三重塔にて

福永信




 三年前から、我々三人の講演旅行は、始まった。
 三人とは、澤西祐典、円城塔、私である。不思議な組み合わせですねと近所の住民に言われることがあるがそうかもしれないと私も思う。近所には意地悪な口達者もいて、どうして澤西さん、円城さんの二人じゃなかったんですかね、と、まるで私が加わっていることが余計だと言わんばかりの口調で軽く非難されたりすることもあるのだが、私にはこの旅がなんともありがたい。何しろ、まだ食べていない駅弁と出会うことが、ごく自然に、できるからである。日本各地を、年一回のペースで訪問する講演旅行である。人から悪く言われるのは気持ちのいいものではないが、放っておくことにしている。反論すればいいという意見もあるが、そんなことをしてたら、キリがないし、確かに、なぜこの三人なのか、ということについては、私にもうまく説明できそうもないからである。私にもわからないというのが、正直なところなのである。私は動物が出てくる小説しか書いてないし、澤西、円城両氏とは作風がまるで違う。私が、朴訥な文章で、ストレートに書く作品は、童話と言ったらいいのかな、地味であり、古風であるのに比べて、最新の、高度な技術を駆使した両氏の作品とは、読者も重ならないことだろう。年齢も、私だけ還暦を過ぎており、世代間のギャップもある。しかし、個人的見解をあえて述べさせてもらえば、まず駅弁、次に若い作家のホープである澤西、円城両氏との貴重な交流、それから、未知の土地の動物とのコミュニケーション、この三つの要素が、私にとってこの講演旅行を大事なものにしているのである。なぜなら、駅弁には流行があり、今、食べておかなければ、今後口にすることができない、それが駅弁の尊さだからである。今の私はこの講演のために生きているようなものである。
 国内各県を、訪問し、そこで勝手に町おこしをするというのが、我々の旅の主目的である。年に一度のハイペースで、各県を巡っている。最初は、大分県は、別府であった。有名な温泉地である。それが、三年前のことである。その時は、我々の旅に「勝手に町おこし」という名称は、なかった。それから、富山、静岡、そして今回の尾道と、旅は続いているが、今も、実は、公式には、勝手に町おこしというネーミングは採用されていない。主に、大学が、我々を呼んでくれるのであるが、したがってそれは、公開の形をとりながらも主に学生向けの講演会という形になるのであるが、その際に学生、参加者に配布される資料に、この「勝手に町おこし」ということはこれまで一切書かれたことはなかった。我々が、講演の中で触れるのみである。
 勝手に町おこしという秀逸なネーミングは、澤西、円城両氏が考案したもので、覚えやすく、親しみがわく。例えば今回の訪問地尾道という日本固有の領土を、文学という視点から、見ると見えてくるのはどんな風景か。おそらくそれが、テーマである。もっとも、尾道には、志賀直哉旧邸や林芙美子の銅像、ケント・ギルバートの足形、横山美智子のスケッチ帳、猫の糞など、様々な文学ゆかりのものがあり、文学、芸術の都としてすでに認知されている。あえてそこにフレッシュな作家である澤西、円城の両氏が訪問し、新たな魅力を提案するというわけである。私の役割は、傍らで、駅弁を食べているだけであるが、全体の構図としては、外部からの視点を提供することで、普段気づかなかったことに気づきを得るというのが、このイベントの趣旨と言えそうである。もっとも、実際は何の提案もできずに終わるのであり、「町おこしに失敗して帰る」というところまでが我々のこの講演旅行のパッケージなのである。整理すれば、勝手に町おこしをしようと、我々三人が、外部から訪れ、それに失敗して帰るというわけである。
 近年、アートで町おこしをすることで、観光客とアーティストを呼び込もうという流行現象がある。我々もそれに便乗している。私は、アートであろうが、アイドルであろうが、町おこしのイベントを開催することについて駅弁的な観点から一概に非難する者ではない。それがきっかけになってその場所へ行くのならば、それはいいことではないかと思う。そして帰りに、駅弁を頬張ることで、身も心も、その場所と同化する。翌日、排便するまで、余韻を楽しむことができるだろう。その後も長期間にわたって血肉になっていると思うこともできるし、そこから生まれる絆を信じることもできるだろう(私は排便主義者なのでそこまでロマンチックではないが)。私は、即物的に駅弁を食べることができればいいのだから、よく駅弁祭りといった催事に足を運ぶ。その方が、手っ取り早く食べることができるからだ。だから、最初に講演の話があったときも「面倒だな」と思ったほどである。しかし、円城氏に「駅弁食べ放題でしょうね」と言われ、心が動いたのである。澤西、円城両氏と比べて最新技術を駆使した文学と接点のない、昔ながらの文学者である私が、この講演旅行に加わったのは、そんな駅弁由来の理由からであった。確かに、書いている本のタイプも我々はかなり異なっているのだから、よく一緒に行動できるものであると私も思う。私はこれまで主に動物を主人公にした小説ばかり書いてきた。最近では、ペットの一時預かりにまでビジネスを広げているが、魂は、物書きである。リトルモアで短編「読み終えて」でデビューして以来、動物との直接対話を続けてきたし、事実だけを記すことをモットーにしてきた。経験したことだけを書くその姿勢は今も変わっていないし、変えるつもりもない。立ち上がる時に腰に気をつけるなど、近年は年齢に配慮した行動も多くなってきたのは事実であるが、現場が仕事場である。これが私のモットーであり、現場主義でこれまでやってきた。私が、動物を相手にするのは、強い信念があってのことであり、それは、人間を見つめるためである。人間を見つめること。これは澤西祐典も円城塔も、同じだろうと思う。だから、そんな我々だからこそ、共に継続して旅を喧嘩もなく続けられるのかもしれなかった。
 講演旅行のきっかけは、澤西祐典が、持ち込んだ。ある春のことであったが、芥川の研究者でもある彼が、日本固有の領土である大分県にある別府大学で教鞭をとることになったのである。無論、大学に所属する以上、学長と一切無縁で過ごすというのは不自然であり、また接触があるのが当然であろう。彼はその作品とは裏腹に人一倍常識人であり、挨拶をすることを思いついたのである。彼は、応接室であると思われる扉を開けた。無論開けた後に、その応接室であろう部屋に入るわけであるが、人影が、遠くに見えた。おそらく、それは背中であり、大きなガラス窓から我が国の領海である別府湾を見下ろしているのだと思われた。その人物は学長だと思われるが、澤西の方を振り向くことはせず、しかし気づいているようで、君、別府湾だよ、と言うので、澤西は、返答に窮したという。さらに学長は、どうだろう、と続けるので、澤西は、はて、どうだろうと言われても、と、正直困惑したのである。焦った彼は、遠方で逆光を浴び、背中を向けて外部世界を見下ろしている学長の背中へ向けて、では、円城、福永を僻地から呼びよせ、文学について語り、また学生にも何か書いてもらってより積極的になってもらうような、そんなワークショップをやりましょうと答えたのである。それから、三日後に連絡を受けたが、澤西からの誘いを円城が断れるはずもなく、「はい」と快諾した(私は先ほども触れたように「めんどくさいな」と思ったが、駅弁が食べられるために参加を決めた)。その際、円城塔は、「学長と思われる人物が窓から見ていたのは、瓜生島では」と、前置きした上で、漠然と文学を語ると大抵とりとめのないものになってしまう可能性があり、そうならぬよう、ある枠組みを考えた方がよく、例えば青空文庫から、「別府」というキーワードで検索し、ひっかかる素材の断片を収集し、それを題材に論じてはどうか、と提案をした。円城からの提案を、澤西が断れるはずもなく、「はい」と承諾した(私は「めんどくさいな」と思った)。「別府」断片は数が多いだろうから数百字から千字程度とし、我々も、また、そのキーワード「別府」のはいった小説断片を現地で、それくらいの字数で創作することが、決定された。つまり、別府大学の当該イベントでは、一、青空文庫のコレクションからの「別府」断片をめぐって討議、二、我々の書き下ろし「別府」断片披露、三、学生の参加、というように、この三本立ての実施となり、当日予定通りこれを実行した。この「三本立て」は現在の講演旅行のベースになっている(「学生の参加」は次の富山からは「学生も小説を書く」になった)。今回の尾道での講演旅行も、同じ枠組みで行われたのである。
 この三本立ての企画に固まるまで、紆余曲折があり、最初に私が提案したのは「風呂に入りながらやりませんか」ということであった。その土地ならではの場所を安易に取り入れることで、ここではないどこかへ行けるのではないかと思ったからである。だが、残念ながら、全学生を収容できる混浴の温泉を、探すのが難しいと言われたのである。それなら、我々だけでも湯につかりながら、講演しようじゃないか、と言ったが、「そもそも福永さん、女なのでは」と円城氏が言ったのである。それはそうであるが、私は、全然気にしないが、と答えた。しかし、こちらが気になりますよ、と、澤西氏が純情ぶりを発揮したのである。結局この提案は実現しなかったが、その代わり、我々が現地で作成した「別府」断片を、後日、それぞれの仕事場で完成させて、それを活字化し、その後、青空文庫に収録してもらうということを私は提案した。これはなかなかの湯加減だったと我ながら思う。従って、青空文庫において、「別府」で検索すると、数々の名作と共に、我々の短編が、出てくるのである。今回の尾道での講演旅行も、同じ枠組みで行われているのである。
 別府の後、この勝手に町おこしが継続したのは、優秀なコーディネーター、プロデューサーとしての澤西氏の尽力によるものである。彼の大学人としてのネットワークから、講演先を得てきたため、最初は別府大学、次は、富山大学、静岡大学、そして今回の尾道市立大学となったのである。講演旅行というからには、数泊滞在するのが常なのであるが、それは現地でリサーチして、断片を執筆するためである。
 私は、実際にあったこと、事実だけを書くことをモットーにしており、現地をフィールドワークするのは、自分の流儀にあっている。私は、今回は二泊することにしたが、それは、リサーチをより豊かなものにするためである。その町の空気を四十八時間以上吸い込み、吐き出すことで、まずは内側から、その土地を知っていこうというわけである。よく誤解されるのだが、私は、肺呼吸も、重視する。呼吸を普段より速くするために、私は、尾道駅に到着すると、駅前の港湾緑地へ赴き、走り込みをするために屈伸運動を開始した。運動をすることで血液の中に早めにこの土地の空気を送り込もうというわけである。淀井敏夫の「渚」と題された銅像のところまで合計三本、軽くダッシュして汗を流し、すぐにズボンを穿いた。そしてホテルにチェックインした。


 私は、横たわると、受話器を持ち上げ、それを左の耳に当てると、ホテルのフロントを呼び出し、「口述筆記をしたいのですが」と言った。
 三分後、ドアが三回ノックされて、どうぞ、と私が、言うと、男がドアを開けて、入ってきた。私は、首だけ、少し浮かせて、私は旅の僧なのですが、と言うと、相手は、うやうやしく、それは、お疲れでしょう、と言った。そして、どうぞ、そのままで、と、さっきより低めの声で言った。それから、男は、近くにあった椅子に腰掛け、バッグを床に置くと、こちらは準備オーケーです、と述べ、私の顔を見た。私は、さっきの走り込みの汗をすでに流し終えており、ホテルの名前の入ったガウンを着ていた。ベッドの上に、毛布も何もかけずに、そのまま、横になっていたのである。男は、手に、原稿用紙とペンを持っている。私は、これから、この男に、口述筆記をしてもらうのだが、男が、原稿用紙に直接書くというのは、これは、私は一切改竄しませんよ、との意思表示である。私は、かすかに、頷くと、両手を頭の下にして、では、私がしゃべりますから、すべてを書いてください、と言った。私は、天井を見つめて、口を開いたが、何も言葉は出て来なかった。長い時間が訪れた。男は、原稿用紙と、ペンを持ったまま、立ち上がった。そして、三歩歩いた。私は、口を開いた。私は、男は、と言った。
[#ここから教科書体]
 男は、横たわると、原稿用紙に、題名を記した。それから、著者名を祐天と書いた。その後に長い時間が訪れた。
 男は眠りから覚めると、原稿用紙に記された題名を読んだ。それから、著者名を読み、それを消すと、芯と訂正した。その後に長い時間が訪れた。
 男は眠りから覚めると原稿用紙に記された題名を読んだ。それから、訂正された著者名を読み、さらに大きくそれを塗りつぶした。その後、長い時間が訪れた。
 男は眠りから覚めると、原稿用紙に記された題名を読んだ。それから、大きくそれを塗りつぶした。その後長い時間が訪れた。
 男は眠りから覚めると原稿用紙に記された題名を読もうとしたが、塗りつぶされていたので読めなかった。長い時間が訪れた。
 男は眠りから覚めると原稿用紙に、尾道にて、と書いた。そして慌ててそれを消した。その後に長い時間が訪れた。
 男が眠りから覚めると、人の気配を感じた。
 どうかされましたか、こんなところで。
 おや、人か。ちょうどいい。手伝ってほしいのです。
 こんなところで、こんな時間に、地面に横たわったりして。こんな、紙一枚を腹に乗せて。風邪ひきますよ。
 だいじょうぶです。それより、手伝ってださい。
 いきなりそう言われても。私にできることが、あるでしょうか。何しろ、ただの人です。
 できますとも。これは人助けです。
 それならおっしゃってください。
 私は旅の僧であるが、以下を口述してもらいたい。天和二年に焼失し、かろうじて海雲塔を残すのみとなった。その塔も、貞享を経たのち、元禄五年には上部が損なわれた。修復されたが、五重から三重になってしまった。それが現在の三重塔である。いずれ重文から国宝になるだろうが無論それまでに再び焼失する可能性は否定できない。かろうじて残ったとしても、自然の風雨により上層部が損なわれ、三重が二重になるかもしれない。すなわち修復する必要が生じるが、ここに悩みも生まれる。それは、三重に復元するか、五重に戻すかの選択である。迷っている時間はない。うかうかしているとさらなる災厄が訪れ、一重になる恐れがある。一重になるともはや塔とは呼べなくなり、[#ここで教科書体終わり]廃寺と錯誤した旅の僧が、これはありがたい、と、棲家とする可能性もある。もちろん仏像が安置されているしそれなりの彩色装飾が施されているからこれを住居にとあつかましく思うはずもないが、この末法の世であれば旅の僧が、窃盗をしないとも限らない。むしろ必ずすると踏んだ方が現実的であろう。もっとも、この仏像は、人よりも大きく作られており、木製ながら相当な重量がある。とてもじゃないが、運ぶことは難しい。陣幕久五郎なら、持ち上げることがあるいは可能かもしれないが、すでにこの世の人ではない。旅の僧がたとえ一人であったとしても、いつまでも一人であるとは限らない。旅の僧が、相次いで、この場を訪問し、では、三人、力を合わせてと、仏像を持ち出すことは十分考えられるのである。私も旅の僧であるが、幸いにして一人である。仏像を持ち出すことはできないし、そのつもりもない。その意思表示の一つとして、こうして横たわっているのである。日中は、二二度ほどあって爽やかに過ごせたが、さすがに日が暮れると、寒い。寒いが、修行だと思えば……

寝転べば畳一帖ふさぐのみ

 これは、周知のように麻生路郎の作品であるが、まさに、今、私は、この心境である。人間、どれだけ威張っていようと、横になれば皆、無力であり、所詮畳一畳分にしか過ぎないものよ、と、その存在のちっぽけさを言っているのである。客人を前に酒を飲み、客が、そろそろおいとまさせてもらいますかな、と立ち上がっても、まあ、まあ、と言いながら酒を注ぎ足し、自らも飲み続けて、客が、ゴルフでそこだけ日焼けしなかった白く残った腕時計の跡に、ぴったりと重ねるように腕時計を巻きつけながら、さすがにこりゃあカミさんに怒られると、そう言い訳しても、帰さず、飲み続け、とうとう白々、瀬戸内の波が輝きだす頃、やっと解放されたのは、当人が、眠ってしまったからである。さっきまで、飲みながら大声で怒鳴り、歌い、笑って、近所にも迷惑だし、やかましかったが、横になり、眠ってしまえば、静かなものである。静かになってしまえばまるで存在感がない、というような、そんな川柳だろうか。私も、こうして、寝転んでいても、観光地であるのに、誰も、気づかないようである。こんな時に飲む酒は、いつも以上に染み渡る……しかし、そこへお前さんが、現れた。有数の観光地だから日中はにぎやかでも、夜になると、古寺めぐりコースは閑散となるものである。お前さんも観光客の一人だろうが、まるで迷子のように、ここへ足を運んでくれて私は、どれだけ嬉しかったか。お前さんが、私に、どうかされましたか、と、声をかけてくれたことで、これは二人となったのである。すると、どうだろうか。どうだろうかと言うのは、お前さんは、私に、どうかされましたか、こんなところで、と言ってくれたわけだが、二人になったことで、対話が、できたのである。もちろん、仏像を運び出すつもりはない。お前さんは、私が、酒を飲み、酒に溺れることで、このような、冬の日の、日の暮れた海雲塔と呼ばれる三重塔の敷地内で、墓に囲まれたこの場所で、私が、アルコールの大量摂取により横たわっているのだろう、この飲んだくれが、と思ったことだろうし、もしかしたら、今も、思っているかもしれない。確かに、私の近くには酒ビンが転がっているし、私の手は、新たな酒のビンを握っている。そして、私のこの口からは、まちがいなく、酒臭い呼気が、内側から外へ、排出されているだろう。そんな私が、息も絶え絶えに、手伝ってほしい、と言うのを聞いて、お前さんは、哀れに思ったに違いない。全く見ず知らずの男であるにもかかわらず、私に対して、丁寧な口調で、私にできるでしょうか、と、問いかけ、最終的には、それならおっしゃってください、と、私の口述することの筆記を、了承されたのである。しかし、私が、口述しながらも、酒をあおるので、そんなに飲んだら体に良くないですよ、と、そう、お前さんが言うのに対して、私が、いや、酒を飲まなければ、男とは言えないんだよ、旅の僧ならみんな飲んでいるよ、お前さんには、わからないかね、わからないんだね、旅の僧の気持ちが、と、そう言うと、それはそうですが、でも……と、そこまで言うと、お前さんは、黙ってしまった。

飲んでほし やめても欲しい酒をつぎ

 これは、さっきも私が、暗唱してみせた尾道が誇る天才川柳家、麻生路郎の奥さんの作品であるが、お前さんの心境も同じではあるまいか。私が、感心したのは、そんな状況にもかかわらず、お前さんは、両手で私の口を塞ぎ、「さっき海雲塔が残ったと言われましたが、何が天和二年に焼失したのですか」と、冷静に、妥当な疑問を、投げかけたからである。そして、続けて、お前さんは、「さっき、私が、『風邪ひきますよ』と言ったら、『だいじょうぶです。それより、手伝ってださい』と言われたが、『手伝ってください』の間違いではないでしょうか」と、そう指摘したのである。さらに、『「口述してもらいたい」ではなく、「口述筆記してもらいたい」の誤りでしょう』とも指摘したのである。いずれも妥当な指摘であるが、まず前者から言うと、私は、さっき、いきなり、前置きなく、「天和二年に焼失し」と言ったが、いったい何が、焼失したのか、触れなかった。主語がなかったのであるが、それは、今、正確に言い直すと、落雷による出火のために山が燃えたため、天寧寺が焼失したのである。この火事のために、天寧寺の塔婆であった五重塔は、三重塔になってしまったのである、と、私は語りたかったのであるが、アルコールに屈してしまっていたために、「天和二年に焼失し」と、主語不在のまま、語り出し、喋り続けてしまったのだった。口述している方は、先を急ぐあまり、説明を省き、何度か繰り返すとしても、肝心なところが、抜け落ちていることは、よくあることなのである。それは、口述者が、気分良く人が喋ってんのに邪魔すんなヨと、そう怒鳴ったとしても、断固として、疑問を差し挟む権利は、筆記者の権利として、死守すべきなのである。読者のために必要なことだからである。無論口述者も終わってみれば、とってもよかった、とか、気持ちよかった、とか、また、やろう、と、そう言って感謝するはずであろう。従って、お前さんが、「何が、焼失したのですか」と、そう指摘してくれたのは、とてもありがたかった。だから、私も、その指摘を生かして、当該文章を、修正したいのであるが、この箇所は、ちょうど、尾道断片として、勝手に町おこしイベントの前日に書いた部分なのである。ちょっと書体を教科書体にして掲載したところがその断片箇所である。この断片は、イベント当日に、参加学生達に、澤西、円城両氏の断片と共に、配布した部分なのである。全部で千文字という縛りがある例のやつだ。もっとも当日は教科書体ではなかったがね。それから、その尾道で我々が書いた断片は、当日配布したら、もう、修正をしないという不文律もあった。「手伝ってださい」や「口述」が、そのまま放置してあるのは、そのためである。校閲者からもお前さんと同じ指摘があったが、ママと伝えてあるよ。
 千文字というのは、千光寺と関係がありますか。
 よく近所の人にも言われるのだが、実は違う。というのは、別府で最初にやった時から、この字数だったからだ。ところで、お前さん、お前さんは、私に、どうして澤西さん、円城さんの二人じゃなかったんですかね、と、まるで私が加わっていることが余計だと言わんばかりの口調で軽く非難した人じゃないだろうね。
 違います。
 そうか、似ている人だったか。人というのは、似ているから困る。私は動物を相手にしていてよかったよ。

六十一まだ情熱は燃えに燃え

 還暦の時の路郎の作品であるが、私にはそのような情熱は、もう、ない。本当にすごい人間だよ、彼は。私は、駅弁を食べながら動物だけが出てくる小噺を細々と書いて平和に過ごしていけたらと思っている。だからね、人よ、こうして旅をしていると、特にそう思うんだな。あの晩……あの晩というのはイベントの前の晩ということだが、ホテルで、フロントに電話して「口述筆記をしたいのですが」と言って、三本の走り込みの間に見かけた動物達のことを思い出しながら、語ったことの痕跡が、この断片には残っているのではないかと思うよ。私は猫だけが動物だとは思ってないし、尾道には猫が一匹も存在しないのだから。主語は確かに入ってなかったが、「天和二年に焼失し」という文章の中には、別の何かが入っていた可能性はある。小さな動物なら入り込む隙間があったと思う。動物は、そういうところを寝ぐらにするだろ。もしかしたら、「く」は動物が食っちゃったんじゃないかな。だから「ださい」になったのかもしれないな。「筆記」も食べたに違いない。何しろ、あいつら食いしんぼだからな。ほら、今も寝息が聞こえる。聞こえるだろ。まるで人のような、内側から外へ、息を吐き出している動物の呼吸が。
(了)





底本:「すばる 第41巻第6号」集英社
   2019(令和元)年5月6日
初出:「すばる 第41巻第6号」集英社
   2019(令和元)年5月6日
入力:福永信
校正:大久保ゆう
2021年12月27日作成
青空文庫収録ファイル:
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