蜻蛉日誌

円城塔




 鴨川の石をすべてひっくり返してやろうという願をかけたのは、その誕生日のことであったという。
 七本の蝋燭の立つ牡丹餅を前に宣言した。
 親は止めた。
 兄も止めた。
 まだこの世に気配さえない弟だけが、その願掛けを喜んだ。その願いとは、弟が欲しいというものであったからである。いまだ道理をわきまえぬ未存在のものであるから、ただただ無邪気に自らが兄に望まれたことを祝った。
 川の石を全てひっくり返すことができなかったら願が一体どうなるのかは、当人にもまだ存在しない弟にも想像の及ぶところではなかった。両親のほうではごく平常に、こづくりということは考えており、願掛けの要は認めなかった。むしろその願こそが邪魔になるおそれを抱いた。止めようとするみなを構わず、一息に蝋燭の火は吹き消され、さてそれは願を立てる作法にふさわしくもみえた。

 願のことは翌日には忘れてしまったが、中学生になってから、本当に鴨川の石を一枚一枚、ひっくり返して歩いた。なぜかそうした。弟はついぞ産まれなかった。生まれることもまたないはずである。いもうとはひとり、できていた。
 子守を任されたときは、その手を引いて河原へおり、一枚一枚石をめくった。いもうともまた手伝った。石の裏にはさまざま、小さな生き物たちが棲んでいた。つまんで針に取りつけてふたり並んで竿を下ろした。夕食ができるときもあり、できぬこともたまにはあった。
 観察日誌をつけている。その日みつけた虫たちとその日の出来事、食事の内容、いもうとの様子などが記されていくことになる。

 カゲロウ、カワゲラ、トビケラといった住人を好み、なかでもカゲロウを特に好んだ。トビケラには趣味の合わないところがあった。
 もっとも、分類は独自であって、生命観も特殊であった。形態にも着目したが、主に生活のありようを見た。成長といった形では個体の連続を考えなかった。昨日見たある種のカゲロウの若虫が、次の日には別種のカゲロウの若虫になっているということがありうるのではという疑いを実験したりした。
 観察日誌にはその日見かけたカゲロウの種類と数が記されており、それに何かのマークをつけて再び川へと返した様子が記されている。蝋やマジックインキを用いて個体の識別を試みた。エルモンヒラタカゲロウには白、ナミヒラタカゲロウには黄色といった具合で色を定めてみたものの、翌日以降再び姿を見せる者はなかった。
 カゲロウの形は多様であり、それぞれをカゲロウだとあらかじめ知っていなければ同じカゲロウであるとは思えぬほどの違いがあった。身の細く長い奴がおり、太く短い奴があり、平たい奴が、丸々とした奴がいた。
 川から出て群飛をしたならほんの二時間といわれるカゲロウの世話を焼いてやり、意外と生きることを知る。
 日誌の左頁には淡々と観察結果が記されていき、右頁では独自の世界観が展開されて、そこでは無数のカゲロウたちが様々な姿へ相互に移り変わった。川の流れの速いところへ赴くために殻を脱ぎ捨て、深みへ降りるために形を変えた。自らの姿を変えるためには、一旦、若虫へと戻ることも厭わなかった。
 右頁は左頁をもとに幻を組み、左頁はそのひとつひとつを観察をもとに破っていった。幻はそれでもめげずにより強力な幻として隣の頁に現れ続けた。
 観察と幻は日誌において、左右の頁で棲み分けていた。
 日誌の記述は、鴨川を襲った大水によって途絶える。川底をかきまぜ、あらゆるものをひっくり返したその大水は、川の姿を一変させた。鴨川はひとつ寝返りを打ち、観察日誌の対象としての連続性は断ち切られた。
 観察日誌の最後の記述は、呆然として川端を歩く自らの姿についてのものである。左頁に記されたカゲロウの親虫のスケッチで終えられている。
 そこにはエルモンヒラタカゲロウの成虫の姿が見え、ボールペンで添えられた注記によれば、胴へと横一線にあざやかな黄色が掃かれていた。
 家へ戻ると、心配をしたいもうとが嫁ぎ先から様子を見にやってきていた。
 おまえがそこでそうしてまだいもうとをしている以上、弟はきっと必ず、どこかで産まれえたのであろう。





底本:「京都文学レジデンシー トリヴィウム」京都文学レジデンシー実行委員会
   2022(令和4)年3月31日発行
※底本は横組みです。
入力:円城塔
校正:Juki
2024年1月18日作成
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