見はるかす
積雪の原である。何か氷山の一部らしい。その広野の中を自然に細長い行列を組んでモーニング姿の者が
前進して先方の低い
丘陵のかなたに消えて行く、何千という数だろう。黒いモーニングはからだにぴったりあっているがズボンの方は白色だ。
澄んだ音楽の行進曲に歩調が
揃って行く。これはその実「ペンギン鳥の住みかを
訪ねて」と題する南極での
実写だ。
今日
南極の氷山や雪原の中に沢山の大きなペンギン鳥の
集団がある。その
生態は大抵の動物学者もよくは知らないが、それをカメラが
追求して実写したのである。
およそ生物の中で身のたけ四尺以上あって二本足で立って歩いているものは、人間の外にはペンギン鳥ぐらいだろう。鶴や
鷺だってそうかも知れぬが立って歩くという感じにならない。とにかく黒のモーニングの
礼装したような
風態で、それがチャップリンもどきの足つきである所が面白い。音楽に
歩調をあわせて
整然と進んで行くのを見ていると「えらいものだ! 音楽がわかる」と口をすべらしそうだ。
ところでこのペンギンは年に一回卵を生み、親がこれを抱いて
暖める。しかし親たちは抱きつつ
行動しなければならぬ。しかもまた抱くにふさわしい腕も胸も
整っていないのだ。羽毛の服の内側のような所に卵を
保持して暖めていると適期に
裾の所から小さな鳥が出て来て、親に
保護されよたよたと歩く。色々な保護方法が集団的にまたは個別的に発達している。本能的とでもいうべきだろう。
風雪がおそい来る、外敵がやって来る、傷つくものも
仆れるものも出来る。その
屍体は怪鳥めいた他動物の
餌食になる。つまり親の保護がなければ小動物は生存することが出来ぬのだ。
これが一年も
経つと、成鳥になり、親子の関係ははなれて行き、自立する。また
異性愛をも発する。かくて
永遠の時のひとこまを形成して行くのである。
四尺以上の身長で、常に二本足で立って歩き、一夫一婦であり、子は一ぴきしか生まないという
群棲動物を見ていると、非常に我々人間にあてつけるようであり、自分達の家庭生活をいやでも思い出さざるを得ない。「親子
相愛生活の姿は可愛いな」と賞めるかたわら、その
本能的かつ盲目的なることにおいて、我々はあまり鳥後に落ちないと
自嘲したくなる。同時に父子の間にある色々な
心理現象を自省して見ると、自分には自分の世界があって、愚なようでもあり尊くもある。
つまり他人の立場から見ると前者であり、自分の
立場から
静観すると後者であるらしい。自分で自覚しない愚さであるようで、しかもこれが人間の本能に通ずるものだろう。
立ちかえって考えると、私は初めて子供が出来たとき何やら心が
転換期に入ったようであった。色色の
曲折を経たり経験を
経た今においても、心理的にまたは道徳的に割り切れないものがある。要するに
万有を支配する力のまにまに
受動的に動きながら、それが主動的であるように夢を見ているらしい。ここに一種のバカが
発生するわけであろう。
結婚をして、尋常の
経過ではじめて赤ん坊の肉体を見たときの驚きは変な感じである。
冬の日の弱い
日影を、くもり
硝子と窓かけで更に弱めに病室の中で、これが今朝生れたといううす赤い
柔かい骨も何もないような肉体を手に受けとらせられると、本当に
変な気もちになる。これは人間の生きものである。自分が
責任をもって、人類の実際の
単位にしあげて行かねばならぬとの覚悟が、その柔かい日影の中から
湧き出して
迫りくるようだ。まだ知らぬ胸の苦しみというものだ。人類の永遠性に対する
関心が自認されてくるのだ。
しかし子供の数が増加してくるにしたがって、青年の
純情のような気持ちは
鈍磨してくる。そして生物学的に、今度の子供は私自身のどの特性を
分担して来るだろうかと
欲を出してくる。だから、その名を付けるにも、これに
願望を祈りこむ。しかしまだ
漠然たる希望であり、まずは普通人になれとの希望をあらわすに止まる。
例えていえば、
鼡のように弱そうなのには、
獅子のように強そうな名、瓦や土くれのような女の子にはルリやハリのような名をつけるというたぐいである。
だんだん
成長するにつれて、教育上何等の
作意を加えないようにつとめる。丁度科学実験のために、
観察しているような冷静さである。しかし妙なものでそのうちに個性を
発揮してくる。
瓜の
蔓には、瓜が実る筈だから、親に似るものかと思うとそうは行かない。
遺伝学のことは知らないが、犬や馬のように親に似たものは生れない。
鬼子ばかりである。しかし他面から見ると親に
似ているとも見える。知らない人が子供を見て、お父さんによく似ていると言う。自分で実際にふり返って見ても、似られては困ると思うことも沢山あるので、考えものだが、幸なことに一部分だけは親に似て、その他の部分は
古代の先祖に似ているかも知れぬ。その一部分というのも、たとえば私が甲乙丙丁の
素質があったとして、その甲乙丙丁を別々に子供達が承継し、時には増幅して
承継している。
私の欠点を、かなり
誇張して承継しているのを見ると、いやな気がするが、また私の中にかくれていた良点を誇張して示してくれると、「おれも捨てたものではない」とひそかに安心する。だから完全に近い
放任をして置いて、さてそれを見ると、私が
理学者になりたいと思った気持ちを
専門に代表するものもあり、私が芸術家になりたいと思った気持ちをいくらか
発展させようとしているもあり、またコンニャクのようにのらりくらりとした気持ちを多量に分担しているもある。或は
権力と不正に極端な
抵抗意識をもって
俗習を
断乎拒否せんとする態度もどこかに残っているようだ。
万人は親の子でなくて、親の親の親の親等広い
範囲と関係があって、いわば天の子であり、その意味で、親そのものを
批判し、教育し、
是正し、
攻撃しているものであることを感じる。そこで、いくらか安心も出来るわけだ。親のものが、そのまま大部分子に伝わるとしたら、親は子に対して申わけがないばかりか、良心の
苛責になやまされるわけだが、何十分の一ぐらいの責任しかないのだから、あまり
恨むな怒るなと
了解を求めている。
こんな風だから、子供たちに向って、断乎として右向け、左向け、
医者になれ、音楽者になれ、役者になれと命令したり、
指導したりする勇気がない。せいぜい
微温的な助言をするくらいである。万事
汝等の責任と
良識によって前途を開き進め、人生は「親知らず」の
難所であると言いたい気分でいる。
それゆえ、「子供をしつける」ということには大体消極的である。ごく
僅かのしつけは経験上必要だが、今の学校の先生や父兄がたが強くしつける
態度を執ったり、開明的と自信する人々が、「外国では子供をしっかりしつけますよ」と
真理の如く宣言されると、ついしつけ
規範の一言一句に厳密批評を
加え、アマノジャクの
言動をなさざるを得ない。
蛇にうなぎの教育が出来ますか、
鰻の心は鰻が知りますという風に思うのである。
それでも、内心にはビクビクしている。果してこれで、彼等の幸福が
保障されるであろうか、と心配するが、
中庸のかねあいというものがあるから、勇気をふるい、乃至は
蠻気をふるって、彼等にはその行き途をなるべく自分できめさせ、少くも手を取り足をとるおせっかいは
極度に
避けようと思っている。一片の好石があるとして、芸術家の思うがままに
仏像になり、神像となり、武人像にきざまれ、
英雄像に作られることは、石のために同情するが、生きた人間を父親の
暴政に服させることは忍びないのである。運命よ願わくば私の方針に
微笑をもって好意を示せと言うの外はない。
子供はその生れる
境遇によって、非常な
損得をする。しかし父親だって、運命のもとにあえぎあえぎ生きているのだから致し方もない。
私は現在、男、男、女、女、男と五人の子を持っている。持っているという語は、
厳格にいうと人間を物に見立てたようで面白くないから、天から
恵まれたという方が正しい。
第一は父の
世俗面を表現している。第二は父の科学面を代表する。第三は父の芸術面を代表する女だ。第四の女は、父の読書癖を代表するし、
放慢癖と鼻っぱしを
偲ばせるが、海のものとも山のものともわからない。
そこで第五の男の子になるが、これはいうまでもなく
末実りである。西瓜だって
胡瓜だって末実りは普通より
安価であり、ことに時代と
身辺の変化のせいで、
風波の中にさすらえて来たのであるため父親の立場からいうと、これに対して
責任観が深くなるわけである。
この風波にさらされて
発育して来た末実りが、将来幸福に生きて行けるであろうか、今日までは
無事らしく過ぎて来たが、親の方もかなり疲れて七つさがりになって来ているので、と多少の心配があり、しかも
不精者の父親だからそう思いながら見守っているだけである。ゾラの書いた大部の連続小説の中に、数代に
亘るルゴン・マカール家の遺伝が
述べられている。これは当時の学説に
誘導された誇張もあるのだろうから、そんなに気にかけることはないと思うが、それにしても子供の顔の目つき
鼻つきが大分親に似てくるにつれて、父親は自分を
顧み、いささか心配なしとせぬ。どうか或る意味においては親に似ぬ
鬼子になってくれと思うて手出しの途もないのでただ自然に
祈りをかけている。
昭和十年頃は、私は
内閣の法制局長官であった。その頃の
制度は今と違っていて、法制局長官は相当
要職と考えられ、内閣
更迭の場合には法制局長官の人選が相当問題になっていた。つまり大官とされていた。
その実これは歴史から来る
迷信であり、過去の法制局長官に非常に
威勢のよい政治家が多かったことと、昔の
官僚政治の中で、法制局が内閣の
智恵袋の役割をつとめた事から来ている。しかし事情は変化して外から見るほどの作用はなかったかも知れぬ。それでも敗戦後戦時中の法制局長官は、
当然にパージにされたことを考えると、一種の迷信的
尊敬があったかも知れぬ。
その長官たる私が、昭和十年の始め頃からある種の新聞で
乱臣賊子と大がかりに
罵倒された。在郷軍人会も大挙してこれに
共鳴した。そして四方八方から、目を光らせて私を
眺めるようになった。
それは、その当時天皇
機関説問題なるものが起り、私がその機関説論者の一人なりとして
排撃されたのである。
美濃部博士の機関説について政治問題が起り、私は
議会の一委員会で、学問の問題を議会で論ずるは
適当でないと言ったところ、翌朝からは私自身が大なる機関説論者として、四方の新聞からひどく
叩かれたのである。
この問題は、自分の知らぬ世界で
随分発展した。私は十数年の後になって知ったことだが、ある大臣は、金森を首にしなければ、内閣から出るとまで言って、
総理に迫ったということである。一番困るのは法制局長官というものは、法律的な問題について、重要
発言をする責任があるのに、その人間の
学説が疑われ、したがってそれが乱臣賊子扱いされていることである。
幸に部内の人は私を知っており、物の
道理をわきまえ、私を支持してくれたが、門を出ずれば
四面楚歌の声だ。内務省の警保局関係者は、私の発行した書物についてとかくの
審議をしており、それは自然的
絶版の姿にしてくれという。文部省では、学説分類の調査書を作り、その中に私の書物も出ている。閣議に出る人々の顔を見ても、積極的に
支持してくれる人はない。困った
奴だという顔をしている。身辺は、住宅を含めて、五人の警察官によって
保護されている。
辞表を書いて
懐中に持ちながら諸般の事情によりその提出も出来ず
待機しているという不思議な
運命の下に
暮すこと一年で、昭和十一年の新春に、やっと辞表を
平穏に出すことが出来た。以上のことを述べたのは、私の気持ちが、一種の闘争と
防衛とにとらわれていたことを言いたかったのだ。そして当時
平静に仕事をしていたけれども、その裏面には
憤りを
含んでいたことが言いたかったのだ。
官を
辞して護衛警察官が
退却し、のびのびと手足をのばして好い気になっていたとたん、二月二十六日の朝、雪降る中にトラックに乗った警察官の一群が
寝込みをついてやって来た。
「
事変が起りました」と言う。つまり例の二・二六事件が起ったのだ。十時頃になって、様子がわかった。事件の性質上、御家族に
危害を加えることは万あるまいから、あなた自身だけ
退散したがよいと言う。すなわち
飄然と東京駅へ出て、黒雲
物凄き都を去り、人に行方を知らせず、約一月半程行方不明になったのである。実は郷里の名古屋へ行って、兄の家に泊めて貰っていた。
ところで主人が居なくなった東京の
故宅には、一小事変が起ったのである。それは別事ではなく、妻の身体に生理的
異変が起ったのである。その時、私は五十一歳、妻は四十二歳であったが、妻は主人が
逃亡中に子供が出来たことに一種の不安を生じたらしい。前途がどう
展開するかも知れず、
分娩の時期が後れるかも知れず、私が果して生きぬくかにも不安があるので、「オボエアリ」との
保証を得るにも心もとないのであった。
幸にして、一月半の後、私は東京にかえり、
晴耕雨読というか、植木をいじったり、本を読んだり、時には
碁を打ったりして外観上平静に生きた。
機縁は熟して、その年十月十七日
神甞祭の日に、玉の如く
美わしくはないが、玉の如く丸い男の子が出生した。日どりの
関係は、神さまがよくさばいていたのである。
ところが、ここにも、
浪人生活らしいものがからみついている。その前日友人が
訪問して来て、碁を打ち出したのである。夜もおそくなり、暁になった。碁というものは
厄介なものである。女中さんは寝てしまう、妻が茶や菓子をもって来る。その
面相たるや頗る
険悪である。
碁の方が急なので、ただ不可思議なることとしていたが、朝になってひそかに聞くと、
時期迫れるもののようである。そこで、かねて約束してあった順天堂病院へ
同行する。診断の結果、今日の午後に分裂がありそうだという。
ところが
不運にも、その日の午後は、ある
先輩の家で、マージャンを決行する約束があった。困ったなと思うが、四人の中の一人として欠けるわけに行かない。やむなく大義
親を亡ぼすの伝で、何くわぬ顔で行く。普通ならば電話に及ばずと約束して置く。
先輩の家で、
鬚の立派な人や、頭のはげた人と勝負を決していても、心ここにあらずであり、ともすれば誤ロンをやりそうである。電話のベルを聞いても、すわ一大事と
腹の底がブルブルする。
夕方になって、自宅に帰り、様子を聞いて安心したが、世の中から
迫害されて、不満な親が種々の
勝負でウップンを晴らしている中で生れた子のことだから、こいつ
反抗心の強いものになるかも知れぬ、よほど後天的な
取扱いに苦心しなければならぬと思った。
さて数日の後に、名をつけねばならぬ。願望を含めて、
博雄と名付ける。
偏狭者によって悩まされたことの記念と、伊藤博文を
景慕する気もちを
象徴したものであった。
九百匁の
肉塊が、次第に増量して行くことは世のつねであるが、ただ違ったのは、私がいつも在宅であることである。
従前の子供は、日中は私が外出しているので、大体人まかせ、子供をしみじみ抱いたことも
稀であった。今度ははじめて抱いた。抱いて散歩した。これをあやすなどという、世の常の親のように
器用なまねは出来ぬが、とにかく腕の上にのせて散歩した。
私は、極端な
閑人であった。法律の本なんか見る興味は、全然ない。植木いじりか、子供いじりか、碁いじりである。そこでだらしのない和服で、
閑父、
閑児を携えて近所をうろつくのである。乱臣賊子の新聞事件によって、近所の人は
観念的には私を知っている。それが、閑児を
携えて動くのである。しみじみと私を
眺めて、ノンキな父さんだなと思ったに相違ない。
家の前は坂である。坂を下り切ったところに、お
煎餅屋がある。その店に二台ばかり、お菓子の
自働販売器があった。
それは一銭銅貨を
穴へ入れて、金具をパチンとはじくと、キャラメルが一つ出てくるような道具である。時には、いくらかよいものが出てくる。近時盛んなパチンコの、五世も前の先祖のようなものである。閑父が、その台の前にしゃがんで、閑児に一銭を投ぜしむる図は、
平和な姿である。
その
背景として、社会全体が
険悪の
相をおびていることは、誰も知らない。そして閑父は、赤ん坊が、博文の
真似をするであろうかどうか、別に考えもせずにいた。しかしこの
光景は、家人によって、あまり見っともないとて
禁止された。そしてこの子は幸だとかお父さんのよい玩具だとか
批判された。私は、「
上善水の
如し」などと口ずさんでノンビリしていたが、それには、時の
要素を考えねばならぬという
考慮や、色々のものが
籠っていた。
閑児が大きくなった。
依然として、閑父のよき友であり、時としてはよき
師である。師であるとは、勿論子の方が父の師であるという意味だ。世の中の活動を
抑制されてしまった閑父にとって、植物を
育成し、その発育に必然の理を感じることは、自分を小造物者のように思わせるのであったが、同じように、人間の子が
自然の理にしたがって、スクスクとのびて行くことにも無限の喜びを感じていた。そして、もしも人間が
性善なるものならば、博雄を
叱ったり、責めたりすることなく、伸びるがままに伸びしめたいものだと思った。人類は、後を行く者が、前を行くものよりもすぐれているべきだと思った。
理窟はない、まさに親馬鹿の
発露である。
幼稚園へ行く時期になった。反抗児ではないかとの心配があったが、
保母さんがよかったせいか、大した動きはなかった。反面
盲従派とでもいうか、喜びもせず悲しみもせず、流れに従って流れるままである。おれに似ているなと、私の子供時代を
偲んだ。
しかし私の子供時代を思いかえすと、外観上の
従順は、必ずしも心からの従順ではなかった。内心では
是を是とし、非を非として、かなり批判的であったと思った。
幼稚園では、
遊戯を教えてくれる。音楽にあわせて、簡単な
舞踊のようなものを教えてくれる。たとえば、「
黄金虫は金持ちだ」というの類である。それは、或る意味では、
優美であり、可愛らしい。
情操教育の価値があるであろう。家庭でも、子供をおだてあげて、一つやって御覧というと、子供等は
得意になって、足を動かしたり、手を
叩いたり、腕を廻したりするのが普通だ。しかし博雄はどういうものか、そんな優美なことに、少しも
愛着をもたなかった。
紙製玩具の、電車の
車掌さんの
鞄を買ってくれとせがむのである。それを肩にかけると非常に御機嫌で、切符パンチを
嬉しそうに使用する。「チンチン動きます」「曲りまちゅから御注意下さい」位はよいが、「どこまでですか」と行くさきを聞いて、
乗換え券を切って呉れる段になると、この車掌さん恐ろしくうるさい。「上野ですか、ハイおツリでちゅ」ぐらいならよいが、家の中を飛び廻って
裁縫する妻、
洗濯している女中にも、一々聞いてまわる。
私もその
被害者である。机の辺へ来て、何遍でも行き先を聞きただす。うるさいから「
地獄」というと、かまわず「ハイ地獄!」といって
切符をくれる。ロンドンまで下さいというと、お気の毒ですが、海の上は走りませんという。どの子供でも、車掌さんのまねはすきだったが、博雄の場合は随分長続きした。そして我々の気のつかぬ
微細の点まで、車掌さんの態度を
実写し、それを
復元させてくれる。一種の天才だ。
いよいよ、小学校へ行くときになる。私の家は、幸に竹早町の高等
師範に近いところにあったことの縁もあって、上の子供は、例外なく小学校時代はその
附属に入れて貰った。中学校時代も入れて貰ったのが多い。どんな学校がよいかは
議論があり得るけれども、正直に
実状を考えると、どうも子供のために格段の
幸福があるらしい。何とかして、ここに入れて貰いたいものだと
願書を出したが、情ないことに入学不許可になった。
その前から親の職業が
無職であり、またその人は、新聞によれば乱臣賊子なんだから、入学はむつかしいぞ、と家の中で
愚父愚母が話しあっていたが、この結果になって二人ともこっくりした。無論内面の
事情を批判したのでもなく、それを不当と思うのでもなく、一種の偶然を
容認しただけである。ところが妻は中々あきらめ切れない。他の二三の師範学校の附属へ願書を出して努力したが、どこも
拒否された。止むを得んとあきらめて、親の
因果が子に
報うの結果になったことを心の中で
陳謝するのみであった。
しかし有り難いことに、普通の義務教育の小学校は、決して乱臣賊子の
家族をも拒否しないのである。日本に生れて幸だと思った。それで
順当に進むかと思っていると、その中戦争は
苛烈になった。
学童疎開がやかましくなり、博雄の学校も長野県の田沢へ疎開することになった。時は昭和二十年四月頃である。三月
爆撃のあと人心
頗る不安であったからである。博雄は当時八歳であって、親の手もとを全く離れたことはない。
浪人の子であるから、殆んど旅行したこともない。それが果して疎開に
堪えるであろうか。空襲を受けても、ここの家の方が安全ではあるまいか。色々と妻は心配したが、学校の空気では疎開させねば非国民である。学童疎開は
強制的ですらあった。そして先生もついて行くし、食糧事情も
確実だから、何一つ心配はないとのことであった。
ついに
覚悟をして、あとは母親の
熱意で、小さな
竹行李と、風呂敷一つに衣類や毛布を包み込んだ。戦争末期の
物量不足で、ほんの僅かなものを、しかも一定
容量の制限で、夜おそくまで準備している母親の様子を見ると、さすがに私のような
呑気者もしんみりしてくる。空襲の危険は刻々増加してきている筈だが、呑気者の私は何一つ準備をしない。書物などを疎開したって、国が
滅亡したら何になると大きくかまえていた。
ところが不幸な
未必的予感が当って、四月十四日の大空襲が来た。あっという間に四方は火になる。家には、八十五歳で身体不自由の
老母があり、女の子などがいる。博雄も八歳である。火につつまれたら
逃げ途はない。だから早く逃げられる中に、とっさに難を
避けさせた。家は、私一人だけが残って守った。
火を免れる見込がないとなると、私は庭先に穴を
掘り出した。金銀や、
珍本を埋めるためではない。博雄の旅行荷物を
保全する為である。
鍬を振りあげて、自分の
老齢と非力を嘆じたわけだが、ともかく掘った。腕はしびれるように
労れ、地に
伏して休息した。隣家の庭の
桧に火がついて、マッチをすったあとの
軸木のように燃え果てる。
我家の
雨戸も熱くなったと見え、火の子がいつまでもくいついている。もう駄目だ。町会長の
責任もすんだ。博雄の行李を埋めた土の上に、更に土をかぶせ、水をかけ、
万事終了の意識で心も軽く立ちあがった。ほんとうの学童疎開の日は、二三日さきのことだ。翌朝は
遥々と、下北沢の
親戚の家に厄介になりにいった。老母をリヤカーに乗せ、これを押しながら妻や子供は
焼土の町を行く。これは先発隊である。
私は町会長の
義務を果して、博雄と二人だけでさんたんたる町を行くと、天地の間、私とこの
孤児と二人のみがいるような
錯覚をおぼえた。事実一瞬にして、世は孤立人のみの世界に変じたのである。幸にしてこの父子あり、運がよければ、世界の
再建に加工し得るかも知れないと、ひそかに思った。先発隊の運命の程もわからぬので、こんな
弱気兼
強気になったのである。この考えはたしかに
病的だが、一つの
慰めでもあった。足弱の子供をあやなすため、焼け残りの古本屋で、
角力の古雑誌を買ってあてがう。顧みて支那の
戦国時の
流亡人を連想した。
数日経って、博雄
疎開の日になる。世田谷の奥から、
巣鴨の焼けあとへ立ちもどり、既に土中から掘り出した例の荷物を妻と共に携えて、
茫々たる焼けあとの学校あとに集まる。運命を自覚した影の薄い童子たちは、
辛うじて通じている電車で
旅程に出るのだ。いろいろの
不可知要素の
伴っているこの
生別は、万感深きものがあった。足の細い、そして首の細い自分の子を見送ることは、決して
愉快なものではない。
去って一月、また二月、保護者に
促されて書いた手紙だろうが、時々無事と疎開地生活の
満足を知らせてくる。父兄代表者が、
原地見舞をしての報告にも、
童児たちは元気よく生活していると聞いて安心していた。が、あるとき、見舞に行ったよその人に、一封書を
秘密にことずけて来た。開いて見ると、生活に
堪えぬから呼びもどして呉れとの、たどたどしい
鉛筆書きの数行であった。
私は大体秩序を
尊重するたちだから、この手紙には強い
反感をもった。我慢力が無いと内心
憤った。それでも十五歳の
姉娘が心配し出した。行って見てくるという。上野を出るあの
混雑の汽車に、小さな女の子が一人で出掛けるのは、
心許ないと思ったが、これを差しむけた。ところが翌日、思いもかけず姉娘が、博雄を伴って
悄然と帰って来た。見ると驚いたことに、博雄は顔から
色素が抜けてしまったように青白くなって、
寄生植物にゆうれい草と名付けるのがあるが、それとそっくりであった。腕が細く、頭が大きくて目立つ。
娘の言うところによると、あまりのことに見かねて
即刻帰宅の手続をして来た。だが、
当局は、非常に反対の様子を示したとのことである。私は直感的にその
処置を賞めるの外はなかった。小娘のくせに、よくやったものだと感心した。学校の処置は親切であったに
相違ないが、博雄の消極的な
気質が、ここへ追いこんだものと思った。
翌日小金井の
藷ばたけへ連れて行くと、
蔓が三尺ぐらいに延びていた。そんな時期であったのである。手伝わせると、教育されたように
秩序正しく
雑草をとる。親より上手だ。言葉遣いも教科書の通りである。本当に三ヵ月の間に、
見違えるように好い子になったというところだが、つまりは人工的
変質をさせたのであって、人間性を失ったのである。機械人形のように、
柔順になったのだ。
奴隷化したのだ。だから、本質との衝突が発生したものであろう。
二三日のうちに、
野性をとりもどし、言葉が悪くなったら顔色もよくなった。私も安心した。ところが
困ったことに、そんな風に疎開地から帰った子供は、どこの学校へも入れて
呉れないことだ。
懲罰的な意味もあるかも知れぬ。そこで寺小屋みたいな臨時
施設に入れて貰ったが、かえって本人はのびのびしていた。
世田谷で空襲に
接したが、防空ズキンをかぶって案外呑気でいた。これらで見ると、自然力的な
圧迫には堪え得るが、人間的圧迫には堪え得ない
弱気の性であろうと思った。この父親にも、その性質は多分にあるからよく
解る。
とかくするうちに終戦となり、世情は一変した。私も世田谷
代田までさすらえた。博雄は、そこの公立小学校に入れて
貰った。先生達が赤旗をもって、威勢よく皇居前広場へ行く。子供たちは校門で、これを
声援する。内心は、学校が休みになることを喜ぶのだろう。困ったことだが、
孤木の支え得ることではない。
近所の子供たちは、皆愉快な
庶民的風貌をそなえている。
裸足で泥んこになって、毎日遊びあっている。知らぬ間に、博雄のポケットには、メンコやビー玉が一
杯になっている。
案外勝負に強いのかも知れぬ。
これらの子供たちの
交際を見ていると、実に愉快そうだが、心配な面もないことはない。しかしそのうち、父親の身辺も非常に急がしくなって、
老躯をひっさげながら壮人と
伍するわけで、勢い子供から手を抜くの外はない。昭和二十一年には博雄が小学校四年生であった
筈だが、六年生を終るまで彼は楽しく学校生活をし、本人としては
幸福を感じていたと思う。
八畳足らずの一室に、親子六人が
居住し、雨は
洩り、月影は屋根を通して眺め得るこの生活にも、彼は十分満足していたものと思う。親も、本心はこの生活の
気楽を愛していたが、
孟母三遷の教えを気にする面もあった。
それは、野の子として育つことには
賛成だが、泥沼の子になることには警戒心をもったからである。私は理論上、義務教育小学校を
愛惜するのであるが、具体的の場合に、何か
困る事情ありげに感じたからである。博雄の学校の成績が、どんなであったかは実は知らない。運の悪いいろいろの事情に
災されていたことも考えあわせ、また大器晩成流の家風をも
念頭に置いたために、深く考えても見なかったのである。ただ
環境のおかげで、神経質でなくなったことは拾いものだ。
中学校に
転ずるのを機として、教育大学附属の中学校に入れて貰うことが出来た。私の家も、もとの焼けあとに小屋を作ることが出来た。昭和二十四年の夏頃になって、
貧弱ながらも自分の家に住むことが出来た。いち早く、昔住んでいたひき蛙が数匹現われて、
愛嬌を振りまいてくれることに喜びを感じた。植木類は、全部抜き去られてしまったが、
芝草が少し残っているのに手を入れたら、いくらか増加した。ふと見ると、その昔山野からむしり取って来たノビルやヒメウズなどが、
無価値の故に生き残っている。
その後六年の歳月が、比較的無事に
経過した。博雄も、中学三年高等学校三年を無事に経過して、今年三月の二十日に附属の高等学校を卒業した。かえり見ると、
兄妹四人はともかくも学校
課程を終って、少しばかりの月給を貰う身となった。親の責任が特に軽くなったわけではないけれど、いずれも生れたてのあの柔かい
肉塊に対して感じた責任感は、少し
気軽になった。
だが博雄は、これから大学課程に入るのであり、入学試験も受けたには
相違ないが、目下海山ともに不明である。
外観平静を装っているけれども、内心には只ならぬものが
含まれているらしい。
少し私も気が落付いて来たので、世間の親は、こんな場合にはどんな考えをもって、子供に対するであろうかと考えて見る。二三の
事例を見ると、随分親は子供のことを考えるものらしい。将来の
方針のことから、嫁さんや住宅や
財産のことまでも考えるもののようだ。私は、そのあり方を尊いものと思わぬわけではないが、本来根気乏しいのか、
薄情なのか、そこまで気を用うることが出来ぬ。ただどうか
健康に生き、人間らしい生活を果して呉れ、親はどうもこの上大したことは出来そうもないから、なるべく兄弟相救けやって
[#「救けやって」はママ]進んで行ってくれと
念願する外はない。私のあわれなる
力量も、その全部を子供たちの為に捧げることは出来ない。一部は世間、すなわち
衆生の幸福のために
捧げねばならぬ。またその一部は、自分自身のために捧げねばならぬ。その他、いろいろである。
私は、一面このように
薄情らしいけれども、幸に母親はこれと違っている。道徳だか本能だか知らないが、子供のためには
献身的の愛情をさしむけている。例えば、あの
食糧事情の困難なときの母の生活ぶりを見ると思い当るものがある。国宝の玉蟲の
厨子の画に、修業者が
修道のために、進んで自分の肉身を
餓虎に捧げんとする様が画いてあるが、母性愛というものは、子の幸福のために肉身を捧げることを、意に
介しない面を具えている。
理窟ぬきに私は子等のために安心している。
私自身としては、子等の中に伸び出してくるいろいろな性質を眺めて、我等が
造物主から受けて来たものを、原形のまま子孫に伝えるばかりではなく、少しずつは成長発展させて、後の
世代に伝えることが出来るかも知れんというあてどもない夢を見ている。造物主から受けた
功徳に、利息をつけて後代に伝える責任を、子供に
期待することは愚なことかも知れないが、事実そんな期待をいだいている。その度が強くなると、世間に
珍しくない
嘲笑の客体となるのだが、少しは期待してよいだろう。そしてそのねらいを含めて、子供に対する自分の態度の
舵をとって行くことは、ひそかな喜びでもある。
子供と
丈くらべをすると、親はたしかに勝つ。しかし段々成長すると、親の身長が
却って
劣ることもあり得る。精神の面でも、無論その面が多い。
後進が先進を超えて進むのが人世の常であり、これが無くては、世の進歩がある筈はない。
綜合的な意味においては、父は子よりもまさるかも知れぬ。また社会的に発達している伝統的
権威によって、父は子をある程度まで
圧迫することは出来得る。しかし
本筋から言って、ある年齢たとえば成年近くなれば、子に対して、知能
識見等について相当敬意を払う場合があり得る。親のもつ経済力を転用して、子の有する
知識能力を軽視せんとする事は
不条理である。
博雄を見ていると、職工的
素質において
遥かに父を越えている。職工的素質とは言葉通り個々の
雑技術である。
釘を打ったり、箱を作ったり、ラジオを組んだり、
電蓄を動かしたりする技術である。これと伴って、小さな小手さきの手品を演ずる腕のさえの
萌芽もある。この性質は、将来何に適するであろうか。
竜の落し子は、竜にはならないのであって、この種の職工的性能が、器用貧乏を生み出すだけのものではないか。少し気にならぬことはない。
元来私自身が
大物になり得ない性質をもち、同時に小物にもなり得ない性質をそなえ、余程恵まれた
環境でなければ、利用価値のない人間なのだが、博雄はこの小物性を特にもつことは、父より
優れりとすべきか
否か、将来の問題だ。
博雄は、一種の独断的反抗性をもっている。これは特に
顕著ではないが、いわゆる「あまのじゃく」性を相当もっている。例えば雑誌社などから、家族の
集団写真[#ルビの「しゅだんしゃしん」はママ]を
撮りにくると、頑として仲間に入らない。
営利の手段の中に参加することを、いさぎよしとせぬのであろう。この気持ちは私によくわかる。しかし事自身が悪いことでもないのだから、社会的
調和性があるなら、
譲歩出来ぬほどのことでもない。青年が、正義を愛することは正しい傾向だが、小正義を偏愛することは
大乗的でない。社会を尊重する気分が発達すれば、いくらか変化するのだろう。小骨の多過ぎる魚は、最上の食味ではない。
博雄は、友人の間に
寛容であるらしい。そして子供らしい親切さと、
忠実さをもって交際するとの
噂であり、友人たちからこれを容認されている。これは前述の反抗性と
矛盾するようだが、それだけに複雑なのだろう。将来の改善の見込があるといえる。なにしろその出生前に、父親の頭の中に
潜在していた反抗意識が、
影印しているとすると父親の責任だ。
博雄は、数学や物理などに、理解力が
発達しているようだ。これは近代人に好ましい能力であるが、果してどの位のものか、さきの
職人性と組みあわせ考えて、限界面の低いものではないかと心配する。それでも致し方はない。父親が
万能早解りでありながら、一能に
精通する能力に欠けていたからである。
博雄は、芸術に対して、特別な
感興を持たぬらしい。音楽を
熱愛するとか、詩を作るとか、画を描くとかいう面に格別の
関心をもっていない。つまりそれは
散文的であるといえる。愛好心はなくても理解心があるのか、それが問題であるが、食物の
好悪などから類推すると、考えが平易すぎる心配がある。
雑然考えて行くと、凡そその
適材たる方向が少くとも科学面であることが現われてくる。
君子器ならずの格言のように、今後
突然変異でも起さない限り、一路進行するのが幸福だろう。そして親の
錯覚かも知れぬが、興味の動きかたには幅がありそうだから、見ていて前途が面白そうだ。料理が上手で、芸術に理解の深いお
嫁さんと組むと一層幸福らしい。そして私が老らくの余生を生きるとき、ラジオや電蓄やテレビは一手で
修繕して貰いたい。
博雄の大学入学が愈々確定した。ここに安心して筆を止めるが、これなどは顯著な親バカ症状だ。