親は眺めて考えている

金森徳次郎




ペンギンの連想れんそう


 見はるかす積雪せきせつの原である。何か氷山の一部らしい。その広野の中を自然に細長い行列を組んでモーニング姿の者が前進ぜんしんして先方の低い丘陵きゅうりょうのかなたに消えて行く、何千という数だろう。黒いモーニングはからだにぴったりあっているがズボンの方は白色だ。んだ音楽の行進曲に歩調がそろって行く。これはその実「ペンギン鳥の住みかをたずねて」と題する南極での実写じっしゃだ。
 今日南極なんきょくの氷山や雪原の中に沢山の大きなペンギン鳥の集団しゅうだんがある。その生態せいたいは大抵の動物学者もよくは知らないが、それをカメラが追求ついきゅうして実写したのである。
 およそ生物の中で身のたけ四尺以上あって二本足で立って歩いているものは、人間の外にはペンギン鳥ぐらいだろう。鶴やさぎだってそうかも知れぬが立って歩くという感じにならない。とにかく黒のモーニングの礼装れいそうしたような風態ふうていで、それがチャップリンもどきの足つきである所が面白い。音楽に歩調ほちょうをあわせて整然せいぜんと進んで行くのを見ていると「えらいものだ! 音楽がわかる」と口をすべらしそうだ。
 ところでこのペンギンは年に一回卵を生み、親がこれを抱いてあたためる。しかし親たちは抱きつつ行動こうどうしなければならぬ。しかもまた抱くにふさわしい腕も胸もととのっていないのだ。羽毛の服の内側のような所に卵を保持ほじして暖めていると適期にすその所から小さな鳥が出て来て、親に保護ほごされよたよたと歩く。色々な保護方法が集団的にまたは個別的に発達している。本能的とでもいうべきだろう。風雪ふうせつがおそい来る、外敵がやって来る、傷つくものもたおれるものも出来る。その屍体したいは怪鳥めいた他動物の餌食えじきになる。つまり親の保護がなければ小動物は生存することが出来ぬのだ。
 これが一年もつと、成鳥になり、親子の関係ははなれて行き、自立する。また異性愛いせいあいをも発する。かくて永遠えいえんの時のひとこまを形成して行くのである。
 四尺以上の身長で、常に二本足で立って歩き、一夫一婦であり、子は一ぴきしか生まないという群棲ぐんせい動物を見ていると、非常に我々人間にあてつけるようであり、自分達の家庭生活をいやでも思い出さざるを得ない。「親子相愛そうあい生活の姿は可愛いな」と賞めるかたわら、その本能的ほんのうてきかつ盲目的なることにおいて、我々はあまり鳥後に落ちないと自嘲じちょうしたくなる。同時に父子の間にある色々な心理現象しんりげんしょうを自省して見ると、自分には自分の世界があって、愚なようでもあり尊くもある。
 つまり他人の立場から見ると前者であり、自分の立場たちばから静観せいかんすると後者であるらしい。自分で自覚しない愚さであるようで、しかもこれが人間の本能に通ずるものだろう。
 立ちかえって考えると、私は初めて子供が出来たとき何やら心が転換期てんかんきに入ったようであった。色色の曲折きょくせつを経たり経験をた今においても、心理的にまたは道徳的に割り切れないものがある。要するに万有ばんゆうを支配する力のまにまに受動的じゅどうてきに動きながら、それが主動的であるように夢を見ているらしい。ここに一種のバカが発生はっせいするわけであろう。

分離ぶんりした生活体


 結婚をして、尋常の経過けいかではじめて赤ん坊の肉体を見たときの驚きは変な感じである。
 冬の日の弱い日影ひかげを、くもり硝子ガラスと窓かけで更に弱めに病室の中で、これが今朝生れたといううす赤いやわらかい骨も何もないような肉体を手に受けとらせられると、本当にへんな気もちになる。これは人間の生きものである。自分が責任せきにんをもって、人類の実際の単位たんいにしあげて行かねばならぬとの覚悟が、その柔かい日影の中からき出してせまりくるようだ。まだ知らぬ胸の苦しみというものだ。人類の永遠性に対する関心かんしんが自認されてくるのだ。
 しかし子供の数が増加してくるにしたがって、青年の純情じゅんじょうのような気持ちは鈍磨どんましてくる。そして生物学的に、今度の子供は私自身のどの特性を分担ぶんたんして来るだろうかとよくを出してくる。だから、その名を付けるにも、これに願望がんぼうを祈りこむ。しかしまだ漠然ばくぜんたる希望であり、まずは普通人になれとの希望をあらわすに止まる。
 例えていえば、ねずみのように弱そうなのには、獅子ししのように強そうな名、瓦や土くれのような女の子にはルリやハリのような名をつけるというたぐいである。
 だんだん成長せいちょうするにつれて、教育上何等の作意さくいを加えないようにつとめる。丁度科学実験のために、観察かんさつしているような冷静さである。しかし妙なものでそのうちに個性を発揮はっきしてくる。うりつるには、瓜が実る筈だから、親に似るものかと思うとそうは行かない。遺伝学いでんがくのことは知らないが、犬や馬のように親に似たものは生れない。鬼子おにごばかりである。しかし他面から見ると親にているとも見える。知らない人が子供を見て、お父さんによく似ていると言う。自分で実際にふり返って見ても、似られては困ると思うことも沢山あるので、考えものだが、幸なことに一部分だけは親に似て、その他の部分は古代こだいの先祖に似ているかも知れぬ。その一部分というのも、たとえば私が甲乙丙丁の素質そしつがあったとして、その甲乙丙丁を別々に子供達が承継し、時には増幅して承継しょうけいしている。
 私の欠点を、かなり誇張こちょうして承継しているのを見ると、いやな気がするが、また私の中にかくれていた良点を誇張して示してくれると、「おれも捨てたものではない」とひそかに安心する。だから完全に近い放任ほうにんをして置いて、さてそれを見ると、私が理学者りがくしゃになりたいと思った気持ちを専門せんもんに代表するものもあり、私が芸術家になりたいと思った気持ちをいくらか発展はってんさせようとしているもあり、またコンニャクのようにのらりくらりとした気持ちを多量に分担しているもある。或は権力けんりょくと不正に極端な抵抗ていこう意識をもって俗習ぞくしゅう断乎だんこ拒否せんとする態度もどこかに残っているようだ。
 万人は親の子でなくて、親の親の親の親等広い範囲はんいと関係があって、いわば天の子であり、その意味で、親そのものを批判ひはんし、教育し、是正ぜせいし、攻撃こうげきしているものであることを感じる。そこで、いくらか安心も出来るわけだ。親のものが、そのまま大部分子に伝わるとしたら、親は子に対して申わけがないばかりか、良心の苛責かしゃくになやまされるわけだが、何十分の一ぐらいの責任しかないのだから、あまりうらむな怒るなと了解りょうかいを求めている。
 こんな風だから、子供たちに向って、断乎として右向け、左向け、医者いしゃになれ、音楽者になれ、役者になれと命令したり、指導しどうしたりする勇気がない。せいぜい微温的びおんてきな助言をするくらいである。万事汝等なんじらの責任と良識りょうしきによって前途を開き進め、人生は「親知らず」の難所なんじょであると言いたい気分でいる。
 それゆえ、「子供をしつける」ということには大体消極的である。ごくわずかのしつけは経験上必要だが、今の学校の先生や父兄がたが強くしつける態度たいどを執ったり、開明的と自信する人々が、「外国では子供をしっかりしつけますよ」と真理しんりの如く宣言されると、ついしつけ規範きはんの一言一句に厳密批評をくわえ、アマノジャクの言動げんどうをなさざるを得ない。へびにうなぎの教育が出来ますか、うなぎの心は鰻が知りますという風に思うのである。
 それでも、内心にはビクビクしている。果してこれで、彼等の幸福が保障ほしょうされるであろうか、と心配するが、中庸ちゅうようのかねあいというものがあるから、勇気をふるい、乃至は蠻気ばんきをふるって、彼等にはその行き途をなるべく自分できめさせ、少くも手を取り足をとるおせっかいは極度きょくどけようと思っている。一片の好石があるとして、芸術家の思うがままに仏像ぶつぞうになり、神像となり、武人像にきざまれ、英雄像えいゆうぞうに作られることは、石のために同情するが、生きた人間を父親の暴政ぼうせいに服させることは忍びないのである。運命よ願わくば私の方針に微笑びしょうをもって好意を示せと言うの外はない。

末実うらな


 子供はその生れる境遇きょうぐうによって、非常な損得そんとくをする。しかし父親だって、運命のもとにあえぎあえぎ生きているのだから致し方もない。
 私は現在、男、男、女、女、男と五人の子を持っている。持っているという語は、厳格げんかくにいうと人間を物に見立てたようで面白くないから、天からめぐまれたという方が正しい。
 第一は父の世俗面せぞくめんを表現している。第二は父の科学面を代表する。第三は父の芸術面を代表する女だ。第四の女は、父の読書癖を代表するし、放慢癖ほうまんへきと鼻っぱしをしのばせるが、海のものとも山のものともわからない。
 そこで第五の男の子になるが、これはいうまでもなく末実うらなりである。西瓜だって胡瓜きゅうりだって末実りは普通より安価あんかであり、ことに時代と身辺しんぺんの変化のせいで、風波ふうはの中にさすらえて来たのであるため父親の立場からいうと、これに対して責任観せきにんかんが深くなるわけである。
 この風波にさらされて発育はついくして来た末実りが、将来幸福に生きて行けるであろうか、今日までは無事ぶじらしく過ぎて来たが、親の方もかなり疲れて七つさがりになって来ているので、と多少の心配があり、しかも不精者ぶしょうものの父親だからそう思いながら見守っているだけである。ゾラの書いた大部の連続小説の中に、数代にわたるルゴン・マカール家の遺伝がべられている。これは当時の学説に誘導ゆうどうされた誇張もあるのだろうから、そんなに気にかけることはないと思うが、それにしても子供の顔の目つきはなつきが大分親に似てくるにつれて、父親は自分をかえりみ、いささか心配なしとせぬ。どうか或る意味においては親に似ぬ鬼子おにごになってくれと思うて手出しの途もないのでただ自然にいのりをかけている。

二・二六事件


 昭和十年頃は、私は内閣ないかくの法制局長官であった。その頃の制度せいどは今と違っていて、法制局長官は相当要職ようしょくと考えられ、内閣更迭こうてつの場合には法制局長官の人選が相当問題になっていた。つまり大官とされていた。
 その実これは歴史から来る迷信めいしんであり、過去の法制局長官に非常に威勢いせいのよい政治家が多かったことと、昔の官僚かんりょう政治の中で、法制局が内閣の智恵袋ちえぶくろの役割をつとめた事から来ている。しかし事情は変化して外から見るほどの作用はなかったかも知れぬ。それでも敗戦後戦時中の法制局長官は、当然とうぜんにパージにされたことを考えると、一種の迷信的尊敬そんけいがあったかも知れぬ。
 その長官たる私が、昭和十年の始め頃からある種の新聞で乱臣賊子らんしんぞくしと大がかりに罵倒ばとうされた。在郷軍人会も大挙してこれに共鳴きょうめいした。そして四方八方から、目を光らせて私をながめるようになった。
 それは、その当時天皇機関説きかんせつ問題なるものが起り、私がその機関説論者の一人なりとして排撃はいげきされたのである。美濃部みのべ博士の機関説について政治問題が起り、私は議会ぎかいの一委員会で、学問の問題を議会で論ずるは適当てきとうでないと言ったところ、翌朝からは私自身が大なる機関説論者として、四方の新聞からひどくたたかれたのである。
 この問題は、自分の知らぬ世界で随分ずいぶん発展した。私は十数年の後になって知ったことだが、ある大臣は、金森を首にしなければ、内閣から出るとまで言って、総理そうりに迫ったということである。一番困るのは法制局長官というものは、法律的な問題について、重要発言はつげんをする責任があるのに、その人間の学説がくせつが疑われ、したがってそれが乱臣賊子扱いされていることである。
 幸に部内の人は私を知っており、物の道理どうりをわきまえ、私を支持してくれたが、門を出ずれば四面楚歌しめんそかの声だ。内務省の警保局関係者は、私の発行した書物についてとかくの審議しんぎをしており、それは自然的絶版ぜっぱんの姿にしてくれという。文部省では、学説分類の調査書を作り、その中に私の書物も出ている。閣議に出る人々の顔を見ても、積極的に支持しじしてくれる人はない。困ったやつだという顔をしている。身辺は、住宅を含めて、五人の警察官によって保護ほごされている。
 辞表を書いて懐中かいちゅうに持ちながら諸般の事情によりその提出も出来ず待機たいきしているという不思議な運命うんめいの下にくらすこと一年で、昭和十一年の新春に、やっと辞表を平穏へいおんに出すことが出来た。以上のことを述べたのは、私の気持ちが、一種の闘争と防衛ぼうえいとにとらわれていたことを言いたかったのだ。そして当時平静へいせいに仕事をしていたけれども、その裏面にはいきどおりをふくんでいたことが言いたかったのだ。
 官をして護衛警察官が退却たいきゃくし、のびのびと手足をのばして好い気になっていたとたん、二月二十六日の朝、雪降る中にトラックに乗った警察官の一群が寝込ねこみをついてやって来た。
事変じへんが起りました」と言う。つまり例の二・二六事件が起ったのだ。十時頃になって、様子がわかった。事件の性質上、御家族に危害きがいを加えることは万あるまいから、あなた自身だけ退散たいさんしたがよいと言う。すなわち飄然ひょうぜんと東京駅へ出て、黒雲物凄ものすごき都を去り、人に行方を知らせず、約一月半程行方不明になったのである。実は郷里の名古屋へ行って、兄の家に泊めて貰っていた。
 ところで主人が居なくなった東京の故宅こたくには、一小事変が起ったのである。それは別事ではなく、妻の身体に生理的異変いへんが起ったのである。その時、私は五十一歳、妻は四十二歳であったが、妻は主人が逃亡中とうぼうちゅうに子供が出来たことに一種の不安を生じたらしい。前途がどう展開てんかいするかも知れず、分娩ぶんべんの時期が後れるかも知れず、私が果して生きぬくかにも不安があるので、「オボエアリ」との保証ほしょうを得るにも心もとないのであった。
 幸にして、一月半の後、私は東京にかえり、晴耕雨読せいこううどくというか、植木をいじったり、本を読んだり、時にはを打ったりして外観上平静に生きた。
 機縁きえんは熟して、その年十月十七日神甞祭かんなめさいの日に、玉の如くうるわしくはないが、玉の如く丸い男の子が出生した。日どりの関係かんけいは、神さまがよくさばいていたのである。
 ところが、ここにも、浪人ろうにん生活らしいものがからみついている。その前日友人が訪問ほうもんして来て、碁を打ち出したのである。夜もおそくなり、暁になった。碁というものは厄介やっかいなものである。女中さんは寝てしまう、妻が茶や菓子をもって来る。その面相めんそうたるや頗る険悪けんあくである。
 碁の方が急なので、ただ不可思議なることとしていたが、朝になってひそかに聞くと、時期じきせまれるもののようである。そこで、かねて約束してあった順天堂病院へ同行どうこうする。診断の結果、今日の午後に分裂がありそうだという。
 ところが不運ふうんにも、その日の午後は、ある先輩せんぱいの家で、マージャンを決行する約束があった。困ったなと思うが、四人の中の一人として欠けるわけに行かない。やむなく大義しんを亡ぼすの伝で、何くわぬ顔で行く。普通ならば電話に及ばずと約束して置く。
 先輩の家で、ひげの立派な人や、頭のはげた人と勝負を決していても、心ここにあらずであり、ともすれば誤ロンをやりそうである。電話のベルを聞いても、すわ一大事とはらの底がブルブルする。
 夕方になって、自宅に帰り、様子を聞いて安心したが、世の中から迫害はくがいされて、不満な親が種々の勝負しょうぶでウップンを晴らしている中で生れた子のことだから、こいつ反抗心はんこうしんの強いものになるかも知れぬ、よほど後天的な取扱とりあつかいに苦心しなければならぬと思った。
 さて数日の後に、名をつけねばならぬ。願望を含めて、博雄ひろおと名付ける。偏狭者へんきょうしゃによって悩まされたことの記念と、伊藤博文を景慕けいぼする気もちを象徴しょうちょうしたものであった。
 九百匁の肉塊にくかいが、次第に増量して行くことは世のつねであるが、ただ違ったのは、私がいつも在宅であることである。従前じゅうぜんの子供は、日中は私が外出しているので、大体人まかせ、子供をしみじみ抱いたこともまれであった。今度ははじめて抱いた。抱いて散歩した。これをあやすなどという、世の常の親のように器用きようなまねは出来ぬが、とにかく腕の上にのせて散歩した。
 私は、極端な閑人ひまじんであった。法律の本なんか見る興味は、全然ない。植木いじりか、子供いじりか、碁いじりである。そこでだらしのない和服で、閑父かんぷ閑児かんじを携えて近所をうろつくのである。乱臣賊子の新聞事件によって、近所の人は観念的かんねんてきには私を知っている。それが、閑児をたずさえて動くのである。しみじみと私をながめて、ノンキな父さんだなと思ったに相違ない。
 家の前は坂である。坂を下り切ったところに、お煎餅屋せんべいやがある。その店に二台ばかり、お菓子の自働じどう販売器があった。
 それは一銭銅貨をあなへ入れて、金具をパチンとはじくと、キャラメルが一つ出てくるような道具である。時には、いくらかよいものが出てくる。近時盛んなパチンコの、五世も前の先祖のようなものである。閑父が、その台の前にしゃがんで、閑児に一銭を投ぜしむる図は、平和へいわな姿である。
 その背景はいけいとして、社会全体が険悪けんあくそうをおびていることは、誰も知らない。そして閑父は、赤ん坊が、博文の真似まねをするであろうかどうか、別に考えもせずにいた。しかしこの光景こうけいは、家人によって、あまり見っともないとて禁止きんしされた。そしてこの子は幸だとかお父さんのよい玩具だとか批判ひはんされた。私は、「上善じょうぜんみずごとし」などと口ずさんでノンビリしていたが、それには、時の要素ようそを考えねばならぬという考慮こうりょや、色々のものがこもっていた。

教育家の面相めんそう


 閑児が大きくなった。依然いぜんとして、閑父のよき友であり、時としてはよきである。師であるとは、勿論子の方が父の師であるという意味だ。世の中の活動を抑制よくせいされてしまった閑父にとって、植物を育成いくせいし、その発育に必然の理を感じることは、自分を小造物者のように思わせるのであったが、同じように、人間の子が自然しぜんの理にしたがって、スクスクとのびて行くことにも無限の喜びを感じていた。そして、もしも人間が性善せいぜんなるものならば、博雄をしかったり、責めたりすることなく、伸びるがままに伸びしめたいものだと思った。人類は、後を行く者が、前を行くものよりもすぐれているべきだと思った。理窟りくつはない、まさに親馬鹿の発露はつろである。
 幼稚園へ行く時期になった。反抗児ではないかとの心配があったが、保母ほぼさんがよかったせいか、大した動きはなかった。反面盲従派もうじゅうはとでもいうか、喜びもせず悲しみもせず、流れに従って流れるままである。おれに似ているなと、私の子供時代をしのんだ。
 しかし私の子供時代を思いかえすと、外観上の従順じゅうじゅんは、必ずしも心からの従順ではなかった。内心ではを是とし、非を非として、かなり批判的であったと思った。
 幼稚園では、遊戯ゆうぎを教えてくれる。音楽にあわせて、簡単な舞踊ぶようのようなものを教えてくれる。たとえば、「黄金虫こがねむしは金持ちだ」というの類である。それは、或る意味では、優美ゆうびであり、可愛らしい。情操じょうそう教育の価値があるであろう。家庭でも、子供をおだてあげて、一つやって御覧というと、子供等は得意とくいになって、足を動かしたり、手をたたいたり、腕を廻したりするのが普通だ。しかし博雄はどういうものか、そんな優美なことに、少しも愛着あいちゃくをもたなかった。
 紙製玩具の、電車の車掌しゃしょうさんのかばんを買ってくれとせがむのである。それを肩にかけると非常に御機嫌で、切符パンチをうれしそうに使用する。「チンチン動きます」「曲りまちゅから御注意下さい」位はよいが、「どこまでですか」と行くさきを聞いて、乗換のりかえ券を切って呉れる段になると、この車掌さん恐ろしくうるさい。「上野ですか、ハイおツリでちゅ」ぐらいならよいが、家の中を飛び廻って裁縫さいほうする妻、洗濯せんたくしている女中にも、一々聞いてまわる。
 私もその被害者ひがいしゃである。机の辺へ来て、何遍でも行き先を聞きただす。うるさいから「地獄じごく」というと、かまわず「ハイ地獄!」といって切符きっぷをくれる。ロンドンまで下さいというと、お気の毒ですが、海の上は走りませんという。どの子供でも、車掌さんのまねはすきだったが、博雄の場合は随分長続きした。そして我々の気のつかぬ微細びさいの点まで、車掌さんの態度を実写じっしゃし、それを復元ふくげんさせてくれる。一種の天才だ。
 いよいよ、小学校へ行くときになる。私の家は、幸に竹早町の高等師範しはんに近いところにあったことの縁もあって、上の子供は、例外なく小学校時代はその附属ふぞくに入れて貰った。中学校時代も入れて貰ったのが多い。どんな学校がよいかは議論ぎろんがあり得るけれども、正直に実状じつじょうを考えると、どうも子供のために格段の幸福こうふくがあるらしい。何とかして、ここに入れて貰いたいものだと願書がんしょを出したが、情ないことに入学不許可になった。
 その前から親の職業が無職むしょくであり、またその人は、新聞によれば乱臣賊子なんだから、入学はむつかしいぞ、と家の中で愚父ぐふ愚母が話しあっていたが、この結果になって二人ともこっくりした。無論内面の事情じじょうを批判したのでもなく、それを不当と思うのでもなく、一種の偶然を容認ようにんしただけである。ところが妻は中々あきらめ切れない。他の二三の師範学校の附属へ願書を出して努力したが、どこも拒否きょひされた。止むを得んとあきらめて、親の因果いんがが子にむくうの結果になったことを心の中で陳謝ちんしゃするのみであった。
 しかし有り難いことに、普通の義務教育の小学校は、決して乱臣賊子の家族かぞくをも拒否しないのである。日本に生れて幸だと思った。それで順当じゅんとうに進むかと思っていると、その中戦争は苛烈かれつになった。学童疎開がくどうそかいがやかましくなり、博雄の学校も長野県の田沢へ疎開することになった。時は昭和二十年四月頃である。三月爆撃ばくげきのあと人心すこぶる不安であったからである。博雄は当時八歳であって、親の手もとを全く離れたことはない。浪人ろうにんの子であるから、殆んど旅行したこともない。それが果して疎開にえるであろうか。空襲を受けても、ここの家の方が安全ではあるまいか。色々と妻は心配したが、学校の空気では疎開させねば非国民である。学童疎開は強制的きょうせいてきですらあった。そして先生もついて行くし、食糧事情も確実かくじつだから、何一つ心配はないとのことであった。
 ついに覚悟かくごをして、あとは母親の熱意ねついで、小さな竹行李たけごうりと、風呂敷一つに衣類や毛布を包み込んだ。戦争末期の物量ぶつりょう不足で、ほんの僅かなものを、しかも一定容量ようりょうの制限で、夜おそくまで準備している母親の様子を見ると、さすがに私のような呑気者のんきものもしんみりしてくる。空襲の危険は刻々増加してきている筈だが、呑気者の私は何一つ準備をしない。書物などを疎開したって、国が滅亡めつぼうしたら何になると大きくかまえていた。
 ところが不幸な未必的みひつてき予感が当って、四月十四日の大空襲が来た。あっという間に四方は火になる。家には、八十五歳で身体不自由の老母ろうぼがあり、女の子などがいる。博雄も八歳である。火につつまれたらげ途はない。だから早く逃げられる中に、とっさに難をけさせた。家は、私一人だけが残って守った。
 火を免れる見込がないとなると、私は庭先に穴をり出した。金銀や、珍本ちんぽんを埋めるためではない。博雄の旅行荷物を保全ほぜんする為である。くわを振りあげて、自分の老齢ろうれいと非力を嘆じたわけだが、ともかく掘った。腕はしびれるようにつかれ、地にして休息した。隣家の庭のひのきに火がついて、マッチをすったあとの軸木じくぎのように燃え果てる。
 我家の雨戸あまども熱くなったと見え、火の子がいつまでもくいついている。もう駄目だ。町会長の責任せきにんもすんだ。博雄の行李を埋めた土の上に、更に土をかぶせ、水をかけ、万事ばんじ終了しゅうりょうの意識で心も軽く立ちあがった。ほんとうの学童疎開の日は、二三日さきのことだ。翌朝は遥々はるばると、下北沢の親戚しんせきの家に厄介になりにいった。老母をリヤカーに乗せ、これを押しながら妻や子供は焼土しょうどの町を行く。これは先発隊である。
 私は町会長の義務ぎむを果して、博雄と二人だけでさんたんたる町を行くと、天地の間、私とこの孤児こじと二人のみがいるような錯覚さっかくをおぼえた。事実一瞬にして、世は孤立人のみの世界に変じたのである。幸にしてこの父子あり、運がよければ、世界の再建さいけんに加工し得るかも知れないと、ひそかに思った。先発隊の運命の程もわからぬので、こんな弱気よわき強気つよきになったのである。この考えはたしかに病的びょうてきだが、一つのなぐさめでもあった。足弱の子供をあやなすため、焼け残りの古本屋で、角力すもうの古雑誌を買ってあてがう。顧みて支那の戦国せんごく時の流亡人りゅうぼうじんを連想した。
 数日経って、博雄疎開そかいの日になる。世田谷の奥から、巣鴨すがもの焼けあとへ立ちもどり、既に土中から掘り出した例の荷物を妻と共に携えて、茫々ぼうぼうたる焼けあとの学校あとに集まる。運命を自覚した影の薄い童子たちは、かろうじて通じている電車で旅程りょていに出るのだ。いろいろの不可知ふかち要素のともなっているこの生別せいべつは、万感深きものがあった。足の細い、そして首の細い自分の子を見送ることは、決して愉快ゆかいなものではない。
 去って一月、また二月、保護者にうながされて書いた手紙だろうが、時々無事と疎開地生活の満足まんぞくを知らせてくる。父兄代表者が、原地げんち見舞をしての報告にも、童児どうじたちは元気よく生活していると聞いて安心していた。が、あるとき、見舞に行ったよその人に、一封書を秘密ひみつにことずけて来た。開いて見ると、生活にえぬから呼びもどして呉れとの、たどたどしい鉛筆書えんぴつがきの数行であった。
 私は大体秩序を尊重そんちょうするたちだから、この手紙には強い反感はんかんをもった。我慢力が無いと内心いきどおった。それでも十五歳の姉娘あねむすめが心配し出した。行って見てくるという。上野を出るあの混雑こんざつの汽車に、小さな女の子が一人で出掛けるのは、心許こころもとないと思ったが、これを差しむけた。ところが翌日、思いもかけず姉娘が、博雄を伴って悄然しょうぜんと帰って来た。見ると驚いたことに、博雄は顔から色素しきそが抜けてしまったように青白くなって、寄生きせい植物にゆうれい草と名付けるのがあるが、それとそっくりであった。腕が細く、頭が大きくて目立つ。
 娘の言うところによると、あまりのことに見かねて即刻そっこく帰宅の手続をして来た。だが、当局とうきょくは、非常に反対の様子を示したとのことである。私は直感的にその処置しょちを賞めるの外はなかった。小娘のくせに、よくやったものだと感心した。学校の処置は親切であったに相違そういないが、博雄の消極的な気質きしつが、ここへ追いこんだものと思った。
 翌日小金井のいもばたけへ連れて行くと、つるが三尺ぐらいに延びていた。そんな時期であったのである。手伝わせると、教育されたように秩序ちつじょ正しく雑草ざっそうをとる。親より上手だ。言葉遣いも教科書の通りである。本当に三ヵ月の間に、見違みちがえるように好い子になったというところだが、つまりは人工的変質へんしつをさせたのであって、人間性を失ったのである。機械人形のように、柔順じゅうじゅんになったのだ。奴隷どれい化したのだ。だから、本質との衝突が発生したものであろう。
 二三日のうちに、野性やせいをとりもどし、言葉が悪くなったら顔色もよくなった。私も安心した。ところがこまったことに、そんな風に疎開地から帰った子供は、どこの学校へも入れてれないことだ。懲罰的ちょうばつてきな意味もあるかも知れぬ。そこで寺小屋みたいな臨時施設しせつに入れて貰ったが、かえって本人はのびのびしていた。
 世田谷で空襲にせっしたが、防空ズキンをかぶって案外呑気でいた。これらで見ると、自然力的な圧迫あっぱくには堪え得るが、人間的圧迫には堪え得ない弱気よわきの性であろうと思った。この父親にも、その性質は多分にあるからよくわかる。
 とかくするうちに終戦となり、世情は一変した。私も世田谷代田だいたまでさすらえた。博雄は、そこの公立小学校に入れてもらった。先生達が赤旗をもって、威勢よく皇居前広場へ行く。子供たちは校門で、これを声援せいえんする。内心は、学校が休みになることを喜ぶのだろう。困ったことだが、孤木こぼくの支え得ることではない。
 近所の子供たちは、皆愉快な庶民的しょみんてき風貌をそなえている。裸足はだしで泥んこになって、毎日遊びあっている。知らぬ間に、博雄のポケットには、メンコやビー玉が一ぱいになっている。案外あんがい勝負に強いのかも知れぬ。
 これらの子供たちの交際こうさいを見ていると、実に愉快そうだが、心配な面もないことはない。しかしそのうち、父親の身辺も非常に急がしくなって、老躯ろうくをひっさげながら壮人とするわけで、勢い子供から手を抜くの外はない。昭和二十一年には博雄が小学校四年生であったはずだが、六年生を終るまで彼は楽しく学校生活をし、本人としては幸福こうふくを感じていたと思う。
 八畳足らずの一室に、親子六人が居住きょじゅうし、雨はり、月影は屋根を通して眺め得るこの生活にも、彼は十分満足していたものと思う。親も、本心はこの生活の気楽きらくを愛していたが、孟母三遷もうぼさんせんの教えを気にする面もあった。
 それは、野の子として育つことには賛成さんせいだが、泥沼の子になることには警戒心をもったからである。私は理論上、義務教育小学校を愛惜あいせきするのであるが、具体的の場合に、何かこまる事情ありげに感じたからである。博雄の学校の成績が、どんなであったかは実は知らない。運の悪いいろいろの事情にわざわいされていたことも考えあわせ、また大器晩成流の家風をも念頭ねんとうに置いたために、深く考えても見なかったのである。ただ環境かんきょうのおかげで、神経質でなくなったことは拾いものだ。
 中学校にてんずるのを機として、教育大学附属の中学校に入れて貰うことが出来た。私の家も、もとの焼けあとに小屋を作ることが出来た。昭和二十四年の夏頃になって、貧弱ひんじゃくながらも自分の家に住むことが出来た。いち早く、昔住んでいたひき蛙が数匹現われて、愛嬌あいきょうを振りまいてくれることに喜びを感じた。植木類は、全部抜き去られてしまったが、芝草しばくさが少し残っているのに手を入れたら、いくらか増加した。ふと見ると、その昔山野からむしり取って来たノビルやヒメウズなどが、無価値むかちの故に生き残っている。
 その後六年の歳月が、比較的無事に経過けいかした。博雄も、中学三年高等学校三年を無事に経過して、今年三月の二十日に附属の高等学校を卒業した。かえり見ると、兄妹きょうだい四人はともかくも学校課程かていを終って、少しばかりの月給を貰う身となった。親の責任が特に軽くなったわけではないけれど、いずれも生れたてのあの柔かい肉塊にくかいに対して感じた責任感は、少し気軽きがるになった。
 だが博雄は、これから大学課程に入るのであり、入学試験も受けたには相違そういないが、目下海山ともに不明である。外観がいかん平静を装っているけれども、内心には只ならぬものがふくまれているらしい。
 少し私も気が落付いて来たので、世間の親は、こんな場合にはどんな考えをもって、子供に対するであろうかと考えて見る。二三の事例じれいを見ると、随分親は子供のことを考えるものらしい。将来の方針ほうしんのことから、嫁さんや住宅や財産ざいさんのことまでも考えるもののようだ。私は、そのあり方を尊いものと思わぬわけではないが、本来根気乏しいのか、薄情はくじょうなのか、そこまで気を用うることが出来ぬ。ただどうか健康けんこうに生き、人間らしい生活を果して呉れ、親はどうもこの上大したことは出来そうもないから、なるべく兄弟相救けやって[#「救けやって」はママ]進んで行ってくれと念願ねんがんする外はない。私のあわれなる力量りきりょうも、その全部を子供たちの為に捧げることは出来ない。一部は世間、すなわち衆生しゅじょうの幸福のためにささげねばならぬ。またその一部は、自分自身のために捧げねばならぬ。その他、いろいろである。
 私は、一面このように薄情はくじょうらしいけれども、幸に母親はこれと違っている。道徳だか本能だか知らないが、子供のためには献身的けんしんてきの愛情をさしむけている。例えば、あの食糧しょくりょう事情の困難なときの母の生活ぶりを見ると思い当るものがある。国宝の玉蟲の厨子ずしの画に、修業者が修道しゅうどうのために、進んで自分の肉身を餓虎がこに捧げんとする様が画いてあるが、母性愛というものは、子の幸福のために肉身を捧げることを、意にかいしない面を具えている。理窟りくつぬきに私は子等のために安心している。
 私自身としては、子等の中に伸び出してくるいろいろな性質を眺めて、我等が造物主ぞうぶつしゅから受けて来たものを、原形のまま子孫に伝えるばかりではなく、少しずつは成長発展させて、後の世代せだいに伝えることが出来るかも知れんというあてどもない夢を見ている。造物主から受けた功徳くどくに、利息をつけて後代に伝える責任を、子供に期待きたいすることは愚なことかも知れないが、事実そんな期待をいだいている。その度が強くなると、世間にめずらしくない嘲笑ちょうしょうの客体となるのだが、少しは期待してよいだろう。そしてそのねらいを含めて、子供に対する自分の態度のかじをとって行くことは、ひそかな喜びでもある。

博雄を観察かんさつする


 子供とたけくらべをすると、親はたしかに勝つ。しかし段々成長すると、親の身長がかえっておとることもあり得る。精神の面でも、無論その面が多い。後進こうしんが先進を超えて進むのが人世の常であり、これが無くては、世の進歩がある筈はない。綜合的そうごうてきな意味においては、父は子よりもまさるかも知れぬ。また社会的に発達している伝統的権威けんいによって、父は子をある程度まで圧迫あっぱくすることは出来得る。しかし本筋ほんすじから言って、ある年齢たとえば成年近くなれば、子に対して、知能識見しっけん等について相当敬意を払う場合があり得る。親のもつ経済力を転用して、子の有する知識ちしき能力のうりょくを軽視せんとする事は不条理ふじょうりである。
 博雄を見ていると、職工的素質そしつにおいてはるかに父を越えている。職工的素質とは言葉通り個々の雑技術ざつぎじゅつである。くぎを打ったり、箱を作ったり、ラジオを組んだり、電蓄でんちくを動かしたりする技術である。これと伴って、小さな小手さきの手品を演ずる腕のさえの萌芽ほうがもある。この性質は、将来何に適するであろうか。たつの落し子は、竜にはならないのであって、この種の職工的性能が、器用貧乏を生み出すだけのものではないか。少し気にならぬことはない。
 元来私自身が大物おおものになり得ない性質をもち、同時に小物にもなり得ない性質をそなえ、余程恵まれた環境かんきょうでなければ、利用価値のない人間なのだが、博雄はこの小物性を特にもつことは、父よりまされりとすべきかいなか、将来の問題だ。
 博雄は、一種の独断的反抗性をもっている。これは特に顕著けんちょではないが、いわゆる「あまのじゃく」性を相当もっている。例えば雑誌社などから、家族の集団写真しゅだんしゃしん[#ルビの「しゅだんしゃしん」はママ]りにくると、頑として仲間に入らない。営利えいりの手段の中に参加することを、いさぎよしとせぬのであろう。この気持ちは私によくわかる。しかし事自身が悪いことでもないのだから、社会的調和性ちょうわせいがあるなら、譲歩じょうほ出来ぬほどのことでもない。青年が、正義を愛することは正しい傾向だが、小正義を偏愛することは大乗的だいじょうてきでない。社会を尊重する気分が発達すれば、いくらか変化するのだろう。小骨の多過ぎる魚は、最上の食味ではない。
 博雄は、友人の間に寛容かんようであるらしい。そして子供らしい親切さと、忠実ちゅうじつさをもって交際するとのうわさであり、友人たちからこれを容認されている。これは前述の反抗性と矛盾むじゅんするようだが、それだけに複雑なのだろう。将来の改善の見込があるといえる。なにしろその出生前に、父親の頭の中に潜在せんざいしていた反抗意識が、影印えいいんしているとすると父親の責任だ。
 博雄は、数学や物理などに、理解力が発達はったつしているようだ。これは近代人に好ましい能力であるが、果してどの位のものか、さきの職人性しょくにんせいと組みあわせ考えて、限界面の低いものではないかと心配する。それでも致し方はない。父親が万能ばんのう早解りでありながら、一能に精通せいつうする能力に欠けていたからである。
 博雄は、芸術に対して、特別な感興かんきょうを持たぬらしい。音楽を熱愛ねつあいするとか、詩を作るとか、画を描くとかいう面に格別の関心かんしんをもっていない。つまりそれは散文的さんぶんてきであるといえる。愛好心はなくても理解心があるのか、それが問題であるが、食物の好悪こうおなどから類推すると、考えが平易すぎる心配がある。
 雑然考えて行くと、凡そその適材てきざいたる方向が少くとも科学面であることが現われてくる。君子くんしうつわならずの格言のように、今後突然変異とつぜんへんいでも起さない限り、一路進行するのが幸福だろう。そして親の錯覚さっかくかも知れぬが、興味の動きかたには幅がありそうだから、見ていて前途が面白そうだ。料理が上手で、芸術に理解の深いおよめさんと組むと一層幸福らしい。そして私が老らくの余生を生きるとき、ラジオや電蓄やテレビは一手で修繕しゅうぜんして貰いたい。
 博雄の大学入学が愈々確定した。ここに安心して筆を止めるが、これなどは顯著な親バカ症状だ。





底本:「親馬鹿読本」鱒書房
   1955(昭和30)年4月25日初版発行
※「童子」と「童児」、「顕著」と「顯著」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「親はながめて考えている」となっています。
入力:sogo
校正:The Creative CAT
2020年5月27日作成
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