『広辞苑』後記

新村出




 昭和十年の初頭以来、粒々の辛苦を積んで完成を急ぎつつあった『改訂辞苑』の原稿も組版も、二十年四月二十九日の戦火に跡形もなく焼け失せ、茫然たる編者の手許にはただ一束の校正刷のみが残された。しかも戦火に続く敗戦と戦後の混乱とは、如何に辞典に妄執を抱く編者を以てしても、直ちに復興を企図し得べき底のものではなかった。焦土の余熱は、容易に冷ゆべくもなかったのである。
 然るに倖なる哉、同年十二月、当時元気に活躍せられつつあった岩波書店主故岩波茂雄氏と編者との間に、早くも『辞苑』の改訂に関する協定成り、一陽来復、編者として欣快のこれに過ぐるものはなかった。
 他面、当時の国内情勢は、恐らく開闢以来最悪の事態におかれて居た。餓※(「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90)路に横り、怨嗟の声巷に満つるを見聞しては、辞典改修のごとき迂遠なる事業の、未だその時機に非ざるを観念せざるを得なかった。更に翌二十一年四月、岩波茂雄氏の突如たる訃音に接しては、出版界の先覚を喪弔するの悲しみと共に、本事業の前途も亦多難なるべきを秘かに憂慮したのである。
 併し、越えて二十三年季春、先考の志を襲いで岩波書店を継承せられた岩波雄二郎氏を始め幹部の各位は、文化の再建途上における辞典の重要な役割を認識して『辞苑』改修の促進方針を決定せられ、編者はこれに基き、同年九月十三日、書店内の一室を借りて新編集部を開設し、茲に事業の再発足を見得るに至ったのである。
 ただその当初にあっては、危く烏有をまぬかれた校正刷を唯一のたよりとしてのことではあっても、ともかくも校正刷がある以上、改修の事業は比較的簡単に進め得るものと我も人も思考したが、その予想は実は甚だ甘かった。戦塵の鎮まりゆくにつれて、日本は一大転換を開始して居たのである。即ち昨日まで国を動かす大きな原動力であった陸海軍は廃止され、日本国憲法は公布せられた。この憲法の改正を軸として、法律は勿論、文物制度のあらゆるものがめまぐるしく改廃され、創建されて行った。民主化への巨大な歩みは、古いもの一切の存続を拒むごとき世相を展開した。この事は辞典編纂の上に細大となく影響する。甞ての重要項目は今は多く削除すべきものとなり、或は評価が急変して増補または縮小を余儀なくされた。存続すべき項目に対しても、その見方が著しく違ってきた。加之、新たに採るべき項目は日に月に続出し、応接に暇なからしめると共に、忽ち現れ忽ち消え去る社会百般の事象が編集部を困惑せしめたのも、混乱期の自然なる姿であった。兵を廃した国に警察予備隊ができ、これが忽ちにして保安隊と変り、三転して自衛隊となる。編集部はその都度、前稿を捨てて新稿を草するのである。この辞典が単純な国語辞典ではなく、百科の語彙、固有名詞をも収録してあまさぬものであるだけに、かかる現象から被むる編纂上の困難は、当初の予想を裏切ってこれを数倍化した。
 困難はそれのみには止まらなかった。新事項は遠慮なく発生するが、これを正確に解説するに資料とすべきものは、これに伴っては出て来ない。否、編集部開設の当初には、新項目採集に使用する新聞などの入手すらできなかった。紙がない、鉛がない――資材の欠乏が新資料の出現を固く阻んで居たのである。今ならば年鑑を繰れば容易に知り得ることも、重い兵隊靴をはいた部員が、役所や新聞社を訪ねて聞いて回った。信憑すべき戦後の資料がぽつぽつ出て来たのは二十六、七年頃からである。
 かかる状況の中にあっては、当初二、三年でと予想されたこの改修事業も、恰もこの国の河川改修工事のごとく四年と延び五年と後れざるを得なかった。小規模の改修のつもりで始めたこの仕事は、日本そのものの大革新を偽らずに反映するためには、全面的な大改修に突入せねばならなかった。
 斯様に改修の規模は拡大され、収載語彙は二十万を超えるに至り、時日は遷延しつつも、二十八年三月に至り、六年に及んだ業を終り、爾後の推移転変には組版の過程において対応する方針の下に、尨大なる原稿の集積を書店側の手に委ねたのである。
 ともあれ、「やっと出来た」安心と満足の中に今年元朝八十の春光に浴することを得た。この辞典が昭代の文化遺産として後世に伝存するに足るべきか否かは、大方の批判を仰ぎ、時の篩に俟つ外はないが、少くとも現在最も新しく、当用を弁ずるに甚だ好適な辞書たらしめ得たことの自負を持つ。併し、この功たるや、自己一身に帰すべきでないのはもとよりである。この編纂事業に協力を惜しまれなかった数十百氏もしくはそれ以上の方々の心血の凝り固まってこの辞典をなしたものと、編者は回想し且感謝する。今、序文中に誌して謝意を表明した方々以外、編集に執筆に製作に、老来諸事にものうい編者を扶けてこの難事業を達成せしめられた方々の芳名を掲げながら、日頃抱懐する四恩感謝の念をも新たにしたいのである。
 昭和二十三年九月十三日に開設した編集部は、主任を市村宏氏に依嘱し、部員に関宦市・猪場毅・横地章子・長谷川八重子・藤井譲・佐藤鏡子・木村美和子諸氏の参加があり、協力一致、直接に編者を扶けて如上の難関に当面し、本辞典のためその全力を傾倒された。また大野晋氏は特に国語部門の校閲と語法に関する事項の改新とに、終始繁忙の時を割いて協力を惜しまれなかったし、松山貞夫氏は法律部門、稲沼瑞穂氏は理科部門において編集部を指導された。
 昭和二十八年三月、前後六カ年にわたり、改修と称するよりもむしろ新修の業を了って編集部を解いたのちは、仕事は製作の過程に入り、岩波書店編集部における担当各位の、有形無形、真に昼夜を分たぬ努力によって業務は進行せられたのであるが、一々芳名の列挙を省くの失儀をお宥しありたい。尚、前記の市村・佐藤両氏にも引続いてこの仕上げ過程に参加を煩した。
 二十八年六月、大日本印刷株式会社市ヶ谷工場にトラックで搬入された累々たる苦心の原稿が、やがて校正刷になって返って来る。それを校正して四校五校に及ぶのであるが、その間にも新事項は次々と発生し、新学説も現出する。最後のみがきもかけねばならない。このためには書店の方々の並々ならぬ尽瘁は勿論、また外部から来援せられた市古貞次・板坂元・同美智子等諸氏の熱心な協力があった。かくして三年にわたる製作期間中に生ずべきずれを除き、誤謬を人力の及ぶ限りにおいて少なからしめようとの編者及び書店の意図は、ほぼ全きを得たと信ぜられる。これらの方々の努力に対し、編者は衷心の謝意を表するものである。
 尚、本辞典は前後二回にわたる改修において、それぞれの専門項目につき、当代一流の学者、新進の学人に執筆・修訂を委ねて居り、ために本辞典の内容につき自信を深め、権威を高め得たること幾許なるかを知らないが、今その主なる方々の芳名を記せば、会津晃・青山秀夫・浅山哲二・有賀鉄太郎・粟田賢三・飯島篤信・池上禎造・今西錦司・大築邦雄・岡山泰四・小野和・河鰭実英・岸春雄・木下法也・小島六郎・小林恵之助・小林行雄・駒井卓・斎藤秋男・阪倉篤義・坂田昌一・佐藤芳彦・鎮目和夫・島村福太郎・新村猛・末永雅雄・高木公明・高木貞二・千野光茂・塚本洋太郎・暉峻衆三・徳田御稔・朝永振一郎・長尾雅人・仲新・中村誠太郎・中村幸彦・南条正明・橋浦泰雄・林雄次郎・原光雄・土方克法・日高敏隆・平野宣紀・福田正・古川久・堀喜望・本城市次郎・牧野亥之助・真下信一・松山貞夫・三ヶ尻浩・宮地伝三郎・都留重人・都城秋穂・宮原誠一・森鹿三・森龍吉・大和一夫・山内太郎・湯浅明・湯川秀樹・依田新等の諸家である。また本辞典に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)絵の筆を執られた牧野四子吉・佐藤義郎の両氏、及び煩雑極まりない本辞典の組版・製版・印刷に従事せられ、書店側とよく協調を保ちつつ、我印刷術が到達し得たる最高の技術と能力とを惜しみなく発揮せられた大日本印刷株式会社の関係各位に感謝し、更に個人的にではあったが、この事業の前後を通じてなにくれとなく編者の相談相手となり、不断の友情を表せられた岡茂雄氏に本辞典の成るを告げて、その喜びを頒ちたい。
 更に、我洋画壇の巨擘安井曽太郎画伯が親しく装幀の労を執られ、巧みに『広辞苑』の書格を表現せられたことに対し、編者として深い感銘を禁じ難い。
 思うてここに至れば、四恩の広大にして無辺際なる、早春の陽光と共に老身を包むの感を覚えるのである。(昭和三十年三月)
(昭和三十年五月初版『広辞苑』)





底本:「新村出全集第九巻」筑摩書房
   1972(昭和47)年11月30日発行
初出:「広辞苑」岩波書店
   1955(昭和30)年5月25日第1版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は、「後記」に辞書名を補い、底本編集時に与えられたものです。
入力:フクポー
校正:富田晶子
2018年7月27日作成
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