遺愛集

窪田空穂




 数日前、巣鴨拘置所内に、死刑囚として拘置されている島秋人君から来状があり、今度はからずも、篤志の方々の厚情によって、「遺愛集」と題している自分の歌集が出版されることになった。ありがたい次第であるといって、その方々との心つながりを、言葉短く知らせて来た。心つながりは、何れも同君が、「毎日新聞」の歌壇に投稿している短歌で、選者としての私の選に入選した作をとおしてのものである。そのことは私は今度はじめて知ったことで、現社会にもそうした篤志な方々が少なくないことを知り、そのこと自体に対して感激の情を抱かされたのである。
 秋人君の来状は、今一つの用件を含んだものであった。それは「遺愛集」に序を添えて呉れ、又、題簽も書いて呉れという依頼であった。
 この依頼は今度が初めてではなく、やや以前にすでになされ、私は承諾していたものである。その際の秋人君の書状は私を感心させるものであった。大意は、秋人君と私との関係は、毎日歌壇の投稿者と選者ということに過ぎない。その選者を自分の師のごとく思っているのは、甘え心からの独りぎめであるが、それは許して呉れ。自分には歌集を出版して下さろうという二、三の方々があるが、生前にそのようなことをするのは、被害者に対して相済まぬ感がするので、死後にして下さい。可能なかぎりの詫びをしての後にして下さいと延期を願っている。出版の際には序と題簽を書いて下さることをお願いするというのである。まことに筋のとおった、行き届いた文意だったので、私は感心して承諾したのであった。
 今回の出版は生前のことで、趣がちがっているが、出版してやろうと言われる方は、以前の方々とは別の方で、はなはだしく秋人君を感動させたようである。又、秋人君がよろこんで応じる気になった心中の機微は、他からは推測のしがたいものがある。
 秋人君の作歌は、拘置所の者となってからのことという。又、作歌のよろこびをとおして心境に変化を来たしたともいう。現在では作歌を一日、一日生き延ばされている生そのもののごとく大切にしていることは、その作歌をとおして私には感じられる。これらのことは、秋人君自身この「遺愛集」に書き添えることであろう。
 私はそれらには触れず、秋人君の作歌に対して平常感じていることを略記して序とし、秋人君との前約を果たすこととする。
「遺愛集」は島秋人自選の歌集で、題簽も自身付けたものである。秋人君の歌歴からいうと最近に属するもので、昭和三十六年から三十八年に亘る三年間までの作に、厳選を加えたものである。遺愛とは生前愛した物で、死後に遺す物という意であろう。秋人の遺しうる物は、ただその作歌があるのみである。わが作歌こそわが生命であるとの意であろう。
 私は郵送されて来た「遺愛集」の稿本を通読して、感を新たにするものがあった。
「遺愛集」一巻に収められている三年間、数百首の短歌は、刑死を寸前のことと覚悟している島秋人という人の、それと同時に、本能として湧きあがって来る生命愛惜の感とが、一つ胸のうちに相剋しつつ澱んでいて、いささかの刺激にも感動し、感動すると共に発露をもとめて、短歌形式をかりて表現されたものである。これは特殊と言っては足らず、全く類を絶したもので、ひろく和歌史の上から見ても例を見ないものである。
 私は拘置所の内部を目にしたことがなく、秋人君の作をとおして想像するのみである。そこは三畳敷きの独房で、金網をめぐらした室である。窓はすりガラスで、外部はよく見えない。見えても、広い砂庭で、雑草が生えているばかり、そして高い塀でかぎられているのである。
 生活は何の自由も与えられてはいず、ペンでする筆記も許可を要するようである。生活とはいっても、実に単調極まるもので、ただ生命あるが故に生きているという程度のものらしい。
 これが島秋人の環境で秋人君のこの何年間ももちえたものは、自身の思念のみであった。この思念は自己の生を大観するものとなり、極悪事の反省となり、悔悟となり、死をもっての謝罪となり、その最後が、現在の与えられている一日、一日の短い生命の愛惜となり、そして作歌となって来たのである。
 これら心境の状態を「遺愛集」の歌はつぶさに示している。歌は外界からの刺激がないと作りにくいものであることは常識となっている。秋人君にはその刺激が極めて少ないのである。それにもかかわらず実に多くの歌を詠んでいる。これは胸中の思念がその刺激となっているからのことで、その思念のいかに多いかを思わせられる。
 又、「遺愛集」数百首の歌には、おなじ思いの繰り返しというものが全く認められない。秋人君の思念の範囲は上に言ったがごとく限られた狭いものである。繰り返しのあるのがむしろ当然である。それの無いということは、一刺激に対しての思い入れが深く、繰り返しを許さないほどのものであることを示していると思われる。
 秋人君の思念は、時に幼童に立ちかえり、少年に立ちかえることがあり、その当時の記憶を刺激として詠んでいる歌がある。夙に死別した母を憶い、故郷の何ということもない風物を憶った歌などには、純良で、無垢の気分がにじみ出ていて、微笑を誘われるものがある。又、自身の身世を大観し、現在の心胸を披瀝した大きな歌がある。そうした歌を読むと、頭脳の明※(「日+折」、第4水準2-14-2)さ、感性の鋭敏さを思わずにはいられない感がする。歌は例示を待つまでもなく、「遺愛集」に満ちている。
 島秋人の歌評をする以上、その表現技法に触れるべきである。
 秋人君は表現技法に巧みではない。修練の年月が足りないのである。未熟で、たどたどしい作さえある。これは余儀ないことである。しかし秋人君の作は、ほとんど全部取材は単純である。思い入れは深い。それを正直に、素直に表現しているので、作意は短歌形式に盛りきられて、程のよい、過不及のない物となっている。その出来のよい作は、稚拙さが却って真実感を生かす結果ともなっているのである。
 現短歌界は空前の広さをもっている。月刊歌誌が五百種はあろうという。「毎日歌壇」のその中に占める位置は軽いものといわざるを得ぬ。しかし死刑囚島秋人の作に関心をもっている人の数は意外と多いようである。その作を読みはじめると、心惹かれる何物かがあって、おのずから関心をもたされるからであろう。これは短歌形式そのものの魅力も手伝ってのことと思われる。
 この趨勢は将来もつづいてゆくことであろう。島秋人の「遺愛集」は、その意味で将来にも生き、秋人の生命もその作をとおして息づきゆくことと信じられる。
 私は先年、宗教雑誌「大法輪」に依頼され、死刑囚島秋人の歌ともいうべき一文を発表したことがあった。その文中に死刑囚ということに触れての随想を加えた。私は秋人君に面接したことはなく、その作歌をとおして勘で想像するだけの感想であった。それは現在にもつづいているので、ここに書き添える。
 私には一つの信念となっているものがある。それは人が幼少のころ、漠然としたものながら、第一印象として、世間というものはこうした物だ、これが当たり前だとして受け入れた印象は、生涯を通じて変わらないものだということである。その力は強く、運命的なものである。
 秋人君は幼少のころは、よほど我がまま、気ままに育てられて、それが性格的になったとみえる。少年期、青年期に入ると、それが正直な、生一本な、怒り易い性分となったとみえるが、根は気が弱くて、かっとなると、何をするか自分でもわからないような男になったのではないか。私の勘に感じられる秋人君はそうした人に思えるのである。極悪罪を犯すに至った成りゆきは、私の追随に余るものである。わかる者は秋人君独りであろう。
 一言でいえば、島秋人は私には悲しむべき人なのである。しかし悲しみのない人はない。異例な人として悲しいのである。
昭和三十九年五月





底本:「遺愛集」東京美術
   1974(昭和49)年10月15日新装第1刷発行
   1999(平成11)年12月25日新装第14刷発行
入力:大久保ゆう
校正:The Creative CAT
2019年11月1日作成
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