キセルの語源

新村出




 キセルがカンボヂヤ語だと云ふことを知つたのはつひ近頃のことであつた。
 私は今年新年號の本誌に「煙管」と題してその語源考をあげて某氏から傳聞した小亞細亞の一都邑エスキシエルから出たとは考へられないかといふ一案を提示しておいた。エスキシエル市は陶製パイプの名産地としてきこえてゐるのである。又獨逸製に一種の櫻の小枝で出來たパイプがあつてそれをヴアイクセルロール略してヴアイクセルともいふから、それをキセルといふ名に擬したこともあつた。土耳古語や獨逸語では縁が遠し、また陶製や木製としては證據が足らぬし、とても歴史的考證の域には入らぬと觀念しながらも、そのころは未だ適當な語源説を見出し得なかつたから、姑くかゝる臆説をあげておいたのである。
 元來キセルの語は林道春の羅山文集卷五十六に佗波古希施婁皆番語也無義釋矣とある以來、多く學者はこれを外國語とみとめてゐるが、どこの國の語かを指摘しなかつた。元祿における平野千里の本朝食鑑卷四、寶永における向井元端の煙草考の如き、さうである。同時代の槇島昭武の合類大節用集卷七にしても、寺島良安の和漢三才圖會卷九十九にしても、蠻語と註してあるのはかはらない。大槻玄澤の※(「くさかんむり/焉」、第4水準2-86-73)録には、「名づけて幾泄爾といへるは皆此方の言にあらず、又諸書を校ふるに、漢にても和蘭にても波爾杜瓦爾にても、その他の西洋諸國語にてもあらず、然り而してその音頗る番語に近し、因つて竊かに此物を考ふるに、その舶來の初め、吾が土の人、誤つて番商の他物を呼ぶを聞いて、認めて此物と爲せるか、是亦未だ知るべからざるなり」とある。
 ひとり※(「くさかんむり/焉」、第4水準2-86-73)録の後編ともいふべき目ざまし草にはキセルの語原を日本語で説明しようと試みた。慶長時代に行はれた長鐵煙管は往々人を打つに用ゐられた※[#こと、54-2段-14]があり、長崎詞にて人を打つことをキセルといふによつて、その鐵煙管をキセルと名づけるやうになつたのだといふ一説を擧げ、但しこれも亦的證とはなしがたしと云つてゐる。めざまし草の編者は更に註してラウ竹に眞鍮の類をキセてつくれるゆえキセラウといひしがキセルと呼べることになりしなるべしといふ京傳の考を引いて、關東方言に、カケル、オハセルの義あるキセルといふ動詞をもつて來た。この京傳の説はサトウ氏が一八七七年すなはち明治十年に發表した煙草傳來考(日本亞細亞協會報告第六卷)に採用したことがあつた。
 明治になつてから、大槻文彦氏が十七年に學藝志林第十四號に出した外來語源考には、キセル(煙草)斯班牙語なりといふ、未だ原字を探り得ずとなし、後言海にもこれを襲踏して、西班牙語、管の義なりと云ふと註した。國史大辭典には蓋し葡萄牙語なりと推定し、日本百科大辭典には、外來語なれど其傳系未だ詳かならず、或は云ふイスパニヤ語にして管の義なりと、或は云ふオランダ語の轉訛ならんと惑うてゐる。大日本國語辭典には、外來語なれど不詳と正直に逃げた。明治以來の諸説も要するに徳川時代の舊説を出でなかつたのである。村上直次郎氏の「往時の西洋交通が國語に及ぼしたる影響」と題する外來語彙(明治三十六年)にはキセルの語は出てゐないが、その後諸家の合著で出版された日本外來語辭典にも省かれた。前田太郎氏の外來語の研究のうちにもこの語は問題とされなかつた。長崎の古賀十二郎氏も長崎市史の方言集覽でこの語に觸れなかつた。
 然るに本年七月號の反響といふ雜誌第一卷第四號に於て渡邊條二郎翁は「サトウ氏と日本文化との關係」と題して、サトウ修氏の業績を推賞し、その舊稿煙草日本傳來考證に及び、この一篇刊行以後數年の後の事であつたが、一日サトウ氏から渡邊氏への話に、同篇起草の頃は、キセルの語源について疑があつたが、その後マレー半島を旅行した時その語は柬埔寨語から出たことを知つたと語られた※[#こと、55-2段-6]がある由を報告された。そしてその語源説は、渡邊氏は既に今より二十年前明治三十年出版の自著外交通商史話のうちに擧げておかれたといふことを、私に注意してくれられた。
 私は早速、外交通商史談を一閲して、その通商事項と題する一章のうちに煙草の傳來を略説し、そこに左の一條があつたのを見た。
キセルは柬埔寨カンボヂヤ語のクセルより出づ、管の義なり、キセルに用ゆる竹管をラウと云ふ、同地に近き羅宇より此竹を産するに因りて亦地名を假用せるものなり
私は直に佛蘭西語對譯の柬埔寨辭書を見た。カンボチヤの舊教宣教師ベルナール師の編纂で一九〇二年香港で出版されたものである。それには KHSIER と標して Pipe と譯してある。カンボチヤ語のクシエルがピイプ(パイプ)それがキセルとなつたのは國語自然の轉化である。こゝに於てサトウ氏の考説の誤らぬのを明かにして、私は渡邊翁の注意に對して謝意を表する。
 翁も既に一言した如く、カンボチヤ國とラオ國とは土地が南北相近接してをる。北方のラオ國の土産の斑竹のことは、日本に於ては寛永時代より知られてゐるといふが、私は未だ確證をみない。種彦の足薪翁卷三に寛永十五年撰の毛吹草にラウ竹とあればラウ竹といひしがさきか云々とあるが、私は同書卷四に豐後の國産を擧げて姥嵩うばがたけ[#ルビの「うばがたけ」は底本では「うばが け」]のキセル竹の下に虎符有之と註したのを見ただけである。ラウ竹といふ文字はみかけない。或は私の見おとしであるかもしれない。尤も羅宇の國といふ名は寛永十九年六月二十九日附、爪哇駐在の阿蘭陀ゼネラル某よりの來状の譯文に見え、その地の名産麝香を獻上したといふことがある。元祿八年の華夷通商考下卷に、ラーウの土産に斑竹色々黒き文ある竹なり、則是をラーウ竹と云、キセルのラーウ此より名るとと[#「名るとと」はママ]出てゐる。寛永の増補本卷四もほゞ同じで、卷一江西の土産、卷二雲南の土産、卷三進羅の土産のうちにも散見する。同じ西川如見の四十二國人物圖説上卷羅烏ラウの條下にもある。益軒の大和本草の附録卷一にもラウ竹のことがあり、天野信景の鹽尻卷十一にも喜世留蠻語也として羅宇のことが記してある。共に寶永年間の記である。
 安南語ではキセルをレウといふと、明和二年の奧州漂民の聞いた安南語彙中にみえる。寛政の南漂記卷二にも同じ語が載つてゐる。天明七年蘭船便乘の安南人の語には煙筒をヲレウとしてある。近藤正齋の安南紀略稿卷一や大槻盤水の※(「くさかんむり/焉」、第4水準2-86-73)録などにもそれを引いた。サトウ氏の舊考にはこのレウから日本語のラウが出たやうに書いてあるが、實は安南語のレウも日本語のラウも共に安南やカンボチヤに接壤してゐるラオ國の國名から來たものとすべきである。南瓜の一種をカボチヤといふのと同じである。
 話が前後するが、元祿三年の人倫訓蒙圖解卷五の細工人には幾世留張きせるはりのほかに無節らう竹師が出てゐる。※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準 2-13-28)畫をも加へてある。さればラムといふ語は元祿以前にさかのぼり寛永までは優にこぎつけることは出來るとおもふ。從つて、慶長、寛永頃の日本とカンボヂヤとの通商關係を知れば、キセルがカンボヂヤ語であることは、ラウの語の由來と思ひあはせていよいよ首肯かれるのである。
 かくの如く印度支那諸國の言語が印度や南洋の言語と共に、ポルトガルや、オランダの言語の外裝の有無にかゝはらず直接間接に日本に輸入されたことは見のがしてはならない。サラサといふ語の外に、シヤムロ染といふ語があるが、印華布の染法が暹羅からも日本に入つた事實があるが如く、葡萄牙船によつて傳來した煙草を吸ふ道具たる煙管がその材料のラオ竹と共にカンボヂヤから輸入され、從つてその名稱もカンボヂヤの名前を取つたといふ事實は、日南貿易史の一面を反映して甚だ興味が深いのである。





底本:「文藝春秋 第四年 第十號」文藝春秋社
   1926(大正15)年10月1日発行
初出:「文藝春秋 第四年 第十號」文藝春秋社
   1926(大正15)年10月1日発行
※「カンボヂヤ」と「カンボチヤ」、「こと」と「[#こと、54-2段-14]」と「[#こと、55-2段-6]」、「外交通商史談」と「外交通商史話」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:The Creative CAT
2021年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

こと    54-2段-14、55-2段-6、54-2段-14、55-2段-6


●図書カード