百済観音と夢殿観音と中宮寺弥勒

野間清六




 この三つの像は飛鳥の代表的な彫刻として世に有名であるが、その三つの像を飛鳥の彫刻から排除した理由は既に述べたところである。こゝにはそれらの像が、何故に白鳳時代のものであるかの理由を述べたい。
 百済観音はその異様な長身が不思議な美しさを示し、仰ぐものの心を高い天上へ誘うような感銘を与える。この特異な美しさこそ、実はこの像を白鳳のものたらしめるのである。この特異な長身は、整然とした均衡を破り、安定性を越えようとすることによって、主張されているのである。もちろん作者の非凡な感覚は、飛鳥的な均衡や安定性を破りながら、別途の均衡美を示している。そこには今までの飛鳥的なものに満足出来ず、それを越えようとする新しい意欲を示している。この新しい意欲こそ、白鳳的性格というべきものである。またこの像は飛鳥の彫刻が、立体的なものを積み上げるような造型性を示したのに対し、立体を包む線条の美しさを示すところに、新しい造型美を示している。その結果その立体美は、意志的なものでなく感情的なものとなり、一種の叙情的な美しさにまで発展している。こうした造型感覚の根本的な相違を、材料が同じく楠であるとか、目が杏仁様であり口が仰月状であるとかの、類似のために見落してはならない。
 この像を南梁様とか隋様とか称したのは、この造型感覚の相違するものが、同じ時代にあることの矛盾を解決するために、系統の相違によるものと解したためである。しかしこの新感覚の造型は、飛鳥の主流をなした北魏様に先駆したのでもなく、また並存したのでもなく、北魏的なものが飽和した時に現われたもので、そこにはやはり時代の下るものが考えられるのである。
 それはまたこの像の造型感覚が、法隆寺金堂の四天王像に通じていることからも考えられる。飛鳥の造型は転進して、この百済観音および四天王像の造型へと達するのである。この傾向のものに法輪寺の薬師如来像や虚空蔵菩薩像その他小金銅仏などが見られる。それらは決して偶発的に、飛鳥の中にあらわれたのではなく、白鳳という大きな新しい感覚の先駆として、登場しているのである。この像を先駆と呼んだのは、この新傾向を代表する四天王像に比べ、技法的に古いものが見られるためである。
 またこの百済観音の時代が下ることに就いては、その台座の蓮弁に胡桃形の隆起が作られていることや、宝冠の透彫意匠が白鳳的になっていることからも考えられる。この像は飛鳥的でなく、白鳳的な美しさを示すところに優れたものがあり、これを飛鳥のものと見ることは、この像の本質的な美しさを解しないものというべきであろう。見よその差し伸ばされた手指のあやしいまでの美しさを、それは単なる外来形式の模倣によって生まれたものではなく、高まりゆく白鳳の抒情性の発露に外ならない。
 次は夢殿の救世観音像である。この像は聖徳太子の宮址にある夢殿の本尊であり、また長く秘仏として伝えられたために保存もよく、飛鳥彫刻の代表作とされ、止利様式の完成されたものとも解せられている。しかし私の飛鳥彫刻観或は白鳳彫刻観から見れば、完全に白鳳的性格を示しているのである。ともすればその左右均整な姿や、眉目口唇などの形式が、飛鳥の止利の造様に似ているために、飛鳥時代のもののごとく思われるが、その底に流れるもの、或はその細部に示されているものを見れば、百済観音以上に白鳳的なものを示している。
 この像の作られた来歴は、今の夢殿は天平十年頃に行信僧都によって建立されたのだから、この像がいつ頃どこで作られたか不明であるが、なんらかの理由で古式によって作られたものと見られる。恐らく法隆寺金堂の釈迦三尊の脇侍とか、同寺の救世観音と称せられている金銅仏などが、手本とされたかと思われる。しかしその感覚は非常にちがっている。飛鳥的なものも白鳳時代になれば、どのように変化するかの見本とも考えられる。それは飛鳥の止利式形式を示しているが、その造型感覚は百済観音的であり、その立体は線条によってまとめられているのである。その目も口も飛鳥式というよりも、法隆寺の四天王に近いデリケートなものを示しているのである。殊にその頬や頤の肉付きを見れば、その四天王像よりも遙かに繊細な感覚を示している。またその手指を見ても、百済観音の手指の抒情性を、更に発展せしめた微妙な官能美さえ示しているのである。
 この夢殿観音の作成された時が、百済観音や四天王像より更に下ることは、既に述べたところでも推測されるが、その台座が複弁になり胡桃隆起が一層丸味を帯びていることや、光背の意匠に更に進んだものを示していることによってもまた知られる。では一体いつ頃この像は作られたのであろうか。それについて一つのヒントを与えるのは宝冠の透彫である。この像は見事な透彫の壮麗な宝冠をいたゞき、この像の美しさを一層引き立たせているが、実はその透彫の文様なり技法が、法隆寺金堂の四天王像の宝冠にも似ているのである。更に同堂の天蓋についている焔形の飾金具にも似ていることである。法隆寺の金堂が再建されたものと見れば、その天蓋もその時の製作と考えられ、自然この夢殿観音像の作成の年もある程度推測され、時代は意外に下っていることが知られる。
 中宮寺の弥勒像もまた飛鳥彫刻の名作として、多くの人に親しまれている。しかしこれは百済観音や夢殿観音よりも、更に白鳳的感覚の成熟を示すものと言えよう。成熟というのには少し語弊があるかも知れぬ。それはむしろ白鳳感覚の末期的性格を示しているものと言うべきかも知れぬ。飛鳥の明瞭性は百済観音や夢殿観音ではまだ残っていたが、この像では殆ど消え去ろうとしている。明瞭感は輪廓を単純化することによって表わされる。この像の顔や胴や手足の肉付けに、実在的な微妙な起伏を見るのは、写実的なものへの接近を示している。
 言い換えるならば、明瞭性からの離脱に外ならない。それはその目の特色のある表現に見られる。もうこれは杏仁形の目ではない。眼瞼がどこにあるかわからない。眼球の柔かな隆起があるだけで、その陰影がこの像の世にも類いない慈顔温容となっているのである。この眼の表現法は野中寺の弥勒菩薩像にも見られる。また衣の襞の表わし方も、細い線状的印象を与える直角的な彫痕から、なだらかな円味を持つ隆起へと変っている。
 この像が飛鳥的でないことはいうまでもないが、どうかすると、百済観音や夢殿観音の造型感覚ともちがうのではないかと思われる。もちろん相違するところはあるが、それは白鳳彫刻が追うた情感的なものなり、抒情性の自然的な発展と見られる。初期のリリシズムは実在的なものから自由に飛躍していたところに、非現実的な崇高さを発揮した。それに対してこの像は、リリシズムを実在的なものの上に求めて行ったのである。そこにこの像独自の甘美さがあり、多くの人に親しみを感じさせてもいるのである。それは決して、白鳳的なものに背くものではない。しかしそれは更に発展すれば、奈良彫刻の写実になるものであり、そのためにこの像を白鳳の成熟と見、また末期的なものと考えたく、その作成の時代は、野中寺像に近い天智天皇の頃となすべきであろう。
 中宮寺の弥勒菩薩像をこのように考えると、広隆寺にある二つの弥勒菩薩像も、その間に多少作成の時代に相違はあるが、大体同じ頃のものと見られ、飛鳥彫刻の圏外にあることが理解されよう。その装飾の少ない方の弥勒菩薩の方は、中宮寺の弥勒菩薩像に比べると、モデリングも十分でない簡古さがあって、作られたのも古いように思われる。装飾の多い方の弥勒菩薩像は、今一つの像を模しながら、新しい技法を示したと見られる。それは中宮寺の弥勒菩薩よりも、一層表現が細緻になっているので、更に時代の下るものと考えられる。
 以上のように白鳳時代における新しい様式は、百済観音や法隆寺の四天王像に見るような造型が次第に成熟して、野中寺や中宮寺の弥勒菩薩像のようなものへと進んでゆくのである。その間に辛亥在銘の金銅仏や夢殿観音像のような、古い形式を残しながら新装したものが、過渡期的現象として介在する。しかし主流はそうであっても、実際の様式の推移はなお多彩であった。そのことを知らせるのは、この当時の小金銅仏である。





底本:「日本の名随筆46 仏」作品社
   1986(昭和61)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「飛鳥・白鳳・天平の美術」至文堂
   1966(昭和41)年
入力:富田晶子
校正:noriko saito
2017年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード