歌詞とその曲

信時潔




 うたという言葉が示すように、詩と音楽は上古以来今日までさまざまに結合され、ことに我国の音楽では声楽が断然器楽に優先し、楽器を主体とする曲や、リズムを強調する舞踊音楽にまで、歌のついているのが多い。この傾向は洋楽が入ってからも依然続いており、我国の音楽の進路に重要な意味を持っている。今日ではちょっとした歌曲でも作詞と作曲は別人であり、通例詩が先にできていて、作曲者がそれを歌詞として作曲するのである、近頃は初めから作曲を予想した歌詞もあるが、それはむしろ例外で、通例詩作の際それが作曲される場合のことはあまり念頭におかず、ただ読む詩、あるいはせいぜい朗誦するものとして作られ、作曲者はそれらのうちからえらんで、音楽と言う別の約束を持つものを結合し、詩情にそいながら新しい別境を作るのである。その結果が詩人を喜ばせることもあり、迷惑がらせることもあろう。作曲者が極めて優れていても、そのやり方が詩人の好みに合わないとか、作曲者の気持ちが出すぎてうるさがられることもある。ベートーベンはゲーテの詩に作曲したが、ゲーテはモツアルトのような音楽が好きで、ベートーベンの薬の強いやり方より、むしろ当時の二流音楽家の素直な朗吟に近い曲を喜んだそうである。同じ詩につけても歌曲はいろいろな姿になる。作曲者が誰でも作りたくなるような名詩には、昔から多くの一流作曲家が曲をつけているが、長い間にはその一つか二つだけが生き残るのである。一つの歌詞にいかに色々な曲がつけ得られるかの極端な例をあげれば、戦時「愛国行進曲」の曲を公募した時、小学生から専門家まで数万の曲が集まり、最後に残ったのがあの瀬戸口楽長の曲であった。
 今では小学生が誰でも詩を作り、中々面白いものがある。作曲も学習指導要領に要求され、図画や手工と同様創作教育として一般化されてきた。しかしそんな場合にもまず取り上げられるのは身近なことばにふしをつけることである。ラジオの番組にも、与えられた歌詞を即興でうたう遊びがある。ナポリのうたまつりは大人の大衆的新作競技である。日本で国民の歌とか校歌社歌等が作られる場合、通例まず歌詞が決められ、その曲は一人の専門家に委嘱するか、公募して審査員が選ぶ。たまには先きに適当なふしを作って、それに合わせて歌詞をつけた方がよかろうという説も出る。それも歌と曲がしっくり合って誰にもうたい易い曲を得ることの難しさを強く感じてのことであろう。
 あからさまにいえば一通りの修行をすれば、どんな歌詞にも一応まとまりのあるふしはつけられる。ほとんど話し言葉そのままの文句でもなんとかなる。商業用宣伝歌の多くもその例で、子供でもすぐ真似ができるほどうたいやすくできている。しかしそれらは大概通作式で、一つの歌詞にただ一つのふしをつけるいわば一節だけの歌である。一節だけなら歌詞にぴったりした曲は得易い。ところが一つのふしで何節もの歌をうたうストローフェンリード、たとえば今様や「鉄道唱歌」「荒城の月」のような唱歌となると、第一節だけに曲を合わせるだけではすまない。後の節にもできるだけふしが合わねばならない。勿論作詞者の方で七五調何行という風に一応形はそろえてあっても、いざ作曲するとなるとそこに色々面倒が起きる。ふしを歌詞の措辞や含蓄にそわせようとすればするほどむつかしくなる。木曾節、大島節のように替えうたがいくつかあるものでも、本唄が一番しっくり合っているのはそのためである。勿論その替えうたも語脚は一応本唄と同じだが、うたってみるとぴったりとはいかない。同じ七五調でもその七は四・三、三・四、二・五、五・二等、様々な組合せがある。一節が七五調四行として、毎節の同じ行の七同士の部分構成が一致しておればふしはつけ易い。ところが数節から成る歌詞は多くの場合ただ七とか五とかで揃えられ、その細かい部分構成には余り気を使ってない。また一節内の感情抑揚のカーブは各節ほぼ一致していても、一語一語の語感やアクセントまで気を配ってあることは稀である。しかし歌詞に過度な要求をすればかえって詩の生命を見のがすことになる。だから作曲のほうでできるだけ都合する。そのため旋律の構成を制約され、どの節にもよく合うふしというものは厳重に言えば不可能に近い。作曲の側での融通の方法は色々工夫されており、さらにうたい廻しの助けでなんとかなっているのである。幾十の節を持つ鉄道唱歌はその簡易な一例である。
 漢詩の七言絶句や「今様」の形式には詩としての起承転結があり、西洋のリード形式の構成要領と合致するものがある。起承転合や序破急は思想表現の基本的法則であり、器楽にも通ずる心得である。ABA’というのも同様である。西洋や中国の詩には押韻のきまりがあるが、日本のそれは微妙自在で、はっきりした法則はないように思われる。ことに現代の日本の詩、あるいは歌詞でも音韻はさほど問題とされていない。アクセントはその属性である強弱、長短、高低のうち、前二者より高低が、日本語の歌詞に作曲する場合に主な注意の対象となっているが、元来日本語のアクセントはさほど厳格なものではなく、作曲の場合もかなり融通がきく。今でこそ東京のアクセントが標準とされているが、文化的には関西の方が由緒が古く、上方に生まれた地唄や義太夫節は上方弁であり、「君が代」も作曲者が上方の出身のためか、個々のことばのアクセントは大体上方風であり、それが格別問題ともなっていない。「君が代」は和歌の詩形を見事に音楽に消化している。教育文化の中心が東京に移ってから、学校唱歌を初め歌曲の新作は大体今の標準アクセントによっている。はなし言葉として、実際生活ではさほど気にされないアクセントが、歌曲の場合には往々重要な条件となる。そのため作曲の際相当やりくりをする。たとえば、第一節でル(春)とある個所へ、次の節でキとあれば好都合だが、ナツ(夏)とかフユ(冬)ではアクセントが合わぬので、はっきり高低のついた方で譲って同じ高さにする。節の数がもっと多ければ多数決できめたり、いっそのこと最初の節本位に作ることもある。そんな際、語句のリズムや意味の切れ目も考え合わせて、やむを得ぬ場合は、ふしの音程はそのままで、リズムを変えることもある。訳詞を譜に合わせる場合にはその手法がよく使われている。また朗詠や詩吟のようにゆっくりしたふし廻しにして、アクセントのちがいを緩和することもできる。宮中御歌会のふしもその一例で、どんな和歌でも兎に角それにのせられる。そのかわり西洋のリードのように、特定の詩にぴったり合うことはむつかしい。謡曲のふしの色々な基本形も、日本の詩歌の特性と、日本人の歌唱に求める基本的条件とが生んだ最大公約数的なものであろう。もっと身近な角力すもうの呼び出しや物売りの唄にも民族の旋法が宿る。
 日本の詩歌では古来五音と七音の組み合せが断然多く、それは物語や劇のせりふにまで及んでいる。日本語を多少なりともゆっくりわかり易く表現する場合の気息の生理的条件からそんな結果になったのであろう。上代の唄では四音や六音も少なくなく、明治以来の新体詩には八六調や、もっと任意に音数を組み合わせて一つの型にまとめ、次の節でもそれをくりかえす新形式も試みられているが、結局七五調四ないし六行のまとめが支配的である。復古調の五・七で通すやり方は、ゆっくり詠嘆的にうたうには適するが、ぐんぐんうたい進める曲には向かないようだ。作詞者が五七調を選ぶ場合、緩徐な伝統的詠法のイメージがはたらくこともあろう。なお五七調で貫いたように見える歌でも、初めの五が孤立し、そのあとは実は七五ではこんでいることも少なくない。そんな時には曲の方の作りに迷うが、日本の詩句の切れ目ははっきりコンマやピリオッドが打てないような不即不離のものが多く、それが修辞上の面白味ともなっているから、作曲もそれに順応すべきであろう。
 そのほか作曲上当面する問題として、歌詞が仮名書きにして七とか五になっていても、その中の二音を発音すると一音のようになるのがある。促音やある種の漢字が使われている場合がそれである。促音はふしにする時、音の高さをかえるとうたいにくい。それがふしの動きを制限する。第一節で促音のある個所に、他の節では必ずしも促音は使われていない。そのためその個所のふしは前節の促音に制約される。勿論これは同じふしで後の節をうたう場合の話であるが、そんな困難はほかにも沢山ある。そんな事情のためか邦楽ではストローフェンリードが少なく、流して作る通作が原則となっている。こまかいことでは文語の歌詞の結びによく使はれる「ん」は、しずかな伝統的終止感には適するが、強い結びには音のひびきが暗く弱いので取扱いがむつかしい。
 次に作曲に適する歌の長さの問題がある。音楽では特定の気持ちを聴者に印象づけるには、ある程度の時間的長さが必要である。文学的に立派に独立している和歌の形式は、一首を単独に作曲するにはどうも少々短いようである。琴唄などに和歌はしばしば使われているが、それは歌詞の一部分として出るのが多い。今様や都々逸の詩形は和歌より少し長く、どうやらその辺が音楽的に成人の感情を現し得る最短の形式らしい。わらべうたならもっと短くてもすむ。前にのべた御歌会のふしは、永い間にねりあげられた立派なものだが、のんびりした時代のテンポのため、現代の短歌には往々時代ばなれの感がある。あのふしまわし自体が当然時代性を持っているから、歌風に適不適があるのはやむを得ない。そこで短歌を洋楽の表現で、一首毎の気持ちを現すように作曲するとなると、前にのべた音楽的理由から、伴奏に相当な役を持たせて、ある程度長くし、和歌独特の不均衡の均衡美を活かしながら歌曲としてのまとまりをつけるか、数首を連作してその移りめを器楽で補い、歌者の一ステージ用にたえ得る長さにするなど方法は色々あるだろう。私も曙覧あけみの独楽吟の数首をそんな風に作曲したことがある。さらに短い国民的詩形の俳句となると作曲はますます困難で、せいぜいそれを題詩とする小器楽曲を作るぐらいであろう。神楽歌、狂言唄、端唄等、明らかにうたうために作られた唄の詩形は不定だが、大概和歌より長い。時代を越えての音楽的条件がそうさせたのであろう。
 私が歌詞を日本の古典に求める際いつも感じることは、古事記や万葉にあれほど出ている長歌が、その後詩形としておとろえ、数少ない後代のそれが言語表現を古格にのっとることが主となって、詩としての生命に乏しいことである。それには何か深いわけがありそうに思われ、またその後の諷謡や、かたりもの、琴唄、地唄さらに明治以来の詩形も、それぞれ和歌より長い詩として、歴史的に長歌の使命を継ぐものとも考えられるが、とにかく不死鳥的な更生をつづけて来た和歌に比べて、長歌が詩形として発展しなかったことを残念に思う。それから今一つ、文学的に特異な構成美をもつ連歌(歌仙)を歌曲化した例を私は知らないが、前にふれた和歌の連作曲とも関連があり、それが初めから全体の微妙な連係を意図して作られているだけ、あるいは日本独特の面白さをもつ歌曲になり得るのではないかと、かねがね夢想している。
 日本の近代詩は明治時代から唱歌や讃美歌の影響もあって、昔は無かった新形式も試みられているが、やはり今様と同じ七五調四行が基準となっている。一番均斉がとり易いためであろう。近来口語の自由詩が大勢となるにつれ、もっと幅広い形の約束ができて、作曲もそれに合わせて表情朗読的な作法が多くなったが、歌曲としてのまとまりにまだまだ問題があるようでその将来に期待している。盛行するいわゆる歌謡曲は、現在の芸術的価値は低くとも常に大衆とともに進むから、無数の実験を重ねるうちに、この歌曲の形式問題に相当役立つかも知れない。西洋では昔から詩と音楽が緊密に結ばれつつ色々な詩形や作詩上の約束が発達してきた。中国の詩を見ても何々調というのがあり、日本でも蕃山ばんざん蜀山人しょくさんじん等近世の教養ある人士の風流の歌曲があって、その遺習は明治以後も一部の人達に残っている。地唄や端唄の歌詞にはそういうものも多いときく。しかしそれらの歌詞が面白くても、原曲と時代感覚がぴったり合っているので今さら新しい音楽表現には向かない。そこへゆくと万葉の歌はいずれ当時は何等かの形でうたわれたことと思うが、今ではそのふしが誰にもよくわからないから、直ちにその歌の普遍的な人間感情を捉えて新しい音楽を配することができる。古い民謡の歌詞も同様である。能や文楽の表現技法で現代的な内容を持たせようとする試みは実験的には興味が多いが、それぞれの古老が概して否定的なように至難の業かと思う。それらの芸術精神の更生は、将来意外な姿で現われるのではなかろうか。
 作曲者は常に自分に手頃な歌詞を求めている。詩として優れているばかりでなく、それが音楽にのってその情感を新たに豊かに盛りあげ得るような、ほどよい長さの詩を求めている。詩としてあまり豊かで、ただ読むだけで充分なようなのは必ずしも作曲に適しない。耳に訴えてわかり易く美しいことが重要である。勿論理屈めいた文句や、目に美しいだけの文字は音楽には適しない。合唱用の歌詞は群衆の感情を現すものが望ましい。その表現は一人称でも結構だが、和歌を初め日本の詩歌は個人の情感の表現が圧倒的に多い。もとよりそれは詩歌の本質から生じることかも知れないが、謡曲にも地の合唱があり、和讃や労働歌の唱和、長唄などを大勢で実演する時の、歌者の割当て等の例が示す如く、群衆合唱の要請は生活のうちにあるわけである。西洋ではそれが昔から教会の音楽や集会、軍陣、行楽の歌に強く現われている。日本でも明治以来、唱歌、軍歌等、初めから大勢の唱和を目的としたものができたが、もつと[#「もつと」はママ]広い層のための合唱用詩歌はまだまだ少ないようである。
 誰もが一応考えるように、作曲者が歌詞も自作すれば仕事に都合がよい。東西の歴史にその例は多く、上古のことは描いても[#「描いても」はママ]中世の吟遊詩人や楽劇「マイステルジンガー」に扱われている職人達も自詩自曲である。遥かに大きな例としてワグネルや世阿弥は、詞曲は勿論、演技監督まで一身に兼ねて大がかりな綜合芸術を生んでいるが、それは稀有のことである。R・ストラウスも若い頃それを試みているが、後年は台本作者ホフマンスタールと結んで名作を残した。一時評判だったシュレーカーのオペラも自作歌詞だったが、今ではあまりきかない。シェーンベルクの遺作オペラ「モーゼとアロン」も自詞だが、第三幕は曲が間に合はず、上演には作者も考えていたようにセリフでやっている。FMできいたその音楽は私にも面白かったが、これからどういうことになるか、舞台の上演を見ない私にはわからない。モツァルトは、自分とうまが合って話し合いのよくきく名台本作者と組んで彼の傑作を得た。「フィデリオ」一つを苦心して仕上げたベートーベンは、自分の道義観念に合ったオペラの台本を求め続けた。これが作曲者の実情である。
 明治以後の日本にも逍遙の「常闇」、岡倉覚三の「白狐」、宮沢賢治の諸作など、初めから音楽を予想した劇詩もあるが、その作曲はあまり成果をあげていない。小さい曲に作り得る日本の詩歌は今日まで無数にあるが、歌と曲の幸福な結合は中々むつかしい。詩人が思うままに作って自然に音楽性の豊かな詩、作曲者が註文や義理でなく自分から進んで作りたくなるような詩が多ければ多いほど良い歌曲の生れる機会は増すだろう。大切なのは詩人と作曲者の平素からの相互理解である。
「心」へあまりごぶさたしているので、平素仕事の間に心に浮かぶことをだらだらと書いてしまったが、わかりきったことばかりで読んでくださる方に申訳ない。現にこれを書いている間にも、テレビの日曜散歩に宇治の鳳凰堂の美しい姿が現れたり、FM放送でワグネルのトリスタン序曲と「愛の死」が響いてくる。そのような人間の想像力のすばらしい飛翔によって生れた作品に触れると、こんな原稿は破りたくなるが、これも日本の作曲者が当面している問題として、歌曲の現情と将来に関心を持たれる方々に読んでいただければ幸いである。
『心』昭和三十九年一月号、四九―五四頁





底本:「信時潔音楽随想集 バッハに非ず」叢書ビブリオムジカ、アルテスパブリッシング
   2012(平成24)年12月5日初版第1刷発行
底本の親本:「心 17巻1号」
   1964(昭和39)年1月号
初出:「心 17巻1号」
   1964(昭和39)年1月号
入力:The Creative CAT
校正:POKEPEEK2011
2019年11月24日作成
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