刺青

富田常雄




 ミチは他の女性の様に銭湯へ行くのに、金盥かなだらいやセルロイドのおけなぞに諸道具を入れて抱えて行く様な真似はしない。手拭てぬぐい一本に真白な外国のシャボンを入れた石鹸函せっけんばこだけを持って行くだけなのだ。だから、今夜も、ひょっとすると夜明かしかも知れぬ勇を待ち切れずに読みさしの小説本をほうり出して、玩具の様に小さな、朱塗りに貝をちりばめた鏡台から石鹸函を取り上げて、素肌にじかに着たピンクのワンピースの短いすそから、見事に白く、すらりとしたすねをのぞかして、荒物屋あらものやの二階借りの六畳をひとまたぎに梯子はしご段の方へ行きかけた。
 何時いつの間に登って来たのか、白ズボンをよれよれにし、紺の開襟かいきんシャツの胸をはだけた勇が三尺の登口のぼりぐちに不機嫌に突立つったって居た。不思議なことは、彼も終戦後の若者の例にれず、服装のだらしなさにも関わらず、頭だけは蜻蛉とんぼの眼玉の様に油でぜ付けて黒々と光らせて居た。身だしなみが頭髪にだけ残って他のボロや不潔は苦にしない現代風俗の一つである。
「お帰り、今夜も夜明かしかと思った」
 ミチは疲れ切った男の為に、部屋に戻り、押入れから、縞目しまめもわからぬ木綿布団を無造作むぞうさに引き出して敷いた。勇は仰向あおむけに布団へ転がると大きな息を吐いた。博奕ばくちはなはだしく悪かった時の癖だ。苦味走った浅黒い顔に、(その男振りにミチは命までも捧げて惚れ込んだのだ)脂汗が浮び、しわが眼尻に寄り、眼が充血して、二十五歳という年齢を十も老けさせて、博奕の後の、彼女には慣れ切った容貌であった。
「おなかはいいの?」
 ミチはコップにレモンシロップを入れ、薬缶やかんの水を足した。勇は天井をにらんだまま長い間黙って居る。
「風呂へ行ってもいい? どうせ、帰らないと思って、今、行こうとしてた処なの」
「駒が続かなきゃ帰らざあなるめえ、とんちき」
「そんな事、あたいが知るかい」
「何を」
 勇は首だけミチの方へ向けたが、横坐わりしたピンクの裾からあざやかにのぞいた白く豊かな線の暗い奥に眼がぶつかると、くじけた様に荒い言葉を呑んだ。
「風呂へ行くって、今、何時だと思ってるんだ。賭場とばを出た時、一時を打ったんだぞ」
「節電で何処どこの風呂屋も突拍子もない時間にやるのよ。竹の湯は夜の十一時半から二時までだと云うから、今日、初めて行って見ようと思ったの」
「昼間行け、昼間」
「昼間はバイで暇が無いじゃないか、いいから、寝てなよ。すぐ、帰って来るわ」
 ミチはびの笑いを片頬かたほおにのせた。しかし、今の勇はミチの肉体に誘惑を感じなかった。
「そうは体が持たねえよ」
「ふん、知らねえ人が聞きゃあ、ほんとだと思わあ」
「それより、おい、金になるものは何か無いのか」
「金になるのは十八歳の妾の体だけよ」
「こん畜生、逆う気か」
「ほんとの事じゃないか。酒買いや、煙草たばこ買いのさやで妾達二人が米の飯に有り付こうというんだ。無理にきまってる処をあんたはそっくり博奕に持ってって、妾は昨日、姐御あねごに百両借りて、やっと、コッペパンとおかずと手巻きのモクを買ったんだよ、逆さになったって鼻血も出ねえや」
「聞いた風なことを言うねえ、お前がちっとしっかりすりゃ、こうまで堕ちねえったってすんだんだ」
「だから、組が解散になった時、ダンサーになろうかって言ったら、男に尻を抱かせて踊るなあ嫌いだと言ったろ」
「当り前だ」
「女給はいけない、何はいけないと言い出したら、妾に商売の無いのはきまってるじゃないか」
 ミチは煙草に火をけ、ひと口吸って男に渡した。
「くさくさするのは妾さ」
「へへ、元はお嬢様で居らっしゃる。かたぎで居りゃあ、お嫁に行ってという処か」
「又、言うんだね」
 ミチはきつい眼になり、その白い頬を痙攣けいれんさせ、構えもせずに牝豹めひょうを思わせる敏捷びんしょうさで男に飛びつくと、その口に近い皮膚を力をこめてつねった。
「うう、こ、この阿女あま……」
 勇は反動をつけて飛び起き、ミチの髪を片手に、片手を腕にかけてじ伏せ様とした。二つの若い肉体はぶつかり合い、もつれ、折重なり、息が乱れた。男は徹夜続きの疲労し切った肉体に、逆に襲って来た情慾じょうよくに眼がくらみ、おすの野獣を思わせる荒々しさで征服し始めた。
 大下組が街の顔役かおやくとか、親方とかいう一聯いちれんの徒党に対する政府の解散命令をくらってから、組の若いもんから、三下さんしたのちんぴらに至るまですべてが足を洗う様に余儀なくされた。度胸どきょうがいいので準幹部級の小頭こがしらとなって居た勇もまた、その例に漏れなかった。中には正業にくことの出来た聡明な者もあったが、大部分は路頭に迷う境涯に抛り出された。博奕打になるか、体を張った悪質の闇屋になるか、二十はたちに満たぬ者は飛び出した親の元に帰るかした。終戦直後、雨後うごたけのこに似て立ち並び始めたバラック飲食店の場銭ばせんと、強請ゆすりとで酒と小遣こづかいに不自由しなかった習慣は一朝いっちょうにして脱することが出来ず、飲食店の閉鎖、恐喝きょうかつ行為の強力な取締りと、組の解体は彼等をおかに上がった河童かっぱにした。大下組の親分は解散の時、かたぎになれとは言ったが、再出発の為の資金は一文もくれなかった。おごられたのは解散式の酒であり、残ったものは翌日の宿酔ふつかよいだけである。彼等は不平を申出る力を持たない。封建世界の親分子分のさかずきのなかには盲従だけが仕込まれ、彼等はそれに慣らされて居た。親分のやり方、民主主義じゃねえぜ。姐御の名儀で大分銀行にあずけてあるし、姐御の金やダイヤの指輪だけでも大変な銭嵩ぜにかさだよ。涙金なみだきんさえ出さねえのは民主主義じゃねえや、と、彼等は彼等の住んで居た世界とは正反対の向う側にある流行語を持ち出して、不平を言い合ったが、その親分が過去の恐喝強請を摘発されて警視庁送りとなれば、もう、沈黙の他はなかった。
 ミチはこの街の電気器具店の娘で、ぐれ出したのは終戦直後、男友達に見栄を張る為に店の金を持ち出した事から始まり、その色白な美貌と牝豹を思わせる精悍せいかんさで、たちまち、ズベ公の第一人者になり、大下組の若者達とも近づきになって、現在の勇に、度胸試しの小指を詰めて誓い、親分の許可を得て一緒になった。飲食店が営業して居た頃は闇の酒や焼酎をかつぎわって商売にして居たが、勇の転落は彼女の商売にも響き、現在では配給酒や麦酒ビール素人しろうとから買って転売する他なく、その範囲の狭い為に衣食にも窮し始めて居た。が、ミチは小さな姐御なのだ。だから、歳は若くても世間並みの女達に還ってはならない。渡世人とせいにんの姿勢を崩さず、羞恥しゅうちとか、有り来たりの女らしさなぞは対岸に捨て去って、世間を睥睨へいげいして暮らして行くのだ。仁義も切れれば、鉄火てっかなタンカを切るのも身に付き、やくざ世界の若い姐御としての素質を備えたのに、今、それを捨て去る気はない。彼女は不良少女という、ちんぴらな、小砂利共こじゃりどもの世界からは肉体的にも感情的にもはるかに脱却した心算つもりであった。

             *

 深夜の一時という時間は電圧が上がって、竹の湯の流し場の電球も光を増して明るかった。女湯は一種の叫喚きょうかんちまたを現出して居る。風呂へ入れる為に、夜の十一時から営業を始める竹の湯の時間に合せて、眠って居る子供達は熟睡から揺り起されて、風呂屋へ連れて来られたので、恐ろしく不機嫌になり、なかば眠りから醒めずに泣きめく。するとその声に母親が逆上して、声を荒らげるために親子の叫喚となり、それが、高い天井てんじょうに反響して、うわん、うわんとうなるのだ。湯気とあかと、塗りつける化粧料と、体臭とがまざり合い、ひしめき合って窓から夜気やきのなかにけて行く。
 ミチは超然として蛇口じゃぐちの前に突立つったち、ざあざあと手桶ておけの湯を幾杯となく浴びる。女達はその傍若無人ぼうじゃくぶじんに少しの表立った抗議もせず、身をずらせて、この無体むたいな湯の飛沫しぶきから逃れながら、なかば、惚れぼれとして、ミチの白い肉体を見上げる。
 ミチは彼女の肉体が素晴らしく均整のとれた美しさと、たぐれな色白であることを充分に承知して居るのだ。らに、その雪の肌に彫られた刺青いれずみ如何いかに見事であり、人々の眼を奪うものであるかも承知して居る。この、世の中の荒波に打ちひしがれ、子供を生み、肉体を疲らせ衰えはてて死んで行くに違いない、きたりの古臭い女共に彼女の美を誇ってやるのだ。
 風呂屋の女客はミチのただものでない事を、その肉体と挙動から察して、言い掛りをつけられない様に脇へ寄りながらも、好奇と奇異の眼をみはり、子供達はしげしげと彼女の裸身に近づいて見るのだが、母親は、この餓鬼がき! あたいは見世物じゃねえぞと、ミチに怒鳴られ、なぐられはしまいかとはらはらしながら子供達を叱り、その体を抱きかかえるのである。
 奥に通じる三尺の硝子ガラス戸は開けられたままであった。番頭の藤三は湯釜ゆがまの上に胡坐あぐらき、裸の胸に両腕を組んで漠然とした眼を流し場に向けて居たが、ぎょっとした様に表情を硬くし、眼をしばたたくと片唾かたずを呑んだ。彼の眼は、二度と再び離れぬ執拗しつようさで、その立像に喰い入った。
 女の歳は、彼の肉体に慣れた眼には二十歳はたち前と写った。なんという色の白さだ。その均整のとれた肉体の線は日本人には珍らしかったが、首筋から肩と胸へ流れる線と、伸びる両腕の躍動の間に、こっちを向いた女体に藤三は息が詰った。
 ゆたかに隆起した胸にまろまろと並んだ二つの乳房の、左の薄紅うすべに色の乳房に足の長い女郎蜘蛛じょろうぐもが一匹上から逆さに止まって居る。巣は左の肩から乳房の下まで張られて居た。蜘蛛は薄紅色の乳房を二本の足でとらえて居るのだ。むっちりと、粘着する様な下腹の白い餅肌もちはだには一人の唐子からこがその乳房を求めて、小さな両手を差し上げて居る。童子どうじも裸であった。こめかみの可愛いい、ちょび毛がまるい頬におとぎの幻想を浮ばせ、右足は下腹の豊かに盛り上がった丘の、白壁に蝙蝠こうもりのとまった感じで黒く静まった三角形の上を踏まえて居た。なめらかに湯を浴び桜色に色づいたももの線は流し場に群れた人のに区切られて見えなかった。女は浴び終ると、くるりと、脊中を向けて上り口に大股に踏み出した。脊から腰には二人の唐子が手鞠てまりをついて遊んで居た。藤三は夢幻むげんを追う思いで、今、彼の視野から消えた女体を、もう一度、網膜に描いた。あやしいまでに生々しい蜘蛛と、可憐かれんな唐子の姿が、その餅肌の白さと一つになってはげしく彼の慾情よくじょうをそそった。藤三は首を振り、深々と溜息ためいきを吐いた。戦争以前から、藤三はこの界隈かいわいの風呂屋を転々した三助さんすけであり、三助なるものが解消してからも番頭として働き続け、今は竹の湯の番頭として住み込んで居た。彼は湯屋ゆやの三助に金を溜めた者が多くある様に金を溜めて居た。しかし、四十三歳の独身者の彼は女に近づかなかった。いな、女の肉体を彼の感覚が忌避きひして居たのかも知れぬ。二十年の三助生活が彼をその様な変質者にしたのか、不能者に等しい無感覚に近づけたのかは不明であったが、彼が女体やその姿態から何等なんらの慾情もそそられなかった事実は動かせなかった。世間では彼等の職業では女体に慣れ切って何等の感じも受けないが、妊婦を見れば聯想れんそうってわずかに男性らしい慾望を覚えるとも云った。が、彼はそれすらも感じないのだ。彼は女の裸の姿態を水の中の金魚の群れの様に冷然と見て来た。刺青のある女。若い時は知らず、老いてたるみ、しわに包まれた老婆の全身を埋めた刺青の醜怪しゅうかいさから、若い女の起誓ママきしょうをこめた、腕や、内股うちまたの名前や、花札はなふだや、桜なぞの刺青から、アルコール分の摂取せっしゅとか、湯に入った時にだけ浮き出る商売女のぼかしぼりや、隠彫かくしぼりなぞを見ても全く何の興味も覚えなかった。そして、終戦後、めっきり増えて来た、ちんぴらの不良少女や、若い露天商の女の粗末そまつな刺青なぞはほとんど眼にもめて来なかった。
 だが、今の女は違って居た。藤三は彼女の裸体から裸体以上のものを感じたのだ。蜘蛛と唐子の刺青と、女の裸像とは一つのものであった。その白い肌と肉体美は彼の興味ではなかった。その白い肌を征服した刺青があって、始めて、彼女の肉体は生き、その白い肌と、ゆたかな肉体の上にあってこそ、唐子と蜘蛛は始めてなまなましく肉感をそそるのである。
 藤三は生れて始めて情慾に眼をうるませた。
「見たかい、藤さん、今の女……ありゃ、三丁目の電気屋の娘だよ」
 内儀ないぎが、遅い夜食の後の歯を楊子ようじでせせりながら彼の横に立って、言った。
「あきれたね。いい度胸どきょうさ、十八なんだよ。大下組の若いのと一緒になったんだけれど、何時いつの間にか、あんな凄い刺青をして、一ぱしの姐御あねごなんだからね。わたしはあの女が、小学校の時分から知ってるんだよ」
「そうですか」
 と、藤三は感情を隠して無表情に答えたが、彼は始めて記憶から、今の女の追憶を呼び起した。朝日湯によく、その母親と来た娘だ。彼の記憶には色が白く、女性としての肉体的な変化が来ても男の子の様に大股に大胆に歩み、振舞って、僅かに彼の記憶に残って居た娘であった。あれから、四年、五年……と、藤三は組んだ両腕の下の右指を折って見た。

             *

 二時に表を閉めて三十分、男湯はすでに人気ひとけがなく脱衣場の電気を消して、女湯の方へ廻った藤三が掃除にかかろうとすると、表戸ががたがた鳴った。如何いか馴染なじみでも、こんな遅い客を入れる事が出来ないのは明瞭だから彼はざるを積み終って電気を消そうとした。
「開けて頂戴ちょうだい
 と、声が言った。藤三は答えず、スイッチをひねった。
「番頭さん、開けられないの」
「とうに閉めましたよ」
 彼は無愛想に言い、暗い中を流しの方へ行きかけた。
「規則とでも言うのかい。笑わせるんじゃないよ、よるなか、女一人でこんな暗い道を歩いて来て木戸を突かれて帰れるかい。電気は消えててもいいから、ざっと浴びさせて頂戴」
 ほとんど命令的な口調であった。この瞬間に、藤三は刺青いれずみの女を直感した。彼は黙って電気をけ、表戸を開けた。
「すいませんね」
 と、ミチは白い顔をうなずかせ、ピンクのワンピースの肩を突き出す様にして入り、下駄げたを脱ぐと、番台に金を置いて手早く洋服を脱いだ。
 ミチが湯に入ってから、彼に礼を言って出て行くまで、藤三は殆んど夢中であった。彼は自分がミチの為に湯をんでやり、その脇でおけを片付けたり、掃除の真似事まねごとをして居たことを意識して居なかった。彼の瞳はミチの肉体に焼きつき、その刺青に魅了されて、上わずった興奮に流し場の上を歩く足が下に付いて居ない気がした。短い会話だけが切れぎれに記憶に残ったのみであった。
「大下組は解散なんですってね」
「そうよ」
ねえさんは大下組の若い人と一緒ですってね」
小頭こがしらの勇よ」
「ああ、勇阿兄あにい、よく、そんな風に呼んでるのを聞いたことがありますよ」
「ふふん、今はおかに上がった河童かっぱさ」
「私はね、姐さんを子供の時分から知ってますよ、朝日湯の三助さんすけをしてましたからね」
「あら、そうなの」
 藤三は情慾じょうよくの困惑に襲われながらも、行動としては何の意慾も起らなかった。彼は刺青の姿態を肉体の上に見るだけで満足した。その慾望をげようとする積極的なものがある様で居ながら、ミチの肉体を征服するという衝動とは全く別のものであった。その歪んだ慾望が何であるかを藤三は意識しなかった。
明後日あさっては朝の五時からですが、四時には開けて置きますよ。裏から来て下さい。四時半になると、又、別な馴染が入りますからね」
「有難う、頼むわ」
 藤三はそわそわと片隅に桶を積み始めた。
 奥へ入ってから、彼は子供達や中風ちゅうぶうの夫と一塊になって寝ている内儀ないぎに声をかけられた。
「藤さん、時間外は眼立つよ、夜はね」
「私もそう思ったんですがね、お内儀さん、例の、大下組の刺青をした女なんですよ。さからうと後がいけませんからね」
 と言いながら、藤三は動力室の方へ暗い板の間を渡って行き、舌なめずりをした。彼のまぶたからは未だミチの刺青の図柄が離れず、酔いに似た陶酔感が彼の足元を危くした。
 ミチの智慧ちえは藤三の心理を見抜き、彼の金を引出す処まで働いて行った。朝の時も、夜業の時も彼女は休みなく竹の湯に通い、生々と振舞って彼女の刺青の肉体を藤三の眼の前にひけらかした。最初は五百円を無心し、それが千円になり、二千円になった。藤三は何にも言わずに、その金をミチに貸した。
「すまないわね、小父おじさん」
「なあに、お前さんの刺青の見料けんりょうさ。気にかけなくったっていいよ」
 藤三はそう答えた。彼の四十何年の生涯が累積るいせきした金と一緒にミチの刺青を楽しむ為にだけ崩されて行くのが当然に感じるのである。思春期に入った少年の恋に似た彼の感情はミチの刺青とその白い肌を見ることにってだけ左右された。そして、ミチの肉体を征服しようなぞとは夢にも思わないのだ。彼はこんな慾望の現れが常識の世界に存在しないなぞとは気が付かなかった。彼は洋服を着たミチに金を無心されると、父親の様な心理が働き、若い娘を持った父の表情で、いきどおりでなくいかめしい顔と姿勢を作って金を与えるのだ。そして、彼はそれが幸福であった。

             *

 裏口からの客すらも、未だやって来ない、夜明け前の流し場に、ミチは熱い浴槽から出た薔薇ばら色の肉体をタイルばりの流し場にぐったりと投げ出す。立って、体中に石鹸せっけんの泡を塗りまくる。そして、上り湯を思い切りよく浴びる。藤三は湯釜ゆがまの上に胡坐あぐらいては居ない。彼は流し場に出て来て、せかせかと忙がしそうに働く。一つは主人達の眼をくらます為であり、主な理由はそうして働きながら、眼の角に入れるミチの刺青いれずみの肉体が彼を異常な歓喜に陥入おとしいれるのだ。この秘密なよろこびは彼以外の誰にも感じられぬものであった。ミチすらも、この変質者の慾望を理解出来なかった。彼女にすれば、藤三の希望はあまりにもお安い御用であった。半歳の間、痛さと発熱をこらえて施した刺青は、ただ、姐御あねごの資格を肉体に付け、他の女と区別するためのものであり、その図柄は有名な刺青師に任かせ切りにしたものである。だから、この刺青が藤三の感覚を刺戟しげきして、彼が彼女の奇妙な後援者だったことは意外なひろいものなのだ。
小父おじさんはあたいの刺青に惚れたのね」
 と、ミチは浴槽の半分だけあけた残りのふたを取り始めた彼に、湯ぶねのなかから声をかける。すると藤三は羞恥しゅうちの苦笑を浮べる。
「ふふ、そうかも知れないね」
 藤三は答えてから、気むずかしい表情になった。
しかし、お前さんの唐子からこは死んでるよ」
「死んでる?」
「うん、死んでるよ」
 ミチは一気に浴槽からおどり出し、薔薇色の肉体を夜明けの電燈の光にらし、湯気に包まれた自分の腹を見下ろして、刺青の唐子を指さす。
「この唐子が死んでるの」
「うむ、脊中せなかのもだよ」
「何故だろう」
「さあ、俺にもわからないね」
 だが、この会話はミチにとっても、藤三にとっても重大ではなかった。彼等はお互いに取引きをして居るに過ぎない。一糸も身につけぬ裸像を人眼にらすのは銭湯では当然であり、それ以上、ミチはなんの要求も受けて居ず、藤三だけが自分の満足のためにミチの希望に対して金を与えて居るに過ぎず、いやらしい事実の様に見えて、それは倫理的ですらあるのだ。
 勇は博奕ばくちの世界で言うならば、「盆ござねぶり」であった。彼は勝っても負けても、立ち時を知らず、どこまでも堕ちて行く。見切りの潮時を知らないのだ。彼はしきり無しに負け、その追償おいじき奔走ほんそうにミチは疲れ、若い二人は転落する二つの石の様に堕ちて行く先が知れなかった。ミチは勇の転落に引きずられ、ぎりぎりの処まで追い詰められて居た。だが、勇は彼女に働きを要求しても、彼女の肉体を他人に提供することはがえんじない。ミチも、そんな世界へ行こうとは考えて居なかったが、勇の、若い猛獣の不機嫌さを思わせる、兇暴なすさみ方はえられず、彼の打擲ちょうちゃくに唇を噛みしめながらも、金を得る方途ほうとを考え続けた。勇はそれまでに、ミチが奔走して来た金については聞こうとしなかった。これは男の狡猾こうかつさがさせるわざであった。
「明日の賭場とばが立つまでに五千両都合出来ないか。おい」
「借り尽しちゃったのは知ってるじゃないの、千や二千までなら、どうにもなったさ。今迄は……だけど、仏の顔も日に三度だよ。そうそうは言えるものじゃない」
「おい、お前、今迄、千、二千と持って来たなあ、何処どこの、どいつの金だ」
「妾の口一つさ」
「じゃあ、二千が五千になったって出ねえ事はないだろう」
「そんな、まとまった金を誰が出してくれるものかね」
「出ねえ事はあるまい」
「妾に体を張ってもいいと言うの」
 勇は片頬かたほおに冷笑を浮べる。急にいた嫉妬しっとが彼に自己暗示を与えたのだ。
「ふん、今迄の銭だって、お前の口一つとは思って居なかったんだ」
「そう……妾もいい役廻やくまわりさね。そう思われてまで苦労をするなんて」
「いいやな、今度の五千さえ出来れば、俺も一かばちかの運試しをして、すっぱり止めるからな」
 ミチは返事をしなかった。彼女は男の為に、当てにはならなくても、この最後の金を調達しようと思った。それには藤三に当るより他ないのだ。十八歳の智慧ちえである。勇は返事もせずに、急に押し黙ったミチに対して起って来た疑惑と嫉妬に苦しみながらも、金銭に対する執着がミチを追求させなかった。それで居て、彼はその夜、疑惑に苦悶くもんしてほとんど眠らなかった……。
 竹の湯が休業なのを承知して居ながら、ミチは手拭てぬぐいと石鹸を持って家を出た。夜は未だ明けて居なかった。藤三は母屋おもやと離れた昔は石炭とまきを入れてあった物置の南と東に窓をつけた、粗末そまつな小屋に住んで居た。夜明けの薄明うすあかりが窓から流れ込み、藤三はミチの硝子ガラス窓をたたく音に眼をさまし、引戸をあけた。藤三は布団を脇に押しやり、もらいものの外国煙草たばこに火をけ、もう一本を彼女に差し出しながら、
「どうしたね」
 と、言った。着物をつけたミチに対する時には、彼の態度は父親の様な落ち着きがあった。ミチはその言葉に力を得て、五千円の金が夕方までに入用なことを早口に言った。
「勇阿兄あにいの博奕にはお前さんも苦労するな」
 ぽつりと言い、彼は立ってミチに背中を見せて、棚の上に手を延ばし、小さな柳行李やなぎごうりを引き降ろすと、腹の処で蓋を取り、さつ勘定かんじょうし始めた。銀行や郵便局の嫌いな彼は現金をいつも持って居た。三十年間の金の累積るいせきを彼はこの柳行李に納め続けたのである。ミチは藤三の薄く禿げかかった後頭部を見た。ランニングシャツにパンツ姿の樸訥ぼくとつな後姿に、ミチはたまらない憐憫れんびんを感じた。赤の他人の彼女になんの要求も持ち出さずに金銭を与える藤三に対して、強い負い目を覚えた。彼は彼女の肉体に憧憬どうけいを持って居るのに違いない。が、それすらも口に出し得ないで居るのだ。勇が怖いのだ。不憫ふびんさと、変形的な愛情がひらめいた。十八歳の感情であった。
 小さな姐御を気取ったポーズが見事に崩され、電気器具店の不自由ない娘として育ったその「娘」の真実な心情がこの一瞬に、彼女をきたりの女に還元した。が、彼女のやり方だけは、鉄火てっか粗暴そぼうなものであった。
 藤三が数えた、五十枚の百円札を手に振り返った時、ミチは洋服を脱ぎすてて、一糸も身につけて居なかった。
「小父さん、妾はお礼をしなければならないのよ」
 ミチはぎらぎらと眼を光らせ、弱々しい微笑を浮べた。藤三はなまり色の光のなかにあやしく浮いた白い肉体と、その刺青を見た。
「お、お前さんは考え違いをしているんだ」
 藤三はあえぎ、それから、首を振った。
「野郎!」
 ミチはその声を背後で聞いた。その一瞬に彼女の体は横にねのけられ、勇の体が跳躍ちょうやくして藤三にぶつかって居た。
 藤三は壁に寄り掛ったままだらりと両手をれた。勇の匕首あいくちが彼の脇腹をえぐったのだ。
「あんた!」
 ミチは絶叫した。
「この小父さんは、妾の……妾の刺青にだけ惚れて居て……」
 その声が終らない内に、ミチは勇に蹴倒けたおされた。
「い、勇阿兄い……安心しな、俺は何にもしやしなかった」
 かすれた声で藤三はそう言った。が、勇はその声を聞いて居なかった。彼は兇暴な嫉妬にふるえてミチを蹴倒すと、その髪をつかみ、その白い肉体を打擲し始めた。それは無言の若い雄雌おすめすの野獣の闘争であった。ミチはのた打った。彼女の全身は荒い呼吸と苦痛と、身悶みもだえに波のごとくうねった。
 胸の蜘蛛くもの巣はふるえ、乳房をつかんだ蜘蛛は生々と息づき、手をあげた唐子は生きて、その両手を動かした。
 藤三の手から札の束がばらばらと乾いた音を立てて古畳に散り敷いた。彼はミチの、はげしくうねり、転々する白い肌の上に始めて生きて居る唐子を見た。
 この瞬間に、藤三は自分の慾情よくじょうげられた感覚を味わった。彼はかすんで行く網膜に、その生きている唐子の刺青をむさぼる様に写し続けながら、壁に背中を寄せつけたまま、ずるずると崩れて行った。





底本:「消えた受賞作 直木賞編」メディアファクトリー
   2004(平成16)年7月6日初版第1刷発行
底本の親本:「オール讀物」文藝春秋新社
   1947(昭和22)年12月号
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
   1947(昭和22)年12月号
※表題は底本では、「刺青――しせい――」となっています。
入力:kompass
校正:noriko saito
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード