秒おくれて、アッカもグリンミンゲ
城のコウノトリの
巣につきました。見れば、その巣は大きくて、りっぱなものです。車の
輪が
土台になっていて、その上に枝や
芝草がたくさんおいてあります。けれども、この巣はとても古いので、そこにある草や木には根が
生えています。コウノトリのおかあさんが、巣のまんなかの
低いところにすわって卵をだいているときには、スコーネの美しい
眺めをはるかに
楽しめるばかりでなく、巣のまわりの野バラやイワレンゲの花もながめることができます。
アッカとニールスは、ひとめで、ここではなにかたいへんなことが起ころうとしているんだということが、すぐわかりました。だって、そうでしょう。コウノトリの巣のふちには、灰色のフクロウが二
羽と、灰色のしまのある年とったネコが一ぴきと、
出っ
歯で、目のショボショボした
老いぼれネズミが十二ひきもいっしょにいるのですもの。これは、ふだんなら、とても仲よくしていられる動物たちではありませんからね。
だれひとり、アッカのほうをふりむいて見ようともしなければ、あいさつしようとする者もありません。みんなはただじっとすわって、何もない冬の原の、あちこちに見える灰色の長い線を、ぼんやりと見つめているのです。
黒ネズミたちはみんなだまりこくっていました。なんの望みもなくしているようすが、ありありと見えます。そして、たぶん、じぶんたちの命もこの
城もあぶないことを知っているのでしょう。二
羽のフクロウは大きな目をグルグルやりながら、しょっちゅう
まゆをピクピク動かしていました。そして、ぞっとするような声で、灰色ネズミの
ざんこくなことを話しあっていました。なにしろ、あいつたちは卵やヒナドリまでも
許してはおかないということだから、どこかへ、ひっこさなくちゃなるまい、というのです。ネコはネコで、灰色ネズミがそんなにたくさんお
城に押し入ってくれば、きっとじぶんもかみ殺されるだろう、と思いこんでいます。それで、黒ネズミにむかって、ひっきりなしに
文句を言っています。
「どうしてきみらはそんなにバカなんだい? きみらの
勇士をよそへやっちゃうなんて! なんだってまた、灰色ネズミに気をゆるしたんだい? まったくかんべんならん!」
けれども、十二ひきの黒ネズミは、なんとも言いません。コウノトリもこまりきってはいましたが、ちょいとネコをからかってみたくなりました。
「あんまり心配しなさんなよ、ネコくん!」と、コウノトリは言いました。「きみは、アッカおばさんとオヤユビくんがお城を
救いに来てくれたのを知らないのかい? きっとうまくやってくれること、まちがいっこなしさ。さて、ぼくは
眠るとしよう、ぐっすりとね。あした、目がさめたときには、もうお
城には灰色ネズミは一ぴきもいやしないさ。」
コウノトリが
巣のはしに立って、片足をあげて眠ろうとしたとき、ニールスはコウノトリを
突き落してやってくれと、アッカに目くばせしました。けれども、アッカはすこしも
怒っていないようすで、ニールスをなだめて、言いました。
「わたしぐらい年とってるものが、これっぱかしの
災難でまいってたまるもんですか。あんたがたフクロウさんは、
夜どおし起きていられるんですから、ちょっと二つほど用事を
頼まれてくれませんか。そうすれば、なにもかもうまくゆくと思いますがね。」
二羽のフクロウは、すぐに喜んで
承知しました。そこで、アッカは、フクロウの
だんなさんには、旅に出かけた黒ネズミたちをさがしだして、
一刻も早く帰ってくるようにつたえてくれと、たのみました。いっぽう、フクロウのおくさんには、ルンド
寺院に住んでいるフランメアというフクロウのところへいってもらうことにしました。しかし、この用事はひじょうに
秘密を守らなければならないものでしたから、アッカはフクロウのおくさんの耳もとに、このことをそっとささやきました。
真夜中ごろのことでした。
灰色ネズミたちは、あちこちさがしまわったすえに、とうとう地下室に通じている
穴を見つけたのです。それは
壁のかなり上のほうについていました。けれども、ネズミたちは一ぴきずつ上へ上へと
重なって、そこまでよじのぼりました。やがて、中でもいちばん
勇敢なネズミが一ぴき、その穴の中にとびこんで、いまにもグリンミンゲ
城の中へ
突入しようとしました。ここでは、むかしから灰色ネズミの
先祖たちが、ずいぶん
討死にしたものです。
灰色ネズミ軍の
勇士はしばらく穴の中にじっとして、中から
攻撃されるのを待ちかまえました。
防衛軍の主力がいないことはたしかですが、といって、るす
部隊が
戦いもしないで
降参するとは考えられません。おどる心をおさえながら、勇士はほんのかすかな音も聞きのがすまいと、耳をすましました。しかし、あたりはシーンとしています。そこで、まっさきかける灰色ネズミは、
勇気をふるいおこして、ひえびえとした、まっくらな地下室におどりこみました。
この勇士につづいて、灰色ネズミ軍はあとからあとから
突進しました。みんなはじっと息をころして、黒ネズミ軍の
伏兵があらわれてくるのを、待ちうけていました。でも、そのうちに、身動きすることもできないほど、いっぱいになってしまいました。そこで、思いきって、またまた前進することにしました。
灰色ネズミたちは、いままでこのお
城の中にはいったことはありませんでしたが、わけなく
進路を見つけだしました。黒ネズミたちが一階にいくのに使っていた
壁の中の通路を、すぐに発見したのです。しかし、このせまい急な
階段をよじのぼるまえに、またもやあたりに気をくばりました。灰色ネズミたちにとっては、外で
戦うときよりも、こうして黒ネズミたちがどこにかくれているかわからない今のほうが、ずっと
気味わるく思われました。ですから、ぶじに一階までいけたときには、じぶんたちの
幸運がまるで信じられないほどでした。
一階に足をふみ入れると同時に、
床の上に高く
積んであった
穀物のにおいが、プーンとにおってきました。けれども、いまはまだこの
戦利品を
楽しんでいるときではありません。それよりもまず、用心をしながら、うすぐらい、からっぽの
部屋を、つぎからつぎへとしらべてまわりました。古い
台所の床のまんなかにあった
かまどの上にもとびあがってみました。つぎの部屋では、もうすこしで
井戸の中にころげ落ちそうになりました。小さな
割れ目も、一つ一つしらべてみました。しかし、どこへいっても黒ネズミたちの姿は見えません。
こうして、一階を全部
占領してしまいますと、こんどは二階のばんです。灰色ネズミ軍はまたもや
壁の中に、骨をおって
危険な
進軍をつづけました。そのあいだも、
敵がいつあらわれるかと、ビクビクしながら、たえず息をころして待っていました。そして、
穀物のすばらしい
においにさそわれそうになっても、がまんにがまんをして、
規則ただしく進軍しました。むかしの兵士たちの部屋や、石づくりのテーブルや、
炉や、
窓の深くくぼんだところや、
床の
穴などをしらべてまわりました。この床の穴は、むかし攻め入ってきた
敵兵の頭に、
煮立ったチャンをかけるのに使ったものでした。
けれども、黒ネズミの姿はどこにも見えません。そこで、灰色ネズミ軍は、ご
城主の大きな
宴会場のあった三階へと押し進みました。そこは、さむざむとして、がらんとしていました。古い家にはこうした
部屋がよくあるものです。灰色ネズミ軍は、こんどはいちばん上の四階に突き進みました。四階は大きな、だだっぴろい
広間になっていました。こうして、のこるところなくさがしまわりましたが、灰色ネズミたちが思いもつかず、つい、さがし忘れたところが一つだけありました。それは、
屋根の上の大きなコウノトリの
巣です。そこでは、ちょうどこのころ、フクロウのおくさんがもどってきて、アッカをゆり起こしていました。そして、フクロウのフランメアがアッカの
頼みをきいてくれて、アッカのほしい物をわたしてくれた、と言いました。
さて、灰色ネズミたちは、お城の中を気がすむまでさがしましたので、すっかり安心しました。黒ネズミたちは手むかいするつもりはなく、みんなどこかへ
逃げてしまったものと思ったのです。そこで、気もはればれとして、いよいよ
穀物の山にとびつきました。
ところが、灰色ネズミたちが
小麦を一つぶのみこんだかのみこまないうちに、
中庭のほうから、
鋭い
笛の
音が、かすかにひびいてきました。と、ネズミたちは頭をあげて、気になるようすで、耳をすましました。そして、まるで穀物のところを
離れようとでもするように、
二あし三あしチョロチョロと走りだしました。けれど、すぐまたかけもどってきて、小麦のつぶをたべはじめました。
と、またもや
笛の
音が、
鋭くしみ入るような
調子でひびいてきました。と、どうでしょう。ふしぎ、ふしぎ、一ぴき、二ひき、いいえ、すべてのネズミが、穀物の山からとびおりると、いちばんの近道をとって、お城の外へ出ようと、いっさんに地下室めがけてかけおりていくではありませんか。それでも、なかには思いとどまるネズミもずいぶんありました。このネズミたちは、あれほど苦労してグリンミンゲ
城を
占領したことを思いますと、そうやすやすとお城をすててしまうことができなかったのです。けれど、もう一ど笛の音を耳にしますと、たまらなくなって、みんなのあとを追いかけました。おおいそぎで穀物の山からとびおりて、
壁の中のせまい
穴を、
夢中になって、ころがるようにかけぬけていきました。
見れば、中庭のまんなかに、ちっぽけな
小人が立っていて、
笛を吹いています。そのまわりをたくさんのネズミがとりまいて、笛の
音にうっとりと聞きほれています。チビさんがほんのちょっと
笛を吹くのをやめますと、たちまちネズミたちは、ちびさんにおどりかかって、いまにもかみ
殺しそうになります。でも、すぐまた吹きはじめますと、ネズミたちは、またもや、うっとりとなってしまいます。
こうしてチビさんは、笛の
音で灰色ネズミたちをグリンミンゲ
城の中からすっかりさそいだして、こんどはゆっくりと中庭から道路のほうへ歩いていきました。すると、灰色ネズミたちは一ぴきのこらず、そのあとをゾロゾロついていきます。笛の音がネズミたちの耳にあんまり気もちよく美しくひびきますので、思わずしらずついていくのでした。
チビさんはネズミたちの先頭に立って、ヴァルビューへいく道のほうへさそいだしました。まがりくねった道を進み、
生垣をぬけ、
みぞを通って歩いていきます。すると、そのあとから、ネズミたちがゾロゾロついていくのです。チビさんは、
一時も休まず
笛を吹きつづけています。その笛は、それはそれは小さな動物の
角でつくってあるようでした。でも、いまでは、こんな小さい角を
生やしている動物はどこにも見あたりません。それから、この笛はだれがつくったものなのか、知っている者もありません。この笛は、フクロウのフランメアが、ルンド
寺院の
壁のくぼんだところで見つけたものでした。フランメアは、それを大ガラスのバタキーに見せました。そして、ふたりは、むかし人間が、ネズミを手なずけるためにつくったものにちがいない、ということにきめてしまいました。ところで、この大ガラスはアッカとは仲よしでした。それでアッカは、フランメアがこういう
宝物を持っていることを、まえから大ガラスに聞いていたのでした。
フランメアとバタキーの
想像していたことは、ほんとうでした。たしかに、ネズミたちは、
笛の
音にすっかり心をうばわれてしまいました。ニールスは
先頭に立って、お星さまが空に
輝いている間じゅう、その笛を吹きつづけました。そして、ネズミたちも、休まずそのあとを追っていきました。夜があけはじめてもニールスは笛を吹いていました。お日さまがのぼるころにも吹いていました。その間じゅう、ネズミたちのむれは、ニールスのあとからついていき、ネズミたちは、グリンミンゲ城の大きな
穀物部屋から、だんだん遠くへ遠くへと、つれだされていきました。
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三月二十九日 水曜日
スコーネには、りっぱなお
城がたくさんそびえたっています。けれども、むかしから名高いクッラベルイの
山壁にくらべられるような、すばらしい
城壁を持っているものは一つもありません。
クッラベルイは高い大きな山ではありません。低くて、むしろ長くのびています。広いいただきには、森も
畑もあります。またあちこちには、ヒースの
生えているところもあります。ここはとにかく美しくもなければ、人目をひくわけでもありません。見たところは、スコーネのほかの
高地とまったく同じです。
山の
峰づたいの道をやってきた人は、思わずしらずこう言います。
「この山は、うわさほどじゃないな。これといって見るところもないじゃないか。」
けれども、その道からそれて、山のふちのほうへ歩いていき、そこから
がけを見おろしますと、
景色のいいところがたくさんあって、すっかり見つくしてしまうのに、どのくらい時間がかかるか、わからないほどです。
なぜかといえば、クッラベルイは、ほかの山のように、まわりを平地や谷にかこまれているのではなく、海の中へぐっと
突きでているのです。山の
すそには、
荒らい海の波をふせいでくれるような
陸地は、これっぱかしもありません。海の波は、
山壁にまで押しよせて、それを洗いながし、すきなように形をかえてしまうのです。
こういうわけで、山壁は、海とその友だちの風のために、まったくすばらしい
飾りをつけてもらっているのです。
山腹には深くほりこまれたけわしい谷があります。たえず風に吹きさらされて、つやのでた黒い岩も見えます。水の
面からまっすぐに
突きでてる岩の
柱もあちこちにありますし、入口のせまい、暗い
洞窟も見えます。
このような
がけや岩には、いちめんに
雑草が
生えていて、つるや木の枝がまつわりついています。つまり、そこには木も
生えてはいるのですが、風の力がとても強いため、まるでつる草のようになって、やっとこのけわしい
絶壁にしがみついているのです。カシワの木は横にのびて地面を
這っています。その葉は、
低い
天井のように木の上におおいかぶさっています。せの低いブナの木は、大きな葉のテントのように、谷間に立っています。
目の前にひろびろとした青い海がひろがり、頭の上には
澄みきったあかるい空をいただいている、このすばらしい
山壁には、夏の間じゅう、まいにち、見物の人びとがひっきりなしにたずねてきます。また、ここには、まい年、たくさんの動物たちが集まって、
大運動会をひらきます。しかし、この土地がどうしてそんなに動物たちの心をひきつけるのか、ちょっとそれは説明できません。けれども、とにかくこれは大むかしからの
習慣なのです。
運動会がおこなわれるときには、シカやウサギやキツネをはじめ、ありとあらゆる
四足のケモノが、人間に見つからないように、まえの
晩のうちに、そっとクッラベルイへやってきます。そして、お日さまののぼるまえに、みんなは運動会場へはいります。もっとも、運動会場というのは、道の左手にある、ヒースの
生えた
荒地のことです。そこは山のいちばんはずれからそんなに遠くはありません。
運動会場は四方をまるい丘にかこまれています。ですから、人間がぐうぜんここまで
迷いこんでこないかぎり、動物たちはだれにも見つからないのです。それに、三月といえば、まず、ここまではいってくるような人はありません。秋の
嵐が吹いていらい、ここ数カ月、岩のあたりを歩きまわったり、
山腹をよじのぼったりする見物人の
姿は、ぱったりと見えなくなっているのです。それにまた、この
岬の
燈台守や、山の
畑のおばあさんや、お
百姓さんや、その家族の人たちは、いつも歩きなれている道ばかりをいきますから、こんなさびしい
荒野にまで入りこんでくるようなことはありません。
さて、ケモノたちは会場につきますと、さっそく、まるい丘の上にそれぞれ場所を
占めました。同じ種類のものどうしがいっしょにかたまっています。でも、もちろんこういう日には、よく平和が守られていて、どんな動物もほかの動物におそわれる心配はありません。ですから、この日には、小さなウサギがキツネたちのいる丘をぶらついても、長い耳をなくすというようなこともないわけです。それでも、動物たちは同じ
仲間のものだけで、ひとかたまりになっています。これまた、むかしからの
習慣なのです。
みんなは
席につきますと、鳥たちはどこにいるかと見まわしました。ところで、この日はいつもお天気がいいのです。というのは、ツルは
天気予報がたいへんじょうずでしたから。もしも雨がふりそうだと思えば、動物たちを呼び集めはしないでしょう。ところが、きょうは空も
澄みきって、遠くまで見わたせるというのに、鳥の姿はどこにも見えません。まったくおかしなことです。お日さまはもう空高くのぼっています。きっと、鳥たちはもうここへ向かっているのでしょう。
見れば、平野の向こうから、小さな黒い雲がいくつか、ゆっくりと動いてきます。と、その雲の一つが、急にエーレ
海峡の岸にそって、クッラベルイのほうへ向かってきます。雲は運動場のま上まできたとき、とまりました。と、同時に、その雲ぜんたいが、さえずりはじめました。まるで、その雲は、鳴き声でできているようです。高くあがったり低くなったり、そのあいだもひっきりなしに鳴きつづけています。とうとう、その雲ぜんたいが、とつぜん一つの丘におりました。と、みるみるうちに、その丘は、
灰色のヒバリや、美しい赤みをおびた灰色のウソや、まだらのあるムクドリや、
緑をおびた黄色いヤマガラですっかりいっぱいになってしまいました。
すぐまた、もう一つの雲が平野のむこうからやってきました。それはいろんなところに――
百姓家や、お
城や、町や、
農場や、
停車場や、
漁村や、
精糖工場などの上空にとまりました。そして、とまるたびに、地上からまいあがる
ほこりの
柱のようなものを
吸い入れました。こうして、その雲はだんだん大きくなりました。そしてさいごに、すっかりぜんぶをひき入れて、クッラベルイに向かったときには、もうこれは雲ではなくて、
霧のようになっていました。しかも、その霧がこの上もなく大きいので、ヘーガネースからメルレまでのあいだの
地面を、その影ですっかりおおいかくしてしまったほどでした。それが運動場の上に来たときには、お日さまも見えなくなってしまいました。そして、お日さまがもう一どぼんやりと見えるようになったのは、一つの丘の上にしばらくのあいだ、スズメの雨がふってからのことでした。
けれども、こういう
鳥雲の中でいちばん大きなのが、いまあらわれてきました。それは、あっちこっちから飛んできて、いっしょになった鳥のむれでできているのです。その雲は、暗い青みをおびた灰色で、お日さまの光も通しません。まるで
嵐の雲のように、うすきみわるく近づいてきます。そして、ものすごい音や、
恐ろしいさけび声や、ぞっとするような笑い声や、
不吉な鳴き声にみちみちています。とうとうこの雲が、たくさんのカラス
族となって、
羽ばたき、鳴きさけびながら、雨のようにふりそそいできました。それを見て、運動場にいた動物たちは大よろこびでした。
それから、空には雲の形をしたものばかりでなく、いろんな形をしたものもあらわれてきました。東と北東のほうには、まっすぐな点々の線が見えてきました。それはイエーインゲ地方の林に住む鳥でした。エゾヤマドリやエゾマツドリが、二メートルずつあいだをおいて、長い
列をつくって飛んできたのです。いままた、ファルステルブーの
沖のモークレッペン島のあたりに住んでいる水鳥たちが、三角やら、長い
曲線やら、クサビ
型やら、半円やら、さまざまの妙な形をして飛んできました。
そして、ニールス・ホルゲルッソンが、ガンたちといっしょに
旅をしてまわった年にも、動物大会がおこなわれました。このときには、アッカとそのむれとは、みんなよりもおくれて
着きました。むりもありません。アッカがクッラベルイまでくるのには、スコーネじゅうを飛びこえてこなければならなかったからです。それに、アッカは目をさますと同時に、まずオヤユビくんをさがしに出かけたのです。そのオヤユビくんは、もう何時間も前に出かけていって、
笛を吹きながら、灰色ネズミたちをグリンミンゲ
城からずっと遠くまでさそいだしていたのです。いっぽう、フクロウの
だんなさんは、お日さまがのぼればすぐに、黒ネズミたちが帰ってくるという知らせを持って帰ってきました。ですから、もう
笛を吹くのをやめて、灰色ネズミたちがどこへいこうとかってにさせておいても、すこしも
危険はないわけです。
ところが、ニールスが
灰色ネズミたちの長い
列を
従えて歩いているところを見つけたのは、アッカではなく、それはコウノトリのエルメンリークくんでした。エルメンリークもニールスをさがしに出かけていたのです。そして、ニールスの姿を見つけると、すばやく
舞いおりて、くちばしでニールスをくわえるが早いか、すぐまた
舞いあがりました。そして、コウノトリの
巣につれもどって、ゆうべはほんとに
失礼しました、とあやまりました。
こう言われて、ニールスは、とてもうれしくなりました。それから、ニールスとコウノトリは、すっかり
仲よしになりました。アッカもニールスに、たいへんやさしくしました。そして、年とった頭をニールスの
腕になんどもなんどもこすりつけて、こまっている者をよく
助けてくれたと言って、ほめました。
でも、ニールスはそんなにほめられたくはありません。それで、「ううん、アッカおばさん。ぼくが黒ネズミたちを助けようとして、灰色ネズミをさそいだしたなんて思っちゃいけませんよ。ぼくはただ、ぼくだって、なにかの役にたつってことを、エルメンリークくんに見せたかっただけなんですよ。」
ニールスがこう言いおわると、アッカはすぐにコウノトリのほうをむいて、オヤユビくんをクッラベルイにいっしょにつれていったらどうだろう、とききました。そして、「オヤユビくんは、わたしたちの
仲間と同じように
信頼できると思いますがね。」と、言いました。
するとコウノトリは、たちどころに、ニールスをいっしょにつれていくように、
熱心にすすめました。
「アッカおばさん、オヤユビくんも、ぜひクッラベルイにつれていってやってください。」と、コウノトリは言いました。「オヤユビくんが、ゆうべぼくたちのために骨をおってくれたお
礼をする、またとない
機会ですよ。それに、ぼくは、ゆうべオヤユビくんに失礼なことをしたのが
残念でたまりませんから、こんどはひとつ、会場まで、オヤユビくんをせなかにのせていってやりましょう。」
こんなりこうで役にたつものたちからほめられることぐらい、うれしいことは、そうたくさんはないものです。ニールスは、ガンとコウノトリが、こんなふうにじぶんのことを話しているいまほど、うれしいと思ったことは、一どもありませんでした。
こうして、ニールスはコウノトリのせなかにのって、クッラベルイへ向かいました。これはたいへんな
名誉であるとは思いましたが、ひどく心配にもなりました。というのは、エルメンリークくんはすばらしい
飛行家で、ガンなどとはくらべものにならないほど、ものすごい早さで
飛ぶからです。アッカはたえず
羽ばたきながら、まっすぐに飛んでいくのに、コウノトリはいろんな
芸当をやっては
喜んでいるのです。ときには、ぐうんと高くあがったかとおもうと、じいっととまって、
はねも動かさずに空中をただよいます。また、ときには、石みたいに、地上に
落っこちるかとおもわれるほどの早さで、さっと
舞いおります。そうかとおもうと、つむじ風のように、大きな
輪や小さな輪をえがいて、ゆかいそうにアッカのまわりをグルグルと
飛びまわります。ニールスはいままでにこんな飛びかたをしたことがありませんでした。それで、その間じゅうビクビクしていました。けれども、すばらしい飛びかたというものが、いまはじめてわかったような気がしました。
クッラベルイに
着くまで、一どしか休みませんでした。休んだのは、ヴォンブ
湖に来たとき、アッカが
仲間のものたちに、
灰色ネズミに勝ったと知らせたときでした。それから、みんなはいっしょになって、クッラベルイをさしてまっすぐに飛んでいきました。
やがて、みんなはガンたちの場所にきめられている丘の上におりました。さてそこで、ニールスがあたりの丘を見まわしますと、ある丘にはシカの
角が見え、またある丘には灰色のアオサギのトサカが見えました。ある丘はキツネで赤くなっており、またある丘は海の鳥で黒く白く、またべつの丘はネズミで灰色になっていました。それから、ある丘には、ひっきりなしに
鳴きさけんでいる黒いカラスがむらがっていました。またある丘には、じっとしていられないで、空に飛びあがっては、喜びの歌をうたっているヒバリがいっぱいいました。
クッラベルイ大運動会のいつもの
習慣として、この日のプログラムは、まずカラスの
飛行ダンスからはじまりました。カラスたちは
二組にわかれて、たがいに両方から飛んでいって、ぶっつかっては、またもどる、そして、それをくりかえす、これがカラスのダンスです。カラスたちはこれをなんどもなんどもくりかえしました。このダンスになれていないものには、すこし
変化がなさすぎるように思われます。ところが、カラスはじぶんたちのダンスが
大得意です。見ているほかの動物たちは、このダンスが
終わったときには、ほっとしました。つまり、このダンスは、冬の強い風が
一ひら一ひらの雪をもてあそぶのに
似ていますが、なんとなく
陰気くさくて、おもしろみがありません。見ているほうがまいってしまいました。それでみんなは、もうすこしゆかいなものを見たいと思いました。
けれど、待つまでもありませんでした。というのは、カラスのダンスが終わると、まもなくウサギたちがピョンピョンととびだしてきたからです。ウサギたちはながながと
列をつくって出てきました。しかし、とくにきまりがあるわけではありません。一ぴきだけのもあれば、三びき四ひきならんでいるのもあります。みんなあと足で立っていました。そして、とても早く走るので、長い耳がユラユラしました。ウサギたちは走りながら、ぐるぐるまわりをしたり、高く
跳ねあがったり、前足で、ポンポンとわき
腹をたたいたりしました。つづけざまにとんぼがえりを打つものもあれば、からだをまるめて、車の
輪のようにころがるものもあります。そうかとおもうと、一本足で立って、グルグルまわるものもあれば、前足で歩くものもあります。こういうふうに、ちっともきまりはありませんが、たいへんおもしろいので、見ているたいていの動物たちは、ハッハッと息をしはじめました。いまはもう春です。やがて、
喜びと
楽しみとにみちあふれるのです。冬はすぎさりました。夏はもう近いのです。まもなく、生きていくのに、ただ
遊んでいるだけでよくなるのです!
ウサギの
遊戯が終わりますと、こんどは大きな林の鳥のばんです。赤い
まゆをした、
輝くばかりに黒い美しい姿のエゾマツドリたちが、運動場のまんなかに立っている大きなカシワの木をめがけて、何百羽も
飛びあがりました。いちばん上の枝にとまった一
羽が
はね毛をふくらませて、つばさをさげ、尾を持ちあげて、白い中の
はねを見せました。それから、首をのばして、太いのどの
奥から
低い声で、「チェック、チェック、チェック、」と、二、三ど歌いました。それから、目をとじて、「シス、シス、シス、――なんて美しい声なんでしょう!――シス、シス、シス、」と、ささやきました。そして、こう言うと同時に、すっかり
夢中になって、何がなんだかわからなくなってしまいました。
いちばん上のエゾマツドリが、シス、シス、シスとやっているあいだに、すぐその下にいる三
羽がいっしょになって歌いだしました。そして、みんなが歌いおわらないうちに、こんどは、そのまた下にいる十
羽が、声をそろえて歌いはじめました。こうして、枝から枝へとつたわって、とうとう、いく百というエゾマツドリが、チェック、チェック、チェック、シス、シス、シス、と歌いだしました。そして、みんなは歌っているうちに、われを忘れてしまいました。すると、それがほかの動物たちにも、うつっていきました。いままでは、からだの中を
血が気もちよく
軽くまわっていましたが、いまははげしく
熱く流れはじめました。「うん、たしかに春だ。」と、動物たちはみんな思いました。「冬の
寒さはもうなくなってしまった。春の
ほのおが地上にもえているんだ。」
エゾヤマドリたちは、こうしてエゾマツドリがみごとに
成功したのを見ますと、じっとしてはいられなくなりました。ところが、もうとまる木は一本もありません。そこで、エゾヤマドリたちは運動場にバラバラととびだしました。けれども、そこはヒースがたいそう高く
茂っているため、エゾヤマドリの美しくまがった
尾ばねと
太いくちばしとがつきでて見えるばかりでした。そこでみんなは、「オル、オル、オル、」と歌いはじめました。
こうして、エゾヤマドリがエゾマツドリと
歌合戦をしているとき、思いがけないことが起こりました。動物たちはみんなエゾマツドリのほうに気をとられていました。そのあいだに、一ぴきのキツネがガンのいる丘にそっと
忍びよったのです。キツネは足音をしのばせて、だれにも気づかれないうちに、丘まで来てしまいました。と、だしぬけに、一羽のガンがキツネの姿を見つけました。そして、キツネがよくない
目的でやって来たのを見てとって、たちまち大声でさけびたてました。「ガンの
諸君、気をつけたまえ、気をつけたまえ!」とたんに、キツネはそのガンの
のどもとに
食いつきました。きっと、だまらせようというのでしょう。しかし、そのときにはもう、ガンたちはさけび声を聞きつけて、いっせいに空に飛びあがってしまいました。ガンたちが飛びたったあとを見ますと、キツネのズルスケが死んだガンをくわえて、ガンの丘に立っていました。
しかし、キツネのズルスケは、こうして運動会の日の平和をみだしたのですから、
重い
罰を受けることになりました。つまり、ズルスケは
復讐心をおさえることができないで、アッカとそのむれに、こんなふうにして近づこうとしたことを、これから一生のあいだ、
後悔しなければならないのです。
たちまち、ズルスケはキツネのむれに取りかこまれてしまいました。そして、むかしからの
習慣に従って
裁判をうけました。大運動会の日に平和をみだしたものは、
追放されるのです。どのキツネも、
刑を
軽くしてやってくれとは言いません。そこで、だれからの反対もなく、追放の刑が言いわたされました。こうして、ズルスケはスコーネに
住むことを
禁じられました。
妻や子どもとも
別れて、いままで持っていた
猟場や、
住居や、
隠れ
場から立ちのくように言われました。いよいよ、よその国で
幸福をさがさなければなりません。おまけに、ズルスケがこの地方から追いだされたことが、スコーネじゅうのキツネたちに
一目でわかるように、いちばん年上のキツネが、ズルスケの右の耳の
はしをかみ切ってしまいました。これがすみますと、たちまち若いキツネたちは、
血にくるったようにほえたてて、ズルスケめがけて
突進しました。こうなっては、
逃げるよりほかありません。わかいキツネたちみんなに追いかけられて、ズルスケは、クッラベルイからいちもくさんに
逃げていきました。
こんなできごとがもちあがっているあいだも、エゾヤマドリとエゾマツドリは
歌合戦をつづけていました。みんなはあんまり
夢中になって歌っていたものですから、何も耳にもはいらなければ、目にもうつりませんでした。ですから、もちろん、このさわぎのためにじゃまされるようなこともありませんでした。
林の鳥たちの歌合戦が終わりますと、ヘッケベリヤのシカたちが出てきて、
すもうを見せるばんになりました。あっちでもこっちでも、一どにいく組もの
すもうがはじまりました。シカたちは、もうれつにぶっつかっては、
角と角とがからまるほどに、はげしく角を打ちあって、
相手を
押しもどそうとします。ヒースの
茂みは、ひずめにふみにじられました。シカの口からは、ハアハアと
煙のように
息がはきだされます。
のどの
奥では、ものすごいうなり声をあげています。
汗が
あわのようになって、
肩から流れ落ちています。
この
すもうのうまいシカたちがつかみあっているあいだ、まわりの丘の動物たちは、息をころして見まもっていました。こうして、見ているうちに、みんなの
胸の中には新しい気もちがわいてきました。だれもが、
勇気にみちて、強くなったように感じ、春のおとずれといっしょに、もう一ど力がわいてきたように感じました。そして、いまはどんな
冒険でもやってみようという気になりました。たがいに
敵意をいだいたわけではありませんが、おもわずしらず、
はねがあがり、くびの毛が立ち、
爪が
鋭くなりました。ですから、もしもヘッケベリヤのシカたちが、もうすこし
すもうをつづけていたとしたら、丘の上でもはげしい
争いがはじまったかもしれません。というのは、みんながみんな、冬のあいだの
弱々しさは
消えてしまって、からだじゅうに力があふれ、元気いっぱいになったことを、見せたくてたまらなくなったからです。
しかし、ちょうどそのとき、シカたちは
すもうをやめました。とたんに、「ツルが来た、ツルが来た!」というささやきが、丘から丘へとつたわっていきました。
見れば、頭に赤毛の
飾りをつけ、つばさに美しい
はね毛のある、
灰色の
黒っぽい
姿をした鳥が、飛んできます。足の長い、首のほっそりとした、頭の小さいその鳥は、いかにも
優しく丘にすべりおりてきました。そして、なかば飛び、なかば
踊りながら、ぐるぐるまわって、進みでてきました。
はねを
上品にあげて、目にもとまらない早さで動いています。その踊りには、まことにふしぎな、ひとの心をうっとりとさせるようなものがあります。まるで、ひとの目では、はっきりと見ることのできない灰色の
影が、踊っているのではないかと思われます。その踊りは、人里はなれた
沼の上にただよう
霧から
教わってきたのではないかと思われます。そこには、この世のものではないふしぎな力が
宿っています。これまでクッラベルイに来たことのないものは、この
運動会ぜんたいがどうして「ツルの
舞踏会」と呼ばれているかが、いまはじめてわかりました。ツルの踊りには、なにか、あらあらしいところがありましたが、それでいて、それがひとの心に呼びおこす気もちは、やさしいあこがれなのです。だれももう
争うことは考えなくなりました。いまは、
はねのあるものも
はねのないものも、みんながみんな、空高く雲の上までのぼって、そこには何があるかを見たいと思いました。自分たちを地上にひきとめておく、この
重くるしいからだをすてて、遠いむこうの世界へとただよっていきたいと思うのでした。
遠いむこうの世界、いくことのできない、ふしぎな世界へのあこがれを、動物たちがいだくのは、年にただ一どだけでした。しかもそれは、このすばらしいツルの
踊りをながめる、ただこの日一日だけでした。
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旅にでてから、はじめての雨の日でした。ガンたちがヴォンブ湖のあたりにいたあいだは、お天気がよかったのですが、北に向かって旅だった日に、雨がふりだしました。そのため、ニールスはびしょぬれになって、
寒さにふるえながら、ガチョウのせなかにのっていました。
朝、みんなが出かけたころには、まだ晴れていて、おだやかなお天気でした。ガンたちは空高く
舞いあがると、アッカを先頭に、規則ただしく、ゆうゆうと、くさび
型になって
飛んでいきました。地上に動物たちを見かけても、からかっているひまはありません。それでも、だまってばかりはいられないので、
羽ばたきに
調子をあわせて、いつものように、「きみはどこだい? ぼくはここだよ! きみはどこだい? ぼくはここだよ!」と、さそいかけるように、ひっきりなしにさけんでいました。
みんなはこうさけびつづけていましたが、ときどき鳴くのをやめては、下に見える土地の名まえをガチョウに教えてやりました。こんどの
旅では、リンデレード
山脈の
荒れはてた
山肌や、オーヴェスホルム
荘園や、クリスチャンスタッドの教会の
塔や、ベッカ森の
王家の
領地や、オップマンナ湖とヴェー湖のあいだのせまい
岬や、リユース山のけわしい
がけの上を飛びました。
ほんとうに、あきあきするような旅でした。ですから、
雨雲があらわれてきたときには、ニールスは、かえって変わったことがあっていいだろうと思いました。いままで、下からだけ見たときには、雨雲は
灰色でうっとうしいものに思われました。それが、いまこうして雲のあいだに来てみますと、まるでちがったふうに見えました。雲は、ちょうど荷物を山のようにつんで空を走っている、大きな馬車のようです。そして、ある車は、大きな灰色の
袋をつんでいます。ある車は
たるをいっぱいつんでいます。また、ほかの車は、とても大きくて、一つの
湖ぜんたいをのっけることができるくらいです。そうしてまた、ある車は
桶や
びんをものすごく高くつみあげています。こうして、空をうずめつくすほどのたくさんの馬車が走っていったあとから、だれかがその馬車に向かって
合図でもしたのでしょうか。みるみる桶や
たるや
びんや袋から、水が地上にザアザアと落ちはじめました。
春の雨がはじめて地上にふってきますと、森や草原にいる小鳥たちは、大よろこびでさえずりはじめました。そしてその声が、空じゅうにひびきわたりましたので、ニールスは、ガチョウのせなかでびっくりして
跳ねあがりました。
「ああ、雨がふってきた。雨は、ぼくたちに春をつれてきてくれる。春は、花と青い葉っぱをくれる。花と青い葉っぱは虫をくれる。虫はたべものをくれる。いいたべものがたくさんあるのは、一ばんすてきだ!」と、小鳥たちは歌いました。
ガンたちも、長い冬のあいだ眠っていた、木や草たちの目をさましてやり、
湖の上の氷に
穴をあける春の雨がうれしかったのです。そこでもう、まじめくさってはいられなくなって、あたりいちめんに楽しいさけび声をあげはじめました。
クリスチャンスタッドのあたりの大きなジャガイモ
畑――まだ
黒ぐろと、
地肌を見せていました――の上を飛んだとき、ガンたちはさけびました。
「さあ、目をさまして、働くんだよ! おまえたちの目をさます春はもう来ているんだよ。おまえたちは、もう、じゅうぶん長いことなまけていたんだから。」
ガンたちは、人間がいそいで
軒下にかけこむのを見ますと、こう教えてやりました。
「あんたたちはどうしてそんなにあわてているの? 雨は、パンやお
菓子じゃないの。それがわからないの?」
大きなモクモクした雲が、ガンのむれのあとを追っかけて、北のほうへズンズン動いていきます。ガンは、じぶんたちがその雲をひっぱっているのだと思いこんでいるのでしょう。なぜなら、下のほうに大きな
果樹園が見えたとき、いかにも
自慢そうにこうさけびました。
「ぼくらはアネモネといっしょに来たよ。バラといっしょに来たよ。リンゴの花といっしょに来たよ。サクラのつぼみといっしょに来たよ。エンドウや、ソラマメや、カブや、タマナの花といっしょに来たよ。ほしい者には、あげよう。ほしい者には、あげよう。」
はじめてのにわか雨がふりしきっているあいだ、ガンたちはこうさけんでいました。あらゆるものがこの雨を
喜んでいました。けれども、この雨は、午後のあいだもずっとふりつづいていましたので、ガンたちはいらいらしてきました。そして、ヴェー
湖のまわりの、からからにかわいている森に向かってさけびました。
「きみたちはもっと、ふれっていうのかい? きみたちはもっと、ふれっていうのかい?」
空はますます
灰色になってきました。お日さまはすっかり姿をかくしてしまって、どこにあるのかもわかりません。雨はだんだんひどくなって、ガンたちの
はねをはげしく打ちます。だんだん、
油をぬった外の
はね毛のあいだから、
皮膚にまでしみこんできました。地上は
霧につつまれて、湖も山も森もぼんやりかすんでいます。どこを飛んでいるのか、けんとうもつきません。飛ぶ速さも、だんだんおそくなってきました。もう、だれも楽しそうなさけび声をたてようとはしません。ニールスはだんだん寒くなってきました。
でも、空を飛んでいるあいだは、元気がありました。そして、午後おそく、大きな
沼地のまんなかに
生えている小さなマツの木の下におりたときにも、まだ元気をなくしてはいませんでした。おりたところは、いちめんに、ぐしゃぐしゃしていて、つめたく、ある丘は雪をかぶり、またある丘は氷がとけかかった水たまりの中に、はだかで立っていました。ニールスはそのあたりをかけまわって、ツルコケモモや
凍ったコケモモをさがしました。そのうちに、夕方になりました。くらやみがあたりをつつんで、何も見えなくなりました。すると、何もかもが
妙にきみわるく、
恐ろしく見えてきました。ニールスはガチョウの
はねの下にもぐりこみましたが、寒いのと、からだじゅうがびしょぬれなのとで、眠ることができませんでした。おまけに、あたりにはサラサラ、ガサガサと、だれかがそっと歩くような足音や、おびやかすような声が聞こえますので、恐ろしくてたまりません。もし、このままで、こごえ死にたくなかったら、どこかあたたかい火とあかるい光のあるところへいかなければなりません。
「こんや
一晩だけ、人間のところへいったらどうだろう?」と、ニールスは思いました。「そうして、ちょっとのあいだ火のそばにすわらせてもらって、たべものをほんのすこしもらうんだ。そうしたって、お日さまののぼるまえに、ガンたちのところへ帰ってこられるだろう。」
ニールスは、
はねの下から
這いだして、
地面にすべりおりました。ガチョウもガンたちも、目をさましませんでした。それから、ニールスは、足音をしのばせて、だれにも気づかれずに、沼地をとおっていきました。
それにしても、ここはいったいどこなのでしょう? スコーネでしょうか、スモーランドでしょうか、それともブレーキンゲでしょうか。
さっき、
沼地におりるまえに、大きな町がチラッと見えました。そこで、ニールスはそっちのほうへ歩いていきました。すると、すぐに道が見つかりました。そして、まもなく、
並木のある長い村道にでました。その両がわには、
農家がいくつもいくつもならんでいます。
ニールスはある大きな村にでました。高い土地にはよくありますが、平地ではめったに見られない村です。
家々は
木造でしたが、たいへんきれいに建ててありました。たいていの家には
飾りのついた
破風があり、色ガラスのはまっているヴェランダも見えました。
壁はあかるいペンキでぬってありました。戸や
窓わくは青や緑にかがやいていました。また赤くかがやいているのも見えました。ニールスがそのあたりを歩きまわって、家々をながめていますと、あたたかい
部屋の中から人々の話し声が聞こえてきました。話していることはわかりませんでしたが、人間の声を聞くのは、たまらなくなつかしく思われました。「ぼくが戸をたたいて、中へ入れてくださいと言ったら、みんなはなんて言うだろう?」と、ニールスは考えました。
もちろん、ニールスはそうしようと思ってやってきたのです。こうして、いまあかるい窓を見ていますと、くらやみをこわがる気もちはなくなってしまいました。でも、そのかわり、人間のそばに近づくとき、いつも感じるあのこわいような気もちが、またまた、
起こってくるのでした。「中へ入れてもらって、たべものをくださいって言うまえに、もうすこしこの村を見ておこう。」と、ニールスは思いました。
とある家の前をとおりかかったとき、
露台の戸が開いて、黄色い光が、すきとおった
軽いカーテンをとおして流れでてきました。そして、ひとりの美しい若い女のひとが出てきて、手すりによりかかりました。「雨だわ。もうすぐ春ね。」と、そのひとは言いました。ニールスはそのひとの姿を見たとき、なんともいえないふしぎな気もちになりました。なんだか泣きたいような気がしてきました。じぶんは、人間の世界からすっかり遠くはなれてしまっているのです。ニールスは、いまはじめて心ぼそくなりました。
それからまもなく、ある店の前に来ました。店の前には、赤い
種まき
機械がおいてありました。ニールスは立ちどまって、それをながめていましたが、とうとうその上にはいあがりました。
運転台にすわって、
舌打ちをしながら、それを動かすようなかっこうをしました。そして心の中では、こんなすばらしい機械で
畑がのりまわせたら、すてきなんだがなあ、と思いました。
ニールスは、ちょっとのあいだ、いまのじぶんを忘れていました。けれど、すぐまた思いだして、いそいで機械からとびおりました。そうすると、不安な気もちはますますつのってきました。じっさい、動物のあいだにくらしてみたあとでは、人間というものは、まったくふしぎで、りこうなものでした。
そのうちに、
郵便局のそばをとおりかかりました。すると、世界じゅうの新しいできごとをまいにち知らせてくれる新聞のことを思いだしました。
薬屋さんとお
医者さんの家を見たときには、人間は病気や死と
戦うことができるほど、大きな力を持っていることを思ってみました。それから、教会の前に来ました。すると、人間が、いま住んでいる世界とはちがった世界のことについて、神さまとか
復活とか
永遠のいのちとかいうことについて、
教えを聞くために、こんな教会をたてたのだということを思ってみました。
こうして、先へいけばいくほど、人間がすきになってきました。
子どもというものは、すぐ目の前のことしか考えません。そして、一ばん近くにあるものをほしがって、そのためにどんなことになるか考えもしないのです。このニールス・ホルゲルッソンが
小人のままでいたいと願ったときにも、じぶんが、どんなにたいせつなものを、なくすことになるか、わからなかったのです。でも、いまでは、もとのちゃんとした人間の姿にもどれないのではないかということが、心配で心配でたまらなくなりました。
だけど、人間にもどるのには、いったいどうしたらいいのでしょう? ニールスはそれを知りたくてたまりませんでした。
ニールスは、ある家の
段々に
這いあがって、ふりしきる雨の中に
腰をおろして、物思いにふけりました。一時間も、二時間もすわりこんで、考えていました。ひたいに
しわをよせて。でも、ちっともいい考えは浮かんできません。ただいろんな考えが、頭の中でグルグルまわっているような気がします。そして、そこにすわりこんでいればいるほど、ますます、どうしていいかわからなくなりました。
「ぼくみたいに、すこししか
勉強しなかったものには、むずかしすぎるんだ。」ニールスはとうとう、こうきめました。「とにかく、人間にならなけりゃならない。そのためには、
牧師さんとか、お
医者さんとか、先生とか、そのほか、学問があって、こういうことの
治しかたを知っている人にきかなくちゃだめだ。」
ニールスはすぐにそうしようと決心しました。そして、立ちあがって、ブルッとからだを
振りました。だって、からだじゅう水たまりにはいった犬のように、びしょぬれになっていたのですから。
ちょうどそのとき、大きなフクロウが一
羽飛んできて、道ばたの木にとまりました。それを見ると、すぐに、この家の
蛇腹にとまっていた森のフクロウが話しかけました。
「チーヴィット、チーヴィット、
沼フクロウさん、お帰りですか? 外国はいかがでした?」
「ありがとう、森フクロウさん、たいへん
楽しかったですよ。」と、沼フクロウは言いました。「ところで、わたしの
るすちゅうに、何か変わったことがありましたか?」
「このブレーキンゲでは、なんにもありませんでした、沼フクロウさん。でも、スコーネでは、とってもめずらしいことがあったんですって。ひとりの男の子が、小リスぐらいしかない
小人にされてしまいましてね、それからは、ガチョウにのって、ラプランドへ旅をしにいったという話ですよ。」
「そりゃ、めずらしいニュースですね、ほんとにめずらしいニュースですね。その子はもう人間にはなれないでしょう? 森フクロウさん。ねえ、もう人間にはなれないでしょう?」
「これはほんとうは
秘密なんですがね、沼フクロウさん、でも、あなたのことですから、お話しするんですよ。小人が言うのには、もしその子がガチョウのせわをよくしてやって、ガチョウが、ぶじに帰れれば――――」
「で、それから? 森フクロウさん、そして、それからどうなんです?」
「あたしといっしょに教会の
塔までいらっしゃいな。そしたら、すっかりお話ししてあげますよ。ここだと、下の道でだれか聞いているかもしれませんもの。」
それから、二
羽のフクロウは
飛んでいきました。でも、ニールスはうれしくなって、
帽子を空にほうりあげました。
「ガチョウがぶじに家に帰れるように、ぼくがよくせわをしてやりさえすれば、また人間になれるんだ。ばんざい! ばんざい! また人間になれるんだ!」
ニールスは、ばんざい! ばんざい! とさけびましたが、ふしぎにも家の中の人たちには聞こえませんでした。ニールスはできるだけいそいで、ぬれた
沼地にいるガンのむれのところへもどってゆきました。
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つぎの日に、ガンのむれは、スモーランドのアルブー地方をとおって、北へ
旅行しようと思いました。そこで、そのまえに、
仲間のユクシとカクシをやって、その地方のようすを見させました。ふたりは帰ってくると、水はすっかり
凍っていて、地面も見わたすかぎり雪でおおわれていると知らせました。
「それじゃ、ここにいるほうがいい。」と、ガンたちは言いました。「水もたべものもないところなんか飛んでゆけやしない。」
「もしここにいるとすれば、
一月も待たなくちゃならないだろうよ。」と、アッカは言いました。「だから、ブレーキンゲをとおって、東へ進むほうがいいと思うね。そうして、メーレ地方をとおってスモーランドへいけるかどうか、見きわめるほうがいいだろう。メーレ地方は海岸近くにあって、早く春になるからね。」
こういうわけで、ニールスはあくる日、ブレーキンゲの上を
飛びました。いまはすっかりあかるくなっていましたので、ニールスの気もちもはればれとしていました。そして、ゆうべのことなんか、まるで忘れてしまいました。もちろんいまは、ラプランドへの
旅と、のびのびした
野外の生活をやめようとは思いませんでした。
ブレーキンゲのあたりには、こい
霧がたちこめていました。そのため、下のようすはすこしもわかりませんでした。「ここはよい
土地なんだろうか? それとも、よくない土地なんだろうか?」と、ニールスは思いました。そして、学校で
習ったことを、一生けんめい思いだそうとしました。でも、
勉強をちゃんとしたことがないのですから、思いだせるはずがありません。
そのとき、急に、学校が、目の前にありありと見えてきました。ほかの生徒たちは小さなイスに
腰かけて、みんな手をあげています。先生は
教壇にすわって、
不満そうな顔をしています。ニールスは地図の前に立って、ブレーキンゲについて先生からきかれたことに答えなければならないのです。でも、ひとことも言うことができません。先生の顔はだんだんくもってきました。先生はほかの学科よりも、
地理のことをやかましく言うようです。そのとき、先生は
教壇からおりてきて、ニールスの手から
棒を取りあげると、ニールスを
席にかえしました。「こいつはまずいぞ。」と、ニールスは心の中で思いました。
しかし、先生は
窓のそばへ歩みよって、しばらく外をながめていました。そうして、きげんのいいときのいつものくせで、そっと
口笛を吹きはじめました。それからまた、教壇にもどって、ブレーキンゲについてみんなにすこし話してやりたいことがあると言いました。
そして、先生は話しだしました。それはたいへんおもしろい話でしたので、このときばかりはニールスもよく聞いていました。それで、先生の言ったひとこと、ひとことまでが思いだせるのでした。
「スモーランドは、
屋根にエゾマツの
生えている高い家のようなものです。この家の前には広い
階段があって、それには三つの段々がついています。この階段にあたるところをブレーキンゲと言っているのです。
この階段はたいそうよくできています。それはスモーランド
家の前面にそって、八マイルほどのびています。そして、この階段をとおってバルト海までいこうとする人は、四マイルばかり歩かなければなりません。
この階段がつくられたのは、ずいぶん、むかしのことです。そして、スモーランドとバルト海とのあいだに、
便利な道をひらくため、この階段がたいらに、なめらかにされてからも、長い年月がたっているのです。
階段はこんなに古いのですから、いまではそれが新しかったときのように見えなくても、すこしもふしぎではありません。わたしは、そのころの人たちが、この階段のことにどのくらい気をつかっていたかは知りませんが、とにかくこんなに大きくては、それをきれいにしておくことはできなかったのです。ですから、二年ばかりたちますと、そこにはコケ
類が
生えてきました。秋には
枯れ
葉や枯れ草が落ちかかり、春にはくずれ落ちた石や
じゃりがたまりました。そうして、こういうものがみんなそこにそのままになっていましたから、しまいには階段の上に土がたくさんたまってしまいました。そして、草ばかりでなく、やがては大きな
やぶや木々までも根を
生やすようになりました。
けれども、それといっしょに、三つの段々のあいだには大きなちがいができてしまいました。スモーランド
家のすぐ近くにある、いちばん上の段は、だいぶぶんが、やせた土地で、小石がいちめんにちらばっています。そこに
育つ木といえば、わずかに、シラカバやカンバやエゾマツぐらいのものです。こういう木は、高い土地の
寒さにもたえ、わずかの土地でもがまんできるのです。そこがどんなに
貧弱で、やせた土地であるかは、森のあいだに切りひらかれている
畑がごくすくなく、そこに立っている家もひどくちっぽけで、教会と教会とのあいだもずいぶんはなれているのを見れば、よくわかります。
けれど、まんなかの段になりますと、さっきよりは土地もよくなって、寒さもそれほどではなくなります。それは、一ばん上の段よりも、高くて
質のいい木々が
生えているところからも、すぐにわかります。そこには、カエデや、カシワや、ボダイジュや、シダレカバや、ハシバミなどが
生えています。しかし、
針葉樹はありません。さらに
畑地がたくさんあるのと、大きな美しい家々がたっているのが目につきます。それから、ここには教会もたくさんありますし、そのまわりには大きな村もあります。どこから見ても、いちばん上の段よりは、美しくていいようです。
でも、なんといっても、いちばんいいのは、いちばん下の段です。そこは、ゆたかなよい土地にめぐまれていて、海につづいているところなどでは、スモーランドほど寒くはありません。ここにはブナの木や、クリの木や、クルミの木が
生えています。しかも、教会の屋根よりも高くおい
茂っているのです。それから、たいへん大きな
穀物畑も見られます。けれども、人々はただ畑をたがやしたり、
材木を売ったりして
暮らしているばかりでなく、
漁業や
商業や、
海運業もやっています。ですから、ここには、すばらしい
邸や、りっぱな教会もあります。そして、大きな村や町も見うけられます。
しかし、三つの段々についての話は、これでおしまいになったのではありません。というのは、この大きなスモーランド
家の屋根に雨がふったり、そこにつもっている雪がとけたりするようなときには、水はどこかへ流れてゆかねばならないということも、考えてみなければならないからです。そういうときには、もちろん、たくさんの水がこの階段の上に流れおちたわけです。さいしょは、たぶん、階段じゅうを流れていたものでしょう。そのうちに、そこに
割れ目ができました。そうして、だんだんにうまく
みぞをつくって、その中を流れるようになりました。そして、水はなんといってもやっぱり水です。いっときも休んではおりません。あるところでは
穴を
掘って、消えてゆきますし、また、あるところではもっとたくさんにふえます。やがて
みぞは谷になって、谷の
壁には土がいっぱいかぶさります。それから、そこには、小さい木や、つる草や木々が
生えてきて、やがてそれがこんもりと茂って、ついには下を流れる水の流れをかくすばかりになってしまいます。けれども、流れが段と段との間のところにきますと、とうとうと流れ落ちます。そのため、
あわ立つ
激流になるので、水車やいろんな
機械を動かす力をもつようになるのです。こうして、水車小屋や工場はどの
滝のまわりにもつくられたのです。
けれども、三つの段々のある土地の話は、これですっかり
終わったわけではありません。もう一つ言っておきたいことがあります。むかし、この大きなスモーランド
家には、年とったひとりの
巨人が住んでいました。巨人はたいそう年をとっていたので、わざわざ高い階段をおりて、海までサケをとりにいかなければならないのが、ひどくめんどうでした。それで、じぶんの住んでいるところまで、サケがのぼってきてくれれば、たいへんありがたいと思いました。
そこで、その大きな家の屋根にのぼって、大きな石をバルト海めがけていくつも投げました。力いっぱい投げましたので、石はぐんぐん飛んで、ブレーキンゲをこえて、海の中へ
落っこちました。サケのほうでは、石が落ちてきたのにびっくりして、海からとびだし、ブレーキンゲのほうへ
逃げていきました。そして、急流をさかのぼり、
滝をとびこえて、ひと休みもせずに、年とった
巨人のいるスモーランドまでのぼっていきました。
この話がみんなほんとうだということは、ブレーキンゲの海岸にそって見えるたくさんの島や大きな岩を見れば、よくわかります。その島や岩は、巨人が投げたたくさんの大きな石にまちがいないのですからね。
それにまた、じっさい、サケは、たえずブレーキンゲの流れをさかのぼり、滝をとびこえ、静かな流れを泳いで、スモーランドまでやってくるのです。
ですから、この
巨人は、ブレーキンゲの人たちから大いに
感謝され、
尊敬されてもいいわけです。なぜなら、この流れでサケをとり、島々から石を切りだすことが、むかしからいままで、ずっと、この地方の人々が生きるためのしごとになっているのですから。
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四月一日 土曜日
キツネのズルスケにしてもガンたちにしても、おたがいにスコーネをはなれてから、また出会うことがあろうとは、
夢にも思っていませんでした。ところが、ガンたちがブレーキンゲに向かって飛んでいきますと、ぐうぜん、ズルスケもそこへいっていました。
いままで、ズルスケはこの地方の北部にいましたが、りっぱな
荘園も、うまい
えもののいっぱいいる
猟場も見つからないので、すっかり、きげんをわるくしていました。
ある日の午後、ズルスケがロンネビュー川からあまり遠くない、さびしい森の中をうろついていますと、ガンのむれが空を飛んでいるのが見えました。見ると、中に一
羽白いのがまじっています。ズルスケは、ハハア、あいつたちだな、と思いました。
そこで、ズルスケはすぐさまガン
狩りをはじめました。うまいごちそうにありつけるという
楽しみもありますが、もう一つには、いままでさんざんやっつけられたその
怨みをはらそうというのです。見ていると、ガンたちは東に向かって、ロンネビュー川のほうへ飛んできました。そして、そこでむきをかえて、川にそって南のほうへ飛んでいきました。ガンたちは川岸に
寝場所をさがしているのです。このようすだと、わけなく二、三
羽ぐらいつかまえられるでしょう。
ズルスケは、やっとガンたちのいるところをさがしあてましたが、そこは安全この上もない場所で、とうてい近よることができません。
ロンネビュー川は大きな流れではありませんが、
川岸が美しいことで有名です。ときには、水の中からまっすぐに
突き立っている、けわしい
絶壁のあいだをはげしく流れていきます。そのあたりには、スイカズラや、サンザシや、ハンノキや、ナナカマドや、ヤナギがいちめんに
生えています。美しい夏の日に、この小さなうすぐらい川に船を浮べて、ごつごつした
山壁にすがりついている
緑をながめるのは、まことに気もちのよいものです。
けれども、ガンやズルスケがこの川のところにやってきたときは、まだうすら
寒い風の吹く、春の早いころでした。木という木はみんな、はだかでした。ですから、おそらくいまでは、この川岸が美しいだろうかどうだろう、などと思って見る人はないでしょう。
ガンたちは、
運よく、けわしい
絶壁の下に、みんながいられるくらいの
砂地を見つけました。前には川がゴウゴウと流れています。雪がとけるいまごろは、水がふえて、すさまじい
勢いで流れているのです。うしろには、とてもとおることのできない
岸壁があって、その上には木の枝がおおいかぶさっています。これ以上のかくれ場所はありません。
ガンたちはすぐに寝つきましたが、ニールスはちっとも眠ることができません。お日さまが沈みますと、くらやみと
荒地のおそろしさにたまらなくなって、人間がこいしくなってきました。ニールスはガチョウの
はねの下にもぐりこんでいるのですから、何ひとつ見えません。ただ、物音がすこし聞こえるばかりです。これでは、ガチョウの身になにか
わざわいがふりかかっても、とうてい助けてやれそうもありません。ガサガサいう音が、あっちからもこっちからも聞こえてきます。ニールスはすっかりきみわるくなって、とうとう
はねの下から
這いだしました。そして、ガチョウのそばにすわりました。
ズルスケは山の
頂きに立って、ガンたちを見おろしました。
「いまのうちに、
追いかけるのはあきらめたほうがいいかな。」と、ズルスケはひとりごとを言いました。「おれには、あんなけわしい山をおりることもできないし、あんなはげしい流れを泳ぐこともできない。それに、山の下には、ガンのねているところへいけそうな道はありゃしない。まったく、りこうなやつらだ。骨おって、追っかけるのは、もうやめだ。」
けれども、ズルスケも、ほかのキツネと同じことで、一どやろうと考えた事を、とちゅうであきらめることはなかなかできませんでした。そこで、山のはずれにすわりこんで、ガンからいっときも目をはなしませんでした。こうして、ガンを見はっていますと、いままでガンたちから、さんざんひどい目にあわされたことが思いだされてくるのでした。そうだ、おれがスコーネを追われて、こんなブレーキンゲに
逃げてこなければならなくなったのも、あいつらのおかげだ。なにしろ、いままで、
荘園もガチョウも
えもののいっぱいいる
猟場も、何一つ見つからないんだからなあ。このおれがあいつらの
肉を食うことができないんなら、せめてあいつらがくたばってしまえばいい。キツネはこう思うほど、むちゅうになってきました。
ズルスケの
怒りがここまで高まったとき、すぐそばの大きなマツの木でキイキイいう声がしました。見れば、一ぴきのリスが、テンに
追いまくられて、木からとびおりてきたのです。リスもテンも、キツネのいるのには気がつきませんでした。キツネはじっとして、木のあいだでおこなわれているこの
狩りを
見物していました。リスは、まるで
飛ぶように、かるがると枝から枝へにげまわっています。テンのほうは、リスほど木のぼりがじょうずではありませんが、それでも、森の道を歩くときのように、枝をのぼったりおりたりしています。
「あいつらの半分ぐらいでも木のぼりができさえしたら、」と、キツネは思いました。「あそこのやつらを
寝かしちゃおかないんだがなあ!」
まもなく
狩りがおわって、リスがつかまえられますと、ズルスケはさっそくテンのところへ歩いていきました。けれども、テンの
えものをとるつもりはないというしるしに、
二足ばかりあいだをおいて立ちどまりました。そして、いかにもしたしそうにテンにおじぎをして、みごとな
腕まえをほめました。それから、キツネりゅうに、うまいことばをならべたてました。ところがテンは、ほとんど返事もしません。ほっそりとしたからだ、美しい頭、やわらかな
毛並、うす茶色のくびすじのしま、見たところでは、まるでかわいらしい美人のようですが、これでいて、じつは、ものすごい森の生き物なのです。
「あなたほどの
狩人が、リスなんかをつかまえて
満足していらっしゃるなんて、まことにおどろきいりましたな。」と、ズルスケはつづけて言いました。「すぐ近くに、ずっといい
えものがいるというのに。」ここでちょっとことばをきって、返事を待ちました。しかし、テンはひとことも言わずに、ずうずうしくニヤッと笑っただけでした。そこで、ズルスケはつづけて言いました。「あなたがあそこの
岸壁の下にいるガンどもをごらんにならないなんてはずがあるでしょうかねえ? それとも、あなたはあそこまでおりていらっしゃれないんですかい?」
こんどは、答えを待つまでもありませんでした。テンはせなかをまるくし、毛をさかだてて、ズルスケにおどりかかりました。
「ナニッ、ガンを見たって?」と、テンはうなって言いました。「そいつらは、どこにいるんだ? さっさと言え。さもないと、きさまののどくびを
食いきるぞ。」
「オイ、オイ、おれがおまえの二
倍もあるってことをわすれるなよ。ちっとていねいにたのむぜ。おれはおまえに何もたのんじゃいないんだからな。ただガンを見せてやっただけのことよ。」と、たちまち、テンは
がけをおりはじめました。
ズルスケはそこにすわりこんで、テンがヘビのようにからだをくねらせて、枝から枝へと渡っていくのを見ていました。そして、こんなことを思っていました。「あの美しい木のぼりじょうずの
狩人くらい、ひどい、やつはない。きっと、もうすぐガンのやつらをやっつけるだろう。」
そして、ガンたちの死にぎわのさけび声がいまにも聞こえるかと待っていました。ところがどうでしょう。テンが川の中へころげ落ちて、しぶきがさっと高くあがったではありませんか。そしてすぐに、強い
羽ばたきの音が聞こえて、ガンがみんな大いそぎで飛びあがりました。
ズルスケは、すぐにガンのあとを追いかけようとしましたが、どうしてガンが
助かったのか知りたくなりました。それで、テンがあがってくるまで、そのまま待っていました。見れば、あわれにもテンはびしょぬれです。そして、ときどき立ちどまっては、前足で頭をこすっています。
「オイ、ばかやろう、どうせ川にでも落っこちるだろうと思ってたぜ。」キツネは
鼻で笑いながら言いました。
「おれは、ばかじゃないぞ。へんなことを言うな。」と、テンは言いかえしました。「おれは、あのいちばん下の枝にすわって、どうやってガンのやつらを
殺してくれようかと考えていたんだ。すると、リスぐらいの大きさしかないちっぽけな
小僧が、急に
飛びだしてきて、力いっぱいおれの頭に石をぶっつけたんだ。それで、おれは水の中にころげ落ちて、
這いだすひまもないうちに――――」
テンはこれ以上言う
必要はありませんでした。もう聞きてが、いないのです。ズルスケはガンのあとを追って、もうそのときには、ずっとむこうへいっていたのでした。
いっぽう、アッカは、新しい
寝場所をさがしに南へ飛んでいきました。まだうすあかるいし、それに、
半月が空高くかかっていましたので、すこしはものを見ることができました。さいわい、アッカはこのあたりのことをよく知っていました。というのは、春にバルト海を
飛びこえてくるとき、風のためにこのブレーキンゲまで吹き流されてきたこともたびたびあったからです。
アッカは、お月さまの光に
照らされている山々のあいだを、黒くきらめくヘビのようにうねっている川にそって、
飛んでいきました。こうして、ユパフォルスまできました。そこでは川が地下の
穴にもぐって、それから、ガラスでできているのかと思われるほど、清らかな
澄みきった流れとなります。そして、せまい
谷間に落ちこみ、
底の岩にあたって、しぶきをあげて飛びちっています。
滝の下の、水がものすごく
渦を
巻いて
あわをたてているところに、岩が二つ三つ
突きでています。アッカはここに
舞いおりました。ここもすてきな休み場所です。ことに、こんなにおそくなっては、だれもくる人はありません。でも、
夕方だったら、ガンたちはここにとまることはできなかったでしょう。なぜって、ユパフォルスは
荒地にあるのではありませんから。かたほうの岸には大きな
製紙工場があり、木々のおい
茂った、けわしいもうかたほうの岸には、ユパダール公園があります。ひるまだと、この公園のつるつるしたけわしい
小路を、大ぜいの人たちが、しょっちゅう
散歩しては、谷間を流れるはげしい流れをながめるのです。
ここも、さっきの場所と同じことでした。ガンたちは、美しい有名な場所に来たなどとはすこしも考えませんでした。それどころか、はげしく
渦をまいている流れのまんなかの、すべりやすい、ぬれた岩の上に立って
眠るのは、きみわるくておそろしいことだと思っていたのでした。水のためにいつ
押し流されるかわかりません。でも、ケモノたちにおそわれたくなければ、ここでがまんしなければなりません。
ガンたちはすぐに
寝つきましたが、ニールスはどうしても
眠ることができません。そこで、みんなのそばにすわって、ガチョウの
番をすることにしました。
しばらくすると、ズルスケが川岸をかけてきました。そしてすぐに、あわ立つ
急流のまんなかの岩の上に、ガンたちが立っているのを見つけました。これでは、こんどもまた近づくことができないのです。でも、どうしてもあきらめることができません。それで、そのまま岸にすわりこんで、じっとガンたちをながめていました。ズルスケはひどくなさけなくなりました。
狩人としての名声が、すっかりだめになってしまったような気がしました。
とつぜん、一ぴきのカワウソが
魚をくわえて川から
這いだしてきました。ズルスケはカワウソのほうへ近づいていきましたが、その
えものをとるつもりはないということを見せるために、
二足ばかりはなれて立ちどまりました。
「あの岩にガンがいっぱいいるっていうのに、魚をつかまえてうれしがっているなんて、きみは、まったくりこう者だよ。」と、ズルスケは言いました。けれども、このときは気がいらいらしていましたから、いつものように、うまいことばを考えるひまがありませんでした。
カワウソは、川のほうをふりむきもしません。「ぼくたちは、はじめて出会ったんじゃないぜ、ズルくん。」と、カワウソは言いました。このカワウソも、ほかのカワウソと同じように
宿なしもので、ヴォンブ
湖でもたびたび魚をとっていたのでした。そこで、ズルスケとも出会ったことがあるのです。「きみがぼくからマスをだましてとろうとしたとのき
[#「とのき」はママ]ことを、ぼくは忘れちゃいないぜ。」
「ああ、きみかい、
欲ばりくん。」
このカワウソが
泳ぎの名人であるとわかりますと、ズルスケはよろこんで言いました。
「じゃあ、きみがガンに目もくれないのも、ふしぎはないな。きみにはあそこまでいけやしないんだからねえ。」
けれども、カワウソとしては、足の指のあいだに水かきをもっているばかりか、カイのようにすばらしい、かたいしっぽと、水のとおらない
皮膚をもっているのですから、あの
渦まいている流れをわたることができないと言われては、だまっているわけにはいきません。流れのほうをふりむいて、ガンの
姿を一目見るなり、魚をほうり投げ、けわしい岸からとびおりて、流れの中へおどりこみました。
いまは春もだいぶ深まっていましたから、ナイチンゲールたちも、きっと、ユパダール公園にもどっていたことでしょう。そうとすれば、この
欲ばりくんと急流との
戦いを、いく
晩もいく晩も、うたいつづけることでしょう。
むりもありません。カワウソはいくども水に
押しもどされたり、深みへ引きずりこまれたりしましたが、一生けんめい
浮かびあがっては、大きな岩をめがけて泳いでいきました。とうとう、岩のうしろの
静かな水のところに泳ぎつきました。そして、そっと岩に
這いあがって、だんだんガンたちに近づいていきました。まったく、あぶないしごとです。たしかに、これでは、ナイチンゲールにうたわれるだけのねうちがありましょう。
ズルスケは、一生けんめいカワウソの姿を見まもっていました。カワウソはだんだんガンたちに近づいていって、いまにもガンの上におどりかかろうとしています。と、そのとたんに、とつぜんカワウソがものすごいさけび声をあげました。と、思うまもなく、カワウソは水の中にころげ落ちて、めくらの小ネコのように押し流されました。すると、すぐそのあとから、ガンたちがはげしく
羽ばたいて、いっせいに空に
舞いあがり、ふたたび
寝場所をさがして飛んでいきました。
まもなく、カワウソは岸にあがってきました。けれど、ひとことも口をきかないで、かたほうの前足をなめはじめました。しかし、ズルスケが、このしくじりをバカにして笑いますと、
怒ってどなりつけました。
「おれの
泳ぎかたがへただったせいじゃないぞ、ズルスケ。おれはガンのところまでいって、もうすこしでガンにとびかかろうとしたんだ。ところがそのとき、ちっぽけな
小僧がとびだしてきて、とがった
鉄みたいなもので、おれの足をつきさしやがった。あんまり
痛かったんで、おもわず足をすべらして、川の中へ落っこっちまったんだ。」
カワウソはそれ以上言う
必要はありませんでした。ズルスケはガンのあとを追っかけて、もうずっと遠くへいってしまっていたのでした。
こうして、またもや、アッカとガンたちは夜の
旅をしなければならなくなりました。さいわい、お月さまが出ていましたから、その光のおかげで、このあたりにまえから知っている
寝場所をさがすことができました。キラキラ光っている川にそって、ふたたび南のほうへ飛んでいきました。ユパダールの
荘園の上や、ロンネビュー町のくらい
屋根の上や、白い
滝の上をこえて、すこしも休まずに、ぐんぐん
飛んでいきました。ところで、この町からすこし南のほうにあたって、海からあまり遠くないところに、ロンネビューの
温泉場があります。そこには温泉や
温泉宿や春のお客のためのホテルや
別荘などもあります。こうしたすべてのものが、冬の間じゅう、だれもいないために、ほったらかされています。このことを、どの鳥もよく知っていて、
嵐の吹きすさぶ
季節には、たくさんの鳥がこの大きな家々の
縁がわや
露台をかくれ
場にするのでした。
ガンたちは、ここの、ある露台におりました。そして、いつものように、すぐに眠りました。けれども、ニールスは、こんやはもうガチョウの
はねの下にもぐりこむ気にはなれませんでした。
はねの下にはいってしまったら、何も見えなくなって、ただ物音がかすかに聞こえるだけになってしまいます。それでは、とうていガチョウを守ってやることができません。いまのニールスにとっては、じぶんのことよりも、ガチョウのことを考えてやるのがいちばん、だいじなのです。
ニールスのいる
露台は、南にむいていましたから、海がよく見えました。ニールスは
眠れませんでしたので、このブレーキンゲで、海と陸とがいっしょになってつくりだしている美しい景色をながめていました。
いったい、海と
陸とは、いろいろな出会いかたをするものです。
まず海のほうから考えてみましょう。海は何ひとつなく、はてしなくひろがっています。そして、くりかえしくりかえし
灰色の波をうねらせています。陸のほうへ近づくときには、小さな島に出会います。すると、すぐにその上に水を打ちつけて、あらゆる
緑をひきむしり、じぶんと同じように、
裸に灰色にしてしまいます。どの島も、まるで
強盗の手にかかったように、裸にされ、はぎとられてしまいます。ところが、だんだんすすむうちに、小さな島がたくさんになってきます。陸がじぶんのかわいい子どもたちをよこして、海の心をなだめようとしているのがよくわかります。それで、海も、進むにつれて、だんだんやさしくなってきます。波もさっきまでのように高くはなくなり、
嵐もしずまります。
割れ目や
裂け目に
生えている緑の草木もそのままにしておいて、じぶんは小さな
瀬戸や入江になってしまいます。
こんどは、
陸のほうを考えてみましょう。陸はどこも変わりがなく、ほとんど同じようです。陸は、たいらな
穀物畑か、長くのびている森つづきの山々からできています。その穀物畑のあいだには、カバの木々にかこまれた
牧場があちこちに見えます。陸は、まるで穀物と、カブと、ジャガイモと、エゾマツと、マツのことしか考えていないようです。それから、入江が陸の中まで深くくいこんでいます。しかし、陸はそんなことはべつに気にもとめないで、ふつうの
湖と同じように、カバとハンノキでそのふちをかざってやります。
こういうことは、夏でないと、よく見えないのですが、それでもニールスは、
自然はなんておだやかでやさしいんだろうと思いました。そして、まえよりも、ずっと心がおちついてきました。と、とつぜん、
鋭くきみのわるいうなり声が聞こえてきました。立ちあがって見ますと、
露台の下の
芝地に、一ぴきのキツネが、
銀色のお月さまの光をあびて、立っていました。もちろん、ズルスケです。またも、ガンたちのあとを追ってきたのでした。けれども、ガンたちが
寝ているところを見ますと、とうてい近づくことができないとさとりました。それで、あまりのくやしさに、おもわずうなってしまったのでした。
ズルスケがうなったので、アッカは目をさましました。ほとんど何も見えませんが、その声でズルスケとわかりました。
「ズルさんかい? こんやもおでかけかね?」と、アッカはたずねました。
「うん、おれだよ。」と、ズルスケは答えました。「ところで、どうだね、こんやのおれのやりくちは?」
「テンやカワウソをけしかけたのは、あんただって言うのかい?」と、アッカがききました。
「こんどは、おれのばんだからな。」と、ズルスケは言いました。「このあいだ、おまえたちはおれにいたずらをしやがったから、こんどはおれがおまえたちにいたずらをはじめたのさ。おまえたちが一
羽でも生きているうちは、やめやしないぜ。たとえ、国じゅう追っかけたってよ。」
「ズルさん、
歯と
爪という
武器をもっているあんたが、何もふせぐもののないわれわれを、こんなふうに追いまわすっていうのは、いったい正しいことだろうかねえ? ちっとは考えてみるんだね。」と、アッカは言いました。
ズルスケは、アッカがこわがっているものと思いこみました。そこで、さっそく言いました。
「アッカさん、おまえさんが、たびたびおれのじゃまをしやがる、あのオヤユビ
小僧を、投げてよこせば、おまえさんたちと仲なおりするぜ。そしてもう、おまえさんたちのあとを追っかけたりしないよ。」
「オヤユビくんはやれないねえ。」と、アッカは言いました。「わたしたちのなかには、若いものでも、年よりでも、オヤユビくんのために喜んでいのちを投げださないようなものはないんだよ。」
「きさまたちが、そんなにあいつをすきだというなら、」と、ズルスケはどなりました。「まず、あいつからやっつけて、
怨みをはらしてくれるぞ、おぼえてろ。」
アッカはもう何も言いませんでした。ズルスケはまた二、三どうなりました。それから、あたりはひっそりとしました。ニールスはずっと目がさめていました。いまアッカがキツネに言ったことばが頭にこびりついていて、眠れません。いままで、じぶんのためにいのちを
捨ててくれるものがあろうとは、
夢にも思ったことがありませんでした。ニールスは
露台の手すりからたくさんの島々をながめながら、
楽しい思いにふけっていました。
[#改ページ]
四月二日 日曜日
ここはカールスクローナです。お月さまのかがやいている、
静かな美しい
夕方でした。でも、ついさっきまでは、はげしい吹きぶりでした。人びとは、まだお天気がよくなっていないと思っているにちがいありません。だって、通りには、人っ子ひとり見えませんから。
この市がこんなにひっそりしているとき、ガンのアッカとその
仲間とは、ヴェンメンヘーイやパンタルホルムをこえて、カールスクローナへやってきました。ガンたちは、島の上に安全な
寝場所を見つけようとして、夕方おそくまで
飛んでいたのでした。
陸には、どこにも休むことができませんでした。というのは、どこへおりても、キツネのズルスケにじゃまされてばかりいたからです。
ニールスが高い空から海と島とを見おろしたときには、なにもかもがひどくきみわるく、まるで
幽霊のように見えました。空はもう青くはなくて、
緑のガラスの丸ぶたのように、頭の上におおいかぶさっていました。海はミルク色で、目のとどくかぎり、小さな白い波をうねらせ、
銀色にきらめくさざなみをたてていました。なにもかも白い中に、いろんな形をした島があっちこっちに
黒ぐろと
突きでていました。大きいものも、小さいものも、草原のようにたいらなものも、岩だらけのものも、みんな同じように黒く見えました。それどころか、人の
住居も教会も風車も、ふだんなら白か赤かに見えるのに、いまは
緑の空に向かって、くっきりと黒い姿を見せています。ニールスは世の中が
変わってしまって、じぶんはまるで、ちがった世界へ来てしまったような気がしました。
ニールスは、こんやは
勇気をだして、こわがらないようにしようと決心しました。ところが、そういううちにも、ぞっとするようなものが見えてきました。それは、大きなとがった岩がごつごつしている山がいちめんにある島でした。そして、その黒い岩のあいだには、
金のようなものがキラキラと光っていました。ニールスは、なんだか
魔法の石を見ているような気がしました。
それにしても、島のまわりに大きな
恐ろしいものが、あんなにうようよしていなかったら、それほどたいしたことはなかったでしょう。その恐ろしいものは、なんだかクジラやサメやそのほか大きな海の
怪物のように見えました。けれども、ニールスはそれを海の神さまだと思いました。そして、海の神さまたちが島に住んでいる
陸の神さまたちと戦おうとして、いま島のまわりに集まって、よじのぼろうとしているのだと考えてみました。ところで、その陸の神さまたちは、きっとこわがっているのでしょう。というのは、島のいちばん高いところにひとりの
巨人が立って、じぶんと島とにふりかかってくるおそろしいわざわいに
絶望してでもいるように、
両腕を高くあげているのが、はっきりと見えたからです。
アッカはこの島におりようとしました。それを見て、ニールスはびっくりしました。「だめだよ、だめだよ!」と、ニールスは、さけびました。「あそこへおりちゃいけない。」
けれども、ガンたちはどんどん
舞いおりました。まもなく、ニールスは、なにもかもが、ただあんなにへんなふうに見えていただけなのを知って、
驚いてしまいました。大きな岩と見えたのは、人間の家ではありませんか。そして、島ぜんたいは一つの市で、金色にキラキラ光っていたところは、
街燈やあかるい
窓ガラスなのです。島の一ばん上に立って、両腕を高くあげていた
巨人は、二つの
塔のある教会でした。海の神さまや海の
怪物に見えたのは、島のまわりにとまっているボートや大きな船でした。陸の近くにあるのは、たいていボートや
帆船や小さな
蒸汽船でしたが、海に向いているほうには
軍艦が浮かんでいました。
ところで、ここはなんという市だろう? ニールスは、たくさんの軍艦が見えたので、だいたい、けんとうがついたような気がしました。ニールスは、いままで、船がだいすきでした。といっても、池で小さな船にのったことしかありませんでしたけれど。そしてニールスは、こんなにたくさんの軍艦がいる市は、カールスクローナにちがいないと思いました。
ニールスのおじいさんは
水夫でした。そして、生きていたときは、カールスクローナのことをまいにちのように話してくれました。
造船所のこととか、カールスクローナで見たいろんなことなどを聞かしてくれたのでした。
ニールスはすっかり安心して、家にいるような気もちになりました。そして、あんなにたびたび話に聞いていたものを、いま一つ残らず見られるのかと思いますと、とってもうれしくなりました。
けれども、ニールスが
塔や、港の入口をとざしている
要塞や、たくさんの建物や、
造船所などをちらっとながめたとき、アッカはひらたい教会の塔の一つに
舞いおりました。
ここは、キツネから
ゆくえをくらまそうと思うものにとっては安全な場所でした。ニールスは、こんやはガチョウの
はねの下にもぐりこむ気になれるものかどうか、考えてみました。うん、こんやはきっとできるだろう。それに、すこし眠ったほうが、からだのためにいいだろう。造船所や船をけんぶつするのは、あしたの朝にすればいい。
ところが、ニールスは、じぶんでもふしぎなくらい、どうしてもあしたの朝までじっと待っていることができなくなりました。五分とは眠らないうちに、
はねの下からはいだして、
避雷針と
といをつたって、地面にすべりおりたのです。
まもなく、ニールスは教会の前の広場にでました。そこには、まるい石がしいてありました。その上を歩くのは、なかなか骨がおれました。ちょうど、おとなの人たちが草ぼうぼうの原っぱを歩きにくいのと同じことです。
さいわい、
広場にはだれもいませんでした。ただ、高い台の上に立っている
立像が見えるばかりでした。ニールスは長いあいだ、その立像をながめていました。それは、三つの角のある
帽子をかぶり、長い上着をきて、半ズボンをはき、あらい
靴をはいた大きな人の姿です。ニールスは、この人はだれだろうと思いました。その人は長いステッキを手に持っていて、その使いかたも知っているようです。なにしろ、大きなかぎ
鼻で、みにくい口をしたその人は、おそろしいほどいかめしい
顔つきをしているのですから。
「この口ながさんは、いったいここで何をしているんだろう?」と、そのうちに、ニールスは言いました。こんやぐらい、じぶんがちっぽけでつまらないものに思われたことはありません。そこで、元気をだそうとして、立像に向かってらんぼうなことばをならべたてました。それから、立像のことは考えないで、海へ出る広い通りを歩いていきました。
けれども、まだそんなにいかないうちに、うしろのほうから足音が聞こえてきました。しき石をドシン、ドシンとふみならして、ステッキで地面を強くつきながら、広場のほうからだれかがやってくるのです。まるで、あの広場に立っていた
青銅の大きな
像が、歩きだしでもしたようなひびきです。
ニールスは通りをかけだしながら、足音に耳をすましました。すると、足音のぬしは、あの青銅の人にちがいないという気もちが、だんだん強くなってきました。大地がふるえ、家々がゆれます。こんなものすごい歩きかたをするのは、あの青銅の人のほかにはありません。さっきあの人に向かって言ったことを思いだしますと、ニールスはあわてました。うしろを振りかえって、ほんとうにあの人かどうかたしかめてみる元気は、とてもありません。
「きっと、ちょっと
散歩にでかけただけなんだろう。」と、ニールスは思いました。「ぼくがさっき言ったことぐらいで、
腹をたてるわけはないもの。わるい気で言ったんじゃないんだから。」
ニールスは、まっすぐ
造船所へいかないで、東のほうへいく通りにいそいでまがりました。ともかくこうして、
追っ
手から
逃げてしまいたかったのです。
ところが、青銅の人も、すぐにこっちへまがってきたようです。ニールスはすっかりこまってしまいました。どうしたらいいのでしょう?
市の中の戸という戸はしまっています。そこにかくれ場所を見つけるなんてことが、どうしてできましょう。ふと見ると、右手のほうの、通りからすこしはなれた
木立の中に、
木造の古い教会が立っていました。ためらうひまもなく、すぐさまニールスは、教会めがけてかけていきました。「あそこへいけば、だいじょうぶだろう。」と、思ったのです。
ニールスが走っていきますと、ひとりの男が
じゃり道に立って、手まねきしているのが見えました。「きっと、だれかが助けてくれようっていうんだな。」と、ニールスは思いました。そう思うと、すっかりうれしくなって、その人のほうへ
夢中でかけていきました。心配のあまり、
胸がドキドキしています。
けれども、
じゃり道のはずれの、低い台の上に立っている人のところまで来たとき、ニールスはびっくりしてしまいました。「この人がぼくを呼んだんじゃないはずだ。」と、ニールスは思いました。なぜって、見れば、その人は木でできているではありませんか。
ニールスはその人の前に立って、ながめました。ずんぐりした人で、足は
短く、顔は大きく赤く、
髪の毛は黒くピカピカしていて、まっ黒なひげをはやしていました。頭には黒い木の
帽子をかぶっていました。からだには
褐色の木の上着をき、
腰には黒い木の
帯をしめ、大きな灰色の木の半ズボンをはいて、それに、木の
靴下をはいていました。それから黒い木の靴をはいていました。この人はさいきんニスをぬってもらっていましたので、お月さまの光をうけて、キラキラと光っていました。見たところ、いかにも正直そうに見えました。で、ニールスはすぐにこの人をいい人だなと思いこんでしまいました。
その人は、左手に木の板を持っていました。そこにはこう書いてありました。
口のきけない者ですが
どうかお願いもうします。
わたしの帽子をおあげになって
一銭入れてくださいませ。
おや、おや、この人は
慈善箱なのです!
ニールスはがっかりしてしまいました。じつは心の中で、えらい人だろうと思っていたのです。でもこのとき、いつだったか、おじいさんがこの木の人の話をしてくれたのを思いだしました。おじいさんの話では、カールスクローナの子どもたちは、みんな、この木の人が大すきだということでした。どうやら、それはほんとうのようです。というのは、ニールスもこの木とわかれるのがつらく思われてきたからです。ところで、この人にはたいへん古めかしいところがありました。もう何百
歳にもなっているようすです。と、同時に、いかにも
頑丈で、どうどうとしていて、しかも、いきいきとしています。むかしの人たちは、みんな、こんなふうだったかもしれません。
ニールスはこの木の人をながめているのが、たいへんおもしろかったので、追いかけてくる
青銅の人のことはすっかり忘れていました。ところがそのとき、また足音が聞こえてきました。さあ、たいへん! 青銅の人も、通りから教会の
境内のほうへはいってきたではありませんか。こんなところまで追いかけてきたのです! さて、どこへ
逃げたらいいでしょう?
ちょうどこのとき、木の人はからだをかがめて、大きな、はばの広い手をさしだしました。この人はいい人としか思えませんから、すぐさまニールスは
一足とびにその手の上にとびあがりました。すると木の人はニールスを
帽子のところまでもちあげて、その中にいれました。
ニールスが帽子の中にかくれて、木の人がもとのように
腕をおろすといっしょに、青銅の人があらわれました。そして、木の人の前に立ちどまって、ステッキで地面をドシンとつきましたから、木の人は、台の上でグラグラッとゆれました。それから、青銅の人は、よくひびく大きな声で言いました。
「そちはだれじゃな?」
木の人はギイギイと音をたてて、
腕をあげ、帽子のふちに手をあてて、答えました。「
陛下、おそれながら、ローセンブームと申すものでございます。むかしは、
戦艦『
勇壮』の
兵曹長をいたしておりましたが、退役になりましてからは、
提督教会の
堂守をしておりました。そののち、木にきざまれまして、こうして、
慈善箱となり、この
境内に立っているのでございます。」
ニールスは、木の人が「
陛下」と言うのを聞きますと、びっくりしました。むりもありません。そうしてみると、
広場に立っていたあの
像は、この市をたてた人の姿をきざんだものにちがいないのです。つまり、ニールスがさっき出会ったのは、カルル十一世にちがいありません。
「じぶんのことをよくしゃべりたてるやつじゃ。」と、
青銅の人は言いました。「ところで、こんや、町なかをかけまわっていた小僧を見かけなかったか? なまいきなチビじゃ。つかまえたら、ひとつ
礼儀作法を教えてくれよう。」そう言って、またもステッキで地面をドシンとつきました。ものすごく
怒っているようすです。
「おそれながら、陛下、たしかにそいつを見かけました。」と、木の人は言いました。ニールスは
帽子の下にかくれて、木のすきまから青銅の人を見ていたのですが、それを聞いて、心配のあまりブルブルとふるえだしました。ところが木の人はつづけて、「陛下、ここをおいでになっては、おまちがいでございます。小僧はきっと
造船所へいって、あそこにかくれるつもりでございましょう。」と言いましたので、ニールスはやっと安心しました。
「そう思うのか? ローセンブーム、では、そんな台の上に立っておらんで、わしといっしょにきて、あの小僧をさがす手つだいをしてくれ。四つの目は二つの目よりもよいものじゃ。」
ところが、木の人は
悲しそうな声で答えました。「どうかお願いでございますから、わたくしめは、ここにおらせてくださいませ。さいきん、ぬってもらったばかりでございますので、つやつやして元気そうには見えますが、じつはわたくしめは年をとっておりまして、動くこともできないのでございます。」
青銅の人は、じぶんの言うとおりにしなければ
承知しない人です。
「なんという言いぐさじゃ! さあ、まいれ、ローセンブーム。」こう言って、ステッキをあげて、木の人の
肩をポカッと打ちました。「そちは、まだ立っている気か?」
こうして、ふたりはカールスクローナの通りを力づよくドシンドシンと歩いていきました。やがて、
造船所へ通じる大きな門の前に出ました。そこには、ひとりの水兵が立って、番をしていました。けれど、青銅の人はさっさとそのそばをとおりすぎて、門をつきあけました。水兵は気がつかないような顔をしていました。
門の中へはいりますと、木の橋でくぎられている広い大きな港が見えました。それぞれの
汐留には、軍艦がはいっていました。それらは、こうして近くへきてみれば、さっき空から見たときよりも、ずっと大きくこわそうに見えました。そこで、ニールスは、「さっき海の
怪物のように見えたのも、そんなにまちがっちゃいなかったんだな。」と、思いました。
「ローセンブーム、そちはどこからさがしはじめたらよいと思うか?」と、青銅の人はたずねました。
「あいつのようなものは、
模型室にかくれるのが一ばんたやすうございましょう。」と、木の人は言いました。
門から右のほうへ、港にそってのびている
狭い陸地には、古い建物がならんでいます。青銅の人は、
壁のひくい、四角い窓と大きな屋根のある建物のところへ歩いていきました。そして、ステッキで戸をドシンとついて、あけました。それから
踏みへらされた階段をズシン、ズシンとのぼっていきました。ふたりは大きな部屋にはいりました。そこには、マストをたて、
網具をそなえた小さな船がたくさんならんでいました。説明を聞かなくても、ニールスはすぐに、この船は、スウェーデン海軍のために造られた
軍艦の模型であるとわかりました。
見れば、ずいぶんいろんな種類の船があります。
ニールスは、こういう船のあいだをつれて歩かれているうちに、びっくりしてしまいました。「すごいなあ、こんなに大きいりっぱな船が、このスウェーデンで造られたんだなあ!」
そこにあるものをぜんぶ見てまわったので、ずいぶん時間がかかりました。青銅の人は模型を見はじめますと、ほかのことはすっかり忘れてしまいました。すみからすみまで模型を念いりにながめて、おまけに、ひとつひとつ説明をきくのでした。すると、『勇壮』号の
兵曹長だったローセンブームは、知っているかぎりのことを話しました。船を造った人たちのことや、船に
乗組んだ人たちのこと、それから、その人たちがどうなったかということなどを説明しました。
ローセンブームと
青銅の人は、むかしの美しい木造船が一ばん気にいりました。新しい
鋼鉄の
軍艦のことは、このふたりにはあまりよくわからなかったようです。
「そちは新しい軍艦のことは、何も知らんな。」と、青銅の人は言いました。「どこかべつのところへいって、ほかのものを見ようではないか。そのほうがおもしろかろう、ローセンブーム。」
青銅の人は、ニールスをさがすことを、もう忘れていました。いっぽう、ニールスも木の
帽子の中にかくれているので、安心しきっていたのでした。
それから、ふたりは、
帆をこしらえるところ、いかりを造るところ、
機械場、
木工場などの大きな仕事場を通っていきました。そしてまた、高い
起重機や、ドックや、大きな
倉庫や、兵器庫や、
弾薬庫や、
綱より
場や、岩にあたってくだけたために使われなくなっている大きなドックなどを見ました。それから、海軍の艦船がつないである
棧橋にいって、船に乗りこみ、まるで二ひきのオットセイみたいなかっこうで船をながめまわしていました。
一ばんおしまいに、広い
構内にでました。ここには、むかしの軍艦の
船首像がならんでいました。ニールスはこのくらいふしぎなものを見たことがありません。なぜなら、ここにある像は、信じられないほどものすごい、ぞっとするような顔をしています。それらの像は、おそれを知らぬ、
どうもうな顔つきをしていて、いかにも、
ごうまんに見えます。それらはちがった時代に、ちがった人々の手によって造られたものです。ニールスはその前に立ったとき、身がちぢまるような思いがしました。
けれども、ふたりがここへ来たとき、青銅の人が木の人に向かって言いました。
「
帽子をとれ、ローセンブーム、ここにならんでいる像のために! これはみんな
祖国のために戦ったのじゃ。」
しかし、ローセンブームも青銅の人も、なんのために出かけてきたのか、いまではすっかり忘れていました。ローセンブームは考えもせず、すぐに帽子をあげて、さけびました。
「わたくしは、この港をえらび、造船所をつくって、海軍を
再建した
方に向かって、こういうすべてのものをつくりだした王さまにむかって、
脱帽いたします。」
「
感謝するぞ、ローセンブーム、よく言ってくれた。そちはりっぱな人間じゃ、ローセンブーム。だが、そこにいるのは何者じゃ?」
見れば、ローセンブームのはげ頭の上に、ニールス・ホルゲルッソンが立っているではありませんか。しかし、ニールスはもうこわくはありません。白いそり
帽を
振って、さけびました。「口ながくん、ばんざい!」
青銅の人は、地面をステッキでドシンと打ちました。けれども、その人が何をするつもりであったかはわかりません。というのは、そのとき、お日さまがのぼってきて、それといっしょに、青銅の人も木の人も、まるで
霧でできてでもいるように、
消えうせてしまったからです。
ニールスがじっと立ちつくして、そのあとをぼんやりながめていますと、ガンたちが教会の
塔から
舞いあがって、市の上をいったりきたりしはじめました。まもなくニールス・ホルゲルッソンの姿を見つけますと、大きな白ガチョウが矢のように
舞いおりてきて、ニールスをつれていきました。
上 おわり
[#改丁]
四月三日 日曜日
あくる朝、ガンたちは、とある小さな島へ
飛んでいって、たべものをひろいました。そこでみんなは、二、三
羽の
灰色ガンに、出あいました。灰色ガンたちは、ガンの
姿を見ますと、びっくりしました。なぜなら、じぶんたちの
親類にあたるガンという鳥は、
陸地の上ばかりを飛ぶものだと思っていたのですからね。
灰色ガンたちは、いろいろとたずねました。そこで、ガンたちは、キツネのズルスケに追いまわされていることを、のこらず話しました。話がおわると、アッカのように年とっていて、りこうそうに見える一
羽の灰色ガンが言いました。
「ズルスケが、スコーネから追いはらわれたのは、あなたがたにとっては、とんだ
災難でしたね。やっこさんは、かならず、ことばどおりにラプランドまででも、あなたがたを追いかけていくでしょう。もしも、わたしだったら、スモーランドを
越えて北へむかわないで、エーランド
島に
廻り道をして、やっこさんを、まいちまうようにしますね。あいつの目をごまかそうと思ったら、あの島の南のはしに、二、三日とどまることですよ。あそこなら、たべものもたくさんありますし、それに、
仲間もおおぜい、いますからね。あそこへいって、
後悔するようなことは、まずないでしょうよ。」
これは、たしかにもっともな
忠告です。それでガンたちは、言われたとおりにすることにきめました。
腹ごしらえを
十分にして、さっそくエーランド島にむかって出発しました。ガンたちの中には、いままで、そこにいったことのある
者はありませんでしたが、灰色ガンたちが、ていねいに道を教えてくれました。なんでも、ずんずん南に進んでいけば、やがて大きな「鳥の道」に出るということです。それはブレーキンゲの
海岸にそって、ずっとのびているそうです。冬のあいだ
大西洋の島々にいた、たくさんの鳥が、これからフィンランドやロシアへいこうとして、いまその道を飛んでいるのです。そして、みんなは、
途中で一休みするために、きまってエーランド島へ立ちよるのだそうです。だから、エーランド島へいく道は、すぐにわかるという話でした。
その日は、たいへんおだやかで、まるで夏の日のようにあたたかでした。ほんとうに、海の旅をするのには、
申しぶんのないお天気でした。ただ、ひとつ、
残念なのは、空がすっかり晴れわたっていないので、灰色のうす
絹をひいたようになっていることでした。あちらこちらには、大きな
霧の雲が海のおもてまでたれこめていて、
眺めをさえぎっていました。
ガンたちが小さな島々から遠く
離れますと、海は
鏡のようになめらかになりました。ですから、ニールスが下を見おろしたときには、まるで海がどこかへ
消えてしまったのではないかと思われました。じぶんの下には、もはや世界がなくなって、まわりにあるものは、ただ
霧と空ばかりです。ニールスはひどく目まいがするので、ガチョウのせなかに、しがみつきました。いまは、はじめて
乗ったときよりも、ずっとこわくてしかたがありません。なんだか、ぶじに乗っていけそうもないような気がします。このあんばいでは、いまに落ちてしまうにちがいありません。
灰色ガンたちの言っていた大きな「鳥の道」に出たときには、ますますいけなくなりました。見れば、ほんとうに、鳥のむれが、いくつもいくつも同じ
方向に飛んでいます。そのむれのなかには、カモ、
灰色ガン、クロトリ、ウミガラス、ウミガモ、オナガガモ、アイサガモ、カイツブリ、ミヤコドリ、ウミマツドリなどがいました。
ニールスは、からだを乗りだして、海のあるはずの下のほうをながめました。すると、たくさんの鳥のむれが、水にうつって見えました。ところが、頭がくらくらしているので、どうしてそんなふうに見えるのか、よくわかりません。きっと、鳥たちはみんなおなかを上に
向けて飛んでいるのだろうと、ニールスは思いこんでしまいました。なにしろ、いまは頭が
へんになって、
何が何やらさっぱりわからないものですから、それを見ても、そんなにびっくりはしませんでした。
鳥たちはつかれきっていましたから、
一刻も早く島につこうとあせっていました。さけび
声をあげるものもなければ、じょうだん一つ言うものもありません。そのありさまのため、なにもかもが、この世のものとは思われませんでした。
「
地球から
飛びはなれているとしたら、どうだろう!」と、ニールスはひとりごとを言いました。「天へのぼっていくとしたら、どうだろう!」
まわりには、
霧と鳥のほかは何も見えません。そのうちに、天へのぼっていくということも、そんなにふしぎなことではないような気がしてきました。そして、天へいったら、どんなものが見られるだろうかと思いますと、ニールスはとっても
楽しくなりました。そう思ったとたんに、めまいは、しなくなりました。そして、いま、じぶんはこの世を
離れて、天へのぼっていこうとしているのだと考えて、たまらなく
愉快になりました。
そのとき、だしぬけに、ダン、ダンと
鉄砲の音がしました。見ると、白い
煙が
二すじ立ちのぼっています。
そのとたんに、鳥たちは、きゅうにざわめきたって、「かりゅうどだ! かりゅうどだ! 高く飛びあがれ! 高く飛びあがれ!」と、さけびました。
これで、ようやくニールスにも、じぶんたちは、あいかわらず海の上を飛んでいて、
天上にいるのではないということが、はっきりとわかりました。海の上には、かりゅうどのおおぜい乗っている
小舟がずっと並んでいて、そこからダン、ダンと
鉄砲をうっているのが見えます。いちばんさきを飛んでいく鳥のむれが、それに気づいたときには、もうおそく、みるみるうちに、黒いからだがいくつか海の上に落ちていきました。生きのこった鳥たちは、落ちていく鳥のために、
悲しい鳴き声をあげました。
ニールスの心は、おそろしさと悲しさに、はりさけそうでした。むりもありません。ついさっきまで、じぶんは、
天国にいるものとばかり思っていたのですからね。ガンの
隊長アッカは、
全速力で空高く
舞いあがりました。ガンのむれも、そのあとから力いっぱいの早さでつづきました。こうして、ガンたちは
傷一つ受けないで、ぶじに
逃げることができました。ニールスは心から感心して、
「アッカやユクシやモルテンみたいな鳥を
射とうなんて、とんでもない話だ! 人間どものすることは、まったくばかばかしい!」と、言いました。
こうして、ふたたび、ニールスとガンの
一行は、静かな空を飛んでいきました。あたりは、まえのように、またひっそりとしてきました。ただ
疲れた鳥たちは、ときおり、「すぐいけないんじゃないの? たしかにこの道かい?」とさけびました。すると、いちばんさきを飛んでいく鳥たちは、「この道をまっすぐいけば、エーランド
島だよ! この道をまっすぐいけば、エーランド島だよ!」と、答えました。
野ガモたちは、疲れきってしまいました。そのとき、そばをウミガモが通りすぎました。「そんなにいそがないでくれよ!」と、野ガモたちは、ウミガモにむかってさけびました。「きみたちは、われわれが
着くまでに、たべものをみんなたべちまう気かい。」
「なあに、あそこには、たべものがたくさんあるから、だいじょうぶさ。」と、ウミガモたちは答えました。
ところが、ぼつぼつエーランド島が見えようというころ、まむかいから
軽い風が吹いてきました。そしてそれといっしょに、白い大きな
煙の雲のようなものが、もくもくとやってきました。まるで、どこかに火事でもおこっているようです。
鳥たちはこの
うずをまいている煙に気がつきますと、
心配になって、とんでいく力をはやめました。けれども、その煙のようなものは、だんだん
濃くなってきます。そして、とうとうしまいには、みんなをすっかりつつんでしまいました。でも、煙のようなにおいはしません。そして黒くも、
乾いてもいず、白くて、しめっています。それで、ニールスは、ははあ、これはただの
霧なんだな、と、すぐに気がつきました。
霧は一
寸さきも見えないくらい
濃くなってきました。と、どうでしょう、鳥たちはまるで気でもちがったようになりました。いままではあんなに、きちんと
行儀よく飛んでいたのに、こんどは、みんながみんな、霧の中でふざけはじめたのです。
勝手気ままに、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりして、たがいにほかの
仲間を
迷わそうというのです。
「おーい、気をつけろよ!」と、鳥たちはさけびます。「きみたちは、おんなじ所をぐるぐるまわってばかりいるじゃないか。それじゃ、とてもエーランド島へは、いかれっこないぜ。さあ、さあ、むきをかえたり、かえたり!」
エーランド島がどこにあるかは、みんな、ちゃんと知っているのですが、たがいに仲間を迷わそうとしてやっきになっているのです。「あのオナガガモを見ろよ!」と、
霧の中からさけぶ声が聞こえます。「
北海のほうへ
逆もどりしているじゃないか!」
「おーい、ガンの
諸君、気をつけたまえよ!」と、また
違ったほうからだれかがさけびます。「そんなほうへいくと、リューゲンへいっちまうぜ!」
もちろん、このあたりを
旅なれている鳥たちは、まちがった
方向にさそいこまれるようなことはありませんが、こまりきっているのはニールスの
仲間のガンたちです。おどけものの鳥は、ガンたちが道に
不案内なのを見てとりますと、さかんにガンたちを迷わせようとします。
「もし、ガンさん、どこへいらっしゃるんです?」と、一
羽の
白鳥が
呼びかけながら、アッカのところへ
近よってきました。いかにも、
同情ぶかい、まじめな顔つきをしています。
「エーランド島へいこうと思っているんですが、はじめてなものですから。」と、アッカは答えました。この白鳥なら、
信頼してもいいだろうと思ったのです。
「そいつはいけませんよ。」と、白鳥は言いました。「あなたがたは、まちがった方向へさそいこまれたんですね。この道をいけば、ブレーキンゲへでてしまいますよ。さあ、わたしといっしょにいらっしゃい。
道案内をしてあげましょう。」
それから、白鳥はガンの一
隊といっしょに飛んでいきました。そして、ほかの鳥たちのさけび声も聞こえないほど遠くまで、まちがった方向にひっぱっていってから、とつぜん
霧の中に姿を
消してしまいました。
ガンたちは、しばらくのあいだ、むちゃくちゃに飛びまわったあげく、やっとのことで、ほかの鳥たちを見つけました。するとこんどは、一
羽のカモが近づいてきました。「あんたがたは、霧がはれるまで、水の上におりて
休まれるほうがいいんじゃありませんか。どうも、あまり
旅なれてはいらっしゃらないようだから。」
こんないたずらものたちが、もののみごとに、アッカをまごつかせてしまいました。ニールスが見ていると、ガンたちは同じところを長いこと、ぐるぐる、ぐるぐるまわっています。
「おーい、気をつけたまえよ! きみらは、上へいったり、下へいったりしているだけじゃないか。」と、一羽のウミガモがそばを飛びすぎながらさけびました。ニールスは思わずしらずガチョウの首ったまにしっかりとしがみつきました。もうさっきから、こんなことではなかろうかと、
心配していたのです。
もしもそのとき、遠くのほうで、ズドンというにぶい
大砲の音がきこえなかったなら、いったい、いつになって、エーランド
島へいけたことやら、わかったものではありません。
そのとき、アッカは首をのばし、つばさを力づよく
打って、
全速力で飛んでいきました。いまこそ、いくべきところがわかったのです。アッカは
灰色ガンから、エーランド島の南のはしにおりてはいけない、そこには大砲がすえつけてあって、人間がそれを
射って
霧を
散らすのだ、と、おそわっていたのでした。だからアッカには、これですっかり
方角がわかったのです。もうこうなれば、だれにも
迷わされるようなことはありません。
[#改ページ]
四月三日 日曜日より 六日 水曜日まで
エーランド島のいちばん南のはしに、オッテンビューという、古い
王家の
領地があります。これは島をよこぎって、
岸から岸へとひろがっている、かなり大きなものです。
ここには、ふしぎと、いつもたくさんの動物たちが
住んでいます。十七
世紀には王さまたちがエーランド島へよく
狩りにおいでになりましたが、そのころは、領地ぜんたいがシカの
猟苑になっていました。それが十八世紀になりますと、
競馬用の
駿馬を
飼っている
飼養場や、いく百という
羊のむらがっている
飼羊場となりました。いまでは、いちばん東の岸にそって古い
牧羊場がありますが、それは長さが四分の一マイルもあって、エーランド島一の大きな
牧場です。そこでは、
家畜たちがちょうど
野原にいるのとおなじように、すきなように草をたべたり、遊んだり、
駈けまわったりしています。それから、そこには、百年もたったかと思われるカシワの木の森があります。これが、有名なオッテンビュー森で、この森の大きな木々は、動物たちに日かげをつくってくれますし、はげしい風をもふせいでくれます。もう一つ
忘れてはいけないのは、オッテンビューの長い
垣です。これは島をよこぎって、オッテンビューとほかの土地との
境になっています。そして、この垣のおかげで、動物たちは、古い
王家の
領地の
境めを知るのです。この古い領地には、
野生の動物たちも、たくさんむれをなしてやってきます。
そのほか、むかしいたシカの
子孫も、まだ生きのこっています。その上、春や夏のおわりごろには、ここは、いく千という渡り鳥の休み場所になります。ことに、
牧羊場の下の
沼の多い東の岸には、たくさんの渡り鳥が
舞いおりて、草をたべたり、休んだりします。
ガンたちとニールス・ホルゲルッソンが、やっとの思いでエーランド島にたどりついたときも、ほかの鳥とおなじように、みんなは
牧羊場の下の海べにおりました。島の上も、海の上とおなじで、一めんに
濃い
霧がたちこめていました。ところが、ニールスは、岸を見たとき、アッと
驚いてしまいました。なぜって、そこには、目のとどくかぎり、かぞえきれないほどの鳥が、うじゃうじゃしているではありませんか。
見れば、長い
砂浜があって、そこには石や水たまりがあり、たくさんの
海草が波にうちあげられています。もしもニールスが、すきなようにおしと言われたら、とてもこんなところへおりる気にはなれなかったでしょう。ところが、鳥たちのほうでは、ここをほんとうの
楽園とでも思いこんでいるようすです。カモや
灰色ガンは、草地でさかんに草をたべています。水ぎわでは、シギやそのほかの海鳥たちが、はねまわっています。ウミガモは水の中にもぐっては、魚をつかまえています。なにしろ、ここにはたべものがどっさりあるので、たべものに
不足したというような話は、まだきいたことがありません。
たいがいの鳥は、これからもまだ旅をつづけるのです。ですから、ちょっと休むために、ここへおりているのです。それぞれのむれの
隊長は、仲間のものが十分に元気をとりもどしたとみてとると、
「みんな、もういいかい? よければ、出かけるとしよう。」と、言うのでした。
「いいえ、待ってください、待ってください! まだそんなにたべていないんですよ!」と、仲間のものは言いました。
「おまえたち、まさか動けなくなるまで、たべさせてもらえると思っているんじゃないだろうな?」
隊長はこう言うと、
羽ばたきして飛びたちました。けれど、すぐまた
戻ってこなければなりませんでした。だって、ほかのものたちが、あとにつづかないのです。
波うちぎわの海草の山の下には、
一むれの白鳥がいました。白鳥たちは陸の上にいかないで、波にゆられながら休んでいました。そして、ときどき長い首を水の中につっこんでは、海の
底からたべものをひろいあげました。なにかすばらしい
えものをつかまえたときには、まるでラッパのような大きなさけび声をあげて
喜びました。
ニールスは、
浅瀬に白鳥たちがいると聞きましたので、さっそく海草の山のほうへおりていきました。まだ一ども
野生の白鳥をそばで見たことがないのです。そして、さいわいにも、きょうは、すぐそのそばまで近よることができました。
白鳥がいるという話を聞いたのは、ニールスひとりではありませんでした。ガンをはじめ、
灰色ガンもウミガモも、いそいで海草のほうへ
泳いでいきました。そして、みんなは白鳥たちのまわりにぐるっと
輪になって、じっと白鳥たちを見つめました。白鳥たちは
はね毛をさかだて、つばさを
帆のようにひろげて、首を高くのばしました。そして、ときどきそのなかの一、二
羽が、ガンのところへいったり、大きなウミガモのところへいったり、また、モグリドリのところへいったりして、なにやら話しかけました。すると、話しかけられたほうは、気おくれがしてしまって、
返事をするために、くちばしをひらくことさえできないようでした。
岸近くの海の上を、カモメとウミツバメが飛びまわって、魚をとっていました。
「どんな魚をとっているんです?」と、一
羽のガンがたずねました。
「トゲウオだよ。エーランド島のトゲウオだよ。世界一のトゲウオさ。まだ、たべたことがないのかい?」と、一羽のカモメが答えました。そして、その小さな魚を口いっぱいくわえて飛んできて、ガンにやろうとしました。
「ウワァイ! そんなきたない魚がくえるかい?」と、ガンは答えました。
つぎの朝は、くもっていました。ガンたちは、
牧場へいって、たべものをひろいましたが、ニールスは
浜べへいって
貝を集めました。そこには、貝がたくさんありました。あしたは、きっと、たべもののないところにいくだろうと思いましたので、貝を持っていけるように、小さな
袋をこしらえようと思いました。
牧場でじょうぶな
枯れたスゲを見つけて、それで
旅行用の袋をあみはじめました。なん時間もかかって、やっとつくりあげましたが、ニールスは、それに、たいへんまんぞくしました。
お
昼ごはんのころ、ガンたちが、みんなでそろって走ってきました。そして、白いガチョウを見なかったかとたずねました。
「いいや、ぼくといっしょじゃなかったよ。」と、ニールスは答えました。
「ついさっきまでは、わたしたちといっしょだったんですが、どこへいったか見えなくなってしまったんですよ。」と、アッカが言いました。
ニールスはびっくりして、思わずとびあがりました。キツネかワシでも出てきたのではないだろうか、それとも、人間でも近くにきたのではないだろうかと、ガンたちにたずねてみましたけれども、ひとりとして、そんな
危険なものを見たものはありません。おそらく、ガチョウは
霧の中で道に
迷ったのでしょう。
それはそうとしても、ともかくガチョウがいなくなってしまったということは、ニールスにとっては、たいへんな
災難です。そこで、さっそく、さがしに出かけました。
霧がかかっているので、だれからも姿を見られずに、どこへでも走っていくことができましたが、ニールス
自身も、霧のためにさきをよく見とおすことができません。ニールスは、
海岸にそって南のほうへ走っていきました。そして、いちばん南のはしの
燈台や霧を散らすために打つ
大砲のところまでいってみました。あっちにもこっちにも、鳥がたくさんいますが、ガチョウの姿はどこにも見えません。で、思いきって、オッテンビューの
領地の中にはいっていきました。そして、オッテンビュー森の中を、のこらずさがしてみましたが、やっぱりガチョウの足あと一つ見あたりませんでした。
ニールスが、むちゅうになってさがしているうちに、いつのまにか
暗くなってきました。もう東の
岸にもどらなければなりません。足をひきずるようにして、みじめな気もちで歩いていきました。ああ、ガチョウが見つからなかったら、いったいどうなるだろう。なんとかして、見つけださなければならない。じぶんのためばかりでなく、大すきなガチョウのためにも!
ところが、
牧羊場を歩いていきますと、
霧の中を、なにか大きな白いものが、こっちへむかってくるではありませんか。それこそ、ガチョウでなくてなんでしょう? ガチョウは、ぶじだったのです。そしていま、ようやくのことで、みんなのところへ
帰る道が見つかったものですから、たいそう
喜びました。霧のためにすっかり
迷ってしまって、一日じゅう、広い
牧場をうろつきまわっていたということでした。ニールスは、うれしさのあまり、ガチョウの首のまわりに
腕をまきつけて、これからは気をつけて、もうみんなから
離れないようにしてくれ、とたのみました。するとガチョウは、もう二どとこんなことはしない、けっして、けっしてしない、と、かたく
約束しました。
ところが、そのつぎの朝、ニールスが浜べにいって、
貝をひろっていますと、またもやガンたちが走ってきて、ガチョウの姿を見なかったかとたずねました。もちろん、ニールスはガチョウの姿を見てはいませんでした。そうしてみると、ガチョウは、またいなくなってしまったのです。きっと、きのうとおなじように、また、霧の中で道に迷っているのでしょう。
ニールスは
驚いて、すぐさまさがしに出かけました。オッテンビューの
垣に、一カ
所こわれているところがありましたので、そこからよじのぼることができました。垣をこしますと、まず
浜べをさがしていきました。そこは、だんだん広くなっていて、
畑や
牧場や
農場をつくろうと思えばつくれるだけの
余地は十分にありました。それからこんどは、島のまんなかにある
平らな
高台にのぼっていきました。そこには
風車のほかは、
建物はなんにもありませんでした。そして、
芝草がたいそううすいために、下の白い
石灰質の
地肌が
輝いてみえました。
けれど、どうさがしてみても、ガチョウの姿は見えません。だんだん、夕やみがせまってきましたので、もう海岸にひきかえさなければなりません。いよいよ、旅の道づれをなくしてしまったと、思うよりほかはありませんでした。ニールスは、すっかりがっかりして、どうしていいのか、わからなくなりました。
もう一ど、垣の上によじのぼったとき、すぐその近くで、石がガサガサ落ちる音がきこえました。なんだろうと思ってふりかえってみますと、垣の近くにつみかさねられている石の上で、なにかが動いているようです。そっとしのびよってみますと、
驚いたことに、あの白ガチョウのモルテンが、長いヒゲ
根をいくつかくわえて、つみ石の上をよたよたと歩いているではありませんか。ガチョウのほうでは、少年の姿に気がついておりません。ニールスのほうでも、ガチョウに声をかけません。なぜって、ニールスとしては、どうしてガチョウがこんなふうにして、二どまでも姿をかくしてしまうのか、そのわけを、まず知りたいと思ったのです。
そのわけは、すぐにわかりました。見れば、つみ石の上に、一
羽の若いメスの
灰色ガンがすわっています。そして、その灰色ガンは、ガチョウのきたのを見ますと、うれしがって、大きな声をあげました。ニールスが、なおもそっと近よってみますと、ふたりの話がよくきこえました。それで、この灰色ガンは
片ほうの
はねをけがしたために、飛ぶことができないのだということがわかりました。そのため、
仲間のものは、この灰色ガンをたったひとり置きざりにして、飛んでいってしまったのです。灰色ガンは、おなかがへって、いまにも死にそうになっていたのですが、
運よく、きのう、白ガチョウがその
声を耳にして、見つけてくれたのです。そしてそれからは、白ガチョウが
骨をおってたべものをはこんでくれているのです。ふたりは、白ガチョウが島からいってしまうまえに、
灰色ガンの
はねがすっかりよくなるようにと
願っていました。けれども、きょうになっても、まだ飛ぶことも歩くこともできません。それで灰色ガンは、たいへん
悲しんでいましたが、白ガチョウは、じぶんはまだしばらく旅には出ないから、安心するように、と言って、なぐさめました。それからさいごに、ガチョウはさようならを言って、あしたまたくる
約束をしました。
ニールスは、ガチョウのあとを見おくって、その姿が見えなくなってしまったとき、こんどは、じぶんがそのつみ石の上にあがっていきました。ニールスは、白ガチョウにだまされたので、プンプンおこっていました。そして灰色ガンに、あのガチョウはじぶんのもので、これから、じぶんをラプランドまでつれていってくれようとしているところだから、おまえなんかのために、こんなところで、ぐずぐずしてはいられない、と言ってやろうと思っていたのです。ところが、ニールスは
若い灰色ガンのそばまでいったとき、
驚いてしまいました。なるほど、これでは、ガチョウが二日のあいだ、たべものをはこんでやったり、そのことを話そうとしなかったのも、むりはありません。灰色ガンは、見るからにかわいらしい、ちっちゃな頭をしています。
はね毛は、しゅすのようにやわらかで、目には、おだやかな、うったえるような
表情をたたえています。
灰色ガンは、ニールスの姿を見ますと、
逃げようとしました。けれども、片ほうの
はねが
傷ついているために、地べたをばたばたやるだけで、動くことができません。
「こわがらなくてもいいよ。」と、ニールスは言いました。そして、さっき、おなかの中で考えていたような、
怒ったようすは、ほとんど見せませんでした。「ぼくはね、ガチョウのモルテンの友だちで、オヤユビ太郎っていうんだよ。」と、つづけて言いましたが、そこでつまってしまって、それからあとは、なんて言ったらいいのか、こまってしまいました。
動物たちのなかにも、ときには、
魔法にかけられた人間ではないだろうかと思われるようなものがあります。この
灰色ガンにも、そんなようすがありました。ニールスが、じぶんの名まえを名のりますと、灰色ガンは、いかにもしとやかに頭をさげて、とうていガンとは思えないほどの美しい声で言いました。
「あなたが助けにいらしってくださいまして、あたくし、ほんとうに、うれしゅうございます。白いガチョウさんが、あなたほど
賢くて、よいお
方はないと申しておりましたわ。」
その言いかたが、またとても
品位がありましたので、ニールスは、すっかりまごついてしまいました。「これはたしかに、ただの鳥じゃないぞ。」と、ニールスは心の中で思いました。「きっと、どこかのお
姫さまが、
魔法にかけられて姿をかえているんだな。」
ニールスは、灰色ガンを助けたい気もちで、いっぱいになりました。そこで、小さな手を、ガンのつばさの下につっこんで、つばさの
骨にさわってみました。すると、骨はおれてはいませんが、
関節がはずれています。そこで、「さあ、いいかい」と、言いながら、
管のようになった骨をしっかりとつかんで、もとどおりに合わせました。こんなことをするのは、
生まれてはじめてですが、そのわりには、なかなかうまく、すばやくやってのけました。でも、かわいそうに、若い灰色ガンにとっては、どんなにひどく
痛かったことでしょう。
一声するどい
悲鳴をあげますと、そのまま、石のあいだにぱったりたおれて、じっと動かなくなってしまいました。
ニールスは、すっかりあわててしまいました。ただ、助けてやりたいとばかり思ってしたことなのに、
灰色ガンを
殺してしまったのです。ニールスは、つみ石の上からとびおりるが早いか、いっさんに
駈けだしました。まるで、人間を殺したような気もちでした。
あくる朝は、空は
晴れわたって、
霧もすっかりはれていました。アッカは、これから旅をつづけることにする、と言いました。ガンたちはみんな喜びましたが、白いガチョウだけは、いやがりました。ニールスには、ははあ、あの若い灰色ガンのそばを
離れたくないんだな、と、そのわけがよくわかりました。けれども、アッカはガチョウのことばには耳をもかさずに、
出発しました。
ニールスは、ガチョウのせなかにとびのりました。白いガチョウは、いやいやながら、ノソノソとみんなのうしろを飛んでいきました。ニールスは、いっこくも早くこの島を
離れたいと思っていました。というのは、あの灰色ガンのことで、気がとがめてしかたがなかったからです。そしてまた、なおしてやろうと思っていたのに、あんなとんでもないことになってしまったいきさつを、ガチョウに話したくなかったのです。
「モルテンが、この話を知らないでいてくれれば、それよりいいことはない。」と、ニールスは思いました。でも、それといっしょに、どうして白いガチョウは、灰色ガンのところを
離れる気になったんだろう、と、ふしぎでたまりませんでした。
ところが、そのうちに、ガチョウは、きゅうに、とんでいたむきをかえました。とうとう、若い灰色ガンのことを思う気もちのほうが、勝ってしまったのです。あの若い灰色ガンが、
病気のまま、たったひとりのこされて、いまにも
うえ死にするのではないかと思いますと、モルテンはみんなといっしょにいくことが、できなくなったのです。
まもなく、ガチョウとニールスは、つみ石のそばにもどってきました。ところが、きょうは、石のあいだに若い灰色ガンの姿が見えないではありませんか。「ダンフィン! ダンフィン! どこにいるの?」と、ガチョウは大声で呼んでみました。
「きっと、キツネにさらわれたんだな。」と、ニールスは心の中で思いました。
ところが、そのとき、「ここですよ、ガチョウさん、ここですよ! 朝の水あびをしておりましたの。」と、ガチョウに答える美しい声が聞こえてきました。そして、水の中から、小さな灰色ガンが、見ちがえるほど元気そうな姿をあらわしました。そして、灰色ガンは、
「オヤユビさんにつばさをなおしていただいたおかげで、すっかり元気になりました、みなさんとごいっしょに旅にいけますわ」と言いました。
灰色ガンの、しゅすのようにつややかな
はねの上には、しんじゅのような水のしずくがたまっていました。それを見たオヤユビくんは、この鳥はきっと小さなお
姫さまにちがいない、とまた思いました。
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四月六日 水曜日
ガンたちは、下のほうにはっきりと見える、長くのびた島にそって飛んでいました。ニールスは、気もはればれとしていました。きのう、ガチョウをさがしに島を歩きまわったときは、気がめいってしかたがありませんでしたが、きょうは、心からまんぞくしていました。
島の内部にあるはだかの
高地と、
海岸ぞいの
肥えた、よい土地が見えました。そのとき、ニールスは、ゆうべ聞いた話のいみが、ようやくわかりかけてきました。
それは、ニールスがしばらく休もうと思って、高地にあるたくさんの
風車の一つのそばに
腰をおろしていたときでした。そこへふたりの
羊飼いが、イヌをつれ、たくさんの羊のむれをしたがえてやってきたのです。ニールスは、風車の
階段の下にかくれていましたので、ちっともこわくはありませんでした。ところが、その羊飼いたちは、ニールスのかくれている階段の上に
腰をおろしてしまったのです。ですから、ニールスは、そこにじっとかくれているよりほかはありませんでした。
ひとりは若くて、見るからに
羊飼いらしいようすをしていました。しかし、もうひとりのほうは、年とっていて、すこしかわっていました。からだつきは、がっしりとふしくれだっているのに、頭は小さくて、しかも、とってもおだやかな、やさしそうな顔つきをしているのです。なんだか、頭とからだとが、しっくり合っていないような感じです。
年よりのほうは、しばらくのあいだじっとすわって、なんともいえないほど
疲れきったようすで、
霧の中を見つめていました。それから、つれの者にむかって話しはじめました。
若者のほうは、
袋の中からパンとチーズをとりだして、たべはじめました。そして、ほとんどひとことも言わずに、じっと、しんぼうして、年よりの話を聞いていました。そのようすは、しばらく、おまえさんがしゃべりたいようにしゃべらしておいてあげるよ、とでも
腹の中で思っているようでした。
「エリークさんや、おまえさんになにか話をしてあげるとしよう。」と、年とった羊飼いが言いました。「わしはな、人間も動物も、いまよりずっと大きかった時代には、チョウもうんと大きかったと思うんだ。つまり、そのころは、からだの大きさがなんマイルもあって、
はねといったら、海のように広いチョウがいたわけさ。その
はねは、たとえようもないほど青くて、
銀のようにピカピカ
輝いていた。だから、そのチョウが空を飛んでいるときには、どんな動物でも立ちどまって、思わず見とれてしまったものさ。
ところが、ぐあいの
悪いことには、からだが大きすぎるものだから、なかなか
はねでうまくつりあいをとることができない。身のほどをわきまえて、陸地の上を飛んでいるあいだはよかったんだが、このチョウチョウさんは、それではがまんができなくなって、バルト海まで出ていったのさ。ところが、まだいくらもいかないうちに、
嵐におそわれて、
はねが
破れはじめたんだ。なあ、エリークさんや、チョウの
はねはもろいのに、相手はすさまじいバルト海の嵐なんだから、どうなったかは、おわかりだろう。みるみるうちに、
はねはひきさかれ、めちゃめちゃになってしまう。そして、チョウは、海の中に落っこちてしまったのさ。さいしょのうちは、波の上をゆらゆらと、ゆられていたんだが、やがて、スモーランドの海岸ちかくの岩の上に、うちあげられた。そして、そのままそこに、大きなからだを、ながながとねそべらせてしまったのさ。
ところで、エリークさん、もしこのチョウが、陸の上に落っこちたら、あっというまに、こなみじんになってしまったろうよ。ところが、海の中に落っこちたもんだから、だんだんに
石灰水がしみこんで、しまいには、石のように
固くなってしまったんだ。ほら、おまえさんも知ってのとおり、岸べには、よく、みょうな石があるだろう。あれは、みんな虫が
化石したものなのさ。このチョウの
場合も、やっぱりおんなじで、バルト海にねころんでいるうちに、そのまま、
細長い岩になってしまったと、わしは思うんだ。おまえさんは、そうは思わんかね?」
年よりは、ことばをきって、
返事を待ちました。すると、若者はうなずいて、「つづけておくれ。さきを聞きたいよ。」と、言いました。
「で、エリークさん、おまえさんやわしの住んでいる、このエーランド
島は、じつをいえば、いま話したチョウのからだなのさ。ちょいと考えてみさえすりゃ、この島が、チョウだったってことはすぐわかるよ。北のほうへいけば、細長い
胴とまるい頭が見えるし、南のほうへいくと、
下腹が見えるんだが、こっちのほうは、はじめは広くて、それから、だんだんせまくなり、しまいには、とがってしまうんだ。」
ここで年よりは、またことばをきって、相手の顔をのぞきこみました。相手が、じぶんの話をどう思っているだろうかと、気にしているようでした。けれども、若い
羊飼いは、あいかわらずたべつづけながら、さきを話してくれと、うなずいてみせました。
「それで、そのチョウが
石灰岩になってしまうと、すぐにいろんな草や木の
種が、風にはこばれてきて、その上に根を
生やそうとしたものさ。ところが、そこがスベスベしたはだかの岩なもんだから、長いあいだ、スゲしか
生えなかった。しかし、だんだんに、ウシノケグサやモクセイソウやイバラなんかも生えてきたんだよ。けれども、この山の上のアルヴァレットでは、
今日になっても、あまり物が
育たない。ここはよい土の
層がうすいので、
耕したり
種をまいたりしようとする者がない。だがね、もしおまえさんが、わしの考えにさんせいして、このアルヴァレット山と、まわりの
山壁とが、チョウのからだでできているとすれば、
山壁の下の土地は、いったい、何でできていると思うね?」
「うん、まったくだ。」と、若者は、なおもたべながら言いました。「そいつをききたいね。」
「じゃ、話すがね。エーランド島は、なん年ものあいだ海の中によこたわっていたんだが、そのあいだには、
海草だとか、
砂だとか、
貝だとか、いろんなものが波にはこばれてきて、島のまわりに集まったんだ。それから、東と西の山壁からは、石や
砂利が落ちてきた。こうして、この島にもだんだん広い海べができて、そこに
穀物や、花や、木が
育つようになったというわけさ。
チョウのかたいせなかにあたる、この上では、
羊や牛や子馬が、ぶらぶらしているだけで、鳥にしても、ナベゲリとチドリが住んでいるっきりさ。
建物といったら、風車と、おれたち羊飼いが雨つゆをしのぐ、石造りのおそまつな小屋が二つ三つあるだけさ。ところが、海岸のほうへおりていけば、大きな村もあるし、
教会もある。
漁村もあれば、りっぱな町もあるんだ。」
年よりは、さぐるように相手の顔を見ました。若者は、ちょうど
食事をおえたところで、いましも袋の口をしめていました。そして、「あんたは、どこでその話をおしまいにする気かね?」と、言いました。
「いや、わしの知りたいのは、たった一つ。」と、
羊飼いは言いましたが、声をおとしましたので、まるで、ささやくようにしか聞こえませんでした。そして、その小さな目で、じっと
霧の中を見つめていましたが、その目は、この世にないものをさがし
求めて、
疲れきっているようでした。「わしの知りたいのは、たった一つのことだけさ。つまり、
山壁の下の
農場に住む
百姓や、海からニシンをとってくる
漁師や、ボルイホルムに住んでいる
商人や、夏になると、まいとしやってくる
海水浴の客や、ボルイホルムの古いお
城のあとを見物して歩く
観光客や、秋になると、ここへシャコを
射ちにくる
狩猟家や、このアルヴァレットの上にすわって、羊や風車を描く
画家や、そういう人たちのなかで、ひとりでも、この島が、もとは、大きなピカピカする
はねで大空を飛びまわっていたチョウだったということを、知っている者があるかどうかということなのさ。」
「ああ、いや、」と、若い羊飼いが、きゅうに言いました。「夕がた、この山壁のはしにすわって、ふもとの森でナイチンゲールの歌うのを聞きながら、カルマール
海峡をながめれば、この島が、ほかの島とおなじようにしてできたものではないと思う者も、あるにちがいないよ。」
「それから、」と、年よりは話をつづけました。「この風車に、天までとどくくらいの大きな
はねをつけてやろうという人は、ないもんかなあ。この島ぜんたいを海から持ちあげて、チョウのように飛ばすことのできる、大きな
はねをさ。」
「あんたの言うことには、もっともらしいところがあるよ。」と、若者は言いました。「だって、この島の上に大空があかるく、ひろびろとひろがっている夏の夜なんかには、なんだか、この島が海から立ちあがって、空に飛んででもいきたいようなようすに見えることがあるもの。」
年よりは、とうとう、若者を話の中にひきずりこんでしまいました。しかし、若者の言うことには、あまり耳をかしませんでした。そして、さらに声を
低くして言いました。
「このアルヴァレットにいると、どうして、そういうあこがれが
起こってくるのか、そのわけを、
説明できる人があるかなあ。わしは、まいにちまいにち、そういうあこがれを感じるんだ。いや、ここへくるものは、みんなそういうあこがれを感じるようだ。そういうあこがれが、わしたちに起こってくるのは、この島ぜんたいが一
羽のチョウで、そのチョウが、はねをほしがっているからだということを、わかる人があるだろうかなあ。」
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四月八日 金曜日
ガンたちは、その夜、エーランド
島の北のはしですごしました。そして、これから
陸地へむかっていこうというのです。強い南風が、カルマール
海峡の上を吹いていて、ガンたちは、北へ北へと
押しもどされました。それでもみんなは、
速力をはやめて、ぐんぐん
陸地のほうへ飛んでいきました。けれども、いちばんさいしょの島々に近づきかけていたとき、ごうごうという、ものすごい物音が聞こえてきました。まるで、つばさの強い鳥が、むれをなして飛んでくるようです。みるみるうちに、海の水はまっ
黒になってしまいました。アッカは、きゅうにつばさをおさめて、空にじっとしていました。それから、すぐに
舞いおりました。しかし、ガンたちが、まだ水の上におりきらないうちに、
暴風がおそってきました。暴風は
砂煙をまきあげ、海の
あわを吹きとばし、小鳥をふきまくりました。ガンたちも、
暴風に追いまくられて、とうとう広い海に追い出されてしまいました。
すさまじい
嵐です。ガンたちは、なんどもなんども、ひきかえそうとがんばってみましたが、どうしようもありません。だんだん、バルト海のほうへ吹き流されていきました。いまはもう、エーランド島もすぎて、目に見えるものは、ただ、ひろびろとした
灰色の海ばかりです。こうなっては、風にさからわないようにするほかありません。
アッカは、とうてい陸地のほうへひきかえすことはできないと見てとりましたが、といって、暴風に吹き流されていくのもまずいと思いました。そこで、水の上におりました。海の波は、
刻一刻と高くなり、はげしく
あわをとばしています。まるで、たがいに高くなりっこをしたり、
あわのとばしっこをしているようです。けれども、ガンたちは波のうねりをすこしもこわがりません。それどころか、かえって、とても喜んでいるようです。みんなは、
泳ごうとはしないで、波のうねりに身をまかせて、ちょうど、赤ん坊が、ハンモックで喜ぶように、
楽しんでいました。しばらくは、こうしてうまくいきました。でも、たった一つ心配なのは、みんなが、はなればなれになってしまうことです。そのとき、
暴風に吹きまくられて、そばを飛んでいった
陸鳥が言いました。「泳げるものは、いいなあ。
危険がないんだもの。」
しかし、ガンたちにしても、まるっきり危険がないわけではありません。だいいち、波にゆられているうちに、たまらないほど
眠くなってきました。それで、しょっちゅう首をまげて、くちばしを
はねの下につっこんでは、うとうとしようとするのです。ですからアッカは、ひっきりなしにさけびつづけました。
「眠っちゃだめだ。眠ったものは、はぐれるぞ。はぐれた者は、死んでしまうぞ。」
いくら眠らないでいようとがまんしてみても、つぎつぎに眠るものが出てきました。アッカ
自身でさえも、つい、うとうとしかけました。と、そのとたんに、なにかまるい黒いものが、波がしらに
浮かびでました。
「アザラシだ! アザラシだ! アザラシだ!」と、アッカは、耳をもつんざく
鋭いさけび声をあげながら、はげしく
羽ばたきして、空に舞いあがりました。まさに、
間一髪です。さいごのガンが、水からあがったときには、あやうくアザラシに足をくわえられるところでした。
こうして、ガンたちは、またも
暴風の中にはいりましたので、ますます
沖へ吹き流されました。暴風は、一時も休まず、ガンたちも、
片時もじっとしていることができません。もはや陸地は、
影も形も見えず、見わたすかぎり、はてしのない海が、つづいています。
ガンたちは、思いきって、もう一ど海の上におりました。けれども、しばらく波にゆられているうちに、また眠くなってきました。そして、ほんとうに、うとうとしはじめたとき、またもやアザラシがやってきました。もしもそのとき、アッカが、すばやく目をさまさなかったら、一
羽も助からなかったことでしょう。
暴風は、一日じゅう休みもなく
荒れくるいました。そして、この
季節に渡ってくる、たくさんの小鳥のむれを、さんざんな目にあわせました。小鳥たちの中には、道に
迷って遠い国に吹き流され、そこで、
うえ死にしたものもありますし、
疲れはてて海に落ちて、おぼれ死んだものもあります。また、
絶壁にたたきつけられて、むざんな死にかたをしたものもあれば、アザラシの
えじきになったものもあります。
とうとう、さすがのアッカも、いよいよ、じぶんたちのむれも、おしまいかと思うようになりました。いまはもう、すっかり
疲れきってしまいました。しかも、どこを見まわしても、休むようなところはありません。夕がたになりますと、海の上におりるわけにもいかなくなりました。というのは、とつぜん、大きな
氷のかたまりが、あっちにもこっちにもあらわれてきて、たがいにぶっつかりあっているのです。ですから、海の上におりたがさいご、そのあいだにはさまれて、こなごなにされてしまうでしょう。そこで、ガンたちは、二どばかり氷のかたまりの上におり立とうとしました。ところが、一どは暴風に吹きまくられて、水の中に落ちてしまいましたし、もう一どは、むじひなアザラシが、その氷のかたまりの上にまで、はいあがってきたのです。
お日さまの沈むころ、ガンたちはもう一ど、空に
舞いあがりました。みんなは、夜のくるのをおそれながら、飛びつづけました。
危険な
今夜にかぎって、なんだか、早く暗くなるような気がしてなりません。
しかも、おそろしいことに、陸地は、まだ見えないではありませんか。
一晩じゅう、海の上にいなければならないとしたら、いったい、どうなることでしょう? おそらく、氷のかたまりのあいだにはさまれて、
押しつぶされてしまうでしょう。でなければ、アザラシにくわれるか、
暴風のために、はなればなれになってしまうよりほかありません。
空は、一めんに雲でおおわれて、月は、姿をかくしています。たちまちのうちに、まっくらやみになりました。と、どうじに、あらゆるものが、おそろしさにみちみちて、どんな勇気のある人でも、思わずひるんでしまうほどでした。弱りはてた渡り鳥たちの、助けを
求めるさけび声が、一日じゅう、むなしく、海の上にひびいていました。しかし、その声の
主の姿も、見えなくなったいまでは、ひっしのさけび声が、
悲しく、おそろしくひびきました。海の上では、氷のかたまりが、すさまじい音を立てながら、ぶっつかりあっています。アザラシたちは、あらあらしい
狩りの歌をうたっています。まるで、天と地とが、いまにも、くずれようとしているかのようです。
ニールスは、しばらく海を見おろしていました。と、とつぜん、海がまえよりも、はげしいうなり声をあげているような気がしました。はっとして、目をあげてみますと、じぶんのまっ
正面に、しかもたった二メートルの
鼻さきに、ものすごい
絶壁が、きり立っているではありませんか。その足もとには、波がまっ白な
あわをとばして、くだけ
散っています。ガンたちは、その
崖めがけて、ま一
文字に飛んでいくのです。ニールスは、いまにもその崖にぶっつかって、こなごなになってしまうのではないかと、ハラハラしました。けれども、ガンたちは、あっというまに、その崖を飛びこえてしまいました。すると、前のほうに、ほら
穴に通じる
半円形の入口が見えました。ガンたちは、その中に飛びこんで、ようやく
安全になりました。
みんなは、じぶんの身の安全を
喜ぶまえに、まず考えたことは、
仲間のものが、ぶじに
着いたかどうかということでした。見ると、たしかにアッカをはじめ、ユクシ、コルメ、ネリエー、ヴィシ、クウシ、それから六
羽の若いガン、それにガチョウとダンフィンとオヤユビくんがいます。でも、左の列の
先頭を飛ぶカクシの姿が見えません。しかも、だれひとり、カクシがどうなったかを知っているものはないのです。
ガンたちは、仲間からはぐれたのが、カクシひとりだと知りますと、たいして気にしませんでした。だって、カクシは年もとっていて、りこうなガンです。それに、道もよく知りつくしていますし、仲間の
習慣なども、よく知っているのです。ですから、カクシなら、きっといつかは、もどってくるでしょう。
それから、ガンたちは、ほら穴の中を見まわしました。入口からさしこんでくる光のおかげで、そのほら穴が、深くてひろいことがわかりました。みんなは、こんなりっぱな夜の
宿が見つかったことを、心から喜びました。と、そのとき、仲間のひとりが、暗いすみっこのほうに、キラキラした
緑の
点が、いくつも光っているのを見つけました。
「あれは目だ!」と、アッカがさけびました。「このほら穴の中には、大きな動物がいるぞ!」
みんなは、あわてて入口のほうへ飛びだしました。けれども、やみの中でもよく見えるオヤユビくんがさけびました。「
逃げなくてもだいじょうぶだよ!
羊が二、三びき、
壁のそばにねているだけだから!」
ガンたちは、ほら
穴の中のほのかな光に目がなれてくるにつれて、羊たちが、はっきり見えてきました。おとなの羊たちは、ガンたちと同じくらいいるようです。なおそのほかに、子羊が二、三びきいます。長い、まがった
角のある年とった
牡羊が、そのむれの
かしらのように見えます。ガンたちは、なんども、おじぎをしながら、その前に進みでました。そして、「いいところで、お目にかかりました!」と、あいさつしましたが、大きな
牡羊は、ねころんだまま、ひとことも、かんげいのあいさつをしてはくれませんでした。
ガンたちは、羊のほら
穴の中に、じぶんたちがはいりこんだので、きっと羊たちがきげんを
悪くしているのだろうと思いました。「わたしどもが、ここへはいってまいりまして、さぞご
不快でしょうが、」と、アッカが言いました。「なにしろ、暴風に吹き流されて、どうしようもなかったのです。一日じゅう、吹きまくられてしまいました。こんや
一晩だけ
泊めていただければ、まことにしあわせなんですが。」
しばらくしてから、羊の中の一ぴきが、なにか答えましたが、そのとき、そばにいる二、三びきのものが、深いため
息をつきました。アッカは、いぜんから、羊というものは、
内気で、かわった動物だということは知っていましたが、この羊たちは、そうではなくて、どうしたらいいのか、こまっているようすです。
とうとう、
悲しげな、長い顔をした年よりの
牝羊が、あわれっぽい声で言いました。「だれひとり、あなたがたをお
泊めするのをいやがったりするものはございません。けれども、ごらんのとおりのあばら
家ですから、いぜんのように、お客さんをおむかえするわけにいかないのです。」
「どうぞ、そんなことは気になさらないでください。」と、アッカはいそいで言いました。「きょうは、一日じゅうひどい目にあっているものですから、ただ安心して
眠れる場所さえあれば、うれしいのです。」
アッカがこう言いますと、その
牝羊は、からだを
起こして言いました。「いえ、ここへお
泊まりになるよりは、
嵐の中を飛びまわっているほうが、まだましでしょうよ。でも、そのまえに、できるだけのおもてなしはいたしますが。」
それから、
牝羊は、水のいっぱいたまっている、くぼんだところへ
案内していきました。そのそばには、モミガラやキリワラが、高くつまれています。牝羊はそれを見せて、たくさん
召しあがってください、と、ガンたちに言いました。「ことしの冬は、ひどい雪でしてね。わたしどもを
飼っているお
百姓さんが、ホシグサやカラスムギのワラを持ってきてくれなかったら、わたしどもは、
うえ死にするところだったんですよ。ここにあるのは、その残りなのです。」
そう言われて、ガンたちはすぐさまそのたべものにとびつきました。みんなは、
運がよかったと思って、大よろこびでいました。もちろん、羊たちがたいそう心配そうにしているようすを見てはいましたが、羊というものは、ひどくおくびょうな動物だということを知っていましたから、まさか、ほんとうの
危険がせまっていようなどとは、
夢にも思いませんでした。ですから、みんなは、
腹いっぱいたべてしまいますと、いつものように、すぐ眠るつもりでいました。すると、大きな
牡羊が立ちあがって、ガンたちのほうへやってきました。ガンたちは、こんな大きな、がっしりとした
角のある羊を、まだ見たことがありませんでした。しかも、そればかりではなく、ひたいは高くこぶのようになっていて、目は、りこうそうで、
態度はじつにりっぱです。いかにも、どうどうたる
勇敢な動物のように見えます。
「わたしどもとして、あなたがたをここにお
泊めするからには、ここが
安全な
場所ではないということを、申しあげておかなければなりません。」と、その
牡羊は言いました。「いまのところ、わたしどもは、夜のお客はみんなおことわりしているのです。」
アッカにも、ようやく、これはまじめで言っているのだということが、わかってきました。そこで、「あなたがたがおのぞみなら、出てもいきますが、そのまえに、いったい何でおこまりになっているのか、お話しねがえませんか? わたしどもには、何のことやらさっぱりわかりません。だいいち、どこへ来てしまったのかさえもわからないのです。」と、アッカは言いました。
「ここは、小カール
島です。」と、
牡羊は答えました。「ゴットランド島の西にあたります。そして、ここには羊と海鳥しか住んでおりません。」
「そうすると、あなたがたは、
野育ちなんですね?」と、アッカはたずねました。
「ええ、そう言ってもいいでしょうね。」と、牡羊は答えました。「人間とは、なんの
関係もないのですから。われわれと、ゴットランド島の、ある
農園のお
百姓さんたちのあいだには、
昔から、取りきめがあるのですよ。つまり、冬の雪がふるころになると、お百姓さんたちは、われわれに
かいばを持ってきてくれる。そのかわりに、われわれのあいだから、多すぎるものをつれていってもいいということになっているのです。この島は、ひじょうに小さいものですから、あんまりたくさんいては、とても
養っていけないのです。しかし、そのほかのことについては、一年じゅう、じぶんたちでしまつしなければなりません。そんなわけで、われわれは、戸や
錠のついた小屋には住まずに、こんなほら
穴の中にいるのですよ。」
「なんですって? 冬でもこんなところにいるんですか?」と、アッカはびっくりして、ききかえしました。
「もちろんです。」と、
牡羊は答えました。「この山の上には、一年じゅう、いい
かいばがありますからね。」
「そうしてみると、あなたがたは、ほかの羊よりもいいお
暮らしをなさっているように思われますが、」と、アッカは言いました。「いったい、その
不幸というのは、どんなことですか?」
「じつは、こういうわけです。」と、牡羊は話しだしました。「きょねんの冬は、ひどい寒さで、海がすっかりこおってしまいました。すると、三びきのキツネが、その氷の上をわたってきましてね、それいらい、ここに住みついているのです。あいつらさえいなければ、この島には
危険な動物は一ぴきもいないのですがね。」
「だけど、あなたがたのような動物をも、キツネはおそってくるんですか?」
「いや、
昼間はそんなことはありません。昼間なら、じぶんをも
家族をもまもれます。」と、牡羊は
角をふりながら言いました。「ところが、あいつらは、夜、われわれがほら
穴で眠っているときに、こっそり、しのんできて、おそいかかるのです。もちろん、できるだけ目をさましているようにしてはいますが、だれだって、すこしは眠らなければならないでしょう。やつらは、そこをねらっているのです。ほかのほら穴の羊は、もうみんな殺されてしまいましたよ。わたしの家族と同じくらいのむれがいたのですが。」
「あたしたちが、こんなにいくじのないことをお話ししなければならないなんて、ほんとにおはずかしいことです。」と、こんどは、年よりの
牝羊が言いました。「あたしたちが、もし
飼われている羊でしたら、もうすこしどうにかなるかもしれませんけれど。」
「キツネは、こんやもくるとお思いですか?」と、アッカがききました。
「まず、くると思うよりほかありませんね。」と、年よりの
牝羊が答えました。「あいつらは、ゆうべもやってきて、子羊をさらっていったんですよ。わたしたちが、一ぴきでも生きのこっているあいだは、かならずやってきますね。ほかのほら穴でも、そうだったんですから。」
「しかし、このままほうっておけば、あなたがたも、ぜんめつしてしまいますね。」と、アッカは言いました。
「ええ、このあんばいでは、小カール島に、羊が一ぴきもいなくなる日は、ちかいでしょうよ。」と、
牝羊はため息をつきながら言いました。
アッカは、どうしたものかと
迷っていました。また、
嵐の中へ出ていくのもいやですし、そうかといって、そんなおそろしいお客のくる家にいるのも、ありがたいことではありません。アッカはしばらく考えてから、オヤユビくんにむかって、「いままでも、たびたび助けてもらいましたが、こんども、なんとか助けてはもらえませんか?」と、言いました。
すると、ニールスは、よろしい、しょうちした、と、答えました。
「あなたが眠ることができないのは、ほんとにお気のどくですが、」と、アッカは言いました。「どうか、こんやも目をさましていて、キツネがきたら、われわれを起こしてくれませんか。そうすれば、われわれはぶじに
逃げられますからね。」
これはありがたい
役めではありませんが、嵐の中にまた出ていくよりは、ずっとましです。そこで、ニールスは、目をさましていようと
約束しました。
ニールスは、ほら
穴の入口にいって、嵐をよけるために、石のかげにはいりこんで、見はりをはじめました。
しばらくそこにすわっているうちに、嵐はしだいに
静まってきました。やがて、空は晴れあがって、お月さまの光が、波の上にたわむれはじめました。ニールスは入口に歩いていって、外をながめました。このほら穴は、山のかなり高いところにあって、ここへはけわしい小道がたった一つ通じているだけです。たぶんキツネは、この小道をやってくるのでしょう。
まだ、キツネの姿は見えませんが、そのかわり、とんでもないものが見えました。ひと目見ただけで、ニールスは、ふるえあがってしまいました。山の下の、わずかな
浜べに、大男やら、石で造ったなにかきみの
悪いものが、いくつもいくつも、立っているのです。ひょっとすると、これは、ほんとうの人間かもしれません。さいしょは、
夢をみているのだろうと思いました。でも、すぐに夢ではないことが、はっきりしてきました。大きな男の姿が、たしかに見えるのです。どうしたって、目のせいではありません。浜べに立っているものもあれば、まるでよじのぼろうとするように、山にぴったりとくっついているものもあります。大きな頭をしているものがあるかと思えば、ぜんぜん、頭のないものもあります。また、
腕が一本しかないものもありますし、せなかと
胸に、こぶをしょいこんでいるものもあります。ニールスは、いままで、こんな
へんてこなものを見たことがありません。
ニールスは、そこに立ったまま、あまりのきみ
悪さに、ふるえあがっていました。それで、キツネの見はりをしていることは、まるで忘れていました。と、そのとき、ガリガリと、石に
爪のぶっつかる音が聞こえました。見ると、三びきのキツネが、
崖をのぼってきます。ニールスは、いよいよ
敵がやってきたなと思ったとたんに、心がすっかりおちついて、いままでのこわい気もちは、どこかへきえてしまいました。それにしても、ガンたちだけを
起こして、羊たちを
見殺しにしてしまうのはかわいそうです。そこで、なんとか
工夫をして、助けてやりたい、と、思いました。
そう思ったとたんに、ニールスは、ほら
穴の中に大いそぎで
駈けもどって、大きな
牡羊の
角をゆすって
起こしました。そして、すぐさま、そのせなかにとびのりました。「さあ、起きるんだよ、おじさん、キツネのやつらを、ちょっとおどかしてやろうじゃないか!」と、ニールスはささやきました。
ニールスは、できるだけ静かにしようとしましたが、それでも、キツネたちは物音を聞きつけたのにちがいありません。ほら穴の入口まできますと、はたと立ちどまって、考えこんでしまいました。
「たしかに、なにか動いたぞ。」と、一ぴきのキツネが言いました。「目がさめてるんだろうかな。」
「おい、ちょっといってみろ。」と、もう一ぴきのキツネが言いました。「なんにしたって、やっこさんたち、おれたちに、
はむかえっこねえんだから。」
キツネたちは、ほら穴の中にかなりはいったところで、また立ちどまって、かぎまわし
[#「かぎまわし」はママ]ました。「こんやは、どいつをとってやろうか?」と、いちばんさきのキツネが小声で言いました。
「こんやは、あのでかい
牡羊をとろうぜ。」と、いちばんあとのキツネが言いました。「そうすりゃ、あとのやつらはわけなしさ。」
ニールスは、牡羊のせなかにまたがって、キツネがしのびよってくるのを見ていました。そして、
「それっ、まっすぐに
突け!」と、牡羊に、ささやきました。
牡羊は、もうれつに突っかけました。みるまに、
先頭のキツネは、ほうほうのていで、入口に突きもどされました。
「それっ、こんどは左へ
突け!」と、ニールスは言って、
牡羊の頭を左に向けました。牡羊は、またもはげしく突っかけて、二ばんめのキツネのわき
腹を突きさしました。すると、キツネはなんどもころげまわってから、ようやく立ちあがって
逃げだしました。ニールスは、三ばんめのやつも、突いてやろうと思いましたが、そいつは早くも逃げていってしまいました。
「あのくらい、やっつけておけば、
今夜のところはたくさんさ。」と、ニールスは言いました。
「わしもそう思います。」と、大きな
牡羊が言いました。「さあ、わしの毛の中にもぐりこんで、ねころんでください! あんなにひどい
嵐の中を、おもてにいて、
番をしていてくださったんだから、こんどはあたたかく、気もちよくやすんでください。」
四月九日 土曜日
そのつぎの日、大きな
牡羊は、ニールスをせなかにのせて、島を
案内してまわりました。この島は一つの大きな岩でできていました。そして、まっすぐ切り立った
壁と、ひらたい
屋根とを持った、大きな家のようでした。牡羊は、まずさいしょに、その岩の屋根にのぼって、ニールスに、そこの
牧草地を見せました。ニールスは、この島がとくに羊のためにつくられているような気がしました。というのは、この山には、スカンポや、羊のすきな
香りのいい小さい草のほかは、ほとんど何も
生えていないのです。
けれども、
崖の上に出れば、羊のすきな草のほかに、まだ見るものがありました。それは、広い広い海です。いまは、お日さまの光をうけて、青々と
輝き、ピカピカした白い波をうねらせています。あちこちの
岬には、波がくだけて、まっ白にとびちっています。東のほうには、なだらかに長くのびた、ゴットランド
島の
海岸線が見えます。南西には、大カール島が横たわっていますが、この島も小カール島と同じようにつくられたもののようです。
牡羊が、岩屋根のずっとはしにまで歩みよりますと、
山壁が見おろせました。見ると、そこには鳥の
巣がいっぱいありました。その下の青い海では、いろんな
種類のカモメやカモやウミガラスやウミスズメなどが、さかんに小さなニシンをとっていました。そのありさまは、いかにものどかで、
楽しそうでした。
「ここは、ほんとうにめぐまれた
土地だね。」と、ニールスは言いました。「きみたちは、まったくいいところに住んでいるんだね、
羊のおじさん。」
「もちろん、ここはすばらしいところです。」と、
牡羊は言いました。まだなにかつけ
加えて言いたいようすでしたが、なにも言わないで、ただため息をつきました。「このへんを、ひとりでぶらぶらなさるときには、この山のほうぼうにある
裂けめに気をつけなければいけませんよ。」と、
牡羊は、しばらくたって言いました。これは、ありがたい
忠告です。言われてみれば、なるほど、あちこちに深くて広い
裂けめがあります。その中でいちばん大きいのを、じぶんたちは「
地獄穴」と呼んでいる、と、牡羊は説明しました。その裂けめは、深さがいく
尋もあって、広さも一
尋ぐらいはあるということです。「その穴に落っこちたら、それこそおしまいですよ。」と、牡羊は言いました。ニールスは、牡羊の言ったことばには、なにか、特別ないみが、あるような気がしました。
それから、
牡羊は、ニールスをせまい
浜べに
案内していきました。そこには、ゆうべあんなにこわかった
巨人が目の前にずらりと
並んでいます。いま見れば、それは大きな
岩柱ではありませんか。ニールスは、もしも、石になった
鬼というものがあるならば、きっと、こんなふうに見えるにちがいない、と思いました。
下の浜べも美しいところでしたが、ニールスは、山の上のほうがずっとすきでした。だって下のほうは、きみが悪くてたまりません。なにしろ、あっちにもこっちにも、羊の死がいが、ごろごろしているんですから。つまり、キツネたちは、いつもここで
えものを
食っては、大さわぎをするのでした。
肉だけ食ってしまって、骨ばかり残っているのや、半分ぐらい食いちらかしたのや、ほとんど手もつけてないのや、ともかく、見るも
むざんなありさまです。これを見れば、キツネのやつらが、ただおもしろ半分に、羊をおそっては、
裂き殺しているのだということがわかります。
大きな牡羊は、死がいの前に立ちどまらないで、だまってそばを通りすぎました。けれども、ニールスは、そのおそろしい
光景をすっかりながめました。見ないではいられなかったのです。
それから、
牡羊はまた山の上にのぼりました。そして、立ちどまって、言いました。「もし力があって、
賢いかたが、この
悲惨なありさまをごらんになれば、キツネどもが
罰をうけないうちは、じっとしてはいらっしゃれないでしょう。」
「しかし、キツネだって、生きていかなければならないからね。」と、ニールスは言いました。
「そりゃあ、そうですとも。」と、大きな牡羊は言いました。「じぶんが生きていくのに、
必要いじょうの動物を殺さないものは、生きていたっていいですがね。ところが、あいつらときたらまったくひどいんですよ。」
「この島の持ちぬしのお
百姓さんたちがきて、きみたちを助けそうなものだがね。」と、ニールスは言ってみました。
「お
百姓さんたちは、なんどもきたんですが、」と、牡羊は答えました。「キツネのやつらは、いつも
穴や
裂けめにはいりこんでかくれてしまいますから、
射とうにも射つことができないんですよ。」
「おじさん、きみたちやお百姓さんたちでも、どうすることもできなかったんだから、ぼくみたいなちっぽけなものには、あいつらをやっつけることなんか、とうていできないね。」
「小さな、すばしこい者のほうが、いろんなことをうまくやってのけるものですよ。」と、大きな
牡羊が言いました。
ふたりは、このことについては、それいじょう何も話しませんでした。そして、ニールスは、山の上で草をたべているガンたちのところへいって、そのあいだにすわりました。牡羊のまえでは、じぶんの気もちをあらわしはしませんでしたが、ニールスは、心の中では羊たちの悲しい
運命を、たいへん気のどくに思っていたのです。そして、なんとかして、助けてやりたいと思っていたのでした。「とにかく、アッカやガチョウのモルテンに、話してみよう。」と、ニールスは思いました。「なにか、いい
ちえを、かしてくれるかもしれない。」
それからしばらくたって、白いガチョウは、ニールスをせなかにのせて、山の
平地をよこぎり、
地獄穴のほうに、むかっていきました。
ガチョウは、なに一つさえぎるもののない山の
頂きを、へいきで歩いていきました。じぶんのからだが、まっ白で大きいなどということは、まるで考えてもいないようです。草むらや土の
盛りあがったところをさがして、かくれようとするわけでもなく、かまわずまっすぐに、歩いていきます。ちっとも用心をしないのは、まことにふしぎです。なぜって、きのうの
嵐のために、けがをしているらしいのですから。右足は
びっこをひいていますし、左のつばさは、まるで折れてでもいるように、地べたにひきずっているのです。
ガチョウは、
危険などは、まるでないというような顔つきで、ぶらぶら歩きまわっては、あちこちで、草の葉をつついています。ちっとも、あたりに気をくばってはおりません。ニールスも、ガチョウのせなかにながながとねそべって、青い空を見あげています。いまでは、乗っていることにもなれてきましたので、ガチョウのせなかの上で、立ったり、ねころんだりすることもできたのでした。
ガチョウも、ニールスも、こんなにのんびりしていましたので、いましも、三びきのキツネが、山の上に姿をあらわしたのには、もちろん、気がつかないようでした。
キツネのほうは、何もない
平地で、ガチョウをつかまえることは、とてもむりだと知っていましたから、さいしょのうちは、ガチョウのあとを追うのは、よそうと思いました。けれども、そのうちに、がまんができなくなって、とうとう、長い
裂けめの一つの中にとびこんで、こっそりと、ガチョウのほうに近よろうとしました。キツネたちは、
注意ぶかく、そっと、近づいていきましたので、ガチョウの目には、キツネの
影さえはいらないようでした。
キツネたちが、あまり遠くないところまできたとき、ガチョウは、飛びあがろうとしました。つばさをひろげて、
羽ばたいてみましたが、からだがうまく持ちあがりません。キツネたちは、ガチョウが、飛ぶことができないと見てとりますと、いきおいづいて
前進しました。そして、もう裂けめの中にじっとかくれていることができなくなって、穴からとびだしました。キツネたちはなるべく草むらや岩かげに、身をひそませながら、だんだん、ガチョウに近づいていきました。それでも、ガチョウのほうは、まだ、ねらわれているとは、
夢にも知らないようすです。とうとう、キツネたちは、もうすこしでガチョウにおどりかかれるほど、ちかくまでせまりました。そして、ここぞとばかり、三びきいっせいに、ガチョウめがけておどりかかりました。
ところが、
間一髪のところで、ガチョウは感づいたのにちがいありません。さっと、わきへとびのきました。キツネどもは、もののみごとに
失敗です。けれども、まだまだ
危険はせまっています。なにしろ、ガチョウは、ほんの二メートルぐらいさきへいっただけなのですから。おまけに、
びっこをひいているではありませんか。そしてガチョウのモルテンは、あわれにも、一もくさんに
逃げていきます。
ニールスは、ガチョウのせなかに、うしろむきにすわって、キツネたちにむかってさけびました。
「きさまたちは、羊の
肉を
食って
肥りすぎたな。やい、キツネめ。ガチョウさえつかまえられないじゃないか。」と、さかんにからかいました。
怒りくるったキツネたちは、われを
忘れて追いかけました。
白いガチョウは、あの大きな
裂けめのほうへ、まっすぐに走りました。そこまでいくと、つばさをひとうちして、ひらりと、飛びこえました。すぐそのあとには、キツネたちが
迫っています。
ガチョウは、
地獄穴を飛びこえてからも、まえと同じように、早く走りつづけました。けれども、二メートル走ったか走らないうちに、ニールスが、ガチョウの首をたたいて言いました。
「もう、とまってもいいよ、モルテンや!」
そのしゅんかんに、うしろのほうで、ものすごいさけび声とどうじに、
爪でガリガリひっかく音、つづいてズシーンと、からだが落ちる音が聞こえました。そしてもう、キツネの姿は見えませんでした。
あくる朝、大カール
島の
燈台守は、戸口の下に、一枚の木の皮がさしこんであるのを見つけました。それには、
角ばった字で、「小カール島のキツネどもが、
地獄穴に落っこちたよ。早くいってごらん!」と、ほりつけてありました。
そこで、燈台守は、言われたとおりにいってみました。
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四月九日 土曜日
おだやかな、よく晴れた夜でした。もう、ガンたちは、ほら
穴の中にかくれて眠る
必要はありません。みんなは山の
頂きに立って眠りました。ニールスはそのそばのみじかい
枯れた草の中にねころんでいました。
お月さまが、あかるく
輝いていましたので、ニールスは、ながいこと眠れませんでした。そして、ねころんだまま、家を出てから、もうどのくらいたつだろう、と、ふと思いました。かぞえてみますと、あれからもう三週間になります。すると、こんやは
復活祭の
前夜ということになります。
「ブローキュッラから、
魔女たちが家へやってくるのは、こんやだな。」ニールスはそう思いながら、ちょっと笑いました。というのは、
妖精とか、
小人のようなものは、ふだんからこわがっていましたが、魔女なんてものが、この世の中にいるとは信じていませんでしたから。
こんや、もし魔女がくるとすれば、きっとニールスにも見えるにちがいありません。なにしろ、空はこんなにあかるく晴れわたっているのですから、これでは、どんなにちっぽけな点でも、動いてさえいれば、かならず見えるはずです。
そんなことを、あれやこれやと考えながら、あおむけにねころんで、空を見あげていますと、なんだか、とても美しいものが見えてきました。お月さまは、かなり高いところで、まんまるくあかるく
輝いていました。すると、お月さまのおもてをかすめて、一
羽の大きな鳥が飛んできました。まるで、お月さまの中から飛びだしてきたようです。その鳥の姿は、あかるいお月さまを
背景にして、黒く見えました。ひろげたつばさは、ちょうどお月さまのはしから、はしまでとどいています。からだは小さくて、細長い首と、細長い足をしています。ニールスはすぐに、コウノトリにちがいない、と気がつきました。
まもなく、コウノトリのエルメンリークくんが、ニールスのそばにおりてきました。コウノトリは、からだをまげ、くちばしでニールスをつついて、
起こしました。
すぐに、ニールスは起きあがりました。「ねむっちゃいないよ、エルメンくん、」と、ニールスは言いました。「どうしてこんなよなかに出かけてきたの? グリンミンゲ
城はどんなぐあい? アッカおばさんに
会いたいのかい?」
「こんやは、ねるのにはもったいないくらい、あかるいでしょう、」と、エルメンリークくんは答えました。「だから、
仲よしのオヤユビさんをたずねに、カール島まで飛んできたんです。あなたが、こんや、ここにいらっしゃることは、カモメくんから聞きましたからね。わたしはまだ、グリンミンゲ城へは
移らずに、あいかわらずポンメルンに住んでいるんですよ。」
ニールスは、エルメンリークくんがたずねてきてくれたのを、心から
喜びました。ふたりは、古い友だちどうしのように、つぎからつぎへといろんな話をしました。さいごに、コウノトリは、こんなに美しい
晩なんだから、しばらくいっしょに遊びにいってみないか、と言いだしました。
ニールスは、お日さまののぼるまえに、ガンたちのところへつれて帰ってくれるなら、もちろん喜んでいきたい、と言いました。コウノトリは、そうすると
約束しました。そこで、ふたりは出かけました。
エルメンリークくんは、またもやお月さまをめがけて、まっすぐに飛んでいきました。高くのぼればのぼるほど、海は下へ下へと、沈んでいきました。けれども、コウノトリの飛びかたが、とってもじょうずで、いかにもふんわりとしていましたので、乗っているニールスは、まるで空にじっととまっているような気がしました。
エルメンリークくんがおりはじめて、下へ
着いたとき、ニールスは、こんどはいやに早かったな、と思いました。けれども、ほんとうは、とても遠くまで飛んできたのです。なぜなら、コウノトリは、ニールスをおろしたとたんに、口をひらいて、「ここは、ポンメルンです。あなたは、ドイツにいるんですよ、オヤユビさん。」と、言いました。それを聞いて、ニールスはあきれかえってしまいました。じぶんが外国にきていようなんて、
夢にも知らなかったのですから。ニールスは、すばやくあたりを見まわしました。ふたりは、やわらかい、美しい
砂でおおわれている、さびしい
浜べに立っていました。海べにそって、テンキ草の
生えている
砂丘が、長くつづいています。その砂丘は、あまり高くはありませんでしたが、ニールスには、
陸地のほうが見えませんでした。
エルメンリークくんは、砂丘の上に立って、片足をあげ、頭をうしろにそらせて、くちばしをつばさの下につっこみました。
「わたしが休んでいるあいだ、しばらく浜べをぶらついてきてもいいですよ。」と、コウノトリはオヤユビくんに言いました。「けれども、またここへもどってこられないとこまりますから、あんまり遠くへいっちゃだめですよ。」
ニールスは、まず、むこうの
陸地がどんなふうか見ようと思って、
砂丘の一つにのぼろうとしました。ところが、二、三歩あるいたかと思うと、なにか
固いものが、
木靴の先にぶっつかりました。からだをかがめてみますと、砂の上にすっかりさびついた、小さな
銅貨が、一枚落ちています。でも、あんまりきたないので、ついひろう気にもなれず、足でけとばしてしまいました。
ところが、もう一どからだを
起こしたとき、ニールスは、どんなに
驚いたことでしょう! それもそのはず、
二足とは
離れない目のまえに、高い黒ぐろとした
壁と、大きな
塔のある門が立っているではありませんか。
たったいま、かがんだときには、そこには、たしかに海がキラキラと、なめらかに
輝いていました。それが、いまは、
狭間や
塔のある壁で、かくされてしまっているではありませんか。さっき目のまえには、
海草がうちよせられて、山のようになっていましたが、いまは、そこには大きな門が、ひらかれているのです。
ニールスは、これはきっと、まぼろしみたいなものだろうと思いました。けれども、べつにこわがる
必要はないと思いました。たしかに、これは、
危険な
魔物や
悪魔のようなものではありません。
壁も門も、じつに美しくできています。それで、ニールスも、つい、そのうしろにはどんなものがあるか、見たくてたまらなくなってきました。「よし、こいつはいったいなんだか、見とどけてやろう。」と、思いながら、ニールスは門を通って、はいっていきました。
アーチの下には、ニシキもようの
服装をした
番兵たちが、
えの長いやりをかたわらにおいて、すわりこんで、サイコロ
遊びをしていました。みんなは、遊びにむちゅうになっていましたので、ニールスがそばを
駈けていったのには、すこしも気がつきませんでした。
門にすぐつづいて、大きな
平らな石をしきつめた、
広場がありました。まわりには、高いりっぱな
建物が立ちならんでいて、そのあいだに、せまくて長い通りがありました。
門に面した広場には、人びとがいっぱいいました。見れば、男の人は、しゅすの
着物の上に、
毛皮をふちにつけた長いマントを着て、
はね毛の
飾りのついたぼうしをななめにかぶり、
胸には、世にも美しい
くさりをさげています。どの人もどの人も、すばらしい身なりをしているので、みんな、王さまのように見えます。
女の人たちは、ずきんをかぶり、せまいそでの長い着物をきています。やっぱり美しく着かざってはいますが、とても男の人たちの
華やかさには及びません。
このありさまは、おかあさんがときどき、箱の中からとりだして見せてくれた、
昔のお話の本の中の
絵に
似ています。ニールスは、なかなか、じぶんの目を信じることができませんでした。
けれども、男よりも女よりも、もっともっとふしぎに見えるのは、この
都です。どの家も、
破風が通りに
面するようにつくられています。しかも、その破風が、きらびやかに
飾りたててあって、まるで、どれがいちばん美しいかを、きょうそうしあっているようです。
新しいものを、きゅうにたくさん見ても、それをすっかりおぼえてしまうことは、なかなかできないものです。しかし、ニールスはあとになってからも、
段々のある
破風だけは思いだすことができました。そこには、キリストと
使徒の
像が、
安置されていました。それから、壁のくぼんだところにいろいろの像が置かれている破風や、色ガラスをはめこんだ破風や、白と黒の
大理石でしまをなしている
破風なども、思いだすことができました。ニールスは、すっかり感心して、こういうものをながめていましたが、とつぜん、「こんなものは、まだ、見たことがない。これからも、二どと見ることはないだろう。」と、思いました。そこで、あわてて、町の中へ
駈けだしていって、通りをのぼったりおりたりしました。
通りはせまくて、まっすぐでしたが、ニールスの知っている
都会とはちがって、ここにはいたるところに人がいました。年とった女の人たちは
戸口にすわって、
紡車をつかわずに、ただ一本の糸まき
竿で、糸をつむいでいました。
商店は、ちょうど
露店のようなぐあいに、通りにむかって開いていました。
職人たちは、みんなおもてで仕事をしていました。あるところでは、
魚油をにたてていましたし、またあるところでは、皮をなめしていました。またべつのところでは、なわをなっていました。
もし、時間さえあったなら、ニールスは、いろんな物の
造りかたを、残らずおぼえてしまうことができたでしょう。ニールスは、このほかにも、いろんなものを見ました。たとえば、
宝石師が
ゆびわや
うでわに宝石をちりばめるところや、
挽物師が鉄をあつかうところ、それからまた、
靴屋が赤いやわらかい靴をつくるところや、
金糸工が金糸をぐるぐるまわすところや、
織物師が金や銀を
反物の中に
織りこむところなどを見ました。
でも、立ちどまっているひまはありません。なにもかもが
消えてしまわないうちに、できるだけたくさんの物を見ておこうと思って、ニールスは、どんどんさきへかけていきました。
高い
壁が市のまわりをとりまいていました。ちょうど、小さな
垣が畑のまわりをとりまいているように。どの通りのはしにも、
塔と
狭間のある壁が見えました。そして、その壁の
頂きには、
輝くばかりの
武装をした
兵士が歩いていました。
ニールスが、その都のはしからはしへ走っていきますと、こんどは、ちがった門に出ました。そのむこうには、ひろびろとした海と
港が見えます。港には、まんなかにこぎての席があって前とうしろにへやのある、
古風な船が浮かんでいました。ちょうどいま、あるものは
積荷をし、あるものはいかりをおろそうとしていました。
仲仕や
商人が、いそがしそうに走りまわっていました。そこらじゅうが、がやがやしていました。
けれども、ニールスは、気がせくので、ここにも長くいるわけにはいきません。また、町の中に
駈けもどって、大きな広場にきました。そこには、三つの高い
塔のある。
[#「ある。」はママ]大きな教会が立っていました。その深いまる
天井のあるアーチには、たくさんの
像が置かれていました。そこの壁は、美しい
彫刻がほどこされていて、一つ一つの名も、みんなとくべつに
飾りをつけられています。そして、その開いた門から見えるすばらしさには、ただ、ただ驚くばかりでした。金の
十字架、金で飾りたてた
祭壇、金の
衣を着た
僧侶たち! 教会のまむかいには、ギザギザのある屋根を持った建物がありました。その屋根の上には、塔が一つ、空にむかってスラリと高くつきでていました。それはたぶん、
市役所でしょう。教会と市役所のあいだには、広場をとりかこんで、さまざまの
飾りのついた、見るも美しい
破風のある家々が立ち
並んでいました。
ニールスは、あんまり駈けまわりましたので、あつくなって、くたびれてきました。もう町の中のいちばんすてきなものは見てしまったんだから、これからは、もうすこし、ゆっくり歩こうと思いました。やがて、ある通りにまがっていきました。そこは、町の人たちが美しい
布を買うところのようでした。見れば、おおぜいの人たちが、小さな店の前に集まっています。商人は、金
らんや、かたい
しゅすや、おもたい
にしきや、ピカピカしたビロードや、うすいヴェールや、クモの
巣のようにすきとおったレースなどをひろげていました。
さっき、早く走っていたときには、だれひとり、ニールスには
注意をはらいませんでした。みんなは、ちっぽけなネズミが、ちょこちょこ
駈けまわっているのだろうぐらいに思っていたのです。ところがいま、ゆっくりと通りを歩いていきますと、商人のひとりが、ニールスの姿を見つけて、手まねきしました。
ニールスは、さいしょはこわくて、思わず
逃げだそうとしました。けれども、商人はニコニコしながら手まねきしては、ニールスの気をひこうとするように、美しい
絹ビロードを、台の上にひろげてみせました。
ニールスは、頭をふりました。そして、「ぼくなんか、いつまでたっても、そんな
布は一ヤードだって買えやしないんだ。」と、心に思いました。
ところが、こんどは、通りにならんでいる店の人たちも、みんなニールスの姿を見つけました。目のとどくかぎり、どこにもかしこにも商人が立って、手まねきしています。みんなは、りっぱなお客のことは忘れてしまって、ニールスにばかり気をとられているのです。見ていますと、
商人たちは店のすみっこに走っていっては、いちばんいい品物を持ってきて、それを台の上にならべながら、むちゅうになって手をふっているのです。
ニールスは、かまわずどんどん歩いていきました。すると、商人のひとりが、台をとびこえてきて、ニールスをひきとめました。そして、
銀いろの
布や、まぶしいほどピカピカ光る美しいもうせんを、ニールスの目の前にひろげてみせました。
ニールスは、ただ、ニコニコするよりほかはありませんでした。ニールスのような、ちっぽけな、まずしいものには、そんな品物を買うことができないぐらい、わかりそうなものです。ニールスは、立ちどまって、じぶんはなんにも持っていないから、このままいかせてくれということを、みんなに知らせようと思って、からっぽの両手を、ひらいてみせました。
すると、商人はうなずいて、指を一本あげてみせながら、その美しい品物の山を、ニールスのほうにつきだしました。
「この人は、
金貨一枚で、これをみんな売るっていうんだろうか?」と、ニールスは思いました。
と、商人はおっそろしく小さな、すりへった
銅貨を一枚とりだして、ニールスに見せました。そして、なんとかして売ろうと、むちゅうになって、さらに、大きなおもたい銀のさかずきを二つ、その山につけ加えました。
ニールスは、ポケットの中をさぐりはじめました。もちろん、銅貨一枚持っていないことは、しょうちしきっているのですが、思わずしらずそうしてみたのです。
ほかの商人たちは、このあきないがどうなることかと、じっと
見守っていました。そして、ニールスが、ポケットの中をさがしはじめたのを見ますと、みんなは、じぶんの店にとんで帰って、金や銀の
装飾品を手に持てるだけ持ってきて、ニールスのまえにならべてみせました。そして、
銅貨一枚くれれば、これをみんなあげるということを、手まねで知らせました。
ニールスは、チョッキのポケットからズボンのポケットまでひっくりかえして、なんにも持っていないことを、商人たちに見せました。と、どうでしょう。ニールスよりも、ずっといい身なりをしているこの商人たちの目には、みるみるうちに
涙があふれてきました。みんなが、あんまり
悲しんでいるようすなので、ニールスも、すっかり心を動かされました。そして、どうにかして助けてやれないものだろうかと考えこみました。すると、ついさっき、
浜べで見た、さびだらけの
銅貨のことを、ふっと思いだしました。
ニールスは、すぐさま通りを
駈けおりていきました。すると、
運よく、さいしょにはいった門のところに出ました。大いそぎでそこを通りぬけて、さっきあった小さな銅貨をさがしはじめました。
すぐに見つかりました。ところが、それを
拾いあげて、町の中へ
駈けもどろうとしたとたんに、これはまた、どうしたというのでしょう。目のまえに見えるものは、ただ海ばかりで、もはや
壁もなければ、門もありません。
番兵の姿も見えなければ、通りも、家も見えません。ただ、海がひろがっているばかりです。
ニールスの目には、思わず
涙がうかんできました。さいしょのうちは、じぶんがいま見たものは、まぼろしであったろうと思っていましたが、それもまもなく忘れてしまいました。ただ、なにもかもが美しかったということだけが、思いだされるのでした。そして、
都がとつぜん消えてしまったいまは、口で言いあらわせないほどの深い悲しみをおぼえるのでした。
そのとき、コウノトリのエルメンリークくんは目をさまして、ニールスのところへいきました。けれども、ニールスは、コウノトリの来たことに気がつきませんでした。そこでコウノトリは、気づかせるために、くちばしでニールスをつつきました。
「あなたはここに立って、わたしのように眠っていたんですね。」と、エルメンリークくんは言いました。
「ああ、エルメンリークくん、」と、ニールスは言いました。「いまさっき、ここにあった
都はなんだったの?」
「都を見たんですって?」と、コウノトリは言いました。「あなたは眠って、
夢を見ていたんですよ。」
「いいや、眠ってなんかいなかったよ。」と、オヤユビくんは言って、いま見たことを、のこらず、コウノトリに話して聞かせました。
すると、エルメンリークくんはこう言いました。「わたしの考えではね、オヤユビさん、やっぱりあなたはこの
浜べで眠って、いまのことをみんな、夢にみたんだと思いますね。そのわけを、いまお話ししましょう。じつは、鳥の中でいちばん物知りのバタキーというカラスが、わたしにこんなことを話してくれたことがあるんですよ。むかし、この浜べには、ヴィネータという名まえの
都があったそうです。その都は世界じゅうのどんな都よりもお金があって、りっぱでした。ところが、ふしあわせなことには、その
住民たちがだんだん、こうまんちきになって、はでなことがすきになったんです。バタキーの話では、その
ばちがあたって、ヴィネータの都は、
洪水のために海の
底に沈められてしまったそうです。けれども、その
住民たちはそのままで、死んではいませんし、その都にしても、やっぱりほろびてはいないんです。そして、百年めに一どずつ、むかしのままの
華やかなありさまで、海の底から浮かびあがってきて、かっきり一時間だけ、この
浜べにじっとしているんです。」
「うん、その話はほんとうにちがいない。」と、オヤユビくんは言いました。「だって、ぼく、それを見たんだもの。」
「ところが、その一時間のあいだに、ヴィネータの商人が、だれかに品物を売ることができなかったばあいには、その時間がすぎると、また都は、海の底に沈んでしまうんですよ。だから、もしもあなたがね、オヤユビさん、ほんのちっぽけな
銅貨でも持っていて、商人に
払ってやることができたら、ヴィネータはいつまでもこの浜べにとどまっていて、そこの住民たちも、ほかの人間たちと同じように、一生を
暮らして、死ぬことができたでしょうよ。」
「ああ、エルメンリークくん、」と、ニールスは言いました。「どうしてきみが
真夜中にやってきて、ぼくをつれだしたのか、いまになって、やっとわかったよ。ぼくがあの古い都を
救ってやれると、きみは思っていたんだね。だけど、きみの思うように、うまくいかなくって、ほんとうにざんねんだよ。」
ニールスは両手で顔をおおって、泣きだしました。ニールスとエルメンリークくんのどちらが、よけい
悲しそうだったか、それはちょっと言うことができません。
四月十一日 月曜日
復活祭の月曜日に、ガンたちとオヤユビくんは、また旅に出ました。そしてこんどは、ゴットランド
島の上にきました。
この大きな島は、みんなの下に
平らによこたわっています。地上は、スコーネと同じように
市松もようで、
教会や
農園がたくさんあります。ただスコーネとちがうのは、ここには畑のあいだに草の
茂った
牧場が多いのと、
農家が庭をとりかこんでつくられてはいないことです。それから、このゴットランド島には、たくさんの
公園や、高い
塔をもった、古いお
城のある大きな
荘園もありません。
ガンたちは、オヤユビくんのために、ゴットランド島の上を通ることにしたのです。なにしろ、オヤユビくんはもう二日のあいだしおれきっていて、ろくに口もきかなかったのですからね。あんなにもふしぎに、目の前にあらわれてきた古い都のことが、頭にこびりついていて、どうしても忘れることができなかったのです。ニールスは、いままであんなにりっぱな美しいものを見たことがありませんでした。そして、それを
救ってやれなかったのが、ざんねんでたまりませんでした。いつもはそんなにクヨクヨする子どもではありませんでしたが、いまはあの美しい建物や、りっぱな人たちのために、心から悲しんでいるのでした。
アッカとガチョウは、口ぐちに、そういうものはみんな夢かまぼろしなんだと言ってきかせましたが、ニールスは、そんなことばには、耳をもかそうとはしませんでした。ニールスは、だれがなんと言っても、じぶんの目で、あの都をたしかに見たんだと信じきっているのです。けれども、ニールスがあんまりひどく
悲しんでいるので、仲間のガンたちも、オヤユビくんのことが心配になってきました。
ニールスが悲しみにしずんでいたとき、とつぜん、年とったカクシが
戻ってきました。カクシは、
嵐のためにゴットランド島のほうへ吹き流されて、みんなのいどころをさがすために、その島じゅうを飛びまわらなければなりませんでした。そして、やっと、カラスから、みんなが小カール島にいるということを聞いて、
飛んできたのです。そして、オヤユビくんが、ゆううつになっていることを聞きますと、すぐさま、こう言いました。
「オヤユビさんが、古い都のことで悲しんでいるのなら、すぐに、なぐさめてあげられますよ。わたしについていらっしゃい。きのう、わたしの見たところへつれていってあげれば、すぐに気がはれますよ。」
それから、ガンたちは、
羊たちにわかれをつげて、カクシがオヤユビくんに見せたいという場所へ、いま、むかっているところでした。オヤユビくんは、しょげかえってはいましたが、それでも、いつものように、下を見おろさずにはいられませんでした。
ニールスは、さいしょのうちは、この島も小カール島とおなじように、――もちろん、小カール島よりは、ずっとずっと大きいけれども――けわしい
絶壁をなしているように思いました。しかし、あとになって、この島は、ひらたくなっていることを知りました。ちょうど、
のし棒で
ねりこのかたまりをのすように、きっと、だれかが大きな
のし棒で、この島の上をのしたものでしょう。でも、それがおせんべいのようにすっかりひらたくなるまで、のしつづけたわけではありません。というのは、ガンたちが海岸にそって飛んでいるあいだに、ほら
穴や
岩柱のある、白い
石灰質の高い
壁も、あちこちに見えました。けれども、この島は、たいていのところがたいらで、浜べもなだらかに、だんだん海のほうへさがっていっています。
みんなは、ゴットランド島で、月曜日の午後を
楽しくのどかにすごしました。いまは
陽気もすっかり春らしく、あたたかくなっていました。木々には、大きな
芽がもえだし、
牧草地には、いちめんに春の花が
咲きだしていました。ポプラの木の、ほっそりと長く
垂れた枝は、ゆらゆらとゆらめいていました。どの家のまわりにも、小さな庭が見えましたが、そこには、スグリの茂みが青々としていました。
あたたかな
陽気と、もえだした芽や花が、人びとを庭や道にさそいだしました。いく人かが集まりますと、きまって、そこでは
遊戯がはじまりました。子どもたちばかりでなく、おとなまでもいっしょに遊びました。
的をきめて石をぶっつける
競争をしたり、ガンたちにとどくくらい空高く、ボールをほおり投げたりしました。おとなたちが、そうやって遊んでいるのをながめるのは、ほんとうに気もちのいい、
楽しいものです。ニールスも、あの古い都を
救うことができなかった悲しみを忘れることができたなら、きっと、
喜んだことでしょう。
それにしても、ニールスは、この旅がすてきな旅だと思わずにはいられませんでした。いくさきざきで、楽しそうな歌声がひびいてきます。子どもたちは、まるく
輪になっておどりながら歌っていました。とある木の
茂った
丘では、黒や赤の着物を着た人たちが、おおぜいすわって、ギターをかなでたり、ラッパを吹いたりしていました。また、ある通りでは、おおぜいの人たちが歩いてきました。それは、楽しい
遠足をしている、
禁酒会員たちでした。ニールスは、
金文字で書いた大きな
旗がヒラヒラしているのを見て、すぐにそれとわかりました。その人たちは、いつまでもいつまでも、歌っていました。
それからのち、ニールスは、ゴットランド島というと、いつも
遊戯と歌とをいっしょに思いだすのでした。
ニールスは、長いあいだ下を見おろしていましたが、ふと、目をあげてみました。いや、そのおどろいたこと! いつのまにかガンたちは島の内部をはなれて、西にむかい、海岸に来てしまっているのです。いまは、ひろびろとした青い海が、目の前にひろがっているではありませんか! けれども、ニールスがおどろいたのは、海ではなくて、その海岸にあらわれてきた町です。
ガンたちのむれは、東から飛んできました。お日さまは、いま、西に
沈もうとしています。みんなが、その町に近づいたとき、町の
壁や、塔や、
破風のある高い家々や、
教会などが、あかるい夕空を
背景にして、くっきりと、黒く、浮かびあがって見えました。そのためニールスには、この町が、ありのままの姿には見えないで、ほんのちょっとでしたが、まるで、
復活祭の
前夜に見た、あの都と同じように美しいような気がしました。
ところが、その町のすぐ近くまで来てみますと、それは、あの海の
底から浮かびあがった
都に
似てもいますし、また、似てはいないようにも思われます。この二つの町をくらべてみますと、それはちょうど、人が、ある日には、むらさきの
着物と
宝石とで身をかざり、また、ある日には、
ぼろにくるまっているのを見るのと、おなじようなものです。
そうです、この町も、いつかは、あの海べで見た海の底の都のようだったこともあるでしょう。じっさい、この町も、
塔や門のある
壁で、とりかこまれています。しかし、この町は、こうして地上にとどまることをゆるされてはいますが、この町の塔には屋根がなくて、うつろで、がらんとしています。門にはとびらもないし、
番兵や、
兵士の姿も見えません。きらびやかな
華やかさは、すっかり影をひそめて、ただ、はだかの
灰色の
骨組が、残っているばかりです。
ニールスは、この町の上まで飛んできたとき、大部分の家が、小さな低い
木造の家であることに気がつきました。むかしのままの、高い
破風のある家や、教会は、二つ三つ、あちこちに立っているだけでした。破風のある家々は、白くぬられていて、なんの
飾りもついてはいませんでした。けれども、ニールスは、ついきのうの
晩、あの海の底に沈んだ都を見たばかりでしたから、それらの家々が、あるものは
彫像で、またあるものは黒や白の
大理石で、かざられていたにちがいないと思いました。
古い教会にしても、おなじことでした。たいていのものが屋根はなく、中はがらんとしていました。
窓口は
荒れはて、
床石はこわれて、草がぼうぼうと
生え、
壁にはツタが一めんにからみついていました。しかし、ニールスには、これらの教会が、むかしはどんなふうだったか、
想像してみることができました。壁には
彫刻がほどこされ、絵がかざりつけられていたことでしょう。
内陣には、
祭壇や、金ピカの
十字架が、立っていたことでしょう。そしてそこには、金の
衣をまとった
僧侶たちが、歩いていたことでしょう。
ニールスは、せまい町の門も見ました。そこには、
祭日の午後だというのに、人の姿はほとんど見えません。でもニールスは、むかしは、りっぱに着かざった人たちが、おおぜいいたことを知っていました。それから、こういう門が、むかしは、あらゆる
種類の
職人のいっぱいいる、
仕事場のようなものであったことも、ちゃんと知っていました。
けれども、この町が、いまもなお美しく、しかも、めずらしいものだということには、ニールスは、すこしも気がつきませんでした。ピカピカした
窓ガラスのうしろに、テンジクアオイのある、
裏通りのこじんまりとした家は、ニールスの目には、はいりませんでした。それらの家は、
黒い
壁にかこまれて、白くふちどられていました。それから、たくさんの美しい
庭園や
並木道も、また、草におおわれた
廃墟のすばらしさも、ニールスの目にはうつりませんでした。なにしろ、ニールスの心は、ゆうべ見た、あの
華やかな
都のありさまで、いっぱいでしたので、目の前にあるものの美しさは、なにも
認めることができなかったのです。
ガンたちは、町の上を二ど三ど、いったりきたりしました。オヤユビくんに、なにもかも、すっかり見せようというのです。とうとうしまいに、ガンたちは、
教会のあとの、草の
生えた
床の上におりて、そこで、
一晩をすごすことにしました。
ガンたちが、ねむってしまってからも、オヤユビくんは、長いあいだ、目をさましていました。そして、こわれた
天井から、うすもも色の
夕空を、ながめていました。こうして、しばらくもの思いにしずんでいましたが、やがて、あの海の
底の都を、
救うことができなかったからといって、もう、なげくのはよそう、と、心にきめました。
そうだ、もう、なげくのはよそう。ゆうべ見た、あの都も、もし、海の底に沈まなかったとしたら、しばらく時がたつうちには、たぶん、この町とおなじように、
荒れはててしまったろう。そして、あの都も、きっと時の流れにはさからえないで、しまいには、この町とおなじように、屋根のない教会、
飾り一つない家、人の姿も見えない通りとなってしまったろう。それならば、
華やかな姿のままに、海の底深くしずんでいるほうが、かえっていい。
「なるようになったのが、いちばんよかったんだ。」と、ニールスは、心に思いました。「もし、ぼくに、あの都を
救える力があったとしても、いまとなっては、もうとても、救う気にはなれない。」
ニールスは、それからはもう、このことについては、
悲しみませんでした。
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四月十二日 火曜日
ガンたちは、海の上をかなり飛んで、
北部スモーランドのユスト地方におりました。この地方は、
陸になりたいのか、それとも、海になりたいのか、どっちとも、心をきめかねているようでした。つまり、いたるところに
湾がいりこんでいて、それが陸地を、島やら、
半島やら、
岬やらにきりわけているのです。海の力が、ひじょうに強いために、低いところは、すっかり水の下にかくされてしまって、わずかに、
丘や山だけが、海の上につきでています。
ガンたちが、海のほうからやってきたときは、夕がたでした。
小高い丘になった陸地は、キラキラ光る湾のあいだに、美しくよこたわっていました。あちこちの島々には、小屋や小さな家が見えました。そして、
奥へ進んでいくにつれて、家々も大きく美しくなりました。しまいには、大きな白いお
屋敷も見えてきました。海岸にそって、木々が立ちならんでいました。そのむこうには、畑がありました。小さな丘の上にも、木々が立っていました。それを見ているうちに、ニールスは、おもわず、ブレーキンゲを思いだしました。そこでも、ブレーキンゲとおなじように、陸と海とが、おたがいの持っている、いちばんいい、いちばんすばらしいものを、見せあおうとでもするように、こんなにも美しく、こんなにもなごやかに、むかいあっているのです。
ガンの仲間たちは、「ガン
湾」にある、草も木も
生えていない島におりました。みんなは、
岸べをひとめ見て、あちこちの島にいっているあいだに、春がだいぶ深まったことがわかりました。大きなりっぱな木々は、まだ葉をつけてはいませんが、その下の
地面には、白、黄、青の、色とりどりの春の草花が
咲いています。
ガンの仲間たちは、この花の
敷物を見たとき、びっくりしました。南部地方で、すこしぐずぐずしすぎたと思ったのです。
そこで、アッカは、「スモーランドでやすんでいるひまはないから、あしたの朝すぐに、エステルイエートランドをこえて、北にむかって旅をつづけなければならない」と、みんなに言いました。
これでは、スモーランドはなにも見られないことになってしまいます。ニールスは、それがざんねんでたまりませんでした。というのは、まえからスモーランドのことは、ほかの地方よりも、ずっといろいろ話に聞いていたからです。で、ニールスは、ぜひとも、じぶん自身の目で見たかったのでした。
きょねんの夏、ニールスは、うまれ
故郷に近いヨルドベリヤの近くの、ある
農家で、ガチョウ
番にやとわれていました。そのとき、ほとんどまいにちのように、やっぱりガチョウの番をしている、スモーランドうまれのふたりの子どもに出あいました。その子どもたちは、スモーランドのことで、たびたび、ニールスをおこらしたものでした。
もっとも、ねえさんのオーサが、ニールスをおこらせたわけではありません。この子は、りこうな子で、そんなことはしませんでした。ところが、弟のマッツのほうは、どうにもしようのない、いたずらっ子でした。
「おい、ニールスくん、きみは、スモーランドとスコーネが、どんなふうにしてできたか、知ってるかい?」と、マッツはたずねたものでした。そして、ニールスが知らないと答えますと、すぐに、スモーランドのむかしからの言いつたえを話しはじめました。
「じゃあ、話してやろう。いいかい、
神さまが世界をおつくりになっていた時のことだぜ。神さまが、その仕事をなさっているところへ、
聖ペテロが通りかかったんだ。ペテロは立ちどまって、ながめていたけれど、まもなく、それは
骨のおれるお仕事ですか、と、きいたんだ。すると、神さまは、『うん、そんなにやさしくはないね。』と、お答えになったのさ。ペテロは、しばらくそこに立って見ていたんだ。神さまが、いかにもやすやすと、陸地をつぎからつぎへとおつくりになるのを見ているうちに、じぶんでもやってみたくなった。そこで神さまにむかって、『ちょっとお休みになってはいかがでしょう。そのあいだ、わたくしがかわりに、お仕事をいたしておりますから。』と、言ったんだ。でも、神さまは、そうさせたくはなかったので、『おまえにまかせておけるほど、おまえの
うではたしかかな。』と、お答えになったのさ。すると、
聖ペテロは
腹をたてて、わたしだって、神さまとおなじように、りっぱな土地をつくることができます、と、言ったんだ。
そのときは、ちょうど神さまが、スモーランドをこしらえていらっしゃるところだった。まだ、半分もできてはいなかったけれど、ひじょうに美しい、よく
肥えた土地になるように見えた。ところで、神さまは、ペテロにいけないと言うのもかわいそうだと思われたんだ。それに、こんなにうまくできかけているんだから、だれがやっても、できそこなうようなこともあるまいと思われたんだね。そこで、『それなら、おまえとわしのどちらがうまくやるか、ひとつ、ためしてみようではないか。おまえは、はじめてだから、わしのやりかけたあとを、つづけてやるがいい。わしは、新しい土地をつくることにするから。』と、言われた。ペテロは、すぐにしょうちして、ふたりは、めいめいの場所で、それぞれ仕事にかかったんだ。
神さまは、すこし南へいかれて、スコーネをつくりはじめたけれど、すぐに、つくりあげてしまった。そこで、こんどは、ペテロにむかって、おまえの仕事はおわったか、と、たずねられ、新しい土地を見にきてはどうか、と、言われた。すると、ペテロは、『はい、とっくにできあがっております。』と言ったけど、その声の
調子からみると、ペテロは、じぶんのやった仕事に、いかにもまんぞくしているようだった。
ペテロは、神さまのこしらえたスコーネをながめたとき、じつによくできていると感心した。
耕すのにもってこいの、よく
肥えた土地で、山というようなものは、ほとんどない。見わたすかぎりが、平地なんだ。人間がそこに住んで、気もちよくくらすことができるようにとのお考えから、神さまがこしらえられたことは、はっきりしていた。ペテロは、『ほんとうに、これはよい土地ですね。けれども、わたしのつくったほうが、もっといいと思います。』と、言った。『それでは、それを見ようではないか。』と、神さまがおっしゃった。
その土地は、ペテロが仕事をはじめたときには、もう北と東は、できあがっていたんだ。だから、南と西とまんなかが、ペテロのこしらえたものだったのさ。ところが、神さまは、その土地をごらんになったとたんに、びっくりなさって、『いったい、おまえは、なにをこしらえようというのだ?』と、おっしゃった。
そう言われて、ペテロもあたりを見まわして、じぶんでも、
驚いてしまった。さいしょ、ペテロのつもりでは、あたたかい土地をつくるのが、いちばんいいだろうと思ったんだ。そこで、たくさんの石をつみあげて、高地をきずきあげた。つまり、こうすれば、
太陽に近くなるから、それだけ、太陽の熱をたくさん受けられるだろうと思ったわけさ。そして、そのつんだ石の上に、ペテロは、すこしばかり土をかけて、これで、すべてがうまくいくものと思いこんでいたんだ。
ところが、ペテロが、スコーネにいっているあいだに、ものすごい
夕立が、二どばかりあったんだ。そのために、せっかくペテロのやった仕事が、台なしになってしまったのさ。神さまが、おいでになって、ごらんになったときには、土はすっかり洗い流されてしまい、いたるところに、はだかの
石肌があらわれているというしまつなんだ。いちばんいいところでも、岩の上に
ねんどやおもたい
砂利があるくらいのもので、とにかく、見るからにひんじゃくだった。だから、ここには、植物にしても、せいぜい、ネズとか、エゾマツとか、コケとか、ヒースぐらいのものしか
生えないだろうということは、
一目でわかったほどさ。ところが、水だけは、じつにたくさんあった。山の
裂けめという裂けめに、みちあふれていたんだ。どこにもかしこにも、
湖や川や小川がある。もちろん、
沼や
沢もひろびろとひろがっている。しかし、なによりもまずいのは、ある地方では水が多すぎるっていうのに、ある地方では少なすぎるっていうことさ。なぜって、水の少ない地方では、
田畑が、かわききった荒れ地のようなありさまで、ほんのちょっとでも、風が吹こうものなら、たちまち土や砂が、もうもうとまきあがってしまうんだもの。
『いったい、どういうつもりで、こんな土地をこしらえたんだね?』と、神さまがおききになった。すると、ペテロは、じつは、土地を高くきずいて、太陽の熱をたくさん受けるようにしたいと思ったのです、と、いいわけをした。
『だが、それなら、夜の
冷気も、たくさん受けることになるね。』と
[#「と 」はママ]神さまはおっしゃった。『夜の冷気も、やはり、空からおりてくるんだからね。ここに
生える、わずかなものも、
凍ってしまやしないだろうか。』
こういうことは、たしかに、ペテロは考えてもいなかった。
そして、神さまは、『ここは、
霜のよくおりる、やせた土地になるだろう。しかし、いまさら、どうすることもできない。』と、おっしゃったんだ。」
マッツが、ここまで話したとき、ねえさんのオーサが、ことばをはさみました。「あたし、たまらない! だって、あんたの話を聞いてると、スモーランドは、とてもみじめな土地みたいだもの。あんたは、あそこにも、いい土地がたくさんあるのを忘れているのね。まあ、カルマール
海峡のところの、メーレ地方を思いだしてごらん! あそこぐらいよく
肥えた土地って、どっかにある? あそこにも、このスコーネとおなじように、畑がいっぱいあるじゃないの。それに、とってもいい土地なんだから、どんなものだって、きっとそだつと思うわ。」
「だって、しようがないよ。」と、マッツが言いました。「ぼくは、ひとから聞いた話をしているだけなんだもの。」
「それにね、あたしは、ユストのように美しい海岸は、どこにもないって、おおぜいの人たちが言ってるのを聞いたわよ。ほら、あの
湾や、島や、
荘園や、森を考えてごらんよ。」と、オーサは言いました。
「うん、ほんとにそうだね。」と、マッツは言いました。
「それから、あんたは、先生のおっしゃったことをおぼえてないの? ほら、ヴェッテルン
湖の南の地方のように、いきいきとした、
絵のように美しいところは、スウェーデンじゅうどこをさがしてもないって、おっしゃったじゃないの。あの美しい湖や、岸ぞいの黄色の山々や、マッチ
工場のあるエンチェーピングや、ムンク湖を思いだしてごらん。それから、フースクヴァルナや、あそこにある大きな工場もさ!」と、オーサはつづけて言いました。
「うん、ほんとにそうだ。」と、マッツはもう一ど言いました。
「それから、まだまだあるわよ。ほら、あのヴィシングエー。あそこには
廃址や、カシワの森や、むかしの言いつたえがあったわね。それから、エム川の流れている、あの谷も思いだしてごらん。村や、
製粉所や、
製材所や、
指物工場があったでしょう!」
「うん、ほんとにそうだ。」マッツは、こまったような顔をしながら、またまた、こう言いました。
そのとき、とつぜん、マッツは顔をあげて、さけびました。「そうだ、ぼくたち、うっかりしてたんだ。それはみんな、もちろんスモーランドにあるよ。それも、ペテロが仕事をはじめるまえに、神さまが、おつくりになった土地のほうにね。だから、そこが美しくてりっぱなのも、あたりまえなんだ。けれども、ペテロのこしらえたスモーランドのほうは、やっぱり、言いつたえにあるとおりさ。だから、神さまが、それをごらんになったとき、悲しまれたのも、むりないんだ。」マッツは、さっきの物語の
糸口を見つけて、また、話をつづけました。「ペテロは
失敗したけれども、気をおとさずに、かえって、神さまをなぐさめようとして、『そんなに
悲しまないでください! しばらく待ってくだされば、わたしが、
沼地をたがやし、石だらけの山をきりひらいて、畑にする人間をつくりますから。』と、言った。
けれども、神さまは、もうがまんができないので、こうおっしゃった。『いや、おまえは、わしが
肥えた、よい土地にこしらえたスコーネにおりていって、スコーネ人をつくるがいい。スモーランド人は、わしがつくるから。』そこで、神さまはまずしい土地でも、
暮らしをたてていくことができるように、
賢くて、まじめで、しかもほがらかで、
勤勉で、役にたつスモーランド人を、おつくりになったのさ。」
ここまで話すと、マッツは、いつもだまりこんでしまうのでした。そして、ニールス・ホルゲルッソンも、だまっていれば、何ごともなかったでしょう。ところがニールスは、ペテロのほうは、うまくスコーネ人がつくれたかどうかと、きかずにはいられないのでした。
「ふん、きみは、じぶん
自身をどう思うね?」と、マッツは、いかにもばかにしきった顔つきでたずねました。ニールス・ホルゲルッソンは、もう、がまんができません。たちまちマッツにおどりかかって、なぐりつけようとしました。けれども、マッツはまだ小さい子です。と見るより早く、一つ年上のオーサが、すばやく
駈けよってきました。オーサは、ふだんはおとなしい子ですが、だれかが弟に手をかけようとすると、たちまち、ライオンのように
怒るのでした。
ニールス・ホルゲルッソンは、女の子とけんかをする気にもなれません。それで、そっぽをむいて、その日は一日じゅう、このスモーランドうまれの子どもたちのほうは、見むきもしないのでした。
[#改ページ]
スモーランドの
西南のはしに、スンネルブーという地方があります。そこは、ずっと平地になっています。ですから、冬、雪におおわれているときには、だれでも、その雪の下には、ほかの
平地とおなじように、
休閑地や、ライムギ
畑や、クローヴァの
生えた
牧場があるものと思います。ところが、四月のはじめになって、この地方の雪がとけてしまいますと、雪の下にかくされていたものは、かわいた、砂だらけの
荒れ地と、はだかの岩と、大きな
沼地ばかりであることがわかります。畑もあっちこっちにありはしますが、とても小さなものなので、とくにとりたてて言うほどのものではありません。それから、赤や
灰色の小さな
農家も、ところどころに見られますが、まるで人に見られるのをこわがってでもいるように、たいていのものがブナの森の中にかくれています。
スンネルブー地方が、ハルランドと
接するところには、
砂だらけの
荒れ地がひろがっています。そこは、はしからはしまで見とおすことができないくらい広いものです。この荒れ地には、ヒースのほかは何も
生えていません。ですから、ここにほかの植物を
茂らせるのは、たいへんなことでしょう。そのためには、まず第一に、ヒースを根だやしにしなければなりません。ヒースというのは、根も枝も葉もちっぽけで、ちぢこまっているくせに、まるでじぶんでは一
人まえの木のようなつもりでいるのです。だから、ほんとうの木のように、まるで森みたいに、そこらじゅうにひろがって、しかも、しっかりとかたまっているので、その
荒れ地の中にはいってくる木は、どんなものでもみんな
枯らされてしまうのです。
この荒れ地の中で、ヒースのはびこっていないところが一つだけありました。そこは、荒れ地をよこぎっている、低い、石だらけの山地でした。そこには、マツ林があり、また、ナナカマドや、大きな美しいブナの木も数本
生えていました。ニールス・ホルゲルッソンがガンたちといっしょに旅をしていたときは、そこには一
軒の小屋があって、そのまわりの土地は、すこし
耕されていました。けれども、その小屋に住んでいた人たちは、なにかわけがあって、よそへひっこしてしまっていました。だから、いまはその小屋は住む人もなく、また土地も使われてはいませんでした。
この小屋に住んでいた人たちは、立ちさるときに、
用心ぶかく、かまどのふたをし、
窓をしめ、戸に
錠をおろしました。けれども、
窓ガラスのわれめが、
ぼろでふさいだだけになっているのには、気がつきませんでした。そののち、
夕立が二どあって、その
ぼろが、ちぢんでしまったところへ、カラスがやってきて、とうとうそれをつつき
落してしまいました。
荒れ地の中にあるこの山地は、人が
想像するほど、さびしくはありません。なぜかといいますと、そこにはたくさんのカラスたちが住んでいるからです。といっても、もちろん一年じゅう、そこに住んでいるわけではありません。つまり、カラスたちは、冬には
外国へいきます。そして秋には、イエートランドじゅうの
穀物畑を、つぎからつぎへと飛びまわっては、穀物をひろいます。それから夏のあいだは、スンネルブー地方の
農場にちらばって、卵や、草木の
実や、小鳥などをたべて生きています。けれども、
巣ごもりをする春になると、このヒースの
生えている荒れ地の中に帰ってくるのです。
窓ガラスのぼろをつつき
落したのは、白い
はねのガルムという名まえのカラスでした。けれども、このカラスのことをちゃんと名まえどおりに、ガルムというものはひとりもなく、みんなノロ
公ノロ公と呼んでいました。なぜなら、このカラスは、いつも、まのぬけた、へまなことばかりやっていたからです。ノロ公は、ほかのカラスよりも、からだも大きく、力もありましたが、そんなことはなんの役にもたちませんでした。みんなからはバカにされて、いつも笑いものになっていました。それから、ノロ公がたいへんにいい家
がらの出だということも、やっぱりなんの役にもたたないのでした。ほんとうなら、ノロ公がこのカラスの一むれのお
かしらになるはずでした。というのは、大昔から、
白はね族の一ばん年上のものが、この
名誉をになうはずになっていたのです。ところが、ノロ公の生まれるだいぶまえから、この
権力が白
はね族の手をはなれて、アラシという、ざんにんな野ガラスにうばわれてしまっていたのです。
このように、権力が白
はね族からアラシの手にうつったということは、じつは、カラス山のカラスたちが、生活のしかたをかえることにきめたということを物語っているのです。おそらく、たいていの人が、カラスというものは、みんなおなじような生活をしているものと思うでしょう。ところが、ほんとうは、そうではありません。つまり、中にはりっぱな生活をしているものもあって、そういうカラスたちは、
穀物とか、虫とか、死んだ動物とかいうようなものだけをたべているのです。ところが、いっぽうには、まったく
盗みばかりをはたらいて
暮らしているような、ひどいやつらもあるのです。そういうのは、ウサギの赤んぼうや小鳥をさらったり、鳥の
巣を見つけしだいにおそったりするのです。
むかしの白
はね族は、ぎょうぎがよくて、げんかくでした。だから、白
はね族のものがお
かしらだったころは、カラスたちは、ほかの鳥から
悪く言われないように、ふるまわなければなりませんでした。ところが、カラスの数はふえてきますし、それに、だんだん、
貧乏になってきました。そこで、いままでのように、ぎょうぎのいい生活をしていることができなくなって、やがては
白はね族にもそむき、ついに、
極悪このうえもない、大どろぼうのアラシに
権力をあたえてしまったのです。ところが、その
妻君のハヤテというのが、アラシよりもさらにひどいやつときているのです。こうして、カラスたちは、この
夫婦の
手下になって、いまでは、タカよりもフクロウよりも、ほかの鳥からおそれられているような生活をはじめたのです。
もちろん、白い
はねのノロ
公などはもんだいにもされませんでした。カラスたちは、口ぐちに、ノロ公は
先祖にはちっとも
似ていない、とうていお
かしらになる
がらではない、と言いました。だから、ノロ公がいつも、まのぬけたことばかりやらなかったら、たぶんだれも目もくれなかったでしょう。りこうもののカラスたちは、ときどき、「ノロ公があんなに
あほうなのは、ノロ公のためにはかえってしあわせなんだ。」と言いました。さもなければ、お
かしらの家
がらに生まれついているんだから、きっとアラシとハヤテのために、追いだされてしまったろうというのです。
ところが、いまでは、そのはんたいに、アラシ
夫婦はノロ公にたいして、いくらか
親しみをもつようになっていました。そして、よそへどろぼうをしにいくときには、いつもいっしょにつれていきました。もっとも、そうすれば、じぶんたちが、とんまなノロ公よりもずっとりこうで、
勇敢なことを、みんなに見せてやることができたわけです。
窓ガラスの
ぼろをつつき
落したのが、ノロ公だとは、どのカラスも知りませんでした。もし知ったとすれば、みんなはどんなにか
驚いたことでしょう。なぜって、ノロ公などが、人間の
住居に近よる
勇気をもっていようとは、とても信じられませんから。ノロ公は、そのことをだれにも話しませんでした。それには、じつは、ノロ公だけのとくべつのわけがあるのです。アラシとハヤテは、
昼のあいだや、ほかのカラスたちがまわりにいるときは、ノロ公にたいしていつも
親切でした。ところが、あるまっくらな
晩のこと、
仲間のカラスたちが、枝の上にとまって
眠っていたとき、ノロ公は、とつぜんアラシ
夫婦におそわれて、もうすこしで、殺されそうになったのです。それからは、まい
晩、くらくなりますと、ノロ公はじぶんのいつもの
寝場所をぬけだして、あき
小屋へいくことにしているのでした。
ある日の
午後、カラスたちは、カラス山の
巣をしゅうぜんしましたが、そのあとで、すばらしい見つけものをしました。アラシは、ノロ公とほかの二
羽のカラスをつれて、荒れ地の片すみにある大きなくぼ地に飛んでいきました。そのくぼ地には
砂利しかありませんでしたが、カラスたちは、そんなことぐらいで
満足することができません。人間がこのくぼ地を
掘ったのには、なにかわけがあるにちがいないと思って、そこに飛びおりていっては、さかんにひっかきまわしました。そうしているうちに、片がわの砂利が、ガサガサと、きゅうにくずれおちました。カラスたちは、びっくりしてかけよりました。と、はたして、くずれおちた石と砂利のあいだに、木のふたをした土の大きなかめが見えるではありませんか? もちろんみんなは、すぐに、中に何がはいっているか知りたくなりました。そこで、かめに
穴をつつきあけようとしたり、ふたをあけようとしたりしましたが、どうしてもうまくいきません。
カラスたちは、とほうにくれて、かめをながめていました。そのとき、とつぜん、
「おい、おい、カラスくん、おりていって、手つだってやろうか?」という声がしました。
みんなが、はっとして上を見ますと、くぼ地のふちに一ぴきのキツネがすわって、こちらを見おろしています。色つやも姿も、いままでに見たなかで、一ばん美しいキツネです。ただ一つおしいことには、片ほうの耳がありません。
「手つだってくれるって言うんなら、いやとは言わんぜ。」と、アラシは言うといっしょに、くぼみから飛びあがりました。ほかのカラスたちも、すぐそのあとにつづきました。すると、キツネは穴の中にとびおりて、かめをかじったり、ふたをひっぱったりしてみました。けれど、やっぱりどうしても、あけることができません。
「何がはいっているか、わかるかい?」と、アラシがたずねました。
キツネは、かめをあっちこっちにころがして、耳をすましました。
「こいつは
銀貨にちがいないぞ。」と、キツネは言いました。
銀貨ならたいしたものです。カラスたちは、それほどのものとは思っていませんでした。
「ほんとうに、
銀貨だと思うかい?」と、カラスたちは言いました。そして、その目は
欲にくらんでキラキラ光りました。こう言えば
へんに聞こえるかもしれませんが、なにしろカラスたちにとって、銀貨ぐらいすきなものはなかったのです。
「ほら、ガチャガチャ音がするだろう!」と、キツネはもう一ど、かめをころがしながら言いました。「しかし、どうして
出したもんだろうなあ。」
「きっと、だめさ。」と、カラスたちはため
息をついて言いました。
キツネは立ったまま、左の前足で頭をかきながら、考えました。うんそうだ、このカラスたちの助けをかりて、いつも
逃げられてばかりいる、あのガチョウにのったチビスケのやつをつかまえることができるかもしれないぞ。
「おい、おれは、このかめをあけられるやつを知ってるんだがなあ。」と、キツネは言いました。
「だれだい? だれだい?」と、カラスたちはさけびながら、むちゅうになって、また
穴の中にとびこんできました。
「あとで、そいつをおれに引きわたすと
約束するんなら、教えてもいいぜ。」と、キツネは言いました。
そして、キツネはカラスたちに、ニールスのことを話してきかせました。もし、オヤユビ
小僧のニールスをここへつれてくることができれば、きっとこのかめはあけさせることができる、と言いました。しかし、こういう、うまい
ちえをかしてやったんだから、そのお
礼に、オヤユビ小僧が
銀貨を取りだしたら、すぐさま、その小僧をおれに引きわたせ、と言いはりました。カラスたちのほうでは、オヤユビ小僧なんてべつにおしいとは思いません。で、すぐにこの申し出を
承知しました。
この約束はかんたんにできあがりましたが、さて、オヤユビくんとガンたちがどこにいるかを、さがしだすとなると、なかなかたいへんなことです。アラシはじぶんで十五
羽のカラスを引きつれて、すぐ帰ってくると言いのこして、出かけていきました。しかし、いく日たっても、カラス山にもどってはきませんでした。
四月十三日 水曜日
ニールスの
仲間のガンたちは、エステルイエートランドにむかって旅だつまえに、たべものをとる時間が
十分あるように、朝早く起きました。ガンたちのとまった島は、ガン
湾の中にある小さな島でした。この島には草や木は
生えていませんでしたが、まわりの水の中には、いろんな
水草がありましたので、みんなはそれを
腹いっぱいたべました。ところが、ニールスのほうは、たべるものがなんにも見つからなくて、ひどいめにあってしまいました。
ニールスはおなかがへって、朝の
寒さにふるえながら、あっちこっちを見まわしていました。と、ちょうどむこうにある岩ばかりの島の、木の
茂った
岬で、二ひきのリスが
遊んでいるのが目にとまりました。もしかしたら、あのリスが冬のたくわえの残りをもっているかもしれない、と、ふと思いつきました。そこで、白いガチョウに、ハシバミをすこしわけてもらいたいから、あの岬までつれていってくれ、とたのみました。
白いガチョウは、すぐにニールスを乗せて、その岬へ
泳いでいきました。ところが、
運のわるいことに、リスたちはむちゅうになって、木から木へと追いかけっこをしているものですから、ニールスの呼ぶ声がちっとも耳にはいりません。リスたちは、だんだん林の
奥へ奥へとはいっていきました。ニールスも、いそいでそのあとを追いかけていきましたので、まもなくガチョウの目のとどかないところまでいってしまいました。そのあいだ、ガチョウはおとなしく
岸べで待っていました。
ニールスは、白いアネモネが、あごにとどくほど高く
生えている草地にはいっていきました。と、だしぬけに、だれかがうしろから、じぶんをつかんで持ちあげようとするようすです。はっとしてふりむいてみますと、一
羽のカラスが、えりのところをつかんでいるではありませんか。ニールスは一生けんめい身をふりはなそうとしました。けれども、そうしているうちに、もう一羽のカラスが飛んできて、こんどは
靴下をひっぱりましたので、ニールスは地べたにたおされてしまいました。
もしもこのとき、ニールスがすぐに、
助けて! とさけびさえすれば、白いガチョウに助けてもらえたにちがいありません。ところが、ニールスは、カラスの二羽ぐらい、じぶんひとりでも平気だと思ったのでしょう。しかし、いくらなぐったり、けとばしたりしてみても、カラスたちはどうしてもはなしません。とうとう、ニールスをつかんで空に飛びあがってしまいました。しかも、わざとらんぼうに飛んで、ニールスの頭を木の枝にぶっつけました。そのぶっつけかたがあんまりひどかったので、ニールスはとうとう気をうしなってしまいました。
目をあいたときには、空高く飛んでいました。そのうちに、だんだん
意識がはっきりしてきました。はじめは、どこにいるのかも、何を見ているのかも、さっぱりわかりませんでした。下を見おろしますと、とても大きな
毛織りのじゅうたんがひろがっているようでした。そのじゅうたんは
緑と赤とに織りだされていて、いろいろな形をしています。たいそう
厚くて、美しいじゅうたんです。けれども、ニールスは、おしいことにひどく使い古してあるな、と思いました。じっさい、もうぼろぼろになっているのです。まんなかのところが長く
裂けていますし、また
場所によっては、ちぎれて、なくなっているところもあります。そして、なによりもふしぎなのは、そのじゅうたんが
鏡の上にひろげられているように見えることでした。なぜかといえば、そのじゅうたんの
穴や
裂けめのあるところからは、鏡があかるく、キラキラ
輝いているのです。
むこうを見れば、ちょうどいま
地平線の上に姿をあらわしたお日さまが、しずかにのぼってきます。と見るまに、じゅうたんの穴や裂けめの下の鏡が、赤や金色に輝きはじめました。なんという美しいながめでしょう。ニールスはむちゅうになって
喜びました。もっとも、じぶんのながめているものが、なんであるかは、ちっともわかってはいませんでした。そのとき、カラスたちは下におりはじめました。すると、いままで大きなじゅうたんに見えていたものは、じつは、緑の
針葉樹や、葉のない
褐色の
闊葉樹の
茂っている地面だったことがわかりました。そして、じゅうたんの穴や
裂けめに見えたのは、キラキラ光る
入江や小さな
湖だったのです。
ガチョウのせなかに
乗っかって、はじめて空を飛んだとき、スコーネの土地が
市松もようの
布のように見えたことを、そのとき、ふと思いだしました。それにしても、ぼろぼろのじゅうたんのように見えるこの土地は、いったいどこなのでしょう?
つぎからつぎへと、いろんな
疑いがわいてきました。どうしてガチョウのせなかに乗っていないんだろう? どうしてじぶんのまわりをこんなにたくさんのカラスが飛んでいるんだろう? そしてまた、どうして落っこちそうになるほど、あっちこっちへ引っぱりまわされたり、ぶたれたりするんだろう? と、たちまち、なにもかもがはっきりとしてきました。じぶんは二
羽のカラスにさらわれたんだ。白いガチョウは、まだ岸べで待っているにちがいない。きょうみんなは、エステルイエートランドにむかって
出発するはずだ。それなのに、じぶんは
南西のほうにつれられてゆく。お日さまがうしろのほうにあるから、きっとそうにちがいない。そうしてみると、下に見える森のじゅうたんは、きっとスモーランドだ。
「ぼくがせわをしてやれなくなったら、あの白ガチョウはどうなるだろう?」と、ニールスは思いました。そして、カラスたちに、じぶんをガンたちのところへ、すぐにつれていってくれるようにたのみました。ニールスは、じぶんのことはちっとも心配していませんでした。だって、カラスたちがじぶんをつれていくのは、ただふざけているんだろうと思っていたのです。
ところが、カラスたちは、ニールスの言うことなどには耳をもかさず、おおいそぎで飛んでいきました。しばらくすると、なかの一羽が、「気をつけな! あぶないぜ!」とでもいうように、つばさをばたばたやりました。まもなく、みんなはエゾマツの森におりました。そして、とげとげした枝のあいだをおしわけて、地面につきました。そこで、ニールスは太いエゾマツの下におろされましたが、たいそう、うまくかくされてしまったために、これではタカでさえもニールスの姿を見つけることができません。
十五羽のカラスが、ニールスの見はりをするために、くちばしをつきだしながら、ぐるりをとりかこみました。
「おい、カラスたち、なんのためにぼくをさらったんだ。」と、ニールスがききました。
ところが、ニールスが言いおわるか、おわらないうちに、一羽の大きなカラスが、しかりつけました。
「しずかにしろ! さもないと、きさまの目の玉をくりぬくぞ!」
カラスが
本気でそう言っていることはたしかです。こうなったからには、カラスの言うとおりにするほかはありません。そこで、ニールスは、おとなしくすわって、じっとカラスたちを見つめました。カラスたちもニールスをじっと見つめました。見れば見るほど、このカラスたちは気にくわないやつらです。
はね毛は、ものすごくほこりだらけで、ぼうぼうとしています。まるで一ども水あびをしたり、油をつけたことがないようです。そして、足指や
爪には、かわいた
泥がこびりついています。それから、くちばしのまわりには、
食いものの残りがくっついています。同じ鳥ではあっても、ガンたちとはなんというちがいかたでしょう。このカラスたちは、
ざんこくで、ひきょうもので、よくばりで、しかも、だいたんふてきな顔つきをしています。まるで人殺しか、ごろつきのように見えます。
「こいつは、ほんとうの
強盗団につかまっちまったんだな。」と、ニールスは思いました。
ちょうどそのとき、上のほうで、ガンの
仲間のさけぶ声が聞こえました。
「どこにいるの? ぼくはここだよ。どこにいるの? ぼくはここだよ。」
アッカをはじめ、みんながじぶんをさがしにきてくれたのです。けれども、
返事をしようと思っているうちに、このカラスの一
団のお
かしららしい、さっきの大ガラスが、ニールスの耳もとで、「
目玉のことを忘れるな!」と、しかりつけました。これでは、だまっているよりほかはありません。
ガンの仲間は、ニールスが、こんなに近くにいようとは気がつかないようすです。ただ、ぐうぜんに、この森の上に飛んできたものでしょう。また二どばかり、ガンたちのさけぶ声が聞こえましたが、それから
消えてしまいました。
「さあ、じぶんひとりで、助かる
工夫をしなくちゃならないぞ。」と、ニールスはひとりごとを言いました。「もう
何週間も、野の生活をして
苦労しているんだから、ひとつ、その
うでまえを見せるかな。」
しばらくするとカラスたちは、出かけるしたくをはじめました。またこんども、一羽がニールスのえりをつかみ、もう一羽が
靴下をつかんで、つれていくつもりとみえます。そこで、ニールスはあわてて言いました。
「きみたちの中には、ぼくをせなかに乗っけていけるものはないのかい? きみたちがあんまりらんぼうに、ぼくをあつかうから、ぼくは、こなごなになっちまうんじゃないかと思ったよ。まあ、乗せてごらんよ! せなかからとびおりたりはしないから。」
「やい、やい、どうされたって、きさまの知ったこっちゃないんだ。」と、お
かしらが言いました。
そのとき、いちばん大きい、つばさに白い
はねのあるカラスが、前に進みでてきました。頭をぼうぼうにして、いかにもやぼくさいカラスでしたが、
「お
かしら、このオヤユビ
小僧を
落して、かたわにするよりも、まるまる生かしておいたほうが、
とくじゃありませんか。だから、わたしがせなかに乗せていきましょう。」と、言いました。
「ノロ
公、てめえにできるんなら、おれに
文句はねえ。だが、そいつをなくすんじゃあねえぞ!」と、アラシは言いました。
ありがたいことです。ニールスは大よろこびでした。
「カラスにさらわれたからって、もう気をおとすことはないぞ。きっと、こいつらをやっつけてやれるさ。」と、ニールスは思いました。
カラスたちは、スモーランドの上を
南西にむかって飛びつづけました。うららかに
晴れわたった、あたたかい朝でした。地上の鳥たちは、やさしい
愛の
歌をうたっていました。高い、黒々とした森の中の、エゾマツのこずえで、ツグミがつばさをたれ、のどをふくらまして、
「なんてあなたはきれいなんでしょう! なんてあなたはきれいなんでしょう! なんてあなたはきれいなんでしょう! あなたほどきれいなものはない。あなたほどきれいなものはない。」と、なんどもなんども、うたっていました。
ちょうどそのとき、ニールスがこの森の上を通りかかりました。ニールスは、ツグミの歌を二ど聞いて、ははあ、ほかの歌は知らないんだな、と気がつきますと、両手をラッパのようにして口にあてて、下にむかってさけびました。
「そんな歌はまえにも聞いたよ! そんな歌は、まえにも聞いたよ!」
「だれだい? だれだい? だれだい? わたしの歌をひやかすのは?」と、ツグミは言いながら、からかったものの姿を見つけようとしました。
「カラスにさらわれたものだよ。」と、ニールスは答えました。
そのとたんに、カラスの
かしらがふりむいて、
「やい、チビスケ、目玉に気をつけろ!」と、言いました。
けれども、ニールスは、「ふん、そんなこと、かまうもんか。きさまなんかこわくないぞ。いまに見てろ。」と、心の中で思いました。
カラスたちは、ずんずん
飛んでいきました。いたるところに、森や
湖がありました。とあるカバの森では、葉のない枝に森バトのメスがすわって、そのまえにオスのハトが立っていました。オスのハトは、
はね毛をふくらまし、頭をまっすぐに立てて、からだをあげたりさげたりするので、そのたびに
胸毛が枝にさわりました。そして、ひっきりなしに、
「おまえは、おまえは、森の中でいちばんかわいいね。森じゅうで、おまえぐらい、おまえぐらい、かわいいものはないよ!」と、鳴いていました。
ニールスは、その上を通りかかって、オスのハトの言うのを耳にしたとき、だまってはいられなくなりました。
「そいつの言うことを
信じちゃいけない! そいつの言うことを信じちゃいけない!」と、ニールスはさけびました。
「おれをけなすのはだれだ? おれをけなすのはだれだ?」と、オスのハトはクウ、クウ
鳴きながら、からかったものの姿を見つけようとしました。
「カラスにさらわれたものだよ。」と、ニールスは答えました。
と、またもアラシがふりむいて、だまれ、と言いつけました。けれども、ニールスをせなかに乗せているノロ
公は、
「しゃべらせておきなさいよ。そうすりゃ小鳥どもは、われわれカラスが、とんちのある、おもしろい鳥になったと思いまさあ。」と、言いました。
「ふん、あいつらだって、それほどばかじゃああるめえ。」と、アラシは言いました。けれども、
内心ノロ公の考えが気にいったもので、それからは、ニールスのすきなように言わせておきました。
カラスたちは、たいていは、森や森のあいだにある
牧場の上を飛んでいきましたが、ときには
教会や、村や、森のそばの小屋の上も飛びました。あるところでは、古い美しいお
屋敷が見えました。それは、森をうしろに、海を前にして
建てられていました。壁は赤く
塗ってあり、
屋根はキリのように、とがっていました。お屋敷の前には、大きなカエデの木が立っていて、
庭園には、大きなスグリの
茂みがありました。
風見の上に、ムクドリのオスがすわって、大声でさえずっていました。その声は、ナシの木の
巣箱の中で、卵をだいているメスにまでよく聞こえました。
「かわいい卵が四つある。」と、ムクドリは歌っていました。「まあるい、きれいな卵が四つある。巣の中は、きれいな卵でいっぱいだ。」
ムクドリが、ちょうど千べんめをうたったとき、ニールスがその上を通りかかりました。そして、両手を
笛のように口にあてて、さけびました。
「カササギに卵をとられるよ! カササギに卵をとられるよ!」
「わたしをおどかそうとするのは、だれだね?」と、ムクドリはたずねながら、
不安そうに
はねをバタバタやりました。
「カラスにつかまってるものだよ!」と、ニールスは言いました。
こんどは、カラスのお
かしらも、だまれとは言いませんでした。それどころか、たいそうおもしろがって、みんなといっしょに、ゆかいそうに、カアカア鳴きました。
陸地に進むにつれて、
湖は大きくなり、その中の島や
岬も多くなりました。とある湖の岸べでは、一羽のオスのカモが、メスの前で、ていねいにおじぎをしていました。
「
一生のあいだ、あなたへのまごころはかわりません。一生のあいだ、あなたへのまごころはかわりません。」と、オスはねっしんに言っていました。
「ひと夏もつづかないぜ!」と、このとき通りかかったニールスが言いました。
「だれだ?」と、カモのオスはさけびました。
「カラスにぬすまれたものだよ!」と、ニールスはさけびました。
お
昼ごろ、カラスたちは、森のあいだの、とある草地におりました。みんなはあるきまわってたべものをひろいましたが、ニールスにも何かやろうということは、だれひとり思いつきませんでした。そのとき、ノロ公が、ひからびた赤い
実の二つ三つついている野バラの枝をくわえて、お
かしらのところへ飛んできました。
「お
かしら、これを
召しあがってください。うまいものですから、あなたにもお気にめしましょう。」と、ノロ公が言いました。
アラシは、ばかにしきったように、フフンと笑って、言いました。
「てめえ、こんなひからびた
実を、おれが
食うとでも思ってるのか?」
「よろこんでいただけると思ったんですが。」と、ノロ公は言いながら、がっかりして、その枝を投げすてました。ところが、その枝がちょうど、ニールスの目の前に落ちましたので、ニールスは、すぐさまそれをひろって、すいたおなかをふさぎました。
カラスたちはたべおわりますと、おしゃべりをはじめました。
「お
かしら、何を考えているんです? あんたは、きょうは、えらくだまりこんでいますね。」と、一羽のカラスがアラシに言いました。
「おれはな、むかし、この地方に一羽のメンドリがいたのを思いだしていたところさ。そいつは、
飼い
主のおくさんが大すきだったんだ。それで、そのおくさんを
喜ばせてやろうと思って、とてつもなくでかい卵をうんでよ、それを
穀物倉の
床下にかくしておいたんだ。そのメンドリのやつめ、卵がかえったら、おくさんがさぞ喜ぶだろうと思って、ひとりでうれしがっていたのよ。おくさんのほうじゃ、メンドリの姿が長いあいだ見えないもんだから、どうしたんだろうと、ふしぎに思って、あっちこっちさがしてみた。しかし、どうしても見つかりゃしない。おい、口なが、そのメンドリを見つけたなあ、だれだかわかるか?」
「わかりますとも、お
かしら。だが、それじゃ、わっしもそれに
似た話を、お聞かせしやしょう。お
かしらは、ヒンネリュードの
牧師館にいた大きな黒ネコを、おぼえていなさるかね? あのやろうは、子をうむと、いつも人間がとって、川んなかにほうりこんじまうもんだから、
不平たらたらだったんでさ。ところが、一どだけ、おもてのほし草の中に、うまくかくしたことがあるんですよ。あいつは、うまくかくしたと大よろこびでしたが、あいつよりも、じつは、このわっしのほうが大よろこびでしたのさ。」
すると、ほかのカラスたちも、むちゅうになってきて、みんながいっぺんにしゃべりだしました。
「へえ、それが、卵や赤んぼネコを
盗みだす
ひけつですかい?」と、一
羽が言いました。「おれなんざ、
一人まえになりかけた若いウサギを追いかけたもんだぜ。やぶからやぶへと追いかけてよ――」
みんなまで言いおわらないうちに、べつの一羽が口をはさみました。
「トリやネコをおこらすってのも、おもしろいかもしれねえが、人間をこまらせてやるほうが、ずっとゆかいだろうぜ。おれはな、いつだったか
銀のさじをぬすんでよ――」
ニールスは、もうこんなおしゃべりを、だまって聞いてはいられなくなりました。
「おい、カラスくん、ぼくの言うことを聞きたまえ!」と、ニールスは言いました。「きみたちは、そんなひどいことをしゃべりたてて、はずかしくないのかい。ぼくは三
週間も、ガンたちといっしょに
暮らしているが、聞くこと見ること、みんないいことばかりだぜ。きみたちには、
悪い
かしらがいるにちがいない。きっとそいつが、そんなふうに
盗んだり殺したりさせているんだ。いまのうちに、きみたちは、
暮らしかたをかえるがいい。なぜって、人間は、きみたちの悪いのにすっかり
腹をたてて、きみたちを根だやしにしようと、けんめいになっているんだよ。だから、このままだと、きみたちは、まもなくおしまいだぜ。」
アラシをはじめ、ほかのカラスたちはこれを聞くと、
怒りくるって、もうすこしで、ニールスにおどりかかって、ズタズタに引きさこうとしました。ところが、そのとき、ノロ
公が笑いながら、カアカアと鳴いて、ニールスの前に進みでました。
「いや、いけない、いけない! このオヤユビ
小僧に、
銀貨をださせないうちに、ひき
裂いてしまったら、ハヤテさんはなんて言うだろうかね?」と、ノロ公は言いましたが、そのようすは、いかにもおどおどしていました。
「やい、ノロ公、女をこわがるってのは、てめえのことか。」と、アラシは言いました。
けれど、とにかく、アラシもほかのカラスたちも、オヤユビくんに手だしはしませんでした。
それからまもなく、カラスたちは
出発しました。いままでのところでは、スモーランドは話に聞いているほど、みすぼらしい土地のようではありませんでした。森も山もありますし、川や
湖のほとりには、
耕された畑も見えます。まだ、ほんとうの
荒れ地には、一つも出あっておりません。しかし
奥に進めば進むほど、村も小屋もすくなくなりました。しまいには、ほんとうの荒れ地の上を飛んでいるのではないかと思われてきました。むりもありません。下に見えるものといえば、
沼と荒れ地とネズの
生えている丘だけなのですから。
お日さまは
沈みましたが、カラスたちはまだあかるいうちに、ヒースの
生えている、あの大きな荒れ地につきました。アラシは、一羽のカラスをさきにやって、オヤユビ
小僧をうまく見つけたことを、みんなに知らせました。すると、ハヤテは
数百羽のカラスをひきつれて、出むかえに飛んできました。カラスたちが両方から、カア、カアと鳴きさけんで、あたりは、たいへんなさわぎでした。そのとき、ノロ公が、そっとニールスに言いました。
「おまえはゆかいなやつだ。おかげで旅のあいだ、とてもおもしろくすごさせてもらった。おれは、おまえがすきになったよ。だから、いいことを教えてやる。おまえは、下におろされると、すぐに、なんでもないような
仕事を言いつけられるが、それをやるときには、気をつけるんだぜ。」
まもなく、ノロ公は
砂利穴の
底に、ニールスをおろしました。ニールスは、ころがるようにおりて、そのまま、いかにも
疲れきったように、あおむけにねころんでしまいました。そして、たくさんのカラスが、まわりをとりまいて、
嵐のように、ものすごく
羽ばたいても、いっこうに目をあけませんでした。
「こら、
小僧、起きろ!」と、アラシが言いました。「やい、仕事があるんだ。きさまには、なんでもないことだ。」
ニールスは、
身動きもしないで、眠ったふりをしていました。すると、アラシは、ニールスの
腕をつかんで、くぼ地のまんなかにある、
古風な土のかめのところへ、
砂の上をひきずっていきました。
「やい、小僧、起きろ!」と、アラシは言いました。「さあ、このかめをあけるんだ!」
「どうして、ぼくをねかせておいてくれないんだい?」と、ニールスは言いました。「
今夜は、くたびれすぎちゃって、なんにもできやしないぜ。あしたまで待ってくれよ!」
「かめをあけろったら!」と、アラシは、ニールスをゆすぶりながら、言いました。
ニールスは、しかたなくからだを
起こして、かめをながめまわしました。
「ぼくみたいな、ちっぽけな子どもに、こんなかめがあけられるはずがないじゃないか。このかめは、ぼくぐらいあるぜ。」
「さっさとあけろ!」と、アラシは、もう一ど言いつけました。「あけないと、ためにならんぞ!」
ニールスは、立ちあがって、かめのところにいき、ふたをいじくりました。でも、すぐに
腕をさげてしまいました。
「ぼくは、いつもなら、こんなに
弱虫じゃないんだ。」と、ニールスは言いました。「あしたまで、ねかせてさえくれりゃ、このふたぐらい、きっとあけられると思うがなあ。」
ところが、アラシは、気がいらいらしていましたので、いきなり前に進みでて、ニールスの足をつつきました。しかし、いくらなんでも、カラスにこんなことをされては、だまっていられません。ニールスは、すぐさま身をふりはなして、二
歩ほどうしろへさがりました。そして、ナイフをさやから引きぬいて、目の前につきだしました。
「やい、気をつけろ!」と、ニールスは、アラシにむかってさけびました。
アラシは、
怒りくるっていたものですから、
危険をさけようともしないで、めくらめっぽうにニールスめがけて、とびかかりました。そのため、ナイフがぐさっと目玉につきささって、頭にまでもくい入りました。ニールスは、すばやくナイフを引きぬきましたが、アラシは一、二ど、つばさをバタバタやっただけで、そのままたおれて、死んでしまいました。
「お
かしらが死んだぞ! こいつがお
かしらを殺したぞ!」と、すぐ近くにいる、カラスたちが口ぐちにさけびました。それから、たいへんなさわぎになりました。オイオイ泣きだすものもあれば、かたきをうて、とさけびたてるものもあります。みんなは、四方八方から、ニールスめがけて
駆けよりました。ノロ公が、その
先頭に立っていました。いつものように、ノロノロしてはいましたが、つばさをひろげて、ニールスをその下にかくし、ほかのカラスたちが、くちばしをむけてくるのをふせいでくれました。
ニールスは、
進退ここにきわまってしまいました。カラスたちから
逃げることもできませんし、身をかくす
場所一つありません。と、そのとき、土のかめのことを思いだしました。そこで、ふたを力いっぱいつかんで、ぐいと、はずしました。そして、その中にかくれようと思って、とびこみました。ところが、ここにもかくれるわけにはいきませんでした。なぜって、かめの中は、ほとんどふちまで、小さな、うすい
銀貨が、いっぱいにつまっていたのです。これでは、中にはいることもできません。そこで、とっさに、身をかがめて、銀貨をつかんでは投げはじめました。
いままで、カラスたちは、ニールスのまわりをとりまいて、つばさをバタバタやりながら、つつき
殺そうとしていました。ところが、ニールスが銀貨をほうり投げるのを見たとたんに、みんなは、たちまち、かたきうちのことなどは、忘れてしまって、あわてふためいて、銀貨をひろいはじめました。ニールスは、銀貨を手にいっぱいつかんでは投げました。すると、どのカラスもどのカラスも、ハヤテまでもいっしょになって、むちゅうで、それをひろいました。そして、うまく銀貨をひろったものは、こんどは、それをかくそうと、大いそぎで
巣のほうへ飛んでいきました。
ニールスは、かめの中の銀貨を、すっかり投げだしてしまったとき、あたりを見まわしました。すると、そのくぼ地には、一羽のカラスしか残っていませんでした。それは、つばさに白い
はねのある、じぶんを乗せてきてくれた、あのノロ
公でした。
「きみには、わからないでしょうが、きみはたいへんな
仕事をしてくれたんですよ。」と、ノロ公は言いました。その声も
調子も、いままでとはまるでちがっていました。「それで、こんどは、わたしがきみの命をすくってあげます。さあ、わたしのせなかにお乗りなさい。
今夜安心して
眠れる、
隠れがにつれていってあげますから。あしたになったら、ガンたちのところへ帰れるように、なんとかしてあげましょう。」
四月十四日 木曜日
あくる朝、目がさめたとき、ニールスは、ベッドの中に
寝ていました。そして、ぐるりには
壁があり、上には
屋根があるのを見て、じぶんは、
家にいるんだな、と思いました。
「おかあさんが、じきにコーヒーを持ってきてくれるんだろうなあ?」ニールスは、ねぼけまなこで、こんなことをブツブツ言いました。そのうちに、じぶんはいまカラス山の小屋の中にいるんだ、そうだ、ゆうべ、白い
はねのノロ
公が、ここへつれてきてくれたんだっけ、と思いだしました。
ニールスは、きのうの
旅のために、からだじゅうが
痛くてたまりませんでした。ですから、じっと
寝ているのが、なによりも
楽しく思われました。そして、ガンたちのところへ、つれていつて
[#「いつて」はママ]くれると
約束したノロ公がくるのを待っていました。
市松もようのもめんのカーテンが、ベッドの前にかかっていました。ニールスは小屋の中を見ようと思って、カーテンをわきにのけました。と、まあ、なんという小屋でしょう。いままでに、こんな小屋は見たことがありません!
壁は、
丸太が二列にならんでいるだけで、すぐそれから屋根になっています。
天井張りがないために、
棟木までも見えます。小屋ぜんたいが、たいへん小さいので、ふつうの人間のために建てられたのではなくて、どちらかといえば、ニールスのような
小人のために建てられたのではないかと思われます。けれども、かまどと
煙突は、とても大きくて、これより大きいのは見たことがないとさえ思われるくらいでした。入口の戸は、かまどのそばの、
破風のある壁についていました。でも、これがまた、たいそうせまいので、戸というよりは
小窓のようでした。もうかたほうの破風のある壁には、低くて、はばの広い窓がありました。これには、小さいガラスがたくさんはまっていました。この
部屋には、動かせる
家具というものは、ほとんどありませんでした。
腰掛けも、窓ぎわのテーブルも、それから、いまニールスのねている大きなベッドも、いろんな色どりをした
戸棚も、みんな壁にくっついていました。
ニールスは、この小屋はだれのものだろう、そしてまた、どうしていまは人が住んでいないんだろう、と思わずにはいられませんでした。この小屋に住んでいた人たちは、またもどってくるつもりのようです。かまどの上には、コーヒーつぼとか、ゆなべがのったままになっていますし、
炉ばたには、まきもおいてあります。すみのほうには、火ばさみと、木べらがあり、
紡車は、腰かけの上にあがっています。窓の上の棚には、
麻と、
二かせの
織糸と、ロウソクと、一たばのマッチがおいてあります。
ここに住んでいた人たちは、たしかに、もう一ど、もどってくる気にちがいありません。
ベッドには、ちゃんと
掛けぶとんがありますし、壁には、三人の
騎士の
絵のかいてある、長い
布もかかっています。
ところが、上の
棚に目をやったとき、ニールスは、はっとわれにかえりました。そこには、ひからびた大きな
菓子パンが二つ、くしにささっているではありませんか。もちろん、古くなって、
かびも
生えているようですが、パンであることにはかわりありません。火ばさみでたたきますと、そのうちの一つが下に落ちました。さっそく、すいたおなかを
満足させて、残りをポケットにいっぱいつめこみました。それにしても、パンの
味はすばらしいものでした。
ニールスは、ほかにもなにか
役にたつものはないだろうかと思って、もう一ど
部屋の中を見まわしました。
「ぼくがいるものは、持っていってもいいだろう。だって、だれのめいわくにもならないんだもの。」と、ニールスは思いました。でも、ニールスには、たいていのものが、大きくて、
重たすぎました。持っていけそうなものといえば、せいぜいマッチぐらいのものでした。
ニールスは、テーブルの上によじのぼり、そこからカーテンにつかまって、窓の上の
棚にとびうつりました。ニールスが、そこで
袋の中にマッチをつめこんでいますと、あの白い
はねのカラスが
窓からはいってきました。
「ほら、きましたよ。」と、ノロ公は言いながら、テーブルの上にとびおりました。「おそくなってしまいましたが、きょうは、アラシのかわりに、新しいお
かしらをえらんでいたので、なかなかこられなかったんですよ。」
「だれが、お
かしらにえらばれたの?」と、ニールスはたずねました。
「それはね、
盗みや
悪いことをゆるさないもの、つまり、いままでノロ公と言われていた、この白い
はねのわたしがえらばれたんです。」
ノロ公は、からだを
起こして、もったいをつけながら、こう言いました。
「それは、いいひとがえらばれたね。」と、ニールスは言って、ノロ公におめでとう、と言いました。
「いや、ありがとう。」と、ノロ公は言いました。それから、アラシが
かしらだったころのことを話しはじめました。
と、だしぬけに、窓のそとで、よく耳なれた声がしました。
「あいつは、ここにいるのか?」と、キツネのズルスケが言っています。すると、
「ええ、この中にかくれているんです。」と、カラスの声が答えました。
「
用心なさいよ、オヤユビさん!」と、白い
はねのノロ公がさけびました。「ハヤテのやつが、きみを
食いたがっているキツネをつれて、外にきているんですよ!」
ノロ公は、それいじょう言うことができませんでした。そのとき、早くも、キツネのズルスケが窓をめがけて、おどりかかっていたからです。古い、くされかかった窓わくは、たちまちとびちって、あっというまに、ズルスケは窓ぎわのテーブルの上に立っていました。そして、
かしらにえらばれたばかりの、白い
はねのノロ公は、
逃げるひまもなく、たちまちかみ殺されてしまいました。それから、キツネは、
床にとびおりて、ニールスの姿をさがしました。ニールスはあわてて、大きな
糸車のうしろにかくれようとしましたが、ズルスケは早くも、それを見つけて、おどりかかろうと身がまえました。この小屋は、たいへん小さい上に、しかも
低いので、もうどうすることもできません。すぐにキツネにつかまってしまいます。けれども、ふせぐ
武器がまったくないわけではありません。ニールスは、いそいでマッチをすって、そばの
麻の
束に火をつけました。そして、それがメラメラと
燃えあがったのを見るや、キツネのズルスケめがけて力いっぱい投げつけました。さすがのズルスケも、
ほのおにつつまれてはたまりません。
恐ろしさに気ちがいのようになって、もうニールスをつかまえるどころではなく、あわてふためいて、小屋からとびだしていきました。
こうして、ニールスは、やっと一つの
危険からまぬがれはしましたが、こんどは、もっと大きな危険にせまられることになりました。というのは、いまズルスケにむかって投げつけた
麻の
束から、とうとうベッドのカーテンにまで火が
燃えうつってしまったのです。ニールスはとびおりて、あわててもみけそうとしましたが、火の手ははげしくなるばかりです。みるみるうちに、
部屋じゅうが
煙だらけになってしまいました。ズルスケは窓の外に立って、オヤユビくんが、部屋の中でこまっているようすをさっして、言いました。
「やい、オヤユビ
小僧、そこで
焼き
殺されるのと、おれのところへ出てくるのと、どっちがいい? もちろんおれは、きさまを
食い殺してやりてえが、きさまが、かわった死にかたをするのもおもしれえや。」
ニールスは、ほんとうにキツネの言うとおりだと思いました。なぜなら、火の手は、ずんずんひろがって、もうベッドも
ほのおにつつまれてしまいましたし、
床からも、煙が立ちのぼっています。ニールスは、かまどの上にとびあがって、パン
焼きかまどの口をあけようとしました。と、そのとき、だれかが戸の
鍵穴に
鍵をつっこんで、しずかにまわす音が聞こえました。きっと人間がきたのにちがいありません。けれども、いまのようにこまりきっているときには、人間もこわくはありません。それどころか、大よろこびで、すぐさま戸口に
駆けていきました。ちょうどそのとき、戸があいて、目の前にふたりの子どもがあらわれました。でも、その子どもたちが小屋が
燃えているのを見たとき、どんな顔をしたか、見ているひまはありませんでした。ニールスはふたりのそばをすりぬけて、おもてにとびだしました。でも、遠くへ走っていく気にはなれませんでした。なぜって、キツネのズルスケが待ちぶせしているにきまっています。だから、この子どもたちのそばにいるのが、いちばん
安全です。そこでニールスは、どんな子どもたちかと思って、ふりかえってみました。ところが、ひと
目見るより早く、ふたりのそばにかけよって、さけびました。
「やあ、こんちは、オーサちゃん、マッツちゃん。」
ニールスは、ふたりの子どもを見たしゅんかん、じぶんがどこにいるかを、すっかり忘れてしまったのでした。カラスのことも、
燃えている
小屋のことも、
動物たちのことも、なにもかも忘れてしまったのでした。じぶんは西ヴェンメンヘーイの
畑で、ガチョウの
番をしながらあるいている、そして、すぐ近くの畑では、スモーランドうまれのこのふたりの子どもたちが、やっぱりガチョウの番をしながらあるいているような気になったのでした。そこでニールスは、ふたりの姿を見ると、すぐさま
石垣の上にかけあがって、「やあ、こんちは、オーサちゃん、マッツちゃん。」と、さけんだのです。
ところが、子どもたちのほうでは、そんなちっぽけな
生き
物が、両手をひろげて、じぶんたちのほうへ、
駆けてくるのを見ますと、生きた
心地もないほど、びっくりしてしまいました。そして、たがいにしっかりとだきあって、一、二
歩あとへさがりました。
ニールスのほうでも、ふたりがびっくりしたのを見たとき、はっとわれにかえって、いまのじぶんの身を思いだしました。と、
同時に、
魔法にかけられているじぶんの、ちっぽけな
姿を、この子どもたちに見られるくらい、まずいことはない、と思いました。そして、じぶんはもう人間ではないという、はずかしさと
悲しさとに
打ちまけて、身をひるがえして、いちもくさんに
駆けだしました。どこへというあてもなく。
ところが、あの
荒れ地まできますと、うれしいことが待っていました。ヒースのあいだに、なにか白いものが、チラチラしているではありませんか。と思っているうちに、白いガチョウが、
灰色ガンのダンフィンをつれてニールスのほうへやってきました。ガチョウは、ニールスが一生けんめい走ってくるのを見ますと、すぐ、
恐ろしい
敵に
追いかけられているにちがいない、とさとりました。そこで、ニールスをせなかに乗せるが早いか、大いそぎで、空高く飛びあがりました。
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四月十四日 木曜日
ニールスとガチョウのモルテンと
灰色ガンのダンフィンは、
疲れきったからだで、日が
暮れてからも、まだ夜のかくれ
場所をさがしあるいていました。ここは、北部スモーランドの
荒れはてた
地方です。でも、三人は、やわらかい
寝床や、気もちのいい
部屋をほしがるような
弱虫ではありませんから、きっとどこかに、みんなのがまんできるような休み場所が、見つかるでしょう。
「このずっとつづいた山の
頂きが、もっと高くて、けわしかったら、キツネものぼれなくて、いい寝場所になるんだけどなあ。」と、ひとりが言いました。
「いままで通ってきた大きな
湖の
氷がゆるんでいて、キツネがわたれないようになっていたら、もってこいの場所なんだけどなあ。」と、もうひとりが言いました。
こまったことに、お日さまが
沈んでからは、モルテンとダンフィンがねむくなってきて、いまにも地上に落ちそうになるのでした。ニールスだけは、目をさましていられましたが、だんだんあたりが
暗くなってくるにつれて、
心配になってきました。
「ぼくたちが、
湖や
沼のこおりついている土地へやってきたのは、
運がわるいんだ。これじゃ、どこからでもキツネがやってくる。ほかのところは、みんな氷がとけてしまってるんだけど、ここは一ばん
寒いスモーランドなものだから、まだ春にならないんだ。どうやって、いい寝場所を見つけたらいいんだろうなあ。早く
安全な場所を見つけないと、夜のうちに、ズルスケにおそわれちまうぞ。」
どこを見まわしても、つごうのいいかくれ場所は見あたりません。
今夜はまた、風と
霧雨をまじえた、うすら寒い、まっくらな夜です。おまけに、あたりは
刻一刻ときみわるくなってくるではありませんか。
こういうと、へんに聞こえるかもしれませんが、ニールスたちは、どうも、
農園に
泊めてもらう気には、なれないらしいのです。いままでにも、たくさんの
部落を通りすぎてきたのですが、どの家にもよってみようとはしませんでした。森のはずれの
丘のそばにあった小さな小屋などは、
疲れきった
旅人ならだれでも大よろこびをして、
泊めてもらうところですが、ニールスたちは気にもとめませんでした。ですから、せっかくさしのべられた
救いの手を、受けいれようとしないのでは、こまるのもあたりまえだ、と言われてもしかたがないかもしれません。
そのうちに、いよいよ空のうすあかりもすっかり
消えて、まっくらになりました。モルテンたちも、もう眠いのをがまんできなくなって、うつらうつらしながら、飛びはじめました。そのとき、一
軒だけ、ぽつんと立っている
百姓家が見えてきました。見れば、荒れはてているうえに、人は住んでいないようすです。
煙突からは、
煙ものぼってはいませんし、
窓からは、あかりも、もれておりません。家の中には、だれもいないようにみえます。ニールスは、この家を見たとき、こう思いました。
「さあ、いまとなっては、とにかく、この家にはいってみるよりほかはない。これよりいいところは見つかりそうもないんだから。」
それから、まもなく三人は、その
農家の庭におりました。ガチョウたちは、おりるといっしょに、すぐ眠りこんでしまいましたが、ニールスは、どこか
屋根になるようなところはないかと思って、一生けんめいに、あちこちを見まわしました。よく見ると、この家は、小さな
百姓家ではありませんでした。
母屋をはじめ、牛小屋や馬小屋があるばかりでなく、
乾燥場や、
穀物倉や、
物置などもならんでいました。しかし、どれもこれもこわれていて、ひどくみすぼらしいものばかりでした。コケの
生えた
灰色の
壁は、かたむいていて、いまにもたおれそうです。
屋根には、大きな
穴が口をあけていますし、戸は
蝶番がこわれて、はずれかかっています。ひと目見ただけで、長いあいだほったらかされていたものであることがわかります。
そのうちに、ニールスは牛小屋らしい
建物を見つけました。そこで、ガチョウたちをゆり起こして、その入口へつれていきました。ありがたいことに、戸はかるく
鍵がかけてあるだけでしたので、すぐに
棒で押しあけることができました。ニールスは、これでやっと
安心して眠れるぞ、と思って、ほっとため息をつきました。ところが、戸がギイッとあいたとたんに、一ぴきの
牝牛がなきだしました。
「おくさん、おそかったですね。
今夜は、もう
夕飯がいただけないのかと思いましたよ。」
ニールスは、牛小屋が、からっぽではなかったので、びっくりして、戸口に立ちどまってしまいました。けれども、よく見ますと、
牝牛が一ぴきと、ニワトリが、三、四
羽いるだけです。で、また元気をとりもどしました。
「ぼくたちは、あわれな
旅の者ですが、キツネにおそわれたり、人間につかまらないような、
一夜の
宿をさがしているのです。ここは
安全な
場所でしょうか?」と、ニールスはたずねました。
「だいじょうぶですとも。」と、牝牛は答えました。「このとおり、
壁はいたんではいますけど、これまでに、キツネがそこからはいってきたためしはありません。それに、この家には、おばさんが
[#「おばさんが」はママ]ひとり住んでいるだけですが、あのおばあさんは、
生き
物をつかまえたりはしませんよ。ところで、おまえさんたちは、いったいだれですね?」と、牝牛は言いながらからだをねじまげて、ニールスたちの姿をよく見ようとしました。
「ぼくは、いまでこそ
小人にされてしまっていますが、ニールス・ホルゲルッソンといって、西ヴェンメンヘーイうまれのものです。」と、ニールスは答えました。「いっしょにいるのは、ぼくがいつもせなかに乗せてもらっている、
家で
飼っていたガチョウと、新しく道づれになった
灰色ガンです。」
「こんなめずらしいお
客さんは、はじめてです。」と、
牝牛は言いました。「まあ、よくきてくださいました。でも、ほんとのところは、おくさんが
夕飯をもってきてくださったんなら、もっとよかったんですがね。」
ニールスは、ガチョウたちを、かなり大きい牛小屋の中につれていって、からっぽの
かいば桶の中にいれてやりました。ガチョウたちはすぐねむりこんでしまいました。ニールスは、わらで小さな
寝床をこしらえて、じぶんもすぐにねようとしました。
ところが、とても
眠るわけにはいきません。なぜって、すぐそばでは、あわれな牝牛が、夕飯をもらえないので、一ときもじっとしてはいないのです。首の
くさりをガチャガチャやったり、ドタドタあるきまわったり、
腹がへった、腹がへった、と、ひっきりなしにこぼしているのです。ニールスは眠れないままに、わらの上に横になって、近ごろおこったさまざまのできごとを思いだしました。
まずさいしょに、思いがけなく出あった、ガチョウ
番のオーサとマッツのことを思いだしました。そして、じぶんが火をつけた小さな小屋は、あのふたりのスモーランド人の家にちがいない、と思いました。そういえば、いつだったか、ふたりがあんな小屋や、ヒースの
生えているひろい
荒れ地のことを話していたことがありました。きっとふたりは、もう一どなつかしいわが家を見るために、もどってきたのです。ところが、せっかく帰ってみると、その小屋は、
ほのおにつつまれていたのです。
あのふたりは、どんなに
悲しんだことでしょう! しかも、それは、このじぶんのせいなのです。そう思うと、ニールスはたまらなくなりました。そして、いつか人間にもどったら、心からこのおわびをしようと思いました。
それから、思いはカラスたちのことにうつりました。そして、じぶんの命を助けてくれたものの、
かしらにえらばれるとすぐに
殺されてしまったノロ
公の身の上を考えますと、あまりにも悲しくなって、おもわず
涙がうかんできました。
じっさい、この二、三日のあいだに、ずいぶんひどい
めにあったものです。けれども、とにかく、モルテンとダンフィンとが、じぶんを見つけだしてくれたのは、ほんとうにしあわせなことでした。
ガチョウからあとで聞いた話では、ガンたちは、オヤユビくんの姿が見えないのに気がつくと、すぐに森じゅうの小さな動物たちにたずねてみたのでした。すると、スモーランドのカラスの一
隊にさらわれた、ということがすぐわかりました。けれども、そのときには、もうカラスたちは姿を
消してしまっていたのでした。しかも、カラスたちが、どっちへいったかは、だれひとり知らないのです。そこでアッカは、オヤユビくんを
一刻も早くさがしだすために、ガンたちに命じて、二
羽ずつわかれわかれになって、べつべつの
方面をさがすことにさせました。そして、オヤユビくんが見つかっても見つからなくても、ともかく二日さがしたら、
北西スモーランドのターベルイという山の
頂きでおちあうことにきめました。その山は、まるで、先をたちきられた
塔のようにけわしいということでした。それから、アッカは、めいめいに
方向をきめてやり、ターベルイにいくまでの道すじを、ていねいに教えてやりました。こうして、みんなはちりぢりになったのでした。
白いガチョウは、
灰色ガンのダンフィンを旅の道づれにえらびました。ふたりは、オヤユビくんのことをひどく
心配しながら、あっちこっちさがしまわりました。そうしているうちに、木の
頂きにとまっている一
羽のツグミが、「カラスにさらわれた」というやつに、からかわれたといって、泣いているのを聞きつけました。それで、さっそく、ツグミにきいてみますと、その「カラスにさらわれた」というものが、どっちへいったかを教えてくれました。それからも、森バトや、ムクドリや、野ガモにであいましたが、みんな口ぐちに、チビスケのいたずら
小僧に歌のじゃまをされたといっては、くやしがっていました。そして、そいつの名まえは、「カラスにさらわれたもの」とか、「カラスに
盗まれたもの」とか、言っていたということでした。こんなふうにして、ふたりは、スンネルブー地方のヒースの
生えている、あの
荒れ地まで、オヤユビくんのあとをたどっていくことができたのでした。
そして、モルテンとダンフィンは、オヤユビくんを見つけると、すぐに、ターベルイへいくために、北のほうをさして飛んできたのです。しかし、ターベルイまでは、ずいぶん道のりがありました。そこで、いま、山の
頂きがまだ見えないうちに、早くも日が
暮れてしまったのでした。
「あした、ターベルイにいきさえすれば、もう
心配はないんだ。」と、ニールスは思いながら、わらの中にもぐりこんで、あたたまろうとしました。
牝牛は、そのあいだじゅうさわいでいましたが、とつぜん、ニールスにむかって話しだしました。
「おまえさんたちのうちのひとりは、たしか
小人だと言いましたね? もし、ほんとうにそうなら、牛のせわができるでしょう?」
「いったい、何がたりないのさ?」と、ニールスはききました。
「なにもかもないんですよ。」と、牝牛は言いました。「
乳もしぼってもらえないし、せわもしてもらえない。夜の
かいばもなければ、寝るところもない。おくさんは、夕方ここへきて、いつものようにせわをしてくださっていたんですが、急に気もちがわるくなって、いそいで帰ってしまいました。それっきり、こないんですよ。」
「お気のどくだが、ぼくは、このとおりちっぽけで、力もない。」と、ニールスは言いました。「とてもきみのお役にはたてそうもないよ。」
「ちっちゃいからといって、力がないとは思えませんね。」と、
牝牛は言いました。「いままで話に聞いている
小人というのは、みんな力が強くって、車いっぱい
積んだ
枯れ草をひっぱることもできるし、げんこで牛を一打ちに殺すこともできたということですよ。」
それを聞いて、ニールスは、思わずふきだしてしまいました。そして、
「ぼくは、そんな小人とはちがうんだよ。でも、きみの首の
くさりをといて、入口の戸をあけてあげるよ。そうすりゃ、きみはおもてへいって、水を
飲めるだろう。それから、枯れ草の
置場によじのぼって、きみの
桶の中に枯れ草を投げおとしてみるよ。」と、言いました。
「ええ、そうしてもらえば、すこしは助かりますよ。」と、牝牛は言いました。
ニールスは、そのとおりにしました。こうして、牝牛の
桶には、枯草がいっぱいになりました。ニールスは、こんどこそおちついてねられるだろうと思いました。ところが、まだわらの中にもぐりこんだか、もぐりこまないうちに、またも
牝牛が話しかけました。
「もうひとつお
願いがあるんですけど、どうでしょうね?」
「ぼくにできることならばね。」と、ニールスは言いました。
「それじゃ、お願いしますが、このまむかいにある
母屋にいって、おくさんのようすを見てきてください。どうかしたんじゃないかと心配でたまらないんです。」
「いや、そりゃあ、こまるよ。ぼくは人間の前にでていく
勇気はないもの。」と、ニールスは言いました。
「
病気のおばあさんをこわがることはないじゃありませんか。それに、
部屋の中まではいっていかなくても、戸口に立って、すきまからのぞいてくれりゃいいんですもの。」と、牝牛は言いました。
「うん、それだけのことなら、ひきうけたよ。」と、ニールスは言いました。
そこで、牛小屋の戸をあけて、
中庭にでました。ところが、なんという
恐ろしい
晩でしょう。空には、お月さまもお星さまもなく、風がヒュウ、ヒュウとものすごいうなり声をあげ、雨がザア、ザアとはげしくふっています。それに、なによりも恐ろしいことには、
母屋の
軒に、大きなフクロウが七
羽もならんでとまっているではありませんか。そのフクロウたちが、
雨風にむかってうなっている声を耳にしますと、思わずぞっとしてしまいます。しかも、その一羽にでも見つかったら、いったいじぶんの身はどうなるでしょう。そのときこそ、この身のさいごにちがいありません。そう思うと、ますます
恐ろしくなりました。
それでも、ニールスは思いきって、中庭にでました。そして、「ちっぽけなものは、あわれだなあ!」と、ひとりごとを言いました。ほんとうに、そのとおりでした。なぜって、
母屋につくまでに、風のために二どまでも、吹きとばされてしまったのです。一どなどは、水たまりの中に吹きたおされました。しかもその水たまりは深かったので、もうすこしでおぼれそうになりました。でも、ようやくのことで母屋にたどりつきました。
段々をのぼり、しきいをこえて、
玄関にはいりました。部屋の戸はしまっていましたが、すみのほうに、ネコが出はいりできるくらいの
穴があいていました。ニールスは、そこから中のようすをのぞいて見ました。
ところが、ひと
目見たしゅんかん、びっくりして、おもわず頭をひっこめました。
白髪のおばあさんが、
床の上にたおれているではありませんか。身動きもしませんし、うめき声一つあげません。それでいて、顔はふしぎに白く
輝いていました。まるで、
雲間にかくれたお月さまの弱い光に
照らされているようでした。
ニールスは、じぶんのおじいさんが死んだときにも、やっぱりこんなふうに、ふしぎに白い顔をしていたことを思いだしました。そうしてみると、
床の上にたおれているおばあさんは、きっと死んでいるのにちがいありません。おそらく、
寝床にはいるひまもなく、急にたおれてしまったものでしょう。
こんな
暗い
真夜中に、死んだ人とふたりきりかと思いますと、たまらないほど恐ろしくなりました。ころがるように
段々をかけおりて、大いそぎで牛小屋にとんで帰りました。
ニールスが母屋で見てきたことを話しますと、
牝牛はたべるのをやめて、
「それじゃ、おくさんは死んだんですね。すると、このわたしも、もうおしまいですよ。」と、言いました。
「だれか、きみのせわをしてくれる人が、じきにくるよ。」と、ニールスはなぐさめて言いました。
「ああ、おまえさんは知らないけれども、」と、牝牛は言いました。「わたしはね、ふつう
屠殺台につれていかれる牛よりも、
倍も年をとっているんですよ。でも、もうあのおくさんにめんどうをみてもらえないんなら、生きていたいとも思いません。」
牝牛は、しばらくのあいだ、ひとことも言いませんでした。しかし、ニールスが気をつけて見ていますと、牝牛は眠ってもいなければ、草をたべてもいませんでした。そして、やがてまた話しはじめました。
「おくさんは、何もない
床の上にたおれているんですか?」と、牝牛はたずねました。
「そうだよ。」と、ニールスは答えました。
「おくさんは、この小屋へきては、いつも苦しいことを話していましたっけ。わたしには、答えることはできませんでしたが、言うことはみんなわかりましたよ。この二、三日は、じぶんが死んだとき、だれもそばにいてくれないのが、とっても
心配だと言つて
[#「言つて」はママ]いました。死んでも、目をとじてくれたり、両手を
胸の上で
組み
合わせてくれる人のいないのが、気になってしかたがなかったんですね。どうか、おまえさん、もう一どいって、そうしてやってくれませんか?」
ニールスはためらいました。けれども、おじいさんが死んだときには、おかあさんが、なにもかも、うまくしまつしたことを思いだしました。そして、だれかがそうしなければならないんだ、と思いました。とはいっても、こんなきみわるいよなかに、死んだ人のところへいく気にはとてもなれません。ニールスはいやとも言わず、そうかといって、戸口にいこうともしませんでした。
年とった
牝牛は、
返事を待っているらしく、しばらくだまっていました。しかし、ニールスがなんにも言わないので、また話しだしました。でも、もう一どたのもうとするのではなくて、こんどは、おくさんのことを話しはじめました。
話したいことは山ほどありますが、まずさいしょは、おばあさんのそだてた子どもたちのことです。子どもたちは、まいにち牛小屋へきました。そして、夏になると、
沼やこんもりとした森の中に、牝牛をつれていきました。だから、この牝牛は子どもたちのことは、なんでも知っていました。どの子もじょうぶで、ほがらかで、きんべんでした。「ウシというものは、じぶんのせわをしてくれる人が、いい人かどうかを、よく知っているものですよ。」と、牝牛は言いました。
農場についても、いろいろ話がありました。それは、たいへん大きくて、といっても、大部分が
沼や石だらけの
荒れ地だったのですが、いまのようにみすぼらしいものではありませんでした。畑になるようなところこそ、あまりありませんでしたが、
牧草はどこにもたくさん
生えていました。ひところなどは、牛小屋のどの
区画の中にも、牛が一
頭ずついましたし、いまはからっぽになっている
牡牛小屋にも、りっぱな牡牛がたくさんいたものでした。だから、そのころは、
母屋をみても、牛小屋をみても、みんな
陽気で、よろこびにみちあふれていました。おくさんは牛小屋の戸をあけるときは、いつも
鼻歌をうたっていたものですし、牛たちはおくさんがきたのをよろこんで、モウモウとないていたものでした。
ところが、この家のご主人は、子どもたちがまだ小さくて、仕事の手だすけもできないころに死んでしまいました。そのため、おくさんは
農場のことを、いっさいひとりでやらなければならなくなったのです。おくさんは男のようにしっかりした人で、じぶんで
耕しもしたり、とりいれもしました。でも、夕がた、
乳をしぼりに牛小屋へきたとき、くたびれすぎて、泣いていることもありました。しかし、すぐに子どもたちのことを思いだしては、元気になりました。そして、
涙をふきながら、こう言ったものでした。
「なんでもない。なんでもない。あたしにだって、またいい時がくるわ。子どもたちが大きくさえなれば。そうだわ、子どもたちが大きくさえなれば。」
しかし、子どもたちは大きくなりますと、それぞれふしぎなあこがれをもつようになりました。
故郷にいるのがいやになって、みんな遠い
外国へいってしまいました。おかあさんは、子どもたちになにひとつ、手だすけをしてもらったことはありませんでした。それどころか、子どもたちのなかのふたりは、出かけるまえに
結婚していて、うまれた小さい子どもたちを、おばあさんのところにあずけて、いってしまったのです。で、こんどは、この
孫たちが、おばあさんを牛小屋につれてきました。ちょうど、むかし、子どもたちがしたように、孫たちはよく牛のめんどうをみました。ほんとうにいい子どもたちでした。おばあさんは、夕がた、
乳をしぼりながら、くたびれすぎて、いねむりをしそうになりますと、いつも孫たちのことを考えては、気をひきたてるのでした。「わたしにだって、いつかいい時がくるさ。」と、おばあさんは、ねむけをはらいのけながら、言いました。「孫たちが大きくさえなれば。」
ところが、孫たちも大きくなりますと、
外国にいる、おとうさんとおかあさんのところへいってしまいました。だれひとり家にのこるものもなければ、もどってくるものもありませんでした。年とったおばあさんは、この
農場でひとりぽっちになってしまったのです。
おそらく、おばあさんは、
孫たちに、じぶんのそばにいてくれ、とはたのまなかったのでしょう。
「ねえ、赤や。おまえ、孫たちが一
人まえになったときに、ここにいっしょにいてくれ、とたのめると思うかい?」おばあさんは牛小屋へきて、
牝牛のそばに立っては、いつもこう言うのでした。「このスモーランドにいたんじゃ、いつまでたっても
貧乏ぐらしだものね。」
しかし、一ばん下の孫がいってしまったときには、さすがに、おばあさんもすっかりがっかりしてしまいました。急に
腰がまがり、
白髪もふえてきました。そして、あるくのにもよろよろとして、まるで、動く力がなくなってしまったようでした。それからは、
働くのもやめてしまいました。
農場のせわもしなくなりましたし、なにもかも、ほったらかしておきました。家も
荒れはてるにまかせて、
修繕もしませんでした。
牝牛も
牡牛も売ってしまいました。けれども、いまオヤユビくんと話をしている、年とった牝牛だけは売らずにおきました。この牝牛だけは、生かしておきたかったのです。思えば、どの子も、どの
孫も、一生けんめいせわをしてやった牛でしたから。
おばあさんは、
仕事の手つだいに、
下男や
下女をやとうこともできたでしょう。けれども、じぶんの子どもたちが、おばあさんを残していってしまってからは、身ぢかに
他人を見たくなかったのです。それに、じぶんが死んだのちに、子どもたちがもどってきて、この
農場を受けつごうというわけではないのですから、
荒れはてるにまかせておいたほうが、かえってよかったのでしょう。こうして、じぶんのものも、ちっともだいじにしませんでしたから、
貧乏になっても、平気でいました。ただ、じぶんがこんなひどい
暮らしをしていることを、子どもたちが聞かなければいいが、と、そればかりを気にしていました。
「子どもたちの耳に、はいらなければいいが! 子どもたちの耳に、はいらなければいいが!」おばあさんは、牛小屋の中をよろよろとあるきながら、ため
息をついてはこう言いました。
子どもたちは、しょっちゅう手紙をよこしては、おばあさんにもきてくれるように言いました。しかし、おばあさんはいこうとはしませんでした。おばあさんとしては、子どもたちをじぶんから、うばってしまった国などを見たくなかったのです。おばあさんは、その国にたいして
腹をたてていました。
「子どもたちが、あんなにすきな国をきらうなんて、わたしのほうがどうかしているんだろう。」と、おばあさんは言いました。「でも、わたしはそんな国は見たくない。」
おばあさんは、いつもいつも、子どもたちのことと、けっきょく子どもたちは、
外国へいかねばならなかったのだ、ということばかり考えていました。夏になると、おばあさんは
牝牛をつれて大きな
沼にいきました。そして、一日じゅう、手を
着物の中につっこんで、沼のはずれにすわっていました。帰り道には、きまってこう言いました。
「ねえ、赤や、ここがこんなやせた
沼地ばかりでなくって、大きな
肥えた畑もあったら、あの子たちも、よそへはいかなくてもよかったろうにねえ。」
おばあさんは、目の前にひろびろとひろがってはいても、なんの役にもたたないこの沼地にたいして、ほんとうに腹をたてることもありました。そして、子どもたちがじぶんを残していってしまったのは、みんなこの沼地の
せいだと言いたてました。
ゆうべは、おばあさんは、いつもよりもよろよろしていて、とてもあぶなっかしそうでした。
乳をしぼることさえもできませんでした。
かいば桶によりかかりながら、さっきおばあさんをたずねてきて、この
沼地を買いたいと言った、ふたりの見知らぬお
百姓さんのことを話していました。その人たちは、沼の水をほして、畑にしようというのだそうです。この話に、おばあさんはうれしいような、
心配のような気もちになっていました。
「いいかい、赤や。いいかい。この沼にライムギが
生えるようになるんだってよ。さあ、子どもたちに手紙でも書いて、帰ってくるように言ってやろうよ。もうよその国にいっている
必要はないんだよ。だって、これからは、家にいても、たべていけるようになるんだもの。」
その手紙を書くために、おばあさんは
母屋にもどったのでした。――――
ニールスは、
牝牛が話しつづけるのを、もう聞いてはいませんでした。牛小屋の戸をあけて、
中庭をよこぎり、さっきまではあんなにこわがっていた、
死人のいる
部屋にはいっていきました。
部屋の中は、思ったほどみすぼらしくはありませんでした。アメリカに知りあいのある人の家に、よく見られるようなものが、たくさんならんでいました。すみのほうには、アメリカ
製の
揺り
いすがありますし、窓ぎわのテーブルには、美しくぬいとりをしたビロードのきれがかけてあります。それから、ベッドには美しいおおいがかけてあります。
壁には、
外国にいっている子どもや
孫たちの
写真が、
木彫りの
額ぶちにいれられて、かかっています。机の上には、たけの高い
花びんと、ふとい、らせん形のロウソクを立てた、
一対のロウソク立てがおいてあります。
ニールスは、マッチ箱をさがして、そのロウソクに火をともしました。ニールスがそうしたのは、
部屋の中をもっとあかるくするためではなくて、そうすることが死んだ人にたいする
礼儀だと思ったのです。
それから、おばあさんのところへいって、しずかに目をとじてやり、両手を
胸の上に組ませてやりました。そうして、顔にかかっている、うすい
白髪をきれいになおしてやりました。
ニールスは、もうちっともこわくはなくなりました。それどころか、おばあさんが死ぬときまで、子どもたちのことを思いながら、ひとりさびしく
暮らさなければならなかったことを思いますと、心から気のどくになりました。そして、せめてこんや
一晩は、このおばあさんのなきがらを
見守っていてあげようと思いました。
ニールスは、
讃美歌の本をさがしだして、ひくい声で二つ三つ読みはじめました。ところが、読んでいるさいちゅうに、とつぜん、
途中でやめてしまいました。なぜって、急におとうさんとおかあさんのことが頭に
浮かんできたからです。
親というものは、こんなにまで子どものことを思っているんだなあ! ニールスは、いままでそんなことは
夢にも考えたことがありませんでした。子どもが遠くへいってしまえば、まるで生きがいがなくなってしまうんだなあ! そうしてみると、このおばあさんとおなじように、ぼくのおとうさんとおかあさんも、ぼくのことばかり思っているかなあ!
ニールスはこう考えますと、うれしくなりましたが、そう
信じることはできませんでした。だって、いくらなんでも、じぶんみたいな者のことは、だれもそんなに思ってはくれないでしょうから。
でも、いままではそうであったにしても、これからは、じぶんも、もっとちがった人間になるでしょう。
ニールスは、まわりにかかっている、
外国へいってしまった人たちの
写真をながめました。男の人も女の人も、強そうな大きな人たちです。長いヴェールをかぶった花よめもいますし、りっぱな
服をきた
紳士もいます。それから、美しいまっ白な服をきた、まき毛の子もいます。そして、どの人もどの人も、みんな遠くのほうを、じいっと見つめているように見えました。
「あなたがたはかわいそうに!」と、ニールスは
写真にむかって言いました。「あなたがたのおかあさんは死んだんですよ。あなたがたが、おかあさんのそばを、はなれていったことを、いくら
後悔しても、もうそのつぐないはできないんですよ。でも、ぼくのおかあさんはまだ生きているんだ!」
ここで、ことばをきって、ひとりでうなずきながら、ニコニコしました。そして、また、
「ぼくのおかあさんは生きているんだ。おとうさんもおかあさんも生きているんだ。」と言いました。
[#改ページ]
四月十五日 金曜日
ニールスは、ほとんど
一晩じゅう目がさめていました。あけがたになって、すこし
眠りましたが、そのとき、おとうさんとおかあさんの
夢をみました。けれども、ふたりともすっかり年よりになっていて、
白髪が多くなり、顔にはしわがよっていました。いつものおとうさんおかあさんとは思えないくらいでした。ニールスはびっくりして、どうしたんですか、とたずねました。すると、ふたりは、おまえのことばかり考えて
心配しているものだから、こんなに年とってしまったんだよ、と答えました。ニールスは、深く心をうごかされました。と、
同時に、
驚ろきました。だって、いままでは、おとうさんとおかあさんは、じぶんがいなくなって、
喜んでいるだろうと思っていたんですもの。
目がさめたときには、もう朝になっていました。外はあかるい、よいお
天気でした。まず
部屋の中で見つけたパンをたべて、それから、ガチョウと
牝牛に朝のたべものをやりました。さいごに、牛小屋の戸をあけて、牝牛に、となりの
農場へいくように言いきかせました。となりの人たちは、牝牛がひとりでやってきたのを見れば、おばあさんに何か、かわったことでもおこったんだろうと思うでしょう。そして、みんなは、どうしたことだろうと、この
荒れはてた
農場へ
駆けつけてくるでしょう。そうすれば、おばあさんのなきがらを見つけて、お
葬式をしてくれるでしょう。
ニールスとガチョウたちが、空に
舞いあがりますと、まもなく高い山が見えてきました。見れば、その
山壁は、ほとんど切り立っていて、
頂きは切りおとされたようになっています。それこそターベルイ山にちがいありません。頂きには、アッカをはじめ、ユクシ、カクシ、コルメ、ネリエー、ヴィシ、クウシのほかに、六
羽の若いガンたちが三人を待っていました。みんなは、モルテンとダンフィンがうまくオヤユビくんをさがしだしてきたのを見ますと、大よろこびで、うれしそうなさけび声をあげながら、つばさをバタバタやりました。その
喜びさわぐありさまは、まったく、たいへんなものでした。
ターベルイ山の
山腹には、かなり高くまで森が
茂っていますが、山の
頂きには木が一本もありません。そこからは四方八方を見わたすことができます。東を見ても、南を見ても、西を見ても、なにも
生えていない
高地のほかはほとんど何も見えません。そこには、黒々としたモミの森と、
褐色の
沼と、
氷におおわれた
湖と、青みがかった山の
峰とが見えるばかりです。ニールスは、いつかマッツの話していた、昔からの言いつたえを思いだしました。この地方はあまり
骨をおらずに、大いそぎでつくられたという話だ、だがあの話は、たしかにほんとうだ、と思いました。ところが、こちらのほうを見れば、まるでちがっています。こちらは、
恵みぶかい心で、ていねいにつくられているように見えました。こちらのほうには、美しい山々や、低い谷や、ゆるやかにうねっている川がいくつも見えます。そして、それらの川は、ヴェッテルン
湖という、氷一つない、
澄みきった大きな
湖にそそいでいるのです。ヴェッテルン湖は、まるで水のかわりに青い光でもたたえているかのように、キラキラと
輝いていました。
北へのながめをこんなにも美しくしているのは、まぎれもなくヴェッテルン湖です。なぜなら、青い光が一すじ、この
湖から立ちのぼって、それがこの地方ぜんたいにひろがっているように見えるのでした。こんもりとした森や、
丘や、ヴェッテルン
湖の岸べにそって、キラキラ光っているエンチェーピング市の
屋根や、
塔などが、うす青色につつまれて、人の目をひきつけているのです。もしも天上に国があるとすれば、それもやっぱりこんなふうに青いにちがいありません。ニールスは、
楽園というところがどんなふうか、おぼろげながらわかったような気がしました。
ガンたちは、その日、旅をつづけることになって、その青い谷のほうへ飛んでいきました。みんなは、たのしいお
祭り
気分になっていて、鳴いたり、さけんだり、大さわぎをしながら飛んでいきました。
この地方では、きょうが、ほんとうに春らしい、はじめてのいいお天気でした。いままでは、春とはいっても、雨風にたたられてばかりいたのです。それが、きょう急にすばらしい
天気になりましたので、地上の人たちは、あたたかいお日さまの光と、
緑の森が
恋しくなって、じっと仕事をしていることができなくなりました。それで、ガンのむれが
楽しそうに、のびのびと空を飛んできたとき、みんなは手をやすめて、ガンのむれをながめました。
この日、ガンのむれの姿をさいしょに見た者は、ターベルイの
鉱山で、
鉱石を
掘っている
鉱夫たちでした。鉱夫たちは、ガンの鳴く声を耳にしますと、仕事をやめました。そして、
「どこへいくんだ? どこへいくんだ?」と、中のひとりが、ガンたちにむかってさけびました。
ガンたちには、人間のことばはわかりません。それで、ニールスがかわって、ガチョウのせなかから身をのりだして、答えました。
「つるはしもハンマーもないところへ、いくんだよォ!」
鉱夫たちは、このことばをきいたとき、ガンの声が、まるで人間のことばのように聞こえるのは、じぶんたちが心にもっている、あこがれのせいだろうと思いました。そして、
「いっしょにつれてってくれえ! いっしょにつれてってくれえ!」と、さけびました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスはさけびかえしました。
ガンのむれは、ターベルイ川にそって、ムンク
湖のほうに飛んでいきましたが、そのあいだも大さわぎをしていました。このムンク湖とヴェッテルン湖とのあいだのせまい土地には、エンチェーピング市があって、ここには、大きな
工場がたくさんあります。ガンのむれは、まずムンク
製紙工場の上を飛びました。ちょうど
昼休みがおわって、大ぜいの
職工たちが、工場の門をはいっていくところでした。職工たちは、ガンの鳴き声をききつけますと、ちょっと立ちどまって、
「どこへいくんだい? どこへいくんだい?」と、さけびました。
ガンには何もわかりませんでしたが、ニールスがかわって答えました。
「
機械もボイラーもないところへいくんだよォ!」
職工たちは、この答えをきいて、ガンの鳴き声が人間のことばのように聞こえるのは、じぶんたちが心にもっているあこがれのせいだろうと思いました、
[#「思いました、」はママ]そして、
「いっしょにつれてってくれよォ! いっしょにつれてってくれよォ!」と、みんなでさけびました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスはさけびかえしました。
そのつぎには、ガンたちは、ヴェッテルン
湖の岸べにある、
有名なマッチ
工場の上を飛びました。
とりでのように大きな工場で、たくさんの
煙突が、空高く
突きでていました。外にはだれもいませんでしたが、大きな
部屋の中には、若い
女工たちがすわって、マッチを箱につめていました。
天気がいいので、
窓はあけはなされていました。そこから、ガンの鳴き声が聞こえてきました。窓ぎわにすわっていたひとりの女工が、マッチ箱を手にしたまま、窓から顔をだして、
「どこへいくの? どこへいくの?」と、さけびました。
「あかりもマッチもいらない国へ、いくんだよォ!」と、ニールスが答えました。
少女は、ガンが鳴いているのだろうと思いましたが、そのことばが、はっきり耳にはいりましたので、思わず、
「あたしもいっしょにつれてってえ!」と、さけびました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスは答えました。
工場の東にあたる、じつにすばらしい
場所に、エンチェーピング市があります、
[#「あります、」はママ]細長いヴェッテルン
湖の東がわと西がわには、高くてけわしい
砂丘があります。けれども、南がわは、
砂丘の
壁がくずれおちて、まるで大きな門のようになっています。そこを通って、ヴェッテルン湖にでることができるのです。そして、この門のまんなかに、
左てと右てには山をひかえ、うしろにはムンク湖、前にはヴェッテルン湖をのぞんで、エンチェーピング市があるのです。
ガンたちは、この細長い市の上を飛びながら、あいかわらず鳴きさけびました。ところが、この市では、だれも答えてくれる者はありませんでした。むりもありません。市の人たちが通りに立ちどまって、ガンにむかってさけぶなんてことは、考えられませんもの。
やがて、
詩人ヴィクトル・リュドベルイの
胸像のある、
公園の上にきました。公園の中はひっそりとしていて、高い木々の下には、
散歩をしている人の姿も見うけられませんでした。ところが、とつぜん、どこからともなく、力づよい声が、ガンたちの耳に聞こえてきました。
「どこへいく? どこへいく?」
「通りも
広場もないところへ、いくんだよォ!」と、ニールスはさけびました。
「いっしょにつれていってくれ!」と、その力づよい声がさけびました。その声は、まるで
青銅の
のどからでてくるようでした。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスは答えました。
それから、ガンのむれは、ヴェッテルン
湖の岸にそって飛びました。しばらくすると、アンナ
病院の上にきました。
病人が二、三人、
露台にでて、すがすがしい春の空気をたのしんでいましたが、ちょうどそのとき、ガンの鳴き声を耳にしました。
「どこへいくの?」と、その中のひとりが、ほとんど聞きとれないくらいの、
弱々しい声でたずねました。
「
心配も
病気もない国へ、いくんだよォ!」と、ニールスは答えました。
「いっしょにつれていって!」と、
病人は言いました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスはさけびました。
みんなは飛びつづけて、フースクヴァルナにきました。この村は
谷間にあって、ぐるりの山々は、けわしいけれど美しい形をしていました。一つの川が細長い
滝になって、
丘にそって
流れ
落ちていました。山のふもとには大きな
工場がいくつもありました。そして、谷間には小さい庭のある
職工たちの家々が、あちこちに見えました。谷間のまんなかには
学校がありました。ちょうど、ガンがその上にきたとき、おおぜいの
生徒たちがならんで出てきて、たちまち
校庭にいっぱいあらわれました。
「どこへいくの? どこへいくの?」と、子どもたちは、ガンの鳴き声をききつけて、さけびました。
「本も
宿題もないところへ、いくんだよォ!」とニールスは答えました。
「いっしょにつれてってよォ!」と、子どもたちはさけびました。
「ことしはだめ、
来年来年!」と、ニールスはさけびました。「ことしはだめ、来年来年!」
[#改ページ]
ヴェッテルン
湖の
東岸には、オムベルイ山がそびえています。そのオムベルイ山の東には、ダーグスモッセがあり、さらにダーグスモッセの東にはトーケルン
湖があります。そして、トーケルン湖のまわりには、大きなエステルイエータ
平野がひろびろとひろがっています。
トーケルン湖は大きな美しい
湖です。けれども、むかしはもっと大きかったにちがいありません。そのころの人たちは、この湖が、
肥えた
豊かな平野を大きく
占領しているので、その水を
干してしまって、そこに
畑をつくろうとしました。しかし、みんなの考えていたように、湖ぜんぶをうまく干してしまうことはできませんでした。そのために、いまでもこんなに大きいのです。しかし、湖の水を干そうとしてからは、ずっと
浅くなって、いまでは二メートル以上の深さのところは、ほとんどありません。岸べは
沼地のようにどろどろしていますし、
湖の中には、
泥の小島があっちにもこっちにも
水面に顔を出しています。
さて、この湖には、足だけ水の中に入れて、頭と
胴を水のおもてにつきだしたがっているものがあります。それはアシです。しかも、浅くて長くつづいているこのトーケルン湖の岸べと、泥の小島のまわりぐらい、アシが
生えるのにもってこいの
場所はないのです。アシは、人間の
背よりも高く、びっしりと
生い
茂るものですから、
小舟でさえも、その中にわけいることはできません。この湖のまわりにも、みどりのアシが広い
垣をつくっているために、人間はアシを
刈りとった、ごくわずかのところにしか近づくことができないのです。
アシは人間をよせつけないかわりに、ほかのたくさんの
生き物にとっては、
絶好のかくれ場所となるのです。アシのあいだには、静かな
緑の水をたたえた、小さな池や
堀割があります。そこには、ウキクサやヒルムシロがはびこりますし、ボウフラや、魚の子や、オタマジャクシなどが、うじゃうじゃとかえります。そして、こういう小さい池や堀割にそっては、水鳥たちが、
敵におそわれたり、たべものに
不自由する
心配もなく、
安心して、卵をかえしたり、ひなをそだてたりすることのできるところがたくさんあるのです。
このアシのあいだには、信じられないほどたくさんの鳥が住んでいます。しかもそこが、すばらしい
住みかだということが知れわたってしまいましたので、
年々その
数はふえるばかりです。さいしょに、ここに住みついたのは、野ガモでしたが、いまでもまだいく千
羽も住んでいます。しかし、もう湖ぜんぶをひとりで
占領しているわけにはいきません。白鳥や、モグリドリや、黒ガモや、アビや、ハイシロガモや、そのほかたくさんの鳥に
領地をわけてやらなければならなくなりました。
トーケルン
湖は、たしかに、スウェーデンじゅうでも、いちばん大きな、いちばんすばらしい鳥の湖です。ですから、鳥たちは、こういう
隠れ
場所をもっていられるあいだは、身のしあわせをよろこばなければなりません。しかし、これからさき、どのくらいのあいだ、このアシと
泥の岸とを、鳥たちがじぶんのものとしていられるかは、ちょっと
見当がつきません。なぜなら、人間は、この湖が
肥えた
豊かな
平野の大きな
部分に、ひろがっていることを忘れてはいないからです。それどころか、人間のあいだには、またこの湖の水を
干そうかという
相談が、ときおりもちあがっているのです。もしこの
計画が
実行されることになりますと、いく千という水鳥がここから立ちのかなければならないことになるでしょう。
ニールス・ホルゲルッソンが、ガンの仲間といっしょに旅をしていたころ、このトーケルン湖に、ヤッローという名まえの野ガモが住んでいました。ヤッローは、まだ夏と秋と冬としか、すごしたことのない若い鳥でした。ですから、こんどはじめて春をむかえたわけでした。そして、ついさいきん、北アフリカから帰ってきたばかりでした。ヤッローがトーケルン湖に帰ってきたころは、まだ
湖の上には氷がはっていました。
ある夕方、ヤッローは、ほかの若いカモたちといっしょに、湖の上をあっちこっち飛びまわって遊んでいました。と、とつぜん、ヒュウッと二
発の
弾が飛んできて、ヤッローの
胸にあたりました。ヤッローは、もうだめだ、とは思いましたが、かりゅうどにつかまらないように、一生けんめい飛びました。どこへというあてはありませんが、ただ遠くへ遠くへと飛んでいきました。だんだん力が
弱って、もうこれ以上飛ぶことができなくなったときには、トーケルン湖の上をすぎて、湖のほとりにある大きな
農家の上にきていました。そして、とうとうつかれはてて、その農家の入口の前に落ちてしまいました。
まもなく、ひとりの
作男がでてきました。男はヤッローを見ると、つかつかとやってきて、いきなりヤッローをつかまえました。しかし、ヤッローの身になってみれば、ひとりで
静かに死にたいのです。そこで、なんとかしてのがれようと、さいごの力をふりしぼって、作男の指にかみつきました。
ヤッローは
逃げることはできませんでしたが、あばれたおかげで、作男はヤッローがまだ死んでいないことに気がつきました。それで、そっとかかえて、家の中にはいり、おかみさんに見せました。おかみさんは、
親切そうな顔をした若い人でした。そして、すぐに
作男からヤッローを受けとって、せなかをさすってやったり、首の毛から流れおちる血をふいてやったりしました。それから、じっとヤッローをながめました。見れば、頭は
濃緑色につやつやしていて、首すじは白く、せなかは
赤褐色で、つばさは青く、じつに美しい鳥です。で、おかみさんは、このまま死なしてしまうのは、おしいと思いました。そこで、さっそく鳥かごをなおして、ヤッローをその中に入れてやりました。
ヤッローはひっきりなしに、
はねをバタバタやっては、
逃げようとしました。しかし、人間に、じぶんを殺すつもりがないことがわかりましたので、
安心してかごの中でじっとしていました。いまは、
傷の
痛みと
出血のために
疲れきっていることが、じぶんでもよくわかりました。おかみさんは、かごを
炉ばたにもっていきましたが、それをおろしたときには、ヤッローはもう目をとじて、眠っていました。
しばらくすると、ヤッローはだれかにそっとつつかれて、目をさましました。目をあいたとたんに、気が遠くなるほどびっくりしました。ああ、もうだめです! 目の前には人間よりも
肉食の鳥よりも、もっと
恐ろしいものがつっ立っているではありませんか。それはセーサルです。毛の長い、あの
猟犬のセーサルが、いまじぶんをかぎまわっているのです。
去年の夏、ヤッローがまだ毛の黄色い子ガモだったころ、アシのあいだから、「セーサルがきたぞォ! セーサルがきたぞォ!」というさけび声が聞こえるたびに、どんなに恐ろしい思いをしたことでしょう。
恐ろしい
歯をむきだした、茶と白のブチ犬が、アシのあいだをつき進んでくるのを見ますと、それこそ
命のちぢまる思いをしました。そして、セーサルとむかいあったがさいご、もう生きてはいられないと思ったものでした。
ところが、ヤッローは、
運のわるいことに、セーサルのいる
農家に落ちてしまったにちがいありません。なぜって、そのセーサルが目の前にいるではありませんか。
「きさまはだれだ?」とセーサルはうなりました。「どうしてこの家へきたんだ? きさまの家は、あのアシのあいだにあるんじゃないのか?」
やっとの思いで、ヤッローはこう答えました。「ぼくがこの家へきたからって、そんなにおこらないでください、セーサルさん! ぼくのせいじゃないんですもの。ぼくは
弾に
射たれて、けがをしたんです。そしたら、ここの家の人たちが、ぼくをこのかごの中にいれてくれたんです。」
「ふふん。それじゃ、きさまをここにいれたのは、家の人なんだな。そうしてみると、きさまの
傷をなおしてやろうってつもりか。だが、おれはな、きさまなんか
食っちまうほうがいいと思うな。なにしろ、きさまはもうじたばたすることは、できねえんだから。が、とにかく、ここは
安全なところよ。そんなにびくびくするこたあないぜ。ここはトーケルン
湖じゃねえからな。」
こう言うと、セーサルは、まきの
燃えている
炉の前にねそべりました。ヤッローは、おそろしい
危険もぶじにすぎさったかと思いますと、たちまちくたびれを感じて、またもや眠りこんでしまいました。
そのつぎに目がさめたときには、そばに
穀物と水のはいったお
皿がおいてありました。からだはまだ弱りきっていましたが、それでもおなかはすいていましたので、さっそくたべはじめました。おかみさんは、ヤッローがたべているのを見ますと、そばへやってきて、せなかをさすってくれました。そして、たいそう
喜んでいるように見えました。それから、またヤッローは眠りました。こうして、
数日のあいだは、眠ってはたべ、眠ってはたべてばかりいました。
ある朝、ヤッローは、からだぐあいが、だいぶよくなりましたので、かごからでて、
床の上をあるいてみました。ところが、まだいくらもいかないうちに、ころんでしまって、もうおきあがることができなくなりました。と、そこへセーサルがやってきて、大きな口をあけて、ヤッローをくわえました。ヤッローは、もちろんかみ
殺されるものと、かくごしました。けれども、セーサルは、なんにもしないで、そのまま、かごの中へつれていってくれました。このことから、ヤッローはセーサルを、とても
信頼するようになりました。そんなわけで、二どめにあるいたときには、ヤッローはじぶんから、セーサルのところへいって、そのそばにすわりました。それからというものは、セーサルとヤッローは、だいの
仲よしになりました。そして、ヤッローは、まいにち、セーサルの足のあいだにはいって、しずかに眠りました。
けれども、ヤッローは、このセーサルよりも、おかみさんのほうが、もっとすきでした。いまでは、おかみさんを、ちっともこわがらなくなりました。それどころか、えさをもってきてくれるときなどは、おかみさんの手に
喜んで頭をこすりつけました。それから、おかみさんがどこかよそへ出かけるときには、さびしがって鳴きました。そして、帰ってくると、野ガモのことばで、うれしそうにおむかえをしました。
ヤッローは、まえに、犬や人間をあんなにこわがっていたことを、すっかり忘れてしまいました。いまでは、どちらも、やさしい、
親切なものに思われて、心からすきになりました。そして、早くじょうぶになって、トーケルン湖に飛んでいき、みんなに、
敵と思っていた犬や人間は
危険なものではないから、こわがることはない、と教えてやりたいと思うのでした。
この家の人たちも、セーサルも、やさしい目つきをしているので、ヤッローはみんなが大すきでした。ところが、この家にひとりだけ、どうしても目を
合わすのが、いやでたまらないものがおりました。それはネコのクローリナでした。クローリナも、ヤッローにたいしてなんにもわるいことはしませんでしたが、でも、このネコだけはどうしても
信用する気にはなれなかったのです。クローリナは、ヤッローがだんだん人間をすきになるのを見て、しょっちゅう口げんかをしては、
「人間がおまえさんをだいじにしてくれるのは、おまえさんがすきだからだと思っちゃ、まちがいだよ。」と、言いました。「まあ、いまに見ておいで。おまえさんがいいぐあいに
太ってくると、首をしめられちまうんだよ。あたしゃ、これでも人間てものをよく知ってるんだからね。」
ヤッローは、ほかの鳥とおなじように、やさしい心の
持ち
主でした。ですから、ネコがこんなことを言うのを聞きますと、ほんとうに
悲しくなってしまいました。あのおかみさんがじぶんの首をしめる! いや、そんなことは考えられません。ぼっちゃんにしたって、そんなことをしようとは
夢にも思えません。あのちっちゃなぼっちゃんは、何時間ものあいだ、じぶんのかごのそばにすわって、かわいい
片言でおしゃべりをしているではありませんか。ヤッローは、じぶんがおかみさんとぼっちゃんを大すきなのとおなじように、ふたりのほうでも、じぶんが大すきなんだと思っていました。
ある日、ヤッローとセーサルがいつもどおり、
炉の前にすわっていますと、クローリナがかまどの上からヤッローをからかいはじめました。
「ヤッローさん、トーケルン
湖の水が
干されて、
畑になったら、おまえさんたち野ガモは、
来年は、いったいどうなさるんだね?」
「なんですって、クローリナさん?」と、ヤッローはさけびながら、びっくりしてとびあがりました。
「そうそう、おまえさんは、セーサルさんやあたしとはちがって、人間のことばがわからないんだったね。」と、ネコは答えました。「さもなけりゃ、きのう、この家にいた人たちが話していたことを聞いたはずだもの。みんなはね、トーケルン湖の水を
干してしまうから、
来年は、
湖の底が
部屋の
床のようにかわいてしまうだろうって言ってたのさ。だから、そうなったら、おまえさんたち野ガモは、どこへいくのかと思ってね。」
ヤッローは、この話を聞きますと、すっかり
腹をたててしまいました。
「きみは、黒ガモみたいにひきょう者だね!」と、ヤッローはクローリナにむかってどなりました。「きみは、ぼくを人間ぎらいにさせたいんだろう。だけどぼくは、人間がそんなことをしようとは思わないね。だって、あのトーケルン湖が野ガモのものだってことは、人間だって知っているはずだもの。あんなにたくさんの鳥を
宿なしにして、ふしあわせになんかするものか。きみは、ぼくをおどかそうと思って、そんなことを言ってるんだろう。きみなんか、ワシのゴルゴさんに
八つ
裂きにされちまうといいや! そんなひげなんか、おくさんに切られちまうといいや!」
しかし、これだけ言っても、まだクローリナをだまらせることはできませんでした。
「じゃあ、おまえさんは、あたしがウソを言ってると思ってるんだね。」と、クローリナは言いました。「それなら、セーサルさんにきいてごらんよ。セーサルさんも、ゆうべは家にいたんだからね。それに、セーサルさんはけっしてウソは言わないよ。」
「セーサルさん、」と、ヤッローはセーサルにむかって言いました。「きみは、クローリナなんかよりも、人間のことばがずっとよくわかるね。クローリナの言ってることはウソだねえ! だって、もしトーケルン湖を
干して、畑にしてしまったら、いったいどういうことになると思う。野ガモには、ヒルムシロもエビもなくなっちまうし、子ガモには、ボウフラも、魚の子も、オタマジャクシもみんななくなっちまうんだよ。それに、アシもなくなっちまうから、子ガモが
飛べるようになるまで
隠れていられるところもなくなっちまうんだ。そうなりゃ、いやでも野ガモはあそこを立ちのいて、新しい
住みかをさがさなきゃならない。でも、トーケルン湖のようないい
隠れがは、どこにもありゃしない。ねえ、セーサルさん、クローリナはウソをついてるんだねえ。」
この話のあいだのセーサルのようすは、じつにみょうなものでした。ついさっきまでは、たしかに目をさましていたのですが、ヤッローがセーサルのほうをむいたとたんに、大きなあくびをして、長い
鼻づらを
前足の上にのせたかとおもうと、たちまち、ぐうぐうねこんでしまったのです。
ネコはずるそうなうす笑いをうかべながら、セーサルを見おろしました。
「セーサルさんは、おまえさんに
返事をするのがいやらしいね。」と、ネコはヤッローに言いました。「セーサルさんだって、ほかの犬とおなじように、もし人間が
悪いことをやれば、だまっちゃいないよ。まあ、とにかく、あたしの言うことは、ほんとうさ。人間が
湖を
干したがるわけを、いま聞かしてやるよ。おまえさんたち野ガモがトーケルン湖をひとりじめにしていたころは、人間だって湖を干そうなんて思やしなかったのさ。だって、おまえさんたちは役にたつんだからね。それが、いまじゃ、モグリドリだとか、黒ガモだとか、たべられもしない、いろんな鳥が、ほとんどアシを
占領しちまっている。それで人間は、そんな鳥のために
湖をほったらかしておくことはないって考えたってわけさ。」
ヤッローは、もうクローリナには答える
必要はないと思いましたが、セーサルの耳もとでこう言いました。
「セーサルさん、きみも知ってのとおり、トーケルン
湖には、いまでもまだ、たくさんの野ガモがいるんだよ。それをみんな人間が
宿なしにしてしまうなんて、そんなことはウソだねえ。」
そのとき、セーサルはとつぜんはねおきて、クローリナにおどりかかりました。ネコは、あわてて
棚の上にとびあがりました。
「やい、やい、おれがねたいときにゃ、ちったあ
静かにしているもんだ。」と、セーサルはかみなりのような声でどなりつけました。「もちろん、おれだって、ことし、あの
湖を
干すって話のあることぐらい、知ってらあ。だが、こんな話は、いままでにもたびたびあったって、一どだって
実行されたためしがねえんだ。それに、湖を干すなんてこたあ、おれの知ったこっちゃねえ。あの湖が干されちまったら、
狩りはいったいどうなるんだ。そんなことをいい気になってしゃべりたてやがって、この大ばかやろう。トーケルン
湖に鳥が一
羽もいなくなったら、おればかりか、きさまだって、おもしろいことはなくなっちまうじゃねえか。」
四月十七日 日曜日
二、三日しますと、ヤッローは、すっかり
元気になって、家じゅうを飛びまわることができるようになりました。おかみさんはたいそうかわいがってくれますし、ぼっちゃんは庭にかけていっては、春の新しい草をむしりとってきてくれます。
ヤッローは、いまではもう、いつでもすきなときに、トーケルン
湖へ飛んで帰れるほど、すっかりじょうぶになりました。でも、おかみさんがやさしくなでてくれたりしますと、そんなときには人間たちから、はなれたくないような気になるのでした。いや、それどころか、死ぬまで人間のところにいたいと思うようにさえなりました。
ところが、ある朝早く、おかみさんはヤッローの首に
輪なわをかけました。そのため、ヤッローはつばさが
使えなくなりました。それから、おかみさんはヤッローを、いちばんさいしょに
中庭で見つけた
作男にわたしました。作男はヤッローをかかえて、トーケルン
湖にいきました。
湖の
氷は、ヤッローが
病気でねているうちに、すっかりとけてしまいました。
去年の秋のアシは、
岸べや小島のまわりに、まだ
枯れのこっていましたが、新しい
水草は底深くに根をおろして、その
緑のさきは早くも水の上にまでとどいていました。そして、たいがいの渡り鳥がもう湖の
古巣にもどってきていました。タイシャクシギのかぎ
型をしたくちばしが、アシのあいだからのぞいていますし、モグリドリは首のまわりに新しい毛なみをみせて、しずかに
泳ぎまわっています。それから、コシギたちは、
巣をつくろうとして、さかんに、わらを集めています。
作男は
小舟に
乗って、ヤッローを
舟底におきました。それから、さおをさして湖の中にでていきました。ヤッローは、このごろでは、人間はいいものとばかり
信じていましたので、そばにいるセーサルにむかって、じぶんは、湖につれてきてくれた、この人にとっても
感謝している、と言いました。だけど、じぶんは
逃げるつもりはないんだから、こんなにきつくしばらなくったっていいのに、とも言いました。セーサルはなんとも
返事をしませんでした。そして、けさはまた、ひどくだまりこんでいます。
ただ一つ、ヤッローが
へんに思ったのは、その男が
鉄砲をもっていることでした。あの
農家のいい人たちが鳥を
射とうなんて、そんなことはとうてい信じられません。それに、セーサルの話では、いまごろはだれも
猟にでかけないということでした。
「いまは
禁猟期なのさ。」と、セーサルは言いました。「もちろん、わしには
関係はないがね。」
作男は、アシでかこまれている
泥の小島にこいでいきました。そこで、小舟からおりて、
枯れたアシを集めて、高くつみかさねました。そうして、そのうしろに
腰をおろしました。ヤッローは、首に
輪なわをかけられ、長いひもで小舟につながれていましたが、そこらをあるきまわることができました。
そのとき、まえにこの
湖で、ヤッローといっしょに遊んだことのある若い野ガモたちの姿が見えました。みんなは遠くにいましたが、ヤッローは二、三ど、大きなさけび声をあげて呼びかけました。すると、たくさんの野ガモたちがそれに答えながら、近づいてきました。けれども、みんなのくるのが待ちきれずに、ヤッローは、じぶんが
奇蹟的に助かったことや、人間が
親切なことを話しはじめました。と、そのとき、うしろでダン、ダンという
鉄砲の音がしました。とたんに、三
羽の野ガモがアシのあいだに
射ちおとされました。と、見るより早く、セーサルがとんでいって、野ガモたちをくわえてきました。
これで、ヤッローには、なにもかもわかりました。人間たちは、じぶんを
おとりに使おうと思って、
助けたのです。しかも、それはみごとに
成功したのです。野ガモが三羽も、じぶんのために殺されたではありませんか。はずかしくて、もう生きてはいられません。これでは、友だちのセーサルにも見さげられるでしょう。家へ帰ってからも、ヤッローは、いつものように、セーサルのそばへいって、ねようとはしませんでした。
つぎの朝も、ヤッローはまた、その小島につれていかれました。こんどもまた、野ガモたちの姿が見えました。けれども、みんながじぶんのほうへ飛んできそうになりますと、そのたびにさけびました。
「あっちへ! あっちへ! 気をつけたまえ! アシの山のうしろには、かりゅうどが、かくれているんだよ。ぼくは
おとりなんだから!」
こうして、みんなが
弾のとどくところに近づかないように、うまくかばってやりました。
ヤッローは、見はりにいそがしくて、草の葉をつついているひまは、ほとんどありませんでした。鳥が近づいてくるとみれば、ただちにあぶないとさけびました。黒ガモは、野ガモたちのいちばんいい
隠れがをとってしまうので、ふだんは大きらいでしたが、その黒ガモたちにさえも知らせてやりました。いまは、じぶんのために、どんな鳥をもふしあわせな
めにあわせたくなかったのです。こうして、ヤッローが
警戒していたために、男は家へ帰るまで、とうとう
一発も
射つことができませんでした。
それにもかかわらず、セーサルは、きのうよりも、きげんがよくなったようでした。夕がたには、ヤッローを口にくわえて、
炉のそばへつれていき、じぶんの足のあいだで
眠らせました。
しかし、ヤッローは
部屋の中にいても、もう、すこしも
楽しくはありませんでした。それどころか、じぶんの身をたいそうふしあわせに
感じました。人間たちがじぶんを、ほんとうにかわいがってくれているのではないと思いますと、たまらなくなりました。おかみさんや、ぼっちゃんがそばにきて、なでてくれても、くちばしをつばさの下につっこんで、眠ったふりをしました。
いく日かのあいだ、ヤッローはこんな
悲しい見はり
番をさせられました。ですから、ヤッローのことも、いまでは、
湖じゅうに知れわたっていました。
ある朝のこと、いつものように、「みんな、気をつけたまえ! ぼくに近よっちゃいけないよ! ぼくは
おとりなんだから!」とさけんでいますと、むこうのほうからこの小島にむかって、モグリドリの
巣が一つプカプカと
浮いてきました。といっても、これはべつにかわったことではありません。それは
去年の巣でしたが、モグリドリの巣というものは、ボートのように、水の上を動くことができるようにつくられているのです。それで、湖の上に
浮いていることもよくあるのです。けれども、ヤッローはその小島に立って、その巣をじっと見つめていました。なぜかと言えば、その巣は、まるでだれかが乗って
舵でもとっているように、まっすぐこの小島のほうへむかってくるのです。
だんだん近づいてくるのを見れば、その
巣の中には、いままで見たこともないほどのちっぽけな人間がすわって、二本の小さな
棒でこいでいるではありませんか。そのとき、そのちっぽけな人間がヤッローにむかってさけびました。
「おーい、ヤッロー、いつでも飛べるように、できるだけ水ぎわに近よっているんだぜ。いますぐ
自由にしてやるよ。」
それからすぐに、その
巣は小島の近くにつきました。けれども、そのちっぽけなこぎてはすぐにでてこないで、枝とわらとのあいだにちぢこまって、かくれていました。ヤッローもほとんど
身動き一つしませんでした。その小人が、いまにも見つかりはしないかと、ハラハラして、じっとかたくなっていたのです。
と、つづいてガンの一むれが飛んできました。それと見るや、ヤッローは、はっとわれにかえって、
危い、と大声で
注意しました。ところが、ガンたちは、それでも、この小島の上を
何回も何回もいったりきたりするのです。ガンたちは、
弾がとどかないほど高いところを飛んでいますが、男は、つい
射ってみたくなって、思わずダン、ダンと二発射ってしまいました。と、そのとたんに、そのちっぽけなものは、小島にとびあがって、小さなナイフをさやから引きぬくが早いか、すばやくヤッローの
輪なわを切りはなしました。そして、
「さあ、飛ぶんだ、ヤッロー、
弾をつめかえないうちに!」と、さけびながら、モグリドリの巣にとびのって、いそいで
岸をはなれました。
男はガンにばかり気をとられていましたので、ヤッローが
逃げるのには気がつきませんでした。しかし、セーサルのほうは、よく見はっていました。で、ヤッローがつばさをあげたとたんにおどりかかって、
首っ
玉をくわえました。
ヤッローは、あわれなさけび声をあげました。すると、ヤッローを
逃がしてくれたチビスケが、おちつきはらって、セーサルに言いました。
「おまえの心が、おまえの
姿とおなじようにりっぱだったら、こんなおとなしい鳥に、
おとりのようないやしい仕事をさせておきゃあしないだろうなあ!」
セーサルはこれを聞きますと、にくにくしそうに
上くちびるをむいて、
歯を見せました。が、すぐに、ヤッローをはなしてやりました。そして、
「飛んでいけよ、ヤッロー!」と、セーサルは言いました。「まったく、おまえはひとがよすぎて、
おとりにゃなれない。おれが、おまえをとめておこうとしたのは、そのためじゃない。おまえがいなくなると、家の中が、さびしくなっちまうからなのさ。」
四月二十日 水曜日
ヤッローがいなくなってからは、家の中がほんとうにさびしくなりました。犬とネコとは、もうヤッローのことでけんかをすることもなくなったものですから、まいにち、たいくつでしかたがありませんでした。おかみさんにとっても、いままで、じぶんが、家の中へはいるたびに、
喜んで鳴きさけんだヤッローの声が聞けなくなりました。けれども、ヤッローをいちばん
恋しがったのは、ぼっちゃんのペール・オーラでした。オーラはやっと、三つになったばかりで、この家のひとりっ子でした。オーラは、これまでにヤッローのようないい
遊び
相手をもったことはありませんでした。ですから、ヤッローがトーケルン
湖の野ガモたちのところへ帰ってしまったと聞かされても、どうしても、あきらめることができませんでした。そして、どうしたらヤッローをつれもどせるだろうかと、そればかり思っていました。
ペール・オーラはヤッローがかごの中にいたとき、ヤッローとなんども話をしました。そしてこの子は、じぶんの言ったことが、ヤッローにわかったものと思いこんでいました。それで、ヤッローをさがして、家へもどるように言いきかせたいから、いっしょに
湖へつれていってくれ、と、なんどもなんどもおかあさんにせがみました。もちろん、きいてはもらえませんでしたが、それでも、なかなか、あきらめようとはしませんでした。
ヤッローがいなくなったつぎの日に、ペール・オーラは
中庭をかけまわって、いつものようにひとりで
遊んでいました。セーサルは
段々の上にねそべっていました。おかあさんはオーラをおもてにだすときには、いつもこう言いました。
「セーサルや、オーラに気をつけておくれよ!」
なにもかもが、ふだんどおりだったら、セーサルもこの言いつけをよく
守って、子どもを
危いところに近よらせるようなことはしなかったでしょう。ところが、このごろのセーサルは、いつものセーサルとはちがっていました。それは、トーケルン
湖の
附近に住んでいる
百姓たちが、湖を
干す
相談をいくどもして、いよいよそれがきまりかかっていることを知っていたからです。そうなれば、野ガモたちは立ちのかなければなりませんし、セーサルじしんも、あのすばらしい
狩りをすることができなくなってしまうでしょう。こんないやなことばかり考えていましたので、セーサルは子どものお
守りを、つい忘れてしまっていました。
いっぽう、オーラは
中庭にいるのは、じぶんひとりきりだと見てとりますと、いまこそトーケルン
湖にいって、ヤッローと話をする
絶好の
機会だと思ったのでしょう。
小門をあけて、せまい道を
湖のほうにむかっておりていきました。家から見えるあいだは、ゆっくりあるいていましたが、見えなくなると、たちまち足を早めました。
オーラは、おかあさんか、だれかに
呼びとめられやしないかと、びくびくしていました。べつにいたずらをするつもりはなく、ただヤッローをつれもどしたいだけなのですが、家の人に知れたら、きっと、とめられるだろうと思っていたのです。
ペール・オーラは
岸べについたとき、ヤッロー、ヤッローと、なんども、なんどもよんでみました。それから、長いあいだ立って待っていました。けれども、ヤッローは
姿を見せませんでした。野ガモらしい鳥はいく
羽もいましたが、みんな、オーラのほうなどは見むきもしないで、飛んでいってしまいました。それで、オーラにも、その中にはヤッローはいないのだ、ということがわかりました。
いつまでたっても、ヤッローの姿が見えないので、
湖の上にでていったら、もっとかんたんに見つかるだろうと思いつきました。見れば、岸べには、いい舟がいくそうもあります。どれもこれもしっかりとつないでありますが、ただ一つ、古い、水のもる
小舟だけは、すぐにほどけそうです。しかし、それはとても
使いものにはなりません。けれども、オーラは、そんなことにはおかまいなく、やっとのことで、水びたしの舟の中にはいこみました。そしてまだ
かいでこぐだけの力がありませんので、すわりこんで舟をゆすぶりはじめました。もちろん、ゆすったぐらいでは、おとなだって舟をだすことはできないでしょう。ところが、水
かさが
増していたりして、ひょっとしたはずみには、小さな子どもでも、舟を
湖にのりだすことができるものです。ペール・オーラも、まもなくトーケルン
湖にのりだして、大すきなヤッローの名まえをしきりに
呼びまわりました。
こうして、この
古ぼけた小舟が、湖の上でゆられているうちに、小舟のあちこちにある
裂けめがだんだん大きくなって、水がますますしみこんできました。ところが、ペール・オーラは
平気なものです。前のほうの小さな
舟板に
腰かけて、鳥の姿を見るたびに、ヤッロー、ヤッローと呼びました。そして、どうしてヤッローが姿を見せないのかと、ふしぎがっていました。
とうとう、ヤッローはペール・オーラの姿を見つけました。と、
同時に、だれかが、人間のつけてくれたヤッローという、じぶんの名まえを呼んでいるのを耳にしました。で、はじめて、このちいさなぼっちゃんが、トーケルン
湖まで、わざわざ、じぶんをさがしにきてくれたのだということがわかりました。ヤッローは、人間がじぶんをほんとうにかわいがってくれているということを知って、なんともいえないほど、しあわせな気もちになりました。そこで、すぐさま、ペール・オーラのところへ
矢のように飛んでいきました。そしてぼっちゃんのとなりにすわって、うれしそうに、からだをこすりつけました。ふたりはめぐりあったよろこびに、むちゅうになっていましたが、とつぜん、ヤッローは舟のありさまに気がつきました。舟は水びたしになっていて、いまにも
沈みそうではありませんか。ヤッローは、なんとかしてぼっちゃんに、早くおかにあがるようにしなければいけないことを知らせようとしました。といって、ぼっちゃんは
飛ぶことも
泳ぐこともできません。それにぼっちゃんには、ヤッローの言うことが、ちっともわかりません。こうなっては、
一時のゆうよもならないので、ヤッローは、
救いをもとめに、いそいでどこかへ飛んでいきました。
しばらくして、ヤッローがもどってきました。見れば、せなかに、ペール・オーラよりもずっと小さいものをのっけています。もしも、それがしゃべったり、動いたりしなかったら、オーラはきっとお
人形だと思ったでしょう。ところが、そのチビさんは、すぐオーラに
舟底にある細長いさおを取って、アシの島のほうにむかって、舟をうごかすように言いつけました。ペール・オーラは言われたとおりにして、ふたりは力をあわせて舟を
進めていきました。まもなく、アシにかこまれた小さな島につきますと、オーラはいそいで島にあがるように言われました。そして、オーラが島に足をおろしたとたんに、舟はすっかり水をかぶって、
沈んでしまいました。
ペール・オーラはこれを見て、きっと、おとうさんとおかあさんに、おこられるだろうと思いました。そして、もうすこしで
泣きだしそうになりました。が、ちょうどそこへ、一むれの大きな
灰色の鳥が飛んできて、島におりましたので、それに気をとられてしまいました。すると、そのチビさんは、オーラをそのむれのところへつれていって、みんなの名まえをオーラに
教えてやったり、みんなの言っていることを話してやったりしました。それがとってもおもしろいので、オーラは、ほかのことはなにもかも
忘れてしまいました。
そのあいだに、ヤッローは大いそぎで、
農家に飛んでいって、セーサルにぼっちゃんのいるところを知らせてやりました。そこで、セーサルはヤッローのあとについてきて、
岸から
泥の小島に
泳いでわたりました。見れば、ぼっちゃんは
枯れたアシの山の上にすわって、ガンや野ガモたちに取りかこまれて、うれしそうにキャッキャッと笑いながら
遊んでいます。
セーサルは長いことその小島にいましたが、それは、ぼっちゃんのためばかりではありませんでした。うまれてはじめて、セーサルはトーケルン
湖の鳥たちと
仲よしになったのです。そして、鳥たちの、りこうなのには、ただ、ただ
驚いてしまいました。そのうちに、みんなは、ヤッローから聞いたけれども、この
湖を
干してしまうという話は、ほんとうかと、セーサルに聞きました。
「まだきまったわけじゃないがね、」と、セーサルが言いました。「あした、さいごの
相談をすることになっているんだよ。しかし、どうやら、こんどはきまりそうだね。あんたたちにとっては、まったくお気のどくだよ。だけど、ぼくの身になったって、こんなにいい
猟場がなくなっちまうんだから、じょうだんごとじゃないさ。」
ヤッローの話していたことが、いまのセーサルの話で、いよいよほんとうとわかりますと、鳥たちはなげき
悲しみました。このことが、つぎからつぎへとつたえられて、湖じゅうに知れわたりますと、いたるところに
悲しみの声があふれました。小さなアシスズメから、気ぐらいの高い
白鳥にいたるまで、みんなが、なげき
悲しみました。ふだんは仲のわるい野ガモと黒ガモも、いっしょになって
恐ろしい
さいなんのきたことを悲しみました。
やがて、セーサルが家に帰ろうとしたとき、ガンの
隊長のアッカが言いました。
「わしは、通りがかりの
渡り
鳥だから、わしにとっては、どっちでもいいことなんだが、もしおまえさんが、ほんとうに、このトーケルン
湖の鳥たちを、このままにしておきたいと思うんなら、このぼっちゃんのいどころを、すぐご
両親に
教えちまっちゃいけないよ。」
セーサルは、目をまんまるくして、じっとアッカを見つめていましたが、
「きみは、まったくりこうだね。」と、言いました。
「そりゃあ、いままでにずいぶん、いろんな
めにあっているからね。」と、アッカが言いました。「それにしても、じぶんの子をなくすってのは、とってもつらいことなんだよ。」
「おれは、きみの
忠告にしたがうことにするよ。」と、セーサルは言いました。「そのかわり、ぼっちゃんのことは、たのんだよ。」
いっぽう、
農家の人たちは、ペール・オーラの
姿が見えないので、びっくりしてさがしはじめました。
納屋から、
井戸から、
地下室までも、みんなさがしてみました。おもての道や、
小道にもでてみました。もしかしたら、となりの
農場に
迷いこみはしなかったかと、そこへもいってみました。とうとうしまいには、トーケルン
湖の
岸べもさがしてみました。しかし、いくらさがしても、オーラの姿は見えません。
犬のセーサルは、家の人たちが、ぼっちゃんをさがしまわっていることは、ちゃんと知っていましたが、オーラのいるところへ、
案内してやろうともせずに、知らん顔をして、ねころんでいました。
その日おそくなってから、
舟着場で、オーラの足あとが見つかりました。そして、みんなは、いつも岸にあった水びたしの古い
小舟がなくなっているのに気がつきました。これで、なにもかもが、はっきりしてきました。
そこで、すぐさま、人びとはオーラをさがすために、舟をだしました。そして、夕方おそくまで、湖じゅうをさがしましたが、オーラの姿は
影も
形もありません。それで、あの古い小舟は
沈んでしまい、子どもは湖におぼれて死んだものと考えるよりほかなくなりました。
晩がたになっても、オーラのおかあさんは、岸べをさがしまわっていました。ほかの人たちは、みんな、オーラは、おぼれてしまったものと思いこんでいましたが、おかあさんだけは、どうしても、そう
信じることができなかったのです。アシやトウシングサのあいだをわけてさがしたり、どろだらけの岸べをあるいたりしました。足がどんなにもぐろうと、
着物がどんなにぬれようと、いまはそんなことにかまってはいられません。おかあさんの心は、
絶望のあまり、いまにもはりさけそうです。
両手をふりしぼりながら、
訴えるように、わが子の名まえを大きな声で呼びあるきました。
あたりには、白鳥やカモやタイシャクシギの
鳴き
声がしていました。おかあさんには、なんだかこの鳥たちも、
悲しみなげきながら、じぶんのあとからついてくるような気がしました。
「ああして悲しそうに鳴いているところをみれば、この鳥たちにもきっと
心配事があるのにちがいないわ。」と、おかあさんは思いました。けれども、すぐまた、「いいえ、鳥ですもの、ああして鳴いていたって、きっとなんの
悲しみもないのだわ。」と、思いかえしました。
ところが、ふしぎなことには、お日さまが
沈んでからも、鳥の鳴き声はいっこうにしずまりませんでした。それどころか、
湖じゅうに
住んでいる、それこそ
数えきれないほどたくさんの鳥が、いっせいに悲しい鳴き声をあげているではありませんか。中には、おかあさんのあとを、どこまでもどこまでも、ついてくるものもありますし、また
軽く
羽ばたきながら、飛び立っていくものもあります。しかも、どの鳥もどの鳥も、なげき悲しんでいるのです。
悲しみに悲しんだあげく、おかあさんの心はいくらかおちついてきました。すると、ほかの
生き
物も、人間と、たいしてかわらないような気がしてきました。そう思えば、鳥たちの悲しんでいるようすが、まえよりも、ずっとよくわかるような気がします。鳥にしたって、人間とおなじように、家のことや子どものことが、いつもいつも気になるにちがいありません。たしかに、人間と鳥のあいだには、そんなに大きなちがいはないのです。
そのとき、おかあさんは、ふと、湖を
干す話を思いだしました。これはもうほとんど、きまったもおなじですが、そうなったら、いく千という白鳥や、カモや、モグリドリが、このトーケルン
湖の
住みかを
失うことになるのです!
「鳥にとっては、この上もなく
悲しいことね。」と、おかあさんは思いました。「そうなったら、みんな、いったいどこへいって、ヒナを
育てるのかしら?」
おかあさんは立ちどまって、いろいろと考えてみました。「たしかに、
湖を
干して、
畑や
牧場にするのは、
利益のある、いい
計画にちがいないわ。でも、トーケルン湖でない、ほかの湖だっていいわけだわ。こんなにもたくさんの鳥が住んでいない湖にすればいいんだわ。」
「あしたは、湖を干すかどうかが、いよいよきまるんだったわ。」と、おかあさんは考えつづけました。それが、そのまえの日のきょう、かわいい、わが子がいなくなったのには、なにかわけがあるのではないだろうか、と思ってみました。
神さまが、ああいうひどい
行いをやめさせるために、きょうのうちに、こんな悲しみをくだされて、あたしの心を動かそうとなさっているのではないかしら?
おかあさんは、いそいで家にもどって、オーラのおとうさんに、このことを話しました。湖のこと、鳥のこと、それから、オーラがいなくなったのは、つまりは、神さまが、じぶんたちにくだされた
罰にちがいないと思われること、などを話しました。すると、おとうさんも同じ考えでした。
このふたりは、すでに大きな
土地をもっていましたが、もし湖をうまく干すことができれば、それこそ、その土地が、
倍ちかくにもなるのです、
[#「なるのです、」はママ]そんなわけで、ふたりは、ほかの
地主たちよりも、この
計画にたいしては、ずっと
熱心でした。ほかの人たちは、
費用がかかりすぎることや、またこんども、まえのときのように、うまくいかないのではないか、と心配していました。それをオーラのおとうさんが、
説きつけて、この
計画をたてることになったのです。それは、おとうさんもよく知っていました。オーラのおとうさんとしては、じぶんが
親からもらった
土地を、子どもには、
倍にして
残してやりたいと思っていたからです。そこで、おとうさんは
弁舌のかぎりをつくして、みんなを説きつけたわけでした。
それが、おりもおり、いよいよ、その
相談がきまろうというまえの日になって、わが子の
命がトーケルン湖にうばわれたということは、きっとなにか
神さまの
思し
召しがあるのにちがいありません。ですから、おかあさんがいろいろ言うまでもなく、おとうさんもすぐに、
「うん、
湖を
干すのは、神さまの
御心に
反するのかもしれない。あした、このことをみんなに話してみよう。おそらく、湖はもとのままにしておくことになるだろうよ。」と、言いました。
ふたりがこんな話をしているとき、セーサルは
炉の前にねそべっていました。そして、頭をおこして、じっと耳をすまして聞いていました。やがて、事のなりゆきがわかりますと、おかあさんのところへあるいていって、すそをくわえて、
戸口に引っぱっていきました。
「まあ、セーサル!」と、おかあさんは言いながら、すそをふりはなそうとしました。そして、「おまえ、オーラがどこにいるのか、知ってるのかい?」と、ききました。
すると、セーサルはうれしそうに、ワン、ワン
吠えては、戸にからだをぶっつけました。おかあさんが戸をあけますと、セーサルはトーケルン
湖のほうにむかって
駆けだしました。おかあさんも、セーサルがきっと、オーラのいどころを知っているにちがいないと思いましたので、そのあとについて
走っていきました。そして、岸まできますと、たちまち湖のむこうから、子どもの
泣き
声が聞こえてきました。
ペール・オーラは、オヤユビくんや鳥たちといっしょに、ほんとに
楽しい一日をすごしました。けれども、いまは、おなかがすいてきたのと、
暗くなってきたのがこわくて、泣きだしたのでした。でも、おとうさんとおかあさんとセーサルが、むかえにきてくれたのを見て、オーラは大よろこびしました。
トーケルン湖の鳥たちは、うれしそうに
羽ばたきながら、美しいお月さまの光をあびて、みんなが家へ帰っていくのを
見送っていました。
[#改ページ]
八月二十二日 金曜日
ある
晩、ニールスがトーケルン
湖の中の小島で
眠っていますと、
かいの音がするので、びっくりして目をさましました。けれども、目をあけたとたんに、まぶしい光が目にさしこんで思わずパチパチとやりました。
湖の上で、こんなにキラキラ光るのは、いったいなんだろうと考えてみましたが、さいしょのうちは、さっぱり
見当がつきません。でも、だんだん目がなれてきますと、一そうの
小舟がアシのきわにいるのが見えました。そして、その
せんびにとりつけた
鉄の
棒の上で、大きなたいまつがさかんに
燃えているのでした。赤い
ほのおは、暗い夜の湖に、あかあかとうつっていました。そして、そのあかるい光が、
魚をよび集めたのにちがいありません。
ほのおの下の水の中には、たくさんの魚が集まって、ひっきりなしに
泳ぎまわっていました。
小舟には、年とったふたりの男が
乗っていました。ひとりは、すわって、
かいをにぎっていました。もうひとりは、かかりのあるみじかい
もりを持って、
せんびに立っていました。こいでいるほうの男は、見たところ、
貧しい
漁師のようでした。こがらで、やせこけて、いかにも
雨風に打たれたという顔をしていました。そして、うすっぺらな、すりきれた
上着を着ていました。どんな
天気にでも、外にいるのになれているらしく、寒いのなどは、
平気のように見えました。もうひとりのほうは、
太っていて、身なりもりっぱで、
何不足ないお
百姓さんのようでした。
小舟が、ニールスのいる小島のむこうがわにきたとき、お百姓さんが、「とめろ!」と、言いました。と、
同時に、はげしく水の中に
もりを
突っこみました。
もりを引きあげたときには、みごとなウナギが突きささっていました。
「こいつを見てくれ!」と、お百姓さんは、ウナギを
もりからはずしながら、言いました。「いいウナギじゃないか。もうこのくらいでたくさんだ。ぼつぼつ帰ろうか。」
けれども、もうひとりの男は、
かいも動かさないで、あたりをながめていました。そして、
「こんやは、すごくいいなあ!」と、言いました。じっさい、そのとおりでした。湖の上は風一つなく、水の上は
鏡のように、なめらかで、ただ小舟の通ったあとだけが、たいまつの光に
照らされて、
黄金の道のように、キラキラと光っています。
すみわたった、あい色の空には、お
星さまがいちめんにきらめいていました。
岸べは、アシの小島にかくされて見えませんが、西のほうには、オムベルイ山が高く、黒ぐろとそびえていて、いつもよりもずっと大きく見えました。そして、まるい
大空の
一角を、
三角形にくぎっていました。
お
百姓さんは、まぶしい光から顔をそむけながら、あたりを見まわしました。
「なるほど、ここはきれいだなあ。」と、お百姓さんは言いました。「だが、この
地方でのいちばんいいものは、
風景の美しさじゃないよ。」
「じゃあ、いったい何がいちばんいいんです?」と、
かいをにぎっている男はききました。
「つまり、ここは、あがめられ、
尊敬されている地方なんだ。」
「そりゃあそうです。」
「そして、これからさきも、ずっとそうだとわかっているのさ。」
「どうして、そんなことがわかるんです?」と、こぎてがたずねました。
お
百姓さんは、からだを
起こして
もりにもたれかかりました。
「わしの家には、むかしから
語りつたえられている古い話がある。その話で、これからさき、エステルイエートランドにどんな事がおこるか、ちゃんとわかるのさ。」
「じゃあ、わたしにもそれを聞かせてください。」と、こぎては言いました。
「ほんとうは、だれにも話さないことになっているんだが、むかしからの知りあいにかくしておこうとも思わない。」と、お百姓さんは言って、話しはじめました。その話しぶりからみますと、だれかに聞いたのを、そらでおぼえていて、それをそのまま話しているようでした。
「このエステルイエートランドのウルヴォーサに、ずっとむかし、ひとりの
婦人がいた。その婦人は、
将来どんな事がおこるかを、まるでいままでおこった事がらを言うように、ぴったりと言いあてることができた。そのことが広く知れわたると、
近所の人たちはもちろんのこと、遠くからも大ぜいの人びとがやってきて、いろんな事を
占ってもらった。
ある日のこと、その婦人が
広間にすわって、糸をつむいでいると――これは、そのころの
習慣だったんだ――ひとりの
貧しい
百姓がはいってきて、
戸口の
腰かけに腰をおろした。
『あなたは、そうして、いま何を考えていらっしゃるんですか?』と、しばらくして百姓が言った。
『あたしは、
気高い、
清らかなもののことを考えているのです。』と、婦人は答えた。
『それでは、わたしの気にかかっていることを、おたずねするのは、やめておいたほうがいいですね。』と、百姓は言った。
『おまえの気にかかっているというのは、きっと、おまえの
畑で
穀物が、たくさんとれるかどうか、というようなことでしょう。でも、あたしは、いつも、
王さまからは、
王冠がどうなるだろうとか、
法王からは、
鍵がどうなるだろうとか、そういうようなことばかりきかれているのですよ。』
『そんなことは、かんたんに答えられるものじゃございませんね。』と、百姓は言った。
『ところで、わたしは、あなたが答えてくださったことに
満足して帰るものは、ひとりもないと聞いておりますが。』
百姓がこう言うと、
婦人はくちびるをかみしめながら、身を起こして、
腰かけに腰をおろした。
『そんなうわさを聞いているんですね。』と、婦人は言った。『それでは、おまえのききたいことを言ってごらん。そうすれば、おまえが
満足するような
返事を、あたしがしてあげるかどうかが、わかるでしょう。』
そこで、百姓は、えんりょせずに、ききたいと思っていたことを言った。つまり、この百姓は、エステルイエートランドが、このさき、どうなるだろうかということをききにきたのだった。この百姓にとっては、じぶんのうまれた
土地ほど、だいじなものはなかったのだ。だから、じぶんの死ぬ日までに、このことがはっきりわかったら、どんなにかしあわせだと思っていたわけだ。
『そう、おまえのききたいことが、それだけなら、きっとおまえを
満足させられると思いますよ。なぜなら、エステルイエートランドは、いつになっても、ほかの地方に
誇れるようなものをもっていると、
予言できますからね。』と、
賢い
婦人は言った。
『はい、それはありがたいことです。でも、どうしてそういうことになれるのか、それがわかりさえしましたら、ほんとうに
満足できるのですが。』と、
百姓は言った。
『どうして、そんなことを言うのです?』と、婦人は言った。『おまえは、エステルイエートランドが、いまでも、もう
有名なのを知らないのですか? それとも、アルヴァストラや、ヴレタの
僧院や、リンチェーピングの美しい
教会のようなものを、もっていると
誇れるところが、スウェーデンのどこかにあるとでも思っているの?』
『そうかもしれませんが、』と、百姓は言った。『わたしは、年をとっておりますので、人間の心がかわりやすいものだということを、よく
存じております。ですから、アルヴァストラやヴレタにたいしても、またエンチェーピングの教会にたいしても、人びとが
尊敬をはらわなくなるようなときが、いつかきはしないかと、
心配なのです。』
『それは、おまえの言うとおりかもしれないけれど、』と、婦人は言った。『だからといって、あたしの
予言を
疑わなくてもいいのですよ。あたしは、こんど、ヴァードステーナに新しい
僧院を
建てさせますが、それは、この北の地方で一ばん
有名なものになるでしょうよ。
身分の高い人もひくい人も、みんなそこへお
参りにやってきて、そのような
神聖な
場所のあるこの地方を、ほめたたえることになるでしょう。』
百姓は、いまのお話をうかがって、たいへんうれしい、と答えた。しかし、この百姓は、どんなものも、いつかはほろびるものだ、ということを知っていた。それで、そのヴァードステーナ
僧院の
名声がおちてしまったら、いったい何がこの地方の
評判を高めることになるだろうかと
疑った。
『おまえは、なかなか
満足しないのね。』と、
婦人が言った。『でも、あたしには、もっとさきのことが見とおせます。ヴァードステーナ僧院の
栄誉がくずれないうちに、そのすぐそばに
御殿が建てられて、それがその
時代では、もっともすばらしいものとなるでしょう。
王さまをはじめ
諸侯が、そこにお見えになるのよ。そして、そういうすばらしい御殿のあることが、この地方の
名誉となるでしょう。』
『それをうかがって、うれしゅうございます。』と、百姓は言った。『しかし、わたしは年とっておりますので、そういうこの世の
華やかなものが、やがてどうなるか、よく
存じております。で、その
御殿がほろびることになったら、いったい何が人びとの目を、この地方にひきつけておくことになるのでしょう。』
『おまえは、いろいろのことが知りたいのね。』と、婦人は言った。『でも、あたしには、もちろんそのさきも見とおせます。フィンスポングのまわりの森が
開発されて、そこに
製鉄場や、
鍛冶場が
建てられるでしょう。そして、この地方は、鉄を製するので、名高くなると思います。』
百姓は、それを聞いて、たいへんよろこんだ。
『けれども、フィンスポングの
製鉄場のぐあいが悪くなったときには、それにかわって、エステルイエートランドの
誇になるようなものは、もう何もなくなると思いますが。』
『おまえは、なかなか
承知しないのね。でも、あたしには、そのさきも
予言できます。がいせんした
将軍たちが、
湖の
岸に、御殿のように、りっぱな大きい
別荘を建てるようになります。このすばらしいたくさんの
別荘が、やっぱりこの
地方の
名誉になるのです。』
『でも、だれもその大きな別荘をほめないようなときがきましたら?』と、
百姓は言った。
『けっして、心配はいりませんよ。』と、
婦人は言った。『ヴェッテルン
湖の近くの、メデヴィの
平原に、
鉱泉がわきでるようになります。そして、その鉱泉のおかげで、この
地方は
有名になるでしょう。』
『それは、たいへんうれしいお話ですが、人びとが、ほかの鉱泉にいくようになりましたら?』
『そんなことを
心配する
必要はありません。そのうちには、ムタラからメームにかけて
運河が
掘られます。そして、その運河によって、エステルイエートランドの
名声は、国じゅうに知れわたります。』
それでも、まだ
百姓は
心配のようだった。
『ムタラ川の
急流では、
水車がまわりだしますよ。』と、
婦人は言ったが、いらいらしてきたので、ほおは赤くほてってきた。『そして、ムタラでは
槌の音がひびきますし、ノルチェーピングでは
織機の音が聞かれます。』
『それは、けっこうなお話ですが、』と、百姓は言った。『しかし、すべては、はかないものですから、そういうものも、いつかは忘れられ、すてさられてしまうだろうと思いますが。』
百姓が、これでも
満足しないのを見ると、婦人はとうとうがまんができなくなった。
『おまえは、どんなものもほろびてしまうと言うけれども、』と、婦人は言った。『それでは、いつまでたってもかわらないものを言いましょう。それは、この地方には、おまえのように、
強情で、こうまんな百姓が、いつまでも、あとをたたないということです。』
婦人が、こう言いおわるかおわらないうちに、百姓は、うれしそうな顔をして、
満足げに立ちあがった。そして、婦人が
親切に答えてくれたことを
感謝して、じぶんはこれでやっと満足しました、と言った。
『あたしには、おまえの気もちがよくわかりません。』と、婦人は言った。
『つまり、わたしには、こう考えられるのです。』と、百姓は答えた。『
王さまや、
坊さんや、
貴族や、
商人などが
建てるものは、ごくわずかの
年月しか、つづかないものだと思います。けれども、いまあなたが、エステルイエートランドには、
名誉を
愛する、がんこな百姓たちが、いつまでもあとをたたないだろうとおっしゃったのをうかがいまして、それこそ、この
地方の
名誉を、いつまでも、もちつづけていくものだと思いました。なぜなら、土とともに
働く者のみが、その地方の
評判をいつまでも
保っていくことができるのですから。』」
[#改ページ]
四月二十三日 土曜日
ニールスは、空高くを飛んでいきました。下を見おろせば、エステルイエートランドの
大平野がひろがっています。ニールスは、こんもりとした森のあいだに見える、白い
教会の
数をかぞえていましたが、すぐに五十になりました。それからあとは、ごちゃごちゃになって、ちゃんとかぞえることができなくなりました。
たいていの
農家が、
白塗りの大きな二
階建てでした。どの家も、いかにもりっぱに見えるので、ニールスは
感心して、
「このあたりには、お
屋敷しかないところを見ると、お
百姓はいないんだな。」と、ひとりごとを言いました、
[#「言いました、」はママ]
すると、すぐにガンの
仲間がいっせいにさけびました。
「ここのお百姓は、
金持ちのような
暮らしをしているんだよ! ここのお百姓は、金持ちのような暮らしをしているんだよ!」
平野の上では、
氷も
雪も
消えて、もう春の
仕事がはじまっていました。
「あの
畑の上をはっている、長いカニみたいなのは何だろう?」と、しばらくしてニールスがたずねました。
「
すきと
牡牛だよ、
すきと牡牛だよ。」と、ガンが答えました。
牡牛は、畑の上をノロノロとあるいているものですから、動いているのがほとんどわからないくらいです。それを見て、ガンたちは、
「そこへいくのに
来年までかかるぜ! そこへいくのに来年までかかるぜ!」と、牡牛にむかってさけびました。
ところが、
牡牛たちは平気なものです。
鼻づらを上にむけて、モウと大声で言いました。
「おれたちはな、おまえらみたいな
宿なしが、一生かかってするよりも、もっといいことを一時間のうちにやってのけるんだぞ!」
二、三の
場所では、馬に
すきを引かせていました、
[#「いました、」はママ]馬は牛よりも、ずっとキビキビ
働いていましたが、ガンたちは、つい、馬もからかわずにはいられませんでした。
「きみたちは、牡牛のすることなんかやって、はずかしくないのかい?」と、ガンたちはさけびました。
「おまえたちこそ、
年じゅう、のらくらしていて、はずかしくないのか?」と、馬はいななきかえしました。
しかし、馬や牡牛は、畑で働いていましたが、
納屋の前の
庭では、
牡羊がぶらついていました。この羊は、近ごろ毛を
刈りとられたために
怒りっぽくなっていて、小さな子どもを
押したおしたり、犬を犬小屋へ
追いかえしたりして、まるでその庭が、じぶんひとりのもののような顔をして、いばってあるきまわっていました。
「羊さん、羊さん、あんた、毛はどうしたの?」と、そのとき、
牡羊の上に飛んできたガンたちがたずねました。
「ノルチェーピングの
羊毛工場へ、やっちゃったよお!」と、牡羊があとを長くひっぱって、答えました。
「羊さん、羊さん、あんた、
角はどうしたの?」と、ガンたちが、またたずねました。
ところが、この牡羊は、角なしなので、角のことをきかれるのが何よりもくやしいのです。それで、すっかり
腹をたてて、しばらくは、めちゃめちゃに
駈けまわったり、
空をついたりしました。
いなか道を、ひとりの男が、スコーネ
産のブタのむれを追いながらやってきました。まだうまれて、二、三
週間ぐらいの子ブタたちでしたが、これから
売られるところでした。みんなは小さいけれども、
勇ましくあるいていました。そして、たがいに
助けをもとめようとでもするように、ぴったりとかたまりあっていました。
「ブウ、ブウ、ブウ、ぼくたちは、小さいうちに、おとうさんとおかあさんに
別れてしまった。ブウ、ブウ、ブウ、こんなあわれなぼくたちは、いったいどうなるんだろう?」と、子ブタたちは言いました。
ガンたちも、こんなあわれな生き物をからかう気にはなれません。
「
心配しないでもだいじょうぶ。なんとかなるよ。」と、ガンたちはさけびながら、飛びすぎました。
ガンたちは、
平地の上を飛ぶときぐらい、
楽しいことはありません。そんなときには、
農場から農場へと飛んでいっては、つぎつぎに
家畜をからかってやるのです。
ニールスがこうして
平野の上を飛んでいたとき、ふと、だいぶまえに聞いた話を思いだしました。はっきりとは思いだせませんが、なんでも、それは女の人の
着物のことでした。その着物は、
半分は
金で
織ったビロードでできていて、もう半分は、
灰色の
手織の
布でできていました。けれども、その着物を持っている人は、灰色の布のほうに、たくさんの
真珠や
宝石をかざりつけて、金のビロードのほうよりも、美しくりっぱに見せていたという話でした。
いま、ニールスが、エステルイエートランドを見おろしたとき、その
手織の
布を思いだしました。エステルイエートランドは、大きな
平野ですが、北と南にむかって、こんもりとした森の
茂っている山がのびています。その二つの
山並は、朝の光を受けて、まるで、
黄金のヴェールにつつまれているように、青くキラキラと
輝いていました。いっぽう、平野そのものは、冬のなごりの
裸の
畑がつづいているばかりなので、灰色の手織の布よりも美しいとは言えませんでした。
けれども、人びとは、この平野が
豊かで、
親切なのに、
満足したものでしょう。できるだけこれを
飾りたててやろうとしました。ニールスがガチョウのせなかから見おろしますと、町や、
農場や、
教会や、
工場や、お
城や、
停車場などが、大小さまざまの
飾りもののように、まきちらされているように見えました。
屋根は、お日さまの光をうけて、キラキラと輝き、窓ガラスは、
宝石のように、きらめいていました。
黄色い、いなか道や、ぴかぴかした
鉄道線路や、青い
運河などが、村々のあいだを、
縫いとりしたように走っていました。リンチェーピング市は、宝石のまわりに
真珠をはめこんだようなぐあいに、その
伽藍のぐるりを取りまいていました。
農園はブローチかボタンのように見えました。あまり
整然と飾りたててはありませんが、その美しさは、いつまで見ていてもあきることはありませんでした。
ガンたちは、オムベルイ
地方を
去って、イエータ
運河にそって東に飛びました。ここでは、夏のためのじゅんびをしていました。
人夫たちが運河の
堤をなおしたり、大きな
水門にタールを
塗ったりしていました。
どこをながめても、人びとは気もちよく、春をむかえようとして、いそがしそうに立ち
働いていました。町なかもやっぱりそうでした。家の外では、
左官やペンキ屋が、
足場をきずいて、家のまわりを
塗っていますし、中では
女中たちが、窓ガラスをきれいにふいています。
港では、
帆船や
汽船をさかんに
修理しています。
ノルチェーピングで、ガンたちは
平野をはなれて、コルモールデンのほうにむかって飛びました。しばらくのあいだ、がけっぷちをうねったり、
絶壁の下を通っている、けわしい
旧道について進んでいきました。と、とつぜん、ニールスが
鋭いさけび声をあげました。ニールスはガチョウのせなかにまたがって、足をぶらぶらやっているうちに、
片っぽうの
木靴がぬげてしまったのです。
「おい、モルテン、モルテン!
靴がぬげちゃったよォ!」と、ニールスはさけびました。
ガチョウは、すぐにむきをかえて、
地上におりていきました。ところが、ぐうぜんにも、ふたりの子どもが、その道をあるいてきて、
落したニールスの靴をひろいあげてしまいました。それと見るや、ニールスはあわてて、
「モルテン、モルテン!」と、さけびました。「また上へ飛ぶんだよ! おそすぎたんだ! あの
靴はひろわれちまったよ!」
下の道では、ガチョウ
番のオーサと弟のマッツが、空から落ちてきた、ちっぽけな
木靴を見ながら立っていました。
オーサは、しばらくだまったまま、この
拾い物のことを考えていました。それから、ゆっくりと、考え考え言いました。
「マッツちやん
[#「マッツちやん」はママ]、あんたおぼえている? ほら、あたしたちがエーヴェードスクローステルを通ったとき、
農家の人たちが、職人みたいに、
革の
半ズボンに、
木靴をはいた
小人を見たって言ったでしょう? それからさ、ヴィットシェーヴレにいったときには、
木靴をはいた
小人がガチョウのせなかに
乗って飛んでいくのを見たって、女の子が話してたじゃないの? それにね、マッツちゃん、あたしたちだって、家へ帰ったとき、それとおなじかっこうをした小人が、ガチョウのせなかに乗って飛んでいくのを見たじゃないの? いまこの木靴を落して、飛んでいったのは、それとおなじ
小人じゃないかしら?」
「うん、きっとそうだよ。」と、マッツは言いました。
ふたりは、木靴をさかんにひっくりかえしては、
珍らしそうにながめていました、
[#「いました、」はママ]だって、小人の木靴が、道に落ちているなんてことは、めったにありませんもの。
「お待ちよ、マッツちゃん!」と、オーサがさけびました。「こっちがわに、なにか書いてあるよ。」
「あっ、ほんとうだ。でも、ずいぶんちっぽけな字だね。」
「あたしに見せてごらん! ええと――ええと、『西ヴェンメンヘーイのニールス・ホルゲルッソン』」
「こんなふしぎなことってあるかねえ!」と、マッツが言いました。
第一編 おわり
[#改ページ]
さて、みなさん、ニールスは、ガンのむれといっしょに目ざすラプランドまでいき、それからまたなつかしいおとうさん、おかあさんの家まで、ぶじに帰ってくることができたでしょうか。「ニールスのふしぎな旅」
続編のあらすじを、つぎにご
紹介いたしましょう。
ニールスとガンのむれは、それからも空の
旅をつづけました。みんながスウェーデンの
都のストックホルムの
上空へ飛んできたときには、もう五月にはいっていました。それまでにも、ニールスはいろいろな土地にいって、その土地の古い
伝説を聞いたり、大きな町や
都会を
見物したり、美しい
景色を
楽しんだりしてきました。それからまた、いまにもクマに
食われそうになりながら、そのクマが人間にねらわれていることを教えてやって、
危いところを
救ってやったり、もと
羊飼いをしていたオーサとマッツの
きょうだいが
凍りついた
湖の上を歩いているとき、きゅうに氷がとけはじめて、ふたりがどうしていいかこまっているのを助けてやったり、かずかずのりっぱな
行いもしてきました。
五月六日の朝、ガンのむれが
朝霧をついて、メラール
湖の上を飛んでいくと、湖の上に高い
塔や、長い
窓ガラスのある家々が見えてきました。けれども、流れる霧のために、そのような
景色はすぐまたかくれてしまいました。なにもかもが水の上に静かに
休らっているようでした。やがて、お日さまの光がすこしもれてきますと、霧はバラ色にそまりました。そして、あるいは青く、あるいは赤く、あるいは黄色く、色さまざまに
輝きながら流れていきました。下のほうに見える家々は、お日さまの光ででもできているように、キラキラと輝き、窓ガラスや高い塔は、火のように赤くもえていました。まるで、この世のものでないようなながめでした。この「水の上に
浮かぶ
都」こそ、ストックホルムだったのです。
ところが、ここでニールスはガチョウのせなかから
落っこちて、
猟師につかまってしまいました。でも、さいわい、ストックホルムのスカンセンという
公園の
番人のおじいさんにもらわれて、
一月ばかりその公園の中でくらしました。それから、そこの動物園につかまっていたゴルゴという大ワシを
助けてやり、そのせなかに乗って、ガンのアッカたちのあとを追ったのでした。
それからは長い旅がつづきました。森また森、山また山の上を飛びつづけて、オンゲルマンランドやヴェステルボッテンをすぎて、北へ北へと進みました。この北の地方には、スウェーデンの国にとっていちばんだいじな
森林や
鉱山がたくさんありました。
ニールスはいつまでもつづく同じような
景色にあきあきして、ワシのせなかで
うとうとしはじめました。そうして、いつのまにか、ほんとうに
寝こんでしまいました。やがて目がさめてみますと、どうやら谷間の
奥にいるようでした。あたりを見まわしても、大ワシのゴルゴの
姿がどこにも見えません。そういえば、いよいよラプランドにきたよ、とゴルゴが言っていたっけ。じゃあ、このへんにアッカたちがいるのかもしれない。ニールスはこう思って、みんなをさがしに、そろそろと歩きだしました。
六月十九日の朝早くのことです。
谷間はひっそりとしていて、まだお日さまはのぼっていませんでした。ニールスが二あし三あしいくかいかないうちに、なんだかきれいなものが目にはいりました。近よってみますと、それは草むらの
巣の中にいるメスのガンでした。そばには、オスのガンが立っています。気がついてみれば、草むらや
地面のくぼみに、あっちにもこっちにも、ガンの巣がいっぱいありました。ガンたちはまだみんな
眠っていました。
久しぶりにガンの姿を見たニールスは、うれしくてうれしくてたまりません。ふとむこうを見ますと、草のかげに白いものが見えます。ニールスは
胸をおどらせながら、かけよりました。見れば、細いヤナギの草むらの中に、あのかわいらしいダンフィンが
卵をだいているではありませんか! そばには、白ガチョウのモルテンが、ダンフィンを
守るようにして、立っています。ああ、なつかしいモルテンに、やっとめぐりあえたのです! 思わずしらず、
熱い
涙がこみあげてきました。アッカはと見れば、ずっとむこうの、いちだんと高いところにすわっています。まるで、谷じゅうを見はっているようでした。
「アッカおばさん、おはよう!」と、ニールスはかけよりながらさけびました。
アッカは、ニールスの姿を見つけるが早いか、飛んできました。そして、うれしそうにニールスにとびついて、くちばしで頭のてっぺんからつま
先まで、なでまわしました。
そこで、ニールスは、みんなと
別れてからのことをすっかり話しました。そして、
「それから、アッカおばさん、いま話したスカンセン
公園にはね、ズルスケのやつもつかまってたんですよ!」と、話してきかせました。「あいつはぼくたちをさんざん
苦しめたけど、あそこで、しょんぼりしているところを見たら、ほんとにかわいそうになりましたよ。そのうちに、ぼく、ラプランド
犬から、ひとりの男がキツネを買いにきているって話を聞いたんです。その人はどこかの島に
住んでるんだそうですけど、なんでもその島ではキツネをみな
殺しにしてしまったんで、そのため、ネズミがうんとふえてきたんですって。それで、こんどは、ネズミをたやすために、またキツネをつれていくことにしたんですって。ぼく、その話を聞いたから、すぐにキツネの
おりのところにとんでいって、ズルスケに言ってやりました。
『おい、ズルスケ、もうすぐ、ここへキツネを買いにくる人があるから、その人がきたら、おまえ、かくれたりしないで、おとなしくつかまるんだよ。そうすりゃ、また
自由になれるから。』
そしたら、ズルスケのやつ、ぼくの言うとおりにしたんです。だから、いまごろはその島へいって、きっと自由にとびまわっているでしょうよ。どうですか、アッカおばさん、ぼくのやったことはいいことでしょうか?」
「ああ、わたしだってそうしたろうよ!」と、アッカは
満足そうに答えました。
ラプランドの夏もすぎて、いつのまにか、九月の
末になりました。地上は見わたすかぎり、いちめんの雪におおわれて、まっ白です。雨や
嵐の日が多くなりました。たまにお天気の日があっても、すぐに
氷がはってしまいました。こうなっては、もうこのラプランドに、いつまでも、ぐずぐずしているわけにはいきません。さいわい、ひなどりたちもすっかり大きくなって、
はねも強くなりました。そこで、十月一日の朝早く、アッカを
隊長として、三十一
羽のガンが南をめざして飛びたちました。くるときいっしょにいた六
羽の若いガンがいなくなって、そのかわりに、新しく生まれたガンが二十二羽加わっていたのです。若いガンたちは、さいしょは旅になれないので、もうくたびれちゃったとか、おなかがへったとか、ブツブツ
不平ばかりこぼしていましたが、だんだんなれるにつれて、みんなといっしょに元気よく飛んでいきました。
みんなは南へ南へと飛びつづけ、イエムトランドをすぎ、ダラルナをへて、やがてヴェルムランドにはいりました。こんどもいったときと同じように、ニールスはいくさきざきで、
珍らしい
伝説を聞いたり、美しい
風景をながめたりしていました。こうして、日一日と生まれ
故郷に近づくのを心から
楽しみにしていました。ところが、そうしたある日のこと、カラスのバタキーから思いがけないことを聞かされました。ニールスは、いまのいままで、白ガチョウをぶじに家までつれていってやりさえすれば、自分は
魔法をとかれて、もとの人間にもどれるものとばかり思っていました。ところが、どうでしょう。ほんとうは、白ガチョウを家へつれていっても、ニールスのおかあさんがガチョウを殺さなければ、ニールスは人間にもどれないというのです。それを聞いたときの、ニールスの
驚きはどんなだったでしょう! あのモルテンを、どうしてそんなかわいそうな
めにあわせることができましょう! そうかといって、このままでは、じぶんは人間にもどることはできません。ニールスの心は、すっかり
暗くなってしまいました。
十月六日、ガンたちはクラレルフ川にそって、ムンクフォルスまで飛びました。そこからフリューケン
湖をさして西にむかって飛んでいきましたが、まだ
湖にいきつかないうちに、もう暗くなりはじめてしまいました。ガンたちは森の中の
沼地に
泊まり場所を見つけて、そこに
舞いおりました。けれども、ニールスにはねるような所がありません。そこで、ただひとり森をぬけて、やがて、とある
屋敷のまえにでました。
あたりに人の姿が見えないのをさいわい、ニールスは庭の小道のそばにあるリンゴの木から、まっかなリンゴをもぎとりました。そして、その木の下の
芝生に
腰をおろして、小さく切りはじめました。と、そのとき、頭の上でかすかなうなり声がしたかと思うと、一
羽のフクロウが
舞いおりてきました。ニールスは、ここはどこですか、ときいてみました。すると、フクロウは、ここはモールバッカというお
屋敷だよ、と答えました。ところが、このフクロウは、こんやはさっぱり
獲物がなくて、プンプン
腹をたてていたところでした。で、このチビスケをやっつけてやれとばかりに、ニールスのすきをうかがって、さっと
襲いかかりました。ニールスは両手でフクロウをふせぎながら、助けてえ! と声をかぎりにさけびました。
ここで、ちょっとお話がかわります。ニールスがガンたちといっしょに空の旅をつづけていたちょうどその年に、ひとりの
小説家のおばさんが、小学校で使う
読本にスウェーデンのことを書きたいと思って、いっしょうけんめい考えていました。このおばさんのつもりでは、クリスマスからつぎの年の秋までのことを、いろいろおもしろく書きたいと思っていたのです。それが、まだ一
行も書けないので、すっかりこまってしまいました。そしてとうとう、「子どもたちのためになる、まじめな本、それもウソをひとことも書かない本、そういうような本は、わたしにはとても書けそうもない。だれかほかの人に書いてもらうほうがいい。」と、思いました。でも、そうは思っても、おばさんは、なかなかあきらめることができませんでした。そのうちに、ふと、こんなにじぶんが書けないのは、
年がら
年じゅう、
壁だの
街路だのしか目にはいらない、こういう町なかにいるからじゃないだろうか。いなかへいって、
畑や森でも見れば、うまく書けるかもしれない、と思いつきました。
このおばさんはヴェルムランドうまれの人でした。それで、まず
故郷のヴェルムランドのことから書いてみようと思いました。あそこにはおもしろい話や
行事がたくさんある。クリスマスや、お正月や、お
祭りのようすなどを書けば、子どもたちはきっと
喜ぶだろう。おばさんはそう思って、ペンを取りました。こういうことを、おばさんははっきりとおぼえていたのです。それなのに、いざ書こうとすると、どうしてもペンが進まないのです。これは、どうしても故郷に帰るよりほかはありません。
けれども、おばさんのうまれた
家屋敷は、いまでは、知らない人の手にわたっていました。ですから、じぶんのいなかとはいえ、
気軽に帰るわけにはいかなかったのです。もちろん、おばさんがたずねていけば、いまいる人たちも、きっと気もちよくもてなしてくれるでしょう。けれど、おばさんとしては、その人たちと話をしなければならないのが、ひどく
おっくうでした。
そうはいっても、おばさんはうまれた家がなつかしくてたまらず、思いきって出かけていきました。
屋敷の入口で馬車をおりたときは、もう
夕闇がたちこめていました。おばさんは大きなカエデの木の下にたたずんで、あたりを見まわしました。すると、ふしぎなことに、ハトのむれが、おばさんの足もとにバラバラと
舞いおりてきました。ハトというものは、お日さまが
沈んでからは飛ばないものですが、こんやは、あんまりお月さまが美しいので、ついさそいだされて、飛びだしてきたのにちがいありません。それとも、おばさんをなつかしがって、
迎えにきてくれたのでしょうか。おばさんのほうでもハトの
姿を見て、なつかしそうに話しかけました。
やがて、ハトが飛んでいったとき、庭のほうでキャッというさけび声がしました。おばさんがかけよってみますと、ちっぽけな
小人が、フクロウを
相手にむちゅうで
戦っているではありませんか。おばさんはあっと
驚いて、思わずその
場に立ちすくんでしまいました。けれども、小人のさけび声が、ますますあわれっぽくなってきましたので、おばさんは、ふたりのあいだに分けてはいりました。すると、フクロウはすばやく木の上に飛びあがりましたが、小人のほうはそのままそこに立ちどまっています。
「おかげで
助かりました。ありがとう、おばさん!」と、その小人は言いました。「だけど、フクロウのやつがあそこで見はってるから、ぼく、帰れません!」
「じゃ、あんたの家まで、わたしが
送っていってあげればいいでしょう。」と、おばさんは言いました。
「ぼく、ほんとうは、
一晩じゅうこの家にいるつもりだったんです。」と、小人は言いました。「でも、どこか
安全な
寝場所を教えてくだされば、あしたの朝まで家に帰らなくってもいいんですけど!」
「わたしに、寝場所を教えてくれって? それじゃ、あんたはここに住んでいるんじゃないの?」
「ああ、おばさんはぼくをほんとの小人だと思ってるんですね。ぼくは、おばさんとおんなじ人間なんですよ。こんな姿になってはいますけど。」
「まあ、
驚いた! いったい、どうしたわけなの? 話してちょうだいな!」
そこで、ニールスはいままでの
冒険を話しはじめました。話がすすむにつれて、おばさんはますますびっくりしました。なんという
珍らしい話だろう! おばさんは心の中で
喜びました。
「まあ、ガチョウのせなかに乗って、スウェーデンじゅうを
旅行してまわった子どもに
会うなんて、あたしはなんて
運がいいんでしょう!」と、おばさんは思いました。「この子の話してくれたことをそのまま書けば、本になるわ。もう、これで心配はいらない! やっぱり家に帰ってきてよかったこと!」
それから、ガンたちはすこし
廻り道をして、
一月ばかりたった十一月の八日に、いよいよヴェンメンヘーイに近づきました。
霧がうっすらとかかって、空はどんよりと
曇っていました。みんなが
昼寝をしているとき、アッカがニールスのそばにやってきて、
「とうぶんお天気がいいようだから、あしたあたり、バルト
海をこそうと思っているよ。」と、言いました。
「ええ、いいですとも。」と、ニールスは答えました。ニールスとしては、白ガチョウが
殺されるくらいなら、じぶんはこのまま人間にはもどらずに、みんなといっしょに
旅をつづけよう、と
腹をきめていたのです。とはいうものの、こうして、家の近くまできてみますと、やっぱり、おとうさん、おかあさんはじめ、なにもかもがなつかしくてたまりません。
「だが、おまえの家は、ここからすぐ近くなんだよ。遠い
旅に出るまえに、一ど家へ
寄っていったらどうだい? 小人の話じゃ、おまえがいなくなってからというもの、おとうさんは
運が
悪くって、
借金はかさなるし、だいじな
牝牛は二
頭までも売ってしまう。それに、せっかく買った馬は、びっこで
役にたたないってことだし、ひょっとすると、畑や家までも手ばなさなければならないかもしれないということだよ。だから、おまえは家へ帰って、おとうさんやおかあさんに元気をつけてあげなければいけないと思うね。ガチョウのことなら、ここにおいていけば、だいじょうぶさ!」
「ほんとに、そうですね!」と、ニールスは元気よく答えました、
[#「ました、」はママ]そう言われたのが、ほんとうは、どんなにかうれしかったのです。
「ところで、おとうさんは
鉄砲を持っているかね?」と、アッカはたずねました。
「持ってますとも。その鉄砲があったからこそ、ぼくはいつかの日曜日に
教会へいかないで、家に
残っていたんですよ!」と、ニールスは答えました。
「それじゃ、家へはひとりでいっておいで。あしたの朝、スミューエ
岬で待ってるよ!」と、アッカは言いました。
ニールスが家に着いたとき、庭にはだれもいませんでした。そこで、さっそく牛小屋をのぞいてみました。
「こんちは、マイルース!」と、ニールスはさけびながら、牛のそばへ走りよりました。「おとうさんとおかあさんはどんなふうだい?」
「あんたがいっちまってからは、
苦労のしどおしさ! やっとの思いで買った馬は、病気で役にもたたないしね。とにかく、あんたのことを思って、気のどくなほど、
悲しんでいるよ!」と、マイルースは答えました。
ニールスはたまらなくなって、牛小屋を出ると、こんどは馬小屋にいきました。
「きみは病気だっていうけど、どこが
悪いの?」と、いかにも、じょうぶそうな馬をながめながら、たずねました。
「病気ってわけじゃないんだけど、ひずめのあいだに
とげみたいなものがささっちゃって、そいつが
痛いもんだから歩けないんだよ!」と、馬は悲しそうに言いました。
「どれ、見せてごらん!」ニールスはこう言って、ひずめの上に、なにやらきざみつけました。
そのとき、中庭のほうで
人声がしました。おとうさんとおかあさんが帰ってきたのです。まもなく、おとうさんは馬小屋にやってきて、馬のどこが悪いのか、もう一ど
調べようと思って、びっこをひいているほうの足を高く上げてみました。と、ひずめの上に、なにかきざみつけてあるではありませんか。「おや、なんだろう?」おとうさんはびっくりしてさけびました。そこには、「ひずめのあいだの
とげをぬけ!」と、書いてあったのです。
そのとき、おかあさんがかけこんできて、うれしそうにさけびました。
「あなた、あなた、白ガチョウが帰ってきましたよ!」
ガチョウのモルテンは、もとの
住みかをダンフィンに見せたくて、帰ってきたところを、ニールスのおかあさんにつかまってしまったのです。
「そうかい、こっちでも馬の病気のわけがわかったところだ!」と、おとうさんもうれしそうに言いました。
「ああ、やっと、わたしたちにも
運がむいてきましたね!」と、おかあさんは言いました。「ちょうど、もうじきお
祭りだから、さっそくあのガチョウを
殺しましょうよ!」
しばらくすると、
台所のほうから、「助けてえ! オヤユビさん、助けてえ!」というモルテンの
悲しいさけび声が聞こえてきました。
ニールスは台所の戸口めがけて、いっさんに走っていきました。ガチョウが殺されれば、じぶんが人間にもどれるなんてことは、いまはすっかり忘れていました。ただ、長い間いっしょに
苦労してきたガチョウを
救いたい気もちでいっぱいだったのです。
「おかあさん、おかあさん、ガチョウを殺しちゃいけない!」ニールスは気ちがいのようにどなりながら、
部屋の中にとびこみました。
「まあ、おまえはニールス! ニールスじゃないの! なんて大きく、なんてりっぱになったんでしょう!」と、さけんだおかあさんの声は、うれしさにふるえていました。そうです、このしゅんかんに、小人の
魔法がとけて、ニールスはりっぱな
若者になっていたのです。
あくる朝早く、ニールスはガンたちと
約束しておいた
海岸にいきました。きょうはまたすばらしいお天気で、
渡り鳥のむれがひっきりなしに飛んでいきます。
やがて、アッカたちのむれが飛んできました。みんなはニールスに気がつかないのか、そのままいきすぎようとします。ニールスはあわてて呼びとめようとしました。でも、どうしたことか、きょうは
舌がこわばって、ちっとも動きません。アッカが空で呼んでいるのが聞こえても、何を言っているのか、さっぱりわかりません。
ニールスは、がまんができなくなって、「ここだよォ! ここだよォ!」と、
帽子を
振りながら、さけびました。
ところが、それはかえってガンのむれをこわがらせてしまったのでしょう。みんなはさっと高く
舞いあがって、海のかなたへと飛んでいってしまいました。
けれども、すぐまたガンたちの
羽ばたきが聞こえてきました。アッカも、このままオヤユビくんとわかれるのがつらかったのです。みんなはニールスのまわりに
舞いおりてきて、口ばしでニールスのからだをなでまわしました。
それから、ニールスは長い間のすばらしい
旅のお
礼を言おうと思って、ガンたちに話しかけました。すると、ガンたちはきゅうに
静かになって、「ああ、オヤユビくんはもう人間になってしまったんだ! だから、オヤユビくんにはこっちの言うことがわからないし、われわれのほうにもオヤユビくんの言うことがわからないんだ!」とでも言いたいように、ニールスのそばを
離れました。
やがて、
楽しそうに鳴きさけぶガンのむれにまじって、アッカたちのむれだけは、さびしそうに飛んでいきました。ニールスは、いつまでも、いつまでもそのあとを
見送っていました。そして、もう一ど、ガンたちといっしょに飛びまわることのできる小人になりたいような気がするのでした。