横光さんと梶井君

淀野隆三




 かれこれ二十年前のことである。私たち「青空」の仲間――梶井基次郎や中谷孝雄、三好達治や外村繁等の間で、横光さんに傾倒してゐたのは、北川冬彦ただ一人であつて、彼は横光さんのものを私たちに勧める役を引き受けてゐた。かなり頑固な文学青年であつた私たちには、例へば梶井君には志賀さん、中谷君には佐藤さん、三好君には萩原さん、外村君には瀧井さんといつた工合に、それぞれ私淑する詩人や作家があつて、北川君の勧めにも拘らず、なかなかおいそれとは傾倒するに至らなかつた。そんな中でも北川君は屈することなく、横光さん支持を止めなかつたばかりか、段々に私たちに横光さんを近づけるやうになつた。
 極めてぼつぼつと、横光さんのことが話題に上るやうになつたが、それでも感心しない作品や批評、感想の類があると、私たちは口を揃へて北川君に喰つて掛り、彼の責任を追求するといつた有様で、北川君はそんな時には必らず、一度横光さんに会つてくれれやいいんだが、といふやうなことを洩した。しかし誰も進んで会はうとはしなかつた。もちろん作品は殆ど皆なが読んでゐた、最も情熱的な、厳格な態度で。
 ところで、確か「詩・現實」といふ季刊誌を出した昭和五年だつたと思ふ。この雑誌は北川君と私とが主として編輯してゐたので、創刊号に横光さんのものを貰ふことになつた。その時私は北川君に連れられて横光さんを訪ねた。仲間では、これが最初の訪問であつたらう。世田ヶ谷のお宅であつた。何を話したか全然覚えてはゐないが、私たち仲間の一種の冷淡さにも拘らず、横光さんが私たちの仲間に相当の関心を持つてゐられることを知つた。しかも、そのやうな私的なことよりも、私は横光さんのお人柄の茫洋たるところ、何の粉飾もない生地のままなる人間らしさといつたものをしかと感じとつた。まことに北川君の言ふとほりであつて、「現実界隈」などといふやうな感想の実はうらはらな人間であることを知つた。生地のままの人ほど、あんなことが書きたくなるのか。何のことはない、人のよい人間の逆説、そんな風に考へた。そしてこの人に対する接触が度重れば、その人間的な魅力、――女性に対しては恐らくは無縁の、男にのみ(真に!)感じられる魅力に把へられることは必定だといふ気がした。北川君の傾倒がよく分つたわけである。
「詩・現實」の創刊号には横光さんの散文詩「油」(?)が載つた。梶井君の傑作「愛撫」も同じく載つた。梶井全集「下巻」を見ると、その年の五月十六日、北川冬彦君宛の手紙で、「油」のことを次のやうに書いてゐる。
「今度の横光氏のものを面白く読んだ 三分の二位のところで魚雷の行方がわからなくなつたが、はじめの出かけ最後の油のところなどとてもすばらしく思つた」
 同じ年の九月廿七日には、同じく北川君に宛てて、
「僕は『人間勉強』をやつてゐる人にもう一人横光氏を挙げることが出来る。上海のシリーズから機械などに至るまでがその成果だ、しかし岸田國士氏がオーソドックスなら横光利一氏がヘテロドックスのちがひがある。」と書いてゐる。尚ほ外に横光さんを論じた書簡はあるが、要するに、梶井君はよく注意して読んでゐたわけである。
 その年の十二月に兵庫県川辺郡稲野村に梶井君を見舞ひ、二人は温い日当りをよつて散歩に出たのだが、梶井君はこの辺りが「稲野笹原風吹けば……の稲野だよ」などと説明した後で、色々文学や文壇の話をしあつたのだつたが、その時、突然、しかし悠々たる態度で、
「東京の横光はどうや?」と、謎のやうな質問を発した。私は突差のことなので、暫く黙つてゐてから、
「評判はいいが……」と答へ、ともすると後れる梶井君を待つて、二人が肩を並べた時に続けて云つた。
「やつぱり立派な人間だよ。あれなら次の菊池寛だな」
 さう云つて、私は左にゐる梶井君を見て、立ちどまつたが、梶井君も立ちどまつて、
「フゥム」とだけ云つて、梶井君は大きくうなづき、二人はまた歩き出した。小さい池があつて、小波が立つてゐたと覚える。しんとした風景だつた。
 ふと私は、兵庫のこの辺境にあつて、東京の横光さんに対抗してゐる梶井君を感じた。よい意味の野心を梶井君に感じたが、心の底には何だか物悲しいものがあつた。梶井君の「フゥム」といふ腹の底から出るやうな歎声の、如何なる心的状態エタ・ダームを表現するかを知つてゐた私には、かく想像しかく感じて誤りはなかつた。確かに梶井君は横光さんに張り合つてゐた。私は荒涼たる野づらを歩きながら、傍らの友人が横光さんと拮抗し、なほこれを凌駕しようとしてゐるその気魄に打たれたのである。――これは梶井君三十歳の時、何も知らぬ横光さんは三十三歳の時であつた。
 それから一年余り後、昭和七年の三月、梶井君は横光さんに十五年も先き立つて他界したが、私はこの二人を一度でも会はせたかつたと思ふ。この二人が生きてゐて現在相共に東京で活躍してゐたならと私は時々本気で考へる。川端康成氏を真中にしてどんなに面白い精神的風景が展開されてゐるかを考へる。今もし二人が生きてゐるとするなら、横光さんは五十二歳、梶井君は四十九歳で、別に不思議でも何んでもない。
 昭和九年に私が梶井全集を編纂刊行した時、横光氏はその宣伝パンフレットに、
「梶井君の文学は日本文学と西洋文学との間に架せられた一つの橋である。」
 といふ含蓄ある言葉を贈られた。また一昨年決定版全集を上梓した時、横光さんは、病中のこととて、家人に口授して、先きの文章を訂正して贈られた。その訂正個処は、
「…………一つの堅固なる橋である。」といふのである。ありがたく、ゆかしいことであつた。
 これより先き、昭和六年十二月廿八日、梶井君の北川冬彦宛の手紙には、
「僕はまた恐らくは田中君(西二郎、中央公論編輯者)に好意的な暗示をしてくれられたにちがひない横光氏や川端氏にも蔭ながら感謝してゐる、そんな人の好意なしでは僕のやうに病人のしかもこんな遠い所にゐるものが中央に乗り出すといふことは甚だ心細いことにちがひない」と「のんきな患者」推薦に対する感謝を述べてゐる。――横光さんの人柄は私たち仲間の態度とは別個に、私たちの中心人物にまで滲透して来てゐたのである。
 過日私は十七、八年ぶりに偶然、立派に成仁された横光さんの令息象三さんに遇ひ、実に懐旧の情堪へがたいものがあつた。それで、大輪さんに乞はれるまま、以上蕪雑なる一文を敢へて草したわけである。
 尚ほ前掲の梶井全集推薦の辞にも拘らず、横光さんの生前にこれを完結し得なかつたことを、そのよき霊と嗣子象三さんに対して衷心お詫びする次第である。(鎌倉にて、十二月廿七日)
(『横光利一全集』第二十三巻月報、昭和二十五年九月)





底本:「梶井基次郎全集 別卷」筑摩書房
   2000(平成12)年9月25日初版第1刷発行
底本の親本:「横光利一全集 第二十三巻月報」改造社
   1950(昭和25)年9月
初出:「横光利一全集 第二十三巻月報」改造社
   1950(昭和25)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大久保ゆう
校正:フクポー
2019年2月22日作成
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