国語科学習指導要領試案(文法編)

時枝誠記




まえがき


先生と生徒

生徒 先生、私たちは何のために文法を学ぶのですか。
先生 君たちが、正しく文章を読んだり、書いたりするためです。それには、ことばのきまり(法則、規則)をよく知つてゐなければいけません。文法はそのやうな法則を学ぶ学科です。
生徒 でも、私たちは、ことばの法則を知らなくても、話をすることも、読むことも出来るやうに思ひますが……
先生 確かにさうです。君たちは、もう、ことばの法則を自然におぼえて、書くことも読むことも出来るやうになつてゐるのです。しかし、君たちは、まだ自分のことばが、どのやうな法則に従つてゐるかといふことを、反省したり、研究してみようと思つたことはないでせう。又どのやうに読むのが正しいか、どのやうに書くのが正しいかといふことを、はつきりと意識することが出来るやうにはなつてゐないでせう。つまり自覚して、ことばを使ふといふやうにはなつてゐないのです。
生徒 ことばのいろ/\な法則を知つて、ことばが使へるやうになれば、大変いいことだと思ひますが、どうして、ことばの法則を知るといふことが、そんなに大切なことなのですか。
先生 大変にいい質問ですね。自分たちの勉強することに、はつきりした意味を見出さうとすることは、いつでも大切なことです。ことばは、君たちがどのやうな学科を学ぶにも、又、世の中に出て、大事な用をはたすにも、なくてはならない大切なものです。人の書いたものが正しく理解されなかつたり、自分の書いたものが誤解されたりしたのでは、知識を得ることも、用事をはたすことも出来ません。ことばは、そのやうな大切な役目を持つてゐるものです。そこでこれを大切にするには、どうしたならばよいかといへば、正しく読み、正しく書かねばならないといふことになるのです。そのためには、辞書の助も借りなければなりませんが、ことばの法則を知るといふことは、それと同じやうに、大切なことなのです。
生徒 よく分りました。

 本稿は、本誌第三巻第三号(昭和二十三年三月)の講読編の後を承けて、文法科の任務、目的及び文法教科書の編纂法とその学習指導について述べたものである。中等学校国語科に於ける文法科のありかたについては、既に本誌昭和二十二年九月特集号に、「中等文法」の解説と批判を述べた際に、触れたことであるが、今、その大要を再びここに掲げることとした。なお、右の「中等文法」の解説と批判に於いては、これを左のやうに、四項に分つて述べる計画を立てた。すなわち、(一)本書(以下中等文法を指す)成立の事情(二)文法と他の国語科諸科目との関係(三)本書の文法学説(四)現代かなづかいと本書の改訂の四項目であるが、その際には、第一、第二項目のみに止めて、第三、第四についてはこれに触れることが出来なかつた。引き続いて右の二項目について執筆するはずであつたが、中等文法の文法学説の批判については、拙著国語学原論中の第二篇第三章文法論を以てこれに代へることが出来るであらうと考へ、「現代かなづかい」との関係については、別に執筆する他の(註)機会があるであらうと考へたために、続稿することを怠つてゐたのであるが、やはり本書に即して、右の諸点について、述べることが適切であると考へたので、今回改めて右の稿を続けることとしたのである。
註 国語仮名づかひ改訂私案(国語と国文学、第二十五巻第三号)の中、第七項仮名づかひ改訂の方法に附説した。ちなみに、本稿の仮名づかひは、右の私案によることとした。そのために、故意に漢字をはずして、仮名としたところがある。

一 文法科の目的、任務についての考方の変遷


 文法といふ学科が、国民教育に課せられるやうになつたのは、明治以後、外国語教授に於いて、講読、作文の基礎として、その文法が教授されるやうになつてから、後のことであらう。文法は、外国文講読の関鍵であり、作文の規矩であると考へられた。国語に於いても、同樣の考方が採用されたが、それは、文語文と文語文法の教授が主であつたあいだは、それで通用したのであるが、口語法が課せられるやうになつてからは、その趣は、いちじるしく変つて来た。次の教授要目を比較してそれを知ることが出来るであらう。
○国語文法ハ言文ノ対照ヲ主トシ常ニ口語ト今文トヲ関聯セシメテ今文ニ必須ナル法則ヲ示スベシ(明治三十五年二月六日文部省訓令第三号)
○国語ノ文法ニ於テ最モ誤リ易キ活用語ノ用法ナルヲ以テ教授ノ際特ニ之ヲ注意シ常ニ其ノ練習ヲ怠ラザルベシ(同上)
○文法ノ教授ニ於テハ国語ノ特色ヲ理解セシムルト共ニ国語愛護ノ精神ヲ養ハンコトヲ留意スベシ(昭和六年二月七日文部省訓令第五号注意三)
○文法ハ国文法ノ大要ヲ授ケテ国語ノ構造・特質ヲ理会セシメ正確ナル語法ニ練熟セシムベシ(昭和十二年三月二十七日文部省訓令第九号)
○文法ハ口語法・文語法ノ大要ト国語ニ関スル基本的事項トヲ授ケテ国語ノ正確ナル理会・発表ノ能力ヲ修練シ国語ノ構造及特質ヲ会得セシメ国語意識ノ確立ニ資ス(昭和十八年三月二十五日改正教授要目教授事項第二)
すなわち、最初は、全く実用的意味で課せられた文法が、昭和六年、口語法が中学校の初等級に課せられるやうになつてから、文法教授の任務、目的といふものが、いちじるしく変つて来たことが、ちうもくされるのである。口語法が、文語法や外国語の文法の学習に先立つて課せられることの意義については、橋本進吉博士が、次のやうに述べてをられる。
現代に於ては、口語文が一般に行はれて文語文は甚だ稀にしか用ひられません。まして中学校に入つて始めて文法を学ぶものは口語文にはかなり親しんで居りますが、文語文には甚だ疎いのであります。既知から未知に入り、易から難に及ぶのが、教育の根本原理であるとすれば、かやうな実情の下にあつて、文語の文法から始めるのは順序を顛倒したものであつて、既に習熟してゐる口語について文法を説き、然る後文語の文法に及ぶのが、最も自然な道筋であると考へます(新文典別記初級用、新文典編纂の趣意及び方針二―三頁)
右は、文語文法に先立つて口語法が課せられることの意義について述べられたものであるが、更に外国語文法の学習との関連については、
既知の国語について学んだ文法を、未知の外国語に及ぼし、国語に於ける知識を、他国語を学ぶ際の基礎とするので、自然の道理に適つた事でありますが、それが為、国文法教授に於て、文法の徹底した知識を与へておく必要が、一層深くなつたと考へられます(同上書三頁)
と述べられて、私も博士の見解を至極妥当なものと考へるのである。ところが、口語文法が課せられるやうになつて、ここに別の新しい問題が提出せられるやうになつたことに注意しなければならない。文語文と文語文法との関係に於いては、例へば、用言の活用と、それに接続する他の語との関係を明かにし、それに習熟しなければ、古文の解釈も、文語文の表現も正しく行ふことが出来ないのであつて、そこに文語文法教授が、講読、作文の基礎であり、又手段であるといふ任務、目的が明かにされてをつたのであるが、口語法の場合には、事情が著しく異つて、文語法のばあいに於けるやうな知識と練習とが、口語文の講読や作文に必ずしもひつようではない。生徒は、口語法を学ばなくとも、ほゞ誤りなく文を解し、又表現することが出来るのである。ここに於いて、文法教授の任務、目的に根本的な変更を加へなければならないと考へられて来るのは当然である。橋本博士に従へば、文法を教授することの意味は、ただ言語として国語を習得させるばかりでなく、次のやうな意味のあることを指摘してをられる。
広く国語教育の立場から見れば、文法の知識は、我が国語の構造を明かにし、国語の特質を知らしめ、又文法の上にあらはれた国民の思考法を自覚せしめるに必要である事は既に述べた通りである(国語学と国語教育、橋本博士著作集第一巻三三六頁)
すなはち、文法教授は、国語そのものを、自覚させ認識させるとところの[#「とところの」はママ]役目を持つとする見解であつて、昭和六年以後の教授要目にうたつてある文法教授の目的、任務と軌を一にするものである。博士は、更にその考へを進めて、
国語教育といふ立場だけからでなく、一般に教育といふ立場からして、国文法の学修といふ事を考へて見る時、ここにまた別種の意義が見出されるのではなからうかと思ふ。組織的教育に於て課せられる種々の学科は、それぞれの領域に於ける特殊の知識を与へる外に、種々のものの見方考方取扱方を教へるものである。(中略)精神や文化を研究する専門の学としては文化的の諸学があるが、これ等は普通教育に於ては十分に学的体系をなした知識としては授けられないやうであり、(中略)唯国文法のみはかやうな所まで行きうるのでなからうかとおもはれる(同上書三三六―三三七頁)
と、文法科存在の意味を、文化現象を観察する方法を学ぶに適切なものとされた。右のやうな見解に従つて、文法教授は、研究せられた結果だけを与へるのではなく、生徒自ら法則を発見するやうに、開発的に行はれねばならないことを主張してをられる(同上書三三九頁)
 以上は、文法科の創設せられた当初から、最近に至るまでの文法科の目的、任務についての考方の変遷の概略を述べたのであるが、現行の国定文法教科書は、大体に於いて、最近終戦前の教授要目の規定と、橋本博士の見解の線に沿つて進んで来たものと見て、さしつかえないものと思ふのである。このことは、この国定教科書を実地に使用せれた[#「使用せれた」はママ]教授者諸氏の既に充分認識してをられることであつて、私がここに述べるまでもないことであらうと思ふ。

二 文法科のありかたについての検討


 文法科の現在のありさまは前項に述べたとおりであるが、これがこのまま認容されてよいものであらうか。将来の文法科のありかたを考へるについては、まず何よりも、今日現在の実状を、はつきり認識してかからなければならないことは、いふまでもないことである。
 本誌昭和二十二年九月特集号にも述べたやうに、文法科の現在の実状は、国語の読み書きの実践への奉仕といふ当初の文法科の任務、目的を、認識的学科として置き換へたものであり、その点からは、文法科が一個の独立した知識的学科とはなつたのであるが、それは文法科を他の国語科諸科目から遊離させ、孤立させたことに他ならないのである。それも文法科の一の行き方であらうが、中等学校の諸科目が、大学専門学校に於ける学科別の縮図である必要はなく、又、あつてはならないことを思へば、右のやうな文法科の今日のありさまは、厳正に批判されねばならないのである。中等学校では、必ずしも、小国語学者、或は小文法学者を養成する必要はないのである。
 今日の文法科を批判するためには、文法科だけを遊離させ、孤立させて、ただその教授法だけを教育学的に考へてゐたのでは、適切な判断を下すことが出来ない。もう一度、これを国語科内に引戻し、国語教育全体の立場から、文法科を見なおして来る必要がある。国民教育として、国語科の中心的任務は、何と云つても、読むこと、書くこと、聞くこと、話すことの訓練、学習にあることは、まちがひないところであらう。この四の国語的実践すなわち国民の国語生活にも、それぞれ濃淡軽重の差があるであらうが、今はその問題には触れない。ただこの四の国語的実践は、人間一生の生活を通じて、片時も離れることの出来ないものであることを知ればよいのである。そして、これらの実践を有効にし、適切にするためには、国語に対する或る程度の自覚と認識は必要であるが、それらの自覚も認識も、国語的実践のために必要なのであつて、それ自身が一個の独立した学科としてあることが必要なのではない。ここに文法科のありかたを決定する根拠が見出せるのである。文法学は、国語の構造を明かにするところの、国語に対する認識の学問であるが、これを中等学校に於いて課するといふことは、生徒に文法学的探究を行はせることが目的でなく、これらの知識によつて、彼等の国語生活を、自ら律して行く方法を与へることなのである。このやうに云へば、文法科は、ただ与へられた定義と法則を、理解し、記憶するだけの無意味な学科のやうに考へられるであらうが、そして、従来、文法科はこの程度に終始して来たのであるが、実は文法科の任務、目的はそこで終つたのではなく、むしろそこから始まるものであると云はなければならない。すなわち、与へられた法則によつて、読解と表現が完全に遂行されることによつて、その任務がおわるのである。このやうな文法科のありかたは、今まででも、かなり強く要求されてゐたことであつて、文法科は、講読、作文と有機的に連関を持たなければならないといはれて来たのであるが、実際教授上の困難なことから、なかなか実現されずにゐるうちに、文法科自身が、講読や作文とは全く別個の認識的学科と考へられるやうになつて来たために、文法科と講読、作文は一応分離するやうな状態になつてしまつたのである。私の今主張したいことは、文法科を再びもとのいちに戻して、両者の関係を結びつける糸を見出さうとすることにあるのである。
 ここで、恐らく次のやうな質問が出されるであらうと思ふ。文法科を、講読、作文に奉仕するものと考へることは結構であるが、それは、文語文に対する文語法教授の時代ならばいざ知らず、口語文に対して口語法の教授をすることは、殆ど意味をなさないではないかと。まことに、尤もな質問であつて、口語法の教授を、文語法の範囲に限定し、文語法でやつたことを、そのまま口語法に適用する現今の口語法教授に止まるならば、口語法の教授は、全く意味が無いといつてもよいであらう。否定をあらわすには、「ない」といふ語を、未然形に付けよと云はれなくても、恐らくこれを誤まるものはないであらう。しかし、文語法的な口語法教授の無用を主張する人々でも、現代口語文の理解や表現に、国語上の問題が全然存在しないと考へるものはないであろうと思ふ。我々の今日の口語文的国語生活が、全く手ばなしで、無雑作に何等の学習も経ないで完全に達成することが出来ると考へてゐるものは殆ど無いであらう。国語的実践への口語法の無用が云々されるのは、それは、文語法の型を踏襲した在来の口語法教授について云はれるのであつて、口語法そのものが、無用であると云ふのではないと私は考へるのである。今日の文語法は、古文の理解に役立たせるといふ立場から、組織されたものであつて、今日の口語法は、文語法とは別の見地から、今日の口語文を理解するために、改めて編成しなおさなければならないものなのである。将来の口語法が、どのやうな体系で、どのやうな組織に編成されなければならないかは、学者、教育者の今後の協力と努力にまたねばならない問題として、残されるであらう。少くとも、口語法の主眼点が単語とその運用の問題から、更に広く、一文から出発して、文の集合からなる一作品の理解に役立つやうなものでなければならないことが要求されるであらう。一例を挙げるならば、代名詞は、従来、一単語の機能に於いてしか取扱はれなかつた。ところが、代名詞と云はれてゐる語の使用例を見るのに、
……それは処女宮の一等星スピカの少し東にあるということがわかつた。それで、その図の上に鉛筆で現在の位置を記し、そのわきへ日附を書いておいて、この夏じゆうのこの遊星の軌道を図の上で追跡してみようということにした。それが動機となつて……(中等国語一 涼み台の中から)
右例のの[#「右例のの」はママ]1、3、4、5の代名詞は、従来取扱はれたもので問題はないが、2、6の「それで」「それが」の「それ」になると、一単語の代用といふよりも、その前文を受けて、それを展開さす役目を持つているとゐふ点で、この代名詞の機能は、一文の範囲を越えてゐると見なければならない。かういふことは、接続詞についても云はれることである。
 このやうな新しい領域を持つた口語法が組織されたとして、その学習によつて、講読や作文が、極めて合理的に、又、自覚的に遂行されたとしたならば、その時、自ら国語の構造や言語の機能が、どのやうなものであるかといふことが会得されて来るのである。それは、結局、実践することによつて、認識を高めることを意味するのである。実践することによつてのみ、真に認識されるといふことは恐らく一切の文化現象について云はれることであらうが、この原理が、また、文法学習の極めて重要な基礎となつて来るのである。
 文法科を、文化現象を反省し、観察する唯一の学科として、自然科学的諸学科に平行して、これを生徒に課さうとする考方に対しては、私は、二重の意味でこれに賛成することが出来ないのである。その第一の理由は、生徒の知能の発達段階から考へてのことである。文法科は、今日、中等学校の低学年に於いて課することになつてゐる。ところで、文化現象を反省し、これを観察するといふことは、自然現象と観察することとは、比較にならないほどの困難を伴ふのが常である。自然科学的対象は、比較的明瞭な形で与へられるから、従つて、対象を捉へて、これを観察することが容易であるが、文化現象は、多くのばあいに、観察者の意識現象としてのみ対象化されるから、従つて、これを観察することが困難なばあいが多い。もし、これを、性急に、粗漏に観察するならば、対象に対する誤つた判断を、先入主的に植付けてしまふ危険がないとは云へないのである。従つて、言語の観察といふやうな作業は、中学校の上級か高等学校程度に於いて、もつと厳密な科学的態度と方法に基いてなされることが望ましいのである。
 第二の理由は、以上の時期尚早論は、単に知能の発達段階といふ点を見たのであるが、それは、単に時期の問題だけでなく、もつと別の重要な理由がこれに伴ふのである。文化現象の観察のためには、その前提として、文化それ自体の実践或は体験といふことが、是非とも必要である。すなわち、観察の前に、実践が存在しなければならない。文学を観察し、研究するためには、正しい文学的体験といふものが前提とならなければならない。音楽についても、更に社会とか、宗教とか、人間のあらゆる文化活動について、同じやうなことが云へるのではないかと思ふ。従つて、これらの科学的観察と研究の前に、これらの文化を、正しく自覚的に実践し、身につけることが先決問題である。ところが誤つた科学主義は、これらの実践をさしおいて、性急に、対象に対する科学的態度と方法とを要求する結果、文学を体験せずして、文学を論ずるやうなことになり、理論が皮相になり、受売りになり、空廻りすることになるのである。曽ての国語教育に於いて生徒が文壇的口真似を弄することが、しばしば流行したのも、当時の国語教育が、作品を忠実に読み解くこと、作品の中にひたり切ることを教へないで、換言すれば、文学的経験を体得させることを主眼としないで、作品の対象的把握を性急に要求したがために外らないと思ふのである。読むことよりも、把握すること、味ふよりも、それについて論ずることが教へられようとしたのである。あやふやな体験から、学問的観察が生まれ得ないといふことは、少くも、文化現象については確実に云へるのではないかと思ふのである。
 以上のやうな二の理由によつて、私は、文法教授を、国語を反省、観察する学科としてではなく、国語的実践、国語的経験を、正しく、自覚的に体得させるに必要な学科としてあらしめたいと思ふのである。このやうにして指導せられ、このやうな自覚に基く国語的経験を積んだものにして、始めて、国語の学問的観察に堪へ得ることとなるのである。私が、先きに、知能的段階を問題にしたのは、単に生理的な知能について云つたのではくな[#「云つたのではくな」はママ]、右のやうな、経験と観察との間に、重要な段階が考へられるからであつたのである。
 以上のやうに、中等学校初年級の文法教授に於いては、生徒の国語的経験を指導し、訓練し、これを達成さすことに主眼を置き、適宜、生徒に対して、ことばに対する科学的な興味を抱かせるやうな指導を与へることが、適切な行方ではないかと考へるのである。
 今後の文法科のありかたを、右のやうに考へて来る時、文法科に於ける、生徒自らの作業によつて、文法的法則を探究するといふ開発主義は、当然批判されねばならなくなる。文法は、云はば、猟場に出て、獲物を打落す猟銃のやうなものである。生徒は、この銃を有効に、正確に使用することに苦心すればよいので、いかにして精巧な銃を作り出すかといふことから始める必要はないのである。もちろん、猟師は、自分の用ゐる銃の構造や性能を充分知つて置くことは必要であるが、それは、どこまでも銃を有効に操作するため以外のものではないのである。どうしたならば正確な銃を作ることが出来るかについて苦心するのは、専門の国語学者の義務であり、責任である。今日、中等学校初年級のための文法科が、余りに多く学問的に探究の方向をたどりながら、高等学校の国語概説或は要説が、専ら国語現象の記述に偏して、国語を観察する態度や方法について示唆することの少いのは、むしろ本末顛倒の感がする。それは、或は、中等教育に於いて、より多く教育的考慮が払はれた結果であらうが、もし、真に教育的考慮が払はれるのであるならば、中等学校に於いては、記述的に、高等学校に於いてはより開発的に、教科書が組織されるのが当然であると考へられるのである。

三 文法教科書の組織


 文法が、生徒の講読や作文、すなわち、読み、書きのために必要な武器であるとするならば、文法教科書は、何よりも、生徒が、これを自由に操作して、目的の獲物を獲得することが出来るやうな組織と編成とを持たなければならない。また、文法教科書に盛られる学説や理論は、生徒が充分に信頼出来るやうな確実さと一貫性を持つものでなければならない。文法教科書は国語的実践の遂行のためには、辞書と相伴ふものであつて、辞書が、語彙の検索に便利な組織を持つことが、必要であると同様なことが、文法教科書にも要求されるのである。文法科教科書が[#「文法科教科書が」はママ]、単に記憶と理解の対象にされるだけならば、それは辞書を、一語一語を記憶するために用ゐるのと同じで、真に文法教科書を活用したことにはならない。また、従来の文法教科書にはそのやうな点に対する用意が、比較的不充分であつた。例へば、講読に於いて、
正作はひとりその鉄柱の周囲を幾たびとなくまはつて熱心に何事かしてゐる。もはや電灯がついて真昼のごとくこの一群れの人を照らしてゐる。人々は黙して正作のするところを見てゐる。機械に狂ひの生じたのを正作が検分し、修繕してゐるのらしい。(国木田独歩 非凡なる凡人)
のやうな文章を取扱つた場合、この文章の立体的情景が、作者の観点の移動するにつれて主語が次第に移動して展開するためであると説明されたとする。ここに、文章に於ける作者と文章の主語といふ文法上の事項が、解釈のために用ゐられたのであるが、これを、直に文法教科書に検索し得るやうな組織と、そして生徒が自らその説明によつて、作者とか、主語とかがどのやうなものであるかを知ることが出来るやうなものであることが望ましいのである。また、例へば、
うころを[#「うころを」はママ]描いた魚の形、長い尾、大きな目、空にかゝる金と赤と黒とのあの色彩、動きを喜ぶ子供の心を楽しませるやうなあの飛揚。おとなの心をも子供の心に返すものは、あのはた/\と風に鳴る鯉のぼりの音だ。(藤村読本より)
の如き文章に於いて、これは結局、「……魚の形」「……尾」「……目」「色彩」「……飛揚」などの一語文の発展として理解するのが、最も有効な解釈法であるとする時、この理解を助けるやうな文法教科書の組織が望ましい。また、文中の助詞や助動詞を手がかりにして、話手の物事に対する判断や、想像や否定や、疑問を絶えず追求して行く訓練、接続詞や代名詞によつて文の展開や、段落相互の因果関係や、思想の抑揚を辿つて読んで行く訓練は、それが出来なければ、文の主題も、構想もつかめないことになつてしまふのである。それらの要求に応じて、随時・飜読出来るやうな組織といふものが文法教科書には必要なのである。講読教授に於いて、適当にこれを文法の問題に還元して行くことの技術、そして、それを解決して行くことの出来るやうな文法教科書、この相互関係を有機的に成立させるやうな教科書といふものは、非常に困難な仕事ではあらうけれども、将来の文法教科書の目ざさねばならないものである。文法教科書は、いわゆる教科書であるよりも、一種の辞書のやうなものとして、常に坐右に置いて参考されるやうなものであることが望ましい。
 次に、文法教科書の、最も重要な部分である文法理論についていふならば、教科書としての性質上、また、教授法上の難易の点からこれに適当の取捨とか、按配を加へることは許されることであらうが、生徒の理解に困難であらうといふことを考へて、事実を曲げて教へたり、また、いい加減な説明ですますといふやうなことは、極力避けるべきことである。生徒が成人した後、あれは容易ではあつたが、皆嘘であつたといふやうな感は、絶対に与へたくないものである。生徒は、学習や理解の困難なことに対しては、案外、避易しないもので、むしろ、理論の不統一、ごまかしといふやうなものを敏感に感知する。そこから、自然、その学科を軽んずるやうになるのである。かくては、国語に対する尊敬、愛護の精神を培ふことは出来ない訳である。もし、説明や定義で理解さすことが出来ない場合は、多くの実例により、また練習問題によつて、自然にそのを[#「そのを」はママ]感得させるに止めて置くことの方が望ましい。
 以上、文法科の任務、目的及び教科書の編纂方法について述べたところを概括するならば、
一、文法の学習は、文章を理解し、或は文章によつて、自己の考を表現するに必要なことばの法則を学習し、これを身につけることである。
二、文法の学習は、それが講読や作文に適用され、理解や表現に役立つことによつて、その目的が達成される。
三、そこから、自然に、国語の構造がどのやうなものであり、ことばの機能がどのやうなものであるかが、会得されて来る。それは実践によつて認識を高めることである。
四、文法の学習は、読み、書くためのものであるから、文法の学習それ自体を、現象の観察、法則の発見といふ作業として課すべきでなく、文法学習によつて、読みかたを厳正にし、表現を的確にすることに、生徒の注意と、関心を向けるべきである。
五、文法の理論と、説明とは、生徒が表現と理解とに、充分信頼を以て適用出来るやうなものであることが必要である。
 さて、以上のやうな趣旨に応ずる文法教科書は、大体、次のやうな組織を持つことが要求されるであらう。
一、本文編
必要な文法上の事項を掲げ、例を示し、これに説明を与へ、練習問題を課する。
二、事項索引編
講読、作文に於いて、文法上の説明が出た時、直に本文に検索して、その知識を確実にすることが出来るための索引である。
三、語彙索引編
文法上、特に問題になるやうな語、例へば、助詞の「を」「は」「でも」など、或は、「見たがる」「行きたがる」の「たがる」といふやうな語を、どのやうな品詞と考へるか、どのやうな性質の語か等の疑問に応ずるための索引である。
四、図表
従来の教科書にも取入れられたものであるが実用化するためになお一層の工夫を加へる。
追記 現行国定教科書の文法学説については、また改めてこれを解説批判する予定である。





底本:「時枝誠記国語教育論集 ※(ローマ数字1、1-13-21)」明治図書出版
   1984(昭和59)年4月初版刊
底本の親本:「新しい教室 第三巻第十二号」中教出版
   1948(昭和23)年2月
初出:「新しい教室 第三巻第十二号」中教出版
   1948(昭和23)年2月
※「同樣」と「同様」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「国語科学習指導要領試案(文法編)」となっています。
入力:フクポー
校正:石波峻一
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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