解剖随筆抄

森於菟




一 キンストレーキ


 古い話である。
 明治初年、わが国で解剖学が教授せられはじめたころはどこでも教材に乏しかった。東大の解剖学教室でも、昭和十九年八十六歳でなくなった小金井良精博士(私の先生であるが、同時に私の父の妹喜美子の夫、すなわち私の叔父。日本解剖学会の長い間の会頭で、日本での解剖学者また体質人類学者の創始者代表者でもあった東大名誉教授)の記録によると、明治二年東大医学部の前身たる大学東校には、土岐頼徳氏が美濃国で発掘したと伝える頭骨顔面部のほかには一物もなかったという。また明治九年ドイツから来朝して解剖学の教授をはじめたお傭い教師ドエニッツ博士は、自ら若干の人骨を持参したが、主としてキンストレーキと称する紙製人体模型によって講義し示説したものであるという。私は小金井先生のほか、ほとんど同時代の東京慈恵会医科大学の教授故新井春次郎博士にもこのキンストレーキの話をきいたが、大正年代私が下谷御徒町の山越工作所、その後は島津などで製造した人体骨格、筋肉、内臓の模型標本に類するもので、取りはずし組立てができる仕掛けであったらしい。その実物の少くも残骸が東大に残っておらねばならぬはずであるが、大正七年私が解剖学教室に助手として入ったころ、既にどこを探しても見当らなかった。日本人で最初の解剖学担任の大学教授故田口和美博士(小金井博士より数年の先輩で一時講座を分けて担任した)並びにこれを助けた今田束氏等の人骨採集、標本製作の苦心はなみなみならぬものであったらしい。今田助教授は田口教授よりも早くなくなられた人で、幕末知名の江川太郎左衛門の縁故者とか、非常に精巧な技術を持っておられ、その側頭(顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)骨に自ら刀を加えて骨性迷路を浮彫りのように現わした標本など私どもも学生時代に見せられたのであった。
 キンストレーキについては、金沢の古い解剖学者故金子治郎博士の談話にも、金沢医学館(金沢大学医学部の前身)に、前田藩が仏国製のキンストレーキを大金で購入したのがあって、医学館の誇りになっていたとあるから、今でも彼地に保存されているかも知れぬ。なお金子博士は人骨採集のため各所の墓場を掘り歩いたことを語られ、自分達の場合は金沢犀川河畔柳原村はずれ、今の犀川鉄橋より上流二町ほどの所にある胴切場といわれた刑死体取捨場に夜半忍んで行って、中にはまだ肉つきの死体があるのを、脇差で首や手足を切り取ったものであるといわれ、またこの仕事を脅威したものは邏卒らそつ(警官)でなく、獰猛な野犬群であったと述懐された。
 なおキンストレーキにつき、またそれと関連する明治初期の医学教育革新期における先人の学修材料苦心談としては、私の父の先輩陸軍軍医の長老石黒忠悳子爵の懐旧談を欠くことはできない。
 石黒さんは九十の寿を迎えられた方で私もお訪ねしてお話を承ったのであるが、その明治医学発達史を述べられた「况翁八十八年」の中に、その若い時代に解剖を学ばれたときの経験が出ている。当時解剖学を学ぶには漢文の解体新書のほかにフレス、ボックス等の著、ウェーベルの解剖図があった。この解剖図は幅二尺五寸ばかりの掛軸七本から成り、和蘭銅版で骨、筋、血管、神経、内臓等が示してあった。その他にキンストレーキ人巧体とよばれた張子細工の紙製人体模型を参照したが、それは江戸医学所に一つ、長崎精得館に一つあったぎりで、実際の解剖は犬や猫で間に合わせていた。人骨といっては松本順先生寄贈の頭蓋骨一個あるのみであったので、塾中五名の同志と談合して小塚原刑場に人骨掘り出しに行くことを計画した。まず刑場の傍にあった回向院分院の住職に面会し、そこには解剖されて我々のためになってくれた人が埋められてあるから回向料を納めたいと申し入れ金一両二分を包んで出した。これはあらかじめ住職の機嫌をとって置いて後に掘り出しの際万一とがめられても見のがしてもらうためであった。その翌日の夜同勢そろって出かけ小鍬を振って掘りはじめたところ、坊さんや巡邏には会わなかったが、死体をあさる野犬の群に吠え立てられて、ほうほうのていで逃げ帰った。さらに相談を重ね、今度は六人の同志を三分し、猛犬に餌を与えるもの、見張りのもの、掘り出すものと役割を定めて翌日の夜再び赴き遂に成功した。掘った骨は用意の網袋に入れ、天秤棒で代る代るかつぎ、今戸まで来て船宿から猪牙船を出させ下谷の和泉橋へ乗りつけたが、船には二人しか乗れぬので、二人が護送役、残り四人は徒歩で下谷の藤堂屋敷にあった大学東校の塾に帰った。獲物の中に頭蓋骨もあったがこれを分解して小さい骨にすることがまた問題になった。工夫の結果よく乾燥した大豆を一杯つめて水に漬け数日置くことによって、豆がふやけるため腔内の容積が大きくなり骨を自然に分離させることができた。頭蓋骨は大体において中空の球形をなしその底に一つの大きな穴がある。これが脊椎管につづき内部にある脳脊髄の連絡する孔で、ここから乾燥した大豆を入れ少しの酸を混じた水に浸して置けば、強大な豆の膨脹力によって骨の継ぎ目が離れるわけで、これは年齢の若い人の骨ほどたやすく、現在でも一般に行われている方法である。

二 綿人形と生首紛失


 これはキンストレーキほどではないが、日本で医学校ができて解剖を教え出した医学教育草創時代の教材不足にまつわる苦心談。
 前記金沢医学校の古老故金子博士の懐古談である。明治十二年秋というが金沢地方裁判所の判事や警察官の付添いで一個の嬰児死体が医学校の解剖学教室に送られた。官の命令はその死産か生産かを検案せよとのことであった。こういう仕事は法医学教室でするのであるが、そのころの医学校ではその区別をあまりやかましく考えなかったのであろう。解剖学の石川喜直教授が執刀したので、当時助手であった金子博士も教授を手伝ってその解剖に当ったのである。解剖が一通りすんで後、警官はしばらく死体を保管してくれといい置いて立ち去った。そのころ金沢医学校には標本が不足で、小児の骨格などはもちろん一つもない。死体から軟部をきれいに除いて骨格標本をつくる操作は熟練を要し面倒なものであるが、小児の骨格となると軟骨の化骨しない部分が多くてばらばらになりやすい上に骨片が小さいので、これを原形通りに整理して標本を作り上げるのはすこぶる困難である。それよりもまず小児の死体そのものが手に入り難い。家計困難のため官立病院で施療を受け、遺体を寄付するような人でも、子供は可哀いというので、無理をしても引き取って埋葬する。特志解剖も同じ理由で小児はほとんどない。したがって年齢によって小児の骨格を揃えている大学は現在でもいくらもあるまい。まして八十余年前の金沢の学校にあるはずがない。
 そんなわけで金子さんも食指大いに動いたのであるが、判事や警察官のいる間は頼んだとてきき入れられぬことは明らかなので、石川教授と顔見合わせて嘆息していた。やがてその恐ろしい人達が去って欲しいものだけが残った。そこで金子さんはむらむらと悪心を起した。「悪心」というのは私がいうのではない。温厚なる金子さん自身の述懐の言葉である。ともかくこの時金子さんは「好機逸すべからず」となし、早速メスを執って、汗だくだくで全身の皮膚を剥離し、骨格をそっくり取り出した。そして骨ぬきの抜け殻には竹片を適宜に切って押しこみ、肉の足らぬところには綿をつめた上、これを皮膚でくるんで大急ぎで縫合し、ここに年来の目的を達してほっとひと息した。ところができ上った死体は不細工にふくれていて、どうひいき目にみても、もとの面影は少しも残っていない。そこでやむをえず、頭、頸、胴体、手足のきらいなく繃帯を幾重にも巻きつけて、全身の大火傷ないし湿疹患者のようなものをつくり上げ、これを箱に収めた。かくて金子さんはその夜眠りも安からず、翌朝死体引き取りに来た警察官を恐る恐る出迎えたが、何も知らぬ警官は箱の蓋をとり、雪だるまのような綿人形をのぞいて「これはまたえらい御鄭重に」と挨拶したということである。
 生首紛失というのも金子博士の体験で、屍槽の中で首無し死体ができ上ったという、推理小説にもない珍談である。博士が助手をつとめていた母校金沢医学校を辞して、大阪医学校(今の大阪大学医学部の前身)の解剖学教授として赴任された当時というので、明治十八、九年のころと思う。当時大阪には小林佐平という侠客がいて府下の行路病者を引き取り、独力で貧民授産場を経営していたが、そこで病死するものの死体をどしどし医学校に送ったので、大阪医学校では解剖材料に不自由をせぬのみか、生徒の数が少いので余ってしまい、その処置に困ったとのことであった。
 その時校長吉田顕三氏が「英国では死体を塩漬けにして貯えるから、それを試みたらよかろう」といったので、金子教授も早速大きな壺に濃厚な食塩液をつくってこれに死体を投入し、厳重な蓋を施して半年余放置した。さて必要に応じて蓋を取って見ると、こはそもいかに死体の首がない。水面には無残にも生々しい赤い首の切口、その背中側に近く突出しているのは軸椎歯突起、俗にいうお舎利様である。金子さんは金沢での学生時代身に覚えがあるものだから、てっきりこれは誰か学問に熱心な特志の梁上君子が、頭蓋骨欲しさに夜中ひそかに忍び入り、首をぬすんだものと大いに狼狽した。学校中詮議をしてもさらに要領をえないままに数日経つうちに、小使が「先生、あの壺の底からこんなものが出ました」と持って来たのはきれいに晒された一個の髑髏である。これで首無し事件も万事氷解、すなわち壺の水が次第に減じ、首が水面に露出して空気に触れたため腐敗し、自然と胴体から脱落したので、腐った軟骨部や筋肉は溶解し離れて、頭蓋骨標本が自然とでき上ったのであった。なおこの時の塩水漬けの死体は、形態こそ保存されたものの、中味は腐敗して全く解剖の役に立たなかったという。

三 人骨にまじる犬骨


 われわれ解剖専門家が死体材料を大切にすることはたびたび述べた通りであるが、万遺漏なきを期していながら時々思わざる失敗をして、日ごろ世話になる関係官庁病院や遺族側の不満、時としては激怒を買うことがある。つまり仕事に馴れぬ、またはかえって馴れ過ぎた小使や運搬人がこれを粗末にとり扱い、ものがもの、場合が場合だけに特に親身の者の感情を害し、責任者としての我々の誠意を疑われ、はなはだしい時には裁判沙汰にすると脅され、または官庁慈善団体などの御機嫌を損じて半年から一年ぐらいも死体の供給が杜絶するという憂き目を見るのである。もちろん下に使うものの不始末は監督の任にあるものの注意が行き届かぬためであるから、こんな時はただ平謝りに謝って、今後過失をくり返さぬことを誓い、ゆるしてもらうほかに手はないのである。かくのごときことは長い年月の間にたびたびあったが、今は私が経験した中の一例を懺悔ざんげとして述べる。
 約四十年前東京で起ったことである。東大医学部で助教授を勤めるかたわら、一、二の私立学校へ解剖学主任として講義実習一切の責任を負うて出教授(今の呼称に従えば非常勤講師)に行っていた。東京では東京帝大のほかに専任教授を揃えているのは、当時慶応医大、東京慈恵会医大くらいのもので、その他私立大学一、医専三、女子医専二、歯科医専二、女子歯科医専一あり、中には一人くらい専任を置いている所もあるが、少くも一校三人を要する解剖学の先生の大部分は掛け持ちであった。以上の中の一つで私が主として行っていた学校での話で、ある年の解剖実習期のまさに終らんとするころのことである。私は一日帝大の某教授に呼びつけられた。「君の行っている○○○○では、焼場へやる死体の骨を盗んで、代りに犬の骨を入れて置くそうだと言って、養育院のU先生がひどく怒っていた。早く行ってあやまって来たまえ。」教授ははなはだ御機嫌斜めである。それもごもっともで、死体数において断然日本一を誇り、わずかに欧米の二流大学の死体数と肩をならべられようかと思われる東京帝大の解剖学教室の死体、その大多数は東京市の養育院から供給されるのであり、U博士はその配給の実権を握る医長で、下手に怒らせると東大そのものが死体材料枯渇の危険にさらされるわけである。
 私は大いに狼狽して早速その学校の解剖学教室にかけつけ、取り調べのため全職員を召集した。全職員といったところで私以外の教授二名は東大の助手両君で、講義の分担と学生の実習の時に代り合って見廻るだけ、いつもこの教室にいる人でなく死体の取り扱いには関係していない。ほかに助教授も講師もなく助手一名、これが実は死体取り扱いと標本製作とのために入れた雇員、日本に籍はあったが、当時日本の植民地であった某所の生れ、郷里で初等教育を終えた後東京に出て、ある工場に働いていた男、現在は夜学の中学校へ通っているので、古着屋でみつけた小倉の学生服を一着した青年である。ほかにはよぼよぼの腰もよく切れないお爺さん小使一名しかいない。したがって全職員を見渡しても一向厳粛なる気分は起らぬが、主任教授としての私は威儀を正し、声色を励まして訊問に及んだ。私に叱られることはめったにないのでその点にらみはきいたが、恐縮するとともにおどおどした助手君の国語はしどろもどろとなり、酒精中毒の爺さんの膝はいたずらにぶるぶる震えるのである。結局判明したところを綜合すると、犯行は正しくこの両名の共謀で、隣りの生理学教室で実験に使った犬の死骸を貰って来て爺さんは皮を剥いで売り、助手君はその肉を犬鍋にして食い、残った骨を焼場へ送る人骨の中に投げ込んで何くわぬ顔をしていたのである。なお両人とも死体貯蔵用として教室で買い入れた酒精を加工して飲んだ嫌疑も濃厚であった。
 つまり人骨を盗んだのではなく、余分に犬骨を人間のお供をさせて焼場へ送ったのが発覚したのである。さんざん二人を叱りつけてから養育院の医長室へあやまりに行った。まさか犬を食ったとはいいにくいので「実は実験した犬の死骸を小使が誤って焼場へ送る死体残物の中に入れましたので、何とも申しわけのない次第でありますが、今後厳重に取り締りますからなにとぞ御勘弁を」と陳謝したが、U先生はやはりむつかしい顔をして、「養育院は東京市の社会事業として経営する窮民救済の機関である。したがって事務当局の方では、病死後死体を解剖するのは残酷で、慈善の目的に添わぬと言って反対するものもあるのだが、僕が解剖というものは博く人類救済の根本になるというわけをくりかえし説いて、現在のごとく大学へ送り、君の学校の方にも廻しているのだ。それを考えて取り扱いは注意の上にも注意をしてくれなくては困る」。私はここでまたひと汗かいて引き下った。お蔭で私の学校への死体供給は一学期停止され、東大の方にも多少の累を及ぼしたようである。
(昭和二十一年六月)

追記 本稿は台大教授時代台湾総督府の雑誌に三十項にわたり連載したもので、終戦帰国直後養徳社から出版した『解剖刀を執りて』に収めた中からとったが、頁数の都合でほんの一小部分を抄出したにすぎぬことになった。





底本:「耄碌寸前」みすず書房
   2010(平成22)年10月15日第1刷
   2011(平成23)年2月10日第4刷
底本の親本:「医学者の手帖」科学随筆文庫、学生社
   1978(昭和53)年9月25日発行
入力:津村田悟
校正:hwakayama
2024年11月23日作成
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