第四階級の文学

中野秀人




 文学も効用漸減法に支配されるものである。何と云っても文学をはぐくむに最も適した土地は貴族社会であった。寝て居て食える社会であった。閑人の社会に文学は生れる。けれども掘り返され掘り返されする内に、此の土地に投ぜられた資本及び労働に対する報酬は減って来た。播かれた種が皆な烏にさらって行かれたり、唐茄子に糸瓜へちまが実ったりして来た。そこで勇敢な人々は第三階級の土地に出掛けて行った。そこでは見慣れぬ珍らしい果実や野菜やらが出来た。今までの沈滞した一律的な文学は、明るい伸々とした世界に出て来た。けれども新らしい文学も旧くならずには居ない。真紅に咲きただれた椿の花がぼったりと崩れ落ちる様に、咲き遅れたダリヤががっくり前につんのめる様に、むれた風通しの悪い文学はしっかりと根を張った意地の悪い、けれども「力」に満ち満ちた文学に変って来た。第四階級の文学に変って来た。が新しい土地を開拓するには忍耐と勇気とが要る。只上面を眺めて雑草ばかり繁って居るので早くも失望してはならない。無知な無学なプロレタリヤにどんな文学が生れようか、まして日本の労働者と来たら、物質的で飲食と色情と安価な人生観とで固まって居るのだから、堪らないと云う人は、人間の心の小さいいきさつを知り得ない人である。微動する自然の耳語じごを気付かない人である。そしてまた第四階級の文学は労働者自身によって企てられるものだとは限らない。むしろ文学が労働服を着るところに意義を見る。同感或は情緒、これこそ一切の文学の核心ではないか。吾々は丹念に仕立上げる花造りの様に気永きながに待たなければならない。と云って私は決して文学が階級的意識によって成長するものだなどと主張するのではない。そして又此の新文学が、過去一切の文学に卓越したものだなどと思うものではない。只此のあたらしい処女地に生え出でんとする文学に対して、多大の希望と喜びを禁じ得ない者である。
 文学は全人類の精神の糧である。そして文学はそれ自身に於て正義と自由との味方である。解放が文学の本質である。さればその美的観照が虐げられたる第四階級に行こうとするのは当然の事であろう。文学が労働と苦難とを愛する様になったのは何が故か? 文学は常に虐げられたる者の内に巣食って解放の口火を付ける。文芸復興も仏蘭西フランス革命も露西亜ロシア革命も皆な文学を背景として演ぜられた。人類の歴史に永遠に波打つデモクラシーの力も、不平等を覆えそうとする文学の呼号によって動かされた。然し文学は方便ではない。だから自由平等の社会が生れた時に文学は益々光るであろう。けれども果して自由平等の社会が実現され得るものであろうか。自我と社会との合致は如何なる意味に於て如何なる形式に於てなさるべきか? これ等は社会政策や哲学の論議にまかせよう。吾々が現実に文学を考えるに当っての問題ではない。文学は感情そのものである。文学は某々主義と同居してはならない。文学は常に正義と自由とに行くけれども、正義と自由とに囚われはしない。故に文学の価値はその感情の聡明さの程度によって判断せられるとも云える。がさて吾々の文学に対する興味が、第四階級に触れる時に最高潮に達するのは何が故か。それは之が全く新しい文学だからである。そして吾々の感情が第四階級に対する熱愛に燃ゆるからである。今や第四階級を除いては文学の行くべき道はない。それは幸か不幸か知る由もない。水の低きに就く様に文学の本流はここに流れ落ちて来る。これには色々異存もある様であろう。けれども事実が之を証明しつつある様である。日本に於ても、二葉亭や啄木の方が、漱石や樗牛ちょぎゅうのものよりも現代人により多くの感銘を与えんとする傾向がある。猫の道化や滝口の煩悶は、エンジンやベルトが騒音を立てて居る現代生活に於て縁遠い所がある。国内革命国際革命社会闘争の活劇が演ぜられて居るのに、吾々は何を以て之に盲すべきであろうか。それにしてもあるがままの世界をカットし来って、現代の悩みもさては希望も指示し得る巨匠はないのか。月見れば千々に心の砕くる微温さは憎むべき哉。露西亜を見よ。露西亜は形に於て破れたけれども魂に於てまったからんとする概がある。汝の手悪を為さば切って捨つ可しと云う意気込である。さればあこがれの文学は早くも民情派のセンチメンタリズムを突破して、社会闘争の舞台に上った。深刻失望亢奮繊細次第にもつれて行くモダニストの行き方は、社会制度の真髄に触れねばやまぬ。インテリゲンチャの幻滅を歌ったチェホフは、現実の荒野を跣足はだしで彷徨った翼なき天才であった。モウパッサンの「笑いの中の涙」に対してその「涙の中の笑い」は如何に面白い消息を語って居るではないか。更に血で以て「意力」の壮美を描いたゴルキーの現実は「曾て人間であったところの動物」の旗揚物語である。然も彼等の主観は客観の全き姿を取って現われて来た。色彩の豊富な事、官能の鋭敏な事、彼等の偉大なる所は現代ロシヤを導いた、或は導かなかった所にあるのではなく、その芸術のすばらしさにあるのである。わが文壇でも此のロシヤを手本としつつあるものがすこぶる多い。けれども是等群小ソフィストには、現実味の足りない所がありはせぬか。今明日の生活を、其の時の衝動に托して、平気で或は懺悔してお祈りして暮して行くところに、何だかあっけない所がありはせぬか。ロシヤが西欧の文学を咀嚼して自分のものにして行った様に、吾々はロシヤの文学を咀嚼して自分のものにして行かなければならぬ。
 今や第四階級の文学は耕されんとして居る。如何なる労力と道具とを以てすべきか? 独立自尊の意気、吾一人天下に抗せんと云うヒロイズムが最も必要である。無力の善人である事よりは、強力なる悪人である事が必要である。その思想は如何に幼稚であってもよい。否幼稚なればこそ真摯、常に人生の重大問題にぶつかって来る。実際此の子供らしさ程恐るべきものはない。此の点に於ては貴族文学と相似たものがある。第四階級の文学は何処までも子供らしい所に強味を有する。此の子供らしさこそ現状不満、飽くなき知識慾に駆らるる原因となるのである。かくして社会組織に対する究明こそ第四階級文学の特質となって来るのである。もとより芸術は天来の感興を唯一の資本とすべきであろう。けれども何事をも究め尽そうとする事は、此の感興を強める所以ではないか。画を描くに当っても、解剖学の知識が必要である様に、文学をやるにも社会組織に対する見識は必要だ。殊に現代に当ってはあらゆる科学が焦点に集って燃えようとして居る。経済でも道徳や宗教や政治の理解なしに知る事は出来ない。真に社会組織を知ると云う事はそれが芸術であろう。吾々は小さい芸術をぶっこわして大きな芸術を創らなければならぬ。
 第四階級の文学は、泣言を云ったり失恋したり貧困したりする者に同情してはならない。何麼どんなに悲しい事辛い事があろうとも、しらを切って澄まして居なければならぬ。現代人は何処までもエゴイストである。此のエゴの重荷に堪えない人は、路傍に坐して悲しむ事なくそねむことなく、通行者を眺めるがよい。懺悔などはない方がいい、亦ほんとうに出来るものでもなければ、ほんとうに聞いて呉れる人もない。現実に降ってもならないが現実を踏み外してもならない。吾々は一切の救を求めてはならない。自己を凝視してじっと考えるがいい。救云々を云う改造一論者が可笑しくなる。
「自分の事は自分でお考えなさい。」之は近代作家が、様々な口調で、様々な場合に使う言葉である。何と云う冷淡な挨拶であろう。けれども何と云う尊い親切な言葉であろう。吾々は人の前に出る時に涙を拭いて居なければならぬ。そうしなければ恥を掻く。只一人で世界を相手に生きて行くのだもの、どんなにか「力」が要る事であろう。第四階級は殊に此の孤独と云うものが築き上げて行くものである。皆が手を以て自ら食って行くのである。「自分の事は自分で考えなければならぬ」とはプロレタリアの日常である。かの Into the people と云う言葉は、総ての人は何等かの生産に与からなければならぬと云う強い責任観を含んで居る。第四階級の文学は同情や哀願の文学ではない。反抗闘争の文学である。少しも弱身を見せてはならぬ文学である。苦虫を噛み潰して居なければならぬ文学である。茲に第四階級と云っても外面的に見ただけでは足りない。偉大なる作家は常に第四階級に居る。醒めたる人は常に精神上のプロレタリヤである。心の貧しきものである。が衣裳までも第四階級のものをまとめて来ようとする所に現代の興味がある。トルストイよりもドストエフスキーの方が吾々には懐しい。ホイットマンやトラウベルの詩に趣味性としての民主化さえ見る事が出来る。実に文壇の本流は第四階級を透して正義と自由とに憧れて流れる。
 ああ私は遂に第四階級の偏見に囚われてしまった。けれども Into the people と云う言葉を熱愛する私には致し方がない。第四階級の文学は意地るでもあれば、気狂じみても居る。生存競争弱肉強食の一切の矛盾と不合理をば見守って居る。国際聯盟が思想専制である事をよく知って居る。正義と自由とを主張するけれども、同情したり慰め合ったりはしない。理想や愛を抱いて居るけれども、現実だけしか語らない。虐げられたる者を残忍な心持で見て居る。それを虐げられたる者への唯一の声援だと心得て居る。誇張せられた感情の中に、泣いたり笑ったりする事を最も恐れる。冷静な心で何事でも堪えて行こうとする。けれども一切の芸術は議論や主張ではない。ミレーは只の百姓ではなかった。ゾラは只のリアリストではなかった。美! 実に美こそ、また第四階級の熱愛するものではないか。生活の苦闘に悩まされた第四階級は、唯一の活路として美の世界に慰めを求めようとする。彼等の美には贅沢な撰り好みがない。切実だから光る。真剣だから徹して居る。解放せられたる美である。文学は再生した。人類は再生した。





底本:「中野秀人作品集」福岡市文学館
   2015(平成27)年3月25日発行
底本の親本:「文章世界 15巻9号」
   1920(大正9)年9月
初出:「文章世界 15巻9号」
   1920(大正9)年9月
入力:富田晶子
校正:日野ととり
2017年1月1日作成
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