椋のミハイロ

ボレスラーフ、プルース

二葉亭四迷訳




 鉄道工事もをはつた。
 請負人うけおひにんは払ふべき手間てまを払ひ、胡魔化ごまかされる丈け胡魔化してカスリを取り、労働者は皆一度におのが村々へ帰ることになつた。
 路端みちばた飯屋めしやは昼前の大繁昌おほはんじやうで、ビスケットを袋に詰める者もあれば、土産みやげにウォットカを買ふ者もあり、又は其場で飲んでしまふ者もある。
 それから上着を畳んで、肩へ投懸なげかけて出掛けるとて、口々に、
「そんだら、むく達者たつしやで暮らせ……そんだら/\!」
 ……と、椋のミハイロ一人になつた。
 どちら向いても野の中に唯一人取残されて、昨日きのふ迄の仲間が今日は散々ちり/″\になつて行く後影うしろかげを見送るでもなく、磨いたように光る線路を熟々つく/″\と眺めれば線路は遠く/\走つて何処いづくともなく消えて行く。風は髪を吹いて着物の裾がくれ、今分れた人達の歌ふ声が遠方で聞える……
 そのまるい帽子の影はやが木隠こがくれて見えなくなつたが、ミハイロは背後うしろで手を組むで、まだ立つてゐる。何処へ行処ゆきどころもない。親兄弟もない一人法師ひとりぼつちで、今線路を切つたあの兎のやうに、或時は野宿したり、或時は人の家の納屋なやに寝たり行当ゆきあたりばツたりに世を渡つて来た身の上だ。
 と、砂山越しに汽笛が鳴つて、煤烟がむく/\とあがり、汽車の音がする。来たのは工事専用の汽車で、それがまだ普請中ふしんちゆうのステーションの側でとまると、屈強な機関手と其見習が機関車を飛降りて、突然いきなり飯屋へ駈付ける。ほかの連中も其例にならふ。汽車に残つてゐるのは工事担当の技師ばかりだ。技師は物思はし四下あたりを眺めて汽罐かまの蒸気の音に耳を傾けてゐる。
 見知みししの人なので、ミハイロが丁寧に辞儀じぎをすると、
「おゝ、椋か?……如何どうした?」
「如何もしましねえ。」
何故なぜ村へ帰らん?」
「帰つたとつて、仕方ねえだもん。」
 技師は何か鼻歌をうたひ出したが、やがて、
「ワルソウへ行け、ワルソウへ。ワルソウなら、仕事に困る事はないぞ。」
「ワルソウツて何処だね? わし知んねえだが……」
無蓋車むがいしやに乗れ、連れてツてるから。」
 椋は無蓋車へ身軽くひらりと飛乗つて、石を積むだ上に腰をおろした。
 技師が、
「貴様ぜにを持つてるか?」
ぜにかね! 銭は一両と銀貨が四貫、跡に銅貨で十五もんばかし持つとりますだよ。」
 技師はまた鼻歌を唱ひ出す。機関車は矢張ぶう/\小言こごとを言つてゐる……其中に先刻さつきの連中が酒の瓶や紙包みをげて飯屋を出て来て、機関方きくわんがたが機関車へ這上はひあがると……やがて汽車は動き出した。
 三里程来て一曲ひとまがりすると、向ふの沼の中に痩村やせむらが見えて、其処から烟が立つてゐる。之を見ると、ミハイロは急にはしやして、えへら/\笑つたり、遠方だから声は届かなかつたが、其方を向いて何か大声にわめいたり、帽子をつたりする……ブレーキの処に居た車掌が尖り声で、
「静かにしとれ! 何だつて騒ぐんだ?」
「だとつて……ほら、彼処あすこに見える……あれがウラ達の村だもん……」
「ウラ達の村なら村で好いから、静かにしとれ!」
 ミハイロは大人おとなしく言ふ事を聴いて静かになつたが、何だか悲しかつたので、お経の文句をとなへてゐた。あゝ、生れた村は藁葺わらぶき荒壁あらかべの沼の中の痩村だけれど、此儘帰れたら如何どんなに嬉しからう! たゞ、しかし、帰つたとて仕方がない。椋助むくすけだの馬鹿だのと人は言ふけれど、ミハイロはく心得てゐる。出稼ぎして諸方を彷徨うろついてゐた方が、ひもじいおもひをしない、寝泊ねどまりする処にも困らない。生れた村には食物くひもの欠乏たりなくてみんな難渋なんじふしてゐるけれど、余処よそ其程それほどでもない。
 ステーションを幾つか通越したが、長いこと停車してゐた処もあるし、き発車した処もある。其中に日が暮れて、技師のなさけで物を食はされたから、ミハイロは丁寧に辞儀をして礼を言つた。
 行つても/\知らん地方ところだ。低地ひくちが高台になつて瀬の早い川が※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)うね/\と通つてゐる処もあつた。烟突けむだしも無い小舎こやや木の枝を編むでこしらへた納屋があとになつて、立派な邸や石造せきざうの建物が見える。生れた村では見た事もないやうな会堂もあつた。
 に入つてから、ト或る山の下へ来た。山の上は町で、家が家におぶさつたやうにかさなり合つてゐて、燈火あかりが星のやうに見える。もう夜更よふけだのに、何処でか奏楽のがして、人通りが絶えない。話声や笑声も聞える。村ではもう犬もかぬ時間じぶんだのに……
 ミハイロはまだ起きてゐた。そしたら技師の指図さしづだとて腸詰を一斤と麺包パンを一つ持つて来て呉れて、それから砂を積むだ別の無蓋車に移された。今度は軟かで坐り心地が羽蒲団のやうだ。で、砂の上に座つて腸詰を食ひながら、
「世の中にはうめもんが有れば有るもんだあ!」
 汽車はしばらく停つてゐたが、暁方あけがたになつて出ると、間もなく飛ぶやうに走る。と、森の中のステーションへ来て停つたまゝ、なか/\出ない。車掌の話だと、呼戻しの電報が来たから、技師は此処で降りるだらうと云ふ。
 成程技師はミハイロを呼んで、
おれはな、此処から戻らにやならんことになつたが、貴様一人でワルソウへ行くか?」
 ミハイロは口の中でぐづり/\と、
「さうさねえ、如何どうすべえか……」
「ワルソウへ行きや人中ひとなかだ。消えて無くなりもすまい。」
「消えて無くなつたとつて、仔細ねえけどね。わし一人だから。」
 違ひない! お袋が有るとか、女房が有るといふのなら、跡に残つた者が困りもせうが、一人切ひとりきりなら誰に掛構かけかまひもない話だ。
 で、技師が、
「そんならくが好い。丁度ステーションのそばに何軒か普請中ふしんちゆううちも有るから、煉瓦でも運んで居りや、かつゑもしまい。たゞ酒だけはつゝしむんだぞ。さうして辛抱して居りや、また其中そのうちに何ぞ好い仕事も見附かるだらう。さあ、一円るから、正可まさかの時の用意にしろ。」
 ミハイロは一円貰つて、礼を言つて、また砂を盛つた無蓋車に乗ると、やがて汽車は出た。
 途々みち/\車掌に聞いてみた、
「旦那、わしが今迄稼いでたあのステンショね、彼処あすこからもう余程よつぽど来ただんべえか?」
「さうさなあ、百五六十里も来たらうか。」
「此処から歩いて戻つたら、余程えつと掛るべえかね?」
「さうさなあ、半月は掛るだらうな。」
 と聞くと、ミハイロは心細くなつて来た。うちへ帰るに半月掛る! 何だと云つて此様こんな遠方へ来た事か。
 やれ、大変な事になつちまつたと、始めて気が附いたが、もう取返しが附かぬ。もつとも取返しが附いてもとの身の上になつたからつて、ちつとも好い事はない、もつと不好いけない事もあつた……で、臥反ねがへりを打つて、心の中で、
「仕方ねえだ。」
 汽笛が消魂けたゝましく鳴つたから、ひよいと見たら、向ふにうちが沢山見える。
あれは何ちふとこだかね?」
 と車掌に聞くと、
「あれがワルソウよ。」
 さう聞くと、また心細くなつた。如何して此様こんな処へ来る気になつたらう?
 ステーションに着いた。無蓋車を降りて、車掌に暇乞いとまごひして、きよろ/\と見廻して、それから向ふの酒瓶さかびんの絵看板の出てゐる見世みせの方へ行つた。もとより酒を飲みにぢやない。其見世の先に普請場ふしんばがあつて、煉瓦職人の姿が其の前に見えたから、技師の話を憶出おもひだして、仕事をさせて貰はうと思つたからで。
 煉瓦職人は皆威勢の好い石灰いしばひだらけの若衆わかいしゆ達で、先方さきから言葉を掛けた、
「おめへは何だ? 何処のもんだ? 此様こんな帽子を誰にこせへて貰つた?」
 などゝ云ひながら、袖を引張ひつぱつたり、帽子を取つて又ポンとかぶせたり、ちやうさいばうにされて……ミハイロはうろ/\する。
「何処のもんだツてば?」
「うらウオロコウ※[#小書き片仮名ヰ、368-上-16]ツキのもんだがね……」とまだめんつてゐる。
 囲繞たかつた職人達は高笑たかわらひをした。ミハイロも一緒になつて高笑をして、心の中で、
みんな面白れえ人達だ。ちつとも可恐おつかねえ事ねえ。」
 ミハイロの罪の無い笑声や、人の好ささうな眼色めつきが皆の気に入つて、なぶらずに真面目に事情わけを聞出したから、仕事をさせて貰ひたいのだといふと、そんなら己達おれたちの跡にいて来なと云ふ。
ちつとばかし愚鈍おかつたるいやうだが、人が好ささうだ。」
 と一人がいふと、今一人が、
らせて見ようぢやねえか?」
 すると又一人がミハイロに、
「渡りを附けるだらうな?」
「渡りツてあんだね?」
「一ぺい飲ませるかといふことよ。」
 側から一人が笑ひながら、
「酒を振舞ふるまはなきや、此方こつちから拳固げんこを振舞つてやら。」
 ミハイロは考へて見て、
「振れ舞ふよか振れ舞はれた方がえね。」
 言草いひぐさが皆の気に入つて、帽子の上からかろく二つほどくらはせて、酒の事はお流れになつた。かうして調戯からかひながら普請場へ来て皆仕事に掛つたが、職人達は見上みやげるやうな足場へあがり、娘や子供が煉瓦を運ぶ。ミハイロは新参しんまいだからといふので、石灰いしばひに砂を入れてねさせられた。
 かうして到頭煉瓦職の手間取てまとりになつた。
 翌日あくるひ手伝の娘を一人附けて呉れた。矢張やつぱりミハイロ同様な貧乏人で、古ぼけた頭巾づきんに穴のいた腰巻に、襯衣しやつと、それで身上しんしやう有りツたけだといふ。色の浅黒い、痩せツぽちの、ちよツぽり鼻の空を向いた、額の引込んだ、随分不器量なだつたが、ミハイロは女に掛けては贅沢でないから、此娘このこが道具を持つてそばへ来た時から全然すつかり気に入つてしまつて、頭巾の蔭からぢろりかほを見られた時には、何だか恍然ぼつとなつた……はて、便たよりねえ身の上はうらばかしでねえ、一人法師ひとりぼつちが二人寄りや、もう一人法師でねえちふもんだ、といふやうな気にもなる。段々大胆になつて来て、つひには身の上話を始めた。
にし何処のふとだかね? ワルソウのふとだか、それとももつと遠くのふとだか? いつから煉瓦積になつたのけ?」
 などゝいふのが口切りで、最後はて不覚つい深入して、
「何も心配しんぺえしるでねえ。うらにしの分まで稼いでやるだから。」
 成程汗みづくになつて自分ばかり働いて、娘にはほんの上面うはつらばかり撫でるやうにねさせて人前を取繕とりつくろつて置く。
 毎日うして二人で働いてゐたが、時々飛入りに手伝に来る職人があつた。此奴こいつが手伝に来ると、屹度きつと娘を叱り飛ばす、さうしてミハイロに調戯からかふ。
 ミハイロは夜は普請小舎ふしんごやの隅に寝る事にしてゐた。木賃きちんに泊る程の贅沢も出来ないのだ、手伝の娘は外の娘達と連立つて何処へか帰つて行く、時には例の職人と一緒に帰つて行く事もある。其癖其職人は娘を口で叱るばかりでなく、やゝともすると手込てごめにする事もあるのだ。
何故なんで彼様あんねえ目のかたきにしるだんべえ?」と椋は不審に思つて、出来るだけ娘をいたはつてつてゐた。娘の分まで働いて遣るばかりでなく、朝飯のパンも半分分けてやり、昼飯には屹度何かしらあつたかな物を二銭がとこ買つてやつてゐた。娘は始終一文無しなのだ。
 煉瓦を運ばされるやうになつてからは、番頭がやかましくて、もう娘の分まで働いてやれなくなつたが、其代り娘がつまづきはせぬか、煉瓦の重味おもみつぶされはせぬかと、始終其様そんな事ばかり気にしてゐた。其様子を例の意地悪の職人が認めて、二人の事を彼此かれこれ言つては調戯からかひ、仲間中に触れ廻る。仲間の者も笑つて、
「やい、椋、しツかりしろい!」
 と足場から声を掛ける。
 一度昼時分意地悪の職人が娘を片蔭へ呼んで何か声をあららげて言つてゐた事がある。
 と、娘がなみだながらミハイロの処へ来て、十銭ばかり貸して呉れといふ。
 何がさて娘の頼みだ、聴いてらん法はないと、ミハイロは財布の紐を解いて、かせめた金の中から、十銭だまを一つ出して遣つた。
 その十銭を娘は意地悪の職人に渡したが、それからは娘は毎日屹度若干なにがしづゝの無心を言ふ事になつた。
何故なんでにし彼様あんねえした奴にぜに遣るだか?」
 とおつかなびつくり聴いて見ると、
「だつて仕方が無いンだもの。」
 と娘はいふ。
 或日意地悪の職人が番頭と喧嘩をして、仕事をめて出て行かうとした。其時自分がすばかりでなく、娘にも止せと、うぬが雇つた者のやうに、権高けんだかに言つたが、娘は渋つた。番頭が晩迄働かなきや手間は払はないと、かう言つたさうだ。一文だつて汗の出た銭だから、労働する身になつては、惜しい。で、娘はまた仕事に掛らうとした。
 男は腹を立てゝ、大きな声で、
「やい、一緒に行くのか、行かねえのか、判然はつきり返事をしろい!」
 娘は煉瓦積む手をめて、男のかほぢろりと見た。もう眼には泪を一杯溜めて居たが、それでも男の跡にいて行つてしまつた。惚れてゐるのだ。
 たゞミハイロにはそれが分らなかつた。
 娘が居たからつて、格別嬉しいおもひをさせられた訳ではなかつたが、居なくなつて見ると、しきりに淋しい。また一人法師ひとりぼつちになつて了つた。
 其晩は眠られなかつた。翌日あくるひ平生いつもの通り仕事に掛つて見たが、仕事が手に附かない。普請場ふしんばからがもう厭になつて来た。何処へ行つて見ても、何にさはつて見ても、眺めても、娘の事が想出されて、生別わかれの辛さをひしと思知る。それだのに皆は笑つて、
「やい、椋、ワルソウの新造しんぞ如何どうだ?……気に入つたか?」
(明治四十一年四月)





底本:「現代日本文學大系 1 政治小説・坪内逍遙・二葉亭四迷集」筑摩書房
   1971(昭和46)年2月5日初版第1刷発行
   1971(昭和46)年12月30日初版第2刷発行
※表題は底本では、「むくのミハイロ」となっています。
入力:高崎隼
校正:hitsuji
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

小書き片仮名ヰ    368-上-16


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