戦争医学の汚辱にふれて

――生体解剖事件始末記――

平光吾一




運命の電話


 古傷を抉られる――という言葉がある。恰も「文学界」誌上に発表された遠藤周作氏の『海と毒薬』という小説を読んだ時、私は全く自分等の古い傷痕を抉られたような心境だった。
 というのは、この小説が戦争犯罪人というレッテルと、重労働二十五年という刑罰を私に下した、所謂九大生体解剖事件(実際は相川事件という)を刻明に描写していたからである。
 人間を生きたまま解剖する――平和な今日では想像も出来ぬような残酷にして戦慄すべき出来事がほんとうにあったのだろうか。日本の上下をあげて敗戦に追いつめられた時代相と異常な戦闘生態における人間心理が交錯して生れた悲しむべき戦争悪の一面を語る「事実」なのである。
 生体解剖事件とは、昭和二十年五月から六月にかけて、本土空襲で捕縛せられたB29搭乗員若干名を、九大医学部の一部に於いて、西部軍監視の下に医学上の実験材料にした事件だった。
 実験の主な目的は、多くの参考人の言から綜合すると、人間は血液をどの程度に失えば死ぬのか、血液の代用として生理的食塩水をどれ程注入することができるか、どれだけ肺を切りとることが可能か、人脳の切開はどこまでいけるか、心臓の手術は如何、というようなことらしかった。らしかった、というのは、この事件の主役として執刀した石山福次郎第一外科部長が、事件取調べ中に自決してしまったからである。死者に口なしである。その上残念なことには何一つの記録も残されなかった。また私自身、事件には連坐したものの、この手術に直接タッチしたわけではなかった。それ故、この手記はいわば、生体解剖事件傍役の弁ということになる。

 日ははっきりと憶えていない。とにかく昭和二十年五月上旬、どんよりと重く曇った午後のことだった。
 当時、九大医学部の解剖学主任教授をしていた私の研究室に、突然、石山教授から電話がかかってきた。石山氏から電話を受けたことの少かった私は、何事か、と思ってすぐ用向きを聞くと、彼は、西部軍の依頼命令で明日、米軍飛行士の捕虜負傷者を手術したいから、空いている大きい解剖室を貸してもらいたい、という。
「外科病棟の手術室を、何故使わないんだ?」
「いや、それには一寸わけがあってね。」
「しかし、きみ……」
 電話は、私の声を待たずに切れてしまった。
 私は奇異な感じを抱いたが、そこへ、ひょっこり当の石山氏がやってきた。真白い手術衣を着た彼は、度の強い近眼鏡の下で眼をパチパチさせ、部屋においてある私の標本を手にとっていじくりながら、低い声で言った。
「電話では言いにくいので出てきたんですが、実は、こちらの大きい解剖室が空いていると聞いたもので、それを貸してもらいたいんです。タイル張りで、窓も多く、水も温水も出るということですから、手術には間に合いますよ。このことは、いま病理の方へ廻って、大野君にも了解を得てきました。」
「軍のために解剖教室を使用することをですか?」
「そうです。大野君は軍の用なら仕方あるまい。一応平光君に話を通しておけば、いいだろうといってます。」
 大野君というのは、当時九大の医学部長大野章三教授のことである。私はこの申出に対して、医学部全体を監理し、建物の使用及び保管の責任を負っている慎重居士の大野部長が既に許可を与えているのなら、間違いはあるまいと思った。
「いいだろう。使い給え。だが、あの空室には照明設備はあるが、外科手術に必要な消毒施設はないですよ。」
「いや、そのことでしたら心配しないで下さい。手術用の器材も人間も全部こちらで準備しますから……。」
「そうですか、しかし、何故解剖教室を今度に限って、使用するのかね?」
 私は抱いている不審の答えを石山教授に求めた。彼はそれが癖らしい瞼を痙攣させながら、
「時がそうさせるんです。考えてもみて下さい。僕の病棟はB29で傷つけられた患者で溢れています。患者たちが揃って憎悪と敵愾心を抱いているB29搭乗員負傷者の手術を、その病棟内の手術室で行うことが、どれほど危険なことか、平光君にも解ってもらえると思うのです。とにかく明日はよろしくお願いします。」
 それだけ言うと、彼は黙って出て行った。

異様な手術室の光景


 しかし、翌日になると、石山教授は来ず、手術も行われなかった。
 私は、何かの事情で手術は中止されたものと思い込み、それっきりそのことは忘れてしまった。
 ところが、それから四、五日後のことであった。久留米医専への出張講義から帰ってきた私が一服していると、高田という小使が慌ただしく駈け込んできた。彼はさも大事件が起ったかの如く、
「先生、大変ですよ、教室に陸軍の将校が大勢きて、いまアメリカの捕虜を手術しています。」
 これを聞いて私はびっくりした。約束した日に来ないで、留守中に突然やってきて勝手に教室を使用している、これでは空巣狙いと同じではないか、と思った。
 彼らの顔を見るのも好ましくなかったが、教室の責任者としてはそうもいかず、私は手術室の様子を見に行った。
 すると、廊下に一人の兵隊が立っていた。銃剣を下げ、一見して手術現場付近に外部の者を立入らせない警固兵であることがわかった。仰々しいな、と思いながらも、私は自分の職責から無雑作に、手術室のドアを開けた。
 室内は異様な光景だった。中央におかれてある手術台を、顔の半ばをマスクで覆った白衣の外科医たちが囲んでいるのは、いつもの手術のそれと少しも変ってはいなかったが、そのまわりを数人の将校がとり巻いて、何か不思議な見世物でも見学しているような好奇心の瞳を光らし、執刀者の手元を注視している。然しまた窓際にぼんやり立っている者もいる。彼らのなかには金モールの参謀肩章をつけた将校も二、三人いた。
 捕虜負傷者の手術を行うのに、これだけ大勢の軍人が立会うのは、どういうわけかと私はふたゝび不審な気を起した。しかし人垣の後から肩ごしに見るだけでは、委しいことはわからず、また私自身、基礎医学の専攻者であった故か、その頃臨床的な外科手術には興味もなかったので、一瞥したのみで引き上げようとした。
 その時、執刀中の石山教授は、私の姿に気づいたのか、他の者に手術を任せてやってきた。そして血に汚れた手を差出すと、立会っていた参謀将校の一人を私に紹介した。
「こちらが西部軍の佐藤吉直大佐です。」
 見ると、眼の鋭い堂々たる偉丈夫だった。後で述べるが、彼は生体解剖事件の中心人物であったのだ。しかし、そんなこととは少しも知らぬ私は、「平光ですが……」と簡単に挨拶すると、そのまま立ち去ってしまった。

生体解剖の全貌


 石山教授による米軍飛行士捕虜の手術はその後も三回解剖教室で行われそのいずれにも西部軍参謀将校が立会ったということだ。確か二回目の手術の時だったかと思う。頭蓋の切開手術をしていた石山氏は突然私にこう質問したことがあった。
「黒質(Substantia nigra)の位置はどの辺にあったのですか?」
 これは、癲癇の発作が、間脳の下にある脳の黒質細胞に刺戟を加えると起るという学説があったので、石山氏がそこを手術すれば癲癇治療に役立つと思い、私に相談をしたわけであったらしい。
 私は口で説明したが、彼は解らないという。そこで、脳の固定標本を持参して指示したことがあった。
 この時の私の行動が、私を石山氏の顧問(Adviser)として検事に重く認められ、逃れられぬ罪状の一面に加えられたのだった。しかし、これは後日裁判が始まってから知ったことである。
 私が手術に助言したのは、この時一回きりであり、私が見た範囲ではいつの時でも患者は生きていた。患者が死ぬまで、検事の言によれば殺されるまで見ていたら、私の感概と印象はもっと別なものであったに違いない。私には石山氏が日常普通の手術をやっていたというより他に記憶はなかった。横浜の法廷に出て初めて、この手術が生体解剖(Vivisection)であったと検事の口から聞かされ愕然としたのだった。
 石山教授が如何なる「手術」を米軍捕虜に行ったのか、私の見た限りでは第二回目に脳の手術を行っていたということ位である。石山教授自身も僅かに第一回目には右肺切除の手術を行ったという口供書しか残していない。それ以外の「手術」の内容は、前述した如く本人が米軍に逮捕されてから間もなく自殺したため、他の参考人たちの口供書から推察するよりほかに知る由がなかった。
 検事の論告では「彼は外科学の大家として更に自分の技倆と学術を誇示せんがために世紀の大手術を計画し、遂行した」と断じ、「八名の捕虜に前もって麻酔をかけた上、手術台にのせ、肺、脳、胃、心臓に関して手術が行われ、一人の犠牲者に二回以上の手術が行われたこともある。また血漿の代りに塩水の注射が可能かどうかの実験も一回行われた」と述べている。
 さらに、解剖学助教授だった田中克己氏の口供書によれば、「第一回の手術は、二十三才位の背の高い赤毛の捕虜一名に対して行われた。彼はエーテル麻酔をかけられた時、治療されるものと信じ、執刀する石山教授に『ありがとう』と礼をいっていた。が、肺臓切開が約三十分行われて、死亡した。私は標本が欲しかったので、腸、肝臓などを切り取った。第二回は三人だった。第三回は二人、四回目も二人で、計八名が手術解剖された。また捕虜のうち一名は塩水注射で死亡したということだ。」と語っている。
 この他、生体解剖現場を目撃した数多くの立会人の証言を私は法廷で聞かされたが、大体以上のような手術、実験以外のものは行われなかったことを知った。

「世紀の手術」の目的


 この結果、私は石山教授の「手術」が恐らく二つの目的から行われたのではなかろうか、と考えた。一つは軍陣医学を進めるためのものであり、他の一つは在来の外科医学では研究未到達な面を解明することにおいたということである。
 血漿の代りに塩水の注射が可能かどうかとの実験を行ったということだが、これは戦争医学にどうしても欠くことの出来ない要請なのである。戦争医学の課題は輸血面の解決にあるといってもよいと思う。血漿の無い、または、不足がちの戦場で、輸血を必要とする患者にどの程度まで、代用血漿に当てられた塩水を注入することができるか、これは人体の場合、約二リットル位までは可能だろうという極めて瞹昧な答えしか、当時は得られていなかった。
 また、心臓、脳、全肺切除手術などは、今日でこそ各方面の外科医が行っているが、十数年前の当時では、検事の論告通り「世紀の大手術」であった。と同時に、この三点は外科医学の最大の研究課題でもあった。たとえば、肺手術だ。成形手術より更に望ましい肺の切除方法を、より効果的に進めるための人体手術は、外科医ならどうしてもやって見たい問題だったと思う。
 検事は、法廷で「この事件は何も学問的に価値あることは行っておらず、徒らに捕虜を虐殺した」と論じている。しかし事実は、肺臓全摘出とか、現在行われている方法の心臓手術の研究、さらに癲癇療法のための脳切開など、当時の外科医が願望した外科療法の課題に、石山教授は文字通り世紀のメスを振ったのである。彼のとった手段はやり過ぎだったとしても、決して捕虜を徒殺したわけではなかった。たゞ惜しむらくは、この手術に関する記録を全く残しておかなかったことである。第二次大戦中ドイツのブラントという博士は、石山氏と同じく捕虜に対する実験手術を行い、その助手と共に絞首刑に処せられたが、彼はその時の研究記録一切を残していた。そのため、戦後のドイツ外科医学は、それによって大いに向上したという例があるからである。また、古い話だが動脈の中には空気、静脈には血液が流れているという定説に対して、動脈にも血液が流れていることを発見して一六二八年に発表したイギリス人、ウィリアム・ハーヴェーも家畜の生体解剖から始めて、矢張り敵側の捕虜負傷者を戦争中に生体解剖したらしいのである。
 医学の進歩は、その歴史を省みる時、このような戦争中の機会を利用してなされていることが多いのだ。生体解剖それ自体の行為は勿論許されるべきものではない。しかし、その許されざる手術を敢えて犯した勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録なりとも遺しておいてくれたら、医学の進歩にどれ程役立ったことだろうか。犠牲者の霊も幾分なりと浮ばれたであろう。

石山教授の人物観


 余談に走ったが、ここで私は何故このような事件が九大医学部を舞台にして起ったかに話を進めようと思うが、その前に石山教授の人物に触れておきたい。
 石山氏は当時五十余才であったが、胆石の研究家として知られていた。胆石の手術はどの外科医でもやることだが、彼は胆嚢の中にたまる石を化学分析したり、レントゲン分析して、どうして石が固まるのか、また石が胆管を通して腸内に出てくる生理的な問題に取組んでいた。石山外科の若い医師たちは「オヤジの機嫌がいい時は、必ず変った石を取り出して、いじっている時だからね。オヤジにすりゃ胆石はダイヤみたいなものなんだ」と他の医局員によく話していた。
 難しい手術は全部自ら執刀するので、教授間ではワンマンとか横暴だという声もあったが、それだけに研究心の強い人だった。
 私が石山教授は偉い男だったと沁々思うのは、彼に直属する助教授、助手といった弟子たちが、いずれも事件に関与したため戦犯となり、私同様巣鴨獄中の人となったが、入所中私はその誰からも一度として彼を恨む声を聞かなかったことである。とかく人間というものは、不幸の場におかれると、つい愚痴や恨み言を吐きたがるものだが、彼の弟子たちは獄中に入ってもなお揃って石山氏を尊敬し、愛している言動に接したことを私は今も強く印象に残している。
 石山教授が自殺したのは、昭和二十一年七月十六日の夜であった。そのころ事件関係者は全部福岡の土手町刑務所に入られていたが、彼はその一室で縊死したのである。服のポケットから皺くちゃの塵紙に鉛筆で書かれた遺書が発見された。おそらく自決当夜にしたゝめたものらしい。
一切は軍の命令 責任は余にあり 鳥巣森 森本 仙波 筒井 余の命令にて動く 願わくば速やかに釈放され度 十二時 平光君すまぬ(原文のまゝ)
 遺書に誌された人名は石山氏の「手術」を補佐した彼の弟子と、看護婦(筒井)たちである。彼は全部の責任を自分が負う意志を示したが、米軍事法廷は遺書に証言の価値なしと断じた。そして、彼の遺志は無視され、却って他の連累者に彼の罪が配分される結果になってしまった。
 ところで、遺書にある如く生体解剖の軍命令が石山教授の許にきたのは、どういうことからであろうか。日本の外科医は各地に数多くいる。にも拘らず九大医学部の第一外科部長が選ばれた、この点に事件の大きな背景があるのだ。

九大事件の背景


 どんな出来事でも、時、所、勢という三要素を具えないものはない。生体解剖事件を省みる時、私は矢張りこの三要素が大きく支配していたことを痛感する。
 突拍子もない話だが、仙台や青森では決してこのような事件は起らなかったと思う。福岡であったればこそ、発生したのだと私は考えている。福岡という所は、昔から外国と直接、接触のある地であり、歴史的にみても元冦の乱の戦場に捲きこまれているため、伝統的に外冦に対しては極めて敏感であり、臆病ですらあった。まして、当時の時代相は、日本敗戦の直前だった。フィリッピン陥ち、沖縄また玉砕したとなると、いよ/\今度はわれわれの番だと市民は日夜戦々兢々としていたのであった。
 この市民の不安を反映してか、福岡に司令部をおく西部軍(十六方面軍)も徒らに神経を尖らし、これまた戦々兢々たる状態にあった。司令官横山勇中将は総動員法をふりかざして、軍の行動を妨害し、或は密告し且つ協力せぬ者は、すべて処刑するなどと宣伝する一方、米軍飛行機の無差別銃爆撃が熾烈化した福岡地方に戒厳令を施行する態勢を整えていた。
 九大も福岡にあるため、勿論このような動静から分離してはいられなかった。
 総長に百武源吾海軍大将を迎えるや、大学職員学生を三階級に分けて、襟章をつけさせ、各階級に応じて挙手礼を実行させた。学生の戦闘隊も組織されるし、学内在郷軍人分会も成立した。医学部の屋上には高射砲が備えつけられた。工学部では風船爆弾を製造した実績をかわれてか、軍の要請に応じて新兵器の製作研究に総力をあげ、文科系の各学部の学生たちは多くが軍需工場へ動員されていた。
 医学部でも内外科の主なる教授たちは、陸軍省嘱託となり、種々の戦時医学の研究を命ぜられる一方、西部軍管下軍医部の指導を行うため、各地の軍病院の傷病兵を回診していた。ことに石山教授は第一外科主任教授として軍陣医学に最も密接な関係があったため、多忙をきわめていた。とに角、軍と大学が馴れあい過ぎていたのである。
 このように九大そのものが戦争の渦紋の中へ完全に巻き込まれていた頃、大本営から、西部軍司令部に捕縛していた米軍飛行士の中、無差別爆撃を行った事実あるものは速かに断罪すべしと吉川参謀を経ての命令伝達があった。西部軍法務部では早速調査した結果、三十数名の捕虜に死刑を宣告し、一部の捕虜は大空襲の翌朝法務部の玄関先で日本刀により斬殺された。ところが、西部軍首脳部の間には、徒らに斬殺、銃殺するよりは、捕虜処刑をもっと有意義な方法で断行すべきだとの意見があった。そして、二つの案が決定した。それは、捕虜死刑囚の一部を福岡近郊の油山に連れていって放ち、米軍上陸の際に必ず遭遇するであろうゲリラ戦術の実演とその効果を試すことが一つ。(後日、この計画は実施され連行された捕虜は実験虐殺された)他の一案は戦争医学を進歩させるための実験台に捕虜を使用すること、所謂生体解剖の実行であった。

かくて生体解剖は行われた


 この生体解剖を提案したのは佐藤参謀大佐だった。彼は以前、偕行社病院に入院中自分の担当医官をしていた病院詰見習軍医の小森卓(昭和二十年六月爆死)が、「大佐殿、処刑すべき捕虜がありましたら、小森にお渡し願えませんか。屍体解剖では解けない生命現象の謎を知れば戦争医学に貢献し、広くは人類福祉のためになることは間違いありません……」といった言葉を想起したからであった。と同時に、彼の心中には、永い入院中治療を受けた礼のしるしに、小森の研究心を満足させてやろうという気が含まれていた。
 佐藤大佐からこの計画実施を聞かされ、且つ任された小森軍医は流石に狼狽した。言葉では簡単にいったものの、それを実行するとなると事は重大である。彼一人では到底実施するだけの自信も、また度胸もなかった。
 小森軍医は佐藤大佐の部屋を出ると、日頃から懇意にしている佐竹外科病院へ自転車で駈けつけた。佐竹氏が後日語ったところによると、そこで小森は捕虜手術を佐竹氏と共同で行うことを依頼したという。いかに彼が慌てていたかがわかる。その時佐竹氏は小森の申出を断ったからよかったが、もし承諾していれば、この生体解剖事件は一町病院を舞台に展開することになったわけだ。
 佐竹氏に断わられた小森は、途方にくれたが、そのうち彼は自分の恩師の姿が想い浮んだ。彼の足は九大に向い、彼の手は第一外科部長室のドアを開けた。石山教授に会うと小森は佐藤参謀からの命令と称して、医学実験に捕虜を使用することを伝達した。
 陸軍嘱託として軍と密接な関係にある石山教授は、小森の言葉を頭から西部軍の至上命令と信じた。命令と信ずることによって、彼自身の位置と実力とに誇りを感じたのかも知れない。あるいは、この命令を受けることを軍嘱託の身として当然の義務と思ったのかも知れない。とにかく彼は承諾し、小森は安堵した。後に石山教授は当時アルコール中毒にかかっていて、正常な精神状態ではなかったと評する人もいたが、私はそうは思わない。彼の性格には直情径行といった一面があり、寧ろ私は彼の本性がそうさせたのだといいたい。
 かくして、石山教授が執刀者となり、小森軍医がこれを補佐して、生体実験は開始され、石山外科に属する諸君は、看護婦をも含めて大概この事件に連坐させられることになったのである。

人肉試食事件の真相


 ところで、九大事件を語るとき、そこに見逃すことの出来ない大きな問題が一つ残されている。それは、この事件に連坐したわれわれを世間の人々がより一層白眼視し、さらにわれわれを裁く米軍人の心象を一段と悪化させたところの人肉試食事件であった。これを弁護側は切りはなして独立の裁判にしようとしたが、法廷は採用しなかった。
 検事は被告席に坐るわれわれ一同を指さして、鋭くこういった。「生きた人間を解剖すること自体、絶対に許されざる非人道的行為であるにも拘らず、その犠牲者の屍体の一部を切除した上、その肉塊を平気で食べるなど、まさに鬼畜の所業である。彼らは人皮を被った怖るべき動物たちなのだ……」―と。
 この人肉試食事件も、私は法廷に出て初めて知ったわけだが、起訴状によれば第一回目の手術が行われた際、小森軍医が死亡した捕虜の肝臓を切り取り、洗面器に入れて勤務先の偕行社病院に持参すると、醤油で調味させたうえ食堂に運び、居合せた軍医たちに試食をすゝめ、自らそれを食べたというのである。
 当時、小森と偕行社病院食堂にいた鶴丸広長軍医大尉の口述書が検事から法廷に提出されたが、彼はこう語っている。
「……昭和二十年五月下旬、私が病院食堂に入ると小森たちがいた。私は彼らの前においてあった薄い肉片の盛ってある大小二つの皿から、箸で三片ほどつまみ口に入れると、小森は『小皿の方は人間のキモだ』というので、慌てゝ吐き出した。すると、小森は『アメさんの捕虜の肉を食う奴は一人もおらんのか、腰抜け共め!』といって小皿の一片を食べ、『うまいぞ』と周囲を見回した。だが居合せた一同は大皿の豚のキモだけを食べていた……」
 もしこれが事実なら検事の論難する如く戦慄すべき『鬼畜の所業』というべきである。
 しかし、これは、全く事実無根だった。
 小森軍医が捕虜の屍体から肝臓をとり出し、容器に入れて持ち帰ったまでは事実であった。が、彼はそれを病院にではなく兵舎に運んだのである。前々から兵営内に南京虫が氾濫して兵隊たちが悲鳴をあげているという話を聞かされていた彼は、捕虜の肝臓をその対策に当てたのであった。小森は兵隊たちに手にした容器の中の肉塊を示し、これを切ってその肉片を水を盛った皿に浮かし、寝台の下においておくと、そこへ南京虫が集まるから諸君の悩みは、たちどころに解消すると説明している。人間の肝臓が果して南京虫予防の妙薬かどうか、私には解らないが、とにかく人肉問題の真相はこうだったのである。
 こゝで疑問に思うのは、鶴丸広長君をはじめ、その他起訴された四名の被告――真武七郎、伊藤明、岸達郎、小田耐の各西部軍軍医諸君が何故人肉を試食したなどというデタラメな口述をしたのであろうか、ということである。しかし、それは裏面にこの事件を担当した米軍検察官の悪質な策動があったからであった。
 検察官は二十四、五才のマクナイトという青年であり、父親は仙台神学校の教授とかで日本生れのせいか、大変日本語が達者だった。彼は生体解剖された捕虜の肝臓を小森軍医がもち去ったという事実を握ると、ただそれだけの根拠から、解剖して人肉を食ったのだ、捕虜の肝臓を食わんがために面白半分に生体解剖を行ったのだ、と想像をたくましくし、自分の妄想を何とか立証づけようと狂奔したのである。
 調査に乗り出した、マクナイト検事は、たまたま福岡の偕行社病院から、大分陸軍病院に転属された真武軍医が、福岡に出てきた際、偕行社病院で旧同僚が彼を囲んで会食を行い、その席上肝臓の料理が出たことを知って、ここに彼の妄想の突破口を見出した。彼は早速その会に出席した全員を逮捕すると、巧妙な誘導訊問と拷問を行って、人肉事件を捏造したのだった。

前代未聞の裁判


 たとえば鶴丸君には、最初「あなたは医者だが、貧血の病人などに肝臓を食べさせませんか」という質問から切り出したという。内科医である鶴丸君は、彼の問いを認めると、今度は「あなたは食べたことがありますか」「あります」との問答に始って、肝臓はどういうものか、どんな味がするかと質問をたたみかけ、それから「偕行社病院ではどんな料理が出たか」「その中に肝臓はなかったか」「調理された肝が人間のか動物のか見分けられるか」と誘導し、「病院であなたは小森が持参した捕虜の肝臓を食べたのだろう」とひっかけたのである。
 鶴丸君が頑強に否定すると、水の吹き出るホースを口にさし込み、連日にわたって繰り返したという。この結果が前述した鶴丸口述書となり、鶴丸君をして「その日は帰宅しても胸がムカついて晩飯が喉を通らなかった」とまでいわしめたのである。
 会食の主客であった真武君も最初は「人間の肝など絶対に食わん」と言っていた。が、これまた相次ぐ拷問と、食べたといえば直ちに家へ帰してやるという甘言に負けて、「大分では蛇や蛙まで食べたが、福岡では人間が食えるのかと感心した……」という偽の口供書にサインしてしまった。他の被告たちも同様であった。
 ところが、いざ裁判が開始されると弁護人側の証人は続々と出廷して人肉試食の事実なしとの証言を行ったが、検察側の証人は裁判が終幕するまで遂に一人も出廷せずという、裁判史上稀有の事態を現出したのであった。
 ジョイス裁判長もこれには驚いたらしい。しかし、検察側は飽くまで強硬な態度に出た。最終論告の時、バーゲン主任検事は五人の被告の口供書を楯に、被告はすべて人肉試食を自白署名している、幾百人の証人の言より本人の言う方が間違いない、と放言して全員に死刑を要求した。
 これに対してザイデル弁護人は、検事側のふりかざす被告の口述書は全く脅迫と利益をもって導いた検事の捏造に他ならない、その証拠に検事側の証人は一人として出廷しなかったではないか、と反論し、さらにマクナイト検事は己れの功名心のため、将来の出世の基礎を作らんがために、罪なきものを罪に陥れたのだと断じた。
 この弁論は裁判官に認められ、人肉試食事件関係の被告は、証拠不充分の理由をもって全員無罪となったのである。

戦争裁判への疑問


 生体解剖事件で起訴されたものは、西部軍、九大と合せて三十名に及び、横浜軍事法廷史上、石垣島事件に次いで最大の裁判となった。昭和二十三年三月十一日から約五カ月にわたって審理がくり展げられた結果、遂に同年八月二十七日、ジョイス裁判長は重々しい口調で判決を下した。人肉問題関係者を除いては僅かに二名が無罪となったゞけで、後の人々は、一番軽くて重労働三年から重いのは終身刑(四名)、絞首刑(五名)とそれぞれ宣告された。
 かくして生体解剖事件は終止符を打ったのである。
 事件関係者は刑に服した。しかし、昭和二十五年秋に減刑が行われて実際の死刑は一人も出なかったことは仕合せである。
 齢六十にして重労働二十五年の刑を宣告された時、私は自分の一生がこの事件と共に終ったと沁々感じた。しかし、入所中たまたま皮膚病を患ったことが機会となって、私は思わぬ人生再スタートをきることができた。
 というのはアメリカ軍医から狼瘡という難病の診断をうけて三六一病院に入院し、次いで私は、巣鴨病院に入院した。が、寝たきりの重病ではなかったため、院内を回っては米軍医の診察治療ぶりを見学したり、いまだ一般には輸入されてない新刊の米国医学書を見せてもらう内、自然と米国医学に親しむようになり、医者としての再勉強をはじめるようになったからである。
 私の人生第二試合は、こうして巣鴨獄中からはじまった。巣鴨出所後、私は自分の受けた苦悩の経験を生かして、最も悩み深い病人を相手として生きたいと考えたが、さいわいに今日癌研究と治療に取組む診察所に身をおくことが出来て、私は自分の残り少ない余生に本当の生き甲斐を感じている。
 巣鴨に入って一年目、昭和二十二年秋に、九大事件の本格的調査と訊問が行われた。その時の調査官ミュラー大尉は私に向い「……あなたの本事件に対する事情はよく解った。しかしこの事件を未然に防ぐための努力をしなかったという責任は免れまい……」と因果を含める如く語ったことがあった。私は彼の言葉を勿論覚悟していた。
 正直に言って、日本国土を無差別爆撃し、無辜の市民を殺害した上、捕縛された敵国軍人が、国土防衛に任ずる軍隊から殺されるのは当然だと思った。まして当時たゞ一人の伜をレイテ島で失った私にすれば、それが戦争であり、自然の成行きなのだと信じていた。
 日本は戦いに敗れた。そして日本の主権は否定され、政府あるいは命令の主体が勝敗によって「罪」と定められれば、その命令に従った者も罪人になることは自明の理である。しかし私はこの罪たるべきものが、戦争に勝っていれば、明らかに勲功として賞せられることを考え合せると、戦争裁判というものに不思議な感慨を抱くのである。私はこゝでナチス政権下に虐げられていた実存主義の哲学者カール・ヤスパースが、戦後ハイデルベルグ大学の医学部再開の際、行った戦犯論を回想する。それは「われわれが生きのびたことそれ自体が、われわれの犯した罪なのだ」――と告白した一句である。
 要するに、勝敗によって勝者が裁判権をとり、勝利者の恣意によって敗者側を裁くことが、果して正しいことかと私はいゝたいのだ。
 本来アメリカはキリスト教国として自らも許している国である。キリスト教の強味は良心生活の豊富なことにある。殊に使徒パウロは「善き良心」を強調し、良心と信仰が彼を勇気づけていた。彼は自らを反省するに従い、欠点の多い傷だらけの人間であることに身慄いした。それだからこそ「吾は罪人の首なり」と言い得たのだ。
 私も少しはこれにあやかりたいと思い、敢てこの筆をとった。読者の寛容を乞うてやまない。





底本:「文藝春秋 昭和三十二年十二月号」文藝春秋新社
   1957(昭和32)年12月1日発行
初出:「文藝春秋 昭和三十二年十二月号」文藝春秋新社
   1957(昭和32)年12月1日発行
※「口供書」と「口述書」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:The Creative CAT
2019年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード