毎日自分が確実に無能に近づいているという意識――それは隼人にとって屈辱に近い耐え難い恐怖に他ならなかった。
推定脳細胞総数 149億3910万個
常軌を逸した、けたたましい音で隼人はベッドから飛び起き、悪夢の緊迫がなお執拗に持続しているのをいぶかりながら頭が割れそうなのをこらえ、部屋中到る所に隠された十個の目覚し時計を一つずつ見出してはベルを消していった。机の下に二個、テレビの後ろに三個、
こいつはひどい。狂っているとしか言いようがない。隼人は思わず舌打ちした。むろん十個の目覚し時計が九時に一斉に鳴り出すように仕掛けたのは自分自身だが、隼人はまるで他人を恨むように昨晩の自分を恨んだ。昨日


冷蔵庫から昨夜コンビニエンスストアで買ったサンドイッチを出してオーブンに入れ、ホットサンドが出来上がるまでの間シャワーを浴びた。ホットサンドが出来上がると下の方が少し焦げついていたのでナイフでそぎ落とし、ムシャムシャ立ち食いしながらテレビをつけてみる。窓からの日ざしがテレビの画面に反射してよく見えず、空チャンネルだったことに気づくのに時間がかかった。
隼人はチャンネルを無作為にいろいろ回してみた。ヒロイン役の女性が恋人役の男性と雨の降りしきる夜の街の中を一つの傘の下で身を寄り添うようにして歩いている再放送のメロドラマ……何かのコマーシャルなのだろう、筋骨隆々とした半裸の男がプールに飛び込んで水しぶきを上げる……ライフルを持った男が銀行に押し入り、現金百万円を奪って逃走したニュース……英会話の番組では金髪の女性が流暢な日本語で語りかける。「今日はレッスン
ホットサンドを食べ終えるとテレビのスイッチを切り、急いで歯みがきを済ませてアパートを出た。今日はどうもグリーンとの交感がありそうな気がする。隼人はふとそう思った。バイオリズムからするとオーラの放出度は決して芳しくないが、それにもかかわらずグリーンが今日自分と交感することに対して隼人はほとんど確信に近い気持ちを抱いていた。グリーンは果して俺が




四谷から丸ノ内線に乗り、車内に貼られた広告のコピーを読みながら時間を潰し新宿三丁目で降りる。腕時計を気にしながら開店直前の紀伊国屋の前を小走りに通り過ぎ、赤信号の横断歩道を渡ってほとんど十時ちょうどにスタジオアルタ前に到着した。
「遅れてごめんなさい」陽子は微笑しながら言った。「だいぶ待った?」
すると突然隼人は脳細胞を掻き回されるような名状し難い錯乱に苛まれ、低くうなりながら頭を両手で抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」陽子が驚いて隼人の肩をゆすると隼人はゆっくりと立ち上がり、
「いや、すまない」隼人は言った。「いきなり話しかけられたんで、ちょっと戸惑っただけさ。俺はここ二週間誰とも口きいてないんだよ。だから半分会話のやり方を忘れかけていたんだ。でも大丈夫。他人と会話してなくても頭の中で自分自身とよく話してるんだ。だからすぐ思い出すさ」
「変な人」
「別に変じゃないさ」
「変じゃないと思ってるのはあなただけよ」
二人は新宿通りを渡って〈アメリカンハウス〉に入った。
「毎日何して過ごしてるの」陽子が尋ねた。「例によって一日中部屋の中を行ったり来たりしながら何もしないで時間を潰してるんじゃないでしょうね」
「何もしてないわけじゃないさ」隼人が言った。「極めて生産的なことをしてるぜ。つまり、考えてるんだ」
ウエイターがシンビーノパッションフロートとアメリカンファンタジーを運んで来た。店内にはマイケル・ジャクソンの『バッド』が流れ、客は疎らだった。
「あたしたちのサイバネティック・スキゾイドがオーディションに合格したの知ってる?」
「うん。かなり前に聞いた」
「明日アルバムのレコーディングなの」
ちょうどそのとき十数名の女子高生が入って来て店の中央のテーブルを陣取り、全員レディスコンボを注文した。その隣のテーブルではアベックがおそろいでポパイスパゲッティーを食べている。
「話っていうのはそのことだったのかい?」
「え?」
「何か話があるから俺を呼んだんだろう。違うかい?」
「えっ、ええ……まあそうだけど……」陽子の顔からふと微笑が消え、視線を隼人の顔からテーブルにゆっくり落とした。
「どうしたんだい」隼人は陽子の肩を叩いた。「急に浮かない顔をするなんて」
「何でもないわ」陽子は再び頬に笑みを戻したが、隼人はそれが無理して作った表情であることをすぐ見破った。
「ところで“同時代”の芝居はどうなってるの」
「来週から
「ずい分ゆっくりねえ。今から練習始めればいいのに」
「そうはいかないさ。他の劇団がアトリエを使ってるんだ」
「台本はもう書き上げたの」
「ああ、とっくに佐川に渡してあるよ。ただ俺が書いた台本がそのまま上演されるんじゃなくて、佐川がいろいろ書き直してから使われるんだ。まだ最終的な台本は完成していないんじゃないかなあ」
「浩ちゃんの台本っていつもぎりぎりまで書き上がらないでしょう。彼ってルーズな性格なのよ」陽子はリベラに火を点けた。「ところでどんなストーリーなの」
「こういう話なんだ。ある少年が新潟から佐渡行きのジェットホイルに乗り、嵐になって船は難破するが見知らぬ無人島にたどり着いて一命をとりとめる。そこで少年はロビンソン・クルーソーのように自給自足で逞しく生きるんだ」
「ふうん」
隼人はおもむろにパーラメントをくゆらした。音楽がマイケル・ジャクソンの『バッド』からデュラン・デュランの『ノトーリアス』に変わる。
隼人は軽く吐息を漏らした。長い間心の中で誰にも話すことなくひそかに育んできた自分一人だけが信者の孤独な宗教。その萌芽の兆しはグリーンと最初に交感した少年時代にまで遠く遡る、およそ常識や科学とはかけ離れた迷信にも似た宇宙観。何度となくこれはとんでもない妄想の大系なのだ、パラノイア患者の悪夢の集積なのだと決めつけながら、その度に心の隅ではどうしても棄去できずに温めてきた秘密の思想。いや、今でも隼人はこの思想を単なる馬鹿気た錯誤に過ぎないと考えることがしばしばある。そればかりか今この瞬間でさえ心のもう一方の部分では冷徹な懐疑に陥っているかもしれず、そもそも今まで誰にもこの思想を打ち明けなかったのは、やはり自分の思想が一切でたらめで、自分が結局は妄想に陥っているだけであることが証明されるのを恐れていたためだった。だが今やこの思想は隼人の精神の中核にどっしり根を下ろし、養分を吸いながら着々と幹を肥え太らせ、常に懐疑に苛まれながらも伸び放題の枝には旺盛な葉がもはや刈り取り不可能なほどはびこっている。それを今はじめて他人に明らかにするときがきたのだ。彼女は果してどんな顔をするだろうか。俺を狂っていると判断するだろうか。それとも……。いや、ここは勇気を出して告白するべきだと隼人は思った。遂に自分はグリーンと戦うための同志を得ることができるかもしれない。自分一人だけが信者だった宗教に、今新しい仲間が洗礼を受けようと自分の前に坐ってジュースを飲んでいるのかもしれない。
「実は俺も君に話さなきゃならないことがあるんだ」隼人は言った。「前から話そうと思ってたんだけど、つい機会がなくてね」
「どういう話なの?」
「君は人間の体に生えた


「何のこと?」
「見たことないかなあ。いつでも見えるものじゃないんだ。オーラが大量に自分の体から発散している日に注意して目を凝らすとかすかに見えるんだよ。オーラってのは生物の体から発散される目に見えない光のことさ。そして発散の量はバイオリズムに従って変化していくんだ」
「何だかちっとも分らないわ」
「いや、君だって見えるはずだよ。君はまだ十九だろ。だったら多分見えると思うよ。いいかい、子供の頃は誰の体にも












「あなたにはその


「今のところ多分生えていないはずだよ」隼人は心持ち身を乗り出した。「以前俺の体に






「強く念じれば


「そうなんだ。つまり俺は


しゃべるという行為自身に弾みがつき自然に雄弁になりながらも陽子の顔色を恐る恐るうかがうとすっかりあきれたという表情だった。隼人は話すのをやめた。二人の間に気まずい沈黙が二、三分ほど続いたが、隼人には三十分以上会話が途切れたように思えた。
「今のはジョークなの。ジョークにしてはちっとも面白くないわ。手の込んだジョークだってことは認めるけど……」
「そんなんじゃないさ。これは本当の話なんだ」
「何ですって」陽子は頓狂な声を上げた。「あなたあまりそんな話をみんなにしない方がいいわよ。いろいろ誤解されるわ」陽子はふと席を立った。「実はねえ、今日あなたを呼んだのは、あたしたちもうこういう感じのつき合い方をやめた方がいいんじゃないかってことを言うためだったの」
「どういうことだ」隼人も立ち上がった。「俺と別れたいっていう意味か?」
「そうじゃないわ。ただこういう風なつき合い方はやめにして、お友達としてつき合いたいのよ。いろいろ考えたんだけどお互いその方がいいと思うの。あなたにとってもきっとその方がいいんだわ」
「つまり、別れたいってことだろう?」
陽子はそれには答えず「ここはあたしが払っておくわ」と言ってレシートを持って一人でレジへ行き、勘定を済ませると一度も隼人の方を振り返らずに店を出た。隼人はしばらくの間茫然とその場に立ちつくしていたが、すぐに気を取り直すと駆け足で後を追った。
南口に向かって歩いて行く陽子の後ろ姿がまだかなり近くに見出せた。隼人は彼女が短気なのを思い出し、もう少し順序立てて




隼人は去勢されたように陽子を追い続ける気力をなくし、方向を変えて新宿通りへ力なく歩き出した。忌わしいことに耳鳴りは更に強度を増し、直射日光は刺すように肌を焦がす。平日だけに人通りは疎らだった。マイクロバスを改良した右翼の自動車が軍歌のテープをボリュームいっぱいに流しながら隼人の前を通り過ぎる。ドップラー効果のためテープの音程が上がったり下がったりして、まるで音痴が歌っているような滑稽で耳障りな音楽だ。持続的な目眩と耳鳴りが隼人を苛み、額に手をあててみると微熱のようだったがあるいは強烈な日ざしのためそう感じただけなのかもしれなかった。隼人は歩いて帰ろうかとも考えたが意気消沈していたのであまり体を動かす気力もなく、紀伊国屋の階段を降りて地下鉄に乗り、軽い頭痛を自覚しながら体調が不振なのは風邪でもこじらせたのだろうかといぶかった。
アパートに戻ると目眩と耳鳴りはますます悪化し、ベッドに横になる以外何もできなかった。毛布を頭からかぶり悪寒に耐えるため身を縮こませる。つばを飲み込むと喉が焼けるように痛む。やがて耳鳴りは形の定まった奇妙な声として脳細胞を刺激し、夢とも現実ともつかない漠然とした意識の彼方へ隼人を追い込んでいく。オマエガ何ヲ企ンデモ無駄ナコトダ。私ハオマエニ関スルコトハ何デモ知ッテイル。半年ぶりにグリーンと交感したのを隼人は自覚した。耳鳴りは意識を集中させることができないほど激しく、受信状態の悪いテレビのノイズに似た金属音が脳細胞に浸み込んでくる。この前交感したときもやはりこういう強い耳鳴りがした。オマエガ小竹向原ノ空家デ着々ト進メテイル計画ヲ私ハスベテ知リツクシテイル。隼人は頭を抱えながらこれは幻聴なのだと何度も自分に言いきかせた。部屋の中の事物が自分を軸に動き出し、やがて狂おしいスピードで回転する。コレハ幻聴ナンカデハナイ。コレハ私自身ノ声ダ。私ハ存在スル。私ガ存在スルコトヲオマエハ本当ハ知ッテイル。嘘だ、と隼人は心の中で叫んだ。おまえは存在していない。お前は俺の心が作り出した幻覚に過ぎないんだ。私ハ幻覚デハナイ。私ハ存在スル。私ハオマエヲ呪イ続ケル。オマエガヤロウトスルアラユルコトヲ私ハ妨害スル。ソシテ最後ハオマエノ体ニモ


気がつくと毛布を体にまいたままベッドの下に転げ落ちていた。落ちるときに激しく体を打ったせいか立ち上がって腰のところに手をやると火傷のようにヒリヒリした。耳鳴りは治まったがまだ茫然としていて歩くと少し目眩がした。風邪薬を戸棚から取り出して飲んだ。体温計で熱を計ってみると三十七℃をわずかに超えていた。窓から差し込む狂ったような真昼の強い日ざしは理由もなく隼人をいら立たせ、何に対しても精神を集中させることができなかった。つばを飲み込んでみると相変わらず喉に激痛が走り、そのことがやけに不愉快だった。隼人はそうすることが喉の痛みを和らげるのだと無意識のうちに思いながら何度も何度もつばを飲み込んだが一向に良くなる気配はない。やがて風邪薬の中に入っていた眠くなる成分が回ってきたのか強烈な睡魔に襲われベッドに体を投げ出した。一眠りしたらコンビニエンスストアへ牛乳を買いに行こうと隼人は思った。
劇団“同時代”のコンパは結局四次会まで開かれたが、仲間たちの無言の協力も手伝ってか最後まで残ったのは浩と勝美の二人だけで、文化放送の側の〈マリエ〉に入ると浩は気のきいたジョークで何度も勝美を笑わせながらブルーベリージャム入りのロシアンティーをおごり、すっかり気分を良くさせてから終電ぎりぎりの丸ノ内線に乗って中野新橋の自分の下宿に誘った。
改札口を出て狭い商店街を通り抜け、路地を少し入ったところに浩の下宿はあった。浩は勝美の手を引きながら家主の老婆に見つからないよう裏口の階段からこっそり二階へ上がった。自分の部屋の戸を開けると万年床の周囲に紙屑が散らかっているという雑然たる光景がいきなり浩の目に飛び込み、部屋を掃除しておかなかったことが少々悔やまれたが幸い勝美は少しも嫌な顔をしなかったので安心した。
「そう言えば、勝美たちのバンドが明日レコーディングなんだって?」浩は慌てて万年床をまるめ込んで押入に突っ込んだ。
「そうなの。いよいよ念願のプロデビューよ」
「何ていう名前だっけ? 確かサイケリディック何とかって言うんだよなあ」
「サイケリディックじゃなくて、サイバネティックよ」勝美はそう言って床の上に腰を降ろした。「サイバネティック・スキゾイド」
「そうだそうだ。やっと思い出したぞ。サイバネティック・スキゾイドだな。でも一体それってどういう意味なんだい?」
「よくは分らないわ。陽子が勝手にバンドの名前を決めたんですもの。何でもサイバネティックっていうのは、人間と機械のコミュニケーションのような意味らしいの。ほら、SFなんかでサイボーグっていうのがあるでしょう。あれはサイバネティック・オルガニズムの略語なのよ」
「そうか。僕はまたコンピュータとか自動制御に関係した意味かと思ったよ。サイバネティック工学っていう学問あるだろう。それとは違うのかい?」
「さあ、よく分らないわ。じゃあねえ、スキゾイドっていうのはどういう意味か知ってる?」
「精神分裂症だろ? 違ったかな。分裂症じゃなくて、分裂気質のことだっけ? まあそのどっちかだろうなあ」
「ふうん。浩って意外と物知りなのね」勝美は言った。「台本書く人って、馬鹿じゃ務まらないわよねえ」
「なんだ、それじゃあ今まで僕が馬鹿だと思われてたみたいじゃないか」
「そうじゃないけどさあ」勝美はいたずらっぽく笑いながら言った。「アングラ芝居やる人って、やっぱりどこか変人じゃないとやってけないのよね」
「君だって一応“同時代″に所属してるんだぜ」
「でもあたしは幽霊部員よ」
「そのかわりロックやってんじゃないか。ロッカーには変人が多いんだぜ」
浩は思いついたように立ち上がり、ガスコンロで湯を沸かしてミルクココアを作り、こぼさないよう注意しながら二つのコップを勝美の方まで運んだ。勝美は鞄から文庫本を取り出すと興味の失せた虚ろな目でページを繰った。
「何の本を読んでるんだい」
「スタンダールの『パルムの僧院』よ。般教のレポートで読まされてるの」
「そいつは大変だなあ」浩はコップの一つを勝美に手渡した。「その本って、案外長いんだなあ」
「そうなの」勝美はそう言ってココアを一口飲んだ。「でもねえ、この小説読んでると何だか昔の人がうらやましくなるわ」
「どうしてだい」
「だって、この世で一番すてきだと思う人と恋ができるんですもの」
「それは嘘さ。昔の人だって、みんながみんなうまくいったわけじゃないはずだよ。結局、この世で一番すてきだと思う相手と結ばれなかった方が多いんじゃないかな」
「それはそうでしょうけど……。でもねえ、今の世の中だったら、誰もこんな情熱的な恋愛はできないわ」
勝美は何気なくテレビのスイッチを入れた。女性アナウンサーの過剰なまでに溌刺とした笑顔が画面いっぱいに広がるのを見て、浩は本当の人間の表情がこれほどまでに輝きを帯びることがあるのだろうかといぶかった。まるでイミテーションのガラス細工が本物のダイヤモンドより美しく見えてしまうことがあるように、どこか芝居じみているが現実の笑顔より血の通った生気に満ちている。女性アナウンサーの容貌の美しさも大量コピーされた活字や自動販売機で売られる缶ジュースの人工的に作られたスマートな無個性が漂っているように思え、どこか味気なかった。東北の農村で昔ながらの生活を営む老人夫婦を取材したニュースらしいが、「囲炉裏には我々のストーブにはない独特の味わいがあるようです」とか「都会とは違い、田舎には親切な人が多いようです」とかいった型にはまったありきたりで聞き飽きた表現が女性アナウンサーの口から連発される度に、浩は嘔吐に近い嫌悪感を覚えた。確かに「囲炉裏には我々のストーブにはない独特の味わいがある」のかもしれないが、しかしそんなことを今さら繰り返したところでどうだと言うのか。既に放送される前からどこかで一度聞いて知っていることの反復などうんざりする。浩はそう思って欠伸した。ニュースは変わり、都内の一人暮らしの老人が誰にも気づかれずに家の中で死亡し、一週間後はじめて近所の住人が死体を発見したという事件になると、さっきまであれほどにこやかだった女性アナウンサーの顔は一転して深刻な表情になった。ところがしばらくするとそのニュースも終わり、上野動物園で新しいパンダの赤ちゃんが生まれそうだという記事を今度は再び微笑しながら読み上げていく。浩は女性アナウンサーの偽善ぶりを憎んだ。パンダのニュースが終わると半年前結婚したばかりの女優とカメラマンが予想された通り離婚を宣言したというゴシップに話題がうつった。この女優は確か去年も四ヶ月間だけ中年の演歌歌手と結婚している。まるで半年ごとに放送される連続ドラマのようだ。前回から今回を経て次回へと続くであろう一連の結婚と離婚のストーリーは作り話のように起伏に富んでいて実に面白い。
今からもう六年も前のことだが、詐欺にも近い非合法な手段で儲けていたある会社の社長の家に被害者の一人が押し入り、ジャックナイフで刺し殺す現場を各局のテレビが生中継したときのことを浩はふと思い出した。滋養強壮剤と称して塩水を高額で販売していたことが発覚し、製薬会社の社長宅に報道陣がつめかけたところ、たまたま一人の男がやって来て窓から侵入し、テレビカメラの前で社長を殺害した。その日テレビ局には何故カメラマンや記者たちは社長を見殺しにして助けなかったのかという電話が殺到した。テレビ局は助ける余裕のない状況だったと繰り返し弁解したそうだが、本当のことは誰も確かめられない。仮にテレビ局の言い分が本当だったにせよ、一人の人間が殺害される現場を助ける手立てのないまま茫然と立ちつくすよりは、どうせならしっかりそれをカメラに捉えた方がいいとするマスコミの考え方に、浩はなるほどそれが合理的なのかもしれないと納得しながらもどこか煮えきらない不可解なしこりを感ぜざるを得なかった。友人から聞いた話によるとあのとき社長が刺し殺される決定的瞬間を一番鮮やかに撮ったカメラマンがテレビ局から表彰されたらしい。どんな非情な場合にでくわしてもプロのカメラマンであることを忘れない職業意識が評価されたのだろうが、ある意味で彼は人間である前にカメラマンであることを選んだのだ。人間を捨ててまでカメラマンであろうとする行為が英雄視されるとはどこかが狂っているとしか言いようがない。浩はそう思った。
浩がふとチャンネルを回すとマドンナのライブコンサートの録画が流れてきた。
「あたしねえ、おととし後楽園のコンサートに行ったのよ」勝美が言った。「雨が降ったんで中止になったの。でも次の日にもう一回コンサートをやったのよ」
浩は冷蔵庫からビールを出し、栓を抜いて二つのコップに注ぎ、たくさん入った方を勝美に差し出すと自分は床に寝転びながら一気に飲みほした。二杯目、三杯目も同様に一気に飲みほすと、徐々に顔中ほてってくるのを覚え、虚ろな目でテレビの画面を追いながら浩はとりとめもない考えに耽っていた。
テレビという怪物――こいつは一つの哲学だ。尤もテレビについて語った哲学者なんてあまり聞いたことがない。だがそれにもかかわらずやはりテレビは哲学だ。哲学が宇宙の森羅万象を対象にしているなんて本当は嘘っ八だ。生や死や愛や信仰について語った哲学はいくらでもあるが、道端に落ちている十円玉について、インスタントラーメンの空き袋について、ゴミ箱の中のカオスについて語った哲学はない。テレビの哲学がないのもテレビが哲学の対象たり得る資格がないのではなく、ただテレビについて哲学する慣習がないだけなのだ。テレビの出現――それはフランス革命や世界大戦以上に人類の歴史をすっかり変えてしまったに違いない。もし今どこかのテロ集団が革命を起こして日本の政権を剥奪したところで、結局自分たちの生活はほとんど何一つ変わらないだろう。だがもしテレビの全局が突然何の前ぶれもなく一年間放送を中止するとしたら、おそらく一年中落ち着いた気がしないに違いない。テレビの向う側に、微笑しながらニュースを語りかけてくるアナウンサーの背後に、マドンナのステージを解説しているその姿なき声の主のところに世の中が存在している。テレビの向う側に日本という国がある。国会議事堂の前を通っても少しも日本があるという実感が湧かないのに、テレビを見ると画面の奥に自分たちが所属している人間たちの集団の気配を漠然とながら嗅ぎとることができる。テレビがあるからこそ社会の存在を認識できるんだ。それにしても今まで自分は人生の何分の一をテレビの前で過ごしてきたんだろうか。よくみんなと飲んでるときなどウルトラマンだとか仮面ライダーだとかいった昔の子供向け番組のことが話題になると、自分が誰よりも熱心にしゃべる。小さい頃から根っからのテレビっ子だったからなあ……。
「ねえ、考え事なんかしてないでもっと飲んでよ」勝美はそう言って浩の空になったコップにビールを注いだ。「もっと飲まなきゃだめじゃない」
「勝美は酔うとすぐこうなんだから」
「飲みなさい」すっかり酔いが回ってフラフラの勝美はだらしなく浩に体をからませながら言った。「ねえ、聞いてるの」
「愛してるよ」浩は勝美の唇に軽く自分の唇を押し当てた。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないさ」
「だって、浩ってあたしより陽子の方が好きだったんじゃないの」
「そんなことないさ。ああいう暗い女は好みじゃないよ。それにさあ、彼女あの根暗の一番ヶ瀬とつき合い出してから、ますます暗くなっていったじゃないか。暗いばかりじゃない。彼女ちょっと理屈っぽいんだよ。これも一番ヶ瀬から感染したんじゃねえか」
「本当にあたしのこと愛してる?」
「もちろんさ」
「本当の本当?」
「本当の本当のそのまた本当だよ」浩は今度はもっと長く接吻した。「勝美はこの世で一番いい女だ」
だが本当ではなかった。浩が本当にこの世で一番いい女だと思っているのはテレビの中で『ライク・ア・バージン』を熱唱しているマドンナで、勝美は二番目だった。
推定脳細胞総数 149億3900万個
一番ヶ瀬隼人は窓から差し込むうすくやわらかい日の光で目を覚し、毛布の中で陽子に思いを馳せながら二回マスターベーションに耽った後ようやくベッドから抜け出してシャワーを浴び、それが済むとオーブンにサンドイッチを入れてタイマーを5にセットした。
ホットサンドが出来上がるまでの間何もすることがなく部屋の中をぶらぶら歩き回っていると、不意に玄関のドアをノックする音がする。ドアを開けると色褪せた背広を着た一人の小柄な男が革の鞄を右手に下げて佇んでいる。
「あんたは誰だい。新聞の勧誘ならお断りだぜ。俺は新聞は読まない主義なんだ」
「ほお、それはまたどうしてです」小柄な男は部屋の中をしげしげと覗き込みながら言った。
「世の中で何が起ころうと俺には関係ないからさ。新聞は毎日発行されるけど、新聞に載せるに足る大きな事件なんか、毎日定期的に起こるわけじゃないだろう。ニュースらしいニュースのないときは、騒ぐほどのことはない事件をわざと大袈裟に書き上げる。これが新聞の正体だよ。違うか」
「それにしてはりっぱなテレビをお持ちですねえ。新聞はいらないのにテレビはいるわけですかい。それにビデオデッキまである」
「人の部屋を覗くなよ」
「まあそう怒らないで下さいよ。それに私は新聞の勧誘をしに来たわけじゃない」
「じゃあ何のセールスだい?」
「この商品をご紹介しようと思って伺いました」小柄な男は革の鞄から何やらあやし気な電気掃除機の本体のようなものを取り出した。
「こいつは地球を一発で吹っ飛ばす核爆弾です」
隼人はそれを聞くと急いでドアを閉めようとしたが、小柄な男はそうはさせじとドアにしがみついた。
「でたらめ言うな」
「でたらめじゃありませんよ。ここの赤いボタンを押すだけで爆発するんです。もしよかったら今試してみてもいいんですよ。でも本当にいいんですか。あなたもろとも地球は一発で終わりになってしまうんですよ」
「おまえの話が本当だとしても、何故それを俺に売りに来たんだ。俺はそんなもの必要ないぜ。アメリカの大統領かソ連の書記長にでも売って来いよ」
「それがあいにく売れないんですよ。お二人とも地球を十回ぐらい爆発させるほど核兵器をお持ちでいらっしゃる。だからこれ以上核兵器を所有しても仕方ないわけです。しかもお二人とも最近は核兵器よりSDIの方に関心がおありのようで……」
「とにかく帰ってもらおうか。俺にはそんなもの必要ないんだ」
「そんなことありませんよ。あなたのように新聞を読もうとしない人こそ、これが今すぐ必要なはずです。あなたは何故新聞を読もうとしないのか。それは世の中で何が起ころうが自分とは全く関係がないとあなたが思ってらっしゃるからです。あなたはご自分の存在が世の中に対して何の影響も及ぼさないと思っていらっしゃる。あなたはご自分をどこにでも掃いて捨てるほどいる平凡な人間だと思っていらっしゃる。あなたがいなくなってもあなたの代りにあなたの仕事をやってくれるスペア人間は世の中にいくらでもいる。まるでコピーされたたくさんの紙の中の一枚のように、自分がこの世で唯一無二のかけがえのない存在であることを周囲に対しても自分に対しても立証できないでいる人間。これがあなたなのです。しかしこの核爆弾を所有したら一切の事情は変わってきます。いいですか、一つ間違えてこれを爆発させたら人類は絶滅するのですよ。あなたが会社でどんな重大な仕事を任せられたところでこれ以上の責任は絶対ありません。いや失礼、あなたは学生さんですかな。ともかく全人類の生命があなた一人にゆだねられているのだと考えれば、人類が今日生きていけるのも自分のおかげなのだと考えれば、自分に対して自信が湧いてくるでしょう。私が売ろうとしているのは核爆弾そのものよりも、核爆弾を所有することで湧いてくる自分に対する自信と言いますか、あるいはアパシーの治療と言いますか……お分りいただけましたかな。それに不公平だと思いませんか。アメリカの大統領やソ連の書記長はボタン一つ押せば地球を破壊することができるんですよ。考えてもみなさい。あの二人はいつでも自分の気まぐれであなたを殺すことができるんです。ところがあなたの方では、いくら気まぐれを起こしたところで二人を殺すことはできない。同じ人間としてこれは不公平でしょう。ところがこの商品をお買い上げになれば事情は違います。あなたはいつでも好きなときに……」
隼人は小柄な男がふとノブから手を離した隙に素早くドアを閉めてロックし、オーブンのところへ行ってすっかり冷たくなったホットサンドを取り出した。小柄な男はなおも執拗にドアの向うから話しかけたり激しくノックしたりしたが、ホットサンドを食べ終わる頃にはどこかへ行ってしまっていた。隼人は最近の新聞の勧誘員は手の込んだことをやると独りごちながらアパートを出て駅に向かった。
四谷から快速の中央線に乗り、御茶ノ水で各駅停車に乗り換え、秋葉原の万世橋口で降りる。
改札口を出たところでビラを持った中年の小太りの男がなれなれしく話しかけてきた。
「何を買いに来たんだい?」
隼人は無視して通り過ぎようとしたが小太りの男は隼人の進行方向に立ちはだかり、執拗にくっついてくる。
「ねえ、おにいさん。テレビかい? それともビデオかい? ひょっとしたらCDプレーヤーかな?」
隼人は無言のまま首を振った。
「じゃあやっぱり冷蔵庫かな? まあ何でもいいや。交通博物館の近くに、よその半額で電気製品を売っている店があるんだよ。交通博物館って知ってるだろう? ほら、万世橋の向う側だよ」
隼人はいい加減逃げ出そうとしたが小太りの男は隼人の腕をしっかりつかんで離さない。
「おにいさん、一言ぐらい口をきいてくれたっていいじゃないか。一体、何を買いに来たんだい?」
「シリコンの
小太りの男はあきれ顔でヒューと口笛を吹くと、そのままどこかへ行ってしまった。
秋葉原で半導体を買おうと思ったら敢えてジャンク屋で掘り出し物探しをする必要はない。ジャンク屋ってやつは秋葉原じゃない場所で買うときに寄るところだ。隼人はそう思いながら小さな電気屋でひしめいている路地をいくつか通り抜け、中央通りの横断歩道を渡り、万世橋を背にして進んで行った。
日本通運のビルを目印に十字路のところで左手に折れると電子デバイスとマイコンを専門に扱っている小売店がすぐ見出せる。店の外に出された陳列棚にはデジタル式の腕時計やオモチャのキーボードが並べられ他の店とあまり違いがないように見えるが、中に入るとある種のマニアか専門家しかほしがりそうもない代物ばかりが置かれている。トランジスタ、IC、LSI、VLSI、半導体ダイオード、コンデンサー、メモリetc……。
隼人は二階に上がって二時間ほど店の中でねばり、よく考えた末NチャネルMOS型トランジスタとダイナミックRAMを買った。
店を出ると人ゴミをかきわけて駅の方角へ戻り、石丸電気の一号館ビルに入った。エスカレーターに乗ってテレビ売場の四階で降りしばらくぶらぶらと歩き回っていたが、ポケット液晶テレビばかりを陳列した棚のところでふと立ち止まり、財布を取り出してまだ十分余裕があることを確かめた上でカシオのTV―360を買うことに決めた。レジのところへ行ってみると店員からちょうど品切れだと言われ、棚に陳列された見本でもいいからどうしても今ほしいと答えると定価の二割引で売ってくれた。包装されたTV―360をポケットに突っ込むとビルを出て小走りに駅へ向かった。
ふと腕時計に目を落とすと思っていた以上に時間が経過している。早く


陽子たちは新宿の録音スタジオでレコーディングを済ませた後、市ヶ谷の日本テレビへタクシーで直行した。
楽屋でディスコ風の肌を大いに露出させるコスチュームに着替え、時間をかけてメーキャップを仕上げると、サイバネティック・スキゾイドのメンバーはアシスタントディレクターに案内されて録画スタジオに通された。白いテーブルの端には既に番組担当の女性アナウンサーが坐っており、三人はアシスタントディレクターの指示通り陽子を真中にして一列に着席した。陽子は自分が中央に坐るよう指示されたとき、他の二人にわずかばかりの優越感を覚えた。
「ねえ、陽子」亜理沙が耳元にささやくように言った。「あたしの顔青白くなってない?」
「別に……大丈夫よ。いつもと全然変わりないわ」陽子は微笑して答えた。「でもどうして?」
「あたし緊張するとすぐ顔に出るの」
「しっかりしなさいよ」
「でも陽子は緊張しないの?」
「そりゃあ、ちょっとは上がってるわ」
「もうすぐ本番だから静かにしなさいよ」勝美が二人をたしなめた。「スマイルよ。キューの合図と同時に笑顔を作るのよ」
マイク付きのヘッドホンをかぶったやけに背の高い青年がスタジオの中央に立ち、勢いよく両手を振り上げた。陽子には照明がやけにまぶしく感じられ、目を開けているのがやっとだった。
「本番いきます。5秒前、4秒前、3、2、1、キュー」
サイバネティック・スキゾイドの『インビジブル・スレッド[#「インビジブル・スレッド」は底本では「インビジュアル・スレッド」]』がBGMに流れてくる。
「さてお待たせいたしました。次はミュージックレビューのコーナーです」キューの合図とともにそれまで生気の失せた表情を突然溌刺とした笑顔に変えたアナウンサーが言った。
「今日のゲストはデビューしたばかりの女性ロックバンド、サイバネティック・スキゾイドのみなさんです」
その瞬間アナウンサーをクローズアップしていたカメラから、自分たち三人に向けられた正面のカメラに切り換わったのを陽子は悟った。
「メンバーは全員女子大生ということですが、一言で言ってどういう音楽を目指すバンドなんですか?」アナウンサーが尋ねた。
「そうですねえ」陽子が言った。「簡単にいえば七〇年代のブリティッシュプログレとヨーロッパの電子音楽を混ぜ合わせたロックですねえ。イエスとかピンク・フロイドとかEL&Pの曲にヴァンゲリスばりのシンセサイザーミュージックを加味したような……まあそういう風なサウンドをあたしたちは基本的に目指してるんです。その他ジョン・ケージの偶然音楽にも興味がありますし、それから催眠音楽にも興味がありますし、つまりこれは科学的に脳に心地よい刺激を与える音楽を計算した上で曲が書けるんじゃないかって思うんですけど……それから将来的にはボコーダを積極的に取り入れて、合成音声をボーカルにしたいですねえ。クラシックには和声法とか対位法なんかがあるし、ジャズにはジャズ理論があるわけですよねえ。その点ロックにはちゃんとした楽典と言えるものがないんですよ。尤もドラムやエレキギターにはロック特有の譜面の表現方法もあるんですけど、クラシックやジャズに比べればまだまだ体系化が遅れてると思うんです。だから逆に言えばロックが一番可能性を秘めたジャンルだと言えるわけで、音楽という観念のパラダイムを根本から破壊するような、そういう新しいサウンドがあたしたちに創造できたら最高ですね。ただ前衛的だっていうだけじゃなく、新しい時代を構築するような、そういう未来を先取りしたロック。これがサイバネティック・スキゾイドの目標なんです」
「女性だけのバンドは珍しいと思うんですが、女性ということで何かハンディーを感じることはありますか」
「全く感じないと言ったら嘘になるけど、感じると言ったらそれはあたしたちの甘えにつながりますよ」陽子が言った。「あたしたちは曲の演奏はもちろん、作詩、作曲、アレンジまで全部自分たちでやるし、マネージャーはいるけどアルバムやコンサートのプロデュースだってできたら自分たちでやるつもりなんです。少なくとも基本的なコンセプトだけはあたしたちのものにしておいて、その上でマネージャーに任せる形にしようと思ってます。よく女の子だけのバンドだと、アレンジができないとかプロデュースができないとか、とかく憎まれ口を叩かれるものですけど、あたしたちはすべての面で、男性のロックバンドが可能なことなら女性のロックバンドでも可能なんだってことを証明したいんですよ。そもそもあたしたちがプログレを選んだ理由もそこなんです。女性のバンドはあたしたち以外にいくらでもあるけど、アイドル色の強いポップス的なロックだとか、せいぜいハードロックが関の山でしょう。女性だけのバンドでプログレッシブロックをやるのはほとんどあたしたちが最初なんじゃないかしら。今はよく女性の時代って言われるでしょう。でもこれは違うと思うんです。あたしに言わせれば今は脱女性の時代ですよ。いわば生物学的な意味での女性が社会環境的な意味での女性という
不意にディレクターが立ち上がり、カットを宣言した。
「ちょっと君困るよ」ディレクターは陽子に言った。「話が長すぎて時間いっぱいになっちゃうぞ。このコーナーの時間は全部で三分弱なんだからねえ。それに君の話はちょっと難し過ぎるよ。もっと単純で分りやすい話を頼む。それから他の二人もただ坐ってないで積極的にしゃべってほしい。彼女一人だけに話させないでくれよ。じゃあもう一回やるからね」
再び背の高い男がスタジオの中央に立った。
「本番いきます。5秒前、4秒前、3、2、1、キュー」
BGMに『インビジブル・スレッド[#「インビジブル・スレッド」は底本では「インビジュアル・スレッド」]』。
「さてお待たせいたしました。次はミュージックレビューのコーナーです」アナウンサーが言った。「今日のゲストはデビューしたばかりの女性ロックバンド、サイバネティック・スキゾイドのみなさんです」
カメラが切り換わる。
「メンバーは全員女子大生ということですが一言で言ってどういう音楽を目指すバンドなんですか?」
「プログレです」陽子が答えた。
「女性だけのバンドは珍しい方だと思うんですけど、女性ということで何かハンディーを感じることはありませんか?」
「それは大丈夫ですよ」勝美がカメラにウインクしながら言った。「男にできることなら女にだってできるはずですもの」
「カット」ディレクターが怒鳴った。「いいかい。勝美君が女にだってできると言った後で、みんなすぐ笑わなくっちゃだめだよ。そうしないとしらけるぜ」
「ちょっとディレクター」背の高い男が言った。「もう時間的にあまり余裕がないんですけど。このスタジオ、次の予定が入っちゃってるんです」
「そうか。じゃあもうNGは出せないわけだな」ディレクターは言った。「仕方ない。あの手でやろう」
ディレクターは陽子たちの方へ歩み寄りながらサングラスをはずして胸ポケットにしまった。陽子は今まで彼を三十代前半と踏んでいたが、サングラスを取り去った素顔を見て四十は軽く超えているらしいことに気がついた。
「増田君はセットの右端に立ってくれ」
「はい」アナウンサーは席を立つと指示された場所に移動した。
「いいかい、君はまだサイバネティック・スキゾイドに一度も会っていない。いいね」
「はい」
「そこで君はミュージックレビューのお定まりの挨拶を済ませた後、テーブルに戻ってはじめて彼女たちに会う。そこまでを2カメが捉え、首尾よく4カメに切り換わる。君は彼女たちの見事なプロポーションに驚き、盛んに彼女たちの美しさを誉める。それから『はじめまして』でも何でもいいから初対面の挨拶を済ませる。いいね」
「はい」
「そこで4カメが三人の足下をうつし、ゆっくり上げていく。三人の顔が画面に入るか入らないかぐらいのときにBGMスタートだ。いいね、4カメ係」
「分りました」カメラの後ろにいる髭面の男がぽそりと答えた。
ディレクターは更にアナウンサーの質問の内容とそれに対する陽子たちの受け答えを一つ一つ詳細に決め、どこで誰がどんな冗談を言い、そのとき自然な感じを出すためにどれくらい間を置いてから全員一斉に笑い出すかといったことまで指示が及んだ。
隼人は一旦四谷のアパートに戻り、


有楽町線に乗って小竹向原で下車する。小竹向原町方面の出口から降り、江古田の方向に少し歩いて行くと古ぼけた木造の空家が鉄条網の柵に囲まれてひっそりと佇んでいる。5エレメントヤギアンテナがルーフタワーに支えられながら屋根の上に垂直に屹立し、黒い同軸ケーブルが窓ガラスの割れた部分から空家の内部に入り込んでいる。
隼人はペンキのところどころ剥げ落ちた木製の戸を蹴飛ばして乱暴に開け、殺風景な部屋の隅のコンクリートでできた階段を降りた。
真暗な地階の中を壁を伝って進み、手さぐりで鉄のドアの鍵穴を見出すとポケットから取り出した針金を差し込む。思い切り強く押し込むようにして左に回すとカチッというかすかな音と確かな手応えがある。全身の体重をかけて鍵穴の上のノブを引っぱると、キーという甲高い嫌な音がしてドアが開いていく。蝶番がすっかり錆ついているのだ。隼人は舌打ちした。どこからともなくハンダの臭いが漂ってくる。なおも手さぐりで前進し、両手を上に伸ばして試行錯誤に闇をゆっくり掻き回してみると……プラスチックのなめらかな手触り……隼人は裸電球のツマミを回す。
薄暗い光の下でぼんやり浮かび上がるように


狭い部屋の中はほとんど人間一人しか入る空間がないほどたくさんの機械で占領されていて息がつまった。SSBトランシーバーの
デジタルHI―FI8ミリビデオデッキのコードは二股に分れ、一方はテレビにもう一方はSSBトランシーバーに接続している。
大学に入学してからほぼ一年間、隼人は小竹向原のアパートに下宿していた。当時この空家には医者の家族が暮らしていたのだが、ある日突然一家の主人が妻と小学生の二人の息子を絞殺し、自分は青酸カリを飲んで自殺した。以来、隼人を除いて誰もこの家には寄りつかなくなった。隼人が地下室を自分一人の工作場として利用するようになったのはそのときからで、四谷へ移ってからも少なくとも週に一回は足を運んでいた。
隼人は紙袋からトランジスタを二個取り出すと、
ダンボール箱の底の方に隠しておいたケースを手さぐりで取り出し、中に入っているフロッピー・ディスクをユニットPC―9801に[#「PC―9801に」は底本では「PC―98001に」]セットする。セーブされているプログラムを呼び出すために、ロード“KAIZOKU$9”を入力し、続いてLISTのファンクション・キーを入力するとディスプレイには何百行にも亙るBASICのプログラムが下から上へ流れるように表示される。ちょうど周波数を決定するサブルーチンの最初の行が画面の上方からはみ出て消えかかったとき、隼人は急いでコントロールCを入力して流れを止めた。隼人はサブルーチンに見出しをつけるなどという、プログラムを読みやすくするために処理速度を下げるテクニックを好まなかったので、自分のプログラムからサブルーチンを見出すのは容易ではなかった。サブルーチンの最初の行はどうせDIM文を用いた配列の初期設定だから大したことはない。画面に表示された一番上の行の命令はFOR/NEXT文で、変数Jが1から12までの値を取るように指定されてある。その次の行からはIF文が五つ並び、Jが2から5か7か11のときは――Jがテレビ局のチャンネル以外の数字になったときは――NEXT/J文の行番号までGOTOするようになっている。更にその下はJを独立変数とする二つの関数が、READ/DATA文で順番に並べられた映像搬送周波数と音声搬送周波数の値をそれぞれ取るようになっている。これにより、1チャンネルなら映像搬送周波数が91・25MHzで音声搬送周波数が95・75MHz、3チャンネルなら映像搬送周波数が103・25MHzで音声搬送周波数が107・75MHz、4チャンネルなら映像搬送周波数が171・25MHzで音声搬送周波数が175・75MHzといった具合に、12チャンネルまで各テレビ局の周波数が決定される。NEXT/J文の後は
今までシステム全体を走らせたことはないが、もし
麹町の駅前で買った紙パックを開け、もうすっかり冷えてしまったフライドチキンをたちまちのうちに全部平らげてしまう。ビデオカセットをデジタルHI―FIビデオデッキのカセットホルダーにセットし、右向きの矢印のついた再生ボタンを押す。するとテレビの画面には白い背景の中に太いゴシック体の赤い文字で『今僕は君に語りかける』と書かれたテロップが浮かび上がる。
キーボードの上に指を置き、ジャズピアノを奏でるような流暢な手つきでセーブしてある“KAIZOKU$9”を
TV―360の画面が乱れ、斜めにたくさんの縞模様ができてしまったが、それでもどうにか『今僕は君に語りかける』の文字がうっすらと浮かび上がる。TV―360のチャンネルを一つずつ回してみたが、どこも同じ状態になっていた。隼人は
「今僕は君に語りかける」隼人は言った。「突然こんな風に僕が君にメッセージを発したことに対して、きっと君は戸惑いを覚えているに違いない。だが僕はどうしても今君に話さなくてはならないことがあるんだ」
隼人は
「君は一体今どこでテレビを見ているんだろうか。自分の家の応接間で家族の人たちと一緒に見ているのか。それとも一人アパートの一室に閉じ込もり、孤独に苛まれることを恐れてテレビのスイッチを入れたのだろうか。それともどこかの飲食店で煙草でもぷかぷかやりながら、店に備えつけのテレビで野球中継でも見るつもりがとんだ海賊放送につき合うはめになったのか。それとも……いやいやこんな
テレビの録画撮りを済ませ、世田ヶ谷の自宅の“SFしてる”部屋に戻ってベッドに全身を投げ出すと突然電話のベルが鳴る。陽子は自分の部屋を“SFしてる”と表現して遊びに来た友人たちに自慢していた。机、本棚、ベッド、
「もしもし、陽子?」
「なんだ、勝美じゃないの。どうしたの」
「実はさあ、今変なテレビやってるのよ。陽子も気がついた?」
「一体何の話?」
「じゃあまだ知らないのね。ちょっとテレビつけてご覧なさいよ」
「どういうこと?」
「いいから早くテレビをつけてみて」
「ちょっと待ってて」陽子は立ち上がってテレビをつけた。斜めの縞模様が画面の右下から左上へ連続して流れ、白地に赤のゴシック体で『今僕は君に語りかける』のテロップがかろうじて見える。音声はザーというひどい雑音が時々強くなり過ぎて聞こえなくなることがある。
……君は人間の体に操り人形の糸のようにくっついている
透明な糸
を見たことがあるだろうか。こんなことを言い出したら多分大部分の君は何のことやらさっぱり見当もつかないに違いない。これは無理もないことで、この僕でさえいつでも好きなときに
透明な糸
を見ることができるわけではないのだ。
透明な糸
を見ることができるのはバイオリズムに従う脳波のアルファ波が最も多量に測定されるとき、つまりオーラが多量に肉体から発散する時にかぎられる。僕の推測が間違っていないとすれば、オーラの発散はポアソン分布に従う確率変数の事象として断続的に発生するらしい。しかしいくらオーラが発散していても注意深く観察しないかぎり、つまり
自由意志
を十分自覚しないかぎり、なかなか
透明な糸
を見ることはできない。この
透明な糸
というのは実はグリーンという他の天体から地球を征服するためにやって来た小人の異星人が人間の体に生やしたものなんだ。体全身のあらゆる関節に一本ずつ、まるで操り人形の糸のように生え、糸のもう一方の先端は空に向かって遠く伸びている。この
透明な糸
はわれわれの皮膚から直接生えているものなのだが服によって遮られることがない……。














陽子は何度となく口にされる


「おかしいと思わない?」勝美が言った。「画面に斜線が入っているでしょう。うちの兄貴がハムやってるんで知ってるんだけど、こういうのって、ハムの無線が混信したときに起こる状態なのよ。多分これって海賊放送よ」
「でもテレビの海賊放送なんて聞いたことがないわ。海賊放送って、普通ラジオでしょう。昔どこかの過激派が、テレビの音声の部分だけを海賊放送したっていう事件なら覚えてるけど」
「あたし一人暮らしでしょう。だから怖かったわ。アパートに帰ってテレビをつけるといきなりこれやってたんだもん。気味悪くて急いで亜理沙に電話したんだけど、彼女女子学生会館でしょう。だから電話に出たやつから、九時過ぎの電話はだめだって言われて取り次いでもらえなかったの」
「それであたしに電話したわけね」
「そうよ」
「浩ちゃんに電話したらいいのに」
「えっ? どうしてよ」
「あたしが知らないとでも思ってるの」
「へえっ、負けたわ陽子には」勝美が吐息を漏らした。「話は変わるけど、明日は確かオフでしょう」
「そうよ。そのかわりしあさってがコンサートだから練習しといてね。あさってはスタジオで合同練習よ」
電話を切るとテレビをつけっぱなしのまま再びベッドに全身を投げ出した。あまり眠くないので読みかけのミステリーのペーパーバックを開いて寝ながらページを繰った。早く読み終わらないとまた翻訳が出てしまう。きっと洋書の本屋と出版社は手を結んでいるに違いない。ちょうどペーパーバックを読み終わるか終わらないかぐらいの頃に、いつも決まって訳本が発刊になるんだもの。いらいらするわ。
今度の“同時代”の定期公演に参加する人間全員を
下宿へ戻ると“同時代”の台本の中で今日の読み会で変更になった部分を早速ワープロで打ち直した。一時間ほど経ち、ふと手を休めるとけたたましい電話のベルが鳴る。
「はい、佐川です」
「ああ浩? あたしよ。分る?」
「その声は勝美だな」
「当たり」
「どうだい。今日レコーディングだったんだろう。うまくいったかい」
「ばっちりよ」勝美は言った。「それからさあ、テレビの録画撮りもやったんだよ」
「へえっ、そいつは知らなかった」
「ねえ、ちょっとテレビつけてみて」
「今それが放送されてるのかい?」
「そうじゃないけど、いいからつけてみて」
「どのチャンネル?」
「どれでもいいわ。とにかくつけて」
浩は言われたとおりテレビのスイッチをつけた。画面が鮮明にうつらないのでアンテナの位置をいろいろずらしてみたが一向によくならない。
……光が透明なガラスを通るように
透明な糸
はわれわれの衣類を通してしまう。ところでこの
透明な糸
はある波長の超音波に反応するという性質を持っている。これがグリーンの企みなのだ。つまりグリーンはある波長の超音波を発するフルートに似た銀の笛を吹いて
透明な糸
をコントロールし、人間を意のままに動かしているのだ。ではこの
透明な糸
は何で出来ているのだろうか。衣類を貫き通して直接肌に生えたり、オーラの発散量によって可視にも不可視にもなるといった諸性質から僕は
透明な糸
が通常の原子から構成された物質ではないと考えている。ラザフォード=ボーア・モデルの原子では理論的にこのような現象はあり得ないからだ。また
透明な糸
は反物質でもなければ光子でもない。通常の原子とは逆に、負の電荷を持った電子の周囲を正の電荷を持った陽子が回転しているという反物質は
透明な糸
の構成要素ではあり得ないだろう。何故なら反物質は通常の物質と接触したときに核爆発を起こすからだ。また
透明な糸
が固体として凝固している以上、電磁波……つまり光子が構成要素でないことは明らかだ。では
透明な糸
は何から成立しているのか。僕は今のところエクトプラズムが
透明な糸
の構成要素ではないかと考えている。このエクトプラズムはあらゆる生物の毛穴から発散し得るもので、オーラとの相関関係を考えてみてもユング的な意味での同時性 があり……。




















浩はぐるぐるチャンネルを回してみたが、奇妙なことにどこも同じ番組をやっている。
「うちのテレビ中古なもんで、よくうつらないぜ」浩が言った。「音だって雑音がザーザーで何も聞こえないよ」
「それテレビのせいじゃないのよ」勝美が言った。「あたしのとこのテレビでもそうなんだから」
「じゃあ、君のテレビも中古なんだな」
「とんでもない。この前秋葉原で買ったばかりよ」
「そうか。じゃあ一体、何でこんなにうつりが悪いわけなんだい?」
「多分、これ海賊放送なのよ」
「まさか」
「いや多分そうよ。少なくとも混信状態であることは間違いないわ」
「でもさあ、もし海賊放送だとしたら、一体どこのどいつがこんなことやってるわけなんだよ」
「そうねえ、きっと暇な物好きか奇人変人の
「なるほど」
とりとめもない雑談で時間を潰し、最後に明日午後三時頃に勝美が自分の下宿に来ることを確認するとようやく電話を切った。浩は再びワープロに専念し、台本の修正が完了すると銭湯へ出かけた。
「まだまだ話したいことは無尽蔵にあるが、この放送状態では僕の伝えたいことの百分の一も伝わらないようだ。いつか近いうちに、僕は必ず君にもう一度語りかけるだろう。そのときはもっと放送状態が改善されているはずだ」
隼人はVOXのスイッチを切り、パソコンのリセットボタンを押してディスプレイ上のステートメントを消去した。長い間しゃべり続けていたせいか喉がひどく痛かった。SSBトランシーバー、パソコン、テレビ、ビデオデッキの順に電源を切るとダンボール箱の中に手を突っ込み、皺くちゃになった青いナップザックを引っぱり出す。


小竹向原からだらしない酔漢でひしめいた有楽町線に乗る。ずい分混んでいたが池袋を過ぎると十分坐れた。様々な想念が隼人の脳裏を錯綜していたがそのどれにも精神を集中することができず、ただ空虚な目で車内のポスターをぼんやり見入っていた。
麹町で下車し、大いなる脱力感に支配された肉体を引きずるようにして四谷までてくてく歩いて行く。極度の緊張状態が隼人の意識を朦朧とさせ、何かしら夢幻の世界を漂っているような、雲の上を歩いているような奇妙な心地がした。真暗闇の中に街のネオンサインが赤や黄の光をぼんやり浮かばせているのが見え、自分の心臓の鼓動がはっきり聞こえてくる。一歩一歩前へ進むことしか今の隼人にはできなかった。何か物を考える気力は全く残っていなかった。
ようやくアパートにたどり着くと隼人は着替えもせずそのままベッドに飛び込み明りを消した。毛布を頭からかぶりひたすら早く寝つくことを祈りながら全身を硬く縮こませた。石のようになりたい。隼人はそう思った。
その夜、隼人は奇妙な夢を見た。
テレビを見ているとテレホンショッピングのコーナーで今朝の小柄なセールスマンが登場し、今日のお買い得商品を宣伝している。今日の商品は地球を一発で吹っ飛ばす核爆弾だ。隼人は急いで電話してそれを買い、核爆弾のスイッチを押す。すると人類は全滅したが、隼人と陽子の二人だけは生き残った。二人はどこかの無人島の浜辺に全裸で佇んでいる。
「俺たちだけが生き残ったんだ」隼人が言った。「こうなったら俺たち一緒になるしかないだろう」
「いやよ」陽子が言った。「絶対いや」
「どうして?」
「どうしてもいやよ。我慢できないわ」
陽子は駆け出した。隼人は陽子を追い掛けるが、ふと筋骨隆々とした全裸の見知らぬ男が隼人の前に立ちふさがる。
「ねえあなた」陽子は甘えた声で見知らぬ男にすがりつきながら、隼人の方を指さした。
「お願い。あの男を殺して」
すると夢の中での隼人の意識は隼人自身から遊離し、いつの間にか見知らぬ男の視点から隼人を眺め下ろしていた。見知らぬ男となった隼人は目の前の自分を思い切り殴った。目の前の自分の体は穴を開けられた風船のように縮み出し、そこをまた殴りつけた。殴って殴って殴りまくり、自分を滅茶苦茶に破壊しつくしてしまいたかった。
推定脳細胞総数 149億3890万個
四谷からラッシュ時の中央線特別快速に乗り、終点の東京で丸ノ内の方へ降りる。今日はここ一年間で最もアルファ波が活発になる日だ。オーラが最大限に自分の肉体から発散する日だ。隼人はソニーのハンディーカムCCD―V50を片手に、通勤のサラリーマンに混じってオフィス街へ歩いて行った。
フォーカスをTCL方式オートの状態にし、後ろを振り返って可変ビューファインダーを覗き込むと、東京駅の赤レンガの部分だけがすっぽり画面に入っている。水をかけた土の穴からとめどなく這い出て来る蟻のように、中央口から背広姿の無個性なサラリーマンたちが群をなしてせわしく次々に吐き出される。彼らの体からは無数の








隼人はしばらくの間8ミリビデオカメラで周囲の光景を撮り続けていたが、通勤サラリーマンの数が比較的減ってくると駅に戻り、売店で新聞を買ってから山手線に乗った。車内は坐れる席はないものの先ほどのラッシュ時の中央線に比べればかなり空いていた。ポケットに入れた切符を神経質にいじくりながら車内の週刊誌のポスターを眺めた。どのポスターも自分を目立たせようとせいいっぱい背伸びして大声でわめき散らす子供のように、度の強い刺激をさかんに発散しているつもりらしいがどこか色褪せている。
新聞の三面記事を広げると妻が夫を寝ている隙に刃物で刺し殺したというニュースが載っている。記事は確かに事実の客観的記述以外の何物でもなくこれを書いた記者の意見などどこにも入っていないのだが、殺人者の妻の名前は呼び捨てで書かれ死亡した夫の方はさん付けしてあるからだろうか、隼人には短縮すれば妻は悪く夫は同情すべきだという命題がそこに提示してあるような印象を受けた。殺した方は当然法律には触れるが本当に悪いのはどちらなのかそう簡単に決められるわけがないではないか。夫の殺害を決心するまでには妻の方にもそれ相応の理由があったに違いなく、むしろ悪いのは夫の方かもしれないし、あるいは全く別の第三者がこの事件を引き起こした原因になっていることだって考えられる。隼人は自分が手にしている新聞に対して憤慨とも軽蔑ともつかない感情を覚えた。人殺しならば何でも悪いという既成の感想のパターンがある。妻が夫を殺した後で事件についての感想があるのではなく、あらかじめ用意されたいくつかの感想のパターンのどれかに事件を無理矢理あてはめたものが新聞の記事なのだ。
以前隼人が高校生の頃、母親が小学生の女の子と無理心中した事件と恋人同士で無理心中を企んだところ女性の方だけ助かってしまったという全く別の事件が同一の新聞の中に載っていたことがあった。無理心中に成功した方はさん付けで同情的に書かれ、失敗した方は殺人者として呼び捨てにされている。しかし両者の違いはただ心中に成功したかどうかといったことにしかなく、こんな風にはっきり区別してしまうのはおかしい。どこかに虚偽があるはずだと隼人はそのとき思った。
隼人は新聞を網棚に載せ、8ミリビデオカメラを録画スタートさせて車内を撮影した。
有楽町で下車すると手で弄んでいるうちにクシャクシャにしてしまった切符をポケットから出して改札口で渡し、駅の外に出ると数寄屋橋の方へ歩いて行った。陰気なガードレールをくぐり、有楽町マリオンを通り過ぎると数寄屋橋のところで一台のマイクロバスが停まっていて、白髪の老人が右翼的な政治思想を熱心に辻説法している。大通りの横断歩道を渡り、大きく〈不二屋〉と書かれた看板のあるビルの地下に降りて行き、ロッテリアでエビハンバーガーとスプライトを注文する。朝から何も食べていなかったので貪るように平らげてしまう。
ロッテリアを出て再び横断歩道を渡り、有楽町マリオンの方へ戻って来ると、何やら人がビルの入口のところに集まっている。時計盤の上からラッパを持った銀色の人形が現れ音楽を奏でると、時計盤が上がって中からスティックを持った三つの人形が出て来る。時刻はちょうど十一時だ。三つの人形はお辞儀をしてから後ろを向き、鐘を叩き始める。尤も本当に人形が鐘を鳴らすのではなく、ただそういう恰好をするだけで、鐘の音楽は別に流れている。三つの人形を一心不乱に眺める周囲の人々を隼人は注意深く観察してみる。日ざしが強過ぎてよく見えなかったがそれでも神経を集中させて根気よく見つめていると、かすかに


ビルに入りエレベーターで九階に直行する。九階からはエスカレーターを使って上りミラーで囲まれた踊り場でふと佇む。踊り場のように見えるが上が十一階になっているのでここは十階なのだろうか。両側面と天井が巨大な鏡でできており、それが互いに他を映し合ってどこまでも続く透明な空間を構築していた。周囲には誰もいなかった。隼人は8ミリビデオカメラの可変ビューファインダーを覗き込んだ。無限に並ぶエスカレーター。無限に並ぶイルミネーション。光とガラスだけで作られた音のない夢幻の多次元宇宙。隼人は鳥肌が立つほど冷たい機械的な大気をその中に見たような気がした。イミテーションが本物の宝石よりも美しく輝き、虚偽が真実に優るかのような、名状し難い澄んだ氷のような表象が漠然とながら隼人の日常的感覚を蝕んだ。どこからどこまでが現実でどこからどこまでが鏡の反射が創造した時空間なのか、もはや隼人には分らなかった。ただ分っていることは、ハンディーカムCCD―V50を構えてこちらを撮影している大量にコピーされた人物が自分の分身だということだけだった。限りなく沈黙に包まれた時間が過ぎゆく中、自分は遂に透明の色をはっきり見たのだという不合理ながら確信めいた自覚が隼人の脳裏を啓示のようによぎった。
ふと我に返ると隼人は録画をストップさせ、エスカレーターで九階に降りた。〈日劇東宝〉と〈丸の内ピカデリー2〉でかけている映画が両方ともちょうど今終わったばかりらしく、パンフレットを持ったアベックや家族連れと一緒にエレベーターに乗り、一階まで降りる。更に階段を降りて新宿行きの丸ノ内線に乗る。
四谷に着いたとき隼人はかなり躊躇したが、結局降りずに新宿まで行くことにした。新宿に着くと東口の改札口を通り抜けてマイシティーの本屋で少し立ち読みした後、ビルの外に出た。左側の線路沿いの壁には多くの大看板が並んで架けてあり、封切り間近の映画を宣伝している。スタジオアルタの巨大な金色のスクリーンにはレオタードを着た外人のモデルがジャズダンスをリズミカルに踊りながら自分のセクシーな肉体を誇示している。その下の広場には『カンボジア難民救済募金』と書かれた募金箱を首からかけた浅黒い肌の少女が、誰からも注意を引かれることなくひっそりと佇んでいる。日曜ほどではないが人通りは思っていたより多かった。
隼人はスタジオアルタの側にある果物屋の前にふと佇み、マイシティーの方を振り返った。精神を集中させ、脳からノルエピネフリンの分泌が促進されることを念じながらオーラの発散を活性化させる。すると次第に街の通行人たちの体から


今日はいつになくノルエピネフリンの調子がいいらしい。もちろんバイオリズムから考えると今日が一年で最もアルファ波が活発になる日だが、それにしても去年の今日はこれほどまではっきりと








隼人は8ミリビデオカメラを構え、空へ通じる


伊勢丹を通り過ぎ十字路を渡ったとき、隼人はふと今ここで突然哄笑したら周囲の人間は自分をどう思うだろうかと考えてみた。多分狂っていると判断するに違いない。そう思うと何やら急におかしくなってきて、笑ってはいけない、今ここで笑ってはいけない、白い目で見られたくなかったら絶対に笑ってはいけないと思うのだが、どういうわけか笑いを抑制すればするほどおかしさの度合が増してくる。
遂に隼人はこらえきれずに立ち止まり、腹を抱えて大声で笑って笑って笑い転げた。小さな男の子の手を引いた目の前の主婦が、すっかり仰天した面持ちで隼人を見つめている。あの女は俺がてっきり狂ってると思っていやがるんだ。俺を狂っていると思っていやがるんだ。そう思うとますます笑いが止まらない。男の子が笑い狂っている隼人に関心を示して近くへ寄ろうとすると、母親が腕を引いてたしなめ、急ぎ足で隼人の側から遠ざかった。隼人はなおも笑い続けながら子供の手を引いて遠ざかっていく母親に嫌悪と軽蔑の念を燃やし続けた。しばらくして笑い止むと腹が少し痛かった。
新宿御苑を通り過ぎ、十字路を渡るとモスバーガーが見出せた。中に入ってテリヤキチキンバーガーとモスチーズバーガーを注文し、オレンジ色の番号札をもらって空いているスツールに坐り、ハンバーガーが焼き上がるまで待った。
ハンバーガーを食べ終えるとモスバーガーを出て更に同じ方向へ進んで行く。四谷三丁目の丸正を通り過ぎてしばらく行くと〈不動産会館〉というあまり目立たないビルがある。ここの二階は〈四谷BRIDGE会館〉になっていて、以前コントラクト・ブリッジのサークルに入っていた陽子に付き添って大学対抗試合を見物したことがある。また六階は実験映画ばかりかける映画館〈イメージフォーラム〉で、半年前『ユリシーズ』という支離滅裂な内容の映画を観て目がチカチカする思いを経験した。
気がつくと四谷はもう目の前だった。迎賓館に通じる大通りを渡り、四谷見附橋を渡り、最後に赤信号を無視してホテルニューオータニに抜ける小さな横断歩道を小走りに渡ると、北門から上智大学に入った。
四谷見附橋のところで民族衣装をまとったインド人の女性から輪廻転生を解いたヒンズー教布教のためのパンフレットを買ってほしいと言い寄られたが、浩はウォークマンを聞きながらそのせいで聞こえないふりをしてやり過ごし、上智大学の
“同時代”の部室には珍しくOBの武藤春彦が来ていて折りたたみ椅子に坐ってテレビを見ていた。
「これは先輩じゃないですか」浩が言った。「ごぶさたしてます」
「久しぶりだねえ」春彦が言った。「今日はたまたま暇なんで、ちょっと寄ったんだ」
「確かOB会は明日ですよねえ」
「うん。と言っても来るのはどうせ俺と岸田ぐらいじゃないかな」
転勤の多い外務省勤務の公務員を父親に持つ春彦は、オハイオ州のハイスクールを卒業するまでに地球上の日本を除くほとんどの地域に住んだことがあった。英語とイスパニア語を自在に操り、英文学科の中で成績もかなり優等でありながら、演劇サークルで培われた極端にユニークな性格が外交官の一人息子にふさわしいいわゆるエリートコースを春彦に断念させた。大学四年のときの入社試験で、面接官から君はこの会社に入ってどんな仕事がやりたいかと尋ねられたら自分はセールスの仕事に興味があるから是非営業がやりたいと即座に答えるところまではいいのだが、ではセールスとはどんな仕事だと思っているかと突っ込まれると人を騙すことですと平然と言ってのける強烈な個性に、結局彼を雇うことに躊躇しなかった企業はアルバイトの英語講師の求人広告を半年前から『フロムA』に載せていた私塾だけだった。生活のほとんどはアルバイトでまかなわれていたが、春彦自身は自分の職業を舞台俳優だと信じていた。“中村座”というのが彼が所属する劇団で、六〇年代は左翼運動が学生の身を滅ぼしたように八〇年代はアングラ芝居が学生の身を滅ぼすという警句を、しんみち通りの〈いかり亭〉で酔っぱらう度に“同時代”の後輩たちに言って聞かせるのが習慣になっていた。半分は自分を愚弄し、半分は世俗に伍することのないマイナーな生き方にある種の誇りを確認しながら。
「ところで今度の“同時代”の芝居は、誰が台本書いてるんだい?」
「僕と一番ヶ瀬が共同で書きました」浩も春彦の隣に坐った。「一番ヶ瀬が原案を作って、それを僕が肉付けしてくような感じで……」
「一番ヶ瀬って誰だっけ?」
「ほら、理工学部のやつですよ。半分は幽霊部員なんですけど」
「ああ、あいつか」
「多分一番ヶ瀬は、ここ半年間大学に来ていないんですよ」
するとチャイムの音が聞こえたので、浩は春彦に軽く会釈して急ぎ足で
10号館の講堂は
講堂の階段教室に入ると後ろの方の席はほとんどうまっていて、もう前の方しか空いていなかった。通路の側の席に坐りルーズリーフを広げると、一番前の席に隼人が坐っているのをふと見出した。声をかけようと思って席を立つと、ちょうど教授が入って来たので講義が終わってからにすることにした。
隼人が出席するなんて、一体どういうわけなんだろう。あいつはここ最近学校にはほとんど来てないものな。何か心境の変化でもあったのかな。陽子との仲がうまくいかなくなったとか……。いやいや、あいつのことだ。普通の正常な精神の持ち主にはあいつの考えていることなんかこれっぽっちも分りはしないんだ。邪推しても無駄に決まっている。
「そういうわけで、当時の天文学者コペルニクス、ガリレオ、ケプラーはこぞって地動説を内心では信奉していたが、教会の圧力が強く、依然として天動説がこの時代の主流であったわけです。ガリレオの『それでも地球は動く』という言葉は諸君も知ってるだろうし、ケプラーなんかは法廷でラテン語の長広舌で弁解したそうだ。この中にラテン語を履習した諸君もいると思うが、中世の哲学書になると百行で一つの文章になっていることがある。英語も関係代名詞をたくさんつなげていけば日本語に比べてかなり長い文章が作れるが、そのもっとすごいのがラテン語なんだ。おかげでケプラーの長い演説を理解できる者がなく、教会は反駁の余地のないもっともな論理であるとして彼を無罪にした」
浩は教授の講義を聞いているうちに次第に眠気を催してきた。
「今日では誰でも太陽が地球の周囲を回るのではなく、地球が太陽の周囲を回るのだということを知ってるわけだが……」
すると突然、「先生」と叫んで手を上げながら立ち上がる学生がいた。浩は不意に眠気が覚め、顔を起こしてその学生の方を見ると隼人だった。
「あなたのおっしゃることは間違っています。アインシュタインの相対性理論によれば、運動はあくまで相対的なものであって絶対的なものではありません。一つの慣性系を定めることではじめて運動という概念が生じるのです。従って、本当に太陽の周囲を地球が回っているのかどうかは判断できない問題です。少なくとも
教授はあきれ顔で口をぽかんと開けて聞いていたが、我に返ると隼人に着席するよう指示し、話の腰を折るなと注意した。
「閑話休題、話を元に戻しますが、ここでケプラーの考案した公式を紹介します」教授は黒板に板書を始めた。「これは惑星が恒星の周囲を公転する速度を示す式で……」
浩はもうほとんど講義の内容はうわの空で、ただ板書だけは漏らさずルーズリーフに写していった。講義が進行していく度に板書の量が増加していったので、写すだけでも容易ではなかった。
「ところで前から言ってあったと思うが、来週テストを行います。この講義に出席していれば必ず答えられるやさしい問題ばかりだからしっかり勉強してくるように。時間は諸君一人一人平等に与えられていたわけだが、その時間を有効に使うか無駄に使うかでどうしても差が出てしまう。こうして見回してみてもちゃんと講義を聞いてノートを取っている学生もいれば寝ている学生もいる。この講義も四月から始まって半年ほど経つわけだが、この間ちゃんと勉強していたかどうかが今度のテストで分るわけだ。諸君全員に等しく半年という時間が与えられていたにもかかわらず試験をやってみると……」
「先生」隼人は再び手を上げて起立した。「あなたのおっしゃることは間違っています。時間の経過はどの位置でも平等ではありません。例えばブラックホールの近辺に位置する物体には、地球上の物体よりずっとゆっくり時間が経過します。また光に近いスピードで運動している物体も、同様にゆっくり時間が経過します。日常生活の中では時間の経過についてわれわれの感覚で把握できるような極端な差異はないでしょうが、それでも厳密に言うならば、この半年間全員に等しく時間が与えられていたわけではありません」
「君は私を馬鹿にしているのかね」教授は牛乳瓶の底を思わせる厚いレンズの眼鏡をはずし、滑稽なほど小さい目をパチパチさせながら怒鳴った。「不愉快だ。教室を出て行ってもらおうか」
これは実際教室を出て行かなくても素直に反省すれば許すというニュアンスを明らかに含んだ言い方だったが、隼人は無言のまま一礼して早歩きで教室を出て行ったので教授の方もいささか拍子抜けした感じだった。
教授は咳払いして再び来週の試験の説明を始めた。浩は教授に見つからないようこっそりと後ろのドアから外に出た。10号館の講堂を出て隼人を探すと、ちょうどSJハウスの前を歩いていたので浩は走って追いついた。
「一番ヶ瀬じゃないか」
「ああ、佐川か」隼人は振り向きざまに言った。「台本の方は仕上がったかい?」
「バッチリだよ。後は来週からアトリエでみっちり練習するだけだ」
「チラシの広告はどうなった?」
「飲食店関係からはあまり取れなかったけど、その分歯医者からいっぱい取れたしね」
「そいつは助かったなあ」
「どうだい、久しぶりに〈いーぐる〉でも行かないか」
「いいねえ」
〈いーぐる〉は新宿通りのジャズ喫茶で、小さな入口の階段を降りて行くとMJQの古いナンバーがボリュームいっぱいに聞こえてくる。店の中の照明は薄暗く、壁には名盤のレコードジャケットがポスターがわりに貼られている。『スイングジャーナル』を読みながら一人カウンターの隅でブラディーマリーをすすっているおしゃれに髪を刈り込んだジャズメン風の男を除き、客は誰もいなかった。
相変わらずBGMはボリュームいっぱいにかけてあるにもかかわらず、とても静かな店だと隼人は感じた。二人は奥へ進んでアンプの側のテーブルを選び、隼人は紅茶を浩はコーヒーを注文した。
「君の書いた『太陽は地平線から昇る』だけど」浩は言った。「あの主人公は君自身をモデルにしたんじゃないのかい? 性格がそっくりだよ」
「どういうところが?」
「自分一人で生きようとするところがだよ。そもそも少年がロビンソン・クルーソーみたいな生活を送るという設定自体が、君の性格を反映してるんだ。たまたま難破した船には図書館に届けるための本がたくさんあって、その全部を読破することで少年は様々な英知を身に付ける。最初は自給自足で原始生活を送っているが、やがて鉄を精製することを覚え、コンクリートの家を建て、合成繊維の衣服を着てたった一人で文明社会を築き上げる。ラストシーンでは少年がジェットホイルを作って文明国に帰ってみると、核戦争で人類は全滅しているなんて、現実離れしているけどなかなか面白い。こんな風に自分たった一人で何十億人分の仕事をやってしまうとこなんか、何か君の美学が出てるよ」
「なるほど」
「だけどさあ、ちょっと滑稽だと思ったのは自分一人で放送局とテレビを作って番組を放送するっていうシーンだ。自分で放送して自分で楽しむってのは無意味だよ。でもすごかったのは主人公の博学ぶりだねえ。無線工学に関して卓越した専門知識を持ってるじゃないか。理工学部の学生ならあの程度は知っているものなのかい? 新聞学科の僕に言わせれば、トランジスタだとかICなんて単語は、聞いただけで拒絶反応を起こしかねないよ」
「大したことないさ」
「そうかなあ。まるで実際に君が放送局を作ったことがあるような、そんな感じがしたよ。あの知識はすごかったもんな」
一瞬、浩の顔に意味あり気な微笑が走ったように隼人には思えた。心臓の鼓動が速まってくる。浩は知っているのだろうか。俺が昨日






「どうしたんだ?」浩が言った。「何か気に障ることでも言ったかい? ひょっとしたら君は本当に放送局でも作ったことがあるんじゃないのか?」
隼人はますます焦燥した。やはり浩は


「ほら、君は高校のときハムやパケット通信なんかをやっていたんだろう? 時々いるじゃないか、ハムのマニアでラジオの放送局を作っちゃうやつ」
コーヒーと紅茶が運ばれてきた。
「何か言ってくれよ。沈黙を続けるのはよくないぜ。気分でも悪いのかい?」
隼人は何も答えなかった。
「何かあるな。ちょっと変だぞ」
浩は少しからかうような微笑をたくわえた余裕ある表情で隼人を見つめた。間違いない。浩は一切を知ってるんだ。グリーンめ、こういう卑怯な仕打ちは許さないぞ。知ってるなら知ってると何故はじめから言わないんだ。
「分ったぞ。君は海賊放送をやったことがあるんだな」
体中の血が逆流し、火がついたように顔がほてってくるのを覚える。
「いい加減にしろよ。こんなやり方、俺は好きじゃないんだ」隼人は立ち上がって怒鳴った。「芝居はやめて、もう本音で話をしたらどうなんだ。お前がグリーンのしもべであることは先刻承知なんだ」
すると浩は唖然とした表情で隼人を眺め、悪意のない目で何のことかさっぱり見当もつかないと訴えていた。しばらく気まずい状態が二人の間に続いたが、隼人は気を静めて着席した。ちょっと早合点が過ぎたのだろうか。俺はどうも人を疑い過ぎる傾向がある。ひょっとしたら浩は何も知らないのかもしれない。
「そんなに嫌なこと言っちゃったかなあ」浩がようやく口を切った。「まあ気に障ったら許してくれよ。たださあ、ハムをやったことのある人間なら誰でもその……一度や二度は近所のテレビやラジオと混信してさあ、いろいろ苦情を受けたことがあるもんだって話を西村から聞いたことがあるんだ。別に悪気があって言ったわけじゃない。その辺を分ってくれよ」
浩の特に底意のなさそうな口調に、隼人は自分が軽率な誤解をしていたことを徐々に納得していった。
「いや、俺も怒鳴ったりして悪かった」
「ところで」浩は空になったコーヒーカップを弄びながら言った。「一番ヶ瀬は四谷に下宿してるんだっけ?」
「ああそうだよ。ここから歩いて行ける場所にあるんだ」
「でも四谷なんて、家賃が高くないか?」
「それが高くないんだよ。前に俺の部屋に住んでいた人が自殺してねえ、それで借り手がなくて家賃が半額に値下がりしたんだ」
「そういうとこに平気で住むなんて、一番ヶ瀬ぐらいだよ」
「まあそうだろうな」
「恐くないか?」
「ああ」
「自縛霊なんか出てこないかい?」
「今のところお目にかかったことがない。だけど、俺の部屋に前住んでた人の自殺って、ちょっと変わってるんだよ。これは管理人から聞いた噂なんだけど、何でも池袋のサンシャイン60のてっぺんから飛び降りたそうだ。死体はグチャグチャになったけど、ただ片手にしっかりと一枚の紙片を握ってたんだ」
「へえっ」
「この紙片を広げてみると、何が書いてあったと思う? こうなんだ。『私は絶対空を飛べる』」
「ますます気味悪いなあ」
隼人はパーラメントを一本取り出して口にくわえ、ライターで火を点けた。ジャズメン風の男は立ち上がって勘定を払い、店を出た。
もし浩にまだ




「話は変わるけど、佐川はこんなことを考えたことはないかい?」隼人は言った。「もしかしたら世の中の人間がこぞって自分一人を騙しているのかもしれない。世の中の人間がみんなグルになっているものだから、自分一人ではどうしてもそれを暴き出すことができない。俺たちは二十世紀という時代に地球という星に生まれたらしい。だがこれは本当なんだろうか。ひょっとしたら君が生まれるほんの少し前に世の中が出来上がったのかもしれない。そのほんの少しの時間に、君以外の世界中の人間は細部に亙って打ち合わせをしておき、手の込んだ詐欺を君一人のために実行しているとしたら……。君が生まれる前に世界大戦というものがあった。世の中の誰もが必ず君にそう教えてくれる。しかし本当に世界大戦はあったのだろうか。ただみんなが口をそろえて世界大戦というものがあったと同じことを繰り返すので、君は疑うことなく信じてしまっているのではなかろうか。地球は本当に丸いんだろうか。どこか水平線の彼方まで進んで行けば、大きな滝があるのではないだろうか。だが誰もが地球は丸いのだと唱えるので、君はうっかり騙されてしまう。ロケットで宇宙へ行って来たと称する偽宇宙飛行士の合成写真を君は見る。確かに地球は丸い。そしてそれが精巧なコンピュータ・グラフィックスでできた写真であることを、君は最後まで見破れない。こんなことを考えたことはないかい?」
「小さい頃、似たようなことは考えたことがあるなあ。よく両親が宇宙人になったって考えたことがある。この前までやさしかった父親が何か急に無愛想になったりすると、ひょっとしたらこれは偽者なんじゃないかって考えたり……。きっと宇宙人が本物のお父さんを殺して入れ替わったんじゃないだろうか。こんなことはよく考えたね」
「そうか。でもこの妄想を広げていくと更にすごいものになる。例えば君は今コーヒーカップをそうやっていじくってるけど、果して本当にそのコーヒーカップはそこに存在しているのだろうか。確かに君の目には白い碗がうつっているし、君の手には固い手応えがある。だがもしも君の目がただコーヒーカップがそこにあるかのように錯覚しているだけだったとしたら、君の手がただコーヒーカップがそこにあるかのように感じているだけだったとしたら……。君の周囲の世界は本当は存在していないのに、まるで存在しているかのように君の狂った五感が感じているだけだったとしたら……。どうだい、こんなことを考えると恐くないかい? そして俺自身もひょっとしたら君の前に存在していないのかもしれない。一切は君の幻なのかもしれない」
「それさあ、独我論って言うんだろ? 今年僕は神父が教えてる哲学科の専門課目を取ってるんだ。それで知ってるんだけど……違ったかな?」
「いや、確かに君の言うとおり、こいつは独我論と呼ばれている。俺はさあ、独我論を否定した論理と神の存在証明の二つをいろいろ収集して調べてるんだけど、誰もまだいないんだよ。独我論が間違いだってことを完璧に証明した哲学者はね。彼らに証明できたことは、せいぜい独我論的仮定を否定した方が自然だってことぐらいさ」
「絶対確かなことは自分が存在してるってことだけだろう?」浩は言った。「自分は存在しているもんな。だってさあ、自分が存在してるかどうかって考えてみたらすぐ分るさ。もし自分がいなきゃ、自分が存在してるかどうか誰が考えてるのかってことになる。ただここで言う自分ってのは、自分は自分でも自分の肉体じゃなくて自分の意識だけに限られる。つまり自我だ。デカルトの『我思う。故に我在り』だ。こいつだけは絶対間違いない認識だよなあ」
「ところが必ずしも『我思う。故に我在り』が一番確実な哲学の第一原理ってわけでもないんだよ。パスカルの理論からすれば、『神有り。故に我思う。故に我在り』となる。つまり、『我思う』より以前に神が存在していなくてはならないんだ」
「何だかよく分らないなあ」
「つまりこういう意味だよ。ここで言う神ってやつは存在という観念そのものだと考えればいいんだ。存在するという状況があり得るということ。これが何よりもまず第一に成立しなくてはならない。それが『神有り』の意味なんだ」
「でも何故神様が存在の意味とイコールにならなくっちゃいけないんだい?」
「それはさあ、ただ名前の問題だよ。物理学で扱う宇宙を含んだ一切の存在の総称。分るかなあ。とにかくありとあらゆるものを一つにまとめたもの。こいつに神っていう名前がついてるだけなんだ。つまり神でないものはない。存在するすべてが神に含まれてるんだ」
「なるほど。でもさあ、何故そんなものに神様って名前をつけたんだい? 神様っていうからには拝み奉られるようなものでなくっちゃ。信心深い人の願い事を聞いてくれるとか、悪人に罰を与えるとか、そういうものでないと神様じゃないよ。世の中全部を一つのものと考えてそれが神様だなんてちょっとおかしいよ。だってそんな神様に意識なんかあるのかい? 意識がなくっちゃ願い事も聞いてくれないし、罰も与えられやしない」
「ところがこの大宇宙には統一した意識があるんだ。厳密には大宇宙じゃなく、大宇宙を包含したあらゆる存在ということだけど、ここに一つの意識がある。そしてこの意識の存在を証明することがロネガの神の存在証明なんだ。まあ神の存在証明はいろいろあるけど、一番有名なアンセルムスの本体論的存在証明は俺に言わせれば単なる言葉の綾に過ぎない。宇宙があまりに秩序立っているから神が存在しなくてはならないとするテエール・ド・シャルダンの説なんかも有名だけど、これもちゃんとした証明にはなっていないさ。ロネガの批判論的実在論が俺の知るかぎり最も納得のいく神の存在証明をやってるんだ」
「それはどんな証明なんだい?」
「一言で言えば、われわれ人間に平等に“知的志向性”が分配されている事実が神の存在根拠なんだ。デカルトの『方法叙説』を読んだことあるかい? あれの最初の文章にこういうのがあるだろう。『
「分ったような分らないような話だなあ」浩は言った。「ところで独我論の方はどうなっちゃったんだい? 独我論の話なら僕もついていけると思うよ」
「そうだなあ、独我論を否定する説の中で一番理屈が通っているのはやっぱりサルトルの考え方だよ。サルトルは『我思う。故に我在り』を『思う。故に我及び我以外のものが同等の確率で在り』と唱えてるんだ。この『思う』というのは主体のはっきりしない意識のことだ。まず意識がある。然る後に意識の対象物となる事物が同等の確率で存在しているというわけだ。自我に他の事物に対する優先権を与えないんだよ。意識の主体としての自我の存在は事後的な論理を経てはじめて確認される。最初は『我思う』じゃなくてただ主体のない『思う』だけが現象学的にある。しかしだよ。サルトルの主張そのものは正しいけど、これでもまだ完璧に独我論を否定できたわけではないんだ。事後的な論理を経ようが経まいが直観的に把握できようができまいが自我の存在は確認されている。そして自我以外の存在は確認されていない。だから依然として独我論はわれわれを懐疑の無限級数へ陥れる」
浩は自分の話をもうほとんど聞いていない様子だったので、隼人は話すのをやめて二本目のパーラメントをくゆらした。
「結局さあ、君は何が言いたいんだい?」
「つまりさあ」隼人はしばらく沈黙を置いた後、浩の心に探りを入れるよう慎重に言葉を選びながら話し始めた。「ひょっとしたら今まで自分が疑うことなく信じてきた常識だとか世界観だとかパラダイムだとか、とにかくそういう
「例えばどういうことだよ」浩が言った。「具体的に説明してくれよ」
「そうだなあ、例えば……ひょっとしたらこの世の中の人間は、たった一匹の小人の異星人に支配されているのかもしれない。肉眼では見えにくい特殊な糸を人間たちの体中に付着させ、異星人が意のままにわれわれを操っているのかもしれない」
店の入口からサラリーマン風の男が一人で入って来てカウンターに坐った。常連の客らしくマスターと親し気に話している。ほとんどの客はこの店に一人で来る。あるいは一人の時間を持ちたがる客ばかりが〈いーぐる〉を行きつけの店にすると隼人は思った。
「ところでさあ、昨夜テレビで海賊放送やってたの知ってるかい?」
隼人は突然頭を殴られたような思いがした。
「知らないかい?」浩はそう言って心持ち身を乗り出した。「ほら、八時頃から十時ぐらいまでずっとやってたじゃないか。それも全部のチャンネルでやってたんだぜ」
「ああ」隼人は手が小刻みに震えるのを浩に悟られないよう気にしながらうなるように喉の奥から声を絞り出した。「知ってるとも。でもどうして?」
「いや、別に何でもないさ。ただ一番ヶ瀬も知ってるかと思ってね」
浩は意味あり気に微笑した。少なくとも今の微笑はどこか意味あり気だったように隼人には思えた。浩は腕時計を見て勝美が自分の下宿に来ることになっているのでもう行かなくてはならないと言い、隼人が自分はもう少しここにいたいと言うのを聞くとコーヒーカップの横に数枚の硬貨を置き、そそくさと背を向けてその場を立ち去った。隼人は浩の後ろ姿を凝視し、


浩が下宿に戻ると派手な化粧というよりは仮装行列にでも出るような恰好の勝美が玄関のところで待っていた。
「どうしたんだよ」浩は驚いて言った。「コンサートの衣装でそのまま来たのかよ」
「違うわ」
「じゃあ何でそんな恰好してんだい?」
「浩とディスコに行くためよ」
「冗談じゃないよ」浩は吐き出すように言った。「突然ディスコなんか行けるかよ」
「前から言ってるじゃないの。一度だけでいいから浩と踊ってみたいって」
またこれだ。浩は内心舌打ちした。勝美はこれまでにも時々一緒にディスコへ行こうと浩にせがんだことがあった。ディスコへなど一度も行ったことのない浩は、下手をすると彼女の前で恥をかきそうなのでいつもこういう誘いは断ることにしていたのだ。
「今日はもう断り切れないわよ」勝美は脅すような口調で言った。「いいわね」
「でも気が乗らないなあ」
「あなた男でしょう。そんな意気地のないことでどうするの。一生に一度くらい勇気を出して行ってみなさいよ」
「誰が意気地なしなんだ」浩は勝美が母親のような口を聞いたことに少々腹を立てた。「じゃあ一度だけだぞ」
「そうこなくっちゃ」
浩たちは中野新橋から丸ノ内線に乗り、新宿三丁目で降りた。駅を降りるとウエンディーズに寄ってベイクドポテトを食べた後、『テアトル新宿』のビルに入って四方が鏡になっている洒落たエレベーターに乗った。エレベーター自体がもうディスコだ。浩はそう思った。
エレベーターを降りると受付の前に「服装のふさわしくない方はお断りします」と書かれた貼紙がしてあり、浩は一瞬気おくれがした。勝美の方はいかにもディスコにふさわしい妙ちくりんな服装だったが浩の方はこのまま大学で講義を受けても不自然でない恰好だったので、自分だけ中へ入れてもらえないのではないかという危惧が脳裏をよぎった。ちょうどそのとき四、五人の思い思いの恰好をした連中が――ある者はモヒカン族のように頭の中央のパーマをかけた部分を残して両側をすっかり刈り上げ、ある者はまるで逆立ちでもしているかのように油で頭髪を立たせ、ある者は顔にピエロのような白いドーランを塗り、ある者は着物とも洋服ともつかない派手な衣装で身を包み――浩たちを通り越して受付に料金を払い、ディスコへ入って行った。浩はますます入りづらくなる思いがした。浩がまごまごしていると勝美が腕を引っぱって受付に連れて行き、料金を払って中へ入った。
ディスコに入ると強烈なロックの音で頭が割れそうになり、浩はしばらくの間耳を手で押えていなければならなかった。あたりは全体に薄暗かったが天井から目まぐるしく回転する色とりどりのライトはまぶしかった。中央に踊る場所があり、その周囲を取り囲むようにテーブルが並べてある。隅のカウンターではアルコールやジュース類を販売している。
「ねえ、早く踊りましょうよ」
勝美は浩の耳元で大声でそう言うと、またもや浩の腕を引っぱって無理矢理踊る場所に連れて行った。
「おい、困るよ。どうやって踊ったらいいかよく知らないんだ」
「えっ? 何て言ったの? 聞こえないわ」
勝美の怒鳴る声が――怒鳴っていることは顔の表情から明白だった――騒がしい音楽に混じってかすかに、まるでささやくように聞こえてくる。浩は勝美の耳元で同じことを繰り返した。
「馬鹿ねえ、そんなの滅茶苦茶に踊ればいいのよ。音楽のリズムに体を合わせればいいのよ」
「えっ? 何て言ったの?」
「リズムよ。リズムに乗ることよ」
勝美はそう怒鳴りながら体を動かし始め、周囲で巧みに踊っている連中と同じような板についた動作になった。浩は仕方なく勝美を模倣するようにしてしぶしぶ踊り始めた。はじめはどうしても羞恥心が邪魔して動作が音楽についていかなかったが、そのうちに手足がリズムに慣れてきて、踊り方にぎこちなさがなくなっていった。徐々に理性が消えていき、やがて頭が空白になっていくような快い肉体の呼吸を覚えながら、自分が限りなく8ビートに同化していくのを全身で感じた。浩は自分がもはや理性を有する一人の人間ではなく、感覚によってのみ生きる一匹の獣と化しているのに気がついた。そうして自分は獣なんだという意識が何故かこの上なく心地よかった。浩は歓喜の絶頂にいた。周囲で踊っている連中たちの中でもはや自分は決して異端者なんかでなく、りっぱな一人前の市民権を手に入れたことを激しいステップやリズムに乗った腰の振りや手足の動作を通じて浩は確信していた。
不意に音楽が消えると浩はぜいぜい言いながら肩で呼吸している自分を見出した。またすぐ別の音楽がかかったが浩はすっかり疲れてしまい、もう踊る気分にはなれなかった。
「浩、もう出ようか」
勝美も額から汗が出ているらしく、厚化粧が少し溶けかかっていた。
「そうするか」
「えっ? 何だって? もっと大きい声で言ってよ」
「そうするかって言ったんだよ」
「えっ? まだ踊り続けたいの?」
「何て言ったんだい? 聞こえないよ」
浩は口で説明するのは不可能だと悟り、踊る場所から降りて一人でディスコの出口へ向かった。途中で振り返ると勝美も後から走ってついて来た。
ビルの外に出るともう夕方だった。
「すごいわ」勝美が言った。「浩があんなに踊れるとは思ってなかったわ」
「僕だって踊れるとは思ってなかったさ。でもこれくらい大したことないよ」
「そんなことないわ。ねえ、今度よかったら六本木のディスコに行かない? 外国人がよく来るディスコを知ってるの」
「そうだなあ」
浩は深呼吸した。踊るときあまり激しく腕を振り回したせいか、肩が少し痛かった。
いつもサンドイッチを買うコンビニエンスストアの側のレンタルビデオ屋で隼人はスタンレー・キューブリック監督の『時計仕掛けのオレンジ』を借り、アパートに戻ると早速ナショナルのマックロードG15で再生してみる。物語の最初のところで主人公アレックスとその仲間の不良少年たちが小説家の屋敷に忍び込み家人に暴力をふるうシーンで、あまりの残酷さに少々気分が悪くなって早送りボタンを押した。再生ボタンも押したままなので、早送りのスピードは遅いがある程度映像も見ることができる。アレックスが映画館に連れて行かれ、目蓋を機械で大きく開かれたままにされるシーンで早送りボタンを戻し、再び通常のスピードでストーリーを追っていく。各章がすべて「よう、これからどうする」で始まるアンソニー・バージェスの原作も読んでいたので、途中を抜かしても映画の内容はだいたい分った。
隼人は机の上に置いてあるナップザックからボードを取り出し、押入から工作用具一式を準備するとビデオをつけっぱなしのまま作業に取りかかった。ハンダゴテで回路を変え、映像と音声の電気的信号を増幅させる機能を持たせた。ボード上に
ビデオを止めテレビに切り換えると白髪のアナウンサーが画面の中央に無表情に坐っている。
「昨日午後八時頃から十時頃にかけて東京周辺地域のテレビにNHK民放合わせて七局に海賊放送が流れた事件で、警視庁は逆探知の結果海賊放送の電波の発信源は板橋区周辺と考えられることを明らかにしました。また今後警察では聞き込み捜査を中心に……」
隼人は『時計仕掛けのオレンジ』の暴力シーンで思わず早送りにしたのと同じ心理で、ふとビデオデッキの右方向に矢印が二つ並んだボタンを押した。頭痛は超音波を思わせる張り裂けるような耳鳴りを伴い、熱が出る前の悪寒にも似た不快な小刻みの
胃はすっきりしたが頭はまだ重く、洗面所の水道の蛇口をいっぱいに開き、口をゆすいでそのまま不確かな足どりでベッドまで歩く。テレビの画面はまだ直っていない。外の大気を吸えば気分がよくなるのではないかと思い、朦朧とした意識のまま窓から身を乗り出すと一瞬強烈な目眩に襲われる。隼人は思わず驚愕した。テレビのかわりに外の世界が早送りになっているのだ! 耳鳴りが隼人の思考を苛んだ。車は目に止まらない速さで線の形に残像を作りながら流れ、歩道では通行人の誰もがせわしく駆け回っていた。ライトが点滅するように世界は何度も明るくなったり暗くなったりした。太陽が東から昇って西へ沈む運行を猛スピードで繰り返しているのだ。隼人は咳込んだ。時間は信じられない速さで過ぎ去っていく。太陽の昇って沈む回数から考えると、もう一ヶ月ぐらい経過しているに違いない。太陽は更に速度を増していく。たちまち一年が過ぎ、二年、三年……十年、二十年……百年……隼人はおぼつかない足どりでベッドまでたどり着くと横になった。すべてが混沌としていて精神を集中させることができなかった。
二百年後、地球はグリーンの種族に征服され、人類は人権を剥奪されて彼らの家畜の地位に甘んじた。隼人は寝返りをうった。汗をかいているようだった。
千年後、グリーンの種族も既に滅び、地球はワニから進化した二本足で歩く爬虫類が支配した。彼らは有機体を素材に道具や機械を作る独自の文化を発達させ、そのうちにクラゲ型の宇宙船をたくさん製造し宇宙侵略を開始した。ワニたちは侵略した異星人を自分たちの奴隷としてかしずかせ、大宇宙の覇者として末長く君臨し……。
気がつくとテレビの画面は空チャンネルの状態になっていた。隼人はテレビを消し、ビデオデッキの早送りボタンを戻してからもう一度テレビをつけてみた。すると画面には今日の七時のニュースがうつる。早送りボタンを試しに押してみても画面には何の変化も見出せない。すべてが正常だと隼人は思った。異常な要素はもはやどこにもない。
隼人は再びボード作りに専念し、時々つけっぱなしにしたテレビを見たりチャンネルを無作為に回したりして、作業が完了する頃にはすっかり真夜中になっていた。
推定脳細胞総数 149億3880万個
新宿通りに出てパチンコ屋の隣の〈トウェニーワン〉でモーニングセットの朝食を済ませた後、隼人は一旦アパートに戻ってウーロン茶でいっぱいにした水筒とハンディーカムCCD―V50を持つと留守番電話を伝言機能にしてメッセージを録音し、麹町駅へ急いだ。
有楽町線に乗って小竹向原で下車し、小走りで




RUNのファンクション・キーを入力するとTV―360に『今僕は君に語りかける』のテロップが鮮やかにうつる。
「今僕は君に語りかける。どうか心の一番奥にある真摯な耳を僕の話のために傾けてほしい。君は覚えているだろうか。








浩が部屋に入ると珍しくにぎやかで、昨日会った春彦をはじめ春彦と同期の良子と俊文が来ていた。良子は仏文学科の大学院に進学し、俊文は大手の都銀に就職している。
「これは久しぶりですねえ」浩が言った。
「こんにちは」良子が言った。「みんな元気してる?」
「ええ」
「今日はどこでOB会やるんだい」春彦が尋ねた。
「〈ケーブルカー〉で予約しときました」
「それって〈村さ来〉の隣のカフェバーだったわよねえ」
「そうですよ」
「あそこはカラオケがあるんだ」春彦が言った。「俺は一度マイクを握ると離さない方だからなあ」
三人が楽しく歓談している一方、俊文は一人部屋の隅で『ヤングジャンプ』を黙々と読み耽っていた。
「岸田先輩」浩が言った。「銀行っていそがしいですか」
「まあまあだよ」俊文は言った。「俺は融資係に配属されてんだけど、残業はここが一番多いね」
「なるほど」
「まあ佐川も今から就職のことを考えて何か準備しといた方がいいぞ。英検だとか情報処理だとか、とにかく資格を取っとくと有利だな。体育会と違って、演劇サークルなんて就職はただでさえ不利なんだから」
浩は無言のまま吐息を漏らした。大学に入学して以来、浩は“就職”という言葉に生理的な強い嫌悪感を覚えていた。小学校の頃から親に無理矢理塾に通わされ、中学、高校、大学と節目ごとにそれぞれの一流校を目指して受験勉強を強いられてきた自分が、大学に入ってまで何故また同じような競争社会のゼロサムゲームに興じなければならないのか、もっと自分のやりたいことだけをやればいいのではないかという反抗心が浩にはあった。大学を出たら人並みに背広を着て会社に通勤し、人並みに結婚して家庭を持つといった固定されたうんざりする線路のようなものを、浩は根本的に破壊したかった。浩がアングラ芝居の魅力にとりつかれ時間の大半をそこに費やすようになったのも、自己満足でしかない拙い表現でさえ容認されるその種の演劇を通して自我や個性を最も強く確認できたからだ。いいところへ就職するために一つでも多くAを取ろうとあくせく勉強したり、資格を身に付けるため大学をさぼっても専門学校へ通う多くの友人たちを見て浩は内心軽蔑していた。だがそれにもかかわらず自分も大学を出たら結局は人並みに就職するしかないのだと漠然と意識していたので、できるだけ先のことは考えまいと心に決めてこれまで学生生活を送ってきた。それが俊文の話で痛いところを突かれたような気がして浩は少々戸惑った。
春彦は立ち上がり、部屋のテレビをつけてみた。チャンネルをぐるぐる回してみたがどこも同じように背広姿の群衆が朝の丸の内のオフィス街に通勤する光景がうつる。
「これまだやってるのか」春彦が言った。「家を出る前ずっと見てたんだけど、朝からやってるものな」
「これっておとといの海賊放送と関係があるのかしら。あたし、この前の海賊放送なら全部見たわ」
……君にも見えるだろうか。今テレビには
透明な糸
を生やした人間たちがうつっているはずだ。残念ながらオーラがほとんど発散していない今の僕には
透明な糸
が見えない。だがあるいは君には見えるかもしれない。いや、君には見えるはずだ。僕は今君がテレビの画面の中に無数の
透明な糸
を見て戦慄していることを信じたい。今僕は君に語りかける。
透明な糸
に立ち向かう方法は一つしかない。それは
自由意志
だ。自分は絶対に自分の意志のみで行動し、思索するのだという明確な自意識が
自由意志
の源泉に他ならない。以前僕にも
透明な糸
が生えかけたことがある。そのとき僕は自分の
自由意志
を最大限に働かせた。自分は絶対にグリーンの手先などになるものかという祈りが、最後には結局自分を救うことになったのだ。
自由意志
とは本当の自分の意志のことだ。自分が本当に望んでいるものは何なのか。自分では自分のことなどすっかり分っているつもりでいながら、しかしつきつめて考えてみると案外自分が何を望んでいるのか分らなくなってしまうことが多い。サイバネティックスは1と0で大宇宙を四次元的に描写する決定論だ。われわれが呼吸をしていることも、気まぐれに首をかしげてみることも、サイバネティックスは1と0の膨大な配列で最初から予言してしまう。だがいかに量子力学が発達し、現在のような蓋然的アプローチで統計的に物と物との関係を把握するのではなく、古典力学のように必然的アプローチで一切を認識できるようになったとしても、それだけでは説明されつくせないものがある。物理学がいかに発達しても最後まで解明不可能な何か。つまり物質に最後まで還元され得ない何か。それが
自由意志
なのだ……。




















自動販売機でジュースを買って来ようと思い、浩がふと立ち上がって部室を出ようとすると俊文に呼び止められ、ペプシコーラをついでに買って来てほしいと言って百円玉を渡された。浩は春彦と良子にジュースはいらないかどうか尋ねたが二人ともいらないと答えたのでそのまま部室を後にした。
陽子たちは四谷の録音スタジオを貸し切りで明日のコンサートに向けて朝から練習に励んでいた。曲が一通り終わると十五分休憩にした。録音スタジオの休憩室は赤い壁で囲まれていて窓がなく、自動販売機とテレビと長椅子以外ほとんど何もない殺風景な部屋だった。ほこりをかぶった二本の蛍光灯が弱々しく灯っているばかりで薄暗く、やたら煙草の臭いが鼻につくので陽子は映画でよく見る中国のアヘン窟を連想した。部屋には窓があるべきだ、窓がないとどうも落ち着かないと陽子は思った。ビルの地下にある飲食店などには窓がなく、営業中はいつも電灯が灯っているのはそれを消したら真暗になってしまうからだ。しかしどんなに電灯が明るくてもどこか暗い感じは完全にはぬぐい去れない。やはり窓から差し込む日の光でなければだめなのだ。
「ねえ勝美」亜理沙が煙草をくゆらせながら言った。「この店の隣に確か面白いカフェバーがあるでしょう」
「うん」勝美はうなずいた。「〈BUBBLES BUBBLES〉のことでしょう。昔浩がバイトしてたんで知ってるの」
「そこってさあ、創作料理を食べさせるんでしょう」
「そうよ。浩もバイトしてたときに一つ発明したのよ。確か納豆とジャムを半々にしてカナッペの上にのっけるやつ」
「ふうん、でもそれってちょっとまずいんじゃない?」
「そうでもないわ。あたし一度食べたことあるけど、結構いいと思うよ。今でもまだメニューに生き残ってるぐらいだから、わりと傑作だったんじゃない。あの店って人気のないメニューをどんどん削っちゃって、新しいのと取り替える仕組みになってるの」
陽子は一人話題に加わらず、長椅子の側にみつけたマガジンラックから週刊誌を取り出すとパラパラと無作為にページを繰っていく。ふと大きな目立つ活字で『近頃の女子大生ときたら……オジサンまいっちゃう』と書かれたルポを見出し、興味を覚えて読んでいく。読んでいくにしたがって怒りに近い感情が湧いてくる。ルポの内容は最近の女子大生は貞操観念がないとか、結婚相手を選ぶときは第一に経済力を重視するとか、高度経済成長期に生まれただけあって胸の発育がいいとか、言葉遣いが悪く社会常識がないとかいった何度も聞いたことがあるようなありふれたものばかりで退屈だった。今の女子大生はやたら遊び歩いているばかりで勉強しないという文章を目にしたとき、陽子は思わずこのルポを書いた人間の頬を張りたい衝動にかられた。大学では理工学部を除けば女子学生の方が男子学生よりも成績がいい。それに学生運動に明け暮れていた一昔前の学生より、今の学生の方がまだ大学を学問をする場所にさせているのではないだろうか。少なくとも大学院に進学したり、司法試験や公認会計士試験や公務員試験を受験しようとする学生は文句なく勉強している。陽子はそう思い腹立たしかった。だがそれよりも頭にきたのはルポの書き方が女子大生という集合単位ですべてを割り切ろうとしていたことだった。自分は亜理沙とも勝美とも違う一個の人間のはずだ。その自分がこんな風に女子大生という集合の中で一緒くたにされてみんな同じだと見なされてはたまったものではない。それに自分のことはこのルポの記者よりも自分の方がよく分っているはずだし、一段高いところから眺め下ろすように他人のことを勝手に分類し、勝手に単純な図式にあてはめてしまうのは傲慢にもほどがある。陽子はマガジンラックに週刊誌を投げ捨てた。気がつくと勝美たちは部屋に備え付けのテレビを見ていた。画面には山手線の車内がうつっている。
……人類の歴史、それは欲望と惰性が推進させた歴史だ。人類は自らの物的快楽を満たすために文明を発達させた。何故人類は社会を作ったのか。それはその方がより大きな物的快楽を手に入れることができるからだ。一人で自給自足するより多くの人間が分業で生産した方が効率が上がる。そして生産性の向上はより大きな物的快楽の獲得につながる。何故近代に入って政治形態は封建主義から民主主義に移行したのか。人間の法的平等が正義の理念にかなっているから民主主義が選ばれたのだろうか。そうではない。民主主義はただ単に資本主義的な経済体制を社会に確立するのに都合がよかったから選ばれただけなのだ。では資本主義は何故選ばれたのか。それはその方が生産性が上がるからだ。生産性が上がれば社会全体の物的快楽はより大きなものとなる。即ち、人類は理念のためでなく、ただ物的快楽を追求するために、ただそれだけのために民主主義社会を作り上げたのだ。歴史を動かすものは正義ではない。マルクスの予言ははずれ、資本主義社会の後に共産主義社会は到来しなかった。これは何故か。資本主義社会の方がより大きな経済成長が期待できるからだ。そして経済成長がまたしても物的快楽に通じている。われわれの二十一世紀はどこへ行くのだろうか。われわれの乗った船には舵がない。われわれはテクノロジーを発達させ、スペースシャトルに乗って月へ行くことも可能にした。だがわれわれは決して自分の意志で文明を発達させてはいないのだ。われわれは何者かの見えざる力によって歴史をある方向へ動かすよう仕向けられている。何故だ。何故君は気づかないのだ。邪悪な力がわれわれを破滅へ導こうとしていることを。人類は核兵器を発明した。それが人類全体にどういう意味を持つのか考えることなしに、ただ歴史の流れに乗って惰性的に発明してしまったのだ。そしてわれわれはこの発明品を十分に管理する能力を持っていない。われわれが自らを絶滅させるためにこの発明品を使用することは絶対ないとどうして言えるのか。われわれは惰性によってのみ行動する。もし惰性が核兵器の引き金を引く指に力を入れさせるとしたら、われわれは何の考慮も反抗もなく破滅に到る方向へ身を委ねるだろう。だが何故君は気づかないのだ。これこそグリーンの思うつぼではないか。
透明な糸
はわれわれを生きることに対して無気力、無関心にし、日常の惰性に従順にさせてしまう。僕は今君に語りかける。そして僕は君を、全人類を、二十世紀を糾弾する……。


「そろそろ行かない?」陽子は腕時計を見ながら立ち上がった。「もっと練習しなきゃ明日が大変よ」
「もう休憩終わりかあ」亜理沙は大儀そうに立ち上がってテレビを消した。「もうちょっと休んでいたいのになあ」
勝美は大きく伸びをしてしぶしぶ立ち上がり、無言のまま陽子と亜理沙の後について休憩室を出た。
隼人は水筒の蓋をはずしウーロン茶を注いだ。長い間しゃべり続けたので喉の奥が燃えるように痛い。唇をなめるとカサカサに乾燥しているのが分る。蓋に口をつけ、一息にゴクッとウーロン茶を飲み込むと冷たい液体が喉から胸を下りていく。
「グリーンは他の天体から人類を征服するためにやって来た邪悪な異星人であるが、グリーンという名称そのものが個体に対する名称なのか、種族全体に対する名称なのかよく分らない。グリーンは緑色の皮膚をした小人だ。僕は一度だけグリーンを見たことがある。グリーンが緑色の皮膚をしているのは葉緑素が入っているためと思われる。グリーンは草食でも肉食でもなく光合成をして生きている奇妙な生き物なのだ。おそらくは植物から直接進化して生まれた種なのだろう。僕は最近グリーンという種族がグリーンという個体と同一なのではないかと考えている。つまりグリーンという生物はひょっとしたらこの世にたった一匹しかいないかもしれないわけだ。今僕は君に語りかける。あらゆる生物に共通する


するとTV―360の画面が乱れ受信状態が悪化したので隼人は慌ててツマミを回して画像を調整した。ウーロン茶を一杯飲んでから再びマイクに向かってしゃべり始める。
「僕は今君に語りかける。僕は現在のところグリーンと交感できる地球で唯一の人間だ。グリーンとの交感は




劇団“同時代”のOB会は四谷には珍しいカフェバーの〈ケーブルカー〉で開かれた。浩がボトルキープしておいたウイスキーはすぐなくなり新しく注文しなくてはならなかった。ウイスキーを飲みながらサンドイッチを食べるのは何となく不自然な組み合わせだったが、浩はこの不自然な組み合わせがすっかり気に入って店の常連になっていた。
一時間もすると一次会は終わり、後に残った春彦と良子と浩と政雄の四人が〈駒忠〉で二次会を開くことになった。
店に入るとサラリーマンや学生の客で混んでいたが、入口の手前のテーブルに案内され狭いながらどうにか四人分の席を確保した。「西村は相変わらずナンパばかりやってるのかな」春彦が言った。「芝居の方はちっともやらないくせに」
「ひどいなあ、先輩は」政雄は口をとがらせるようにして言った。「今度初舞台を踏むんですよ」
「なあ西村」浩が言った。「先輩にあの話をしてみろよ」
「何の話なの?」良子が言った。
政雄は女性の前ではこういうことは話しにくいんですよと良子に前置きしてから話し始めた。半年前政雄が丸ノ内線の茗荷谷駅にある男女共用トイレに入ったところ、壁に『あたしと××××したい人へ』という落書きが電話番号と並べて書かれてあったのでそれをメモして実際に電話し、結局それがきっかけで今でも彼女とつき合っているが、彼女は爪を切らないという唯一の欠点を除けば「滅茶苦茶いい女」だと政雄は言った。政雄は得意気に立ち上がって後ろを向き、「あれをやる」とき思い切り抱きしめてくるので背中が痛くてやりきれないと言いながら、シャツをめくって女の爪跡が残った背中を見せた。良子は恥ずかしそうにうつむいて聞きたくないという顔をした。浩はふと店のテレビに目をやると新宿のアルタ前広場がうつっていた。
……万物の根源は何かという問いに対し古代ギリシャの賢人たちは様々な見解を示した。ある者は水が万物の根源だと唱え、ある者は火が万物の根源だと唱えた。この賢人たちのうちの一人だった数学者ピタゴラスは数が万物の根源であるとし、この思想はニュートンの物理学に継承された。数は大宇宙の秩序あるシステムを構成させるための不可視な暗合であると言ってよい。サイバネティックスの1と0も数だ。数は存在ではなく存在しているものの状態を描写する。そして宇宙の一切は数によって表現され得るのだ。円周率、自然対数、黄金分割、フィボナッチ定数……。どれを取ってもこれは一つの暗号に他ならない。僕は自分の脳細胞の数を半年前に電卓で計算してみた。二十歳の誕生日までは百五十億個あったと仮定すると、およそ概算で百四十九億五千七百六十万個残っていた。つまり約四千二百六十万個が失われていたことになる。この四、二、六という数字並びを記憶しておいてほしい。僕がはじめてグリーンと交感したのが一九七七年八月二日だ。ところで一九七七年の一、九、七、七という数字をすべてたすと二十四になる。そして八月二日の八と二をたすと十になる。更に二十四と十を掛け合わせると二百四十になる。これを先ほどの四、二、六つまり四百二十六に加えると六百六十六になる。僕はこの計算をしたとき思わず驚愕した。ヨハネの黙示録に登場する六百六十六という獣の数字の意味が明らかになったのだ。これは多分僕という個人に大宇宙のシステムが送った何らかのメッセージに違いない。一九七七年八月二日、この日僕ははじめてグリーンの存在を知った。僕はまだ小学生だった。あの夜僕は両親と一緒に佐渡行きのジェットホイルに乗っていた。海は恐ろしいほど荒れていた。一九七七年八月二日、告白しよう。僕はその日はじめてマスターベーションを覚えた……。
「一体、どこの馬鹿の仕業なんだろう」春彦が言った。
「でもさあ、あたしよくテレビを見てこういうこと考えるの。国会中継なんて番組あるじゃない。ああいうので大臣が真面目な顔して演説してるけど……突然ニッコリ笑って今のはみんなドラマでしたって言い出すんじゃないかって」
「一番ヶ瀬が似たような話をこの前してましたよ」浩が言った。「世界中の人間が寄ってたかって自分を騙していたとしても、自分はそれに絶対気づかないって」
政雄は日本酒の飲み過ぎでいびきをかきながらだらしなく眠っていた。
録音スタジオから自宅の“SFしてる”部屋に戻ると陽子は全身の力を弛緩させて絨毯に寝そべりながらCDでジャン・ミッシェル・ジャールの『ズールック』を聴いた。何気なくテレビのスイッチをひねるとエスカレーターとイルミネーションが巨大な鏡の中に無限に繰り返されている。
……いよいよ僕の話も最後だ。僕が一体誰なのか君は想像できるだろうか。僕は明日から再び
透明な糸
を生やした大多数の人間どもの中に埋没する。自動販売機で売っている一本のコカコーラが僕だと思ってくれれば間違いない。顔や体形やその他諸々のとるに足らない、言ってみれば製造番号のようなものでかろうじて他と区別できる以外、外見にせよ中身にせよ何の個性も持たないコピーされたコカコーラ。これが僕の正体だ。今僕は君に語りかける。僕は半日かけて心の奥底から血だらけの叫びを続けてきた。だが果して君は本当に僕の話を分ってくれただろうか。自分のやっていることが自己満足に近い悪あがきでしかないことは最初から分っている。そんなことぐらい分っているんだ。だが何故君は心を開こうとしないのか。心を開くことが、自分を変えてしまうかもしれない魂の対話に身を投げ入れることがどうしてそんなに恐いのか。君は勇気を持たなくてはならない。たとえ世界中の人間を敵に回すようなことになろうとも、己の正しいと信じる道を邁進する強靭な勇気が君には必要だ。この勇気こそ僕の言う
自由意志
なんだ。何故だ。何故君は距離をおいてしか僕の話を聞こうとしない。僕がこんなに命がけでメッセージを送っているのに君は何故心の奥底から僕の話を聞こうとしないのか。僕の話を聞くには聞くが、自分は常に安全な場所にいて僕の話を批判したり時には茶化したり……何故君はそんな卑怯なことばかりやるんだ。君は卑怯者だ。これが単なる自分に関係ない海賊放送だと思いやがって。僕は他でもない君に語りかけているんじゃないか。そう、君だ。君なんだ。僕はさっきから実は君一人のために話してるんだ。今僕は君に語りかける。これが僕の正体だ。テレビの画面をよく見ていてほしい……。




テレビの画面には鏡で無限にコピーされた8ミリビデオカメラを構えた男がうつし出される。陽子はふとその男がどこか隼人に似ていることに気づき、身を乗り出して目を凝らした。すると画面は突然空チャンネルの状態になり、しばらくすると臨時ニュースになった。臨時ニュースのアナウンサーはさっきまで続いた海賊放送はおとといのものと手口が似ていることから、警察は同一人物の犯行と見て捜査を進めているということを告げた。陽子はテレビを消し、ふと浮かんだ自分の馬鹿馬鹿しい胸さわぎを晴らすため隼人に電話をかけてみた。留守番電話が作動し、隼人の低い声が聞こえてくる。
「一番ヶ瀬です。本日外出しておりますので大変申し訳ありませんが、明日以降おかけ直し下さい。なお、この電話はただ今伝言機能を使用しておりますので、このメッセージの後信号音も鳴らなければご用件を録音することもできません。あしからず」
メッセージはここで終わっていた。陽子は受話器を戻さずにそのまま何気なく佇んでいた。すると妙なことに再びメッセージが聞こえてくる。
「君が誰なのか僕は知らない。しかし普通だったらもうとっくに電話を切っているはずだ。ずっと待っていたところから察するとよほど重要な用件があるんだろうが、残念ながら今日はどうしても君とコミュニケートすることができない。今僕がどこで何をしているのか君は想像できるだろうか。僕は君だけに本当のことを教えよう。今僕は君に語りかける」
陽子は思わず叩きつけるように受話器を置いた。体が小刻みに震え出す。どうしてよ。どうしてあんなことをしたの。自分と別れたことが原因で隼人は海賊放送を思いついたのではないかという考えが頭にとりつき、何でも自分のせいにしてしまうのは損な性格だと言い聞かせてもなお、苦く陰鬱な気分が浸透してくるのを陽子は抑制できなかった。陽子はふと光江のことを思い出した。あのときも自分のせいではないと頭では分っていながら数週間は罪悪感めいた嫌な感情に絶えず襲われたものだった。
光江は陽子の幼馴染で小学校から高校までずっと一緒だったが光江の方は大学受験に失敗し、高校を出ると予備校に通うようになった。陽子は今まで通り光江の家へしばしば遊びに行っては気に入ったロックのカセットテープを貸したり何時間もとりとめもなくだべったりしたものだったが、既に受験勉強から解放され自由にキャンパスライフを楽しんでいる陽子への嫉妬からか、光江は陽子をどことなく嫌う素振りをするようになった。少なくとも陽子にはそう思えた。今年に入って光江はまたしても受験に失敗した。二浪が決まった日、陽子は数人の友達と元気づけるために光江の家へ行った。その日の彼女は意外なことにわりと明るかったのを陽子は記憶している。陽子はキング・クリムゾンの『太陽の戦慄

推定脳細胞総数 149億3870万個
小竹向原の




「ご覧下さい」アナウンサーが言った。「これが三日前、そして昨夜私たちのテレビを妨害した海賊放送の発信源です」
空家からパソコンや


とにかく今すぐ




新宿通りを麹町方向に進み、迎賓館前を通って首都高速に乗る。道は思ったより空いていた。スロットルグリップを全回して加速すると風の抵抗で上半身が後方に押し返される。スピードメーターの針は確実に上がり、カーディガンともつれ合うやけに耳障りな風の音がスピードオーバーを告げるブザーをかき消してしまう。隼人は頬を
もうすぐ発作が起こることを察知するある種の病人のように、隼人は頭を破裂させかねない突然の激しい耳鳴りからグリーンとの交感が近づいていることを感覚的に悟り、三日前に交感したばかりの自分のバイオリズムの周期からは信じられないことだといぶかった。だがグリーンは陰険な執拗さで話しかけてきた。一瞬目眩を覚えたので隼人はハンドルを強く握り、故意に目を大きく見開いて意識をしっかりさせようと自分に言い聞かせた。結局ハオマエノヤッタコトハスベテ無駄ダッタノダ。オマエハタダ自己満足ヲ得ル以上ノコトハ何モシテハイナイノダ。いやそんなことはない、そんなことがあってはたまるものかと隼人は思った。外界に対しても自分自身に対しても俺は何かをやり遂げたはずだ。その手応えだってある。オマエハ卑怯者ダ。オマエハ自分ノコトシカ考エテイナイ。いや考えているはずだ。ダッタラ何故オマエモ諦メテ




首都高速を降り環七通りを進んで行く。コンビニエンスストアの脇の路地を曲がりギアをサードに落として徐行すると交差点が見え、そこを左に曲がってすぐのところに


「あの装置で電波を流してたのよ」隼人の側にいた主婦らしい女性が


「あたしなんかテレビずっと見てたわ」隣の女性は答えた。「こんな近所に海賊放送の発信源があるなんてちょっと恐くない?」
「そうねえ。でもどんな人が犯人なのかしら」
「さあ、どっかのテロリストか奇人変人の類なんじゃないかしら」
隼人はしばらくその場に佇んでいたが、やがて力なく欠伸をするとバイクに乗り、行くあてはなかったがとにかくできるだけこの場から遠くへ逃がれたいという思いで走り去った。
煙草の臭いがしみ込んでいる狭い楽屋の中で陽子たちはコンサート直前の最終調整に余念がなかった。今日のステージではギターの西田増美とサックスのケリー田口が正規のサイバネテイック・スキゾイドのメンバーに助っ人として加わっていた。勝美は張り替えたばかりのベースの弦をはじいては止め金の閉め具合を神経質に吟味しながら調律している。ギブソンのギターで増美はオープニング曲のイントロの箇所を何度も繰り返し弾いている。亜理沙はスティックを片手に落ち着きなく楽屋の中を何度も往復し、時々立ち止まってはコンサートが終わったとき客席にスティックを本当に投げ与えていいのか陽子に確認した。その度に陽子は無言のままうなずくだけだったが、あまり何度も聞き返すのでそのうちに少しいら立って口を開いた。
「何度も言ってるでしょう。普通のコンサートだったらドラマーは二人くらいいるけど、二人とも必ずスティックはお客にプレゼントするじゃないの。それが慣習ってものよ。今回は亜理沙がパーカッションをやるときはリズムボックスを使うから一人でしょう。だったらなおさらよ。スティックを手に入れるためだけにライブ聴きに来る客もいるわけだし」
「でもこのスティックは特別のやつなのよ」亜理沙が言った。「蛍光塗料が塗ってあって舞台を暗くすると光る工夫がしてあるスティックなの。こんなのあげたらもったいないじゃない」
「ケチなこと言わないでよ」
「そう言えばさあ」勝美がベースを弾く手を休めて言った。「話変わるけどこの前の録画撮りのディレクター覚えてる? あの人“やらせ”で有名なんだって。インタビューだってまるで台詞棒読みの芝居だったじゃない。自分の言葉で一言もしゃべらせてくれなかったわ」
「あら、あれが普通よ」陽子が言った。「本当だったら最初からシナリオ渡されてリハーサルを済ませてからやるものなのよ。そりゃあ、アドリブの要素はいつだってあるだろうけど……まあ、あんなもんよ。バラエティー番組なんてドラマ以上にドラマなのよ」
「なるほどね」亜理沙が言った。
「だけどさあ」勝美は言った。「昔こういう事件があったの覚えてる? テレビのドキュメント番組で不良少年たちの実態をテーマにしたのがあったの。それでどうしても不良少年たちがさあ、集団で浮浪者をリンチするところが撮りたくなったわけ。そこでディレクターが不良少年たちにギャラを払って“やらせ”のリンチを仕組んだのよ。その結果プータローが死んじゃってさあ、警察が介入して調べてみると“やらせ”で殺したってことがバレちゃった事件」
「知ってるわよ」亜理沙が言った。「結構大きな社会問題になったじゃない」
「あのときのディレクターがこの前の人らしいのよ」勝美は言った。
「嘘」陽子は頓狂な声を上げた。
するとそこへマネージャーの木村丈太郎が入って来た。木村は若い頃ハードロックのギタリストで鳴らした男で引退後はもっぱら裏方に回り、新人バンドの発掘と育成、レコーディングのプロデュース、ツアーのプロモーター関係を主な仕事としていたが、元ミュージシャンだったキャリアを生かしコンサートの音楽監督や曲のアレンジなども担当することがあった。今回西田増美とケリー田口の二人を助っ人として調達できたのも彼の顔のおかげだった。
「さあ、そろそろ準備はいいかな」木村は言った。「あまり緊張しない方がいいぞ。リラックスしてやるんだぞ」
陽子たちは楽屋を出て狭く陰湿な廊下を渡り、ステージの裏口のところまで来た。階段を上りほとんど暗闇に近い薄明りの中を様々な音響機器に体をぶつけないよう注意しながら自分の場所へすみやかに進んで行く。客席の方からはあたしたちの姿は完全に見えないのだろうと陽子は思った。全員スタンバイしたのを確認すると西田増美はギターでイントロを奏で始め、タイミングよく照明の青白い光線が暗闇の中に彼女の姿をぽつねんと浮かび上がらせる。客席から短い拍手と喝采が起こる。続いて亜理沙が暗闇の中で緑色に光るスティックを振り回しながらハイハットシンバルとスネアドラムを交互に叩き、しばらくすると赤いスポットライトが亜理沙を包み込んだ。ギターとドラムで醸し出す複雑なリズムのサウンドが緊迫感を頂点まで上りつめると突然ステージ全体が明るくなり、同時にバンドの全員が暴力的で破壊的な主旋律にそれぞれのパートで参加する。
客席からの悲鳴に近い歓声や曲のリズムに合わせた手拍子が溶け混じる。陽子はキーボードを激しく叩きながら叫ぶように歌った。理性をかき乱すような曲のテンポやステージと一体化しつつある客席の熱気に陽子は闘争本能にも似た生理的な高揚を覚え、喉をからさんばかりに熱唱しながら客席を眺め下ろした。何百人という群衆が一人残らず自分たちの攻撃的なロックに魂を抜かれ、惚けた屍の顔になったと陽子は感じつつ怒りと憎悪の念を燃やし続けた。それははっきりとした対象も理由もない、ただひたすら憎悪したいから憎悪するといった不条理な感情に違いなかった。陽子は心の中で豚どもめと叫び続けた。
気がつくと汗が額からしたたり落ちてくる。
「佐川先輩、まだ休憩じゃないんですか」音響担当の安雄が言った。「もういい加減疲れましたよ」
「まだまだだ」浩は毅然と答えた。「まだ肝心の第十三場ができてないじゃないか。ここがちゃんとできるまで休憩はなしだ」
アトリエには浩たち“同時代”の部員の他に、今回『太陽は地平線から昇る』に特別出演することになっている他の演劇サークルの人間が数名混じっていた。演劇関係の団体は大学内で一つの共同体になっていて、自分たちが公演するときはよそから人材を借り、そのかわりよそが公演するときは自分たちが人材を貸すという慣習があった。浩は台本を片手に第十三場に登場する役者たちを集め、もう一度一つ一つの台詞と動作のタイミングについて説明を繰り返した。
「いいかい、ここの場面が全体の中で一番重要なんだ。ここで少年Aは舞台の中央に立つんだ。すると青の照明が少年Aを照らし、周囲は暗くなる。しばらくして音楽が流れ始めたら少年Aは台詞を言い始める。いいね。照明を入れた練習は実際に舞台入りしてからやるけど、今は音楽だけでやってみよう」
浩が手を打って開始の合図をすると、少年Aに扮する政雄を残して全員がアトリエの隅に下がる。政雄はしばらく直立不動の姿勢を保っているが安雄が間を置いて音楽を流すと歌うように長広舌を始める。
「おれは何者なんだ。何者でも構いはしない。一人であればもともと名前なんか必要ないんだ。おれはこの無人島にたった一人で住んでいる。この島はおれの国だ。おれというたった一人の国民から成る国なのだ。おれはこの国の為政者であるとともに人民だ。おれはあらゆる財やサービスを生産するとともにあらゆる財やサービスを消費する。一体、おれの国は資本主義国家なのか共産主義国家なのか。この国のあらゆる富はおれというたった一人の国民の私有物であり、同時におれというこの国を構成する国民全員の公共物である。一人という状態。これには特別の意味がある。一人と二人の違いは二人と三人の違いよりはるかに大きい。一人であることと二人以上であること、ここには天国と地獄に匹敵する大きなへだたりがある。そして……おれは一人なんだ」
するとそこへ悪魔に扮する雅史が上手から突然現れ、同時に舞台の奥では英一と早苗が操り人形の動作をまねたパフォーマンスを始める。安雄は音楽を止める。
「おまえは何者だ」少年Aは驚いて二、三歩後退する。「いや、おまえはおれが作り出した幻覚なのか」
「幻覚じゃありませんぜ」悪魔は嘲けるように微笑を口元に浮かべながら言った。「小生はグリーンという下級悪魔ですよ。何か願い事でもありませんか。ありましたら何なりとお申しつけ下さい。三つまではかなえてあげましょう。ただそのかわり、あなたが死んだときは魂を小生がいただきますがねえ」
「うせろ、おれの幻よ。おまえはおれの幻覚にすぎないはずだ」
「そんなことはありませんよ。いいですか、一つ面白い話をして差し上げましょうか。あるところに日記を書く男がいた。彼は一日中日記ばかりを書いていて他のことは何もしない。だから彼の日記にはもともと書くことなど何もないのだが、彼は日記の第一行目に『おれは狂ってる』と書き始め行変えして『おれは狂ってる、と今日日記に書いた』と続ける。更に三行目は『おれは狂ってる、と今日日記に書いた、と今日日記に書いた』、四行目は『おれは狂ってる、と今日日記に書いた、と今日日記に書いた、と今日日記に書いた』という具合に無限に反復されていく……」
浩はまだ台詞が頭に完全に入っていない様子の雅史に少々腹が立ったが、全体的にうまくまとまっているので中断せずそのまま芝居を進行させることにした。政雄や雅史が口に出す言葉の一つ一つを吟味するように聞いているうちに隼人は何か隠された暗号をこれらの台詞の中に忍び込ませたのではないかという考えがふと浮かび、浩は昨日〈いーぐる〉で隼人が自分に語りかけたことを思い出そうとしたがほとんど忘れてしまっていた。
「とうとうしっぽを出したな」少年Aは言った。「その物語はおれが昔考えたものだ。一年前、自分の日記に書いた物語だ。それをおまえが知っているということは、おまえはおれの空想の産物だったということではないか」
「どうですかな」悪魔は言った。「小生は悪魔ですよ。あなたの心を読むことぐらい朝飯前ですよ。それにあなたがそんなことを言うこと自体が心のどこかで小生の存在を認めている証拠なのです。悪魔たる小生は実は故意にあなたを悩まし続けているのです。果して今自分の目の前にいる悪魔は本当に存在しているのか、それとも単なる幻覚か」
「いいか、おまえは存在していないんだ。おまえはおれの悪夢の中の登場人物にすぎないんだ」
「じゃあ、あなたは自分のことを狂っていると認めるわけですね」
「騙されないぞ。おまえはおれ自身が作り上げた虚像なんだ。おまえは存在していないんだ」
少年Aは悪魔に飛びかかろうとするが悪魔は素早く身を翻し、下手の方へ消えてしまう。英一と早苗も悪魔の雅史が消えると同時に退場する。
「おれは知ってるぞ」後に残された少年Aの政雄が言った。「あいつはおれの空想の産物なんかじゃない。あいつは本当に存在していやがるんだ」
「ちょっと待ってくれ」浩が言った。「そこはもう少し間を置いてからしゃべってほしいんだ」
浩は自分でその部分の演技をして見せながら、間を置くことで台詞に重みが出てくるような効果をねらっていることを政雄に説明した。政雄は途中で演技を中断されたきまり悪さからかそれとも細かい一挙手一投足に到るまで妥協しない浩の執拗な演出にあきれたのか浩の話をしぶしぶ聞いていたが、もう一度そこの部分をやらせてみると驚くほど正確に浩の意図通りの動きをしてみせた。
浩が休憩を許可すると自動販売機のジュースを買いにアトリエにいたほとんどがいなくなった。しばらくして全員アトリエに戻ってくると一年生の男子が集まってジャンケンをやり、一番負けた安雄が弁当を買いに行くことになった。
「ついてないぜ」安雄はそう言いながら会計係の町子から部費の五千円札を受け取った。
「今日は日曜だから近くの弁当屋は多分休みだろう。どこへ行ったらいいかなあ」
「弁当屋がなかったら〈デイリークイーン〉へ行ってハンバーガーでも買って来たら」早苗が言った。「あそこならやってるわよ。きっと」
壁にもたれかかった浩は台本を読み返しながら次の第十四場の演出をあれこれと再検討してみたが、どうももう一つこれといったアイデアが浮かばない。あきらめて台本から顔を上げてみると、玉乗りの曲芸をまねてコーラの空き缶の上に乗ってうまくバランスを保ちながら静止していた雅史が、ふとした拍子に足を滑らせて尻もちをつくのが目に入った。転ぶ瞬間を見ていた者は浩を除いて全員爆笑した。雅史本人までが笑っていた。何が起こったのか分らない早苗は安雄にみんながどうして笑っているのか尋ねた。だが何故か浩だけは笑う気になれなかった。
「ねえねえ先輩」政雄が笑いながら話しかけてきた。「今の中島のズッコケるところみなかったんですか」
政雄は腹をかかえて笑い転げ、しきりに雅史が空き缶の上から足を滑らせて転んだことを説明しようとするのだが、こみ上げてくる笑いがそれを邪魔してうまく話せない。
浩は政雄の爆笑する様子を見ながらふとどこか芝居じみていると思った。テレビの中でよく目にする人工的に作られた、しかしそれでいて本物よりも本物らしい劇的で生き生きした偽物の笑い……他人が空き缶の上から転ぶところを目撃した場合こんな風に激しく笑うものだという無意識のうちに記号化され、情報化された既成の感覚……だが現実を生きているという確かな手応えが直接肌で感じられるような、魂を切り刻む生々しい血の通った体験がそこにあるだろうか。現実の人間の感情はもっと起伏の少ない落ち着いた平静さを保っているはずだ。浩は政雄がまだ芝居を続けているような錯覚にとらわれた。
浩は昔二つ年上の兄の隆が高校を退学した日のことを思い出した。当時隆は四、五人の仲間を先導してシャコタンにしたオートバイで夜の大通りをジグザグ運転したり、自動販売機をバットで破壊して缶ビールを盗んだり、空地でアンパン(空き缶にシンナーを入れたもの)のパーティーを開いたりして何回か警察に補導されていたが、高校二年の夏休み前に学校から退学処分が言い渡された。母親とともに学校から帰ってきた隆は悄然とした面持ちで無言のまま応接間のテレビを見続けていた。隣では母親がしきりに「元気を出して」とか「もう一度やり直そうよ」と言い聞かせていたのを覚えている。そのとき側にいた浩は「もう一度やり直そうよ」という母親の言葉がどこかで聞いたことのある無意味な言葉の空転のように思え、奇妙な違和感にとらわれた。「もう一度やり直そうよ」――浩はその台詞から刑事物のテレビドラマを思い浮かべる。殺人を犯した凶悪犯に恋人が泣きながらすがりつき、何度となく「もう一度やり直そうよ」を繰り返す場面。だがあくまでそれはフィクションの世界の台詞にすぎない。こういう立場に置かれたときはこういう言葉を唱えたりこういう態度を示したりするものだ、人生とはこんなものだという平面的で無味乾燥な虚構の認識をただ再生するだけの、もはや現実であることを放棄した色褪せた現実。そこには機械仕掛けの冷たい美しさを湛えたイルュージョンの下で、生きているというもっともらしい芝居を続ける透明で無機質な時間が流れている。「もう一度やり直そうよ」――テレビドラマの中の凶悪犯の女は言い、現実の世界の不良少年の母親は復唱する……。
「佐川さんもいいとこ見逃しましたよ」政雄はまだ笑いつづけている。「見ればよかったのに。あれはマジで笑えましたよ」
浩は無言のまま冷ややかな軽蔑をこめて政雄を凝視した。窓から差し込む日ざしが壁際の政雄を照らし、黒いはずの髪が光を反射して金色に見える。浩はなおも凝視する。政雄はいつまでも笑い続ける。政雄が何気なく体の向きを変えようとすると光線がある微妙な角度を保って照射するわずかの間、政雄の全身からピアノ線より細かい無数の糸状のものが操り人形のように生えているのを浩はふと垣間見た気がした。
環七通りを真直ぐ走り続けていくうちに気がつくと高円寺の方まで来ていたので隼人はいささか驚いた。中央線に沿って進むとやがてサンプラザの白いビルが見えてくる。隼人はバイクを公園に停めて中野ブロードウェイに入り、本屋で立ち読みしたり喫茶店でコーヒーを飲んだりして時間を潰したが、ふとした気まぐれから中野通りを渡ってサンプラザの前を通ると“サイバネティック・スキゾイド”のポスターがたまたま目に入った。
今からの入場は立ち見になるという内容の書かれたプラカードが下がっている受付で当日券を買い、赤い絨毯が敷かれた長く広い階段を小走りで上がって行く。会場のドアを開けると脳細胞をかき回さんばかりの強烈な音響が隼人に襲いかかり、一瞬気おくれがした。立ち見の客がドアのところに何人も群がっていて、中に入るにはラッシュ時の電車に乗る要領で自分を体ごと押し込めなければならなかった。
歌っている陽子の姿が遠くの方にあるステージに小さく見出せた。周囲の若者たちは全員拳を振り上げ、ロックの二拍子に合わせてドアを強くノックするような動作を繰り返していた。色とりどりのレザリアムが目まぐるしく変化を続け、ステージを様々な角度から切り取るように照射したり暗闇の中に隠したりした。バンドの背後には巨大なパネルスクリーンが備え付けられ、白黒の昔の恐怖映画にカラフルなオリジナルのアニメーションがちぐはぐに編集されているという実験映画じみたアバンギャルドなフィルムが上映されている。作り物だと一目で分るメーキャップの巨人のフランケンシュタインが下手な演技でミニチュアのビルを破壊する不自然さが、むしろ最新のSFXを駆使した今のスプラッタ映画より不気味だと隼人は思った。
曲が終わると舞台は暗転し、拍手の余韻が冷めやらぬうちに今度は落ち着いたテンポのバラードが始まり、天井から吊り下げられたミラーボールが光線を乱反射させてステージを明るくした。陽子の奏でるポリフォニックシンセサイザーから透明な無重力感を帯びた音色のメロディーが流れ、カメラのシャッターを思わせる不思議な効果音がそれに和した。すると隣にいた知らない青年がなれなれしく肩を組んできたので驚いて周囲を見回すと、会場にいるほぼ全員が肩を組んで曲に合わせて体を左右に揺らしている。隼人はうんざりしたが仕方なく自分の左手をあつかましく肩を組んできた隣の青年の背にのせ、体を左右に揺らすと踊りに加わった。たかが音と映像の刺激だけでこんな風にいささかの自我の反発もなく単純に連帯意識を抱いてしまう彼らの軽薄さに生理的な嫌悪と軽蔑の入り混じった感情を覚えつつ、隼人は周囲に同化できない異端者の自分を誇らしくも孤独に思えた。
バラードが終わると陽子はマイクを持ち、拍手がやむのを待ってからしゃべり始めた。「みんなありがとう」陽子が額から汗を流しながらそう言うと、会場は短い拍手と歓声で埋まる。
「あたしの友達にE君っていう男の子がいるんだけど、彼はあるとき不思議なことを発見したの。大人になると人間の体には目に見えない糸が生えてきて、身動きが取れなくなっていく……。E君はそれをみんなに知らせるために自分でテレビ局を作って放送したんだけど、一体理解してくれた人は何人いたんでしょう。次の曲はそんなE君の孤独に捧げる『インビジブル・スレッド[#「インビジブル・スレッド」は底本では「インビジュアル・スレッド」]』」
サックスが空間を引き裂くような狂った音を無秩序に響かせ、それとは対照的にベースが規則正しいリズムを刻んでいく。途中からギターが入ってくると次第にサックスが形あるメロディーラインを作っていく。ドラムが緊迫感を高め、不意に爆発したように陽子のキーボードが重々しい主旋律を奏で始める。隼人は突然全身に火が流れるような歓喜の高揚を覚え、引き付けたように身を震わせた。隼人は興奮した。頬がほてってくるのを自覚した。リズムは更に激しく理性を吹き飛ばす勢いでドラムから掻き鳴らされ、隼人の脳細胞に直接響いた。曲は歌のないインストルメンタルだ。ステージの中央で巧みにキーボードを操っている女性を自分は知っている。少なくともこの会場にいる誰よりもよく知っているのだという思いが隼人の全身を閃光のように走った。これは俺の音楽だ。この狂おしいリズムは俺というたった一人の存在を謳歌するための野性の血だ。隼人は狂ったように上気してステージの方へ駆け出した。それは今まで心の中にくすぶっていた何かが発火し、勢いよく燃え上がったような爆発的な感触だった。隼人は自分がすっかり理性を失っていることを自覚しつつ、それでもなお走り続けた。舞台に駆け上がろうとすると背後から抗い難い力で引き戻され、気がつくと二人の警備員が両腕を押えていた。
「俺だ。陽子、会いに来た」
隼人は舞台に向かって声をかぎりに叫んだ。しかしその声はアンプから流れるギターに掻き消され、陽子の耳には届きようもなかった。警備員は力ずくで隼人を会場から連れ出した。
警備室でさんざん注意を受けた後、隼人はサンプラザを出て四谷のアパートに戻った。窓からコバルトブルーの光が夕方の薄暗い空間に浸透し、部屋の中の事物を青白く染めていた。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、一息で飲み干すと冷たい液体がゆっくりと喉を下がっていく感触がある。牛乳はどこか固形物を思わせた。唇を舐めてみるとこんなにも喉が渇いていたのかと驚かせるほどカサカサに干からびている。隼人はもう一杯牛乳を飲んだ。
明りをつけないままテレビのスイッチを入れてベッドに全身を投げ出し、徐々に体中に浸透してくる快い疲労に身を任せる。軽くうたた寝した後身体を起こし、テレビのチャンネルをいろいろ変えてみる。この時間はどの局でもニュースか天気予報をやっているらしい。だが海賊放送に関するニュースはどこにも見出せなかった。隼人はふと自分以外の何者かが突然海賊放送を始めるのではないかという考えに捉われる。ひょっとすると今すぐにでも目の前のニュースが流れているテレビから、地球征服を企むグリーンと人類から一切の自由を剥奪する






部屋の中は夕方の仄明るさから夜の闇へいつの間にか移行していた。静寂が支配する暗い部屋の中でテレビだけが生き物のように光と音を活発に発散し続ける。見慣れた車のコマーシャルが目に入る。隼人は立ち上がって電灯をつけ、窓のカーテンを閉めた。
テレビの画面では早朝の人気のない街中を白いボディーの車が徐行している。日の出間近の淡い明るさの中に浮かんだ街の光景を構成する空間が、車の形に歪曲されてボンネットとフロントガラスの表面をなめらかに流れていく。
隼人は大きく伸びをして再びベッドに腰かけた。最も通俗で取るに足らないはずのものの中に――ありふれたテレビのコマーシャルの中に、地下鉄の車内に貼られた褪せたポスターのコピーの中に、あるいはサイバネティック・スキゾイドのコンサートの最中にいきなり舞台に駆け上がろうとする狂気じみた動物的な衝動の中に――忌わしい


メッセージ――それは閃光のように美しく気高く、心の一番深いところまで届く研ぎ澄まされた啓示でなければならない。
隼人はなおもテレビを見続けながらその中に隠されたはずのメッセージについて、そして自分が再びメッセージを発信する手立てについていつまでも考えをめぐらしていた。