トラピスト天使園の童貞

三木露風




 ある夏の暑い日に、私はAといふ大学生と一緒に、童貞女の居るトラピスト修道院を訪ねた。その修道院は、函館から東北へ二三里行つた湯の川といふ山村の後丘に立つてゐるのであつた。
 初め、私は童貞女の修道院を訪ねるつもりではなかつた。私は男子の修道院の方へ行かうと思つてゐたので、東京を立つ前に手紙をその方へ送つておいた。さうして、函館へ来た。折柄暑中休暇で帰省してゐる此土地の知合の青年が三人で、桟橋まで出迎へてゐてくれた。
 私の乗つて来た船は比羅夫丸といふのであつた。青森から五時間かかつた。朝七時に出て十二時に着いたのである。船は、汗ばんだそして黄ろい汽笛の響を鳴らして、徐々に桟橋の方へと横に寄つて行つた。降船を待つ数多の乗客にまじつて私も甲板に立ち、新しい山河に接するめづらしい気持で陸の方を眺めてゐた。軈て、梯子が下りて、人はその上をぞろ/\と橋の方へ降り初めた。その時私はその橋の上に鍔の広い水浴の帽子を被つて袴を着けた三人の青年が、むかうでは早私を見つけて笑ひかけてゐるのを見た。
「よくいらつしやいました。私達は丁度この向うの岬の端れで水浴をやつて居りましたがあなたの電報を見まして慌てゝ此処へまゐつたのです。」
 と其中のA君が、にこ/\しながら言つた。停車場ステーシヨンの広場へ出ると、向うの街角を電車が軋つてゆくのが見えた。その広場で三人は立止つて対ひ合ひ私を何処へ案内したらよからうといふやうな相談を一寸して、それが決ると、電車に乗つて、やがて私はK――といふ宿屋へ案内された。宿屋では私を中学の教師とでも思ったらしい[#「思ったらしい」はママ]、三人の学生が随いて来たものだから。
 函館には用もなしするから、私はその日の内にも目的地へ行かうと思つて、A君等が帰つてしまつた後で、番頭を呼んで当別行の船を訊いて見ると、その船は、もう出てしまつた後で、翌朝でなくては乗れないといふことであつた。男子の修道院へ行くには、函館から更に当別行の汽船に乗ると都合がよいのであつた。
 それでは明日の朝その船の出るまで待たねばならぬ。それにしても、此暑い午後を、たゞ一人宿屋の二階で送るのは、たまらないと思つてゐると、A君から電話がかゝつて来た。「参上しますが」と言ふ、「お出で下さい」と言つて切つた。此時思ひ付いたのは、湯の川の天使園である。あゝ彼処へ行つて来よう、晩までには帰れるであらうと思つた。そしてA君の来るのを待つて一緒に出かけた。
 天使園といふのは、女子の修道院である。ローマ、カトリツク教を奉ずるトラピスト修女院である。トラピスト(“Trappists”)といふことばは一つの修道会の名になつてゐる。元は仏蘭西のトラツプといふ地名から来た名だ。本修道院は仏蘭西にある。多くの修道会が在る中でもこのトラピスト会は最も厳粛な方で、トラピストの修道院は世界の幾多の国に建てられてゐる。東方では支那に一つ、西伯利シベリヤに一つ、そして日本には男子と女子と別々に二つ建つてゐる、何れも北海道の山林の中に在つて、余り都会に近いところには無い。(このごろ福岡に分院を設けるといふ企てがあるがまだ建設に至らない)。それは、このトラピストの目的とそれから歴史とが、俗世を避けて、不毛磽※(「石+角」、第3水準1-89-6)の地を選んで、そこを開墾して修道するといふにあるからである。
 日本のトラピストは、男子の方は今から二十二三年前(大正九年より数ふ)に仏蘭西から来た。女子の方は稍それよりも後年である。初めてトラピスト等が此国へ渡つて来たときは、今の修道院の所在地などは、全くの原生地で灌木、荊棘、野草が自然のまゝに生ひ茂つて、到底足を踏み入れることさへ出来なかつた。そこへ修道士等は、先づ地を卜して、大きな木の十字架を突き立てた。
 聖堂が築かれるまでに、どれだけの辛苦が積まれたであらう。その年の冬は稀な厳しい寒気で、修道士が渓流で衣を濯いでゐると忽ち指の間が薄氷で閉ぢられて、衣は棒のやうに硬直してしまつたと聞く。一体、此地方は近年は、降雪の量も前のやうに多くはなくなり、陽気もあたゝかになつたと人は言つてゐるが、人が住むやうになつて開墾も新にされてくると、宇宙の創造者全能之大天主ヤーヴエの御恵で天地の気象も、和ぐものであらうか。
 現在のトラピスト修道院は二つ共実に壮麗なものである。その園囿は三百八十町余を擁してゐる。その園囿の中を二頭の馬が車を並べて通り得る路が通じてゐる。燕麦、大豆、馬鈴薯、萋々とした牧草地、其外美事な果樹林等の地域は整然として区劃され、今や全く処女地時代の原始の面影はとゞめてゐない。何といふ大きな変化であり、また何といふ大きな力であらう。併しながら此力はたゞ偶然に表はれたものではない。天主の御恵とトラピスト達の信仰の精神とによつて成つたものである。私は茲で説明を簡単にするために彼等の聖典である聖ベネヂクト戒律の中の一節を引いておかう。
「若土地の必要上若くは荒蕪の為に、自ら収穫に従事せざるべからずとするも、悲むに及ばず。蓋吾人の祖先及び使徒の如く、手業に従事して生活してこそ、真に修道士とこそ謂べけれ。」
 この戒律の文字通りのことをトラピスト達は実行してゐる、実に。
 かやうに彼等は朝晩祈祷と労働との生活をして倦まない。
 天使園の方とても男子の修道院と異るところはない。私は途すがら霊場詣でをすべく、且は信仰篤き基督の花嫁たちを見たいと思ひ、A君と一緒に湯の川村を指して行つた。
 函館から電車で温泉のある湯の川の下村まで行つた。そしてそこで下りて山の方へと辿つた。だん/\と山の方へ、道は高くなつていつた。人家は見えずなり人の通ふのも稀になつた。白く乾いた山径に青葉の影の射してゐる片側をあるいてゆくと向うから女馬子が馬三頭ばかりをママ数繋ぎにして、鈴を鳴らし/\来るのに出会つた。北海道の馬は小さいと云ふことを聞いてゐたが、なるほど小さいものだと思つた。鈴の音がだんだん遠く微になつてゆくに随つて、淋しさが一層深く感ぜられた。
 もう建物が見えさうなものだと思つてゆくと、やがて幾重にもなつた丘の高いところに灰白い修道院の建物が隠見して来た。入口のところに塀が結つてあつたが、何とも文字は示されてゐない。
 尚その門を入つて進むと坂を登るやうになる。その坂を登りかけてふと向うを見ると、今しも、午後三時ごろの日の光を蒸すやうに受けた夏草の茂みの中に立つて、こちらを見てゐる二人の少女があつた。その少女の顔には少しばかりの驚きと羞恥との表情が表はれてゐた。彼女たちは二人とも同じやうに、黒い童貞衣を着け、白い覆り物をしてゐた。覆り物は肩からせなの方まで垂らしてあつた。健康ではちきれるやうな肉体の線が着物に表はれてゐた。少女は長い間然うして夏草の中に居たのであらう。彼女たちは草を苅つてゐるのであつた。
 私は不意の侵入者らしく思はれる自分等をいさゝか恥ぢる心地がしながら、案内を何処で乞うたら可いかといふことを叮嚀に尋ねた。すると、少女の一人は無言で片手を挙げて指でもつて一層後の高い処を差し示した。少女が私の問に対して言葉を発しなかつたのはトラピストの生活は平生沈黙を以て行はれてゐるからであると思はれた。
 客が道をまちがへず玄関へ進むかどうかを見とゞけるやうに目送してゐた二人の少女は、やがてこゝろもち上気した顔を俯せて、また務のその手業に従つて草を苅り出した。
 私達は一つの花園を横切つたが、その花園は実に美しかつた。整然と爽かに、あきらかに、劃られた花園の諸方から、道が遂に一つの所に達するやうに均斉的につけられてあつた。私は左の方から、A君は右の方から其道をのぼつて行つた。修道院の正面の扉は固く閉ざされてあつた。私は釦を押した。併しその響は内から聞えて来なかつた。私は再び押した。
 私はその間、その高き地点から後を振返って[#「振返って」はママ]見ると、其時私の眼に映つた風景は何といふ不思議な風景であつただらう。蜿々と、幾重なりにも重なりあつた山々の向うに灰色の一つの海が静に展けてゐた。その海の上には船一艘も泛んでゐず、また海岸に家らしきものも見えず、たゞ島か岬かゞその中に突出てゐるばかりであつた。この原始的プリミテーヴな、たゞ大きな自然の輪廓ばかりのやうな風景は、たしかに或宗教的の瞑想と信仰の情緒とを誘ひ出さずにはおかなかつた。私はホルマンハントが贖罪の羊を描いた死海デツドシーの画を想ひ出さずにゐられなかつた。此処はさほど荒涼とはしてゐないけれども、万物の輝くこの夏の真盛りの日に、何と打沈められたその沈静な色よ!
 軈て、音もなく扉が中から開いた。そしてそこから、焦茶色の羊毛の引摺るばかりの寛衣きものを着て、鍔のない帽子を被つて、山羊髯を少しばかり顎に持つてゐる年は四十ばかりの男の修道士があらはれた。
「あなた方はどういふ御用で。」
と、先づ慇懃に頭を下げたその修道士は問うた。
「私たちは旅の者で、これから当別へ参る途中ですが、暇を得て拝礼したいと思つて参りました。」
「それはようこそ。只今御聖堂に御案内致します。」
 かう言つて、その修道士は快く静に踵をかへして、内部へ私達を導き入れた。
 内部。そこには漂つてゐる或香にほひがあつた。私は直ぐそれを嗅覚と心霊とに感じた。何と言つたらいゝか其にほひは、今が今まで吸つて来た外の空気とは、まるきり、異つてゐた。天井は高かつた。壁は厚く床は重く、修道院の構造は堅固で落付いた安らかな気もちを与へた。
「ちよつとお待ち下さい、神父様にお告げしてまゐります。」
と云つて修道士は私達をそこへ置いて音もなく消えて行つた。その人は、稍青白い面をして、淋しい優しい微笑を湛へてゐる如何にも神僕といふ感じのする人であつた。天主の御恵にて後年、私は男子の修道院の方でこの人と邂逅した。M――と云つた。
 その室と奥の室との間の壁に挿入してある一本の柱があつた。大きな、よく磨かれた柱である。が、よく見ると此柱は普通の柱とはちがつたところのあることに気がついた。丁度その中部なか程のところは、抉りぬいて開かれるやうになつてゐるらしい条目がある。私たちは不思議に思つたので、M修道士が出て来たときに、まづその事をいて見た。するとMさんは、其柱の側へ寄つてかう言つて説明した。
「童貞さんは、いつも奥の方に居ますから、外へ何か用事のありますときは、此の柱を用ゐます。此の柱は廻るやうになつてゐるのです。そして中は空ろの箱になつてゐますからそこへ品物を入れたり、用事を紙片に書いたのを入れたりしてこちらへ出されます。またこちらからも同じ方法で物を送ります。それはかうします。」
 Mさんは其柱に手を添へて中部程のところをくるりと廻した。すると、Mさんの言葉のやうに、向側に隠れてゐた柱の半面が、こちらへ廻つて来た。そしてその空ろの箱の中に私達は何か入つてゐるのを見た。私は刹那に、ある神秘的な感じが心に湧きくるのを覚えた。童貞達の一切の生活が、そこに象徴化シンボライズされて、よくそれを覚ることが出来たやうに思はれた。私はそれ以上に童貞達を見なくてもよかつた。また見ない方がよかつた。こゝに私が触れたもので、彼女達を了解する方が遙に優れてゐると思つた。
 私達は聖堂に導かれて拝礼した。美しい聖母マリアの像よ、おんみの様な美しい像は日本の何処にも私は見なかつた。また幼き耶蘇イエズスの基督よ、おんみはかくも心あつき数多の花嫁にかしづかれ給ふ。おんみはそれに値する。
 拝礼の後に、私は堂の中を仔細に観た。さうして広くはないが、その色彩や意匠が非常によく出来てゐることを感じた。当別の修道院の聖堂は、もつと簡素である。併しこゝは流石女性だけに、柔かな感じが漂ふ。
 ふりかへると、黒塗の木格子が祭壇との間に嵌めてある。その木格子のある向うは童貞女達が来つて拝礼し祈祷するところである。私の眼にこの木格子は深く印象してゐる。辞して門を出ると、折柄、祈祷の時の鐘が、高く、柔かに、夕暮の空気を顫はせて響き出した。千九百二十年七月





底本:「日本随筆紀行第二巻 札幌|小樽|函館 北の街はリラの香り」作品社
   1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「三木露風全集 第三巻」三木露風全集刊行会
   1974(昭和49)年4月
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2019年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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