ぞなもし狩り

円城塔




 カーテンの向こうには窓があったが、夜一色に塗りつぶされて、なにも見えはしないのである。折角せっかく奮発してみた窓つき個室も、こうしてみると意味がなかった。硝子がらす一枚隔ててしまうと、闇は鏡と変わらなくなる。鏡は闇より厄介だから、結局カーテンで隠してしまった。
 出航がおおよそ19時、観光港着がだいたい7時ということだから、あらかじめわかっていたのである。そもそもが寝ている間の航海であり、外の景色を見たいのならば、甲板へ出ればそれですむ。実際、明石の橋と、緑に光る淡路島の観覧車とは外で眺めた。
 窓はなくてもよかったが、その場合、カーテンがなければ嫌だ。ただの壁でもカーテンさえ下げてもらえば、その背後には窓があるかも知れなくて、窓がないならなぜカーテンをかけておくのかということになる。だから窓つきの個室をとることにした。
 大阪から別府まで、瀬戸内の道を選んだ理由としては、歴史的な興味もそれとして、船が変に好きなのである。泳げないのに船好きというのはちょっと奇妙な気もするが、大きな船が沈んだ場合、泳げる泳げないはほぼ生存率と関係がない。特に冬場は水温の関係でまずすぐに死ぬ。公園のボートなどには乗らない。船好きというより、揺れ好き、であるかも知れない。飛行機なども奇妙に好きだ。新幹線はあまり好かない。本を読むと酔うからだ。バスというのもあまりよくない。車は自分では運転しない。大きな乗り物ならば、となりそうだ。地球であるとか。
 瀬戸内海ということだから、日本史上最大の街道といえる。畿内の朝廷から見ると、長い参道のような機能を果たした。中韓からこの道を進んだ奥詰まりに難波の宮を設けてみたこともある。大阪湾を懐として、両手を広げて歓迎してみせる感じか。瀬戸内海は、国外の声を伝える耳道のようなものであるかも知れない。もっともその鼓膜の奥に位置する朝廷は、白村江はくすきのえでの敗戦をうけ、琵琶湖のほとり、大津まで宮を移して、山の後ろへ身を隠した。やや敏感すぎる小動物のような行動である。
 もっともそれは、あくまで畿内からの視点にすぎず、なにかつくりごとめいている。どうも自分が知る日本史とは違うようだと思うのだが、ではどんなものが日本であるかと問われると困る。
 フェリーにはWi−Fiもきているが、通常の4G回線もかなり通じる。世界中から暗闇が人工の光に駆逐されつつあると話に聞くが、電波の届かない領域も急速に減少しているだろうと思う。とはいえ電波とは電磁波であり、可視光もまた電磁波だから、単に人工的な電磁波網が地球を覆いつつある、ということでよいかも知れない。
 今このときに船が沈んでも、家族に電話が通じるなと思う。
「うん、今、船が沈みかけているのだ」
 とでも言うべきだろうか。
「眠いからあとにして」
 と言われるかも知れない。それでもまだ上出来だろう。留守番電話ということも大いにありうる。
「電源が切られているか、電波の届かない地域にいます。メッセージをお願いします」とかいうやつだ。電源どころか命脈を絶たれ、どうやったって電波の届かない国へ向かおうとする者への言葉としては、なかなかに味わい深い文章だ。「メッセージ」というのも気が利いている。
 フェリーが四国の舳先へさきをすぎて、携帯電話の画面から、電波の強さを示すアンテナ表示が見えなくなると、なんだかほっとしたような気持ちになった。

 別府へは、ぞなもし、を狩りにきたのである。
 一般に、「ぞなもし」といえば道後のもので別府にはいない。もっとも愛媛産の知人に言わせると、「ぞなもし」というものはないのだという。「ぞな、もし」と切れているのだそうだ。ただし、「ぞ、なもし」とする流儀もあって実はそちらが優勢だともいう。どこで切っても平気にしている生き物のような気配があり、およそ羊羹ようかんとか、すあまとか、ういろうとか、ああしたものの気配がする。
「しかし四杯は過ぎるぞな、もし」
「そりゃ、イナゴぞな、もし」
「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」
 といった形で生息している。道後温泉は、この「ぞなもし」を名産とする。佃煮つくだににしたり、クッキーに煎餅、饅頭まんじゅうに団子にアイスクリーム、シャツにキーホルダーにハンカチ、タオルにと、なににでも利用が可能だ。ただし生では体を壊す。地元の人は体の方が慣れている。
 明治の頃に、中学校の数学教師が発見し、以来、道後温泉を象徴する生き物となった。月給四〇円で雇われてきて、一月ほどで東京へ戻ってしまった教師だという。発見の仔細しさいは『坊ちゃん』という小説でよく知られる。名が知られてはいるものの、実際に読んだ者の少ない小説として有名だ。少し違って、読んだ者は多いのだが、内容をうまく記憶できない小説として名高い。しかも本人は、ちゃんと読んだと信じ込むのだ。
 その証拠に、「あらすじ」を言ってみせよというと大抵の者が、「坊ちゃんなる人物が英語の先生として松山に赴任して、赤シャツやら山嵐やら、ぬらりひょんやらいった同僚たちと、マドンナなる婦人をめぐって鞘当さやあてを繰り広げる話」などと答える。
 読み直してみるとわかるが、『坊ちゃん』にそんなことは全然書かれていないのだ。坊ちゃんはあくまで数学の教師であって英語の教師ではない。気の抜けた読み方を非難しているわけではなくて、全然書かれていない内容が、当然顔で流布しているということを言いたい。さらに驚くべき事実としては、道後を褒めた小説でさえない。
「田舎者はけちだ」
「生れ付いての田舎者よりも人が悪い」
「こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなものだ」
 と散々である。もっともかろうじて、温泉のことは褒めてある。
「ほかの所はなにを見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ」
 この小説が道後の宣伝に使われる所以ゆえんだが、全体を通じて褒められているのは温泉とマドンナの容姿だけだといってよい。もっともそのマドンナのことも、電車で見かけ、「いよいよマドンナに違いない」と勝手に得心しているだけで、本物のマドンナなのかもはっきりしない。読んだからといって道後に行きたくなるという小説でもないはずなのだが、何故なぜか片手に出かけてしまったりするし、現地で購入してみたりする。
 この「ぞなもし」は道後のもので、別府にはない。有馬にもおらず熱海にも、草津にもない。別府の言葉は実はかなりのところ関西系だし、有馬も熱海も草津でも、伊予弁を使ったりはしないのだから「ぞなもし」としても居所がない。いないものは狩れないだろうとたずねると、
「いないからこそ狩るのである。いるところで狩れば絶滅してしまうであろう」と、やや頓智とんちのような返事が戻った。

 山から雲霧が生い上るのは珍しい景色でもないが、ここでは同時に湯気も立ち上るのでややこしい。海が灰色の空にそのまま溶けていくところから首を回して、雲海に浮かぶ峰々と見えたところが、一つの山であったりする。大づかみにして並べたような姿の山がのしかかるように海へと迫り、陸海空がひと連なりにでんぐり返って、天地が転ぶ勢いである。どこまでがなんの別府なのだか、ちょっと中のようにできている。
「で、どこへ、『ぞなもし』を探しにいくのか」と、やや途方に暮れつつたずねたのは、小雨そぼふる夜明け前の観光港でのことだった。
「それは当然、別府といえば温泉なのさ」
 ということであり、「温泉に必ずいるはずなのだ」という。「いるから温泉なのであり、温泉だからいるのである」とやや不明なことを言っている。
 なるほど、とここでひらめき、「『ぞなもし』とは要するに、極限環境微生物なのだ」と断言してみる。さすがに言いすぎかと考え直し、「なのだな」と問いにしておく。
「極限〜」と名前がつくとどうも怪獣のようなものが思い浮かぶが、要は、人間には暮らせないような場所に生きる生物を言う。では水中に暮らす魚も極限環境微生物かとなりそうなので訂正すると、通常見慣れた生き物が暮らすことのできない場所に住む微生物を指す。熱すぎるとか寒すぎるとか、高すぎるとか低すぎるとか息苦しいとかまあそういった場所であり、エクストリームスポーツの開催もちょっと、というような場所に居着く。
 実は結構最近である。見つかったのは。1960年代の話である。極限環境微生物。それはまあ、極限環境へなど人間だって出かけて行くのは一苦労となりそうだから、見つからないのが自然である。ゆえに発見はひどく遅れた、となりそうなのだが、そうでもない。まさかそんなところにいるはずがないという思い込みが盲点で、なにげなくそこいらへんに住んでいた。盲点に住み着く生き物ということかも知れない。向こうとしては隠れていたつもりさえなく、むしろ堂々と生活していた。
 とりあえずは、温泉にいた。
 温泉といっても、いい湯だなとか、あははんとか、viva nonno とかではなくて、ぼこぼこと坊主頭ぼうずあたまが湧いてくるようなあれである。人が入るには、我慢試しにも熱すぎるから極限環境であるに違いない。
 フォーラーネグレリアとかああいった、人の脳みそを食ったりする気性の激しい奴ではない。80度以上の湯が最高という奴らを超高熱菌と称する。別府の人が熱い湯を好み、銭湯などではなかなか埋めさせてくれないというのが本当だとしても、超高熱菌にとってはまだまだ、凍え死ぬほどの冷たさである。あまり熱すぎると当然死ぬが、百度に耐えるようなのはゴロゴロしている。
 さて、ここに疑問がぼこりと丸く浮き上がり、この湯治を続ける菌たちは一体全体どうやって、温泉地までやってきたのか。脱衣所から離れた冬場の露天風呂へ向かう人間のように、さぶさぶさぶさぶ言いながら、湯まで走ってやってきたのか。そりゃ、場所がわかっていればそれでもよいが、適当に走るとたちまち全滅しそうである。かといってあんまりにも熱すぎるところを通ることもできないわけで、いい塩梅あんばいのところを渡り渡ってなんとか温泉までやってきた、ということになる。そのあたりで日常的に、新種の細菌がぽこぽこと生まれたりしない限りはそうなる。
 実際この温泉に住む細菌たちは、だんだんと少しずつ熱い湯に慣れていったわけではないらしい。昔々のその以前から、熱い湯だけを好んできた。人の生まれるその以前から、原始地球で湯につかっていたのだろうとされている。海底の熱水噴出孔とかああした場所が故郷ふるさとだ。木星の衛星、エウロパだとか、土星の衛星、エンケラドスあたりにだって熱水噴出孔はあるらしい。初期生命の発祥地であるともされる。
「といったことを踏まえて、『ぞなもし』を狩るのだな」と訊ねると、
「違う」とほんの一言である。「なんのことだ」と不審気な顔までしている。
 いやだから、とこちらとしては解説を施さざるをえなくなり、だからお前はきっと、極限環境微生物学者なのであり、「極限環境」が「微生物」にかかるのか、「学者」にかかっているかは知らないが、多分、新種の超高熱菌を探しにこの別府までやってきて、そうだ、だから「ぞなもし」というのもおそらくは、せんに道後で見つかった、新たな超高熱菌についた名なのであろう、学者はそうした冗句を好むからな、と言ってみるのだが、首を傾げるだけである。
「違うのか」と重ねて問うてみたところ、
「違う」と答えた。「『ぞなもし』が見つかったのは明治時代で、中学校に赴任してきた数学教師がみつけたわけだ。もしも『ぞなもし』が超高熱菌であったなら、超高熱菌の発見史が五十年以上さかのぼることになってしまう」と道理を続ける。
「それはよくない」と言うのでなにがだと訊くと、「歴史を勝手に変えるのはよくない」とひどく常識的なことを言った。
 それはまあ、そうかと思うが、話が全く進んでいない。
「結局、『ぞなもし』」とはなんなのだと問う。ついでに、「どうして道後ではなく別府へやってきたのだ」とも訊き直しておく。
「ひとつには」と言うにはこうだ。「道後へ行かなかった理由は、大阪港から直通のフェリーがなかったからだ。松山観光港へのフェリーが出るのは広島か呉か小倉だ。しかもさらにそこからも長い。瀬戸内海をずずっと通ってみたいという趣旨も満たさない。ふたつには、いるとわかっているところへ出かけたからなんだというのか」
「で、その『ぞなもし』は温泉と関係があるのであるか」と問いつめると、
「無論ある」と強く答えて、「と思われる」と弱気に結んだ。こちらのとがめる視線に応え、「まあとりあえず、バスに乗ろうではないか」と言う。

 別府の街はバスが便利だ。タクシーの数も不思議に多い。世には観光地をうたいながらも、自家用車持ちでなければ移動さえもままならない土地が珍しくない。JRの別府駅からバスに乗り、海地獄前で下り、観光をする。海地獄という命名はなかなかうまく、それはなにかという気にさせる。そういう気持ちは大切だから、海地獄とはなんなのかはあえて秘す。ちなみにこのまわりには、鬼石坊主地獄、山地獄、かまど地獄、白池地獄と、地獄が並ぶ。
「地獄はよいが、湯自体に名をつければよいのに」と変に名前にこだわる様子である。「有馬あたりでは」と一人で言っている。「鉄の赤みを帯びた湯を金泉、無色の方を銀泉と呼んで、記憶に入り込むようにしている。これだけの」と言葉を切って、「――なんだ、地獄のそうだな、あれがあって、それなりの呼び名がないのはもったいない」と言葉があちこち濁るのは、地獄とはなにかをあえて秘したせいらしいのだが、
「まあしかし、極限環境微生物でもない限り、ここにつかるのは無理であるな」とほとんど答えを言っているのは気にしないらしい。「行くぞ」と言って、またバス停まで戻る。別府の駅に戻るのかと思っていたら、もう少し奥まで行くのだという。折角ここまでやってきて、温泉に入らないというのも馬鹿らしかろうということでもっともである。
「さてだ」と、明礬の湯につかりつつ言う。
「『ぞなもし』は確かに温泉と関係がある。極限環境微生物と関係があるのではという着眼点はなかなかだった」と、急にこちらを採点しだし、
「だが、『ぞなもし』と『極限環境微生物』は、お湯でつながるわけではない」と一拍を置き、勿体ぶって、「両者は『起源』でつながるのだ」と言う。「いいかな」とすっかり演説口調になっている。
「いいかな、なにか力がやってきたのだ。言葉に命を吹き込んだり、物質に命を吹き込むなにかが。『ぞなもし』などはただの『ぞ』と『な』と『も』と『し』の四文字にすぎぬ。それが、何故か観光資源のように使われるまでに至った。名詞でさえなく、どこで切れるのかもよくわからん。呪術的な存在だ。道理はあまり関係がない。『坊ちゃん』が全然、道後の宣伝ではなかったことを思い出してみるといい。そうして、『坊ちゃん』のあらすじを、みんな間違って覚えていることに注目するのだ。つまりこの世には、全く書かれていない内容をあらすじとして提示する文章というものが存在するのだ。果たして、そんな文章を書く方法は存在するのかというのがここでの設問となる」
 いつのまにか試験になっているらしい。黙っていると、こう言った。
「まず、そんな文章を書く方法があるとは思われない。どういうあらすじとして読まれるかを事前に指定することはできないからだ。というか、『坊ちゃん』の例を虚心に考えるなら、あらすじなるものはどうやら、書かれている文章とは関係がないらしいということになる」
 それは極端ではないかと思うが、聞き入れる様子は見えない。
「であるからには、こうなることもありうるわけだ。この『ぞなもし狩り』のあらすじは、一読した者が本を片手に、思わず別府にでかけてしまいたくなるような内容なのだ。全然そんなことが書かれていなくとも関係はない。『あらすじとして、どんな解釈をすることも許す』と書いてある本のあらすじはどうなるかね。まあ、多くの解釈は、箸にも棒にもかからないものになるに違いない。しかしあるときなにかの拍子に、あっちとこっちとそっちが複雑怪奇に入り交じりあい、そこに奇蹟きせきを起こすのだ。たとえば『ぞなもし』がそれである」
 と両手を振り回し、盛んに湯を跳ね飛ばしている。
「でもそれでは」と問うてみた。
「『ぞなもし狩り』が別府を代表する小説になっては奇妙だろう」
「何故だ」と虚をつかれた顔だ。
「何故ということはない。『ぞなもし』は道後のもので、別府にはいない生き物だ。もっと別のタイトルの方がよいのではないか」
「ははん」と鼻で笑われた。「だから田舎者は駄目なのだ」と穏当ではないことを言ってのけ、「まだわからんのかね、この『ぞなもし狩り』の真のあらすじがその力を発動したら、『ぞなもし』は道後のマスコットではなく、別府のマスコットということになり、別府に存在しない『ぞなもし』が、かくも別府を代表し、年間数百万の観光客を引き寄せる事実の方が謎とされ、さらにあらすじを改良していく拡大再生産に入るのだ」
 そう演説を終え、こちらの顔をじっと見ている。
 素っ裸である。





底本:「大分合同新聞(朝刊)」大分合同新聞社
   2016(平成28)年4月30日
初出:「大分合同新聞(朝刊)」大分合同新聞社
   2016(平成28)年4月30日
入力:円城塔
校正:大久保ゆう
2016年12月23日作成
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