僕は自分の大学の新築四階建の三階角の部屋で、台風何号かが九州南方海上で日本本土か、朝鮮方面か、どっちへ抜けようかと、思案投げ首のもやもやに感応して、ただの残暑よりも頭が重く、廻転椅子にぐったりして、うつらうつら昔を思い浮べている。
工場まがいのビルの連立に偉容を誇る近代の新制大学とちがって、医学部なんぞも、空をつく
本館の方から、僕は一隊の軍人さんを案内して入って来た。当時、陸軍士官学校が、若い士官候補生を毎年一回東大へ見学によこしたが、解剖室案内など知的の雑用は、教授の命令で、当時、二人が定員の助手の一人が洋行して、後任の望み手がないためただ一人の助手たる僕の役目にきまっていた。
見学者というものは、中学の教員、師範学校生、看護婦養成所の生徒などにきまっているが、中にはいると眉をひそめ、鼻をハンケチで被ったりするのがいる。これは死体に対しても、我々に向っても、失礼きわまるので、義憤を感ずるが、生気溌剌たる候補生諸君はさすがに礼儀正しく、室内では軍帽を右腰の辺にピタリとつけ、左手は革帯にさがる短剣の鞘を握り、二列の解剖台の間の通路を、それにつづく隣室のタンクの間を、一列縦隊で床にひびく軍靴の音も高らかにさっそうと行進する。
この日はあらかじめ珍客に備えて、実習時間以外は常に解剖台にかぶせてあり、多年死体からしみ出した液汁がこびりつき雲のような形の暗褐色の斑紋がえがかれている、ゴム引きの麻布は取り除かれ、バネじかけの重いタンクの蓋ははずされてある。それで死体の足は両側の台から真中の通路にむけて突き出され、そのふやけた親指には標識の木札が
実習課程の進行中なので死体は、剥がれた顔や頭の皮の乾きかけたのを焼するめのように垂らし、眼や口の周囲のうす赤い筋肉が幾重にも輪をえがき、つるつるの頭蓋骨をむき出し、頭を丸めた孫悟空のごとき相好の中からしなびた眼球や抜け残りの汚く黄色い歯をのぞかせる。
またタンクのアルコール池で、押し合いへし合い浮び上ろうとするおばあさんが、灰色のざんばら髪をゆらめかせる。そうした名所のところどころで加える僕の説明に、諸君は上半身を少しその方に傾けるだけで、一言も質問しない。見学が終ると、廊下に整列して案内者たる僕に挙手注目の礼をして、威武堂々と帰って行く。何のために来るのか、一度たずねて見たら、引卒教官殿の答えは「勇気を養うためであります。」であった。
こうして、忠勇無双の兵隊は「勇気を養う」とおっしゃったが、実は、僕としては、生きている兵隊さんを見ることの方が、よっぽど勇気を養うことになるのである。実際、こう長い間死体といっしょに生死(?)を共にしてくると、僕にとっては死体の方がよっぽどうまが合う。こんなことを書いたら、いささかたたりが恐ろしいのだが、老妻のお小言にうんざりして大学に避難してもまだぼんやりしていて、死体置場の扉をあけた時に、初めて生き返ったような気がする。
彼等は、うつろな眼やゆがんだ口の間から、先生お早うございますという。僕も、多少憂鬱になっていても、亡者諸君の歓迎に接しては、思わず相好をくずさずにはいられない。実際僕には、彼等の親しげな言葉がきこえるような気がするのである。彼等は、皮を剥がれ、長時間の作業で、筋肉血管神経と調べられた末に、あとをきれいにして結局白骨にされるまで、あるいは眠りを誘うように、あるいはやさしく訴えるように静かに語りつづける。そして最後に完全に解体されて、おさらばする時になると、彼等は小声で、「先生さよなら」という。僕も「やあさよなら、君等のことは、もうじき君たちと一緒になるまで忘れやしないよ」と訣別の辞を述べる。
彼等は、僕等に単に愛着を示してくれるだけでなく、全く献身的に色々なことをしてくれるのである。第一、年々幾人かの博士をこさえてくれる。この肩書があると、開業医諸君の場合は患者もふえるだろうし、恐ろしい世の中から身を護る隠れ
このように、居心地のすこぶる好い解剖室から、半ば夢心地でふらふら出て来たとき、助手君がとんで来て、「先生××雑誌社からお電話です」という。僕はその時、ドキンとしてせっかくの死室三昧の佳境から叩き起されてしまう。「なに、ざ、雑誌社」すっかり平静を失ってしまったために
ああおそろしき哉、ジャーナリズム。彼等には血管があり、脳があり、口があり、時には、手のようなものがあって、青白き青年文士を黙殺という特別な殺し方で殺すという。息子からの耳学問なのだが、イギリスの詩人でキーツという人は、ジャーナリズムのためにほんとに殺されてしまったそうだ。けれど、けれど、とまだ半ば夢から醒めやらぬ回転ののろい頭の中でせわしく考える。その血管を、頭脳を、口を、そのおそろしい手を僕は解剖できるだろうか……僕の謙虚で厳正なメスと、あの見えざる巨大な肉体といかなる関係があるだろうか。
そう思うと白昼死体置場にお化けが出てきたようで、冷水でもあびせられたようにぞっとなった。こりゃ、もう一度死体の顔でも見てこなきゃ生きた心地がしない。僕はこうして勇気を振い起し、今日の御注文は何でございましょうと、恐る恐る、見えざるジャーナリズム大王の使者である記者氏の待つ電話口へ、まかりでるのである。
こう申してはなんだが、一般に申して、僕はどうも生きた人間と接するのが苦手である。何も、相手を軽蔑するとかいうことではなくて、ただ恐ろしいのである。僕は、時に解剖学的には、いやになるほど似ていてほとんど何の変りもない肉体に宿っている、亡霊の種類が、余りにも多様なので、どう先様を取り扱ってよいのやら、全くわからなくなることがある。
わからないから黙っていると、上の方についているラウドスピーカーから、魂ががんがんがなりたてる。その下の方では、未来の死体君がすっかり恐縮してかしこまっている。「君の借家人は随分威勢がいいんだね。」僕の方では雨あられと降ってくる言葉の砲弾の下をくぐり抜けて、この死体君にこう話しかけている。「ええ」と彼氏は、すっかりしょげた様子で答える。
「僕、この人のために、随分誤解されているんですよ。でもゆるしてやって下さいよ。天国の公庫抽選住宅で当ったんだから入れてやれと、わざわざ神様が頼みに来たんで、つい断り切れなかったんです。神様少し寛大すぎますよ。」「ふんふん」僕は神様の話が出てくると、急に話をそらしてしまう。というのは、僕自身最初はえらい貧弱な住いを割り当てられたようで、内心不満だったが、今では随分長く住めたものだと、その基礎工事の良さに感謝していたところだからである。
これも、たくましい青年の家主君からの苦情なのだが、近ごろ、ボディービルとやら称して、やたらに借家を磨きたてることが流行し、友達、特に女の子なんかを引っ張ってきて自慢にするそうである。女の子は昔から家が好きだから顔が映るような縁側を見るなり、「まあすてきね!」という。「けれどね」と家主は述懐する。「たしかに見場が好くなって有難いことは有難いんですが、こう立て続けに、それもバーベルとかいわれる
どうも、あとは野となれ山となれで、借家住いをする店子達にもこまったものだが、たまにいい店子がいても、まことに不幸な事情で住めなくなって、家主と店子が泣きの涙で別れねばならぬこともあるらしい。今から十五年前ほどの話であるが、人間世界で大きな争いが勃発して、全国的な住宅供出運動とやらが繰り拡げられたそうである。この話は、つい先日も僕の死体諸君の間で話題に上った。
「何しろ私ども一軒の家が
「こういうことは、今のところないらしいので、一安心しているのですが、でも借家人のうちには、それは家主を家主とも思わぬひどい奴がいるものなのですよ。あんな野郎に家を貸したが最後、こちらは悲惨なものですよ」と、いったん途切れた話の穂をついだのが、この部屋随一の物知りで知られている死体である。彼の店子はある大学の法医学教室で研究もしたこともあるという医学博士である。
「それは法医学教室やなんかにいる僕等の仲間なんです。先生のお部屋には幸い来ておりませんがね」とじろりとあたりを見廻しながら、ぼそりぼそりと例の死体君独得のゆっくりした調子で話しはじめたのが以下の物語なのである。
「実際仲間にもずいぶんひどいことをされたのがいますよ。頸を切って死にきれず、毒をのんで死にきれず、また頸をしめ直して、自分の手を後で縛って川に身投げしたという手のこんだのがいます。またもう一人は、店子がこれは乱暴者でしたが、喧嘩の相手を殺して腹に切出しを突っこんだが、刃が短いから深くはいりませんや。気丈な奴で、それを引き抜いて垣根の青竹をもって来て、その先をけずったんです。とがったのを、前の傷口に突っこんで、体当りに壁にぶつかったら、竹槍の穂が背中にぬけて往生しました。店子さんの精神力には驚くが、家主はたまりませんよ。」
ひといきつき、アルコールに唇をしめしてから彼はつづけた。
「それからこんな話があります。心中となると二人ともひどく興奮するので、思い切ったことをしますね。相手と向い合った女の着物を切り、両方の袂とその間のところを長くしておいて、この両袖を二人でスッポリかぶったんです。二人の間にステッキを半分に折った棒を入れ、二人がかりで力いっぱいぐるぐる廻して、とうとういっしょに息が切れたというわけです。当人たちは同じ蓮のうてなでうれしいでしょうが、大黒柱の頸動脈をしめつけられた大家の苦しみも察してもらいたいです。ときにあんたはすてきな経験をしたようにきいたが、どうだね」と隣のおばあさんの死体を顧みた。
「それはあたしじゃありませんよ。店子といっしょに浜で暮した時のお隣の話でさあ。新婚の御夫婦でしたが、旦那さんは、いいとこの息子さんでつとめ人、お嫁さんもきれいな人でしたが、世帯を持って三日目の朝いつまでも起きません。新婚だからみんな遠慮してたんですが、その前の晩何か口争いをしているのをあたしがきいたんです。あらいやだ、のぞいたりなんかしたんじゃありません。お昼過ぎになってあまり心配なので、近所の若い衆二、三人といっしょに雨戸をたたき破ってはいったんです。驚きました。うちの中は血の海。警察の旦那に来て頂いて調べてもらいました。旦那さんはやすんだままのおふとんの上で、うつぶせに倒れていたので、起して見ると、両足の間の大切な所が根元から剃刀でそっくり切られていて、その辺に、柄のついたふぐ提灯のようなものが血にそまって落ちていたそうです。奥さんは、その剃刀をしっかり握って、胸や腹を四、五ヶ所も掻き切っていたのは、むごたらしくてあたしには見ることができません。よく調べると鏡台の上に書置がありました。紫インキで書簡箋に八枚、あたしにはわかりませんが、大そうな名文だとか皆さんおっしゃいました。ええと初めは『みどり色濃き松が枝の』という句だそうです。わきにおにぎりと焼ざかなのお弁当ができておりました。奥さんの以前に親しくしていらっしゃった方のお名前が松枝さんとか、引きわけられて見知らぬ男に添わされたのに逆上なさったのです。前の人にすまないと
こうして世にも恐ろしい家屋破壊主義者達の話が終ると、それまで時々「ほうほう」と相の手を入れて聴いていた、一同の死体はしゅんとなった。僕もしゅんとなった。こういう悲惨な話の後では、いかに陽気でおしゃべり好きな死体達とはいえ、胸元が何かで一杯になってしまって、物が言えなくなってしまうのである。
どこかで、我がことのように身につまされてしくしくとすすり泣きをしている声さえきこえてくる。最後まで、ていねいに感謝されて使ってもらったといっては、未だに店子を娘のように思って自慢のたえない養老院から来たお婆さんの声らしい。そのやさしい消え入るような声に感染して、部屋のあちこちでも嗚咽がはじまる。
解剖室の窓からは斜陽がいっぱいさし込んで、一日のうちで一番荘重な夕暮の一刻を、この今では誰からも忘れられた亡者達の小部屋に、次第に送り始める。そして、そのすすり泣きの合奏も、そのいよいよ輝きを増す金色の光に調和するように高まり、遂にその極に達したかの感がある。
その時、「先生」という声がした。僕は思わずその声を振り返った。見れば、最近自動車事故のために家を引き払ったという男の死体で、その青年はしばらく生きていた時遺言で彼をけなげにも僕の教室に送りこんだのだった。後々の世話まで見てやったわけだ。その幸福な死体が言う。「先生、どうにかならないでしょうか。今は民主主義の世の中です。だから僕達だって発言権はあるはずです。何とかして僕等の意見を世の中に伝える方法はないでしょうか。」「そうです」「そうです」と今までおのおの、いろいろな思いにふけっていた死体達が、すすり泣きをやめて一斉に叫び始めた。「でもそんなことできるの。わたしたち死体なのよ」とおそるおそる不断から弱気な女の死体がつぶやくように言った。
「もちろん、可能さ。闘争方針一つさ」と強硬に主張したのは、ある政党の党員に長いこと家を貸していた家主だった。彼は耳学問ですっかり、その借家人の威勢のいい調子を覚えてしまっていた。「それには先生に死体地区から立候補してもらうことだ。なんなら僕が応援演説をしてもいい。全国の大学医学部や医科大学の死体が団結すれば、借家人どもの陰謀を粉砕するのはわけはない。闘争資金としては各自のフォルマリンやアルコールを少しずつカンパすること。今後浮き上ってお互いの顔を見ることをやめれば腐敗は充分防げる。」「ヒアヒア」としばらくは拍手喝采鳴りも止まなかったが、今度は一斉に僕の顔を見つめはじめた。皆はいわばこの部屋の長である僕の意見を知りたいのである。
「君達の意見はよくわかりました。私としてもそれは賛成です。けれども、不幸にして、人間社会のことに全くうとい私が、諸君のおかげで当選したとしても、国会で百戦錬磨の猛者連と張り合っていく自信はない。また人間の法律でそんなことが許されているのかということも疑問です。ですからこの方法は、せっかく諸君の御推選の栄にあずかりながら断念せねばなりますまい。でも残された道があります。それは幸い、目下のところ私はある雑誌から寄稿をたのまれているのです。その雑誌の名は文藝春秋です。」
「文藝春秋」と皆が叫んだ。「おれの店子は専門の雑誌は何も読まないくせしてあれだけは読んでたな」となまけ大学生の家主。「僕の店子もだ」「わたしのも」。等しく文春ファンだという意外な事実が明らかにされた後に来た、ちょっとした動揺がひとまず静まるところを待って僕は続けた。「その雑誌を通して全国の店子達に諸君の希望を告げようと思う。そうすればきっと理解してくれて今後気をつけて住んでくれる人が多くなると思います。ついては、それにのせる諸君の声明書の原案を諸君の間で練ってもらいたいものです。」「賛成」と皆が叫んだ。「では、今からわれわれは声明書原案作製の件に関しての集会をもちます。」こうして額を集めて相談し始めたところで、もう僕は用がないと思って、解剖室の扉を押して既に夕闇濃い廊下に出た。
そこで僕はこうした事情の下に愛すべき死体達によって作製された声明書を皆様にお伝えする義務がある。そもそも今回の原稿をお引き受けした理由が、すべてこの神聖なる義務の遂行にあったからである。
声明書
私達幸福な死体は今大学の解剖学教室で大切に扱われています。私たちの借家人であった人間さんにお願いします。あなた方にとってこの世の住宅であるわたしどもをもっと大切にして下さい。全国死体連盟 ××大学死体置場 一同
(昭和三十四年三月)