涙をもつて正義をささえる

金森徳次郎




 私は検察のことは全然存じません。いろんなことを学問その他の面からやりました。然し、幸か不幸か検察に関することは何等の経験も知識もございません。それでは何のために出たかというとその理屈は別といたしまして、心の中は非常にやましいのでございます。知らずして言う、これは非常に悪いことです。私は正義をささえるには涙をもつてせよということでございますが、社会正義は冷たい考えだけで支えられるものではない。あらゆる面を考えまして溢れるが如き涙ぐましい心をもつて正義を求めねばならぬというのであります。いろいろと刑事行政の専門家の話をうかがつていると、この世の中に果して正義が行われておるであろうかという、この世上一般に対する疑問が起つて来たわけであります。何故かというと、犯罪を犯しても容易なことではその処罰が行われない。余程はつきりした証拠があり、あらゆる研究をかけてどうしてもこれを問題にするというときに、はじめて正義問題が舞台に上るのであります。多くのものは免れて恥なしというような気がしておるわけであります。私はかつて大臣をやつておりましたときに議会で時の司法大臣に質問があり、「一体闇米を汽軍で運搬するとき、自分達の親類や何かに喰わすのに闇米を運んでおるけれども、それを警察当局は摘発して闇米をとり上げてしまつて、或いは刑罰をもつて臨んでおる。これは怪しからん」という。こんなふうな質問でございました。そのとき司法大臣は「いやそんな時には決して摘発することはしないのだ。自分の責任をもつてそんなことはしないようにする」という、こういう宣言をいたしましたところ、その多くの委員会の人人は拍手せんばかりにこれを歓迎いたしました。私はこれを聞いておりまして非常に悪印象を受けたわけでございます。何故かというと、悪いことをやつても、国法で禁じられるということをやつても、司法大臣は罰しないぞということを議会の委員会で正式に論じ、しかも聞いておる委員諸君は拍手をもつてこれを迎えたのであります。私は立場が少しちがつております。最後の是非善悪の決断は難かしいのでありますけれども、これを一口につづめてみますと国法は現実存在しておつても、国法を守らざることに対して、時の司法大臣が議政壇上において宣言した。而して国民の代表はこれを喝采した。こういうことでございますと、私の立場からいうと、法律というものは一体何の価値があるか、国会をつくり、法律をつくり、これを官報にのせて国民はこれを守るべし、法律こそは守るべきものであるといつておつても、すべての人これをふみにじつて平気でいる。
 たまたま法を守つて食物が少くなつて餓え死んだところの某裁判官の如きも、当初は誰も同情したが、後に至ると、肚の中では愚かしき法の犠牲だと思つておつた人があるかも知れん。結局は強いものが勝ち或は多数が勝つのであります。その多数は国民の全部ではなく、あるところに盤踞した勢力、影響のつよいものの言うことが勝つのではないでしようか。こんなことでは法の大部分をとり去つてしまうような国の方がまさるのではないかとも考えられます。しかしこれは全く書生の一家言にすぎないのでございます。だが、この中にいろいろ大きな問題がふくまれておるような気がいたします。理屈は複雑でございまして、ここでは解決いたしませんが、法律があり、秩序があり、守るべき原則があつても、人人はこれを捨てて省みず、国家もこれを守らないのです。これはひとり食料の問題ばかりでございません。もつと大きな法律が出ておつても、それを一つも守らない方が正しいように思われることもないとは言えません。例えば、衆参両院のいずれかの議員の何分の一かが国会を開けといつたら必ず国会を開かなければならぬということがあるにも拘わらず、未だ、かつて素直に開かれたことはございません。法律家は議論が上手でございます。私のような正直者と違つて、いたるところにうまい説明が出て折角法律が要求したものも、そのまま消えてしまうことがあります。
 義務教育はただでやる。それは私のあずかつた憲法の中にございますが、ただの義務教育がどこにあるかというと、若し法律の素人が考えますと、どこの学校に入つたところで何かかにか相当の費用をとられている。無償の義務教育はないのだと言えそうです。私は秩序を愛する国民に生れながらも、果して秩序の中に生きているであろうかと疑います。これは一例でございまして、こんなことを申しますは、この問題をとやかく申すのではございませんけれども、一番根本は法律を愛する国民ではないのではないかと言いたいためです。私の本当の心は我我は秩序を守るべきものであると信じております。秩序を守らざる国民はよき国民であり得ないものである。若しも秩序を守ることがないとすれば、その秩序と思うものが秩序でなくて浮かべる水の泡のようなものではなかろうか。言い変えると法律というものが、秩序になつていないのである。法律と書いてあつても実は秩序でも何でもない。実は絵にかいた餅であるという。こういう思想が成立するかも知れないのであります。多少私は何かすねたようなことを申上げます。本当はそうではないのであつて、我我は前途永遠に栄ゆべき日本国民でありますから、何とかして本当の筋道を立てようとするのです。およそ過去十年の間に日本国民が努力して、ともかくも今日の社会秩序をつくつたわけであります。つくつたのはつくつたけれども、それきりであつて、昔中国で道路をつくりました。つくつた時は立派である。後は牛の糞で通れなくなつてしまうというような嫌いがあるのではないかと心配します。私共は法律とか秩序とかいうものに対しまして、平素からどんな考をもつていいのだろうか。守らなくてもよいと思うのが賢いのかそれとも馬鹿正直に守るべきか。しかし本当いうと、法律というものは曖昧なものもあり、子供の作文のように、はつきり決めることができないことがあるが、具体的には出来ないにしても心の中では秩序を愛好すると考えねばならぬと思うのでございます。これが終戦後に日本国民の頭の中はからつぽになりまして、世は虚無的になり、ニヒリスティックになり、片方で法律をつくつても片方で法律を否定するというようなことになつておる。一種の過渡期の現象がありました。だが遵法心は少しづつ恢復しました。では涙をもつて秩序を保てということを心からもちたいような気がいたします。私は今、何をかくそう図書館屋でございまして、実はこういう難かしい問題はふれないのが通常でございましたが、我我の図書館は一体何を考えておるかというと、私の図書館には唯一つの法律がある。一つの図書館のために単独の一つの法律がございまして、その法律の前文にも(前文のある法律は比較的少いのでございますが)一つの前書がある。何と書いてあるかというと「真理が自由を与える」ということが格言的に掲げてあります。実は法律で格言をつくるというのは如何なる意味があるか、これも亦面白い問題でございますが、この法律をつくつた人人は、真理が自由を生み出すものであるという確信をもつていたことでございましよう。果して真理が自由を与えるかどうか、それは疑問でありますけれども、私もそれを確信しておるのでありますから、これは日本で発明したということではございませんで、ヨーロッパにもこういう言葉がある。或は東洋にも恐らくこれに近い言葉があるのみならず、バイブルのヨハネ伝の中に「真理が自由を与える」という意味のことが書いてある。すなわち「真理が汝らに自由を与える」と書いてございます。ところが近時真理を愛せずしてこれを土くれの中におとし込んでいるという傾があると思うのでございます。ところで私は今日、真理を説くつもりではございません。真理という言葉をもう少し他の言葉に転用いたしまして、正義が我我に自由を与える。真理と正義といくらか意味が違うように存じますが、正義こそ我我に根本的に自由を与えることを主体として考えてゆきたいと思うのでございます。
 今日は先ず検察行政ということに関連して申上げますが、一体検察行政で何をやつているか時の方便でこちらをやつた方が都合がよさそうだ、或はあちらを動かした方が世の中の方便としてよさそうだという考えではなかろうかと思います。要するに正義というものを地上に現出する、我我は正義のために何事も犠牲にして突進しようという心がけの一部分を検察行政というものは考えているに相違ないと確信しております。そこで問題になりますのは、一体正義とは何だろう。我我は口に正義と言つておりますが、本当はよくわかりません。日本ではこの裁判所は何でも正義の根本を正しくするものであるように言われております。法律というものが又正義の本体であると考えられております。法律という言葉をラテン語でいうとユスと言います。ユスという言葉は正義ということでございましよう。従つて法は正義なりというのが正当でありますが、実際にあてはめてみるとどうも喰い違いがあるという気持がございまして、ここに法律を軽蔑し、従つて法律に従うことを軽蔑し、従いまして法を執行することを軽蔑し、更に日本の法律にはつきりと謂わば悪いことをしたもの必ずしも起訴するものでないということが刑事訴訟法に書いてあります。それには勿論相当の理由がありますがちよつと面倒な関連をもつてくる思想であります。そういうような自由起訴主義ということを否定する意味でもございませんが、そんなことにも関係があろうと思うのであります。そこで私共は正義というものは一応どんなものだろう。虎の皮を上にもつていなければ虎ではない。同じように我我は人間が生きてゆくかぎり如何なることを軽く見るも時と場合によりましようが、正義だけは何とかして守つてゆきたいのだという気がいたします。その正義の実体は何であろうか。本当の説明は私にはできませんが、何かつり合いということを含んでいる。一方から見ても正義であり、他方から見ても正義である。便宜主義ではなく、どこかこういう人間世界における利害が調節されている。そういうところでなければならぬと思います。だから個人同志の関係でございますと金を借りたとすれば返すのが当り前でございます。これは勿論問題のないことでございますけれども、人は個人同志で生きておるとばかり限りません。国として世界の人類として共同生活をしておる時に、正義はもう少し複雑な形をとつてくるに相違ございません。例えば会社が客に対して物を割引いてやるのは通常差支えございませんけれども、国家が煙草を売る時お前には煙草を半額にしてやるなどと言えば何かおかしいという気持になります。私生活で賄賂めいたものをとるということは個人には許されるにしても、公人が賄賂をとつたらきつと悪いことに相違ございません。何か言うと一体正義の根本には何かあるだろうか、先程申しました個人と個人との間の正義の標準というものは大体わかるのでございます。プラス、マイナスのつり合いをとる、それだからよくわかるのでございますが、社会生活において正義というものは、どこからくるかというとこれはもつと大きな見地からくるので、全体の中に一個の人間がうまくはまり込んで、あちらこちらに影響しておるということに触れます。
 個人は社会に孤立して入つておるものではございませんので、終局は社会や世界というものの中に生きておる。従つて余りわがままをしてはいけない。余りひき込んではいけない。ちやんとうまいことにおさまるというとろに[#「いうとろに」はママ]正義の問題があるのでございましよう。終局は私共はそうでなければならぬと思うのでございます。例えば公務員は賄賂をとつてはならぬ、これは共同生活の本義に反するのであります。選挙投票をする時、金をとつておると何も金をとつたからといつて選挙自身が消えてなくなる筈はないのでありますが、金をとつて公の権利である選挙をやる。それは国民大衆が正しい代表者をつくるという原則を根本的にこわしてしまうのであります。個人間の正義は我我に解決する手段があります。
 何故俺の家を壊わしたか、もと通りに壁を塗り直せ、大体人は得心いたします。求めなければ別に塗り直す必要はございません。相手方が塗つてくれといつたら塗つて返すが普通でございましよう。しかし、社会的正義というものは一寸難かしうございます。そのために苦情をいう人間がはつきりしないからでございます。人を一人殺した。殺された人は文句を言う口はもつておりません。どこからかその文句が出て来なければならぬ。社会が文句を言うわけでございます。その社会というものがどんな口をもつて叫ぶか相当これはまわりくどく考えなければならぬ。ある場合は法律が出て、ある場合にその法を執行する人が出てくる。警察官は捜索をやるだろう。又検事はその捜査権を行使して起訴の手続をとるであろう。その他刑務所の職員はその後の始末をつけるであろうというふうに、あちらこちらにおきましていろいろのことが一斉に動き出すことによつて、この社会正義は擁護されているのでありますが、その時にどこかその沢山の国家の口になるような国家の手足になるような多くの部分が責任を怠つたら、社会正義遂に実現されることはなかろうと思います。
 例えば刑務所において死刑を執行する職員が「俺は今朝子供を亡くした、仏様に祈る心から今日は死刑の執行はやめよう」と思つたら国家の秩序は保てないし、人世の正義は擁護されないということになると思います。ただ近来の人を見ますと所謂民主主義の時代になつて来る。ある権力によつて我我は規制されていない。われわれは自分の考で勝手に朗らかな人生を描いてゆきたいという時に自分で努力して社会正義を守ろうという人は一寸少くなるような気がいたします。私も終戦後五・六年、一体東京の人間はどんな生活しておるであろうか。我我のように穴の中の生活をしておりますと実際の世上の事柄に※(「二点しんにょう+千」、第4水準2-89-76)遠で[#「※(「二点しんにょう+千」、第4水準2-89-76)遠で」はママ]ございますが、一つ研究してみようといつて人から助言を受けまして、夜の五時頃から若干の場所をまわつてみたわけでございます。
 第一には新宿のストリップを見にゆきました。話に聞いておりますが見たことはございません。ある劇場を入つてゆくと、女の人も見ておる。男の人も、年よりも、若い人も、見ている。非常に真剣な沈欝な顔をして目を皿のようにしてみているのでございます。私は又その態度を子細に考察して一体この根本にはどんな心理状態が横たわつておるか、人生とストリップとはどんな関係があるか、よくわからないけれども材料を集めたわけであります。その次に円タクを拾いまして、浅草に行つて寄席を少し見たわけであります。安木節、これは古くからあるもので、比較的健康でありましよう。しかしこれとてもそんなに健康ぢやございません。旧時代においては多少不健康なものとせられておつた。いわゆるかぶりつきというところにお客さんが頭をくつつけて仰ぎ見ているという面もございまして、しかし又それは今日として非難することはない。安木節を従来やつている老婦人によく話を聞いて安木節と社会との関係を聞いた。まわりくどいことはやめます。いろいろまわりまして、私は恥しいけれどもキャバレーというものは知りませんので、兎に角いつてみようというので新橋のほとりにある大きなキャバレーへ行きました。とにかく三百人の婦人を擁して、お客さんは各種各様の人がきておる。私が知つておるある役所のお金を扱つておる人が、そこに友達を連れていつたら二、三日の中に十万円以上の喰い込みをやりました。さあその役所では責任問題がおこり、いろんな事件を起しました。そういう魅力のあるキャバレーに一つ行つてみようというので行つてみますと、成程われわれ老人が未だかつて夢にも知らなかつたことを目の前に見まして非常に幸福になりました。いろいろ幸福になるということもいろいろ意味がありますから。ソファーに坐つている私の膝の上に婦人がのつかかつて腰かけました。私の膝は腰かけぢやございませんといつても平気です。それは営業のルールなんでありましよう。でその人に向つてあなたは未だ若い、それだのに若き人人を誘惑し自分の一生を破滅にもつてゆくであろうというこんな業務に従事しているのかと質問しました。口を開くと道学的なことを言うのが癖でありましよう。それをやつてしまつた。しばらく向うの人が顔を見ていて、あなたまだ七十にはならぬでしようと言つて怒つたように去つてしまいました。夜十一時半に中央線の駅にゆくと、今まで観楽の巷にあつたところの婦人達が各各副産物を狙いつつ自分の家に帰つて行く途中でありましたが、神田駅のプラットフォームにゆく階段の辺で争が起りました。男と女の間に争が起りました。俺のところに来るか、来ないかというようなことでございましたが、そのうちに両方とも目かどをたてて暴力に訴えるという段階になつたわけでございます。この暴力によつて女性が男性からいじめられている場面に、見物人がぐるりととりかこんでいるだけで助言もなければ手出しもしない。何となくポカンとみている光景でした。今までながながと申し上げましたことは実は前置きなのです。つまり我我の普通の弱き人人が強き人人から不法に圧迫をうけておる、暴力をもつて圧迫されておるときに何人も手出しをしないのです。法律上どうなつているか、私は即座には存じませんが、平気で路傍の石の如く眺めているという国民的性情にまざまざと疑惑をもちました。もつと他の説明を申し上げます。ある時中央線の電車に乗つている。これは煙草を喫むことは禁止せられております。ところが数人の若者が煙草を喫つておつたのであります。恐らく警察官だと思います。任務をもたないで自分の家に帰るときらしいのが煙草を喫つている人に助言をした。「電車の中では煙草をすわないことになつているから喫うのはおよしなさい。」時にその煙草を喫つている二、三の威勢のよい青年達はこの非番の警察官をとつつかまえて相当の暴力を加えて、それからどこかの駅でおりてしまつたということがございました。私はそこに乗つておつたのではございません。恰度私の友人がそこに乗つておつた。それは又変つた気骨の人だ。その荒つぽい青年達がおりてゆくとひそかに後をつけていつた。どこに住んでいるかたしかめて、顛末をそのおまわりさんの所属している警察に報告しました。それが正義擁護によい結果をもたらしたそうです。
 神田駅の場合は暴力による行動が行われておるに拘わらず一般市民達が平気でおつた。あとの電車の場合は多少危険が伴つていて、直ぐには抵抗できないから後をつけていつて材料をよく調べてそれを報告したというとき、どちらをほめて良いであろうかという、こういう疑問であります。江戸時代の文献を見ますと、一頃は町人というものは弱い者になつております。武士が道路で町人に文句をつけておる。何故俺の刀にさわつたか、不届なものだ、そこに坐れなどと言つている。よく芝居に出て来る光景です。町人どもはビクビクしている。まわりをとりかこんだ別の町人どもは肚の中ではこの武士は不届な奴だと思つておりますが、明哲身を守る意味で一言も言わない。封建的な姿というものは多分そういうものであろうと思いますが、その時にあの芝居の筋書で幡随院長兵衛とかいう顔役が出て来て一寸御免とか何とかいつて遂に武士をやつつける。多くの人がこれをほめてせいせいした気もちになる。江戸時代の物語です。
 これは事情もあつたでありましよう。我我の時代は文化が高まりまして、次第に人人は他人の苦痛は大むね捨ててかえりみず、個人独善の態度をとります。私も銀座街頭において少年どもが短刀を他の少年につきつけて恐迫しているらしいのを見受けたことがありますが、私心弱くして正義のために敢然として憤ることを得なかつた記憶がありまして、今に至つて恥かしいと思つています。真面目に考えて誰がこんな場合に社会正義を守つてくれるであろうか、誰が一体多少の危険を犯して救つてくれるだろうか。先ず第一線の警察官が出て来てくれるであろうと思います。しかし、中には出て来ない者もあります。
 少し古いことでございますが道路で妙な賭博をやつている。而もそれをおまわりさんのたむろしている部屋の前でしているにも拘わらず、おまわりさんがむしろその方を見ないようにしている。見てみぬふりをして自分の責任を回避しているようなことが。これは古いことでございます約十年前のことである。新宿の大きな劇場の前の通りでございましたが、これは一概に無理とは思われない。それは戦後の社会の実情と人間の複雑な心理の結果そうなるのは止むを得ぬと思われる事情もありましたが、若し平常時にそういうことをやつてくれる人がなかつたならば、人生は公正安全には生きてゆけないに相違ございません。私はこのような時代においてそういう仕事を身をもつて担任するという人に格別な敬意を表するのであります。人間が他の面で自分の体をはつて仕事をしてゆけば相当な収入が得られるであろうと思いますけれども、しかし、僅かな収入により而も大きな危険を背負うて而もその結果におきましても小さなよきことに過ぎないという面で、しかも熱心にやつておることをみますとき、全く敬意を表せざるを得ないのであります。こういう面で一団の人を数えてゆきましていろんな尊とい人を発見することが出来ます。今日のこの会合に連繋してこれを申しますならば警察の人以外にも例えば検察の職務を担任する人、刑務所の職を担任する人、裁判の任務を担任する人、その他刑の執行をする人に至りますまで、一貫してこれを考えますとして、これらは実際尊敬すべき人人であると思う。私はそう思つておりますが、しかし、果して社会一般はこれを尊敬するであろうか。正直のところ私は昔蛇にいじめられたのかも知れんと思つております。私は昔蛇にいじめられた。何千年かずつと前にどこかで蛇に喰いつかれたことでもあると見えまして、今日でも蛇をみますと一種の潜伏感情で気もちが悪いと後ずさりをするのでございます。それと同じような感じがございまして電話がかかつて来た。誰か検察庁の何検事だとこういわれるというと、一寸くらい気持になる。理届は[#「理届は」はママ]よく知つておりますけれども、そんな馬鹿なことはないと思いますが、それは庶民の感情であります。私はまあいろいろ法律を知つたり、平素よくおつき合いをいたしておりますから、本当はそう思いませんが、何となく忌避するという気持がどこかに漂つております。警察官でもそうでございます。私は幸か不幸か警察に深い連絡がございまして、警察官の採用試験に参りましたり、何かしたようなことで親密感をもつていますが、ともすると社会の正義を擁護するために働いておる人人は私共によつて毛嫌いをせられ易いという状態になつております。私の考をもつて人に押し及ぼしてゆきますならば、多くの市民はやはり正義を擁護する任務に当る人人を何となく嫌つて検事に家を貸したがらない。まあそんな人は沢山はございませんでしようが、昔は弁護士にすら家を貸さないということは我我の学生時代にございました。こんな気持が存在するのは残念至極なことでございます。正義のために活躍する人たち、何らの個人的特別の利益を念頭におかずして、社会の秩序を守るために生きておる人人というものは尊むべきものである。これらの人人の活躍によつてこそ我我は枕を高くしてねておられるというふうに思うものでございます。
 実際正義というもの、抽象的な正義という名前のものはございますが、具体的に何が正義であるかよくわかりません。論より証拠、この戦争で負けまするとその前に案外正義を行つて罰せられた人人があります。いろいろ問題をひき起したところの学者などがあると思うのであります。お前の本が怪しからん。お前の書いたものが怪しからん。従つて遂に刑罰に処せられ、苦労のために命を早めたというものが私共の友人にございます。当時の正義の犠牲であります。今日の目でみて果してそれがどうであつたかはなかなか判断がむつかしいのであります。だから具体的な正義というものは猫の目と同じものであります。瞬間毎に変つてゆくものであると、こんな皮肉さえ言いたいのでございます。これは非常に難しいものでございます。一介の検事さんが、これは誠に失礼な言葉でございますが、何が正しいか、何が正しくないかということはある部面におきまして、ある普通のことはよくわかりますが、刑法もあり、いろいろのものもございましようが、ある面におきましてはそうわかり易いものではございませんのです。
 私自身も昭和十年か九年の頃でありますが、私の書いた書物が不都合であるとせられ、罰せられはしませんでしたが、しかしまあそれに近いいろいろの論議を起しました。而も私の書いた書物がここで恨みをはらすわけでも何でもございませんが、私当時法制局長官でありました。而も私の書いた憲法の書物が不とどきである。誰が法律にてらしたか知りませんが、出版法とか、不敬罪とかいうことに該当するらしく論議をせられました。内務省の要路の人がやつて来て「あなたは法制局長官であるのにその書物を発禁するというのもちよつとやりにくいし、発売頒布を権力でとめることもやり難い」とて善処の方法について話し合いに来られたことがございました。何と役所の中は難かしいものであるものかな。正義いずくにかある、こういう気がいたしました。又その当時の文部次官をしていた人が文部省の中でガリ版で、こしらえた各学者の意見を綜合したものを持つて来てお前のものはここにでている。何とも言わんけれどもこんな風に研究されているぞと言つて見せてくれましたが、世の中は単純なものではございません。
 その後いろいろ影響があちらこちらにあつたと思います。私はまあある段階までいつただけで美濃部達吉先生だけが一番顕著な犠牲になられました。而もこれも正義のためにできたことでございましようけれども、その時に正義というものは一体どういうものか、人人のみるところの正義はみる人人の判断によつて変るものでございますから、権力をもつて正義を擁護するということは具体的にはこわいものだという気がいたしました。その後私は偶然一九四九年でございましたか、アメリカに行つた時、ボストンにあるマサチューセッツ議会にいつてみました。ボストンの議会のこの部屋よりも少し大きい議場でございました。仮りに私の席が議長の席であるといたしますと、この頭のところに大きな一丈以上もある大きな壁画が沢山ございました。変なものがあると思つておりました。その壁画の一つの絵は教会の大きな部屋を描いたものでございました。女の人が頭に被りものをしてそこに泣いているような姿もあり、また若干の人が深刻な顔をしております。その側に一人のやや年老いた牧師さんのような姿の人が深刻な顔をして一般に対して話しかけておるようです。これは何んだろう、それをどうして議会に掲げておくのだろう。こんなことを考えました。あと少し研究してみましたが今を去る二百年前ですか、このアメリカのボストンの町に近いところにサレムという町がございました。そのサレムという町でふとした噂が立つたのでございます。ある村のあるお嬢さんが魔法使である。あの人に睨らまれたら誰でも命が縮まつてしまうと言うのです。あの子は魔法使だという噂が出ますと、誰も彼も直ぐにこれを信じてしまいました。更に信ずるばかりでなく、この町には魔法使が沢山いるというルーマーがとびました。遂に大きく権力が発動して何でも百人以上の人が逮捕されました。主に婦人であります。大体魔法使は婦人であつて男はそれになれないらしい。その地方の習慣的な考え方であります。そこで百数十人の人が魔法使である。社会に害毒を与える怪しからんものであるということをいつてつかまえて来ました。片つぱしから、いわば宗教裁判というものにかけました。段々順序を追つてゆきますと一寸数は忘れましたが、四十九人までは魔法使に相違ございませんという自白をしたから、これはもう有罪ということになつていた。第五十何番目の人間はどうしても私は魔法使ぢやありませんというので、ぢや拷問しようというので重い石の平らかなやつを膝か何かにだんだんのせた。白状するまで段々重みをのせてゆくと、返事をしないうちに死んでしまつた。拷問の圧力によつて死んでしまつたから、全部の人が有罪であつたか死んだかということになる。多分合計五十余人が死んでしまいました。あとの百人たらずの人は未だ牢屋に入つているというときに、別の考え方が盛んになつて来ました。一体この世の中に魔法使というものはあるべき筈はない。魔法使だというルーマーは根本的に間違つているというのであります。このような意見が強くなると流石にニューイングランドの住民達はそれはそうだ。今までの考え方はおかしいというので魔法使のことは問題にならない。入牢中の被疑者はすべて釈放してしまいました。しかし既に処分されたり拷問で死んだ人は生きかえらせることはできません。ついにそこのマサチューセッツ州の知事が懺悔の日というものをこしらえた。その当時裁判に関係したところの裁判官が教会に集つた人に対して公に謝罪したということがあります。それがその絵であつたのであります。これをみましてもこの人間世界の正義とか正邪とかいうことが具体的には非常に決定しにくいことがわかります。将来かくの如き過をさけるためにボストンの議場の一番わかり易いところに、その絵が掲げてあるのです。比較的新しく出来たということでございました。それを見た時人生の正義の判断は頼りないということを考えました。広く考えるとそんなことが随所にあるわけでございます。泥棒や強盗などの正邪は比較的容易にわかりますけれども、程度の高い問題の判断は実にむずかしいものです。かつては不とどきな奴だといつておつたのが、不とどきが消されて、而も逆に高き地位におかれるというようなことになつたこともあるのです。これは焼き払うべき書物であると言われておつたものが、本当に貴まれるものになつて来たということもあります。そうなると正義いずこにあるか。従つて正義をまもるべき人は例えば検察官などは、そういうことがよくわかるだけの能力がなければならぬ。裁判官であるならば矢張りそういうことがよくわかるだけの裁判官でなければならぬという気がいたします。
 尾崎士郎という小説家で私の友人がありますが、それがかつて美濃部達吉先生の天皇機関説ということを脚本のたね本にして或は小説にも書いておりますが、これは尾崎君が非常に骨を折つて正確に事情を調べて書いてありますが、その中に現われて来る責任者たる役人の言動を見ておりましても、何か不満足なあとがある。
 こういうことを考えても正義いずくにあるかということの感が起ります。ここで私が申上げたいことはどうせ社会の正義というものはそんなにはつきりわかるものではございません。歴史はじまつて以来罪人として殺された者幾人、後に至つてこれが立派なものといわれているもの幾多ございます。クリストもおそらくそうでございましよう。ソクラテスが毒の盃をのんだのもそれに相違ない。その他一一数をあげることも出来ませんが山ほどあるに相違ない。この事例を見ておりますと、一人一人をとがめるではなく、世の中は不可思議なものである。難かしいことである。こういうことの他はございません。従いまして検察の任務に当る方方は法律をみるだけでなく、法律以外におきまして根本的の素養をもつ、自分の責任において是非善悪がわかるということになりたいような気がいたします。それはしかし難かしいことであります。実際は国会で出来たところの法律をあてはめてみて、このことは悪いか悪くないかという判断をいたしますが、又それが法律をもつて裁くという司法の精神でありますから、この考えに背くことは出来ません。しかし先程申し上げましたように、法律というものも人間がつくつたものに他ならないのであります。正義というものも時代時代の人間が判断するものに他ならぬのであります。だから検察官や裁判官が絶対に正しい判断をすることは期待するのが無理であると思います。現代の法律制度は個人的判断をそんなに自由に認めるものではありません。ここに法哲学的にむずかしい問題が含まれています。この辺は正確な法律論としては誤解される虞があるから差し控えますが、常識的に或いは世間話的に言うと本当の意味からみて裁判官というものは法を司るものではない。正義を司るもの、法よりもつと根本にあるところの正義を司るのでありまして、英語ではこれをアドミニストレーション・オヴ・ジャステイス、正義の執行とこう言つておりますが、そこに真の重点をおくべきものであります。又これと相ともなつて行動せられる検察庁の働きもそこに重点があつて然るべきであろうと思います。これはえらい人で世にたぐい少き人にしてはじめてその責任を担任することが出来るような気がいたします。
 昨年でございましたか国会議員のある人を犯罪の嫌疑によつて逮捕しようということがおこりました。現職の国会議員を開会中に逮捕するには国会の同意を得なければならぬ。国会の同意を求められたときに恐らく国会はその人の逮捕せられることに承諾しないという議決をすることは非常に困難である。こんな事情の下に検察庁関係者は国会の同意を求めるように計画したらしいのであります。然るに時の内閣が自分の責任をもつてこういう逮捕の同意を求めることを止めたのであります。その逮捕同意を求めることをやめるについては時の検察当局に司法大臣がその旨指揮をしたということでございます。いろんな政治的論議をひき起しましたが、これを一口に言うと、逮捕するもせざるも時の司法大臣一人の自由意思で出来たとこういうことになります。法律上は完全に正しいと思います。けれどもそういう行道では[#「行道では」はママ]選挙により政党の背景において出来たところの人を少数人の意思によつて、その人を逮捕するかせざるかを決定し得ることになり、これでは正義は容易に手加減出来るという気持を国民に起さしめたところに弱点があると思います。法律的見解からすればそれは適法であります。けれども何といつても正義というものは、一個の政党大臣の考によつて動き得るということは、国民が秩序を愛し、政治を信頼する気持の中に大きな罅をこしらえたということは、私は信じて疑わないのでございます。終局は政治的な価値判断に帰着するのですから、何かもつと他の条件がともなわなければ是認出来そうもありません。多くの人に正義いずこにあるかという疑が起つて来ると思います。私の友人で参議院の議員をしておられる方に、かつて鬼検事といわれた方があります。それは鬼でも何でもない。実に立派な健康の考をもつており、尊敬すべき議員さんでございますが、かつて検事であつた当時、而も何十年も前のことでございますが、非常に辛辣な審理をして多くの人をふるい上らせたことによつて、鬼検事の名を受けておるのであります。それから日本の古い時代の言葉で悪代官と呼ばれるものがございますが、各地方におつた幕府の行政上の手代であつた代官の中に非常に悪いのがあつた。無辜の百姓を捉えてお前税金を納めないと重い処分をするぞとて、人を水牢に入れたり、ひどい場合は人質として娘をとりあげて返さないというような物語さえある。それを悪代官といつておつた。今でも正義を執行せんとするものに対して反抗心をいだき、鬼検事とか悪代官というものを想定せんとする社会傾向があるような気がいたします。当否は個々の場合に判断せねばならぬが、若しも弱者に同情するのあまり、正義の執行者に対していわれない反抗心をもつて、却つて快とするような気分がありとすれば、私は検察当局のために大いに弁護しなければならぬわけでございます。今日の制度におきましてそれは立派な資格をもち、立派な教養をもつた人が誠心誠意仕事をしている場合に軽軽しく反抗心を起し、軽軽しく悪印象をまきちらすことはよくないと思います。だがそれにしても私の古い経験をよびおこしてみると、楽屋裏にはいろいろなものがございます。今日一般で立派な人である立派な行動者であるといわれる方方でも、他の一面においては悪代官的傾向を感じたことがございます。例えばある人をはじめから犯罪人と予断して、そしてそれに向つて突進をする。又自分の思う通りに審理が進まないときは、社会的には拷問と同じ結果を生ずるようなことをやつて、後でこれが問題になると巧みに弁明をする。法律家は弁明に巧みであるとの格言はございませんが、強いてつくればそういうことも言えるとの感じをしたことがある。こういうところから検察当局等に対しては国民の間に悪い過去の連想がある。それがために若干、制度の名誉を傷けておることはないとは言われません。しかし、時代は変つて参りました。私の知る限りにおいては、検事さんは実に立派な紳士ばかりでございます。どうして過去と現在ではこんなにも違うのであろうといつもその疑問にうたれております。どうもその理由の根底というのは一つあるらしいのでございます。今日は権力が検察官を動かすことはございません。しかし、昔は検察の大御所とでも言うべき権力の家元がございまして、暗黙のうちに睨みをきかせているというようなことが伝説されています。
 過去二十数年前位のこと、昭和のはじめ位からしていやな空気が日本の社会秩序におこつて来たように思います。いろいろの人物が思想問題などではげしい影響を受けたと想像されます。そしてそれにはそれぞれの策源地もあつたようです。終戦後におきましてそういう勢力の盤踞する中心地点を破壊しろ、これは敗戦国の悲しさでありますが、外国からそういう指図のようなものが出まして、そしてかつて威力をふるつた中心点がきれいに破壊せられて、これを向うようの言葉で言えば「カンバツ」を廃止したのであります。「カンバツ」とは山の木を切る間伐ではなく官僚閥ということでございまするが、この廃止は相当に大きな影響をもつていると思います。従つて今日さような非難はあたらないと思いますけれども、かつて世の中に起つたことは時代を隔つれば又起り来るのである。いわば民主政治とは申しましても民主政治は良い方からみて実に立派でございますが、しかし民主政治の中にもある黒雲の入つて来る余地はございます。若干の人人が肚をすえてグルになつて活躍いたしますと、民主政治の形をかりつつ暴君政治がこの中に現われるきらいは充分にあると思うのでございます。
 今日の実際はまことによろこばしいが、将来警戒すべき種がここにふくまれておるのではなかろうかという気がするわけでございます。そこでこんな風にいろんなことを言つても果てしもございませんが、私少しばかりもつと自分の独断的なことを申上げてこの結末としたいと思います。
 結局私の信ずるところは、人間世界は最後は真理が勝つのでございます。ある瞬間をみますと、不正なものが勝つ、正直者が馬鹿をみるという格言が成立いたしますが、長い目でみておれば良識のある国民であれば必ず道理が勝つと思います。これはまあ信仰に近いものであります。実際には道理が勝たないこともあるかも知れませんが、先ずその位のことを念頭におかなければ我我は虚無的になるより他に途はございません。従つて我我は何とかして日本を正義の勝つ国にしたいものと思います。現在は実はそうではございません。例えば国会におきまして議論がゆきつまると、腕力に訴えて前の方に手を出すというと議会の懲罰にあうから後へ足を出す。こういうことによつて暴力をする。つまり見えなければ大丈夫と思うようなこともありますが、手続法が実体法に勝つという関係でございましよう。手続の方で証拠の集まらんようにして、そして実際乱暴をやることは何も私のつくりごとでも何んでもない。世間の人すべて知つておることでございましよう。それから国家それ自体の活動の面につきましては、国のため国民のために働くところの議員というものは、何をやつているかというと、国民の前に自分達の仲間の右脚をけつたり、首をしめることをしたりして、勢力をいろいろのことでお互に抑制することに努めまして、よく考えて国民のために働く時間はほんの僅かであります。自分達の都合をはかる時間が非常に多いという感じが世の中に流布しているようでございます。我我の進むべき民主主義政治の方向とは非常に違つているという気がいたします。
 それから又もつとひどい世界にゆきますと、力によつて政治を廃除するということが幾多あるような気がいたします。言葉尻をとることは余りよくないことでございますが、例えば議会でどう決つても、内閣の方針でどう決つても、我我は反対をつづけ実力をもつて闘うであろうと、こういうようなことをある集団が叫んでいることが、新聞紙などにありますが正式な輿論がどうなつているかにしても自分はあくまで反抗する。法律があつてもそんなものに従うな、そういう風の主張に対し私共国民が軽くこれを見過ごすことを得ない。私の偏狭性によるのかも知れませんが、私はまあ何十年間法を立案して、或はその他法の講義をして暮して来ておりますために、精神が狂つて来ておるかも知れませんが、今日法律に違反して平気で、力でもつて反抗しているもの、例えば土地収用法というものがあつても、そんなものどこにあるかという顔をしている沢山の人人があるような気がします。これはどうしてこうなつているか、本当の民主主義でないのであります。正義にかえるに暴力をもつてするということが堂々として動いてゆくということは、これは野蛮極わまるもので、全く亡国の姿に他ならないと思います。誰がこの正義を擁護してくれるであろうか。ものによつて擁護者は違うに相違ございません。各各職分に応じて努力すべきものです。
 その他広く考え合わせてみますと、世の中の一部は殆んど虚無的な姿であつて、正義尊重の念が衰え人間は種種なる勢力に屈服し、暴力が真理に勝つという傾向がかなり目にあまります。その一つの現われが、先程も正木先生によつて述べられたいわゆる太陽族ということになりましよう。太陽族というのは自体あるわけでない。ドラマに見え、文献の面にあらわれただけですから、直ちにつかまえて問題にするは一寸無理でございますが、しかしその背後にある考はもの悲しい。私は先日岡山県に行つた時、太陽族の映画についてそこの宿屋の女中さんに感想を聞いたのでございます。女中さんたちの言うことに、十八才未満の者は見ることは出来ないとなつている。自分は十八才以上だからと安心して入つたが行つてみて驚いたことは、前も後も悉く十八才未満の少年少女で、その映画劇場がみたされておつたという、そういう話をしてくれました。こういつたことは、そう一本調子の理屈で論ずべきではございませんけれども、人間の悪い面だけを平気で楽しんで見ているという社会現象に、多少心が腐るような気もいたします。私共は今から十二年前に戦にまけたその当時に、既にたしか長谷川如是閑さんが言つていたと思いますが、日本国民は結局健康に成長してゆくだろうと思います。長谷川さんは非常に愛国者であります。いつも一つの精神傾向をもつておりますが、我我はいくさに負けて一時はどんな状況になつても、かねてからよき伝統をもち、よき素質をもち、且つ長い間よき修練を経ておるのだから、そんなにひどい状態になるものではなかろうという気持らしいと思います。まあ楽観説でございますが、私も実はそう思います。今のジャーナリズムは兎角物ごとを大げさにとり上げて、針ほどのことを棒のように世間に知らせる傾があり、これは割引してみなければならぬことではありますが、実際は相当健康に向つておりますけれども、これに対しもつとよき方向を与えるは矢張り国民の正義観であります。国民がお互の力をもつて正義を擁護し殊に国民の中から選ばれた検察官その他の公の職務をもつ人人が努力し、一般国民も亦これに対して尊敬と後押しをしなければならぬのであります。だが物事は一足とびに理想的には参りません。根気よく努力せねばなりません。例えば警察力を増加しても愚連隊は思うように減つていません。甲の地点から追いまくられたら乙の地点にゆくだけで、抵抗力の弱いところにゆくだけで全体の分量としては減つていないわけであります。或は又押し売りなどについても、我我の普通の町の生活では押し売りは相当もの凄いものであります。そして若し正義のために闘うのだとして押し売りを露骨に拒絶いたしますと、それからいわれない被害が多いのであります。押し売りを拒んだ奥さんが殺されたという例もあるのであります。そこでつい弱気になると押し売りを助長させる。これは庶民の心弱さの禍でございましよう。それを補うところの充実した国家権力の活動が理想なのだけれどもそれが又非常に弱い。多分これも社会が不完全で国民の支持が不充分だからであろう。正義を愛せざるわけではない。ただいろいろ前後左右を見て遠慮がちになる。後は警察力の不足とか人員の欠乏とかいうことになります。約言すると法律には正義の主張が出来るが、実際上は出来ないようなことになります。一体これはどうしたらよろしいのでございましようか。私は皆さんの御意見をおうかがいしたい。放つておいてよろしいでしようか。或はもつと国民の力によつて精神力をもつて、これを補正してゆくような風にもつてゆくのが良いのではなかろうか。いろいろ考えさせられます。
 皆さんの御協力をもちまして一体検察当局を毛嫌いしないで、彼らは我我のために誠心誠意努力するものであつて、決してよき待遇をうけていないけれども、正義を愛する熱情家であることを確認し、たまたま何か誤つた事件があり得まして過去をほじり返してゆくと、問題は起り得ようがあれば勿論それは欠点である。欠点をほめるわけにはゆきませんけれども、全体の事情や分量を考え、公平な批判をしなければならぬと思います。何んだかとりとめのないようなことを申し上げましたが、実は相当深刻な問題に触れるところに来たのであります。人間の社会には正義は極めて重要であつて、正義の擁護なきところに真の秩序は栄えません。だが我我個人の心にはよわいところがあつて、自分に直接さし迫らぬことについては、正義擁護を軽視する傾があります。これはいけないことと思います。なるべく心を強くもつて、パブリック・リセント(公の憤)をふるい起し、正義に対する侵害を憤り、国民公衆としての憤りを高めたいものであります。そしてこれをもつて実際の責任者たる当局者の重い仕事のやり易いようにもつてゆくことは必要だと存じます。これ以上申し上げますると、余りつまらぬことで皆さんの時間を奪うことになり、却つて正義に反することになりそうでございますから、この辺のところでやめることにいたします。





底本:「涙をもつて正義をささえる」法務大臣官房秘書課広報連絡室
   1958(昭和33)年3月
初出:「第八回検察文化の会」最高検察庁広報部
   1956(昭和31)年
※「我我」と「われわれ」、「不届」と「不とどき」、「兎に角」と「とにかく」、「むつかしい」と「むずかしい」の混在は、底本通りです。
入力:フクポー
校正:The Creative CAT
2019年5月28日作成
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