指導物語

或る国鉄機関士の述懐

上田広




 鉄道聯隊れんたいの兵隊さんを指導することになった。私には本当に久し振りであった。なんでも運転係の助役さんの話では、今度は特別よい機関士ばかりを指導者に選んだと云うことだが、私にしても大変嬉しいわけである。私もこれで三十年近くも機関士をやっているのだから、例えばその兵隊さんがずぶ素人しろうとでも、大した頭の持ち主でなくとも、立派に一人前にしてやらなければならない。わずか三ヶ月やそこいらで、機関車を動かせるようにしろなんて無茶だ、と云うものもないではないが、この時局を考えたら、出来るかどうかやってみるよりほかに仕方がないだろう。それにまた考えようでは、どの兵隊さんもやがて戦地へ行く体だし、単に気がまえの点から云っても、平和の頃とは大分違っているはずである。こっちの出方では呼吸もぴったり合うにちがいない。いや合わせなければならない。そうすれば石炭をくスコップの扱いかたが悪いと云っても、制動機ブレーキの使いかたに文句を並べても、お互いにまずい感情にも捕われないで済むだろう。正直なところ、私もこの年齢では戦場へも行けないし、子供は娘ばかりで兵隊にもやれないのだから、せめて可能の仕事を積極的にやり、幾らかでも非常時のお役に立ちたい、と云う決心をかためていた際でもあり、自然に仕事への張りも出て来たようである。
 それにおありがたいことには、私の預った兵隊さんは、なかなかに物覚えが好いのである。いてみると小学校をえただけで、或る工場の見習工をしていたと云うのだが、機械の名称などもよく知って居り、知らないのもぐ覚え込んでしまう珍らしい若者であった。補充兵でまだ一ツ星ではあるが、毎日乗務が終って私に捺印なついんをもとめる勤務手簿には「佐川新太郎」の文字が見られた。山梨の小さな町に生れ、小学校へ通っている頃病気のために父をうしない、母親の手内職ひとつで育てられ、入営後もその母親が独りで留守を守っていると云うことだが、長い間工場通いをしたと思えないほどやさしく実直な性格を持っていた。お転婆娘を三人も育てて来た私などには、反対にその人柄に魅力さえ感じられた。白状すると私も一時は、彼が上の娘に婿入ってくれたらどんなに好いかと、ひそかに思いをめぐらせたくらいで、これと云って非難の打ちどころがないのである。ただひとつ老人の贅沢ぜいたくがゆるされるなら、若者らしい正義感のほとばしるままに時として若干怒りっぽい感じがないでもない。独り息子のせいかも知れない。私などとは別だが、同じ機関車に乗っている機関助士との間では、ちょっとした問題が飛んだいさかいのもとになったりする。例えば田舎の駅から都会のプラットホームへ這入はいり、盛装した女などを見かけ、やっぱり綺麗だね、と何気なく機関助士がつぶやくと、佐川二等兵は一応は首肯うなずいても、あまり着飾っているとしゃくにさわってくる、と云うようなわけから銃後の女性論にまで及び、結局お互いに感情的になってごたごたが出来てしまうのである。勿論もちろんそれも馬鹿に出来ない問題ではあるが、場所が場所でもあるし、私にすれば笑い話にして貰った方がよい。し感情的なものが、協同作業に影響したら大変だからである。
 機関士を見習う佐川二等兵の仕事は、機関助士のより以上の焚火法ふんかほうたなければならない。省線の機関車に乗るのは生れて初めてだという実習機関士には、運転する線路も好くわかっていないし、時々刻々に変る列車速度の認定にも不慣れであり、少しく重い車輛にでもなったら困難はいっそう大きくなるわけだが、機関士が思いのままに使える蒸気を機関助士につくる技倆ぎりょうがなかったり、あっても腕を現わすことを拒んだとしたら、列車はやがて止ってしまうよりほかに仕方がなくなる。
 こうなると問題は簡単ではない。なにも今度に限ったわけではないが、機関士見習の佐川二等兵の短期指導にあたって、私がいちばん大事だと思ったのは矢張りそのことであった。

 町内からも毎日のようにある出征者の見送りや、白衣の勇士と英霊の出迎えや、在郷軍人会、愛国、国防婦人会が主にやっている慰問袋発送の手伝いや、いろいろの集会などへの出席で、乗務から帰ってもいそがしい日がつづいていたけれど、その間に私は省で定められた方針に従い、具体的な佐川二等兵の指導計画をつくってみた。直ちに戦場で役立たなければならないのだから、実科を重要視したのは当然である。汽罐かまの焚きかたから注油の方法にいたる機関助士作業から、蒸気加減弁レギュレーターヴァルヴ反転挺リバーシングリーバーの扱いかた、各種制動機ブレーキの使用法、脇路活栓バイバッス・コック排水弁ドレイン・ヴァルヴの操作法、空転時の処置、車輛の多寡に伴う経済運転法又は機械部分の点検法等々の機関士作業の実際は、一枚の表にしてみてもうんざりするほどある。どれを閑却しても、安全な実際の運転は不可能なのだから困る。それに学科も馬鹿には出来ない。いつも機械が順調に云うことをきいてくれれば好いけれど、何処どこで我がままを云いだすかわからない。途中で故障にでもなった場合に修理に必要な知識がなかったらそれっきりである。ただ指をくわえて見ているよりほかに仕方がなくなる。出来ればそんな不始末のないようにもしてやりたい。そこで私は或る日、機関区からの帰途を少しく遠廻りして、町の本屋へ寄ってみた。機関車の構造や機能が、素人にもわかる程度に書かれた本があったら買い求め、佐川二等兵に贈ろうと思ったのである。私ののぞいた店は、町でもかなり大きな本屋であったが、いずれの棚にも私の欲しいものは見当らなかった。非常に特殊の本だから、そう簡単に入手出来ないだろうとは途々みちみち思っても来たのだが、何万何千円という汗牛充棟の中に、本当に一冊もないとなると若干淋しい感じもする。私などには少しも縁のなさそうな、変にけばけばしい標題のものばかり、ずらりと並んでいるのも癪で飛び出してしまったけれど、その次に期待もしないで這入った古本屋で、はからずも部厚い「機関車問答集」を見出した瞬間にはすっかり機嫌を直されていた。私は尻の上に位置するズボンのポケットから蟇口がまぐちを引き出しながら、店の主人に値段を訊き、思わずまた底の方へ押し込まなければならなかった。三円五十銭だと云うのである。こうあけすけに云っては自分の恥になるかも知れないが、私にはいまかつてそんな値の張る本を買った経験がない。私は奥附をひらいて見た。昭和七年の発行で二円五十銭とある。そこで私は、自分の一円也の最初の腹の中の値踏みが、それほど非常識でない自信を持つに至り、そう云ってやった。すると古本屋の主人は、あごを落さんばかりに大きな口をあけてわらい、冗談じゃありませんよ旦那、冷やかすのもいい加減にして下さい、と今度はたいへん渋い表情をつくるのである。私も負けずに口さきをとがらせ、こんな本は容易に売れっこないのだから、思い切って手離した方が得だぜ、と云った。単に容易に売れないばかりでなく、絶版にもなっているので自然お値段も張る、と云うのが最後までの主人の意見であった。私は残念ながら、あきらめなければならなかった。私の今の暮し振りでは、三円五十銭の本は買い切れない。と云うと、或いは首をかしげる人があるかも知れない。現に私は百円近い俸給を貰っているありがたい身分である。それで住居こそ借家だが、家族と云えば女房と、二十二歳を頭に三人の娘があるだけだ。次女と三女がまだ女学校へ通っているけれど、これが若し事変前ででもあったなら、立派にやっていけるのである。ただ昨今の一般の物価高には気がゆるせない。ちょっと油断をすると、足らなくなる、いや正直に云って、学費の一部が赤字になることも珍らしくないが、間もなく卒業になる次女のことを思えば、無慈悲な停学もさせられない。結局、冗費と思えるものの一切を省いてがまんすることが、所謂いわゆる国策に沿う所以ゆえんでもあり、それ以外に考えつかない良策でもあろう。

 いちど帰宅した私は、それからまた散々に思いあぐねた末に、再び「機関車問答集」を買うために外出した。折角せっかくの計画を持ちながら、佐川二等兵を優れた技術家にしあげられないのも残念だし、百円もの俸給を貰っていて、これっぽちの本が買えないと云うことにも腹が立って来たのである。幾らもない貯金だがそのためになら下してもよいとさえ決心した。しかし私は更に古本屋の主人に向い、五十銭でもかまわぬから負けるように云った。私の腹を見抜いた本屋はしまいまでうんと云わないのである。私はよけいに腹を立て、正札通りの金を投げつけるように置き、「問答集」を抱えて飛び出した。
 翌日は夜明けに出勤のダイヤであったが、遅くまでかかって読み通し、内容がその後の機関車の進歩にも誤りとなっていないことをたしかめた。内容はそれほど初歩的なものなのである。然し私が記念の意味で、十何年来手にしたことのない毛筆をり、空白の扉に署名してやると、佐川二等兵の喜びかたはたいしたものであった。内容が適当していたからであろうが、多くは矢張り私の好意が通じたからだと云って差支えない。彼は出庫前の機関士席に腰を降した膝の上で、バラバラと頁を繰っては、思わない味方を得たような気持です、と云っていた。それからまた伏せた表紙を撫で廻しながら、いつのことか知れないけれど、戦地へ行ってもこれでひとつしっかり勉強しましょう、とも云うのであった。私は思わず笑って、気のながいことを云わんで、出発前に頭へいれてしまう意気込みでなくちゃいかんね、と云ってやると、はなはだ従順に何度も首肯うなずき、それでも予定より早いかも知れませんからね、と答えた。この言葉にはさすがの私もギクリとした。何故なぜならこれまでにも予定より早く出征した兵隊さんが少くなかったからである。私は若干気になって来た。そうなると仕方がないもので、訊いてはならないことだと知りつつ、もうわかってるんじゃないかね、と唇から出てしまうのである。相手は下唇を噛むように結んだまま首を振り、そんなことが兵隊にわかるもんですか、と静かに笑った。問題がそのような話になると、態度の点から云っても、口振りの点から云っても、私などは推され気味である。そこがまた兵隊さんの魅力となる所以でもあろう。
 佐川二等兵は次第に熱心になって来た。加減弁レギュレーターヴァルヴ把手ハンドルを握る腕も、めっきり上達するようであり、機関士席に据えた腰にも僅かなことに動じない落ちつきが見え出す。蒸気スチームの使いかたもなかなか巧みになり、絶汽運転の利用も線路を覚えると同時に適当になって来た。ただひとつはかばかしい進歩を見せないのは、自分の運転している列車速度スピードの認定である。走行中に不意に背後から、今何キロか、とたずねても容易に答えられない。しばらくは線路の砂利の色や、遠景の動くさまに見入ってしまう。間の抜けた頃にようやく口にする数字には、実際の速度との間に相当のひらきが見られるのである。これには何度繰り返しても目に立つほどの変りかたが現れなかった。彼自身も口惜しいのか時に私の質問の間隙をうかがい、反対に彼の方から聞いてきたりする。私が思った通りを云ってやれば、正直にまた首をかしげて考え込む。予想が外れるのだ。私はひとつの仕業に何度も頬り合わせるようにしては外を指し、それ今が二十粁、三十二粁、まだまだ三十二粁、これでやっと三十五粁だと云う具合に実施指導を行う。彼はうんうんと首肯いてばかりいる。然し結果は同じである。熱心ではあるが業をにやした彼は、速度が見せる草の色も場所に依ってちがうし、山の動きかたも距離の差があるから一様でないので困るんです、とこぼし勝ちだが事実その通りなのである。私などがどんな場合にもだいたい云いあてられるようになったのは、つまり速度を加減してその区間を定められた時間で運転出来るようになるまでには、四、五年もかかっているであろうか。一ヶ月や二ヶ月で会得せしめるのはず不可能だと云ってよい。それは私にもよくわかっているのだが、然し私は同じ訓練を繰り返す。私自身も、相手も、お互いが腹が立ってくるまでやる。今何粁だ、二十八粁、ちがうちがう、そしてまた直ぐに、今は? 二十五粁、益々ちがう、更につづけて、今度は? 二十九粁、やっぱり駄目だ、どうしてそんなにわからんのだ、ちゃんとなにかで覚えてなくちゃいけない、いいか、今度はどうだ? 三十五粁……いかん、まるで出鱈目でたらめだ、俺はいい加減なところを聞いてるんじゃない、時間がかかってもいいからしっかり答えてくれ、どうだ今は? 然しその時はもう相手の返事がない。私もハッと気がついて相手の顔を見る。眼深まぶかにかぶった作業帽のひさしの奥の瞳が、かたくなに機関車がたぐり寄せる軌道の彼方に据えられたまま動きもしない。油に汚れた頬があやしげな光を放っている。誰れに向けらるべきものかそれは激しいいきどおりの現われである。私にも云うべき言葉がなくなる。というよりは、私とて襲われる反撥的な、いらだたしさからのがれることが出来なくなる。私は夢中で、やる気があるのかないのか、と叱りつけるように叫ぶ。そうなったらもう相手は黙っているだけである。私はいっそう侮辱を感じて呶鳴どなる。けれど私もが性急な人間だから、終いには自分で自分の呶鳴ったことがわからなくなる。そのこと自身にも腹が立って狂わしいもので全身が満たされてしまうのであった。追いつめられるような感じの、不愉快なながい沈黙が後に待っているのも何んともしがたい全くいやな時間であった。
 然しそうした一日が過ぎると、不思議に私と彼の友情は、前にも増して厚くなるのである。翌日の私は必ず決められてある時間より早く出勤し、彼の出てくるのを待つ立場に置かれている。あまりに早過ぎて独りで機関車の点検を済ませても、まだ給水タンクの彼方の丘の方に、軍服姿の現われない時などは、わざわざ線路を伝わって出向いたりする。自分では気にかける必要などないと思って居りながら、本当は矢張り心配になって仕方がないのである。顔を合わせた瞬間に、向うから先きに掌があがり、両方いっしょにいつものような、ご苦労さま、が交されると、ようやく私はホッとするのが例であった。それがたとえ指導上やむを得なかったことにしろ、相手の今後の任務を思うと、ただ私は自分の不徳のみがいられてならないのである。私は口にこそ出すのを差し控えるけれど、今後は決して同じような指導をしてはならない、と自らに云ってきかせるのであった。

 一ヶ月ほど経ってからのことである。困った問題が持ちあがった。というと少しく大袈裟おおげさに響き過ぎる感がないでもないが、ある日半島一周の仕業から帰ってみると、乗務員詰所の掲示板に、石炭の使用成績が個人別に発表されてあった。それは最近一ヶ月間の統計で、別に眼新しいものではないが、私は自分の成績が十何番もさがっているのに驚いた。この数ヶ月来きまって一番か二番で、三番とさがったためしのない私にすれば、なかなかの大問題なのである。けれど私はその原因が、佐川二等兵の慣れない運転にあるのを知っているので、殊更ことさら不満として口にするのを差し控えた。代りに私は、肩を並べて見入っている二人に、ちっとも気にかけていない自分を示すつもりで、思ったより好い成績じゃないか、と笑った。それが飛んでもない口火となってしまったのである。佐川二等兵はいざ知らず、私の機関助士はたいへんな皮肉に受け取ったらしい。あんな運転振りでは火焚きも石炭の節約どこじゃありませんからね、と云うのである。私は二度びっくりし、そういう意味じゃないんだ、とおっかぶせるように云ってやったが、すでにあとの祭で、機関助士はいっそう真剣な顔つきになり、人差指で統計表の私の名を突っついて指しながらいささかがっかりしてるんです、どうせ悪くなるとは思っていたけれど、こんなに落っこちるとは夢にも思ってませんでしたよ、と云うのであった。私にもそのようなものの云いかたをしなければいられない、機関助士の気持がわからないでもなかったが、そのために若し佐川二等兵の技術的な進歩に影響があったら一大事だと考え、ちっとぐらいよけい使ってもいいじゃないか、なにも故意にやってるわけでもないし、これから段々よくしていけばいいんだ、とたしなめるつもりで幾らか激しい口調で云った。さすがに機関助士もまだ何にか云いたげだったが黙り込んだ。私は申しわけなさそうに俯向うつむいている佐川二等兵に向い、心配する必要はないんだよ、と慰めてやった。佐川二等兵はチラと機関助士の方を見やってから、聞こえるか聞こえないような声で、済みません、と頭をさげた。そして再び顔をあげないのである。私は自分の眼頭が急に熱くなるのを感じた。私はあらためて自分の最初の不用意な一ト言を悔いずにはいられなかった。全然触れないでいればよかったとさえ思うのであった。
 そんなことがあってから暫くは、佐川と機関助士の間はうまくいかないようにも見えたが、仕事の障害となって現われたものはひとつもなかった。むしろ反対であった。機関士席にある佐川の蒸気スチームの使いかたからは、びっくりするほど注意深いものが感じられ、火を焚く機関助士の仕事振りには、私が運転する時に見られないまめまめしさがあった。明らかな協力の姿である。私には文句を云うところもなかったが、それだけに機関区に帰って来て、係の目算する使用量が多かったりすると、何度でも、納得のいくまで見直して貰わないと気が済まなかった。機関案内キャップで入庫の準備が終っても、私はまだ炭水車テンダーの上で係のものと言い合っていることがある。いや云い合っているのではない。直接運転に携った二人の労苦を思うと、少しでも正確に近い消費量の数字を出して貰いたくなるのである。最近の私の成績を知っているのであろう、係の親爺おやじ(これは誰れもが好んで呼ぶ愛称である)は誘い込むように笑って、この頃は随分細かくなったが、やっぱり年齢としのせいですかな、と云う。私も仕方なく苦笑しながら、わしもこれから真面目にやって、鉄道のお婿さんになろうと思っているのさ、と云ってやると、さすがの親爺もあきれたと見え、なるほどね、と云うきりであった。
 成績は日毎ひごとに昇った。私は毎日帰ってくると手帳を取り出し、当日の使用量を、牽引した車輛数により一粁当りに割り出して見る。勿論当日の天候や機関車の具合によっていちがいにも云えないけれど、次第に向上的な数字の現われるのは事実である。私はそのたびに機関助士と佐川二等兵に見せながら、この調子ならじきにもとの成績にもどれるよ、といたわるのを忘れなかった。二人もすっかり気をよくしていたが、特に佐川二等兵の喜ぶさまを見るのが、私にはこの上ない楽しみであった。彼は別に大げさな態度を見せたり、愉快そうに笑ったりするわけでもない。仕事にかかる瞬間から終るまでの間、去ることのない愁眉しゅうびが一時に開いて行くような、静かな表情の変化が陽灼ひやけた顔に窺えるだけなのである。それに接すると、私も自分の憂いを取り去られる感じであった。
 佐川二等兵への私の愛情は、くて深まり行くばかりであったが、或る日同じ問題に触れた彼の言葉を耳にした瞬間から、私は単なる技術的な指導者としてだけでいられない気持に捕われてしまった。或る半島の海の見える小駅で、長い停車時間を機関車の椅子に腰を降して待ち合わせていた時のことである。私たちは暫くの間、新聞記事による知識をもとに戦場の話などしていたのだが、それがどうしたことか最近の内地の物価高の問題にまで及んでしまい、いささか湿めっぽい感じでいたところ、不意に思いきったという風に佐川二等兵が、石炭の使用成績が悪いとボーナスが少くなると云うが本当ですか、と云うのである。私は何気なく、そうだね、いくらか影響するかも知れないね、と云ってから急に思いあたるものがあり、今は然しそんなこともない筈だよ、とあわてて否定した。相手は私の返事の終るのも待たないで、人によると相当ちがうって云いますけれど、若し本当にそうだとなると私は申しわけなくていつまでこうして御厄介になっているのが辛くなってしまうんです、と眼の前の圧力計プレッシャゲージに見入りながら呟くのである。私は更につよく否定した。仲間のなかにはたしかにその事実のあることを主張するものもあるが、私にはわからない。然し佐川二等兵はすっかりあるものと信じ込んでいると見え、二タ言目には自分のために済まない、済まない、と云った。あなたの場合はどれくらい減らされるか知れないが、若し返せる時が来たら返したい、と云うようなことまで云った。私は驚くと云うよりは、寧ろあきれて自然に語調も激しくなり、何にをつまらんことを云うんだ、万一事実でもいいじゃないか、そんなことを考える暇があったら勉強でもした方がいいだろう、と云った。だが相手も依怙地いこじに思われるほど強硬に後へ退かない。そう云われるとよけい辛くなります、減った分は私に払わして下さい、と主張する。馬鹿を云うな、と私は呶鳴りつける。俺だってちゃんと考えてる、とも余勢で叫ぶ。驚きに動く相手の唇の色の変るのを私は見た。苦々しく不満そうであった。然し私は叱ったつもりではない、憤ったつもりでもない。相手の気持があまりにじかに私の心に触れたからだ。ちょっと私の心が癇癪かんしゃくを起したに過ぎないのである。だから私はすぐにび入る態度に出ることなく、君の気持だけは然しありがたく貰って置くよ、と初めのように静かに話しかけることが出来た。いや静かにとは云えないかも知れない。私の胸は何にか息づまるようなもので満たされていたのである。単純に喜びとも感謝とも冷静とも憤りとも何んとも云えないもの、出来ればそのまま胸を割って見せたいものであった。私はそれからつづけさまにおしゃべりをした。何にを喋ったか今はもう覚えてもいないが、ただ相手に喋る時間を与えないためにそうしたのだという記憶だけが残っている。私はそして次第に黙ったまま聞き入る相手に、不思議に肉親的な愛情を感じていたようであった。

 予定の指導期間が少くなると急に私には心配になり出した。当人の技倆が段々伸びるのはわかっているけれど、戦場の占領鉄道を全然知らない私には、その腕で果してお役に立つかどうか危ぶまれるのである。壊された線路や車輛に応急修理を施しただけで使っていると云うことだから、設備の整った内地の鉄道より、戦場のそれの方がずっと厄介にちがいない。だとすると、こっちで一人前以上の腕を養成して置かなければ、すぐに一人前には通用しないわけである。私の友人には、運転時分などそうやかましく云われなくも済むのだから、こっちで心配するほどのこともなかろう、と云うのもあるが、それには一理あっても全部はない。また他のものは、戦場のことは隊の方で指導してくれるから、自分たちは要するに汽車を動かすことだけしっかり教えてやればよい、と云う。それもまあそうだが、実際その一人を担任している身になれば、出来るだけのことをしてやりたくなるのは人情だし、そして立派な勲功をたてて貰いたくなるのも当然である。当人の技倆がどうやら一人前に見たてられるようになってからの私には、毎日それだけのことが気がかりだったのである。
 その頃、私にたいへん有益な日が一日恵まれた。佐川二等兵の属する隊に、同隊出身の陣歿じんぼつ将兵の遺骨が還送され、そこで合同慰霊祭が施行されることになり、休日を幸い私も参列したのであるが、式が終ると私は佐川二等兵に頼み、運転に関する教官に面会をもとめたものである。厳かな式場から受けたものは、更にこれからかなければならない佐川二等兵の武運にまで及び、どうも私にはそのまま帰りきれなかったのである。教官はすぐに会ってくれた。若い元気のある士官であったが、先きに礼の言葉を述べられたりして甚だ面喰めんくらってしまった。私はその日の祭壇にまつられたものの、相当多くが機関員であることを聞いて今更のように目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。列車の運転中に敵の襲撃を受けて倒れたもの、線路に埋設された敵の地雷のために機関車といっしょにやられたもの、顛覆てんぷくした機関車の下敷にされたもの、その犠牲は私たちのこれまで想像していた以上にひどく大きい。私は咽喉のどのつまる思いで聞き入りながらも、かたわらにきちんと膝をそろえている佐川の顔を何度も盗み見た。やがて同じ運命のもとに置かれないとも限らない、何れかと云えば気弱い彼の胸のうちは然し私などには想像もつかなかった。上官を前にしての彼の態度には、全く粛然たる以外のものが感じられないのである。それでも若い教官からなにがなくとも珍らしいお客にお茶ぐらいいれようじゃないか、と促され、すっかり忘れていました、と詫び入るように微笑ほほえんで立ちあがった彼は、矢張りいつもの佐川二等兵であった。うしろ姿を見送った教官は急にあらたまるような口振りになり、あの兵隊は隊では成績がよいのですが、実際運転の方はどうでしょうな、と私の顔を覗き込んで来た。私が簡単に率直なところを述べると、一人前にさえして貰えばこんな結構なことはないが、家庭の事情にも気の毒な点がありましてね、と同感をもとめるように云うのである。その時は私もただそれだけの話として軽い相槌あいづちで済ませたけれど、勝手に臆測すれば言外になかなか重要なことも察しられるようだ。案外早いのではないかと私には思われた。山梨の山奥に留守を守る母親はすでに六十過ぎた年寄りであると云うこと、本人は若干の貯蓄もあるし、軍事扶助も受けているので当分は大丈夫だと云っているけれど、困ることは困るだろうと云うこと、それに他に身寄りのないのが何より同情すべき点だと云うこと、つづけて話してくれたそれ等からも、私は若い教官の考慮がどのような点にあるかおよそ想像することが出来た。私は思わず、あんな性格の兵隊がかえって戦場では強くなるんじゃないでしょうか、と訊いて見た。若い教官は何れともつかず首肯うなずいただけであった。
 現在の大陸にある機関車の種類や、軌道の状況や、戦闘の発展に伴う今後の占領鉄道の予想などを訊いて私は帰ることにした。私は若い教官から別れぎわに、成るべく重い列車の運転をよけいに実習させて貰いたいと云うことや、場合によっては一人で火を焚きながら加減弁レギュレーター把手ハンドルを執る要領も実地に教育して欲しいと云うことまで頼まれた。私は実施を誓って衛門を出たけれど、そうした希望の出る戦場の情景が自然に頭の中に空想され、何日経ってもふとすると思い出されるようになった。その後の私の指導振りにいささか苛酷に過ぎる感のあったのもそのためである。私は彼に数時間もの連続作業に疲労の色が見えても代ってやらなかった。重量列車の運転には特にやかましく口出しもした。制動機ブレーキの使いかたについても同じであった。一ダイヤの仕事が終って入庫しても、帰営するまでに時間があると私は車庫裏の投炭練習場へ伴い、模型火室で焚火法の練習をさせた。それには佐川二等兵も不満だったらしい。機関士の業務を実習するものが、火焚きの練習でもあるまい、と云う顔が見られるのである。すると私もスコップを握り、同量の石炭をすくって投げ込みながら、火層の出来栄えについて納得するまで説明を繰り返した。然し残念なことには、私もながい間やっていないので、なかなか思うように出来ないのである。火室の前の方に薄く、手前へ向って次第に厚くなるように撒布さんぷしなければならないと教えながらも、実際は反対の結果に終ったりする。彼は私を気の毒に思うのか、無理してやってみせなくもいいんですよ、と云う。私も意地になり、別に無理しているわけでもない、とうそぶいてみせるのだが、ひどい汗ですよ、と顔を指されて愉快そうに笑われたことも一度や二度ではない。或るとき私は変に気に触って、なにがそんなに可笑おかしいんだ、と自分でも予期しないほどとげとげしく突っかかって行ったものである。大人げない話だが、気づいたときにはすでに遅い。相手は真蒼まっさおになって手にしていたスコップを置いてしまった。私はその態度にすねた自分の子供を意識しながら、大人げないてれ臭さからのがれたい慾望にも手伝われて、人の仕事を嗤う腕があるなら見せて貰おうじゃないか、と云った。同時にスコップを取りあげて突きつけた。相手はいっそう驚いて私の顔を見守っていたが、やがて鼻をふくらませながらスコップを受け取り、なにも馬鹿にして笑ったわけでもありません、とうらめしげに呟くのである。今更弁解など云える筋合いのものでもあるまい、男らしくやったらどうだい、と云う私にもう一度瞳を向けて飜意ほんいの現われない事実をたしかめた彼は、瞬間、反撥的に模型火室の前に立った。円満ないつもの彼の顔がひとつの憤りの表現だけでゆがんだように見られたが、不思議に私には冷然たる態度をつづけることが出来た。私は開始前の不動の姿勢を点検してから、投炭用意、の号令をおごそかにかけ、次の号令といっしょに投炭の速度を見るために片掌かたてのストップ・ウォッチをいれた。佐川二等兵はまるで別人のごとくに動き出した。石炭を掬いながら、火室扉ファイヤードアーをあける姿勢も、目的の位置を叫んで投炭する態度も、生きたスコップの操作振りも、私にはかつてなかったものとして見ることが出来た。私は急に胸のいっぱいになるものを感じた。ずっと腰をかがめたままでする作業だから顔は見られなかったけれど、一杯々々と重ねられる毎に高まる連呼の声は私の鼓膜をたたき、胸をいてくるのである。私は火室ファイヤボックスの中を見守っていた。小気味よい散乱がつづき、投炭場所の誤りこそ一、二回あったようだが、形成される層は私が見ても私より好い。私は口惜しさより嬉しさが先きに立った。いや嬉しさだけだと云った方がよい。初めてではあるが、それだけに私の喜びは大きかったのだ。私は一瞬もうよい、と云ってやりたくなった。然し私は胸と共に両手でかかえるように持ったストップ・ウォッチに見入りながら、所定量の投炭の終るのを待った。私は彼の両掌を執って、よくこれまで上達してくれた、そう言って感謝するつもりでいたのだが、数百回のスコップの操作に彼が幾らか汗ばんだ顔をあげた時には、私の眼瞼まぶたは全く熱いもので満たされていた。
 私は最近の乱暴な指導振りをあらためて詫びた。彼はあわてて首を振った。そうして貰ったからこそよくなれたのだと云い、いっそう私を喜ばせるのである。そしてその後の私たちの乗務生活が、短かかったけれど本当に愉快な思い出となったのは云うまでもない。

 世の中に妙な景気が湧いて、私などの暮しは楽ではなかったが、倍加した人出や貨物と共に車輛の連結数も増され、軽い列車が見られなくなったので、技倆を向上させるのはこの時だと話し合っていたけれど、きたるべき日は間もなく訪れた。佐川二等兵も征くことに決ったのである。その日も私たちが長い貨物列車をき、半島の駅をひとつずつ丁寧に廻って行くうちに、或る途中駅の助役が、佐川に即刻帰隊すべしと云う命令のあったよしを伝えるのである。機関車の窓から乗り出した佐川の顔が、陽の中に美しく紅潮するのを見た私が、なにか急用でも出来たと云うのかい、と訊ねると、助役はちょっと首をかしげたまま、それだけの電話でしたよ、と答えただけであった。内心私は当人の腕は大丈夫だと思いながらも、すぐに佐川に向い、隊にそんな気配はなかったの、と訊ねてみないではいられなかった。佐川はいつもの顔色に戻って首を振り、とにかくここから帰らして貰います、と機関士席から立ちあがった。私が変に背筋に寒いものを感じながら、そりぁそうした方がいいが、もう一度ぐらい会えるだろうね、と別れを惜しんで云うと、そんなに早いこともないでしょう、と笑って見せ、私もあらためて挨拶にはあがりたいと思っていますが、と云うのであった。道具を持って機関車から降りた彼は、代って機関士席についた私を見あげ、お願いします、と云ったがそれにはもういつもに変りが見られなかった。
 夕方私は機関区に帰って来て、実習派遣を停止されたのが佐川一人でないのを確めた。口の多い連中の中には、あんなに急いでいるんだから、事によると今夜あたり出発かも知れない、と云うものもあったが、それならそれでやむを得ない、そのような気持は、私にもあった。然し、私は当直の助役さんの部屋で、その夜も翌日も、一本の軍臨(臨時軍用列車)さえ運転されない事実を知った。助役さんにはしっかりしたところがわかっているかも知れないと思い、帰りがけにそれとなく訊いてもみたのだが、左程早急でもなさそうだという以外のことは判明しなかった。それだけでも私はホッとした。まだ会える機会のあるのが十分に予想されるからであった。その夜は営内で準備に追われている佐川の顔ばかり浮かびあがってろくに私は眠ることも出来なかった。なにか私に呼びかけているのだが、さっぱりわからないのである。私は変に胸騒がしいものに襲われていた。眠りについても何度か佐川の名を口にしていたそうである。まるで自分の子供を戦地へやるようですね、見かねたらしい妻にも云われたが、私にはそれすらが癪に触り、思わず泡を飛ばし、戦地へやるのに自分の子も人の子もあるものか、と呶鳴りつけたものである。あまりの権幕に妻も驚いて黙ったけれど、私にはまだ云い足りないものが残った。私は昂奮こうふんの原因が、どこにあるか自分にもよくわからなかった。妻の云うように、自分の子供を戦地へ送るときにはこうもあるかと思っても見た。或いはまた、自分自身が令状を手にした当座の気持をも空想して比較してみた。然し何れとも異っているように私には思われる。私は自分自身や子供の場合ならば、もっと落ちついて戦地を考えることが出来るにちがいない。戦うものの生命がどんなに貴く、そしてどんなに軽いものであるかと云うことも、自分の肉体のうちに解決し得る自信が持てる。今の私にはその落ちつきも自信もない。これはどうしたことであろうか。私にはわからない。私のいらだたしさはそこから端を発しているのだ。それは私に眠る時間をあたえないどころか、次第にもの狂わしいものにまで高められて行く。罪でなくとも大きな過誤を犯した誰れも受けなければならない、激しいむちに悩まされているような錯覚にさえ襲われる。私は全く苦しくなった。そして夜明けをどんなに待ち遠しく思ったことであろうか。夜が明けたら私は休暇を申し出て、是が非でも隊へ面会に行って見ようと思った。そしたら幾分でも気分が安らぐかも知れない、と云うよりは不明な問題が解決されるかも知れない、と急に考えついたからである。
 少しく遅い朝食を済ませた私は、心ばかりの甘いものなどを買い込んで兵営を訪ねたのだが、残念ながら当日は面会の許可が下りなかった。代りに準備が終り次第外泊が許される筈だから、その機会を利用して会えるように当人から連絡するように伝えて置くと云うことであった。私はそれでもやむを得ないと思い、二、三日の間は仕事にもの入らない肉体を持てあましながら、葉書でも来やしないかと心待ちしていたのである。然し二、三日してもそれらしいものは見られなかった。私は毎日乗務から帰っては、初めに自分でつくった指導の予定表などをひろげ、ただぼんやりと眺め入ってばかりいた。
 五日目の夕方である。滅多に訪問者のない玄関の声に行ってみると、意外にも佐川二等兵の丸々しい笑顔が見られた。私は驚きとも喜びともつかないあわただしさを感じながら、掌を取らんばかりに招じ入れた。それには彼も吃驚びっくりしてしまったせいか、向き合ってもかえって白々しいものが暫く消えなかった。彼は前より遙かに落ちついた口振りで、もっと早く来なければならないのだが許しが出なかったと云うこと、ようやく出発の日が決ったらしいと云うことなどを述べてから、長い間の御恩にもむくいられないのが残念だと云うのであった。私にはそんなことはどうでもよい。私は彼が母に会って来たことをたしかめ、自分の家に泊れるかどうか訊いてみた。あくる朝まで許可されてあるということなので、私は是が非でも泊ってくれるように頼んだ。
 夜になって私たちは僅かな酒をみながらも、同じ部屋の床にはいってからも、機関車の運転の話ばかりしていた。どのような話でも私がそこへ持って来てしまうからでもあったろう。相手は迷惑だったかも知れないが、私にはそれ以外の話題に興味がなかったのである。私は飛んでもない機関車の歴史から、何処の国が最も進歩しているかと云うことまで物語った。楽しかったのは矢張り、いっしょに乗務し始めてからの思い出話である。あまり細々こまごましいことまで私が覚えていて喋るので、終いには相手も顔をあからめてしまい、又ひとつ気残りが増えましたよ、と苦笑する。私にはそれがまた非常に愉快であった。相手の困るさまに感ずる喜びではなくて、なにもかも覚えていることを知って貰えるのが嬉しいのである。私は何度も技倆の全部をだしてやってくれることを望んだ。話がその点に及ぶとさすがに彼も真剣な面持ちになり、経験が浅いので心配です、と云うのに対して私は頭から、やろうと思えば絶対にやれないことはない、と云ってやるのである。それはその瞬間にける私の本心からだ。彼の持つ技倆がどのくらいかわかり過ぎているのだが、顔を突き合せて居りさえすれば、何んの不安も感じないでそういうことが私には云えるようになっていたのである。

 それから数日後の未明、佐川の出発を駅まで見送りに行った私は、薄暗い雑沓ざっとうの中で誰れもがするような別れの挨拶を述べ、自分でも見すぼらしく思うばかりの痩腕を高くあげて万歳を叫んだのであるが、列車が見えなくなっても帰りきれないものに襲われなければならなかった。何んとも云いがたい焦躁しょうそうに胸の湧き立つのが感じられるのである。これは私自身の勝手な感情のはたらきかも知れない。私は僅かではあったが顔を合せている間の元気な佐川の顔や、当面していることから離れるようにその日の天候がどうのこうのと話し合った事実や、動き出した車窓から首も出さずに挙手の敬礼をつづけて動かないさまなどを割合に冷静に思い出すことが出来るが、ただひとつ発車間際に例の「機関車問答集」を雑嚢ざつのうの中から取り出して、読みながら行こうと思うんです、と云われた時の気持は回顧するだけでも苦しい。私はも早や彼が「機関車問答集」の内容ぐらい知りつくしているのを知っている。彼はながい列車内での単なる時間つぶしのつもりかも知れない。でなければ私との生活を記念するために重い軍装の中に無理して詰め込んだものだと思われる。どちらでもよい。私がその本を窓から見せられた瞬間に受けた衝撃は、「機関車問答集」にはからずも自分の姿を発見したからである。それは彼が私をいっしょに連れてってくれると云う喜びを私にもたらすものではない。反対である。彼はいちど身につけたものを或る場合は同じ本を読むことで持続出来るであろうが、私はそこに自分の生きる場所の失われるのを感じないではいられない。これは当然の成行でも私には淋しいことである。私はその本を曾て可成り無理して手に入れた事実を思い出し、なに気ない口振りを装い、矢張り自分を信じてやった方がいいんだよ、と云ってやらずにいられなかった。すると佐川二等兵は複雑なかげの見られる微笑を浮べながら、大丈夫ですよ、と簡単に答えた。その時は私もホッとした思いに置かれた。別に正確に私の考えるところが伝えられたとも思えなかったけれど、いつかはわかって貰えるものがその中にかくされてあるように感じられたからである。
 その後も私のいそがしい乗務生活はつづいた。自ら機関士席についているので仕事に不安がなくその点はよかったけれど、なにかにつけて思い出されるのは矢張り佐川であった。加減弁レギュレーター把手ハンドルを扱うのにも彼はこのように引いたとか、いくら注意しても脇路活栓バイバッスを蹴飛ばしてばかりいたとか、前方の注視には心持ち首をかたむけているのが癖であったとか、どれもこれもなつかしい記憶のみである。時によると私が、一日中の話題にしてしまうものだから、まるでお婿さんにでも決まったようですね、と機関助士に冷やかされたりする。私もそう思わないこともなかったが、それだけで笑い去られるのも口惜しくなり、戦場にあるもののことは厳粛に考えてやらなくちゃいかん、と言いかえしたものである。同じ兵隊さんでも、あんなに早く上達するなんて珍らしかったですよ、などと云われると、お世辞だと知りつつ年甲斐もなく嬉しくなってしまうのを私にはどうすることも出来なかった。私は、それほどでもないだろうが筋もよかったんだよ、とようやく云い、いっそうの讃辞を期待する始末であった。私は同じ期間に他の兵隊さんを指導した仲間に会うと、今頃はどの辺にいるだろうと云うことをきっかけにして、到達した技倆を訊ねるのが癖になってしまった。細かに訊いては佐川と比較してみるのである。そして佐川の方が優れていると思われれば安心出来るのであるが、いつしかそれも知れ渡ってしまい、初めて訊く仲間にも殊更に自分の指導したものを誇張して褒める傾向が見られるようになった。私はそれでなぐり合いの喧嘩をしたことさえある。その機関士は、私が病気で二、三日欠勤した時に、佐川二等兵といっしょに乗ったことがあると云って、自分の指導した兵隊さんを褒めることのあまり、あれは全然見込みのない男だとか、いくら教えてもカン所がわるいためにどうにもならんとか、あれにはあなたもお困りだったでしょうとか、誠にもって聞き捨てならないことをずけずけ繰り返すのである。私は我慢がならなくなって詰め寄り、それはいったいどういう意味かと呶鳴りつけ、話によってはただじゃ済まさんぞ、と胸倉をとったのである。相手もさすがに一時は後ずさりしたが、いきなり私の腕をたたき払って挑戦的に出て来た。相手は私より遙かに若く体格もよいので、尋常では到底かなわないと思い隙を見て私は太股のあたりへかぶりついていった。私は制服のズボンといっしょに噛み切ってやるつもりであった。然し相手はそれよりも早く、私の上からかぶさるようにして両腕で尻の辺を抑え、いやな懸け声をあげたかと思う途端に、一、二間もさきへ私を放り出してしまった。私は夢中で起き直り、今度は附近に落ちていた棒切れを拾い、自分でもわけのわからぬことを叫びながら向って行った。相手も棒の下をくぐって組みついて来た。私は再び手玉にとられながらも、ただ滅茶々々に相手を撲り、いきおいが外れて自分の顔にも幾つかの傷をつくってしまった。私は何回となくたたきつけられた。私はなにもかもわからなくなって立ち向っていたのだ。駈けつけた仲間がその時力ずくで間にはいってくれなかったら、恐らく私は無事では済まされなかったにちがいないと思っている。けれど私は引き分けられてからも、口では強がりばかり云っていた。いつでも相手になってやるから来い、とまで云い置いた。暴力では自分は敵でないと思いながらも、争いの動機を考えるとよけい憤然たるものが首をもたげるのである。たとえば負けても私は佐川のために争いつづけることでしか自分の満足は得られないと思うのであった。
 体に中心のないような一ヶ月がいつの間にか過ぎ去っていた。私には佐川二等兵がどこにいるかわからない。大陸のどこかで銃を執り、機関車の運転に任じているであろう。私はよく支那の地図の上に立ちあがって私に笑いかけている彼の姿を夢に見た。その度に私は彼が武勲を著わしてくれることを祈らずにはいられなかった。居るところを明らかにしなくともよい。一本の手紙を寄越よこさなくともよい。無事で戦っていてくれればよい、と思いながら……





底本:「コレクション 戦争と文学 15 戦時下の青春」集英社
   2012(平成24)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「指導物語」大観堂書店
   1940(昭和15)年11月
初出:「中央公論」
   1940(昭和15)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ファイヤ」と「ファイヤー」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
入力:富田晶子
校正:日野ととり
2017年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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