『辭林』緒言

金澤庄三郎




あつめおく辭の林ちりもせでちとせかはらじ和歌のうら松   (續千載和歌集)

國語は思想の代表者にして、辭書は國語の寶庫たり。故に其内容は直ちに以て其社會の發達を卜し、其文華の程度を窺ふ料とすべし。我言靈の幸ふ國、我言靈の助くる國、古くより辭書に乏しからず。上は和名類聚鈔・新撰字鏡の類より、下は東雅・和訓栞・雅言集覽・俚言集覽等に至るまで、皆其時代に應じて撰述せられ、後の見るものをして略遺憾なからしむ。世々の學者亦勉めたりといふべし。明治の昭代、文物燦然として學術の隆興實に前代未聞なるに際し、國語學界の事業獨り之に伴はざる憾あり。辭書の如きも、未だ多く徳川時代の著作の羈絆を脱せず、中古以往の語にのみ詳にして、現代の活きたる言語に粗なり。これ社會全般の夙に認むるところにして、實に我學界のために惜まざるを得ず。明治式辭書の編纂は著者年來の希望にして、菲才を顧ず積年其材料の蒐集に從事し、今や漸く「辭林」の名を以てこれを公表するに至れり。然れども、由來、辭書編纂の業容易ならず、更に改訂を加ふべきところ亦多々あらん、著者は專心一意、身を此事業に捧げ、版を重ぬる毎に改刪増補を怠らざるべし。博雅の君子、若しこの意を諒とせば、幸に指教の勞を吝む勿れ。これ獨り著者の幸のみにあらざるなり。
明治四十年四月、歐米漫遊の途に就かんとする前三日
東都本郷西片町の寓居に於て
金澤庄三郎





底本:「辭林 四十四年版」三省堂書店
   1911(明治44)年4月8日発行
※底本では柱に記載されていた表題「緒言」に辞書名を補い、作品名を「『辭林』緒言」としました。
入力:大久保ゆう
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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