鈴木牧之翁略伝
本書の著作者鈴木
翁の著作は少くないが、天保六年に北越雪譜の初編を刊行し、天保十一年に二編を刊行した、文政年間には庚申帳と秋山紀行を著述し、文政四年には秋月庵発句集を、文政十三年には広大寺踊を、天保四年には夜職草を著述した、特に庚申帳は、庚申の宵待ちに集まつた人々の談話を記るしたもので、当時の風俗習慣等があり/\と描かれてあるのだが、今日では巻秩が逸散して、完全に保存されてゐないのは甚だ惜しい。
牧之翁は、知命の頃に、耳疾を患ひ、殆んど聾となり、螺貝を耳に当て、聴声器としてゐた、翁の戯号の螺耳はこれから来てゐる、耳の悪るいと云ふ外には老年になつて中風の気があり、天保七年の夏中風再発して、湯治なぞ種々治療につとめられたが、遂に天保十三年五月十五日に病の為めに、永眠された、享年七十三である、郷里の長恩寺に葬られてゐる、法号は金誉志剛性温居士と云ふ、本書の口絵は、井口喜夫氏作の翁の木像の写真である、この木像は現に長恩寺に安置してある、翁の後は勘右衛門、文太郎、常平の三氏を経て現戸主雄太郎氏に至つてゐる。
北越雪譜の著作
北越雪譜は、初編上中下三冊、二編春夏秋冬四冊都合七冊から成つてゐる、翁は三編以下も編述するつもりであつたことは、二編に載つてゐる京山の序文からも窺はれるが、翁は遂にその志を果さずして逝かれたのだ、雪譜の初編の上巻は天保六年の刊行で、下巻は七年九月の発兌である、発行の書肆は江戸文渓堂であつた、翁は稿本の刪作を山東京山に依頼し、挿画は翁が自筆のものを京山の子の京水が画き直したものだと云ふ、又雪譜の二編の春の巻は天保十一年に刊行し、冬の巻は天保十三年に発行した、板元は初編のときと同様である、明治の初年に多少の刪補を加へたものが東京市麻布区飯倉五丁目の山口屋書店より出版になつてゐる、本文庫に収むるものは天保の初版に拠れるものである、只巻中俗字を用ゐてあるを少しく正し、二之巻とあつたり巻之二とあつたりするのを一つに統一した、その他は全く原著の忠実なる翻刻である、尤も巻中にある句読点は皆な新たに附けたものである。此解説は畏友泉末雄氏の手記を資料として書き下したものである、同氏は老生の依頼によつて親しく牧之翁の生家を訪れ土地の博識家に示教を請ひ、就中鈴木家の現主雄太郎氏、塩沢町役場助役田村伝三郎氏、塩沢町誌編纂委員原沢米吉氏等の高説を総合し、南魚沼郡誌、北越名流遺芳等の書物を参考とせられたところが非常に多い、牧之翁の遠孫である鈴木卯三郎氏は種々の参考文献を貸与せられ、岩波書店編輯部の長谷川覚氏は本書の句点を附けるのにお骨折り下され、又参考資料をお集め下だすつた、茲に由来を記るして是等諸君士に厚く感謝の意を表はす。
昭和十年十一月二十九日夜
岡田武松
しるす