立春開門

河井寛次郎




 子供達は二月は冷凍された。それも炬燵にあたったままで冷凍された。町は冷蔵庫で雪、雪、雪。軒先からは真白に凍て付いた、鉄管の氷簾つららがさがっていた。水分を取られた空気はかちかちに乾いて、二月の扉は厚くて重かった。三月の声が叩いてくれない限り、これは開かなかった。然しそこにはたった一つの色として、咲いたままで凍らせられた、あの真夏の花氷のような炬燵があった。これは暖房の人工春とちがって、嘗つては洋燈が部屋の中心であったように、座敷にしか咲かない、季節の花であった。炬燵は子供達にはあたらなくても、あるという事だけで暖かくなった。ここは親しい来客には食卓でもあり、抹茶にもぼてぼて茶にも、最上の場所であった。
 節分がすむと御寺の門には、立春大吉の紙札が張られて、季節の扉があけられたが、でもそれは暦の上のことで、寒さは一層きびしかった。でもこんな時候に相応して、そこには煮鱠になますなどと言う惣菜があった。これはそじり大根に沙魚はぜの子などを入れて、酢と醤油で煮たもので、暖かいうちに食べさせられたが、味は二月の骨とでも言い度いものであった。これはかすかではあったが、突き刺すような季節の力で子供達を刺激した。
 網蝦あみえびは沢山採れたので、塩辛にもされたが、いきなり蕪や大根と一緒に煮られた、荒っぽい惣菜があった。素材丸出しのこんな食物は、赤貝を貝ごと蕪や大根と煮たものと共に、むき出しの土地の顔で、こんなものも亦子供達の体質や気心に、共通な特徴を与えたにちがいなかった。そこには又見るからに土質そのもののような、嘗め味噌があった。これは目ぼしい季節の蔬菜を、風物ごと刻み込んで醗酵させた、おかず味噌で、霜焼けの手を掻くような、掻かないではいられないあまかゆいものであった。
 子供達のおやつには湯煎餅あべかわもちがあった。この焼き焦げた餅と黄粉の匂は口と鼻とをつなぎ合せた。それから炬燵のそばには、甘酒を醗酵させるかわいい小甕が置いてあった。赤貝御飯に、釜揚げ蕎麦――子供達は二月の寒冷を中和するこんな物を与えられて大きくなった。こんな食物は皆一応母達が作ってくれたのに相違なかったが、然しほんとの調理者は眼に見えない処にいた。姿もなく言葉もなく土地の中に隠れていた。この調理者の献立てによらないでは食物は作れなかった。子供達の身体に合うように、食物は作られたのではなく子供達の好悪を越えた食物に彼等の身体を合わせるように育てられた。然しこの調理者は其土地から一歩も出た事もなく出ようともしなかったし、又出られもしなかった。三里も離れた土地には、又その土地の調理者がいて、自分の縄張りを守っていたから。こうして子供達は土地と関係した。だからこれこそ一番勝れたものだなどと、人はよく育った土地の物を自慢するが、こんな事は其の人にはほんとうでも他には通用しない滑稽事に相違なかった。
 それはそうと子供達の二月の蕾は固かったが、中味は雪を冠った中庭の南天の実のように赤かった。子供達は着ぶくれて丸められていたが、雪のやみまには藁靴をはき、雪掻きをかついで外を馳けまわった。そして、真白い田圃の向うの真白い重なり合った山々から、細い青い煙の上るのを見た。一本二本三本四本――。あんな遠い雪の山の中にも人がいるのか――かすかではあったが、いのちの合図をしているような炭焼く煙――子供達はどんなにかこんな遙かな人を思い慕った事であろう。
 其頃は雪はよく降った。一尺から二尺位も度々積った。朝から一間先も見えない程な、牡丹雪が降ったりした。子供達はこんな日には表の間の、蔀戸しとみどの障子をあけ肩を並べて往来を見ながら唄った。
天は渦が舞う、下は雪が降る
牡丹芍薬、百合の花
 音もなく舞い狂って降る雪は、見る見るうちに子供達のからだの中にも積って行った。こんな日にはよくしじみ売りのお媼さんが来た。背中に大きなかますを背負って、真白になってやって来た。蜆や蜆――とぼとぼとお媼さんは呼び声だけを後に残して、影絵のように雪の中に消えて行った。――蜆貝なんかこの辺の川にはいなかったが、お媼さんは一体何処から来たのであろう。叺の台のような腰の曲ったお媼さんは、こんな日には炬燵にあたってかけつぎのお針でもしていてくれないものかと、子供達はどんなにかたまらなく思ったか知れない。このお媼さんは子供達には、其頃読んでいた文庫本の色々な話とつながっていた。謡曲「鉢の木」の話はその中の一つであった。
 西明寺入道北条時頼であった旅僧が、留守居の妻女に一夜の宿を断られて、降りしきる大雪の中に消えて行く――帰って来てこれを聞いたこの家の当主、佐野の落魄した領主、源左衛門常世は、呼びもどそうと後を追うて行く――そして雪の向うに行きなやんでいる旅僧を、声を限りに呼んだあの声――その声がお媼さんの声と一つになって、この昔の話に積った雪がそっくりそのまま今お媼さんに降り、子供達にも降ったのはどうした事であったろう。この話では呼び戻そうとした対手は、旅僧であるように思われるが、実は見失いそうな人間を自分自身の中から呼び返えそうとする人の必死な思い――そういうものにこの雪は降ったのかもわからない。それにしてもこのお媼さんは蜆を売りに来て雪を買わされたのではないだろうかと、子供達はいつまでも気にかかった。
 そこには又後年近江聖人と言われた少年、中江藤樹が修業にやられていた、伊予の国大洲の町から、母の病気を気付かって遙々故郷近江の国、大溝に辿りつくなり、上にも上げられずに、庭先から追い帰された話があった。雪の日に凍えながら元来た道を引き返して行ったこの少年に、子供達は痛い処を突かれてやり切れなくなった。非情むごいと思われる程な当時の武家の世風であった厳しいしつけの中に、ひた隠しに隠されていた母の情愛などは、子供達に解ろう筈がなく、身も心も凍え切った、この少年は無事平穏に炬燵にあたっていた子供達を、いきなり雪の中におっぽり出してしまった。この少年も亦お媼さんとつながって、一人になってしまったのはどうした事であったろう。
 其頃の子供達の家の床の間には、よく粗末な墨絵の幅がかかっていた。その一つに切り立った雪の山を背景にして薄墨色の江上に、笹の葉程な舟を浮べて、一人釣りしている絵があった。つくね芋のような山又山が、今にも崩れ落ちそうに雪を冠っているのはおかしかったが、よく見ると蓑笠をつけたこの漁人は、腕程もある竿に太い縄程な糸を垂らしている。何を釣ろうとするのか、すべてはあり得ないものが、そこにはあった。でも雪景色である事には違いなく、如何にも大雪らしかった。それで上の空所に「独釣寒江雪」と賛が書き入れてあった。これは子供達にはおかしな事であった。というのは、そんな説明はされる迄もなく、誰にだって意味の解る絵であったから、でもこの絵は何も彼も嘘であるのにも拘わらず、その嘘を越えて何物かがあった。後になって解った事ではあるが、この賛は素晴らしい事を言っていたのだ。魚を釣っていると読めば、馬鹿げた蛇足で贅言で滑稽ではあるが、然し雪を釣っていると読めばとたんに意味を持った。多分賛者はそれを意図したのであろう。そう解釈したい。そうでなかったなら、こんな絵はとうにうさって(失っている意)いた筈である。釣から言えば、釣魚なんか、ほんのかけ出しの初歩なのだそうだ。次には自分を釣る事になるのだそうだ。それを越えると、釣れないものはなくなるのだそうだ。月であろうと雲であろうと、猪でも、鹿でも釣れるのだそうだ。そうだ真直な釣針を垂らしていて、帝王を釣った人さえいたと言われるから、釣も亦面白いが、さてこうした釣も最後には何処へ行きつくのだろう――こんな絵も亦この雪の日のお媼さんとつながっていたとは、どういう訳であったのであろう。二月は子供達にものを思わす月であった。





底本:「日本の名随筆17 春」作品社
   1984(昭和59)年3月25日第1刷発行
底本の親本:「六十年前の今」東峰書房
   1968(昭和43)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード