三高時代の思ひ出といつたものは実に際限のないものであつて、どれをとつてみようにもとる標準が見当らぬ始末である。心に触れた友達、先生、先輩等……その一人を語るにしても大したことである。況やそれらの人達と結びついた出来事をも語るに於てをや。
僕の三高時代(大正十年から十四年迄)は欧洲大戦の後の景気が徐々に退散し始めた頃であつて、僕達青年の心の底にも稍

三高時代の三高の思ひ出はむしろとりとめないが、東京に出てからの三高は、今でも生々と僕の中に残つてゐる。残つてゐるといふ位ではない。生きてゐる。それは成長し、僕の死の日迄大きくなつて行くだらう。それは僕が東京で三高卒業生ばかりで出してゐた同人雑誌「青空」の同人になつたからである。梶井基次郎がゐた。中谷孝雄、外村繁、忽那吉之助、小林馨がゐた。同期の浅沼喜實、北神正がゐた。詩人の三好達治、北川冬彦、飯島正がゐた。たしか、本誌の百号記念号に梶井が書いてゐたやうに、皆な生真面目な連中であつて、大いに勉強した。嘗ての怠け者共は真剣に人生を考へ、忠実に生活したのだ。春の日のほのぼのたる氛囲気に包まれてゐたものは、辛辣な冬の日に酷しくさらし出された。誰れも彼も当然のことゝして、この営みを自身に課したのだつた。僕たちは世間的な一切のものを顧ずに自分と仲間を磨くことをのみ追求した。同人雑誌を出してゐて文壇の人達に贈らぬといつたことを平然とやつてゐた。人の思惑など度外視して、僕達は生真面目な恋愛に苦しみ、動じがたい世間に向つて大それた闘争を挑んだ。梶井や中谷の書くところに、僕達の東京の日の三高は美事に現はれてゐる。特に梶井に於て然り。――東京に於て僕達のした青春の定著は総て、嘗ての三高の日々の実現であつたと云へる。
僕はこの東京に於ける三高を思ふ。その三高に激励を惜しまなかつた故外山楢夫先生を懐ふ、山本修二先生を思ひ出す。
東京に於ける三高は三年で終るものではなかつた。それは大正十四年から、僕が東京を去つた今も尚ほ続いてゐる。そしてそれは今後尚ほ幾十年も続くことだらう。十年の生活は生涯である。十年の友達は生涯の友である。僕は今この三高から既に遠ざかつてはゐるが、その思ひ出は商人の僕の中にも儼存してゐる。そして怠けがちな僕の心を鞭つのである。僕はこの酷しくして而も温い風土に限りなき愛情と思慕を持つ。
僕は三高文芸部の人達が三高を巣立つて、この東京の三高に於て、自分達の青春を生かし切ることを切望する。それは自分達を生かすのみならず実に遥かな高き三高を継承することである。これは単に文学に志す人達にのみ限つたことではない。先輩は如何なる処に於ても、若き日の三高を生かし、そこに輝かしき営みを実現してゐるのである。この営みを嗣ぎ、発展させることが若き三高生の仕事である。そのためには何よりも先づ僕は青春を生きることだと思ふ。(昭和十四年十月)
(『嶽水會雜誌』[#「『嶽水會雜誌』」は底本では「『嶽水曾雑誌』」]昭和十四年十一月)