三度會つた巡査

森律子




 お話もずつと古くなりますと、かえつて新しく聞かれるものとよく申しますが、これはわたしのうら若い大正二年の春、欧州劇壇視察の目的で渡欧致しました時のことでございます。
 出立に当つては各方面からの御紹介状も沢山頂き、また彼の地では大使館、領事館のお世話になり、万事工合よく引回されて、何事もなく過したような顏をして、帰国後はすつかり取りすましておりました。しかし、実は性来粗忽者のわたくしが、しかも言語の通じない慣れない土地へ参つて無事なはずはなかつたのでございます。したがつて帰国早々には容易に発表の出来ない珍談も、幾多出来したのでありますが、法律にも時效というものがあるように、すでに四十年近くも経過致した今日となりましては、もはや公々然と自白致しても差支えないと存じまして、ここに「生兵法は大怪我の基」という一珍談を発表致します。或る日、ロンドンの郊外近くの某夫人のお宅で私のために催して下さつたお茶の会に参つた時のことでございます。
 私のロンドン生活もはや半年近くにもなりまして、自分としてはいつぱし土地に慣れたつもりでいました。それでソウ/\タクシーばかりにたよるのも不経済でありますので、特にその日はバスで行こうと前々から道順もよくきいておいて、あたかも万事をのみ込んでいる土地ッ子のような顏をしながら、その日如何なる運命が自分を待つかも知らず、颯爽と乗合自動車の乗客の一人となりました。しかし、さてかねて教えられていた場所へ降りて見ますと、その辺りは全く同じような家が建ち並んでいて人通りも殆どなく、如何にも静かな住宅街であつたのでございます。そこでやむを得ず、私はその辺を暫く歩き回つて見ましたが、何やら教えられた話とは趣が違うので暫時思案にふけりました。しかし幸いにも付近の四ツ角に警官が一人立つているのを見出しましたので、早速その巡査に問合せて見ようと近付いて行きました。
 元来ロンドンの警官は皆様も御承知の通り、身の丈け六フィート以上でなければ採用しないとかいう規則のために同じ背の高い英国人の中でも一と際目立つた大兵肥満の体格の持主ばかりで、その前に立つた日本娘のわたしの顏は、ちようどその警官のお臍位の高さに当ります。まるで子供が仁王様の前に立つたような有様になります。あたかも天を仰ぐような恰好で、よせばよいのに自分だけは流暢な英語のつもりで目指す場所をきいて見ました。
 しかしこれがそも/\「生兵法大怪我の基」となつたのでございます。すると制服に身をかためていたその仁王様は、ちようど小人島の人間でも見たように厳格な顏をほころばして、わたしの質問をきいていましたが、幸か不幸かわたしの話が幾分かでも判つたと見えて、何か叮嚀親切に道順を教えて呉れました。
 如何にもよく判つたつもりの私は「サンキュー」の一言をあとに、言われたままに右に折れ、真ッ直ぐに何町、また左へ曲つて歩いて参りますと、不思議、これはまた何うしたことか、いま道をきいたばかりの巡査がそこに立つているではありませんか!
 あいにくバッタリ顏が合つてしまつたので、ちよつとテレ隠しにニヤ/\と笑つて目礼して、またそこから、改めて先刻教わつた道順を、こんどは一層念入りに歩いてやつて来て見ると、またしても同じ場所に同じ巡査が立つていました。しかしもうこんどはニヤ/\と笑う勇気もなく、逃げるように番号の数を一人で探しながらグルグルと足に任せて歩き回りました。そのうちに三度わたしの目の前に立つたのは以前の警官の後姿で、わたしは何か警官の生霊にでも取付かれたように、方角を見定めるいとまもなく、恐しさと恥かしさがいつぱいになつて、思わず後へ引返しました。
 いまは全く「八幡の藪知らず」の形となりました。腕時計を見れば約束の時間は遠慮なく過ぎて行き、日本に比べれば涼しいはずのロンドンでも、こうなりますと、全身汗だくになつて泣くにも泣かれず、途方に暮れて立往生してしまいました。
 神様のお助けとでも申そうか、その時そこへはからずも空のタクシーが通りかかりましたので、いまは経済のことも打忘れて車内へ飛込んで、行き先きを言いますと、運転手は何やら怪訝な顏をしています。しかしわたしは自分の発音が悪いのだと思つて、二三度大声に繰返すと「オーライト」と言いながら車を進めました。しかし二分とたたぬうちにピタリと止まつてしまいました。機械の故障かなと思いながら下車もせず、一人車内であせつておりますと運転手は後方を向いて
「もう来ましたよ。お降り下さい。」
 と言われたのには、ただ唖然としてしまいました。
 やつと目的の家にたどり着きました頃は、お約束の時刻よりすでに二、三時間もおくれ、他の来賓は皆退散され、お宅の中はわたしの遅刻を案じて途中何かあつたのではないかと、あらゆる心当りへ電話して大騒ぎの真ッ最中でございました。
 時間を厳格に守る風習の英国で、しかも主賓であつた私が、何時間となく遅れて姿を現わしたというのは前代未聞の恥入つた話で、その理由を何んといつて説明したものか一度に上気してしまいました。
 私は何かわれながら判らぬことを口の中でいいながら、平身低頭、お詫びを後にあわてて退散しました。その姿は、はたから見れば一種の喜劇であつたでしようが、当人のわたしとしては、精神的にも肉体的にも忘れがたい悲劇のひと幕でございました。皆様、何分御内聞に。





底本:「週刊朝日 十月八日号」朝日新聞社
   1950(昭和25)年10月8日発行
初出:「週刊朝日 十月八日号」朝日新聞社
   1950(昭和25)年10月8日発行
※「わたし」、「わたくし」、「私」の混在は、底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
入力:sogo
校正:The Creative CAT
2019年6月28日作成
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