北越雪譜

鈴木牧之編撰

京山人百樹刪定

岡田武松校訂




第三刷序文


 岩波文庫に収めた北越雪譜は不図はからずも読書子の称賛を得て、昨年三月には第二刷を発行し、ここにまた第三刷を発行するに至つたのは校訂子の欣喜に堪へないところである。第二刷のときも、註解に若干の増補を為したが、今回は本書の完璧を期する為めに、書中の挿画全部を天保の初版によつてやり直した、雪譜初版刊行の年月に就ては、判然としない点がある、岩波文庫版の解説には、初篇の一を天保六年としたのは、京山の序文の年号をとつたのであり、初篇の三の発行の年月を天保七年としたのは奥附によつたものである、勿論初篇の一が天保六年に出版されたと云ふ確証はないが、とも角も天保六年か七年の頃に世に出たものと思ふ、これはひとへに識者の高教を待つ。

昭和十二年八月十五日
岡田武松 識
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北越雪譜叙


世之農商而嗜文雅者、或不知所文雅文雅、徒ラニ韻士墨客之風標、沈文酒、流花月、而置生計於不問、以傾産業者、マヽ亦有之、是豈嗜ムノ文雅ラン哉、其人特自ノミ矣、鈴木牧之翁者北越塩沢之老農也、性嗜文雅、而能尚節倹驕惰、不誦読於経営之中、而務鉛槧於会計之余、以交遠近之墨客、嘗堪忍之二字シテ、以其名久シク遠邑、而生業亦因豊饒矣、嗚呼若翁者不シテカハ文雅之名而能務ムル其実者、非ラズ、余於タリ一面識於江戸、而後特以書訂スル者有コヽニ、今茲乙未、遠シテ其所著北越雪譜ナル者六巻、併スルニ校訂、時方盛夏炎威如燬、乃北※[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、11-8]繙而閲レバ之、則越雪恍トシテ騒屑之声、目ルガ上二紛霏之影、使三レ人頓甑中之苦、読レバ積畳埋屋行旅不通人以窮乏柴米或不ルニ一レ、則※[#「冫+亶」、U+20610、11-9]然寒顫肌膚為之粟生セリ矣、余因以謂オモヘラク※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)袴軽薄子弟、当微雪俄紛々舞空之際、彫鞍宝勒飛玉塵於郊※(「土へん+炯のつくり」、第3水準1-15-39)氈帽棕鞋蹈瓊瑤於街衢或画舸載或高楼呼以為勝遊楽事、曾不飢寒為ルヲ何物、若三レ其人此書、依以想其種々凍餒之苦状乎、然則安ンカルコト能省シテルコトヲ宴安之公共、而戚々焉生ズル上二戒懼之心者哉、寧梓而行之其有益世教盖非鮮小也、間者コノコロヤヽ秋涼、聊削其駁雑、校訂方三巻、書賈文渓堂見而喜之謀梓行セント、余寄以告翁、々曰※[#「雨かんむり/彗」、U+4A2E、12-1]中閉戸漫筆、豈敢、於是乎、不復俟一レ於翁以付之、翁之嗜文雅而能務其実、此必笑之而已、翁之稿本国字之間漢字者、嘗不音訓之仮名カナ、余今尽之以便スト童蒙、云フハ天保六年乙未秋園菊開日

江戸   京山人百樹  京山人百樹押印の図
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 此書の稿本図は別冊とし、或は其説に大図を描して添たるもあり、皆牧之翁が自筆の草画也。此挙梓行の為にせざれば図に洪繊重復あり、今梓に臨て其図の過半を省き、目を新にするものを存して巻中に夾刺するは単冊に尽し難を以て也。※[#「其+りっとう」、U+5258、13-3]は是刪定の意に係る所也。余嘗て原図を閲するに、雪中の諸状混錯を走墨に失して通暁し難きもの靴中の瘡痒これを何如せん、唯翁が草図に傚ひて真に描せる而已。或原図の梓に入るものは則これを加ふ、或は説有て図無きもの其説に拠て其図を作りしもあり。盖余未だ越地を踏ず、越雪の真景に於て茫然たり、故に雪図に於て違漏あるも知るべからず、其誤を編者に駆ること勿れ。

京山男少年
乙未秋   京水百鶴  京水百鶴押印の図
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掘除積雪之圖
屋上雪掘圖
縋を穿て雪行圖
雪中歩行の用具の図
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北越雪譜初編 巻之上


越後塩沢  鈴木牧之  編撰
江戸    京山人百樹 刪定

○ 地気ちきゆきべん


 およそ天よりかたちしてくだものあめゆきあられみぞれひようなり。つゆ地気ちき粒珠りふしゆするところしもは地気の凝結ぎようけつする所、冷気れいき強弱つよきよわきによりて其形そのかたちことにするのみ。地気天に上騰のぼりかたちなして雨○雪○あられみぞれひようとなれども、温気あたゝかなるきをうくれば水となる。水は地の全体ぜんたいなればもとの地にかへるなり。地中ちちゆうふかければかならず温気あたゝかなるきあり、あたゝかなるをはき、天にむかひ上騰のぼる事人の気息いきのごとく、昼夜ちうや片時かたときたゆる事なし。天も又気をはきて地にくだす、これ天地の呼吸こきふなり。人のでるいきひくいきとのごとし。天地呼吸こきふして万物ばんぶつ生育そだつる也。天地の呼吸こきふつねうしなふ時は暑寒あつささむさ時におうぜず、大風大雨其余そのよさま/″\の天へんあるは天地のやめる也。天に九ツのだんあり、これを九天きうてんといふ。九段くだんの内もつとも地にちかき所を太陰天たいいんてんといふ。(地をる事高さ四十八万二千五百里といふ)太陰天と地とのあひだに三ツのへだてあり、天にちかき熱際ねつさいといひ、中を冷際れいさいといひ、地にちかき温際をんさいといふ。地気は冷際れいさいかぎりとして熱際ねつさいいたらず、冷温れいをんの二だんは地をる事甚だとほからず。富士山は温際をんさいこえ冷際れいさいにちかきゆゑ、絶頂ぜつてう温気あたゝかなるきつうぜざるゆゑ艸木くさきしやうぜず。夏もさむ雷鳴かみなり暴雨ゆふだち温際をんさいの下に見る。(雷と夕立はをんさいのからくり也)雲は地中ちちゆう温気をんきよりしやうずる物ゆゑに其おこかたち湯気ゆげのごとし、水をわかし湯気ゆげたつと同じ事也。くもあたゝかなる気を以て天にのぼり、かの冷際れいさいにいたればあたゝかなるきえて雨となる、湯気ゆげひえつゆとなるがごとし。(冷際にいたらざれば雲散じて雨をなさず)さて雨露あめつゆ粒珠つぶだつは天地の気中にるを以て也。艸木のまろきをうしなはざるも気中にしやうずるゆゑ也。雲冷際れいさいにいたりて雨とならんとする時、天寒てんかん甚しき時はあめこほりつぶとなりてくだる。天寒のつよきよわきとによりて粒珠つぶの大小をす、これあられとしみぞれとす。ひようは夏ありそのべんこゝにりやくす)地のかんつよき時は地気ちきかたちをなさずして天にのぼ微温湯気ぬるきゆげのごとし。天のくもるは是也。地気上騰のぼること多ければてん灰色ねずみいろをなして雪ならんとす。くもりたるくも冷際れいさいいたまづ雨となる。此時冷際の寒気雨をこほらすべきちからたらざるゆゑ花粉くわふんしてくだす、これゆき也。地寒ちかんのよわきとつよきとによりてこほりあつきうすきとのごとし。天に温冷熱をんれいねつの三さいあるは、人のはだへあたゝかにくひやゝ臓腑ざうふねつするとおな道理だうり也。気中きちゆう万物ばんぶつ生育せいいくこと/″\く天地の気格きかくしたがふゆゑ也。これ発明はつめいにあらず諸書しよしよ散見さんけんしたる古人こじんせつ也。

○ 雪のかたち


 およそ物をるに眼力がんりきかぎりありて其外そのほかを視るべからず。されば人の肉眼にくがんを以雪をみれば一片ひとひら鵞毛がまうのごとくなれども、十百へん雪花ゆき併合よせあはせて一へんの鵞毛をなす也。是を験微鏡むしめがねてられば、天造てんざうの細工したる雪の形状かたち奇々きゝ妙々なる事下にするがごとし。其形そのかたちひとしからざるは、かの冷際れいさいに於て雪となる時冷際の気運きうんひとしからざるゆゑ、雪のかたちおうじておなじからざる也。しかれども肉眼にくがんのおよばざる至微物こまかきものゆゑ、昨日きのふゆき今日けふの雪も一ばう白糢糊はくもこなすのみ。下のは天保三年許鹿君きよろくくん*1高撰雪花図説かうせんせつくわづせつところ雪花せつくわ五十五ひんの内を謄写すきうつしにす。ゆき六出りくしゆつなす。 御せついはくおよそもの方体はうたい(四角なるをいふ)かならず八を以て一をかこ円体ゑんたい(丸をいふ)六を以て一をかこ定理ぢやうり中の定数ぢやうすうしふべからず」云々。雪をむつはなといふ事 御せつを以しるべし。あんずるまろきは天の正しやうかくは地の実位じつゐ也。天地の気中に活動はたらきする万物こと/″\方円はうゑんかたちうしなはず、その一を以いふべし、人のからだかくにしてかくならず、まろくして円からず。是天地方円はうゑんあひだ生育そだつゆゑに、天地のかたちをはなれざる事子の親にるに相同じ。雪の六出りくしゆつする所以ゆゑんは、ものかず長数ちやうすういん半数はんすうやう也。人のからだ男はやうなるゆゑ九出きうしゆつ(●頭●両耳●鼻●両手●両足●男根)女は十しゆつす。(男根なく両乳あり)九ははんやう十は長のいん也。しかれども陰陽和合して人をなすゆゑ、男に無用の両乳りやうちゝありて女の陰にかたどり、女に不要ふよう陰舌いんぜつありて男にかたどる。気中に活動はたらく万物ばんぶつもるる事なし。雪は活物いきたるものにあらざれどもへんずるところ活動はたらきの気あるゆゑに、六出りくしゆつしたるかたち陰中いんちゆう或はやうかたど円形まろきかたちしたるもあり。水は極陰ごくいんの物なれども一滴ひとしづくおとす時はかならず円形ゑんけいをなす。おつるところにはたらきざしあるゆゑに陰にして陽のまろきをうしなはざる也。天地気中の機関からくり定理定格ぢやうりぢやうかくある事奇々きゝ妙々めう/\愚筆ぐひつつくしがたし。

顕微鏡を以て雪状を審に視る圖

○ 雪の深浅しんせん


 左伝に(隠公八年)平地へいちしやくみつるを大雪とえたるは其国そのくに暖地だんちなれば也。たう韓愈かんゆが雪を豊年ほうねん嘉瑞かずゐといひしも暖国だんこくろん也。されど唐土もろこしにも寒国は八月雪ふる五雑組ござつそに見えたり。暖国の雪一尺以下ならば山川村里さんせんそんり立地たちどころ銀世界ぎんせかいをなし、雪の飄々へう/\翩々へん/\たるをて花にたとへ玉にくらべ、勝望美景しようばうびけいあいし、酒食しゆしよく音律おんりつたのしみへ、うつことばにつらねて称翫しようくわんするは和漢わかん古今の通例つうれいなれども、これ雪のあさくにたのしみ也。わが越後のごとく年毎としごと幾丈いくぢやうの雪をなんたのしき事かあらん。雪のためちからつくざいつひやし千しんする事、しもところておもひはかるべし。

○ 雪意ゆきもよひ


 我国の雪意ゆきもよひ暖国だんこくひとしからず。およそ九月のなかばより霜をおきて寒気次第しだいはげしく、九月の末にいたれ殺風さつふうはだへ侵入をかし冬枯ふゆがれ諸木しよぼくおとし、天色てんしよくせふ/\として日のひかりざる事連日れんじつ是雪のもよほし也。天気朦朧もうろうたる事数日すじつにして遠近ゑんきん高山かうざんはくてんじて雪をせしむ。これを里言さとことば嶽廻たけまはりといふ。又うみある所は海鳴うみなり、山ふかき処は山なる、遠雷の如し。これを里言に胴鳴どうなりといふ。これを見これをきゝて、雪のとほからざるをしる。年の寒暖かんだんにつれて時日じじつはさだかならねど、たけまはりどうなりは秋の彼岸ひがん前後ぜんごにあり、毎年まいねんかくのごとし。

○ 雪の用意ようい


 まへにいへるがごとく、雪ふらんとするをはかり、雪にそんぜられぬため屋上やね修造しゆざうくはへ、うつばりはしらひさし(家の前の屋翼ひさし里言りげんらうかといふ、すなはち廊架らうかなり)其外すべて居室きよしつかゝる所ちからよわきはこれをおぎなふ。雪につぶされざるため也。庭樹にはきは大小にしたがえだまぐべきはまげて縛束しばりつけ椙丸太すぎまるた又は竹をつゑとなしてえだつよからしむ。雪をれをいとへば也。冬草ふゆくさるゐ菰筵こもむしろを以おほつゝむ。井戸は小屋をかけかはやは雪中其物をになはしむべきそなへをなす。雪中には一てん野菜やさいもなければ家内かない人数にんずにしたがひて、雪中の食料しよくれうたくはふ。(あたゝかなるやうに土中にうづめ又はわらにつゝみ桶に入れてこほらざらしむ)其外雪の用意ようい種々しゆ/″\造作ざうさをなす事ふでつくしがたし。

○ 初雪はつゆき


 暖国だんこくの人の雪を賞翫しやうくわんするは前にいへるがごとし。江戸には雪のふらざる年もあれば、初雪はことさらに美賞びしやうし、雪見のふね哥妓かぎたづさへ、雪のちや賓客ひんかくまねき、青楼せいろうは雪を居続ゐつゞけなかだちとなし、酒亭しゆていは雪を来客らいかく嘉瑞かずゐとなす。雪のため種々しゆ/″\遊楽いうらくをなす事枚挙あげてかぞへがたし。雪をしやうするのはなはだしきは繁花はんくわのしからしむる所也。雪国の人これを見、これをきゝうらやまざるはなし。我国の初雪を以てこれにくらぶれば、たのしむくるしむ雲泥うんでいのちがひ也。そも/\越後国は北方の陰地いんちなれども一国いつこくの内陰陽いんやう前後ぜんごす。いかんとなれば天は西北にたらず、ゆゑに西北をいんとし、地は東南にたらず、ゆゑに東南をやうとす。越後の地勢は、西北は大海にたいして陽気也。東南は高山かうざんつらなりて陰気也。ゆゑに西北の郡村ぐんそんは雪あさく、東南の諸邑しよいふは雪ふかし。是※(「こざとへん+月」、第4水準2-91-64)※(「こざとへん+日」、第4水準2-91-63)いんやう前後ぜんごしたるにたり。我住わがすむ魚沼郡うをぬまこほりは東南の※(「こざとへん+月」、第4水準2-91-64)いん地にして○巻機山まきはたやま苗場山なへばやま八海山はつかいさんうしたけ金城山きんじやうさんこまたけうさぎたけ浅艸山あさくさやまとう高山かうざん其余そのよ他国たこくきこえざる山々波濤はたうのごとく東南につらなり、大小の河々かは/″\縦横たてよこをなし、陰気いんき充満じゆうまんして雲ふか山間やまあひ村落そんらくなれば雪のふかきをしるべし。(冬は日南の方をめぐるゆゑ北国はます/\寒し、家の内といへども北は寒く南はあたゝかなると同じ道理也)我国初雪はつゆきる事おそきはやきとは、其年そのとし気運きうん寒暖かんだんにつれてひとしからずといへども、およそ初雪は九月のすゑ十月のはじめにあり。我国の雪は鵞毛がまうをなさず、降時ふるときはかならず粉砕こまかきをなす、風又これをたすく。ゆゑに一昼夜ちうや積所つもるところ六七尺より一丈にいたる時もあり、往古むかしより今年ことしにいたるまで此雪此国にふらざる事なし。されば暖国だんこくの人のごとく初雪を吟詠ぎんえい遊興いうきようのたのしみはゆめにもしらず、今年ことしも又此雪中ゆきのなかる事かと雪をかなしむ辺郷へんきやう寒国かんこくうまれたる不幸といふべし。雪をたのしむ人の繁花はんくわ暖地だんちうまれたる天幸をうらやまざらんや。

○ 雪の堆量たかさ


 隣宿りんしゆく六日町の俳友天吉老人のはなしに、妻有庄つまありのしやうにあそびしころきゝしに、千隈ちくま川のほとり人、初雪しよせつより(天保五年をいふ)十二月廿五日までのあひだ、雪のくだごとに用意したる所の雪をしやくをもつてはかりしに*2、雪のたかさ十八丈ありしといへりとぞ。此話このはなし雪国の人すらしんじがたくおもへども、つら/\思量おもひはかるに、十月の初雪より十二月廿五日までおよその日数ひかず八十日のあひだに五尺づゝの雪ならば、廿四丈にいたるべし。したがつふれしたがつはらところつんで見る事なし。又地にあればへりもする也。かれをもつて是をおもへば、我国の深山幽谷しんざんいうこく雪のふかき事はかりしるべからず。天保五年は我国近年の大雪なりしゆゑ、右のはなしふべからず。

○ 雪竿さを


 高田たかたしろ大手先の広場ひろばに、木をかくけづり尺をしるしてたて給ふ、是を雪竿さをといふ。長一丈也。雪の深浅しんせん公税こうぜいかゝるを以てなるべし。高田の俳友はいいう楓石子ふうせきしよりの書翰しよかん(天保五年の仲冬)雪竿を見れば当地の雪此せつ一丈にあまれりといひきたれり。雪竿といへば越後のこととして俳句はいくにも見えたれど、此国に於て高田の外无用むようの雪竿さをたつところ昔はしらず今はなし。風雅ふうがをもつて我国にあそぶ人、雪中をさけて三ころ此地をふむゆゑ、越路こしぢの雪をしらず。しかるに越路こしぢの雪をこと作意つくるゆゑたがふ事ありて、我国の心にはわらふべきがおほし。

○ 雪をはら


 雪をはらふは落花らくくわをはらふにつゐして風雅ふうがの一ツとし、和漢わかん吟咏ぎんえいあまた見えたれども、かゝる大雪をはらふは風雅ふうがすがたにあらず。初雪はつゆきつもりたるをそのまゝにおけば、ふたゝる雪を添へて一丈にあまる事もあれば、一ふれば一度はら(雪浅ければのちふるをまつ)これ里言さとことば雪掘ゆきほりといふ。つちほるがごとくするゆゑにかくいふ也。ほらざれば家の用ふさ人家じんかうづめて人のいづべきところもなく、力強ちからつよき家も幾万斤いくまんきんの雪の重量おもさ推砕おしくだかれんをおそるゝゆゑ、家として雪をほらざるはなし。るには木にてつくりたるすきもちふ、里言りげんこすきといふ、すなはち木鋤こすき也。ぶなといふ木をもつて作る、木質きのしやう軽強ねばくしてをるる事なくかつかろし、かたちは鋤にひろし。雪中だい一の用具ようぐなれば、山中の人これを作りてさとうる家毎いへごとたくはへざるはなし。雪を状態ありさまにあらはしたるがごとし。掘たる雪は空地あきちの、人にさまたげなきところへ山のごとくつみ上る、これを里言りげん掘揚ほりあげといふ。大家は家夫わかいものつくしてちからたらざれば掘夫ほりてやとひ、いく十人の力をあはせて一時に掘尽ほりつくす。こときふすはる内にも大雪くだれば立地たちどころうづたかく人力におよばざるゆゑ也。る処には人数にんずを略してゑがけり)右は大家たいかの事をいふ、小家のまづしきは掘夫ほりてをやとふべきもつひえあれば男女をいはず一家雪をほる。吾里にかぎらず雪ふかき処はみなしかなり。此雪いくばくのちからをつひやし、いくばくの銭をつひやし、終日しゆうじつほりたるあとへその夜大雪あけて見ればもとのごとし。かゝる時は主人あるじはさら也、下人しもべかしらたれ歎息ためいきをつくのみ也。大抵たいてい雪ふるごとにほるゆゑに、里言りげんに一番掘ばんぼり二番掘といふ。

○ 沫雪あわゆき


 春の雪はきえやすきをもつて沫雪あわゆきといふ。和漢わかんの春雪きえやすきを詩哥しいか作為さくいとす、これ暖国だんこくの事也、寒国の雪はふゆ沫雪あわゆきともいふべし。いかんとなれば冬の雪はいかほどつもりても凝凍こほりかたまることなく、脆弱やはらかなる事淤泥どろのごとし。かるがゆゑに冬の雪中はかんじきすかり穿はきみちゆく里言りげんには雪をこぐといふ。水をわたすがたたるゆゑにや、又深田ふかたゆくすがたあり。初春しよしゆんにいたれば雪こと/″\こほりて雪途ゆきみちは石をしきたるごとくなれば往来わうらい冬よりはやすし。(すべらざるために下駄げたにくぎをうちて用ふ)暖国だんこく沫雪あわゆきとは気運きうん前後ぜんごかくのごとし。

驛中積雪之圖

○ 雪みち


 冬の雪はやはらかなるゆゑ人の蹈固ふみかためたるあとをゆくはやすけれど、往来ゆきゝ旅人たびゝと宿しゆくの夜大雪降ばふみかためたる一すぢの雪道雪にうづまみちをうしなふゆゑ、郊原のはらにいたりては方位はうがくをわかちがたし。此時は里人さとひと幾十人をやとひ、かんじきすかりにてみち蹈開ふみひらかあとしたがつゆく也。此ものいり幾緡いくさしの銭をつひやすゆゑとぼしきたび人は人のみちをひらかすをまちむなしく時をうつすもあり。健足けんそく飛脚ひきやくといへども雪みちゆくは一日二三里にすぎず。かんじきにてあし自在じざいならず、雪ひざすゆゑ也。これ冬の雪中一ツの艱難かんなんなり。春は雪こほり銕石てつせきのごとくなれば、雪車そり(又雪舟そりの字をも用ふ)を以ておもきす。里人りじんは雪車に物をのせ、おのれものりて雪上をゆく事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立ざるゆゑすべて雪車そりを用ふ。春の雪中おもきおはしむる事牛馬うしうままさる。(雪車の制作せいさく別に記す、形大小種々あり大なるを修羅しゆらといふ)雪国の便利べんりだい一の用具ようぐ也。しかれども雪凍りたる時にあらざれば用ひがたし、ゆゑに里人雪舟途そりみちとなふ。

○ 雪こもり


 およそ雪九月末よりふりはじめて雪中に春をむかへ、正二の月は雪なほふかし。三四の月にいたりて次第にとけ、五月にいたりて雪全くきえ夏道なつみちとなる。(年の寒暖によりて遅速あり)四五月にいたれば春の花ども一にひらく。されば雪中にる事およそ八ヶ月、一年のあひだ雪をざる事わづかに四ヶ月なれども、全く雪中にこもるは半年也。こゝを以て家居いへゐつくりはさら也、万事よろづのこと雪をふせぐをもつはらとし、ざいつひやしちからつくす事紙筆しひつしるしがたし。農家のうかはことさら夏の初より秋の末までに五こくをもをさむるゆゑ、雪中にいねかる事あり。そのせはしき事の千しん、暖国の農業のうげふすれば百ばい也。さればとて雪国にうまるもの幼稚をさなきより雪中に成長するゆゑ、蓼中たでのなかむしからきをしらざるがごとく雪を雪ともおもはざるは、暖地だんち安居あんきよあぢはへざるゆゑ也。女はさら也、男も十人に七人はこれ也。しかれどもすめみやことて、繁花はんくわの江戸に奉公する事としありてのち雪国の故郷ふるさとかへる者、これも又十人にして七人也。胡場こば北風ほくふういなゝき、越鳥ゑつてう南枝なんしくふ、故郷こきやうわすれがたきは世界の人情にんじやう也。さて雪中は廊下らうか(江戸にいふたな下)雪垂ゆきだれ(かやにてあみたるすだれをいふ)くだし、雪吹ふゞきをふせぐため也)まども又これを用ふ。雪ふらざる時はまいあかりをとる。雪下ゆきふるさかんなるときは、つもる雪家をうづめて雪と屋上やねひとしたひらになり、あかりのとるべき処なく、ひる暗夜あんやのごとく燈火ともしびてらして家の内は夜昼よるひるをわかたず。やうやく雪のやみたる時、雪をほりわづかに小まどをひらきあかりをひく時は、光明くわうみやう赫奕かくやくたる仏の国に生たるこゝち也。此外雪こもりの艱難かんなんさま/″\あれど、くだ/\しければしるさず。鳥獣とりけだもの雪中せつちゆうしよくなきをしりて雪あさき国へるもあれど一ぢやうならず。雪中にこもて朝夕をなすものは人と熊と也。

○ 胎内潜たいないくゞり


 宿場しゆくばとなふところは家のまへひさしを長くのばしてかくる、大小の人家じんかすべてかくのごとし。雪中はさら也、平日も往来ゆきゝとす。これによりて雪中のちまたは用なきが如くなれば、人家の雪をこゝにつむ次第しだいかさなり両側りやうかはの家のあひだに雪のつゝみきづきたるがごとし。こゝに於て所々ところ/\に雪のほらをひらき、ひさしより庇にかよふ、これを里言さとことば胎内潜たいないくゞりといふ、又間夫まぶともいふ。間夫まぶとは金掘かねほり方言ことばなるをかりもちふる也。(間夫の本義は妻妾さいせふ奸淫かんいんするをいふ)宿外の家のつゞかざる処はひさしなければ、高低たかびくをなしたるかの雪のつゝみ往来ゆきゝとす。人の足立あしたてがたき処あれば一でうみちひらき、春にいたり雪うづだかき所は壇層だん/\を作りて通路つうろ便べんとす。かたち匣階はこばしごのごとし。ところものはこれを登下のぼりくだりするにあしなれ一歩ひとあしもあやまつ事なし。他国たこく旅人たびゝとなどはおそる/\移歩あしをはこびかへつておつものあり、おつれば雪中にうづむ。る人はこれをわらひ、おちたるものはこれをいかる。かゝる難所なんじよを作りて他国の旅客りよかくわづらはしむる事もとめたる所為しわざにあらず。此雪を取除とりのけんとするには人力じんりき銭財せんざいとをつひやすゆゑ、寸導せめてだんを作りてみちひらく也。そも/\初雪より歳を越て雪きゆるまでの事を繁細はんさいに記さば小冊にはつくしがたし、ゆゑにはぶきてしるさゞる事甚多し。

○ 雪中の洪水こうずゐ


 大小の川にちか村里むらさと、初雪ののち洪水こうずゐわざはひくるしむ事あり。洪水こうずゐを此国の俚言りげん水揚みづあがりといふ。一年ひとゝせせきといふ隣駅りんえき親族しんぞく油屋が家に止宿ししゆくせし時、ころは十月のはじめにて雪八九尺つもりたるをりなりしが、夜半やはんにいたりて近隣きんりん諸人しよにんさけよばはりつゝ立さわこゑねふりおどろかし、こは何事なにごとやらんとむね[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、33-5]もをどりてふしたる一間ひとまをはせいでければ、いへあるじ両手りやうてものさげ、水あがり也とく/\うら掘揚ほりあげ立退たちのき給へ、といひすてゝ持たる物を二階へはこびゆく。勝手かつての方へ立いで見れば家内かないの男女狂気きやうきのごとくかけまはりて、家財かざいを水にながさじと手当てあたりしだいに取退とりのくる。水はひくきに随てうしほのごとくおしきたり、すでたゝみひたにはみなぎる。次第につもりたる雪ところとして雪ならざるはなく、雪光せつくわう暗夜あんやてらして水のながるるありさま、おそろしさいはんかたなし。は人にたすけられて高所たかきところ逃登にげのぼはるか駅中えきちゆうのぞめば、提灯ちやうちんたいまつともしつれ大勢の男どもてに々に[#「てに々に」はママ]木鋤こすきをかたげ、雪をこえ水をわたりこゑをあげてこゝにきたる。これは水揚みづあがりせざるところものどもこゝにはせあつまりて、川すぢひらき水をおとさんとする也。闇夜あんやにてすがたは見えねど、をんなわらべ泣叫なきさけこゑあるひとほく或はちかく、きくもあはれのありさま也。燃残もえのこりたるたいまつ一ツをたよりに人も馬もくびたけ水にひたり、みなぎるながれをわたりゆくは馬をたすけんとする也。おびもせざる女片手かたて小児せうに背負せおひ提灯ちやうちんさげ高処たかきところにげのぼるは、ちかければそこらあらはに見ゆ、いのちとつりがへなればなにをもはづかしとはおもふべからず。可笑をかしき可憐あはれなる事可怖おそろしき事種々しゆ/″\さま/″\ふでつくしがたし。やう/\東雲しのゝめころいたりて、水もおちたりとて諸人しよにん安堵あんどのおもひをなしぬ。

雪中洪水之圖

○そも/\我郷わがさと雪中の洪水こうずゐ、大かたは初冬と仲春とにあり。このせきといふしゆくは左右人家じんかまへ一道ひとすぢづゝのながれあり、すゑ魚野川うをのかはへ落る、三伏さんふくひでりにもかわく事なき清流水せいりうすゐ也。ゆゑに家毎いへごとこのながれもつ井水ゐすゐかはりとし、しかもをけにてもくむべきながれなれば、平日の便利べんり井戸よりもはるかにまされり。しかるに初雪しよせつのち十月のころまでにこの二条ふたすぢ小流こながれ雪のため降埋ふりうめられ、流水は雪の下にあり、ゆゑ家毎いへごとくむべきほどに雪を穿うがち水用すゐようを弁ず。この穿うがちたる所も一夜の雪にうづめらるゝことあればふたゝびうがつ事しば/\なり。人家じんかにちかきながれさへかくのごとくなれば、この二すぢながれ水源みなかみも雪にうづもれ、水用すゐよううしのふのみならず水あがりのおそれあるゆゑ、ところの人ちからあはせて流のかゝり口の雪を穿うがつ事なり。されども人毎ひとごと業用げふようにさゝへて時をうしなふか、又は一夜の大雪にかの水源すゐげんふさぐ時は、水あぶれひくき所をたづねながる。駅中えきちゆうは人の往来ゆきゝために雪をふみへしてひくきゆゑ、流水りうすゐみなぎきたなほあぶれて人家に入り、水難すゐなんふ事まへにいへるがごとし。いく百人の力をつくして水道すゐだうをひらかざれば、家財かざいながあるひ溺死できしにおよぶもあり。
また仲春のころ洪水こうずゐは大かたは春の彼岸ひがん前後ぜんご也。雪いまだきえず、山々はさら也田圃たはた渺々べう/\たる曠平くわうへい雪面せつめんなれば、枝川えだかはは雪にうづもれ水は雪の下を流れ、大河といへども冬の初よりきしの水まづこほりて氷の上に雪をつもらせ、つもる雪もおなじく氷りて岩のごとく、きしの氷りたるはし次第しだいに雪ふりつもり、のちには両岸りやうがんの雪相合あひがつして陸地りくちとおなじ雪の地となる。さて春をむかへて寒気次第にやはらぎ、その年の暖気だんきにつれて雪も降止ふりやみたる二月のころ水気すゐき地気ちきよりも寒暖かんだんる事はやきものゆゑ、かの水面すゐめんつもりたる雪したよりとけこほりたる雪の力も水にちかきはよわくなり、ながれは雪にふさがれてせまくなりたるゆゑ水勢すゐせいます/\はげしく、陽気やうきて雪のやはらかなる下をくゞり、つゝみのきるゝがごとく、たとへにいふ寝耳ねみゝに水の災難さいなんにあふ事、雪中の洪水こうずゐ寒国の艱難かんなん暖地だんちの人あはれみ給へかし。右は其一をいふのみ。雪中の洪水地勢によりて種々しゆ/″\各々さま/″\なり。つまびらかにはべんじがたし。

○ 熊捕くまとり


 越後の西北は大洋おほうみたいして高山かうざんなし。東南は連山れんざん巍々ぎゝとして越中上信奥羽の五か国にまたがり、重岳ちようがく高嶺かうれいかたならべて十里をなすゆゑ大小のけものはなはだおほし。此けもの雪をさけて他国へ去るもありさらざるもあり、うごかずして雪中に穴居けつきよするはくまのみ也。熊胆くまのいは越後を上ひんとす、雪中の熊胆はことさらにあたひたつとし。其重価ちようくわんとほつして春暖しゆんだんて雪の降止ふりやみたるころ、出羽ではあたりの猟師れふしども五七人心を合せ、三四疋の猛犬まうけんき米としほなべたくはへ、水とたきゞは山中るにしたがつて用をなし、山より山をこえひるかりしてけものしよくとし、夜は樹根きのね岩窟がんくつ寝所ねどころとなし、生木なまきたいさむさしのぎかつあかしとなし、たまゝにて寝臥ねふしをなす。かしらよりあしにいたるまでものこと/″\けものかはをもつてこれを作る。とほればさるにしてかほは人也。金革きんかくしきねにすとはかゝる人をやいふべき。此ものらがこゝろざす所は我国の熊にあり。さて我山中に入り場所ばしよよきを見立みたて、木のえだ藤蔓ふぢつるを以てかり小屋こやを作りこれを居所ゐどころとなし、おの/\犬をひき四方にわかれて熊をうかゞふ。熊の穴居こもりたる所をみつくれ目幟めじるしをのこして小屋にかへり、一れんの力をあはせてこれをる。その道具だうぐの長さ四尺斗りの手槍てやりあるひ山刀やまがたな薙刀なぎなたのごとくに作りたるもの、銕炮てつはう山刀をのるゐ也。にぶる時はたくはへたるをもつてみづからぐ。此道具だうぐけものかはを以てさやとなす。此者ら春にもかぎらず冬より山に入るをりもあり。
 そも/\くま和獣わじうの王、たけくしてる。菓木このみ皮虫かはむしのるゐをしよくとして同類どうるゐけものくらはず、田圃たはたあらさず、まれあらすはしよくつきたる時也。詩経しきやうには男子だんししやうとし、或は六雄将軍りくゆうしやうぐんの名をたるも義獣ぎじうなればなるべし。なつしよくをもとむるのほか山蟻やまあり掌中てのひら擦着すりつけふゆ蔵蟄あなごもりにはこれをなめ[#「舌+蝶のつくり」、U+445C、38-11]うゑしのぐ。牝牡めすをすおなじあなこもらず、めすの子あるは子とおなじくこもる。其蔵蟄あなごもりする所は大木の雪頽なだれたふれてくちたるうろ(なだれの事下にしるす)又は岩間いはのあひ土穴つちあな、かれが心にしたがつる処さだめがたし。雪中の熊は右のごとく他食たしよくもとめざるゆゑ、そのきも良功りやうこうある事夏の胆にくらぶれば百ばい也。我国にては、●飴胆あめい琥珀胆こはくい黒胆くろいとなへ色をもつてこれをいふ。琥珀こはくを上ひんとし、黒胆を下品とす。偽物ぎぶつは黒胆に多し。
●さて熊をとる種々しゆ/″\じゆつあり。かれがをる所の地理ちりにしたがつて捕得とりえやすき術をほどこす。熊は秋の土用よりあなに入り、春の土用に穴よりいづるといふ。又一せつに、穴に入りてより穴を出るまで一睡ひとねむりにねむるといふ、人のざるところなればしんじがたし。
 沫雪あわゆきくだりにいへるごとく、冬の雪はやはらにして足場あしばあしきゆゑ、熊をとるは雪のこほりたる春の土用まへ、かれが穴よりいでんとするころほどよき時節じせつとする也。岩壁がんへきすそ又は大樹たいじゆなどに蔵蟄あなごもりたるをとるにはおしといふじゆつもちふ、天井釣てんじやうづりともいふ。その制作しかたは木のえだふぢつるにて穴に倚掛よせかけたなつくり、たなのはしに付てくひを以てこれをしばり、たなの横木にはしらありてたなの上に大石をつみならべ、横木よりなはを下し縄にむすびてあなのぞます、これを蹴綱けづなといふ。此蹴綱に転機しかけあり、まつたつくりをはりてのち、穴にのぞんで玉蜀烟艸たうがらしたばこくきのるゐくまにくむ物をたき、しきりにあふぎけふりを穴に入るれば熊烟りにむせて大にいかり、穴を飛出る時かならずかの蹴綱けづなふるれば転機しかけにてたなおちて熊大石の下にす。手をくださずして熊をとるの上じゆつ也。是は熊の居所ゐどころによる也。これらは樵夫せうふをりによりてはする事也。
 又熊捕くまとり場数ばかずふみたる剛勇がうゆうの者は一れん猟師れふしを熊のる穴の前にまたせ、おのれ一人ひろゝみのかしらよりかぶりひろゝは山にある艸の名也、みのに作れば稿よりかろし、猟師常にこれを用ふ)穴にそろ/\とはひ入り、熊にみのの毛をふるれば熊はみのゝ毛をきらふものゆゑよけて前にすゝむ。又しりへよりみの毛をさはらす、熊又まへにすゝむ。又さはり又すゝんで熊つひには穴の口にいたる。これをまちかまへたる猟師れふしども手練しゆれん槍尖やりさきにかけて突留つきとむる。一槍ひとやりあやまつときは熊の一掻ひとかきに一めいうしなふ。そのあやふきふんで熊を捕はわづか黄金かねため也。金慾きんよくの人をあやまつ色慾しきよくよりもはなはだし。されば黄金わうごんみちを以てべし、不道をもつてべからず。
 又上におほふ所ありてその下には雪のつもらざるを知り土穴をほりこもるもあり。しかれどもこゝにも雪三五尺は吹積ふきつもる也。熊の穴ある所の雪にはかならず細孔ほそきあなありてくだのごとし。これ熊の気息いきにて雪のとけたるあな也。猟師れふしこれを見れば雪を掘て穴をあらはし、木のえだしばのるゐを穴にさし入れば熊これをかきとりて穴に入るゝ、かくする事しば/\なれば穴つまりて熊穴の口にいづる時槍にかくる。つきたりと見れば数疋すひき猛犬つよいぬいちどに飛かゝりてかみつく。犬は人を力とし、人は犬を力としてころすもあり。此術はうつほ木にこもりたるにもする事也。

○ 白熊しろくま


 熊のくろきは雪の白がごとく天然てんねんの常なれども、天公てんこうてんじて白熊はくいうを出せり。
○天保三年辰の春、すむ魚沼郡うおぬまこほりうち浦佐うらさ宿のざい大倉村の樵夫きこり八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊こくまいけどり、世にめづらしとてかひおきしに香具師かうぐし(江戸にいふ見世もの師の古風なるもの)これを買もとめ、市場又は祭礼すべて人のあつまる所へいでゝ看物みせものにせしが、ある所にても見つるに大さいぬのごとくかたちは全く熊にして、白毛雪をあざむきしかも光沢つやありて天鵞織びらうどのごとくつめくれなゐ也。よく人になれてはなはだあいすべきもの也。こゝかしこに持あるきしがそのをはりをしらず。白亀の改元かいげん白鳥しらとり神瑞しんずゐ、八幡のはと、源家のはた、すべて白きは 皇国みくに祥象しやうせうなれば、天機てんき白熊はくいうをいだししも 昇平万歳しようへいばんぜいの吉ずゐ成べし。
山家の人のはなしに熊をころすこと二三疋、あるひはとしたる熊一疋を殺も、其山かならずあるる事あり、山家さんかの人これを熊あれといふ。このゆゑに山村さんそん農夫のうふもとめて熊をとる事なしといへり。熊に※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいありし事古書こしよにも見えたり。

○ 熊人をたすく


 人熊の穴におちいりて熊に助られしといふはなし諸書しよしよ散見さんけんすれども、其実地じつちをふみたる人のかたりしはめづらしければこゝにしるす。

老農語徃事圖、熊助樵夫之圖

若かりし時、妻有つまありしやう(魚沼郡の内に在)用ありて両三日逗留とうりうせし事ありき。ころは夏なりしゆゑ客舎やどりしいへにはかげにむしろをしきて納涼すゞみ居しに、主人あるじは酒をこのむ人にて酒肴しゆかうをこゝに開き、は酒をばすかざるゆゑ茶をのみて居たりしに、一老夫いちらうふこゝに来り主人を拱手てをさげて礼をなし後園うらのかたへ行んとせしを、あるじよびとめらう夫をゆびさしていふやう、此叟父おやぢ壮年時わかきとき熊に助られたる人也、あやふいのちをたすかり今年八十二まですこやか長生ながいきするは可賀めでたき老人也、識面ちかづきになり給へといふ。老夫莞爾にこりとしてふたゝびさらんとす。よびとゞめ、熊に助られしとは珍説ちんせつ也語りて聞せ給へといひしに、主人あるじが前に在し※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ちやわんをとりてまづ一盃のめとて酒を※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)なみ/\とつぎければ、老夫らうふむしろはしに坐し酒をゑみをふくみつゞけて三※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ばいきつ舌鼓したうちして大によろこび、さらば話説はなし申さん、我廿歳はたちのとし二月のはじめたきゞをとらんとて雪車そりひきて山に入りしに、村にちかき所は皆きりつくしてたま/\あるも足場あしきゆゑ、山一重ひとへこえて見るに、薪とすべき柴あまたありしゆゑ自在じざいきりとり、雪車そり哥うたひながら徐々しづかにたばね、雪車につみて縛つけ山刀やまかたなをさしいれ、ひくきしたがつて今来りたる方へ乗下のりくだりたるに、一束いつそくの柴雪車よりまろおち、谷をうづめたる雪の裂隙われめにはさまり(凍りし雪陽気を得て裂る事常也)たるゆゑ、捨てかへらんもをしければその所にいたり柴の枝に手をかけ引上んとするにすこしもうごかず、落たるいきほひつきいれたるならん、さらばおもきかたより引上んと匍匐はらばひして双手もろてのばし一声かけて上んとしたる時、足にふむ力なきゆゑおのれがちからにおのれからだ転倒ひきくらかへし、雪の裂隙われめよりはるかの谷底へおちいりけるが、雪の上をすべり落たるゆゑさいはひきずはうけず、しばしは夢のやう也しがやう/\に心付、上を見れば雪の屏風びやうぶたてたるがごとく今にも雪頽なだれやせんと(なだれのおそろしき事下にしるす)いきたる心地はなく、くらさはくらし、せめては明方あかるきかたにいでんと雪にうまりたる狭谷間せまきたにあひをつたひ、やう/\にしてそらを見る所にいたりしに、谷底の雪中さむさはげしく手足も亀手かゞまり一歩ひとあしもはこびがたく、かくては凍死こゞえしぬべしと心をはげまし猶みちもあるかと百歩はんちやうばかり行たりけん、滝ある所にいたり四方を見るに、谷間の途極ゆきとまりにてかめに落たるねずみのごとくいかんともせんすべなく惘然ばうぜんとしてむね[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、45-4]せまり、いかゞせんといふ思案しあんさヘ出ざりき。さて是より熊のはなし也、今一盃たまはるべしとてみづからつぎてしきりにのみこしより烟艸※(「代/巾」、第4水準2-8-82)たばこいれをいだしてたばこのみなどするゆゑ、其つぎはいかにとたづねければ、老父らうふいはく、さてかたはらを見ればくゞるべきほどの岩窟いはあなあり、中には雪もなきゆゑはひりて見るにすこしあたゝか也。此時こゝろづきて腰をさぐりみるに握飯にぎりめし弁当べんたうもいつかおとしたり、かくては飢死うゑじにすべし、さりながら雪をくらひても五日や十日は命あるべし、その内には雪車哥そりうたこゑさへきこゆれば村の者也、大声あげてよばらばたすけくれべし、それにつけてもお伊勢さまと善光寺さまをおたのみ申よりほかなしと、しきりに念仏となへ、大神宮をいのり日もくれかゝりしゆゑ、こゝを寝所ねどころにせばやと闇地くらがりさぐり/\入りて見るに次第しだいあたゝか也。なほさぐりし手先てさきさはりしはまさしく熊也。愕然びつくりしてむね[#「匈/(胃−田)」、U+80F7、45-11]さけるやう也しがにげるに道なく、とても命のきはなりしぬいきるも神仏にまかすべしと覚悟かくごをきはめ、いかに熊どのわしたきゞとりに来り谷へおちたるもの也、かへるには道がなくいきをるにはくひ物がなし、とてもしぬべき命也、ひきさき[#「辟/手」、U+64D8、45-14]ころさばころし給へ、もしなさけあらば助たまへと怖々こは/\熊をなでければ、熊はおきなほりたるやうにてありしが、しばしありてすゝみいでわししりにておしやるゆゑ、熊のたる跡へすはりしにそのあたゝかなる事巨燵こたつにあたるごとく全身みうちあたゝまりてさむさをわすれしゆゑ、熊にさま/″\礼をのべ猶もたすけ玉へと種々いろ/\かなしき事をいひしに、熊手をあげてわしが口へやはらかにおしあてる事たび/\也しゆゑ、ありの事をおもひだしなめてみればあまくてすこしにがし。しきりになめたれば心さはやかになりのどうるほひしに、熊は鼻息はないきならしてねいるやう也。さては我をたすくるならんと心大におちつき、のちは熊とせなかをならべてふししが宿の事をのみおもひて眠気ねむけもつかず、おもひ/\てのちはいつか寝入ねいりたり。かくて熊の身動みうごきをしたるに目さめてみれば、穴の口見ゆるゆゑ夜のあけたるをしり、穴をはひいで、もしやかへるべき道もあるか、山にのぼるべきふぢづるにてもあるかとあちこち見れどもなし、熊も穴をいでゝ滝壺たきつぼにいたり水をのみし時はじめて熊を見れば、犬を七ツもよせたるほどの大熊也。又もとのあなへはいりしゆゑわしあなの口に雪車哥そりうたのこゑやすらんとみゝすまして聞居きゝゐたりしが、滝の音のみにて鳥のもきかず、その日もむなしくくれて又穴に一夜をあかし、熊のうゑをしのぎ、幾日いくかたちても哥はきかず、その心ほそき事いはんかたなし。されど熊は次第しだいなれ可愛かあいくなりしと語るうち、主人は微酔ほろゑひにて老夫らうふにむかひ、其熊は熊ではなかりしかと三人大ひに笑ひ、又酒をのませ盃の献酬やりとりにしばらく話消はなしきえけるゆゑしひ下回そのつぎをたづねければ、老夫らうふいはく、人の心は物にふれてかはるもの也、はじめ熊にあひし時はもはや死地こゝでしす事と覚悟かくごをばきはめ命もをしくなかりしが、熊にたすけられてのちは次第しだいに命がをしくなり、たすくる人はなくとも雪さへきえなば木根きのね岩角いはかどとりつきてなりと宿へかへらんと、雪のきゆるをのみまちわび幾日といふ日さへわすれ虚々うか/\くらししが、熊は飼犬かひいぬのやうになりてはじめて人間のたふとき事をり、谷間たにあひゆゑ雪のきゆるも里よりはおそくたゞ日のたつをのみうれしくありしに、一日あるひあなの口の日のあたる所にしらみとりたりし時、熊あなよりいで袖をくはへて引しゆゑ、いかにするかと引れゆきしにはじめ濘落すべりおちたるほとりにいたり、熊さきにすゝみて自在じざいに雪を掻掘かきほり一道ひとすぢみちをひらく、何方いづくまでもとしたがひゆけば又みちをひらき/\て人の足跡あしあとある所にいたり、熊四方しはうかへりみはしさりて行方しれず。さては我をみちびきたる也と熊のさりし方を遥拝ふしをがみかず/\礼をのべ、これまつたく神仏の御蔭おかげぞとお伊勢さま善光寺ぜんくわうじさまを遥拝ふしをがみうれしくて足の蹈所ふみどもしらず、火点頃ひとぼしころ宿へかへりしに、此時近所の人々あつまり念仏申てゐたり。両親はじめ驚愕びつくりせられ※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)いうれいならんとて立さわぐ。そのはづ也。月代さかやきみののやうにのびつらは狐のやうにやせたり、幽※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)とて立さわぎしものちは笑となりて、両親はさら也人々もよろこび、薪とりにいでし四十九日目の待夜たいや也とていとなみたる※(「古/又」、第4水準2-3-61)ぶつじにはかにめでたき酒宴さかもりとなりしと仔細こまかかたりしは、九右エ門といひし小間居こまゐ農夫ひやくしやう也き。其夜燈下ともしびのもとに筆をとりて語りしまゝをしるしおきしが、今はむかしとなりけり。

○ 雪中のむし


 唐土もろこししよく峨眉山がびさんには夏も積雪つもりたるゆきあり。其雪のなか雪蛆せつじよといふ虫ある事山海経さんがいきやうに見えたり。唐土もろこしの書)せつむなしからず、越後の雪中にも雪蛆せつじよあり、此虫早春の頃より雪中にしやうじ雪消終きえをはれば虫も消終きえをはる、始終ししゆう死生しせいを雪とおなじうす。字書じしよあんずるに、じよ腐中ふちゆうはへとあれば所謂いはゆる蛆蠅うじばへ也。だつ[#「虫+旦」、U+45A7、48-2]※(「萬/虫」、第3水準1-91-67)たいるゐ、人をさすとあればはちるゐ也、雪中のむしじよしたがふべし、しかれば雪蛆せつじよは雪中の蛆蠅うじばへ也。木火土金水もくくわどごんすゐの五行中皆虫をしやうず、木の虫土の虫水の虫はつねに見る所めづらしからず。はへはひよりしやうず、灰は火の燼末もえたこな也、しかれば蠅は火の虫也。はへころしてかたちあるもの灰中はひのなかにおけばよみがへる也。又しらみは人のねつよりしやうず、ねつは火也、火より生たる虫ゆゑにはへしらみともあたゝかなるをこのむ。金中かねのなかの虫は肉眼ひとのめにおよばざる冥塵ほこりのごとき虫ゆゑに人これをしらず。およそ銅銕どうてつくさるはじめは虫をしやうず、虫の生じたるところいろへんず。しば/\これをぬぐへば虫をころすゆゑ其所そのところくさらず。さびるくさるはじめさびの中かならず虫あり、肉眼にくがんにおよばざるゆゑ人しらざる也。(蘭人の説也)金中なほむしあり、雪中虫なからんや。しかれども常をなさゞればとしめうとして唐土もろこししよにもしるせり。我越後の雪蛆せつじよはちひさき事ごとし。此虫は二しゆあり、一ツははねありて飛行とびあるき、一ツははねあれどもおさめ※(「虫+支」、第4水準2-87-33)はひありく。共に足六ツあり、色ははへうす(一は黒し)る所は市中原野しちゆうげんやにおなじ。しかれども人をさすむしにはあらず、顕微鏡むしめがねにてたる所をこゝにして物産家ぶつさんかせつつ。

雪蛆の圖

○ 雪吹ふゞき


 雪吹ふゞきなどにつもりたる雪の風に散乱さんらんするをいふ。其状そのすがた優美やさしきものゆゑ花のちるを是にして花雪吹はなふゞきといひて古哥こかにもあまた見えたり。これ東南寸雪すんせつの国の事也、北方丈雪ぢやうせつの国我が越後の雪ふかきところの雪吹は雪中の暴風はやて雪を巻騰まきあぐる※(「風にょう+(犬/(犬+犬))」、第4水準2-92-41)つぢかぜ也。雪中第一の難義なんぎこれがために死する人年々也。その一ツをあげてこゝにしるし、寸雪すんせつ雪吹ふゞきのやさしきをみる人のため丈雪ぢやうせつの雪吹の※(「目+台」、第3水準1-88-79)おそろしきしめす。
 すむ塩沢しほさはとほからざる村の農夫のうふせがれ一人あり、篤実とくじつにしてよくおやつかふ。廿二歳の冬、二里あまりへだてたる村より十九歳のよめをむかへしに、容姿すがたにくからず生質うまれつき柔従やはらかにて、糸織いとはたわざにも怜利かしこければしうとしうとめ可愛かあいがり、夫婦ふうふの中もむつまし家内かない可祝めでたく春をむかへ、其年九月のはじめ安産あんざんしてしかも男子なりければ、掌中てのうちたまたる心地こゝちにて家内かないよろこびいさみ、産婦さんふすこやか肥立ひだち乳汁ちゝも一子にあまるほどなれば小児せうに肥太こえふと可賀名めでたきなをつけて千歳ちとせ寿ことぶきけり。此一家このいつかものすべて篤実とくじつなれば耕織かうしよく勤行よくつとめ小農夫こびやくしやうなれどもまづしからず、善男よきせがれをもち良娵よきよめをむかへ好孫よきまごをまうけたりとて一そんの人々つねうらやみけり。かゝる善人ぜんにんいへに天わざはひくだししは如何いかんぞや。
○かくて産後さんご日をてのち、連日れんじつの雪も降止ふりやみ天気おだやかなる日、よめをつとにむかひ、今日けふ親里おやざとゆかんとおもふ、いかにやせんといふ。しうとかたはらにありて、そはよき事也せがれも行べし、実母ばゝどのへもまごを見せてよろこばせ夫婦ふうふして自慢じまんせよといふ。よめはうちゑみつゝしうとめにかくといへば、姑はにはか土産みやげなど取そろへるうちよめかみをゆひなどしてたしなみ衣類いるゐちやくし、綿入わたいれ木綿帽子もめんばうし寒国かんこくならひとて見にくからず、ふところにいだき入んとするにしうとめかたはらよりよくのませていだきいれよ、みちにてはねんねがのみにくからんと一言ひとことことばにもまごあいするこゝろぞしられける。をつと蓑笠みのかさ稿脚衣わらはゞきすんべを穿はき晴天せいてんにもみのきるは雪中農夫のうふの常也)土産物みやげもの軽荷かるきにになひ、両親ふたおや暇乞いとまごひをなし夫婦ふうふたもとをつらね喜躍よろこびいさみ立出たちいでけり。正是これぞ親子おやこ一世いつせわかれ、のち悲歎なげきとはなりけり。
○さるほどにをつとさきに立つまあとにしたがひゆく。をつとつまにいふ、今日けふ頃日このごろ日和ひより也、よくこそおもひたちたれ。今日けふ夫婦ふうふまごをつれてきたるべしとはおやたちはしられ玉ふまじ。まごかほを見玉はゞさぞかしよろこび給ふらん。さればに候、父翁とつさまはいつぞやきたられしが母人かさまはいまだ赤子ねんねを見給はざるゆゑことさらの喜悦よろこびならん。おそくならば一宿とまりてもよからんか、おまへ宿とまり給へ。不可也いや/\二人とまりなば両親おやたちあんじ給はん、われはかへるべしなど、はなしのうちなく乳房ちぶさくゝませつゝうちつれて道をいそぎ美佐嶋みさしまといふ原中にいたりし時、天色てんしよく倏急にはかかは黒雲くろくもそらおほひければ(是雪中の常也)をつとそらを見て大に驚怖おどろき、こは雪吹ふゞきならんいかゞはせんと踉※ためらふ[#「足へん+將」、U+8E61、51-7]うち、暴風はやて雪を吹散ふきちらす巨濤おほなみいはこゆるがごとく、※(「風にょう+(犬/(犬+犬))」、第4水準2-92-41)つぢかぜ雪を巻騰まきあげ白竜はくりやうみねのぼるがごとし。朗々のどかなりしもてのひらをかへすがごとくてんいかりくるひ、寒風ははだへつらぬくやり凍雪とうせついる也。をつと簑笠みのかさを吹とられ、つま帽子ばうしふきちぎられ、かみも吹みだされ、咄嗟あはやといふ眼口めくち襟袖えりそではさら也、すそへも雪を吹いれ、全身ぜんしんこゞえ呼吸こきうせま半身はんしんすでに雪にめられしが、いのちのかぎりなれば夫婦ふうふこゑをあげほうい/\と哭叫なきさけべども、往来ゆきゝの人もなく人家じんかにもとほければたすくる人なく、手足こゞへ枯木かれきのごとく暴風ばうふう吹僵ふきたふされ、夫婦ふうふかしらならべて雪中にたふしゝけり。此雪吹ふゞき其日のくれやみ次日つぎのひ晴天せいてんなりければ近村きんそんの者四五人此所をとほりかゝりしに、かの死骸しがい雪吹ふゞきうづめられて見えざれども赤子あかご啼声なくこゑを雪の中にきゝければ、人々大にあやしみおそれてにげんとするもありしが、剛気がうきの者雪をほりてみるに、まづ女のかみ雪中にあらはれたり。さて昨日きのふ雪吹倒ふゞきたふれならん(里言にいふ所)とて皆あつまりて雪をほり死骸しがいを見るに夫婦ふうふひきあひて死居しゝゐたり。は母のふところにあり、母の袖かしらおほひたればに雪をばふれざるゆゑにや凍死こゞえしなず、両親ふたおや死骸しがいの中にて又こゑをあげてなきけり。雪中の死骸しがいなればいけるがごとく、見知みしりたる者ありて夫婦ふうふなることをしり、我児わがこをいたはりて袖をおほひ夫婦手をはなさずしてしゝたる心のうちおもひやられて、さすがの若者わかものらもなみだをおとし、ふところにいれ死骸しがいみのにつゝみをつといへになひゆきけり。かの両親ふたおやは夫婦よめの家に一宿とまりしとのみおもひをりしに、死骸しがいを見て一言ひとことことばもなく、二人ふたり死骸しがいにとりつきかほにかほをおしあて大こゑをあげてなきけるは、見るもあはれのありさま也。一人の男ふところよりをいだしてしうとにわたしければ、かなしみよろこび両行りやうかうなみだをおとしけるとぞ。

雪中捕熊圖、農人夫婦逢吹雪圖

 雪吹ふゞきの人をころす事大方右にるゐす。暖地だんちの人花のちるくらべ美賞びしやうする雪吹ふゞきと其ことなること、潮干しほひあそびてたのしむ洪濤つなみおぼれくるしむとのごとし。雪国の難義なんぎ暖地だんちの人おもひはかるべし。連日れんじつ晴天せいてんも一時にへんじて雪吹となるは雪中の常也。其ちからぬきいへくじく。人家これがためくるしむ事枚挙あげてかぞへがたし。雪吹にあひたる時は雪をほり身を其内にうづむれば雪暫時ざんじにつもり、雪中はかへつてあたゝかなる気味きみありてかつ気息いきもらし死をまぬがるゝ事あり。雪中をする人陰嚢いんのう綿わたにてつゝむ事をす、しかせざれば陰嚢いんのうまづこほり精気せいきつくる也。又凍死こゞえしゝたるを湯火たうくわをもつてあたゝむればたすかる事あれども武火つよきひ熱湯あつきゆもちふべからず。いのちたすかりたるのち春暖しゆんだんにいたればはれやまひとなり良医りやういしがたし。凍死こゞえしゝたるはまづしほいりぬのつゝみしば/\へそをあたゝめ稿火わらびよわきをもつて次第しだいあたゝむべし、たすかりたるのちやまひはつせず。人肌ひとはだにてあたゝむはもつともよし)手足てあしこゞえたるもつよ湯火たうくわにてあたゝむれば、陽気やうきいたれば灼傷やけどのごとくはれ、つひにくさりゆびをおとす、百やくこうなし。これが見たる所をしるして人にしめす。人の凍死こゞえしするも手足の亀手かゞまる陰毒いんどく血脉けちみやくふさぐの也。にはか湯火たうくわねつを以てあたゝむれば人精じんせい気血きけつをたすけ、陰毒いんどく一旦いつたんとくるといへどもまつたさらず、いんやうかたざるを以て陽気やうきいたれ陰毒いんどくにくしみくさる也。寒中雨雪うせつ歩行ありきひえたる人きふ湯火たうくわもちふべからず。おのれ人熱じんねつあたゝかならしむるをまつて用ふべし、長生ちやうせいの一じゆつなり。

○ 雪中の火


 世に越後の七不思議なゝふしぎしようする其一ツ蒲原郡かんばらこほり妙法寺村の農家のうか炉中ろちゆうすみ石臼いしうすあなよりいづる火、人みな也として口碑かうひにつたへ諸書しよしよ散見さんけんす。此火寛文年中はじめいでしと旧記きうきに見えたれば、三百余年の今においてたゆる事なきは奇中きちゆうの奇也。天奇てんきいだす事一ならず、おなじ国の魚沼郡うおぬまこほりに又一ツの奇火きくわいだせり。天公てんたうさま機状からくりのしかけかの妙法寺村の火とおなじ事也。かれは人のる所、是は他国の人のしらざる所なればこゝにしるし話柄はなしのたねとす*3
 越後の国魚沼郡うおぬまこほり五日町といふえきちかき西の方にひくき山あり、山のすそ小溝こみぞあり、天明年中二月のころ、そのほとりにわらべどもあつまりてさま/″\のたはむれをなして遊倦あそびうみ、木のえだをあつめ火をたきてあたりをりしに、其所よりすこしはなれてべつに火※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)えん/\もえあがりければ、児曹こどもら大におそれ皆々四方に逃散にげちりけり。その中に一人のわらべいへにかへりこと仔細しさいおやかたりけるに、此親このおや心ある者にてその所にいたり火の形状かたちを見るに、いまだきえざる雪中にを入るべきほどのあなをなしあなより三四寸の上に火もゆる。熟覧よく/\みておもへらく、これまさしく妙法寺村の火のるゐなるべしと火口ひぐちに石を入れてこれをし家にかへりて人にかたらず、雪きえてのちふたゝびその所にいたりて見るに火のもえたるはかの小溝こみぞきし也。火燧ひうちをもて発燭つけぎに火をてんこゝろみに池中になげいれしに、池中ちちゆう火をいだせし事庭燎にはびのごとし。水上に火もゆるは妙法寺村の火よりも也として駅中えきちゆうの人々きたりてこれをる。そのゝち銭にかしこき人かの池のほとりに混屋ふろやをつくり、かけひを以て水をとるがごとくして地中の火を引き湯槽ゆぶねかまどもやし、又燈火ともしびにもかゆる。池中の水をわか[#「火+譚のつくり」、U+71C2、56-9]あたひを以てよくせしむ。此湯硫黄ゆわうの気ありてよく疥癬しつるゐし、一時いちじ流行りうかうして人群をなせり。
あんずるに、地中にすゐ脉と火脉くわみやくとあり、地は大いんなるゆゑ水脉は九分火脉は一分なり。かるがゆゑに火脉ははなはだまれ也。地中の火脉凝結こりむすぶところかならず気息いきいだす事人の気息のごとく、肉眼にくがんには見えず。火脉くわみやく気息いき人間にんげん日用にちよう陽火ほんのひくはふればもえてほのほをなす、これを陰火いんくわといひ寒火かんくわといふ。寒火をひくかけひつゝこげざるは、火脉の気いまだ陽火をうけて火とならざる気息いきばかりなるゆゑ也。陽火をうくれば筒の口より一二寸の上に火をなす、こゝを以て火脉くわみやくの気息のもゆるをるべし。妙法寺村の火も是也。是発明はつめいにあらず、古書こしよより考得かんがへえたる所也。

○ 破目山われめきやま

*4

 魚沼郡うをぬまこほり清水しみづ村のおくに山あり、高さ一里あまり、周囲めぐりも一里あまり也。山中すべて大小の破隙われめあるを以て山の名とす。山半やまのなかば老樹らうじゆえだをつらねなかばより上は岩石がんぜき畳々でふ/\として其形そのかたち竜躍りようをどり虎怒とらいかるがごとく奇々怪々きゝくわい/\いふべからず。ふもとの左右に渓川たにがはありがつしてたきをなす、絶景ぜつけいいふべからず。ひでりの時此滝壺たきつぼ※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)あまこひすればかならずしるしあり。一年ひとゝせ四月のなかば雪のきえたるころ清水村の農夫のうふら二十人あまりあつまり、くまからんとて此山にのぼり、かの破隙われめうろをなしたる所かならず熊の住処すみかならんと、れい番椒烟草たうがらしたばこくきたきゞまぜうろにのぞんでたきたてしに熊はさらにいでず、うろふかきゆゑにけふりおくいたらざるならんと次日つぎのひたきゞし山もやけよとたきけるに、熊はいでずして一山の破隙われめこゝかしこよりけふりをいだしてくもおこるごとくなりければ、奇異きいのおもひをなし熊をからずしてむなしく立かへりしと清水村の農夫のうふかたりぬ。おもふに此山なかばより上は岩をほねとしてにくつちうす地脉ちみやく気をつうじて破隙われめをなすにや、天地妙々の奇工きこう思量はかりしるべからず。

三國嶺雪頽の上徃來の圖

○ 雪頽なだれ


 山より雪の崩頽くづれおつる里言さとことばなだれといふ、又なでともいふ。あんずるになだれは撫下なでおりる也、といふは活用はたらかすることばなり、山にもいふ也。こゝには雪頽ゆきくづるかりもちふ。字書じしよたい暴風ばうふうともあればよくかなへるにや。さて雪頽なだれ雪吹ふゞきならべて雪国の難義なんぎとす。高山たかやまの雪は里よりもふかく、こほるも又里よりははなはだし。我国東南の山々さとにちかきも雪一丈四五尺なるはあさしとす。此雪こほりて岩のごとくなるもの、二月のころにいたれば陽気やうき地中よりむしとけんとする時地気と天気とのためわれひゞきをなす。一へんわれ片々へん/\破る、其ひゞき大木ををるがごとし。これ雪頽なだれんとするのきざし也。山の地勢ちせいと日のてらすとによりてなだるゝところとなだれざる処あり、なだるゝはかならず二月にあり。里人さとひとはその時をしり、処をしり、きざしるゆゑに、なだれのために撃死うたれしするものまれ也。しかれども天の気候きこう不意ふいにして一ぢやうならざれば、雪頽なだれの下に身をくだくもあり。雪頽なだれ形勢ありさまいかんとなれば、なだれんとする雪のこほり、その大なるは十間以上小なるも九尺五尺にあまる、大小数百千こと/″\しかくをなしてけずりたてたるごとく(かならずかくをなす事下にべんず)なるもの幾千丈の山の上より一崩頽くづれおつる、そのひゞき百千のいかづちをなし大木ををり大石をたふす。此時はかならず暴風はやて力をそへて粉にくだきたる沙礫こじやりのごとき雪をとばせ、白日も暗夜あんやの如くそのおそろしき事筆帋ひつしつくしがたし。此雪頽なだれいのちおとしし人、命をひろひし人、我が見聞みきゝしたるをつぎまきしるして暖国だんこくの人の話柄はなしのたねとす。
或人あるひととふていはく、雪のかたち六出むつかどなるはまえべんありてつまびらか也。雪頽なだれは雪のかたまりならん、くだけたるかたち雪の六出むつかどなる本形ほんけいをうしなひて方形かどだつはいかん。こたへいはく、地気天に変格へんかくして雪となるゆゑ天のまるきと地のかくなるとを併合あはせ六出むつかどをなす。六出りくしゆつ円形まろきかたちうら也。雪天陽てんやうはなれ降下ふりくだり地にかへれば天やうまろかたどりうせて地いんかくなる本形ほんけいかたどる、ゆゑに雪頽なだれは千も万も圭角かどだつ也。このなだれとけるはじめは角々かど/\まろくなる、これ陽火やうくわの日にてらさるゝゆゑ天のまろきによる也。陰中いんちゆうやうつゝみ、陽中やうちゆういんいだくは天地定理中ぢやうりちゆう定格ぢやうかく也。老子経らうしきやう第四十二しやういはく万物ばんぶつ陰而いんをおびてやうをいだく沖気以ちゆうきもつてくわをなすといへり。此を以てする時はお内義ないぎさまいつもお内義さまでは陰中いんちゆうに陽をいだかずして天理てんりかなはず、をり/\はをつとかはりて理屈りくつをいはざれば家内かないおさまらず、さればとて理屈りくつすぎ牝鳥めんどりときをつくれば、これも又家内の陰陽いんやう前後ぜんごして天理てんりたがふゆゑ家のほろぶるもと也。万物ばんぶつの天理しふべからざる事かくのごとしといひければ、問客とひしひと唯々いゝとしてりぬ。雪頽なだれこと/″\方形かどだつのみにもあらざれども十にして七八は方形をうしなはず、ゆゑに此せつくだせり。雪頽の多く方形にしたがふものは、其七八をとりて模様もやうなすすのみ。

北越雪譜初編巻之上 終
[#改丁]

北越雪譜初編 巻之中


越後塩沢  鈴木牧之  編撰
江戸    京山人百樹 刪定

○ 雪頽なだれ人にわざはひ


 わがすむ魚沼郡うをぬまこほりの内にて雪頽なだれため非命ひめいをなしたる事、其村の人のはなしをこゝにしるす。しかれども人の不祥ふしやうなれば人名じんめいつまびらかにせず。
○こゝに何村なにむらといふ所に家内の上下十人あまりの農人のうにんあり、主人あるじは五十歳ばかりつまは四十にたらず、世息せがれ二十はたちあまり娘は十八と十五也。いづれも孝子かうしきこえありけり。一年ひとゝせ二月のはじめ主人あるじは朝より用ある所へ出行いでゆきしが、其日もすでさるの頃なれどかへりきたらず。さのみひまをとるべき用にもあらざりければ、家内不審ふしんにおもひせがれ家僕かぼくをつれて其家にいたりちゝが事をたづねしに、こゝへはきたらずといふ。しからばこゝならんかしこならんなど家僕かぼくとはかりて尋求たづねもとめしかどさら音問おとづれをきかず、日もはやくれなんとすればむなしく家にかへりしか/\のよし母にかたりければ、こは心得こゝろえぬ事也とて心あたりの処こゝかしこへ人をはしらせてたづねさせけるにその在家ありかさらにしれず。其夜四更しかうころにいたれども主人あるじかへらず。此事近隣きんりんきこえて人々あつま種々さま/″\評議ひやうぎしてたるをりしも一老夫いちらうふきたりていふやう、あるじの見え給はぬとや、われこゝろあたりの事あるゆゑしらせ申さんとてきたれりといふ。すはこゝろあたりときゝて主人あるじつま大によろこび、子どもらもとも/″\に言葉ことばをそろへてまづ礼をのべ、その仔細しさいをたづねければ、老夫らうふいふやう、それがし今朝けさ西山にしやまたふげなかばにさしかゝらんとせし時、こゝのあるじに行逢ゆきあひ何方いづかたへとたづねければ稲倉いなくら村へゆくとて行過ゆきすぎ給ひぬ。我は宿やどかへり足にてはるか行過ゆきすぎたるころれい雪頽なだれおとをきゝて、これかならずかの山ならんとたふげ无事ぶじとほりしをよろこびしにつけ、こゝのあるじはふもとを无難ぶなん行過ゆきすぎ給ひしや、万一なだれにあひはし給はざりしかとあんじつゝ宿やどへかへりぬ。今にかへり給はぬはもしやなだれにといひてまゆしはめければ、親子は心あたりときゝてたのみし事もあんにたがひて、顔見あはせなみださしぐむばかり也。老夫らうふはこれを見てそこ/\に立かへりぬ。集居あつまりゐたる若人わかてどもこれをきゝて、さらばなだれの処にいたりてたづねみんたいまつこしらへよなど立騒たちさわぎければ、ひとりの老人らうじんがいふ、いな/\まづまち候へ、とほくたづねにゆきものもいまだかへらず、今にもその人とおなじくあるじのかへりたまはんもはかりがたし、雪頽なだれにうたれ給ふやうなる不覚人ふかくにんにはあらざるを、かの老奴おやぢめがいらざることをいひて親子おやこたちの心をくるしめたりといふに、親子はこれにはげまされて心慰こゝろひらけ酒肴しゆかうをいだして人々にすゝむ。これを見てみな打ゑみつゝ炉辺ろへん座列ゐならびて酒くみかはし、やゝ時うつりてとほはせたる者ども立かへりしに、行方ゆくへなほしれざりけり。
○かくて夜もあけければ、村の者どもはさら也きゝしほどの人々此家このいへあつまり来り、此上はとてに/\木鋤こすきもち家内の人々もあとにしたがひてかの老夫らうふがいひつるなだれの処にいたりけり。さて雪頽なだれを見るにさのみにはあらぬすこしのなだれなれば、みちふさぎたる事二十けんあまり雪の土手どてをなせり。よしやこゝに死たりともなだれの下をこゝぞとたづねんよすがもなければ、いかにやせんと人々佇立たゝずみたるなかに、かの老人らうじんよし/\所為しかたこそあれとて、わかものどもをつれちかき村にいたりて※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりをかりあつめ、雪頽なだれの上にはなちをあたえつゝおもふ処へあゆませけるに、一羽の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)羽たゝきして時ならぬに為晨ときをつくりければほかのにはとりもこゝにあつまりてこゑをあはせけり。こは水中すゐちゆう死骸しがいをもとむるじゆつなるを雪にもちひしは応変おうへんの才也しと、のち/\までも人々いひあへり。老人しゆうにむかひ、あるじはかならず此下にるべし、いざれほらんとて大勢一度に立かゝりて雪頽なだれくだきなどしてほりけるほどに、大なるあなをなして六七尺もほり入れしが目に見ゆるものさらになし。なほちからをつくしてほりけるに真白ましろなる雪のなかにそめたる雪にほりあて、すはやとてなほほり入れしに片腕かたうでちぎれてくびなき死骸しがいをほりいだし、やがてかひなはいでたれども首はいでず。こはいかにとてひろく穴にしたるなかをあちこちほりもとめてやう/\くびもいでたり、雪中にありしゆゑおもていけるがごとく也。さいぜんよりこゝにありつるつま子らこれを見るよりつまをつとくびかゝへ、子どもは死骸しがいにとりすがりこゑをあげてなきけり、人々もこのあはれさを見てそでをぬらさぬはなかりけり。かくてもあられねばつまたる羽織はおりをつとくびをつゝみてかゝへ、世息せがれ布子ぬのこぬぎて父の死骸しがいうでをそへてなみだながらにつゝみ脊負せおはんとする時、さいぜんはしりたるものども戸板といたむしろなどかたげる用意をなしきたり、つまがもちたるくびをもなきからにそへてかたげければ、人々前後ぜんごにつきそひ、つま子らはなく々あとにつきてかへりけるとぞ。此ものがたりは牧之ぼくしわかかりし時その事にあづかりたる人のかたりしまゝをしるせり。これのみならずなだれに命をうしなひし人なほおほかり、またなだれに家をおしつぶせし事もありき。そのおそろしさいはんかたなし。かの死骸しがいかしらかひな断離ちぎれたるは、なだれにうたれて磨断すりきられたる也。

農夫頓智借※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]圖

○ 寺の雪頽なだれ


 なだれはあへて山にもかぎらず、形状かたちみねをなしたる処は時としてなだるゝ事あり。文化のはじめ思川村おもひがはむら天昌寺てんしやうじ住職じゆうしよく執中和尚しつちゆうをせう牧之ぼくし伯父をぢ也。仲冬のすゑ此人居間ゐまの二階にて書案つくゑによりて物をかきてをられしが、まどひさしさがりたる垂氷つらゝの五六尺なるがあかりにさはりてつくゑのほとりくらきゆゑ、家ののきにいで家僕しもべが雪をほらんとてうちおきたる木鋤こすきをとり、かのつらゝをうちをらんとて一打うちけるに、此ひゞきにやありけん(里言につらゝをかなこほりといふ、たるひとは古言にもいふ)本堂につもりたる雪の片屋根磊々ぐら/\となだれおち、土蔵どざうのほとりに清水しみづがゝりの池ありしに、和尚なだれに押落おしおとされ池に入るべきを、なだれのいきほひに手鞠てまりのごとく池をもはねこえて掘揚ほりあげたる雪に半身はんしんうづめられ、あとさけびたるこゑに庫裏くりの雪をほりゐたるしもべらはせきたり、もちたる木鋤こすきにて和尚をほりいだしければ、和尚大にわらうちを見るにいさゝかきずうけず、みゝかけたる眼鏡めかねさへつゝがなく不思議ふしぎの命をたすかり給ひぬ。此時七十老僧らうそう也しが、まへにいへる何村なにむらの人の不幸ふかうくらぶれば万死に一生をえられたる天幸てんかうといひつべし。よはひも八十余まで无病むびやうにして文政のすゑに遷化せんげせられき。平日しめしていはれしは、我雪頽なだれうたれしとき筆をりてたりしは、たふと仏経ぶつきやうなりしゆゑたゞにやはとて一ごと念仏ねんぶつ申て書居かきをれり、しかるに雪頽なだれに死すべかりしを不思議ふしぎいのちたすかりしは一念仏ねんぶつ功徳くどくにてやありけん。されば人はつね神仏かみほとけ信心しん/″\して悪事あくじ災難さいなんまぬかれん事をいのるべし。神仏かみほとけしんずる心のうちより悪心はいでぬもの也。悪心のなき災難さいなんをのがるゝ第一也とをしへられき。今もなほみゝに残れり。人智じんちつくしてのちはからざる大難だいなんにあふは因果いんぐわのしからしむる処ならんか。人にははかりしりがたし。人家の雪頽なだれにも家をつぶせし事人の死たるなどあまた見聞みきゝしたれども、さのみはとてしるさず。

○ 玉山をうが雪の


 さきのとし玉山翁が梓行しかうせられし軍物語いくさものがたりの画本の中に、越後の雪中にたゝかひしといふあり。文には深雪みゆきとありて、しかも十二月の事なるに、ゑがきたる軍兵ぐんびやうどもが挙止ふるまひを見るに雪はあさく見ゆ。(越後の雪中馬足はたちがたし、ゆゑに農人すら雪中牛馬を用ひず、いわんや軍馬をや、しかるを馬上の戦ひにしるしたるは作者のあやまり也、したがふて画者もあやまれる也、雪あさき国の人の画作なれば雪の実地をしらざるはうべ也)越後雪中の真景しんけいには甚しくたがへり。しかしながらにはそらごともまじへざればそのさまあしきもあるべけれど、あまりにたがひたれば玉山の玉にきずあらんもをしければ、かねて書通しよつうまじはりにまかせて牧之がつたなき筆にて雪の真景しんけい種々かず/\うつし、なほつねに見ざる真景もがなと春のなかばわざ/\三国嶺みくにたふげにちかき法師嶺ほふしたふげのふもとに温泉をんせんやどりそのあたりの雪を見つるに、たかみねよりおろしたるなだれなどは、五七けんほどなる四角或は三角なる雪の長さは二三十けんもあらんとおもふが谷によこたはりたる上に、なほいくつとなく大小かさなりたるなど、雪国にうまれたる目にさへその奇観きくわんことばにはつくしがたし。これらの真景しんけいをも其座そのざにうつしとりたるをそへおくりしに、玉山翁が返書へんしよに、北越ほくゑつの雪机上きしやうにふりかゝるがごとく目をおどろかし候、これらのをなほ多くあつめ文をそへさせ私筆にてれい絵本ゑほんとなし候はゞ、其しよ雪の霏々ひゝたるがごとく諸国しよこくふらさん事筆下ひつかりといはれたる書翰しよかん、今猶牧之ぼくし書笈しよきふにをさめあり。此書このしよならずしてなるいづみに玉山をしづめしはをしむべし/\。

○ 越後ちゞみ

(ちゞみの文字普通ふつう俗用ぞくようにしたがふ又しゞみとよむべきをもちゞみと俗にならふ)

 縮は越後の名産めいさんにしてあまねく世の知る処なれど、他国たこくの人は越後一国の産物さんぶつとおもふめれど、さにあらず、我住わがすむ魚沼郡うをぬまこほりぐんにかぎれる産物さんぶつ也。他所たしよいづるもあれどわづかにして、其しな魚沼には比しがたし。そも/\ちゞみとなふるは近来きんらいの事にて、むかしは此国にてもぬのとのみいへり。布はにてる物の総名そうみやうなればなるべし。今も我があたりにて老女らうぢよなど今日けふは布を市にもてゆけなどやうにいひて古言こげんものこれり。東鑑あづまかゞみあんずるに、建久三壬子の年勅使ちよくし皈洛きらくの時、鎌倉殿かまくらどのより餞別せんべつの事をいへるくだり越布ゑつふたんとあり。なほ古きものにも見ゆべけれど、さのみはもとめず。のちのものには室町殿むろまちどの営中えいちゆうの事どもを記録きろくせられたる伊勢家のしよには越後ぬのといふ事あまた見えたり。さればむかしよりちゞみは此国の名産めいさんたりし事あきらけし。あんずるに、むかしの越後布は布の上ひんなる物なりしを、後々のち/\次第しだいたくみそへて糸によりをつよくかけてあせしのため※(「糸+芻」、第4水準2-84-49)しゞまおりたるならん。ゆゑに※(「糸+芻」、第4水準2-84-49)しゞみぬのといひたるを、はぶきてちゞみとのみいひつらん。かくてとしるほどに猶たくみになりて、地をうつくしくせんとて今のごとくちゞみは名のみにのこりしならん。我がおさなかりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様もやうるなどにしきをおる機作はたどりにもをさ/\おとらず、いかやうなるむづかしき模様もやうをもおり、しま飛白かすりも甚上手になりて種々しゆ/″\奇工きかうをいだせり。機織婦人はたおるをんなたちの怜悧かしこくなりたるゆゑぞかし。

○ ちゞみ種類しゆるゐ


 魚沼郡の内にて縮をいだす事一様ならず、村によりていだしなにさだめあり。こはおのづからむかしより其しなにのみ熟練じゆくれんしてほかしなうつらざるゆゑ也。其所その品をいだす事左のごとし。
▲白縮はほりの内町ざいの村々(これを堀の内組といふ)浦佐うらさ小出嶋こでじま組の村々 ▲模様もやうるゐあるひ飛白かすりいはゆる藍錆あゐさびといふは塩沢しほざは組の村々 ▲藍※あゐじま[#「糸+駸のつくり」、U+7D85、72-7]は六日町組の村々 ▲紅桔梗縞べにききやうしまのるゐは小千谷をぢや組の村々 ▲浅黄繊あさぎじまのるゐは十日町組の村々也。又こん弁慶縞べんけいじま高柳郷たかやなぎごうにかぎれり。右いづれも魚沼うをぬまぐんの村々也。此ちゞみをいだす所二三ヶ村あれど、もつはらにせざればしばらくおきてしるさず。縮は右村里の婦女ふぢよらが雪中にこもあひだ手業てわざ也。およそは来年らいねんうるべきちゞみをことしの十月より糸をうみはじめてつぎの年二月なかばにさらしをはる。白縮はうち見たる所はおりやすきやうなれば、たゞ人はあやあるものほどにはおもはざれども、手練しゆれんはよく見ゆるもの也。村々の婦女ふぢよたちがちゞみに丹精たんせいつくす事なか/\小さつにはつくしがたし。其あらましを下にしるせり。

○ 


 縮にもちふるは、※(「刀/(刀+刀)」、第3水準1-14-61)あうしう会津あひづ出羽最上ではもがみさんを用ふ。白縮はもつはら会津を用ふ。なかんづく影紵かげそといふもの極品ごくひん也、また米沢の撰紵えりそしようするも上品也。越後の紵商人をあきんどかの国々にいたりてをもとめて国にる、を此国にてもといふは古言こげん也。あさを古言にといひしは綜麻へそのるゐ也。あさ字義じぎはおなじくぬのおるべきれうの糸をいふ也。つくるはぞく也と字書じしよに見えたり。

○ 紵績をうみ


 一年ひとゝせ江戸に旅宿りよしゆくせしころ或人あるひといふやう、ちゞみに用ふるうむにはその処の婦人ふじんさそひあはせて一家にあつまり、その家にて用ふるうみたて此人々たがひにその家をめぐりてうむきゝしがいかにといひき。いかなる人ぞかゝる空言そらことをばいひふらしけん。さりながら魚沼うをぬまぐんひろき事ゆゑ、右やうにする処もあるやらん。たとひありとも、こは下品のちゞみに用ふるの事ならん。下品げひんの縮の事は姑舎しばらくおいろんぜず。中品ちゆうひん以上に用ふるをうむにはうむところをさだめおき、たいを正しくなし呼吸こきふにつれてはたらかせて為作わざをなす。定座ぢやうざらず、かりて其為作わざをなせば、おのづから心しづまらずして糸に太細ふとほそいできて用にたちがたし。常並つねなみの人のうむには唾液つばしるを用ふれども、ちゞみの紵績をうみには茶碗ちやわんやうの物に水をたくはひてこれをもちふ。事毎ことごとてあらひ座をきよめてこれをなすなり。

○ 縷綸いとによる


 糸に作るにも座を定めたい囲位かたむる事うむにおなじ。縷綸いとによるその道具その手術てわざその次第しだいじゆん、その名に呼物よぶもの許多いろ/\種々さま/″\あり、繁細はんさいの事をつまびらかにせんはくだ/\しければいはず。そも/\うみはじむるよりおりをはるまでの手作てわざすべて雪中にあり、上ひんに用ふる処の毛よりもほそき糸を綴兆しゞめたり舒疾のべたりしてあつかふ事、雪中にこも天然てんねん湿気しめりけざればがたし。湿気しめりけうしなへば糸をれる事あり。をれしところちからよわりきれる事あり、是故このゆゑに上品の糸をあつかふ所はつよ火気くわき近付ちかづけず、時によりるにおくれて二月のなかばにいたり、暖気だんきを得て雪中の湿気しつきうすき時は大なるはちやうの物に雪をもりはたまえおき、その湿気しつきをかりて織る事もあり。これらの事につき熟思つら/\おもふに、きぬおるにはかひこいとゆゑ※(「こざとへん+日」、第4水準2-91-63)やうねつこのみぬのを織にはあさの糸ゆゑ※(「こざとへん+月」、第4水準2-91-64)いんれいこのむ。さてきぬは寒に用ひてあたゝかならしめ、布はしよに用てひやゝかならしむ。天然てんねん※(「こざとへん+月」、第4水準2-91-64)※(「こざとへん+日」、第4水準2-91-63)いんやう気運きうんしよくする所ならんか。くだんごとく雪中に糸となし、雪中にり、雪水にそゝぎ、雪上に※(「日+麗」、第4水準2-14-21)さらす。雪ありてちゞみあり、されば越後縮は雪と人と気力きりよく相半あひなかばして名産めいさんの名あり。魚沼郡うをぬまこほりの雪はちゞみおやといふべし。けだ薄雪はくせつの地にぬの名産めいさんあるよしは糸のつくりによる事也。越後縮にくらべてるべし。

○ 織婦はたおりをんな


 およそ織物おりもの専業せんげふとする所にては、織人はたおりかゝへおきておらするを利とす。ちゞみにおいてはべつき一国の名産なれども、織婦はたおりをんなかゝへおきておらする家なし。これいかんとなれば縮を一たんになすまでに人のらうする事かぞへつくしがたし。なか/\手間てま賃銭ちんせんあて算量つもる事にはあらず、雪中に籠居こもりをる婦女等ふぢよらむなしくせざるのみの活業いとなみ也。ちゞみの糸四十※(「糸+委」、第3水準1-90-11)すぢ一升ひとよみといふ。上々のちゞみは経糸たていと二十よみより二十三よみにもいたる。但しをさには二すぢづゝとほすゆゑ、一升の糸は八十※(「糸+委」、第3水準1-90-11)すぢ也。布幅ぬのはゞ四方に緯糸よこいともこれにしたがふてあはせざれば地をなさず。(よこ糸は猶多からんか、たしかにはさとさず)さればわづかに一尺あまりをるにも九百二十たび手をはたらかす。こゝを以て一たんを二丈七尺としても二万四千四百八十四度*5手をはたらかせざればたんをなさず、其凡そのおよそをいふのみ。(ちゞみはくぢらざし三丈を定尺とす)うみはじむるよりおりおろし※(「日+麗」、第4水準2-14-21)さらしあげてたんになすまでの苦心労繁くしんらうはんおもひはかるべし。ちゞみのみにはかぎらず織物おりものはすべてしかならんが、目前もくぜんみるところなればいふ也。かゝる縮をわづかあたひにて自在じざい着用ちやくようするはぞくにいふ安いもの也。縮をおる処のものはよめをえらぶにも縮のわざを第一とし、容儀ようぎつぎとす。このゆゑに親たるものは娘のおさなきより此わざ手習てならはするを第一とす。十二三歳より太布ふとぬのをおりならはす、およそ十五六より二十四五歳までの女気力きりよくさかんなるころにあらざれば上ひんの縮は機工きかうよくせず、おいのぞんでは綺面はたづら光沢つやなくして品質しながらくだりて見ゆ。貴重きちよう尊用そんようはさら也、極品ごくひん誂物あつらへものは其しなよくじゆくしたる上手をえらび、何方いづく誰々たれ/\ゆびにをらるゝゆゑ、そのかずに入らばやとて各々おの/\わざはげむ事也。かゝる辛苦しんくわづかあたひため他人たにんにする辛苦しんく也。たう秦韜玉しんたうぎよく村女そんぢよに、もつともうらむは年々ねん/\金線きんせんつくらふ他人たにんためよめいり衣装いしやうつくるといひしはむべなる哉々々かな/\/\

御機の霊威織女發狂の圖

○ 織婦はたおりをんな発狂きちがひ


 ひとゝせある村の娘、はじめて上々のちゞみをあつらへられしゆゑ大によろこび、金匁きんせんろんぜず、ことさらに手際てぎはをみせて名をとらばやとて、うみはじめより人の手をからず、丹精たんせい日数ひかずて見事に織おろしたるを、さらしやより母が持きたりしときゝて、娘ははやく見たく物をしかけたるをもうちおきてひらき見れば、いかにしてかぜにほどなるすゝいろのしみあるをみて、かゝさまいかにせんかなしやとてちゞみかほにあてゝ哭倒なきたふれけるが、これより発狂きちがひとなり、さま/″\の浪言らうげんをのゝしりて家内かないくるひはしるを見て、両親ふたおや娘が丹精たんせいしたる心の内をおもひやりてなきになきけり。見る人々もあはれがりてみな袖をぬらしけるとぞ。友人いうじんなにがしがものがたりせり。

○ 御機屋おはたや


 貴重尊用きちようそんようの縮をおるには、家のほとりにつもりし雪をもその心してほりすて、住居すまゐの内にてなるたけけふりの入らぬあかりもよき一間ひとまをよく/\きよめ、あたらしきむしろをしきならべ四方に注連しめをひきわたし、その中央ちゆうあうはたたつる、これ御機屋おはたやとなへてかみいますがごとく畏尊おそれうやまひ、織人おりてほか他人を入れず、織女おるをんな別火べつくわしよくし、御機おはたにかゝる時は衣服をあらため、塩垢離しほこりをとり、てあらひくちそゝぎこと/″\くきよむ、日毎ひごとにかくのごとし。紅潮つきのさはりをいむ事は勿論もちろん也。の娘らなど今日けふたれどのゝ御機屋おはたやをがみにまゐるなどやうにいふ也。至極しごく上手の女にあらざれば此おはたやをたつる事なければ、婦女ふぢよらがこれをうらやむ事、比諭たとへ階下かいかにありて昇殿しようでんくらゐをうらやむがごとし。

○ 御機屋おはたや霊威れいゐ


 神はうやまふによりてをますとはむべなるかな。かりそめの物もまもりとしてうやましんずればれいある事むなしからず、人のはきすてたる草鞋わらんづだに衆人しゆうじんしんぜしによりて、のち/\は草鞋天王そうあいてんわうとてまつりし事、五雑組ござつそに見えたり。ましてや神々しきをうやまへ霊威れいゐある冥々めい/\天道てんだうは人の知を以てはかりしるべからず。こゝに或村あるむらの娘、れいの御はたやにありて心をすまし、おはたをおりてたりしに、かたはらまどをほと/\とおとなふものあり、心にそれとおぼへあれば立よりてひらき見るに、はたして心をかよはす男也。をりふし人目のせきもなかりしかば、心うれしくおはたやをいでゝ家のうしろにいたり、まどのもとに立たる男を木小屋きこやに入ぬ。やがて娘の母かへり来りおはたやに娘のをらぬを見ていぶかり、しきりにその名をよびければ、かの木小屋にきゝつけて遽驚あはておどろき男は逃去にげさり、娘はこころ顛倒てんだうしてけがしたるも打忘うちわすれおはたやにかけ入り、そのまゝ御機おはたによりておらんとしけるに、倏急たちまち仰向あふむきたふおちはき絶入たえいりけり。母此状態ありさまを見て大におどろきはしりよりてたすおこし、まづ御はたやよりいだしさま/″\にいたはりしが、気息いきあるのみにてしたるがごとし。父は同村のなにがしが家に在しをよびかへし、をまねきてくすりなどあたへしがそのしるしもなく、両親ふたおやはさら也、あたりよりはせよりしものどもゝ娘のそばありてなみださしぐみつゝつかねまつのみ也。しかるにひとりの男来り、さもはぢらふさまにて人のうしろ欲言ものいはんとしていはず、かしらたれなみだをおとしけり、人々これをみれば同村おなじむらなにがし次男じなん也けり。此男やがてひざをすゝめ娘の母にむかこゑをひそめていふやう、今はなにをかつゝみ申さん、われ娘御むすめごと二世の約束やくそくをしたるもの也。さきのほど人なきを見てむすめごをさそひいだししに、おん身のかへり給ひしこゑにおそれわれはにげさりしが、むすめごがかゝるわざはひありしときゝてつら/\思ふに、けがしたる身をわすれてかしこきおんはたにかゝり給ひたる御ばつならん。これもとわがなしたるつみなれば、人はしらずとも余処目よそめに見んはそらおそろしく、命をかけてちぎりたることばにもたがへりとおもふから、むすめごのいのちかはりて神に御ばつわび候はん。さるにても此まゝにてむすめごがうせ給はゞ我が命をめされ候へ、こゝにをられ候人々こそよき証人しようにんなれといひつゝ、赤裸あかはだかになりてかみをもさばき井のもとにはしりよりしたゝかに水をあび、雪の上に蹲居うづくまりゐてなにやらんとなへていのりけり。時しも寒気かんきはだへつらぬくをりふしなれば、こゞえすべきありさま也。ふたおやはさら也人々もはじめてそれと知り、にもとてみな/\おなじく水をあびていのりけり。神明かの男が実心まごゝろあはれみ、人々のいのりをも納受なふじゆまし/\けん、かの娘目のさめたるがごとくおきあがり母をよびければ、みな奇異きゐのおもひをなし、むすめのそばにあつまりていかに/\といふ。娘はかゝるやうを見てこはなに事ぞといふ。母はうれしくしか/\のよしいひければ、むすめは御機おはたによりしとはおぼえしがのちはしらずといふ。母はあまりのうれしさにかの男にもあはせんとせしに、いつか立さりけん見えずなりぬ。かくて娘四五日はなやみしがやがて常並つねなみになりけり。としも十七なればかねてむこをと思ひをりたるをりからなれば、かのしのび男が実心まごゝろめで早速さつそくなかだちはしをわたし、姻礼こんれいもめでたくとゝのひてほどなく男子をまうけけり。其家そのいへなほさかゆ。神の御ばつ夫婦ふうふえんとなりしも奇遇きぐうといふべし。こは我がをさなかりし時の事也き、筆のついでにしるして御機屋おはたや霊威れいゐある事をわかふどにしらしむ。あなかしこ。おそるべし、つゝしむべし。

雪中晒縮圖

○ ちゞみ※(「日+麗」、第4水準2-14-21)さら


 ※(「日+麗」、第4水準2-14-21)さらしやとてこれをのみわざとす、又おりたる家にてさらすもあれどまれなり。さらしやはその家のほとりほどよき所を見立、そこに仮小屋かりこやつくり物をもおき、また休息きうそくの処とす。晒人さらしては男女ともうちまじり身をきよめる事織女おりめごとくす。さらすは正月より二月ちゆう為業しわざ也。此頃はいまだはた平一面ひらいちめんの雪の上なれば、たはたの上をさらし場とするもあり、日の内にさらしふみへしたる処あれば、手頃てごろいたをつけたる物にて雪の上をたひらかにならしおく也。かくせざればうちしみつきてふみへしたる処そのまゝ岩のごとくになるゆゑ也。晒場さらしばには一てんちりもあらせざれば、白砂しろすな塩浜しほばまのごとし。さて白ちゞみはおりおろしたるまゝをさらす、のちゞみは糸につくりたるをかせにかけてさらす。そのかせとはほそき丸竹を三四尺ほどの弓になしてそのつるに糸をかけ、かせながら竿さをにかけわたしてさらす也。白ちゞみは平地の雪の上にもさらし、又高さ三尺あまり長さは布ほどになし、横幅よこはゞは勝手にまかせ土手のやうに雪にてつくり、その上にちゞみをのばしならべてさらすもあり、かくせざればいぬなど蹈越ふみこえてちゞみをけがすゆゑ也。こゝにかせをならべてさらしもする也。みなその場所ばしよ便利べんりにしたがふゆゑ一定いちぢやうならず。さてさらしやうはちゞみにもあれ糸にもあれ、一夜灰汁あくひたしおき、あけあした幾度いくたびも水にあらしぼりあげてまへのごとくさらす也。 貴重尊用きちようそんようちゞみをさらすはこれらとはおなじくせず、別にさらし場をもうけ、よろづに心を用ひてさらす事御はたをおるに同じ。我国わがくににては地中の水気すゐき雪のために発動うごかざるにや、雪中には雨まれ也、春はことさら也。それゆゑくだんのごとく日にさらすはれのつゞく事あり。さて灰汁あくにひたしてはさらす事、毎日まいにちおなじ事をなして幾日をて白々をなしたるのちさらしをはる。やがてさらしをはらんとする白ちゞみをさらすをりから、朝日のあか/\とさしのぼり玉屑平上ぎよくせつへいしやうつらねたる水晶白布すゐしやうはくふ紅映こうえいしたる景色けしき、ものにたとへがたし。かゝる光景ありさまは雪にまれなるだん国の風雅人ふうがじんに見せたくぞおもはるゝ。およそちゞみをさらすには種々しゆ/″\所為しわざあれども、こゝには其大略たいりやくをしるすのみ。

○ ちゞみいち


 市場いちばとてちゞみの市あるは、まへにいへる堀の内十日町小千谷をぢや塩沢しほざはの四ヶ所也。初市はついち里言りげんすだれあきといふ。雪がこひのすだれあくをいふ也、四月のはじめにあり。堀の内よりはじむ、次に小千谷、次に十日町、次に塩沢しほざは、いづれも三日づゝあひおきてあり。(年によりて一定ならず)右四ヶ所の外には市場なし。十日町には三都さんと呉服問屋ごふくとひやの定宿ありて縮をこゝにかふ。市日には遠近ゑんきんの村々より男女をいはず所持しよぢのちゞみに名所などころしるしたる紙簽かみふだをつけて市場に持より、そのしな買人かひてに見せて売買うりかひ直段ねだんさだまれば鑑符きつてをわたし、その日市はてゝかねふ。およそ半年はんとしあまり縮の事に辛苦しんくしたるは此初市のためなれば、縮売ちゞみうりはさら也、こゝにあつまるもの人のなみをうたせ、足々あし/\ふまれ、肩々かた/\る。よろづ品々しな/″\もこゝにみせをかまへ物をる。とほく来りたるものは宿をもとむるもあれば、家毎いへごとに人つどひ、香具師かうぐし看物みせもの薬売くすりうり弁舌べんぜつ、人の足をとゞめてきりたつべき所もあらぬやう也。此初市の日は繁花はんくわの地の※(「操のつくり」、第4水準2-4-19)にぎはひにもをさ/\おとらず。(右にいふ四度の市をはりてのちも在々より毎日問屋へ来りてちゞみをうる、又ちゞみ仲買のもの在々にいたりてもかふ也、六月十五日迄を夏ちゞみといひ十七日より翌年の初市までを冬ちゞみといふ)ちゞみ精疎よしあしくらゐを一番二番といふ。あたひ高下かうげおよそはさだめあれども、その年々とし/″\によりてすこしづゝのたがひあり。市の日にその相場年の気運きうんにつれて自然おのづからさだまる。相場さうばよければ三ばんのちゞみ二ばんにのぼり、二ばんは一ばんにくらゐす。まへにもいへるごとくちゞみは手間賃てまちんろんぜざるものゆゑ、がおりたるちゞみは初市に何程なにほどうりたり、よほど手があがりたりなどいはるゝをほまれとし、あるひはそのわざによりてよめにもらはんといはるゝ娘もあれば、利をつぎにして名をあらそふ。このゆゑに市にちゞみを持ゆくは兵士へいし戦場せんじやうにむかふがごとし。さてちゞみの相場は大やうは穀相場こくさうばにおなじうして事は前後ぜんごす。としきようすればこくは上りちゞみは下る。年ゆたかなればちゞみは上りこくは下る。豊凶はうきようの万物にかゝる事此一を以て知るべし。されば万民豊年はうねんをいのらざらめや。

○ ほふら


 わが塩沢しほざは方言はうげんほふらといふは雪頽なだれなるもの也、十二月の前後ぜんごにあるもの也。高山たかやまの雪ふかつもりてこほりたる上へなほ雪ふかくかさなり、時の気運きうんによりていまだこほらで沫々あわ/\しきが、山のいたゞきの大木につもりたる雪、風などの為に一塊ひとかたまえだよりおちしが山のそびえしたがひてまろくだり、まろびながら雪をまろめ次第しだいに大をなし、幾万斤いくまんきんの重きをなしたるもの幾丈いくぢやうの大石をまろばはしらすがごとく、これが為にあわ/\しき雪おしせかれて雪の洪波つなみをなして大木を根こぎになし、大石をもおしおとし人家をもおしつぶす事しば/\あり。此時はかならず暴風はやて雪をきちらし、凍雲とううんそらしき白昼はくちう立地たちどころ暗夜あんやとなる事雪頽なだれにおなじ。なだれは前にもいへるごとく、すこしはそのしるしもあればそれとしるめれど、此ほふらはおとづれもなくて落下るゆゑ、不意ふいをうたれてにげんとすればやはらかなる雪深くてはしりがたく、十人にして一人助るはまれ也。幾十丈の雪人力を以てることならざれば、三四月にいたり雪きえてのち死骸しがいを見る事あり。ほふらを処によりて、○をほてわやあわははたりともいふ。山家にてはなだれほふらをさけんため其わざはひなき地理をはかりて家を作る。ほふらに村などつぶれたる奇談きだんとしごろきゝたるがあまたあれど、うるさければしるさず。

○ 雪中花水祝はなみづいは


 魚沼郡の内宇賀地うがちきやうほりの内の鎮守ちんじゆ宇賀地の神社じんじやは本社八幡宮也、上古より立せ給ふとぞ。縁起文えんぎぶんおほければこゝにはぶく。霊験れいげんあらたなる事はあまねく世にしる処なり。神主かんぬし宮氏の家に貞和ぢやうわ文明ぶんめいの頃の記録きろく今にそんせり。当主たうしゆ文雅ぶんがこのみ吟詠ぎんえいにもとめり、雅名がめい正樹まさきといふ。同好どうこうを以てまじはりおさむ。幣下へいしたとなふ社家しやけ諸方しよはうにあまたある大社也。此かみの氏子、堀の内にてよめをむかへ又はむこをとりたるにも、神勅しんちよくとてむこに水をたまはる、これを花水祝はなみづいはひといふ。毎年正月十五日の※(「古/又」、第4水準2-3-61)じんじ也。新婚しんこんありつる家毎いへごと神使じんしを給はるゆゑ、かどおほき時は早朝よりして黄昏たそがれにいたる時もあり。友人いうじん※(「口+(黨−尚)」、第4水準2-4-36)斎翁ぼくさいをういはく(堀の内の人、宮治兵衛)花水祝ひといふ事は淡路宮あはぢのみや瑞井みづゐ井中ゐちゆう多遅花たちばなおちたるさちありし事の日本紀に見えたるに濫觴らんしやうして、花水のがうこゝに起立おこれるにやといはれき。されば新婚しんこんむこに神水をそゝぐ当社たうしや神秘しんひとぞ。さて当日新婚しんこんありつる家に、神使じんしたるべき人は百姓の内旧家きうか門地のともがら神使をつとむべき家定めあり、その中にて服忌ぶくきはさら也、やもめなるもの、家内に病人あるもの、縁類えんるゐ不祥ふしやうありしもの、みなのぞきていさゝかも家内に故障さゝはりなく平安無事ぶじなる者をえらび、※(「古/又」、第4水準2-3-61)じんじの前のあけ神主沐浴斎戒もくよくさいかい斎服さいふくをつけて本社にのぼり、えらびたる人々の名をしるして御鬮みくじにあげ、神慮しんりよまかせて神使とす。神使にあたりたる人潔斎けつさいして役をつとむ。これを大夫といふ。※(「口+(黨−尚)」、第4水準2-4-36)斎翁曰、これすなはち浄行じやうぎやう神人也といへり、大夫とは俚言の称也)さて当日(正月十五日)神使本社じんしほんしやいづるその行装ぎやうさうは、先挾箱さきはさみばこ二本道具台だうぐだい笠立かさたてかさ弓二張薙刀なぎなた神使侍烏帽子さむらひえばうし素襖すあう、次に太刀持長柄持傘さしかくる供侍二人草履取ざうりとり跡鎗あとやり一本、(これらの品々神庫じんこにあるものを用ふ)次に氏子の人々大勢麻上下にてしたがふ。かゝる行装ぎやうさうにて新婚しんこんの家にいたるゆゑ、その以前雪中の道を作り、雪にて山みちのやうなる所は雪を石壇いしだんのやうにつくり、あるひは雪にてさんじきめく処を作りて見物のたよりとす。これらにもあまたの人夫をつひやす事也。さてその家にては家内をよく/\清め、わきて其日正殿でんととなふる一塩垢離しほこりにきよめこゝを神使じんしせきとし、綵筵はなむしろしきならべ上座に毛氈まうせんをしき、上段のかたどり刀掛をおく。次の間には親族しんぞくはさら也、したしき人々より祝義のおくり物をならべおく。嶋台などに賀咏をそへたるなどおのがさま/″\也。かどにはまくをうち、よきほどの処をしぼりあげてこゝに沓脱くつぬぎだんをおき、玄関式台げんくわんしきだいなぞらふ。家内のものいづれも衣服いふくをあらため神使じんしをまつ、神使いたるときけば、親あるものは親子麻上下にて地上にいでて神使をむかふ。神使のざうりとりさきにはせきたりて跋扈ふみはだかり、大こゑにて正一位三社宮さんじやのみや使者ししや大呼よばゝる。神使を見て亭主ていしゆ地上に平伏し、神使を引てかの正殿に座さしむ、行列ぎやうれつは家の左右にありてたいをなす。さて神使へ烟盆たばこぼん茶吸物膳部をいだし、数献すこんをすゝむ。あらためてむこに盃をあたふ、(三方かはらけ)肴をはさむ、献酬とりやりこんをかぎる、盃ごとに祝義の小うたひをうたふ。ことをはりて神使じんしる。他に新姻ありし家あれば又いた式前しきまへのごとし。此神使はかの花水をたまふ事を神より氏子へのり給ふの使つかひ也。(神使社頭へ皈る時里正まちしやうやの家に立より酒肴のまうけあり)神使社内へかへりしを見てをどりの行列ぎやうれつくりいだす。一番に傘矛かさぼこ錦のみづひきをかけめぐらはしすゞをつけ、又裁工きれさいくの物さま/″\なるをさげる、傘矛かさぼこの上には諫鼓を飾る。これを持もの二人むらさきちりめんにてほゝをつゝみてむすびたれ、おなじ紅絞などを片襷※(「ころもへん+畢」、第4水準2-88-32)かたたすきにかくる。※(「口+(黨−尚)」、第4水準2-4-36)ぼくさいいはく、すべて祭礼に用ふる傘矛かさぼこといへる物はいにし羽葆葢うほかいの字をよめり、所謂いはゆるさんにして(きぬかさとよむ)神輿鳳輦しんよほうれんおほたてまつるべき錦蓋きんかい也といへり。なほせつありしが長ければはぶく。さて二ばんに仮面めんをあてゝ鈿女うずめいでたちたる者一人、はうきのさきに紙に※(「こざとへん+月」、第4水準2-91-64)ぢよいんをゑがきたるをつけてかたぐ。次にこれも仮面めんにて猿田彦に扮たるもの一人、麻にて作りたる幌帽ほろばうしやうの物をかむり、手杵てきねのさきを赤くなして男根なんこん表示かたどりたるをかたぐ。三ばんに法服はふふく美々びゝしくかざりたる山伏ほらをふく。四ばんに小児の警固けいごおもひ/\身をかざりてしたがふ。次に大人の警固けいご麻上下つゑを持て非常ひじやうをいましむ。五ばんにをどりの者大勢花やかなる浴衣ゆかた(正月なれど人勢に※(「操のつくり」、第4水準2-4-19)あつくてゆかた也)色ある細帯ほそおびをなし群行むらがりゆく里言りげんにこれをごうりんしやうといふ、こは降臨象こうりんしやうなるべし。皇孫日向の高千穂たかちほの峯に天降あまくだり給ひしにかたど[#「象」の左に「シヤウ」の注記]るの心ならんと※(「口+(黨−尚)」、第4水準2-4-36)翁いへり。なほせつありしがはぶく。さてむこの方にては此をどり場をもわがいへのまへにまうけおき、あたらしきむしろをしき、あたらしき手桶二ツに水をくみいれ、松葉と昆布こんぶとを水引にてむすびつけ、むしろの上におき銚子盃をそへおく。水とりとてむこに水をあぶする者二人、副取そへとりといふもの二人、おの/\たすきひきゆひりゝしげにいでたつ。むこはゆかた細帯にてをどりのきたるをまつ。をどり家にちかづけば行列ぎやうれつひらきて、踊人をどりてかのむしろのめぐりにむらがりてうたひつゝをどる。その唱哥しやうかに ※(歌記号、1-3-28)めでた/\の若松さまは枝も栄ゆる葉も茂る ※(歌記号、1-3-28)さんやめでたい花水さんやせなにあびせんわがせな夫男に」をりかへし/\しやうがをかえてうたひをどる。ことなれたるをどりのけいご、かの水とりらもそのほどを見てむこに三こんいははせ、かの手桶の水を二人して左右よりむこかしらたきのごとくあぶせかくる。これを見て衆人みな/\抃躍てをうちてめでたし/\といはふ。むこはそのまゝわがいへにはせ入り、をどりはなほ家にもおし入りてをどりうたふ事七八へんにしてどろ/\と立さり、ふたゝびはじめのごとくれつをなして他の壻の家にいたる。ことはてゝもをどりは宿役しゆくやくの家さてはよしみあるものゝいへにも入りてをどりありく也。田舎ゐなかはものをる事まれなれば、此日は遠近の老若男女これを見んとて蟻のごとくあつまり、おしこりたちて※(「操のつくり」、第4水準2-4-19)ねつそうする事筆下ふでつくしがたし。

花水祝浴水畧圖

あんずるに、むこに水をそゝぐ事は、男の※(「こざとへん+日」、第4水準2-91-63)やうくわに女の※(「こざとへん+月」、第4水準2-91-64)いんの水をあぶせて子をあらしむるの咒事まじなひにて、つまの火をとむるといふ祝事しゆくじ也。此事室町殿の頃武家の俗習ぞくしふよりおこりて、農商もこれにならひてやゝおこなはれし事物に見えたり。(貝原先生の歳時記には松永弾正が婚事より起るといへり)江戸にては宝永の頃までも世上一同正月十五日の事とし、祝義のやうになりて大に流行はやりしゆゑ、むこうらみある者事を水祝ひによせてさま/″\の狼籍らうぜきをなす人もまゝありて、人の死亡しばうにもおよびし事しば/\なりしゆゑ、正徳の頃国禁こくきんありて事たえたり。くわしくはむかし/\物語といふものに見えたり。(国初以来の事を記たる写本、元禄中をさかりにへたる人の老ての作なり)くだんの花水祝ひは神秘じんひあれば別にゆゑよしもあるべし。あなかしこ。雪のついでにその大略を記して好古家かうこか談柄だんへいするのみ。

○ 菱山ひしやま奇事きじ


 越後の頸城郡くびきこほり松の山は一庄いつしやう総名そうみやうにて、許多あまた村落むら併合あはしたる大庄也。いづれも山あひ村落むら/\にして一村の内といへども平地なし。たゞ松代といふ所のみ平地にて、農家のうかのきつらぬ。そと百番のうたひに見えし松山かゞみといふも此地也。そのうたひにある鏡が池の古跡こせきもこゝにあり、今は池にもあらぬやうにうづもれたれど、そのあととてのこれり。あんずるに、松山かゞみのうたひは鏡わり絵巻ゑまきといふものをもととしてつくれるならん、此ゑまきにも右の松の山の事見えたり。さて松の山の庄内に菱山といふあり、山の形三角なるゆゑの名なるべし。山にちかき処に須川すかは(川によりて名づく)菖蒲しやうぶ村といふあり。此ひし山、毎年二月に入り夜中にかぎりて雪頽なだれあり、其ひゞき一二里にきこゆ。つたへていふ、白髪はくはつ老翁らうをうへいをもちてなだれにくだるといふ。また此なだれ須川村の方へ二十町余の処真直まつすぐつき下す年は豊作ほうさく也、菖蒲村の方へなゝめにくだす年は凶作きやうさく也。其験そのしるしすこしたがふ事なし。とし豊凶ほうきやう雪頽なだれかゝる事此山にのみかぎるも一奇事いつきじといふべし。
 ちなみにいふ、旧友きういう寺泊てらとまりすむ丸山氏の(医家)祖父そふ博学はくがくきこえありし人なりき。余二十年前丸山氏の家に※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)いうきようをとゞめし時、祖父が宝暦の頃の著述ちよじゆつ也とて、越後名寄なよせといふしよを見せられしに、三百巻自筆じひつ写本しやほん也。名寄とはあれど越後の風土記ふどきなり。一国の神社仏閣じんじやぶつかく名所旧跡めいしよきうせき山川地理さんせんちり人物じんぶつ国産薬品こくさんやくひんるゐまでも、わけをいだして通暁さとしやすくしたる精撰せいせん也。此しよに右菱山ひしやませつほゞ見えたれど、さのみはとて引ず。菱山ひしやまの事をいふにつきて此書の事をおもひいだせしが、かゝる精撰大成せいせんたいせいしよむなしく秘笈ひきうにありてにしられざるがをしければこゝにいへり。

○ 秋山あきやま古風こふう


 信濃と越後の国境くにさかいに秋山といふ処あり、大秋山村といふを根元こんげんとして十五ヶ村をなべて秋山とよぶ也。秋山の中央ちゆうあう中津川なかつかはといふありて、(すゑは魚沼郡妻有つまありの庄をながれて千くま川に入る川也)川の東西に十五ヶ村あり。東の方に在る村は(●印は越後にぞくす▲印は信濃にぞくす) ●清水川原しみづかはら(人家二軒あり、しかれども村の名によぶ) ●三倉みくら(人家三軒) ●なかたひら(二軒) ●大赤沢おほあかさは(九軒) ●天酒あまさけ(二軒) ▲小赤沢こあかさは(二十八軒) ▲上の原(十三軒) ▲和山わやま(五軒) 西にある村 ●下結東しもけつとう村 ●逆巻さかまき(四軒) ●上結東かみけつとう(二十九軒) ●前倉まへくら(九軒) ▲大秋山村(人家八軒ありて此地根元の村にて相伝の武器など持しものもありしが、天明卯年の凶年にしろなしてかてにかえ、猶たらずして一村のこらず餓死して今は草原の地となりしときけり) ▲屋敷やしき(十九軒) ▲湯本(温泉あり) 此地東には苗場なへば山天にそびえて連岳れんがくこれにつゞき、西に赤倉あかくら高嶺かうれい雲をしのぎ衆山しゆうざんこれにならぶ。清水川原しみづかはらは越後の入り口、湯本ゆもとは信濃に越るの嶮路けんろあるのみ。一夫いつふこれを守れば万卒ばんそつがた山間幽僻さんかんいうへきの地也。里俗りぞくつたへに此地は大むかし平家の人のかくれたる所といふ。牧之ぼくしおもへらく、鎮守府将軍ちんじゆふしやうぐん平の惟茂これもち四代の后胤かういん奥山おくやま太郎の孫じやうの鬼九郎資国すけくに嫡男ちやくなん城の太郎資長すけながの代まで越後高田のほとり鳥坂とりさか山に城をかまへ一国にふるひしが、謀叛むほんきこえありて鎌倉かまくら討手うつて佐々木三郎兵衛入道西念としば/\たゝかひてつひ落城らくじやうせり。此時貴族きぞく落人おちうどなどの此秋山にかくれしならんか。里俗りぞくつたへに平氏といへるもよしあるにたり。此秋山にはいにしへ風俗ふうぞくおのづからのこれりときゝしゆゑ一度はたづねばやとおもひりしに、此地をよくしりたる案内者あんないしやたりしゆゑ、偶然ふとおもひたち案内あなひをしへにまかせ、米味噌醤油しやうゆ鰹節かつをぶしちや蝋燭らうそくまでをも用意よういして従者ずさにもたせて立いでしは文政十一年九月八日の事なりき。その日は秋山にちか見玉みたま村の不動院ふどうゐん一宿やどり、次の日桃源たうげんたづぬる心地して秋山にたずね入りぬ。さて入り口に清水川原しみづがはらといふあり、こゝにいたらんとするみちかたはらに、丸木のはしらたて注連しめを引わたし、中央に高札あり、いかなる事ぞと立よりみれば、小童こどものかきたるやうのいろは文字にて「ほふそふあるむらかたのものはこれよりいれず」としるせり。案内いはく、秋山の人は疱瘡はうそうをおそるゝ事をおそるゝがごとし。いかんとなれば、もしはうそうするものあれば我子わがこといへども家にらせず、山に仮小屋かりこやを作りて入れおき、喰物しよくもつをはこびやしなふのみ。すこし銭あるものはさとより山伏やまぶしをたのみていのらすもあり、されば九人にして十人はする也。此ゆゑに秋山の人他所へゆきてはうそうありとしれば、何事の用をもすてにげかへる也。されば此地にては疱瘡はうそうするもの甚だまれ也、十年に一人あるかなしか也とかたれり。さて清水川原の村にいたりしに家二軒あり。家居いへゐの作りさま他所にかはれり、その事は下にいふべし)しばしこゝにやすらひて立出しに、これよりまづ猿飛橋さるとびばしを見玉へとて案内あないさきへ立てゆく。此秋山のみちはすべて所の人のかよふべきためにのみひらきたる道にて、牛馬はさらにつかはざる所なれば、ことさらにみちせば小笹をざゝなどふかくしてやう/\道をもとむる所しば/\なり。かくてかの中津川なかつがはきしにいたれり。岸のむか逆巻さかまき村にいたる所にはしあり、猿飛橋さるとびばしといふ橋のさまを見るに、よしや猿にてもつばさあらざればとぶべくもあらず、両岸りやうがん絶壁ぜつへきにて屏風びやうぶをたてたるがごとくなれども、岸より一丈あまり下に両岸よりさしむかひたる岩のはなあり、これをたよりとしてはしわたしたる也。橋ある所へくだらんためかけはしをまうけてあり、橋はすぐなる丸木を二本ならべにし、細木を藤蔓ふぢつるにてあみつけたるなり。わたりは二十間あまり、橋のひろさは三尺にたらず、欄杆らんかんはもとより作らず、橋を渡りてむかひの岸に藤綱ふぢづなを岸の大木にくゝしげてあり。これすがりて岸にのぼるたよりとす。たゞ見るさへあやふければ、芭蕉ばせうが蝶も居直ゐなほる笠の上といひし木曾きそかけはしにもをさ/\おとらず。此橋を渡るにやといふに、案内がいな/\今日けふは此岸につきて東の村/\を見玉ひて小赤倉こあかくら村にいたり玉はゞほどよき道なるべし、小赤倉には知る人もあれば宿やどりをもとむべしといふ。橋をわたらずときゝて心おちつき、岩にこしかけて墨斗やたてとりいだし橋をうつしなどして四辺あたりを見わたせば、行雁かうがんみねこえて雲にをならべ、走猿そうゑんこずゑをつたひて水にうつす。奇樹きじゆきしよこたはりてりようねふるがごとく、怪岩くわいがんみちふさぎてとらすにたり。山林さんりんとほそめにしきき、※(「石+燗のつくり」、第3水準1-89-13)かんすゐふかげきしてあゐながせり。金壁きんへきなら緑山りよくざんつらなりたるさま画にもおよばざる光景くわうけい也。目かれせねばしばしやすらひたるに、農夫のうふ二人きたりおの/\※(「褒」の「亠/保」に代えて「果」、第4水準2-88-27)かます脊負せおひてかの橋をわたらんとす。きしにたちてこれをみれば、かのはしご石壇いしだんのごとくふみくだり、橋をゆく事平地のごとく、そのなかばにいたれば橋揺々えう/\としてあやふき事いはんかたなく、見るにさへ身の毛いよだつばかり也。わたりはてゝかの藤綱ふぢづなにすがりてきしにのぼりしさまさるのごとし、はからず人のわたるを見て目をあらたにせり。さてこゝをさりれい細道ほそみちをたどり、たかきにのぼりひくきくだり、よほどのみちをへてやうやく三倉みくら村にいたれり、こゝには人家じんかげんあり、今朝けさ見玉みたま村より用意よういしたる弁当べんたうをひらかばやとあるいへに入りしに、老女らうぢよようちなつた*6といひつゝ木のばんの上に長き草をおきて木櫛きくしのやうなるものにてかき解分ときわくるさま也。いかなるものにてなんにするぞとへば、山にあるいらといふ草也、これを糸にしてあみきぬを作るといへり。あみきぬといふ名のめづらしければしひてたづねければ、老女らうぢよはわらひてこたへず。案内がかたはらよりあみきぬとは婆々ばゝどのゝたるあれ也といふ、それを見れば※布さよみ[#「此/巾」、U+383F、98-12]のやうなるをそでなし羽織はおりのやうにしたる物也。ちやひければ老女はたしてまづ疱瘡はうそうの事をふ。案内がいふ、我々われ/\塩沢しほさはより秋山を見にきたりしもの也、しほさはには去年此かたはうそうはなしといふ。老女いはく、うらが内のものは今年は井戸蛙ゐどげへるのやうにさつかゞんでさとへは一なんだといひつゝくみいだしたるちやをみれば、すゝだしたるやうなれば、別に白湯をもとめてしよくしをはり、つら/\此住居すまゐを見るに、いしずえもすえず掘立ほりたてたるはしらぬきをば藤蔓ふぢづるにてくゝりつけ、すげをあみかけてかべとし小きまどあり、戸口は大木のかはの一まいなるをひらめてよこ木をわたし、藤蔓ふぢつるにてくゝしとめしきゐもなくてとぼそとす。茅葺かやぶきのいかにも矮屋ひきゝいへ也。たゞかりそめに作りたる草屋くさやなれど、里地さとちより雪はふかゝらんとおもへばちからつよく作りたるなるべし、家内を見れば稿筵わらむしろのちぎれたるをしきならべいねむぎのできぬ所ゆゑわらにとぼしく、いづれのいへもふるきむしろ也)納戸なんど戸棚とだなもなし、たゞ菅縄すげなはにてつくりたるたなあるのみ也。囲炉裏ゐろりは五尺あまり、ふかさははひまで二尺もあるべし、たきゞおほき所にて大火おほびくゆゑ也。家にかちたるものは木鉢きばちの大なるが三ツ四ツあり、所にて作るゆゑ也。薬鑵やくわん土瓶どびん雷盆すりばちなどいづれの家にもなし、秋山の人家じんかすべてこれにおなじ。今日秋山に入りこゝにいたりて家を五ツ見しが、あはひえかりこむころなれば家にる男を見ず。さてやすらひしうち、とちをひろひて山よりかへりしといふ娘を見るに、髪は油気あぶらけもなくまろめつかねたるをにてひ、ふるびたる手拭てのごひにて頭巻はちまきをなし、木綿袷もめんあはせあかづきたるがつねなみより一尺もみじかきに、はゞ二寸ばかりのもめんおびをうしろにむすべり。(女のはちまきするとおびの巾のせばきは古画にもあまた見えたる古風也、きるものゝみじかきもいやしきものゝ古風也)秋山の女みなかくのごとし。老女に土地とち風俗ふうぞくなどたづねしが心かよはざればさらにわからず、物をとらせてやがて立さりけり。

秋山絶壁の圖、同猿飛橋の圖

○かくてなかたひら(九軒)天酒あまさけ(二軒)大赤沢おほあかさは(九軒)たる道みなけはし山行やまぶみして此日さる下刻さがりやう/\小赤沢にいたりぬ。こゝには人家廿八軒ありて、秋山の中二ヶ所の大村也。上結東かみけつとうは廿九軒有)此村に市右エ門とて村中第一の大家あり、幸ひ案内者の知る人なれば宿やどりをもとめたち入りて見るに、四けんに六間ほどの住居すまゐ也、主人夫婦あるじふうふ老人らうじんにて、長男せがれは廿七八、次に娘三人あり。おくの方に四畳よでふばかりの一ありて、へだてには稿筵わらむしろをたれてあり。(たれむしろをする事堂上だうしやうにもありて古画にもあまた見えたる古風なり)勝手の方には日用のうつはあまたとりちらしたるなかに、こゝにも木鉢きばち三ツ四ツあり、囲炉裏ゐろりはれいの大きくふかきの也。さて用意したる米味噌をとりいだし、今朝けさ清水河原しみづかはら村にてもとめたる舞茸まひたけにこゝのいもなどとりそへて、案内が料理すとて雷盆すりばちをといへば、末の娘がたなのすみよりとりいだしたるを見れば、常にはつかはずと見ゆるすゝけたるなり。のちにきけば此秋山にすりばちのあるは此家と此本家のみとぞ。此地にて近年豆を作りはじめて味噌をもつくれども、かうじを入る事をせず、ほだてしるにするゆゑすりばちはもたざるとぞ。さて此家にも別にかまどはなくみなにてものをる也。やがて夜もくれければ姫小松を細く割たるをともしとす、ひか一室いつしつをてらして蝋燭らふしよくにもまされり。案内が調てうじたるものそろはぬわんにもり、山折敷やまをしきにすゑていだせり。あるじがもてなしとて、いも蕪菜かぶなを味噌汁にしたるなかにいぶかしきものあり、案内がさし心えていふやう、そは秋山の名物の豆腐とうふ也といふ。豆をひく事はせしがかすこさざるゆゑあぢなし。しよくをはりてのちあるじがいふ、ちや旦那だんな(秋山のことばに人をけいして茶の間の旦那といふ、茶の間をももちし人といふ事にや)どつふりに入らずといふ、此ことばさとしがたくて案内にへば、居風呂すえふろに入り玉へといふ事也。すゑふろをどつふり又はともいふ(秋山にすゑふろ桶をもちしは此家と此本家とばかり也とぞ、此地の人たま/\は冬もかゝりゆをつかふ、そとよりかへりても足をあらふ事をせず、かのむしろのうへなればかくすらん)といへり。ふろに入りしにつねにかはる事なし、道のつかれもわすれてうれしくもと横座よこざに皈りし(ゐろりはよこを上座とするは田舎のならひなり)に、こゝには銅鑵やくわんもありしとて、用意の茶を従者ずさが煮たるをのみたくはへたる菓子くわしをかの三人の娘にもとらせければ、三人こしかけて箕居ふみはだかりあしはひのなかへふみ入れめづらしがりてくわしをくらふ。にははしらにもなるべき木を惜気をしげもなくたきたつる火影ほかげてらすを見れば、末のむすめは色黒いろくろ肥太こえふとりてみにくし。をり/\すそをまくりあげて虫をひらふは見ぐるしけれどはぢらふさまもせず。二人のあねは色白くして玉をならべたる美人びじん也、菓子をくひながらかほ見あはして打ゑみたるおもざし、愛形あいきやうはこぼるゝやう也。かゝる一双いつさうの玉を秋山の田夫でんぶつまにせんは可憐あはれむべしことたきゞとしてすつほんるがごとし。主人あるじ里地さとちの事をもよく知りてはなしわかおきなゆゑ所の風俗ふうぞくをたづねしに、そのものがたりたるあらましをこゝにしるす。
○此地近年公税こうぜいきくにいたれども、米麦を生ぜざるゆゑわづかみつぎをなす※役かんなやく[#「金+斯」、U+9401、101-14]といふ)にいたりて、信濃と越後とのの村名主の支配をうけ、旦那寺をも定めたれど、冬は雪二丈もつもりて人のゆきゝもたゆるゆゑ、此時人死すれば寺におくる事ならざれば、此村に山田を氏とする助三郎といふものゝ家にむかしより持伝へたる黒駒くろこま太子としようする画軸ぐわぢく*7あり、これをりて死人の上を二三べんかざし、これを引導いんだうとしてわたくしはうふる。寺をさだめざるいぜんはむかしよりこれにてすませたり。(秋山は山田と福原の氏のみ也、右の助三郎は山田の総本家也、太子の画像といふは太子のやうに見ゆるがくろき馬にのりて雲の中にあるきぬ地のよしいへり、牧之助三郎が家にいたりかの一軸を見んとこひしが、正月七月のほかをがませずとてゆるさゞりき。)
○此地の人、上食はあはひえ小豆をもまぜくらふ。下食は粟糠あはぬかひえ乾菜ほしななどまじえて喰ふ、又とちしよくとす。
婚姻こんいんは秋山十五ヶ村をかぎりとして他所にもとめず。婦人ふじん他所にて男をもてば親族しんぞく不通ふつうしてふたゝ面会めんくわいせざるを、むかしよりのならはせとす。
○秋山中に寺院じゐんはさら也、庵室あんじつもなし。八幡の小社一ツあり。寺なきゆゑみな無筆むひつ也。たま/\心あるもの里より手本てほんていろはもじをおぼえたる人をば物識ものしりとて尊敬そんきやうす。
○山中ゆゑなし、蚊屋かやを見たるものまれ也。
深山幽僻しんざんいうへきの地なればかひこはもとより木綿わたをもしやうぜざるゆゑ、衣類いるゐとぼしき事おしてしるべし。
○山にいらといふ草あり、その皮をせいしてあさかへて用をす。
おきながかくかたりし時牧之ぼくしいら形状けいじやうをくはしくきかざりしが、のちあんずるにいらとは蕁麻いらくさの事なるべし、蕁麻たんまは本草に見えたるくさの名也。あさの字にじゆくしたればあさかへても用ふべきものなるべし。されど毒草どくさうなるよし見えたり。又山韭やまにらといふも同書どうしよに見ゆ、これもあさのかはりにもすべきもの也。にらいらといふにや。草の形状かたちきかざりしゆゑさだめがたし。
○秋山の人はすべて冬もきのるまゝにてす、かつ夜具やぐといふものなし。冬は終夜よもすがら炉中ろちゆうに大火をたき、そのかたはらねふる。甚寒にいたれば他所より稿わらをもとめて作りおきたる※(「褒」の「亠/保」に代えて「果」、第4水準2-88-27)かますに入りて眠る。つまあるものはかますをひろく作りて夫婦ふうふ一ツかますにる。
○秋山に夜具を持たる家は此おきなの家とほかに一軒あるのみ。それもかのいらにておりたるにいらのくずを入れ、布子ぬのこのすこし大なるにて宿とまきやくのためにするのみ也とぞ。牧之ぼくしこゝに一宿しし時此夜具にしたるが、かのいとくずもすそにおちてあはせの所がおほく身にそゆべきものにはあらず。)
稿わらにとぼしきゆゑわらじをはかず、男女徒跣はだしにて山にもはたらく也。
○人病あればこめかゆくはせてくすりとす。重きは山伏をむかへていのらす。(病をいのらする事源氏にも見えたる古風也。)
○鏡を持たる女秋山中に五人ありとぞ。(松山かゞみの故事ふることおもひあたれり。)
○此地の人すべて篤実温厚とくじつをんこうにして人とあらそふことなく、色慾しきよくうす博奕ばくえきをしらず、酒屋なければ酒のむ人なし。むかしよりわら一すぢにてもぬすみしたる人なしといへり。じつ肉食にくしよく仙境せんきやう也。
○かくて次の日やぶつの橋*8といふをわたりて湯本に宿り、温泉をんせんよくし、次の日西の村々を見て上結東かみけつとう村に宿り、猿飛橋をわたり、その日見玉村にやどりて家にかへれり。さま/″\しるすべき事あれども文多ければのせず。(秋山記行二巻を編して家に蔵む。)
とち(本字は橡なり)食方しよくはう翁にきゝしをこゝに記して凶年きやうねん心得こゝろえとす。とちは八月じゆくしておつるをひろひ、てのちかはかし、手にもみてあらきふるひにかけて渋皮しぶかはをさり、ぬのをしきてにしたるをおき、よくならし水をうちてしめらせ、しきたる布につゝみ水にひたしおく事四五日にしてとりいだし、しぼりて水をさりてしあぐる、その白き事雪のごとし。これ粟稗あはひえなどにまぜ、又はとちばかりも食とす、又もちにもする也。(もちにする杤は別種なりとぞ)ならの実もくらふ、そのしかたは杤にたりとぞ。
○此秋山にるゐしたる山村さんそん他国にもあるよしをきゝたれば、めづらしからねどしたしく見たるゆゑこゝにしるせり。
○秋山の産物、木鉢きばちまげ物るゐ山をしきすげなは板るゐ也。秋山に良材りやうざい多しといへども、村中そんちゆうをながるゝ中津川屈曲まがりくねり深き所浅き所ありていかだをくだしがたく、又は牛馬をつかはざれば良材りやうざいを出しがたく、ざいをうる事かたければ天然てんねん貧地ひんち也。

畏に入りて寐る圖

○ 狐火きつねび


 酉陽雑俎いうやうざつそに、狐髑髏どくろいたゞ北斗ほくとはいし尾をうちて火を出すといへり。かの国はともあれ我がまさしく見しはしからず、そはしもにいふべし。狐は寒をおそるゝ物ゆゑ、我里にては冬は見る事まれ也、春にいたり雪のふりやみたるころ、つもりたる雪中食にうゑて夜中人家にちかづき、物をぬすくらふ事はなはだにくむべし。人これを知るゆゑ、かれにぬすまれじとて人智を以てかまへおけども、すこしのうばひ喰ふ、其妖術そのえうじゆつ奇々怪々き/\くわい/\いふべからず、時としてかれがくるとこざるはねずみのごとし。狐の妖魅えうみをなす事和漢わかんめづらしからず、いふもさらなれどいふ也。われ雪中にはあかりをとらんため、二階のまどのもとにて書案つくゑる。或時あるとき故人こじん鵬斎先生ばうさいせんせいより菓子一をりおくれり、その夜いねんとする時狐の事をおもひ、かの菓子折を紵縄をなはにてしかくゝ天井てんじやうへ高くりおき、かくてはかれがじゆつほどこしがたからんとみづからほこりしに、さてあしたに見ればくゝしたるなは依然いぜんとしてもとのごとく、菓子折は消失きえうせたるがごとし。なほにくむべきは、くわしをりは人のおきたるやうに書案つくゑの上にあり、ひらき見ればおほひたる紙もそのまゝにて、くわしはみなくらひつくせり、そのえうをなしし事不思議ふしぎ也。或時あるときねここゑをなして猫をよびいだしていんかつくらふ。老狐らうこ婦女ふぢよばかしていんするもあり、いんせられし女はかならずかみをみだし其処にして熟睡じゆくすいせるがごとし、そのよしをたづぬれども一人も仔細しさいをかたりし女なし、みな前後ぜんごをしらずといふ、しらざるにはあるまじけれども、事をはぢていはざるならん。さて狐く氷をきくいふ事、酉陽雑俎いうやうざつそに見ゆ。こは本朝にても今猶諏訪すは湖水こすゐは狐わたりしをて人わたりはじむ、和漢わかん相同じ。狐の火をせつはさま/″\あれどみなうけがたし。我が目前にしは、ある夜深更しんかうの頃、れいの二階のまどすきに火のうつるをあやしみその隙間すきまよりのぞきみれば、狐雪の掘揚の上にりて口より火をいだす、よくみれば呼息つくいきもゆる也。そのさま口よりすこし上にもゆる事、まへにいへる寒火かんくわのごとし。おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり、かれが肚中はらのなかおうずるならん、かれが気息いきつねに火をなさゞるは勿論もちろん也。石亭せきてい雲根志うんこんしに狐の玉のひかる事をいひしが、狐火は玉のひかるにもあらずかし。狐の玉といふ物の光ると常に見る狐火とは別なるべし。

○ 狐を


 友人いうじんいはく、我がしたしき者となり村へ夜話よばなしゆきたるかへるさ、みちかたはら茶鐺ちやがまありしが、頃しも夏の事也しゆゑ、農業のうげふの人の置忘おきわすれたるならん、さるにてもはらあしきものはひろかくさん、持皈もちかへりてぬしたづねばやとかまにさげて二町ばかりあゆみしにしきりにおもくなり、かまの内にこゑありて我をいづくへゆくぞといふにきもかまをすてゝにげさりしに、狐前にはしり草の中へはしり入りしといへり。こはかれが一時いちじたはむれなるべし、かゝる妖魅えうみの術はありながら人にあざむかれてとらへらるゝは如何いかんこたへていふ、銕炮てつはうを以てするはろんなし、香餌よきゑさを以てするは、かれ人のあざむくをれどもよくすてつゝしむ事あたはず、それとはりながらこれをくらひてかへつて人をあざむかんとしてとらへらるゝならんか。これ邪智じやちふかきゆゑ也。あに狐のみならんや、人も又これたり。邪智じやちあるものは※(「古/又」、第4水準2-3-61)あくじとはしりながらかくなさば人はしるまじとおのれ邪智じやちをたのみ、つひには身をほろぼすにいたる。淫慾いんよく財慾ざいよくよくはいづれも身をほろぼすの香餌うまきゑさ也。至善よき人は路に千金をいへ美人びじんたいすれどもこゝろみだりうごかざるは、とゞまることをりてさだまる事あるゆゑ也。かゝる人はむねあきらかなるかゞみありて、善悪ぜんあくを照してよきあしきをりて其ひとりつゝしむ、これ明徳めいとくかゞみといふ。此鏡は天道てんたうさまよりたれにも/\あたへおかるれどもみがゝざればてらさずと、われわかかりし時ある経学者けいがくしやをしへきゝしと、狐のはなしにつけ大学のわなにかけて風諫ふうかんせしは、ひし人弱年としわかにてしかも身もちのくずれかゝりしものなればなりき。こゝには无用むよう長舌ちやうぜつなれど、おもひいだししにまかせてしるせり。さて我がさとにて狐をじゆつさま/″\あるなかに、手をふところにしてじゆつあり。その術いかんとなれば、春陽の頃はつもりし雪もひるの内はやはらかなるゆゑ、夜な/\狐の徘徊はいくわいする所へむぎなど舂杵つくきねを雪中へさし入て二ツも三ツもきねだけのあなを作りおけば、夜に入りて此あなこほりて岩の穴のやうになるなり。さてかれが油滓あぶらかすなどをちらしおき、かの穴にも入れおく、さて夜ふけ人しづまりたるころ狐こゝにきたり、ちらしおきたるをくらつくし、なほたらざればかならずかの穴にあるをくらはんとし、身をしゞめさかしまになりて穴に入り、いれおきたるものをくらひつくし、いでんとするにのすこしいづるほどに作りまうけたる穴なれば、ふたゝびいづる事かなはず。雪は深夜しんやにしたがひてます/\こほり、かれがちからには穴をやぶる事もならず、いでん/\としてつひにはせいつからす。とらへんとはかりしもの、これを見て水をくみきたりてあなに入るゝ、こほりたる雪の穴なればはやくは水ももれず、狐は尾をふるはして水にくるしむ。人はほとりにありてかれまさに死せんとする時かならずをひるをさける。狐尾をうごかさゞるを見て溺死おぼれしゝたるをり、尾をり大根をぬくがごとくして狐をる。穴二ツも三ツも作りおくゆゑ、をりよき時は二疋も三疋も狐を引抜ひきぬく事あり、これこほりて岩のやうなる雪の穴なればなり。土の穴はかれがものなれば自在じざいをなしてにげさるべし。されば雪国にかぎる事なれば雪のついでにしるせり。

○ がん代見立しろみたて


 我国雪さかんなる時は、鳥などの食すべきもの一てんもなきゆゑ、冬は山野の鳥はまれ也。春にいたり雪りやみし頃諸鳥を見る。二月にいたりても野山一面の雪の中に、清水ながれは水気すゐきあたゝかなるゆゑ雪のすこしきゆる処もあり、これ水鳥のをりる処也。がんこれを見ればまづ二三こゝにをりておのれまづ求食あさり、さてふんをのこしてしよくある処のしるしとす、俚言りげんにこれをがん代見立しろみたてといふ。雁のかくするは友鳥ともどりつどひきたりて、かれにも求食あさらせんとて也。朋友ともだちまことある事人もはづべき事也、しかるを心なきともがらかのふんをたづねありき、代見立しろみたてふんあればかならず種々しゆ/″\じゆつつくして雁のくるをまちてとらふ。雁もたび/\とられてこれをしるにや、人にしらせじとてふんに土をかけてかくしおく也。代見立あしくさまで食なかりし処へは、ふんに土をかけずふたゝびきたらず、そのある事人におなじ。人またこれらをもりてゆるさず、ふんに土をかけたるを見れば其辺そのほとりの矢頃やころよき処へ、人の入るべき程にわんをふせたるやうなるものを雪にて作り、うしろに入り口をつけ内はほらになし、雁のをるべき方にあなをつくりてそのきたるをまつ。(雁は不時にはきたらず、くべき時あり、しもにいふべし)雁を見ればかの穴より銕炮てつはう銃口すぐちをいだしてうつ也、かくするを里言りげんゆきんだうといふ、ゆきだう也。(これにもかぎらずさま/″\の術あり)雁のる処をふるは夕暮ゆふぐれ夜半やはんあかつき也、人此時をまちて種々いろ/\たくみつくしてとらふ。我国雪のためにさま/″\の難義なんぎはあらまし前にいへるごとくなれども、雪の重宝ちようほうなる事もあり、第一は大小雪舟そり便利べんりちゞみ製作せいさくゆきだう田舎芝居ゐなかしばゐ舞台ぶたい桟敷さじき花道はなみちみな雪にて作る。○辻売つじうりる処売物うりもの台架だいたなもみな雪にて作る、是を里言りげんさつやといふ。○獣狩けだものがり追鳥おひとり。○積雪せきせついへうづかへつ寒威かんゐふせぐ。○なつ山間やまあひの雪を以て魚鳥うをとりにく擁包つゝみおけば敗餒くさらず。○雪水せつすゐ江河かうがみなもとやしなふなど、此外つまびらかにいはゞなほあるべし。是をおもへば天地の万物すつべきものはあるべからず、たゞすつべきは人悪じんあくのみ。

雪ン堂の圖

○ 天のあみ


 およそひと悪をなして天罰てんばつもれざる事、うをあみにもれざるがごとくなるゆゑ、これをたとへて天のあみといふめり。新潟にひがたより三里上りて赤塚あかづか村といふあり、山のところ/″\にくぼみをなしたるあり、こゝにくひをたてゝ細糸ほそいとあみをはりて鳥をとる、これを里言に赤塚あかづかの天の網といふ。此村にかたあるゆゑ、水鳥かたしたひてきたり、山のくぼみとびきたり、かならず天の網にかゝる。大抵はあぢ[#「契+鳥」、U+2A0C8、112-5]といふかもたる鳥也、美味びみなるゆゑ赤塚の冬至鳥とうじとりとてとほ称美しようびす。※※あぢかも[#「契+鳥」、U+2A0C8、112-6][#「鳥+辟」、U+2A1CA、112-6]といふべきをはぶけるならん、あぢかもとは古哥こかにもあまたよめり。

○ 雁の総立そうだち


 およそ陸鳥りくてうは夜中めくらとなり、水鳥すゐてうは夜中あきらか也。ことにがんは夜中物を見る事はなはだ明也。他国はしらず我国の雁はおほくはひるねふり、夜は飛行とびありく。眠る時は人にとほき処にてあつまり眠る、此時は首をあげて四方を見てゐる雁二羽あり、人これを番鳥ばんどりといふ。求食あさるにもしか也。とぶれつをなすは雁行がんかうとて兵書へいしよにもいへり、人のしる処也。されどるにも位列ゐれつをなしてみだりならず。求食あさる時はみなあさり、あそぶ時はみなあそぶ。雁中がんちゆうに一雁ありて所為なすところみなこれにしたがふ、大将たいしやう士卒しそつとのごとし。人のきたるか又はあやしきを見れば、かのばんとりたゝきをなす、のとりこれをきゝ、いかに求食あさるともねぶるとも此羽たゝきをきゝあやまらず、幾羽いくはみだれとびあがり、さてれつをなしてる。里言さとことばにこれを雁の総立そうだちといふ。雁のそなへある事軍陣ぐんぢんごとし、とりになき事也、他国の雁もしかならん。田舎人ゐなかうどにはめづらしからねど都会とくわいの人の話柄はなしぐさにいへり。

○ 渋海川しぶみかはざいわた


 しぶみ川、みなもと信越しんゑつさかひよりいで、越後ゑちごの内三十四里をながれて千曲川ちくまがはともなひ此海に入る。此川越後の○頸城くびき魚沼うをぬま○三嶋○古志こし四郡しぐんながるゝゆゑ、四府見しぶみ文字もんじならんかとおもひしにひが事也。古書こしよ渋海しぶみ新浮海しぶみとも見えたり。此川まがくねり、広狭ひろせまい言ひつくすべからず。冬は一面に氷りとぢてその上に雪つもりたる所平地のごとし。されど急流きふりう岩にげきして水勢すゐせい絶急はげしきところは雪もつもる事あたはず、浪を見る処もあり。渡口わたしばなどはをのにて氷をくだきてわたせども、つひにはこほりあつくなりて力およびがたく、船はをかりて人々氷の上をわたる。これを里言りげんざいわたりといふ。我国の俚言りげんにすべて物のこほるを、○ざいしみるいてなどいふ。いては古言也)此川の氷り正月のすゑか二月のはじめにいたれば、陽気やうき自然しぜんさけながる。大なるは七八けん、種々のかたちをなし大小ひとしからず、川のひろき所とせまき処とにしたがふ。あしたさけはじめてゆふべにながれをはる。かならず一日あるひは一昼夜いつちうやをかぎりとして三十四里のこほりみなくだけながれて北海にいづる、そのひゞき千らいのごとく、山もふるふばかり也。此日川にちかき村々はつゝしほかにいづる事なし。たゞ他所たしよの者は渋海川しぶみがは氷見こほりみとて、花見のやうに酒肴しゆかうをたづさへきし彩筵はなござ毛氈まうせんなどしきてこれを見る。大小いく万の氷片こほりのわれ水晶すゐしよう盤石ばんじやくのごときが、あゐのやうなる浪にたゞよひながるゝは目ざましき荘観みものなり。氷をたのしみとする事暖国だんこくにはさらにあるべからず。此川にさかべつたうといふ奇談きだんあり、つぎまきにいふべし。








北越雪譜初編巻之中 終
[#改丁]

北越雪譜初編 巻之下


越後塩沢   鈴木牧之  編撰
江戸     京山人百樹 刪定

○ 渋海川しぶみかはさかべつたう


 我国の俚言りげんてふべつたうといふ、渋海川のほとりにてはさかべつたうといふ。蝶はもろ/\むし羽化うくわする所也、大なるを蝶といひ、小なるをといふ。(本艸)其種類そのしゆるゐはなはだおほし。草花さうくわも蝶に化する事本草ほんざうにも見えたり。蝶の和訓わくんかはひらこといふは新撰字鏡しんせんじきやうにも見えたれど、さかべつたうといふ名義みやうぎいまだかんがへず。さてまへにいへる渋海しぶみ川にてはる彼岸ひがんころ、幾百万の白蝶はくてふ水面すゐめんより二三尺をはなれてもすれあふばかりむらがりたるが、たかさは一ぢやうあまり、両岸りやうがんかぎりとして川下より川上の方へ飛行とびゆく、その形状さま花のふゞきと見んはおろか也。幾里いくりともなきながれにかすみをひきたるがごとく、朝より夕べまでこと/″\く川上へつゞきたるがそのかぎりをしらず、川水も見えざるほど也。さてくれなんとするにいたれば、みな水面すゐめんにおちいりてながれくだる、そのさま白布しらぬのをながすがごとし。其蝶のかたち燈蛾ひとりむしほどにて白蝶しろきてふ也。我国に大小の川々幾流いくすぢもあるなかに、此渋海川しぶみがはにのみかぎりて毎年まいねんたがはず此事あるもとすべし。しかるに天明の洪水こうずゐ以来此事たえてなし。
本草ほんざうあんずるに、石蚕せきさん一名を沙虱すなしらみといふもの山川の石上につきまゆをなし、春夏羽化うくわして小蛾せうがとなり、水上すゐしやうに飛ぶといへり。くだんのさかべつたうは渋海川の石蚕せきさんなるべし。其たね洪水こうずゐながつくしたるゆゑ、たえたるなるべし。他国にも石蚕せきさんしやうずる川あらば此蝶あらんもしるべからず。余此蝶を見ざりしゆゑ、近隣きんりん老婦らうふわかきころ渋海川のほとりよりせし人ありしゆゑたづひしに、その老婦らうふかたりしまゝをこゝにしるせり。

○ さけかうがへ


 新撰字鏡しんせんじきやうといふ字書じしよは、本朝のそう昌住しやうぢゆうといひし人、今より九百四十年あまりのむかし寛平昌泰くわんひやうしやうたい年間ころ作りたる文字の吟味をしたるしよ也。むかしより世の学匠がくしやうたちつたうつして重宝ちようほうせられき。しかるを近き頃、村田春海大人はるみのうし右のしよを京都にて購得かひえてのち、享和三年の春はじめて板本となし、世の重宝となりてよりのち学者がくしや机上つくゑのうへおくは、じつ春海大人はるみのうしたまものなりけり。右の字鏡じきやうありてのち二十年をて、源の順朝臣したがふあそんの作りたる和名類聚抄わみやうるゐじゆせうありき、是も字書じしよ也。元和の年間ころ那波道円なばだうゑん先生はじめて板本とせられたり。(後の板もあり)さて和名抄ありて后五百年ちかくをへて文安年中下学集かがくしふといふ字書じしよありき、これも元和三年はじめて板本となりたり。下学集より五十三年ののち明応めいおう五年林宗二(堺の町人)節用集せつようしふを作り、文亀ぶんきのころの活字本くわつじぼんあり。これいろは引節用集の権輿はじまり也。其后百八十年を歴て元禄十一年に槙嶋照武駒谷まきのしまてるたけこまがい山人が作りたる(江戸の人)書言字考しよげんじかう、一名合類がふるゐ節用集といふ板本あり、宗二が節用集を大成たいせいしたる物にていろは引也。平他字類抄ひやうたじるゐせうのるゐ、下に引用せざるものはこゝにあげず)本朝の字書じしよのるゐ大抵たいていくだんのごとし。されば今俗用ぞくようする節用集は新撰字鏡しんせんじきやう和名抄わみやうせいを先祖の父母として、のちのは皆其子孫也。※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけの事をいはんとて童蒙わらはべの為に先いふ也けり。
○新撰字鏡うを佐介さけとあり、和名抄には本字は※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけぞくさけの字を用ふるは也といへり。されば鮭の字を用ひしもふるし。同書どうしよ崔禹錫さいうせき食経しよくきやうを引て「※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ其子そのこいちごあかひかり春うまれて年の内にゆゑにまた年魚ねんぎよと名く」と見えたり。新撰字鏡に鮭の字をいだしゝは※(「魚+生」、第3水準1-94-39)せいけいと字のあひたるを以て伝写でんしやあやまりをつたへしもしるべからず。けい河豚ふぐの事なるをや。下学集かがくしふにもさけ干鮭からさけならいだせり。宗二が文亀本ぶんきぼんの節用集にも塩引干鮭しほびきからさけとならべいだせり。これらも※(「魚+生」、第3水準1-94-39)せいけい伝写でんしやのあやまりにや。駒谷こまがい山人が書言字考しよげんじかうには○さけ[#「魚+厥」、U+9C56、117-12]石桂魚さけ水豚さけさけいだして、ちゆうに和名抄を引て本字は※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけといへり。大てん和尚の学語編がくごへんにはさけ[#「魚+厥」、U+9C56、117-13]の字を出されたり、[#「魚+厥」、U+9C56、117-13]はあさぢとよむ也。もろこし字書じしよには[#「魚+厥」、U+9C56、117-12]は大口細鱗さいりんとあれば※(「魚+生」、第3水準1-94-39)にるゐせるならん。字彙じゐには※(「魚+生」、第3水準1-94-39)せいせい[#「魚+星」、U+9BF9、117-14]の本字にて魚臭なまぐさしといふ字也といへり。あんずるに、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ鮮鱗とりたてはことさらに魚臭なまぐさきものゆゑにやあらん。けい※(「魚+侯」、第3水準1-94-45)こうち[#「魚+台」、U+9B90、117-15]の一名ともいへば※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけにはいよ/\とほし。とまれかくまれ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)せいの字を知りて俗用ぞくようにはけいの字を用ふべし。くだんごとけいの字も古く用ひたれば、おほかたの和文章わぶんしやうにも鮭の字を用ふべし、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)の字はあまねくは通じがたし。こゝにはしばら※(「魚+生」、第3水準1-94-39)したがふ。

○ ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ食用しよくよう


 なまにてしよくするは○魚軒さしみなますすし也。○る○やくその料理れうりによりて猶あるべし。※(「酉+奄」、第3水準1-92-87)しほづけにしたるを塩引しほびきまた※(「魚+生」、第3水準1-94-39)からさけといひしも古き事、まへに引たるしよに見えたるがごとし。延喜式えんぎしきにのせたる内子※(「魚+生」、第3水準1-94-39)は今いふ子籠ここも※(「魚+生」、第3水準1-94-39)の事なるべし。又同書どうしよ脊腸せのはらわたみなわたよめり。丹後信濃越中越後よりみつぎとする※(「古/又」、第4水準2-3-61)も見えたれば、古代ふるきよ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ供御くごにも奉りたるなるべし。みやことほきよりみつぎたれば塩引しほびきならん。頭骨かしらのほね澄徹すきとほるところを氷頭ひづとてなます也。子を※(「魚+而」、第3水準1-94-40)はらゝごといふ、これを※(「酉+奄」、第3水準1-92-87)しほにしたるも美味びみ也。子あるまゝを塩引にしたるを子籠ここもりといふ、古へのすはよりといひしも是ならんか。本草に※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけあぢはひうま微温やはらかどくなし、主治きゝみちうちあたゝさかんにす、多くくらへばたんおこすといへり。我国にて塩引にしたるを大晦日おほつごもりせちには用ひざる家なし。又病人にもくはす。他国にて腫物できものにいむは、これになれざるゆゑにやあらん。

○ ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけいだところ


 ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)は今五畿内西国には出す所をきかず。東北の大河の海につうずるには※(「魚+生」、第3水準1-94-39)あり、松前蝦夷えぞもつとも多し。塩引として諸国へ通商あきなふは此地に限る。次には我が越後に多し。又信濃越中出羽陸奥也、常陸ひたちにもありときゝつ。これらの国の※(「魚+生」、第3水準1-94-39)はその所の食にあつるにるのみ、通商つうしやうするにたらず。江戸は利根とね川にありといへどもまれなるゆゑ、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)はつさけ初鰹はつかつをあたひすとぞ。我国にては毎年七月二十七日、所々にある諏訪すはまつりの次の日より※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけれふをはじめ、十二月寒のあけるをれふをはりとす。古志こし長岡魚沼ながをかうをぬまの川口あたりにて漁したる一番の※(「魚+生」、第3水準1-94-39)はつさけ漁師れふし長岡ながをかへたてまつれば、れいとして※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけひき(一頭を一尺といふ)米七俵のあたひたまふ。(第五ばんまでなり、たてまつるさけには寸尺の定めあり、俵のかず下る)※(「魚+生」、第3水準1-94-39)の大なるは三尺四五寸、小なるも二尺四五寸也。(猶小なるもあるべし)男魚をな女魚めなあり、めなは子あるゆゑ、をなよりはあたひたつとし。五番まで奉りてのちる、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)はつさけたつとき事おしてしるべし。これをしやうする事、江戸の初鰹魚はつかつをにをさ/\おとらず。初※(「魚+生」、第3水準1-94-39)は光り銀のごとくにしてすこしあをみあり、にくの色べにをぬりたるがごとし。仲冬の頃にいたればまだらさびいで、にくくれなうすし。あぢもやゝおとれり。此国にて川口長岡のあたりを流るゝ川にてりたるを上ひんとす、あぢはに比すれば十ばい也。わづかに其地をれば味ひならず、その味ひ美なるものは北海より長江ちやうかうさかのぼりて困苦こんくしたるのにあたれるゆゑならん。うを急浪きふらう困苦くるしめば味ひかならず甘美うまきもの也。北海の魚の味ひあつきと南海の魚の味ひうすきたがひあるがごとし。

渋海川奇蝶之圖

○ ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ始終はじめをはり


 我国の※(「魚+生」、第3水準1-94-39)は初秋より北海をいで千曲川ちくまかは阿加川あかかは両大河ふたつのだいがさかのぼる、これ其子をうまんとて也。女魚めな男魚をなしたがふてのぼる。さかのぼる事およそ五十余里、河にある事およそ五か月あまり也。そのあひだ(八、九、十、十一、十二月)人にとらる。とられざるは海へかへゆゑに大小あり。子をうみつける所はかれが心にありて一定いちぢやうならずといへども、千曲ちくま魚野うをのりやう河のがつする川口といふよりすなに小石のまじるゆゑ、これよりをおのれがうむ所とし、ながれの絶急はげしからぬ清き流水りうすゐの所にうむ也。うまんとて※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけつれむらがるを漁師れふしのことばにほりにつくざれにつくともいふ。(沙をほるにさま/″\のかたちをなすゆゑ、ざれことのざれならん)女魚めな男魚をなともに尾をもて水中すゐちゆうすなる。そのひろさ一尺あまり、ふかさ七八寸、長さ一丈あまり、数日にしてこれを作る。つくりをはれば女魚めなそのなかへ※(「魚+而」、第3水準1-94-40)を一つぶづゝむ。うむを見て男魚をなおのれ白※しらこ[#「魚+米」、U+4C4A、122-12]弾着ひりつけすぐ女魚めな男魚をなほりのけたる沙石しやせきを左右より尾鰭をひれにてすくひかけて※(「魚+而」、第3水準1-94-40)うづむ。一つぶながさるゝ事をせず。さて此一掘ひとほりうみをはれば又それにならべりてはうみ、うみてはほり、幾条いくすぢもならべほりてつひには八九尺四方の沙中すなのなか行義ぎやうぎよくはらをのこらずうみをはる。あるひは所をかえてもうむとぞ。すな小礫こじやりまじりたる所にあらざればうまずと漁師れふしがいへり。その所為しわざ人のにをさ/\おとらず。産終うみをはるまでの困苦こんくのために尾鰭をひれそこなやせつかれ、ながれにしたがひてくだり深淵ふかきふちある所にいたればこゝにしづつかれやしなひ、もとのごとく肥太こえふとりてふたゝながれさかのぼる。ほりにつきたる時は漁師れふしもこれをとらず、たま/\るものあれどもしひてはせぬ事也。女魚めなさへとらざれば男魚をなは其所をさらず。※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけの河にさかのぼるは子をうまんとて也。その女魚めな男魚をなしたがふてのぼるは子のため女魚めなたすくるならん、これも又人の心にことならず。さてなる事は、かはひろにてかれ※(「魚+而」、第3水準1-94-40)うみおきたる所洪水こうずゐなどにてかはりて河原かはらとなりしが幾とせたちてもうみたる子くさらず、ふたゝび瀬となればその子生化せいくわして※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけとなる。一年ひとゝせむ所のざいにて魚野うをの川のほとりに住む人、井をほりしに※(「魚+而」、第3水準1-94-40)はらゝごの腥なるをほりいだせし事ありしと、友人いうじんがかたりき。※(「魚+而」、第3水準1-94-40)はらゝご生化せいくわするを漁師れふしのことばにはやけるともみよけるともいふ。早化はやけるるならんか)※(「魚+而」、第3水準1-94-40)水にある事十四五日にして魚となる。かたいとの如く、たけ一二寸、はらさけちやうをなさず、ゆゑに佐介さけの名ありといひつたふ。春にいたれば長じて三寸あまりになる、これをばかならずらぬ事とす。此※(「魚+生」、第3水準1-94-39)こさけ雪消ゆきげの水にしたがひて海に入る。海に入りてのちさけたるはらがつしてちやうをなすと漁父ぎよふがいへり。前にもいへる如く※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけれふは寒中を限りとす、寒あけてればたゝりをなすといひつたふ。が若かりし時水村すゐそんの一農夫のうふ、寒あけてのちかはをそのとりたる※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけうばひ、これをくらひてねつになやみ、三日にして死たる事あり、さればたゝりあるといふ口碑かうひせつしゆべからず。又かれがうみおきたるはらゝごをとればその家断絶だんぜつすといひつたふ。※(「魚+生」、第3水準1-94-39)の大なるは三尺四五寸にあまるもあり、これ年々とし/″\あみのがれて長じたるならん。我が若年ぢやくねんのころは※(「魚+生」、第3水準1-94-39)あまたとれたるゆゑそのあたひもいやしかりしが、近年はとりうる事すくなきゆゑ価もおのづからむかしにばいせり。年々たくみあらたにしてれふするゆゑ捕へらしたるならん。女魚めなの大なるには※(「魚+而」、第3水準1-94-40)はらゝご一升もあり、小なるは三四合にすぎず。江戸に多くもてあつかふ塩引しほびきしやうするは※(「魚+生」、第3水準1-94-39)あぢさけとて、越後の※(「魚+生」、第3水準1-94-39)とは一品いつひん別種べつしゆなる物なりと、或物産家あるぶつさんかのいへり。河にうまれて海に成長せいちやうすれども、むかしより海にてあみに入たる事なし。其始終そのしじゆうをおもふに、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ鱗族りんぞく奇魚きぎよといふべし。
 牧之ぼくしつねにおもへらく、寒気の頃とれたる※(「魚+而」、第3水準1-94-40)はらゝご男魚をな白※しらこ[#「魚+米」、U+4C4A、124-8]とをまじへ、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さける川の沙石しやせきつゝみ、かめやうのものにうつし入れ、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)なきくにの海につうずる山川の清流せいりうに、かのかめにうつしたるはらゝごを沙石しやせきのまゝさけのうみつけたる如くになしおき、此川にて※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけいでくとも三年る事を国禁こくきんあらば※(「魚+生」、第3水準1-94-39)しやうぜんもしるべからず。生ぜば国益こくえきともならんかし。(江戸の白魚はむかしそのたねをうつし玉ひしとぞきゝつるためしもあれば也。)

○ 打切うちきならびつゞ


 北海ほくかい新潟にひがた海門みなとにおつる大河だいが阿加あか川と千曲ちくま川と也。(あか川の事はこゝにいはず、千曲川一名を信濃川ともいふ、くまの字をも用ふ)千曲川の水源すゐげんは信濃越後飛騨の大小の川々あまたながあひて此大河をなす也。越後は妻有つまり上田の二しやうをながれて魚野川うをのかは急流きふりうをなし、魚沼郡うをぬまこほり藪上やぶかみの庄川口えきはづれににいたりて信濃をながるゝ川と合して、古志郡こしこほり蒲原かんばら郡の中央ちゆうあうをながれて海に入る。信濃の流はにごり越後は清し。信水しんすゐ犀川さいかは濁水だくすゐあるゆゑ也。※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ初秋より海をいでて此ながれさかのぼる。蒲原郡の流は底深そこふかかはひろきゆゑ大あみを用ひて※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さける。かの川口えきよりかみ上田妻有うへだつまりのあたりにては打切うちきりといふ事をなして※(「魚+生」、第3水準1-94-39)る。その仕方しかたは夏のすゑより事をはじめて、岸根きしねより川中へ丸木のくひたてつらね横木よこきをそえ、これに透間すきまなく竹簀たけすをわたしてかきのごとくになし、川の石をよせかけてちからとなす。長さは百けん二百間にいたる。周囲形めぐらしかこむかたちは川の便利べんりにしたがふ。ふね通路つうろはこれをのぞきてさはりをなさず、又通船つうせん路印みちしるしよるためとす。さてこれにつゞといふ物を簀下すのしたへならべ、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけの入るべきやうにくゝしおく也。(くひありてつゞのすゑをもくゝしおく)此つゞの作りやうは竹を簀にあみてすゑをばくゝし、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)の入るべき口の方には竹のとがりを作りかけてあごをなし、地につく方はひらめ上は丸くし、どうには彭張ふくらみあり、長さは五尺ばかり也。※(「魚+生」、第3水準1-94-39)入らんとすれば口ひろがるやうにいかにもたくみに作りたるもの也。これをつゞといふはつゝといふべきをにごなまれるならん。田舎言葉ゐなかことばには古言こげんのまゝをいひつたへてむかしをしのぶもあれど、こと清濁せいだくをとりちがへて物の名などのかはれるも多し。阿加川あかがはを所にてはあが川といふ)さて此打切を作るは幾ばくのつひえある事ゆゑ、漁師れふしどもかたらひあひてする事也。打切したる岸にはかりに小屋をつくりて、漁師れふしども昼夜ちうやこゝにありて夜もずして※(「魚+生」、第3水準1-94-39)のかゝるをまつ也。七月より此わざをなしはじめて十二月かんあくまで、一連いちれんのものかはる/\此小屋にありて※(「魚+生」、第3水準1-94-39)をとる。此打切は川口を一ばんとして水上みなかみへ十五番まであり。こゝはいづくのもちとて川にその境目さかひめありてはなはだ厳重げんぢゆう也。
○さて※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけは川下よりながれさかのぼりて打切にいたり、ふねのかよふべき所は流れ打切にせかれて小たきをなすゆゑ滝にのぼるをいとふにや、大かたは打切のよどみにいたりかのかきにせまり、くゞるべき所やあるとこゝかしこをたづね、つゞをかけたる所にいたり、くゞりいでんとしてこゝに入ればそこあるゆゑ、いでんとするに口にとがりのあごありていづる事あたはず。
○さて小屋にあるものはかゝりつらんとおもふほどをはかり、はなかますといふ舟をのりいだし(大木を二ツにわりてこれをくりぬきて舟にしたるもの也 ○瀬の浅き所は舟を用ひず)る寒夜にもぜにためにそのさむさをもいとはず、赤裸あかはだかになりて水にとび入りつゞをはづし、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけあればつゞのまゝ舟に入れさけをいだす。大※(「魚+生」、第3水準1-94-39)は三尺あまりもあるものゝ※狂はねくる[#「魚+拔のつくり」、U+9B81、126-12]ふゆゑ魚※なつち[#「木+揆のつくり」、U+6951、126-12]といふものにてかしらを一打うてば立地たちまち死す。こゝになる事は、此魚※[#「木+揆のつくり」、U+6951、126-13]といふもの馬のつめをきりたるつち[#「木+揆のつくり」、U+6951、126-13]にあらざればせず。わたくしにつくりたるつちにてはいくつ打てもおちず。又かれがかしらに打べき所もありと漁夫ぎよふがいへり。※(「魚+生」、第3水準1-94-39)ある所にてはいづくにても此なつちを用ふ、みな馬の爪きるつち也とぞ)すけご助賈すけごなるべし)とて※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ仲買なかがひするもの、此小屋にきたりてさけをかふてうる也。

鮭の縮圖
鮭漁※[#「竹かんむり/措」、第4水準2-83-70]突圖

○ 掻網かきあみ


 かきあみとは※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)すくひだまなり、※(「魚+生」、第3水準1-94-39)※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)すくるをいふ。その※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)すくだまの作りやうは又ある木のえだげあはせて飯櫃いひびつなりに作りこれにあみ※(「代/巾」、第4水準2-8-82)ふくろをつけ、長きありてすくふたよりとす。きしそばだちたる所は※(「魚+生」、第3水準1-94-39)きしにつきてのぼるものゆゑ、岸におくばかりのたなをかきて、こゝにこし魚※なつち[#「木+揆のつくり」、U+6951、130-3]をさし※(「魚+生」、第3水準1-94-39)掻探かきさぐりてすくひとるなり。岸の絶壁ぜつへきなる所は木の根に藤縄ふぢなはをくゝしてたなり、こゝに掻網かきあみをするもまれにあり。幾尋いくひろともなき深淵ふかきふちの上にこのたなをつりておき一条ひとすぢなはいのちをつなぎとめてそのわざをなす事、おそろしともおもはざるは此事になれたるゆゑなるべし。

絶壁掻網の圖
鮭漁打切の圖
鮭洲を走る圖

○ 漁夫ぎよふ溺死できし


 或村あるむら(不祥の事ゆゑつまびらかにいはず)夫婦ふうふして母一人をやしなひ、五ツと三ツになる男女の子をもちたる農人のうにんありけり。年毎としごと※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけの時にいたればそのれふをなして生業いとなみたすけとせり。此所はすべてきしそばだちたるゆゑ村のものおの/\岸にかのたなを作りて掻網かきあみをなす。しかるに絶壁ぜつへきの所は架を作るものもなければ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)もよくあつまるゆゑ、かの男こゝにたなをつりおろし、一すぢのなはを命のつなとして※(「魚+生」、第3水準1-94-39)をとりけり。さて十月の頃にいたり雪る日には※(「魚+生」、第3水準1-94-39)も多く獲易えやすきものゆゑ、一日あるひる雪をもいとは蓑笠みのかさをかため、朝よりたなにありてさけをとり、ふごにとりためたる時はふごにもなはをつけおけば、おのれまづたなつりたるつなすがりて絶壁ぜつへきのぼり、さてふごを引あぐる也。つなにすがりてのぼくだりするもこれになれてはさるのごとし。ものふ時ものぼる也。此日もくれ雪荒ゆきあれになりければ、雪荒にはかならず※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけえやすきがゆゑにふたゝびかのたなにゆかんといふを、雪荒なればとて母もつまもとゞめたるをきかず、たいまつ用意よういしてたなにありてかきあみをせしに、はたしてさけあまたえしゆゑ鵜飼うかひ謡曲うたひにうたふごとくつみむくひのちわすれはてゝ、おもしろくやゝ時をぞうつしける。
○かくてそのつまは母もし子どもゝかしたれば、この雪あれにをつとはさこそこゞえ玉ふらめ、ゆきむかへてつれかへらんと、みのにみの帽子ばうしをかふり、松明たいまつをてらし、ほかに二本を用意よういしてこしにさし、かしこにいたり松明たいまつをあげてさしのぞき、遙下はるかしたにあるをつとにこゑかけ、いかにさむからん初夜しよやもいつかすぎつらん、もはややめてかへり玉へ、まゝもあたゝかにして酒ももとめおきたり、いざかへり玉ヘ、たいまつもなかるべし、かんじきも入るやうになりしぞ、それも持来もちきたれりといふも、西おとしの雪荒ゆきあれにてよくもきこえず。猶こゑをあげていへばをつとこれをきゝつけ、よろこべよ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけはあまたとりたるぞ、あすはうちよりてうまき酒をのむべし、今すこしとりてかへらん、そちはさきへかへれといふ。しからば松明たいまつはこゝにおかんとて、ともしたるまゝたなをつりとめてつなをくゝしたるのまたにさしはさみて、別の松明たいまつに火をうつして立かへりぬ。これぞ夫婦ふうふが一世のわかれなりける。
○さるほどにつまいへにかへりに火をたきたて、あたゝかなるものくはせんとさま/″\にしつらへ待居まちゐたりしに、時うつれどもかへりきたらず。まちわびてふたゝびかの所にいたりしに、かのはさみたるたいまつも見えず、持たるたいまつをかざして下を見るに、ひかりもよくはとゞかでをつとのすがた見えわかたず、こゑのかぎりよべどもこたへず。さてはたなにはをらぬにや、さるにてもいぶかしと心をとゞめて松明たいまつをふりてらし、のぼりしあとの雪にあるやとあたりを見れば、さいぜん木のまたにさしはさみおきたるたいまつもえおちてあり、これに心つきて持たるたいまつにてなほたしかに見れば、たなをくゝしたるいのちのつな焼残やけのこりてあり。これを見るよりむねせまり、たいまつこゝにやけおちてつなをやきゝり、たなおちてをつと深淵ふかきふちしづみたるにうたがひなし、いかにおよぎをしり給ふとも闇夜くらきよ早瀬はやせにおちて手足てあしこゞたすかり玉ふべき便よすがはあらじ。こはいかにせん/\しうとめにいひわけなしとなみだしづくにふらせてなきけるが、我もともにと松明たいまつを川へなげ入れ身をなげんとしつるが、又おもへらく、わがなきあとはおいたる母さまとをさなどもらをやしなふものなく、手をひきて路上に立玉ふらん。ぬるにも死なれざるには成けるかな、ゆるし玉へわがつまと雪にひれふし、やけたるつなにすがりつきこゑをあげてなきになきけり。かくてもあられねばなく/\焼残やけのこりたるつなをしるしにもち、くらにたいまつもなく雪荒ゆきあれふかれつゝなみだもこほるばかりにてなく/\立かへりしが、をつと死骸しがいさへ見えざりしと、其所に近きほとりの友人いうじん此頃このごろの事とてさきのとし物がたりせり。

○ 総滝そたき


 総滝そたきとは新潟にひがたみなとより四十余里の川上、千隈川ちくまかはのほとり割野わりの村にちかき所のながれにあり。信濃しなの丹波島たんばじまより新潟にひがたまでを流るゝあひだながれたきをなすはこゝのみなり。その総滝そたきとは川はゞはおよそ百けんちかくもあるべきに、大なる岩石竜がんぜきりやうふしたるごとく水中すゐちゆうにあるゆゑに、おとしくる水これにげきして滝をなす也。※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけこゝにいたりて激浪げきらうにのぼりかねて猶予たゆたふゆゑ、漁師れふしどもかり柴橋しばはしかけわたし、きしにちかきいはの上の雪をほりすてこゝに居てかの掻網かきあみをなす。されど命のをしきにやおの/\おのこしなはをつけこれを岩のとがりなどにくゝしおく。こゝに往来ゆきゝするには岩に足のかゝるべき所をわづかに作り、岩にとりつきてのぼくだりをなす。もし一あしをあやまつ時はくだきてたきにおちいるめり、そのあやふき事いはん方なし。前年さきのとし江戸にありし時右の事をさき山東翁さんとうをうにかたりしに、をういはく世路せいろなだ総滝そたきよりも危からん、世はあしもとを見てわたるべきにやとてわらへり。格言かくげんなりと耳にとゞまりしが、今偶然ふとおもひいだしたるゆゑしるせり。

○ ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけとり類術るゐじゆつ


 ○当川あてかは(三角なるあみにてとるをいふ)ひ川(水中にくひをたてあみをはり、さほにて水をうちさけをおひこむ)○四ツ手網であみ(他国におなじ)金鍵かなかぎ(水中のさけをかぎにかけてとる、そのしゆれん奇々妙々なり)ながあみ(さしあみともいふ、あみの長さ二百けんあまりなり、かんばらこほりにてする事なり)※(「竹かんむり/措」、第4水準2-83-70)やすつき(水中のさけを見すましやすにてつきとる、一ツものがす事なし、そのしゆれんこれもまたはなはだ妙なり)○このほかあまたありといへども、つまびらかとかんは駁雑くだ/\しければそのあみをもらせり。

○ ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ洲走すばし


 さけのすばしりは雪前ゆきまへ河原かはらなどにある事也。かれあみにせめられ人にもはれなどして、水を飛離とびはなれて河原にのぼり、あみある所をこえて水にとび入りてあみを退のがるゝ也。此時は大※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さきにすゝみて水をはなるれば、よりゐたる小※(「魚+生」、第3水準1-94-39)などあとしたがひてのぼり、河原をはしる事四五けんにすぎざれども、のごとくして人の足もおよびがたし。さきにすゝむ大※(「魚+生」、第3水準1-94-39)、もし物にさはりてよこたふるゝ時は、あとにしたがひたる※(「魚+生」、第3水準1-94-39)もおなじくたふれてふたゝびおきず、人のとらふるをまつがごとし。はからずして手もぬらさず二三とうのさけをうる事あり。かれあしなくして地をはしり、たふれてふたゝびおきざるなど、魚族ぎよぞくたぐふべきものなきは奇魚きぎよといふべし。

○ 垂氷つらゝ


 前年さきのとし牧之ぼくし江戸に旅宿りよしゆくの頃、文墨ぶんぼく諸名家しよめいかえつして書画しよぐわひし時、さきの山東庵には交情まじはりあつくなりてしば/\とふらひしに、京山翁当時そのころはいまだ若年なりしが、ある時雪のはなしにつけて京山翁いへらく、今年正月友人いうじんらと梅見にゆきしかへるさ青楼せいろうにのぼり、そのあかつき雨ふりいだししが、とみにやみけるゆゑ青楼をいでて日本堤にさしかゝりしに、つゝみの下に柳二三ぼんあり、この柳にかゝりたる雨、垂氷たるひ[#「垂氷」の左に「つらゝ」のルビ]となりて一二寸づゝ枝毎えだごとにひしとさがりたるが、青柳あをやぎの糸に白玉をつらぬきたる如く、これにあさひのかゞやきたるはえもいはれざる好景かうけいなりしゆゑ、堤の茶店ちやみせにしばしやすらひてながめつゝ、はからずを作りし事ありき。これ余寒よかんの暁に雨のみじかくやみたる気運きうん機工からくりてかゝる奇景きけいを見たるなりとて、めづらしがりてかたられしが、暖地だんちにてはめづらしくもあるべけれど、我国の垂氷つらゝたぐふれば水虎すゐこ[#「水虎」の左に「カツハ」のルビ]一屁いつひ[#「屁」の左に「ヘ」のルビ]也と心にをかしとおもひし事ありき*9
○そも/\我国の垂氷つらゝをいはんに、しばらおいてまづいへ氷柱つらゝをいはん。表間口まくち九間の屋根やねのきに初春の頃の氷柱つらゝ幾条いくすぢもならびさがりたる、その長短ちやうたんはひとしからねども、長きは六七尺もさがりたるがふとさは二尺めぐりにひらみたるもあり、水晶すゐしやうをもて※子かうし[#「竹かんむり/隔」、U+25D29、135-10]をつくりたるやう也。されど我国の人はおさなきよりなれたる事なればめづらしからず、垂氷つらゝ吟詠ぎんえいに入るものなし。右のつらゝあかりにさはるゆゑ朝毎あさごと木鋤こすきにてみな打おとさす。又家峯やねの谷になりたる所を俚言りげんだぎといふ、だぎは春解するやねの雪のしたゝりみなこゝにつたふゆゑ、つらゝはのきよりも大也、下にさはりなき所は二丈もさがる事あり。次第にふとりて大になるも物にさはらぬ所はすておきしを、いつか打砕うちくだく時は大力の男くひなどにてしたゝかに打て、やう/\をれおちてくだけたる四五尺なるを、わらべらがうちよりて手遊てあそび雪舟そりにのせて引きありきあそぶもあり。これらは我家わがいへ氷柱つらゝにてめづらしからず、宮寺みやてらのつらゝは猶大なり、又山中のつらゝは里地さとちしがたし。

〇 笈掛岩おひかけいは垂氷つらゝ


 我が住む塩沢しほざはの巽三里に清水村といふあり、此村もちの山に笈掛岩おひかけいはといふあり、高さ十丈あまりよこ二十五けんあり。下に谷川あり、(登り川といふのみなもとなり)そのかた屏風びやうぶをひらきてたてまはしたるがごとし。岩のいたゞして川におほひたる下は四五十人してせまからぬほどにて、やねあるがごとし。我がかみ越後には名をよぶ奇岩きがんおほき中にこれもその一ツ也。此笈掛岩おひかけいは氷柱つらゝこそ我が国の人すら目をおどろかすなれ。そのつらゝあまたさがりたるなかには、長きは十丈ばかり太さはかゝへもあるべし。たれたる形状かたち蝋燭らふそくのながれたるやうなれど、里地さとちのつらゝとたがひて屈曲くつきよく種々しゆ/″\のかたちをなして水晶すゐしやうにてたくみに作りなしたるがごとく、玲瓏れいろうとして透徹すきとをれるがあさひかゞやきたるはものにたぐふべきなしと、此清水村の里正りせい阿部翁あべをうのものがたりにてきゝぬ。右のつらゝさへ我をはじめつらゝはめづらしからねばしひて見にゆく人なし。此清水村の阿部翁はむかしきこえたる阿部右衛門のじようが子孫也、世々清水こえ関守せきもりたり。こゝに長尾伊賀守の城跡しろあとあり。

○ たき氷柱つらゝ


 我が上越後は山岳さんがくつらなれば滝多し。滝ある所に夏木の大樹ありて、春にいたりえだにつもりし雪まづとけて葉をいださぬ木の森をなしたるに、滝の水烟すゐゑんえだうるほひしがしづくとなり氷柱つらゝとなりて玉簾たまのすだれをかけめぐらしたるやうなるは、これも又たぐふべきものなし。さてまたその滝にもしたゝる水氷柱つらゝとなり、玉簾ぎよくれんの内に滝をおとすありさま四辺あたり乱瓊らんけい細玉さいぎよくの雪中也、かの玉を出といふ崑山こんざんもかくやとおもはる。かゝる奇景きけい猟師れふし樵夫せうふのほか見る人まれ也。これを暖国だんこくの人にみせなばいかにめづらしとかおもふらん。牧之ぼくし柏崎かしはざきより妻有つまりの庄へ山こえしたる時目前に見たる所也。

○ 雪中の寒行者かんぎやうじや


 我が家に江戸にたとせたるぼくあり。かれがかたりしに、江戸に寒念仏かんねんぶつとて寒行かんぎやうをする道心者だうしんじやあり、寒三十日をかぎりて毎夜鈴が森千ぢゆにいたり刑死けいし回向ゑかうをなす。そのすがたは股引もゝひき草鞋わらんずにてあたゝかに着てつとむるなり。又寒中裸参はだかまゐりといふあり、家作にかゝはるすべての職人しよくにん若人わかうどらがする事なり。そのすがたはつねより長く作りたる挑灯てうちん日参につさんなどの文字もじをふとくしるしたるをもちはだかにて※(「金+享」、第4水準2-91-9)れいをふりつゝとくはしりておもひ/\にこゝろざす所の神仏へまゐる也。まゐらんとする時はかならず水をぶ。寒中の夜は幾人いくたりも西東へはせありくとかたれり。我国の寒行かんぎやうは、ことはこれにてその行ははなはだこと也、我国の寒中は所として雪ならざるはなく、寒気かんきのはげしき事はまへにいへるがごとし。その雪をふみて毎夜寒念仏又は寒大神まゐりとて、寒中一七日あるひは三七日、心々に日をかぎりておのれが志す神仏へまうづ。おほくは農人のうにん若人わかうど商家しやうかのめしつかひもあり、ひるはいとなみをなして夜中にまうづる也。昼のいとなみのあひ/\日に三度づゝ水をあぶ、猶あぶるは心々也。きんじて身をのごふ事をせずぬれたるまゝにて衣服きるものちやくす。するには米稿いねわらの方をくゝしたるを扇のやうにひらきてこれに坐す、(此わらは七五三しめのこゝろとぞ)かりにも常のごとくにはらず。このゆゑに此たばねたる稿わらおびにはさみてはなたず。またぎやうの中は无言むごんにて一言ひとこともいはず、又母のほか妻たりとも女の手より物をとらず、精進潔斎しやうじんけつさい勿論もちろん也。他の人もかれがこしにはさみたるわらを見て行者ぎやうじやなる事をしり、むごんなれば言語ことばをかけず人々つゝしむ事也。これはもし行者にことばをかけ、行者あやまつてことばをいだせば行やぶれたるゆゑ、はじめよりぎやうをしなほすゆゑ也。又无言むごんの行はせざるもあり。さて夜に入れば千垢離せんこりをとり、百度目に一へんづゝかしらより水をあぶるゆゑ十遍水をあぶ。身をのごはずきるものをあらため雪ふらずとも簑笠みのかさ也、あるひはいかなる雪荒ゆきあれにもいとふ事なくかねうちならしつゝゆく。これにはかならず同行どうぎやうのものあるゆゑ、そのかどにいたりてかねをならせば同行も家にありてかねをうちあいさつとしていできたる。家に入らざるものは、この行者女にゆきあへばのけがれとして川に入り、又は井戸をこふて水をあぶる事まへのごとくして身をきよめ、さてまゐるなり。このゆゑに行者のかねをきけば女はすべてかどへはいでず、みちにあへばとほくにかねのおとをきゝてかくるゝ也。ぎやうの内人のしたるをきけば、たとひ二里三里ある所にても、つねにしる人しらぬ人をろんぜず、志願しぐわんの所にまうでたるかへるさなど、其家にいたりねんごろに回向ゑかうす。これをもぎやうの一ツとす。さるゆゑに不幸ふかうありて日のたゝぬいへにては、行者ぎやうじやのきたるをまちてものくはせんなど、いかにも清くしてまつ也。寒念仏寒大神まゐりの苦行くぎやうあらましくだんのごとくなれば、他国はしらず、江戸の寒念仏はだかまゐりにたぐふればはなはだこと也。かゝる苦行くぎやうをなすゆゑにや、その利益りやく灼然いちじるき事を次にしるしつ。苦行くぎやうしていのればいづれの神仏も感応かんおうある事を童蒙どうもうしめす。

寒行者威徳之圖、笈掛岩大氷柱圖

○ 寒行かんぎやう威徳ゐとく


 近来ちかごろの事なりき、我がすむ塩沢しほざはより十町あまり西南にあたりて田中村といふあり、此村に右の寒行かんぎやうをするものありけり。ある日米たわら脊負せおひて五六町へだてたる中村といふへゆく、そのみち三国海道みくにかいだうなれば人あしもしげし。すべて雪道は人のふみかためたるあとのみをゆきゝするゆゑ、いかなる広き所も道は一条ひとすぢにて其外そのほかをふめばこしをこえて雪にふみ入る也。それゆゑに重荷おもになど持たるは、たとへ武家たりとも一足ひとあし踏退ふみのき(ふみのくべきあとはあり)道をゆづるが雪国のならひ也。かの田中の者一人の武士にゆきあひ重荷おもにながらもこなたより一足ふみのきたるに、武士はこゑをあらゝげわきよれといふ。今ひと足ふみのかば重荷ゆゑことさら雪におち入らんとおもふゆゑ、いかにせんとためらひしを、無礼ぶれいものめとかたをつきたるゆゑたわら脊負せおひていかでたまるべき、雪の中へよこさまにまろたふれしに、武士も又人になげられしごとたふれければ、田中の者はおきあとも見ずしていそぎゆきけり。かゝるあとへおなじ田中の者こゝに来り、武士の雪中にたふれておきもあがらざるを不審いぶかり立よりて、なにぞやみ玉ふかといへば、武士はかなきこゑしておこしくれよといふ。その※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)かほいろはつねならねど病人とも見えず、いざとて手をとり引起ひきおこさんとするに手をのばさず、かゝえおこさんとすれどもおきず、なほちからのかぎりおこさんとすれどもおもき事大石の如くにてうごかさず、こは不思議ふしぎおどろきおそるるを見て、武士しか/″\の事ありしが五体ごたいすくみてうごく事ならずといふ。田中のものこの武士が米俵を脊負せおひしものといひしをきゝて、心におぼえあればさてはと心づき、これかならず行者ぎやうじやばちならんと行者ぎやうじやたるあらましをかたりきかせ、われもかれがゆきたる中村へゆくもの也、かの行者をこゝへつれきたらん、わび玉へ、こゝよりは程ちかしまち玉へとてはせゆき、やがて行者をつれきたりければ、武士は手をすりてゆるしたまへ/\といふ。行者はいかりたるいろもなく、なにともいはず衣服きるものぬぎてかたへの水楊かはやなぎにかけ、赤裸あかはだかになりて水をかんまゐりする方をふしをがみ、武士の手をとりて引起ひきおこしければなにのくもなくおきあがり、いかにもはぢたるさまにてれいをのべて立さりけるとぞ。常に我が家にる田中のものがかたれり。

○ 雪中の幽霊いうれい


 我が隣駅りんえきせきといふ宿しゆくにつゞきて関山せきやまといふ村あり、此村より魚野うをの川をわたるべきはしあり。流れきふなればわづか出水でみづにも橋をながすゆゑ、かりつくりたる橋なれど川ひろければはしもみじかからず。雪の頃は所のもの橋の雪をほりみちを作れども、一夜の内に三尺も五尺もつもる事もあるゆゑに、日毎にもほらざれば橋幅はしはゞせまきに雪のつもりたる上をわたるなれば、わたなれたるものすらあやまつて川におち入り溺死おぼれしするものもまゝあり。
○さて此関山村のかたほとりに、ひと草庵さうあんむすびて源教げんけうといふ念仏ねんぶつ道心坊だうしんばうありけり。年は六十あまり、たゞ念仏三昧ざんまい法師はふしにて、无学むがくなれどもそのおこなひ碩僧せきそうにもをさ/\おとらず。かゝる僧なれば年毎としごと寒念仏かんねんぶつぎやうをつとめ、无言むごんはせざるゆゑ夜毎よごとに念仏してかねうちならし、ものにまゐりしかへるさ二夜に一度はかのはしに立て年頃おぼれしゝたる者の回向ゑかうをなししに、今夜こよひは満願とてかの橋にもいたり殊更ことさらにつとめて回向ゑかうをなし鉦うちならして念仏ねんぶつしけるに、皎々けう/\たる月遽然にはかくもりて朦朧まうろうたり。こはいぶかしとおもひしに、水中すゐちゆうよりあをき火閃々ひら/\ともえあがりければ、こは亡者まうじや陰火いんくわならんと目をとぢてかねうちならし、しばらく念仏して目をひらきしに、橋の上二けんばかりへだてて、年齢としのころ三十あまりと見ゆる女白く青ざめたる※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)黒髪くろかみをみだしかけ、今水よりいでたりとおもふばかりぬれたる袖をかきあはせてたてり。常人つねなみのひとならばといひてにぐべきに、さはなくてその方に身をむけてつら/\見るに、かうくらくなりしにかゝるものゝあり/\と見ゆるもたゞ人ならじと猶よく見れば、からだ透徹すきとほるやうにてうしろにあるものもかすかに見ゆ。こしより下はありともなしともおぼろげ也。これこそ幽霊いうれいならめとしきりに念仏しければ、移歩あゆむともなくまへにすゝみきたり、細微ほそがれたるこゑしていふやう、わらはゝ古志郡こしこほり何村なにむら(村名はもらす)きくと申もの也、つま冥途めいどにさきだてひとあとにのこり、かそけきけふりさへ立かねたれば、これよりちかき五十嵐村いがらしむら由縁ゆかりものあるゆゑたすけをこはんとてこの橋をわたりかゝり、あやまちて水に入り溺死おぼれしゝたるもの也、今夜こよひは四十九日の待夜なれど、世にすてられしかなしさはたれありて一掬ひとすくひの水だに手向たむくる人なし。さるをおんそうしば/\こゝにきたりて回向ゑかうありつる功徳くどくによりてありがたき仏果ぶつくわをばえたれども、かしら黒髪くろかみさはりとなりて閻浮えんぶまよふあさましさよ。此上のねがひには此くろかみをそりこぼして玉はれかし、あな悲哉かなしやとて、※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)かほに袖をあてゝさめ/″\となきけり。源教げんけういふやう、そはいとやすき事也、されどこゝにはそるべき物ももたざれば、あすの夜わがすむ関山せきやまの庵へきたり候へ、望をはたし申さんといひければ、さもうれしげにうなづくと見えしがけふりのごとくきえうせ、月は皎々けう/\として雪をてらせり。
○さるほどに源教げんけういほりにかへりて、朝日あけのひ人をたのみて旧来としごろしたしきおなじ村の紺屋こんや七兵衛をまねき、昨夜かう/\の事ありしとおきく幽霊いうれい※(「古/又」、第4水準2-3-61)をこまかにかたり、お菊が亡魂まうこん今夜こよひかならずきたるべし、かゝる事はほとけうとき人らにもかたりきかせて教化けうぐゑ便よすがともなすべくおもへども、たしかに見とゞけたりといふ証人しやうにんなければ人々空言そらこととおもふらん、和殿わどの正直しやうぢききこえある人なれば幽霊いうれいの証人にたのみ申也、これも人の為也といふ。七兵衛も此法師とおなじとしごろにて、しかも念仏の信者しんじやなれば打うなづき、御坊ごばうのたのみとあればいかで固辞いなみ申さん、火ともすころにべし、何方いづくにもあれかくれゐて見とゞけ申さん。さればよ仏壇ぶつだんの下こそよきかくれ所なれ、かまへて人にかたり玉ふな、かたりたらば幽霊いうれいを見んとて村の若人わかうどらがべきぞ。心えたるはとて立かへりぬ。
かくてその黄昏たそがれにいたり、源教げんけうは常より心して仏に供養くやうし、そこらきよらになしきやうたり。七兵衛はやきたりぬ。しをはりて七兵衛に物などくはせ、さて日もくれければ仏壇ぶつだんの下の戸棚とだなにかくれをらせ、のぞくべき節孔ふしあなもあり、さてほとけのともし火も家のもわざとかすかになし、仏のまへに新薦あらこもをしきて幽霊いうれいらする所とし、入り口の戸をもすこしあけおき、とぎたてたる剃刀かみそり二てうを用意よういし今や/\と幽霊いうれい待居まちゐたり。此夜はしかも雪になりて、すこしあけおきたる戸口よりもふりこむ風にあかしもきえんとするゆゑ、戸をさしのはたにありて戸棚の七兵衛にいふやう、蒲団ふとんはしきおきたり、そこにありてねふり玉ふな。いかでさることせん、幽霊を見んとおもへば心に念仏ねんぶつするのみ也。御坊ごばうこそくせをいだしてふねこぎ玉ふらめ、おとたかししづかにいへ、幽霊を見るともかまへて音をたて玉ふな、といひつゝ手作てさくとて人にもらひたる烟草たばこのあらくきざみたるもやゝすひあきて、あくび念仏ねぶつかみまぜおとがなでまはししがひげをぬきて居たり。雪は雪簾ゆきだれにあたりてさら/\とおとのふのみ、四隣しりんなければせきとしてこゑなくやゝ時もうつりけり。

雪中幽霊之圖

○さて幽霊はかげも見えず、源教げんけうあたゝまりて睡眠ねふけをもよほし、居眠ゐねふりしつゝつひに倒れんとして目をひらきしに、お菊が幽霊いうれい何時いつきたりてほとけむかひ、まうけたる新薦あらこもの上にすはかしらたれてゐたり。さすがの源教げんけう戦慄ぞつとせしが、心をしづめてよくこそきたりつれといふに、幽霊いうれいはさらにことばをいださず、すがたは昨夜よんべ見たるにたがはず。源教げんけうをそゝぎたらいに水をくみとり剃刀かみそりをもちて立より見れば、打みだしたるかみつゆのたるばかりぬれてあり。されど雪ふるなかをきたりしといふしるしもなし。心におもふやう、これが髪の毛をのこしとゞめてのちのしるしとせばやなど心して剃刀かみそりをはこばせけるに、そりおとす髪の毛糸をつけて引がごとくかれがふところに入る。女なれば髪の毛ををしむならんと毛をゆびにからみてりしに、自然おのづからふところに入りて手にとゞまらず。とかくしてりをはり、わづかすこしの毛はやうやくとりとゞめつ。幽霊いうれいは白くやせたるあはせ、ほとけをがみつゝすがた次第しだいうすくなると見えしがきえうせけり。

○ 関山村せきやまむら毛塚けづか


 かくて紺屋こんや七兵衛かくれゐたる戸棚とだなよりはひいで、さてもおそろしきものを見つる事かな、いかに法師なればとてよくぞ剃刀かみそりをあて玉ひたる、たゞ見るさへおそろしかりき、ひとりかへらんも気味きみわろし今夜こよひはこゝに宿らん。いかにもやどり玉へ、待し人のかへりたればもはや用なし、これ見玉へ、のちしるしにせばやとてこればかりの髪の毛をやう/\のこしおきたり、幽霊いうれいも心ありてのこしつらんとて見せければ、七兵衛はさしのぞきて手にもとらず。法師は紙につゝみて仏壇ぶつだんにおき、夕にのみ玉ひし酒ものこりあり、肴はなくとものみ玉へとていさゝかのものとりいだして、二人ながらのはたに胡坐あぐらかきて酒のみながら七兵衛がいふやう、幽霊いうれいといふものはなしにはきゝつるが見しははじめて也、袖振合そでふりあはすも他生たしやうえんとこそいふなれ、いたづらに見すぐさんも本意ほいなし、今夜こそ仏法ぶつほふのありがたさも身にしみつれば、あすは此いほりにて百万べんをなしてお菊が仏果ぶつくわのいとなみにせん。源教げんけう、そはよき功徳くどくならん、古志郡こしこほりのお菊がいうれいを見とゞけたりと人々にかたり玉へ、愚僧ぐそうもわどのを証人しやうにんとして幽霊をかたりて教化けうぐゑのたよりにせん。すでにむかしもかゝる事ありしと砂石集させきしふに見えし事など、人にきゝたるをおぼろげにおぼえて一ツ二ツかたりきかせなどして、夜もふけゝれば一ツの夜具やぐをふたりしてかづきうちふしけり。
○さてあけの日、七兵衛源教げんけうともなひて家にかへり、四隣あたりの人をあつめてお菊が幽霊の事をかたりければ、源教げんけうふところよりかの髪の毛をとりいだして見すれば人々奇異きいのおもひをなしぬ。さて七兵衛百万遍の事をいひしに、あつまりしものども、それこそよき善行ぜんぎやうなれ、こよひもよほし玉へ、茶の子はこなたよりもちゆかん、御坊ごばうは茶の用意よういをし玉へ、数珠ずゝあんにはなかりき、これもおてらのをかりてもちゆかん、猶人々をもさそひあはせてゆかんといふ。七兵衛がつまもかたはらにありしが、をつとにむかひ、とてもの事にもちをつきたまへとすゝむ。いかにもよからんとてにはかにそのもよほしをなしけり。
○かくてその夜源教げんけう草庵さうあんに人々あつまり、おしこりあひて念仏しければ、なか/\ににぎはしき仏事也けり。此事こゝかしこにつたきこえて話柄はなしのたねとしけるが、こゝろざしあるものゝいふやう、源教がもちしかの髪の毛を※(「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54)うづ石塔せきたふたて供養くやうせば、お菊が幽魂いうこん黄泉地よみぢのかげにもよろこびなんといひいだししに、おなし心の人あまたありてその事とゝのひ、つひに石塔をたてんとする時にいたりて、源教いふやう、かゝる※(「古/又」、第4水準2-3-61)導師だうしたらんは我がおよぶ所にあらず、こは最上山さいしやうざん関興寺くわんごうじの上人を招請せうだいあれかしといふ。人々さらばとてかしこにいたり、事のよしをつげてお菊が戒名かいみやうをもとめ、お菊が溺死おぼれしゝたるはしかたはらに髪の毛をうづ石塔せきたふたつる事すべて人をはうふるがごとくし、みなあつまりてねんごろに仏事ぶつじいとなみしに、かのこん屋七兵衛は此※(「古/又」、第4水準2-3-61)より発心ほつしんしてのち出家しゆつけしけるとぞ。こはひとむかしまへの事也ける、関山せきやま毛塚けづかとて今にのこれり。

○ 雪中鹿しか


 他国の人、越後はすべて大雪の国とおもふめれどさにあらず。まへにもいへるごと海浜かいひんに近き所は雪浅し。雪ふかきは魚沼うをぬま頸城くびき古志こしの三ぐんあるひ苅羽かりは三嶋みしまの二郡、(所によりて深浅あり)蒲原かんばらは大郡にて雪うすき所なれども東南は奥羽あううとなりて高嶺かうれいつらなるゆゑ、地勢によりては雪深き所あり。雪深き所は雪中牛馬をつかはず、いかんとなれば人は雪に便利べんりのはきものを用ふれども牛馬にはこれをほどこす事あたはず、もし雪中にこれをおはくびのあたりまで雪にうづまらん、さればつかふ事ならざる也。およそ十月よりとしえて四月のはじめまでは、むなしくやしなひおくのみ也。これ暖国だんこくにはなき難儀なんぎの一ツ也。さてけものはまへにもいへるごとく、初雪しよせつを見て山つたひに雪浅き国へる、しかれども行后ゆきおくれて雪になやむもあればこれをる事あり。(熊の事は上巻にいへり)野猪ゐのしゝたけきゆゑ雪ふかくともやすからず、鹿しか羚羊くらしゝなどはよわきものゆゑ雪にはやすし。鹿はことさら高脛たかはぎなるゆゑ雪にはしる事人よりおそきにたり。鹿は深山みやまをこのまず、おほかたは端山はやまるもの也。すべて物になるればその妙あり、山猟さんれふなれたる者は雪の足跡あしあとを見てそのけものをしり、またこれは今朝のあしあと、こは今ゆきしあとゝその時をもしる也。三国嶺みくにたふげより北へつゞく二居ふたゐの人(たふげあるところ也)の鹿おひしたるをきゝしに、いざ鹿おひにゆかんとてかたらひあはせ、おの/\雪をぐべき(ふかき雪をゆくを里ことばにこぐといふ)ほどに、身をかため山刀をさし、銕炮てつはう手鎗てやりぼうなどもちて山に入り、かの足跡あしあとをたづねあとにしたがへばかならず鹿を見る。かれ人を見てにげんとすれども人のはしるにおよばず、鹿は深田ふかたをゆくがごとくつひにはひつめられてころさる。あるひは剛勇がういゆうの人などはつのをとりてねぢふせ、山刀にて剌殺さしころすもありとぞ。これらは暖国だんこくにはなき事ならめ。

○ とまやま大猫おほねこ


 我が隣駅りんえきせきにちかき飯士山いひじざんつゞく東に、阿弥陀峯あみだぼうとてきこりする山あり。(村々持分ンの定あり)二月にいたり雪の降止ふりやみたる頃、農夫のうふら此山にきこりせんとてかたらひあはせ、連日れんじつ食物しよくもつ用意よういしかの山に入り、所を見立てかりに小屋を作り、こゝを寐所ねどころとなし、毎日こゝかしこの木を心のまゝにきりとりてたきゞにつくり、小屋のほとりにあまたつみおき、心にるほどにいたればそのまゝにつみおきて家にかへる。これをとまり山といふ。(山にとまりゐて※(「古/又」、第4水準2-3-61)をなすゆゑ也)さて夏秋にいたればつみおきたるたきゞかわくゆゑ、牛馬ぎうばつかひてたきゞを家にはこびて用にあつる也。雪ふかき所は雪中には山に入りてきこりする事あたはざるゆゑの所為しわざにて、我国雪のため苦心くしんするの一ツ也。右にいふあみだぼうには水なく、谷川あれども山よりは数丈すぢやうの下をながる、つばさなければくむことあたはず。こゝに年歴としへたる藤蔓ふぢづるの大木にまとひたるが谷川へ垂下たれさがりたるあり、とまやまして水くむものたるにくゝしひ、此ふぢづるをたよりとして谷川へくだり、水をくみてたるの口をつめておひ、ふたゝびふぢづるにすがりてのぼる、雲桟くものかけはしをのぼるさま也。とまり山をするもの、このふぢづるなければ水をくむ事ならず、よしやなはを用ふとも此藤のつよきにはおよぶまじ。このゆゑに泊り山するものら、此つるたからのごとくたふとぶとぞ。ひとゝせ泊り山したるものゝかたりしは、ことし二月とまり山しゝ時、つれのもの七人こゝかしこにありて木をりてたりしに、山々にひゞくほどの大こゑしてねこなきしゆゑ、人々おそれおのゝきみな小屋にあつまり、手に/\をのをかまへみゝをすましてきけば、そのこゑちかくにありときけば又とほくになき、とほしときけばちかし。あまたのねこかとおもへば、其声は正しく一ツの猫也。されどすがたはさらに見せず、なきやみてのち七人のものおそる/\ちかくなきつる所にいたりて見るに、いてたる雪にふみ入れたる猫の足跡あしあとあり、大さつねの丸盆ほどありしとかたりき。天地の造物ざうぶつかゝるものなしともいふべからず。我がとも信州の人のかたりしは、同じ所の人千曲川ちくまかはへ夏の夜釣よづりゆきしに、人の三人もをるべきほどのをりよきいは水よりなかばいでたるあり、よき釣場つりばなりとてこれにのぼりてつりをたれてゐたりしに、しばしありてその岩に手鞠てまりほどにひかるもの二ツならびていできたり、こはいかにとおもふうちに、月の雲間くもまをいでたるによくみれば岩にはあらで大なる蝦蟇ひきがひるにぞありける。ひかりしものは目なりけり。此人いきたる心地もなくなにもうちすてゝげさりしとかたりぬ。

○ 山言語やまことば


 右のとまり山するは此地にかぎらずほかにもする所あり。小出嶋こいでじまといふあたり、上越後山根やまね在々ざい/\にてもするなり。すべて深山みやまにありて事をなすには山ことばといふありてこれをつかふ。わすれて里のことばをつかふ時はかならず山神のたゝりありといひつたふ。他国はしらず、その山言語やまことばとは、○米をくさ味噌みそをつぶら○しほをかへなめ○焼飯やきめしをざわう○雑水ざふすゐをぞろ○天気のよきをたかゞいゝ○風をそよ○雨も雪もそよがもふといふ。○みのをやち○笠をてつか○人の死をまがつた又はへねた○男根なんこんをさつたち○女陰ぢよいんくまあな。此あまたあり、さのみはとてしるさず。女陰ぢよいんを熊の穴といふをもておもふに、これらのことばは商家しやうか符調ふてうといふものにおなじかるべし。かゝることばを山にてつかはざれば山神のたゝりたまふといふはうけがたけれど、神の※(「古/又」、第4水準2-3-61)人慮じんりよをもてかろ/\しくしゆべからざる物をや。

○ わらべの雪あそ


 我があたりはしば/\いへるごとく、およそ十月より翌年よくとしの三月すゑまではとしこえて半年は雪也。此なかにうまれ、此なかに成長せいちやうするゆゑ、わらべの雪遊びをなす事さま/″\ありて、暖国だんこくにはなき事多し。その中に暖国の人にはおもひもよらざるあそびあり、まづ雪を高く掘揚ほりあげおきたる上などをわらべども打よりてあそびの木鋤こすきにて平らになしてふみつけ、(わらべも雪中にはわらくつをはくこと雪国のつねなり)さて雪をあつめて土塀とへいを作るやうによほどのかこみをつくりなし、そのあはひにも雪にてかべめく所をつくり、こゝに入り口をひらきてとなりいへとし、すべてのかこみにも入り口をひらく。此内に宮めかす所を作り、まへにだん/\をまうけ宮の内に神の御体みすがたとも見ゆるやうにつくりすゑ、これを天神さまとしよう(ゑびす大こくなどもつくる)むしろなどしきつめ物をべき所をも作る。すべてみな雪にて作りたつる也。(雪をくぼめ、ぬかをしきて火をたくに、きゆる事なし)これを雪ン堂又しろともいふ。児曹わらべども右の雪ン堂の内にあつまり物などて神にもさゝげ、みなよりてうちくふ。又あひだにへだてを作りたるはとなりの家になずらへ、さま/″\の事をなしてたはむれあそぶ。あそびうめかう作りたるを打こぼつをもあそびとし、又他のわらべのこれにちかくおなじさまに作りたるをしろをおとすなどいひてうちくるふもあり、そのまゝにおくもあり。おのれ牧之ぼくしわらべのころはかゝるあそびの大将たいしやうをもせしが、むなしく犬馬けんばよはひて今はゆめのやう也けり。

雪窓座頭を降す圖

○ 雪に坐頭ざとうふら


 まへにもいへるごとく雪のうちに春をむかふるゆゑ、歳越としこしの日などはいづれの家にてもことさらに雪をほり※(「窗/心」、第3水準1-89-54)まどのあかりをとり、ほりたる雪も年越としこしの事しげきにまぎれて取除とりのけをはらず、掘揚ほりあげ屋上やねにひとしき雪道歩行あゆむにたよりあしき所もあり。ひとゝせ歳越としこしてんをしたる俳諧はいかいまきふところにし、俳友はいいう兎角子とかくしともなひ、そのまき催主さいしゆのもとへいたりて巻をあるじつかはしければ、よろこびて、今夜こよひはめでたき夜なり、ゆる/\かたり玉へとて、主人あるじつまよめむすめうちまじりてもてなしけり。さてさま/″\の雑談ざふだんのなかにあるじのつま牧之ぼくしに、としこしの夜は鬼のるとて江戸には厄払やくはらひといふものありて鬼をふ事をおもしろくいひたてゝ物乞ものこひすときゝしが、むかしもさる事ありしや、鬼のきたるといふ空言そらごとも古きつたへにやとふ。こたへて、そはあるじが持玉ふ年浪草としなみぐさに吾山があらましはしるせり、かの書を見玉へといひしに、兎角子とかくしは酒にもゑひたれば戯言たはふれていふやう、鬼のくるといふ事いかでそらごとならん、女などのあつまりをる所は鬼のこのむ所也。鬼のくればこそとしこしの豆まきを鬼やらひとはいふなれ、俳諧はいかいよせにも見えたりといふ。母のかたはらにゐたる十三になる娘がいふ、わぬしその鬼を見し事ありしや。見たりとも/\鬼にもさま/″\あり、青鬼赤鬼は常の事也、※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)かほの白くてやさしきを白鬼といひ、黒くて肥太こえふとりたるを黒鬼といふ。おのれ江戸にありし時、厄払やくはらひが鬼をかいつかみて西の海へさらりとなげたるを見たる事あり、その鬼は黒かりし。江戸の歳越としこしにさへ夜は鬼のありくなれば、こゝらのとしこしには鬼はいくらもありくべし。あかりまどよりのぞきやすらんとたはむれにおどせば、よめもむすめも空言そらごとのたまふなと口にはいへど、母の左右によりつきておそるゝさま也けり。かゝるをりしも人々のすはりゐたるうしろの方にたかきあかり窓ありしが、きびしき音ありてまどをやぶり、ほりあげの雪がら/\とくづれおちたる中に人のりくだりければ、女はみなといひてうつぶして愕然おびえまどひ、男はみな立あがりておどろきけり。下部しもべらもこのおとにみなはせよりて、くづれおちたる雪にまみれたる人を見れば、此家へも常にきたる福一といふ按摩あんまとりの小座頭こざとう也けり。幸ひにきずもうけずあたまなでまはしこしをさする、こは福一なりとてみなわらへばおのれもわらふ。下部しもべらはおちたる雪をとりのけまどをもかりにつくろひなどす。あるじのつまはらたてゝ、いかに福一、兎角とかくどのゝ鬼のはなししてをられしに鬼かとおもひてみなきもをひやせり、めでたきとしの夜にめくらまどよりふりこみしはいまはしき事なり、とく/\いでゆけとてしたゝかにしかりければ、あるじ、さなしかり給ひぞ、福一いかにして窓よりおちいりしぞ、いためし所はなきかといふ。福一うちゑみつゝ、いためし所は候はず、今夜こよひのおめでたを申さんとてこそやどはいでたれ、なにやつのしわざにや、ほりあげの道きのふとはちがひてあしもとあしくしおきたれば、あやまちてこけたるがまどをもおしやぶりておち入たる也、わろさにてしたるには候はずゆるし玉へといふ。娵も娘も口をそろへ、鬼にやとていみじくおびえたり、にくめくらめと腹立はらたちていふ。あるじのつまいかりをやめず、しかもことしの吉方ゑはうにあたるまどをやぶり目のなきものゝ入りしは、かへす/\いまはしき事也、とく/\かへれとのゝしりければ、兎角とかくかたはらより、福一まづかへりて又こよ、そのうちにわびしておくべしといへど、福一かしらをたれものをあんずるさまなりしが、やがて兎角とかくにむかひ、うた一首いつしゆよみ候かきて玉はれといふ。此福一はとしわかけれど俳諧はいかいもざれ哥をもよむものなれば、あるじ、こはおもしろしとて兎角とかくがかきたるをよませてきけば、そのうたに
吉方ゑはうから福一といふこめくら米倉が入りてしりもちつくはめでたし
このうたにて人々めでたし/\ときやうじ、手などうちていさみよろこび、ふたゝびさかづきをめぐらしけり。あるじもんつきの羽織はおりよめにとりいださせて、うたのろくとて福一にとらせければ、ひざにのせてなでさぐり、あやまちの高名かうみやうしつとてゑみはうけてよろこびつゝ、めでたく歳越としこしにきそはじめせんとて、おりきてなでさぐり、かたちをつくりて猶よろこびけり。これ吉瑞きちずゐなりけん、此年此家のよめ初産うひざん男子なんしをまうけ、やまひもなくておひたち、三ツのとし疱瘡はうさうもかろくして今年七ツになりぬ。福一はかゝる伶俐かしこきものなりしゆゑ、今江戸にありてくわんにもすゝみしと聞ぬ。目でたき事どもなりけり。

少年
画者   京水百鶴
京水百鶴押印の図











北越雪譜初編巻之下 終 全三巻大尾
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北越雪譜二編叙


北越雪譜六巻越後塩沢鈴木牧之老人雪窗囲寒燈隠ルノ随筆ナリ、其事出実脚ラニスル之談、然ドモ翁固シモ於梓行矣、嚮者郵筒シテ校正、為刈蕪蔓※(「てへん+庶」、第3水準1-84-91)※(「てへん+頡」、第3水準1-85-4)菁英三巻以為初編、告使書肆文渓堂ヲシテ、然後越雪之奇千彙万状供シテ臥遊錦室婦妾市窓妻婢詳知越※[#「雨かんむり/彗」、U+4A2E、163-5]、解士通人格致之一助ナリト、爰以雪譜之名頗踴躍セリ、於是乎書肆頻リニ嗣撰、盖以残稿在ルヲ也、余ヲモヘラクシテハ越地越事、仍丁酉之夏携児京水越遊スルコト数十日有紀行、再採数修シテ翁之残稿以為二編稿定[#「将」の左に「ス」のルビ]ント序言焉、頃者コノコロ暁春連日放晴紅酣緑戦花神旺壮シテ遊心勃興、欲シテ成田山威怒王祠以療セント錐毛之痾矣、夫成田山香火之盛ナル世之所知也、凡自江戸成田者抵小網※[#「衙」の「吾」に代えて「共」、U+8856、163-9]橋岸搭船[#「搭船」の左に「ノリアヒ」のルビ]水路直行徳、都人皆以為捷径[#「捷径」の左に「チカミチ」のルビ]、盖行徳一市会也、不トセ成田香火者搭船常シテ于橋岸行客、是以俗呼コノ行徳河岸行徳船、余亦臨搭船、其所供載者多是庸卑雑沓猥褻衆口喋※(「口+曹」、第3水準1-15-16)タリ、余一僧一士一商、僧年歯六十バカリ一童僧、士バカリ二十四五誇觜軽俊殆ンド学究、商半老[#左にルビ付き]※憧市様[#左に「タナモノフウ」のルビ付き終わり]、相、余箝黙シテ一語、瓦屋漸尽両岸茅葺桜花浮※(「嗽」の「口」に代えて「女」、第4水準2-5-78)柳吐村落春景百逞如水行之会心也、船既半途庸卑多※(「口+曹」、第3水準1-15-16)々自寥々可、壮士出墨斗シテ懐楮※(「不/見」、第3水準1-91-88)モトム[#「りっしんべん+夢」、U+61DC、163-12]、果シテ是書生也、老僧靉靆鏡[#「靉靆鏡」の左に「メカネ」のルビ]ラク書、士閣曰尊者、僧曰北越雪譜ナリ、士曰僕甞兎園冊子何以閲、僧曰貧道一タビ于北シク越雪故特之供以読ムニ矣、今閲ルニ京山人、士曰否々不然、夫京山者文場之奴隷[#「奴隷」の左に「シモベ」のルビ]芸苑之[#左にルビ付き][#「にんべん+與」、U+349C、164-5][#「にんべん+臺」、U+5113、164-5][#左に「マタモノ」のルビ付き終わり]也、近年随シテ乎稗史院本之泥中シテ姓名能脱スルコト※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)、雖然彼李漁金人瑞之流亜文客イカデカ、僧※(「口+台」、第4水準2-3-77)トシテ笑而不、余佯睡[#「佯睡」の左に「ソラネムリ」のルビ]シテ、商ヤメテ[#「烟」の左に「タバコ」のルビ]曰鄙人書賈也能識刊行之趣、凡上梓之書編輯之荒誕与詞章之奇雋只以多鬻大著述シテ其作者揺銭樹[#「揺銭樹」の左に「カネノナルキ」のルビ]、雖スルノ韻士新書メバ其不一レ売唾而不顧、是書肆之通義[#左にルビ付き]※(「耒+禺」、第3水準1-90-38)[#左に「ナカマ」のルビ付き終わり]之常態也、北越雪譜初編之梓一挙シテ七百余部刷板装本[#「刷板装本」の左に「スリシタテ」のルビ]ルニ暇給故二編刻発兌当近矣、士不トシテ其言調舌不止鼓觜頻、僧手ステヽ巻曰、論説足下識京山、士曰不識、僧曰我十年前与於一精舎タリ一面識、不因縁、言遽然トシテシテ曰、京山老人醒リヲ長兄忘レタル我歟、余愕然[#「愕然」の左に「ビツクリ」のルビ]トシテルコトヲ、時船着行徳之岸舟中之人皆上岸、不叨吐※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)スルコトヲコヽニ矣、此夕綴リテ其言於逆旅燈下以為序云

天保十一年庚子潔月
京山人百樹并書 京山人百樹押印の図
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北越雪譜ほくゑつせつふ二編凡例はんれい


 此書このしよ全部ぜんぶ六巻、牧之老人ぼくしらうじんねふりかる漫筆まんひつあづさまたざるの稿本かうほん[#「稿本」の左に「シタガキ」の注記]なり。ゆゑ走墨乱写そうぼくらんしやし、また艸画さうぐわなり。老人らうじんしめして校訂かうてい[#「校訂」の左に「カンガヘタヾス」の注記]ふ。よつ其駁雑そのはくざつ[#「駁雑」の左に「トリマゼ」の注記]けづり、校訂かうてい清書せいしよし、豚児とんじ[#「豚児」の左に「セガレ」の注記]京水にゑがゝしめしもの三巻、書賈しよか[#「書賈」の左に「ホンヤ」の注記]こひおうじ老人につげゆるもつてしきしに、発販はつはん[#「発販」の左に「ウリダシ」の注記]一挙いつきよして七百余部よぶひさげり。これより書肆しよし後編こうへんふ。しかれども机上きしやう編筆へんひつせはししば/\稿かう[#「稿」の左に「シタガキ」の注記]だつす[#「脱」の左に「デカス」の注記]るの期約きやくうしなひしゆゑ、近日このごろつとめて老人が稿本かうほん残冊ざんさつていし、もつて其乞そのこひさづく。
 牧之ぼくし老人は越後ゑちご聞人ぶんじん[#「聞人」の左に「ナタカキヒト」の注記]なり。かつて[#「甞」の左に「マヘカラ」の注記]貞介朴実ていかいぼくじつ[#「貞介朴実」の左に「ヨキオコナヒ」の注記]もつてきこえ、しば/\県監けんかん[#「県監」の左に「アガタモリ」の注記]褒賞はうしやう[#「褒賞」の左に「ホメル」の注記]はいして氏の国称こくしようゆるさる。生計せいけい[#「生計」の左に「イトナミ」の注記]余暇よか[#「余暇」の左に「イトマ」の注記]風雅ふうがを以四方にまじはる。余が亡兄ぼうけい醒斎せいさい(京伝の別号)をう鴻書こうしよ[#「鴻書」の左に「テガミ」の注記]ともなりしゆゑ、またこれぐ。老人越遊ゑついうすゝめしこと年々なり。もとより山水にふけるへきあり、ゆゑに遊心いうしんぼつ[#「勃々」の左に「スヽム」の注記]たれども事にまぎれはたさず。丁酉の晩夏ばんかつひ豚児せがれ京水をしたがへ啓行けいかう[#「啓行」の左に「タビタチ」の注記]す。はじめには越後の諸勝しよしよう[#「諸勝」の左に「メイシヨ」の注記]つくさんと思ひしが、越地ゑつちに入しのちとしやゝしん[#「侵」の左に「キヽン」の注記]して穀価こくか貴踊きよう[#「貴踊」の左に「タカク」の注記]し人心おだやかならず、ゆゑに越地をふむことわづかに十が一なり。しかれども旅中りよちゆうに於て耳目じもくあらたにせし事をあげて此書に増修そうしう[#「増修」の左に「マシイル」の注記]す。百樹もゝき曰といふもの是也。
 前編ぜんへんのせたる三国嶺みくにたふげは、牧之老人が草画さうぐわならひて京山私儲わたくしして満山まんざん松樹まつのきゑがけり。越遊ゑついうの時三国嶺をこえしに此嶺このたふげはさらなり、前後の連岳れんがく[#「連岳」の左に「ヤマ/\」の注記]すべて松を見ず。此地にかぎらず越後は松のすくなき国なり。三国たふげを知る人は松を画しをわらふべし。是老人が本編ほんへんあやまりにはあらず、京水が蛇足じやそくなり。
 山川村庄さんせんそんしやうはさらなり、およそ物の名のよみかた清濁すみにごるによりて越後の里言りげんにたがひたるもあるべし。しかれども里言は多く俗訛ぞくなまりなり、いましばらく俗にしたがふもあり。本編には音訓おんくん仮名かなくださず、かなづけは所為しわざなり。あやまりを本編にかることなかれ。
 余也よやもとより浅学せんがくにして多くしよ不読よまず寒家かんか[#「寒家」の左に「ヤセイヘ」の注記]にして書に不富とまず、少く蔵せしもしば/\祝融しゆくいう[#「祝融」の左に「火ノコト」の注記]うばゝれて、架上かしやう[#「架上」の左に「タナノウヘ」の注記]蕭然せうぜん[#「蕭然」の左に「サビシ」の注記]たり。依之増修ぞうしうせつに於て此事はかの書に見しとおぼえしも、其書を蔵せざれば急就きうしの用にべんぜず、韈癬べつせん[#「韈癬」の左に「ムヅカユイ」の注記]するが多し。かつ浅学せんがくなれば引漏ひきもらしたるもいと多かるべし。
 本編雪のほかの事をのせたるは雪譜せつふの名をむなしうするにたれども、しばらくしるして好事かうず話柄わへい[#「話柄」の左に「ハナシノタネ」の注記]す。増修そうしうせつまたしかり。
 雪の奇状きじやう奇事きじ大概たいがいは初編にいだせり。なほ軼事てつじ[#「軼事」の左に「オチタコト」の注記]あるを以此二編にしるす。すでに初編にのせたるも事のことなるは不舎すてずしてこれろくす。けだし刊本かんほん[#「刊本」の左に「ホリホン」の注記]流伝りうでんひろきものゆゑ、初編をよまざるものためにするのあり。前後を読人よむひと層見重出そうけんちようしゆつ[#「層見重出」の左に「カサナリイヅル」の注記]なじることなかれ。
 しやく釈につくるの外、たくを沢、驛をえきつくるぞくなり、しかれども巻中えきたくの字多し。しばらくぞくしたがうて駅沢に作り、以梓繁しはん[#「梓繁」の左に「ホリテマ」の注記]はぶく。省字せうじは皆古法こほふしたがふ。
 巻中の画、老人が稿本かうほん艸画さうぐわしんにし、あるひは京水が越地にうつし真景しんけい、或里人さとびとはなしきゝに作りたるもあり、其地にてらしてあやまりせむることなかれ。
 老人編をつぐあり、ゆゑに初編二編といふ。前編後編といはず。

天保十一年庚子仲春
京山人百樹識
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北越雪譜二編 巻一


越後塩沢   鈴木牧之  編撰
江戸     京山人百樹 増修

○ 越後の城下


 越後の国往古わうご出羽越中ではゑつちゆうまたがりし事国史こくしに見ゆ。今は七ぐんを以て一国いつこくとす。東に岩船郡いはふねごほり(古くはいはに作る海による)蒲原かんばら新潟にひがたみなと此郡に属す)西に魚沼うをぬま(海に遠し)北に三嶋みしま(海による)刈羽かりは(海に近し)南に頸城くびき(海に近き処もあり)古志こし(海に遠し)以上七ぐん也。城下は岩船郡いはふねこほりむら(内藤侯五万九千石ヨ)蒲原かんばら郡に柴田しばた(溝口侯五万石)黒川くろかは(柳沢侯一万石陣営)三日市(柳沢弾正侯一万石陣営)三嶋郡に与板よいた(井伊侯二万石)刈羽かりは郡に椎谷しひや(堀侯一万石陣営)古志郡に長岡ながをか(牧野侯七万四千石ヨ)頸城くびき郡に高田たかた(榊原侯十五万石)糸魚川いといかは(松平日向侯一万石陣営)以上城下のほかすこぶる豊饒ぶねう[#「豊饒」の左に「ニギハヒ」の注記]ところ魚沼うをぬま郡に小千谷をぢや、古志郡に三条さんでう、三嶋郡に寺泊てらとまり出雲崎いづもざき刈羽かりは郡に柏崎かしはざき頸城くびき郡に今町いままちなり。蒲原かんばら郡の新潟にひがたは北海第一のみなとなれば福地たる※(「古/又」、第4水準2-3-61)ことろんまたず。此余このよ豊境はうきやうしばらくりやくす。此地皆十月より雪る、そのふかきあさきとは地勢ちせいによる。なほすゑろんぜり。

○ 古哥こかある旧蹟きうせき


 蒲原郡かんばらごほり伊弥彦山いやひこさん(弥一作夜)伊弥彦社いやひこのやしろを当国第一の古跡こせきとす。まつるところの御神は饒速日命にぎはやひのみことの御子天香語山命あまのかごやまのみことなり。 元明天皇げんみやうてんわう和銅わだう二年の垂跡すゐしやくとす。(社領五百石)此山さのみ高山にもあらざれども、越後の海浜かいひん八十里の中ほどに独立どくりうして山脉さんみやくいづれの山へもつゞかず。右に国上山くにかみやま、左に角田かくだ山を提攜ていけい[#「提攜」の左に「カヽヘ」の注記]して一国の諸山しよざんこれたいして拱揖きよういふ[#「拱揖」の左に「コシヲカヽメル」の注記]するがごとく、いづれの山よりも見えてじつに越後のちん[#「鎮」の左に「マモリ」の注記]ともなるべき山は是よりほかにはあらじとおもはる。さればこそみこともこゝに垂跡すゐしやくまし/\たれ。此御神の縁起えんぎあるひ※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいげん神宝じんはうるゐ記すべき※(「古/又」、第4水準2-3-61)あまたあれどもしばらくこゝにはぶく
○さて此山をよみたる古哥に(万葉)「いや日子ひこのおのれ神さび青雲あをくものたなびく日すら小雨こさめそぼふる(よみ人しらず)」又家持やかもちに「いや彦の神のふもとにけふしもかかのこやすらんかはのきぬきてつぬつきながら」▲長浜ながはま 頸城郡くびきごほりり。(三嶋郡とする説もあり)家持やかもちの哥に「ゆきかへるかりのつばさをやすむてふこれや名におふうら長浜ながはま」▲名立なだち 同郡西浜にしはまにあり、今は宿しゆくの名によぶ。 順徳院の御製に(承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり)みやこをばさすらへいで今宵こよひしもうき身名立なだちの月を見るかな」▲直江津なほえのつ 今の高田の海浜かいひんをいふ。 同御製に「なけばきゝきけばみやこのこひしきに此里このさとすぎよ山ほとゝぎす」▲こしみづうみ 蒲原かんばら郡にかたとよぶ処多し。里言りげんみづうみかたといふ。その大なるを福嶋潟ふくしまがたといふ、四方三里ばかり。此かたに遠からずして五月雨山さみだれやまあり。貫之つらゆきの哥に「しほのぼるこしみづうみちかければはまぐりもまたゆられにけり」又俊成卿としなりきやうに「うらみてもなにゝかはせんあはでのみこしみづうみみるめなければ」又為兼卿ためかねきやうとしをへてつもりしこしみづうみ五月雨山さみだれやまの森のしづくか」▲柿崎かきざき(頸城郡にある駅也) 親鸞聖人しんらんしやうにんよみ玉ひしとて口碑こうひつたへし哥に「柿崎にしぶ/\宿やどをもとめしにあるじの心じゆくしなりけり」あんずるに、聖人しやうにん御名を善信ぜんしんと申て三十五歳の時讒口ざんこうかゝりて越後にながさる、時に承元しようげん元年二月なり。のち五年を勅免ちよくめんありしかども、ほふひろめためとて越後にいまししこと五年なり、ゆゑに聖人の旧跡きうせき越地にのこれり。弘法ぐほふ廿五年御歳六十の時みやこかへり玉へり。(越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也)弘長こうちやう二年十一月廿八日遷化せんげ寿ことぶき九十歳。くだん柿崎かきざきの哥も弘法行脚ぐほふあんぎやときの作なるべし。
 此外▲有明ありあけうら岩手いはでうら勢波せばわたし井栗ゐくりもりこしの松原いづれも古哥あれども、他国たこくにもおなじ名所あればたしかに越後ともさだめがたし。さて今を※(「古/又」、第4水準2-3-61)さること(天保十一子なり)五百四十一年前、永仁えいにん六年戌のとし藤原為兼卿ためかねきやう佐渡へ左遷させんの時、三嶋郡寺泊てらどまりえき順風じゆんふうまち玉ひしあひだ初君はつぎみといふ遊女いうぢよをめし玉ひしに、初君が哥に「ものおもひこしうら白浪しらなみも立かへるならひありとこそきけ」此哥吉瑞きちずゐとなりてや、五年たちてのち嘉元かげん元年為兼卿皈洛きらくありて、九年ののち正和元年玉葉集ぎよくえふしふえらみの時、初君がくだんうたを入れられ玉へり、是を越後第一の逸事いつじ[#「逸事」の左に「スクレタコト」の注記]とす。初君が古跡こせき寺泊てらどまりり、里俗りぞく初君屋敷やしきといふ。貞享ぢやうきやう元年釈門万元しやくもんまんげんしるすといふ初君が哥のいしぶみありしが、断破かけやぶれしを享和年間きやうわねんかん里入りじん重修ちようしう[#「重修」の左に「ツクリカヘ」の注記]して今にそんせり。

○ 雪の元日


 およそ日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔むかしも今も人のいふ事なり。しかれども越後に於ももつとも雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住わがすむ魚沼郡うをぬまごほりなり。次に古志こし郡、次に頸城くびき郡なり。其余そのよの四ぐんは雪のつもる※(「古/又」、第4水準2-3-61)三郡にすれば浅し。是を以ろんずれば、我住わがすむ魚沼郡は日本第一に雪のふかくふる所なり。我その魚沼郡の塩沢しほさはうまれ、毎年十月のころより翌年よくとしの三四月のころまで雪をみるすでに六十余年、近日このごろ雪譜せつふを作るも雪に籠居こもりをるのすさみなり。
○さてわが塩沢しほさはは江戸をさることわづかに五十五里なり、直道すぐみちはからばなほ近かるべし。雪なき時ならば健足たつしやの人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日をきけ縉紳朱門しんしんしゆもん[#「縉紳朱門」の左に「ヲレキ/\」の注記]※(「古/又」、第4水準2-3-61)ことはしらず、市中しちゆうは千もん千歳ちとせの松をかざり、すぐなる 御代みよの竹をたて、太平の七五三しめを引たるに、新年しんねん賀客れいしや麻上下のかたをつらねて往来ゆきゝするに万歳もうちまじりつ。女太夫とか鳥追とりおひの三味線さみせんにめでたき哥をうたひ、娘ののやり羽子はご、男の帋鳶いかのぼり、見るものきくものめでたきなかに、初日はつひかげ花やかにさしのぼりたる、新玉あらたまの春とこそいふべけれ。その元日も此雪国の元日もおなじ元日なれども、大都会たいとくわい繁花はんくわ辺鄙へんひの雪中と光景ありさまかはりたる事雲泥うんでいのちがひなり。
○そも/\我里わがさとの元日は野も山も田圃たはたさと平一面ひらいちめんの雪にうづまり、春を知るべき庭前ていぜんの梅柳のるゐも、去年雪のふらざる秋の末に雪をいとひて丸太など立て縄縛なはからげあひたるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三四月にいたらざれば梅花を不見みず、翁が句に 春もやゝ景色けしきとゝのふ月と梅、とぎんぜしは大都会たいとくわいの正月十五日なり。また「山里は万歳おそし梅の花」とは辺鄙へんひの三月なるべし。門松かどまつは雪の中へたて七五三しめかざりは雪ののきに引わたす。礼者れいしや木屐げたをはき、従者とも藁靴わらぐつなり。雪みち階級だん/\ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる、此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪まつたきゆる夏のはじめにいたらざれば、草履ざうりをはく事ならず。されば元日の初日影もたゞ雪の銀世界せかいてらすのみ。一ツとして春の景色けしき不見みず古哥こかに「花をのみ待らん人に山里の雪の草の春を見せばや」とは雪浅きみやこの事ぞかし。雪国の人は春にして春をしらざるをもつて生涯しやうがいをはる。これをおもへば繁栄豊腴はんえいほういゆ大都会たいとくわいすみ年々ねん/\歳々せい/\梅柳ばいりう※色ぜんしよく[#「女+(而/大)」、U+5A86、173-11]の春をたのしむ事じつ天幸てんかうの人といふべし。

○ 雪の正月


 初編にもいへる如く我国の雪は鵞毛がまうをなすはまれなり、大かたは白砂しらすなふらすが如し。冬の雪はさらに凝凍こほることなく、春にいたればこほること鉄石てつせきのごとし。冬の雪のこほらざるは湿気しめりけなくかわきたるすなのごとくなるゆゑなり。これ暖国だんこくの雪に異処ことなるところなり。しかれどもこほりてかたくなるは雪とけんとするのはじめなり。春にいたりてもとしによりては雪のふること冬にかはらざれども、つもること五六尺にすぎず。天地に※(「こざとへん+日」、第4水準2-91-63)やうきあるを以なるべし。されば春の雪はとくるもはやし、しかれども雪のふかき年は春も屋上やねのうへの雪をほることあり。ほるとはぶなの木にて作りたる木鋤こすきにてつちほるごとくして取捨とりすつるを里言りげんに雪を掘といふ、すでに初編にもいへり。かやうにせざれば雪のおもきいへつぶすゆゑなり。されば旧冬きうとう家毎いへごと掘除ほりのけたる雪と春降積ふりつもりたる雪と道路みちに山をなすこと下にあらはすを見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりもたかきゆゑ、春をむかふる時にいたればこゝろよく日光ひのひかりを引んために、あかしをとる処のまどさへぎる雪を他処へ取除とりのくるなり。しかるに時としては一夜のあひだに三四尺の雪に降うづめられて家内薄暗うすくらく、心も朦々まう/\として雑煮ざふにいはふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は暖国だんこくの人に見せたくぞおもはるゝ。

驛中の正月積雪の圖

○ 玉栗たまくり


 江戸の児曹こどもが春の遊は、女繍毬てまり羽子擢はごつき、男紙鴟たこあげざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪ならざる処なければ、歩行ほかうくるしく路上みちなかに遊をなす事すくなし。こゝに玉栗たまくりといふ児戯こどもあそびあり。(春にもかぎらず雪中のあそび也)はじめは雪を円成まろめ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)たまごの大さににぎりかため其上へ/\と雪を幾度もかけて足にて踏堅ふみかため、あるひははしらにあてゝ圧堅おしかため、これをこやすといふ。さて手毬てまりの大さになりたる時他のわらべが作りたる玉栗たまくり庇下ひさししたなどにおかしめ、我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる、つよき玉栗よわき玉栗をくだくをもつて勝負しようぶあらそふ。此戯このたはふれ所によりて、○コンボウ○コマ○地独楽ぢこま雪玉いきんだま(里のなまりに雪をいきといふ)○ズヽゴ○玉ゴシヨ○勝合かちあひなどいふなり。此玉栗をつくるに雪にすこしほを入るればかたくなること石の如し、ゆゑに小児たがひに塩を入るをきんずるなり。こゝを以てみる時は、しほは物をかたむる物なり。物を堅実けんじつにするゆゑ塩蔵しほづけにすれば肉類にくるゐ不腐くさらず、朝夕くちそゝぐに塩の湯水を以すればをかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は児戯こどもたはふれなれど、塩の物をかたくするあかしとするにたれり。故にこゝにしるせり。又わらべのあそびにいきだうといふ※(「古/又」、第4水準2-3-61)あり、初編にいだせり。

羽子擢はごつき

 (我里俗りぞくはねをつくといはずはねをかへすといふ、うちかへすの心なるべし)

 江戸に正月せし人のはなしに、市中にて見上るばかり松竹をかざりたるもとに、うつくしよそほひたる娘たちいろどりたる羽子板はごいたを持てならび立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子つき辺鄙へんひとはいひながら、かゝる艶姿やさしきすがたにあらず。正月は奴婢しもべどもゝすこしはゆるして遊をなさしむるゆゑ、羽子はごつかんとて、まづ其処を見たてゝ雪をふみかためて角力場すまうばのごとくになし、羽子は溲疏うつぎを一寸ほど筒切になし、これに※雉やまどり[#「櫂のつくり+鳥」、U+9E10、180-1]の尾を三本さしいれる、江戸の羽子にくらぶれば甚大なり。これをつくに雪をほる木鋤こすきを用ふ、力にまかせて擢ゆゑにそらにあがる※(「古/又」、第4水準2-3-61)甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑにわらべはまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて此戯このたはふれをなすなり。一ツの羽子をならびたちてつくゆゑに、あやまちて取落とりおとしたるものははじめに定ありて、あるひは雪をうちかけ、又はかしらより雪をあぶする。その雪えりふところに入りてつめたきたへざるを大勢が笑ふ、まどよりこれをるも雪中の一興いつきやうなり。京伝翁が骨董集こつとうしふ(上編ノ下)下学集かがくしふを引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりのさき、文安のころありしものにて、それよりもなほさきにありし事はつまびらかならずといはれたり。又下学集には羽子板に(ハゴイタ、コギイタ)と両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。

○ 雪吹ふゞき焼飯やきめしうる


 雪国にてふるひおそるゝ物は、冬の○雪吹ふゞき○ホウラ、春の雪頽なだれなり。此奇状きじやう奇事きじすでに初編にもいへり、されど一奇談いつきだんを聞たるゆゑこゝにしるして暖国だんこく話柄はなしのたねとす。
○そも/\金銭のたつときこと、魯氏ろし神銭論しんせんろんつくしたれば今さらいふべくもあらず。としの凶作はもとより事にのぞんうゑにいたる時小判をなめはら彭張ふくれず、うゑたる時の小判一枚は飯一わんの光をなさず。五十余年前の饑饉ききんの時、或所にて餓死がししたる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。
○こゝに我が魚沼郡うをぬまごほり藪上やぶかみの庄の村より農夫のうふ一人柏崎かしはざきえきにいたる、此路程みちのり五里ばかりなり。途中にて一人の※(「糸+盧」、第4水準2-84-62)商人をがせあきびとひ、路伴みちづれになりてゆきけり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日はれたれば、両人かたをならべてこゝろのどかにはなしながらすでつかの山といふ小嶺ちひさきたふげにさしかゝりし時、雪国のつねとして晴天せいてんにはか凍雲とううんしき暴風ばうふう四方の雪を吹ちらして白日をおほひ、咫尺しせきべんぜず。袖襟そでえりへ雪を吹入れて全身みうちこゞえいきもつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪をうづ巻揚まきあぐる、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不意ふいにあるものゆゑ、晴天せいてんといへども冬の他行たぎやうには必蓑笠みのかさを用ること我国の常なり。二人はかじきに雪をこぎつゝ(雪にあゆむを里言にこぐといふ)たがひこゑをかけてたすけあひからうじてたふげこえけるに、商人あきひと農夫のうふにいふやう、今日の晴天に柏崎かしはざきまでは何ともおもはざりしゆゑ弁当べんたうをもたず、今空腹すきはらにおよんでさむさたへず、かくては貴殿おみさまともなひて雪をこぐことならず、さいぜんのはなしにおみさまのふところ弁当べんたうありときゝぬ、それを我にあたへたまふまじきや、たゞにはもらふまじ、こゝに銭六百あり、しぬいきるかのきはにいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当をうり玉へといふ。農夫のうふ貧乏びんぼふの者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼飯やきめし二ツを出して六百の銭にかへけり。商人はふところにありてあたゝまりのさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪にのどうるほして精心せいしんすこやかになり前にすゝんで雪をこぎけり。

塚山嶺雪吹圖

○かくていそぐほどに雪吹ふゞきます/\甚しく、かじき穿はくゆゑみちおそく日もすでくれなんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農夫のうふはらへりつかれ、商人は焼飯にはらみち足をすゝめてゆく。農夫はしば/\おくるるゆゑつひにはすてひとりさきの村にいたり、しるべの家に入りて炉辺ろへんあたゝめて酒をくみはじめ蘇生よみがへりたるおもひをなしけり。
○さてしばらくありてほうい/\と呼声よぶこゑとほきこゆるを家内の者きゝつけ、(ふゞきにほうい/\とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす)雪吹倒ふゞきたふれぞ、それ助けよとて、近隣あたりとなりの人をもよびあつ手毎てごと木鋤こすきを持て(木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也)走行はせゆきしが、やゝありて大勢のもの一人の死骸しがいを家の土間どまかき[#「臼/廾」、U+8201、182-7]入れしを、かの商人あきびと立寄たちより見れば、最前さいぜん焼飯やきめしうりたる農夫なりしとぞ。この※(「糸+盧」、第4水準2-84-62)をがせ商人、或時あるとき俳友はいいうの家に逗留とうりうはなしくだんの事をかたいだし、彼時かのとき我六百の銭ををしみ焼飯をかはずんば、雪吹ふゞきうち餓死うゑじにせんことかの農夫のうふが如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳友はいいうかたれり。

○ 雪中の戯場しばゐ


 五穀豊熟ごこくほうじゆくしてとしみつぎ心易こゝろやすさゝげ、諸民しよみん鼓腹はらつゞみの春にあひし時、氏神のまつりなどにあひしを幸に地芝居を興行こうぎやうする※(「古/又」、第4水準2-3-61)あり。役者は皆其処の素人しろうとあるひは近村きんそんえきよりも来るなり。師匠ししやうは田舎芝居の役者やくしややとふ。はじめに寺などへ群居よりあひて狂言をさだめてのち、それ/\の役を定む。此群居よりあひ議論ぎろん紛々ふん/\として一度にてはたしたる※(「古/又」、第4水準2-3-61)なし。事定りてのち寺に於て稽古けいこをはじむ、わざじゆくしてのち初日をさだめ、衣裳いしやうかつらのるゐは是をかすを一ツのなりはひとするものありてもの不足たらざるなし。此芝居二三月のころする事あり、此時はいまだ雪のきえざる銀世界せかいなり。されば芝居をつくる処、此役者が家はさらなり、親類しんるゐ縁者えんじや朋友はういうよりも人を出し、あるひは人をやとひ芝居小屋場の地所の雪をたひらかにふみかため、舞台ぶたい花道はなみち楽屋がくや桟敷さじきのるゐすべて皆雪をあつめてそのかたちにつかね、なりよくつくること下のを見て知るべし。此雪にてつくりたる物、天又人工じんこうをたすけて一夜の間にこほりて鉄石の如くになるゆゑ、いかほど大入にてもさじきのくづるる気づかひなし。弥生やよひころは雪もやゝまれなれば、春色しゆんしよくそらを見て家毎いへごとに雪かこひ取除とりのくるころなれば、処々より雪かこひの丸太あるひは雪垂ゆきたれとてかやにて幅八九尺ひろさ二間ばかりにつくりたるすだれかりあつめてすべての日覆ひおひとなす。ぶたい花みちは雪にて作りたる上に板をならぶる、此板も一夜のうちにこほりつきて釘付くぎづけにしたるよりもかたし。だん国にくらぶればろんほかなり。物をうる茶屋をもつくる、いづれの処も平一めんの雪なれば、物を煮処にるところは雪をくぼぬかをちらして火をたけば、雪のとけざる事妙なり。
○さて戯場しばゐ造作ざうさく成就じやうじゆしても春の雪ふりつゞきて連日れんじつはれを見ず、興行こうぎやうの初日のびる時は役者になりたる家はさら也、此しばゐを見んとて諸方に逗留とうりうきやくおほく毎日そらをながめてはれまちわび、きやくのもてなしもしつくしてほとんど倦果うみはてつひには役者仲間なかまいひあはせ、川のこほりくだきて水をあび千垢離せんごりしてはれいのるもをかし。

雪中演場を造圖

百樹もゝきいはく丁酉の夏北越ほくゑつに遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありときゝて京水とともに至りしに、寺の門のかたはらくひたてよこなが行燈あんどんあり、是にだいしていはく当院たうゐん屋根普請やねふしん勧化くわんけため本堂ほんだうおい晴天せいてん七日の間芝居興行こうぎやうせしむるものなり、名題なだい仮名手本かなでほん忠臣蔵役人替名とありて役者やくしやの名おほくは変名へんみやうなり。寺の門内には仮店かりみせありて物を売り、ひとぐんをなす。芝居にはかりに戸板をあつめかこひたる入り口あり、こゝにまもものありて一人まへ何程とあたひとる、これ屋根普請やねふしん勧化くわんけなり。本堂の上り段に舞台ぶたいを作りかけ、左に花道あり、左右の桟敷さじき竹牀簀たけすのこ薦張こもばりなり。土間にはこもしきむしろをならぶ。たびの芝居大概たいがいはかくの如しと市川白猿がはなしにもきゝぬ。桟敷さじきのこゝかしこに欲然もえたつやうな毛氈まうせんをかけ、うしろに彩色画さいしきゑ屏風びやうぶをたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな綿帽子わたばうししたるは辺鄙へんび[#ルビの「へんび」はママ]に古風をうしなはざる也。観人みるひとぐんをなして大入なれば、さるの如きわらべどもにのぼりてみるもあり。小娘ちひさきむすめざるさげ冰々こほり/\とよびて土間どまの中をる。ざるのなかへ木の青葉あをばをしき雪のこほりかたまりをうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと削氷けづりひくだりにいふべし。
○さて口上いひ出て寺へ寄進きしんの物、あるひは役者へ贈物おくるもの、餅酒のるゐ一々人の名をあげしなよび披露ひろうし、此処忠臣蔵七段目はじまりといひてまくひらく。おかるになりしは岩井玉之丞とて田舎芝居の戯子やくしやなるよし、すこぶなり。由良の助になりしは旅中りよちゆう文雅ぶんがもつてしるひとなり、年若としわかなればかゝるたはふれをもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎にたり。げいも又みるたれり。寺岡平右ヱ門になりしは客舎かくしやにきたる篦頭かみゆひなり、これも常にかはりて関三十郎に似て音声おんせいもまた天然てんねんと関三の如し。京水とあひかへりみて感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋とほめけるが、尾張屋は関三の家号いへななる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一まくにてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、便所べんじよは寺のうしろにあり、空腹くうふくならば弁当べんたうかひ玉へ、取次とりつぎ申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、ひとちれ演場しばゐ蕭然さみしくなるいとふゆゑなるべし。いづくにかいづる所あらんとたづねしに、此寺の四方かきをめぐらして出べきのひまなし。をりふしわらべが外より垣をやぶりて入りたるそのあなより両人くゞりいでしは、これも又可笑をかしき一ツにてぞありし。

○ 家内かない氷柱つらゝ


 旧冬きうとうより降積ふりつもりたる雪家のむねよりも高く、春になりても家内薄暗うすくらきゆゑ、高窓たかまどうづめたる雪をほりのけてあかりをとること前にもいへるが如し。此屋上やねの雪は冬のうちしば/\掘のくる度々に、木鋤こすきにてはからず屋上やねそんずる※(「古/又」、第4水準2-3-61)あり。我国の屋上やねおほかたは板葺いたぶきなり、屋根板は他国にくらぶればあつひろし。葺たる上に算木さんぎといふ物をつくそへ石をおきおもしとし風をふせぐ便たよりとす。これゆゑに雪をほりのくるといへどもつくすことならず、その雪のうへに早春さうしゆんの雪ふりつもりてこほるゆゑ屋根のやぶれをしらず。春も稍深やゝふかくなれば雪も日あたりはとけあるひは焼火たきびの所雪早くとくるにいたりて、かの屋根のそんじたる処木羽こばの下たをくゞりなどして雪水もるゆゑ、夜中俄にたゝみをとりのけ桶鉢をけはちのるゐあるかぎりをならべてもりをうくる。もる処を修治つくろはんとするに雪まつたくきえざるゆゑ手をくだす※(「古/又」、第4水準2-3-61)ならず、漏は次第にこほりて座敷ざしきの内にいくすぢも大なる氷柱つらゝを見る時あり。是暖国だんこくの人に見せたくぞおもはる。
百樹曰、越遊ゑついうして大家のつくりやうを見るに、はしらふときこと江戸の土蔵のごとし。天井てんじやう高く欄間らんま大なり、これ雪の時あかりをとるためなり。戸障子としやうじ骨太ほねふとくして手丈夫ぢやうぶなるゆゑ、しきゐ鴨柄かもゑひろあつし。すべて大材たいさいもちふる事目をおどろかせり、これ皆雪につぶれざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店下たなしたを越後に雁木がんぎ(又はひさしといふ、雁木の下広くして小荷駄こにだをもひくべきほどなり、これは雪中にこのひさし下を往来ゆきゝためなり。越後より江戸へかへる時高田の城下をとほりしが、こゝは北越第一の市会しくわいなり。商工しやうこうのきをならべ百物そなはらざることなし。両側一里余ひさし下つゞきたるその中をゆくこと、甚意快いくわい[#「意快」の左に「コヽロヨイ」の注記]なりき。文墨ぶんぼく雅人がじんも多しときゝしが、旅中りよちゆうとしきやうするにあひ皈家きかいそぎしゆゑ剌[#「刺」の左に「テフダ」の注記]を入れざりしは今に遺憾ゐかんとす。

○ 雪中歩行ほかう用具ようぐ


 雪中歩行ほかう初編に其図そのづいだししが製作せいさくしるさず、ふたゝびそのつまびらかなるをしめす。

雪中歩行の藁沓等の用具図

わらひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、
○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。

○是はうちわらにて作りあむ。常のたび[#「韈のつくり」の「罘−不」に代えて「冂<人」、189-6]のまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。
○他国には革にて作りたるを見る。泥行どろみちには便なるべし。我国の雪中にはみちどろある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒のつめ●牛のつめなど、さま/″\名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。

○ハツハキといふは里俗りぞくのとなへなり、すなはち裹脚はゞきなり。わらのぬきこあるひはがまにても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。

雪中歩行の胸あて等の用具図

○シナ皮とて深山みやまにある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、むねあてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。

○シブガラミはあみはじめの方をきびすへあて、左右のわらを足頭あしくびへからみて作るなり。里俗わらくづのやはらかなるをシビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミとなまりいふなり。

○かんじきは古訓こくんなり、里俗りぞくかじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、かたちの如くジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻はそらしてクマイブといふつる又はカヅラといふつるをも用ふ。山漆やまうるしの肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。

○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきてけものを追ふ也。右の外、男女の雪帽子ばうし下駄げた其余そのよ種々雪中歩用ほようあれども、はく雪の国に用ふる物にたるはこゝにはぶく。

すかりの図

百樹もゝき曰、北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家僕かぼくめいじて雪をこぐ形状すがたを見せらる、京水かたはらにありて此図をうつせり。穿物はくものは、○かんじきすかりなり。たはふれ穿はきてみしが一歩もすゝむことあたはず、家僕かぼくがあゆむは馬をぎよするがごとし。

○ そり[#「車+盾」、U+8F34、192-6]


 そり[#「車+盾」、U+8F34、192-7](字彙)禹王うわう水ををさめし時のりたる物四ツあり、水にはふねりくには車、どろにはそり[#「車+盾」、U+8F34、192-7]、山にはかんじき[#「木+壘」の「土」に代えて「糸」、U+6B19、192-7](書経註)しかれば此そり[#「車+盾」、U+8F34、192-8]といふもの唐土もろこしの上古よりありしぞかし。かれ泥行でいかうの用なれば雪中に用ふるとは製作せいさくことなるべし。そり[#「車+盾」、U+8F34、192-9]の字、○そりそり[#「くさかんむり/絶」、U+855D、192-9]そり秧馬そり諸書しよしよ散見さんけんす。あるひは○雪車そり雪舟そりの字を用ふるは俗用ぞくようなり。
 そも/\此そり[#「車+盾」、U+8F34、192-11]といふ物、雪国第一の用具。人力じんりきたすくる事船と車におなじく、そのうへつくる事最易いとやすきはを見て知るべし。堀川百首ほりかはひやくしゆ兼昌かねまさの哥に、「初深雪はつみゆきふりにけらしなあらち山こし旅人たびびとそり[#「車+盾」、U+8F34、192-12]にのるまで」この哥をもつても我国にそりをつかふのふるきをしるべし。前にもしば/\いへるごとく、我国の雪冬はこほらざるゆゑ、冬にそり[#「車+盾」、U+8F34、192-14]をつかへば雪におちいりて※(「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2-13-57)ひくことならじ。※[#「車+盾」、U+8F34、192-14]は春の雪鉄石のごとくこほりたる正二三月の間に用ふべきもの也。其時にいたるを里俗りぞく※道そりみち[#「車+盾」、U+8F34、192-14]になりしといふ。
 俳諧はいかい季寄きよせ雪車そりを冬とするはあやまれり。さればとて雪中の物なれば春のには似気にげなし。古哥にも多くは冬によめり、じつにはたがふとも冬として可なり。
 そり[#「車+盾」、U+8F34、193-4]は作りやすき物ゆゑ、おほかたは農商のうしやう家毎いへごとに是をたくはふ。さればのするものによりて大小品々あれども作りやうは皆同じやうなり、名も又おなし。たゞ大なるを里俗に修羅しゆらといふ、大石大木をのするなり。
 山々の喬木たかききも春二月のころは雪にうづまりたるがこずゑの雪はやゝきえ遠目とほめにも見ゆる也。此時たきゞきるやすければ農人等のうにんらおの/\そり[#「車+盾」、U+8F34、193-8]※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)ひきて山に入る、或はそりをばふもとおくもあり。常には見上る高枝たかきえだうづまりたる雪を天然てんねん足場あしばとして心のまゝきりとり、大かたは六を一人まへとするなり。さて下に三把をならべ、中には二把、うへには一把、これをなはにて強くくゝふもとのぞん蹉跌すべらかすに、こほりたる雪の上なれば幾百丈の高も一瞬まばたきにふもとにいたるをそり[#「車+盾」、U+8F34、193-11]にのせてひきかへる。或はまた山に九曲まがりくねりあるには、くだんのごとくにくゝしたるたきゞそり[#「車+盾」、U+8F34、193-12]り、片足かたあしをあそばせて是にてかぢをとり、船をはしらすがごとくして難所なんじよよけて数百丈のふもとにくだる、一ツもあやまつことなし。其術そのじゆつまなばずして自然しぜんる処奇々妙々なり。
 そり[#「車+盾」、U+8F34、193-14]を引てたきゞきることいひあはせてゆくときは、二三人のしよくを草にてあみたる袋にいれてそり[#「車+盾」、U+8F34、193-14]にくゝしおくことあり。山烏やまからすよくこれをしりてむらがりきたり、袋をやぶりてしよく喰尽くらひつくす。樵夫きこりはこれをしらず、今日の生業かせぎはこれにてたれり、いざや焼飯やきめしにせんとて打より見れば一つぶものこさず、からすどもは樹上きのうへにありてなく。人はむなしく烏をにらみのゝしり、空肚へりたるはらをかゝへて※哥そりうた[#「車+盾」、U+8F34、196-2]もいでず、※[#「車+盾」、U+8F34、196-2]をひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき。

秋月庵牧之筆の図、※[#「車+盾」、U+8F34]の全図

 そりをひくにはかならずうたうたふ、是を※哥そりうた[#「車+盾」、U+8F34、196-4]とてすなはち樵哥せうかなり。唱哥しやうがふし古雅こがなるものなり。おやあるひはおつと山に入りそり[#「車+盾」、U+8F34、196-5]を引てかへるに、遠く※哥そりうた[#「車+盾」、U+8F34、196-5]をきゝて親夫おやをつとのかへるをしり、そり[#「車+盾」、U+8F34、196-5]あふ処までむかへにいで、親夫をば※[#「車+盾」、U+8F34、196-6]つみたるたきゞまたがらせて、つまむすめがこれをひきつゝ、これらも又※[#「車+盾」、U+8F34、196-6]哥をうたうてかへるなど、質朴しつぼく古風こふう目前もくぜんそんせり。是繁花はんくわをしらざる幽僻いうへきの地なるゆゑなり。
 春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花もみどりもあるかなきかにくれゆく。されど二月きさらぎそらはさすがにあをみわたりて、朗々のどかなるまどのもとに書読ふみよむをりしもはるか※哥そりうた[#「車+盾」、U+8F34、196-9]きこゆるはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の人情にんじやうぞかし。
百樹もゝきいはく、我が幼年えうねんの頃は元日のあしたより扇々と市中をうりありくこゑ、あるひは白酒々の声も春めきて心ものどかなりしが此声今はなし。鳥追の声はさらなり、武家のつゞきて町に遠所には※(「魚+祭」、第4水準2-93-73)こはだすしたひのすしとうる声今もあり、春めくもの也。三月は桜草うる声に花をおもひ、五月は鰹々かつを/\白妙しろたへの垣根をしたふ。七夕の竹ヤ々々は心涼しく、師走しはすの竹ヤ/\は(すゝはらふ竹うりなり)きくせはし。物皆季におうじて声をなし、情に入る事天然の理なり。胡笳こかかなしみも又然らん。くだんのは人の声なり、ましてや春の鶯あるひは蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の、冬の水鵲ちどりをや。本編ほんへん※哥そりうた[#「車+盾」、U+8F34、197-2]をきゝ春めきてうれしとは真境実事しんきやうじつじ文客の至情なり、我是にかんじてこゝに数言すげんく。※哥そりうた[#「車+盾」、U+8F34、197-3]の春めくこと江戸人にはおもひもよらざる奇情なり、これに似たる事猶諸国にもあるべし。
 こやしをのする※哥そり[#「車+盾」、U+8F34、197-4]あり、これをのするほどにちひさく作りたる物なり。二三月のころも地として雪ならざるはなく、渺々びやう/\として田圃たはた是下このしたりて持分もちぶんさかひもさらにわかちがたし。しかるにかのこやしのそりを引てこゝに来り、雪のほかに一てん目標めじるしもなきに雪をほること井を掘が如くにしてこやしを入るに、我田の坪にいたる事一尺をもあやまらず、これ我が農奴等のうぬらもする事なり。茫々ばう/\[#「茫々」の左に「ヒロ/\」の注記]たる雪上何を目的めあてにしてかくはするぞとひしに、目あてとする事はしらず、たゞ心にこゝぞとおもふ所その坪にはづれし事なしといへり。所為しわざいやしけれども芸術げいじゆつ極意ごくいもこゝにあるべくぞおもはるゝゆゑに、こゝにしるして初学しよがくの人げいすゝむ一端はししめす。
 そり[#「車+盾」、U+8F34、197-11]の大なるを里言りげん修羅しゆらといふ事前にもいへり、これに大材木あるひは大石をのせてひくを大持だいもちといふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりのけやき※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)ひきし事ありき。かゝる時は修羅しゆらを二ツも三ツもかくるなり。材木は雪のふらざる秋りてそのまゝ山中におき、そり[#「車+盾」、U+8F34、197-14]を用ふる時にいたりてひきいだす。かゝる大材をも※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)ひくをもつて雪のかたきをしるべし。田はたも平一面の雪なればひくべき所へ直道すぐみちにひきゆくゆゑ甚べんなり。修羅しゆらに大つなをつけ左右に枝綱えだつないくすぢもあり、まつさきに本願寺御用木といふのぼりを二本つ、信心の老若男女童等わらべらまでもありの如くあつまりてこれをひく。木やり音頭取おんどとり五七人花やかなる色木綿いろもめん衣類いるゐ彩帋いろがみざいとりて材木の上にありて木やりをうたふ。そのうたの一ツにハア※(歌記号、1-3-28)うさぎ/\児兎こうさぎハアヽ※(歌記号、1-3-28)わが耳はなぜながいハアヽ※(歌記号、1-3-28)母の胎内たいないにいた時にさゝをのまれてハアア※(歌記号、1-3-28)それで耳がながい※(歌記号、1-3-28)大持がうかんだハアア※(歌記号、1-3-28)花のみやこへめりだした(いく百人同音に)※(歌記号、1-3-28)いゝとう/\※(歌記号、1-3-28)そのこゑさまさずやつてくれ※(歌記号、1-3-28)いゝとう/\/\。
 児曹こどもらが手遊のそり[#「車+盾」、U+8F34、198-6]もあり。氷柱つらゝの六七尺もあるをそりにのせて大持の学びをなし、木やりをうたひ引あるきて戯れあそぶなど、暖国だんこくにはあるまじくきゝもせざる事なるべし。猶そり[#「車+盾」、U+8F34、198-7]に種々のはなしあれどもさのみはとてもらせり。

○ 春寒しゆんかんちから


 春にいたれば寒気地中より氷結いてあがる。その力いしずへをあげてえんそらし、あるひは踏石ふみいしをも持あぐる。冬はいかほどかんずるともかゝる事なし。さればこそ雪も春はこほりそり[#「車+盾」、U+8F34、198-11]をもつかふなれ。屋根の雪をほりのけてつみげおくを、里言りげん掘揚ほりあげといふ。(前にもいへり)往来ゆきゝみちにも掘あげありて山をなすゆゑ、春雪のこほるにいたれば、この雪の山に箱梯はこばしごのごとくだんつくりて往来のたよりとす。かやうの所いづかたにもあるゆゑに下踏げたくぎをならべうち蹉跌すべらざるためとす。唐土もろこしにては是をるゐ[#「木+壘」の「土」に代えて「糸」、U+6B19、199-1]とて山にのぼるにすべらざるはきものとす、るゐ[#「木+壘」の「土」に代えて「糸」、U+6B19、199-1]和訓わくんカンジキとあり。

○ シガ

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 冬春にかぎらず雪の気物きものにふれてしものおきたるやうになる、是を里言りげんシガといふ。戸障子としやうじすきよりも雪の気入りて坐敷ざしきシガをなす時あり、此シガ朝※あさひ[#「口+敦」、U+564B、199-4]温気あたゝまりをうくる処のはとけておつる。春の頃野山の樹木きゞの下は雪にうづもれたるもこずゑは雪のきえたるに、シガのつきたるは玉もて作りたるえだのやうにて見事なるものなり。川辺かはべなどはたらく者にはかみにもシガのつく事あり、此シガ我が塩沢しほざはにはまれなり。おなじこほりうち小出嶋こいでしまあたりには多し、大河に近きゆゑ水気すゐきの霜となるゆゑにやあらん。

○ 初夏しよかの雪


 我国の雪里地さとちは三月のころにいたれば次第しだい々々にきえあさ々はこほること鉄石の如くなれども、日中ひなかは上よりも下よりもきゆる。月末にいたれば目にもとまるほどに昨日今日きのふけふと雪の丈け低くなり、もはや雪もふるまじと雪かこひもこゝかしこ取のけ、家のほとりにはなどの雪をもほりすつるに、雪凍りてかたきゆゑ雪を大鋸おほのこぎりにて(大鋸○里言に大切だいぎりといふ)ひきわりてすつる。その四角なる雪を脊負せおひあるひは担持になひもちにするなど暖国だんこくの雪とは大にことなり、雪にえだを折れじと杉丸太をそへてしばりからげおきたる庭樹にはきなども、ときほどけばさすがに梅は雪の中につぼみをふくみて春待かほなり、これ春の末なり。此時にいたりて去年十月以来このかたくらかりし坐敷ざしきもやう/\あかるくなりて、盲人まうじんのひらきたる心地せられて、雛はかざれども桃の節供は名のみにて花はまだつぼみなり。四月にいたれば田圃たはたの雪もまだらにきえて、去年秋の彼岸ひがんまきたる野菜やさいのるゐ雪の下にもえいで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。雪に埋りたる泉水せんすゐほりいだせば、去年初雪より以来このかた二百日あまり黒闇まつくらの水のなかにありし金魚きんぎよ緋鯉ひこひなんどうれしげに浮泳うかみおよぐものいはゞやれ/\うれしやといふべし。五月にいたりても人の手をつけざる日蔭ひかげの雪は依然いぜんとして山をなせり、いはん山林幽谷さんりんいうこくの雪は三伏の暑中にも消ざる所あり。

○ 削氷けづりひ


百樹曰、余丁酉の年の晩夏豚児せがれ京水をしたがへて北越にあそびし時、三国嶺みくにたふげこえしは六月十五日なりしに、谷のそこに鶯をきゝて、
あしもとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこしの山ぶみ
拙作せつさくなれども実境じつきやうなればしるす。此たふげうちこし四里山径やまみち隆崛りうくつ[#「隆崛」の左に「ケハシクマガル」の注記]して数武すぶ[#「数武」の左に「チトノアヒダ」の注記]平坦へいたんの路をふま浅貝あさかひといふえき宿やどなほ二居嶺ふたゐたふげ(二リ半)こえ三俣みつまたといふ山駅さんえきに宿し、芝原嶺しばはらたふげを下り湯沢ゆさはいたらんとするみちにてはるか一楹いちえい茶店さてんを見る。ひさしのもとにゆかありて浅き箱やうのものに白くかくなる物をおきたるは、遠目とほめにこれ石花菜ところてんを売ならん、口にはのぼらずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしくあせもしとゞに足もつかれたれば茶店さてんあるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍いとめづらしければ立よりて熟視よくみれば、深さ五寸ばかりの箱に水をいれその中にちひさ踏石ふみいしほどの雪の氷をおきけり。売茶翁ちやをうるおきなに問ば、これは山蔭やまかげの谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとてひければおきな菜刀なきりはうてうとり※(「央/皿」、第3水準1-88-73)さらのなかへさら/\とおとしてけづりいれ、豆のをかけていだせり。氷にをかけたるは江戸の目には見もなれ可笑をかしければ、京水と相目あひもくしてわらひをしのびつゝ、是はあたひをとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両掛りやうがけ用意よういしたる沙糖さたうをかけたる削氷けづりひに、歯もうくばかり暑をわすれたるはめづらしき事いはんかたなし。
そも/\このけづりといふ物を珍味ちんみとする事古書こしよ散見さんけんせしその中に、定家卿の明月記に曰『元久二年七月廿八日みちより和哥所わかどころまゐる、家隆朝臣かりうあそん唐櫃二合からひつふたつ取寄とりよせらる、○破子わりごうり土器かはらけ酒等さけとうあり、又寒氷かんひやうありみづからたうけづらる、きやうに入る事甚し』(本書は漢文也)くだんの元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年をて、古人の如く削氷けづりひを越後の山村さんそん賞味しやうみしたる事ちんとすべし奇とすべし。じつ好古こうこきもきよくす。

六月賣雪図

あんずるといふはこほり本訓ほんくんこほりよむ寒凝こゞえこるの義なりと士清翁が和訓栞わくんかんにいへり。氷室ひむろといふ事、俳諧の季寄きよせといふものなどにもみえたればあまねくひとの知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。 御国みくには仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延喜式えんぎしきに山城国葛城郡かつらきごほり氷室ひむろ五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝庭てうてい貢献こうけんするを、諸臣しよしんにも頒賜わかちたまふ年毎としごとれいなるよしなり。前に引し明月記の寒氷かんひやうは朝庭よりの古例これいたまものにはあるべからず、いかんとなれば削氷けずりひを賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まできえずやあるべき。明月記は千しや※(「暮」の「日」に代えて「手」、第3水準1-84-88)の書なれば七は六のあやまりとしても氷室をいでし六月の氷あしたまつべからず。けだし貢献こうけんの後氷室守ひむろもりが私にいだすもしるべからず。
○さて氷室ひむろとは厚氷あつきこほりを山蔭などの極陰ごくいんの地中に蔵置おさめおきいへを作りかけて守らす、古哥にもよめる氷室守ひむろもり是なり。其氷室ひむろは水のこほりををさめおくやうに諸書しよしよ注釈ちゆうしやくにも見えしが、水の氷れるは不潔ふけつなり、不潔をもつて貢献こうけんにはなすべからず。且水のこほりは地中にりても消易きえやすきものなり、これなし、水は極陰の物なるゆゑ陽にかんやすきゆゑなり。我越後に削氷けづりひを視ておもふに、かの谷間たにあひありといひしは天然てんねんの氷室なり。むかしの冰室といふは雪のこほりむろなるべし。極陰の地にあなを作り、屋をつくかけ、別に清浄しやう/″\の地にかきをめぐらして、人にふませず、鳥獣てうじうにもけがさせず、しかして雪をまち、雪ふれば此地の雪をかのあなつきこめうづめ、人是を守り、六月朔日是をひらきもつとも清浄しやう/″\なる所を貢献こうけんせしならん。是おのれ臆断おくだんを以て理についいにしへの氷室をかいするなり。
○氷室の古哥枚挙あげつくすべからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に(拾遺愚艸)「夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば」又源の仲正に(千載集)「下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る」この哥氷室山のおそ桜を消残きえのこりたる雪に見たてたる一首のこゝろ、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪をけんじ玉ふも雪の氷なり。これにてもいにしへの氷室は雪の氷なるをおもふべし。
○さてかの茶店さてんにて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩沢しほざは牧之ぼくし老人が家にありしに、日毎に氷々こほり/\とよびて売来る、山家やまが老婆らうばなどなり。こぶしほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物のがたきはめづらしく、得易えやすきはめづらしからざるは人情にんじやうつねなり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでもあかざる物は孝心なる我子のかほと、蔵置をさめおく黄金こがねひかりなるべし。

○ 雪の多少たせう


 越後国南は上州にとな魚沼郡うをぬまごほりなり。東は奥州羽州へとな蒲原郡かんばらごほり岩船いはふね郡なり。国堺くにさかひはいづれも連山波濤れんざんはたうをなすゆゑ雪多し。東北はねずみが関(岩船郡の内出羽のさかひ)西にし市振いちふり(頸城郡の内越中の堺)いたるの道八十里が間すべて北の海浜かいひんなり。海気によりて雪一丈にいたらず(年によりて多少あり)きゆるも早し。頸城くびき郡の高田は海をさる事遠からざれども雪深し。文化のはじめ大雪の時高田の市中(町のながさ一リにあまる)雪にうづまりて闇夜あんやのごとく、昼夜ちうやをわかたざる事十余日、市中ともしびの油つきて諸人難義せしに、御領主りやうしゆより家毎に油をたまひし事ありき。此時我塩沢も大雪にて、夜昼をしらず家雪にうづまりて日光を見ざる事十四五日(連日ふゞきなるゆゑ雪をほる事ならず家うづまりてくらきなり)人気欝悶うつもんして病をなすにいたれるもありけり。
百樹曰、余牧之老人が此書の稿本かうほんつき増修ぞうしうせつそへ上梓じやうし[#「上梓」の左に「ホンニスル」の注記]ため傭書ようしよ[#「傭書」の左に「ハンシタカキ」の注記]さづくる一本を作るをりしも、老人がよせたる書中に、
「当年は雪おそく冬至に成候ても駅中えきちゆうの雪一尺にたらず、此日次ひなみにては今年は小雪ならんと諸人一統悦び居候所に廿四日(十一月なり)黄昏たそがれよりふりいだし、廿五六七八九日まで五日の間昼夜ちうやにつもる事およそ一丈四五尺にもおよび申候。毎年の事ながら不意の大雪にて廿七日より廿九日まで駅中えきちう家毎の雪ぼりにて混雑こんざついたし、簷外えんぐわいたちまち玉山をきづき戸外へもいでがたくこまり申候。今日も又大雪吹ふゞきに相成、家内くら蝋燭らふそくにて此状をしたゝめ申候。何程可降哉ふるべくや難計はかりがたく一同心痛いたし居申候」(下略)是当年(天保十亥とし)十一月廿九日出の尺翰てがみなり。此文をもつても越後の雪を知るべし。
○余越後の夏にあひしに、五こく蔬果そくわ生育そだち少しも雪をおそれたる色なし。山景野色さんけいやしよくも雪ありしとはおもはれず、雪の浅き他国に同じ。五雑組ござつそ(天部)百草雪をおそれずして霜を畏る。けだし雪は雲にしやうじて陽位やうゐ也、霜はつゆに生じて陰位いんゐ也といへり。越後の夏を謝肇※(「さんずい+制」、第3水準1-86-84)しやでうせつが此せつふくせり。

○ 浦佐うらさ堂押だうおし


 我住塩沢よりしも越後の方へ二宿こえ(六日町五日町)浦佐うらさといふ宿あり。こゝに普光寺ふくわうじといふ(真言宗)あり、寺中に七間四面の毘沙門堂びしやもんだうあり。つたへていふ、此堂大同二年の造営ざうえいなりとぞ。修復しゆふく度毎たびごと棟札むねふだあり、今猶歴然れきぜんそんす。毘沙門の御丈みたけ三尺五六寸、往古わうご椿沢つばきざはといふ村に椿の大樹たいじゆありしを伐て尊像そんざうを作りしとぞ。作名さくめいつたはらずときゝぬ。像材ざうざい椿なるをもつて此地椿をたきゞとすればかならずたゝりあり、ゆゑに椿をうゑず。又※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)そんれい鳥をとるいみ玉ふ、ゆゑに諸鳥寺内にぐんをなして人をおそれず、此地の人鳥を捕かあるひはくらへ立所たちどころ神罰しんばつあり。たとひ遠郷ゑんきやうむこよめにゆきて年をても鳥をしよくすれば必凶応あしきことあり、※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいげん煕々あきらかたる事此一を以て知るべし。されば遠郷ゑんきやう近邑きんいう信仰しんかうの人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜にかぎりて堂押だうおしといふ事あり、あへて祭式さいしき礼格れいかくとするにはあらねど、むかしより有来ありきたりたる神事じんじなり。正月三日はもとより雪道なれども十里廿里より来りて此うら佐に一宿し、此堂押だうおしあふ人もあれば近村きんそんはいふもさらなり。11

佐浦詣堂押圖

○さておしきたりし男女まづ普光寺ふくわうじに入りて衣服いふく脱了ぬぎすて、身に持たる物もみだりに置棄おきすて婦人ふじん浴衣ゆかた細帯ほそおびまれにははだかもあり、男は皆はだかなり。燈火ともしびてんずるころ、かの七間四面の堂にゆかたはだかの男女おし入りて、きりをたつるの地なし。も若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどにせまたちけり。おすといふはたれともなくサンヨウ/\と大音だいおんよばはるこゑの下に、堂内に充満みち/\たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ/\と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女とも元結もとゆひおのづからきれてかみみだ※(「古/又」、第4水準2-3-61)なり。七間四面の堂の内にはだかなる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気息いき正月三日の寒気ゆゑけふりのごとくきりのごとくてらせる神燈じんとうもこれがためくらく、人の気息いき屋根うらにつゆとなり雨のごとくにふり、人気破風はふよりもれて雲の立のぼるが如し。婦人まれには小児を背中せなかにむすびつけておすあれども、この小児なくことなきも常とするの不思議ふしぎなり。いはんや此堂押にいさゝかも怪瑕けがをうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯具ゆぐばかりなるもあれど、闇処くらきところ噪雑わやくやして一人もみだりがましき事をせず、これおの/\毘沙門天びしやもんでん神罰しんばつおそるるゆゑなり。はだかなる所以ゆゑん人気じんきにて堂内のねつすることもゆるがごとくなるゆゑ也。願望ぐわんまうによりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気はだへいるがごときをもいとはず、はしらのごとき氷柱つらゝ裸身はだかみ脊負せおひて堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人もあつきこと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の盥盤てうづばちに入りて水をび又押に入るもあり。一ト押おしてはいきをやすむ、七押七をどりにてやむさだめとす。をどりといふもをけうちいもあらふがごとし。ゆゑに人みな満身みうちあせをながす。第七をどり目にいたりて普光寺ふくわうじ山長やまをとこ耕夫さくをとこの長をいふ)手にさゝらもち、人の手輦てぐるまのりて人のなかへおし入り大音だいおんにいふ。「毘沙門さまの御前おんまへ黒雲くろくもさがつ(モウ)」 衆人おほぜい「なんだとてさがつた(モウ)(山男)よねがふるとてさがつた(モウ)」とさゝらをすりならす。此さゝら内へすれ凶作きようさくなりとてそとへ/\とすりならす。又志願しぐわんの者かね普光寺ふくわうじへ達しおきて、小桶に神酒みきを入れさかづきそへけんず。山男挑燈てうちんをもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入ればさいはひありとて人のなみをなして取んとす。神酒みきは神にくうずるかたちして人にちらし、盃は人の中へなぐる、これをたる人は宮をつくりてまつる、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをもあらそうばふにかならずやぶる、そのほね一本たりとも田の水口みなくちへさしおけば、この水のかゝる田は熟実みのりよく虫のつく事なし。※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)しんれいのあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神事じんじをはれば人々離散りさんして普光寺に入り、はじめ棄置すておきたる衣類いるゐ懐中くわいちゆう物をるに鼻帋はながみ一枚だにうする事なし、かすむれば即座そくざ神罰しんばつあるゆゑなり。
○さて堂内人さんじて後、かの山長やまをとこ堂内に苧幹をがらをちらしおく※(「古/又」、第4水準2-3-61)れいなり。翌朝よくてうおとこ神酒みき供物くもつそなふ、うしろさまにすゝみさゝぐ、正面にすゝむを神のいみ給ふと也。昨夜さくやちらしおきたる苧幹をがら寸断ずた/\をれてあり、これひとさんじてのち諸神しよじんこゝにあつまりてをどり玉ふゆゑ、をがらをふみをり玉ふなりといひつたふ。神事かみごとはすべて児戯じぎたること多し、しかれども凡慮ぼんりよを以て量識はかりしるべからず。此堂押にるゐせし事他国にもあるべし、しばらくしるしてるゐしめす。












北越雪譜二編巻之一 終
[#改丁]

北越雪譜二編 巻二


北越   鈴木牧之  編選
江戸   京山人百樹 増修

○ 雪頽なだれくまうる


 酉陽雑俎いうやうざつそいふ熊胆ゆうたん春はくびり、夏ははらに在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。こゝろみ猟師かりうどにこれをとひしに、くまきもは常にはらにありて四時しじ同じといへり。けだし漢土かんどくま酉陽雑俎いうやうざつそせつのごとくにや。およそ猟師れふし山に入りて第一だいいちほつすところの物は熊なり。一熊いちゆうればその皮とそのきもと大小にもしたがへども、おほかたは金五両以上にいたるゆゑに猟師れふしほつするなり。しかれども熊はたけく、かつありてるにやすからず。雪中の熊はかはきもも常にばいす、ゆゑに雪に穴居けつきよするをたづさがし、猟師れふしどもちからあはせてこれをるに種々しゆ/″\じゆつある事初編しよへんしるせり。たま/\一熊いちゆうるとも其儕そのともがらあたひわかつゆゑ利得りとくうすし、さればとて雪中の熊は一人ひとりちからにては得事うることかたしとぞ。
ここすむ近在きんざい后谷村ごやむらといふあり。此村の弥左ヱ門といふ農夫のうふおいたる双親ふたおや年頃としごろのねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣さんけいさせけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守るす隣家りんかの者あやまちて火をいだしたちまちのきにうつりければ、弥左ヱ門がつま二人ふたり小児こどもをつれて逃去にげさり、いのち一ツをたすかりたるのみ、家財かざいはのこらず目前もくぜんけむりとなりぬ。弥左ヱ門は村に火災くわさいありときゝて走皈はせかへりしに、今朝けさいでし家ははひとなりてたゞ妻子つまこ※(「古/又」、第4水準2-3-61)ぶじをよろこぶのみ。此夫婦ふうふこゝろ正直しやうぢきにしておやにも孝心かうしんなる者ゆゑ、人これをあはれみまづしばらくが家にるべしなどすゝむ富農ふのうもありけるが、われ/\は奴僕ぬぼくわざをなしてもおんむくゆべきが、双親ふたおやかへり来りてひざならべて人の家にらんは心も安からじとてうけがはず。ひそか田地でんぢわかち質入しちいれなしその金にてかりに家を作り、親もかへりてすみけり。くさかるかまをさへ買求かひもとむるほどなりければ、火のためまづしくなりしに家をやきたる隣家りんかむかひて一言いちごんうらみをいはず、まじはしたしむこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌年よくとしの二月のはじめ、此弥左ヱ門山にいりたきゞを取りしかへるさ、谷におちたる雪頽なだれの雪のなかにきは/\しくくろものありはるかにこれをて、もし人のなだれにうたれ死したるにやとからうじて谷に下り、これれば稀有けうの大熊雪頽なだれ打殺うちころされたるなりけり。此雪頽なだれといふ事初編しよへんにもくはしくしるしたるごとく、山につもりたる雪二丈にもあまるが、春の陽気やうきしたよりむし自然しぜんくだおつる事大磐石だいばんじやくまろばしおとすが如し。これにあへば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大によろこび、かはきももとらんとおもひしが、日も西にかたぶきたれば明日あすきたらんとて人の見つけざるやうに山刀やまがたなにて熊を雪にうづめかくし、心に目しるしをして家にかへりおやにもかたりてよろこばせ、次のあしたかははぐべき用意をなしてかしこにいたりしにきもは常にばいして大なりしゆゑ、弁当べんたう面桶めんつうに入れて持かへりしを人ありてかはを金一両きもを九両にかひけり。弥ざゑもんはからず十両の金をしち入れせし田地をもうけもどし、これよりしば/\さいはひありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりてさかえけり。弥左ヱ門が雪頽なだれに熊を得たるは金一釜きんいつふ掘得ほりえたる孝子かうしにもすべく、年頃としごろ孝心かうしんてんのあはれみ玉ひしならんと人々しやうしけりと友人いうじん谷鴬翁こくあうをうがかたりき。

○ 雪頽なだれなん


 吾がすむ塩沢しほざは下組したぐみ六十八ヶ村の郷元がうもとなれば、郷元をあづかり知る家には古来こらい記録きろくのこれり。其旧記きうきなかに元文五年庚申(今より百年まへ)正月廿三日あかつき湯沢宿ゆざはしゆくえだ掘切村ほりきりむらうしろの山より雪頽なだれ不意ふい押落おしおとし、其※そのひゞき[#「口+向」、U+54CD、215-10]らいの如く、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の両家りやうけなだれにうたれて家つぶれ、彦右ヱ門并に馬一疋即死そくしさい嗣息せがれは半死半生、浅右ヱ門は父子即死、さいうつばりの下におされて死にいたらず。此時 御領主より彦右ヱ門せがれへ米五俵、浅右ヱ門さいへ米五俵たまはりし事をしるしあり。此魚沼郡うをぬまこほり大郡たいぐんにて 会津侯御あづかりの地なり。元文の昔も今も 御領内ごりやうない人民じんみんあはれみ玉ふ事あふぐべくたつとむべし。そのありがたさを吾がのちへもしめさんとてふでついでにしるせり。近年は山家の人、家を作るに此雪頽なだれさけて地をはかるゆゑそのなんまれなれども、山道やまみち往来ゆきゝする時なだれにうたれ死するものまゝある事なり。初編しよへんにもいへるが如く、○ホウラは冬にあり、雪頽なだれは春にあり。他国の人越後に来りて山下さんか往来わうらいせばホウラなだれを用心すべし。他国の人これに死したる石塔せきたふ今も所々にあり、おそるべし/\。

○ 雪中せつちゆう葬式さうしき


 吾が国に雪吹ふゞきといへるは、猛風まうふう不意ふいおこりて高山平原かうざんへいげんの雪を吹散ふきちらし、その風四方にふきめぐらして寒雪かんせつ百万のとばすが如く、寸隙すんげきあひだをもゆるさずふきいるゆゑ、ましてや往来ゆきゝの人は通身みうち雪にいられて少時すこしのま半身はんしんゆきうづめられて凍死こゞえしする※(「古/又」、第4水準2-3-61)、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴天せいてんにもにはかにおこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往来ゆきゝもこれがためにとまること毎年なり。此時にのぞん死亡しばうせしもの、雪あれのやむをまつほどのあるものゆゑ、せんかたなく雪あれををかしくわんいだす事あり。施主せしゆはいかやうにもしのぶべきが他人たのひと悃苦こまる事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦状くぢやうといふべし。われ江戸に逗留とうりうせしころ、旅宿りよしゆくのちかきあたりに死亡ありて葬式さうしきの日大あらしなるに、宿やどあるじもこれにゆくとて雨具あまぐきびしくなしながら、今日けふほとけはいかなる因果いんくわものぞや、かゝるあらしあひて人に難義なんぎをかくるほどなればとても極楽ごくらくへはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪吹ふゞきくらぶればいと安しとおもへり。

○ 竜燈りうとう


 筑紫つくしのしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかくあまねく人のしる所なり。そのもゆるさまは春暉しゆんき西遊記さいいうき12にしらぬ火をたりとて、つまびらかにしるせり。其しらぬ火といふも世にいふ竜燈りうとうのたぐひなるべし。我国蒲原郡かんはらこほり鎧潟よろひがたとて(里言に湖を潟と云)東西一里半、南北ヘ一里の湖水こすゐあり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火もゆるを、里人は鎧潟よろひがたの万燈とてあつまる人多し。友人いうじんこれをみたるをきゝしに、かの西遊記にしるしたるつくしのしらぬ火とおなじさまなり。近年湖水こすゐを北海へおとし新田となりしゆゑ、湖中こちゆうの万とうも今は人家じんか億燈おくとうとなれり。又我国の八海山はつかいさんいたゞきに八ツの池あり、依て山の名とす。絶頂ぜつちように八海大明神の社あり、八月朔日を縁日とし山にのぼる人多し。此夜にかぎりて竜燈りうとうあり、其来る所を見たる人なしといふ。およそ竜燈といふものおほかたは春夏秋なり。諸国にある※(「古/又」、第4水準2-3-61)諸書にしるしたるを見るに、いづれもおなじさまにて海よりもいで、山よりもくだる。毎年其日其刻限こくげん、定りある事甚奇異きいなり。竜神より神仏へくういふ普通ふつうせつなれど、こゝにめづらし竜燈りうとうの談あり、少しく竜燈をげすべき説なればしばらくしるして好事家かうずか茶話ちやわきようす。
 我国わがくに頸城郡くびきこほり米山よねやまふもと医王山いわうさん米山寺べいさんじは和同年中の創草さう/\なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人をきんず。此米山の腰を米山たふげとて越後北海の駅路えきろなり、此ほとり古跡こせき多し。先年其古跡をたづねんとてしも越後にあそびし時、新道しんだう村のをさ飯塚知義いひつかともよしはなしに、一年ひとゝせ夏の頃※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)あまこひために村の者どもをしたが米山よねやまへのぼりしに、薬師やくしへ参詣の人山こもりするために御鉢おはちといふ所に小屋二ツあり、その小屋へ一宿しゝにこの日は六月十二日にて此御鉢といふ所へ竜燈りうとうのあがる夜なり。おもひまうけずして竜燈をみる事よとて人々しづまりをりしに、酉の刻とおもふ頃、いづくともなくきたりあつまりしに、大なるは手鞠てまりの如く、小なるは※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)たまごの如し。大小ともに此御はちといふあたりをさらずして、飛行ひぎやうする※(「古/又」、第4水準2-3-61)あるひはゆるやか、あるひははしる、そのさま心ありてあそぶが如し。其ひかりは螢火ほたるひの色にたり。つよくも光り、よはくもひかるあり。ひめぐりてしばらくもとゞまるはなく、あまたありてかぞへがたし。はじめより小やの入り口をとざし、人々ひそまりてのぞきゐたれば、こゝに人ありともおもはざるやうにて、大小の竜燈りうとう二ツ三ツ小屋のまへ七八間さきにすゝみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、かたち鳥のやうに見えて光りはのどの下よりはなつやうなり。猶近なほちかくよらばかたちもたしかにとゞけんとおもひしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛めぐれり。此夜は山中さんちゆうに一宿の心なれば心用のためつゝをももたせしに、たれの上手しかも若ものなりしが光りをまとにうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとゞめ、あなもつたいなし、此竜燈は竜神より薬師如来へさゝげ玉ふなり。ばちあたりめとしかりたる声に、竜燈はおどろきたるやうにてはるか遠く飛さりしと知義ともよしかたられき。

○ 芭蕉翁はせををう遺墨ゐぼく


 およそ越後の雪をよみたるうたあまたあれども、越雪こしのゆき目前もくぜんしてよみたるはまれなり。西行さいぎやう山家集さんかしふ頓阿とんあ草菴集さうあんしふにも越後の雪の哥なし、此韻僧ゐんそうたちも越地の雪はしらざるべし。俊頼朝臣としよりあそんに「降雪ふるゆきたにおもかげうづもれてこずゑぞ冬の山路やまぢなりける」これらはじつに越後の雪の真景しんけいなれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、ぞくにいふ哥人かじんながら名所めいしよをしるなり。 伊達政宗卿だてまさむねきやうの御哥に「さゝずともたれかはこえせきふりうづめたるゆきの夕ぐれ」又「なか/\につゞらをりなるみちたえて雪にとなりのちかき山里」此君は御名たかき哥仙かせんにておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口碑こうひにもつたふ。雪の実境じつきやうをよみ玉ひしはしろしめす御国も深雪みゆきなればなり。芭蕉翁がおく行脚あんぎやのかへるさ越後に入り、新潟にひがたにて「海にる雨やこひしきうき身宿みやど寺泊てらどまりにて「荒海あらうみ佐渡さどよこたふ天の川」これ夏秋の遊杖いうぢやうにて越後の雪を見ざる事ひつせり。されば近来も越地に遊ぶ文人墨客ぶんじんぼくかくあまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷ふるさと逃皈にげかへるゆゑ、越雪の詩哥しいかもなく紀行きかうもなし。まれには他国の人越後に雪中するも文雅ぶんがなきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑崙こんろん山人、北越奇談を出板せしが(六巻絵入かな本文化八年板)一辞半言いちじはんげんも雪の事をしるさず。今文運ぶんうんさかんにして新板わくがごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪をしるしたるしよなし。ゆゑに吾が不学ふがくをもわすれて越雪ゑつせつ奇状きぢやう奇蹟きせきを記して後来こうらいしめし、且越地ゑつちかゝりし事はしばらのせ好事かうず話柄わへいとす。

芭蕉翁訪凍雲圖

 さて元禄のころ高田の御城下に細井昌庵ほそゐしやうあんといひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳諧はいかいよくしてがう凍雲とううんといへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍雲とううんをたづねて「薬欄やくらんにいづれの花を草枕くさまくら」と発句ほつくしければ、凍雲とううんとりあへず「はぎのすだれをまきあぐる月」此時のはせをが肉筆にくひつ二枚ありて一枚は書損しよそんと覚しく淡墨うすゞみをもつて一抹ひとふであとあり、二枚ともに昌庵主しやうあんぬしの家につたへしを、のちに本しよは同所の親族しんぞく三崎屋吉兵衛の家につたへ、書損しよそんのは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦君はうくん風雅ふうがをこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持主もちぬしより奉りければ、吉兵ヱヘ常信つねのぶの三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御蔵ござうとなりぬと友人葵亭きてい翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲原郡かんばらごほり加茂明神の修験しゆげん宮本院名は義方吐醋よしかたとさくがうし、又無方斎むはうさい別号べつがうす、隠居いんきよして葵亭きていといふ。和漢わかん博識はくしき北越の聞人なたかきひとなり。芭蕉がくだんの句ものに見えざればしるせり。
百樹もゝき曰、芭蕉居士こじは寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿のはんに生る。(次男なり)寛文六年歳廿四にして仕絆しはんし、京にいでゝ季吟きぎん翁の門に入り、しよ北向雲竹きたむきうんちくまなぶ。はじめ宗房むねふさといへり、季吟翁の句集くしふのものにも宗房とあり。延宝えんはうのすゑはじめて江戸に来り杉風さんふうが家による(小田原町鯉屋藤左ヱ門)剃髪ていはつして素宣そせんといへり、桃青たうせいのちの名なり。芭蕉はせをとは草庵さうあんに芭蕉をうゑしゆゑ人よりよびたる名ののちにはみづからがうによべり。翁の作に芭蕉を移辞うつすことばといふ文あり、そのをはりのことばに「たま/\花さくも花やかならず茎太くきふとけれどもをのにあたらず、かの山中不材ふさい類木るゐぼくにたぐへてその性よし。そう懐素くわいそは是に筆をはしらし張横渠ちやうくわうきよ新葉しんえふを見て修学しゆがくちからとせしとなり。その二ツをとらず。たゞ此かげに遊びて風雨にやぶやすきをあいす「はせを野分のわきしてたらひに雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟きうせきふか清澄町きよすみちやう万年橋の南づめむかひたる今或侯あるこう庭中ていちゆうに在り、古池のあと今に存せりとぞ。(余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆しよしこくを乞ども考証未足ゆゑに刻をゆるさず)おきな身を世外せいぐわいおきて四方に雲水うんすゐし、江戸にあとをとゞめず。つひには元禄七年甲戊十月十二日「たびやみゆめ枯埜かれのをかけめぐる」の一句をのこして浪花の花屋が旅※りよさう[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、223-9]客死かくしせり。是挙世きよせい[#「挙世」の左に「ヨノナカ」の注記]の知る処なり。翁が臨終りんじゆうの事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終焉記しゆうえんきに目前視るが如くにしるせり。此記をるに翁いさゝか菌毒きんどく[#「菌」の左に「キノコ」の注記]にあたりてとなり、九月晦日より病にふしわづかに十二日にして下泉かせんせり。此時病床びやうじやうもとにありし門人○木節もくせつ(翁に薬をあたへたる医なり)去来きよらい惟然ゐねん正秀せいしう之道しだう支考しかう呑舟どんしう丈草ぢやうさう乙州おつしう伽香かかう以上十人なり。其角は此時和泉のあはといふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨終りんじゆうあへり、奇遇きぐうといふべし。(以上終焉記を摘要す)其角が終焉記の文中に(此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり)『義仲寺にうつして葬礼義信をつくし京大坂大津膳所ぜゞ連衆れんじゆう被官ひくわん従者ずさまでも此翁のなさけしたへるにこそまねかざるに馳来はせきたる者三百余人なり。浄衣じやうえその外智月と(百樹云、大津の米屋の母、翁の門人)乙州が妻ぬひたてゝ着せまゐらす』又曰『二千人の門葉辺遠もんえふへんゑんひとつに合信かつしんするちなみえんとの不可思議ふかしぎいかにとも勘破かんはしがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十てつをいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、あんに十哲とよぶ門人あり。至善しぜん大道たいだう遊芸いうげい小技せうぎ尊卑そんひ雲泥うんでいは論におよばざれども、孔子七十にして魯国ろこく城北しろのきた泗上にはうふり心喪こゝろのもふくする弟子でし三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺にはうむる時まねかざるに来る者三百余人、是以こゝをもつて人に師たるの徳ありしをおもふべし。けだし芭蕉の盆石ぼんせきが孔夫子の泰山たいさんに似たるをいふなり。芭蕉かつて※(「馬+且」、第4水準2-92-83)※(「にんべん+會」、第4水準2-3-1)そくわい[#「※(「馬+且」、第4水準2-92-83)※(「にんべん+會」、第4水準2-3-1)」の左に「ウルコヽロ」の注記]ふう軽薄けいはくしふ少しもなかりしは吟咏ぎんえい文章ぶんしやうにてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推慕すゐぼする事今に於も不可思議ふかしぎ奇人きじんなり。されば一しやうといへども人これを句碑くひに作りて不朽ふきうつたふる事今なほ句碑くひのあらざる国なし。吟海ぎんかい幸祥かうしやう詞林しりん福禎ふくてい文藻ぶんさうに於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬欄やくらんの一句の墨痕ぼくこんも百四十余年ののちにいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論外不思議ろんぐわいふしぎといふべし。蜀山先生かつて謂予よにいつていはくおよそ文墨ぶんぼくをもつて世に遊ぶもの画は論せず、死後しごにいたり一字一百銭にあてらるゝ身とならば文雅ぶんがの幸福たるべしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭にあてらるゝ事嗟乎あゝかたいかな。
○さてまた芭蕉が行状小伝ぎやうぢやうせうでん諸書しよしよ散見さんけんしてあまねく人の知る所なり、しかれどもおきな※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)かほかたち挙世きよせい知る人あるべからず。さればこゝに一証をたるゆゑ、此雪譜せつふ記載きさいして后来こうらいしめすは、かゝる瑣談さだん[#「瑣談」の左に「チヒサイハナシ」の注記]も世に埋冤まいゑん[#「埋冤」の左に「ウヅマル」の注記]せん事のをしければ、いざさらばとて雪にころばす筆の老婆心らうばしんなり。
○こゝに二代目市川団十郎初代だん十郎(のち団に改む)俳号はいがうついで才牛といふ。のち柏筵はくえんとあらたむ。(元文元年なり)柏筵はくえんは、○正徳○享保○元文○寛保をさかんたる名人なり。つまをおさいといひ、俳名を翠仙すゐせんといふ、夫婦ともに俳諧をよく文雅ぶんがこのめり。此柏筵はくえんが日記のやうに書残かきのこしたるおいたのしみといふ随筆ずゐひつあり。(二百四五十帋の自筆なり)かつて梱外こんぐわい[#「梱」の左に「シキヰ」の注記]いださゞりしを、狂哥堂真顔翁珎書ちんしよなれば懇望こんまうしてかの家より借りたる時亡兄ばうけいとともによみしことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏筵はくえん一蝶が引船の絵の小屏風を風入れするかたはらにて、人参にんじんをきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独言ひとりごといひたるをしるしたる文に「我れ幼年えうねんころはじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖をて、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本づゝみゆきし事今にわすれず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまたすこぶきこえたり(中略)今日小川破笠老はりつらうまゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。つねに茶のつむぎの羽織をきられ、嵐雪らんせつよ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。(翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし)小川破笠俗称平助壮年さうねんころ放蕩はうたうにて嵐雪ととも(俗称服部彦兵ヱ)其角が堀江町のきよ食客しよくかくたりし事、くだんおいたのしみ又破笠が自記じきにも見ゆ。破笠一に笠翁また卯観ばうくわん子、夢中庵むちゆうあん等の号あり。を一蝶にまなび、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四ふでとあり。描金まきゑよくして人のかすをなめず、別に一趣いつしゆ奇工きこうす。破笠はりつ細工とて今にしやうせらる。吉原の七月はじめ機燈からくりとうろを作りて今に其余波よはのこせり、でんつまびらかなれどもさのみはとてもらせり。

○ 化石渓くわせきたに


 東游記とういうきに越前国大野領の山中に化石渓くわせきたにあり。何物にても半月あるひは一ヶ月此たにひたしおけばかならず石に化す、器物きぶつはさらなり紙一そくわらにてむすびたるが石にくわしたるを見たりとしるせり。我が越後にも化石渓あり、魚沼郡うをぬまこほり小出こいでざい羽川はかはといふたに水へかひこくさりたるをながししが一夜にして石にくわしたりと友人いうじん葵亭翁きていをうがかたられき。かの大野領の化石渓は東游記のためたかけれども我が国の化石渓は世にしられず、又近江の石亭が雲根志うんこんし変化の部に(前編)人あり語云、越後国大飯郡おほひこほり寒水滝かんすゐたきといふあり、此処深山幽谷しんさんいうこくにして沍寒こかん[#「沍寒」の左に「ツヨクサムキ」の注記]の地なり。此滝つぼへ万物をなげこめおくに百日をすぐさずして石に化すとぞ、滝坪の近所にて諸木の枝葉又は木のその外生類しやうるゐまでも石に化たるを得るとぞ。去る頃此滝の石を取よせし人ありて見るに、常の石にあらず全躰ぜんたい鐘乳しようにうなり、木の葉など石中にふくむすなはち石なり。雲林石譜うんりんせきふにいふ鐘乳しようにう転化てんくわして石になるならん云云。牧之ぼくしあんずるに、越後に大飯郡おほひごほりなし又寒水滝かんすゐたきの名もきかず。人ありかたるとあれば伝聞でんぶんあやまりなるべし。けだし北越奇談ほくゑつきだん会津あひづとなこまたけ深谷しんこくに入ること三里にして化石渓くわせきたにと名付る処あり、虫羽ちゆうう草木といへどもたにに入りて一年をればみな化して石となる。その川甚苦寒くかんにして夏もわたるべからざるが如し。又蘇門岳そもんがたけの北下田郷しただがう深谷しんこくにも化石渓くわせきたにあり云々。雲根志うんこんしせつはこれらの所を聞誤きゝあやまりたるならん。

○ 亀の化石くわせき


 吾が同郡どうぐんをかまち旧家きうか村山藤左ヱ門はむこの兄なり。此家に先代より秘蔵ひさうする亀の化石くわせきあり、つたへていふ、ちか山間さんかんの土中より掘得ほりえしといふ、じつに化石の奇品きひんなり、こゝあげ弄石家ろうせきかかんまつ
百樹もゝき曰、くだんるに常にある亀とは形状かたち少しくことなるやうなり。依てあんずるに、本草ほんざう所謂いはゆる秦亀しんき一名筮亀ぜいきあるひは山亀といひ、俗に石亀いしがめといふ物にやあらん。秦亀しんきは山中にるものなり、ゆゑによんで山亀といふ。春夏は渓水けいすゐに遊び秋冬は山にかくる、きはめて長寿する亀は是なりとぞ。又筮亀ぜいきと一名するは周易しうえきに亀をやきて占ひしも此亀なりとぞ。くだんの亀の化石、本草家の鑒定かんてい秦亀しんきならば一そうちんますべし。山にてほりたりとあれば秦亀しんきにちかきやうなり。化石といふものあまた見しに、多はちひさきものにてあるひはまたかたちまつたきまれなり。の化石はかたちまつたそのうへ大なり、ちんとすべし。

甲之圖

先年俗にいふ大和やまとめぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、旧友きういうの画家春琴子しゆんきんしつい諸名家しよめいかをたづねし時、鴻儒かうじゆきこえ高きらい先生(名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎)へもとむらひ、坐談ざだん化石の事におよび、先生かにの化石一枚をめぐむ。その色かれずしていけるが如く、堅硬かたきことは石なり。潜確類書せんかくるゐしよ本草ほんざう三才図会づゑ等にいへる石蟹いしかに泥沙でいしやともに化して石になりたるなるべし。盆養ぼんやうする石菖せきしやうもとにおくに水中にうごくが如し。亀の徒者おとも其図そのづいだす、是も今は名家の形見かたみとなりぬ。

○ 夜光玉


 雲根志うんこんし※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいいの部に曰、隣家となり壮勇さうゆうの者あり儀兵衛といふ。或時田上谷たがみだにといふ山中にゆき夜更よふけかへるに、むかうなる山の澗底たにそこより青く光りにじの如くのぼりてすゑはそらまじはる。此男勇漢ゆうかんなれば三に草木を分けて山を越、谷をわたりてかの根元こんげんをさぐりみるに、たゞ何のことなる事もなき石なり。ひろひとりてかへるに道すがら光ること前の如し。甚だ夜道のらうをたすかり、あかつきころ我が家に着ぬ。くだんの石をのきそとなほおき、朝飯などしたゝめて彼の石を見んとするに石なし、いかにせし事やらんとさま/″\にたづねもとむれども行方しれずとなん。又本国甲賀郡かふかこほり石原いしはら潮音寺てうおんじ和尚のものがたりに、近里の農人はた掘居ほりゐしにこぶしほどなる石をほりいだせり、此石常の石よりは甚だうつくし、よつて取りかへりぬ、夜に入りて光ること流星りうせいの如し。友のいふ、是は※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいせきなり、人の持ものにあらず、家にあらば必わざはひあるべし、はやく打やぶりてすつべしと。これをきゝてをのをもつて打砕うちくだきしを竹やぶの中へすてたり、其夜竹林一面に光る事数万の螢火の如し。翌朝よくてう近里の人きゝつたへてあつまり来り、竹林をたづねみるに少しのくづまでも一石も有る事なし。又筑后国ちくごのくに上妻あがつま郡の人用ありて夜中近村へ行に一ツの小川あり、かちわたりせしに、なにやらん光る物あり、拾ひとりてみれば小石なり、翌日さる方へ献ず、しばらくして失たりとぞ。(以上一条全文)是等これらは他国の事なり、我が越后ゑちごにも夜光の玉のありし事あり。新発田しばたより(蒲原郡)東北加治かぢといふ所と中条といふ所の間みちかたはら田の中に庚申塚あり、此塚の上に大さ一尺五寸ばかりのまろき石をちんしてこれをまつる。此石その先農夫せんのうふいへうしろの竹林を掃除さうぢして竹の根などるとてかの石一ツを掘得ほりえたり。その色青みありて黒く甚だなめらかなり、農夫のうふこれをもつてわらをうつばんとなす、其夜妻にはいでしに燦然さんぜんとして光る物あり、妻妖怪ばけものなりとしておどろきさけぶ家主あるじ壮夫わかもの三五人をともなひ来りて光る物をうつに石なり、皆もつてくわいとし石を竹林に捨つ、その石夜毎よごとに光りあり、村人おそれて夜行ものなし。依て此石を庚申塚に祭り上に泥土どろぬりて光をかくす、今なほこけむしてあり。好事かうずの人この石をへども村人そんじんたゝりあらん※(「古/又」、第4水準2-3-61)おそれてゆるさずとぞ。又こまたけふもと大湯村と橡尾とちを村の間を流るゝたに川を佐奈志さなし川といふ、ひとゝせ渇水かつすゐせし頃水中に一てんの光あり、螢の水にあるが如し。数日処をうつさず、一日暴風ばううに水まして光りし物所をうしなふ、のち四五町川下に光りある物螢火けいくわの如し。此地山中なれば村夫等そんふら昏愚こんぐにして夜光の玉なる事をしらず、あへてたづねもとむる者もなかりしに、其秋の洪水こうずゐに夜光の玉ふたゝびながれて所在しよざいうしなひしとぞ。(以上北越奇談の説)さてこゝ夜光珠やくわうのたま実事じつじあり。われ文政二年卯の春しも越後を歴遊れきいうせしをり、三嶋郡に入り伊弥彦やひこ明神ををがみ旧知識きうちきなれば高橋光則翁みつのりをうたづねしに、翁大によろこびて一宿いつしゆくゆるしぬ。此翁和哥をよくかつ好古かうこへきありて卓達たくたつの人なり、雅談がだんわくが如く、おもはず※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)つゑをとゞめし事四五日なりし。一せき翁の語りけるは、今より四五十年以前吉田の(三島郡の内なり)ほとり大鳥川といふたに川に夜な/\光りものありとて人おぢて近づくものなかりしに、此川の近所に富長村といふあり、こゝに鍛冶かぢの兄弟あり、ひとりの母をやしなふ、家もつともまづし。此兄弟剛気がうきなるものゆゑかの光り物を見きはめ、もし妖怪ばけものならば退治たいぢして村のものどもがきもをひしがんとて、ある夜兄弟かしこにいたりしに、をりしも秋の頃水もまさりし川づらをみるに、月くらくしてたゞ水の音をきくのみ。両人たいまつをふりてらしてこゝかしこをみるに光るものさらになく、またあやしむべきをみず、さては人のいふは空言そらごとならん、いざとてかへらんとしけるに、水上にはか光明くわうみやうはなつ、すはやとて両人衣服をぬぎすて水に飛入りおよぎよりて光る物をさぐりみるに、くゝり枕ほどなる石なり、これを取得とりえて家にかへり、まづ※(「火+土」、第4水準2-79-58)かまどもとおきしに光り一室いつしつてらせり。しか/″\のよし母にかたりければ、不思議ふしぎたからたりとて親子よろこび近隣きんりんよりも来りみるもありしが、ものしらぬ者どもなれば趙壁随珠てうへきずゐしゆともおもはずうちすぎけり。かくてのちおとゝ別家べつけする時家の物二ツにわかちて弟にあたへんと母のいひしに、弟は家財かざいのぞまず光る石を持去もちさらんといふ。兄がいはく、光る石をひろしは我がくはだてなり、なんぢは我がちからたすけしのみなり、光る石は親のゆづりにあらず、兄が物なり。家財かざいわかつならばおやのゆづりをこそわかつべけれ、あたふまじ/\。弟いな/\あの石はおれがものなり、いかんとなればおん身は光る石をひろはんとのくはだてにはあらず、妖物ばけもの退治たいぢせんとて川へいたり、おん身よりは我先われさきに川へ飛いり光りものをさぐりあてゝかづきあげしも我なり、しかればおれがひろひしを持さらんになにかあらん。いや/\此兄がものなり、弟がのなりと口論こうろんやまず、つひにはつかみあひうちあひしを、母やう/\におししづめ、しからば光る石を二ツにりて分つべしといふ。弟さらばとて明玉をとりいだし鍛冶かぢするかなとこ[#「金+質」、U+9455、233-10]の上にのせかなつち[#「金+奄」、U+4936、233-10]をもて力にまかせて打ければ、をしむべし明玉砕破くだけて内に白玉をはらみしがそれもくだけ、水ありて四方あたり飛散とびちりけり。其夜水のかゝりし処光り暉かゝやく事ほたるむらがりたるが如くなりしに、二三夜にしてその光りも消失きえうせけりとぞ。いかに頑愚ぐわんぐの手にありしとはいひながら、稀世きせいの宝玉鄙人ひじん一槌いつつゐをうけてほろびたるは、玉も人もともに不幸といふべしとかたられき。牧之ぼくしあんずるに、橘春暉たちばなしゆんきあらはしたる北※瑣談ほくさうさだん[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、233-14](後編の二)蔵石家ざうせきかの事をいふくだりいはく、江州山田の浦の木之内古繁こはん、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の好事家かうずか侯国こうこく逸人いつじん蔵石ざうせきに名の高き人近年おびたゝし、も諸家の奇石きせきを見しに皆一家のをさむる処三千五千しゆにいたる、五日十日の日をつくしてやう/\をふる※(「古/又」、第4水準2-3-61)るにいたる、その多き中にも格別に目をおどろかすほどの珎奇ちんきの物はなきものなり。加嶋屋源太兵ヱものがたりに、すぎとし北国より人ありてこぶしの大さの夜光やくわうの玉あり、よく一しつてらす、よきあたひあらばうらんといひしかば、即座そくざに其人にたくしていはく、其玉もとめたし、暗夜あんやにその玉の入りたる箱の内ばかり白きやうに見えなば金五十両にもとむべし、又その玉にて闇夜に大なる文字一字にてもよみえられなば金百両にもとむべし、又書状しよぢやうよむほどならば三百金、いよ/\一室をてらさば吾が身上のこらずのちからつくしてもとむべし、なかだちして玉はるべしといひしが、そのゝちなにの便たよりもなくてやみぬ、空言そらごとにてありしと思はる云云。此文段は天明年中蔵石ざうせきの世に流行はやりたる頃加嶋屋がはなしをそのまゝに春暉しゆんきのちにしるしたるなるべし。さて又がかの鍛冶かぢ屋が玉のはなしをきゝしは文政二年の春なり、今より四五十年以前とあれば、鍛冶かぢが玉をくだきたるは安永のすゑか天明のはじめなるべし。しかりとすれば、蔵石ざうせき流行はやりたる頃なれば、かのかじまやがはなしに北国の人一室いつしつをてらす玉のうりものありしといひしは、我が国の縮商人ちゞみあきびとなどがかぢやの玉の※(「古/又」、第4水準2-3-61)をきゝつたへてあきなひ口をいひしもはかられず。しかるに玉はくだきしときゝてかじまやへこたへざりしにやあらん。卞和へんくわが玉も楚王そわうたればこそ世にもいでたれ、右にのせたる夜光のはなし五ツあり、三ツは我が越後にありし事なり。いづれも世にいでず、嗟乎あゝをしむべし/\。
百樹もゝき曰、五雑組ござつそ物の部に鍛冶かぢ屋がはなしにるゐせる※(「古/又」、第4水準2-3-61)あり。みん万暦ばんれきはじめ※(「門<虫」、第3水準1-93-49)みんちゆう連江といふ所の人蛤をわりて玉をたれども不識みしらずこれをる、たまかまの中にあり跳躍をどりあがりしてさだまらず、火光くわくわうそらもゆ里人さとびと火事くわじならんとおどろき来りてこれを救ふ。玉を烹たるもの、そのゆゑをきゝかまふたひらきればすでに玉はなかばかれたり。其たまわたり一寸ばかりこれしん夜光やくわう明月のたまなり。俗子ぞくしやくせられたる事悲夫かなしきかなしるせり。又曰、(五雑組おなじつゞき)恵王けいわうわたりいつすんたま前後車をてらすこと十二じようの物はむかしの事、今天府みかどのくらにも夜光珠やくわうのたまはなしと明人みんひと謝肇※(「さんずい+制」、第3水準1-86-84)しやてうせつ五雑組ござつそにいへり。○神異記しんいき洞冥記とうめいきにも夜光珠やくわうしゆ※(「古/又」、第4水準2-3-61)見えたれども孟浪うきたることしよくす。古今注ここんちゆうにはすぐれて大なるくぢらは夜光珠をなすといへり。卞和へんくわが玉も剖之これをわればうちはたして有玉たまありといへば、石中に玉をはらみたる事鍛冶かぢくだきたる玉卞和へんくわが玉にるゐせり。てう恵王けいわうが夜光の玉を、しんせう王がしろ十五を以てかへんといひしは、加嶋屋が北国の明玉めいぎよく身上しんしやうつくしてかはんとやくせしにるゐせり。さて又癸辛雑譏続集きしんざつしきぞくしふ(巻下)に、機婦はたおりをんな糸を水にひたしおきたるに、夜中白く大なる蜘蛛くもきたりてその水をのむにに光りをはなつ、かの婦人ふじんこれを見て大にあやしみ、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にはとりのかごふせてかの蜘蛛くもをとらへしにはら夜光珠やくわうのたまあり、大さ弾丸だんぐわん[#「弾丸」の左に「テツハウタマ」の注記]の如しとしるせり。(此事を前文に牧之老人が引たる北越奇談玉の部に越後にありし事とていだせり。その事癸辛雑識に少しもちがはず、おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば、北越奇談の作者俗子の目に奇をしめさんとてたはむれに越後の事としてかきくはへたるもしるべからず。しかし癸辛雑識続集は都下にすら得がたければ本書を見たるにはあるべからず、博識に伝聞したるなるべし)増一阿含経ぞういちあごんぎやう(第卅三。等法品第卅九)転輪聖王てんりんじやうわうの徳にそなはりたる一尺六寸の夜光摩尼宝やくわうまにはう彼国かのくに十二由旬ゆじゆんてらすとあり、ぶんおほければあげず。けだし一由旬いちゆじゆん異国いこくの四十里なり、十二由旬ゆじゆんは日本道六十六里なり。一尺六寸の玉六十六里四方を照すは奇異きいといふべし。転輪てんりん王此玉をこゝろみに高きはたかしら挙著あげおきけるに、人民等じんみんら玉の光りともしらず夜のあけたりとおもひ、おの/\家業かせぎをはじめけりとしるせり。此事碩学せきがくきこえたか了阿れうあ上人のはなしにきゝてかの経を借得かりえよみしが、これぞ夜光の玉のおや玉なるべき。

剛夫得名玉圖

○ 餅花もちばな


 餅花もちはなよるねずみがよし野山(一にねずみが目にはとあり)とは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅搗もちつきの時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝぐるよし、俳諧はいかいには冬とす。我国の餅花は春なり。正月十四日までをおほ正月といひ、十五日より廿日までを正月といふ、是わが里俗のならはせなり。さて正月十三日十四日のうちに門松しめかざりを取り払ひ、(我国長岡あたりにては正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる)餅花を作り、大神宮歳徳の神えびすおの/\餅花一えだづゝ神棚へさゝぐ。その作りやうはみづ木といふ木、あるひは川楊かはやなぎえだをとり、これに餅を三角又は梅桜の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは団子をもまじふ、これを蚕玉まゆたまといふ。稲穂いなぼ又は紙にて作りたる金銭、ちゞみあきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、農家のうかにては木をけづりて鍬鋤すきくはのたぐひ農具のうぐを小さく作りてもちばなの枝にかくる。すべておのれ/\が家業かげふにあづかるものゝひなかたを掛る、これそのげふの福をいのるの祝事しゆくじなり。もちばなを作るはおほかたわかきものゝ手業てわざなり。いはひとて男女ともうちまじりてこゑよく田植哥たうゑうたをうたふ、此こゑをきけば夏がこひしく、家の上こす雪のはやくきえよかしとおもふも雪国の人情なり。此餅花は俳諧の古き季寄きよせにもいでたれば二百年来諸国にもあるは勿論もちろんなり。ちかごろ江戸にはによらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。

○ さい神勧進かみくわんじん


 我が塩沢しほざは近辺きんへんの風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男のわらべどもさいの神勧進くわんじんといふ事をなす。少し富家ふかわらべこれをなすには※木ぬるでのき[#「木+備のつくり」、U+235BE、239-10]を上下よりけづかけつばの形を作る、これを斗棒とぼうといふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、童僕わらべのともに一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木をかしらばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに綿わたをきせ、紙にて作りたる衣服にべににて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけてひげとす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、さい神勧進々々かみくわんじん/\とよばゝりありく。あへてものほしきにもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、児輩こどもおの/\する事なり。これにあたふるものは切餅あるひは銭もあたふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人たうをなし、茜木綿あかねもめん頭巾づきんにあさぎのへりをとりたるをかむり、かの斗棒とぼうを一本さし、かのふた神を柳こりに入れて首にかけ※(歌記号、1-3-28)さいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ/\とおやれ/\ と門々かど/\をおしありく。これに銭をもあたへあるひはにごり酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして勧進くわんじんす、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。勧進くわんじんのことばに「ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春はよめでもむこでもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ/\」かくして勧進の銭をあつめてさいの神をまつる入用とするなり。(さいの神のまつり下にしるす)又去年むこよめをむかへたる家のかどに、未明みめいよりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸をたゝき、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の祝事いはひごととすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる俗習ぞくしふ他国にもあまたあるべし。
○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、醒斎せいさい京伝翁が骨董集こつとうしふよみ本拠ほんきよある事を発明はつめいせり。骨董集こつとうしふ上編下、かゆの木のくだりに、○粥杖かゆづゑ祝木いはひぎ○ほいたけぼうといふ物、前にいひし斗棒とぼうに同じ。京伝翁のせつに、かゆの木とは正月十五日粥をたるたきゞつゑとし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○まくら草紙さうし狭衣さごろも弁内侍べんのないし日記にきその外くさ/\のしよひきて、上代の宮裏きうり近古きんこ市中しちゆう粥杖かゆつゑの事をあげて、考証かうしやうはなはだつまびらかなり。今我が郡にいふ斗棒とぼうすなはちいにしへの粥杖かゆつゑ遺風ゐふうなる事を発明はつめいせり、我国にも祝木いはひぎあるひは御祝棒おいはひぼうといふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたるしよにてしらるゝなり。その引書いんしよなかにも明人の作「日本風土記」にあるはもつとも我国のによく似たり、此しよは今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人がきゝつたへて書たるものなれば、今我国にて小童こどものたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗遠境ゑんきやうにもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記(巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふ)に「たゞ街道がいだう郷村きやうぞん児童ぢどう年十五八九已上におよものおの/\柳の枝を取り皮を木刀ぼくたう彫成きざみなし、皮を以またほか刀上たうしやうまと用火ひにて焼黒やきくろめ皮をもつて黒白のもやうわかつ、名づけて荷花蘭蜜こばらみといふ。ふたゝび荊棘けいきよくえだとり香花かうくわ神前しんぜんさしはさみくうず。次にあつま各童わらべども手に木刀をとりみち隊閙たいだうし[#「隊閙」の左に「ムレサワギ」の注記]すべて有婚こんれいして无子こなきをんな木刀をもつ遍身へんしん打之これをうち口に荷花蘭蜜こばらみとなふ。かならず此をんな当年このとしはらみ男をうむ」我国にて児童等こどもらが人のかど斗棒とぼうにてたゝき、よめをだせむこをだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の俗習ぞくしふ遺事ゐじなるべし。
百樹もゝき案に、くだんの風土記にふたゝ荊棘けいきよくえだを取り香花つねにいのる神前にさしはさむといひしは、餅花もちばな神棚かみたなくうずる事を聞て粥杖かゆつゑの事と混錯こんさくして記したるなるべし。しかりとすれば餅花もちはなも古き祝事しゆくじなり。

○ さいの神のまつり


 くに正月十五日にさいの神のまつりといふは所謂いはゆる左義長さぎちやうなり。唐土もろこし爆竹ばくちくといふ唐人たうひと除夜ぢよやに、竹爆たけたふる千門のひゞき[#「口+向」、U+54CD、242-4]ともしびもゆる万戸あきらかなりの句あれば、爆竹ばくちくは大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、 清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の書始かきぞめを此火に焼て天に奉るのとす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にてもやし玉ふを祝事とせさせ玉ふ。民間みんかんにもこれをまなびて正月十五日正月にかざりたるものをあつめてもやす、これ左義長さぎちやうとて昔よりする事なり。これをさいの神まつりといふも古き事なり。爆竹左義長ばくちくさぎちやう故事ふること俳諧はいかい季寄きよせ年浪草としなみぐさに諸書を引てくはしくいへり。
○吾が郡中ぐんちゆうにて小千谷をぢやといふ所は人家じんか千戸にあまる饒地よきとちなり、それゆゑにさいの神の(斎あるひは幸とも)まつりも盛大せいだいなり。これをまつるにその町々におの/\毎年さだめの場所ありてその所の雪をふみかため、さしわたし三間ばかりにめぐらしたる高さ六七尺のまろき壇を雪にて作り、これに二処ふたところの上りだんを作る、これも雪にてする、里俗りぞくよんしろといふ。さてだん中央まんなかに杉のなま木をたてゝはしらとし、正月かざりたるものなにくれとなくこのはしらにむすびつけ又はつみあげて、七五三しめをもつて上よりむすびめぐらしてみののごとくになし、(かやをまじへ入れてかたちをつくる)いたゞき大根注連だいこんしめといふものゝ左右に開たる扇をつけて飛鳥ひてうかたちを作りつける。だんの上にはせきをまうけて神酒みきをそなへ、此町の長たるもの礼服をつけてはいをなし、所繁昌の幸福をいのる。此事をはればきよめたる火を四隅よすみよりうつす、油滓あぶらかすなど火のうつりやすきやうになしおくゆゑ※(「火+端のつくり」、第4水準2-79-85)たん/\熾々しゝもえあがる、(此火にて餅をやきてくらふ、病をのぞくといふ世にふるくありし事なり)これすなはち爆竹左義長ばくちくさぎちやうなり。他国にてもする事なり。或人あるひとはなしに、此事百余年前までは江戸にもありしが、火災くわさいをはゞかるためにきんくだりてやみたりとぞ。
○さて又おんべといふ物を作りてこの左義長にかざして火をうつらせやく祝事しゆくじとす、おんべは御へい訛言くわげん[#「訛言」の左に「ナマリ」の注記]なり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き幣束へいそくのやうにきりさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを数千すせんあつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人にほこる。さをの末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ美事みごとなり。これを作りてまづおのれ/\がかどたておく事五月ののぼりのあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして焼捨やきすつるを祝ひとしなぐさみとす。る人ぐんをなすは勿論もちろん、事をはりてはこゝかしこにて喜酒よろこびざけえんをひらく。これみな 国君こくくん盛徳せいとく余沢よたくなり。他所にも左義長あれどもまづは小千谷をぢや盛大せいだいとす。

斉神祭事之圖

百樹もゝきいはく京水をしたがへて越後に遊びし時、此小千谷をぢやの人岩淵いはぶち(牧之老人の親族なり)の家に※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)つゑをとゞめたる事十四日、(八月なり)あるじの嗣子むすこ廿四五ばかりがう岩居がんきよといふ、しよをよくす。ぐうせしことはなはだあつし小千谷をぢや北越ほくゑつ一市会いつしくわい商家しやうか鱗次りんじとして百物そなはらざることなし。うみる事わづかに七里ゆゑに魚類ぎよるゐとぼしからず。塩沢しほざはにありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚にとぼしく、江戸者の口に魚肉ぎよにくのぼらざりし事四十余日、小千谷をぢやにいたりてはじめて生鯛なまたひしよくせしに美味びみなりし事いふべからず。又※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけ時節じせつにて、小千谷をぢや前川ぜんせんは海にてうするの大河なれば今とりしをすぐに庖丁はうちやうす。あぢはひ江戸にまされり。一日※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけをてんぷらといふ物にしていだせり。岩居がんきよにむかひ、これは此地にては名をなにとよぶぞとひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の名義めいぎさとしがたく、古老こらうにたづねたれどもしる人さらになし、先生のせつをきかんといふ。こたへてまづしよくをはりてテンプラの来由らいゆかたるべしといひつゝ※(「魚+生」、第3水準1-94-39)さけのてんぷらをあくまでにしよくせり。

○ てんぷらのせつ  ○ 煉羊羹ねりやうかん起原きげん


岩居がんきよかたりいはく、今をさる事五十余年ぜん天明のしよ年大阪にて家僕かぼく四五人もつかふほどの次男とし廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥妓げいしやをつれて出奔しつほんし、江戸に下り余が家の(京橋南街第一※[#「衙」の「吾」に代えて「共」、U+8856、246-12]むかひの裏屋うらやに住しに、一日あるひ事のついでによりて余が家に来りしより常に出入でいりして家僕かぼくのやうに使つかひなどさせけるに、花柳くわりうに身をはたしたるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用をべんずるゆゑ、をしき人にぜにがなしとて亡兄ばうけいもたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚ごまあげ辻売つじうり多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉ぎよにくのつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡兄ばうけい(京伝)いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとてにはか調てうじさせしに、いかにも美味びみなり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行灯あんどんに魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれとひければ、亡兄ばうけいしばらくしあんして筆をとり天麩羅てんふらとかきてみせければ、利助不審ふしん※(「兵」の「丘」に代えて「白」、第3水準1-14-51)かほをなし天麩羅てんふらとはいかなる所謂いはれにかといふ。亡兄うちゑみつゝ足下そこは今天竺浪人てんぢくらうにんなり、ぶらりと江戸へきたりて売創うりはじむる物ゆゑに天ふらなり、これ麩羅ふらといふ字をくだしたるはは小麦の粉にてつくる、はうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ※(「古/又」、第4水準2-3-61)なりと戯言たはむれごと云れければ、利助も洒落しやれたる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此みせをいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、がをさなき時天麩羅と大書たいしよして与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近辺きんべん所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝染しみわたり、此小千谷をぢやまでもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩学鴻儒せきがくかうじゆの大先生もしるべからず。てんぷらの講釈こうしやくするは天下に我一人なりとたはむれければ、岩居がんきよをうちて笑ひけり。
○先年此てんぷらのはなしを友人静廬せいろ翁に語りしに(翁は和漢の博達時鳴の聞人なり)翁曰、事物紺珠じぶつかんしゆ(明人黄一正作廿四巻)夷食いしよくの部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其しよりえてよみしに、○塔不剌たふふらとありてちゆうに○ねぎさんしよ○油○ひしほいりつけあとよりあひる或は※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)をいれ、慢火ぬるひにて養熟しあげるとあり。かにをあぶらげにするも見えたり。
○さて天麩羅の播布はんふ[#「播布」の左に「ヒロマル」の注記]るゐせる事あり、ちなみに記す。○橘菴漫筆きつあんまんひつ(享和元年京の田仲宣作)「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓しつほくを料理して弘めける。是京師浪花おほざか食卓しつほく料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの老婆らうばとなりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど野堂のど町の貴徳斎きとくさいほど久しくつゞきたるはなし」岩居がんきよがてんぷらをふるまひたる夜その友蓉岳ようがく来り、(桜屋といふ菓子や)余が酒をこのまざるを聞て家製かせいなりとて煉羊羹ねりやうかんめぐみぬ、あぢはひ江戸に同じ。越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆かんたんし、岩居にいひていはく、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶればあぢはひまされり。がをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢できあひのねりやうかんあるはじつに大平の徳化とくくわなりといひしに、蓉岳ようがくも書画をよくし文事ぶんじもありて好事かうずものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が家産かさんなり、ねりやうかんを近来のものといふ由来ゆらいしめし玉へといふ。かたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町あざな式部小路しきぶこうぢといふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚でつちひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ※子造かうしづくり[#「竹かんむり/隔」、U+25D29、249-2]にかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは 貴重きちようの御菓子を調進てうしんする家の菓子杜氏とうじなるよし。奉公をやめてこゝに住し、極製こくせいの菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて煉羊羹ねりやうかんと名づけてうりけるに羊羹やうかん本字は羊肝やうかんなる事芸苑日鈔げいゑんにつせうにいへり)喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱むなしくかへる事度々なり、これ目前もくぜんしたる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷をぢやにもあれば此国に市会しくわいをなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、蓉岳ようがくわらつて小倉羹をぐらかんもあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には似気にげなきべんなれど本文小千谷をぢやのはなしにおもひいだしたれば人の話柄わへいしるせり。なほ近古きんこ食類しよくるゐ起原きげんさま/″\あれど食物しよくもつ沿革考えんかくかう[#「沿革考」の左に「ウツリカハリ」の注記]に上古よりあげてしるしたればこゝにはもらせり。

○ 雪中せつちゆうおほかみ


 初編しよへんにもしるしたるごとく、我国のけもの冬にいたれば山をこえて雪あさき国へさる、これ雪ふかくしてしよくにとぼしきゆゑなり。春にいたればもとのすみかへかへる。されども雪いまだきえざるゆゑしよくにたらず、をりふしは夜中人家じんかにちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ山村さんそんの事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に穴居けつきよするはくまのみなり。熊は手に山蟻やまありをすりつけ、これをなめて穴居けつきよしよくとするよしいひつたふ。

雪中狼入人家圖

○こゝにわが郡中ぐんちゆう山村さんそん不祥ふしやうのことなれば地名人名をはぶく)まづしき農夫のうふありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性質せいしつ篤実とくじつにしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山道やまみちなり。母いはく、山なかなれば用心なり、つゝをもてといふ、にもとて鉄炮てつはうをもちゆきけり。これは農業のうげふのかたはられふをもなすゆゑに国許こくきよつゝなり。かくてはからず時をうつし日もくれかゝるかへりみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山かげおほかみ物をくらふを見つけ、矢頃やごろにねらひより火蓋ひぶたをきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人のあしなり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我家わがやをきづかひおほかみはそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きにのくれなゐをそめけり。みるよります/\おどろきはせいりければ狼二疋にげさりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片足かたあしはくひとられてしゝゐたり。つままど[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、252-14]のもとに喰伏くひふせられあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子はにはにありてかばねなかくはれたり。つまはすこしいきありてをつとをみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、おほかみがといひしばかりにてたふれしゝけり。農夫のうふはゆめともうつゝともわきまへず鉄炮てつはうもちて立あがりしが、さるにてもむすめはとてなきごゑによびければ、ゆかの下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山家さんか住居ぢゆうきよもこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農夫のうふは時のに六十の母、三十の妻、七ツの子を狼のきばにころされ、がみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう/\にきゝつけきたり此ていをみておどろきさけびければ、おひ/\あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、まど[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、253-8]をやぶりて狼三疋はせいりしが、わしはかまどに火をたきてゐたりしゆゑすぐにゆかの下へにげ入り、ばゞさまと母さまとおとがなくこゑをきゝて念仏ねんぶつ申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれくわん一ツにつまわらべををさめ、母のくわんと二ツ野辺のべおくりをなしけるになみだそゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝがつゝをもてといひしゆゑ、母の片足かたあしを雪の山かげにくらひゐたるおほかみをうちおとして母のかたきはとりたれど、二疋をもらししはいかに口惜くちをしかりけん。これよりのち此農夫のうふ家をすてむすめをつれて順礼じゆんれいにいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。
百樹もゝき曰、日本の狼は幻化ばける事をきかず、唐土もろこしの狼はばけること老狐にことならず。宋人そうひと※(「日+方」、第3水準1-85-13)りはうとうが太平広記畜獣ちくじうの部に(四百四十二巻)おほかみ美人びじんに幻化[#「幻化」の左に「バケ」の注記]して少年わかいひとと通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはしてにげさり、又は人の父を喰殺くひころしてその父にばけて年をたるに、一日その子山に入りてくはるに、おほかみきたりて人の如く立其裾そのすそくはへたるゆゑをのにて狼のひたひきり、狼にげりしゆゑ家にかへりしに、父のひたひきずあとあるをて狼なることをさとり、これをころすにはたして老狼おいたるおほかみなり。親をころしたるゆゑみづからけんにいたりて事のよしをつげたる事など○広異くわうい記○宣室志せんしつしを引てしるせり。悍悪かんあくの事に狼の字をいふもの○残忍ざんにんなるを豺狼さいらうの心といひ○声のおそろしきを狼声らうせいといひ○どくはなはだしきを狼毒らうどくといひ○事のみだりなる狼々らう/\反相はんさう[#「反相」の左に「ムホン」の注記]ある人を狼顧らうこなきを中山狼○ほしいまゝくふ※(「冫+(餮−殄)」、第4水準2-92-45)らうざんやまひはげしき狼疾らうしつといひ○狼藉ろうぜき狼戻らうれい狼狽らうばいなど、皆かれたとへて是をいふなり。(文海披沙)されば獣中じうぢゆうもつとも可悪にくむべきおほかみなり。ひそか以為おもへらく、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これがため狼毒らうどくをうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可惧おそるべく可悪にくむべし篤実とくじつ外面げめんとし、奸慾かんよく内心ないしんとするを狼者おほかみものといひ、よめ悍戻いびる狼老婆おほかみばゝといふ。たくみ狼心らうしんをかくすとも識者しきしや心眼しんがん明鏡めいきやうなり。おほかみ/\おそれざらんやはぢざらんや。

北越雪譜中巻 終
[#改丁]

北越雪譜二編 巻三


越後塩沢   鈴木牧之  編選
江戸     京山人百樹 増修

○ 鳥追櫓とりおひやぐら


 農家のうか市中しちゆう正月の行事ぎやうじ鳥追とりおひといふ事あり。此事諸国にもあれば、其なす処其国によりてさま/″\なる事は諸書しよ/\散見さんけんせり。江戸の鳥追とりおひといふは非人ひにん婦女ふぢよ音曲おんきよくするを女太夫とて木綿もめん衣服いふくをうつくしくなし、かほよそほひ、編笠あみがさをかむり、三弦さみせん胡弓こきうなどをあはせ、賀唱めでたきうたをおもしろくうたひ、門々かど/\に立て銭をふ。此事元日よりはじめ、松の内をかぎりとす、松すぎてもありく所もありとぞ。我越後には小正月の(小正月とは正月十五日以下をいふ)はじめ鳥追櫓とりおひやぐらとて去年きよねんより取除とりのけおきたる山なす雪の上に、雪を以て高さ八九尺あるひは一丈余にも、高さにおうじてすゑひろく雪にてやぐら築立つきたて、これにのぼるべきだんをも雪にて作り、いたゞき平坦たひらになし松竹を四すみに立、しめをはりわたす(広さは心にまかす)内には居るべきやうにむしろをしきならべ、小童等こどもらこゝにありて物をひなどしてあそび、鳥追哥とりおひうたをうたふ。その一ツに「あのとりや、どこ何所からおつきたしなぬ信濃くにからおつてきた。なにをもつておつてきた、しばぬくべておつてきた、しばとりかば河辺のとりも、たちやがれ可立ほい/\引」おら己等うらさなへだ早苗田のとりは、おつても/\すゞめ※()たちやがれ可立ほい/\引」あるひはかの掘揚ほりあげ(雪をすてゝ山をなす所)の上に雪を以て四方しかくなるだうを作りたて、雪にて物をおくべきたなをもつくり、むしろをしきつらね、なべ・やくわん・ぜん・わんなど此雪の棚におき、物を煮焼にたきし、濁酒にごりざけなどのみ、小童こども大勢雪の堂に(いきんだうと云)あそび、同音どうおんに鳥追哥をうたひ、終日いちにちこゝにゆきゝして遊びくらす。これ暖国だんこくにはなき正月あそびなり。此鳥追櫓とりおひやぐら宿内しゆくないにいくつとなくつくとうをなしてあそぶ。

正月鳥追櫓之圖

○ 雪霜


 まへにもしば/\いへるごとく、北国中にして越後は第一の雪国なり。その中にも魚沼うをぬま古志こし頸城くびき三郡さんぐんを大雪とす。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒気かんきは江戸にさまでかはる※(「古/又」、第4水準2-3-61)なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑組ござつそにいへる霜はつゆのむすぶ所にしていんなり、雪は雲のなす所にしてやうなりとはむべなり。かゝる雪中なれども夏のまうけまきたる野菜やさいのるゐも雪の下にもえいでゝ、その用をなす※(「古/又」、第4水準2-3-61)おそきとはやきのたがひはあれども暖国だんこくにかはる※(「古/又」、第4水準2-3-61)なし。そのおそきとは三月にはじめて梅の花を見、五月のうり茄子なす初物はつものとす。山中にいたりては山桜のさかり四月のすゑ五月にいたる所もあるなり。

○ 地獄谷ぢごくだに


 此書このしよの前編上のまき雪中の火といふくだりに、六日町の(魚沼郡)西の山手に地中ちちゆうより火のもゆる事をしるせしが、地獄谷の火の※(「古/又」、第4水準2-3-61)をもらせしゆゑこゝにしるす。○およそわが越後に名高く七不思議なゝふしぎにかぞへいふ蒲原郡かんばらごほり如法寺村によほふじむら百姓さう右エ門(七兵衛孫六が家にも地火あり)が家にある地中よりもゆる火は、あまねく人の知る所なれども、其火よりも盛大せいだいなるは魚沼郡のうち、かの小千谷をぢやざい地獄谷の火なり。唐土もろこしこれ火井くわせいといふ。近来きんらい此地獄谷に家を作り、地火ちくわを以てわか[#「火+覃」、U+71C2、259-8]し、きやくまちよくさしむ、夏秋のはじめまでは遊客いうかく多し。此火井他国にはきかず、たゞ越後に多し。先年蒲原郡の内或家あるいへにて井をほりしに、其夜医師いし来りて井を掘し※(「古/又」、第4水準2-3-61)きゝ、家にかへる時挑灯てうちんを井の中へ入れそのあかしにて井を見て立さりしに、井中よりにはかに火をいだし火勢くわせいさかんにもえあがりければ近隣きんりんのものども火事くわじなりとしてはせつけ、井中より火のもゆるを見て此井を掘しゆゑ此火ありとて村のものども口々に主人をのゝしうらみければ、主人も此火をおそれてうづめけるとぞ。此地火一に陰火いんくわといふ。かの如法寺村によほふじむらの陰火も微風すこしのかぜいづるに発燭つけぎの火をかざせば風気ふうきおうじてもゆる、陽火やうくわざればもえず。寛文くわんぶんのむかしさう右エ門が(如法寺村)にはにて※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)ふいごをつかひたる時よりもえはじめしとぞ。前にいふ井中の火も医者いしや挑灯てうちんを井の中へさげしゆゑその陽火にてもえいだしたるなるべし。
●さて又頸城郡くびきごほり海辺うみべ能生宿のうしやうしゆくといふは北陸道ほくろくだう官路くわんろなり、此宿より山手に入る※(「古/又」、第4水準2-3-61)二里ばかりに間瀬口ませくちといふ村あり、こゝの農家のうかに地火をいだす※(「古/又」、第4水準2-3-61)如法寺によほふじ村の地火に同じとぞ。此ほとり用水にとぼしき所にては、ひでりのをりは山について井をよこほりて水を※(「古/又」、第4水準2-3-61)あり、ある時井を掘て横にいたりし時あなくらきをてらすためにたいまつを用ひけるに、陽火やうくわ陰火いんくわたちまもえあがり、人これため焼死やけししけるとぞ。是等これら※(「古/又」、第4水準2-3-61)どもをおもひはかるに、越後のうちには地火をいだす火脉くわみやくの地おほく、いまだ陽火をずしてはつせざるも多かるべし。
百樹もゝきいはく小千谷をぢやにありし時岩居がんきよ地獄谷ぢごくだにの火を見せんとて、社友しやいう五人をともな用意ようい酒食しゆしよく奚奴しもべ二人にになはしめ、余与よと京水と同行どうかう十人小千谷をはなれて西の方●新保しんほ村●薮川新田やぶかはしんでんなどいふ村々を一宮いちのみやといふ村にいたる、山間やまあひ篆畦あぜみち曲節まがり/\こゝいた行程みちのり一里半ばかりなり。是日このひはことに快晴くわいせいして村落そんらく秋景しうけい百逞ひやくてい目をうばふ。さて平山ひらやま一ツをこえさかあり、すなはち地獄谷へいたるのみちなり。さかの上より目をくだせば一ツの茅屋ばうをくあり、これ本文ほんもんにいへる混堂ゆやなり。人々さかなかばにいたりし時、茅屋ばうをく楼上ろうしやうに四五人の美婦びふあらはれ、おの/\てすりによりて、はるかにこの人々をゆびさすもあり、あるひはわらひ、あるひは名をよび、あるひは手をうちたゝき、あるひは手をあげてまねく。四面しめんみな山にて老樹らうじゆ欝然うつぜんとして翳塞おほひふさぐなかこの美人びじんを見ること愕然びつくりし、是たぬきにあらずんばかならず狐ならんといひければ、岩居がんきよともだちと相顧あひかへりみうつわらふ。これは小千谷の下た町といふ所の酒楼しゆろう酌採しやくとり哥妓げいしやどもなり、岩居がんきよ朋友はういうはかりてひそかこゝまねきおきてきやうさせんためとぞ。かれは狐にあらずして岩居がんきよばかされたるなり。すでに地獄谷にくだりみなろうにのぼれり。岩居はと京水とをともなひてかの火をせしむ。
●そも/\茲谷このたには山桜多かりしゆゑ桜谷とよびけるを、地火あるをもつて四方四五十(六尺を歩といふ)をひらきて平坦たひらの地となし、地火をりて浴室よくしつとなし、人の遊ぶ所とせしとぞ。桜谷とよびたる処地火のために地獄ぢごくとよばるゝこと、花はさぞかし薀憤くちをしかるべし。
●さてその火をるに、一ツの浅き井を作りたるその井中いちゆうより火のもゆる事常の湯屋の火よりもさかんなり。上にかまあり一間四方の湯槽ゆぶねあり、ほそかけひありてうしろの山の清水を引き湯槽ゆぶねにおとす。湯はふねの四方にあぶれおつ、こゝをもつて此ぬるからずあつからず、天こうくわつくる時なければ人作じんさくの湯もつくなし、見るにも清潔せいけつなる事いふべからず。此混堂ゆやつゞきて厨処だいどころあり、※(「火+土」、第4水準2-79-58)かまどにも穴ありて地火を引て物をにることたきゞに同じ。次に中のあり、ゆかの下より※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)たけつゝを出し、口には一寸ばかりあかゞねはめて火をいださしむ。上より自在じざいをさげ、此火に酒のかんをなしあるひはちやせんじ、夜は燈火ともしびとす。さてつら/\此火を視るに、※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)つゝをはなるゝこと一寸ばかりの上にもゆる、扇にあふげば陽火やうくわのごとくにきゆる。※(「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48)つゝの口に手をあてゝこゝろむるに少しく風をうくるのみ。発燭つけぎの火をかざせば忽然こつぜんとしてもゆることはじめの如し。あるじおきなが曰、この火夜はひるよりも燥烈はげしく、人のかほあをくみゆるといへり。翁がつま水のうちよりもゆる火を見せ申さんとて、混堂ゆやのうしろにわづかの山田ある所にいたり、田の水の中に少しわくところあるにつけぎの火をかざししに、水中の火蝋燭らふそくのもゆるが如し。老婆らうばがいはく、此火のやうにもゆる処ほかにもあり、夜にいればこと/″\く火をもやすゆゑけものきたらずといへり。が江戸の目にはる所こと/″\く奇妙きめうなり。唐土もろこしには此火を火井くわせいとて、博物志はくぶつしあるひ瑯※代酔らうやたいすゐ[#「王+耶」、U+7458、262-7]に見えたる雲台山うんたいさんの火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪大こうだいなるは此谷の火にまさらず。唐土もろこしと日本とをおつからめて火井のさい第一といふべし、是を見たる事越遊の一奇観きくわんなり。唐土に火井のる所北の蜀地しよくちしよくす、日の本の火井も北の越後に在り、自然しぜん地勢ちせいによるやらん。
●さて一人の哥妓げいしや梯上はしごのうへにいでゝしきりに岩居がんきよぶ、よばれてろうにのぼれり。は京水とゝもに此よくす、楼上ろうしやうにははや三弦さみせんをひゞかせり。ゆあみしをはりて楼にのぼれば、すで杯盤はいばん狼藉らうぜきたり。嬋娟哥妓うつくしきげいしや袖をつらね、素手そしゆ弄糸いとをろうし朱唇しゆしん謡曲きよくをうたふ迦陵頻伽かりやうびんがこゑ外面如※げめんによぼさつ[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、262-13]いろきやうそゆれば、地獄谷ぢごくだに遽然たちまち極楽世界ごくらくせかいとなれり。此どもをやしな主人あるじもこゝにきたて、したがへたる料理人にしたる魚菜ぎよさい調味ていみさせてさらにえんひらく。是主人このあるじ俗中ぞくちゆうさしはさんつね文人ぶんじん推慕したふゆゑに、この日もこゝにきたりて面識めんしきするを岩居がんきよやくせしとぞ。此人そつは[#「齒+巴」、U+4D95、263-1]なるゆゑみづか双坡楼そつはろう家号いへなす、その滑稽こつけい此一をもつて知るべし。飄逸へういつ洒落しやらくにしてよく人にあいせらる、家の前後にさかありとぞ、双坡そつはくだて妙なり。双坡楼そつはろうあふぎをいだしてふ、妓ももちたる扇をいだす。京水画をなし、余即興そくきやうしよす。これを見て岩居がんきよをはじめおの/\かべだいし、さら風雅ふうがきやうをもなしけり。
●かくてやゝ日もかたふきければ帰路きろうながしけるに、哥妓げいしやどもは草鞋わらじにてきたりしとてそれはわしがのなり、これはあれはとはきすてたるをあらそふてはきいづる、みな酔興すゐきやうなれば噪閙おほさはぎしてみちく。細流こながれある所にいたれば紅唇べに粉面おしろい哥妓げいしや紅※あかきゆもじ[#「ころもへん+昆」、U+88E9、263-7]※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)かゝげわたる、花姿くわし柳腰りうえう美人等びじんらわらじをはいて水をわたるなどが江戸の目にはいとめづらしくきやうあり。酔客すゐかくぢんくをうたへば酔妓すゐぎ歩々あるきながらをどる。古縄ふるなはへびとしおどせば、おどされたるびつくりして片足かたあし泥田どろたへふみいれしを衆人みな/\※(「單+辰」、第4水準2-89-72)おほわらひす。此みちすべ農業のうげふ通路つうろなればいこふべき茶店ちやみせもなく、半途はんといたりて古きやしろに入りてやすらふ。一妓ひとりのぎ社のうしろに入りて立かへり石の水盤てうづばちかれたる水をわづかすくひあらひしはたれりしならん。そのまゝ樹下きのもとに立せ玉ふ石地蔵※いしのぢぞうぼさつ[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、263-12]まへならびたちながら、懐中くわいちゆうよりかゞみいだして鉛粉おしろいのところはげたるをつくろひ、唇紅くちべになどさしてよそほひをなす、これらの粧具しやうぐをかりに石仏せきぶつかしらく。外面女※げめんによぼさつ[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、263-13]内心ないしん如夜叉によやしやのいましめもあれば、ぼさつ[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、263-14]はなにとやおもひ玉ふらんともつたいなし。すで※(「日+甫」、第3水準1-85-29)なゝつさがりなればおの/\あしをすゝめて小千谷をぢやへかへりき。(此紀行別に一本あり、吾が北越旅談にをさむ。)

阪額野陣之圖

○ 越後の人物


 板額女はんがくぢよ加治かぢ明神山の城主をさの太郎祐森すけもりしつ、古志郡のさんなり。又三歳の小児も知れる酒顛童子しゆてんどうじは蒲原郡沙子塚すなごつか村のさん、今猶屋敷跡やしきあとあり。はじめ雲上山うんしやうざん国上寺こくじやうじ行法印ぎやうほふいん弟子でしなり。玄翁げんをう和尚は伊夜彦山いやひこさんふもと箭矧やはぎ村のさんなり。近世ちかきよにいたりて徳僧とくそう高儒かうじゆ和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に雷名らいめいせるはすくなし。(画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり)近年相撲すまふ越海こしのうみ鷲ヶ浜わしがはま新潟にひがたさん九紋竜くもんりゆうは高田今町の産、関戸せきのと次第浜しだいはまさん也。常人たゞびとにて力士りきしきこえありしは頸城くびき郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等これら無双ぶさうの大力にて人の知る所なり。又鎧潟よろひがたに近き横戸よこと村の長徳寺、谷根たにね村の行光寺も怪力くわいりよくのきこえたかし。此人々はいづれもひとりしてつりがねかろかけはづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田しばたきく女、頸城くびき郡のそう知良、近くは三嶋郡村田村の百合ゆり(百姓伊兵衛がむすめ)新発田しばた荒川あらかは村門左エ門(百姓丑之介がせがれ)塚原つかはら豆腐売とうふうり春松(鎌介がせがれ)蒲原郡釈迦塚しやかつか村百姓新六、いづれも孝子かうしの名一国に高かりき。今存在そんざいするもありとかや。
百樹もゝきいはく越後にいたらば板額はんがくあるひは酒顛童子しゆてんどうし旧跡きうせきをもたづね、新潟にひがたをも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊てらどまりにのこる 順徳帝じゆんとくてい鳳跡おんあと義経よしつね夢※国師むそうこくし[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、266-14]法然はうねん上人、日蓮上人、為兼卿ためかねきやう、遊女初君はつきみとう古跡こせきもたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち気運きうんじゆんうしなひ、としやゝけんしてこくねだん日々にあがり人気じんきおだやかならず。こゝろ帰家かへりたきにありて風雅ふうがをうしなひ、古跡こせきをもむなしくよぎり、たゞ平々なみ/\たる旅人りよじんとなりて、きゝおよびたる文雅ぶんがの人をも剌問たづねざりしは今に遺憾ゐかんなり。嗟乎あゝとしけんせしをいかんせん。

○ 無縫塔むほうたふ


 蒲原郡かんばらごほり村松より東一里来迎らいかう村に寺あり、永谷寺えいこくじといふ曹洞宗さうどうしうなり。此寺の近くに川あり、早出川はやでがはといふ。寺より八町ばかり下に観音堂くわんおんだうあり、その下を流るゝ所を東光とうくわうふちといふ。永谷寺へ入院じゆゐん住職じゆうしよくあれば此ふち血脉けちみやくげ入るゝ事先例せんれいなり。さて此永谷寺の住職遷化せんげ前年ぜんねん、此ふちよりはかの石になるべきまる自然石じねんせきを一ツきしいだす、これ無縫塔ふほうたふと名づけつたふ。此石いづればその翌年よくねんにはかなら住職じゆうしよく病死びやうしする事むかしより今にいたりて一度もちがひたる事なし。此墓石はかいし大小によりて住職の心におうぜずふちへかへせば、その逆浪げきらうして住職のこのむ石を淵に出したる事度々あり。先年凡僧ぼんそうこゝに住職し此石を見ておそ出奔しゆつほんせしによく他国たこくにありて病死せしとぞ。おもふに此淵に※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいありて天然てんねんしめすなるべし。友人いうじん北洋ほくやう主人(蒲原郡見附の旧家、文をこのみ書をよくす)くだんの寺をたるはなしに、本堂間口まぐち十間、右に庫裏くり、左に八けんに五間の禅堂ぜんだうあり、本堂にいたるさかの左りに鐘楼しゆろうあり、禅堂のうしろに蓮池れんちあり。上に坂あり、登りて住職じゆうしよくの墓所あり。かのふちよりいだしたる円石まるいし人作じんさくの石のだいあしあるにのせてはかとす。中央まんなかなるを開山かいさんとし、左右に次第しだいして廿三あり。大なるはわたり一尺二三寸ばかり、八九寸六七寸なるもあり、大小は和尚の徳におうずといひつたふとぞ。台の高さはいづれも一尺ばかりなりと語られき。かのふち※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいありといふは、むかし永光寺のほとりに貴人きにん何某なにがし住玉ひしに、その内室ないしつ色情しきじやうねたみにてをつとをうらみ、東光が淵に身をしづめ、冤魂ゑんこん悪竜あくりゆうとなりて人をなやまししを、永光寺の開山(名をきゝもらせり)血脉けちみやくをかのふちにしづめて化度けどし玉ひしゆゑ悪竜得脱とくだつなし、その礼とてかの墓石はかいしふちにいだして死期しきしめす。是以こゝをもつて今にいたりても入院じゆゐんの時は淵に血脉をしづむと寺説じせつにつたふとぞ。
○さてまた我が隣国りんごく信濃にも無縫塔むほうたふの事あり。近江の石亭が雲根志うんこんしにいはく(前編※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)異之部)信濃国高井郡渋湯しぶゆ村横井温泉寺の前に星河とてはゞ三町ばかりの大河あり、温泉寺の住僧遷化せんげの前年に、此河中へ何方いづかたよりともなく、高さ二尺ばかりなる自然石じねんせきかくにしてうつくしき石塔一ツ流れきたる、まこと彫刻てうこくせるごとくにて天然てんねんの物なり。此石いづると土民どみんども温泉寺へしらせる事なり、きはめてよく年住僧遷化せんげなり、則しるしに此石を立る。九代以前より始りしが代々九代の石塔、同石同様にて少しもたがはずならびあり。或年あるとしの住僧此塔の出たる時天を拝していのる、我法華ほつけ千部読経どくきやうぐわんあり、今一年にしてみてり、何とぞ命を今一年のばし玉へと念じて、かの塔を川中のふちなげこみたり。何事もなく一年すぎて千部読経どくきやうのすみし月にくだんの石又川中にあらはるゝ、其翌年はたして遷化せんげなりと。その次の住僧塔のいでたる時何のねがひもなくふちへなげこみたり、幾度なげしづめても其夜そのよにいでたり、翌年病死ありしとぞ。此辺にて是を無帽塔むはうたふと名づく。(以上一条の全文)越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の相似あひにたる一奇怪きくわいといふべし。
百樹もゝき曰、牧之老人が此草稿したがき無縫塔むほうたふほう字義じぎつうじがたく誤字ごじにやとて郵示ひきやくたよりしてひければ、無縫塔むほうたふ書伝かきつたへたるよしいひこしぬ。雲根志うんこんしには無帽塔むはうたふとあり、無帽むはうも又つうじがたし。おそらくは無望塔むばうたふにやあらん。住僧の心にはしぬがいやさに無望塔のぞみなきたふなるべし。こゝに無稽むけい一笑いつせうしるして博識はくしき確拠かくきよつ。

○ 北高和尚ほくかうわせう


 魚沼郡|雲洞村うんどうむら雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺じくわうじ(村松にあり)村上の耕雲寺かううんじ伊弥彦やひこ指月寺しげつじ、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚つうてんわせうは、 霜台君さうたいくん謙信けんしんの事)親藉しんせきにて、高徳かうとくの聞えは今も口碑うはさにのこれり。 景勝君かげかつくんも此寺にものまなび玉ひしとぞ。一国の大寺なれば古文書こもんじよ宝物等も多し、その中に火車落くわしやおとし袈裟けさといふあり、香染かうそめあさと見ゆるにあとのこれり。是を火車落とて宝物とする由来ゆらいは、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備がくとくぜんびの尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農家のうか死亡しばうのものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき雪吹ふゞきもやまざりければ、三四日ははれをまちて葬式さうしきをのばしけるにはれざりければ、しひていとなみをなし、旦那寺だんなでらなれば北高和尚をむかへてくわんをいだし、親族しんぞくはさら也人々蓑笠みのかさに雪をしのぎておくりゆく。その雪途ゆきみちもやゝ半にいたりし時猛風まうふうにはかにおこり、黒雲こくうんそら布満しきみち闇夜あんやのごとく、いづくともなく火の玉飛来りくわんの上におほひかゝりし。火の中に尾はふたまたなる稀有けうの大ねこきばをならしはなをふきくわんを目がけてとらんとす。人々これを見て棺をすて、こけつまろびつにげまどふ。北高和尚はすこしもおそるゝいろなく口に咒文じゆもんとなへ大声たいせい一喝いつかつし、鉄如意てつによいあげて飛つく大猫のかしらをうち玉ひしに、かしらややぶれけん血ほどはしりてころもをけがし、妖怪えうくわい立地たちどころ逃去にげさりければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの法衣ころもとて今につたふ。

北高禅師勇気圖

百樹もゝきいはく越遊して塩沢に在し時、牧之老人にともなはれて雲洞庵にいたり、(塩沢より一里ばかり)庵主あんしゆにも対話たいわなし、かの火車おとしの袈裟けさといふ物その外の宝物古文書こもんじよるゐをも一らんせり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大書たいしよしたる竪額たてがくは 順徳院の震筆しんひつなりとぞ。(佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし)門前に直江なほえ山城守の制札せいさつあり、放火はうくわ私伐しばつきんずるの文なり。庭中ていちゆう池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死じんし古墳こふんりしを、先年牧之老人施主せしゆとしてあらた墓碑ぼひたてたり。不朽ふきう善行ぜんぎやうといふべし。(本文に火車といふは所謂いはゆる夜叉やしやなるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。)

○ 年賀ねんがうた


 六十一還暦くわんれきの時年賀の書画しよぐわあつむ。吾国わがくにはさらなり、諸国の文人ぶんじん名家めいか妓女きぢよ俳優はいいう[#「俳優」の左に「ヤクシヤ」の注記]来舶清人らいはくせいひとの一ぜつをもたり。みな牧之におくるといふ※(「古/又」、第4水準2-3-61)をしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、でふとなして蔵す。ひとゝせ是を風入れするためみせにつゞきたるしきの障子しやうじをひらき、年賀の帖をひらならべおきたる所へ友人いうじん来り、年賀の作意さくい書画のひやうなどかたりゐたるをりしも、順礼じゆんれい夫婦ふうふ軒下のきした(我が里言には廊下といふ)たちけり。吾が家常に草鞋わらんづをつくらせおきてかゝるものほどこすゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼のおきな立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるがいふやう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。乞食こつじきのやうなるすがたには似気にげなきことばのおぼつかなしと思ひながら、短尺たんざくすゞりばこいだしければ、
三途川さんづがはわたしはさき百年もゝとせきみがむかひをとゞめ申さん   五放舎ごはうしや
としるしたるふでのはこびもつたなからず。年賀にはひとふしかはりたる趣向しゆかうといひ、順礼じゆんれいに五放舎とたはふれたる名もおもしろく、友人とともにおどろきかんじ、宿やど施行せぎやうせん、ゆる/\ものがたりせんなど、友人もさま/″\にすゝめたれど、つゑをとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。

○ 逃入村にごろむら不思議ふしぎ


 小千谷をぢやより一里あまりの山手やまて逃入村にごろむらといふあり、(にげ入りを里俗にごろとよぶ)此村に大つか小塚とよびて大小二ツの古墳こふんならびあり。所のつたへに大なるを時平しへいの塚とし、小なるを時平の夫人ふじんの塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地にあるべき由縁いはれなきことは論におよばざる俗説ぞくせつなり。しかれどもこゝに一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後にながされなどして此地にをはりたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手習てならひをすれば天満宮のたゝりありとて一村の人皆無筆むひつなり。他郷たきやうよせて手習すればたゝりなし。しかれども村にかへれば日をおひわすれ、つひには無筆となる。このゆゑに文字もじの用ある時は他の村の者にたのみて書用しよようべんず。又此村の子どもなど江戸土産みやげとて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神のたゝりのしるしありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳こふんなりと古くいひつたふるも何か由縁ゆえんある事なるべし。菅家くわんけ筑紫つくしにてこうじ玉ひたるは延喜えんぎ三年二月廿五日なり、今を去る事(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)九百十五年前なり。今にいたりても※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)しんれいの明々たる事おそるべしたうとむべし。
 さて又これにるゐする事あり、※(「渓のつくり+谷」、第4水準2-88-89)なんけい東遊記とういうきを見るに、南※(「渓のつくり+谷」、第4水準2-88-89)東遊して津軽つがるに居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人やると旅店毎やどやごとにきびしくたづねしゆゑ、南※(「渓のつくり+谷」、第4水準2-88-89)あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩城いはきは人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりてやしろ今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦くるしみたるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国のさかひをいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居るとさがすなりといへりと。※(「渓のつくり+谷」、第4水準2-88-89)なんけいし此事にあひたりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩城判官いはきはんぐわん正氏まさうぢ在京ざいきやうの時ざんにあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨魂ゑんこん今に消滅せうめつせざる事人知じんちを以論ずべからず。(百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考)西遊記(前編)景清かげきよつかは日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻くまの人吉の城下より五六里ほど東、切幡村きりばたむらにまつる。此所に景清が娘のつかもあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲人まうじんむ、盲人他処より入れば必たゝりあり、景清のちに盲人になりしゆゑ、母の※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れい盲人めくらを嫌ふと所の人のいへりとしるせり。これらの※(「古/又」、第4水準2-3-61)逃入村にごろむら不思議ふしぎに類せり。しかれどもくだんの二ツはやしろありて丹後の人をいみはかありて盲人めくらをきらふなり、逃入村にごろむらつかあるゆゑに天満宮の※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)しんれい此地をいみ玉ふならん。こゝをもつてかんがふるに、かの古墳こふんはいよ/\時平が血脉けちみやくの人なるべし。
百樹もゝきいはく越遊ゑついうして小千谷をぢやに在りし時、所の人逃入にごろ村の事をかたりて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文墨ぶんぼくの者しひてゆくべきにもあらねば、はなしをきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を讒言ざんげんしたる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥舞妓かぶき狂言にも作りなし、婦女子もあまねく知る所なれど、童稚どうち女子ぢよしはその実跡じつせきをしれるがまれなり。さればかゝるはかなき冊子さうしに此 御神の事をしるすはいともかしこけれど、逃入村にごろむらちなみによりてこゝに書載かきのす。
つゝしんあんずるに、菅原すがはらの本姓は土師はじなりしが、土師はじ古人ふるひとといひしが、 光仁帝くわうにんていの御時、大和国菅原すがはらといふ所にすみたるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道真みちざねあざなは三、童名を阿呼あこと申たてまつる。(阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく) 仁明帝にんみやうていに仕へ玉ひたる文章博士もんしやうはかせ参議さんぎ是善卿これよしきやうの第三の御子、承和じやうわ十二年にうまれ玉へり。七歳の時紅梅こうばいを御覧じて「梅の花紅脂べにのいろにぞ似たる哉阿古あこが顔にもぬるべかりけり」十一の春(斉衡二年)父君より月下梅げつかのうめといふだいを玉ひたる時即坐そくざに「月カヽヤクハハル、雪梅花タリ金鏡転シテ庭上玉房カンバシ」御祖父(清公)御父(是善卿)の学業を受嗣うけつぎ玉ひて文芸ぶんげいはさらなり、武事にもうとからずまし/\けり。
○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文章生もんじやうせいあげられ、下野の権掾ごんのじやうにならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏ともうぢ身まかり玉ひ、 陽成天皇やうぜいてんわう元慶ぐわんぎやう四年八月晦日御父是善卿ぜぜんきやうも身まかり玉へり。(御年六十九)此時 菅神は御年四十一なり。
寛平くわんびやう四年御年四十八類聚国史るゐじゆこくし二百巻をえらみ玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻(後草は筑紫にての御作なり)今も世に伝ふ。大納言公任卿きんとうきやう朗詠集らうえいしふに入れられたる菅家の詩に「送ルハスコトヲ舟車唯別残鴬トニ落花モシ使シテ韶光ラシメバ今※[#「雨かんむり/月」、U+2B55F、277-5]旅宿在詩家」此御作は 延喜帝いまだ東宮とうぐうたりし時令旨れいしありて一時ひとゝきの間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。
○さて御若年より数階すかい給ひて後、寛平くわんびやう九年御年五十三権大納言右□将をかねらる。此時時平しへい大納言ににんぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て執政しつせいたり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日 宇多帝うだてい御位みくらゐを太子敦仁あつひと親王へゆづり玉ひ朱雀すじやく院へ入らせ玉ひ、亭子ていじ院と申奉り、御法体ほつたいありては 寛平法皇くわんびやうほふわうとぞ申奉る。 敦仁あつひと親王を 醍醐だいご天皇とものちよりは延喜帝とも申奉る。(御年十三)年号を昌泰しやうたいと改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶あひともに みかど補佐ほさし奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども才徳さいとく年齢ねんれい双璧さうへきをなさず、故に心齟齬そごして相くわせず。これ 菅神の讒毒ざんどく玉ふの張本ちやうぼんなり。
○そも/\時平公は大職冠九代の孫照そんせうぜん公の嫡男ちやくなんにて、代々□臣の家柄いへがらなり。しかのみならず延喜帝の皇后きさきあになり。このゆゑに若年にして□臣の貴重きちやうしよくししなり。此人の乱行らんぎやうの一ツをいはば、叔父をぢたる大納言国経卿くにつねきやう年老としおい叔母をばたる北の方は年若く業平なりひら孫女まごむすめにて絶世ぜつせい美人びじんなり。時平是に恋々れん/\す、夫人ふじんもまたをつとおいたるをきらふの心あり。時平或日あるひ国経くにつねもとえんし、酔興すゐきやうにまぎらして夫人ふじんもらはんといひしを、国経もゑひたれば戯言たはぶれごととおもひてゆるしけり。さて国経が酔臥ゑひふしたるを叔母をばを車にいだき入れて立かへり、此はらに生れたるを中納言敦忠あつたゞといふ、時平の不道ふだう此一を以て其余そのよるべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の(帝の御父)御心には時平のにんのぞき 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、みかど亭子院ていじゐん朝覲てうきんのをりから御内心をしめし玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを内勅ないちよくありしに 菅神かたくしたまひしにゆるし玉はざりけり。(同月七日従二位にすゝみ玉へり)密事みつじいかにしてか時平公のきゝにふれしかば、事にさきんじて 帝にざんするやうは、君の御弟斉世ときよ親王は道真みちざねむすめ室適しつてき[#「室適」の左に「オクサマ」の注記]して寵遇ちようぐうあつし。是以こゝをもつて君をはいして親王を立、国柄こくへいを一人の手ににぎらんとの密謀みつぼうあり 法皇ほふわうも是におうじ玉ふの風説ふうせつありとことばたくみざんしけり。時に 延喜帝御年十七なり。 皇后きさきは時平公の妹なれば内外より讒毒ざんどくを流して若帝わかみかどの御心をうごかし奉りたるなり。
○さて時平が毒奏どくそうはやくあたりて、同月廿五日左降さがう宣旨せんじ下りて右□臣のしよくけづり、従二位はもとのごとく太宰権帥だざいごんのそつとし(文官)筑紫つくし左遷させんに定め玉へり。 寛平くわんびやう法皇此事をきこしめして大におどろかせ給ひ、御車みくるまにもめし玉はず俄に御くつをすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、かくと申せとおほせありしかども左右の諸陣警固けいごして事を通ぜず、是も時平がざんに一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は草坐むしろにざし玉ひ終日庭上にはましまくれにいたりてむなしく本院へ還かへらせ玉へり。
○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へながされ玉ふ、是も時平が毒舌どくぜつによれり。ひめたちは都にとゞまりをさなきはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃としごろめで玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「東風こちふかば匂ひをこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれぞ」此梅つくしへとびたる事は挙世よのひとの知る処なり。又桜を「桜花ぬしわすれぬものならば吹こん風にことつてはせよ」
かくて延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨すまの浦に日をうつしつくしへいたりたまへり。(やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。)
筑紫つくし太宰府だざいふにて「離レテ三四月 落涙百千行 万事皆如 時々アヲク彼蒼ヒサウヲ」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨のあしたかくるゝ人もなければやきてしぬれきぬひるよしもなき」(ぬれぎぬとは無実むじつのつみにかゝるをいふなり)
○つくしにいたり玉ひては不出門行ふしつもんかうといふを作り玉ひて、寸歩すんほ門外もんのそとへいで玉はず。是朝廷てうていたうとみおそれ、御身の謫官てきくわん[#「謫官」の左に「ナガサレモノ」の注記]たるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼ワズカニ 観音寺タヾ
○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ(十二巻)左遷より後のを菅家後草とて(一巻)今も世につたふ。後草に九月十三夜のだいにて「去年今夜ジシキ清涼 秋思詩篇独ハラワタヲ 恩賜御衣今コヽニアリ 捧持サヽゲモチテ毎日拝余香」此御作にちゆうあり、そのおもむきは、○去年とは昌泰しやうたい三年なり(延喜元年の一年まへ)其年の九月十三夜、 清涼殿に侍候じかうありし時、秋思といふだいを玉はりしに、こゝろにことよせていさめたてまつりしに、其いさめをいれ玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配所はいしよにもちくだりて毎日御衣にのこりたる余香よかうはいすと、 みかどをしたひ御恩を忘れ玉はざる御心のまことを作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無実むじつ流罪るざいしよして露ばかりも帝をうらみ玉はざりしを知るべし。朝廷てうていうらみ給ひて魔道まだうに入り、雷公かみなりになり玉ひたりといふ妄説まうせつは次にべんずべし。
○高辻の御庭の桜かれたりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」
○さて太宰府に謫居てききよし給ふ事三年みとせにして延喜三年正月の頃より 御心れいならず、二月廿五日太宰府にこうじ玉へり、御年五十九。御はかは府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御くわんをいだしけるに途中とちうにとゞまりてうごかず、すなはちその所に葬り奉る、今の ※(「广+苗」、第4水準2-12-7)しんべう是なり。
○延喜五年八月十九日同所安楽寺にはじめて 菅神の神殿を建らる。味酒あぢさけ安行やすゆきといふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流はいるをゆるされ玉ひ、おの/\もとの位にかへされ玉ふ。
かんさり玉ひしのち水旱風雷すゐかんふうらいの天へんしば/\ありて人の心安からず。是ぞ 菅公のたゝりなるらんなど風説しけるとかや。
○菅神薨去こうきよより七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公こうず、歳三十九。又一男八条の大将保忠やすたゞ、その弟中納言敦忠あつたゞおよび時平のむすめ(延喜帝の女御なり)孫の東宮までも相つゞきてこうぜらる。又時平の讒毒ざんどく荷担かたんしたる菅根すがねの朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に流布るふせしは 菅公の冤謫ゑんてき[#「冤謫」の左に「ムジツノナガサレ」の注記]を世の人あはれみなげきたるゆゑとかや。
○延長元年三月保明やすあきら太子薨去こうきよ(時平の孫、まへに東宮といひし是也。)
○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣にかへし玉ふ。(神さり給ひしより二十年。)
○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣をおくらる。(菅神百年御忌にあたる。)
○同年閏十月十九日大政□臣をおくらる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後年こうねんしば/\※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)しんれい赫々かく/\たるしるしありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称さうしようあり。
○そも/\ 醍醐だいご天皇は(在位卅二年)百廿代の御皇統くわうとうの中にも殊に御徳達とくたつたりしゆゑ、延喜の聖代せいだいと称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、賢者けんしやきこえある重臣の 菅公を時平大臣おとゞが一時の讒口ざんこうを信じ玉ひて其実否をもたゞし玉はず、卒尓そつじに菅公を左遷させんありしは 御一代の失徳しつとくとやいふべき。しかるを 菅神のうらみ玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも賢徳けんとく忠臣の冤謫ゑんてきを天のいきどほりて水旱すゐかん風雷ふうらい異変いへん讒者ざんしや奸人かんじん死亡しばうありしならん。俗子ぞくしは是を 菅神の※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)おんりやうとするは是又 菅神の賢行けんかうきずつけるなり。しかれどもひそかおもへらく、賢者けんしや旧悪きうあくをおもはずといふも事にこそよれ、冤謫ゑんてき懆愁さうしうのあまり讒言ざんげん首唱しゆしやうたる時平大臣しへいのおとゞ肚中とちゆう[#「肚中」の左に「ハラノナカ」の注記]に深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃入村にごりむらを神のいみ玉ふも其しるしとするの一ツなるべし。
○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿におちて藤原清貫きよつら(大納言)平稀世たひらのまれよ(右中弁)其外侍候じかうの人々雷火に即死そくしす、 延喜帝常寧殿じやうねいでんに渡御ありて雷火をさけたまふ。是をも 菅神のたゝりとするはいよ/\非説ひせつなりと、安斎あんさい先生(伊勢平蔵)菅像弁くわんざうべんにもいへり。
○太宰府より一里西に天拝山はいさんあり。 菅神この山にのぼりて朝廷てうていうら告文かうぶんを天にさゝげいのり、雷神となり玉ひしといふは、賢徳けんとくの御心をしらざる俗子ぞくし妄説まうせつを今につたへたるなり。和漢三才図会づゑにもまことしやかにしるしたるは、不出門行ふしつもんかうの御作に心をふかめざるにやあらん。
○法性坊尊意そんい叡山えいざんに在し時 菅神の※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)いうれい来り我冤謫むしつのながされ※(「對/心」、第4水準2-12-80)ふるきうらみむくはんとす、願くは師の道力をもつてこばむことなかれ。尊意曰、卒土そつとは皆王民なり、我もし みかどみことのりをうけ玉はらばさくるに所なし。菅神※(「りっしんべん+乍」、第3水準1-84-42)はづるいろあり、たま/\柘榴さくろすゝむ、 菅神たべかけはきほのふをなし玉ひしといふ故事ふることは、元亨釈書げんかうしやくしよ妄説まうせつおこる。(此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なり)かゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖ふでくせなりと、安斎あんさい先生もいへり。
○白太夫といふは伊勢渡会わたらひ神職しんしよく 菅神文墨ぶんぼくに於格外の懇友こんいうなり、ゆゑに北野にまつりて今も社あり。(此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。)
○北野の御社のはじめ天慶てんきやう五年六月九日より勅命ちよくめいによりて建創たてはじむ。其起りは西の京七条にすみたる文子あやこといふ女に神たくありしによりてなり。(北野縁起につまびらかなり。)
○世に渡唐とたうの天神といひて唐服たうふくに梅花一枝いつしを持玉ふを画く。故事ふることは、仏鑑禅師ぶつかんぜんじ(聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖)博多はかたに住玉ひたるあとの地中より掘いだしたる石に 菅神の※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れい唐土もろこしへ渡り玉ひて経山寺きんざんじ無準禅師むじゆんぜんじ(聖一国師の師なり)法をうけ玉ひて日本ひのもとかへり玉ひたりと、くだんの石にほりつけありしと古書こしよに見えたるをよりところとして、渡唐とたうの 神影しんえいを画きつたへたるなり。此事もとより妄説まうせつなりと安斎先生の菅像弁くわんざうべんにいへり。(菅家聖※(「广+苗」、第4水準2-12-7)伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。)
○菅神左遷させん実跡じつせきのせたるは、○日本紀略きりやく(抄録に巻序を失意せり)扶桑略記ふさうりやくき(巻卅三)〇日本(百卅三)列伝れつでん(五十九)〇菅家御伝記神統かみのみすゑ菅原陳経のぶつね朝臣御作正史によられたれば証とすべし)其余そのよ虚実きよじつ混合こんがふ[#「混合」の左に「マジリ」の注記]したる古今の書籍しよじやく枚挙まいきよ[#「枚挙」の左に「アゲツクス」の注記]すべからず。
○本朝文粋ぶんすゐあげたる大江匡衡まさひらの文に「天満自在天神或は塩梅於天下てんかをあんばいして輔導一人いちにんをほだうし(帝の御こと)月於天上てんしやうにじつげつして臨万民まんみんをせうりんすなかんづく文道之大祖ぶんだうのたいそ風月之本主ふうげつのほんしゆなり」云云。大江は 菅原家とともに 朝廷てうてい累世だい/\する儒臣じゆしんなり。しかるに 菅神を崇称あがめたゝへたる事くだんの文の如し。是以こゝをもつてすべて文道にあづかる者此 御神をあがめざらんや、信ぜざらんや。
○およそ 菅神をまつやしろにはおほかたは雷除らいよけ護府まもりといふ物あり。此 御神雷の浮名うきなをうけ玉ひたるゆゑ、 ※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)しんれいらいいみ玉ふゆゑに此まもりかならずしるしあるべし。
○さて如件くだんのごとく条説でうせつするは、本編にいへる逃入村にごろむらの ※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)しんれいの事にちなみ実跡じつせきの書どもを摘要てきえうして御神の略伝りやくでん児曹こどもしめすなり。もとより不学ふがくのすさみなれば要跡えうせきもれたるもせつ誤謬あやまりたるもあるべし。あなかしこつゝしん附記ふきす。
ふたゝびあんずるに、孔子のせいなるもその※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいいける時よりも照然せうぜんとして、そのはか十里荊棘けいきよく[#「荊棘」の左に「ムバラ」の注記]を生ぜず、鳥もをむすばず。関羽くわんうけんなるもしては神となりていのるおうず。是則これすなはちいきてかたちを以てめぐり、しゝてはたましひを以てめぐるゆゑなりとかや。(文海披沙の説)菅神も此ろんに近し。逃入村にごろむらの事を以ても千年にちかき※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)しんれい赫々かく/\たることあふぐべしうやまふべし。けだし冥々めい/\には年月をおかずときけば百年もなほ一日の如くなるべし。(菅公の神※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。)

○ 田代たしろの七ツかま


 魚沼郡の官駅くわんえき十日町の南七里ばかり妻在庄つまりのしやうの山中(此へんすべて上つまりといふ)田代たしろといふ村あり。村をさる事七八町に七ツ釜といふ所あり、(里俗滝つぼを釜といふ)滝七だんあるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子てうしの口不動滝ふどうたきなどいふも七ツ釜の内にて、妙景めうけい奇状きじやうふでをもつていふべからず。第七番目の釜の地景ちけいこゝするをみて其大概たいがいをしるべし。此所の絶壁ぜつへき竪御号たておがう横御号よこおがうといふ、里俗りぞく伊勢より御師おんしの持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶壁ぜつへきの石かの箱のかたちたるをもつてかくいふなり。そのたりといふは此ぜつへきの石どものおちてあるを視れば、あつさ六七寸ばかりにしてひらみあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、石工いしやの作りなしたるが如し。此石数百万をたて積重つみかさねて、此数十丈の絶壁ぜつへきをなす也。いたゞきは山につゞきて老樹らうじゆ欝然うつぜんたり、是右の方の竪御たておがうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横につみかさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行儀ぎやうぎよくつみあげたるごとく寸分のゆがみなし、天然てんねん奇工きこう奇々妙々不可思議ふかしぎなり。此石の落たるを此田代村たしろむらものさま/″\の物に用ふ、片石へんせきにても他所に用ふればたゝりありし事度々なりとぞ。文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇景きけいたづね目撃もくげき[#「目撃」の左に「ミタトコロ」の注記]したるを記す。天のばう々たる他国にも是に似たる所あるべし、しばらくそのるゐしめす。

七ツ釜之圖

百樹もゝき曰、つかへに在し時同藩の文学関先生のはなしに、 君侯くんこう封内ほうない(丹波笹山)山に天然てんねんひきうすかたちしたる石をつみあげてはしらのやうなるをならべ絶壁ぜつへきをなし、満山まんざん此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなるひきうすかたちの石を産する所ありと春暉しゆんき随筆ずゐひつにて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。
○又尾張の名古屋の人吉田重房があらはしたる筑紫記行つくしきかう巻の九に、但馬国たじまのくに多気郡たけこほり納屋村なやむらより川船にて但馬の温泉いでゆいた途中みちしるしたるくだりいはく、○猶舟にのりてゆく。右の方に愛宕山あたごさん宮島みやしま村、野上のかみ村、石山いしやま(地名)など追続おひつゞきてあり。此石山の川岸にさしかゝれる所にめづらしき石あり、其かた磨磐ひきうすの如く、上下たひらかにしてめぐりは三角四角五角八角等にして、石工いしやの切立し如く、色は青黒し。是を掘出したるあともありてほらのごとし。天下のひろきには珍奇ちんきなる事おほきものなりけり云云。是も奇石きせきの一るゐなれば筆のついでにしるしつ。


北越雪譜二編巻之三 終
[#改丁]

北越雪譜二編 巻之四


越後   鈴木牧之  編選
江戸   京山人百樹 増修

○ 異獣いじう


 魚沼郡堀内ほりのうちより十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道かんだうなり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白ちゞみなにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日のひるすぐる頃竹助といふ剛夫がうふをえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくてみち梢々やゝ半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石にこしかけ焼飯やきめしをくひゐたるに、谷間たにあひ根笹ねさゝをおしわけてきたる者あり、ちかくよりたるを見ればさるて猿にもあらず。かしら長くにたれたるがなかばはしろし、たけ常並つねなみの人よりたかく、かほは猿に似て赤からず、まなこ大にして光りあり。竹助は心がうなる者ゆゑ用心にさしたる山刀をひつさげ、よらばきらんとがまへけるに、此ものはさる気色けしきもなく、竹助が石の上におきたる焼飯やきめしゆびさしくれよとふさまなり。竹助こゝろえて投与なげあたへければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる/″\とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨けんその道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村いけだにむらちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしくかたりしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり/\は此異獣いじうを見たるものもありしとぞ。
○前にいふ池谷村の者のはなしに、我れ十四五の時村うちの娘にはたの上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたるまど[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、290-11]のもとにはたおりてゐたるに、まど[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、290-11]そとたちたるをみれば猿のやうにてかほ赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめひとりなればことさらにおそれおどろき、にげんとすれどはたにかゝりたればこしにまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃めしびつゆびさしてほしきさまなり、娘此異獣いじうの事をかねてきゝたるゆゑ、飯をにぎりて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり/\来りて飯をふゆゑ、後にはなれておそろしともおもはずくはせけり。
○さて此娘、 尊用なりとていそぎのちゞみをおりかけしに、をりふし月水ぐわつすゐになりて 御機屋はたやに入る事ならず。(御機屋の事初編に委しく記せり)手をとゞれば日限におくる、娘はさらなり、双親ふたおやも此事をうれなげきけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもののう業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議ふしぎとおもひながら身をきよめて御はた織果おりはて、その父問屋へ持去もちさり、往着ゆきつきしとおもふ頃娘時ならずにはか紅潮つきやくになりしゆゑ、さては我がなげきしをきゝてかのもの我をたすけしならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりとかたれり。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にてもつれある時はかたちを見せずとぞ。又高田の藩士はんし材用にて樵夫きこりをしたがへ、黒姫くろひめ山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿にて猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて焼火たきびにあたれり。たけは六尺ばかり、赤髪あかきかみ裸身はだかみ通身みうち灰色はいいろにて、ぬけたるにたり、こしより下にかれ草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人になれしと高田の人のかたりき。あんずるに和漢わかん三才図会づゑ寓類ぐうるゐに、飛騨美濃ひだみのあるひは西国の深山しんざんにも如件くだんのごとき異獣いじうある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。

山中異獣の圖

○ 火浣布くわくわんふ


 宝暦年中平賀鳩渓きうけい(源内)火浣布をはじめてせいし、火浣布考くわくわんふかうあらはし、和漢の古書を引、本朝未曾有みそう奇工きこうほこれり。ぼつしてのち其術そのじゆつつたはらず、好事家かうづか憾事かんじとす。しかるに我国かつて火浣布くわくわんふつくるのいしさんす、そのる所は、○金城きんじやう山○巻機まきはた山○苗場なへば山○八海山はつかいさんその外にもあり。その石軟弱やはらかにしてつめをもつてもおかすべきほどのやはらなる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石綿いしわたいだす。此石をこゝろみしに、石中に石綿いしわたといふものは、木綿もめんわたをほそつむぎたるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。これ紡績はうせき[#「紡績」の左に「イトニスル」の注記]するに秘術ひじゆつありて火浣布をつくるなり、其秘術をば小女子も火浣布を織るべし。
○さてわが駅中えきちゆうに稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡績はうせきする事に千思せんしりよつひやし、つひみづからその術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近村きんそん大沢村の医師黒田玄鶴げんくわくも同じく火浣布を織る術をたり。各々おの/\してその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇工きこうたるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人のせつをきゝしにちからをつくせば一丈以上なるをもおりうべし、しかれども其機工きこう容易よういならずといへり。平賀源内は織こと五六尺にすぎずと火浣布考くわくわんふかうにいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火浣紙くはくわんし火浣墨くはくわんぼくの二しゆつくれり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈火れつくわにやけて火となりしをしづかにとりいだし、火気くわきさむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火災くわさいそなへにはたのみがたし、いかんとなれば、火にあへともに火となり人ありて火中よりいださゞれば火とともくだけてかたちをうしなふ、たゞはいとならざるのみなり。翫具ぐわんぐには用うる所さま/″\あるべし。源内死して奇術たえたりしにくだんの両人いでゝ火浣布の機術きじゆつふたゝび世にいでしに、嗚呼あゝ可惜をしむべし、此両人も術をつたへずしてぼつしたれば火浣布ふたゝび世にたえたり。かの源内は江戸の饒地げうちに火浣布をおりしゆゑ其きこえ高く、この両人は越後の辟境へききやうに火浣布をおりしゆゑ其名ひくし、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話にきようす。

○ 弘智法印こうちはふいん


 弘智法印は児玉氏下総国山桑村やまくはむらの人なり。高野山にありて蜜教みつきやうを学び、のち生国にかへり大浦の蓮花寺に住し、行脚あんぎやして越後に来り、三嶋郡野積村のづみむら(里言のぞみ)海雲山西生寺の東、岩坂といふ所にしやくをとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵にじやくせり。辞世じせいとて口碑こうひにつたふる哥に「岩坂のぬしたれぞとひととは墨絵すみゑかきし松風の音」遺言ゐげんなりとて死骸なきから不埋うづめず、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯骸こがいいけるが如し。是を越後廿四奇の一にかぞふ。此事雑書ざつしよ散見さんけんすれどもをのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は先年しも越後にあそびし時目撃もくげきしたる所なり。見る所たゞ面のみ、手足は見えず。寺法なりとて近くる事をゆるさず、閉眼めをとぢしわありてねふりたるが如し。頭巾づきん法衣ころもはむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇跡きせきなり。

弘智法印枯骸之圖

百樹もゝき曰、唐土もろこしにも弘智こうちたる事あり。唐の世の僧義存ぎそんぼつしてのちしかばね函中はこのなかおき、毎月其でしこれをいだし爪髪つめかみのびたるを剪薙はさみきるをつねとす。百余年をてもはいせざりしが、のちくにのみだれたるによりてこれを火葬くわさうせしとぞ。又宋人そうひと彭乗はうじやうさく墨客揮犀ぼくかくきさい鄂州がくしうそう无夢むむしかばね不埋うづめず爪髪つめかみのびたる義存ぎぞんに同じかりしが、婦人の手になでられしより爪髪のびざりしとぞ。事は五雑組ござつそしるして枯骸こがい確論かくろんあれども、釈氏しやくしなじるにたるせつなればこゝにぜいせず。(○高僧伝に義存が※(「古/又」、第4水準2-3-61)ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。)

○ 土中どちゆうふね


 蒲原郡五泉のざい一里ばかりに下新田しもしんでんといふ村あり。或年此村の者ども※(「古/又」、第4水準2-3-61)ありて阿加川のきしほりしに、土中どちゆうより長さ三間ばかりの船を掘いだせり。全体ぜんたい少しもくさらず、かたち今の船にことなるのみならず、金具かなぐを用うべき処みなくぢらひげを用ひて寸鉄すんでつをもほどこしたる処なし。木もまた何の木なるをべんずる者なく、おそらくは異国いこくの船ならんといへりとぞ。しも越後に遊びし時、杉田村小野佐五右エ門が家にてかの船の木にて作りたる硯箱を見しに、木質もくしつ漢産かんさんともおもはれき。上古漂流の夷船いせんにやあらん。

○ 白烏しろからす


 前にもいへる如く雪譜とだいするものに他事をいふは哥にいふ落題らくだいなれど、雪はまた末にいふべし、しばらくおもひいだすにまかす。
○天保三年辰四月、我がすむ塩沢の中町なかまちに鍵屋某が家のほとりに喬木たかききあり。此からすをむすび、ひな梢々やゝかしらをいだすころ、巣のうちに白きかしらの鳥を見る。主人あやしみ人をして是をとらへしめしに、全身ぜんしんからすにして白く、くちばしまなこあしは赤きからすひななり、人々としてあつまる。主人にはかに籠を作らせ心をつくしてやしなひ、やゝ長じて鳴音なくこゑからすことならず、我が近隣きんりんなれば朝夕これをたり。奇鳥なればふ人も多く、江戸へいだして観物みせものにせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず。かくて其冬雪中にいたり、山のいたち狐などとぼしく人家にきたりて食をぬすむ事雪中の常なれば、此ものゝ所為しわざにや、かごはやぶれて白烏しろからすはねばかりゑんの下にありしときゝし。初編に白熊しろくまの事をのせたるゆゑ、白烏しろからすもまたこゝにしるしぬ。

○ 両頭りやうとうへび


 文政十年亥の八月廿日隣駅六日町のざい余川よかは村の農人太左エ門の軒端のきばに、両頭の蛇いでたるをとらふ。長さ一尺にたらず、そのかしら二ツならびて枝をなすのみ。いろもかたちも常の蛇にかはらず。あるにまかせて古き箱にいれ、もいれおきしに、二三日すぎていつにげゆきしやあたりをたづねしかどをらざりしとぞ。

○ 浮嶋うきしま


 小千谷をぢやより西一里に芳谷よしたに村といふあり、こゝに郡殿こほりとのいけとて四方二三町斗の池ありて浮嶋うきしま十三あり。晴天風なき時日いづれば十三の小嶋おの/\離散りさんして池中に遊ぶが如し、日入れば池の正中まんなかにあつまりて一ツの嶋となる。此池に種々の奇異きゐあれどもぶんおほければしるさず。羽州の浮嶋はものにもしるして人の知る処なれど、此うきしまはしる人まれなり。

○ 石打いしうち明神


 小千谷の内農人なにがしの地面に小社あり石打明神といふ。昔よりまつところ也、その縁起ゑんぎきゝもらせり。贅肉いぼあるもの此神をいのり、小石をもつていぼをなで、社のえんの下の※子かうし[#「竹かんむり/隔」、U+25D29、300-3]の内へなげいれおくに、日あらずしていぼのおつる事奇妙なり。さてなげいれたる小石、いかなる形なりともいつとなく人のまるめたるごとく円石まるきいしとなるも又奇妙ふしぎなり。されば社のえんの下に大小の円石まるいしみちみちたり。
○百樹曰、も小千谷に遊びし時、此石を話柄はなしのたねに一ツ持帰もちかへらんとせしに、所の人のいふやう、此神是石このいしをしみ玉ふといひつたふときゝて取たるをもとの処へかへし、つら/\たるに数万の石人のすりなしたる玉のごとし。すべて神妙じんめう肉知にくちを以てはかるべからず。

○ 美人びじん


百樹曰、小千谷をぢやちなみにいふ、小千谷の岩居がんきよが家に旅宿せし時(天保七年八月)或日あるひふでとるうみ、山水の秋景しうけいばやとてひとりたちいで、小千谷の前に流るゝ川に臨岡のぞむをかにのぼり、用意したるしよをかく。毛氈まうせん老樹らうじゆもとにしきたばこくゆらせつゝ眺望みわたせば、引舟は浪にさかのぼりてうごかざるが如く、くだる舟はながれしたがふてとぶたり。行雁かうがん字をならべ帰樵きせう画をひらく。群木ぐんぼくすこしく霜をそめ紅々あかく連山れんざんわづかに雪をのせ白々しろし寒国かんこく秋景しうけい江戸の眼をあらたになし、おもはず一絶いちぜつなどしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの/\柴籠しばかごをせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。は山水に目をうばはれたるに「火をかしなされ」とて烟管きせるさしよせたるかほを見れば、蓬髪みだれがみ素面すがほにて天質うまれつき艶色えんしよく花ともいふべく玉にもすべし。百結つぎ/\鶉衣つゞれ趙璧てうへきつゝむ。愕然びつくりし山水をすてて此娘を視るに一揖おじぎしてり、もとの草にしてあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく吹烟たばこのむ双無塩ふたりのあくぢよひとり西施せいしかたるは蒹葭けんが玉樹ぎよくじゆによるが如く、皓歯しろきは燦爛ひか/\としてわらふは白芙蓉はくふようの水をいでゝ微風びふううごくがごとし。嗟乎あゝをしむべし、かゝる美人びじんこの辺鄙へんひうまれ、昏庸頑夫こんようぐわんふ[#「昏庸頑夫」の左に「バカナヤラウ」の注記]の妻となり、巧妻こうさいつね拙夫せつふともなはれてねふり、荊棘けいきよくともくさらん事あはれむたえたり。もし江戸にいださば朱門しゆもん[#「朱門」の左に「オヤシキ」の注記]解語かいご[#「解語」の左に「モノイフ」の注記]の花をさかせ、あるひは又青楼せいろう[#「青楼」の左に「ヨシハラ」の注記]揺泉樹えうせんじゆ[#「揺泉樹」の左に「カネノナルキ」の注記]さかえをなし、此隣国りんごく出羽にうまれたる小野の小町が如く美人びじんの名をもなすべきに、此美人を此僻地へきちいだすは天公てんこう事をさゞるに似たりとひとり歎息たんそくしつゝものいはんとししに、娘は去来いざとてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。目送みおくりおもへらく、越後には美人びじん多しと人の口実くちにいふもうべなり、是無他ほかでなし、水によるゆゑなり。されば織物おりものの清白なる越後の白縮しろちゞみまされるはなし、ことさら此辺は白縮しろちゞみさんする所なり、以て其水の至清しせいなるをしるべし。江河こうが潔清けつせいなれば女に佳麗かれい多しと謝肇※(「さんずい+制」、第3水準1-86-84)しやてうせつがいひしもことはりなりとおもひつゝ旅宿りよしゆくかへり、云々しか/″\の事にて美人びじんたりと岩居がんきよに語りければ、岩居いふやう、かれは人の知る美女なり、先生せんせいを他国の人と眼解みてとりあざむきてたばこの火をかりたるならん、可憎々々にくむべし/\否々いや/\にくむべからず、われたばこの火をかして美人にえん(烟縁)をむすびし」と戯言たはふれければ、岩居を拍て大に笑ひ、先生あやまてり、かれは屠者ゑたの娘なりときゝふたゝ愕然がくぜん[#「愕然」の左に「ビツクリ」の注記]たり。糞壌ふんじやう妖花えうくわを出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。
ふたゝびあんずるに、小野の小町は羽州うしう郡司ぐんじ小野の良実よしざねむすめなり、楊貴妃やうきひ蜀州しよくしう司戸しこ元玉がむすめなり、和漢ともに北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に佳人かじんありといひしも、北は陰位いんゐなれば女に美麗びれいを出すにやあらん。二代目の高尾は(万治)野州にうまれ、初代の薄雲うすぐもは信州にさんして、ともに北廓ほくかくに名をなせり。されば越後にくだんの美人を見しも北国なればなるべし。

○ 蛾眉山下橋柱がびさんかのはしばしら


 文政八年乙酉十二月、苅羽郡かりはこほり(越後)椎谷しひや漁人ぎよじん(椎谷は堀侯の御封内なり)ある日椎谷の海上にすなどりして一木の流れたゞよふを見て薪にせばやとてひろひ取て家にかへり、水をかわかさんとてひさしに立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟視よく/\みるに、蛾眉山下※がびさんかのはし[#「木/喬」、302-12]といふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁人ぎよじんにはたきゞあたへてひうけけるとぞ。さて旧友きういう観励くわんれい上人は(椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺)強学きやうがくきこえあり、かつ好事かうずへきあるを以てかの橋柱はしばしらの文字を双鈎刊刻さうこうかんこく[#「双鈎刊刻」の左に「カゴジホル」の注記]して同好どうこうにおくり且橋柱はしばしらだいする吟詠ぎんえいをこひ、是も又あづさにして世にしかんとせられしが、ゆゑありていまだ不果はたさず。かの橋柱はのち御領主ごりやうしゆ御蔵ごぞうとなりしとぞ。椎谷しひや同国どうこくなれども幾里をへだてたれば其真物しんぶつ不見みず、今に遺憾ゐかんとす。しばらく伝写でんしやを以てこゝにのせつ。(○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。)
百樹もゝき曰、了阿れうあ上人が和哥の友相場氏は 椎谷侯しひやこう殿人とのびとときゝて、上人の紹介せうかいをもつて相場氏に対面してくだん橋柱はしばしらの事をたづねしに、いはれしは、橋柱にはあらず標準みちしるべなりとて、俗に書翰※(「代/巾」、第4水準2-8-82)しよかんぶくろといふ物に作りたるを出して其図そのづを示さる。余が友の画人千春ちはる子が真物しんぶつかたはらにおきて縮図しゆくづなし、蛾眉山下※がびさんかのはし[#「木/喬」、303-8]といふ五字は相場氏みづから心をふかめてうつされしとぞ。(下に図するこれなり)きざみたる人のかしらを左りにむかせ、そのしもに五字をほりつけしは、是より左り蛾眉山下橋がびさんかのはしなりと人にをしゆる標準みちしるべなりとかたられき。是にて義理ぎり渙然くわんぜん[#「渙然」の左に「ワカル」の注記]たり。今俗にゆびさすをゑがきてそのしたにをしゆる所をしるしたるをまゝみる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。
○さて此標準へうじゆんたる実事じつじをきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風はげしくいそへ物をうちよする、椎谷しひやはたきものにとぼしき所ゆゑ貧民ひんみん拾ひ取りてたきゞとなす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、れいの如く薪を拾ひに出しに、物ありてはしらのごとく浪にたゞよふをみれば人のかしらとみゆる物にて甚兇悪きやうあくなり。貧民等ひんみんらおそれてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此ものつひいそにうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読者よむものなく、是は何ものならんとさま/″\ひやうたるをりしも、こゝにちか西禅院さいぜんゐん童僧どうそうとほりかゝり、唐詩選たうしせんにておぼえたる蛾眉山がびさんの文字をよみ、これは唐土からの物なりときゝて貧民ひんみんひろひて持かへり、さすがに唐土からの物ときゝてたきゞにもせざりしに、此事閧伝こうでん[#「閧伝」の左に「マチノウハサ」の注記]してつひ主君しゆくんざうとなりしとかたられき。

「縮図《しゆくづ》左のごとし。丈《たけ》一丈余、周《めぐり》二尺五寸余。木質弁名《きはなにともなづく》べからず。」のキャプション付きの図
縮図しゆくづ左のごとし。たけ一丈余、めぐり二尺五寸余。木質弁名きはなにともなづくべからず。

あんずるに、蛾眉山は唐土の北に峻岳じゆんがくにて、富士にもくらぶべき高山なり。絶頂ぜつてうみね双立ならびたちて八字をなすゆゑ、蛾眉山がびさんといふなり。此山の標準みちしるべ日本ひのもとの北海へながれきたりたる其水路すゐろ詳究しやうきゆう[#「詳究」の左に「ツマヒラカニキハムル」の注記]せんとて「唐土もろこし歴代れきだい州郡しうぐん沿革地図えんかくちづ」により清国いまのから道程みちのり図中づちゆう※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)けん[#「※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)」の左に「アラタムル」の注記]するに、蛾眉山は清朝いまのからみやこへだつこと日本道四百里ばかりの北に在り、此山に遠からずして一条ひとすぢの大河東にながる。蛾眉山のふもとの河々皆此大河に入る。此大河瀘州ろじうを流れ三けふのふもとをぎ、江漢こうかんいた荊州けいじうに入り、○洞庭湖とうていこ赤壁せきへき潯陽江じんやうこう楊子江やうしこうの四大こうつうじて江南こうなん流湎ながれめぐりて東海に入る。是水路このすゐろ日本道五百里ばかりなり。さてくだん標準みちしるべ洪水こうずゐにてや水に入りけん、○洞庭とうてい赤壁せきへき潯陽じんやう楊子やうしの海の如き四大江だいこう蕩漾周流たうやうしうりう[#「蕩漾周流」の左に「ナガレシダイメグリナガレ」の注記]して朽沈くちしづまず。滔々たう/\たる水路すゐろ五百余里よりながれて東海に入り、巨濤こたう[#「巨濤」の左に「オホナミ」の注記]に千たうし風波に万てんすれども断折だんせつ[#「断折」の左に「ヲレル」の注記]砕粉さいふん[#「砕粉」の左に「クダケル」の注記]せず、直身ちよくしん[#「直身」の左に「ソノミ」の注記]挺然ていぜん[#「挺然」の左に「ソノマヽ」の注記]として我国の洋中おきなかたゞよひ、北海の地方にちかより、椎谷しひや貧民ひんみんひろはれてはじめて水をはなれ、すでに一じんの薪となるべきを、幸にしる者にあひひて死灰しくわいをのがれ、韻客ゐんかくため題詠だいえい美言びげんをうけたるのみならず、つひには 椎谷侯しひやこうあいほうじて身を宝庫ほうこに安んじ、万古不朽ばんこふきう洪福こうふくたも※(「古/又」、第4水準2-3-61)奇妙不思議ふしぎの天幸なれば、じつ稀世きせい珍物ちんぶつなり。
按ずるに、蛾蛾同韻ががどうゐん(五何反)なれば相通あひつうじて往々わう/\書見しよけんす。きやうきやう[#「木/喬」、305-9]に作るすこぶ異体ゐていなり。よつ明人みんひと黄元立くわうげんりつ※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)字考正誤じかうせいご清人せいひと顧炎武こえんぶ亭林遺書中ていりんゐしよちゆう※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)金石文字記あるひは※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)碑文摘奇ひぶんてきき(藤花亭十種之一)あるひは楊霖竹菴やうりんちくあん※(始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44)古今釈疑しやくぎ中の字体じていなど通巻つうくわんへん捜索さうさく[#「捜索」の左に「サガス」の注記]したれどもきやう[#「木/喬」、305-11]の字なし。蛾眉山がびさんのあるしよくは都をる事とほ僻境へききやうなり。推量すゐりやうするに、田舎ゐなか標準みちしるべなれば学者がくしやかきしにもあるべからず、俗子ぞくしの筆なるべし。さればわが今のぞく竹を※[#「にんべん+竹のつくり」、305-13]※(「にんべん」、第4水準2-1-21)にんべんあやまるるゐか、なほ博識はくしきせつつ。

○ 苗場山なへばやま


 苗場山は越後第一の高山なり、(魚沼郡にあり)登り二里といふ。絶頂ぜつてう天然てんねん苗田なへたあり、依て昔より山の名によぶなり。峻岳じゆんがくいたゞきに苗田ある事甚奇なり。其奇跡を尋んとおもふ事としありしに、文化八年七月ふとおもひたちて友人四人(●嘯斎●※(「てへん+頡」、第3水準1-85-4)斎●扇舎●物九斎)従僕等じゆぼくらに食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツまたといふえきに宿り、次日暁をおかして此山の神職にいたり、おの/\はらひをなし案内者をやとふ。案内は白衣にへいさゝげて先にすゝむ。清津きよつ川をわたりやがてふもとにいたれり。巉道さんだうふみ嶮路けんろに登るに、掬樹ぶなのき森列しんれつして日をさへぎり、山篠やまさゝしげりてみちふさぐ。かれたる老樹折れてみちよこたはりたるをこゆるは臥竜を踏がごとし。一条ひとすぢ渓河たにかはわたり猶登る事半里ばかり、右に折れてすゝみ左りにまがりてのぼる。奇木きぼく怪石くわいせき千態せんたいじやう筆を以ていひがたし。すで半途はんとにいたれば鳥の声をもきかず、ほとんど東西をべんじがたく道なきがごとし。案内者はよく知りてさきへすゝみ、山篠やまさゝをおしわけへいをさゝげてみちをしめす。藤蔓ふぢかつら笠にまとひ、※竹しげるたけ[#「林/取」、U+6A37、308-11]身をかくし、石高くしてみちせまく、一歩も平坦たひらのみちをふまず。やう/\午すぐる頃山の半にいたり、わづかの平地をて用意したる臥座ぐわざ木蔭こかげにしきて食をなし、しばらやすらひてまたのぼり/\て神楽岡かぐらがをかといふ所にいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるがこずゑは雪霜にやからされけん、ひくき森をなしてこゝかしこにあり。またのぼり少しくだりて御花圃はなばたけといふ所、山桜さかりにひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人のうゑやしなひしにたり。をしらざる異草いさうもあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり。またのぼりゆき/\て桟※かけはしのやう[#「齒+彦」、U+9F74、309-3]なる道にあたり、岩にとりつき竹の根を力草ちからくさとし、一歩に一声をはつしつゝ気を張りあせをながし、千しんしのぼりつくして馬のといふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所わづかに二三尺、一脚ひとあしをあやまつ時は身を粉砕こなになすべし。おの/\忙怕おづ/\あゆみてつひ絶頂ぜつてうにいたりつきぬ。

登苗場山之圖

さて同行十二人、まづ草にしていこふ時、すで※(「日+甫」、第3水準1-85-29)なゝつさがりなり。はじめ案内者のいひしは登り二里の険道けんだうなれば、一日に往来ゆきゝすることあたはず、絶頂ぜつてうに小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木のえだ、山さゝ、枯草かれくさなど取りあつめ、ふぢかつらにて匍匐はひ入るばかりに作りたるは、野非人のひにんのをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな/\笑ふ。ぼくどもは枯枝かれえだをひろひ石をあつめてかり※(「火+土」、第4水準2-79-58)かまどをなし、もたせたる食物を調てうぜんとし、あるひは水をたづねて茶をれば、上戸は酒のかんをいそぐもをかし。さて眺望みわたせば越後はさら也、浅間あさまけふりをはじめ、信濃の連山みな眼下がんか波濤はたうす。千隈ちくま川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石ぼんせきをおく。能登の洲崎すさき蛾眉がびをなし、越前の遠山は青黛せいたいをのこせり。こゝにぬぐひ扶桑ふさう第一の富士をいだせり、そのさま雪の一握ひとにぎりをおくが如し。人々手をうち、奇なりとび妙なりと称讃しようさんす。千しようけい応接おうせふするにいとまあらず。くも脚下あしもとおこるかとみれば、たちまちはれ日光ひのひかりる、身は天外に在が如し。この絶頂はめぐり一里といふ。莽々まう/\[#「莽々」の左に「ノヒロキ」の注記]たる平蕪へいぶ高低たかひくの所を不見みず、山の名によぶ苗場なへばといふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人のうゑたるやうに苗にたる草ひたり、苗代なはしろなかばとりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中にかへる※(「阜」の「十」に代えて「虫」、第4水準2-87-44)いなごもありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも田水てんすゐかれずとぞ。二里のいたゞきに此奇跡きせきること甚不思議ふしぎ※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいざんなり。案内者いはく、御花圃はなはたけより(まへにいひたる所)別にみちありて竜岩窟りうがんくつといふ所あり、いはやの内に一条ひとすぢの清水ながれそのほとりに古銭多く、鰐口わにくち二ツ掛りありて神をまつる。むかしより如斯かくのごとしといひつたふ。このみち今は草木にふさがれてもとめがたしといへり。絶頂ぜつてうにも石にこくして苗場大権現なへばだいごんげんとあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には挑燈てうちんをさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒をくむ。六日の月皎々かう/\とてらしてそらもちかきやうにて、かつらえだもをるべきこゝちしつ。人々し哥をよみ、俳句の吟興ぎんきやうもありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第にはげしく、用意の綿入にもしのぎかねて終夜よもすがら焼火にあたりてゆめもむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御来迎らいかうをがみたまへと案内がいふにまかせ、拝所をがむところにいたり日ののぼるはいし、したくとゝのへて山をくだれり。(別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。)
百樹もゝきいはく越遊ゑついうしたる時、牧之ぼくし老人に此山の地勢を委しくきゝ真景しんけいをもたるに、いたゞき平坦たひらなる苗場なへば奇異きゐ竜岩窟りうがんくつ古跡こせきなど水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶頂ぜつてう平坦たひらになし、馬の天険てんけんをたのみてこゝに住居し耕作かうさくをもしたるが、ほろびてのち其※(「帚」の「冖/巾」に代えて「火」、第3水準1-87-36)れいこんこゝにとゞまりて苗場なへば奇異きゐをもなすにやとおもへり。国史こくし捜究さうきう[#「捜究」の左に「サガシキハム」の注記]せば其しるしするはしをもべくや、博達はくたつせつきかん。

○ 三四月の雪


 我国冬はさらなり、春になりても二月頃まではあめる事なし、雪のふるゆゑなるべし。春のなかばにいたれば小雨ふる日あり、此時にいたれば晴天はもとより、雨にも風にも去年より積雪つもりたるゆきしだい/\にきゆるなり。されども家居いへゐなどはいぬゐ(北東の間)あたる方はきゆる事おそし。山々の雪は里地さとちよりもきゆる※(「古/又」、第4水準2-3-61)おそけれども、春陽しゆんやう天然てんねんにつれて雪解ゆきげに水まして川々に水難すゐなんうれひある事年々なり。春のすゑにいたれば、人のすむあたりの雪は自然しぜんにきゆるをまたずして家毎いへごとに雪を取捨とりすつるに、あるひは雪を籠にいれてすつるもあり、あるひはのこぎりにて雪を挽割ひきわりてすてもし、又は日向ひむきの所へ材木ざいもくのごとくつみかさねておくもあり。かやうにすればきゆることはやきゆゑなり。(少しの雪は土をかけ又は灰をかくればはやくきゆ)そも/\去年冬のはじめより雪のふらざる日もそらくもりてこゝろよはれたるそらを見るはまれにて、雪に家居いへゐ降埋ふりうづめられ手もとさへいとくらし。是にうまれ是になれて、年々の※(「古/又」、第4水準2-3-61)なれども雪にこもりをるはおのづから朦然まうぜんとして心たのしからず。しかるに春の半にいたり雪囲ゆきかこひ取除とりのくれば、日光明々としてはじめて人間世界にんげんせかいへいでたるこゝちぞせらる。一年ひとゝせ夏の頃、江戸より来りたる行脚あんぎや俳人はいじんとゞめおきしに、いふやう、此国の所々にいたり見るに富家ふかにはには手をつくしたるもあれど、かきはいづれも粗略そりやくにて仮初かりそめに作りたるやうなり、いかなるゆゑにやといふ。こたへていふ、いぶかり給ふもことはりなり、かりそめに作りおくは雪のゆゑなり。いかんとなればいかほどつよく作るとも一丈のうへこす雪におしくづさるゝゆゑ、かろくつくりおきて雪のはじめには此垣をとりのくるなりと語りし事ありき。されば三月の末にいたれば我さきにと此垣を作る事なり。さて又雪中は馬足ばそくもたゝず耕作かうさくもせざれば、馬はむなしうまやにあそばせおく事およそ百日あまり也。(我国に牛のみつかふ所もあり)雪きゆるの時にいたれば馬もよくしりてしきりにいなゝみちにいでんとする心あり、人も又久しくちゞめたる足をのばさせんとてむまやをひきいだせばよろこびてはねあがりなどするを、胴縄どうなはばかりの※(「身+果」、第4水準2-89-55)はだかうままたがり雪消の所にはしらす。此馬冬こもりのかひやうによりてやせるとこえるありて、やせたるは馬ぬしまづしさもしるゝものなり。馬のみにあらず、わらべどもゝ雪のはじめより外遊そとあそびする事ならざりしに、夏のはじめにいたりてやう/\冬履ふゆげた稿沓わらくつをすてゝ草履ざうりせつたになり、いかのぼりなどにかけはしるはさもこそとうれしさうなれ。桃桜も此ころをさかりにて雪に世外せぐわいの花をるなり。

市中四月雪解圖

○ つるおんむく


 天保七年丙申の春、我が郡中ぐんちゆう小千谷をぢやちゞみ商人芳沢屋よしさはや東五郎俳号はいがうを二松といふもの、商ひのため西国にいたりある城下に逗留とうりうの間、旅宿のあるじがはなしに、此近在の農人のうにんおのれが田地のうちに病鶴やめるつるありてにいたらんとするを見つけ、たくはへたる人参にんじんにて鶴の病をやしなひしに、日あらずやまひいえて飛去りけり。さて翌年の十月鶴二羽かの農人のうにんが家のにはちかくまひくだり、稲二けいおとし一こゑづゝなきて飛さりけり。主人あるじひろひとりて見るにそのたけ六尺にあまり、も是につれて長く、の一えだに稲四五百粒あり。主人おもへらく、さては去年の病鶴びやうかくおんむくはんため異国ゐこくよりくはえきたりしならん、何にもあれいとめづらしき稲なりとて領主りやうしゆたてまつりけるに、しばらくとゞめおかれしのちそのまゝあるじにたまはり、よくやしなへとおほせによりてなへのころにいたり心をつくしてうゑつけけるに、鶴があたへしにかはらずよくひいでければ、くにかみへも奉りしとかたれり。東五郎猶その村その人をもたづねきけば、鶴をたすけたる人は東五郎がちゞみを売たる家なれば、すぐさまその家にいたりなほくはしく聞て、さて国の土産みやげにせん、もみを一二粒たまはれかしとこひければ、あるじ越後は米のよき国ときけばことさらにひなんとて、もみ五六十粒あたへたるを国へ持かへりて事の来由よしを申て 邦君はうくんに奉りしを、 御城内に植しめ玉ひ、東五郎へ 御褒賞はうしやうなど在しと小千谷の人そのころ物がたれり。おもふにがごとき賤農せんのうもかゝるめでたき 御代みよに生れたればこそ安居あんきよしてかゝる筆もとるなれ。されば千年の昌平しやうへいをいのりて鶴のはなしに筆をとゞめつ。猶雪の奇談きだん他事たじ珎説ちんせつこゝにもらしたるもいとおほければ、生産せいさんいとまふたゝびへんつぐべし。

通巻画図
京水  岩瀬百鶴 筆 京水岩瀬百鶴の押印の図








北越雪譜二編 四巻大尾
[#改丁]

註解


*1 「許鹿君」古河の城主土井大炊頭利位トシツラの号、利位は下総古河藩第十世の藩主である。寛政六年(一七八九)土井利徳の男として生れた。文政五年に養父利厚の職を襲ぎ大炊頭に任ぜられた。同八年に社寺奉行となり、同十二年に病の為め職を免ぜられた。天保二年に再任し、同五年に大阪城代となつた。天保八年には京都所司代となり、翌年には老中となつた。弘化元年に病の為め老中を免ぜられ雁間席を命ぜられた。嘉永元年(一八四八)卒去した。利位はその臣鷹見忠常と共に雪華を詳細に検鏡し、天保三年には雪華図説を、天保十一年には続雪華図説を著はし、手版として刊行した。
*2 「用意したる所の雪を尺をもつて量りしに」の雪と尺との間の『を』字は誤まつて挿入したものと思ふ。即ち「用意したる所の雪尺をもつて量りしに」とあるべきかと思はれる。
*3 「妙法寺の火」妙法寺村は如法寺ニヨホフジ村のことである。本書二五九頁に「蒲原郡如法寺村」とある。同村では天然のメタン瓦斯が地中より吹き出すところがあつて、之を竹管で室内に導き、炉の一隅に置いてある石臼の孔から吹き出さし、夫れに点火して炭火の代用とする。石臼の孔には細い竹管を挿み、夫れから瓦斯が出る様にしたものである。越後では如法寺村に限らず諸所に同様の天然瓦斯の出るところがあり、また之を利用してゐる。
*4 「破目山ワレメキ」は「ワリメキ」と云ふのが正しい。
*5 「二万四千四百八十四度」は二万四千八百四十度の誤算。
*6 「ようちなつた」は「よう来なすつた」と云ふこと、「能くお出でなさつた」の意。
*7 「黒駒太子と称する画軸」は聖徳太子が黒馬に跨がり、雲に乗つて昇天するのを、曾我の馬子等が見上げてゐる図の画幅。
*8 「やぶつの橋」は矢櫃橋のこと。
*9 京山翁の雨の氷りて垂氷ツララとなつた談は、気象学上から判断すれば、「雨氷」と云ふ現象であると思ふ。雨氷は過冷却をした雨滴が降り、氷点以下に冷えてる樹枝や地物に当つて氷り着いたものに外ならない。垂氷と現象は似てゐるが成因は全く異なつてゐる、漢籍には「雨淞」とある。仏語の verglas、英語の glazed frost に当る。
10 「シガ」は気象学で云ふ「霧氷」のことである。多くの場合過冷却せる霧なぞがこれも寒冷な樹枝や地物に吹き附けて氷り着いたものである。「シガ」は遼東あたりでは「樹掛」と云ふから、夫れから転じたものと思ふ。仏語の givre、英語の silver thaw に当る。
11 「佐浦詣堂押図」とあるは「浦佐詣堂押図」の誤記。
12 「春暉の西遊記」とある春暉は橘春暉のことである。本名は宮川春暉。南谿はその号。宝暦四年生る。伊勢の人、同国久居の藤堂氏に仕へた。南谿は医を業としたが、修業と行遊との為め諸国を遊歴し、寛政七年より同十二年に亙る間、東遊記及西遊記を著述した。又文政八年に北窓瑣談を著した。文化三年歿す。享年五十三であつた。京都黒谷の光明寺に葬むつた。

この註解を書くに当り、理学博士朝比奈貞一君が「天気と気候」の昭和十一年刊に連載せられた「北越雪譜を読みて」と題する名篇に負ふところが多い。記して感謝の意を表はす。
(岡田武松)
[#改丁]

解説


鈴木牧之翁略伝

  本書の著作者鈴木牧之ボクシ翁は、明和七年正月七日に、越後の国の塩沢に生れた、塩沢は今日の新潟県南魚沼郡塩沢町である、幼時は弥太郎と云つたが、大きくなつてから、儀三治と改めた、翁の父は、質屋と縮布の仲買を営んでゐた、さうして渡世の傍に、俳諧に遊び、周月庵牧水と号してゐた、翁の牧之と云ふ号は、父の牧水の一字を採つたのである、牧之翁は幼時から英敏であつた、大運寺の快運法師に師事して経書を学び、詩は徳昌寺の虎斑禅師に就て学んだ、翁はまた幼時より画を狩野梅笑に学んで、凡んど画師に近いまでの腕前になつてゐた、北越雪譜の挿画の如きは、原図は大部分翁自ら画いたものである、壮年の頃から、既に風流韻事を解し、諸芸百般に通じてゐたから、交遊は甚だ広かつた、殊に当時の一流の文士であつた馬琴、真顔、六樹園、蜀山人、京伝、京山、一九、三馬、玉山なぞと親交あり、漢学者の鵬斎なぞとも交を訂し、画家では文晁、北斎なぞとも懇意であつた、その外に、名優団十郎、名妓花扇とも往復をしてゐた、元来北越の田舎に多く在住し、商用にて時折上京し、寸※[#「日+閑」、U+2D9F4、321-12]を割いては是等の名流を訪れたのである、然し交通の不便な時代にさう頻繁に上京は出来なかつたから、多くは書簡の往復での交りが多かつた、翁はその往復の書簡を丁寧に蒐集して「筆かゞみ」と名づけて珍蔵して居られた。
 翁も代々の家業であつた質屋を渡世とし、且つ縮の仲買をしてゐたが、文雅の士であつたにも関はらず商法には非常に熱心で勤倹力行大に家道を興こされた、平生東照公や楽翁公の為人を景慕し、専ら堪忍を旨として居られた、平生は粗衣粗食に甘じ、寸※[#「日+閑」、U+2D9F4、322-5]を惜み大小となく雅俗の用事を果された、壮年の頃から禁酒をされて、永眠されるまで酒杯を手にされなかつた、翁はまた頗る器用な質であつて、書画の表装から家具の繕ひまで皆な自分でやり、敢て専門の職を煩はすことは凡んどなかつた、現に翁の生家には翁が自画の軸物を自ら表装されたものが残つてゐる、夫を見ると全く経師職の手に成つたとしか思へない様に巧に出来てゐる、翁はまた無駄なことをするのが大嫌ひであつた、紙片と雖も棄てず、詩歌俳句の類の稿案には之を用ゐた、さうかと云つて翁は無暗に財蓄一方の人ではなかつた、私財を公共の事業に投ずることが、屡※(二の字点、1-2-22)あつたので、官から度々その篤行を賞せられた。
 翁の著作は少くないが、天保六年に北越雪譜の初編を刊行し、天保十一年に二編を刊行した、文政年間には庚申帳と秋山紀行を著述し、文政四年には秋月庵発句集を、文政十三年には広大寺踊を、天保四年には夜職草を著述した、特に庚申帳は、庚申の宵待ちに集まつた人々の談話を記るしたもので、当時の風俗習慣等があり/\と描かれてあるのだが、今日では巻秩が逸散して、完全に保存されてゐないのは甚だ惜しい。
 牧之翁は、知命の頃に、耳疾を患ひ、殆んど聾となり、螺貝を耳に当て、聴声器としてゐた、翁の戯号の螺耳はこれから来てゐる、耳の悪るいと云ふ外には老年になつて中風の気があり、天保七年の夏中風再発して、湯治なぞ種々治療につとめられたが、遂に天保十三年五月十五日に病の為めに、永眠された、享年七十三である、郷里の長恩寺に葬られてゐる、法号は金誉志剛性温居士と云ふ、本書の口絵は、井口喜夫氏作の翁の木像の写真である、この木像は現に長恩寺に安置してある、翁の後は勘右衛門、文太郎、常平の三氏を経て現戸主雄太郎氏に至つてゐる。

北越雪譜の著作

  北越雪譜は、初編上中下三冊、二編春夏秋冬四冊都合七冊から成つてゐる、翁は三編以下も編述するつもりであつたことは、二編に載つてゐる京山の序文からも窺はれるが、翁は遂にその志を果さずして逝かれたのだ、雪譜の初編の上巻は天保六年の刊行で、下巻は七年九月の発兌である、発行の書肆は江戸文渓堂であつた、翁は稿本の刪作を山東京山に依頼し、挿画は翁が自筆のものを京山の子の京水が画き直したものだと云ふ、又雪譜の二編の春の巻は天保十一年に刊行し、冬の巻は天保十三年に発行した、板元は初編のときと同様である、明治の初年に多少の刪補を加へたものが東京市麻布区飯倉五丁目の山口屋書店より出版になつてゐる、本文庫に収むるものは天保の初版に拠れるものである、只巻中俗字を用ゐてあるを少しく正し、二之巻とあつたり巻之二とあつたりするのを一つに統一した、その他は全く原著の忠実なる翻刻である、尤も巻中にある句読点は皆な新たに附けたものである。
 北越雪譜の著作とその出版に就ては、大正十年七・八月に北越新報紙上に二十五回に亙り連載せられたる春城学人市島謙吉先生の随筆「京山と牧之」に詳細に出てゐるから、茲には述べる必要がない、昭和二年早稲田大学出版部から出た随筆春城六種には、この北越新報に掲げられたものが大に点刪せられて「北越雪譜の出版さるゝまで」といふ題で載つてゐる。
 此解説は畏友泉末雄氏の手記を資料として書き下したものである、同氏は老生の依頼によつて親しく牧之翁の生家を訪れ土地の博識家に示教を請ひ、就中鈴木家の現主雄太郎氏、塩沢町役場助役田村伝三郎氏、塩沢町誌編纂委員原沢米吉氏等の高説を総合し、南魚沼郡誌、北越名流遺芳等の書物を参考とせられたところが非常に多い、牧之翁の遠孫である鈴木卯三郎氏は種々の参考文献を貸与せられ、岩波書店編輯部の長谷川覚氏は本書の句点を附けるのにお骨折り下され、又参考資料をお集め下だすつた、茲に由来を記るして是等諸君士に厚く感謝の意を表はす。
昭和十年十一月二十九日夜
岡田武松
しるす





底本:「北越雪譜」ワイド版岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年12月5日第1刷発行
   2013(平成25)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「北越雪譜」岩波文庫、岩波書店
   1978(昭和53)年3月16日第22刷改訂発行
初出:北越雪譜叙「北越雪譜 初編」文渓堂
   1836(天保7)年
   北越雪譜初編「北越雪譜 初編」文渓堂
   1836(天保7)年
   北越雪譜二編叙「北越雪譜二編四巻」文溪堂
   1841(天保12)年11月
   北越雪譜二編凡例「北越雪譜二編四巻」文溪堂
   1841(天保12)年11月
   北越雪譜二編「北越雪譜二編四巻」文溪堂
   1841(天保12)年11月
   註解「北越雪譜」岩波文庫、岩波書店
   1936(昭和11)年1月10日第1刷発行
   解説「北越雪譜」岩波文庫、岩波書店
   1936(昭和11)年1月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「シテ」の合字は、仮名にあらためました。
※「鈴木牧之  編撰」と「鈴木牧之  編選」の混在は、底本通りです。
※「上騰」にかかるルビの「のぼり」と「のぼる」、「温気」にかかるルビの「あたゝかなるき」と「をんき」、「呼吸」にかかるルビの「こきふ」と「こきう」、「生育」にかかるルビの「そだつる」と「せいいく」と「そだつ」、「微温」にかかるルビの「ぬるき」と「やはらか」、「粒珠」にかかるルビの「つぶだつ」と「つぶ」、「雪花」にかかるルビの「ゆき」と「せつくわ」、「験微鏡むしめがね」と「顕微鏡むしめがね」、「六出」にかかるルビの「りくしゆつ」と「むつかど」、「活動」にかかるルビの「はたらき」と「はたらく」、「円形」にかかるルビの「まろきかたち」と「ゑんけい」、「形状」にかかるルビの「かたち」と「けいじやう」と「さま」、「念仏」にかかるルビの「ねんぶつ」と「ねぶつ」、「垂氷」にかかるルビの「つらゝ」「たるひ」、「逃入村」にかかるルビの「にごろむら」と「にごりむら」、「義存」にかかるルビの「「ぎそん」と「ぎぞん」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の「註解」では、参照元として頁数を示していますが、本テキストでは「*番号」(番号は註の何番目の項目かを示す)を載せました。
※初編の初出の発行年は底本の奥付によりますが、実際に発売されたのは翌年の1837(天保8)年秋といわれています。
入力:富田晶子
校正:雪森、きゅうり
2019年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「窗−穴かんむり」、U+56F1    11-8、223-9、233-14、252-14、253-8、266-14、290-11、290-11
「冫+亶」、U+20610    11-9
「雨かんむり/彗」、U+4A2E    12-1、163-5
「其+りっとう」、U+5258    13-3
「匈/(胃−田)」、U+80F7    33-5、45-4、45-11
「舌+蝶のつくり」、U+445C    38-11
「辟/手」、U+64D8    45-14
「虫+旦」、U+45A7    48-2
「足へん+將」、U+8E61    51-7
「火+譚のつくり」、U+71C2    56-9
「糸+駸のつくり」、U+7D85    72-7
「此/巾」、U+383F    98-12
「金+斯」、U+9401    101-14
「契+鳥」、U+2A0C8    112-5、112-6
「鳥+辟」、U+2A1CA    112-6
「魚+厥」、U+9C56    117-12、117-13、117-13、117-12
「魚+星」、U+9BF9    117-14
「魚+台」、U+9B90    117-15
「魚+米」、U+4C4A    122-12、124-8
「魚+拔のつくり」、U+9B81    126-12
「木+揆のつくり」、U+6951    126-12、126-13、126-13、130-3
「竹かんむり/隔」、U+25D29    135-10、249-2、300-3
「衙」の「吾」に代えて「共」、U+8856    163-9、246-12
「りっしんべん+夢」、U+61DC    163-12
「にんべん+與」、U+349C    164-5
「にんべん+臺」、U+5113    164-5
「女+(而/大)」、U+5A86    173-11
「櫂のつくり+鳥」、U+9E10    180-1
「臼/廾」、U+8201    182-7
「韈のつくり」の「罘−不」に代えて「冂<人」    189-6
「車+盾」、U+8F34    192-6、192-7、192-7、192-8、192-9、192-11、192-12、192-14、192-14、192-14、193-4、193-8、193-11、193-12、193-14、193-14、196-2、196-2、196-4、196-5、196-5、196-5、196-6、196-6、196-9、197-2、197-3、197-4、197-11、197-14、198-6、198-7、198-11
「木+壘」の「土」に代えて「糸」、U+6B19    192-7、199-1、199-1
「くさかんむり/絶」、U+855D    192-9
「車+盾」    U+8F34
「口+敦」、U+564B    199-4
「口+向」、U+54CD    215-10、242-4
「金+質」、U+9455    233-10
「金+奄」、U+4936    233-10
「木+備のつくり」、U+235BE    239-10
「火+覃」、U+71C2    259-8
「王+耶」、U+7458    262-7
「くさかんむり/廾」、U+26B07    262-13、263-12、263-13、263-14
「齒+巴」、U+4D95    263-1
「ころもへん+昆」、U+88E9    263-7
「雨かんむり/月」、U+2B55F    277-5
「木/喬」    302-12、303-8、305-9、305-11
「にんべん+竹のつくり」    305-13
「林/取」、U+6A37    308-11
「齒+彦」、U+9F74    309-3
「日+閑」、U+2D9F4    321-12、322-5


●図書カード