たぐひ稀なうつくしい光をはなつ今宵の月よ。八月十四日の盆の夜に、天心にあつてさやけく照り満ち、そゞろに秋の思に堪えざらしめる。その思、歓びに似て歓びでなく、哀しみに似て哀しみでなく、たゞ哀歓交々心胸を往来して、白月の秋風と共に我胸に入つて
歩みを転じて園囿の草のすろうぷを上る。今宵灰白色に浮きて見える礼拝堂は、寂然として無限を熟視める立像のやうな感じがする。その一つの窓に
後ろの山を丸山といふ、山腹の巌窟に聖母マリアを祀り、白樺の木など多く茂る。今その山の前面はこと/″\く月の光をうけて、静寧の懐に横はり、殊更一ところ黝ずんでゐるのは、山頂から麓まで走つた馬の背のやうな崖とその凹所の谷を表はす襞である。
予の影は黒く、実に黒く、行くに随ひてあゆむ。おかしいのは風に吹かれて歩む予の衣のかげが、靡いてうつり、西行法師が富士見の形となる。
予の上るに随ひて僧院の建物の全面が斜丘の上に現はれてくる。あの多くの窓に眠つてゐる修友たちよ。おんみらの中には今宵の月を枕べに見て、いつになく眠られぬ人もあるであらう。予はさう思ひながら、一つの室に置き忘れた書物を取るために、白い扉を開いて入つて行つた。と、内部に漂つてゐた燻香が予の鼻を衝いた。
そつと書物を取つて予は出た。月にも尚青い芝生の上に群がりさく白い花があつた。ふだんは昼間のあかるい時にも、さして目にもつかぬに、どうして今これらの花が一入著るく予の目に入るのであらう。予は冷めたい石壇を一つ二つ下つて、その花の一つを摘んだ。さうしてまた行つて一つの花を摘んだ。摘み、摘み、行きて摘み、かくて遂に予はその花の中に横はつた。
トラピスト修道院の庭ながら、しばらく月の化現に委せて、予は永遠の幻の領土にさまよふ。
(牧神、創刊号、大9・10・16)