和紙

東野邊薫





 昨夜寝床に入ってからも、あれこれと思いめぐらしてみたのだが、別にこれという嘘言きょげんも浮かんでは来なかった。新聞の広告で見た新刊書がどうしても買いたくなったからと、半日をつぶすにしてはいかにも気の利かない口実とは承知でも、ともかくそんなことで町へ出ることにした。まだ細紐だけで炉の火を焚きにかかった母に、起きがけの一服をつけながら友太はさりげなく言い出した。
「……何せ、早く買わねどすぐ売り切れてしまうで……。」
「んだどもや。この頃は何でもそうだ。」
 何も知らない母は気の毒だったし、自分としても、この上もない気苦労をさせられることを考えると、弟の惣吉が今更いまいましいものに思われてくるのであった。
 昨日突然、としゑからの手紙を受けとると、早晩何か面倒を持ちかけられそうな不安が絶えず心を掠めていただけに、友太の心はもう重苦しく沈んでしまった。是非相談をしたいことがあるから、この前の旅館まで来てほしい、こちらからは二時までに間違いなく行っている。村までお訪ね出来ない身の上をお察しいただきたいと、そういう意味が割合しっかりした文章で書いてある。封筒の名はとしゑをもじったつもりであろう、つとめて男めかした筆跡で、山田敏英としてあった。はじめての人だが誰だろうといぶかる妹のよしには、専売局の友達が惣吉の行先を訊いてきたのだと、それでも咄嗟とっさに誤魔化すことが出来た。相談というものの見当も皆目つかないが、何かあったら遠慮なく言ってくれと、あの時はっきり言い切っている手前もあり、会わないわけにはゆかなかった。先方には、なるほど日曜という休日には相違ない。しかし、こちらの村の仕事では平日に変りはなく、しかも今最繁忙期である大切な半日をつぶすことが、どんなものであるかを一向に考えていないことにも、最初は腹立たしくさせられた。が、落ちついてみれば、これは、女工である女にそこまで気の配れるはずはなかった。
 もともと弟の惣吉が、両親にはひた隠しに隠しながら、友太にだけこの女のことを打ち明けて、あとの一切を委せてったということは、異母兄である友太に寄せる全幅の信頼を示してはいた。たとえば惣吉の肚の奥には、出征中女の身の上に何かいざこざが起って表面化されねばならない場合、父と母とがそれぞれの立場から抱いているに違いない友太に対する複雑な心理の陰影を、言わば一つの緩衝地帯に利用して、自分に向けられるものを少しでも緩和しようという、多少狭い虫のよさがあったとしても、それくらいのことは許せないものでもなかった。友太の方がひがまないで、惣吉がひねくれるのはまるで反対だと、親戚のものがそんな噂をし合ったのは惣吉がまだ十二三の頃であった。
「あんちゃ(兄さん)のおっかァ(お母さん)はおとっさ(お父さん)と兄ちゃを置いて逃げたんだってや? そうだ兄ちゃに俺家の財産みんな譲んのかや、なお母ァ。」
 とこんな生意気な憎まれ口を利いたのも、近所の意地悪い中年女にたきつけられてのことであって、やがて高等科を終えて郡山の専売局に勤めた惣吉は、その頃から、友太の生母のことなどは※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも出さなくなった。
 惣吉に召集令の下ったのは、去年の夏、暑いさかりであった。公用すぐ帰れの電報を打った夕方、八軒町の大谷屋旅館から友太に手紙をよこして、至急来てくれというのである。一里半ばかりの八軒町まで来ていながら、まっすぐ家まで来ないのはどうしたことだと、騒ぎ立てる母をどうやら言いなだめて、友太が大谷屋へ行ってみると、奥の部屋に女と坐っていた惣吉が、てれくさそうに頭をかいた。
 友太と惣吉に安達駅まで送られて、その夜女は郡山へ帰って行った。いかにも貧しげで、髪が少し縮れていたが、咲きそこねた何かの花を思わせる美しさがあった。汽車が動き出すと、一生懸命の怖い眼で惣吉を見つめた姿を、今でもありありと友太は思いうかべることが出来た。その時も、我れにもない感傷がこみ上げてきて、それは友太自身が帰還兵の一人であることにもよるのだが、茫然と立ちつくす弟の肩を叩いて、つい言わずにはいられなかった。
「いいでや、俺がみんな引き受けた。」
 ん、頼むでと、惣吉も眼を伏せた。
「出征前にこんなことがあったとなると外聞が悪いで、どうか俺が帰ってくるまで誰にも黙っててくんろや。」
 もし自分が戦死したら、女の気持をよく訊いたうえで、どうともいいように納めてくれというのにも、いいとも、みんなわかっていると、友太は深くうなずいた。
 専売局の友達が送ってきてくれたので、友太にも来てもらって大谷屋で祝杯を上げなおしたと、家の前は言いつくろってそれなりにすみはしたが、友太にすれば、その時から人の知らない重荷を背負い込んだことになった。両親にだけでも打ち明けてしまえたらと絶えず思うのだったが、それでは弟の心持を無下むげに踏みにじることにも考えられたし、またへたに早まって、あとで恨まれる結果になるのもいやだった。結局は胸一つに納めて置くよりほかはなかったのが、とうとう昨日の手紙になったのである。
「……んなら兄ちゃ、ついでに加藤鍛冶屋に寄って貰うべかや。お父さが注文してた餅わたし、はァ出来た頃だと思うでな。」
「いいとも、寄ってくるべ。」
 煙にいぶされた眼をしばたたく母から、心苦しく戸まどった視線をそらした友太は、少しあわてたふうに手拭をとると外へ出た。
 蒼くこごえた空に刺すばかりの星で、庭のくぼみに張った氷が草履の下に鋭くくだけた。井戸は庭から道路へ降りる坂の中途にある。足高の洗面桶に汲み上げた水からは、まだ明けるに間のある闇にすかすと、ほのぼのと白いものが立ちのぼった。
 ちょうどこの頃、ユミの家の井戸からも、追いかけるように釣瓶つるべの音が聞えてくる。毎朝のことながらつい競争の意識にかられて、一気に坂を駈け上って漉屋すきやに入るが、電燈をひねって零下七度の寒暖計を覗くと、今更襲いかかる凍気に思わず身ぶるいが出るのだった。二肩の水を漉槽すきぶねに汲み入れるにも、我れ知らず掛声がかかってくるのである。やがて前の障子がほの白くなる頃は、もう二槽目に入っているが、気温は日の出をひかえて一時更に下ってくる。時折交ぜ入れるネリの袋を絞ると、殆んど感覚のなくなっている両の手に、濃いその粘液が、執拗にぬらぬらといつまでもまつわりつくのであった。朝の日が窓をはすに射してきて、はじめてほっと救われた気持になるのである。
 こうぞを、小鉢と呼ばれる椀に一杯盛り上げた量が一槽分で、三十枚乃至ないし三十五枚の紙になった。十五の年から父と交替できはじめた友太は、今では、若手のうちでも熟練者として数えられていた。一日、朝の五時から夜の七時頃までかかって、十五槽、四百五十枚から五百二三十枚が普通であるのを、友太は、十七槽から、あぶらが乗れば十九槽に及ぶことさえあった。父がよく自慢する九百五十枚という桁はずれの記録は、実は十一時までの夜業をしての話であった。
 漉槽は七尺に四尺で、深さが一尺二寸ある。漉屋の窓際に据えた槽の真上に、ばね竹が高く突き出て、漉簀すきすをはめた簀框すげたを吊っている。これをしならせて簀框が槽にひたった瞬間、腰、肩、手首が微妙に働いて、どろどろの漉き汁を三四遍揺すったと思うと、にはもう、一枚の紙となるべき繊維が毫末の厚薄もなくすくわれている。簀框を前後に傾けて余分の汁を流してから、簀框の底についたかぎで、槽に渡した二本の台木をかき寄せながら乗せる時には、繊維を残した水の大部分は濾出している、けたの上枠をはねのけ、簀をはずして両手で持つと、くるりとうしろを向いてそこの台に簀を剥ぎとって重ねて行く。謂わゆる「流し漉き」と呼ばれる方法だった。紙の種類によって、簀と従って簀框の大きさは多少違った。やがて乾上ってから、障子紙なら二枚に、半紙だったら四枚にと截断されるのである。
「兄ちゃ、ひるまんま(昼食)だよォ。」
 漉屋の外から妹のせんに呼ばれたのをしおに、友太は仕事を切り上げた。それでも九槽は漉き上げていた。あとの分を取りかえすには、どうしても三晩の夜業になるだろう。ばね竹の紐から簀框を外して、あかぎれだらけの手を揉んでいると、今漉き重ねたばかりの紙から、しきりにしたたり落ちる滴の音が、はじめて耳に入ってくるのであった。これも習慣になっている、友太は小屋を出がけに、奥の圧搾器の捻子ねじを一締めした。
 自分の恥しい隠しごとではないので、何もびくびくするには及ばないとは思いながら、やはり胸がつかえた気持で昼飯もいつものようには食えずに友太は家を出た。ちょっとしたことにぶつかると、我れながら情けなく動揺するのであった。出征中は、それは自分だけの自惚うぬぼれではなく、小隊長からもたしかに賞められたので、隊の誰にもひけをとらないだけに大胆で勇敢であったのが、帰還した途端に、またもとの意気地なさにかえっているのが自分でも歯がゆかった。
 二日ほどいい天気が続いて、一時二尺近く積った雪も大分痩せてはいたが、それだけにひどい泥濘だった。道路までの二町あまりの狭い坂路にだけは、踏み石が敷いてあるのでまだよかった。一歩下の道路に入ると、ゴム長は忽ち泥だらけになってしまった。幾度かの道普請で、主要道路だけはもとのようではなくなっていたが、部落へのわき道に入ったが最後、全くお話にならなかった。川崎道と呼ばれて、悪路では近村中でも聞えていた。それは泥濘のためばかりではなく、曲りくねった坂につぐ坂の道が続くのである。もっともこれは、八百七十三町歩という村の総面積に、三百三十八町歩の畑と、山林が三百六十八町歩という数字から見ても、およそ村の地勢は察しられた。山林と畑との相半ばした大小の丘陵が、重なるばかりに起伏して、その間の狭い低地に散在する水田は、僅かに百六十五町歩に過ぎなかった。そして村の家々はと言えば、これはみな、道路から高く段々のついた坂路を登っての、見上げるばかりの場所にあった。村の地勢もあるにはあったが、それよりもやはり紙漉きという特殊の副業が、当然家々をそうした高所に追い上げてしまったのである。つまり、五百三十余戸のうち約七割にあたる家が紙を漉くので、東北本線がほぼ福島県の半ばほどに入っての一小駅安達から、東南およそ一里の位置にあるこの上川崎村は、まことに紙の村と言ってもよかった。これをしないのはわずか数人を出ない資産家か、反対に日傭取ひようとりや馬車ひきなどに限られている。十軒前後の一部落で、少しばかりの水田を持つものが辛うじて二人ぐらい、畑地の所有者が四人を出ず、あとは純然たる小作の人達であったが、そのいずれにしても、生計は副業の製紙によるのであった――。
 昔風の、大谷屋のだだッ広い土間に立った時には、マントの頭巾を冠った上に、襟巻をぐるぐる巻いた友太のからだはすっかり汗ばんでいた。眩しく雪に射られてきた眼に、土蔵づくりの奥の間はことさらに暗かった。
「お忙しいのにすみませんでした。」
 閾際しきいぎわまで立ってきた女の様子に、友太は思わずぎくりとした。それは、男の友太にも一目でわかる女のからだであった。あわてて眼をそらしながらぎごちなく坐り込んだが、この時の覚悟は出来ていたらしい女の、悪びれない挨拶を受けているうちに、友太の心も次第に落ちつきをとり戻してくるのであった。いざとなると自分ではくそ度胸とひそかに呼んでいるものが、妙に肚に据ってくるのであって、この時も、少し大袈裟に言うならば、たしかにいざという場合にのっぴきならず当面したことになったのである。こうなれば、弟の思惑などを考慮する必要もなかったし、両親がどんな文句を並べてみても、つまりは納まるところに納まるほかはないわけだった。
「何ぼか今までひとりで心配してたべが、決してはァ悪いようにはしねえで。」
 来るみちみちも、今の今まで、弟の女の呼び出しを不安にも迷惑にも思い、一度会っただけの相手と、一体どんな風に応対したらいいものかと、そんなことをさえ気に病んで来たとは、まるで別人の平静さで友太は切り出すことが出来た。
「すみません、兄さんには御迷惑ばかりかけまして……。」
 としゑは羽織の襟をかき合わせるようにした。須賀川町にいる両親にも無論知れてしまった。相手が出征兵なので事を荒立てないではいるが、生れる前にはちゃんとした話をきめて置けと、厳しく申し渡された。先月で専売局の勤めも止して、工場の寄宿舎を出た弟と一緒に間借をした。少しは貯金もあるし、決して生活費をどうこういうつもりはないので、ただ、このままでは父の知れない子を産むことになるからと、これはいかにも言いくそうにした。戦地の惣吉にはうに知らせてやったとか、それは惣吉も認めてくれるはずで、自分は神に誓って惣吉ひとりをまもっているとか、そんな意味をくどくどと繰り返すのであった。少しも知らずにいたので今まで放っていた、ほんとうに苦労をさせてすまなかったと友太が詫びると、としゑははじめて袂を顔に当てた。
「いいえ、わたし達が悪いんです。……御迷惑なのはわかってますけど、兄さんに御相談するきりなかったんです。」
 全く他人であった女から、兄さんにとそう言われて、何かびくッとした新鮮な感情に胸をつかれた友太は、何ということもなく床の間のあたりに目をやりながら、その兄さんという言葉を心の中で反芻した。


 またはじまった、止めろってばやと、母が時々こえをかけないと、ちょうどいい相手のせんと惣三の口喧嘩には果てしがない。そんなときの二人の仕事は、機械的に手は動かしているものの、とかくまばらに粗皮あらかわが残り勝ちで、あとで楮さらしをするよしに、もう一度小言を言われることになった。
 木から剥いだままの楮の皮を黒楮と言っている。半日ほど水に浸してから引き上げて、きれいに水の切れたところで、その黒い外皮をるのが「粗皮とり」だった。彼等があてと呼んでいる藁を固く束ねた台にのせて、一本一本鉋丁ほうちょうでしごき除るので紙漉きの工程から言えば、これが最初の作業であった。楮の不足で、三四年前からは桑皮が大分かてに使われるようになっていた。しごき除った粗皮も、そのまま捨てられるわけではなく、それはそれで筋紙(包み紙)などの材料になるのであった。
 丸々と着ぶくれた全家族が炉を囲んで、身の囲りを剥ぎった粗皮に埋めながらの夜業である。村の子供達は、国民学校に入る頃からこの夜業をさせられた。約六百匁の黒楮の束を、大人だったら一晩に四五把は仕上げるし、一年生の子供でも、どうやら一把ぐらいはやってのけた。が、燭光の弱い電燈をつけているうえに、焚火は始終煙りがちなので、子供達はいつとはなしに、大てい眼を痛めてしまうのだった。国民学校の生徒で、トラホームに罹っているものが、附近の村々の約五倍にも達していると、八軒町から来る校医がいつも衛生講話でくり返した。感心なことに高等科に入ってからの惣三は、夜業を終えて寝る前に、必ず眼を洗うことを忘れなかった。おしゃれの惣三といつもせんに冷かされながらも、トラホーム患者はどこの工場でも嫌がるときいてからの、これは惣三にとって一生懸命の用心だった。
 毎晩の請負になっている四把の仕事を仕上げて、よしとせんが奥の寝部屋に入ってからも、いつまでも硼酸水の土瓶に顔をくッつけている惣三を、この夜の友太は、いらいらする気持で、おい、早く寝ろやと促した。
 寝間がひっそりとなるのを待ちながら、辛うじて針が見えるまで黒く煤けた時計を仰ぐと、十時半を過ぎている。一時間以上は進んでいたから、正午では九時半とちょっとであろう。村の風習で、どこの家でも、正確な時刻より一時間か甚だしくは二時間近くも進ませて置かないと承知しない。正確な時刻を正午と称して、ラジオのある家でもそれはそれなりの時刻として、時間的二重生活に一向平気であった。正午というのがちょうど十二時を指すのではなく、正確な時刻という意味に使われているのも、思えばおかしなことであった。
「お母さ、味噌湯つくって貰うべかな。……お父さもどうだべ? 大ていきまったんでねえかなん?」
 土間の奥にしつらえたかまどの前にうずくまったまま、黙りこくった顔の半面を赤くほらして楮煮をしていた父は、ん、どうやらきまったようだと呟くと、ゆっくりと腰をのばしながら釜の蓋を少しずらして、上半身にからみつく湯気をすかすように覗くのだった。
 粗皮除をした白皮を、一度水に洗って「白楮」としたものを、ソーダ灰で煮るのが「楮煮」である。さしわたし二尺五寸の、水が四肩、手桶で八つと言えば約一石は入る大釜で、五十把の白楮を一本一本ほぐして投げ入れ、よく煮立った頃を見てソーダ灰を調加する。一釜を煮上げるのに四時間前後を要した。燃料としては細い柴木を用いるので、これも普通作業であったが、煮方には相当のコツもあり、大ていは漉き方の現役を退いた老人の受持とされていた。
「実はなお母さ、お母さに嘘言うそをついてすまなかったげんと、今日俺が八軒町さ出たのは大事なわけがあったでなん。」
「ふ、おなご(女子)にでも会って来たのかや。」
 味噌湯の茶碗をさし出しながら、母のおときはいつものとぼけた調子であった。
「んだぞいお母さ、ほんとにお母さの言う通りだで……んでも俺の女子でねえ、惣の女子だ。」
「なにや?」
 果して母は調子のはずれたこえを上げた。これもびっくりしたらしい父の茶碗が揺れて、ちぷちぷと小さな灰かぐらを立てた。
「何てたって……腹にはァややこ(嬰児)が出来てるでなん。」
 一瞬の躊躇を越えて思い切って口にしたが、呼吸いきを呑んだ両親の驚愕をまともに見ることは出来なかった。
「兄ちゃ、それほんとかや。」
「俺、今日ちゃんと会って来たで。」
「ど、どこの女子だべ?」
 急いで喋ろうとする友太の話は、ところどころ前後したり吃ったりした。
「お父さ達に黙ってたのは俺があやまる。したげんと、何てたって惣達はお互いに好き合ってるでなん。」
 ほんとかや、ちっとも知らなかったでなあと、やがて母は少ししゃがれたこえで呟いた。
「兄ちゃにばかり心配させてなや。惣の奴ったら、なんつ奴だかま……。」
「お母さ、俺の心配なんど問題でねえでなん。何てたって惣は戦地だし……そらァお父さにもお母さにも文句はあるべが、こうなってからははァ、何とかきまりをつけねなんねで。」
「んでもな……。」
 その時まで黙っていた父が、ふっと妙に冷たい笑いを見せた。その歪めた口辺を掠めた影は、思わず友太の背すじを悚然しょうぜんと撫でたほど気味悪かった。
「んでもな……お母ァと友の前だがな、はははは、俺のな、俺のしくじりを惣の野郎がまたやるとなったらどうしたもんだ? や? 俺の失敗をよ。」
「そ、そうだこと今更言って!」
 父にではない、また父と自分を捨てた母にというのでもなかった。ただ、綺麗に葬り去ったつもりでいるいまいましい過去を、いきなり目の前につかみ出された不快さに、友太はかっとした怒りに駆られた。
「んだこと言うんなら、どうでもお父さの好きにしろや、んだこと言うんなら!」
 兄ちゃってば、兄ちゃってばと、母は吃りながらおろおろした。
「お父さが悪いで、今さ頃そうだこと言い出してどうすんだべま。惣の話は惣の話でねえべかや。今さ頃、そ、そうだ、とんでもねえ……。」
 んだで、んだでと、忽ち憑きものから醒めたうつろな哀しさにかえった眼で、父の惣次郎は頭を振りながら、ぶるぶるとふるえる手に煙管をとり上げた。
「友、機嫌なおしてくんろ。……んだども、惣の話は別だでな。いいおなごだべ、いいおなごに違えねえ。お母ァとよく相談してやってくんろ。な、友、機嫌なおしてくんろ。」
 友太はぼろぼろ涙をこぼした。こうした感情のあらしに、一度は遭わねばならないかも知れないという予感を、それとは捕え得ずに、心のどこかにひそめていた自分に友太はこの時はじめて気づいた。やはりそうだった。親子が一度このあらしの洗礼を受けないでは、納まるはずがなかったのだ。
 ――祖父の代からの日傭取で辛うじて暮していた父の兄が感冒をこじらせての肺炎で、無論医者にもかからなかったが、床についてから三日目に、うわ言を口ばしりながらあっけなく死んでしまうと、しきりに咳き入るままに働いていたのを目撃した村の人達は、惣太郎さは肺病で死んだと言いふらしたものである。二男である父の惣次郎は、磐城いわきの炭坑に出稼ぎしていた。農村ならばどこでもその傾向はあるのだが、この上川崎村では、家を継ぐ長男をおいての二男三男は殊更に冷遇された。大てい尋常科(初等科)だけで徴兵検査前を家に手伝い、検査を終えるとそれぞれの仕事を選んで離村させられた。その頃は工場に職を求めることも難しく、謂わゆる労働者になるのが普通であった。巡査になったり検定を受けて小学校(国民学校)の教師になったりするのは、まれに見る努力家とされていた。二男で財産を分けられて分家するなどは、極く少数の資産家にあることで、七八百円の製紙道具を与えられて分家するのさえ、数えるほどしかないのだった。
 ソウタシンダ スグ カエレアンという、安斎あんざいの旦那からの電報でびっくりして駈けつけると、しきいをまたぐや否やいきなり旦那に言い渡された。
「惣次郎、お前が惣太のあとを継ぐだぞ、いいかや。」
 はあ、俺がですかい? ときょとんとして訊きかえすのへ、旦那は厳粛な顔をした。
「当り前だ、長男あととりが死んだからには、今度はお前が喜古の家を継がねばなんね。」
 借金だらけの、貧乏世帯を背負い込む将来の苦労を考えるよりも、喜古の家を継ぐという思いも設けぬ事実に、その時不思議な魅惑と誇りを感じた惣次郎は、何分はァよろしくお願いしやす、と、旦那をはじめ集っていた屋敷うちの人々に挨拶をしてしまった。
 同じ坑夫仲間の妹で、選炭をしていた女と内縁関係が出来ていて、男の子が生れたばかりであった。恐る恐る旦那に申し出てみると、そんならわしが仲人になって、正式の夫婦にしてやろう、それだけで別に小言もなくあっさりと引き受けてくれた。
「もちっと気の利いた家だと思ったわ。」
 村に近い安達駅がまだなかった頃で、線路づたいに二本松駅まで迎えに行ってはじめて連れて来た時、だらしなく赤ん坊を負ったお君は、庭さきに立ったまましばらく内に入ろうとしなかった。
「我慢してくんろ、今に俺が働いてどうにかするでな。」
 惣次郎は身の退ける思いに顔を赤くして、詫びるようにひくく言った。
 弟が一人これも出稼ぎをしていたほか、妹が一人いた。旦那の家の手伝いをしていた母もまだ達者であった。やもめになったあによめは、二本松の商家に女中奉公をするのだと、女の子を連れて去って行った。
 日傭取に出るのでもなく、鍬の持ち方一つ知らないお君は、終日子供を相手にぶらぶらしていた。惣次郎が何かいうと、嘘言うそつきめ、おらを欺しやがってと、大ごえを上げて喚くのだった。妹が、あねさ嫂さと優しくしても碌な返事もしない。鉛筆をなめなめ長いことかかって手紙を書いては、磐城の兄へ出していた。
 惣次郎は惣次郎で、身をさいなむ借金ぐらしの重圧に、こんなことなら、力業ちからわざだけで頑張っていさえすれば、結句気苦労というものもなく、お君の機嫌もよかった炭坑ぐらしの方が、どんなにのびのびと気儘にやってゆけたことかと、しみじみ振り返られもしたが、今ではそれも後の祭で、さっぱりと諦めるよりしかたがない。どうせ村に帰って家を継いだからには、紙漉きをやらなければと惣次郎は考えはじめた。紙の漉けない日傭取が、同じ村の人々にさえ、一段ひくいものにあしらわれることに気づいてからは、余計その決心を堅くした。安斎の旦那に相談をしかけると、そうか、やってみるか。しばらく考えてからそう言って、資本を貸し、道具もあれこれと心配してくれた。
 はじめは、鼻紙や屑紙を買い集めての「漉き返し」紙であった。しかし、この村には生れても、その経験のない惣次郎に、おいそれといい紙の漉けるはずはなかった。最初に漉いたのを旦那に見せると、はははは、これでは尻もふけねえぞと笑われた。もっとも、漉き返しの技術はかえって難しいとも言えた。普通の紙の漉き汁と違って張りもなくべたついて、そのまま漉き重ねたら、あとで乾す時に一枚ずつ剥ぎとることが出来なくなるので、琉球を細くいた、置き草と言われる仕切を一枚毎に挟まなければならない。そうした余計な手間のうえに、ともすれば破れがちで、乾し板に張る呼吸でも生やさしいものではなかった。
 村の人々はそら手と言っている。簀框すげたを操る手首が腫れて動かせなくなることであった。槽数を多く仕上げようとして無理をすると、よくこのそら手になるので、また初心者がこれに悩まされるのは言うまでもない。無気味に腫れあがった手首をさすって、惣次郎は幾度か輾転てんてん反側した。
 藪の椿が暗い葉の中に咲きかけた頃であった。町から紙屑を買い集めて夜になって帰ってみると、妹が泣きむずかる友太をあやしかねていた、翌日になってお君の逃げたことがいよいよたしかになった。からだをふるわせて怒った旦那は、気の利いた作男を一人磐城へ追わせたが、何の要領も得ずに帰って来た。
 友太を背負って磐城へ出かけて行った惣次郎も、お君にはついに会えないどころか、お君の兄から手強てごわい離縁を迫られてすごすごと戻って来た。その時はもういち早く、近くの町の、小金を持った五十男の後妻に行ってしまったという噂であった。裁判に持ち出してやるといきまく旦那を、かえって惣次郎がなだめながら、前からこんな事になるのではないかと思っていたと、悄然とした。それでも半年ばかりの間は、ひょっとしたら戻ってくるのではないかという心待ちもあったのだが、それもやがてあきらめて、綺麗に離縁をしてしまった。
 間もなく旦那の肝煎りで、隣村の下川崎からおときが迎えられた。きりょうも満更ではなかったし、表面とぼけたように見えていても、どうして肚はしっかりした働き者で、何よりも、友太を親身に可愛がることが、どうだ、いいかかァだろうと、時折旦那に自慢をさせるのであった。
 漉き返しは二年だけで、惣次郎は普通の紙漉きにまで漕ぎつけた。当時は、手漉き業者の組合というものもなく、材料も思いのままに手に入った。毎日、麦七分のうえに干大根をまぜこんだ、ぼろぼろと箸にかからぬ飯を食って、惣次郎さの家と来たら、食うものも食わないのだと、かれら自身がこの上もない粗食をしている近所の女達からさえよくかげ口を言われながらも、四年目、五年目とぐんぐん身上をよくして行った。一体、紙漉きでは、暮してはゆけるが財産はつくれないとされていた時代のことで、その頃一軒の家の生産高を、たとえば四千円内外だったとしても、原料費が二千八百円はかかるので、収入は千二百円ということになる。が、これから食費や雑費をさし引いての手取金として換算すれば、一日わずかに七八十銭の純益に過ぎなかった。それにもかかわらず十年後の惣次郎は借金を綺麗にしたうえ、漉屋は二間に三間の手広いものに建てかえた。続いて家の増築もしたばかりか、いつか二反歩の畑さえ手に入れた。そして、宇北竹の惣次郎さの障子(障子紙)と言えば、村でも一目置かれるものを売り出すようになっていた。


 昨日の昼頃から降り出して、一晩中烈しく吹雪ふぶいたのが、今朝は深いあおさに晴れ渡って、吹き溜りの稜線がきらきらと眩しかった。坂路の雪踏みを義兄にして貰って、重い手桶を提げたユミが道路を越えた小屋に来てみると、よしはもう仕事にかかるところであった。
「郡山のひといつ来んの? まだなのかい。」
 誰もほかにはいないのだが、自然ひそまる声で訊くと、それが癖の、よしは細かく首を振った。
「あっちの家との話は手紙ですっかりきまったんだって。何でも正月前には来るらしいの。」
 村の正月は、あと十日とちょっとに迫っていた。もっとも、こんな大戦争になったからには、盆も正月も言ってはいられないと、つい二三日前にも役場からその達示が廻ってきている。
 小屋は、田圃たんぼわきの流れをき止めた、せいぜい一坪ぐらいの池の上に、かやの屋根を葺き出して三方を藁で囲ってある。水の上まで突き出た床板に藁束を敷きつめた座席には、いつからのものかわからない、綿のはみ出たぼろ座布団が敷いてあることもある。こうした小屋が村の低地に点点としてあるのだった。ソーダ灰で煮上げた白楮の、まだこの時まで残っていたりする粗皮や固い筋を、鎌のさきで取り除きながら洗いすすいで灰汁あくを抜くので、村では「楮さらし」と言っていた。暖い日はいいとして、安達太郎山颪あだたらおろしの吹き荒ぶ日の楮さらしは、時に、漉き手よりも辛い作業になるのであった。東南の村境を阿武隈川が流れている。大川の流れに灑ぐ楮はことに灰汁抜けがいいとされて、ここの岸に十数軒共同のさらし場があるのだが、川面を渡ってまともに吹きつける寒風はたまらないものであった。それから見ると、射す陽を一杯にはらむ高い土堤をうしろにした、よしとユミの家の共同小屋はまだ楽な方の仕事場だった。
 たっぷりと水に浸けたまま二人の鎌尖が器用に裁く楮の束から、かすかな白さでにじみ出る灰汁は、青いよどみの中にそこはかとなく消えて行った。
「ユミちゃん、あんた、惣兄ちゃのあれってどんなひとだと思う?」
 しばらく黙り合ってから、よしがまたぽつんとそれを言い出した。余程気になっているのだろう。わざわざユミの家に駈け込んで来て、ものも言わずユミを納屋のわきへ引っぱって行ったと思うと、大変なことがあんのよユミちゃん、おらの家の惣兄ちゃの嫁さまがくるんだってと、息を弾ませて話した時から、どんな女だと思うと訊くのであった。
「お母さったらない、とってもそわそわしてんのよ。何でもな、あねさ、嫂さって優しくしろやだって。なんぼおらだって、それぐらいのこと言われなくたってわかってるわ。」
 その次に会った時は、こんなことを言いながら、不平とも嫉妬ともつかない眼で頬をふくらました。
 よっちゃんの兄さんと好き合う女だもの、いい女にきまってるわと、そう答えるほかはない。よしからはじめてきかされた時は、それがもう腹に子供が出来ているというので、惣吉をも女をもあさましくいとわしいものに思ったが、だんだん考えているうちに、その女に妙な羨しさを感じてきた。自分のように、始終結婚というものの不安におびえているよりも、いっそ、そういうことになってしまえば、何もかもはっきりするのではないだろうか。と、そこまで考えた時は、烈しい羞恥に身うちの血がかっと燃えた。今、福島市の印刷会社に勤めている許婚いいなずけの良三郎は、まるでユミには冷淡で、彼女を鼻のさきであしらったうえ、二言目には、村の娘達はニュース映画も見られまいと、それがユミの落度ででもあるかの口吻だった。昭和九年の不況時代に、良三郎の家からユミの父は大分金を借りたのだったが、その時親同士が勝手にきめたそんな古風な約束事にも、そうしたものと思い込んで敢えて反撥しようともせず、好きにはなれそうもない良三郎に嫁ぐ気ではいるのである。が、どこから取りついていいのか手がかりのつかない良三郎と、しかも村を離れて福島の町に住むのかと思うと、何とも言えない憂鬱にしつけられた。
「……みんな幸福だわ。よっちゃんだって仮祝言もすんでるんだし。」
 現在、北方の第一線にいる、同じ部落内の繁治とよしとの仲は、これは公然のものだったから、笑っただけで別に気まり悪がりもしなかったが、よしの気持にすれば、そういうユミもきまっているのではないかと、すぐに酬いられない窮屈さがあった。良三郎とユミとの感情がこじれ切っていることも知っていたし、それはそれとして、ユミが兄の友太をひそかに好いているのではないだろうかと、そんなふしぶしに時として思い当るのであった。無論、他人の許婚であるユミを兄がどうしようはずもなく、ユミ自身も結局は良三郎に嫁ぐ覚悟はしているに相違ない。つまりは自他共に認めたどうにもならぬ境界きょうがいにあるという、ユミのあきらめからくる気のゆるみが、不覚にも心の奥を覗かせることになるのだろうか。ともかくよしは、ユミの前では、言い出された自分のことにすぐ乗る方が安全だった。
「こないだあの人から手紙が来たの。」
 きかせられるのなら嫌だからというユミに、それどころではない、ちょうどあの人が出征する頃、原料の統制が強化され出したので、今年あたりはどんな具合か、それを心配してよこしたのだと、ところどころ繁治の手紙の文句通りの説明になった。それで、心配するほど行き詰っているわけではなく、与えられた原料で皆が真剣にやってる。殊に、軍需紙を漉くようになってからの村の人達の気持はまるで改まった。こんな意味を二晩がかりで書いてやったと、よしは多少得意な眼色をした。
「うちの兄ちゃも言ってるげんと、ここでへこたれたらどうなるってさ。大戦争だもの、原料の統制なんか当り前だわ。」
 んだどもと、ユミもそれには思わず強い相槌を打った。楮やソーダ灰の統制が強化されはじめた頃、こんなことではどうにもならないとしきりに父がこぼすのを、いつか友太に話したことがあった。ふ、ユミちゃんのお父さらしくもねえなと、友太は苦い笑いをした。
 村で一冬に使う楮が九万貫で、県に生産される十四万五千貫の四分の三に近い。村の生産高はわずかに三千貫に過ぎないから、大部分を他に仰がなければならないのが、欲しい半分も入手出来なくなっていた。あの、強靭な紙になる三椏みつまたは前から使用禁止である。かてに使う桑皮にしても、工業組合からの配給になった和紙屑洋紙屑にしても、やはりその通りであった。パルプはと言えば、事変のはじまった当時の四割がせいぜいだった。十年前までは村の人達が誰でも口にした、ブランナーモンド会社月印のソーダ灰は、今では無論見ることも出来ず、品は落ち、それも必要量の三分の一の配給だった。支那の熱河、山東あたりの、謂わゆる近海塩か、或いは地中海の遠海塩を原料とするソーダ灰が、戦争のための入手難はいうまでもなく、組合長の見込では来年度からは恐らく更に現在の半分ぐらいになりそうだった。それにまた、関係者の認識不足がわざわいして、原料会社と和紙生産者組合との間に、楮商業組合というのを設置したため、とかくごたごたの起り易い配給機構のまずさもあった。が、すべてはよろこんで堪えしのばねばならないのだと、村の人達も次第に覚悟をきめてきた。どんな大戦争がたとえば何十年続くとしても、楮の手漉き紙を日本人の生活から切り離すことは考えられない。とするならば、紙漉きはもはや村の生活を豊かにささえるだけの副業ではなくなった。
 しかし、何と言っても、軍需紙を製造させられることになってからの、村の人達の気構えが劃然と立ちなおってきたのは事実であった。村の紙が直接戦争の役に立つのだという矜持とそして責任感が、にわかに人々の胸を引き締めた。口にこそ出さなかったが、他の産業戦士と呼ばれる人々に対して抱いていた、嫉妬めいた感情も一時に払拭ふっしょくされた。その上軍需紙の原料は、何の煩わしさもなく真直ぐに組合へ送られてきた。組合長の家に至急召集があって、いよいよ俺達も直接のお役に立つぞとはじめてきかされた時は、言い合わせたように、皆が煙管を離して居ずまいを正したものである。――と、父から聞いたその話も、今ユミは思い出すのであった。
 屋根の雪がちたちたと解けはじめた。
「んだども、おら達もうんと頑張んなくてはなんないわ。……ない、よっちゃん、おれ、町さなんど嫁に行きたくないのよ、ほんとは。やっぱり一生村で紙漉きをしていたいと思う……。」
 ユミがふいに言い出したのへ、よしは咄嗟に応じる言葉がなく、いたずらな狼狽を呑み込んだ。
「よっちゃん、ほんとはおれ……。」
 急に切迫したものが痛いほどよしの胸に響いてきた。その次の言葉をきいたら、どうにも始末がつかなくなる予感が閃いた時、よしィと、突然友太のこえであった。ユミのからだがびくッとしたのを明らかに感じながら、高い声を上げたよしはほっとした気持だった。
「なァに兄ちゃ。」
 郡山さ行ってくると、友太は小屋を覗き込んだ。
「ユミちゃんもはァ知ってるべが……今日、惣の嫁様つれて来るで、これからよろしく頼むぞや。」
「あら、今日連れて来んの?」
 道理で、昨夜は晩くまで何か話し合っていた両親と兄であった。そんな相談にあずかるべき自分でないことはわかっていても、行きしなに、こんな風に言われるのは、よしには何とも面白くないのだった。明日あたり惣吉の嫁を連れて来るつもりだが、よく面倒を見てやってくれと、そう一言言ってほしかった。なんだか昨日は、お母さ達こそこそしてると思ったわと呟いてから、何かこう、意地悪さを露骨にせずにはいられなかった。
「惣兄ちゃのあれっていうと、みんな大騒ぎをするもんだ。」
「はははは。」
 ふくれッ面をする妹の心理が、あれこれと心を砕かせられている友太の胸に、ふっとある共感をよび起した。
「全くだ、大騒ぎをするもんだで。」
「どうせ早く連れて来てしまうといいわ。そしたらみんな落ちつくべから。」
 よしは荒々しい水音を立てた。


 娘のことについては、当の相手は言うまでもない、ひいてはその親兄弟へも、腹に据えかねた言い分はあるだろう。この前としゑに会った時の口吻でも、相当強硬な出ようをされそうだった。運送店の馬車挽きをしていることは惣吉からも聞いた。顔を合わせれば、お定まりの、自分ら親子の見えすいた卑下からはじめて、若い者同士のそれは仕方がないとしても、幾らかずつでもあった仕送りが絶えるとすればと、ねっちりと坐らせられるかもわからなかった。その用意も父と相談のうえ整えてはいたし、それはもう覚悟の前の下手に出る一点張りで通すつもりでここまで乗りかかった友太は、例のくそ度胸が据っていた。それが、街はずれの素人下宿の二階で、猫背をかがめて寝具の荷造りをしていた五十男に、視線のやり場に困った気恥しい笑顔を向けられると、今度は拍子抜けのした狼狽でかえってどぎまぎするのであった。
「一汽車遅れて来たもんでまあだはァきまらねえで。」
 半ば口の中で呟いて、癖になっているらしく、手拭で裾のあたりをはたきながら坐るのだが、お父さん、兄さんに座布団を上げてと娘に言われて、あわてて階下へ立って行ったりした。若い友太の、改まった挨拶のぎごちなさへ、そうでがすとも、武運長久が何よりでがすと、絶えず人のいい頷きを返していた。
「決して無理な仕事なんどはさせないで、お父さんもその点は安心して貰いやす。」
「なァにお前様、からだはうんと動かした方が、かえって丈夫な嬰児ややこが生れるもんでがすて。」
 無論うらの意味にも聞くべき言葉であろうが、それが少しの嫌味もなく、素直な父親の愛情で訴えてくるのであった。何かで父親が階下へ降りて行った時、いいお父さんだなあと世辞のない感動をもらした友太に、ちっとも気が利かないって言われてますのと、としゑもうれしそうにした。
 工場の昼の休みを、特別門から出して貰って来たというとしゑの弟は、親子丼をあつらえての四人の食事中にも、時々上目使いに友太を見た。姉の不始末に対しては、十八の年頃らしい潔癖な軽蔑を感じてい、父の処置にも何か不平があるらしく、それが友太へまで当ってきた。自分からは殆んど口を利かずに、そっけない短い返事をした。こういう相手を寛大にあしらう余裕もあり、時局を前提としての、義憤めいたものを鬱々させているのであろうと、友太にも一面同感は出来るとして、やはり白けないわけにはゆかないのである。父親が下手な執り成しようをしたり、かなりこの弟に圧迫を感じているらしいとしゑが、小さくなっているのも気の毒だった。工場は働き甲斐があっていいだろうと、機嫌をとるつもりで友太が言うと、しかしまだまだ時局の認識に欠けている奴があるからなどと、見えすいた当てつけを得意げにうそぶいた。時間が来たからとだけで、碌な挨拶もしないで座を立ったが、それでも、思いついたように言うのであった。
「石鹸、俺の分まで持ってけよ、俺ァ友達から何とかして貰うからいいんだぜ。」
「そう、なら善ちゃんの分まで貰ってくわ。」
 としゑが少し誇張したうれしさで答えると、階段のなかばほどからまた声をかけて来た。
「姉さん、毛布持ったのか。」
「善ちゃんが困るったら。」
 馬鹿、俺ァ要らないっていうのにと、怒った足どりでどんどん降りて行って、烈しい音をさせて玄関の戸を閉めた。
 折角つくった荷を父親はまた解きはじめた。
 としゑの発議で、三時半の汽車には大分早めに出かけた三人は、県社の安積国造神社に参拝した。
「あの人が征く時も、二人でお詣りしたんですの。」
 友太にだけ聞える声でとしゑが言った。
 友太が引っぱるというのを、いや、こんなのはなあにというだけで、とうとう父親が駅までリヤカーをひいて来た。無事に着いたはがきと、それから、生れた時はすぐ男か女かを知らせろと、父親は何度も念を押した。駅に来ると急に悄然としたとしゑは、黙って頷くだけであった。
「お母さんによろしく!」
 ベルが鳴ると、泣き笑いの表情であわてて窓から顔を出すとしゑに、今度は父親がただこっくりだけをした。
「いろいろ済みませんでした。」
 汽車が動き出してから暫くつぎ穂のない沈黙の後に、としゑがようやく言い出すと、いや、と、少してれた身じろぎをしながらも、友太は、義兄らしくいたわり深い眼を向けてきた。口の利き方でもものごしでも、どちらかと言えばもそもそしていて、二十七の独身とはとても受け取れない分別くささが、いかにも泥深い青年にはしていたが、相手にはそれだけ親しみ易い頼もしさも感じさせた。これからはじめて会う、しゅうとしゅうとめ、小姑達にしても、この義兄の蔭に身を寄せたらばと、そう考えられるのであった。
「なあに、村の生活にもすぐ馴れるでな。」
「わたし、何でもするつもりですから。」
「んだげんと、惣が帰るまでは大事な預りものだで。」
 いいえわたし、そんなふうにされると困るんですと言うとしゑに、友太は何度も頷いてみせた。
「うちのお父さもお母さも、ちっとも面倒くさくねえで、俺がいうのもおかしいが、ほんとにいい人達だでな。」
 そうは言われても、やはり不安でもあり何とも言えぬ心細さで、それはこの義兄にもわかって貰えそうもないのが寂しく、眼を伏せると、小さな駅で別れた惣吉の姿がありありと浮かんでくる。――自分達の過失には違いなかった。だが、としゑは今それを後悔しているのではない。最初からだの変調に気づいた時の打ちのめされた驚愕についで、烈しい悶えに幾夜も眠れなかった末、どうせ諦めるより仕方がないわと、自分を納得させる呟きをするところまで来て、どうやら平静を取り戻した。どんな苦境をも堪え忍んで、お腹の子だけは安らかに産まねばならない。やがてそう勇気を奮い起してからは、思い設けなかったほのぼのとしたものが、彼女の前に開けて来たのであった。
「紙漉きって……わたしみたいな者にもすぐ出来る仕事があるんでしょうか。」
 むらがる想念を払い除けようと、としゑは頭を振って眼を上げた。
 んだでなと、友太はちょっと考えるようにした。みんな水仕事で、ずぶの素人には取りつき難いものばかりだが、粗皮除くらいならばやれないことはないだろう。この手間賃もなかなか馬鹿には出来ないので、もとは一貫匁で二銭程度であったのが、現在では十二三銭にまであがっているという友太に、としゑはいろいろと訊きはじめた。いつか惣吉からも聞いていて、紙漉きを楽な仕事とは思わなかったし、また仕事の辛さが恐いのでもなかった。普通の農家だったら見当もつくのだが、皆目勝手の知れない生業の中にとび込んで、まるで手出しのならない、身の置き場にも困る自分になりそうな気がするのだった。製紙業と言えば、上川崎村に限られていて、他村では絶対に手を出さないということからも、としゑは何か馴染難い特殊な生活を想像させられた。
 粗皮除から、楮煮、楮さらし、楮叩き、漉くのは別として、紙付け、截断、包装と、順序を立てて大体の説明をされてみると、実際のところ、まるっきりの素人で、それも臨月に遠くない女には、やはり粗皮除か下手なりの包装だけであった。真偽は知らず、言い伝えによれば千年も続いているという村の仕事で、製紙の始祖として聖徳太子を信仰している家々では、毎年十一月の仕事始めに太子講の祭をする。その時食べる団子の入った赤飯は、食べつけない者には変な飯に違いないと友太は笑った。
「でも、どうして他村ではしないんでしょう?」
 さあ、そこのところはどう言ったらいいかと、友太は言葉を濁した。しかし、彼には彼としての考えがないわけではなかった。県内では、ほかに、伊達、石城、相馬、石川、会津の各地方で紙が造られる。が、相馬地方では僅か三十名に過ぎないし、会津地方の七十名をおいては、他は四十名から六十名を越えなかった。それらの地方をみんな合したよりも遙かに多いこの安達地方の三百三十名という数は、その一割弱を隣村の下川崎に譲るだけで、すべて友太の村が独占していた。県の全産額六十八万円の中、五十万円に近いものが彼の村から出た。種類も、障子紙(天地八寸三分の八三判から、九三判、九五判、尺判の数種に分けられる)、美濃紙、半紙、傘紙、提灯紙、筋紙(包装紙)、塵紙に、今は軍需紙があり、紙質の点からも川崎紙とか岩代紙とか呼ばれて、東北では第一位にあった。それはともかく、この地方で製紙をするのが、上川崎と下川崎の一部に截然と限られていて、他の村へ一歩を踏み出すと、たとえばそれが上川崎村と同じ条件にある耕地の少い山村でも、そこには一枚の乾し板すら見出せないのは何故であろう。誰でも一応は疑問にしたが、友太に言わせれば、村の耕地的条件と、それからくる経済状況だけが、決して製紙を副業とする原因ではない明らかな証左であった。そう多くを要しない資本で、技術の習得にしてもさして困難ではない製紙業も、冬のさ中に水と闘う、苛酷な寒気への苦行に近い忍従がない限り、謂わゆる他村の人々には手の出ない仕事になるのではないだろうか。上川崎の人々には、冬の征服者としての血が長い伝統を承け継いで流れている、誇りを以て友太はそう考えているのであった。
「……まあ、紙漉きの方なんどは手伝うに及ばねえで、縫い物でもして貰うことにするべや。」
「わたし皆さんに気に入られるかどうか心配ですの。」
 窓外に眼をやると、蒼茫とした田野の起伏に続いて、間近く聳えた安達太郎山が残照を浴びてうす赤く映えていた。
「これで三度目ですわ。」
 暗くなりかけた安達駅に降り立った時、としゑは低く呟いた。
 チッキの荷物を受け取って、友太は駅前の店に預けて置いた背負繩を持って来た。
「俺が背負うべか。」
「いや、あねさの荷物を持ってくれ。」
 腰掛のところで手廻りの荷物を包みなおしていたとしゑが、びっくりして振りかえると、顔を赤くした少年がもじもじと肩を揺すりながら寄ってきた。俺が持ちますと、提灯を持ちかえた手を出されて、としゑは肩掛をとるひまもなく、どうぞよろしくと小腰をかがめるのへ、弟は破れた戦闘帽をぺこんと脱いだ。
 駅を出ると肌を刺すような安達太郎颪であった。


 こまごました繕いものから、まだいいはずの縫い直しなどが次々と持ち出されては、結局、立ち働きをさせまいとする姑の配慮を素直に受けるほかはなかった。
 はじめて着いた夜、坂下の暗い道まで出ていて、寒かったべ、寒かったべとくり返した姑は、家に入ると今度は台所の方へ行ってしまって、そこから高い声で喋っているだけで、なかなか炉端に落着かないのだった。そう言えば舅にしても、そわそわと座を立っては奥の間へ行ったり来たりした。実家の様子を訊くのでもなく、今までのとしゑの生活を話題にのぼすこともしない。駅から家までは一里半には少し遠いが、はじめてのしかも夜道では随分遠く思ったろうとか、今夜の寒さはどうだとか、そんなことを独り頷きに話すのである。せんと惣三は、顔を上げないでほたくべばかりしていた。少し取りすまして挨拶をしたよしは、しばらく奥へ入ったきりであったが、出て来たのをちらと見ると、別の華美な前掛になっていた。
 としゑは、よしとせんと一緒に奥の間に寝るのであった。
「わたし、とってもうすぼんやりなの。どうぞよろしく。」
 着物を脱ぎながらいうと、あら、おれこそと、よしははじめてうち解けた眼を向けた。
 翌日は、姑に連れられて近所廻りをさせられた。どこの家でも、真白い紙乾板が庭一杯に立てかけてあるのを、くぐるようにして入って行った。大きなお腹を隠せるはずもなく、観念はしていたがやはり顔の上らない思いであった。惣吉が帰還したら、その時真似事の祝儀をするつもりだと、姑は一軒一軒大声で言って歩いた。旦那の家では縁起ものだからとそばを出された。
「なんにしても、丈夫な嬰児ややこを産むことだな。」
 眼鏡の顔を仰向け加減にして、ゆっくり喋る旦那の言葉は、村の言葉と標準語がごっちゃになっていた。広い縁側には、包装した紙が山のように積んであった。村の紙は皆ここから組合の名で積出される。わきの土蔵に手を入れてそこが組合の事務所になっていた。県の手漉紙工業組合長である旦那には、としゑ達がそばを食べているうちにも次次と人が来た。舅や姑が若い時代に世話を受けたのは大旦那で、今は別に家を建てて隠居しているそこへも行った。
 昨夜のよしの話にも出て来たユミとは、初対面になく親しい瞳を向け合うことが出来た。町から来たら村はほんとにやばしべ(むさ苦しい)というので、ううん、とってもせいせいして長生きするわと答えた。
 案外楽な仕事に思われた粗皮除も、次の日には腕が上らないまで肩が凝って、それに、はじめてかぐ楮や桑の皮の生々しい臭いで、吐き気が来そうに胸がむかむかするのであった。
 パルプの処理では、最後の水解きだけは出来そうだった。水浸けにしたパルプを充分臼で搗いてから、またそれを水に解くので、こうして一旦どろどろにしたうえ袋に入れてしたものを、紙の種類によるそれぞれの割合で楮に交ぜるのであった。搗き手は父と惣三だったが、水解きはよしかせんがした。そんなことはしないがいいと姑に止められたが、でも面白そうだからと、としゑはせんに代ってやってみた。坂の中途の井戸端に、野天のまま水解きの槽が据えてある。漉槽よりは小さく五尺に四尺ぐらい、二十四五本の竹の掻手の並んだものが槽の上から吊ってあって、これがマグワという名も教えられた。水音だけは賑やかでも、掻き立てる手応えは至って頼りなく、そのくせ、ぶるんぶるんと肩から腰へ妙に響いてくるのだった。鉛色の雲が低く垂れて、今にも雪になりそうな底冷えの中で三十分ばかりしているうちに、下腹が突っ張ってきてどうにも耐えられなくなっていた。坂を登って来るのがようやくで、炉端に這い寄ったまま、としゑはしばらく動けなくなってしまった。
「んだから無理だってのに!」
 紙つけをしていた姑は、藁刷毛わらばけを放り出してとしゑの背を抱いた。
「惣に申しわけのならねえことにでもなったら困るでな。」
 漉屋を出て来た友太に、今までの彼からは思いも寄らぬ不機嫌さでそう言われると、としゑは悲しくなって涙が出た。
 座布団を持ち込んで、よしと並んでやってみた楮さらしも、ひどく冷えた腹痛にその夜中悩んでからは、子供の産れるまでのとしゑに出来る紙漉き業は、もう何もないのだった。彼岸を過ぎればこの仕事も余程楽になるし、まあそれよりも、身二つになってから何でも手伝って貰うことにする、そう姑は慰めがおに言った。
 間もなく村の正月が来た。特配の酒も二日にはすでに飲み尽していながら、それでも明るい顔をして餅だけは腹一杯食うのであった。
 よしとユミはせんを連れて、福島まで映画を観に出かけて行った。あねさも行かれるといいがとよしがいうのを、こんな様子でどうすんのととしゑは笑った。
「活動なんて、ああだちらちらするものが、はァどこが面白いんだべや。」
 姑は、行けないとしゑをいたわるつもりであったらしい。あんなものを観るよりは、寝ていた方がどんなに気楽か知れないというのである。時節柄、改まった年始の客もなかった。どこで御馳走になるのか、赤い顔をして帰ってくる惣次郎は、他愛もなくうつらうつらと炉端で居眠っている。友太は国民学校の集会に何度も出かけて行った。折角ラジオがあっても、電気の昼間線が入っていないので夜しか聴けず、新聞が配達されるのはいつもお昼近かった。今まで遠慮をしていた惣吉への手紙を、としゑははじめて誰憚らず幾枚も書いた。
 つつましい村の正月も過ぎた頃から、としゑはこの家での自分のありようにようやく馴染んできた。夜、寝部屋に入ってからは、並んだよしといつまでも話し込んだ。去年はじめて一反三畝の田持になったこともきいた。村には水田が尠いから、食べるだけの小作をすることも出来ないので、米を買って不足を補わねばならない家が、戸数の六割にも上っていた。村だったら、米を買うことなどはないものと単純にきめていたとしゑには、これは意外な話であったが、現によしの家でも、今まで年に三俵近く足りなかったというのである。畑は前から三反歩以上あるので、家で食べるだけの野菜と、ネリを作るほかは桑畑にしてあること。養蚕では去年四百円近く入ったこと、紙の値は年毎に騰っていて、一昨年の二千二百円いくらかが、去年は原料の配給が少かったにもかかわらず、それ以上になっていた。友太が出征しての留守中、面倒な記帳をさせられてから興味を持ったとかで、よしはいろいろ細かい数字を上げた。もともと、としゑがよしの意を迎えるために訊き出したこんな暮し向きの話も、二人を親密にさせるには役立った。としゑは幾分誇張して、専売局に働く女工達の内輪話をしてきかせた。間もなく二人は、女同士でなければ話せないことにひそひそと声をひそめては、まあ嫌だなどと吐息をもらし合うのであった。寝入ったと思ったせんが眼を醒ましていて、二人をはっとさせることもあった。やがて踏み込まねばならない未知の世界を、よしは真剣に模索していた。「あんねのややこ、男だといいがなァ。」
 惣三はというと、煮ものをしているとしゑのそばに来て、ふいにそんなことを言い出したりするのだった。からだに注がれた半ば呆けた視線を感じたとしゑは、ふっと身のすくみを覚えて思わず前をかき合わせた。
「女では悪いの、嫌い?」
 何気なくそう訊くと、急に赤くなって眼をそらした。
「んだ、女だって……どっちだっていいげんと。」
 そうかと思うと、郡山の人口は何万だったろうかと唐突に訊くのである。別段嫂を試みるわけではなく、郡山と福島とでは、どちらに沢山工場があるだろうと、ぶつぶつ独り言をするのであった。
「工場に行きたいの?」
「ん、高等科を出たら行きてえんだ。」
 と、恥しそうにした。としゑが台所の水甕みずがめを覗くと、俺が汲んで来ると素早く手桶を下げた。十七になっているせんには、どこか気難しいところがあって、と言っても、このせんが一番惣吉に似ていると思うのだが、何となくものが頼みにくかった。惣三は、学校から帰るや道具の包を投げ出して、何かする仕事はないかと必ずとしゑに訊いた。それから芋かなんかを頬張りながら漉屋に行って、せんと代って「楮叩き」にかかるのだった。はじめて聞いた時、としゑはそれが何の音かわからなかった。
 漉屋の壁に面して、坐業の低さに置いてある三尺に二尺ばかりの平たい石が楮叩きの台であった。家にあるのは、友太の話によると、父の惣次郎が炭山から戻って来て、いよいよ紙を漉くことになった時、旦那からお祝として贈られた御影石の極く上等のもので、どの家のも三寸内外の厚さであるのに、それは特別五寸からあるというのであった。楮さらしの済んだ楮を少しずつこの台にのせ、太い丸棒で叩きぬいて、すっかり繊維を砕いたべとべとのものにしてしまう。楮の処理の仕上であった。小鉢に一つ、一槽分を叩くのに一時間前後はかかった。そこの壁には、はね飛んだ楮のつぶてが一面に白く粘り付いていた。ど、ど、ど、と単純な鈍い響きが、母屋の居間で縫い物をしているとしゑを、時として郷愁にも似た頼りなさに誘い込んだ。こういう時は、土間でせっせと紙付けをしている姑のおときにも、滅多に話などはしかけられない緊張があって、いよいよとしゑを孤独なものにした。
「紙付け」と言われている紙乾しが、大体おときの受持になっていた。漉屋の奥にある圧搾器で充分水分を搾り上げて、しっとりと湿った程度になった紙の束は、台板に乗せて母屋の土間に運ばれる。これを一枚ずつ剥ぎとって、臼を台にしてねせた乾板に藁刷毛で張るのである。障子紙の大判は板の一面に二枚であるが、半紙の大判なら三枚、美濃紙や傘紙は四枚貼れた。幅二尺二寸に長さが七尺五寸の松材の乾板(村では紙板と呼んでいる)は、四貫匁を越える重さであったが、それが紙付けをする人の肩にかかると、ちょうど長い一枚の紙ほどの軽さに見えるのだった。陽の射さない日でも一時間ぐらいで乾上るのを、両面交互に使ってゆくので、どこの家でも三十枚内外は持っていた。家でこの仕事をはじめた頃は、当時二円も出せば買えた板を五枚と揃えるのがようやくで、旦那から貰った楮叩きの台石だけが、不釣合に光っていたものだったと、いつか姑が述懐した。
 舅の惣次郎は、始終事務所の仕事を手伝いに旦那の邸へ出かけて行った。旦那の弟と、作男上りの中年者がそこの事務員で、リヤカーの利かない雪道を、三人五人と背負い込んでくる紙を、いちいち処理しては現金も払ってやるのであるから、なかなか手が廻りかねた。惣次郎さ、お前ちょっと整理しろや、そう事務所の机から旦那に声をかけられると、ああ、見てやるべと、軽く腰を上げるのである。もとからの関係で、今では殆んど縁戚同様のつきあいをさせてもらっているのが、惣次郎夫婦のひそかな誇りであったし、またそれを恩にることも忘れなかった。一方、組合長の安斎保男氏にすれば、父の代から特別に目をかけてやっている正直者の惣次郎が、誰よりも気を許して仕事をさせられるのであった。
 いつも穏やかな表情で家に戻ってくると、惣次郎はきまって出がらしのお茶をゆっくりと飲むのだった。無口で、暖い日に縁側で漉簀すきすの繕いなどをしている時は、半日も黙り通すことがあった。機嫌を損じているのだろうかと、来た当座は気になったが、としゑはそれにもいつか馴れて来た。
「んだで、まあ五年がせいぜいかな。二年目には編み直しをしねなんねえしな。」
 簀にせよ簀框すげたにせよ、五年ぐらいの使用で駄目になるが、紙にしたら十万枚は漉けるということを、としゑが訊けばぼつぼつ話してくれた。およそ簀と呼ばれるもののうちで、これほど精巧で緻密なものが他にあろうかと思われる漉簀の美しさをとしゑが感歎しても、そういうことには一向無関心であるらしく、んだでなと言っただけである。これもまことに好い日であって、雪解けの道を友太のゴム長を借りたとしゑが、惣三の案内で、五六町ある小山に炭焼をしている惣次郎に弁当を届けに行くと、口数はいつもの通り少く、そんなに歩いても大丈夫かと、しかしいかにも案じ顔をするのであった。
「少し運動した方がいいんですって。」
 並んで腰を下しながら、途の土手で見つけて来たふきとうを見せると、ん、もうそんな節になったのだと、目を細めて呟いた。
「惣はどうしてるべやな?」
「元気ですわきっと、わたし、夢も見ませんもの。」
 それだけでまた話がと切れた。――炭焼と言ったところで、何でも焚火だけで済ませているので、木炭などは一年に三俵か四俵もあれば間に合う自家用だけのを、旦那の山を借りて焼くのであった。ち、ち、と小鳥が枯枝に鳴いて、ほんの間に合わせの焼窯やきがまから青い煙が細く上っている。あたりの日陰にはまだ残雪がまだらにあっても、深く碧い空からの陽は春めいてやわらかく、小都会の場末に長く暮してきたとしゑは、甦ったのびやかさに恍惚とするのだったが、そればかりではなく、黙り合って並んだ舅のあたたかさも、しみじみと胸に流れ通う思いであった。
 こういう舅の惣次郎にも、柳材の大きな俎板を居間の真中に持ち出して、大判紙の截断をする時には、動作はやはり緩慢だったが、どこか凜とした一脈の気魄が感じられた。截断は漉き方に次ぐ技術ものとされている。百枚くらいずつ重ねて截つが、周囲の断ち屑は再び漉き返されるとしても、それは質も落ちるし何よりも分めりがする。出来るだけ断ち屑を少くするために、九寸三分判の障子紙などは、天地僅かに一寸延びに漉き上げられているので、截断鉋丁の一厘の狂いも許されなかった。一方、何百枚かどっしりと重ねられた日本紙の大判は、そうしたひき緊った截断者に呼応するかのように、何か圧倒的な気品のある光沢を放っているのだった。
 が、この截断にかかろうとする時の惣次郎自身の胸の奥には、家人の誰もが気付いていないように、無論としゑなどには覗い知るべくもない、深い喜びが湧き起っているのであった。
 惣次郎は、截ち方にかかる前に、必ず何遍か紙の裏表を撫でてみては、彼独りの感慨にひたるのだった。これは惣次郎の楽しい秘密と言ってもよかった。友太が出征中二年前まで、自分が漉いていたものと、今友太が漉く紙とに寸分の違いもないのである。いつかそれを妻に話すと、そんなことは当り前で、友太の腕が父と同じまでに上達した証拠に過ぎないと、至って簡単にあしらわれてしまってからは、再び口には出さないことにした。しかし惣次郎にとっては、とうていそんなことでは済まされないものがあるのだった。言うまでもないことで、楮八〇パルプ二〇という障子紙の同じ一号品でも、材料の処理と漉き手の巧拙とによって、玄人ならば一目で鑑別される良否は出来てくる。楮五〇パルプ五〇の二号品には二号品としての良否があるだろう。惣次郎が会心の喜びに人知れず酔うのは、そういう鑑識される紙質の同格に就いてではなかった。はじめはそれが紙裏の刷毛さばきからくる同じ触感のせいかと思った。紙付けをしたのはどちらも母のおときで、二十幾年の彼女の操作は、一分の狂いもないまでに機械化されていた。だが、やはり紙付けなどからくる単純なものではなく、もっと深い、内的なものであることが段々わかってきたのだった。惣次郎にはしかしそれを言い表すことは出来なかった。――それは紙の性格とも言うべきものであった。彼が自分ら親子の紙から感得しているものは、軍需紙にも障子紙にも、或いは一号品にも二号品にも、共通に流れている同じ紙性であった。


「小母ちゃん早く来う! 大変だや。」
 隣屋敷の家の子が喚いてきて、そこの家の軒下に、うつ伏せになっている惣次郎を見つけたというのである。友太、よし! とおときは突ッ走った声を上げた。居間の障子際でせんに包装を教わっていたとしゑは、がくがくする膝がしらでうろうろと土間に降りた。としゑが来てから一月半も経たない三月半ばの、陽の射さない寒い空に安達太郎山が鈍く光っている午後だった。
 四年ばかり前に一度、やはりひどい発作に襲われたことがあった。医者は心臓性喘息らしいと言って注射をした。ふだんそう咳き入るわけでもないのに喘息というのはおかしいと、家の者達は納得のゆかない顔をしたが、それからは別に何のこともなく、たまに少し動悸がするようだと炉端に横になるくらいのものであった。
 戸板で運ばれて来た惣次郎は、もうすっかり土色になった額にあぶら汗をにじませていた。八軒町の医者を友太が連れて来た頃はとうに意識がなかった。病人の顔を見るのが無性に怖く、せんと二人でふるえていたとしゑが、奥の間に呼ばれて行くと、うつろに白い眼が彼女の方に向いていた。
 何とも諦めかねる死に方だった。葬式の日まで、おときは涙も出ないほど呆けていた。
「諦めろたって無理だべが……お父さの分まで俺がやるで、お母さもそのつもりでしゃんとしてくなんしょや。お母さにまで弱られると形なしだでな」
 それでも、葬式が済んでから友太にそう言われると、んだども、おらだってお父さの分まで稼ぐつもりよと、すっかり身うちの力が落脱している気持とはうらはらの答えをした。
「漉返し」をはじめた時代から、どうやら今日の日を築いたまでのことを考えると、ここでぽっかり死んで行った夫が限りなくいとおしかった。夫と友太を捨てたお君という女が、チブスに罹って死んだ噂も幾年か前何かの便りで聞いていたが、今までは心に浮かんでくることさえなかったのに、惣次郎が死んでからというものは、どうかするとひょっと思い出すのであった。またあの世で夫と顔を合わせているのだろうか。いや、あんないい夫を捨てて逃げるようなよくよく馬鹿な憎い女とは、夫のいる世界はきっと別であるに違いないと思った。
「ほんとによ、孫の顔も見ねえで死ぬなんて、お父さも馬鹿お父さだったものよ。」
 紙付けをしながら、おときはぶつぶつと独り言をするのだった。三月も末になると紙の乾きは目立って早くなってきた。始終乾板に追われながら、よしにも手伝わせて、土間と庭を往復する昼のうちはそれでもいいのだが、夜になると何とも堪えかねる寂寥せきりょうに襲われた。楮煮のかまどの前にうずくまって、柴を折りくべている友太のうしろ影が、ふと夫の姿に見える錯覚に、思わずびくッとすることもあった。夜、としゑとせん、よしと惣三の二組に連れ立って、戸外にある便所へ行くのにも、何となく腹立たしい気持にさせられた。
「んだにお前ら、お父さがおっかねべかや。お母さはな、何とかしてお父さが出てくれるといいと思ってるに。」
 冗談でない顔色でそう言われると、としゑ達の方では返す言葉もないのである。実際、おときは口さきだけでなく、寝しなに戸外へ立った時などは、しばらくっと闇を透かして夫の姿を求めるのであった。
 としゑを家に引きとることにしたという、最初にやった報告の返事が、二ヶ月近くかかってようやく中支の惣吉から来た。もし目出度く帰還が出来たら改めて両親にお詫びをするが、万一の場合には宜しくお願いするというのであった。お詫びもなにも、お父さはもう居ないのだと、おときは泣き笑いをしながら新しい位牌の前にその手紙を供えた。
「お詫びなんどどうでもいい、お父さは何もかもわけのわかった人だったでな、ただな、孫の顔も見ねえで……。」
 溢れ出る涙を拭きもせず、それからいつもの独り言になるのであったが、こういう時の母には、よしもとしゑも何とも言葉をかけかねて、遠くの方に小さくなっているしかなかった。
「兄ちゃもとっくに嫁とりをしてるとよかったでな。おらが気が利かねえようで外聞が悪いってもんよ。」
 ひょっこりとそんなことも言い出して、友太と同年で二人も三人も子供のある誰彼の名を挙げたりした。今年はもう二十七でしかも相続人なのだから、村の風習からすればたしかにおくれているのである。その話になると当の友太がいつも煮え切らないので、ついそのままになってはいたものの、夫に死なれてみると、おときはなにか自分の落度ででもあったように、急に気になり出すのであった。それに、夫の生前には友太に対しても、ついぞ気がねというものを覚えたことがなかったのに、ひとりになると、どういうものか、言いたい言葉もふっと呑み込んでしまう遠慮が、いつの間にか出来ていた。もとより友太の様子に何の変りがあるはずもなく、お父さが死んだので、自分まで馬鹿になったのだとおときはひそかに思うのである。
 目に見えて苛々してきた母に、一番困らせられるのはやはりよしととしゑであった。
「お父さが死んだら、お母さは何だって愚痴っぽくなったんでないの。」
 そばのとしゑをはらはらさせながらよしが言うと、
「誰のお蔭でそれまでの娘になったんだ、よし!」
 予期以上の尖った声であった。母のいうことがこの場合のよしには少し呑み込めない見当違いのものなので、何か言い返したい気はしたが、思いがけない母の見幕にそれなり口をつぐんでしまった。むッつりと黙った母も、台所で荒い茶碗の音をさせていた。
「兄さんのお嫁さんでもくれば、お母さんの機嫌もよくなるんじゃないかと思うの。」
 納屋の前の陽だまりでとしゑが言うと、よしも分別らしい眼をしばたたいた。
「ユミちゃんが駄目としたって、ほかにいくらもあると思うわ。」
「ユミちゃんだったらいいんだがなァ。」
「兄さんはうちのひとなんかと違って堅いから……。」
 そう言って笑ってから、としゑは漉屋に入って行った。
「兄さん、早くお嫁さんを貰うといいわ。」
 藪から棒に言いかけても、友太は眉一つ動かさない。ものに没入し切ったやや険しい横顔を見せたまま、ざぶりと簀框を槽に浸して、いい娘っ子がいるのかやと、それでも口だけは相手になってきた。
「兄さんだったらいくらでもあるわ、ね、おせんちゃん。」
 真顔でいうと、わきで楮叩きをしていたせんは、首を縮めて舌を出した。
 ユミは相変らず時々顔を見せていた。おときと何か喋っているかと思うと、今度はとしゑのそばに来て、縫っている赤ん坊の着物を覗き込んだ。郡山にいた時分、弟の目に触れない時をはからってどうやら一通りは揃えたが、こちらに来てから、姑がいろいろと古いものを出してくれるので、今は手に入れ難い綿ものがいくつも出来た。役場から指図があったとかで、村に顔馴染だという産婆も二度ばかり寄ってくれている。
「今どんな気持がすんの?」
 とユミに訊かれても、としゑはただ笑っていた。男でも女でもそれはいいので、戦地の惣吉と須賀川の母に丈夫な赤ん坊の生れた便りが出来るようにと、至って単純な、気持と言えばそれが一杯の気持であった。
「としゑさんはとっても幸福そうに見えるわ。」
 よしから何もかも聞いているので、そういうユミのうらの心持はすぐ思い当りはするものの、それだけにやはり、そうなの、わたしはとっても幸福なのと、表面の意味にのみ受けとった応じようしか出来なかった。
 或る日には、よっちゃんは? と、いつもと違った幾分とり乱した様子でユミが入ってきた。どうしたの、下で楮さらしをしているわと答えると、そのままそそくさと出て行った。一散に坂を駈け降りる気配が、もう予定日を目前にひかえて起居にも骨の折れるとしゑには、何ということのない羨しさであった。井戸から庭まで登ってくるのでさえ一度は息を入れねばならないのである。そこに咲いている梅の枝を折ろうとしてみたが、つい背のびが出来ず、うららかな陽に融け漂う匂いをかいだだけであった。桑畑の縁にある芍薬しゃくやくの赤い芽を、小さい甲虫かぶとむしの触角がしきりに撫でている。眼を上げると、遠い林が薄い緑に煙って、四月に入ってのこういう日は、さすがに、漉屋の水音までが心楽しいあたたかさに聞えていた。
 ねえさんしようがないのと、間もなく戻って来たよしが、楮の手桶を土間に放り出すばかりにして寄ってきた。さらし小屋に駈け込んで来たユミがいきなり言い出したのは、許婚の良三郎と喧嘩をした話であった。会社の休みで村に帰って来た良三郎の、ユミへの態度は例の通りで、何か言葉のもつれから、おとなしいユミにも我慢のならないものがあったらしい。なら、あんたの気に入った女を貰ったらいいのにと、とうとう言ってやったと言うのだった。そんなにまであの人に馬鹿にされるはずはない。第一、良三郎自身が村に生れた男で、ただ五六年福島で暮しただけではないかと、ユミはそんな意味を繰り返して段々昂奮してきた。最初はどう応対したらいいか迷っていたよしも、あとではユミと一緒になって、散々良三郎の悪口を言ってやった。そう話すよしの目もまたたかぶっている。としゑも人ごとでなく腹が立った。
「そんなにこじれてしまったら、あとで一体どうなるの?」
 口には出さなかったが、親同士のそんな約束事などに縛られている馬鹿馬鹿しさが、としゑにはこの上もなく歯がゆかった。
 産婆の断定した日よりも二日早い夕方に、としゑのお腹にそれらしさがきた。きまりの悪いほど何度も戸外へ立たねばならなかった。それでも、せんと一緒に台所の事もした。訪ねて来た友太の友人が、帰りがけに何かあまり上品でない冗談を言うのにも、気づかれまいとして高く笑ってみせたが、やがて間歇かんけつ的に襲う痛みは堪えられないものになってきた。よっちゃんと呼びかけると、はじめて気づいたよしは、お母さァとわくわくした声を上げた。
「んだか?」
 裏の湯殿から腰紐を巻きながら入って来たおときは、荒荒しいまでの素早さでつッ伏したとしゑを抱えて、よし、早く嫂さの布団を敷けと言ったが、いや、よしでは駄目だ、お母さが敷くべと奥に駈け込んだ。気力の失せていたこの頃の母とは人の変った烈しさで、友太とよしに声高く指図をしては、せかせかと息を切らした。
 八軒町の産婆の家までは急いでも一時間の上はかかった。身をかがめて奥へ入って行くとしゑを見送って、そうかいよいよ惣吉の子供も生れることになったかと、妙にくすぐったく頬を撫でられながら、友太は土間の壁の提灯をおろしてきた。包装の仕事をやめてうろうろしているせんに、よし! あんねに手伝えやと声をかけてから、料峭りょうしょうと冴えた星明りの外へ出た。


 味気なさにくず折れ切った気力を隠したいばかりに、よしやとしゑからはかえって見透かされるだけのことだったが、何かというと気張った声を上げた。かと思うと見栄などはどうでもいい心弱さに溺れ込んで、娘と嫁を前にわざと露骨に愚痴てみせたりしていたおときに、としゑの子が生れた日から、何か生々いきいきとしたものがそのものごしに甦ってきたのであった。産婆は三日間来ただけで、あとはおときがゆあみをさせた。惣吉が生れた時そっくりの、眼の大きな女の子である。
「な、勝子、こんなめんごい嬰児ややこの顔も見ねえで死ぬなんて、勝子のおじちゃ(おじいさん)も馬鹿なお祖父ちゃだ。」
 と、口ぐせの独り言を呟いてはたらいの嬰児を愛撫した。
 だが、こうしたおときを、まるで再び試みでもするかのように、家の生活の模様をがらりとかえねばならない事が待っていた。――友太に再度の召集が下ったのである。
「お母さ、いいかや、俺ァまたくだぞ。」
 と、大きく眼を見開いた友太に赤い紙を振られた時は、はっと胸を衝かれてしまって、阿呆のように口を開けた。今までには村にも二度目の応召者は幾人かあって、そうだ、その覚悟だけはと考えることはあっても、おときのような女には、やはり現実感としては迫っていなかったので、それがいきなり目前に立ちはだかったのだ。待ってくんろと言っただけで、がくんとしそうなからだをやっと寝部屋に運んだおときは、くたくたと膝を折りながら、お父さ、お父さと呟いた。しばらくの間じっと動かずに眼をつぶっていたが、
「んだか、んならおらにも料見があるでな。いいともや、お父さも見てくんろ、おらだって満更馬鹿なおなごでもねえからや。」
 と、今度は少し高い声で独りごちした。
 駈けつけて来た組合長の安斎保男氏は、炉端のよし達を忙しく見廻した。お母さはどうしたと訊いて、こんな場合に寝ているとは何とした事だと、遠慮もなく奥へ入って行くと、ちゃんと坐っていたおときから、はっきりした声をかけられた。
「旦那さ、うちの軍需紙はどうなりやすべ?」
 軍需紙か、そんな心配をするには及ばない、もう大体はきまったはずだし、残った分はほかに適当に分配して、ちゃんとさしつかえのないようにするからと、無論これは組合長の責任だった。
「やっぱりはァ、おらのようなおなごのものでは駄目ですべか。」
「お母ァがか。」
 そうか、なるほどそんな気でいるのかと、やや呆れ気味ではあったが、それよりも気の毒さが先に立って、さすがに真向から叩きは出来なかった。
「駄目ってこともねえが……そらァこっちのお母ァの半紙なんど、相当なもんだってのは俺も知ってるが……。」
 そう言われてみても、惣次郎に代って時折漉いたことのある程度の自分に、検査の通れる軍需紙などがこなせるはずはないので、実はわかり切っているのだった。お父ささえ生きていてくれたらと、これがまた意気地なくこみ上げて来ようとするのを、おときは肚に力を入れて振り払った。
 夜、よしを前に友太は帳面を持ち出して来て、食費三六五・六一、住居費四〇・一五、被服費一八〇・八一、公課一〇・四〇と、一々前年度のものを検討しては留守中の生活の指図をした。さしあたってはそろそろはじまる野良の仕事の配りから、それと睨み合わせての蚕の掃き立てのこともあった。それから来年度の紙である。女達だけで一体どれ程のものが漉けるであろうと、まだ軍需紙はなかった十五年度の製紙状態の記録が感慨深く眺められた。障子紙一九一締(九三判一締単価一九・一〇)三七五七・八〇、筋紙(三一〇〇枚)六四・〇七、雑紙一五三・〇〇、計三九七四・八七。支出が、楮桑皮、ソーダ灰等一三六七・二四、手間賃二〇〇・五〇、燃料八〇・〇〇、差引額二二九二・一三。家族六人の従業日数二百日で、一日の労賃が十一円余になっていたが、母と妹達と惣三では、この五割まで漕ぎつけたらいい方だと言わねばならない。
「ネリもやっぱり今までの半分にして置くべかない?」
「んだでな……。」
 ネリと言われると、友太には、時折思い出してはそっと愛撫する、一つの感傷があるのだった。中支の戦線で、ちょうど花期のさ中にあった一面のわたの畑を見出した時、ちょっとの間、故郷のネリ畑に立った錯覚におちたのである。根の部分を砕いて袋に入れ、絞り出す粘液が紙の唯一の粘料なので、村の人達がネリを訛ってよくニレというその黄蜀葵とろろあおいの葉は、同じ掌状でも棉のそれよりも裂け方がずっと深かった。よく見るとその裂片にはまばらな鋸歯があって、茎の形状も違っているし、棉の丸いのにくらべて、一方は先の尖った長めの楕円形にこわい毛を持っていた。しかし、一重ながら同じふっくりと開く黄色い花は、紅の勝った紫色の花底を覗くまでもなく、友太にネリの畑を髣髴ほうふつさせたのであった。
 ネリか、んだでなと呟きながら土間に降り立った友太は、その頭の上に土のままで吊り下げて置く、残っているネリの束を仰いだ。友太の家の一年の消費量は約八十貫で、作付けの畑は三畝かそこらで間に合った。ただ、加里、燐酸などの肥料の入手は年毎に難しくなってはいたが、ネリがなければ紙にはならないので、村の人達は血眼で作るのだった。それと張り合って今まで通り作ったところで、友太が居ないからには、腐らすだけのことであるのは目に見えている。それなのに、今までの半分も要らないぞと言い切ってしまえない未練がましさで、友太はいつまでも梁を仰いでいた。――戦場の言語に絶したあらゆる苛烈さを、友太はすでに知っていた。彼は今日再びその兵隊にかえったのである。銃剣を執って弾丸の中を進むだけが総てであって、それ以外の一切は関わりのない瑣末事になりおおせようとしている今、そういう彼から他愛もなく遊離した、ネリの作付けに煩い迷う別の心を、友太は苛立たしくも自分で持てあつかいかねるのであった。
 数日ならずして生死を越えた門出をしようとする人が、その厳しい現実とは、およそ遠い思いあぐんだ表情で天井を仰いでいるのを、産褥のとしゑは何ともそぐわない気持で眺めやった。ネリなどはどうともよしに委せておけばいいのである。物も手につかぬ戸惑いの中に一家の者がそわそわしているのに、神経の鈍さと言おうか、一向召集令を手にした者らしいあわただしさの見えない義兄が、あきたらなくさえ思われた。惣吉の応召を知った時の、わなわなと顫える昂奮は無論なかったが、友太の居なくなることが無闇に頼りなく、絶えず膝がしらを揺すられる落着きなさにとしゑはかり立てられていた。
 次の日、挨拶廻りに出かける友太が、制服の袖を通しながらどうしたや? と勝子を覗き込むのへ、としゑは言ってみた。
「兄さんは……寂しくないんですの?」
 何でや? と訊かれると、ちょっと言葉に詰まるのだった。昨夜も晩くまでよしと話し合ったことである。友太の年齢では、村の人々は大てい妻子を残しての出征で、でなかったら約束の女がいるとかであるはずなのを、全く女の手に触れることさえなく再度の応召をする友太が、そんなのは若い女の傍からのつまらぬ感傷だと言われればそれまででも、やはり心寂しいものに思いやらずにはいられなかった。もっともそうは言い条、異性との交渉を微塵も持たずに征く木石の淡白さが、男性としての慕わしさにあがめられる心をも、としゑは胸のどこかにひそめてはいるのだった。
「昨夜よっちゃんとも話したんですの。」
 としゑが笑いながらそのことを言うと、んだかな、しかもさっぱりしていいと思うがなと友太も応じた。
「何せ俺は、惣吉みてえに、いい娘っ子が掴めなかったでな。」
 友太には珍しい冗談だった。
「でも、誰か一人はいるかもわかんないわ。」
 勢いで、としゑにもつい言わずにはいられなかった揶揄やゆが口をついた。俺にかと、たじろがずには言ったが、内心すぐ思い当るもので友太はさすがに眼をそらした。それ以上続けたら、拾収のつかないことになりそうだった。
「お前らは暢気のんきだで。今の俺は女の話どころでねえでな。」
 それはわかってますわという声を背に靴の紐を結びながら、昨日彼の応召を知ったユミが、思い迫った顔でそっと土間に立った姿を思い浮かべてみた。ユミ、と、友太が一言呼びかけたら、さっと涙がにじんで来そうな瞳であった。良三郎君のところへは来なかったかやと、それはむしろ自分自身をぴしりとむちうつ言葉を咄嗟にかけて、みるみる冷たくせる相手の頬の痙攣をもはっきりと胸に感じた。――応召者としていやしくもしない道義感はたしかにあった。が両親の知らない、子供の出来た女を残して征った弟とは対蹠たいせき的に、表面全く異性との色彩を持たない潔癖を誇ろうという、低俗な見栄も多分に働いているのではなかったろうか。しかし、これとても結局は、彼の逃避性が窮余に見出した自慰境に過ぎないのであって、従って一方には、濃い愛染の心を人知れず抱いて征く感傷の甘さがあるのだった。(しかも、そうした見栄や感傷がいかに愚かしい心の遊戯であったか、一度戦場に臨むと同時にはっきりと知らねばならないことは、友太自身すでに体験しているはずであった。)
 原隊の町へ出発を明日にひかえた日は、夜来の雨が美しくれ上って、この頃毎日のように村の上空をよぎる飛行機が、高いところで眩しい弧を描くのだった。
 ひと夏を漉き通したら、今年の冬は軍需紙まで手になれるに相違なかった。そうだ、どうしてもこの夏は漉き続けることにしようと、嬰児の汚れものを井戸端に運びながら、おときは自分の決心を口に出して言ってみた。
 十一月に入って秋の仕事が一段落つくと、息つく間もなく漉始めの太子講が待っている。それから年を越えて五月のはじめの八十八夜まで、まる六ヶ月が紙の季節であるが、あとの半年をも耕作や養蚕の片手間に、暑さのためにすぐ腐敗し易い漉汁を加減しながら、やり続ける家が稀にはあった。おときの場合はただ腕を上げるだけが目的なのだから、一日に二槽でも三槽でもいいのであった。それぐらいの材料ならば、旦那に相談したら何とでもなるだろう。
(二人の兵隊様のお母ァではあるし、初孫は出来たべし、しっかりしろよ、お母さ。)この旦那の言葉はひどくおときの気に入っていた。
 細くついた片側の草履道を、国民学校の壮行会から兵隊の歩き方で戻って来た友太を、おときは井戸端から高く呼んだ。
「惣三ん時のおしめだな、見覚えがあるで。」
 というのへ、よく覚えているものだと言ってから、彼女は少し改まった。
「おらな兄ちゃ、夏中ずっと漉いてみるべと思うでな。いろいろ考えてみたが、そうでもしねえと……。」
「夏紙なんどお母さ……。」
 いんや、わけが違うでばと、おときは急いでさえぎった。それで充分腕を上げて、今年の冬にはお父さにも兄ちゃにも負けない紙を造ってみせると、幾分肩をそびやかしさえする母の、子供の単純さに輝いた眼を見ては、友太は何も言えなかった。
「んだで、なるほど夏中やってれば、冬には立派なのが漉けるとも。」
 そううなずくほかはない。男手をみんな戦地に送って女ばかりでやっている家も数軒あった。そんなのに負けてなるものかという母の気持であろうから、やがて喜古の家からも、母の手で軍需紙が納まることになるであろう。それこそ安心して征けるという意味の言葉でも、或いは母はききたいのではあるまいかと、ふと思いつくのであったがそれを口にするのも何となく気恥しく、ついさりげない言葉になった。
「だがなお母さ、あんまり無理はしねえことだでなん。」
「ん、おらは大丈夫よ。兄ちゃこそ気をつけろや。」
 パルプを解く槽のあたりに眼をやると、そこにむらがるとうに盛りを過ぎてえしぼんだ黄水仙が、少し出て来た風に重く揺れている。
「何てたって大戦争だでなん、今度こそ俺の帰ることなんど、決して当てにしねえように……惣吉にしろ、よしの繁治君にしろ……お母さとしてはそこまでのことをなん……生活のことはよしがうまくやるべから……どうだことが起ってもなん、いいかや、お母さ?」
 わかってるともと、おときの眼はやはり真直ぐに向けられていた。
「これからどうだことがあったって……兄ちゃの前だがな、三つ骨が並んで来たって、お母さは決して動顛しねえでな。」
「んなら俺も安心した。」
 言えなかった言葉がはじめてすらすらと滑り出た――。
 漉くばかりに整えた一号品障子紙の材料が、まだ四槽分ぐらい残っていた。気にはかかりながらもあわただしさにかまけていたのが、いよいよとなればやはり断ち難い心残りになってきた。んだで、あれだけはきめてしまうべかなと友太が言うのを、なにもかもきまりをつけて行きたい気持はわかるとして、明日の今夜を何も漉き方に過ごすには及ぶまいにと、わきで聞いていたよしは、何となく執着のあさましさに思いなした。
 壮行の晩餐とは言いながら、旦那と分会長に来てもらっただけのつつましい会食を終えると、友太は漉屋に入って行った。そのままにして置いてお母さに漉かせろやと母が言うのへ、わざと、一号品だでお母さにはどうもと答えると、言ったな兄ちゃ、覚えてろやとおときも笑った。
 二十ワットの電燈をひねって、うそ寒く浮き出た小屋のうちを、友太はしみじみと見廻した。この二三日嗅がなかった漉汁のにおいが、驚くばかりの新鮮さで鼻をついてきた。気がついて、身をかがめながら瞳を凝らすと、灰色に澱んだ槽の中に、蚊よりもやや大きな羽虫が二三匹浮いている。こんな羽虫が槽に落ちるのは、もう間もなく漉納めの八十八夜が来る証拠であった。
 二槽目のネリを絞っていると、母屋の方で何か言うユミのこえが聞えてきた。はっとした気持で簀框に手をかけたが、一枚一枚漉いてゆくうちに、やがて我れ知らずいつもの漉き三昧ざんまいの境に入ってしまって、ふと足音が漉屋の前にとまった時も、友太の心は淵のように静かであった。
「あした行くってのに漉いてんの?」
「んだから漉いてるで。」
 ふ、ふ、と例のふくみ笑いをしただけで、そのままじっと立ちつくす気配であったが、しばらくすると、さよならとも何とも言わずに、ユミの草履の音がゆっくりと漉屋の前を遠ざかった。





底本:「芥川賞全集 第三巻」文藝春秋
   1982(昭和57)年4月25日第1刷
底本の親本:「和紙」築地書店
   1946(昭和21)年7月発行
初出:「東北文學」
   1943(昭和18)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※(第十八回 昭和十八年下半期)芥川賞受賞作品です。
入力:kompass
校正:持田和踏
2023年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード