土俵の中の日本

福永信




 アントニオ・マヌエル・デ・オリヴェイラ・グテーレス国連事務総長が祈りの途中で幻想的なヴィジョンを初めて見たのは、二年前の春のことだった。家具がいくつもキラキラ光りながら浮かんでおり、とりわけ白く輝いていたのが非常に長いテーブルであった。テーブルの一方の端は孤独な惑星のように遠く感じられた。オイと呼びかけてみると、かなり長く待ってから、耳もとにズドラーストヴィチェと聞こえた。目を凝らして先を見るが、光が小さく瞬くだけで人影も何も見えなかった。
 次に見たのはこんなヴィジョンだった。国連の安保理緊急会合で米国代表が光っていた。二人いるように見えた。二人は並んで座り採決の際、共に手を挙げた。二票分あると主張した。正常な議事が進行できないと書簡で警告を告げたが、間違っているのはあなたの方だと逆に言われた。
 半年ほど前のことだったか、ある晩、いつものように深く祈っていたが、頭頂部が熱くなってきたなと思ったそのとき湖のヴィジョンを見た。日本の琵琶湖であるとすぐにわかったがどうも様子がおかしかった。思っていたのよりもかなり小さかったからである。両手で持てるほどであり、実際持ち上げてみると軽かった。近年の度重なる渇水の影響だと思われた。その証拠にふだんは湖底に沈んでいる坂本城の石垣が露出していた。このまま何の対策も施さなければ湖は消失するだろう。地球沸騰時代の到来はまさに喫緊の課題であることを改めて痛感した。
 それからしばらくたったある日のこと、いつものように祈りを捧げていると、今度もまた湖のヴィジョンが見えた。先日とはちがって、白く氷をいただいており、その姿は弧を描き、桁外れな大きさだった。バイカル湖だな、と、彼は確信した。驚くべき深さと貯水量を誇るこの最古の湖がブクブクと泡立ったかと思うとたちまち水位が低くなって湖底から琵琶湖の一部が見つかった。六ヵ月が経過したが所有権者は現れなかった。琵琶湖の引き渡しについて米国側は興味を示し、本国に持ち帰り前向きに検討すると述べた。琵琶湖にこだわる理由については様々な憶測が流れたが退役軍人会の意向が強かったという。上空からの目印としてよく見下ろしていたその東洋の湖に親しみを感じているようだった。またこの東洋の湖には捕虜収容所があり、干拓や農作業をやらされたという話を覚えている家族が何組かあった。結局ロシアが米国に売却し、移設先はアラスカ州のカトマイ国立公園と決まった。バイカル湖からの引き上げ作業は困難を極めた。予定よりも遅れて翌年になったのは、持ち上げようとしても網が破れてしまったからである。意外にも追いサデという昔ながらの漁法が役立った。トラックに詰め込まれて陸路、アラスカに向かった。湖底から縄文土器や弥生土器、須恵器などが出てきたが、これらはロシア国立歴史博物館に寄贈された。ホンモロコ、スジエビなどは水をかけると元気に泳ぎだし、この異常な環境下で生き抜いてきた生命の神秘を感じられたという。イケチョウ貝からは見事な無核真珠が出てきたが残念ながら盗難に遭ってしまった。トラックを降りてからがまた長く困難を極めた。空気の抜けかけたキッズ用のプールを運ぶようなもので、途中でかなり琵琶湖の水位が下がった。

 三年前から米国連邦議会で働く新人の女が、仮眠をとるため午後二時四十五分頃、議会議事堂の地下トンネル内にある漫画喫茶の扉を開けた。個室の鍵を閉めて横になる前にお祈りをした。すると、光り輝くリングのヴィジョンが見えた。日の出のように浮かび上がっていた。リングはやがてゆっくりマットの上に着地した。女は、後退りし、壁に背をつけた。ほう、土俵ですか。壁に背をつけているのだが、背後から太い声が聞こえた。壁にぴったりと後頭部をつけているので振り向くことはできなかったが、もし振り向いたなら、五十の後半くらいの男が腕組みをしてこちらを見ているように思われた。
 あなた、相撲をご存知ですか。男は、男などいないのだが、構わず問いかけた。女は答えなかった。男はここにおらず、したがって声など初めから聞こえなかったのだから答えなくて当然であった。
 知りません、と、男は、勝手に女の代わりに答えた。でもなぜでしょう、手を合わせたくなりますね。
 あなたのような白人でもそう思いますか。男は自分自身がいないことを全く気にする様子がなかった。土俵というのは神聖な場所でして、選ばれた人のみ、ここを訪れることができます。一人は、華美な服装をしていますが、もう一人は裸です。二人とも男です。
 全裸なんですか。女の代わりに答えた。
 股間は絹を巻きつけて、保護しているのです。
 アダムのように隠しているのですね。
 言葉で説明するとそう思うかもしれませんが、むしろ逆でしょう。植物の葉は、頭にのせているのです。
 葉っぱを頭にのせて何を隠すのですか。
 実際の植物ではありません。葉っぱの形の髪型にするのです。正面に、こういう感じに、イチョウの形に。
 奇妙ですね。
 裸に近い格好をしているため裸子植物が選ばれたのだと考えられています。
 でも不思議ですね。一人は裸、一人は華美な服装をしている。
 ええ。どちらも日本人です。途中から日本人に変化する場合もありますが、いずれにせよ、日本語を話すことが条件なんです。
 どんなことを話すのですか。
 いや、実はしゃべらないのですよ、この土俵の内側では。
 コミュニケーションをとらないのですか。
 日本人ですから。
 すごいですね。
 ただ、ライバルが出現します。何も言わず、土俵に入り込んでくるのですね。やはり、股間に鮮やかな絹を巻きつけています。三人の男が土俵の上にいることになりますが、その状態は長くは維持できません。
 追い出すわけですか。
 そうです。神聖な領土ですからね。面白いのは、華美な服装をしている男が、競わせるんです。彼だけが、話す権利を持っています。戦うよう促すのです。
 武器は使いますか。
 素手です。
 いいですね。それですよ、やはり。
 勝利した男は、華美な服装の男から金銭を渡されることもあります。サクセスストーリーというか、物語性が色濃い競技ですね。
 見てみたかったです。
 バイカル湖が発祥のようですよ。いや、もっと南だったかな。
 男の一人芝居はここで終わりだが、そもそもいないのだから終わりもクソもなかった。五十後半の男など最初から存在しておらず、こんな会話も実際はなかった。女はとっくにスースー寝息を立てていた。

 お祈りを終えて目を開けると、息子の姿がなかった。毎度のことであるが、やはりいつものように軽い怒りがよぎる。いけない、いけない。祈りを捧げ清浄な心を得たばかりの自分が、こんなに俗な気持ちに支配されるなんて。息子はまだ慣れてないんだから。寛容であるのが大事。それに、と女は、起き上がり、ホコリをはらい、服の乱れを直しながら、思う。アンガーマネージメントは自分の仕事にとってとても大事なこと。今後のステップアップにさらに重要になっていくもの。常に意識しているはずなのに、ダメね、まだまだ、私ったら。
 もちろん勝手に抜け出したのだから、そこは、ちゃんと叱る必要がある。親の務めであり、大人の役割だからだ。
 息子は、外にいた。近くの神社の境内に立派な土俵があって、そこに棒で、ガリガリと何か、描いていた。細い首に汗が光っている。完全に叱っていい場面であるけれども、女は声をかけなかった。一生懸命な我が子のその小さな背中にちょっと感動していたのだ。
 ほう、日本地図ですか。女に言ったのか、息子へ話しかけたのか、背後から太い声が聞こえた。男は、何度か挨拶をしたくらい、五十の後半か、名前も知らなかった。その程度の奴が、挨拶の領域をこえて声をかけてくるなんて恐怖すぎるし、こうして息子のクリエーティブな時間、学びの機会を邪魔するなんてとんでもない話だ。女が睨みつけているのが目に入ってないらしく、うまいね、君、と息子の肩に手を回してさえいる。女は、今すぐ家に戻り、お祈りをしたい気持ちになった。富士山があるといいね、琵琶湖があるといいよな、などと馴れなれしい。キモすぎ。歌でも歌おうかな。心を落ち着けるために。うばたまのと歌いかけたところで、そんな男などいないことに気づいた。こういう気づきはとても大事だ。いるのは、息子と私の二人だけ、その事実、確かな世界観に女は心底胸をなでおろし、息子が、「できた」と元気よく振り向くので、息子の肩に手をのせて、改めてよく見ると、思いがけず男のような、太い声が出た。違う、冗談じゃないよ。日傘をたたみ、それで引っ掻き、北海道の、ここで終わりではない。島が続くの。まだまだほら、ここに島が続くのよ。そして、そして、そして、ここもなの。
 駐車場にゆっくり入ってきた外車に気をとられて息子はもうこっちを見てないのに、女はそれに気づいていない。
 まだある、と、女の声が高まってくる。
 バランスを崩し、土俵の外に転がり落ちた。一人相撲とはこのことだ。意識を失いかけながら女はヴィジョンを見た。沖ノ鳥島のヴィジョンだった。いずれ暮らしてみたいと思っている憧れの島だ。その沖ノ鳥島の様子がなんだか妙だった。消波ブロックが消えていた。円形にがっしり固められていたコンクリートもなかった。チタン製の防護ネットも見当たらない。これらがなければ満潮時に孤独な岩礁がむき出しになり、海面下に沈んでしまう恐れがあった。だが心配無用だった。堅牢な盛り土の土台が築かれた。キメ細かく見事に表面が踏み固められた。紛れもなく、これは土俵だった。強烈な太陽の下で輝いていた。女は土俵の上を歩いた。あち。バランスを崩し、外へ転がり落ちた。
〈了〉





底本:「文學界 第七十八巻第十号」文藝春秋
   2024(令和6)年10月1日発行
初出:「文學界 第七十八巻第十号」文藝春秋
   2024(令和6)年10月1日発行
入力:福永信
校正:大久保ゆう、Juki
2025年12月30日作成
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