私は隠居ではない

吉田茂




 いやどうも、ごらんの通り元気でね、この分では当分死にそうもありませんよ、困ったもんです。呵々かか。丈夫だ丈夫だと云われるんですがね。いくら丈夫でも、焼跡の煉瓦塀みたいに、ただ丈夫だというだけじゃあ仕様がないんでね。何んかの役に立つんでなくちゃあ……。まあ、生きている限りは、お国のお役に立ちたいと思ってるんですがね。
 文藝春秋は毎号拝見していますよ。といっても実はあまり雑誌や本を読まないんでね。表紙だけは毎号確かに見ていますがね。これが現代の画の代表かと思って見ていますよ。画はあんまり判りませんがね。
 大体、文藝春秋は厚くって重過ぎるんでね。読もうと思っても、手がくたびれちまう。イギリスの紳士の資格というのを聞いたことがあるが、ライディング(馬に乗ること)にシューティング(銃猟)にドリンキング(酒を飲むこと)でしたかね。リーディング(本を読むこと)なんて含まれていませんよ。
 大分以前のことだが、皇太子殿下にお眼にかかることがありましてね、その時、今の話を申し上げて、読書なんてことは、あまりなさらないでも宜しい、と申し上げたら、お付きの宮内官が渋い顔をしていましたがね。呵々。
 あなた方は、毎月毎月、来月は誰に頼もうかってことをやってるわけですか。それが、商売とはいえ、御苦労なこったな。私があなた方のような立場になったとしたら、とても本は出来ませんね。ナニ? 誰々、あれはつまらん奴だ。では誰々、あんなバカに何が書ける。誰々? あれあ、書かなくったって云うことは判ってる、って具合で、頼む相手が無くなっちまうと思うんだが、そうはなりませんかね。よく毎月頼む人があるもんですね。
 元の首相と会って話をしないかというんですか? そんな暇はありませんよ、首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ。首相に就任するや否や、新聞雑誌なんかの悪口が始まって、何かといえば、悪口ばかりですからね、この世にこんな大バカはないように書かれますよ。あなたんところだってそうでしょう。そんなバカばかり集まって話をしたって面白かろうはずがないじゃありませんか。
 元首相というと、誰がいるのかな……、ああ、東久邇さん、あの方の内閣に私は初めて外務大臣として起用されたんで恩誼があるんですがね。あの方は大正の後半、ヨーロッパに来ておられてね、私もイギリスにいた頃で、侍従武官の溝口伯爵が私と縁続きでもあり、前から懇意にしていたもんだから、チョイチョイお眼にかかることがありましたがね、なかなか聡明で直感力も確かだし、お考えになることが鋭くてね、皇族にもこういう方がおありかと感心させられたものでしたがね。
 その次が幣原さん。幣原さんは死んじゃったし、それから私となるわけだが、私は御承知のように、なりたくってなったわけでないので、鳩山君の追放のあと頼まれてなったわけでね。暫くの間というようなつもりだったが、その後、鳩山君が半身不随になったりして、……鳩山君が俺に譲れ譲れというのを「大切なお役を中気病みに任せられるか」と云って大層憎まれてね。といってお国のためを思えば無責任なことは出来ませんからね。
 鳩山君とは昔は「俺、貴様」の仲でね、何でも云えたんだが、矢張り病気をしてから変ってね、冗談も云えなくなりましたよ。
 誰の時だったか、築地の本願寺で盛大な追悼会があってね、私も行った。行って見ると鳩山君が来ている。緒方君が隣に坐っていたが席を譲ってくれて隣同士に坐っていたわけなんだ。その内、焼香が終わって鳩山君が、
「このままもう帰ってもいいのか?」
 と聞くから、
「ああ、いいんだ。だが僕も今帰ると、君と一緒に並んで歩かなくちゃならないからもう少しいるよ」
 と云ったら怒ってね。
「そんなにいたきゃあ、死ぬまでいろッ」
 と云って帰って行きましたがね。
 鳩山君と仲直りをさせようと、いろいろ間に立って心配してくれる人たちがあって、音羽の家へ訪ねたことがありましたよ。行って見ると、自動車が何台も止まっていて来客のある様子、何か用談らしいから帰ろうと云って帰りかけると、折角ここまで来たんだからちょっとと、無理に請ぜられましてね。入って見ると、鳩山君を中心に家の子郎党が居流れている。鳩山君が「ここここ」と云うんで隣へ坐って聞いてみると、鳩山君の口述を基に伝記編纂の会をやっているところで、今ちょうど、脳溢血で倒れたところまで来たところだと云うんだ。それで、うっかり、
「そのまま逝っちまってればおしまいで、もう出来上ってたわけだね」
 と云いそうになってね。この時はあやうくこらえましたよ。
 先年、平塚で乳牛の共進会がありましてね、陛下がお出でになったことがありましたよ。ホルスタインなんかの、日本にもこんな立派な牛がいるかというような奴が沢山並んでいてね、体中洗ってブラシをかけて蹄まで磨きたてているもんだから実に見事でした。ところが、その時に行幸を拝ませようということなんだろうが、土地の八十以上とかの老人たちが、茣蓙ござを敷いた上に並んでいるんだ。何か他の場所で畳の上とか何とか考えられそうなものなのにね、牛と同じ地べたに並べられてるんだが、このほうは婆さんが多い上に誰も櫛をあてたり磨いたりする人がないもんだから、見劣りがするんだ。
「手入れが悪いね」
 と云ってね、大失敗でしたよ。敬老の精神というものは、日本の美徳とされていたんだと思うが、近頃はさっぱりないようなのは困ったもんですね。どうも、云わなくても良いことを云うんでね。
 その次が、片山内閣か。片山君とは何度か会ってますがね、普段つき合いがないから話がうまく運ぶかどうかな。石橋君はまあ、口が不自由だから気の毒でね、となると、あとは岸君、池田君というわけだろうが、どうです。あんまり面白い話は期待出来ないでしょう。私はイヤですよ。
 回想とか回顧録とかいうものは、普通に話していても、とかく自慢話や弁解に聞えるものでね、私は好きでありませんよ。自分のやって来た長い間のことを書いておくのはいいこととは思いますがね。
牧野伸顕まきののぶあき回顧録」の出たのは、お宅の雑誌でしたかね。そうそう、「松濤閑談」もそうでしたかね。
 牧野という人は非常に公正無私な人でね、敵というものがなかったから、ああして何んでも云えたんですがね。ああいう回顧録も何んでも云えなくっちゃあ意味がないんでね。一つには、あの頃、牧野に何か収入の途を図ってやろうという親切な方の考えもあってのことと思いますがね。ところがどっこい、こっちは金があり余っているんでね。呵々。
 養父の吉田は昔、今もあるジャーディン・マジソン(英国の貿易商)の番頭をしていたんです。その頃横浜居留地の一号地にあって、英壹番と云われていた奴でね。幕末に伊藤博文・井上馨が密かにヨーロッパに渡航するなんて時にはここが面倒を見たんです。そのくらい古い会社でね。横浜の支店創立百年に当るというので、先年そこの当主が日本にやって来て、盛大なお祝いがありましたよ。その時、私も招ばれましたがね。
「私の養父は、一世紀前には貴社の傭人エンプロイーであった」と今の社長に云ったんですがね。その社長は祝宴の席で私を皆に紹介して、
「ミスター・ヨシダの御先代は、当商会と密接なる関係を有せられた方で……」
 と云いましたよ。社交性が身に着いているというか、実に人をそらさないところがありますよ。
 この吉田の父がめる時に、退職金に千両くれたんだそうです。その頃の千両といえば大変なもんでしょうからね。それが今日の吉田財閥の基をなしているんです。呵々。
 吉田の家は福井藩士でね、私を養子にした時に殿様のところへ私を引き合わせに行った。引き合わすと云っても、向うは一間ひとま隔てた部屋の床の間にいるのに、遥かこっちで平伏でもないが、坐っているわけなんです。一遍で参っちゃって、その後行きませんでしたよ。呵々。先年亡くなられた松平康昌さんの御先代ですよ。松平さんが式部官長かの時、陛下のお使いで見えたことがありましてね。
「部屋一つ隔てなくていいんですか」
 ってからかったら、困っておられたが、立派な方でしたよ。
 いい人は皆な早く死にますよ。呵々。

 私は趣味なんてものの全くないいわゆる無芸大食でね、もっとも、大食も芸の内というのなら話は別だが……。食い物は何が好きだとよく聞かれますがね、旨いものが好きですよ。シナ料理というものは実は食ったことが無いんでね、旨いもんだそうですね。以前にシナに在勤していた頃、公館のそばに料理屋があってね、そこの材料に蠅がうんとたかっているのを見ていやになったんです。ローマでも、スパゲッティに蠅がうんとたかっているのを見ましたがね、こっちの方は好きでよく食うんです。勝手なもんですよ。
 そこいらに飾ってある盆栽はずいぶん立派なものもあるが、みんな借り物でね。好きであつめたってものじゃありません。これは水をやらなくてはいけず、やり過ぎていけず、なかなか面倒なものですよ。枯らしちゃって文句を云われますがね。展覧会に出すのに、私の所蔵と名前をつけたい、箔がつくからと云うんでね。そんな名前ならいくらでも使ってくれと云ってるんです。
 先年、アメリカの前の副大統領のニクソンが来た時、話の中にバンザイ・トリーという言葉を使うんだ。さあ解らない。日本軍の特攻機をバンザイ・プレーンというのは知っているが、バンザイ・トリーとは何だろうと思っていたら、それがボンサイ・トリーと云うつもりだったんだね。何かで読んだか誰かに聞いたかして、ちょっと日本通ぶろうとしたのかも知れないが、こっちは面喰いましたよ。
 専門家がやることにせよ、盆栽なんて旨くつくるもんですね。日本人は器用ですよ。
 それから果物なんかの改良されたことは大変なもんですね。梨にせよ桃にせよ、我々の子供の頃のものに較べたら格段です。宅の庭なんぞでも相当のものがりますよ、それだけ品種改良が進んだんですね。
 先だって、秋田の八郎潟の干拓を見に行って来ましたよ。あそこの干拓は私が総理の時に決まったものなので、まあ出来栄えを見てくれと云われましてね、行って来たんだが、ちょうど、林檎の時期で果樹園にも案内されましたが、実に見事でしたね。また、そこで食う林檎の旨いことと云ったら、香りといい汁気のたっぷりあることといい、こっちあたりで食うのとはあんまり違うので驚きましたよ。
「旨いのを現地で食べて、まずいのだけ出荷するんじゃないか」
 って聞きたくなりましたがね。
 この八郎潟の干拓が決まった時に、そのことを陛下に申し上げたら、
「水は流れるべき理由があって流れ、溜るべき理由があって溜っているんだから」
 無理をしないようにという仰せでしたがね、それで思い知らされたことがありましたよ。
 九月の幾日だったか台風の日でね、五時に大雨が東京を襲うというので、三時には用を済ませて大磯へ帰るつもりだったのだが、もう日比谷公園の傍が水が出ていてね。第二京浜国道はどこやらが通れなくなっているんだ。廻り道をして、やっとの思いで夜中になって帰宅しましたがね。これなんか無闇と堀を埋めちまって水はけを悪くしたせいでしょうね。陛下のおっしゃったことを思い出しましたよ。
 大体、日本は果物が良いですね。概して見事ですよ。私は若い頃、パリのムーリスというホテルに泊って、そこの朝飯ほど旨い朝飯はないと思ってね。殊に果物は旨かった。それで先年パリに行った時も、楽しみにしてそこに泊ってみたんです。ところが全然期待外れでね、我が家の方がずっと旨い。これはこっちの舌も変ったんでしょうが、日本の果物がそれだけ良くなったのだと思いますね。
 欧州の自由国家間では相互の国境を実質的に撤廃して欧州を一国として見るような動きになって来ていますね。それでこっちでも、パシフィック・パクト(太平洋協約)というようなものを造って、カナダ、アメリカ、濠州などのような太平洋を囲む諸国と連繋を密にして対抗しなくてはと思うのですがね。
 アジア・アフリカ諸国と同調しなくてはいけない、日本はアジアの一員だからという論がある。それはそうだが、戦後に独立したアジア・アフリカの国々は今が明治維新なんですからね。昔からの独立国の日本とは、事情が違うところがありますよ。これからの発展に期待するのはいいが、誤った優越感を持たず、その国々の本質を過大評価しないように、理解と同情を持って行くべきでしょうね。
 こんなことを云うと、すぐ「米国の植民地化反対」などと騒ぎ出す一派があるが、どういうわけですかね。昔の日英同盟の時などは全くそんなことがありませんでしたね。当時の英国と日本の国力の相違なんか、非常なもんでしたが、同盟成立によって植民地化なんてことをおそれる者は一人もなかった。すべて対等の誇りを持ってやっていた。これからも対外的に誇りを忘れずにやっていきたいと思いますよ。
 箱根会談の折に、ラスク長官が寄ってくれてね。いろいろ話して行ったんですが、その時、日本がリーダーとなって、東南アジアのユニティ(統合)を図ってくれというんですよ。それは請け合いかねる。日本の国内のユニティが出来ないで困っているくらいなんだからと云って断ったんですがね。
 明治の軍人と先頃の戦争の時の将軍連と同じ日本人と思えない、というようなことをよく聞きましたがね。明治の将軍連は士官学校出ではないんでね。寺子屋でやって来ているわけでしょう。古典というものが、廻りくどいようでもいいところがあるんでしょうね。教育というものは便利一方だけじゃいけないんじゃないでしょうかね。日本の士官学校教育というものは、どんなものか知らないが、何か不足するものがあったのではないでしょうかね。
 海軍になると、卒業すると練習艦隊で世界を廻って来るから、世界を見る眼が開けてよほど違って来ると思いますがね。
 戦争直後の何にもない、一面の焼野原だった日本、生産力の殆どなくなってしまった日本が、よくここまでやって来たと思いますよ。何と云っても日本人が勤勉で優れているところがあると考えていいんでしょうね。
 シナが世界一の文明国であった唐代の頃にしても、奈良時代にすぐそれをとり入れていますからね。遠く離れた島国でありながら、地続きの南方の国々より優れた文明を造り上げていたんではないでしょうかね。
 日本人は優れている、「非常に興味ある人種だ」と云った外国人があるが、たしかにそうでしょうね。戦後の復興というか繁栄に、みんな眼をみはっていますよ。
 隠居らしく、出しゃばらないようにしていようと思ってるんですがね、先だって、ぜひぜひと云われてNHKの対談に出たんですがね。そうしたら、そこで話した事柄について、大陸の方からはけしからんということでひどく怒って来たそうだし、台湾の方からはいいことを云って下さったと礼を云われるし、一言が大変なことになるんでね……。
 ところがそれが面白かったから、関西に来て一つやってくれとお座敷がかかって来ましたよ。それで出掛けて来たんですがね。実は、敵は本能寺でね、それを口実に京都の秋色を賞でて来ようという魂胆だったんですがね。アレキサンドラ王女のおいでなどで、早く帰って来なくてはならなくなりましてね、秋色を賞でるまでには行きませんでしたよ。なかなかうまく行きませんよ。
 箱根の通り道というだけでもないんだろうが、よくいろいろの人が訪ねてくれるんでね。なかなか、隠居もしていられないというわけです。
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底本:「「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻」文藝春秋
   1988(昭和63)年2月25日第1刷
   1988(昭和63)年3月15日第3刷
底本の親本:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1962(昭和37)年2月号
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1962(昭和37)年2月号
※底本編者による前書きは省略しました。
入力:sogo
校正:フクポー
2018年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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