兄は礼助の
「今どき
「――お前まだ
礼助は苦笑と共に答へた。
「驚いたな。いくら僕だつて、結婚でもすれば兄さんに知らせますよ。」
すると兄は、あははと大きく笑つてから、
「そらそやろな。――どうも
「埃くさいか。名言だな。」
「埃はどうでもいいがな、どうや、貰うたらどうや?」
「いいのがあれば
礼助としては、
「どんなのがええのや? 参考に聞いて置かう。わしの心当りにないとも限らんでな。」
兄の単刀直入に礼助も気軽な返事をした。
「
「実枝みたいな? そんならどうや一層のこと実枝を貰つたら?」
礼助は特に実枝の事を云ふつもりではなかつた。兄弟共通に知つてゐる女性では、他に適当の心当りがないので、差当り此の
「でも子供があるからな。」
「子供がなければいいのか?」
「そんな事云つても無理ぢやないか。子供があるんだもの。」
「子供を
この兄の語気は強かつた。礼助はへたばりさうになりながら、辛うじて、
「さうもいかん。」と云つた。「――考へておく。」
「さうか。」
短く云つて兄は、また、
「さうか。――お前、一度京都へ来たらどうや。何ならわしの帰るとき一緒に行かんか。もう一年位行かんのやろ?」
「さう、一年くらゐ行かんかも知れん。一緒といふ訳にもゆかんが、――そのうち行きます。とにかく久しぶりだから。」
「そんならお
兄は
「一寸
「ぢや送りません。
兄は承知して帰つて行つた。
四月に入ると早早、礼助に多少暇な日が出来た。丁度大阪に用事もあるので
大阪の簡単な用事を片づけると、花見遊覧の広告で一杯の電車で京都へ入つた。礼助は四条大橋で電車を下されると、すぐ泊りつけの宿屋へ行つたが、満員で不器量に断られた。花見時の京都の宿屋だから無理もないところだつた。断られてみると、新しい宿を
だが、それはそれとして、いづれにしたところで、今時分、中途半端な時間に時子の宅へ行くのも勝手の悪いものだつた。行つたら寝るより外に手のない時刻、さういふ時刻に行きたかつた。旅づかれのぼんやりした頭で行つて、なまじ実枝でも居合せて雑談でも始まつてはかなはないと思つた。で礼助は
ぼんやり傍へ来た小さなウエトレスに一碗の
――部屋の向うの
礼助は珈琲を嘗めながら改めて鏡中の自分を眺めやつた。さうしてにつと微笑しながら、頬に
翌日時子の宅で礼助が目さめたのは、正午を少し過ぎた時分だつた。
井戸端で顔を洗つたが、何となくはつきりしないので改めて
「いらつしやい。」と云ひながら実枝が出て来た。礼助は、
「やあ。」と云つて軽く頭を下げた。「その後は――」
一通りの
「けふ、お
お茶の会へ行くかといふのだつた。礼助といふ不意の客があつても予定通り行くかといふのだつた。礼助はお茶の会と聞くと微笑を禁じ得なかつた。この前、京都へ来たときも、茶の会を方方引廻されたのを思ひ出したのだつた。礼助は時子に云つた。
「行つてらつしやい。僕は一人でいいから。その方が勝手だから。」
しかし時子は、彼女達と一緒に茶の会へ行くやうに礼助を勧めた。これから行かうとしてゐるのは、
彼等は建仁寺の何とか庵で約一時間を費やした。建仁寺を出て、四条通りへ戻つた。まだ三時に間があつた。礼助のつもりでは、お茶の会のあと、彼女等と何処かへ御飯を食べに行く気だつたのだが、かう時間外れでは仕方がなかつた。彼等は、
「円山へでも行つてみませうか。」
礼助は赤いポストをステツキでコツコツ
彼等は用のない人種らしい顔をして、石段を上り円山公園をぶらりぶらりと奥の方へ歩いた。奥へ進み過ぎて、ここからはもう東山の「山」の領分になるだらうと思はれたあたりまで来た。
「くたびれたわ。」
実枝はさう云ひながら平たい石の腰かけを
礼助は、
「やあ、有難う。」と云ふと、掃かれた石の上に腰を下した。礼助の次ぎに実枝、その次に時子が腰を下した。
花はまだ咲きはしないが、もう花が咲いても不思議ではない陽気だつた。腰をかけてゐる下から石の冷たさが
「いい天気だ。全く眠くなる。」
「まあ、あんなに寝てもまだお眠いの。」
時子は
「夜は夜、昼は昼、眠りの味は丸で別なものです。」と云つた。
それから彼等は眠りに
「でも、さうでないと御勉強出来ないといふなら仕方がありませんわ。」と云つた。
「ぢや寝坊でも構ひませんか?」
「それや――」
「
「ありますわ。」
礼助は
「あります?」
「だつて京都にいらつしやる間、毎日何処かしら連れて行つて頂きたいと思つてゐるのに、お昼までも休んでいらしちや、あと半日ですもの。」
「なあんだ、虫のいい話だな。あはは。」
さも気軽らしく礼助は云つた。
翌日礼助は起きるなりすぐ髪床へ行き湯に入つて、
「大丸まで一寸買物に行きますが、一緒にどう?
「行きますかね。別に用事もなし。」と答へた。
彼等は昨日の
「何てんです、それは?」と
「いいえね、お実枝はんは近頃日本髪に結うて髪慣らしをしてはるのと違ひますかなんてね、
「へえ。」
礼助は
「そら此の人でもね。」と時子は実枝を顧みながら云つた。「何時どうなるか分りはしませんけれど、そんな事こつちの勝手でしよ? それを何も世間中で気をつけて見てゐないでもいいやろと思ひますの。この人でもあないされては意地が出んものでもありますまい?」
意地が出るといふのは寡婦を通さうとする意地が出ることを意味するやうであつた。礼助は、
「意地なんてこと、それは別ですがね。とにかく、さう世間の狭い土地ぢや一寸困りますね。何となく、何をするにもぎこちないでせうからな。」
「ほんまに。」
「ぎこちないと自分で感じちや、行蔵が自然を欠きますからな。つい心にもない事をしたりする。」
「ほんまに。」
大丸へ入ると彼女達は
「食堂へ行つて待つていらつしやい。こんなとこ退屈でしよ?」と笑つた。
礼助は食堂で待つ事にした。珈琲を三杯ほど飲み干した頃、時子と実枝の顔が重なつて食堂の入口に現れた。礼助は食堂にもう何の用もなかつた。用がないのみならず、既に飽いてゐた。で彼女達の姿をみると、
「何か食べます? 飲みます?」と訊ねた。
彼女達も食堂に別段用のある様子でもなかつた。彼女達がはかばかしい返事をしないのを見ると礼助は、
「出ませんか。」と誘つた。さうして彼等三人は外へ出ることになつた。
電車通りへ出ると、時子は用事があるからすぐ帰ると云ひ出した。礼助は、
「さう。これから何処かへ晩御飯を食べに行きませんか。帰つてもどうせ食べるんだから、どうです。」と云つた。
すると、時子は、
「ぢや、
実枝は、咄嗟には返事のなり兼るといふ顔をした。礼助は
「ねえ、さうなさい。」と云つた。
実枝は、辛うじて云つた。
「でも、だつてそれは、――
「康夫さんはわたしが守してあげます。だからあんた行つていらつしやい。」
「でも――時さんも一緒にいらつしやい。」
「そんな無理云うて。わたしは用事があります。」
彼女達の問答は限りがなく同じことが繰返されさうだつた。礼助は、
「皆、一緒に出て来たのだから一緒に行きませう。」と云つた。
礼助の
なじみを一日一日と加へてゆくのは、ただ康夫とだけだつた。この四つになる子供は、始めのうちは礼助の傍へも来なかつたが、二日目には、ああしろかうしろといふやうになつた。両手をぶらりと下げたまま奇妙なしかめつつらをして、「幽霊――いうれい!」と礼助の上へのしかかつて来るやうになつた。礼助は幽霊の康夫に追ひ廻されて座敷中を逃げた。逃げながら、座敷の片隅にゐて康夫を見守つてゐる実枝と目を合せた。実枝は、
「康夫さん、そんなおいたしてはいけません。」と子供を
「子供はぐんぐん大きくなるものだな。」
「ほんとに。自分のお婆さんになるのはちつとも気がつきませんけれどね。」
さう云はれて、礼助は実枝も本当に
「かうしてお互に年とりますなあ。あなたはお茶の
「さうして、あなたは朝寝坊をして。」
「違ひない。」
礼助は
「お前来てゐたのか。辛気くさい奴やな。来たなら来たと一寸知らしたらいいのに。」
兄は礼助の顔を見るとさう云つた。
「そのうち、自分で出かけて云ひに行くつもりだつたから、その
兄は、用事があるので、今日は
「礼助、だからお前も一緒にうちへ来い。」
兄はさう命令するやうに云つた。丁度そこへ外出の仕度をした実枝がやつて来た。実枝は礼助に向つて、
「お目ざめ? けふは兄さんに連れて頂いて円通寺まで行きますの。」
「さうですつてね。で僕も
近近に実枝が主人で茶の会をするので、円通寺の茶室を借りるため、けふは
結局、礼助も連れ立つて行く事になつた。
からりと拭ひ上つたといふではないが、四月にしては曇り気味の乏し過ぎる空だつた。さして急がなくても歩きさへすれば直ぐ、少少は汗ばむ
「この真白の路が、あの山の入口まで、先づ二十五町かな? それから
「何云うてる。女でも歩く。」
さう兄は云つた。実枝は、
「お気の毒さま、暑いのに。」と云つた。
でも一歩山へ入ると日影が続いて、いくらか涼しくなつた。礼助は、こんなところで兄から何か云ひ出されては
「おつさん、おつさん。」と呼んだ。
しかし誰も出て来なかつた。
「留守かしら?」
さう云つてゐると、
「皆、お留守どす。」
「さうか。それは困つた。小僧さんも居んのか。」
「学林へ行つてはります。
「のん気やな、皆留守にしよつて。――仕方がない、一寸勝手に上げて貰ひまつさ。」
「へえ。どうぞ。」
兄は先登に立つて上つた。実枝も礼助も続いた。礼助は、
「
「さ、愚図愚図してゐると日が暮れるで、茶室だけ見とこか。」
兄はかう云つて実枝を促した。で三人は草履をつつかけて茶室へ渡つた。茶室は庭の奥まつたところにあつて、三部屋あつた。その二つに炉が切つてあつた。兄と実枝は勝手に押入れを開けて、
「礼助、もう帰るぞ。」と云ひながら薄暗い部屋の中から出て来た。
「お待ちどほさま。」
実枝も続いて出て来た。血の気のない顔が
「礼助、あれが
「京見台?」
「うん、あれへ上ると京都が見える、それで京見台と云ふのだ。あいつに上つて一番京都を見下してやろか?」
「それもいいな。」
「どうや実枝?」
「わたし、少し疲れてますし、それに帰りが遠くなるから、先に
「さうか。そんならお帰り。」
兄と礼助とは円通寺の門外まで実枝を送つて出て、
「何だか女一人帰すのは残酷なやうだな。」と云つた。さうして、今しがた歩いて来た白白とした野路と山路を思ひ浮べた。
「何、昼間のことや、大事ない。――お前どうや?」
「え?」
礼助には一寸兄の云つたことが分らなかつた。しかし「え?」と問ひ返すと同時に、兄は実枝のことを云つたのだなと分つた。
「実枝どうや?」
「どうつて――」
「嫁に貰ふ気があるのか?――
礼助は
「あかん?」
「ああ。あかんとも。少し老け過ぎてゐる。お前には老け過ぎてる。それに、ひと頃ほど美しうない。嫁は美人でないとあかんぞ。美人でないと人が寄りつかんでな。人が寄り附くと寄りつかんでは大変な違ひや。へちやの女房持つてると友達も来よらんでな。」
礼助は再び呆然と兄を目守つた。兄は平然として、
「さあ京見台へ上らう。」と云つた。
「ああ上らう。」
礼助は京見台へ早く上りたくなつた。京見台へ上つて眼界がどう開けるかは未だ知るわけもなかつたが、今しがたの白白とした野路も、
礼助は京見台からの目が、
彼は兄を顧みて云つた。
「京見台へ上つて美人を探すかな。」
「よかろ。」
兄は元気よく云つて、ぐんぐんと上つて行つた。
(大正十三年十月)