これは父鴎外が観潮楼を本郷区駒込千駄木町二十一番地、団子坂上に新築してから、その命を終る日までの大部分をここに過した記録を私の思い出す順序に書きとどめ、さらに父の死後私が台北帝国大学に赴任した留守に、二階建の楼が失火で焼け落ちたまでのことをつづったのを、彼の地の「台湾時報」という雑誌に寄稿したものであった。戦後私が帰国してから『父親としての森鴎外』と題する随筆集(昭和三十年四月、大雅書店)を出版するに際してこの文を加え、なお旧稿の終りに「追記」として、父の旧宅の平家の部分で私の弟の類が譲り受けて住んでいた家屋が東京の最初の空襲によって全焼したこと、かくして広い意味での観潮楼跡と呼ばれた鴎外旧宅跡全部を私と弟の名で文京区に寄付し、昭和二十九年七月九日、父の三十三回忌を記念して「沙羅の木」の「詩壁」を建てたことを述べた。今度この随筆集に収めるに当って、追記の後にかの詩壁除幕式の日に発足した鴎外記念会館の計画の進行状態を述べ、昭和三十七年一月十九日が鴎外生誕一百年に当ることを明らかにしておきたいとおもう。
観潮楼は私の魂の故郷である。その余りに惨ましい最期を思うと胸が痛むので、私は今までそれを語りたがらなかった。しかし今度私が父に関する思い出の文章を集めて書肆に托する機会に臨み、観潮楼を弔う文のないのは何か心にすまぬため、しいて筆をとったのである。
父は初め、明治二十四年十二月団子坂上の見晴しのいい地所を求めて翌年一月末千駄木五十七番地の仮寓から移転し、別に千住に橘井堂医院という名で開業していた祖父森静男、祖母峰子、曾祖母清をも合して、島根県津和野町を出てから始めて一家が共に住むことを得たのである。なお父がこれより約二年前千住にいたころ、その弟妹もすべてそこに住んだが、父のすぐの弟の叔父篤次郎は、大学医科を出て結婚独立し、妹喜美子は小金井家に嫁し、末弟の叔父潤三郎のみは父と行動をともにしていた。またこの間父の結婚により生れた私は父母の破婚のため、里親に養われたが観潮楼の成った翌年父の家に帰った。
この土地は根津権現の裏門から北に向う狭い道で団子坂上に出る直前の所で、東側は崖になって見晴しがいい。根津に近い方は土地がひくく道の西側は大きい邸の裏手に面し、当時昼なお暗く藪下道といわれていたが、団子坂上に至る前はしばらく上り坂になってその先はとくに景勝の地を占めているのである。父の買い入れた土地には初めから、三間と台所から成っている古びた小さい板葺の平家とその北端に離れて土蔵一棟があった。父の家族は狭いながら一応この家に入り、その後に平家の後方の長屋二軒と梅林とを買い入れ、ここに二階建の観潮楼を建てたので、その落成は明治二十五年八月十日、これらのことは父の「観潮楼日記」に明記してある。家の構想は私の祖母峰子のかねての案を基として、千住の大工山岸音次郎が建て、造園一切は藪下道にあった柴田千樹園主が世話をした。この家の外囲いから間取りの事その他、叔父森潤三郎の著『鴎外森林太郎』に精しく、私も部分的ながらたびたびくり返しているため、今は詳述を避けるが、階下は三畳の玄関、六畳の居間兼書斎、四畳半の茶室、八畳の洋室の応接室、二階は十二畳の一間である。この二階から見ると東南方の崖下当時はほとんど畠と水田でその向うに上野と谷中の森を望み、木立の間から左に谷中天王寺、右に上野寛永寺の五重塔の九輪が見えた。上野の山の端と、さらに右方向ヶ丘の高台との間は低地が開けて人家の屋根で埋まり、そのはるか向うに品川沖の白帆が見えるというので、団子坂は一名潮見坂といい、この楼の名の観潮楼もこれによったのであった。月の夜、雪の朝ことに景色よく、夏の夕の趣もまた捨てがたかった。
庭の蝉しぐれのようやく絶えたころ、この広間の東南に折廻してつけた廊下の角の辺に座をとった祖母と幼い私、それに他家から遊びに来た叔母や従兄妹達が、谷底のように見降す町の暮れゆくと共に、ポツリポツリ現われる燈火が、やがて数を増していさり火のように見えるのに歓呼しながら、香炉の代用にした灰皿にくべた蚊やりのための除虫菊から立つ煙を
この観潮楼上の広間はその新築後、父が明治三十二年九州の小倉に第十二師団軍医部長として赴任するまで書斎として使用され、「
「日清戦役に赴かれる為にしがらみ草紙の刊行を中止された森さんは、戦役が終って帰って来られてから、めざまし草を発刊された。そして雲中語の会合がはじまった。それは露伴、緑雨、学海、篁村、紅葉、鴎外、思軒の七耆宿が新刊小説の合評をされたのであった。頭取がその小説の梗概を述べ、贔負 とか、穿鑿家 とか、真面目とか、江戸ッ児とか、それぞれの名のもとに批評をするので、当時の文壇の目を欹 たしめたものであった。自分は員外としてよく遊びに行って、批評以外のおもしろい雑話をきいてをり、時には筆をとった事もあった。紅葉山人は殆ど名を列しただけ、学海居士が原稿を郵送された事は極めて尠 かったやうである。場所は森さんの家の二階で、小さな机を前にした人、柱によりかかった人、縁側に出てをる人などさまざまで、夏の暑い日は皆浴衣に着かへたりした。夕方になって酒が出ると、篁村さんは盃を手からはなさず、思軒居士は疳 高い声で話し上手にいろいろ話す、緑雨は折々皮肉な語をまじへる。筆をとっては思軒居士が早く緑雨が最も遅く、森さんはいつもこごみがちになって、例の厚い西洋紙を半紙形に切ったのに細い真書や、又は鉛筆ですらすらと書かれ、たまたま消す時は黒くぬりけし、若しくはゴムで丁寧に消された。夜はいつも更 けて、緑雨は泊った事も度度であった。思軒居士が世を早くされて、署名の七人が六人になり、後には新人上田敏さんが来られるやうになった。一葉女史のたけくらべを極力推奨されたのは、雲中語以前の三人冗語であったが、雲中語の終りごろには、当時大学の学生であった小山内薫君と、故大久保栄君とを上田さんが推称した。この会合で忘られぬのは、いつも来て斡旋せられた森さんの令弟三木竹二君と、森さんの母堂峰子刀自である。刀自はかなりな齢であったが、いつも若い心をもたれて、折々楼上に来られて、優しいしかもさとい眼元に笑をたたへつつ、奇警な評を加へ、また酒客の喜ぶものの調理などに注意された。後には酒を廃された森さんも、此頃はいささか用ひられた事であった。」
この文章にある通り柳村と号した英文学者の上田敏さんは「めざまし草」時代の終りごろからの交際であるが、この雑誌は父が小倉の第十二師団へ転任を命ぜられてから自然廃刊となり、明治三十五年東京の近衛師団へ帰ったとき上田さんの「芸苑」と一緒になって「芸文」を創刊した。佐佐木さんが若手として挙げた人の中で小山内薫は妹八千代を伴って観潮楼にたびたび訪れた。八千代さんは間もなく父の媒酌で岡田三郎助夫人となった。また大久保栄というのは東京帝大の医科大学生で優秀な人であったが一時観潮楼に寄宿し独協中学生である私の勉強を監督してくれた。また「芸文」は発行書肆の経営上の失敗から二号きりで廃刊となったが、父たちの出資でそれにつぐ「万年艸」が育て上げられた。明治三十七年に入り日露戦役が起ると、父は第二軍軍医部長として従軍するのでこの「万年艸」も廃刊となり、凱旋後も父は自らの手で雑誌を出すという面倒な仕事をやめてしまった。最初の「しがらみ草紙」から「めざまし草」「芸文」「万年艸」と絶えては続いた十数年、その間雑誌は薄いけれど掲載する文章の選択から校正に至るまで全部自分で眼を通し、もし原稿が集まらなければ全巻を一人で書く意気込みで終始したのである。その間に、同時に医学の方の雑誌として「衛生療病誌」「公衆医事」などを同じやり方で発行したこともあって、両方の雑誌編集の助手として親身に世話したのは父の弟森篤次郎(筆名、三木竹二)ただ一人だった。
日露戦役から凱旋後の観潮楼の二階はもう父の書斎としてでなく客間に使われたが、そのころから始まった短歌の会はまた常にここで催された。この歌会は竹柏園の佐佐木信綱、新詩社の与謝野寛、根岸派の伊藤左千夫の三人を中心として毎月一回催されたもので、与謝野門下が最も多数で与謝野晶子、石川啄木、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋、平野万里、平出修等の諸氏で、多くは結び字の題で詠み競い、雲中語に用いたと同じ用紙に各人の歌を清書してまわし、各自がその選をし、最後にその日の結果を朗読する例になっていた。そのうち新詩社一派が「明星」を廃刊すると共にその若い連中が主となって「昴」(スバル)を創刊し、父や上田敏をその上置きとするに及んで一般文芸を論ずる会へと徐々に推移して行ったのである。
観潮楼の情趣を最もよく現わしたものは、永井荷風さんの「日和下駄」中の「崖」の章である。先に述べた崖添いの道を団子坂上に出ようとする所までたどって観潮楼を氏が訪れたのは、初秋のある夕暮であったが、食事中であるらしい主人を待つために取次に案内されて楼上にしばらくの間ただ一人残された。そこは十二畳の広間で、一間の床には「雷」の一字を石
「私(荷風氏)は振返って音する方を眺めた。千駄木の崖上から見る彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄 に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火を輝かし、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏 の微光をば夢のやうに残してゐた。私はシャワンの描いたジェヴィエーブが静かに巴里 の夜景を見下してゐる、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
鐘の音は長い余韻 の後を追掛け追掛け撞き出されるのである。その度毎に其の響の湧出る森の影は暗くなり、低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のやうに却 て高く、軈 て鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、その何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかはるがはる聴澄ましながら、わが鴎外先生は静かに書を読み又筆を執られるのかと思ふと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。」
そこへ「ヤア大変お待たせした。失敬失敬」といいながら二階の梯子段を上って来た父は、金巾の白い鐘の音は長い
なお荷風さんは床の間に「雷」の大幅がかけてあるばかりのように記されているが、多分夕闇せまる暗さで見落されたのであろう。あるいは氏に強い印象を残した楼上の景を描くために省筆されたとも思えるが、実はそのころ床の間の両側、幅三尺ずつの壁には六号の洋画風景図が対にかけてあった。一は岡田三郎助の巴里郊外図、他は吉田博ので同様の画題であった。そのほか床の間と反対側の
荷風さんが父を初めて訪問した日の話題は、主としてオイケンの哲学に関してであったらしい。その数年後、たしか大正三年の早春、大学の医学部を出てさらに理学部に移ろうとした私が英語を予習するため、畔柳芥舟さんの紹介で山宮允さんから学んだ時、ある日山宮さんからその友人芥川龍之介さんが父と話したがっていることをきいて、父の都合を伝えてあげた結果、一夕お二人が観潮楼を訪れたことがあったが、私は同席しなかったのでその時の様子を知らない。後年に当時のことを山宮さんにきいて見たら山宮さんからいい出して、イエーツの話をし、父からショルツかホフマンスタールの新作を借りたということで、なおこの時芥川さんは父が話の中で「琵琶記」と「西廂記」とをとりちがえているのを知って鴎外さんでも時には間違えるのかとかえって親しみを感じたといい、山宮さんは父に徹夜の翌日馬上で居眠りをなさるとききましたがといったら、近ごろはそんなことはないよと笑われたとのことである。このことは芥川氏の随筆にも出ているがその引用は省略する。
観潮楼に関しての私自身の思い出はそれからそれへと尽きない。今これを大体年代順に拾って見る。
観潮楼の階段は
この階段の下の廊下では役所から帰った父が、
またある冬の夜であった。近火を知らせる「三つばん」に驚かされた私は、ネルのねまきの上に羽織を着せられ、祖母や女中といっしょに二階に上った。雨戸を開くと冷たい暗闇に鮮かな火の柱がついそこに見える。しかしそれは楼とは大分隔った谷中に当時あった牧場で、暗い上野の森を背景に牛小屋や木柵がパチパチ音を立てて燃えるのがきこえるようであった。黒い煙が上るかと思うと、それを追いかけ追いかけ紫の焔、紅の焔が一団一団と立ちのぼり、煙にまじって火の粉が花火のように飛んだ。火焔の間を縫って牛の黒い影が躍り狂っている。私は祖母と女中の間に割り込んで両手を筒袖に入れたまま
十二歳の私、独逸協会中学に入ったばかり、小倉の制服をつけたまま、土曜日の午後であろう、真昼の日の射し込む観潮楼の広間の縁側近くに座っている。祖母が叔母久子(篤次郎の妻、真如女史という筆名で劇評を書いた)と向い合って話しているが、いつも快活でよく笑う叔母がだまって涙をふいている。祖母は困ったような顔をして、私の手をとって叔母の膝の上にのせ、「さあこれからは於菟があなたの子、もう泣くのはおよしなさいね。」という。叔父が道楽者なのでまた何か不身持をしたのを叔母が泣いて訴えているのである。子供もない心細さから何でも髪を切って尼になるとかいうので祖母ももてあまし、於菟も母がない、これからあなたの子にするからそんなことをいわぬようにと慰めていたのである。私はいつもやさしい美しい人で大好きな叔母であるが、何だか馬鹿げていて「叔母さんの子になりますよ。」といったら祖母と叔母が喜ぶと思いながらも、そんな白々しいことはいえずにいつまでも黙っていた。
またそのころある夏の日の観潮楼上、日の射し込むかぎり、十畳の座敷の半ば以上、またこの広間を東南にそうて折れまがる廊下の隅から隅まで使って曝書をする。廊下の前は一階の屋根だから、つづく玄関の棟瓦の上までならべる。書物は皆全頁の中ほどを開いて伏せ、屋瓦状に重ねるのである。これは毎年暑中休暇の終り、八月末の行事で邸の北西隅にあった、古い平家のもとの持主から伝えた質店の蔵をなおした二階建の書庫から持ち出すのである。もちろん二階だけでなく階下でも縁側から庭石の上には雨戸を十枚ほどはずしてならべ、これにもいっぱい干す。書庫から順序によって持ち出す係り、雨戸や縁側や、それに続く屋根瓦の上にならべる係り、階段を持ち運ぶ係りなど、それぞれ手わけをして働いた。浴衣の裾をからげた祖母、裸体にズボンだけはいて頭に手拭の鉢巻をした叔父潤三郎、一両名は必ずいた書生も大体叔父に似た姿、それにちぢみのシャツにパンツだけの私がそれぞれの係りで、父は総監督である。晴れて特に陽光の強い日は昼頃とりこんでまた並べ代える。ならべてしまっても私は本の傍を離れないであちこちの本の頁を翻している。多く和漢書で和綴の『源平盛衰記』『曾我物語』『里見八犬伝』『江戸名所図絵』など私は毎年の虫干しに大方読みおえたのである。独逸語の百科辞典、種々の洋書、和書でも洋綴の『古事類苑』や『群書類従』は表紙のそるのをおそれ日蔭の室内にするが、重いので持ち運びに骨が折れた。こういうやり方で大抵、一週間から二週間ぐらいかかるのが普通、毎日曝書が終ると氷水やラムネをとったり、団子坂下の菊見煎餅や坂上の菓子屋の伊勢やから葛桜その他の餅菓子を取りよせて皆で茶を飲んだ楽しさも忘れない。曝書の後に本の表紙やとじ糸のいたんだのや、虫くいのあとをつくろうのは祖母の仕事であった。
明治三十九年一月十二日の夜の観潮楼上、日露戦役から凱旋した父を中心に家族と少数の友人が集まって心ばかりの祝宴を催していた。床の間の正面に父、その左右に佐佐木信綱、上田敏、賀古鶴所の諸氏、それに叔父の篤次郎、潤三郎、叔母の小金井喜美子、世話役の祖母と私、高老の曾祖母も片隅にちんまり座って嬉しそうにニコニコしていた。また喜びを述べに来た昔の書生の脇田茂一郎、秋山力、また父の出征後から家に寄宿するようになったので先に述べた私の先生の大久保栄さんもいた。父はしきりに戦争の話をして、その癖で右の肩をそびやかしながらロスケロスケと大声を出していた。私は戦争の影響で繊細な父の感情が荒されたように感じた。乃木大将の愛息を失った前後の話が出る。父の従卒の手柄話が出る。小金井の叔父の弟で戦死した小金井寿恵造大尉の話が出る。これらはみな「うた日記」にある長詩の事実譚である。叔父篤次郎の疳高い笑声と賀古さんの豪放な笑声がまじる。長らく主人を失った観潮楼に一時に春が返ったようであった。階下からは玄関横の銀杏の木につながれた巨犬ジャン、それは遼陽で露国の将校に別れてから父に飼われた小牛のような犬のうなり声が木立の闇を縫ってきこえた。
なおこの時の祝宴に母しげ子の加わっていないのは、父の出征中の留守の間当時の事情により芝区明舟町の実家荒木家の貸家に入って長女茉莉と共に住んでいたからである。この会合の果ててからおそくなって父が明舟町の家に行ったことは妹茉莉の書いた文にもあり、ここには記さない。その後間もなく観潮楼に帰って一家がまた合したことを私も記憶している。
つぎは明治四十三年の春某日の夕、観潮楼階上で月例の歌会(父は短詩会と呼んでいた)が催されていた。父のほかには竹柏園主人佐佐木信綱、いつも紋附羽織袴お公卿様のような端麗な風采で悠然と柱に背を寄せておられる。わざと縁側に座蒲団を持って来て、あぐらをかき腕を組む肥大漢は根岸派の伊藤左千夫。新詩社のおん大与謝野寛はすべてに滑かなとりなしで起居も丁寧である。皆その日の出題によった短歌の想を練っているのであった。若い人たちはもとの「明星」派が圧倒的に多い。伯爵の若殿吉井勇は大柄な立派な体躯でゆったりと控える。おでこの石川啄木は故郷の山河に別れて間のないころであったろう、頭に浮んだ歌を特有のキンキン声で口ずさむと父が大声で笑う。北原白秋は既にキリシタンの詩で知られており、平出修は幸徳秋水を弁護することで父に相談にきた弁護士である。木下杢太郎は東大医科の学生太田正雄で私より数年の先輩。大久保栄さんが生きていたらこの中にいるだろうにと私は思う。平野万里は工学士で私の幼なじみ、私が里子に行った大学前森川町の煙草店の長男で当時私の「兄ちゃん」とよんだ人。このほかに「アララギ」派では伊藤左千夫のほか時々斎藤茂吉、小泉千樫など。「心の花」の一家ではほとんど佐佐木さん一人、まれに川田順がみえるくらいであった。この晩にこれだけ顔がそろっていたのではない。平野さんはたしかにいて、その前には集めた歌稿を整理する小机があり、そこらに無地の洋紙を細長く切ったのが散らばっていた。私は前年九月大学の医科に入ったばかりで一年生だった。ふだんこんな席に顔を出さないのだが、何か父に用事があったのであろう。平野さんは前から私が「万年艸」にグリムの翻訳を出すのを知り、中に短詩があったのを見てから、私をあらためて自分の弟分にしようとする下心があったのか、この時「於菟さんも歌をよみませんか。」という。すると父が今までねむっていた眼を急に開いて「ナニ、こいつは自然主義崇拝でね。」といった。皆がどっと笑う。私がそのころ独歩を初め、白鳥青果なぞを読むのを父は苦々し気に見たからであるが、私は真赤になってキリキリ舞いに螺旋階段をすべり降りた。
大正六年十月二十一日午後、曇り日である。私は小金井の叔母の世話で秋田県人医師原平蔵長女富貴を妻に迎えることに話が進んだので、この日平蔵翁は用事のため郷里を出られなかったが妻貞子が長女富貴とその長兄東京帝大医科の学生素行および妹倫子をつれて初めて観潮楼を訪れたのである。媒酌は東大の石原喜久太郎博士である。森家では父と義母、私と小金井の叔母で、父も機嫌よく歓談した。客去ってから楼上の廊下で叔母と義母と私とが打ち合せした。気むつかしい義母もこの日は叔母に向って「あなたが母代りで何事もよろしく頼む」というのであった。
つぎは私が欧州に留学して帰った大正十三年の秋の一日。この時は父が私の留学中死去したので私が観潮楼の主人となり、母はその西側別棟の弟類の家に移っていた。楼上で母と私は父の遺品の整理をした。衣類や日ごろ座右に用いた調度類は、母が小金井家の叔母を相手に大体その整理をすましたのであるが、私の帰朝を待って扁額や掛軸、巻物、置物などの値ぶみをしたのである。主として親戚、知友への形身分けをするためで、この日桂五十郎(湖村)翁を招じて鑑定をしてもらった。翁は端然と袴のひだを正して控えておられ、その前に次々と軸巻物などがのべられた。母や私の問に対するその落着いた「ハーイ」「ハーイ」という応答が、あるじの代ったのを知らぬ気な小春日和の観潮楼に沈んだ響を伝えた。
私の滞欧中の関東大震災で傷んだ家を修理するとき、観潮楼にからむ
帰朝して観潮楼の主人となった翌々年の暮には、私は止むを得ない事情でこの家を去ることになった。「事情」というのは義母と私たち夫婦との間が次第に面白くなくなり、ことに義母が感覚的に我々をきらうため、父の在世当時のある期間と同じように母の神経がいら立ち、私どもがその近くにいることさえその危険な妄想を激発させそうになったためである。かねがね心がけてはいたが、年の暮近く「事情」がせまったので充分配慮をする余裕がなく、国鉄大久保駅に近い古色蒼然たる空き屋敷のような門構えの家にあわただしく移ったのであった。次に引越したのは昭和二年で、団子坂に近い谷中三崎町の有名な長岡半太郎博士の邸。これは木口なども美事な日本建築で、御主人の老博士がなくなられ後継者の都合でしばらく空けて置くから入らないかと、未亡人と親しい小金井の叔母からのすすめであった。さらに私は郊外に新築することを思い立ち、埼玉県大宮町大宮公園近傍の盆栽村という所に広い地所を借り二階を含めて建坪七十坪の洋館を建てて移ったのが昭和五年の年末であった。
私が居をうつしてからしばらく空家のままに置いた観潮楼は結局人に貸すことになった。なるべく親戚か知人に家の保存のための世話をしてもらう意味で無代で住んでくれる人があればと考えたが、適当の人が見つからぬままに、また私の大学助教授としての俸給と、父から受けついだ少額の動産から生ずる利子とでは生活を支えて行くに足らなかったためとで、不本意ながら観潮楼を賃貸することに決意した。一番初めに南隣の物集高見博士のあとの広文庫発行所からの話があり、亡き博士の令息は叔父潤三郎の友人でもあったがそのことに賛成しない人もあった。そのため物集氏の友人として有名な吉野作造博士がわざわざ医学部解剖学教室の助教授室に私を訪ねられたこともあったが、ついにその話はまとまらなかった。半年以上も家をあけた末に、出入りの畳職竹内勇蔵の世話で安田銀行に勤務する某氏に貸したのが大正十五年の秋であった。この人は借家人としてはいい人で、家主になり立ての私は喜んだが、二年足らずで転勤のため他に移られた。貸家の差配は畳やの竹内さんに頼むことにしたが長くつづく借り手は不幸にして見当らず、一年か半年ごとに住む人のかわるうちにだんだん借り手の質がわるくなった。もっとも家もおいおい古くなり家賃も下げたが終始借家人に関する限り私の運はわるかった。その間には九州帝大から東京帝大に転任せられた医学部の高橋明教授が新居を求められる話があって事務員の阿部氏の案内で一度見に来られたこともあったが、家の大きさや間取りがその希望にそわなかった。人のかわるごとの手入れのためにほとんど毎年多額の費用をかけ、かつ空いている期間が多いので、観潮楼はその維持費以上にはあまり多くの寄与を私の家計にもたらさなかった。家の腐朽はその建築が古いというだけではなく、やはり蔦が多年水を吸い上げたのでそれが枯れた後もその全部は取りきれず、そのために羽目板も柱も全体が腐って来たからなのである。かくして、後にはほとんど父の名さえ知らぬであろうと思われる人がただの借家としてこれに入り、しかも当時農村には小作争議、工場には同盟罷業の頻発する時代にあって、借家人の鼻息は強く、なるべく家賃を踏み倒し家主を困らせるのが当然のこととみられる有様であったので、終りにははなはだしい破綻が来たのであった。それは私が大宮に移る少し前、昭和五年末から数年にわたる紛争でついに私の方から弁護士を煩わして立ち退きをせまるような不祥の事件を招来した。
その時の借り手は何か投機的の事業をしている人で、都合がわるいから家賃をひと月のばしてくれから始まって、三月四月の間にひと月分くらいを入れることもあるが結局半年分以上たまったころに畳や建具の修膳を[#「修膳を」はママ]しろといい、その要求をすぐに実行せずにいると、こんな壊れた古家で家賃をとるとはけしからん、引き移るから立退料をよこせと居直って来たのでやむをえず裁判沙汰にしたのであった。話がまだそれほど険悪にならぬうち家の模様がえのことで、差配ではわからぬから家主に折り入って相談したいと申し入れて来たことがあった。そこで私の住居は大宮だから来訪を求めるのも気の毒と、私は大学の帰途立ち寄った。観潮楼を出てから借主のかわる間の手入れを見に来たことは数回あるが、他人の住家としての観潮楼を私が訪ねたのはこの時が初めてで、幼いころから長年の間祖母や父と住んだ思い出深い玄関に訪客として立つのもなんとなく面白くなかった。外から玄関に向って右側の柱に「聖廟楽器」と彫った小形の半鐘が吊られ、その傍の釘に小さい撞木が下げてある。お客でこれを叩く人は少かったから後には別に呼鈴をとりつけた。欄間の正面に横長の額が掲げられ賓和閣と浮き彫りしてある。この額をとりつけた数年前のことをこの時私は思い出した。これは朝鮮から帰った軍医が贈ったので父自ら金槌でこれを下げるための釘の頭を叩いたのである。父の上っている足つぎをおさえていたのは私であった。それは「ある明るい日」の午後で大正の初め、義母は留守であった。母がいては父と私はこんな父子らしい姿をその眼にさらすことは決してできない。ちょっとものをいっても嵐が荒れ狂った時代である。額の書体が変っているので何と読むのかときくと父は「賓和閣さ。お客が仲よくする所というわけだ。家の中ではけんかばかりしているからちょうどいいだろう。」と私の方を向いておどけた手つきをして見せた。
さて借家としての観潮楼の呼鈴を押して通された所は階下の八畳の洋間で、応接室に使っているらしく椅子テーブルはあるが、片隅に事務机が置いてあり帳簿類と思われるものがその上の本立にならんでいる。窓際には粗末な台をとりつけて布袋さんの像が置いてある。私が貼らした暗緑色の壁紙はそのままであるが、かつて父の親友原田直次郎画伯の油絵のかけてあった所には高く折れ釘を打ちつけて生々しい美人画の幅が両側の縁をそっくり返らしたままつるされてある。足のガタガタする真四角の卓を間に、堅い木の椅子に腰をおろして主人と向い合った私は、家賃を入れぬいいわけに「何しろお話にならん不況でして。」という主人の挨拶から、こわれた雨樋を直すことを頼んでから一ヶ月になるがどうしてくれるか、畳替えは半分家主が持つものだが差配がかれこれいうのはけしからん、物置を建増したいがいずれ置いて行くのだから家主が幾分負担してもよかろう、などの談判をきいているうちに、数年前私の留守中にこの室で最後の息を引いたという父の作物の一行をだにこの男は知らぬだろうと思うと、そこらから死んだ父の眼が
さて裁判にかけてみるとすべてを委任した弁護士が示談の何のといろいろ骨を折ってくれているうちに、このうちの主人の事業上に
すっかり憂鬱になった私は、もうこの家を人に貸すのがいやになり、多少の不便不愉快は忍んでも、また立ちぐされになるまでも自分で住もうかと一時は考えたが、すでに大宮に邸宅を設けた後でもあり、家全体の経済上の関係もあって、見る影もなく荒れはてた観潮楼の大修理に私としては莫大の費用をかけた数月の後にはやはりまたこれを貸家にするほかなかった。その後間もなく昭和十一年二月私は台湾に赴任することとなり、観潮楼のためには差配の監督を親戚の法学士西村清介さんに依頼した。最後にこの家に住んだのは下谷辺にある工場の主人とかきいたが、入って三月目に過失で楼は全焼したのであった。それは昭和十二年八月十日で、その夜半当時台北市樺山町の官舎に住んでいた私は電報の声に驚かされた。西村さんから知らせてくれた「センダギノイヘゼンセウ」の電文を見たとき、ハッと思うすぐあとから多年私の心の重荷になっていた家が焼けて何かホッとする気持の起るのを如何ともなし得なかった。ところがその後二日三日と過ぎると、観潮楼の思い出はそれからそれへと湧き起り、四十余年の追憶がからまるのでたやすく消え行くものでないのを知らされた。
その後しばらくして東京の家族親戚からそれぞれ当時の実情を知らせてきた。出火は八月十日午後四時半、階下の六畳で主人の子息が酒精を瓶詰する作業をやっていたとき、過失からその一つに火が入るとたちまち周囲一面に並べた酒精瓶が爆発して
かつて大正十一年の夏、父の死をベルリンの下宿で知った私は、その後ドイツ国内巡遊の折、ゲーテ、シルレル等の住居が文豪の在りし日のままに保存されるのを見て、己れが観潮楼を受け継いでも、紙と木とからなる日本の家はとうていかくのごとき保存に堪えず、遠からず朽ちて土に委するであろうとは思ったが、さて帰朝してみると、思ったよりもさらに早く腐朽に傾く日本の家屋はとうてい一私人、それが莫大なる資産でも擁せぬ限り、個人がその保全の責を全うすることはできぬものであることが明らかとなってきた。さりとて主人としての私がある以上、ことに歴史のさして古からぬものを史蹟として政府または財団の保管に委ねることは実際上には望み得ず、いずれはやむをえず根本的の改築をして、観潮楼の旧態をとどめぬという
観潮楼の現在はかの荷風の「日和下駄」の「崖」に沿う往来に面する冠木門とそれにつづく籠塀だけが残っている。時々東京に出て、その跡に隣りする、これも父の家の一部であった弟の家に宿泊しても、私はその門その塀に近寄ることをすらおそれている。今年になって近隣の人から焼跡を空地利用のために畑にしたいといってきたので私は喜んで使用してもらうことにした。私はいずれあの跡に一片の標柱なりと建てて観潮楼の跡、そして私自身の魂の跡を弔いたいと思っている。
(昭和十八年三月)
以上の稿は今から十二年前、私が台北帝国大学の教授であったころ、土地の雑誌「台湾時報」に求められて執筆した随筆であるが、今その後の事情を追記せねばならぬ。これを書いたころ既にいわゆる大東亜戦争が始まっていたが、その結果として私個人としても未来の望みをかけて親しんだ多くの学生を失い、台湾の地は中国国民政府に帰属することになったので、台北の大学を中国の代表者に接収される場面にも医学部長として立ち会わねばならなかった。観潮楼の建物の主部をなした二階建の方は私に譲られたが前記のごとく昭和十二年八月十日の失火で全焼したが、その北西につづいた平家一棟は弟森類の住居として残り、そのほかに楼の外廻りの正門と籠塀と若干の庭木があったが、この戦争のために昭和二十年一月二十八日の夜、実に東京都最初の空爆によって、父の石像と若干の庭石および焼けただれた一本の銀杏樹を例外として一物もとどめぬことになった。
弟の家が戦火に見舞われる前からその家族は福島県喜多方町に疎開したので、その跡には私の三男礼於(当時東京帝大理学部物理学科学生)が級友の服部学、柴田浩両君と共に留守番かたがた寄宿していた。空襲当時服部君は郷里静岡県に帰省し、礼於は柴田君とこの家にいた。九時ごろから警報があったのがやがて未曾有の大爆撃となり、邸内に落ちた焼夷弾数個、その中二個は家屋に命中した。それをようやく消しとめ家の中の家具や書籍の一部は持ち出したが、周囲から延焼して来た焔に煽られて危うくなったため、煙をくぐって北側の門から脱出して、団子坂下の汐見小学校に避難した。それから駒込曙町の小金井家を訪ねたのは翌朝であったという。その焼跡は寂寥として鴎外の白い大理石の胸像がひとり淋しく立ち、その傍には一本の焼け残った
終りに一言いいたいのは、前に私は観潮楼がくさって倒れるまでも私だけの責任で、誰も助けてはくれず、史跡に指定されるなどは思いもよらぬと書いたが、その後十数年で今日のようになったことで、私は時勢の変化のはげしさにつくづく驚いている。
(昭和三十年二月二十八日)
前に記した昭和二十九年七月九日、鴎外三十三回忌を期して、観潮楼の跡に「沙羅の木」の詩を刻んだ石面を、明治を偲ぶ赤煉瓦造りの「詩壁」にはめこんだものをつくったことをのべたが、その日かねての宿案であった鴎外記念会館建設の話が再燃した。一部有志がその日根津神社社務所の一室を借りてそのことを計り「鴎外記念会館建設委員会」をつくった。高橋誠一郎氏を会長とし、広く寄付金を募集し、事務局を文京区役所内に置くことを決めた。区長は井形卓三氏である。
しかるにその後寄付金応募が思うにまかせず、予定建設費の一千五百万円が一年たってその十分の一を出でず、その後はさらに振わず微々たるものというありさまでこの形勢では事業の遂行が絶望なること明らかとなった。昭和三十四年に至って、区役所から予算をとって寄付金と合せ、文京区立鴎外記念図書館というものをつくる案を区側で出したので委員会も協議の末、記念館と図書館をできるだけ内部では分離し、全体の設計は最初からの計画通り谷口吉郎氏に依頼し、芸術的なものにすることで一致を見たのである。
昭和三十七年一月十九日は鴎外生誕百年なのでこの日を完成の目標としたい考えである。しかし、すべての進行が思う通りに行かぬので、せめて昭和三十七年には完了されるようにと念願している。私も今年満七十一歳、この三月末日に教職もすべて退いたので、記念図書館の一室を借りて父の遺品の整理をしたいと考えている。以上がこの年私の誕生日九月十三日の心境であったが、それから二ヶ月近くたった今はさらに進んで工事着手の予定もきまり昭和三十七年一月十九日の鴎外生誕百年の日までには整地と基礎工事もある程度進み七月九日の命日には竣工近いところまでゆくだろうという希望をもてるようになった。
(昭和三十六年十一月五日)
その後、前記の計画がほぼ予定通り進行し、鴎外記念室を含んだ文京区立本郷鴎外記念図書館は昭和三十七年十月十九日および二十日に落成記念式を行い、その後も順調に発展している。
(昭和三十八年五月十七日)